第8話 飛べないペンギン

 ユイはどうすることもできなかった。

 顔に強い風が当たり、耳にはびゅうびゅうという音しか聞こえない。

 お気に入りの服が踊るように波打ち、汗びっしょりだった体が一気に冷えた。かわりに冷や汗が全身からふき出す。

 落下するスピードが速すぎて、真横にずっと続いている本棚に、手をのばすことはできなかった。

 もし本棚に強く当たって腕が折れたりしたら。

 恐ろしくて、ユイは身動きがとれなかった。

 ただ、落ちていく。どこに行くのかはわからない。途中、派手な赤色の背表紙の本や、見たこともない生き物を見つけた。

 けれど、一瞬のことだ。ぐんぐん速度を増していくユイの視界は、次々とそんなものを置き去っていった。

 こんなに深いんだ。

 暗がりはいつまでたっても終わらない。永遠に落ちるんじゃないだろうか。

 頭の中が意外と落ち着いてきた。

 と、そんな時だ。

 ユイのずっとずっと上で、笛の音が鳴った。細くて高い美しい音だ。

 きっとペン太だ。

 ユイはなぜかそう思った。落ちる寸前、あわてた顔で手をのばしたペンギンの顔が頭に浮かんだ。黒い顔に黄色いくちばし。丸くて黒い瞳と、その上にある白い模様。

 想像の中で、ペン太が叫んだ。


「ユイーーーッ!」


 聞いたこともない大きな声が背後から聞こえた。

 まさか――

 ユイはぎょっとして、首だけ回して後ろを見た。


「ユイッ!」


 ペン太が必死の顔で、同じように落ちてきていた。小さなリュックを背中に背負ったペンギンはまちがいなくユイが知っている彼だ。

 本物だ。


「うそっ、なんでペン太まで飛びおりるの!?」


 ユイはごうごうと耳鳴りがする中で、声をはりあげた。けれど、ペン太の表情は変わらない。


「大丈夫、大丈夫!」


 かすかにそう聞こえた。ユイを心の底から心配していることは一目でわかった。


「大丈夫なら、泣きそうな顔しないでよ」


 ユイは苦しまぎれにつぶやいた。絶望的な状況なのに、とてもうれしくて目の奥がじんと熱くなった。

 その時だ。

 真横を、すごい速度で何かが通り抜けた。ペン太よりもずいぶん小さい。ユイはそれを目で追った。

 はるか底の暗がりの中で、茶色いかたまりが本棚につかまった。目で追いきれないスピードで、本棚の間を何度も往復している。

 なんだろうと思ったのもつかの間。みるみるその位置に近づいたユイの体に何かが当たった。途端に、強い衝撃に襲われた。まるで急ブレーキをかけた車に乗っているような感覚だ。

