第7話 〜醸しましょう、発酵させましょう〜


 微生物が行う人間にとって良い働きを、「発酵」といいます。

 逆に、微生物が行う人間にとって悪い働きを「腐敗」と言います。

 他に、微生物による嫌気環境下での物質生成を発酵とする考え方もありますが、この拙文の場ではそのような定義にさせていただきたいと思います。


 この二つの差は、極めてわずかです。大豆と小麦、塩水を混ぜたものを味噌にすることでは有用なコウジカビが、パンに生えれば捨ててしまうしかありません。

 また、日本ではミカンやパンに生えて嫌われるアオカビも、ヨーロッパではチーズを美味しくしています。それどころか、アオカビから「抗生物質」の「ペニシリン」を生産するためであれば、なにから生えていても、それは発酵でしょう。

 このように、同じ菌による働きでも、発酵と腐敗は人間からの恣意的判断で変わってしまうのです。


 言葉としてはそのような不確かなものであっても、人類は長い時間の中で有用な微生物の働きを利用する方法を洗練させてきました。

 特に、日本は四季のため環境が大きく変わり、夏は極めて高温多湿になります。このような条件の中では食物は腐敗しやすく、長く保存することは極めて難しいのです。しかし、日本人は世界でも最高峰と目されるまで発酵の技術を洗練させることで、可食期間を伸ばすだけでなく、食味の向上を可能にしてきました。

 したがって、特徴的なものを取り上げると、日本のものですべて例が挙げられてしまうほどです。


【重要な注】

 なお、この段落以下に挙げる例は、あくまで例であり各食品の賞味期限を示すものではありません。食品衛生法やJAS法を遵守し、それぞれの商品に記された賞味期限を守りましょう。



 特徴的なものの一つ目は、発酵の食材を加工する力の高さの利用です。

 和食を代表する食材である大豆は利用方法が幅広く、極めて多彩な食品になります。発酵も、菌の違い、発酵技術の違いで納豆と味噌・醤油に分かれるのです。さらに細かく例を挙げれば、京都府の大徳寺納豆や沖縄県の豆腐餻とうふようのように、多種類の食品がさらに例として挙げられるでしょうし、それらが同じ食品としては認識できないでしょう。

 そして、その中でも味噌は特に長期保存が可能です。


 筆者はきちんと作られ管理された20年寝かせた味噌を食べたことがありますが、若干の癖と枯れは感じるものの品質に問題はなく、むしろ肉類に合わせるのであれば好ましいと感じました。また多く染み出した「たまり」も美味でした。



 特徴的なものの二つ目として、複合的で高度な技術で作られる食品です。

 日本酒は、エタノールを得るために「こうじ」によってデンプンを糖にし、その後に「酵母」によって糖をエタノールに分解するという2段階の発酵をさせています。

 これらの工程に加えて、他の菌の混入(contamination)を防ぎ、味を良くするために、乳酸発酵も重ね合わせています。その結果、3種類の菌に対する複合的な制御が必要となり、このような技術を「並行複発酵」といいます。

 このような複数の菌を使う例は、中国の紹興酒がありますが、3種類もの菌を並行して使うのは日本酒だけです。


 また、「単行複発酵」の例としては、ハンガリーを中心に作られる貴腐ワインという糖度の極めて高いワインがあります。フランス王ルイ14世が、「ワインの王にして王のワイン」と呼んだほどの高品質ものです。

 ボトリティスというカビによって糖を凝縮させ、酵母によってワインとする技術ですが、このカビの働きを現地では高貴な腐敗といい、そのまま貴腐という翻訳がされました。何かの趣味を表わすための言葉ではないのです。

 ただし、この貴腐ワインでも、菌は2種類ですし、技術的にも2段階の工程であって、2つの菌を同時に生育させるわけではありません。


 なお、このボトリティスは灰色かび病という植物の病原菌です。

 おそらく、みなさんも見たことがあるでしょう。シクラメンの葉をかきわけると塊根がありますが、その辺りに灰色の細い菌糸がのびたカビが見えることがあります。これは灰色かび病という病気にかかった状態ですが、シクラメンはこの病気にかかりやすいのです。これも、ブドウに生えたかシクラメンに生えたかで、発酵もしくは病原菌になってしまうという言葉の使い分けの例ですね。


 この並行複発酵という高度な技術の結果、日本酒は蒸留という過程を経ないアルコール飲料としては世界で最もアルコール度数が高くなっています。例を挙げると、ビールは4%から6%、ワインは6%から14%、日本酒は15%から46%となっています。

 そのため、日本酒は新酒を尊ぶ伝統がある一方で、ワインのように長期熟成が可能なものもあるのです。さらに別章で述しますが、発酵を止める「火入れ」という制御まで、その技術体系には含まれていますから、100年を超える長期熟成も可能なのです。


