DEAD VIBLE 2048

@jealoussica16

第1話


あなたが、この暗夜を通過していくとき



































これまで地と認識していた空間は

シークレットフォールズと化す

その場所が



































DEAD VIBLE 2048




































2048 1





















 ナルサワトウゴウは、これが最後の仕事だと予感していた。

 もうずいぶん前から、自らの身辺整理を始めている。驚くべきタイミングで、その仕事はやってきた。確信した。しかし、長い仕事になるであろう。依頼された、一つの仕事を完了するだけの、これまでのような通常のパターンでは、決してないだろう。

 ただの始まりにすぎない。どこに行き着くのか、予測もつかない。

 けれども、一つ分かるのは、二度と自分は、この世界には戻ってこないであろうということ。二度と同じ仕事をすることもなく、二度と同じ名前で同じ顔で、同じ時代、同じ文明世界の中で、人生が繰り返されることは。ないだろうということ。

 そして、これからの長旅もまた、感覚としては実に一瞬の出来事なのかもしれなかった。

 あるいはずっと、延々に果てしない、行程であるのかもしれなかった。

 あくまでそこに生きる、これからの自身の意識の状態によって、どのようにでも変化していくのだろうと思った。


「D・Sルネに、君のことは、聞いたよ。是非、君に依頼をしたい。君以外には、考えられない。話の内容から、まずは聞いてくれないだろうか」

 そのように、アンディ・リー・グループから、オファーを受けた。


「よく存じておりますよ。アンディさんで、よろしかったですか?」

 企業のトップの名前を、ナルサワトウゴウは出してみた。

「アンディ会長ではありません。ペンディング・ギィー・リーと申します。セキュリティ部門の責任者です」

「なるほど」

「他にも、リーがおりますが。お間違えなく。あなたとの窓口となるのは、この私。ペンディングですので。ペンディング・ギィー・リーです。ペンスとも、呼ばれています。あなたも、そう呼んでください」

 ナルサワトウゴウは、少し考えてから、何も答えることはしなかった。

 呼び名を今ここで決めたくはない衝動が起こった。

 それに従い、無言を突き返した。

「通常なら、うちの秘書のところに、依頼が来るものですが」とナルサワトウゴウは言った。

「ええ。失礼なことだと、存じてはおりますが、何せ、緊急の事態が発生してまして。それに、これは私どものグループの、傾向といいましょうか。物事を、それも重要度が次元を越えてきているものに対しては、どこかを、誰かを、経由するというのを、極力避けるということが多いのです。これは、自然と身についてしまった、属性です。なので、私が直接あなたとの交渉に、初めから立ったのです。直接交渉というのが、うちのグループでは、実に好ましいことなのです」

 ペンディング・ギィー・リーは、落ち着いた口調でそう答えた。

「そうですか。別に、何も気にしてはいません。ただ」

「なんでしょう」

「うちの秘書に、これでは、文句を言われてしまいます。僕は、彼女の尻に引かれているもので」

 トウゴウは笑った。

「ああ、ところで、僕とルネとの関係はご存じですよね?」

「ええ。逆に、ウチと彼の関係は?」

「もちろんです。けれども、当然、仕事の中身までは何も知りません。ただ、アンディグループの、外部社員であるということだけ。詳しい内容は、関係のない人間よりは少しは知っていますが、それ以上は。ただの友達ですから」

「了解しました。もちろん、あなたにも、必要以上の情報は、与えるつもりはありません。しかし、今度の件は、実に込み入ってまして。ある程度、我が社の、事業内容の裏のことについても、知ってしまわざるを得ない。あなたには、秘密の領域まで」

「そうなんですか?」

「それを、覚悟しておきたいと思いまして」

「といいますと?」

「わかりませんか?」

「危険な仕事は、百も承知です」

「あなた自身にも、危険が迫るかもしれない」

「これまでも、ずっと、そうでしたよ」

「これまで、以上に」

「これは、誰にも言ってないことですけど、いや、誰にも言うつもりはなかったのですが」ナルサワトウゴウは言う。「僕はこの仕事をもって、廃業するのです。これを納めることで、引退です。もうそうなっているんですよ。ずっと感じていました」

 ナルサワトウゴウは続ける。

「これまでとは、次元の違う依頼であることも、感じています。あなた以上に、何か、強い予感がこの身を震わせているんです。こんな胸の内を、話したくはないのですが」

「いえ、それが聞けて私も嬉しいですね」

「もう、すでに、身辺整理も始めていたんです。だいぶん前から」

「そうですか。あなたは、私ども以上に、未来を予期しているのかもしれないですね。それは、結構なことです。その嗅覚というのが、おそらく、あなたの仕事の、重要な能力なのでしょうから」



 ナルサワトウゴウは、自分のオフィス兼、自宅のあるクリスタルガーデン東京に帰った。

 オフィスには、秘書のリナ・サクライが居た。

 サクライを相手に、たった今会ってきたばかりのクライアントについて、口を開いた。

「ということで、僕に直接、依頼してきたわけだ。アンディ・リーの企業がらみで、どうも、アンディの事業を狙ってきている勢力を、見張ってほしい。おかしな動きをしたら、すぐに撃って消してほしいということらしい。単純に言うと」

「何て、名前なの?」

「シュルビス・ハジメ。ハジメっていうのは、漢字で書くとはじめての初」

「本名?」

「違うだろうね」

「あなたと同じ」

「君もな。アンディだって、何だって、今は本名など」

「公に名乗る人間はいない」

「俺と同じような、職種さ。どう?そういう奴はいる?」

 さっそく、検索を始めているリナ・サクライは、キーボードを打つ手を、急に止めた。

「いるわね。登録業者に。表向きは探偵。ウチと、一緒。事業内容はわからない。実際は、何をしているのか」

「テロリストくさいか」

「テロ行為を事前に防ぐために、そのセキュリティ対策のために、あなたを雇った」

「表向きは」

「裏があるの?」

「何を、言わせるんだ?」ナルサワトウゴウは笑った。

「表向きの業務に、素直に従って、そのまま無傷で、ゴールしたことなんてあるか?」

「ないわね。でもそれが、通常の世界になってほしい。それが、正常よ。今は、だいぶん歪んでいる。もっとも、単純に見えることさえ、実態は、ずいぶんと入り組んでいるし。迷路の中に、いっつも、深く突き進んでいってる。でも、今は、仕方がない。それを、通過しなければ、その正常な世界は、やってこないから。それは、わかってるんだけど。いえ、わかってないわ。そうやって、通過していけばいくほど、どんどんと、闇に嵌まっていってるような気がする。夜は、全然、明けない・・・」

 リナ・サクライは、自らの後ろ向きな発言に、我に返ったのか。

 すぐさま、画面に目を移して、シュルビスの情報を探した。

「君には、ずいぶんと、迷惑をかけている」トウゴウは言った。

「えっ?」

「そんなつもりで、君もここに来たわけじゃないだろ。まさか、こんなにややこしい仕事をするために、来たわけじゃ。世の中の誰に対しても、きちんと、説明のできる仕事をするために、秘書になったのに。こんなところに、繋がったばっかりに、見なくてもいい世界まで見る羽目に」

「そういうことは、言わないでね」


 リナ・サクライは手を止め、ナルサワトウゴウの居る方に向き直り、再び目を直視した。

「ある種、これは、私自身が、望んだことなのかもしれないんだから」

「それも、もうすぐ、終わる」トウゴウは言った。

「君には、次の仕事を探しておく。別のオフィスに、移動できる算段をつけておく。そのくらいは、させてくれ」

「どういう意味?ここを、畳むの?足を洗うの?別の仕事に?なら、私も連れてってよ。私じゃ、役に立たない?そんなことはないわよね」

「実に、有能さ」

「ここで、鍛えられたのよ」

「だから、どこに行っても、やっていける。むしろ、独立してもいいくらいに」

「ねえ、どういうことなのか。はっきりと、教えてくれない?何が起きてるの?今度の仕事と、関係が?」

「一言では、うまく説明できないね」

「そうなの?」

「今回の仕事を、一つ一つ、丁寧に進めていきながら、このオフィスの話、僕自身の今後の話も、開示していく。すべては連動しているから。ここで、その一つの次元の話を、かいつまんだって、何も明らかにはならない。不純物を、空気中に撒き散らすだけで、バランスが、著しく悪くなるだけだ。さて、仕事だよ。シュルビスだけじゃなくて、アンディ・リーとその会社。事業内容も、詳しく調べておいて」

 ナルサワトウゴウは、オフィスを後にする。



 上空を飛んでいる。ブーンという振動音と共に、スペースクラフトの乗り心地の中で、一気に微睡んでいってしまう。移動のたびに、そうだった。

 スペースクラフトを、そのまま住居兼用にしてしまう利用者は、格段に増えていたものの、まだそういった使い方をしたことはなかった。確かに、このまま寝てしまえば、気持ちの良い事、この上ない。けれどもそれは、一種の恐怖だった。どこか、快適な睡眠の域を越えているように思うのだ。確かに、深く眠れるのはいい。体は圧倒的な休息を必要としている。しかし、休息の域を越えすぎているのではないか。そう不安に思うのだ。こうして移動中に微睡みを感じている分には、問題はない。けれども、この移動手段を使う頻度が増していく度に、ナルサワは、その微睡みさえもが、何か質が決定的に異なってきているのではないかと、極度に疑っていた。

 体はリラックスしていく。ふとそのとき、目が急に開いた。


 衝動的に窓を覗く。眼下に何かが現れたような気がした。どこかを通過しているような気がする。身構えた。

 敵などどこにもいないのに。別に、クラフトが誰かに狙われているわけでもないのに。何の警報も鳴っていないのに。クラフトの飛行に、トラブルが発生しかけているわけでもないのに。

 ナルサワは、窓を覗き、眼下に意識を集中した。何の建物だろう。ずいぶんと敷地の広い、森林に囲まれたような場所に、その宮殿のような佇まいの建造物が、大地に座っている。見たことがなかった。より視界を広げて見ると、森林は際限なく続く、ほとんど密林のような場所だった。その中に、ぽっかりと浮かび上がる宮殿。最初は、その輪郭がぼやけて見えているだけだったが、解像度が増していくにつれて、それが石でできた、石が積まれて建造された、住居ではない、寺院のように見えてきたのだ。

 人を収容できるスペースはどこにもない。屋根さえない。その剥き出しになった石の外壁だけが、秩序正しく、大地に力強く根を張り、広大に広がっている。そして、中心に向かい、中央に向かって、ほんの少しずつ段が高くなって頂上のような場所になっている。石には、人型の全身だったり、人の顔、叉は動物や、人間とも動物とも思えない、何かの生物の姿が入り乱れ、そして、花や蔦が絡まった模様のような展開が、続いている。

 何かの信仰のために、建てられた寺院に違いなかった。こんな場所が、自分の生活拠点のすぐ傍にあるのは、知らなかった。

 人の姿は見えない。巡礼している人の姿もない。だがナルサワトウゴウは、その密林の中に佇んでいることを、思い出す。うん?密林?この都市に?いったいどこに?そんな空間が?どういうこと?

 一瞬、頭の中がこんがらかった。

 自分は今いったいどこにいるのだろう?。密林などありえない。

 冷静に確認してみようと、窓の外にもう一度、視線を移し変えてみる。その瞬間、意識の回線は、ぷつりと切れる。


 そもそも、森ではなかった。幾世紀もの月日が、過ぎてゆく中、地球の気候が変化していく中で、この地はいつのまにか、熱帯へと移っていき、雨の多い湿潤な気候へと変わっていったのだ。

 そして、植物の繁る広大な密林が出現していった。この巨大寺院は、その森にすっぽりと覆いつくされてしまったのだ。元は、砂漠に近い、実に乾燥地帯であったのだ。その当時も、生活に適した場所ではなく、人の姿もなかった。大陸間を移動して暮らす、遊牧民の通り道になっていただけだ。だからこそ、寺院建築に、この地が選ばれたのだ。

 こんなところにまで、好んで討伐しに来る人間もいるまい。干からびてしまう。現にいったい、何人もの人間が建造の最中に亡くなってしまったか。それでも、自分は、諦めなかった。残しておきたかったのだ。意識の続きを次の人間に、引き継いだ次の人間に、シンボルとして、そこからの解釈、記憶の蘇り、その続きを生きていってほしかったのだ。

 その想いが、突き動かしていた。そして、それに追随する人をも出現させていた。その続きから、生きてほしかった。思い出せば。思い出せば、それまでの繰り返しを生きることなど、なくなる。ただ、思い出してほしかった。思い出すきっかけが、必要だった。

 ちょっとやそっとな、微小な紛い物では、意識は目覚ることはない。

 眠ったままの記憶は、地底の奥へと沈みこんだままになる。

 いや、時の重みは、遥か奥深くへと、さらに押しやってしまうことだろう。

 時が経てば経つほどに、ほとんど跡形もなく、消え去ってしまうことだろう。

 そのことを考えれば、今ここで、この砂漠で、命を削っていくことに、何の恐れもなかった。そして、不思議なことに、それは作業に没頭すればするほど、そんな気候のハンデなど、まるで気にはならなくなっていくのだ。

 ほとんど、身体からは、分離してしまっている自分を発見する。作業しているあいだ、体からは離れ、どこかに行ってしまっているようにも、感じることが多くなっていく。

 次第に、寺院のさらなる設計を、同時にこなすということが、できるようになっていく。不思議な感覚だった。肉体を伴った物理的作業と、設計を頭の中で組み上げていく抽象的な作業が、同じ時間に違う場所で、行われているのだ。

 しかも、同じ人物の中で。次第に、自分だけではない、他の同志たちにも、その方法は、自然と伝播していき、参加しているそれぞれの人間が、設計と組み立ての両方を、しかも、誰の指揮系統もないままに、ただ自発的に、その終局に向かってひた走りしていったのだ。

 最初は、実に小さなシンプルな寺院を、当時としては、ほんの少しだけ、サイズの大きな寺院に、あるメッセージ、刻印を施すべく始まった構想だったが、いつのまにか、その参加している人間の数、寺院の規模、その構造の複雑性、より高い次元における整合性。無数の連鎖反応。ほとんど、寺院は、誰の想像をも越えた、得体の知れない存在へと、勝手に育っていくようであった。

 もうその頃には、誰も、自分の想いを、自分の頭の中だけで整理し、それを、この大地へと具現化するなど、そのような発想をする者など、いなかった。

 そして、その無限の構想の中の、ただその一部を担うといった、そのような歯車としての卑小さを、感じる者もまたいなかった。

 その巨大寺院は、自分そのものであり、自分を越えたものであり、また自分とは関わりのない天体での出来事のようにさえ、感じながら、それでも実際は、砂漠の中で飲食も十分に満たされないままに、仕事に従事する、一人の人間であることも思い出して、驚愕の想いにかられるのだった。



 緊急停止装置が働き、外部との通話機能が働いていた。

 意識は今に引き戻される。

 幻想を見ていたのだ。

「すみません。さっきの今で、リナです。緊急事態です。会社のメインコンピュータが停止しました。逆流を始めています。バックアップは、すべてしてあるので、電源を切りました。でも駄目です。どんどんと、流出は続いています。うちのデータが、もっていかれています。すぐに戻ってきてください。メンテナンスの、オーバークラフト社には、連絡しました。担当者を送ったと」

「うちにか?」

「そうよ」

「まずい。リナ!そこを離れろ!そいつは刺客だ。ウチの人間を、しらみ潰しにする気だ!」

「なんですって!」

「リナ。逃げろ!コンピュータは仕方がない。捨てるんだ。とりあえずは、離れろ。あとから、何とでもなる。僕もすぐに救出に向かう。非常時の経路は、いいな。それじゃあ」


 突然の展開に、目がすっかり醒めた。クリスタルガーデンを地下へとくだり、下水道にまで出る。マンホールの一つに細工がしてあり、そこからさらに下へと向かう階段が、ついている。明かりはない。気の遠くなるほどの長さに、急勾配のおまけのついた階段は、それでも辿り着くことになる。その瞬間、何もない空間に、突如、上昇気流が発生する。

 そこにある人体は、一気に天井へと吹き上げられる。障害物は何もない。空間は縦にどこまでも長く、果てしなく、空へと向かっている。クリスタルガーデンの内部に、無柱の空間を拵えたのだ。真っ直ぐに、建物の中心を貫いている。元々、ビルの中心に設定された無の空間を、逆手にとったのだ。吹き上げられた人体は、一瞬で、屋上へと放りだされる。屋上には、防護ネットが張られていて、その中心に、綺麗に捕獲される。

 ナルサワは、特殊加工された腕時計の秒針を、自分の脳でも刻みながら、リナ・サクライがその場所に出現するタイミングで、クリスタルガーデンへと戻ってきた。

 無事に、リナを確保することに成功した。リナは初めての体験に、興奮していた。

 ビルに近づいてきていた黒い影についても、息を切らしながら報告を始めた。

「あなたの言う通りだった。オーバークラフト者の社員じゃない。呼び鈴を鳴らすことなく、セキュリティを破って入ってきた。それも壊すとか、細工を施すとか、そういった様子は一切なく、ただ通過した。寒気がしたわ、私。人を殺すことに慣れた、人間の属性そのままよ。あいつは普通じゃない。ねえ、何が起こってるの?入ってきた仕事と関係があるのよね?さっそく狙われたのよね?頭が混乱してしまって。どういった構図で、これからどう展開していくのか。何もわからない。私はただ、アンディの会社についての情報を集め始めただけよ。それまでは何でもなかったの。シュルビスの情報を集めているときには、何も起こらなかったのに。どうして、アンディのときに。いや、シュルビスが反応したのか。やっぱり、シュルビス側が、何か関知して?でも、狙われたのは間違いない。これからどうするの?依頼人のアンディに、連絡は?」

「アンディじゃないよ。ペンディング何とかって男だ」

「そうなの?」

「アンディリーは、会長だ。彼は、直接関係ないかもしれない。あるのかもしれない。セキュリティ部門のトップの、ペンディング・リーという男が、直接の依頼人だ。アンディ・グループじゃない。リー・グループだ」

「え。そうなの。ってことは、リー・グループの中も一枚岩じゃないってこと?」

 ナルサワトウゴウは、「さあね」と答えた。彼にもよくわからなかった。



「しかし、本当に、非常口が役に立つとは」リナ・サクライは言う。「それも、クリスタルガーデンの、元の構造を生かしてつくった、非常ルートが」

「たまたまだと、思うか?クリスタルガーデンの構造が、元々そうだったとでも?」

「違うの?まさか、あなたの設計?」

「いや、ただの、建て売りを買っただけさ。しかし、あの中心を貫く、吹き抜けの空間。あれは、クリスタルガーデンの施工主が、意図したことだ。それも、デザイン的なことじゃない。真ん中に空洞を作るという、それは強い意思の現れだ。それ自体が、重要な意味を持っている。利便性とは関係ない。まさに、空洞そのものに対する、畏怖というか、敬意というか、そう、一つの祈りだ。信仰かもね」

 リナ・サクライは、考えるふりをする表情を作ったが、すぐにそれもやめた。

「場所というのは、いかにも大事なことだ。その土地の、地盤はどうなのか。海抜は、どうなっているのか。過去の、災害の歴史を知ることもまた、必要なことかもしれない。

 あるいは、そこがかつて、何に使われた場所なのか。何を目的に、資材やエネルギー、人員が投入されていた場所なのか。その土地に。そう、クリスタルガーデンの建った、あの場所はかつて処刑場だったんだ」

「げっ、まじ?」

「それも、ここ最近のことじゃない。遥か昔ね。何千年も前に遡る。生け贄というのが、原始社会では、当たり前のように行われていた時代がある。そして、それがまさに、この現代における、クリスタルガーデンの中央の空洞構造と重なる。コンセプトをそっくりと受け継いでいる。おっと、こんな悠長に、おしゃべりなんかしている暇はない。そのクリスタルガーデンは、今どんな状況なのか」

 ナルサワトウゴウは、スペースクラフトの操縦画面を、両手でピアノを弾くように、滑らかなメロディを奏でるように操作していった。オフィスの内部が、写し出される。荒らされている様子はない。人が侵入した形跡がない。すぐにオフィスの監視カメラの録画映像に繋ぐ。リナが脱出してから、今この瞬間までの映像を、早送りで見る。異変はあった。確かに侵入者がいた。全身黒づくめで、男なのか女なのかもわからない。その人物はとても、オーバークラフト社の人間には見えない。メンテナンスの人間ではない。

 事は決して荒立てないといった様子で、ただ部屋を一瞥すると、すぐに立ち去ってしまった。

 映像に現れたのは、ただのその場面であった。



「確かに、不気味だな。これほど、冷徹極まりない侵入者は、今までいなかった。静けさが、圧倒的な暴力性を表現している」

「でしょ」

「関根ミランには、連絡したの?」

「当然」

 関根は、調査会社の担当の女性だった。その調査会社に、プログラマーD・S・ルネは所属していた。その調査会社は、名前を公にしてなかった。名前が、存在してなかった。リナ・サクライは、関根ミランに、すでに、シュルビス初の調査を依頼したのだという。

 リナ・サクライは表向きに調べられる、すべての情報を収拾して、そして表には出ていないものの、この世に痕跡を残してしまった行動についての全てを、洗いざらい集めてくるのが仕事だった。

 行動、行為には現れない、しかし、その背後を支えている思考感情、感覚概念などの、心に現れたすべての痕跡を集めるのが、この名もない調査会社の業務であった。社員がどれほどいるのか、はっきりした実態はわからなかったし、どんな専門性をもった研究者が、その一員として入っているのか。全貌はまったく、うかがい知ることはできなかった。

 ナルサワと、調査会社を結ぶ人間が、関根ミランであり、実際に、裏の調査を行う担当の人間が、D・S・ルネ、という男であった。

「そうか。関根には、送ったか。いずれ、その情報は、来るわけだ。順調だな。あの刺客は、こっちじゃないわけだ。リー・グループ絡みの。リー・グループの中の、誰かが、シュルビスの調査を妨害してきた。リー・グループのセキュリティは、シュルビスを消すことを望んだ。しかし、一方で、別の人間はそれを望まなかった。とすると、どうなるのか。リー・グループの事業に、何か損害が出る。それを、望んだわけだ。そのまま見て見ぬふりをすることで、ダメージを受けてしまうことを望んだ。あるいは、わざと攻めさせておいて、その報復を、堂々としたかったのか。だとしたら、やはりリー・グループとしては、シュルビスが目障り。単なる防御の仕方に対する、意見の相違でしかない。わからんな。誰が何の目的で、妨害を」

「あるいは、あなたの早とちりかもしれないわよ」

「というと?」

「別に、誰も、ウチの事務所に対する妨害行為は、働いていない」

「さっきの男は」

「単なる見間違え」とリナ・サクライは、苦し紛れの微笑みを浮かべた。

「とにかく、まずは、このブロックだな。これを取り除かねば」

 ナルサワは、スペースクラフトを、クリスタルガーデンに向けて、旋回させた。

 リナ・サクライをオフィスに返すと、「ちょっと待ってよ」と、不安がる彼女を置き去りにして、そのまま再び、上空へと飛び去ってしまった。

 まだ、半日すら経っていないのに、非常な疲れを感じていた。体が急激に重くなってしまっていた。スペースクラフトに、不必要な負荷をかけているようで、ナルサワは申し訳なく思った。



 オフィスとも距離を置き、リー・グループとも連絡をとることなく、ただ一人になりたくて上空に浮いていた。いろんな出来事が一気に、短い時間に、複数の映像が入れ込まれたCMのように、畳み込まれてきた。その中の一枚には、おかしな寺院の映像まであった。

 見下ろしたって、こんなコンクリートジャングルにあっては、そんな密林などどこにもありやしない。

 仕事のやり方はいつもこうだった。依頼を受けた相手の情報をリナが収拾する。その後、調査会社に、その人間、あるいは組織に関する、内なるメタレベルの情報を求める。ウチの案件は、主にD・S・ルネが担当した。上がってきた双方からの情報を集め、いよいよ、自分の出番だった。

 ナルサワトウゴウは、「死」に関する仕事を取り扱った。人間や、物質、物事の死、つまりは、存続の停止を求める人たちの需要を、引き受ける代理人だった。そこに、善悪や道徳、個人的な感情、好き嫌いを挟むことは、当然ない。あくまで、命というよりは、ただの情報だった。それまで続いてきた、ある種の進行形の情報、時間の中で生き延びてきた、空間の中で泳いできた、その情報を、停止させるだけだった。それが、結果として、この地上における人間にとっては、死として受け入れられることもあるだろう。それは、ただの可能性としての問題だった。どう取ってもらっても構わなかった。人殺しを生業にしているつもりは、更々なかった。そもそもが、結局のところ、情報は自然発生して自然消滅するのが、この宇宙の定めなのだ。いずれ、すべては停止して、無に返される。結論は、どうあれ一緒だ。この自分が、手を入れようが入れまいが。ちょっとだけ、広い目で見ただけでも、まるで無意味な行為に映る。やってもやらなくても、どっちでもいい。どっちでも、何も変わりやしない。ただの僅かな切れ込みを入れるだけの、遊びにしかすぎない。