 そして、軽くはね返された。


「え……」

 ユイは間の抜けた声を出した。

 ロープほどの太さの縄が、縦と横に交差して張り巡らされていた。柔らかいネットのようなものが、ユイを受け止めてくれたのだ。


「これって……」


 ユイは暗がりの中でロープにこわごわさわった。とてもやわらかい毛並みで温かい。ふと視線を感じて見上げると、茶色いかたまりが、体と同じ茶色い瞳を向けていた。

 まさかあれは――

 その正体を口にしようとしたとき、


「ユイィィッ」

「きゃっ」


 真上から、声とともにペン太が降ってきた。

 ユイと同じくはりめぐらされたネットに受け止められ、二人は起こった衝撃ではね上がり、勢いよくひっくり返った。


「ユイ、大丈夫か!?」


 ぐらぐらと揺れる網のうえで、ペン太が上手に体を起こして近づいてきた。

 ユイはにこりとほほ笑んだ。こちらはバランスが保てず立てそうにない。


「うん。よくわかんないけど、大丈夫そう」


 ユイはお尻をついたまま、ガッツポーズをしてみせた。ペン太が、ほっとため息をつく。


「心配させないでくれ……」

「ごめんね。ペン太が助けてくれたの? あの子は?」


 ユイはさっきから二人を見つめる生き物を指さした。

 小さな鼻をひくひく動かし、細い爪をたてて本棚につかまっている小動物は、「何か?」と言いたげに見えた。


「ぼくが呼子笛で呼んだ、ムササビネットだ。彼らは本棚から落ちた物を拾うスペシャリストなんだ」

「ムササビネット? え? じゃあ、このネットって……」


 ユイは驚いた顔で、ムササビからのびた尾の先を目で追った。ネットだと思っていたものは、見事に複雑に編まれたムササビの尻尾だった。


「長い尻尾だね……」


 ユイはぽつりとつぶやいた。


「ちゃんと縮むよ。普段は色紙チョウが落としてしまった本を拾いあげるのが仕事だからね。体の入らないようなすき間だと、彼らの尻尾が役立つんだよ」


 ペン太は疲れた顔で言った。そして、「ああ、無事でよかった」と丸みをおびた黒いお尻をつけ、ごろりと転がった。

 ユイが上からのぞきこんだ。


「ほんと、ありがとう」

「お礼なら、彼らに言ってやって。こんなに大きな物を助けたのは初めてじゃないかな」

「どういうこと?」

「だって、普段は本を拾うのが仕事だよ? 人間は落ちないし」

「……もしかして、私がドジだって言いたい?」


 ジト目を向けたユイに、ペン太が答えることなく背を向けた。

 ユイが、あわててペン太の横腹に手を当てた。


「だ、だって……びっくりしたんだもん」


 聞いているのかいないのか。ペン太は動かない。

 ユイはますますあわてた。


「あんなところにおっきなトカゲがいるなんて思わないでしょ? それに足場だって、危ないんだし……」

「それだよ」


 しどろもどろで言い訳したユイに、ペン太は声を低くして答えた。のそりと立ち上がると、真剣な瞳で見つめた。


「ぼくが言いたかったのはそういうこと。ユイはね……あのとき前しか見てなかった。すぐ真横に危険があるのに、それも死んでしまうかもしれない危険なのに、全然怖がってなかったでしょ?」


 ペン太の怒っているような顔に、ユイは気圧されてうなずいた。


「体がふらふらになっていたのに、それにも気づいてなかった。遠くばっかり見ていて、足下をちっとも気にしてなかった。だからぼくは、そろそろ帰ったら、って言ったんだ。あれは、病気の一種さ。周りが見えない病ってとこかな」

「……昔のペン太がそうだったの?」


 ユイはようやくわかってきた。ペン太が図書界に連れてきた子の話を、どうして後悔した顔でしていたのかを。

 それはきっと――

「見習い司書になってすぐだったぼくは、喜ぶあの子を得意げに案内したんだ。それこそ危険な場所だってたくさんね。その結果が、今日のユイと一緒さ。もう少しで死ぬとこだった。ぼくが死なせるところだったんだ」

「だから……」


 ペン太が重々しくうなずいた。


「ユイが案内してほしいって言ってくれたのは、すごくうれしかった。図書界と図書ペンギンに興味を持ってくれることは大歓迎だ。でも、それだけだとあの子と同じ道をたどって最後は図書界が嫌いになるかもしれない。ぼくが隣にいるときは危険から守るけど、ここでは、予想できないこともいっぱいある。ユイには、危険もあるってことを最初に知っておいてほしかった」


 ペン太はそう言って、ムササビに近づいた。本棚につかまっていたムササビが、うれしそうな声で鳴いた。


「危険がある、って最初に言ってもわからなかっただろうから、小さなハプニングが起こってくれたらって思ってた……でもまさか、いきなり本棚のすき間に落ちるなんてね。ぼくもびっくりだよ。図書ペンギン始まって以来の大事件になるところだった」


 背中を向けたペン太は大きく笑いながら言った。

 ユイは恥ずかしくて顔を真っ赤に染める。


「し、しかたないでしょ! 誰だって大きなトカゲにあったらびっくりするって!」

「まあ、図書界では油断しちゃいけないってことがわかってもらえて良かったけどね」

「油断とかじゃなくて……あんなの想像できないもん。ペン太だって、どうして飛び降りたの? ムササビネットを笛で呼んだら終わりだったんじゃないの?」

「……まあ、ユイを助けなきゃって思ったから」

「飛べないってわかってたのに?」


 ペン太が首だけ回してユイに向けた。ムササビが、何かをねだるようにペン太の手の上で小さな体をのばしていた。


「……案外、今なら飛べるって思ったんじゃないかな」

「今なら飛べる?」


 まるで他人事のように言ったペン太の声は、今までで一番沈んでいた。

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