第24話 長い時を超えて
「いい? 大きな声は禁止だからね」
「うん!」
「よし、じゃあ入ってきて」
広樹が素早く上下の服を脱いで、ペン太の手を引いた。
未だにしぶるペン太の背中を、ユイがダメ押しとばかりに後ろから押す。ようやく、風呂の扉を開けて、二人が入った。
淡いオレンジ色の光の中に、小さな影が二つ。
ユイは大きくため息を吐いた。ここまで一苦労だった。
お母さんの目を盗み、「広樹が、ヴァン君と一緒に入りたいって」と素知らぬ風で伝え、さらにお母さんが毎週見ているドラマの時間になってから、大急ぎで階段を下りた。
もちろん、移動中はリュックを背負っているが、何が起こるかはわからない。
それこそバッジが外れることもあるし、ペン太がこけてリュックの中身をぶちまけることもあるだろう。
気が気ではなかった。
「でも、ようやく……」
ユイは洗面所の狭い壁に背中を預けて、天井の電気をぼんやりとながめた。
ここが最後の砦だ。
もし、お母さんが突入してきても、何とか理由をつけて追い返さなければならない。
ヴァンと広樹がお風呂に入る間、ユイがこんなところで風呂場の見張りをしていることの方がまずいとは思うが、これ以外の手がないから仕方ない。
隣の風呂場から、ペン太の「ぎゃあっ」という悲鳴が聞こえた。広樹がげらげら笑いながら、シャワーをかけているのだろう。
二人の声はとぎれることがない。
「お風呂が苦手ってほんとなんだ」
ユイはくすくすと笑い声をもらす。
「いかなる困難も乗り越える」と胸を張る図書ペンギンに、苦手なものはないと思っていたのに、今日だけで魚とお風呂が苦手だと知った。
どちらも普通のペンギンではありえないことだ。
「まあ、水はともかく、お湯は普通のペンギンでもダメかもしれないけど」
ユイの視界に、洗濯機の上に無造作に放り出されたリュックが入った。
ぼろぼろのリュックだ。肩紐は毛羽立っていて、口もほつれ放題だ。かわいいペンギンのイラストが描かれた方を、ペン太はなぜか背中に当てていて、表は汚れで黒ずんでいる。
洗ったのはいつだろうか。これにも思い出があるのだろうか。
ユイはペン太の過去に想いをめぐらせた。
「あっ、忘れてた」
ユイが立ち上がった。ポケットから青い紐を取りだし、リュックを手に取る。そして、ピンでとめられている銀バッジを外した。
青い紐で、三十センチ程度の輪を作り、ピンを通した。
簡易ペンダントの完成だ。
「首に結べた方がいいと思うよ」
ユイは騒がしい声が聞こえる風呂場を、扉越しに見つめて言った。
ふと、銀色のバッジにピンを貼りつける黄ばんだテープが目に入った。
これも新しくしとこう。
ユイはリュックを置いて、足音を消して洗面所の外に出た。二階に上がってテープを切り取り、すぐに戻る。たったそれだけの行動。
まさか、そんな短時間に事件が起きるとは思わなかった。
ユイは耳を疑った。
一階から、仕事で帰ってこないと聞いた、お父さんの声が聞こえたからだ。
あわてて部屋で反転し、階段に足をかけた。
耳をすませた。確かに聞こえる。「帰ってくるなら連絡してよ」とドラマ中に邪魔が入って不機嫌なお母さんの声が聞こえた。
「風呂あいてる? ユイと広樹入ってる?」
「今は、広樹だけど、ユイのお友達と入ってるわ」
「ユイの友達?」
訝しむお父さんの声が、はっきり聞こえた。
ユイは転げ落ちそうな勢いで階段を下りた。すぐ向こうで「もうあがる頃かも」とお母さんが動いた気配がした。
ユイの目の前でリビングの引き戸がスライドした。
姿を見せたお母さんが、最後の二段で足を滑らして落っこちたユイを見つめる。
「大丈夫?」
「う、うん……」
右足がじくじくと痛んだ。足首に嫌な熱を感じる。
けれど、ユイはこらえて立ち上がった。
大したことはなさそうと判断したのか、お母さんはすでに洗面所の扉に手をかけている。
ユイは叫ぼうとして、玄関を上がってきたお父さんの「ただいま」という声に、気を取られた。
――あっ!
ユイが心の中で悲鳴をあげたときには遅かった。洗面所の中にお母さんが消えた。立ち上がったユイがあとを追う。
「お母さん、ペン太――じゃない、ヴァンくんが恥ずかしがるよ!」
ユイは足首の痛みに耐えて、適当な理由をでっちあげた。
お母さんが振り向いた。洗濯機の上に置かれたリュックに気づいた。
「これ……」
「それは――」
ユイの頭はぐるぐる混乱した。
何というべきか。
自分のリュック?
広樹の? ヴァンくんの?
誰が持っていたとしても、ぼろぼろのリュックであるのは間違いない。
ユイは迷った。
お母さんが動きを止めた。
リュックを両手で持ち上げ、何かをつぶやいた。
「……お母さん?」
いつもとは違う雰囲気に違和感を覚えて、ユイは戸惑った。振り向いた顔には、笑みが浮かんでいた。
「まだ、二人は出てこなさそうね」
「う、うん……」
ユイがおそるおそるうなずいた。
「お父さんには、先にご飯にしてもらうわ」
お母さんが大事そうにリュックを洗濯機の上に置いて、何も聞かずに洗面所を出た。
ユイの違和感がさらに大きくなった。
*
お父さんとお母さんは談笑していた。あれから様子を見にくることもなければ、ユイを気にして階段をのぼってくることもなかった。
お風呂から上がった広樹は、ユイの部屋でペン太に飛び乗ったり踊ったりと遊んでいたが、とうとう疲れが出たのか「もう寝る」と言い残して、そそくさと階段を下りていった。
嵐のような弟がいなくなり、ペン太がリュックを下ろして、どかっと床に寝転がった。
ユイも真似して転がる。エアコンで冷えたフローリングの床が冷たかった。
「さすがユイの弟だ。いきおいがすごい」
「それ……いい意味で言ってる?」
「もちろんだ。本当に似てる。さわがしいところも、ちょっと強引なところも……」
ペン太がしんみりした口調で言い、ネックレスに変わった銀バッジを手でもてあそんだ。
「ぼくは、もらってばかりだ」
「そんなに大したことじゃないって」
「いや、もらってばかりだよ。まだ約束を一度も果たせてないのに」
ペン太が、大きく息を吐き出した。ゆっくりと目を細める。何かを思い出すような、悔いているような瞳に、ユイの心がざわつく。
『約束を一度も果たせてない』という言葉が引っかかった。
と、誰かが階段を踏みしめる音が耳に届いた。
ユイが体を起こして立ち上がった。ペン太は「ふうっ」と細い息を吐き、あきらめたような顔で本棚に近づき、背中を預けて扉を見つめた。
コンッコンッとノック音がして、ユイが扉を引いた。
お母さんが、微笑を浮かべて立っていた。薄紫色の寝間着姿。どこか幼い雰囲気が漂っていて、ユイは不思議に思った。
お母さんの視線が、部屋の奥に座るペン太に向いた。
「久しぶり、ペン太」
「ああ、こっちの時間だと二十年ぶりくらいかな……」
「三十年よ」
お母さんは朗らかに笑った。ペン太が「そうだったっけ」とくちばしを掻いた。
「えっ、え? お母さん、ペン太を知ってるの?」
ユイはひどく混乱した。
二人が知り合いであることなんて、想像もしていなかった。
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