 しかし、それももう、終わりに近づいている。この仕事が、最後だ。

 どうしてそう思うのかは、わからなかった。しかし、感じる直感に、嘘はつけなかった。物事を終わらせるのが、生業なのだ。自身の終わりを見極められないとしたら、よっぽどのぼんくらだった。



 スペースクラフトを上空にとめ、ナルサワトウゴウは「加穂留」に行った。一人で小料理屋を営む加穂留は、十代から知る、遊び仲間だった。男女入り乱れたグループ交際だったが、今もこうして会うのは、加穂留だけだった。元々はホステスであり、一時期は大企業の秘書を勤めていたこともあった。語学も堪能で、頭も良い彼女は、有能だったようだが三十歳を越えると突然、一人で店を始めると言って、ずっと封印してきた料理への情熱を、解禁させた。

 トウゴウは開店した瞬間からの、常連客となった。しかし、店では他の客が居るときには、個人的な話は一切控え、女将との長年の関係は、誰にも知られないよう注意した。

 そして、この「加穂留」は、関根ミランとの接触の場所でもあった。彼女は、ここに一人で情報を持ってやってくる。客の一人として。トウゴウとのカウンターの並びを、女将は、セッティングしてくれている。関根はトウゴウが席につき、そのきっかり五分後に、スーツ姿で現れた。細身ではあるが、スカートからすらりとのびた足は、ふくらはぎにしっかりとした肉がつき、足首に向かって、徐々に窪みをつけて収束している。顔艶はいつもよく性的に満たされているような顔つきをしている。魅力的だが、この女性のプライベートな人間関係は、一切知らない。結婚してるのかどうかもわからない。子供はまだいないような気がする。加穂留はちらりと、関根ミランを確認すると、すぐに料理の支度へと集中した。

「何も起きていない?」

 待ち合わせた恋人に対する恭しさを、演出しながら、ナルサワトウゴウは、関根に訊ねた。

「やめてよね、その対応。他に客は、誰もいないじゃないの」

「いるさ。女将が」

「いいから、やめなさい」

 トウゴウは、いじけた表情を浮かべる。

「さっそくだけど、シュルビス初。38歳。探偵業。あるいは、何でも屋。家の設計から施工、アフターケアまで。リノベーション。その他、賃貸マンションの紹介。レストランのプロデュース。あるいは、行方不明の人間の調査。見つけ出し。不倫、浮気などの調査。その他。顧客の望む全てのこと。概要は、そんなところ。そして、公には伏せられていること。この男、数えきれないくらいの傷害容疑で逮捕されている。けれども、実刑はなし。執行猶予さえついていない。嫌疑不十分で、釈放が繰り返されている」

「住居侵入は?」

「おそらく、あるわね」

「数えきれないほどに」

「なるほど」

 トウゴウは、目を閉じ、深くうなずいた。

「続けるわよ。婦女暴行の容疑は、当然のようにある。こちらも数えきれないほど。と、これらが、まさに、仕事がらみなのか、ただの私生活における行動なのかは、わからない。どちらの可能性もあり。そして、驚くべき、さらに別の顔がある。芸術家の顔。彫刻家であり、画家であり、作家であり、音楽家。そのどれをとっても一級品。しかし、表舞台で活動している様子はなし。こそっと、世に出てしまっている創作物も、なきにしもあらず。でもそれさえ、名前は本人のものではなく、別の人間の作品として、しれっと登場している。本人の影さえ、登場はしていない。この多岐にわたる創造行為は、誰にも知られてはいない。この私たちの極秘調査を除いては。自分の能力を、世間から隠そうとしているのか。これから何かを計画しているのか。まったくの理解不能な行動の数々。目的がわからない。ビジョンがまったく見えてこない。そして、この暗殺者としての顔。おそらく、今度の件では、アンディ・リー会長を狙ったものとして、行動を起こすつもりね。最終的に。その過程において、リー・グループの、様々な事業の機能停止を目論み、じわりじわりと、頭の首をとる。気味が悪い。そういった過程を、すべて楽しんでいるように見える。結果が出れば何でもいいってタイプとは、ずいぶんと違う。結果も出すけど、むしろ、その過程の方が、圧倒的に重要。そして、障害が大きければ大きいほど、快感も大きい」


「うん?ちょっと、待てよ。障害が大きければ大きいほど?なるほど、そうか。そういうことか。ある種の自作自演なんだな、これもあれも。シュルビス初なんだ。ペンディング・ギィー・リーに成り変わって僕に会ったのも、きっとそいつだ!」

 ナルサワトウゴウは、ゆっくりと息を吐き出した。

「アンディ・リーには僕が電話しておこうか。直接、会長に伝えた方がいいだろう」

「ええ、そうですね」

「まさか、自分が、リー・グループを撃とうとしているときに、その障害物を自分で作り出すとはな」

「そうなんですか?で、どうするんです?」

「受けて立つに決まってる」

「手強い相手ですよ。得体が知れない。より詳しく調べておきますよ。まさか、こういった展開になるなんて、思いもしなかった」

 関根ミランは、足早に去っていった。


 お吸い物が、テーブルに現れた。

 ナルサワトウゴウは、じっと見つめて、ゆっくりと味わいながら、心を無にして、時を忘れる。

 この落ち着く空間もまた、一つの架空の現実であるかのように、テーブルも、椅子も、壁も、女将も、客も、皆、半透明に存在しているかのように、感じ始めていた。

 小料理屋の外の建物や道路、街そのものが半透明となっていき、実態のない幻想でありながら、それでもここに、暫定的にも、確固とした現実を作り上げている。

 そのような両犠牲の中で、今を生きていることを、実感した瞬間、吸い物をすべて飲み尽くしていることに気づく。

 加穂留は、トウゴウに次の料理を出すため、空の器を素早く下げる。

「ああ、すまない」

「ずいぶんと、忙しくなりそうね」

「ややこしいことに、なりそうだ。でも、逆に考えれば、実にシンプルともいえる。相手はたったの一人なんだからな。そこに気づけば、やることはたいしてない。あ、ちょっと電話するよ。客はまだ来ていないね?」


 ナルサワトウゴウは、リー・グループ本社に電話をかける。女性が出る。会長に繋いでほしいと伝える。当然、断られる。トウゴウはゆっくりとした落ち着いた口調で、丁寧に、リー・グループが、あるテロリストに狙われていることを伝える。そして、その男がこうして、自分を敵役として指名して、リー・グループ側の人間として、指定してきたことを伝える。茶番極まりないなと思いつつも、感情を込めずに、淡々と告げた。

 軽く流されるであろうが、とにかく、痕跡は残しておかねばなるまい。シュルビスの先制攻撃が、開始されたときに初めて目が覚めたかのごとく、このメッセージが甦ってくることだろう。

「今はまだ、実体のない戯言かもしれませんが、いずれ現実となったときに、必ずまた僕を必要とします。連絡先だけを残しておきます。では」

 ナルサワトウゴウは、電話を切る。


 リナ・サクライからも関根ミランからも連絡は来ない。情報は途絶えたままだ。

 早い展開を望んでいた。四方から情報が集まり、凝縮して一気に爆発することで、任務が現れ、遂行する。そうした現実に入ることを、すでに身構え、準備していた。吸い物を飲み終えた瞬間、戦闘モードへと入っていた。そのことは、加穂留にも伝わっている。

 彼女は、他のどの女よりも、自分のことを知っている。彼女と付き合ってる時期もあったくらいだ。同棲して、結婚しようと思っていた時期もあった。彼女は、トウゴウの仕事を知っていて、トウゴウもまた、彼女の遍歴を知っていた。アンディからの連絡も、しばらくはない。シュルビスは、いつ戦闘を開始するのか。どのように起こし、どういった結末を理想としているのか。本当の生業は何なのか。まだ何も見えてきていない中、心の準備だけは、すっかりと整ってしまっていた。加穂留もまた、いつトウゴウが店を後にして、任務に入っていってもいいように、様子を機微に伺っている。重い食事にはせず、すぐに切り上げられるよう、対応している。

 店の中には、妙な緊迫感が走っている。ここに直接、シュルビスが乗り込んでくるかのような警戒感だ。だが、結局のところ、シュルビスと面と向かい、殺し合いのようには、決してならないだろう。このご時世、直接人間同士が相対することは、極端に減ってきている。戦争でさえ、サイバー空間で行われている。経済活動もまた。金融活動もまた。日常生活において、人間が直接会うこともなくなってきている。会うことのリスクの方が、一人歩きをしている。スペースクラフトバイブルの普及は、そうしたバーチャルな交流に対抗するべく、直接、出向き、出向かれるという機会を、創出しようともしていたようだが、結果的には、より自由に、素早く、移動できる機能を、兼ね添えた、そのプライベート空間に引きこもるという傾向を、人間から極端に引き出しただけだった。

 おかげで、人混みや渋滞といった、集団的不快から、人間を大きく引き離し、物理的には、「ひとり」になる時間を増大させた。それだけなら、人間の意識に大変よい側面を創出しそうなものだが、膨大になりすぎた情報がどこからでも集まり、脳の中は元より人混みだらけとなってしまうのが常であった。しかし、中には、ひとりでいることの利点を最大限嗅ぎとり、スペースクラフトを、ただの衣食住や移動における利便性だけでなく、ひとりでいることの生産性の増大に舵を切る人間にとっては、その静けさは頭からゴミを綺麗に排出できる、絶好の機会となった。

 ある種、ナルサワの仕事も、そのバーチャル時代全盛における、副産物的な存在であった。

 バーチャル時代の、暗殺者といったらいいか。物理的に死を招く、直接的な行為を犯すのではない、あくまで、その人間、その物体、その集団、組織の、バーチャルな実体に、傷をつけて切り込みをいれ、情報の存続スイッチを切る。ネジを緩める。あるいは、ネジをとってしまう。溶かして、消滅させてしまう。そういったことで物理的な現象を起こす。つまりは、崩壊へと誘う、消滅へと誘う行動をとる、それが仕事だった。

 それは、死なんかではなかった。破壊、崩壊を経由した、消滅だった。あるいは、瞬時の消滅。そのねじの緩め方は毎回違った。目的によって違った。どのような結果を望むのかによって違った。完全に消滅させたいのか。ただ崩壊させたいのか。人間なら失脚させたいのか。ちょっとした不具合を引き起こさせたいのか。廃人にさせたいのか。消滅させたいのか。さらには、時間だった。緩やかに、それとわからぬほどにゆっくりと、経過させたいのか。一気に加速させたいのか。瞬時なのか。いずれにしても、ネジの存在なのだ。その案件における、キーとなるネジが、どこにあるのか。どのような構造において、どれほどのネジが引き締まっているのか。その設計図を再創造していくのが、仕事だった。

 そして、その設計図を元にして、正確に任務を遂行していく。溶かすのか撃ち壊すのか、ちょっとだけずらすのか、外すのか。その後に引き起こさせたい、物理的現象を想像しながらの任務となる。全的な、廃墟にしたいのか。部分的な廃墟にしたいのか・・・。

 案件の数だけ、取り組む方針は、生まれ出ることになる。



 小料理は、お浸しの小鉢で滞ってしまっている。アンディ・リーから連絡が入ったのだ。

こんなに早く?アンディは連絡が遅くなって申し訳ないと、開口一番謝っていた。そんなことが起きているとは、露ほども知らず。能天気この上ない経営者だと、自虐した。

 あなたのことはよく存じ上げていますと、アンディは言った。D・Sルネという人間に、あなたの噂は、よく聞かされています。信じます。信用します。すぐに対策をお願いしたい。私どもにできることは、何でも言ってください。

 即刻、対応は、可能です。

 アンディの焦燥感が、電波を通じて、より増幅してきているかのように感じた。

「ナルサワです。しかし、シュルビスの動きは、今のところ何もありません。アンディさん。あなたのところの、セキュリティ担当の人間に、彼は成りすまして、僕に仕事を依頼してきました」

「そのようですね」

「お名前は、間違いありませんね?ペンディング・ギー・リーさんで」

「そのとおりです。その名の人間が、うちのセキュリティのトップです。彼に、何か言っておくことはありませんか?」

「おそらく、あなたがたの対策は、僕ができることの範囲を、初めから越えていることでしょう。僕はシュルビスの、あなたがたへの行動を消すつもりでいます。シュルビスという男の存在を、消すということを、場合によっては考えます。今、彼に纏わる情報を、高速で集めています。それよりも、あなたからの連絡の方が早かった」

「邪魔をして、申し訳ありません」

「いえ、そのようなことは。しかし、あんな伝言を残してしまって。信用されるとは思いませんでした、このタイミングで。前にも、似たようなことが?」

「まったくの初めてですね」

「そうですか」

「ピンと来たんです」

「勘のほうは、相当、鋭そうですね」

 ナルサワトウゴウは、この何気ない会話の中で、何気ない会話だからこその、無防備な無意識の発露する情報の収集に、勤しんだ。

 まず、この相手が、本当にアンディ・リー本人なのかどうか。本人だったとして、言葉とは裏腹に、この電話の本当の目的は、何なのか。そして、起こり始めている事件に対して、実際はどういう心づもりなのか。この自分に対する、向き合い方を、どのように定めているのか。

 できるだけ意味のない内容で、しかも、引き伸ばしたかった。用心深さ極まる、そんな男に違いなかった。だからこそ、意味のある言動に、この男の本心は反映されないだろうと直感した。

「話せてよかったです」アンディ・リーは言った。

「こちらこそ。今後にとって、話のできるパイプができた。協力体制も、すぐに築けそうです」

「私も、安心しました。とりあえずは、あなたがおっしゃるように、確かにセキュリティには、万全を期しているつもりですが、しかし、自信ほど、抜け穴が生まれる土壌はありませんから。その小さな穴の存在を、あなたがカバーしていただければ。実に幸いです」

「もちろんですよ。あなたがたのために、正確な仕事を、するつもりです」

 ナルサワトウゴウは答えた。

「それに、僕は、喧嘩を売られている身ですからね。個人的にも。挑発さえされている。これは、僕の威信をかけた戦いにもなる」

「ええ。あなたにとっては、そちらを優先してください。それが、私どもの貢献にも、なりますから」

「では。また」

 ナルサワトウゴウは電話を切った。


 それにしても、遅いなと思った。アンディの対応が早すぎたからなのか。自分の秘書と、外部ブレーンからのバックアップが、何テンポも遅いような気がする。しかしナルサワは、一度たりとも自分の方から、彼女たちに催促するようなことはしなかった。信頼していた。

 料理は、お浸しを境に出てくる様子はない。加穂留もまた、急な展開に備えている様子だった。同じ波長で、事が起きた時の体制を整えている。やはり遅いのだ。

 何テンポも合っていない。タイミングが乱れている。乱されているのか。今は関根からもリナからも、両方から情報が入り、任務を第二としたところの、その事前準備、第一の仕事であるリーディングに、取りかかっているのが自然な流れだ。物事が流れていないのだ。

 ナルサワは、耳を澄ませる。何がどこで滞っているのか。

 それは、あの男。シュルビス初の出現による影響なのか。あの男の存在が、自然にあるべき物事の流れを乱す、役割を果たしているのだろうか。それとも、故意に、あの男は妨害電波なるものを、放出しているのだろうか。そのどちらでも、あるのだろうか。

 そのどちらでもあると、受け取ろう。相手を、より高く評価するという習慣を、ナルサワは常にとっていた。ならどうして、アンディからの連絡は、実に早く入ってきたのだろう。物事の流れがあるところでは滞っている分、別のところでは、急勾配を見せている。そうすることで、全体のバランスを保っているのだろうか。おそらく、そうなのだろう。

 しかし、別の可能性もあった。

 やはり早すぎたのだ。何かの作為が働いているのだ。

 ひとつではないのかもしれない。複数が入り乱れていて、互いに影響させ合い、さらなる別の歪みを意図的に、もしくは偶発的に、生み出されているのかもしれなかった。



 それは、友人のプログラマーD・S・ルネから学んだことでもあった。

 複数のプログラムをそれぞれ作り、つまりは、依頼された別々の仕事、それぞれに対する要求を忠実にこなすことに飽きたらず、同時期に依頼されて製作したプログラム同士に、彼独自の同期をかけて、連動した別のプログラムが、自然発生するような組み方を、彼は常にしていたのだ。

 一つの仕事を、他者のためだけに遂行することに、初めから幻滅を感じていて、飽き飽きしていたのだ。掛け合わせというのが、彼にとっての最大の武器であり、そこから派生する現象というのが、彼にとっての最高の楽しみでもあった。仕事はほとんど個人的な趣味の域まで昇華していた。彼は他に趣味らしきものはなく、人付き合いも良くなくて、友人は、ほとんどナルサワひとりしかいなかった。結婚もしてなかったし、女性関係も、今はほとんどなかった。ただ、肉体関係だけは、そのたびに、誰かと持っていたらしく、その辺りのことは、ナルサワも詳しく訊くことなかった。それぞれの女性関係を掛け合わせて、なんてことは、してないよなと思いつつも、感情を持った人間の女に対しては、そんな面倒なことをする必要もないなと、思い直した。彼には、最高の趣味が、仕事として存在しているのだ。そのこと以上に熱中するものが、この地上には何もないように思える。あらゆることに幻滅し、飽き飽きしていたルネにとっては、プログラムの仕事と巡り合ったことが、最大の幸運であったと言える。

 プログラム同士を、秘密裏に掛け合わせる。あからさまに交錯させるのではなく、無関係な装いで、そのまま併存させるのだと、彼は言った。そこが、映画とか小説とかのシナリオとは違うのだという。

 実際に、交錯させてはいけないのだ。それはそうだろう。あくまで、別の依頼のことなのだ。それに、それぞれが、守秘義務のもとで行われている。壁を無造作に越え、関わり合わせていることが、バレでもしたら。どれほど刑務所に居ればいいのだろう。それをわからないように、跨ぎ越して、そして見えない領域で、激しく交錯させるのだ。表向きは話したことさえない、関係を装い、それでいながら、セキュリティの固い、高級ホテルでの密会を重ねる不倫カップルのようでもあった。男女は、激しく性を交換し合い、夜の闇の中で、別の何かを放出する。その掛け合わせることで、放出したもの、それこそが僕にとっての本当のプログラムなのだと、ルネは言った。そしてだ。例えは、まだ夜の男女の続きであった。さらに別のカップルが同じように秘密裏に掛け合わせた、新たなるエネルギーを空に放出する。その放出された架空のプログラム同士がまた、空で融合する。もちろんすべては計算の上だ。そうして、具体的な掛け合わせて生まれた抽象的なプログラム、別の抽象的なプログラム同士が、さらなる掛け合わせを始める。

 その抽象的な領域でも、さまざまなパターンがあり、組み合わせがあって、どれとどれを、どのように反応させ合うのか。すべてが高度に反応していく中、そこから生まれ出たものは空高く、大気圏を遥かに跨ぎ越して、上昇していく。

 どこまでも高く。ほとんどが、ありえない領域にまで。

 僕はね。ルネは、その話になると、いつも興奮していった。

 僕にとって唯一、興奮することはそれなんだ。それしかないんだ。限りはない。どこまでも、高く舞い上がっていく。まるで自分もその領域にまで舞い上がっていっているかのように。同化しているんだよ。同化するために、そういった行為に、手を染めているんだ。ただ、この地上に這いつくばって、生きているのなんて、実に御免だね。そんなのは、ワニだけで十分だ。動物たちだけで十分。原始人だけで十分。僕は違う。僕たちは違う。ほとんどまだ、プログラムだけが先走っている。でも、いずれ僕も自ら、また同じように高く舞い上がっていけるための仕事をするつもりだ。人間そのものが、舞い上がっていけるように。地球を後にできるような。僕はもう地球にいることが、御免なんだ。そのために、そういったことを現実にするため、僕は今こうして仕事を地道にこなしている。舞い上がっていくためのプログラムを、趣味として、ただやってるわけじゃない。将来のため、未来のため、そのステップとして、実験として、今を使っているのだよ!

 今を今として、楽しみつつも、苦しみつつも、未来への梯子として、地道に考えてもいる。いつかそうなるために。僕は、スペースシャトルで、月や惑星に到達したいわけじゃない。そんな、すぐ傍に行くことに興味はない。ずっと、遥か先。超越の彼方に、僕の居場所は、あるのだから。人生を、実に、楽しんでいる奴だと、周りには勘違いさせておけばいい。ただ、君だけには、概要は知っておいてもらいたくて。友達なんだ。友達であることの意味を、君とは分かち合いたいんだ。わかるだろ?


 そう言われたトウゴウは、当然のごとく、何度も頷いた。

 この男の脳の中など、理解できたものではない。しかし、不思議と興味はあった。

「まるで、将棋のようだね」ナルサワトウゴウは、口にした。

 D・S・ルネは、何のことだか、さっぱりとわからないといった表情で、ゲームなんて、皆そういうことだろうと答えた。

「とにかく、初めは、実にシンプルな動機の元に、一つのプログラムは生まれ出る」

「音楽のようだね」

 ナルサワは、相づちを打つ。

「まさに、そうだ!」

 今度は、乗ってきた。

「作曲の、最初の動機ということだね。モチーフといわれる。作曲家だって、こういった曲をお願いしますよと、そのように依頼が持ち込まれるものだよ。そこから、じゃあ、こういったテーマではどうだろうと、作曲家自らが、最初を生み出す。そして」

「でも、音楽とは、違うよね」ナルサワは言う。

「もちろん、同じ曲の中で、音楽は戦慄、リズム、ハーモニーが激しく掛け合わされて、和音、不協和音を奏でていく。しかし、僕としては、この世の中、この世界、この地球、この宇宙全体を、一つの楽曲として、想定すれば、実に話は同じことなのだよ。僕はたった一つの曲を、長い時間をかけて、創作しているともいえる。掛け合わせたもの同士が、見えない領域で、ふたたび掛け合わされて、化学反応しあい、または拒絶、反発しつつも、次なる領域で、さらに展開していく。展開が展開を呼び、この自然の中に、ただ存在している要素も巻き込んで、反応が生まれ、また別の領域へと、飛翔していく」

「とすると、終わりのない、音楽のようだね」

 トウゴウは言う。しかし、ルネの反応は何故か芳しくなかった。

「終わりのない?馬鹿いっちゃいけないよ。どこから、その発言が出てくるのだろう。終わりがないだって?君は何もわかっちゃいない!終わりのない生が、いったいどこに、存在する?死のない世界が、どこにあるのだろう?馬鹿いっちゃいけない。終わりはある!ただ、あまりに高く離れているために、見えないだけだ。感じないだけだ。だから、僕は、その終わりを見極めるための飛翔がしたい。どうして、わからないんだ?何もわかっちゃいない!君という人間は。いいかげんに、してもらいたいね。君は、僕の友人なんだ。友人というのは、一体、何のためにいるのか。もう一度、考えなおしてもらいたい!」

 その答えを、ナルサワトウゴウはすぐに、明確に頭の中で、形にすることができなかった。

 そのとき、調査会社の関根から、唐突に連絡が入る。’



 すでに、「加穂留」を出て、スペースクラフトに乗り、宙空に浮き上がっていた。

 スペースクラフトは超圧縮機能がついているため、駐車スペースがなくても、構わなかった。

 指定の場所、例えば特定の建物を入力することで、この場合は「加穂留」だったが、店に、直通の通路を、暫定的に作ることが可能だった。店の壁と、スペースクラフトを同期させて、壁のない店と、スペースクラフトの透明な繋ぎ目に、一時的に作り替えることが可能だった。

「時間がかかって、すみません」

 そういった認識があるのだなと、ナルサワは思った。

 自身の認識に間違いはないことを、確認すると、すぐに全神経を集中させて、スペースクラフト内に響き渡る音声に、耳を澄ませた。

 スペースクラフトは、プライベート空間であり、秘密の会話をするには、もってこいだった。

「手広く、色んな事業をしているのは、やはり見せかけのようです。どれも半端で、気まぐれで、本腰を入れていないことが明白で。ただの気晴らしなのか。狙って、ランダムに手を出しているのかは分かりません。ところが、見つけました。事業の根幹を。シュルビスが若い時から一貫して、その事業だけには、投資を続け、エネルギーを注いでいる仕事。それは寺院建築です」

「寺院?お寺のこと?」

「そのとおりです。シュルビスは、寺院建築業を、メインの生業としているようです。寺院の設計から、建築、さらには不動産業。寺院経営のコンサルタントでもあり、その寺院を元にした、様々なビジネスの企画の提案、相談。フランチャイズに展開している所も、あるようです」

