第68話-⑦ 安全保障条約


 九月二八日

 一四時三二分

 ヴィルヘルミーナ軍港

 インペラトール・メリディアンⅡ

 艦橋


 条約調印を明後日に控えた二八日夕刻、柳井の姿は近衛第二戦隊旗艦の艦橋にあった。


「宰相閣下、お待ちしておりました」

「道中、よろしく頼む。タクシー代わりで申し訳ないが」

「極上の乗り心地でアムステルダムまでお連れいたしますよ」


 柳井が移動するとなると、近衛兵で構成される警護隊も共に動くことになる。柳井の宰相就任後逐次規模が拡大され、現状は近衛歩兵一個小隊とその兵員輸送車部隊、それに近衛狙撃兵に通信、偵察の支援分隊を合わせると中隊規模にまで膨れ上がっていた。


 これに加えて、今回は条約調印に伴う各種の事務作業や柳井が中央政府、ベルセフォニアおよびヴェスタリア両国の首脳、閣僚級と会合するために事務処理と政務のために宰相府からも宰相付侍従とマルテンシュタイン外協局長を含めて二〇名ほどが随行することになる。


 更に、これほどの歴史上のイベントは他にないということで、柳井が随員として帝大のINSPIREからユーリー・アンドレーエヴィチ・グロムイコ教授、デイビッド・ヤマシロ教授、ミチオ・クライン准教授、ジョージアナ・スペンサー教授、水畑智准教授など、コアメンバーを出席させることにしていた。


 おまけに柳井の市中での移動はモナルカ・インペラトールが必要であり、これらを輸送するのなら、いっそ戦艦でも出した方が手っ取り早い、というのが今回の警護計画を立てたビーコンズフィールド中尉により結論づけられた。


 式典の華としても帝国初代皇帝、国父アーサー=メリディアンⅠ世の名を冠した艦がアムステルダムにいるというのは歴史的背景からも象徴的だった。


 また、皇帝もインペラトリーツァ・エカテリーナでアムステルダムまで出ることになっており、視覚的な効果としても十分だろう、というのがシェルメルホルン伯爵の見立てである。


 一時間ほどの空の旅で、インペラトール=メリディアンⅡはアムステルダムに隣接するマルケル湖にその巨体を休めることとなる。



 一六時〇三分

 ホテル・グラン=マルケル

 スイートルーム「ホイヘンス」


 柳井のアムステルダム滞在中の居室となるのは、視察の際にも宿泊したグラン=マルケルだが、以前宿泊した「アムステル」は皇帝の居室になるため、柳井は同じ間取りのスイートルーム「ホイヘンス」に宿泊することになる。


 壁面にはかつて土星の衛星タイタンを発見した数学者であり天文学者にちなんだ部屋であることを示すように、当時ホイヘンスが残した土星やオリオン大星雲のスケッチのレプリカが飾られていた。


「とりあえず、皆よく休んでおいてくれ。三時間後にはベルセフォニアおよびヴェスタリア両国の調印式典参列者の第一陣が到着。夕食会が予定されている。その後のスケジュールは……」

「レセプションホールにて夕食会後、条約調印前最後の調整が行われます」


 柳井は自分の手帳を手繰ろうとしたが、バヤールが先回りしてその後の予定を伝えた。元々柳井のスケジュール管理を主に管理していたジェラフスカヤが産休に入ったとはいえ、そもそもバヤールは宮内省生え抜きの侍従であり、この手のスケジュール管理はジェラフスカヤと同様にお手の物だった。


「そうだった。ユーベルヴェークとバヤールは、私と相部屋ですまないがよろしく頼む。マルテンシュタインさん」

「お任せを」


 マルテンシュタインが自信を持って言うと、柳井は安堵したように頬を緩めた。



 一九時一二分

 一階 ロビー


「メレツさん、ノースウッドさん、またこうしてお目に掛かれて嬉しく思います」

「何をおっしゃる。それは我々とて同じこと」

「明後日の式典が良いものになることを祈っておりますよ、宰相閣下」


 柳井がホテルのロビーで出迎えたのは、ベルセフォニア共和国国家安全保証顧問のダリア・メレツとヴェスタリア連邦軍退役中将、現在は大統領室参与のセドリック・ノースウッドだ。


 彼らは条約調印前最後の調整のため、首脳陣よりも先にアムステルダムに乗り込んでいた。


「まあ、立ち話はなんですから、食事でも取りながら話すとしましょう」



 一九時一九分

 一五階 レストラン「天秤を持つ女」


「フェルメールとは宰相閣下もお目が高い」

「いや、実は私はこういった芸術には疎くて。私の部下のシェルメルホルン皇統伯爵がホテルを選んでくれたのです」


 ヨハネス・フェルメールはオランダ黄金時代と呼ばれる一七世紀の画家である。このホテルのレストランに飾られている天秤を持つ女もレプリカではなく実物である。


「かつて北米大陸に権勢を誇っていたアメリカという国で、一時期自国文化の急進的な優遇措置と外国文化の排斥をしていたとき、狂乱する市民達が博物館の前で焚き付けにしようとしたのを、このホテルのオーナーのご先祖が買い取ったそうです」