 三つ目として、発酵食品として特に長期保存を可能にするものです。

 例としては、梅干しが挙げられますが、最古のものでは「本能寺の変」以前の1576年に漬けられたものが異常なく現存していますし、200年以上前の江戸時代のもので問題なく食べることができるものがあります。

 ここまで長期の保存が可能となると、逆説的に「梅干しが腐敗した時は、悪いことが起きる前兆である」という迷信までが生まれました。


 最後に、四つ目として、発酵を含め食品保存の技術を複合させた集大成ともいうべき食品があります。

 その例が鰹節です。本枯節であれば熟成に2年もの時間をかけるものがあり、さらにそこから5年の保存後も問題なく食べられるものもあります。

 これは、17世紀後半に、麹による発酵、煙を当てる、天日干しにするなどの方法を組み合わせて、徹底的に水分を抜く方法が確立した結果です。

 鰹節の材料が魚肉であることを考えれば、この保存期間がいかに長大なものであることか理解されるでしょう。


 これらの例は、あくまで長期保存を視野に、伝統的な方法で製造・保存されたものです。この文を例に、どのような発酵食品でも長持ちするとは考えないでいただきたいのですが、発酵という技術の高みを認識していただければと思います。



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 ※ 発酵という技術が使われない地はあるのでしょうか

 人類が水密容器を持つに至った後は、発酵の利用は普遍的に発生するものと考えられます。オーストラリアのアボリジニは容器を持たず、発酵という技術も持ってないそうです。それでは、容器を持ちながらも、この技術が使われない地はあるのでしょうか。


 発酵という技術が使いにくいのは、微生物の生育しにくい乾燥地、そして寒冷地です。それでは人間が住む乾燥地として中近東地域から見てみましょう。この辺りは聖書の記述から、当時の人の生活を推測しやすいのです。

 キリスト教では、キリストの血としてワインを重視します。最後の晩餐の時に、イエスはパンをとって「これが私のからだである」と言い、杯をとって「これは私の血である」と言って弟子たちに与えたといいます。

 杯にはワインが入っていたでしょうし、そのワインの製造は、バイブルランドといわれる聖書の舞台である中近東からヨーロッパにかけての発酵・醸造技術として最高のものです。


 それでは、パンの方はどんなものだったでしょうか。

 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の「最後の晩餐」という絵ではロールパンのような形状のパンが描かれていますが、その一方で最後の晩餐で食べられていたのは、種無しパンだと伝えられています。種とはイーストのことで、すなわち無発酵パンなのです。

 今でも聖書の舞台だった中近東の国々ではマルクークと呼ばれる直径60cm前後の極めて薄くて丸い無発酵のパンがあります。これを千切ってスプーンの代わりにしてペースト状の前菜を掬って共に食べたり、ファラフェルと呼ばれる豆のコロッケを潰したものや焼いた肉を芯に入れ、くるくると筒状に丸めて食べています。


 筆者は、まだ平和だった時期のシリア、レバノンを旅行した経験がありますが、食卓を一緒に囲む現地の人が、焼きたてのマルクークを紙を破るように裂いて手渡してくれるのが印象的でした。

 また、あまりに乾燥している環境なので、食事中にこのマルクークがみるみるうちに乾き、ぱりぱりの状態になりました。この辺りの自然環境は、よほど工夫しないと発酵という手段も取れないほど乾いているのだなと実感しました。


 聖書の地といっても今はイスラム教の方達の多く住む場所ですから、アルコール飲料は基本的に禁じられており、ビール発祥の地としての技術保存を目的に少量生産をしているのみでした。そのような状況ですから、そのビールの味も決して良いとは言えないものでした。

 キリスト教からイスラム教に住人の信仰が変わる過程で、ワインをはじめとする発酵食品は失われたのかと一時は感じていましたが、さにあらず、家畜の乳はヨーグルトに加工され、そこからさまざまな利用がされていました。飲料から調味・料理材料としてまで、日本で醤油を使う以上になくてはならないものだったのです。


 翻って、旧約聖書を確認したところ、その中で「凝乳」と表現されているものを見つけました。それは、バター、チーズ、ヨーグルトのような乳からできる固形、半固形生産物のようで、総合的には乳の凝固物である「カード」のことではないかと思われます。

 一方で、その凝乳は士師記では水を求めている人に与えられており、サムエル記では凝乳を「乾酪」とともに持ってきたとと記されている部分があります。この2つの例から、乳から得られる固形物だとしても、水気を大量に含んだものなのではないかと推測ができます。

 このようなことから、旧約聖書の各所で見られる凝乳という表記の中で、それが乳酸発酵された乳であった事例もあるのではないかと考えています。


 イヌイットの住む極寒の地でさえもキビヤックという発酵食品がありますから、結果として、地球上の容器を持つ人類のいるところで、発酵食品のないところはないというのが今の筆者の結論です。

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