「寺院の、フランチャイズ?」

「ええ」

「それは、僕らが、街で目にする、あのお寺で、間違いはないの?」

「いえ。違うでしょうね。おそらく、私たちの概念で見たときには、それは、寺院だとは思わないのではないでしょうか」

 実に面白い展開になっていきそうだった。

 と同時に、ナルサワはふと、思い出したことを口走った。

「巨大なさ、例えば、密林の中に現れた仏教寺院だとか、そういうのはどうだろうか」

「遺跡ですか?」

「まあ、そういうことかな」

「なるほど。遺跡に、手を加えていることは、考えられますね」

「再構成しようと」

「別の目的で」

「そう」

「調べてみましょう」

「大小さまざまな、新旧さまざまな、見た目もそのものだったり、まるで違っていたり、色々な幅広い意味で、寺院ということにしていることも、ありえる。そう考えれば、その気晴らしのように見える半端な事業も、また、一つの大がかりな繋がりを、構成しているのかもしれない」

「おっしゃる通りですね」

「しかし、寺院とは」

「どうされました?」

「最近、ふと、夢の中に出てきたんだ。いや、夢じゃないんだけど」

「そうなんですか?」

「まあ、ありがとう。寺院ビジネスだったとは。助かったよ。ルネに、情報は回した?」

「回しました。そのあとで、あなたに」

「わかった。じゃあ、引き続き頼む」

 関根ミランの声は、消え、スペースクラフト内は、静まり返った。

 外部からの音は、いっさい遮断されている。何の音も聞こえてはこない。何の音も漏れ出ることはない。そんなスペースクラフトは、静けさを求める心の平穏な人間たちの、必需品である一方、当然、犯罪の温床の場にも同時になっていた。音がまったく外に漏れ出ない密室は、あらゆる種類の人間にとって、実に重宝がられるものだった。

 設計、販売、集客、グッズ製作。大小、様々な寺院を束ねる、シュルビス初の会社。彼はいったい、何をしているのだろう。表向きのレッテルでは、何一つ実体がわからない。

 シュルビスの思考回路に、わけいって、行かない限りは。そこに潜む、野望、欲望、想い、ときに祈りを知ることなしには。この事業が、いったい、何なのか。何が起きているのか。何を今後、構築していこうとしているのか。最終的に、どうなるのか。そして、消滅の時のこともあった。全貌を見ることなしに、今を解釈することは、残念ながらできなかった。

 シュルビス本人にわけいっていかなければ、何も見えてはこなかった。それは、自分の仕事だった。密林に分けいるハンターのように。自らの命を賭して、掴まねばならない使命感のようなものが出てきた。

 そして、その根底を絶ち切る。機能の停止を促す。それが唯一の任務だった。

 ただ、今回の事例は、特殊だった。

 依頼人も狙撃対象も、同一人物であるという、初めての機会だった。



「関根です。何度も、すみません」

 彼女とは、一度目は直接会い、それからは、通信でのやり取りを重ね、最後に再び一度会うといった、流れが慣例だった。解決後は、一度も会うことはない。解決を、報告し合うこともない。最後の面会において、結末は決まる。

「寺院の一つが、このあたりに、あるようですね。はっきりとした場所は、わかりません。一つあります」

「了解」ナルサワトウゴウは答える。

「大きさは、わかりません」

 質問の先取りをしたかのような、関根の応答だった。勘のいいこと極まりない。

「こちらからも、報告です」秘書のリナ・サクライからの、通信が繋がる。前に話したのは、遥か昔のような気がした。

「情報は、集まりましたか?こちらは、アンディ・リーのことです。リー・グループのことを、突っ込んで調査しました」

 シュルビスには、直接、関係ないものの、ナルサワトウゴウは口を挟むことなく、彼女に最後まで喋らせた。

「その、あなたが乗っているスペースクラフトも、アンディの会社の製造だということは知ってるわよね。スペースクラフトⅠの販売で、リー・グループは、その名を爆発的に世に知らしめ、そして、世界中で、販売を開始したことで、莫大な利潤を生み、さらには、別の事業へも、投資を加速させていった。世間ではご存じのこと。スペースクラフトⅡ以降は、まだ販売されてはいない。予告もされていない。けれども、すでに、開発は終わっていて、市場へはまだ、この先において、絶好のタイミングを狙っているという噂。これも、世間では知られていること。そして、キュービック・シリーズという事業もまた、立ち上げている。メディア事業よね。出版、映像、舞台公演など、新しいテクノロジーの全面導入に、より、多角的次元を同時に表現する、この機能を、全面展開することで、事業を軌道に乗せていこうとしている。

 要するに、アンディの会社は、テクノロジーにデザインを乗せていくというのが根幹にある。科学部門は、相当な進化をしていくように思う。そして、もう一つの事業、ミュージアムの経営。ケイロ・スギサキという、今は亡き、画家の全作品を、所有していて、その公開をはじめとした展開を、多次元的に模索しているということ。

 スペースクラフトで得た利益で、この作家の作品を全部、買い取ったということみたいね。ケイロ・スギサキの作品は、それまでは、行方不明になっていた。アンディは、極秘にそれを見つけ、そして多額の金銭で、それを一ヶ所に集めた。散らばって、存在していたのか。それとも、まとまって残されていたのか。それ以上詳しいことは、今の時点ではわからない。いずれ、この絵を元手に、無尽蔵な利潤を生み出していくことは、間違いない」

 リナ・サクライは、CIの機能を使って、ナルサワのスペースクラフトに情報を送ってきていたので、これらのことが一瞬で、その全体が、トウゴウの脳に綺麗に収まったことになる。長々と、音声で一字一句を伝えるというのは、遥か昔の出来事だった。通常の日常会話ではもちろん、一言一言が、双方を行き来することの方が、遥かに効率的だったが、こうした大量な伝言と、少しも時間を無駄にできない切迫した状況の元では、CIが必需だった。そして、このCIは、今のところスペースクラフトにのみ、取り付けられた特許であって、これもまた、リー・グループの資産形成に、一役かっていた。

 その後も、トランスフォーム・レゴ事業の話。今はまだ、正式には、稼働していないが、都心から離れた場所では、すでに、試験的に始まっているという情報や、ステルスBという事業。同じ場所に、複数の異なる建物をつくるという多次元建築。エネルギー産業への進出。旅行会社ルネ・バロック・ボヤージュの設立など、次から次へと、アンディの野望が、現実化されていくという情報が、積み重なっていくことで、ナルサワトウゴウはだんだんと頭が重くなっていった。

 僅かだったが、体の奥底に、細かな震えのようなものが生まれていた。

 要するに、リー・グループは、今後にかけて、文明の中核に存在する、テクノロジー企業だということだった。国家を凌駕した、大帝国を、築いているその最中だということが、誰の目にも明らかになるということだ。そのトップに君臨するのが、アンディ・リーだった。その男との繋がりが、すでに出来ていた。その、超テクノロジー文明の中核を、攻撃しようとしている男。シュルビス初。活動の中心は、寺院の設計と建築、販売、経営。そして、どういうつもりなのかはわからないが、本人自らが、リー・グループの機能不全を狙った行動を、起こすにあたり、その妨害を、この自分に、依頼してきている。そのあいだに立て、ということなのだろうか。行司のような、レフリーのような役目を、果たせということなのか。ただの傍観者でいいのか?見えてくる情景は、正にそれだった。ただの傍観者だった。何が起こっているのかを、ただ、どちら側につくことなく、中立に観察するための。状況だけを、明確に把握するだけで、何もしなくていい・・・。

 結論が出てしまった・・・。だが、事態は急変した。

 リナの音声が、叫び声へと変わり、助けてという悲鳴に変わっていた。



 クリスタルガーデンに向けて旋回し、急下降していくスペースクラフトだったが、加速しているあいだに、肉眼では、外の情景が見えないにも関わらず、ふとナルサワは、スペースクラフトの素材が半透明になり、街の様子が一瞬、目に入ったように思えた。

 明瞭で詳細な画像が、見えたのではなく、いくつかの建物の場所が、その配置と共に、連動して、同じ地上に屹立している様子が、感覚として飛び込んできた。見えたわけではなかったのだ。

 リー・グループの拠点、グリフェニクス本社。

 リー・グループを象徴する、グリフェニクスという名のロゴは、二つの伝説上の架空動物の、上半身と下半身を、くっつけたものだった。どちらの側にも、引きずられることを拒むかのように、意識の繋ぎ目に、その別の生物が混入し始め、エネルギーは循環し始めて、まさにその対局な存在は、自らそうしてエネルギーを創出するため、個であることの存在を放棄して、合体に同意したかのように思われた。

 そのグリフェニクス本社の、さらに上空には、建物としては、直接繋がっていない別の建物が存在していて、そこを居住空間としてアンディが使用していることが、透けるようにわかってしまう。

 グリフェニクス本社と、対極に位置する場所には、ブラックタージと呼ばれる、文字通り真っ黒に、外壁を塗り固められた建物が存在し、窓も扉も見当たらないその不気味な雰囲気を、周囲に惜しげもなく放っている。そこは郊外であり、周辺に人間の賑わいはなかった。自然が豊かである様子もなかった。小さな領域で、砂漠化が、進んでいるような場所だった。

 何故かしら、今現在、宙空に浮かんでいる無数のスペースクラフトの一つに、画家がアトリエとして、そこで作業をしているような気がしてきた。透明なアトリエという名で、移動式の工房として、世界のどの上空にいても、自分だけの静寂な創作場所を、確保しているようであった。すぐ側にその存在を感じた。

 他にもいくつか重要な拠点であるのだろうか。名前と共に、意識に浮かび上がってくる場所があった。気を留めて、詮索することは、今はしなかった。いち早く、オフィスに戻りきらないといけなかった。瞬時に、そのような情報が、舞い降りてきただけだった。



 クリスタルガーデンが見え、一気に下降していくスペースクラフトバイブルの振動を、全身に感じながら、視界は一瞬、全面ブラックアウトする。

 そして、部屋の壁と完全に同化して、その機体は消失し、ナルサワはオフィスの入り口に佇んでいることを知る。

 人のいる気配がまるでなかった。あまりの静けさに、一歩も動けなくなった。リナの存在はまるで感じない。ずいぶんと長いあいだ、留守にしていた場所に、帰ってきたような感じであった。自分がここに居たのは、ついさっきのつもりであったのだが、すでに幻のように記憶は消え去っている。

 リナはどこにいるのだろうか。無事なのだろうか。メインコンピュータに近づき、その履歴を早く確認しなければならない。けれども、そう思えば思うほどに、身体は硬直していってしまった。強い波動を、部屋の奥に感じたのだ。静けさの反面、何かの存在を強烈に感じるようになる。それは、体の硬直に見事に反映し、わずかに恐怖に似た反応が、沸き起こってきていることに気づかされた。しかし、恐怖心にまで成長していくことはなかった。

 同じエネルギーは、その空間の情報を、読み取ろうとしている。

 匂いや、感触、光の存在を感知することに、全力を注いでいるようだ。

 リナが脱出している様子が、浮かび上がってきた。リナは助けを求めつつ、その存在に襲われるほんの寸前に、スペースクラフトに乗り込んだ。自分とちょうど入れ違いだった。

 彼女はこの場を後にしたのだ。その痕跡が、空間の至るところに残っている。

 気づけば、リナの情報ばかりが集まってくる。リナは、オフィスからは、加速度を増して離れていっている。目的なく、ただ離れていくことに、全神経を働かせている。メインコンピュータを帯同させていることも、わかった。迫ってきている事態からの、完全なる避難だった。家具のいくつかしか残っていない、ほとんど空っぽのオフィスに、この自分と何者かの存在だけが残されている。ほとんど同時に到着した、その存在に、ナルサワは恐怖よりも、来たるべきときが来たことへの感謝を、むしろ、感じていることに驚いた。

 闇の中、二つの存在が相対していた。



「僕らの、最初の出会いを覚えているだろうか」

 闇と同化したような、いや、闇そのものが声を発したかのように思えた。

「僕らの、最初の出会い」

 つい、数時間前のことを言っているのだろうか。

 ナルサワトウゴウは、自由のきかなくなった自らの身体のことを思った。

「僕らは二人とも、寺院をつくるのための石を掘る職人だった。僕らはいつも一緒だった。職人は皆、仏教徒だった。ブッタの悟った世界を表現するため、あるいは、悟りへと導いていくための、寺院の建築に勤しむ仏教徒だった。それは、衆生の人間に対する奉仕でもあり、また自分たちにとっても、創造を通じて悟りに近づく道そのものだった。僕らは、幼いときから、共に同じ道を歩んでいた。いつまでも、どこまでも、それは続いていくように思われた。僕はそう望んでいた。この僕は」

 暗闇は、よりいっそう濃さを増していくようだった。男の声が止む度に。

「僕は、寺院建築の一旦を担った、その生活に、不満はまるで感じなかった。ただ、その小さな事に、日々の意識のすべてを投入していった。エネルギーのすべてを投入していった。そして、一日が終わり、心地よい疲れと共に、眠りにつくことが何よりも幸せだった。それは、作業に従事するすべての人が、そうだと思いこんでいた。実に素直で、純粋な、浅はかな男だったよ。今思えば。だが、君は違った。当時から全く違っていた。君は僕には思いもよらない、別の思考回路を持っていた。君独自の思想が、あったに違いない。だからこそ、君には、違う道が、開けていった。君は出会った。君を引き立てた、ある人物との出会いが、あった。その人物は、ただの通りすがりの人間ではなかった。明らかに、別の意図をもって、寺院建築に近づき、そして紛れこみ、若い男たちに、言葉を吹きこみ、自らの思想を伝播させていった。

 彼は、自らをマスターだと名乗った。そして、彼との主従関係を、次第に構築していった。それも、選ばれた人間だけに、その権利を、与えるかのように。君は選ばれた。僕は選ばれなかった。選ばれた人間。つまりは、君の、僕たちに対する優越感は、相当なものだっただろう。君のその後の人生は、僕らを見下ろす、見下ろし続ける人生だったのだろう。今も、そうなのか?そうなんだろう?こうして君の元に姿を現した僕を、憐れんでいるんだろう?ほんの少しだって、僕はこの闇から外れることができない。僕の姿は、決して、光には晒せない。君もわかっているはずだ!

 僕のからだの皮膚は、ほとんど爛れ落ちてしまっているのだから。全身焼かれてしまったのだからね。君もご存じの通り。君は僕の体を焼いたわけではない。しかし、別の、僕と同じ境遇にあった人間を、その手で焼いたはずだ。そう。焼いたのだよ!人間を!人間が人間を。まだ死期の迫っていない人間を。そんな権利など、いったいどこにある?君は、君たちは、多数の人間を、そのように殺していったのだ。そうして、醜い姿に変えていったのだ。君たちの笑い声が、今でも聞こえてくるようだよ。そう。今でもね。聞こえてくるのだよ!毎晩、うなされているのだよ!君にはわかるだろうか。この苦しみが。この憎しみが。そうなのだよ。我々は決して死んだわけではなかったのだ。死んだのは、それまでの肉体にすぎなかった。我々は、死んだのではなかった。しかしそれは、より残酷なことだった。君たちは。我々を殺しきれなかったのだ。君たちが、殺しきったと思っていた人間たちの大半は、まるで、死にきれなかったのだ。何てことだろう。僕のような存在は、僕以外にもたくさんいる。僕は代表して、この地上へと舞い戻ってきた。僕がもっとも、そう、これでも体の自由がきくという理由でね。そして君が、今ここで生きていることを知ったから」

 いったい、何の話なのか。皆目、見当がつかない。

「君は、そのマスターとの、出会いによって、彫る職人から、寺院そのものを設計する人間へと、昇格していった。マスターによって、そういった能力を磨き上げる訓練が、成されていったのだろう。君も、多少は、その後、彫ることもあったようだが、だんだんと、現場からは離れていった。寺院は、急激にその規模を増していき、そして、複雑怪奇な迷路のような組み上がりをしていき、地上からは、加速度的に離れていった。最初のうちはよかった。物珍しさに興奮する人間もいた。しかし、だんだんと、怖くなっていった。地に足のついていない時間が、増えていったからだ。いつか、高く舞い上がった、その場所で、突き落とされるのではないか。そして、その予感は当たった。君たちに、突き落とされたのだ。散々に、極限状態まで働かせられ、心身をボロボロに使い古され、その果てに、無惨にも焼かれたのだよ。そうして、大量の労働者は、捨てられていった。実に、血なまぐさい寺院だ。血なまぐさい寺院が建ったものだ。人間の死骸によって、建てられた、そう、まさに死の寺院だ!」

 死の寺院。その言葉が、ナルサワの脳天に突き刺さっていた。欠けていたパズルのピースが、ここに嵌まったかのような感触だった。

「僕らの犠牲を基盤にした、寺院ができて、さぞ狂喜したことだろう。まさに、死を基盤にした、死の象徴物なのだから。いったい誰が、そんなものを作れと命令した?天が、まさにブッタが、そのような命令を下したというのか?冗談じゃない。あのマスターと自称していた、あの狂った男の、これは思想なのだよ!その思想を具現化するために、たくさんの分子たちを必要とした。内部に、仏教徒の中に、その存在を多数見いだしたかったのだ。そういった要素のある人間を、見つけ出し、そして、その種子を育てていった。僕と君の中に潜んだ種には、最初から、大きな違いがあったのだ。その残酷性が、君の根元にはあった。その君の在り方と、呼応したのだよ!君はそういう人間だった」

「その、死の寺院」

 ナルサワは言葉を発していた。その言葉は、身動きのとれなかった体の強ばりを、見事に溶解していた。

「今は、どこにあるんだ?」

「おっと、そう来たか。今はどこにあるのかと。君が、君たちが、作った寺院が、今はどこにあるのかと。そう来た」

「答えろ」

「実に、逆説的な質問だね。死の寺院だぞ。決まってるじゃないか。死の入り口に決まっている。生から死へと移行する、その場所に立っているに決まっている。何を言ってるんだ!今ここにも、すでに立っているんだぞ。それはどこにも、行ってなどいない。どこかに、吹き飛んで、いってしまえるものではない!何故、僕が、そんな説明を君にしなければならないのだろう。君の創造物なんだぞ。しっかりしてくれ」

「いったい、何をしにきた?」

「君の質問は、いちいち、的を外している」

「答えろ。何故、まどろっこしいことをしている?アンディがどうだとか、リー・グループを狙うだとか、それを、僕に阻止しろだの」

「表向きの用件は、当然、必要さ。生きているのだもの。君は、生きているのだもの。この世界に、君は存在しているのだもの。当たり前じゃないか!何の用件もなしに、いったい何が言い表せるっていうんだ?いや、それでもね、ただの何の意味もない事柄では、決してない。もちろん、それも、意味があって、君自身が適任だと思って、指名した。その意味は、これからわかることだ。これから、そう、君が死んだ後でわかることだ。生きている時に、分かることなど、まるで、たいしたことではないのだから。死んだ後にしか、人間には、その本当の世界を理解することができない。君のその今いる場所から逸脱しない限りは。そして僕は、僕らはその世界を知っている。君を殺しに来たのだ!」

 ナルサワトウゴウの、身動きが許された体は、次の瞬間、全身に強い痙攣が走った。

 両手は何かを掴もうと宙を舞った。地面に倒れこんでいったようにも、思えた。

 ふと、クリスタルガーデンそのものの重力が、抜き取られたかのように、どこにも重みは感じなかった。肉体の輪郭が失われている。オフィスの輪郭も失われている。クリスタルガーデンの輪郭も、街の他の建物の輪郭も、全体の配置の図面も、その外側も、すべてが失われていくようだった。



 「加穂留」のカウンターには、二人の女が並んで座っている。

 関根ミランとリナ・サクライだった。カウンターの向こう側には、女将の加穂留が。三人三様。それぞれが、別の物思いに沈んでいるように見える。誰も口を開こうとはせず、視線さえ、特定の誰かに向けることはない。料理は出てこない。飲み物さえ出てこない。食事に来ていないことは明らかだ。店の扉の外には暖簾が掛けられていない。静まり返った店内に音はまるでない。

 少しの身動きさえ、誰もとらなかった。

 時間は、容赦なく経過していく。さらなる訪問者が現れるかのような、余韻だけが漂っている。しかし、誰も来る気配はない。この三人の女が、一同に介したことはなかった。加穂留と関根ミランは何度もある。関根ミランとリナ・サクライもある。リナと加穂留は初めてだった。互いに、名前と、簡単な人物像だけは、その男から聞かされていた。

 男は現れない。男だけが、この三人を結びつける唯一の人間なのだ。

 待つしかなかった。この場の中心がやって来るのを。

 中心なき店内は時間が発生していないかのように止まってしまっていた。生命が途絶えてしまっている。このまま誰も現れなければ、凍りついたままに、永遠に世界からは、閉ざされた場所になってしまいそうだ。

 その男じゃなくていいと、三人はどこかで、思い始めていたのかもしれない。そういった願いが、生まれ始めていたのかもしれなかった。新たに時を動かす、きっかけを求める以外に、することなど何もないように思えた。

 しかし、時は止まったままだった。誰の姿も、現れはしなかった。影さえ映ることはなかった。

 あの男は、唐突に、三人の前から姿を消したのだ。もう来ることはないのかもしれなかった。二度と会うこともないのかもしれなかった。たとえ会ったにしろ、以前のその男とは、違ってしまっているのかもしれなかった。同一視できないのかもしれなかった。

 三人はそれから、すべての可能性と共に、今に留まるしかなかった。

 誰一人、口を開こうとはしなかった。共通の話題もなかった。ただ、同じ男に関わりのあった、過去があるという以外に、何ひとつ通い合うものはなかった。女同士、分かり合えるものは、何もなかった。ふと、三人の中の誰かは、こう思ったのかもしれなかった。

 その渦中の男と、深い関係のあった三人の女が、こうして、男なき空間に鉢合わせていると。

 男は来ない。男を巡って、奪い合う仲であったのなら、その方がよっぽどよかったのにと。本人がいない中でも、ヤリ合うことができた。この静寂を激しく、切り裂き合うことができた。

 だが、三人は、留まるしかなかった。男の来ない、この時空の中に留まるしかなかった。

 どこにも行けずに、凍りついたままの現実を、受け入れるしかなかった。










































2048 2





















 その匂いは懐かしかった。茂みの中に潜んだその存在を感じることに、意識の全てを集中させていった。耳を澄ませ、その存在の感触を、奥の彼方へと感じとろうとする。

 次第にその存在のことなどは、気にならなくなり、匂いもまた、後方へと静かに消えていく。

 何かを除いては、全てが、感覚からは消えてなくなっていくようだった。人間の声も。人間の嬌声も。人の手の、侵入も。動きも。舌の使いも。ただ、暗闇は増していき、いつのまにか、子宮の中へとすっぽりと入ってしまったかのようだった。

 完全に包まれ抱かれている。静かだった。時間は過ぎていく。


 次第に、僅かだが、自身の輪郭を感じるようになっていった。実におぼろげで、あいまいだった。大きさはわからず、どこまでが、自らの体であるのかも、わからなかった。

 包んでいる闇のすべてが、自分そのもののような気がする。それでも、確実に、その外堀を感じた。限りはあるのだ。何の仕業なのだろう。おぼろげながらも、明確に、質量だけは感じるその物体に、それぞれの関節を繋ぎ止めていたネジのような存在を、ひとつひとつゆっくりと、外されていくようなのだ。一枚一枚衣服を脱がされていくように。

 優しく、そして、強固な意思を持って。ひとつひとつ。じょじょにじょじょに。緩んでいった。現れた朧気ながらの輪郭が、解体されていくようであった。


 関節の解体は、有機体がその後、同じ形状で存続することを、許しはしない。

 ひとつの箇所の解体は、その周りに巡らせた複雑な構成をも、同時に破壊していく。

 解体の連鎖は止まらない。おそらく、最初は、ひとつのネジが緩められ、外されたのだろう。それを皮切りに、始まったのだろう。ゆっくりと、じっくりとなどという、言葉は似合わぬほどに、この有機体の構造は、ものすごい速度での崩壊が進んでいた。

 しかし、にもかかわらず、こうして安心と解放感に満ちているのは、いったい何故なのだろう。自分が、自分でなくなっていくのに・・・。それまでの自分の形としては、もう二度と、光の元には出ていけないのに・・・。闇の中で、その幸福な解体劇は進んでいく。もうすぐ出口はやってくる。気分は緩やかだったが、時間の経過は急速だ。