「ほほう、それで博物館などでなく、ここに」


 柳井もさすがにアムステルダムやその地を治めていたオランダというかつての国家のことは下調べしていたので、この絵の辿った数奇な運命については諳んじることができた。


 柳井達帝国側代表と、ベルセフォニアおよびヴェスタリア両国の代表団が揃い、晩餐会が開始される。乾杯の音頭を取ったのは、例によって位人臣を極め、皇帝に宴会部長に任命された柳井である。


「今宵、こうしてかつて敵同士争ってきた我々帝国と、ベルセフォニアおよびヴェスタリア両国の代表者が集い、杯を交わすことができることを嬉しく思います。明後日の調印式は、きっと歴史に残るものになると私は確信しておりますが、その前祝いに、今日は共に酒を飲み交わすとしましょう。それでは、乾杯」


 柳井のテーブルにはバヤールとユーベルヴェーク、そしてマルテンシュタインの他、メレツとノースウッドがそれぞれの随員二名ずつを伴って着席していた。


「しかし何とか条約と附属書はできたものの、大変なのはここからですね、宰相閣下」

「ええ。文書を作ったところで運用できなければ何の意味も無いですから。私としては、今後の事を考えると料理の味もしませんよ」


 柳井らしからぬ弱気なジョークだったが、これは事実であり、柳井としてはまだまだ解決しなければならない問題が山積していた。


 特に、領邦軍転用の問題は指揮官人事と合わせて最大の懸念材料でもあった。


「明日の午後には、帝国中央政府首相、共和国首相、連邦大統領が到着し、明後日式典当日には、皇帝陛下のご臨席を賜り調印式、と相成るわけですが……」

「式典そのものはいいですが、やはりこれですか」


 前菜のサーモンのカルパッチョを食べながら、グロムイコ教授が首を巡らせた。ホテルの窓を通じて、アムステルダムの旧連邦政府官庁街地区境界で行われるデモ隊の行進の声が響いている。すでに旧官庁街地区は封鎖され、内部の住民や職場へ向かう会社員などは検問所で身体検査などをしないと地区内に入れない。


 式典当日はさらに規制範囲が拡げられて、調印式典が行われる連邦史・西暦史資料館(旧地球連邦本部ビル)から二〇キロメートル圏内が軍および警察の管制下に置かれ、戒厳令もかくやという様相になることが決定されていた。


「帝国国内では、アムステルダム条約への反対論も多いとか」

「それは否定しません。帝国は五〇〇年以上、他国と同盟を組むなどということがなかったのですから」


 メレツの言及に、柳井をしてそう返すのが精々だった。結局附属書の調印式典前流出事案は流出元の特定に時間が掛かっており――あるいは公表することが政権へのトドメになりかねないので内国公安局が止めている――事情が把握できない中で、際限の無いデマと修正・訂正の応酬が続いていた。


「それは我々とて同じことだろう。今後の交流で、その辺りの認識が落ち着くことを祈りたいが」


 ノースウッドも悩ましげに、手にしたフォークを弄びつつ溜息を吐いた。


「解決策になるかは分かりませんが、少し不吉な予想をしておきたいのですが」

「どうしました? ヤマシロ先生」


 それまで黙って議論を聞いていたデイビッド・ヤマシロが口を開いた。


「アムステルダム条約と条約機構が三ヶ国の市民に急速に認められる可能性がある、と予言しておきましょう」

「先生、それはどういう意味です?」

「お分かりでしょう、宰相閣下」

「……FPUの侵攻、ですか?」

「正解です」

「ドクターヤマシロ? 先年FPUは大規模攻勢に失敗しました。その回復を待ってからであれば、かなり先の事ではないでしょうか?」

「私も実は、ヤマシロ先生と同意見でして」


 ノースウッドがヤマシロに問い返すが、マルテンシュタインがワインを飲む手を止めて、会話に入った。


「帝国やヴェスタリア連邦を攻めるには、確かに準備不足だ。しかしベルセフォニア共和国を相手にするならば……と」

「マルテンシュタイン外協局長の仰るとおり。ベルセフォニア共和国は、失礼ながらアムステルダム条約機構、まあ仮にATOエーティーオーとしますが、このATOにおける脆弱な脇腹が、ベルセフォニア共和国となるわけです。純軍事的に」

「それは否定しません」


 メレツは冷静に頷いた。


「まあ、向こうが準備を整える前に、我々が体勢を整えなければならないというわけですね」


 柳井がワイングラスに手酌で注ぐのを、呆気にとられたように見ていたメレツとノースウッドを尻目に、柳井はグラスの中身をグッと煽って、笑みを浮かべた。


「まあ、何とかなるでしょう」


 柳井は自己暗示でも掛けるように、そして実際、この体制を整えるに際して柳井の尽力が必要とされることは明白だったのだから、自己暗示でも掛けないとやっていられない、というのが、柳井の偽らざる心境であった。


 この後は晩餐会も穏やかに進み、その後の条約関連の協議も、最終確認に過ぎず、この日の日程は無事、終了した。



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