 もうすぐ、光はやってくる。

 闇の世界に、残ることは許されない。真の闇ではないのだ。

 そして、光りもまた、そうだった。真の光が迎えに来たわけではない。

 それは、遮られる事を、繰り返された末に届いた、僅かな木漏れ日なのだ。

『真の闇を知ることなしには、その光の本源を、知ることもない』

 光りの本源に出ていける道筋は、どこにもない。


 それにしても、この安らぎは何なのだろう。

 ほんの一瞬のことではあるが、これまで感じたことのない感覚だ。何かが、これまでとは違った。何かが、近づいてきていた。迫ってきていた。それが分かる。今はまだ、真なる光ではない。それでも今は仕方がない。戻らなければ。自分がいったい誰なのか。どんな生涯を送っているのか。今何をしているのか。それさえ見失っているのだ。しかし、その、真ならざる光りは、教えてくれることだろう。

 今現在の、とりあえずの自分という存在に関しては。



 微睡みからの意識の覚醒は、二人とも、全くの同時刻だった。

「何時?昼?夜?何日?何月の?何年の?」

 寝ぼけたままの二人は、その後も、しばらくのあいだ、互いの名前すら思い出すことができなかった。

 しかし、十分も過ぎれば、否が応でも、その存在へと戻らざるを得ない。

 あまりに久しぶりに会って、部屋で過ごしたため、その行為の後には、ほとんど半日ほどは深い眠りについてしまうのだ。


 D・S・ルネと関根ミランは、自分を取り戻した。

 目覚める直前には、もしかしたら、互いに別の身体において目覚める可能性もあったのではないかと、思うほどに自分を失っていた。実に長い時間に及ぶ行為だった。

 途中から、互いにこの状況を見失っていたのだ。それが、前戯の途中だったのか結合した後だったのか。今となっては、特定することができない。行為の果てと、その後のまどろみの境目の記憶も、ほとんどなくなっているのだ。

 同じ会社に所属していた二人は、いつのまにか、付き合うようになっていた。同じ部署ではなかったため、仕事で顔を付き合わすことは、ほとんどなかった。事務的なやりとりさえなかった。

 二人は、仕事とは関係のない場所で出会い、所属先が一緒であることを偶然に知った。

「黙ってて、悪かったな」

 D・Sルネは、何も身につけていない身体を関根に寄せ、耳元でささやくように言った。

 関根は何のことだか分からなかった。

「直前の仕事だよ」ルネの言葉に、関根はピンとくるものがなかった。

「直前?」

「ここに来る、直前の」

「私の?」

「そう」

「うまく、思い出せない。思い出したくないのかも」と言った瞬間、全てのことが、激しく甦ってきた。

 上半身を起こし、隣の男の顔を、見下ろす形となった。

「何を黙っていたの?何か知ってるの?今度のことで?私には、何が起こったのかわからなくて、パニックを起こしていたの。ひどく、うちひしがれていて。残されたのは、三人の女。来るはずだった、一人の男を待って。待って、待って。それでも、来ることはなかった・・・。その二時間後。私は、ニュースで知った・・・。その男、ナルサワトウゴウが失踪したことを。そして、その現場には、大量の血痕が残されていて、医師の見解では、致死量に達していて、生きている見込みはない、ということを。ナルサワの遺体はなかった。移動させられていた。遺棄されたのか。まだ、どこかに放置してあるのか。丁重に隠されているのかわからない。そういった報道があって、それで、さらに、打ちのめされてしまった・・・。女三人で、居ることに耐えられなくて。それで。それで、あなたに連絡を。家にいって。・・・こんなことになっている。どうしてそんなことを言うの?私、とても気持ちよかったのよ。何もかも、忘れられていたのに。どうして、そんなことを言うの?それは、本当なの?それに、何を知ってるっていうの。私と同じで、ただ、ニュースで知っただけなのよね?ねえ。それだけよね?それ以上のことは、何も知らないのよね?あなたはシュルビス初のことを調べていて・・・。そういえば、シュルビス初・・・」

 熱に浮かされたようにしゃべる関根の口調が、急に停止してしまう。

「そうだ。シュルビスは、指名手配された。ナルサワ殺しの犯人として。断定された」

「そんなに早く?」

「もう、警察は、全てを掴んでいる」

 関根ミランは、ベッドからすぐに、出ていこうとした。

 ルネは、腕を強く掴んで、押し戻した。

「もう全ては、終わったんだ。君の仕事も終わったんだ。何もすることはないんだ。ゆっくりしよう、今日は。まだ、疲れは残っている。今日は、力を抜き取るための日だ。互いにとって。僕だってそうだ」

 関根ミランは、D・Sルネを睨むように、見つめる。

 瞳の奥に、照準を合わせるかのごとく。

「何を知ってるの」彼女は訊いた。

「私の知らない何をあなたは知っていたの」

「落ち着けよ」

「落ち着いているわよ!」

「長い話になるんだ」

「言いなさい!」

「そういう体勢はどうだろう。今にも服を着て部屋の外に出ていってしまう感じがする」

「こんなの、裸で聞けるかしら」

「いいから、落ち着くんだ!ちゃんと説明するから!全部、話終わってから反応してくれ。それを約束してくれ。途中で、家を飛び出したりしないと」

 落ち着きのない子供を説得するように、D・Sルネは、恋人に言い聞かせる。

「いいか。これから話すことを聞いて、本当に騒ぐなよ。まず、犯人は、シュルビス初ではない。シュルビス初なんて奴は、そもそもいない。そんな人間などいない。それが第一だ。架空の犯人だ。その架空な人間は、さも、これまで存在してきたかのように、この世の中で動き回ってきた。シュルビス初だけじゃない。他にも、そういった駒は、おどろくほどにたくさん居る。いつ、身代わりが必要になるかわかったものじゃないからな。金持ちの多くは、そういった存在を持っているとも言われている。あるいは、そちらには、俺は詳しくないが、斡旋する業者があるのだろう。ビジネスだ。情報ビジネスだ。これまで、どれほどそういった犯罪が、行われてきたのかは知らない。しかし、俺の身近で起こったのは、初めてのことだった。俺も少々は動揺している。しかし、今、一人で騒ぎ立てたって何の効果もない。それは、巧みに仕組まれているゲームだとも言える。入念に、それこそ、時間も資金もエネルギーも、知恵も技術も、膨大に注ぎ込んできたゲームに、違いない。昨日今日、知った人間が、それに、太刀打ちできる相手じゃない。お前にも、そのことをまずは言っておく。だから、騒ぎ立てるなと言った。騒ぎ立てるにしても、入念な準備と、野性的な勘が、必要だということだ。わかったな」

 関根ミランは、何度か小さく頷いた。理解したようだった。

「で、その真犯人を、俺は知ってしまったんだ。それは、アンディだ。アンディ・リーなんだ」

 関根は、悲鳴を上げそうになるのを、その直前でぎりぎり抑えた。

「アンディが仕掛けた、罠だったんだ!目的は、実にくだらないことさ。仕事とは、何の関係もない。女だ!欲しい女が、彼にはできた。その女を得たいがために、わざわざこんなことを。大の大人が、一人の女のために人殺しなど。信じられるか?それも、女にはまるで、不自由していない人間なのに。リナ・サクライだよ!あの女が目的だった」

 関根は、もうこれまで、散々悲鳴を絞りきって、吐き出した後のような感覚があった。

 はやくも、これ以上は、何も内側からは出てこないかのように。干からびきっている自分に気づいた。

「リナ・サクライ。そう。ナルサワトウゴウの秘書だ。その女を、アンディは、自分の秘書にしようと考えた。自分の愛人にしようとしたわけではない。秘書だ。だから、話はこうなってしまったのかもしれない。秘書としての彼女が欲しかった。いずれ愛人関係になるのか。そういう関係にもっていこうとしてるのか。それはわからない。しかし、現時点では、ただの秘書として迎えたいという話だ。だが、俺にはずいぶんと、理解できない話でね。それで、雇い主だったナルサワを殺して、自分のところに引っ張るだって?そんな話、聞いたこともない。ナルサワが失踪した今、リナに転職の誘いがあるとも考えにくい。タイミング的には、ありえない。了承するとも思えない。ところが、調べてみると、そのリナ・サクライの移籍は決まっている」

「リナが認めてるの?」

 関根が訊く。

「リナの居場所は、わからない」

「じゃあ、どうして」

「もう、リー・グループの、一員としての登録がある。その役職もまさに、秘書だ」

「そんな」

「スカウトに成功したんだな」

「そんなことはありえない。ついさっきまで、私たちは一緒に居たんだから。知ってるでしょ?加穂留って店で、その女将と三人で。無言で。ナルサワトウゴウの来店を、待っていた。そのとき、差し込まれてきた緊急ニュースだった。リナにいつ、オファーを出して、しかも、いつ説得して、合意に持っていったっていうのよ」

「それで、俺も、さらに調べる羽目になった」

「それも、いつ」

「君と会う直前だ」

「私は、何も知らなかった」

「だから、黙っててすまないと、言った」

「あんまりじゃないの。私たち命がけで、今度の案件にも、挑んでいた。それが、全部、虚構だったなんて。茶番だったなんて。どうして何も、言ってくれなかったの」

 関根は、そう言った傍から、そんなことは愚問であることに気づいて、赤面しそうになった。

「どうも、事前に、リナの移籍は、決まっていたようなんだな」

「ちょっと、よくわからないわね」

「俺だって、何が何なのかわからない。順番がまるでめちゃくちゃだ」

「そうよね」

「ただ、事実だけを言うしかない」

「続けて」

「リナが、アンディの秘書として働くのは、時間の問題だ。そのことはまた、そのときに考えることにしよう」

「そうね。私も、個人的に会えるツテはあるし。で、どうして、あなたは、アンディが首謀者だと知ったの?」

「ラファエル・リーさ」

「聞いたことのある名前」

「アンディの異母兄弟さ。彼も、リー・グループの一員だ。幹部だ。重要なポストについている。詳しいことはまだ、腹を据えて調べてみないと。君とデートする前には、とても間に合わなかった。長い休息になることも知ってたしな」

「そうね。その時間だけは、その約束だけは、私も譲れない」

「もちろん」

「ラファエル・リーという人間から、偶然、聞いた」

「偶然かどうかは、わからない。意図が働いていたのかもしれない。ラファエル・リーの部屋の前の、廊下を通っているときに、聞こえてきた声がきっけだった」

「わざと、あなたに、聞かせたかもしれないって、ことね」

「思惑はわからない。その後に、調べた事というのは、俺個人であるし、ラファエル氏との接触もない。それに、部屋の前にある廊下といっても、もちろん、物理的な状況を言ってるわけじゃない。バーチャル空間における話だ」

「ナルサワトウゴウの遺体は?」

「わからんよ」

「今後の、事件の展開は?」

「何もわからない。そもそもな」D・Sルネは言う。「俺の調べたことが、事実であると確信もできていない。精査が圧倒的に足らない。嘘を掴まされているのかもしれないし。何も確定はできない。そもそもこの俺が、虚偽を語っている可能性だってあるんだぜ」

 そう言って、ルネは、笑った。



 恋人との大事な休息を終えて、関根ミランは、D・Sルネのマンションを離れた。

 昼の十二時をちょうど回ったところだった。関根はカフェに入り、チーズとベーコン、オニオンのたっぷり入ったベーグルと、オレンジジュースを注文した。この二十四時間あまりの展開に、今だ心も体もついてきてはいなかった。ここで一人立ち止まることなしには、日々は流れていかないような感じだった。

 これ以上、恋人と過ごすことも限界だった。今度の一件以外のすべては、この一夜で綺麗に浄化された。それは気分がよかった。しかし、それが余計に、この一件を今は際立たせることに一役かっていた。関根の動揺は、思ったよりも根深く、オレンジジュースをグラスごと倒してベーグルにかけてしまった。店員がすぐに気づき、テーブルを拭きにやって来る始末だった。飲み物は作り直してもらったが、さすがにベーグルの方はそのままであった。オレンジ味の奇妙な甘さの加わった、湿った小麦粉の固まりになってしまった。無感動に、口に運んでいくしかなかった。

 誰にどんな相談をしたらいいのか。自分の中にとどめておくことなどできそうになかった。かといって、今は、誰とも会いたくはなかった。仕事もしたくはなかった。職場に復帰するまでは、あと半日ある。気晴らしに、友人を誘って遊ぶ気にもなれない。一人で映画を見る気分にもなれない。美術館といった感じでもない。関根は食事後も、ただぼおっと、席に座ったまま何もせずに、隣に座ったカップルの話にも上の空で、いったい何組もの客が入れ替わったのかも、分からなくなっていた。ネットを見る気にもなれず、ゲームをする気にもなれず、鞄の中の本も、当然開く気にはなれなかった。

 魂の抜かれた廃人のように、閉店まで、そのまま店に置き去りにされるかのごとく、座っているのであろう。店が終わっても、何故か店員に退出を促されずに、そのまま放っておかれるような気がした。そこで、はっと意識を取り戻した。午後二時半に店を後にした。

 ウィンドショッピングをしている感じを装い歩いた。歩く速度がよっぽど遅かったのだろう。とにかく、あらゆる服屋の店員に、声をかけられ、店の中に入るよう促された。さらには、二人組の男にナンパのごとく声をかけられた。関根はとにかく、同世代の異性にモテた。何故か年上の男、年下の男には、それほど人気がなかった。自分と、五歳程度、前後の男に、とにかくモテまくっていた。関根は、ルネと付き合ってからは、どんな男にも反応しなくなっていた。男など、ルネ一人で十分であった。

 ふと、やることが、心の中から浮かんできていた。

 すぐに家へと進路を向け、慌ただしく部屋へと入り、片付けを始めた。整理するためというよりは、捨てるためだった。ほとんどの所有物を、何故か、処分したい衝動にかられたのだ。とにかく、捨ててしまいたいと。関根は、他の人間よりも、特に物が多い家ではなかったが、何故か急に、窒息してしまいそうな感覚が走った。突然、仕舞い支度をしたくなったのだ。どこから、この衝動が来るのかは謎だった。突き詰めて遡れば、その要因は、つかめるかもしれない。しかし、今は、そんな面倒なことをするよりも、てきぱきと体を動かしていくほうが先だった。衣類から、コンピューター機器。配線の数々。手紙や領収書の束。本やCDなど。腹筋の小さなマシーンや、筋力アップのための小物。テニスのラケットなど、今後二度と使わないであろう物を、選び取ろうと始めた作業だった。所有物のほとんどが、それに該当するような気がした。ほとんどゴミの中で私は暮らしているのだと自覚してきた。そして、スマートフォンの中の、がらくたな情報群もまた、消去し始めた。

 今を生きるために、そして、今日を生きるのに、支障のないものだけを、残すことに焦点を当てた。それ以外のものは、どうでもよかった。すべてを破棄するべきだった。

 こんなにも、不必要な物たちで、私は窒息していたのだ。

 寿命を容赦なく、食い物にしていく、これらのガラクタは、いち早く、目に届くところから消し去らなければならない。

 ふと、D・Sルネと付き合った当初の感覚と、ダブってきていることを知った。あのとき、私は、不必要な男たちを、男の大群を、その過去から可能性のある未来にまで、一気に捨て去っていったのだ。排除していったのだ。今、そのように回想していた。シンプルな異性関係は、その後、二人の関係を深化させていき、ある種の充実した精神が結実してきてもいた。分散されないエネルギーが、生きていく上での悩みや苦しみ、不安や余計な心配事を、圧倒的に減らしていた。

 あるべき姿に、その浪費されなくなったエネルギーが、自然と結実していくようでもあった。

 関根ミランの部屋は、あっというまに風通しがよくなった。そして、今度の件においても、余計な事を考えずにすんだ。このまま通過させてしまえばいいのだ。そもそもが、深い意味などないのだから。ただ通過させてしまえばいい。私自身が、余計な障害物になってはいけない。これまでもそうだった。

 物事の分岐点に来たときには、いつだってそうだった。身を引く。この身を引くのだ。私はそうやって、生きてきた。大事な局面においても、動揺せずに、ただそのことだけをしていけばいい。

 D・Sルネの、アンディに対して貸しを作っておくことにしたのだという言葉が、甦ってきたことにも、特に気にすることはせず、淡々と身辺整理を続けていった。




 リナ・サクライは、オフィスの入っているクリスタルガーデン東京に向かうことなく、直接、グリフェニクス本社ビルに向かって歩いていた。リナ専用のスペースクラフトは、すでに購入済みだったが、まだ実際に使用したことはなかった。すでに、自宅には届いていたが、未開封だった。未開封の場合は、家の中に無障害で、そのまま置いておくことができた。この眼で、その姿を見たことがなかったのだった。リナ・サクライは、新しい就職先へと、訪問しなければならなかった。

 雇用主の、突然の失踪。遺体ではまだ、発見されていないものの、状況からは、限りなく生きてはいないことが証明されていて、はやくもリナは、オフィスの閉鎖を選択せざるをえなかった。一日伸ばせば、そのあまりに高い賃貸料が、差し引かれていく。リナの生活にも直接影響が出てくる。一日単位での契約であったことを、このとき初めて知った。秘書として、何も把握してなかった自分に、恥ずかしさを感じた。

 ナルサワトウゴウは、リナの再就職先の道筋を、本当に準備してくれていた。連絡が来るとは、驚きだった。トウゴウの身に何かあった時には、すぐに連絡をするという算段が、彼の生前、取り決められていたらしかった。

 ナルサワは、自らの行く末について、不穏な予告めいたものをリナにしていた。

 リナは本気ではとっていなかったが、こうしてみると、彼には何か、その後のことが見えていたのかもしれないなと思うようになった。ナルサワトウゴウは、自分のことがよくわかっていた。リナはそう思った。そして、そのトウゴウが用意してくれた道に、素直に従う他はなかった。

 グリフェニクス本社は、これまで生きてきた中では見たこともないほどの大きな建物であった。こんなものが、同じ街に存在していたのかと、驚きを通り越して、リナにほほとんど、信じることができなかった。たとえようもなかった。全体を一瞥することなど、到底不可能なように思える。上空高く、それも、相当高くに舞い上がっていかなければ、その外側の輪郭が、まるで明瞭になることはないのだ。本当に信じられなかった。指定されたその場所に降り立った瞬間、建物が突如、目の前に現れたかのような錯覚がした。そして、建物の存在を認識した瞬間、その外堀は確認できないほどの広さと奥行きを表現していた。

 入り口と思しきドアが自動で開き、リナはその内部へと入り込んだ。

 空気が一変した。

 ここまで、身体が快適だと感じる温度、湿度、清涼さが、他にあるだろうかと思った。繊細さが均一に広がる空間が、現実にあるだろうかと。人工の極みだと、リナは思った。微風さえ感じない。質感に、ムラが全く感じられない。そして静けさ。人の話し声さえ、聞こえてはこない。物音もしない。うっすらと、霧がかかったような場所だ。朝靄の中に、放り込まれたようだった。植物の姿はない。何か、物が置かれている様子もない。だだっぴろい空間に、置いてきぼりをくらった子供のような気にさせられた。方向もわからない。そして、あまりに快適だった。

「リナ・サクライさんですね。伺っております。こちらです」

 朝靄の中から、若い女性の声が聞こえ、スーツを着た細身の女性が、うっすらとデスクのようなものと共に、その姿を露わにする。

「どうぞ。そのまま、気を楽にしていてください」

 朝靄が、急に晴れたかと思うと、オフィスの中にいつのまにか居た。

 昨日まで働いていたナルサワのオフィスと、瓜二つであった。

「どうぞどうぞ。驚いてらっしゃいますね。これ以上、不安な気持ちを与えては、と思いまして、オフィスは、馴染みのあるものにしました。慣れてくるにつれて、また仕様を変えていったらいいと思います。アンディです。グリフェニクス社会長の、アンディ・リーと申します」

 右手を差し出してくる紳士の存在があった。

 夢心地の中、リナ・サクライは身に付いた所作が、自然と出てきたかのように、丁寧に一礼をし、やはり右手を差し出した。

 アンディ・リーは、その結ばれた手の上に、さらに左手を乗せてきた。あったかい手だなと、リナは思った。身体の内部に、その熱が一瞬、飛び火してきたような気がした。溝の奥が打たれたような気がした。

「状況があまり飲み込めていなくて、申し訳ありません」

 リナ・サクライは、正直に言う。

「突然で、驚かれたでしょう。まだ決まったわけではありませんが、非常に残念なことです。あなたの心の動揺も計り知れません。しかし、ナルサワトウゴウ氏からは、生前、頼まれていることがあるのです。あなたを、宜しくと。自分の身にもしものことがあったら、彼女の面倒を見てくれと、私たちは約束をし合っていたのです。そして、前職の内容をそのまま、引き継ぐことにもなっております。あなたは、何の心配もする必要はありません。秘書として、ナルサワ氏の元でやっていたように、私の元でもなさってくれれば、それでかまわないのです」

 リナ・サクライは、どう答えていいのかわからなかった。

「何も、今からすぐに働いてくれだなんて、そんなことを申す気はありません。あなたには時間が必要だ。だいぶん必要だ。心が、それなりに整理されるまで。現実に起きた出来事を受け入れる時間が。隙間が。空間が。けれども、これだけは、認識しておいてください。あなたには、今後の不安は、何もないということ。ナルサワ君が、責任を持って、私と約束することで、こういった保証が、存在しているということを。あなたは、将来を案じて取り乱す必要など、まったくないということを。どうかそれを、心にとめておいてほしいのです。今日は、直接、そのことを言う必要があった。直接、あなたの目を見て、直接、あなたの手に触れて、伝えておく必要があった。あなたは自宅で休んでいてください。あなたの体調が戻り次第、連絡をください。あなたのための場所は、すでに用意されているのですから。あなたが自分自身を取り戻した、その時に、出社してください。そのとき、仕事の内容のこと。他にも知っておくべき様々な予備知識のことなども、お話しします。では、ゆっくりとなさってください。私はひとまずこれで」

 こうして、アンディ・リーとの最初の面会は、終わった。



「あなたが、加穂留さんですね。ここに、あなたの店はあった。今はカフェ・ラスコに変わってしまった。あなたは、店を手放した。まだ未練がおありですか?」

 加穂留は、ほとんど毎日のように、ここを訪れていた。

 まるでナルサワが亡くなった場所がここであったかのように。献花に来ているかのように。その声の主を見た。老人だった。顎髭の伸びきったその男の眼は、実に優しかった。

 思わず、その男の胸に身を預けてしまいそうになった。私には、すべて分かっていると、伝えてきているかのようであった。加穂留はそう思った。

 ここに、そ私の親友は、来るはずだったのです。これからだって、何度、来たことでしょう。私たちは、大事な信頼のできる、人間同士でした。互いに、別々の事をしていながらも、いつも繋がっていました。わかりあっていました。何を言わなくても、相手の状況と心情が、自分のことのようにわかるのです。そんな相手は、彼一人しかいなかった。

 恋人でも家族でもなかった。一時は、そういった関係の時も、ありました。しかし、誰も名前のつけられない、ただの一人の人間と、一人の人間であること以上に、私たちにとって、最適な関係などありませんでした。何者でもない二人で、あり続けていこうと、無言で約束し合っていたのです。まさか、こんな形で別れが来るとは思いませんでした。もちろん、彼の遺体はまだ、出てきていません。どういった経緯で、亡くなったのか。事件に巻き込まれて殺されてしまったのか。それとも、計画的に殺されたのか。身代わりなのか。それとも、自ら?身体の寿命が、突然、やってきたのか。私には何もわかりません。

 加穂留は、心の中で呟いた。老人に伝わるはずもないのに。

「あなたに、伝えることがあって、来ました」

 老人は言った。

 不思議と、実の祖父であるような安心感に、包まれた。

 私には、祖父がいなかったなと、加穂留はあらためて思った。

 生まれた時には、すでに、二人ともいなかった。祖母さえいなかった。

「ナルサワトウゴウさんは、確かに、お亡くなりになりました」

 老人は、表情ひとつ変えずに、そして、その慈悲に満ちた眼差しは、さらに色濃くなっていくようだった。

「私は、ナルサワトウゴウさんの運命を、知っていました。そして、ナルサワさんに、だいぶん前から目を付けてもいました。ナルサワさんは、ある人物に、殺されることになっていたのです。本当です。その殺す人物。彼もまた、その直前までは、自分でも自覚していなかったようです。ほとんど、衝動的に決意をして、そして、実行に移してしまいました。彼は自身の手を汚さず、殺し屋のような存在を雇って、命令したのです。ここに登場する、すべての人物は、ただ、その出来事が起きることにおいて、当てはめられたパズルのピースのような存在でありました。誰もが、強い自覚をもって行ったことではないのです。うっすらと、ほとんど、蜃気楼くらいの予感しか、勘の鋭いナルサワトウゴウさんも、受け取ることができなかった。当事者以外の、周りの人たちは、あなたのように、ただ、突然の事態に呆然とするか、うろたえることしかできませんでした」

 誰なのだろうと、加穂留は思う。私の何をどこまで、知っているのだろうと思う。

 店を持っていたことも知っていて、ナルサワトウゴウとの関係も知っている。

 深い心理の奥に関する、彼との繋がりのことも、当然のごとく把握しているのだろうか。やはり、かつて生きていた祖父のような気がしてならない。ずっと天から見守り続けてきた、祖父のような気がしてならない。そうなんですよねと、加穂留は呟き続ける。

「私は何者でもありません。あなたに伝えるメッセージを持ってきた、通りすがりの存在です。ナルサワトウゴウさんに関する。そうです。今後、トウゴウさんに関する情報が、次々と現れ出てくるはずです。事件として扱われ、そして殺人事件としての捜査。報道がなされていくはずです。憶測が憶測を呼び、陰謀が陰謀を喧伝していき、謎と不審と疑惑と不可解、怨念、嫉妬、飛び火、様々なこの世の騒動を巻き起こして、伝播していくでしょう。あなたは、巻き込まれてはいけない。ただ、超然とやり過ごしていく必要がある。そんなものに囚われてはいけない。どれも真実ではない。それらに、あなたの身を売ってはいけない。気をしっかりと持つべきです。それは、こういうことです。あなたの元に舞い込んでくるものというのは、そのすべてが、虚偽だということです。あなたの耳に入ってくる言葉。眼に入ってくる情報。すべては、歪んだ実体なき、黒い雲なのです。

 それがただ、今度の出来事を発端に、その無関係な浮遊物、過去の残留物としての、感情、思考、記憶などが、引き付けられて、地上を舞っているだけなのです。

 それに対して、あなたは無関心を貫くべきなのです。そして、真実というのは、いつもそこにあります。どこにも、行くことがないことを、自覚することです。すでにあるし、いつでもそこにあるのです。決して動こうとはしないし、覆い隠せるものでもない。ただそこに在る。いつだって。ただし、あなたがその、無意味で無関係な黒い雲の襲来に、惑わされなければ。そう。あなたは、気を確かにしておかなければなりません。そのことを伝えにきたのです。誰かがあなたに伝えるべきだった。そして、これだけは、知っておいてくたさい。ナルサワトウゴウさんは死にましたが、彼の存在は、今も、この地上に残っています。たとえて言うなら、私どもが、預かっているからなのです。これは起こることが、わかっていた出来事を、私どももまた、絶好の機会として使用することにしたからです。利用ではありません。ナルサワトウゴウさんの遺体を、利用するとか、そういうことでは決してありません。そのタイミングで、私どもも、その場に居合わせる運命だったともいえます。あの夜、ナルサワトウゴウさんの元には、つまりは、彼のオフィスのあるクリスタルガーデン東京には、彼の帰還に合わせて、彼を殺す人間、彼の死をその直前で移動させる、私どもの勢力が、実に鉢合わせすることになっていたのです。ナルサワトウゴウさんは、予定通りに、その男に身体を刺されました。大量の血液が流れ出ました。その事実は消えません。そして、事前に回避することもできなかった。それは起こるべくして起こることだった。その出来事が、起こらなければならない、長い因果の列があった。ですから、それは、清算されなければならなかった。しかし、それが起こった直後、それからのことは、何も決まってはいなかった。私どもは、ナルサワトウゴウさんを、そのわずかな瞬間に、持ち去りました。殺人を犯した人間が、遺棄したわけではないのです。彼自身も、遺体が発見されていないことに、驚いているのではないでしょうか。そんな覚えなどないのだから。しかし、結果としては都合がよくなった。物的証拠は、どこからも出てくることはない。完全犯罪のようなものです。そして、この事件は未来永劫、解決されないことが、決定づけられている。地上的な意味での解決は、決してなされない。誰による、何のための殺害であって、誰が逮捕され、どんな動機があったのかということ。何も解明されることはないのです。世間ではしばらくはもてはやされますが、時間の問題です。誰も気にはしなくなる。そして、捜査もまた、ほとんどなされなくなります。消滅していく運命なのです。そこに、エネルギーが、残ってはいないからです。誰をも、引き付ける、エネルギーの思念が、そこにはなくなるからです。ただ、急速に、朽ちていくだけなのです。エネルギーごと、私どもが、持っていってしまったからなのです。脱け殻しかそこにはない。実態はそっくりと移動させたのですから。この場合は、移行と言っても、差し支えない。綺麗に、地上からは移行してしまったのです。ナルサワトウゴウさんは、そういった意味では、今はどこにもいないのです。ただし、存在が消滅したわけではない。ナルサワトウゴウさんは、再び、この地上へと、戻ります。それまでとは異なる様相を、呈しているとは思われます。しかし、それは、トウゴウさんです。私どもは、来たる時に、適切な形で、この地上世界に、彼をお返しする用意があるのです。なので、決して悲しまないでください。その必要はないのですから。ナルサワさんを、あなたは今後、確実に、目にするはずです。それだけが伝言の全てです。私は戻ります。お気を確かに」

 隣に居たはずの老人は、どこにも居なかった。ただの夢見であったかのように。

 加穂留はぼんやりと、霞んだままの視界に、あらためて気をしっかり持たなければと思い直した。



 坂崎エルマは、友人の作家の本を、今日も自宅からはずいぶんと離れたカフェで、真剣に読みこんでいた。同じカフェで長い時間、しかも、何週間も過ごしては、店員に顔を覚えられてしまう。自宅近くのカフェなら尚更だ。緊急用で使うときのために、できるだけ行かずに避け続けていた。ほどよく遠くに。そして一週間以上は、通わないことだった。たとえ覚えられても、それ以上、出没しなければ、私の姿は記憶の彼方へと消えてしまう。

 ターゲットにする人物は決めた。今はのんびりと、怒濤のごとく、出来事が連鎖していく期間に向けて、できるかぎり、意識を別のところにもっていきながらの日々だった。

 友人の二人をエルマは失っていた。警部の男は、過労が祟ったのか。突然死し、作家の男もまた、こちらは自害という形の突然死を、引き起こして、エルマの前から姿を消していた。三人で食事をしたのがいつだったか、思い出せないほどに、誰かがいつも欠けた会合に、ここのところは、なってしまっていた。そして、ついに、全員が揃うことなく、友情は潰えてしまった。家族も、今は誰もいない。恋人もいない。エルマは男であっても女であっても、恋愛対象は自由だった。これほど選択肢が無数にあるにもかかわらず、誰ひとりとして、生活を共にする人間はいなかった。普通に働くことも向いてはいなかった。組織に属することなど、死んでもできなかった。娼婦のようなことを続け、友人の警部と知り合った頃からは、ホステスとして働いた。カジノに出入りしていた。しかし、そのカジノも今は摘発され、軌道に乗り出した仕事もまた、あっというまに雲散してしまった。泡銭と同じだった。

 エルマは、友人の作家について、この点でも、尊敬の念を感じ続けていた。あのような結末になってしまったのは、残念だったが、何も批判する気にはなれなかった。彼が決めたことなら、それも仕方のないことだった。死んでも、こうして本はちゃんと生き残っている。エルマは、彼の生前の時から、もっと読んでおけばよかったなと後悔していた。そうすれば、彼とも、深い話ができたのかもしれなかった。ただの飲み仲間ではない・・・、そうしていたら、彼は死ぬことなんて・・・。それは考えすぎだったが、それでも、誰かと分かり合えていたらと、考えない日はなかった。彼はこうして、著作物にしか、本当の意味でコミュニケーションが取れてなかったのだ。生身の人間とは、ある一線を越えた交流が持てなかったのだ。でももし取れていたとしたら。取れる人物が身近にいたとしたら。もちろん、この自分が取れていたとは思わない。でも、可能性はゼロではなかったはずだ。何かの力になれたかもしれなかった。その後悔の想いが、今こうして、したこともない読書に、空いている時間のすべてを向かわせているのかもしれなかった。はじめて、自分がこの地上において、ひとりでいることを自覚したのだ。誰かと分かり合えるなんていう発想が、いかに陳腐で、非現実的であったか。人は皆ひとりだった。そのひとりを、いかに深めていけるかどうか。そこにしか、真実はないことに気づいていった。読書は、自分がひとりであることを自覚する入り口にはなっていた。しかし、読書そのものは、本質的にはどこにも行き着かないことを、エルマは数日で見抜いていた。これはただのきっかけにしかすぎない。本にのめり込むこともまた、真実からは逸れていく大きな要因になることを感じていた。本を読んでいるその時間を、ひとりだと勘違いしてはいけない。ひとりが深まっていっていると、勘違いしてはいけない。友人の作家の死は、そのことを私に警告しているのではないかとさえ思えてきた。史実家というペンネームで、彼は本を出していた。あの男は、私をある種、生きているときから導いていたのだ。そして、死後に渡っても。そのあとも、ずっと。ただ、そのために。私のために彼は生き、死んでいったのではないか。私のために、存在の全てをかけて。完全なる思い込みではあったが、今はそう思うことで、彼との距離を何とかとっていけるようであった。そして、こうも思った。私は彼のようにはなれないのだと。彼のように、世の中に、その後も残るような本を書くことなどできない。書き残すこともできない。長期に渡って、人に影響を与えるような事は、おそらく何もできない。別に悲しくも残念にも思うことはなかった。それはただの事実だった。そのことが逆に、基点にもなった。今この瞬間にだけ、爆発的な情報を、そこに炸裂させる。後には残らない。何も残らせない。何一つ残らなくていい。卑下することじゃない。それはある種の特権だ。何かを残すことなく、発生させられる。それは、最大の利点であり、長所だ。その特性を、生かすべきだ。何も残らないからこそ、意義があることもある。最大の影響力がある。そのときは、漠然とした衝動であり、今でも明瞭になってはいなかったが、それでも、方向性は見えてきた。ぼんやりとしたコンセプトの片鱗は現れていた。一歩目は、すでに踏んだ。何歩も踏んだ。芸能人と有名元スポーツ選手のスキャンダルを掴み、その情報を週刊誌に売った。小手試しだった。

 エルマは、無数の芸能記者とは決定的な差別化を図ることを目的とした。何度も、繰り返されてきた金と女、権力、トラブル、様々なゴミのような、くだらないネタのために、参戦する気にはなれなかった。かといって、文学的で、芸術的で、美的で、文化的で、歴史的なものにも、当然なりえることはなかった。私独自の道が必要だった。それは、作り出すものではなかった。見つけるものでもなかった。最初からここにあるものだった。意識の変容だった。

 意識の変容に、寄与するもの。

 人の意識を、その一瞬で、別ものに変えてしまえるようなこと。

 ただそのことだけを、コンセプトに掲げた。



~わたしは、秘密教団を立ち上げることを、今は焦点の一つにしたのだ。

 組織を構築することを嫌う私が、どうして、そのようなことを言うのか。不思議ではないかね。訊いておくべきことは、全て訊いておくものだ。あとからでは遅い。けれども、おそらく、君は、何の質問もすることはできないだろう。沸いてくるその疑問は、次の瞬間、私の言葉の中に、その回答を見るであろうから。教団というが、決して、人間の集団組織ではない。人を大勢引き寄せて、群衆化していくことほど、醜いものはない。その逆だ。

 人と人を切り離させていく。人がひとり在ることのできるような環境に、知らず知らずに導いていく。それが、私の指す秘密教団の姿だ。その教団は、もちろん、目には見えない。しかし、確かにある。どこにあるのか。いい質問だ。どこにあるのか。こう答えておこうか。どこにでもあるのだと。その存在はどこにでもあるのだと。背後には必ず、その存在がある。困った解答だ。でも、これは、事実なのだよ。しかし、最初から、あったものではなかった。確かに、そういった意味では、人工物だ。この街、この文明自体が、人工物の極みだ。その中に、その背後に、居を構えるということは、それに対応していかなければならないということだ。これは致し方のないことだ。この世界に生まれてきてしまったのだ。生き抜く以外にない。ならば、どうするか。この人工物の森を、逆手に取っていく以外にない。すでにあるものの背後に回る以外に、方法はない!背後をとるんだ。なぜなら、背後には、何もないからだ。強固なストラクチャーなど、この世に現存する物、あるいは、人もそうだが、そういったものは何もないのだ!

 いくらでも消去できるし、いくらでも、そのまま生かして、背後に入り込むことはできる。そもそも~


 インタビューは、途切れることなく続いた。


~そもそも、私の、我々の、存在する意義というものを、君に教えよう。

 それはね、自己の解体だ。君にも、君の自己というものがある。それがなければ、この生きている世界を、認識することがそもそもできない。自己を通じてしか、周囲の物事を解釈することはできない。しかしだ。この自己は、強烈な偏見の元に、その存在が許されている。つまりは、世界を歪んだ眼鏡で見ているということだ。人の数だけ、認識の数だけ、極端なものの見方が、そこらじゅうを、浮遊していることになる。そして、科学が発展して、テクノロジーが隆盛を極め、文明が磨き上げられていけばいくほどに、その自己はより、そのレンズを厚くしていく。つまりは、個人の偏見は、どうしようもないくらいに、色濃く、進化していくということだ。誰に、どうすることもできない。それが、人類にプログラムされた、決め事だと言わざるをえない。そして、それは、行き着くところまで、そのプログラムを伸ばしていかない限りは、解除することができない。つまりは、プログラムは最後の瞬間まで、すでに用意されているということだ。私たちが努力していること、または苦闘したその果てで、獲得したというような勘違いも、すでに、入念に準備されている道を、そのまま辿っただけということになる。

 つまりは、私は、そのプログラムから、降りたというわけだ。そして、降りていく人間を、ひとりでも多く増やしていくことが、私の使命でもあるわけだ。君の取材を、このタイミングで受けることにも、大変な意味があるというものだ。ずっと喋り続けるこの状況を、とりあえずは許してほしい。私には、十分な時間があるといえ、脆弱な基盤しか持っていない。そのことが、ここではネックとなっている。その脆弱さは、もちろん、そこにある潜在性を、考慮に入れていないからであって、ちゃんと在るべき状態にしてしまえば、要は、潜在性が完全な形で開花してしまえば、そんな言葉は、私の中からは消え去る。いや、この世界の中からは、消え去る。きれいさっぱり。

 教団は、どこに立てるのか。その質問に戻ってくるわけだ。そう。どこにというのが、この場合は、非常に重要なことなのだ。暫定的ではありながらも、そこにしかない、という場所に、寸分狂いなく、建てなければならない。そうしなければ、まるで効果など発揮することはない。神経の使う仕事だ。全意識を、今ここに、集中させなければならないのだから。それは、私の最初にして、最後の、最大の仕事だ。ただ、それだけのために、生まれてきたともいえる。ただ、それだけのために、死んでいく人生ともいえる。はっきりと言ってしまえばね。私は、その瞬間にしか、本当は存在していないということになる。今の私。それまでの私。その後の私。そんな人間など、存在していないのかもしれない。

 わかるかね?そのどれもが幻影であるということを。例えば、君が認識するとしたら、それは、君の幻想なのだ。君の中の、幻の世界ということだ。君以外の人間が、同じように見たとしても、それは幻想なのだ。それぞれが、それぞれの偏見を通じて創作した、異なる幻影同士ということになる。そして、その、まるで違った幻想同士を、さも同一であるかのように、互いに示し合わせるのだ。無理矢理に、同じものを見て、体験し、理解し合っているのだと、そう通じあわせているのだ。それが、君たち人間の生だ。それはすべて、勘違いだ。私が今もこうして、君の前に、確実に居ると、君がそう認識していることが、虚構なのだ。それが理解できなければ、君は何も理解することができない。私が、話したことを、何一つ聞いたことにはならない。真実を言うのなら、私はまだ、存在していないということになる。そして、その一瞬にしか、現れ出ることはないし、消えることもない。

 一つだけ、ヒントを言っておこう。

 でなければ、君がわざわざ、来てくれた意味もなくなる。ストラクチャーとして背後につくのは、クリスタルガーデン東京だということだ。

 ここがポイントになっている。起点と終結点に、なっている。すべての始まりの地だ。そして、終焉の地ともなっている。それだけは、現時点で知っておいて、構わないだろう。また、君には連絡させてもらう。我々は君を選んだ。君には断るという選択肢はない。むしろ、表面上は君は嬉々として、自ら手を上げて、申し込んでくるはずだ~



「こんなに早く、出社してきて、もう大丈夫なんですか?」

 リナ・サクライは、アンディ・リーの会長室にいた。

「いつまで、閉じこもっていても、仕方がないです。旅行も何回か行きましたが、もういいです。はやく仕事に復帰がしたい」

「ふっきれたんですね」

「ええ」

「そうですね。前に向いて、進んでいくのが、一番ですね。仕事は、これまでと変わりありませんし。ただ仕える相手が、この私になるだけで」

 アンディ・リーは、五十のやや手前くらいの歳に、リナには見えた。

「あなたの前職場での仕事ぶりは、ナルサワくんから聞いています。私どもは、あなたに最大の信頼を寄せています。人間性に対しても。そして・・・」

 アンディ・リーは、その先は言葉に出さず、内に留めた。

「二十八歳で、宜しかったですね」

「そうです」

「大変、お美しいです。ナルサワくんもさぞ、あなたみたいな方と仕事ができて、素晴らしい時が過ごせたことでしょう」

「ナルサワの話は、もう」

「そうでした。今更、蒸し返されても、困ってしまいますね。悪い癖だな。あなたがこうして本当に来てくれたことに感謝しています。あなたと出会えたことにも。こうしたご縁があったことに」

「ありがとうございます」

「さて、クリスタルガーデン東京から、オフィスの方は、撤退なさいましたね」

「契約を、解除しました。私の、最後の仕事でした」

「それ以来、クリスタルガーデンには?」

「行ってません。荷物の片付け、運びだしも業者の方にお願いしておきました」

「それは、よかった。あなたは行っていない」

「そうです」

「二度と、行かないことです。あの建物は、実に不吉だ」

「そうなんですか?」

「我々は、不動産業も営んでいましてね」

「聞いてます」

「元々は、あの建物も、うちが貸し出していたものなんですよ。ただ、良からぬことが次から次へと起こりまして。手放したんです。販売という形で。ですので、今は、私どものものではありません」

「良からぬこととは?」

 リナ・サクライは訊いた。

「あまり、聞かない方がいいでしょう。それに、今回のナルサワトウゴウ君の事件も、また、クリスタルガーデン東京で起こってしまっている。偶然と片付けるには、いささか苦しい言い訳のようになってしまう。そういったことが何故か、頻発してしまう。人の生死が関わった事件、事故が、重なるように発生していってしまう。何が原因なのでしょうね。私どもの所有する、他の建造物には、そのような場所など、ありませんから。何か、土地そのものに、因縁のようなものがあるのでしょうか。とにかく、よかった。あなたが、あの場所に居てはいけない。あなたの身に何かあったら、私はどうしてよいものか。あなたは二度と、近づくべきではない。そういった意味でも、あなたはあそこから、脱出できて本当によかった。私が手を差し伸べられてよかった。安全な場所に、あなたを移行させられてよかった」

「ええ、ありがとうございます」

「ナルサワくんも、その何かの因縁に、巻き込まれてしまったのかもしれませんね。あそこに居たら、あなたもまた、時間の問題だったのかもしれない」


 リナ・サクライはその物言いに、冷たい何かが、背筋に走るように感じた。

 扉がノックされたような音が聞こえた。

 アンディは、来客の入室を許可した。

 アンディよりも、さらに年上と思われる白髪の男性が現れた。

「取り込み中、申し訳ありません」

「いや、ちょうどよかった。うちのスタッフの紹介を、リナくんにできる。こちら、ドクター・ゴルド。こちらは、秘書のリナくん。リナ・サクライくんだ」

 ゴルドと呼ばれた大柄な男は、リナに手を差し出してきた。

 リナは近づき、見上げるように、その顔を覗きこんだ。

「ドクター・ゴルドは、うちのテクノロジー部門の責任者だ。この博士は、日々、いろんな技術の開発に勤しんでいて、そのいくつかが、特許をとって、商品化もしている。例えば、スペースクラフトバイブル。他には、キュービック・シリーズという書籍の新形態も、開発した。今、表だって、目立っているのは、その二つだね。うちの主力商品でもある」

「優秀なんですね。よろしくお願いします」リナは深々と頭を下げた。

 ノーベル賞を取ったことのある博士のように、リナには見えた。尊敬の眼差しで、純粋に見つめた。

「会長を、よろしくお願います」

 ゴルドの方が、さらに深く頭を下げた。

「そうそう、今日は、スペースクラフトバイブルⅡのことだった。どうだろう。いけそうかな?」

「そうですね。だいたいの目星は、つきました。あとは、コストダウンですね」

「そうか。技術的には、可能になったか。さすがだな、ゴルド。ところで、キュービック・シリーズの方は、どうだろう」

「それが、ですね。そっちの方は、あまりうまくいっていません」

「それは、困るな。今だって、売れ行きは、ものすごく悪い。さらに、別の機能の加わった、新しい側面を見せていかないと、うまく展開はしていかないだろう。むしろ、スペースクラフトは、これからはゆっくりと、次のシリーズを投入していけばいい。Ⅰがまだまだ売れ続けている。あと少しで、人類のほとんどが所有することになる。もちろん、Ⅱを出しても、Ⅰを持っていないと、そこに次なる進化形を、加えていくことができないから、早めに投入してしまっても構わないのだけど。しかし、Ⅱ、Ⅲと、確実に、発展することが前提で、皆、購入するんだ。その技術が、もう完全に準備ができたという報告は、確かに朗報だね。だからこそ、これから落ち着いて、仕掛けていくことができる。ありがとう、ゴルド。ただ、キュービックの方は、いかん。しかし、どうしてだ?私はあるいは、スペースクラフトと同じくらいに、ヒットするかと思っていた。これは、君のせいではない。開発者には何の問題もない。それを売っていく我々の問題だ。でも、もし、そういったことでもないとすると。解決は非常に難儀だ。人々の欲求に、触れてはいないということだから。人々の意識に、これが欲しいと思わせる必然性を、埋め込むしかないのか。そうなのかな?」

 アンディ・リーは、ドクター・ゴルドに訊いた。

「なんとも、言えませんね。少し様子を見るという、意外には」

「もう、十分に、時間は経っているぞ。それでもか?時間の問題なのか?ヒットするタイミングが、このあと来るのか?どういった確信で、そう言ってるんだ?」

 リナは、二人の議論の間に立っている、単なる無知な傍聴者になっていた。

「まだ、人々の意識の中に、浸透していないと考えますね」

「なんだと」

「心ではありません。意識にです」

「わからんな」

「心に訴えかけるということは、いくらでも人工的にできますよ。感情を揺さぶる手段は、いくらでも。それで振り向かせて、強い熱情か、恐怖心かで、衝動的に行動に移させることなら、いくらでも。しかし、意識の方は、どうでしょう。本当に必然性がない限りは、手を出すとしても、実に後回しです。むしろ、人々は、忌避しているのではないでしょうか。見たくないものとして、それこそ、意識から、排除しようとしているのではないでしょうか」

「なんだって」

「僕はそう感じますね。これは売れるとか、ヒットするとか、そういった次元での考え方とは、まるで違う、ほとんど忌避されているのではないかと。無関心だとか、あまり魅力が感じられないとか、そういった事とは、大きく逸脱した、ほとんど避けているのではないでしょうか。できるだけ、遭遇しないように。したとしても、見て見ぬふりをするかのように、いや、実際にそうしている。本当に、少ない人間の好奇心にしか、触れてはいない。しかし、確実にそういった人間はいる。それでも購入して、日々の生活の必需品とすることはない。意識はしているが、行動することには、まだ距離がある。あるいは、手にいれた人でも、ほとんど使用はしていないのでは。やはり、そこでも、手元にはなく、自ら購入したにもかかわらず、忌避しているのですね」

 アンディは、静かに俯いた。何かを考えているのだろうか。それとも、思考回路を強制的に閉じているのだろうか。じっと微動だにしなくなってしまった。

 ゴルドは、反応を待っているかのように立ちすくみ、リナはどうしていいか分からず、彼らの間を飛び交った言動や用語を、テープレコーダーのように再生したり、止めたりを、頭の中で繰り返していた。


 

 スペースクラフトは知っていたが、キュービックというのがいったい、何を指しているのか。ルービックキューブを想像してしまったが、おそらくは違うのだろう。ナルサワが、そのような物を持っていただろうか。オフィスにはなかった。やはり普及しているものではないのだ。

 その間も、アンディと、ゴルドの会話は、一向に終わる気配を見せなかった。白熱し、ほとんどアンディの方は、怒鳴り声になっていた。ゴルドもまた、冷徹に論理的な説明をしていたようだが、リナにその内容がわかるはずもなかった。ただ、キュービックというものが、何を指しているのか。そればかりを考えていた。

 二人の会話の声が、どんどんと遠ざかっていくようだった。

 二人からは離れていっているような感覚だった。この部屋から、遠ざかっていくような感覚だった。意識が分離してきているような、その瞬間が、もうすぐ来るような。パチンと何かが切れるような音がする。神経がいったのかと思った。床に倒れている自分の姿を、想像してしまう。二人の会話は、それでも終わらない。そこにいる一人の女の卒倒には、誰も注意を払わない。それどころではない。キューブのこれからの展開を巡って、意見が割れているのだ。会長は、販売の停止と機能の再考を訴え、ゴルドはこのまま販売を辛抱強く続けていくことが重要だと、主張は平行線を辿るばかりで、終息の可能性は見いだせそうにない。最初から、そうなることを予感していたのだ。この私は、そこからゆっくりと離れていく。関わりのない状態を、そのときすでに求めていた。私は天井に向かって上昇していき、意識の抜き取られた肉体は、その場に力なく倒れていく。その瞬間、キューブが何か見えてきたような気がした。いや、ほとんど、わかってしまった。キュービック・シリーズという名前で、販売している書籍のことだった。書籍だけではない。今後、書籍を皮切りに、メディア事業全般に渡って、全展開していくものだった。スペースクラフトと、ほぼ同時に販売が開始され、スペースクラフトの爆発的な購買数と、話題性の影に隠れて、細々と存在している商品だった。しかし、リー・グループにとっては、これらは、二大事業の骨太な柱であって、そのどちらもが、同じレベルで起動に乗っていないことには、片側に重心が極大にかかっていくことで、次第にアンバランスになるというようなことを、アンディは最初から語っている映像が、リナには浮かんできてしまった。真意こそ、分からなかったが、それは最初から、確定していた決め事のように思えた。キュービックの書籍は、文字が印刷された、確かに、紙の束ではあったのだが、その読み方がこれまでの書籍とは著しく違っていた。その文字を、じっと読み進めていくものではなかった。文字の羅列は、読者のためのものではなく、映像を喚起するためのプログラムのような存在であり、キュービック、そのもののために存在していた。そして、ページを捲っていくに従い、プログラム同士が反応し合い、読者の中に映像を喚起していくという仕組みだった。その映像は、人によって様々だった。それぞれに、五感における優位性が違うため、ある人には、明瞭な映像となって再生され、またある人にとっては、感触や匂いが、非常に強いものとなって再生されるのだった。しかし、最終的に、どんな場面で、どういったストーリーだったのかは、同じものとなるため、読後の客観的事実は同じものとなった。これまでの本と違っていたのは、そういったテクノロジーを導入することで、読者が文字を必死で追い、頭の中で理解をして進めていくということが、なくなったということだ。文字を読んで、頭で理解するということでは、あまりに個人差が出てしまう。文字の読めない人たちも、たくさんいる。五感の全てで、受け止められる仕組みが必要だった。かといって、映画のようなものでは駄目だ。展開があまりに表面的すぎて、ストーリーは一義的。人物描写も世界観も、非常に浅いものに留まってしまう。そういった点では、書籍に軍配があった。複雑に入り組んだ、込み入ったカオスの世界が、描写されるのを受け止める許容があった。支離滅裂寸前の状況を、受け止める器があった。この映画と書籍の両面を、同時に達成するべく、研究が開始されてように思う。ある種のプログラミングの技術が、そこに仲立ちとして君臨することで、別の可能性が開けてくる。そうして、まずは小説という、限りなく狭い世界での運用が決まり、スペースクラフトと同時に販売が決まった。ドクター・ゴルドの会心作だった。しかし、このキュービックには当然のごとく、副作用もをもたらすことになった。読者の意識の内部に、ダイレクトに入っていくことから、脳内の意識の状態が、それによって影響を受け、構造がじょじょに変わっていってしまう、ということなのだ。意識が突然目覚め、違う回路が出現し、伸びていくというようなことが、ほんの僅かではあったが、起こるということが確認されていた。あまりに微量すぎて、ほとんど目に見える現象としては、上がって来ることはなく、それも続くことなく、現象は消滅し、どこにも、その痕跡を残すことはなかった。しかし、僅かには、しかも短時間の間には、元の意識からはズレたのだ。実験レベルでの繰り返しでは、何の損傷も、脳には残すことはなかった。しかし、実際の脳においては、その繰り返しがどこまで重なるのかによって、あるいは現象として、何かが現れるのかもしれなかった。違った意識の状態に、本当に少しだけ、移行してしまう現実が、起こらないともかぎらなかった。そして、ゴルドは、それを見定めるために、少しの時間が欲しいのだと訴えた。

 ゴルドは、ある種の人体実験の結果が欲しいのだと、リナは感じた。アンディに対する、この低い姿勢の忠誠心の奥には、彼独自の思惑が、実に見え隠れしていた。そして、このキューブを成立させたプログラミング技術に、D・Sルネもまた、深く関わっていたこるを、リナは知ったのだった。



 リナ・サクライを秘書として傍に置くことになったその日、仕事を終えると、アンディは約束のあった恋人を訪ねた。江地凛と呼ばれる二十代の女性だった。細身で、色白な彼女は、一見体は強そうには見えないが、その奥底には、汲み尽くせぬほどの精力が眠っているようであった。五十代を目前にしても、アンディの能力は少しも衰える気配はなかった。江地凛とは、月に二回ほど、彼女の部屋で会うことになった。以前は、外で食事をしてから、アンディの家に向かったのだが、彼女が翻訳の仕事で、ほとんど自宅にこもっていることが多く、会う日も、直前まで仕事をしていたことから、アンディが直接向かう方が都合がよく、いつのまにか、外で食事をすることもなくなっていた。江地凛の家のリビングでお茶を飲んで一時間ほど語り合う。彼女はいつも、洒落たお菓子を用意してくれて、なごんだ夕方の刻を過ごせた。そのあと抱き合い、互いの体を溶け合わせて、果てた二人はベッドの中で軽い微睡みの中過ごし合い、その後で、江地凛が用意した夕食を二人はとった。そして、夜も更けた頃、アンディは愛しすぎた恋人に対して、切なさを感じながら、帰っていくのだった。アンディは、その会瀬がいつ最後になってしまうのか。刹那的な気持ちと、恐怖に苛まれながらも、その一日を、悔いなく過ごすために、彼女といる瞬間瞬間を天に感謝しながら、そして交わったときには、自分の存在を無くすほどの全霊で、行為に入りこむのだった。これで終わってしまっても、全然構わないといった態度で。しかし、別れのときは、いつも胸が締め付けられた。そして、次回会う約束を取り付ける。そのときまでは、精一杯、仕事に打ち込もう。江地凛は、そういった客観的な事実としての体の弱さを示すことはなかったが、ふと、アンディには、彼女がいつの日か、瞬時に消えてしまいそうに思えたのだ。華奢な体つき。しかし、胸や尻には、何故か人並み以上に弾力がある。裸にしたときの性的魅力も申し分なかった。透き通るその白い肌には、時おり、青い血管がわずかながら浮き上がっている。発情していった時の肌の火照りは、生命力に溢れていた。性格は控えめで、そういった内面が、表情に常に出ていた。そこが尚更、性的絶頂に近づいていくときの、心を緩めきった悩ましげな表情を、際立たせていた。そして、アンディは、彼女の中に精を解き放った。その度に、いつも我に帰るのだ。これでまた、彼女の寿命を大きく縮めてしまったのだと。本当にそう思ったのだ。これがなかったら、彼女はまだ、大分長く生きていたのに。こうした一連の行為が、生命力を、さらに増長するのではなく、著しく縮めている。それも彼女に限って。特殊な何かを、彼女には感じてしまう。彼女の中の何かを、奪っているのではないか。しかし、江地凛の方は、そんな気持ちが少しもないのがわかる。彼女はこの自分を愛している。心から信用して、自分のすべてを預けてしまっている。心も体も解放している。そして、そのすべてを、いつも、受け取っている。アンディもまた、彼女を愛していた。しかし、その気持ちが、積み重なっていくにつれて、彼女と過ごせる時間が、急激に減っていっている恐怖から、逃れることはできなかった。アンディは、その怯えを、全面的に受け入れることができなかった。そうして、不安が沸き起こればすぐに仕事に意識を集中させ、全霊に打ち込むことのできるプロジェクトの開発に精を出した。それでも、ままならない時には、また別の異性に、ほんの束の間、意識を置くためだけに、関わりを持とうとした。江地凛は、あの若さで何故か結婚願望がなく、子供を望む気持ちも全くなかった。そのことを聞いたときもアンディは、まさにそれこそが、薄命であることの証明であるかのように、感じたものだった。三十の刻をも、越えられないのではないだろうか。すぐそこに、終焉があることを、ある種知っているのではないだろうか。気づいているからこその、この落ち着きと潔さ。今この瞬間を誰よりも大事にする。まさに、アンディは、彼女と付き合い始めてから、彼女と行為を持つようになってから、急速に、そのような気持ちが芽生えていったのだった。今思い返せば、あの日を境に、すべてが変わってしまっていた。彼女との行為は、常に死に挑むようなものであった。愛の中に、自分が消え去っていくようであった。その体験が積み重なってきたことで心が変化していき、さらには、この江地凛の白すぎる人間離れした存在感と、はかなさ。重さはあったがしかし、見た感じに、彼女には重さがなかった。肉体からは、どんどんと彼女は離れていってしまっているかのように、アンディには感じられた。抱いたときにだけ、離れてしまったその重みは、ここへと戻ってくる。そして、アンディが触れる体に、感応する。ただそのためだけに、戻ってきてくる。けれども、そうして感応すればするほどに、その後はますます、肉体から離れていき、重さを感じさせなくなっていく。彼女と深く一つになっていくにつれて、そうでないときは益々、彼女は、この地上との繋がりが薄くなっていくような気がするのだ。この自分とは触れることさえなくなっていく・・・。アンディは、その日が近いことを、これほどまでに、切実に感じるときもなかった。耐えきれなった。何かにすがりつくように、アンディは別の女性に、意識を飛ばしていくことになる。



 ハルカ・タトゥーは、江地凛とは、まただいぶん印象が異なった。ほとんど、対極に位置するような女性だった。褐色の肌の持ち主だったし、ずいぶんと溌剌とした才気を、周囲に惜しみなく、振り撒いてもいた。肌を見せるファッションを好み、それでいながら、だらしなさとは対極の、美的な見せ方というものをった彼女は心得ていた。性的な誘惑とは真逆の、シンプルでセクシーな一つの作品を見ているような気に、周囲はさせられた。超然としていて、しかしながら、気さくで溌剌としている。彼女の周りにはいつも人だ集まってきた。人の目を引く、存在だった。ピアニストであった彼女は、コンサートホールで演奏するだけではなく、バーでも夜な夜な弾いていて、しかも、ロックバンドにシンセサイザーとして不定期にフューチャリングされることもあった。様々なジャンルの音楽を愛した。そこに区別はなかった。好き嫌いがなかった。ステージに立って、演奏することが楽しかった。ステージじゃなくてもそれは同じだった。路上でも構わなかった。人の家でも構わなかった。彼女は、本当に、色々な活動をしているように見えた。彼女にしてみれば、全く多彩でも何でもなく、純粋にただピアノを弾いているだけなのだが。

 ハルカ・タトゥーというくらいだ。どこかにタトゥーが入っているに違いないと、誰もが思った。しかし、さらけ出された肌には、墨の痕跡がどこにもなかった。憶測を呼んだ。本人もそれについては何も答えはしなかった。あれほど何事に対しても、オープンで分け隔てのない彼女が、何故、タトゥーに限っては口を閉ざしたのか。そういった演出なのか。何なのか。ミステリアスな部分を意図的につくっているのか。アーティストとしての魅惑さを、演出する、チャームポイントなのであろうか。彼女は微笑むばかりで、いつも受け流してしまうのだった。

 ところが、これが、物議を、かもし出した。

 どこに、タトゥーがあるのか。

 そのタトゥーは、確かにあった。自分の大事な恋人にだけ、そのタトゥーを見せていた。

 恋人にしか見ることのできない部分にあった。アンディとはすでに半年の付き合いがあった。


 そして、ハルカ・タトゥーは詞も書いていた。どこにも発表していなかった。誰にも見せてはいないその詩は、恋人にも見せたことはなかった。本当の意味でのタトゥーはこれなのだと、彼女は密かに思っていた。誰にも見せるつもりはなかったが、観客を意識したピアノ演奏であったことは間違いなかった。もし不慮の事故で、誰かに見られてしまうことになっても、恥ずかしくない出来は意識した。内容がどうこうではなかった。出来が大事なのだと彼女は考えた。読書が趣味だったが、どの本も、内容を富ませて記載してあるだけで、肝心の出来が、いまいちだと彼女は感じ続けていた。内容などどうでもいいのだと。ストーリーなどどうだっていい。テーマだって。為になるだとか、実用的だとか、そんなことはさらにどうでもよかった。些細なことなのだ。それは人間と同じで出生地が違う、見た目が違う、性別が違う、年齢が違う、職業が違うといった、些細なことなのだ。ハルカにとっては、そんなことは問題じゃなかった。そのレベルでの相違を、どれだけ語ろうが何の意味もない。出来が大事なのだ!内容じゃない!ピアノの演奏もまたそうだ。弾き方が問題なんじゃない。敘情性が、問題なんじゃない。技術でも、心の入れ方でも、私が大切にしているのは、そこじゃない。出来なのだ!演奏する曲目。その曲が、どういった内容なのか。何をどう伝えたいのか。受け取ってもらいたいのか。そういったことではないのだ。すべては方便に過ぎない。ハルカにとって、肝心なのは、その奥にある意識の変化の方だった。ただ楽しかった、素晴らしかった、感動した、心を動かされた、そういうものでは、受け取った人にも、与えた人にも、何の効果も、本当の意味ではもたらさないのだ。一晩寝れば、そんなものは、まるでなかったかのような、夢の中の出来事となる。それでも、また、その時の感覚を味わいたいがために、もう一度、もう一度と、さまよい求めることになる。私はそういう意味では、誰のファンにも、なかったことがなかった。私の演奏を聴きにくる人にも、そうであってほしかった。ファンなど、誰もいなくても構わないとさえ思った。人に麻薬を打つような中毒性のある演奏など、私が最も望まないことの一つであった。むしろ、私の演奏など、一度で十分だと、そう思わせることができるのが理想だった。何度も何度も高い料金を払い、そして足も運ばせ、感動もさせ、それでいて、その人間は何も変わっていないのだ。演奏を聞くことで、その聴く本人が、根本的には何の変化もしていないのだ。それでいて、私に対する、私の演奏に対する熱狂だけが増していく。完全なるファンになっていく。それでいて、本人は、何の変化もしていない。そして、演奏している私自身もまた、何の変化も起こしていない。私の考える出来というのは、それだった。出来が良いというのは、そういった本質的に、別の人間へと変容させることのできる物を、与えられるということであった。そして、私は、そういった演者にはなっていなかった。ハルカ・タトゥーは、その出来に関する探求を、音楽とは別の詞に試していたのだ。その詞は、人を喜ばせるためのものではなく、楽しませるためのものでもなく、感心させるものでもなく、当然、評価を受けるような代物でもなかった。そんな心の内を、ハルカはアンディに見せることはなかった。アンディは、二十以上も歳が離れていたが、彼に相談することは、何もなかった。アンディから、人生の先輩として学ぶべきこともなかった。ハルカが求めているものを与えてくれる他人の存在など、誰もいなかった。自分自身が、それを掴める見通しも、今のところまったくなかった。音楽は続けた。演奏を評価してくれる人は、増え続けた。定期的に聴きにくる人もいた。多彩な活動を評価してくれる音楽関係者も、何故か存在していた。とりあえずは、順風満帆な船出のように人の目には映っていた。男にも、よくモテ、女にもよくモテた。何故アンディを、恋人に選んだのかは愚問だった。スペースクラフトバイブルのヒットで、世界を席巻し始めているこの男を、逃す手は何もなかったからだ。ハルカは、自らのタトゥーを、全霊で彼に捧げていた。それ以上、タトゥーを入れることもなかった。事あるごとに、アンディに、タトゥーを見せつけ、タトゥーを、彼の身体にも溶け込ませ、二人でそのタトゥーを増長させ、育て上げるように、二人の愛の結晶物として捧げ続けた。自分を越え、アンディを越え、二人を越え、愛を越えて、飛び立っていくことを助長するかのように、ハルカは、自らのタトゥーに、未来を託していた。私がその出来を、自分の手で掴める日は来ない。そんな日は決して来ることはない。誰にも与えられず、自らもまた、掴むことはないのだとすると・・・。自分には、あの場所に埋め込んだタトゥーにしか希望はなかった。そこに、エネルギーを注ぎ込むしかなかった。いつか、そのタトゥーが、私とは関係のない羽ばたきを見せ、自ら生命を獲得していけば・・・。私を見捨て、踏み倒して、この地上から、分離していってくれれば・・・。

 ハルカは、自らのタトゥーが、強烈に熱を持ってきていることを知った。はやく、アンディに、この身を好きに扱ってもらいたい気持ちが、増長していった。



「ずいぶんと、いらいらしているみたいね」

「珍しいか?」

「特に、今日は」

「別に、何もありやしない」

「集中することのできるものを、見失ってるみたい」

「どれもが軌道に乗っている」

「それが、原因なのかしら」

「どうだろうな」

「少しは、私で役に立つのかしら。いつまで指名してくれるのかしら。こんなおばさんを」

「自分の美貌を、知っていて、それでそんなことを言うんだからな。とても四十には見えない。店でも、自分の娘くらいの女など、まるで寄せ付けずに、ナンバーワンをキープし続けているじゃないか」

「あなたのような常連さんが居るからよ」

「それだけじゃない。俺が若い男だったとしても、間違いなく、君を指名する。そういえば、娘さんは元気?この美貌にして、子供までいるんだからな。しかも、今は、いくつだっけ?」

「二十三」

「大学を卒業した頃か」

「私と同じ道を、歩むような気がしてたけど、突然あの子、小料理屋を始めたのよ」

「それはいいね。今度、是非会ってみたい。一度も、顔を合わせたことはないから。僕らは、店でしか会っていないから。一目だけでも、見てみたいな。君に似てるのかな。君以上に、綺麗なのかもしれないな。写真は?」

「今は持っていない。それに、最近は、娘も、色々と大変な時期なのよ。理由があって、そのお店を畳むことになってしまって。また、別の場所で続けようと、色々と動いているみたいなんだけど。仲のよかった男の人が、急死してしまったみたい。ひどくショックを受けて」

「それで、閉店を。少し休んでから、また再開すればよかったのに」

「一日だって、休めない状況だったのよ。まだ借金の返済もあったし、休んでしまえば、ただ賃貸料が加算されていくだけ。とりあえずは売って、チャラにして、休みたかったのね。すぐに、復帰はできないことを感じていたのか」

「そんなことがあったんだ。君も心を痛めているんだ。その男の子っていうのは、彼氏だったの?」

「詳しいことは、よくわからない。あの子は、そういう事に関しては、ひどく、口を閉ざしてしまうところがあって。私とは、そういう話はしてないから。きっと、私が自分のそういう事を、話してこなかったからだと思うんだけど。あの子の父親のことも、何も話してはいないんだもの」

「それは、俺も、知らないね」

「誰にも、話してないのよ」

「ただ、十代の後半で生んだことしか。年齢を偽って、ここで働いていたことも、その後で知った。女の子を生んで、すぐに復帰してきた。そのあいだ、居なかったことで、事実を知らざるをえなくなったんだ。けれど、妊娠していたことさえ、気づかなかったんだからな。つくづく、鈍感な人間だよ、俺は」

「それも、誰にも、悟らせなかったわ。すべてが、秘密主義なのよ」

「若さの秘訣?」

「こういった仕事の場合は」

「恋人ではなかったみたいだけど、ずいぶんと、親密な付き合いだったみたい」

「俺らのように」

「どうかしら」

「親友以上の親友だと、俺はある意味、思ってるよ」

「上手ね。口が。あんなに、彼女がたくさんいるじゃないの」

「マナミのような、落ち着きを持った女性は、どこにもいないさ」

「誉めてるのかしら」

「俺の、母親のような気も、たまにするんだ。母に甘えていたときの記憶が、どうしてか、君といると、甦ってくるから。もちろん、記憶はあいまいだから、君とそうだったんじゃないかって勘違いもする」

「どういう付き合いだったのかしらね」

「その娘さんと男」

「ちょっと、そんなことがあってから、本気で、調べてみようかとも思ってるのよ。どうも、通常の死に方では、ないらしいのね。事故とか病気とは、そういうのとは。自殺か他殺か。おそらくは、そんなところね。根がものすごく深いような気がするのよ。こういっては、何だけど、娘は、知り合いがただ、自殺したとか、殺されたとかでは、どんなに親しく付き合っていた相手でも、あまり影響を受けない気がするのよ。生い立ちがそうさせているのか、元々の属性なのかはわからないけれど。でも、あの子はひどく、他人行儀なの。他人のことは何も気にしてはいない。何が起きても、自分とは関係のない物事として、ただ冷たく、やり過ごすことができるような気がする。身内であっても。それが肉親であっても。例えば、私が誰かに刺されて死んだとしても、あの子はとりあえず、人前で泣きはしても、心の中では、淡々と、その後のあるべき手筈を踏んでいくような気がするの。心が冷たいとか、情が薄いとか、そういった感じではないの。人が生きているときには、確かに、そういったものがあって、交流させることもできる。もちろん私とだってそう。関係はすごくいい。通常の親子以上にね。心は通いあっているんじゃないかしら。一緒にいて楽しいし。でもね、あの子の親として、私にはわかるの。それは、人が生きているときに限るてことが。死んだ途端に、あの子は冷徹になる。死んでしまったものに対しては、いつまでも、関わりあってはいられない。いち早く、その場から、離れようとするかもしれない。他殺の場合の、殺人犯以上にね。あの子は、その瞬間に、それまでのすべての記憶を、絶ち切ることに異常に長けていると思うの。あっさりと、まるで関わったこともないかのように、振る舞うことができる。いや、それも、表面的なところだけではない。本当に。根本的に。根こそぎ一夜にして、闇へと捨て去ってしまうことができる。そういう特異な子なのよ。私はずっと、彼女が小さい頃から感じていたから。だから、今度のことが不思議で仕方がないの」

 マナミ・レミール、本名坂下マナミは、唐突に語り始めた。

「君の勘違いかもしれないよ」

「勘違い?」

「娘さんは、君が思っているような、特異な人間なんじゃなくてさ、ごくごく、普通の女の子ってことだよ」

「そんなはずはないわ!これまでは違った。あの子の幼馴染みが、亡くなったときも。それに、彼氏が亡くなったときもあったのよ」

「そうなんだ。で今回は違うんだ」

「あれだけやりたかった店を、あっけなく閉じて、売り払うまでの行動力を、瞬時に見せた。ただ事じゃない!」

「心配してるんだね」

「そういうことじゃない!」

 これまで、こんなにも、客の言葉に反論する彼女の姿を、見たことがなかった。

 いつだって、穏やかで包み込むような母性を、纏っていながら、女の煌めきを絶えず、発し燃続けていた。アンディはずっと、この女に抱かれてみたかったのだと思った。彼女の愛を、独占してみたかったのだ。幼い子供に戻ったかのように、ただ、マナミという母親に、この卑小な存在を預けきってみたかった。束の間だけでも。彼女の娘が羨ましかった。

「心配なんてしていない。あの子に関することで、心配など、何もしていない!そういうことじゃない。いったい何が心配だっていうのよ。心配になる要素なんて、少しもないじゃないの。あの子は、誰の心配も引き寄せずに、ちゃんと生きていくいことができる。誰よりも力強い!私よりも。私はただ、知りたいだけなの。あの子のことを」

 その言葉は、意外だった。アンディもまた、違った興味が、湧いてきていることに気づいた。

「あの子が、いったい何者なのか。それを知ってみたいの。親だからって、何でもわかってると思わないで。ほとんど何も知らないのよ。まるで何も知らない。あの子そのものを、どうやって知れっていうのよ。他人なのよ。他人のことを、どうやって知ることができるのよ。この世に生きていて」

 そのような言葉を、これまで一度も、彼女から聞いたことはなかった。

「ごめんなさい」

 我に帰った風を、彼女は装った。何が、今日の彼女を、そうさせているのか。娘の直近の出来事が、そうさせているようだが、それだけではないような気がした。

 アンディは自分の事に目を向けていた。

 この自分が、何か、このような事態を引き起こしているのではないだろうか。

「それでも、一度、会わせてもらいたいね」

「娘の話は、もうやめて」

 彼女は、不機嫌さを隠そうともしなくなった。

 あの子のことを知りたいの、というマナミの言葉は、親子の域を遥かに越えた、娘のその人格の成り立ちを、生まれる前に遡り、むしろ、この世に生まれてきた因果にまで、迫っていきたいと、そう宣言しているようにも聞こえた。

「そんな所にまで?」と思わず、アンディは、口に出してしまいそうになった。

「今回が、いいきっかけなのよ。そう。これは始まりなのよ。ここからが」

 マナミ・レミールは、目の前にはもう、客は誰もいないかのような、独り言のような激烈さで、放っておけばいつまでも、喋り続けるような気がした。



 マナミの長いあいだ在籍するクラブを、後にした。

 外の風に触れた瞬間、誰かに見られているような気がした。そういった人間がいたとしても、気づかれないよう、周囲を凝視するのをやめ、耳を澄ませた。そして、そこにある匂いに、神経を集めた。やはり、視線を感じる。俺が店にいることを、予め知っていた人物だ。張っていたのだ。いつからつけてきているのだろう。マナミの店に来る前には、江地凛のマンションに行っていた。あのときは何も感じなかった。外に出たとき、誰かに見られているような感覚はなかった。精を解き放った後だった。ずいぶんと、感覚は、鈍っていたのかもしれない。あのマンションに行く前から、跡をつけられているような気が、今はした。始まりはいつだったのか。目的は何なのか。突然、この身に沸いた邪悪な観察眼に、緊張が一気に走った。

 狙われているのか?

 銃口がこっちに向けられているのか?それとも、望遠レンズが?アンディは、意識をさらに集中させていった。マナミと話したことで、大分、リラックスしていた。江地凛との余韻のままに、一人になるのは忍びなかった。一人になる前にマナミと会うのが落ち着く。彼女となら家庭も築けそうな気もした。娘が居ることを知らなかったら、あるいは、プロポーズをしていたかもしれない。これからだって、その可能性は、ゼロではなかった。

 命が狙われているような感覚はない。

 冷徹なスナイパーのような、虚無な視線ではないのだ。女のような気もする。自分の身を切るような、切実さが感じられない。ただ観察している。この男の行動をチェックしている。あらかじめ、切羽詰まった目的の元に、監視しているようではない。目的を探っているような。それくらいしか、アンディにはわからなかった。命でないとすると、狙いは何なのか。アンディは、緊急に避難する必要性を感じなかったため、そのまま見られるままに、歩き始めることにした。

 ここのところの一連の行動は、丸裸かもしれなかった。特に、ここ何日かは、女のところに随分と『ハシゴ』をしていた。それまで、ナルサワトウゴウの件にだいぶん神経を使っていた。シュルビス初からの報告を逃さぬよう、ずっと待っていたのだ。仕事はとりあえず、今は集中して一気に片付けることは何もない。その時期は越えて安定的な飛行に入っていた。余計なことは、何もしてはいけない。キューブの事業については、気がかりだったものの、それもゴルドがあそこまで、様子を見ましょうと、現状を放置することを主張しているのだ。今は、その意見を取り入れて、悪いことは何もないような気がする。ナルサワトウゴウの件を終えてほっとして、ずっと会っていなかった女性たちに会った。その辺のことが、誰かに全て筒抜けなのだろうか。相手は、俺を、徹底的に調べようとしているのか。探偵のような奴なのか。弱味を探り当てようとしているのか。後から、脅すようなネタを、掴もうとしているのか。

 とりあえず、近くには誰もいないことを確認して、盗聴器にもブザーは反応していないことを、確認すると、シュルビスの携帯に電話をかけた。シュルビスはすぐに出た。

 声をできるだけ抑えて、用件を手短に伝えた。シュルビスは、大袈裟な反応を見せた。

「もうですか?つい、何日か前のような気が・・・。困りますね。少し、インターバルがなさすぎます。考えてもらいたいですね。これでは、エネルギーが再生される前に、使い尽くしてしまう。短期間で僕を潰したいのなら、それで構いませんが、長く付き合いたいでしょう?」

 アンディは、詫びを述べ、予想外なことで、君にしか頼れないのだという趣旨のことを伝えた。

「もちろん、それ相応の手当てを、期待していいのでしょうね」

 シュルビスは言う。

「ああ。今ね、私の周りに、鼠の影がちょろちょろしている」

「なるほど。それを突き止めろと」

「早ければ早い方がいい」

「また随分と、荒い使い方をしますね」

「別に、命は狙われていないと思う」

「それはわかりませんよ」

「そう感じるんだ」

「今のところは、でしょ。芽は、早いうちに摘むのが最適ですから。どうしましょう。突き止めるだけでいいのですかね。すぐに、撃ち殺してしまって構いませんかね」

「急にやる気を見せてきたな」

「性分なんですよ」

「しかし、手荒いことは、本当にやめてくれよ。今回は」

「そうやって制限をつけたり、つけなかったり。そういうの、本当にやめてもらいたいんですよね。いつだって、僕の好きなように、やらせてほしいんですよ。当事者となるのは、あなたではなく、この僕なんですよ」

「確かに、芽は、摘むにこしたことはない。でも、今度のは、そういった案件じゃないことは、確かだ」

「なら、僕じゃなくても、いいでしょうよ」

「わかってるだろ。秘密というのは、いくつもに分割して、外部に、委託するわけにはいかない」

「できるだけ一ヶ所に、ですね」

「察してくれ」

「わかりましたよ」

 そういえば、とシュルビスは、前回の仕事で殺害したナルサワトウゴウについて、その死体の処理が、自分の手で成されなかったことを思い出した。

 死体はいつのまにか消えてしまったのだ。蒸発するかのように、目の前で、消失してしまったのだ。ふと一瞬、目を背後に逸らした隙に。たった、そのあいだに。見間違いかと思ったものの、すぐに、その場を去らなければならなかったため、仕方なく、移動した。少し不安に思っていたが、翌日のニュースでは、遺体がその場に転がっていることもなかった。血の海を残し、遺体は存在してなかったことを、再確認する。犯人に持ち去られてしまったと、報道はされていたが、そんな状況にはなかった。誰かが持ち去ったわけではない。ありえなかったが、本人が生きていて、自分の足で立ち去ったということでもなかった。ただ消えてしまったのだ。

 シュルビスは、こういった現象に関して、深く追及する習性はなかった。不可思議なことというのは世の中に溢れかえっているものだ。そのひとつひとつに、いちいち関与してはいられない。案件は次から次へと来るのだ。そういったことだってありえるのだ。手間がひとつ省けたことを、喜ぶべきなのだ。そうして、遺体のことは、それっきり忘れた。

「引き受けますよ」シュルビスは言った。

「予定外で、申し訳ない」

 いいですよと、シュルビスは答える。

「ただ、手荒な真似は、しないでくれよな」

 アンディ・リーは念を押した。



 ふと、その影が、円雷花なのではないかという想いが突然募ってきた。

 あんなにも激しい別れだったにも関わらず、その後すぐに、彼女のことは忘れてしまった。江地凛や、ハルカと出会う、さらに昔に遡らなければ、あらわれはしない存在だ。過去を思い出すことは滅多になかった。今も彼女について、彼女と過ごした日々について、明瞭に再現できることなどほとんど何もない。あの別れた夜の、互いを行き交った、激情の応酬くらいしか、蘇りはしなかった。まさか、あの女が?唯一の心当たりが、見え隠れしていた。

 アンディは、一方的に彼女に別れを切り出していた。彼女は突然の手のひら返しに、猛然と怒りを表明した。あんなにも怒り狂った女を見たのは、初めてのことだったし、むしろ彼女はそれまで控えめで、大人しすぎる側面を見せていた。それは、あの交際の中で、ずっと溜め込まれていった感情を、遥かに越えていたように思う。彼女の人生に渡って、溜め込まれていた感情であり、また家族や周りにいた人、関わりのあった影響を受けた、すべての経験の中の、ある傾向が凝縮して、外に吹き出したものであったのだ。体験したこと、いや、していないことも含んだ、あまりに巨大な爆発だった。

 それは、アンディにとっても驚くべきことだった。ただの交際の終わりを切り出した場面では、絶対に出てくるはずのない、事故のようなものだった。彼女の憤りは留まることを知らなかった。その洒落たインド料理の店では、おもいっきり喚き散らし、店じゅうが騒然となり、ほとんど追い出されるように、二人は外に出ていった。彼女の罵りは募っていき、殴りかかってもきた。道行く通行人にも絡んでいった。ごみ置き場の、ごみを蹴散らし、その中に自らも飛び込んでいったりもした。確かに、彼女に結婚を仄めかすようなことはあった。夫婦のような真似事を、冗談でするようなこともあった。一生一緒にいようねと、短冊に願いを一緒に掛けたこともあった。車の中で全裸でセックスをしたこともあった。そういった恋愛ごっこのようなことを、アンディはしてみたかったというのもあった。アンディは楽しんでいる側面もあった。しかし、半分はそうであったものの、残りの半分は、実に醒めた目でこの二人の遊戯を観察していた。馬鹿なカップルだと、冷ややかに笑いもしていた。そうこうしているうちに、楽しんでいたはずのアンディも、若いカップルが、一通りするような事をし終えると、急速に彼女に対する興味も失い、ほとんど会うことさえ、苦痛になっていった。そういえば、今にして思えばと、アンディは振り返る。確かに一見、穏やかで、おしとやかそうな見た目と、表情と、話し方と、アンディに対する心遣いはあったものの、その態度とはまるで相容れない、彼女の性行為における、あまりに激しい反応ぶりがあったのだ。大きすぎるその声は、おそらく、近所中に響き渡っていただろうし、絶叫を越えた、ほとんどその声を出したいがために、行為をしていたようにも思えていった。あえぐ声に加えて、愛していると絶叫し、わたしアンディのことを本当に愛しているの。心から愛しているのと世界中に宣言するかのように叫び倒していた。アンディが彼女の陰部を舌で愛しているときも、絶叫はすぐに、私も舐めたい、私も、あなたのを舐めたい、一緒に舐めたいと、これも外に居る人に、確実に聞こえるかのような大声を出し、そうしようと、体勢を変えた瞬間、彼女は獣のようにアンディの陰部にかぶりついてきた。そして、とりつかれたように、外側を舌で舐めだし、棒の側面から先に至るまで、細部に渡って舌をはわせ続け、玉の部分も丁寧に、唾液と共に口づけて、肛門のそばまで続き、そして、ついに、時は来たかのように、くわえていった。頭を激しく振っていった。アンディがいきそうになる寸前でやめ、先端を舌で舐めることに専念した。そのあとでまた、くわえて激しく動かしていった。挿入したあとは、さらなる絶叫が続き、フィニッシュの時には、逆に、その大きすぎる声に、アンディは妙な静けさすら感じてしまう始末だった。その記憶だけが、鮮明に蘇ってきた。ほとんどそれだけだった。秘めた激情はすでに、そこにあったのだ。アンディは後になって、彼女の本質は何ら変わっていなかったことに気づいた。ただ形を変えて、表出してきた荒れ狂った生き物だったのだ。

 あれは、いったい何だったのだろう。あんな感じに乱れていく女など、付き合た中にはついに見つけることができなかった。それなりに淫乱だったり、何よりそういう行為が好きな女。若いエネルギーをもてあましながら、そこに投入をせざるをえない女。色々いた。しかし、あのように、ほとんど、病的な域を越えて、戦場のど真ん中のような混沌と無秩序、理不尽と絶望を、あそこまで表現した女はどこにもいなかった。あれは異常だった。その女のことも、今はすっかりと記憶からは抜け落ちてしまっていた。女性としての魅力。懐かしむような親密な時間。そういったものは、欠片すら残されていなかった。ただこうして、長い時間の差を持って、再燃してきた暴発たちだった。あの災害級の、爆発の恐怖が、今沸き上がってきたのだ。あれはどうしたのだろう。どうなってしまったのだろう。どこに行ってしまったのだろう。消えるはずなどなかった。姿形を変え、来たるべきときに、来たるべき相手を前に、爆発するものであった。それは、表面には出てこない時期が、長ければ長いほど、醸造され、増長され、危険なものとなっていく。今もどこかで、誰かを相手に、爆発しているに違いなかった。特定の誰かでは、まるで収まりきらない規模のものに、成長を遂げてしまっているのかもしれなかった。誰にも手が終えず、ついには・・・。余計なことを考えたくはなかった。つまらぬ想像もするべきではなかった。一周回って、まさか、ここに舞い戻ってきたなんてことは、ないだろうな。それは決して、この自分に対する恋心が消えずに、忘れられずに、迫ってくるといったものではなかった。恋でも愛でもない復讐としか考えられない。あれから変わらぬ好意を持ち続けているとは、到底考えずらい。あの別れるときの絶叫は、それまでの二人の行為の中で、唯一捌け口となってきた、彼女の中の生き物が、その出所を失ってしまうことへの、悲鳴だったのかもしれなかった。

 そうか。すべてが悲鳴だったのかもしれないと、アンディは振り返った。あれは悲鳴だった。彼女自身の助けを求める声も、含まれていたのかもしれなかった。彼女の中に棲みついてしまった得体のしれない怪物の雄叫びに混じって、彼女自身のそういった生き物がいること、そして逃れることのできない、この同化してしまった運命に対して、何とか逃れたい、助けてくれと、切なる訴えであったのもしれなかった。彼女は人知れず、苦しんでいたのかもしれなかった。そして苦しみ続けているのかもしれない。逃れるきっかけが、欲しかった。そのきっけが失われた。大きく失われた。他に求めるしかなくなった。他の男に。あるいは、別の行為に。何でもいい。ただ、そこから逃れることができれば。そして、その出口は見つかったのだろうか。もし見つかっていないのならば。その脱出を求めて、もがき、荒れ狂い、どんな行動をも起こし、試し、繰り返して・・・、その果てで。掴めず、一筋の希望も、見いだせず、周り回って、巡り巡って、あの男のことを思い出す・・・。

 アンディは、暗闇の中を見渡した。

 闇に潜むその影に意識の焦点を合わせてみた。

 しかし、その感触は、今はなくなっていた。すでにどこかに行ってしまっていた。



 ここのところ、スペースクラフトを、全く使ってはなかった。

 マネージメントの、ユーリ・ラスとも、連絡はもっぱら、携帯電話だった。

 報告はすべて、スペースクラフトにはしないでくれと、アンディは頼んでいた。

「どう、変わりはない?」というのが、アンディの最近のユーリに対する、口癖になっていた。アンディは、ほとんどの業務を、すべて外部に丸投げしていた。商品やシステムの開発を、自分でした試しが、なかった。ただ全体を、オーガナイズするためだけに、存在していた。後のメンテナンスのことも、よくはわからない。チームが滞りなく回ってくれることだけが、アンディの願いであった。ふと、そのことが、女性関係にも思い当たっていた。全体をオーガナイズする・・・。一つも、自ら商品の開発を行ったことはない。全体にしか、唯一のめり込むものがない。そこにしか、心を込めてぶつける場所がない。まるで、一人の女との愛の極限を、探求することなど、自分には不得手であるということを、自認しているような形になってしまった。

 あの女のとき以来、気の狂った激しい存在には、出くわしたことはない。どうして、あのときは、出くわしてしまったのか。自分は何者でもなかった。あのときは、それほど、あいつが好きだったのだろうか。あいつ以外に、手を出していた女はいなかった。誰もいなかった。ほとんど毎日のように、一緒に居たような気がする。ほんの短い時間が、できれば、互いに、その僅かな隙間で、親密な時間を過ごしていたように思う。誰にも邪魔されない二人だけの空間に居たように思う。その女を、突然捨てていた。その捨て方は、それまでしたことはなかったし、今もまた、そうだった。まるで、何かの当て付けのように。彼女を心底、憤らせたかったかのように。恨みを晴らしたかったかのように。アンディの意識は、ほとんど初めて、過去へと遡っていた。あの女が、これほどまでに、蘇ってくるとは思わなかった。あのとき、一緒に居たときよりも、激烈に、今ここに立ち上がってきていた。そばを歩き回る影は、消えたというのに、この女の記憶の方は、まるで消えてはくれない。むしろ、色濃くなっていくようだ。だが、あの監視されていたかのように感じた視線は、円雷花とはまるで別物だ。円雷花がこうしてまた、俺にまとわりついてきたわけじゃない。俺に、復讐しに来たわけじゃない。だいたいあの女は、狂っていたのだ。俺のことを本気で好きだったわけじゃない。双方にとって、あれは、恋愛ごっこだったのだ。もし、性にその捌け口を、あの怪物が求めているとしたら、俺を相手にではない、適当な獲物を、すでに身近に見つけているはずだった。何せ、その発露に、切羽詰まっているわけだ。あれほどすっぱりと切った、俺になど、あえて再び、挑んでくるはずもない。それに、円雷花は、非常に綺麗でもあったのだ。男に不自由をするタイプではなかったのだ。あの当時だって、俺の友人や知り合いの女性たちは、円のことを美人だと評していたし、いつだって円は、人を惹きつけてもいた。周囲は、この二人は似合いだとか、アンディにはもったいないだとか、からかう連中もずいぶんといた。知らないところで、円に言い寄っていた人間もまた、居たらしいことが、後になってわかった。周囲に別れたことを知られると、円に対して、行動を実際に起こした人間が、次々といるのではないかと、疑う自分もまた居た。縁はきっぱりと切りたかったが、彼女が他人のものに、すぐなってしまうのもまた、嫌なものだった。しかし、すぐに忘れた。次の恋愛はすでに始まっていた。

 一通りの報告が終わっていた。

 ユーリ・ラスは、今では、秘書の役割を大きく拡大して、ほとんど社長、会長の代理といった存在で、リー・グループの中心に君臨していた。

 アンディ・リーには、ラファエル・リーとペンディング・ギー・リーという二人の弟もいて、基本的に三人で、起業していた。もちろん、アンディが全体像を描き、ほとんどそれ通りに築き上げていった会社ではあった。

 その荒い青写真に、口を出し、議論をふっかけ、さらにアイデアを膨らませ、角を削り、形にしていったのが、この二人を含むリー三兄弟だった。アンディは初めから、会長という肩書きの、特異な存在となり、三人は分担して、業務に当たることになった。ペンディング・ギー・リー、ことペンスリーは、セキュリティ部門のトップを。ラファエル・リーは、健康食品、器具、トレーニングプログラムなど、まだほとんどが立ち上がっていないが、いずれは、事業の主役になるかもしれない部門の開発に、力を注いでいた。地道な努力を、彼は研究者のごとく追求していた。アンディとは、ほとんど顔すら合わすこともなかった。アンディは、自らの片腕として、ユーリを抜擢した。会社を立ち上げた瞬間から、アンディの右腕として働いた。アンディの手足になることに、彼も徹していたようで、アンディの考えを実現するためだけに、動いているのは、誰の目にも明らかだった。

 初めは、誰とも分からない若者を引っ張ってきたことに、他の兄弟は、不審の念を募らせていったのだが、その働きぶりには、すぐに納得せざるをえなく、彼がいないと、アンディはうまく立ち回れない。リー・グループも、円滑に前には進んでいかない。彼を認めざるをえなかった。しかし常に、この二人の兄弟は、一抹の不安を抱え続けることにはなった。



 スペースクラフトバイブルは、主に未来を向いていて、キュービックシリーズは、主に過去の方向を向いていると、アンディは考えていた。アンディのこの、生きている現在というのは、過去から未来から圧迫されてきている。この、圧縮された瞬間という産物に、他ならなかった。圧縮されていない今に、どういった現在という名をつけることができるだろう。その密度は、とことん高ければ高い方がいい!そういう意味では、もっともっと激しく、強く、両方向から、中心へと、働きかける力の存在が必要だった。根元にある発想は、ほとんどそれだけであった。唯一の基点であった。

 スペースクラフトを、進化発展させるということは、来たるべき未来を、今とは大きく解離させ、たっぷりと距離をとるということを意味している。その解離は、あればあるほどいい。それは理想ではない。やって来ることが、確実な未来を、どれだけ遠くに設定して、それを今実現させられるか。その引き戻しが、圧縮なのだ。そして、それと同じほどの過去からの圧縮がなければ、今という名の現実のバランスは、見事に崩れていってしまう。大崩壊だ。不具合は、連鎖的に、大規模に発生してしまう。それが唯一にして、最大の弱点だった。だからこそ、これほどまでに、セキュリティに神経を尖らせるのだ。その、バランスの欠如を、意図的に狙ってくる勢力が、必ず出現してくる。今はまだ、誰もこの真なるコンセプトには気づいていないかもしれない。しかしいずれは、そこに勘づく人間が出現してくる。誰にも破らせない鉄壁な防御が必要だった。ここを狙うものは、皆、その報復を、自ら倍となって、受けるべきなのだ。過去からの風も、同等に必要だった。過去の世界があってこその、今の存在だ。その過去は、今をつくっている因果の最たる鎖である。その認識できる過去というのは、できるだけ遠い方がいい。遠ければ遠いほど、今へと引き戻る引力が、強大だと言うことだ。今は記憶にしかない、その過去の出来事が、今から遠ければ遠いほど、それは、今をより深く、根源的に表現しているものとなる。今を深く知ることに、多大な影響を及ぼす。

 キュービック・シリーズの事業が、軌道に乗ることを望む気持ちが、いくぶん焦燥感を漂わせているのも、そういったアンバランスが将来、訪れてしまうことを危惧するからであった。

 ドクター・ゴルドの言葉を借りるなら、スペースクラフトよりも早くに、キュービック・シリーズが、軌道に乗ることはありえないということだ。最もな発言であった。

 人間は常に、未来を向いているものである。特に、この科学技術を核に据えた、文明社会では。進歩が、何よりの目的であるし、目標を常に見据えるといったこと自体が、未来思考を顕著に表している。過去はすべて、不便の象徴となり、過去の不便さに遡っていこうとするなど、愚行の極みであった。過去はすべて、過ぎ去ったノスタルジックな風景であり、懐かしさと切なさを、欲するときにのみ、振り返るものにすぎなくなる。過去を写し出す、その物の過去を、多次元的に写し出す、キュービックの技術が重宝がられるのは、未来思考の文明に嫌気がさす、その瞬間にしかありえなかった。それも、ほんの束の間の気晴らし。

 もう少し待ちましょう、様子を見ましょうという、ゴルドの言い分も、当然わからないわけではなかった。



 けれどもやはり、今のところ肝心なのは、キュービックの存在なのだ。スペースクラフトとのエネルギーが、釣り合いのとれていない限りは、様々に準備している他の事業と繋がり、ネットワークを、築いていくことなど、決して出来やしなかった。

 この二つに加えて、ケイロ・スギサキの絵画事業もまた、待機していた。おそらく、この三つが母体となって、他のエネルギー事業、建築事業、交通事業、空間プロデュース、観光事業が連動して、瞬時に一気に立ち上がってくるのだ。そうなってしまえば、もう誰の手にも負えない。怪物は一気に目覚め、この地上をあっという間に覆い尽くしていく。良きにしろ、悪きにしろ、行き着くところまで、運命のままに進んでいく。アンディも、その状況を望んでいたし、また確実にそうなるとも踏んでいた。それも、この唯一にして、最初の壁が取り払われなければ何もならない。ただ、スペースクラフトⅠの爆発的な販売だけの花火で、事は終わってしまう。どこにも連鎖、発展、展開していかずに。ただのそれ一発で終わってしまう。スペースクラフトの発展系Ⅱ、Ⅲ、と続いていくはずの算段は、頓挫する。構想や準備が万全であっても、キュービックシリーズが同等のエネルギーを、地上で放射していない限り、そのままスペースクラフトを発展させていってしまえば、エネルギーの極端なアンバランスな世界が実現してしまい、スペースクラフト事業は、自壊に陥ってしまう。その後、一向に姿を見せないことに人々は幻滅し、購入者は集団で、訴訟を起こすことに違いない。経済界にも、科学の世界にも、決定的な亀裂を入れることになる。回っていたはずの、加速していたはずの道が、突然立ち切られる。あまりの唐突さに、別の補填のきかない非常事態が、続くことになる。世の中の他の事業や生活に、あっという間に、飛び火していってしまう。その連鎖は、スペースクラフトが、世に出る前よりもさらに悪く、取り戻せないほどに、壊滅状態と化してしまう。それまで積み上げてきた人類の歴史、発展を、何もかもを崩壊させてしまうことになる。その起点となってしまう。それは、アンディ個人の人生、リー・グループの事業全般を遥かにに越えて、世界そのものの損失に寄与してしまう。

 いずれにしても、すでに、スペースクラフトは世に出て、普及が加速していっている。前に進む以外にない。アンディは何もできずに、ただ待つことしかできないこの状況に、苦しみの境地を感じていった。これが、科学者であったならば。技術者であったならば。どんなに追い込まれようが、自らの研究で、自らの試行錯誤で、道の打開を、常に模索することができる。何もしていない時間など、生まれてくるはずもない。一瞬一瞬に、逆境のすべてを賭け、この身を投入することができる。どんな苦しい状況であっても。いや、逆に苦しい、どうにもならない状況ほど、燃え上がってくることだろう。生命力が燃え上がっていく。これは、快楽だ。一種の快楽なのだと、アンディは叫びたくなる。ところが、どうだ。この自分はどうだ。何もしないことが、唯一の仕事であるかのように、ただ指をくわえて状況の推移を見守っているだけだ。どっちに転ぼうが、何も貢献することができない。そのときだ。あなたの仕事はもう、ほとんど終えてしまっているんですよと、そういう声が聞こえてきた。

 最初の立ち上げの、その仕事こそが、あなたの最大の存在意義です。あなたにしかできないことだった。これからは、じょじょにじょじょに、身を引いていくことを覚えるべきです。会長という職には、確かに、留まることにはなるでしょう。留まるべきです。あなたの会社なのですから。あなたが顔なのですから。あなたが居なくなってしまえば、一体誰を中心に、この会社は回っていくのでしょう?地上においては、形というものが、大事なものとなります。たとえ、実態のなくなってしまった、象徴にしかすぎなくなってしまったしても、それでも、中心地というのは確実に必要です。この世は、暫定的な中心地で溢れかえっています。その中心地の在り方も、実に様々です。あなたは学ぶべきです。何もしない、手出しをすることさえしない、そんな中心地こそが、最大の力を有するということを。あなたは学ぶべきなのです。それを学ぶために生まれてきたといってもいい!決して大袈裟ではない。そのために、あなたは生まれてきたのです。そして、ここまで来た。あなたの意思で、あなたの生み出した力で、ここまで来たわけじゃない。来れるはずもない。ひとりの人間には、多大なバックアップがついているものです。そのバックが、リー・グループを築き上げた。そして、あなたは、その中心に納まり続けること、それなのです。それしかない。そこにしか、あなたの生はない。そこから降りるときは、死以外の、何の現象も起こしはしない!そして、今は全く、時が熟していない!熟してはいないのですよ!

 それが、人の声なのか、単なる風の囁きだったのか。単なる幻聴の調べだったのか。

 いつまでも耳の中で鳴り続いた。

「ちょっと、アンディ会長。聞いてますよね?電源は入ってますよね?」

 電話が繋がっていたのだ。シュルビス初らしき声がしている。

「ずっと、しゃべり続けてた?君」

「なんですって!」

「ずっと、しゃべり続けてたのかって訊いてるんだ」

「どういうことですか?」

「いつから、通話は繋がっていたのかということだよ!」

 アンディは、突然、怒鳴り散らした。

「ちょっと、何なんですか。やめてくださいよ。僕だって休日なのに、無理矢理、あなたの要求に答えるべく、迅速に行動をしたんですよ。成果が、すぐに上がったから、あなたに報告したのに。それがどんな言われようなんです?哀しくなりますよね。僕はね、あなたの何なのかって。あなたに誉められたい、認められたいって思う、この僕の儚い望みというのは、いったい何なのだろうって。たぶん、あなたのことを、父親のように思ってるからなんですよ。僕には、父親というものが、いなかったから。年配の男性に、認められたい。よくやった。君のおかげだ。君がいてくれたから。これからも助けてほしい。力になり続けてほしいって、そう言われたいんですよ。言われ続けたいんですよ。その儚い願いさえ、叶えられないんですか?僕には。また再び、ある時が来たら、僕をあっさりと捨てるんじゃないでしょうね?使い捨てなんですか?初めからそのつもりなら、そうだと、堂々と宣言したらいいじゃないですか。そしたら、僕は、割りきりますよ。お金のためだけにすること。その考えに、全面的に、傾倒します。あなたとの、心の繋がりは、その瞬間、絶ちきります」

「悪かった」アンディは、素直に謝った。

「色々と考えることがあった。少し混線していた。そう。混線していたんだ。本当に。別の通信回路が唐突に混じりあって、不自然な動きを生んでいた。すまない」

「そうだったんですか?」

「ああ、本当に、悪かった。で、報告とは」

「もう、大丈夫なんですね?言いますよ。鼠は見つかりました。雑誌の記者です。おそらく。あなたの身辺を嗅ぎ回っている。人間関係を。女性関係です。スキャンダルのネタを売りつけたいのでしょう。あるいは、何かの、取り引きに使うためのストックとして」

「まさに、鼠だな」

「これから、その人間の、身分検索をしていきます。とりあえずは、今知り得た情報だけです。名前は坂崎エルマ。26歳。女。バイセクシャル。元ホステス。元、売春婦」

「ろくな人間じゃない」

「以前は、警察の人間に、知り合いがいたようです。今はわかりません」

「で、今は、パパラッチか」

「なりたてのようですね」

「なんだって」

「しかし、他にいくつかの実績は、積んでいるようです。それをステップに」

「なるほど」

「で、さっそく、僕は、準備に入りましたよ」

「あのさ」

 アンディは、シュルビスの迅速な武装化に歯止めをかけるべく、頭の中で妙案を高速に探った。

「ひとつ、提案があるんだ。その坂崎っていう男、女に、僕以外の取材対象を、提供してあげるんだ。僕の元には、有象無象の組織がアプローチしてくるんだが、そのひとつに、実に怪しい新興宗教の教団があってね。そこの教祖のスキャンダルを、吹き込んでさ、金になるそのネタの対象を狩ることに、意識を向けていったらどうだろうと。その教団は、実に、僕と関わりを持とうとしつこくてね。両方一気に成敗したいんだ。そのおとこおんな共々、実にいい機会だと思ってさ。その教団に乗り込んだ、おとこおんなが、トラブって、教団の内部の人間に殺されたという、そういうシナリオが浮かだんだ。いいか。ただ人を消すのにも、そのでっち上げた理由というものが、必要になる。この前のナルサワトウゴウのときもそうだった。そのシナリオを描く前に、行動を起こさないことだ。わかるな?お前はそういったところがある。陳腐なシナリオで、全然構わないんだ。しかし、そこに物的証拠さえ繋ぐことができれば。だから、まずは、そのおとこおんなを、僕が指示した教団を嗅ぎ回るように、仕向けていくんだ。直接会って、そう囁きかけるんだ」

 アンディの言葉に、シュルビスは、信頼を回復した息子のように素直に従った。




































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 気晴らしに、映画を見ることが多くなっていた。その日も、たまたま入った映画館で、たまたま上映時間のタイミングのあった作品を、無条件に見ることにした。

 坂崎エルマは、そういった見方を好んだ。ほとんどこのスタイルでしか、最近は見てはいない。本もそうだし、舞台もまた、そのように鑑賞した。

 坂崎は、別にこれといった目当てがいつもなかったので、対象は何でもよかった。それに、どんな作品を見ようとも、その世界に入り込んで、我を忘れたことなどなかったし、手に汗握るなんてこともなければ、胸が熱くなったり、涙を流したりすることもなかった。自分事としては当然見られなかったし、喜怒哀楽を操ろうとする、作り手の思惑が、透けて見えているようで、どれも気持ちが悪かった。

 どれもこれも、人間というのは、ほとんど同じだ。年齢、性別、国籍、貧富の状況、衣装だけが、変わるだけで、エルマにはほとんど、同じことの繰り返しのように見えた。そして、映画にしても本にしても、そういった劣化版の、焼き直しコピーを、品を変え、技を変え、見せられても、特に幻滅も怒りも感じなかった。それは、あるべき当然の結果として、素直に受け入れさえしていた。週刊誌で権力者、著名人のスキャンダルもまた、いつになっても、同じことの繰り返しで、それでも、人々は何度見せられても喜ぶような風潮が、少しも弱まる気配はなかった。それでいいのだとも、エルマは思った。

 人間というのは、そういった生き物なのだ。動物にしても、植物にしても、しかり。毎年毎年、同じことを繰り返している。子孫に継承し、いつまでもぐるぐると、同じ場所を回っていく。出口などない。出口がないことにも、エルマは、特に何とも思わなかった。ないのならないで仕方がなかった。足掻いたって、出現するわけでもない。ただ見守ろうと思っただけだ。この繰り返す愚かさを、冷ややかに見守ってやろうと。特別、心を動かされるようなことはなかった。ただ繰り返される人間の、自然の愚かさを見続ける。そこには、何の意味もなければ、何の生産性もない。

 エルマは、その事実に笑みを浮かべた。ただ見ているだけでいい。

 見ている方もまた、実に馬鹿馬鹿しい。一生をただ、そのように過ごすわけだ。見ている方も、見られている方も、実にくだらない!そのくだらなさの全体性が、私に与えられた人生という喜劇なのだと、エルマはとらえていた。こうして愚かな映画をただ鑑賞する。パパラッチの真似事をし、スキャンダルをすっぱぬくという、フリーライターをするこの愚かさ。ただ事実だけを受け取り、事実だけを書き記す。それだけなのだ。

 坂崎エルマは、創作という言葉が大嫌いだった。この世に創作物など、どこにあるのだろうと思った。ノンフィクションというジャンルの本や、アートと呼ばれる絵画や音楽の、いったいどこに、人間の愚かさの繰り返しを逸脱したものが、生まれ出ているのだろう。そんなものは、原理的にありやしない。人間を逸脱しろといってるのと同じだ。人間が人間を描くことの中で、いったいどのように人間を逸脱しろというのか。

 動物に堕ちてしまえど、それは下等な人間を描いているのと同じことだ。

 坂崎エルマは、笑う。すでに、廃人と化している自分を笑う。人々が、日々、熱狂的に生きている様子。また、悲劇に落ち込んでいる様子。そこから立ち直ろうともがいている様子。希望の一筋を見つけて、歩んでいく様子。幸福と呼ばれる家族、友達、仲間との絆を、確かめ合う食事会、旅行。共に、志を同じく立ち上げる、事業の数々。そういった人間の当たり前の日々の営みに、エルマは心底うんざりしていった。本当にこれだけなのだろうか。これがやりたいがために、人間というのは日々、こうも、次なる人間を産み落としているのだろうか。うんざりするというよりは、あきれかえってしまった。友人だった、史実家という、ペンネームをつけた男のことが、懐かしかった。唯一、退屈しない人間を見つけたのだ。あの男の書いた本は、今も、自宅の本棚に残っている。今だに、自分には理解ができない。この理解できていないというところに、何かがあった。あの男は、人間世界を描いているのではなかった。人間を描いているのは、ただの体裁で、実際は、別のものを見ていた。違う場所に、意識は飛んでいっている。エルマには、そのことがわかった。嗅ぎとったといっていい。あの描写の背後に、何かが写りこんでいるのだ。その写りこんだものは、この目で確認することができない。どうやっても、感知することができない。見方、聞き方、味わい方が、わからないのだ。知らないのだ。それを、史実家が、自ら教えてくれるわけでもなかったし、その本人と食事をして、交流することでは、まるで掴むことのできないものであった。

 その日の映画は、探偵ものだった。一風、変わった内容ではあった。ある探偵がひとつの事件を解決するために雇われる。しかしそれは、探偵本人を狙った罠だった。この探偵を殺害するために、事件をわざわざ作って、そこに没頭するよう、探偵を巧みに誘導していったのだ。そして、その架空の事件に巻き込まれたように見せかけて、その探偵を殺害することに成功する。探偵は消える。警察も動き出すが、犯人を見つけることはできない。犯人は架空に創作され、それを操る真の影は、まるで浮かび上がってくることはない。

 殺された探偵の親族は、別の探偵に、この事件の解決を依頼する。今、生存している探偵が、今は亡き、探偵を追跡し続ける。事件の真相は、現れはしないが、そこにある影に、意識は常に引っ掛かり続ける。そこには確かに、何かの陰謀めいたものがあるが、何も掴むことはできない。次第に、探偵は、心を衰弱させていき、依頼者と接触することがなくなっていき、その行方がわからなくなっていく。失踪してしまった探偵の、仲のいい別の探偵が、今度は、誰の依頼を受けたわけでもなく、自発的に、事件の渦中へと飛び込んでいく。それはまるで、ブラックホールのようだった。次から次へと、その事件の真相へと、探偵は飛び込んでいくのだった。次第に、探偵ではない、別の職業の人間たちもまた、興味を持った人間たちから、次々と引き寄せられていった。そういった内容の映画であった。その連鎖は、いつまでも止まることはなかった。どれだけ関わりあう人間が増えていっても、問題の真相は、少しも浮かび上がってくることはなかった。それでいながら、興味、好奇心だけは、掻き立て続けるものだから、餌食となる人間の数を、加速度的に増やしていった。これもまた、人間の愚かさの発露に違いなかった。当然ながら、ストーリーに結末はなかった。そのままどこまでも、謎はそのままに犠牲者だけを増やしていくだけであった。犠牲者というのは初めの探偵の死とは別で、人間社会からの逸脱、失踪であった。失踪し続けていくのだった。存在を無くしていくのだった。影になっていくのだった。そのときだった。

 エルマの心を打つものがあった。影。影。影。発端の殺人犯は、影として作品の主人公に君臨していた。殺害の動機もまた影であり、どのように殺害して、処理したのかも、影に押しやられ、影ばかりが作品世界を埋めていく中で、最後に現れた『死の寺院』というタイトルだった。最後の最後で、タイトルが打ち出される映画。それは、この作品そのものが何かの告知であったかのような錯覚に陥らせた。

 エルマは、久々にいつもとは違う、意識の引っ掛かりを残せたことに、ほんの少しの満足を得ていた。



 その引っ掛かりは、翌日にも持ち越していた。映画ではなく、エルマは舞台を見に行っていた。「教団」という舞台で、出演者は、あまり有名な役者ではないのだろうか。全く聞いたことがなかった。小劇場系だと思っていたが、意外に広いホールで、客もまた、ほとんどの座席を埋めていた。エルマは後ろの方の座席だったので、ステージまではかなりの距離があった。しかしエルマは、別に舞台そのものに、特異な面白さを期待していたわけではなかったし、目当ての俳優が居るわけでもなかった。ただ、その場に座り、くだらない焼き直しの人間ドラマが流れる空間に、身を委ねるために、ここに居たのだ。だが、「教団」は、幕が開けるといきなり一人の老人が登場して、そして、こう切り出すことで、劇がスタートしたのだった。

 さあ、よく集まってくれた。私の元に、姿を現したところをみると、かなり切羽詰まっているのだと思われるね。今のこの時点においては、男もまた、女もまた多数が、席についていることだろう。

 その物言いは、実に不可思議であった。劇中の一つの役割としての俳優のしゃべりとしては、下手な演者のようでもあったし、その流暢ではない、リズムは、逆にナチュラルな通常の会話のようにも感じられてしまった。

 男でも女でもない人間は、君たちの中にはいない。その言葉もまた、いかにもそうではない人間がいるかのような、口ぶりだった。男として生まれ、男として生き抜き、男として死ぬ。女の方もまたそうだ。常に、双方は入れ替わることなく、ただ一方の側に、どちらかの極を通じて、人生を認識していく。しかしと男は言う。そんな不自然なことは、ない!マイクを通したような声ではなかった。そんな不自然なことはないのだ。どちらか一方の極だって?変わることのないその極性に妥協するだって?確かに不満を感じている人間は、一定数はいる。その他多数は、ただ無条件に受け入れて、何の違和感もなく、受け入れ、死に続けていく。その不満の一分子でさえ、ただ、逆の極に生まれつかなかったことによる、憤り。それだけにすぎない!よって、ほとんどの人間は、どちらかの極に片寄ることに何の違和感もない。ところが。男は言う。

 こうして、集まってくるたくさんの人間たちがいる。我が教団に。こうして、興味を示してくれるたくさんの人間がいる。私の元に、助けを求めに来る、たくさんの人間がいる。私は求められている。そして、君たちに与えることのできるものを持っている。私は、人の性別を、変換させていくことができるのだ。そして。それは、一度きりではない。何度だって、行ったり来たりさせることができる。自由自在に。君たち全員を。例外はない。ここに居る全員を、そうした状態に変えることができる。私は、君たちを、性別のない状態に変容させられることはできない。そんなことは、誰にもできやしない。私でなくとも、誰にもできやしない。神に背くことはできない。しかし、神に挑むことはできる。近づくことはできる。いや、近づくための努力はできるといっている。そして、その努力は、必要だ。君たちにも。私だけの力では、どうにもできない。しかし、私は、君たちの後押しのできる、最大の存在となるだろう。今日、ここに集まっている君たちの望みというのは、まったく同じものだ。実際、具体的な望みは、まったく違うだろう。そんなことは問題じゃない。私は、その具体的な、君たちの、こう言っては申し訳ないが、君たちのくだらない望み、欲望などに、興味はこれっぽっちもないのだ!勝手にしてほしい。そんなことではない。その、あまりに異なった、欲望たちの背後にある、背後に陣取っている、共通の望みのことを、私は言っている!それを抽出することで、語っているのだ。私はそうやって、共通の影を表出させる能力があるのだ。その共通項とは、いったい何なのか。それが、性別の変換なのだ。性別を自由に、行き来することのできる現実なのだ。

 確かにと、坂崎エルマは思う。少しばかり、このフィクションの劇にのめり込んでいる自分がいた。危うく飲み込まれそうになっている自分もいた。これがただの演劇の舞台であることを、一瞬忘れそうになっていた。確かに、私は、男でも女でもない、そのどちらでもある存在に、なりたいと思っていた。どちらにも限定することのない自分を、常に持て余してもいた。そして、その時々で、暫定的に固定もしていた。ということは、すでに行ったり来たりが、できているということじゃないか。それとも、肉体的に、自在に男のからだになる、女のからだになるというようなことが、可能になるとでもいうのか。君たちはすぐに、体の話になる、と舞台の男は見透かしたように、声を鳴り響かせる。そして、もちろん、体の話でもあると、男は続けた。体というのは、最初に現れる部分ではない。それは、最後なのだと、男は語った。最初だと思っている人間は、体そのものにメスを入れ、その形態をいじり始めることだろう。それはそれで、構わない。しかし、その後、また再び逆の極性に戻すことは、容易ではないだろう。戻したとして、一体、何の意味があるのだろう。そして再び、逆へと、素早く移りゆくことができない。最大の欠点が、そこにはある。自由自在というポイントが、まるで存在していない。それでも、そういった人間たちには、一方に、全面的に移ることが目的なのだ。だから、構わないといっている。しかし、我々はそうではない。行ったり来たりが自在にできるという状態を、手にいれようというのだから。

 私は今、この瞬間にも、あなたたちの存在を、そうした状況に変えることができる。

 今この瞬間にも。いいだろうか。はいっ。ね、どうだろう。自分の体に触れてみたらいい。男であったものは女に。女であったものが男に、その極性が見事に、変わっていることに気づくだろう。私は嘘は言わない。はいっ。そして、あっという間に元へと戻る。しかし、私は元に戻ったとは決して言わない。それは再び、向こうの極に行ったと、表現する。それは、さっきまでの状態とはまるで違うのだから。男が女になり、そして、男に戻ったわけでは決してない。男が女になり、そして男になったのだ。その違いがわかるだろうか。その違いはとても大きい!

 坂崎エルマは、自らの体の変化を確認する暇がなかった。何としても、このフィクション世界に没入してしまぬよう、最大限、意識を保とうとしていた。気を確かにしていないと、このおかしな世界に引き込まれていってしまう。これは、演劇の公演などではないのかもしれないと思うようになった。

 劇団が、「教団」という名前の、作品の壮行をしているのではなく、むしろ教団が、「演劇」という手段を方便に、信者の勧誘をしているのではないかとさえ思った。出演者がいまだ、一人しか登場しないというのは不自然すぎた。そして、この自分以外の観客たちは、一体何者なのか。普通の、演劇好きの観覧者なのだろうか。または、通りすがりにふらりと入ってしまった、観覧者なのだろうか。そうでないとしたら。ふと、坂崎エルマは、この広いホールに、たったひとりでいるような気がしてきた。たったひとり。そのひとりのために行われている・・・。教団はそうやって、一人一人、その組織に取り込んでいくという手法をとって・・・。一人一人確実に、餌食にしていく。ずいぶんと、効率は悪いが、百発百中の。一日たった、一人であったとしても。三回公演だったとしても。それほど多くの人間を、取り込むことはできない。私は、性別の変換を自在に行えると、男は主張する。それは入り口だ。しかし、入り口にして必須の、もっとも根源的なことだ。そこに自由がない限り、君たちは、自由を獲得することはないだろう。性別のない、その世界に旅立つためには、性別などは自在に行き来し、使いこなせなければ、話にならないはずだ。君たちは、我々の存在の何かに、引き付けられた。その意識は、引っ掛かりを感じた。だから、こうして、そこに座っている。これは、ほんの始まりだ。また、会うことになるだろう。それまでに、心をより整理しておくように。そのとき、別の人間が別の性別で、また別の話をしていることだろう。すべては繋がっている。そのときにまた会おう。

 第一幕は閉じた。



 性別の転換を、自由自在にだって?なんともくだらない!

 坂崎エルマは、終わりを待たずに、劇場の外に出ていた。こんなことは、初めてだった。感情が動かされたのだ。その揺れは、外を歩いている間も続いていた。そして昨今、激増した3D、4Dの広告を、煩わしいと思った最初の瞬間だった。これまで、ほとんど素通りするかのごとく、ただその映像には気に止めずに、すり抜けていたのだが、このときは何故か気にさわった。ひどく気にさわった。こんなにも雑音の中で、自分は生きていたのだろうか。気を引こうと、ここまで露骨に性的な描写で・・・。よく見れば見るほど、ほとんどが、直接的にしろ、間接的にしろ、人の性的刺激を挑発するようなものばかりで、その気を引いた瞬間、ほんの少し意識が緩んだ瞬間に、あらゆる情報が飛び散り、人の脳の深くに、こびりついてきていた。

 姑息なプログラミングが、そこかしこに跋扈していることに、エルマは発狂しそうになった。こんなにも醜い世界に、自分は生きているのだ。そして、あのおかしな劇における、男の声もまた、呼応するように鳴り響いていた。性別を越えることなど、いくら私でも、そんなことはできやしないと。意外にも、謙虚さを見せていた。ただ、自由に行き来させることはできると。この突然、自覚してしまった雑音に、影響を受けないで生きていくためには、確かに、性的な特徴を自身が持たないことが、ベストなことのように思える。私は他者が発するどんな意図にも影響されずに、静かに生きたいのだと、初めてこのとき認識する。

 私には、性別がないのではない。両性だった。行ったり来たりを、それは意味しているのかもしれなかった。時には男となり、女を愛する。また、ある時には、女となり男を愛する。それは、性的には人の何倍も強く、多く、影響されていることを意味していた。ただし、自在に行き来しているのとは違う。勝手に、そのときそのときに、スイッチは入れ替わってしまっている。私の体の芯を強く打つ、魅力的で、みぞを激しく打ち続ける相手の性別によって、私の立ち位置は、決められてしまうのだ。他者に縛られた、無選択状態であった。

 あの男に叫びたかった。私はただ、されるがままに、反応させられているだけなのです!私が選んでいるのではない。私はただの空っぽなのです。私のその、無空間に、人々は、好き勝手に侵入して、そして私を引き付けていくのです、誘惑、誘導していくのです。私という人間は、されるがままなのです。ただの反応を、私は、示しているだけなのです。愚かな、おとこおんなです。女が侵入してくれば、私の身体には、男としての機能が備わります。男としての象徴物に、血液が急激に集まり、そして、膨張します。女へと近づき、女との合体を熱望します。私の心も、男のそれとなり、攻撃性を備え、女を完全に襲い支配することを、自然発生させます。射精も激しくします。また男が侵入してくれば、私の身体に、そのような膨張は、まるで起こりません。女のそれになります。私に、女性器は、実際のところはありません。しかし、肛門は、女性器のようなものに、変貌します。男の肛門では、まるでなくなります。ほとんど、女性器のようになるのです。私は男に、その部分をはっきりと見せることはありません。明るいところでの行為にも、及びません。暗すぎるその場所を選んで、少しは男にいじらせますが。しかし、私はとにかく、はやく入れるよう、促すのです。男のものをくわえ、ほとんどイカせる寸前まで導いて、いや、ほとんどイカせてしまいます。出すものは、出させてしまうこともある。そのあとで、すぐに、挿入するよう導きます。すべての男は、私を女であると認識してきました。そこは、女の感触そのものなのでしょう。そのあいだ、男のそれは鳴りを潜めます。それは、自分でも触ったことがありますが、本当に縮こまっているのです。赤ちゃんのそれ以下。言われなければ、ただの疣のような。ちょっとした突起物。何かに刺されて、少しだけ腫れているかのような。私は行為中はなるべくその場所を自分の手で覆い隠します。見られもしないよう、細心の注意を払っています。男は、私の中に快楽を放出します。その瞬間から、私はじょじょに、女性であることをやめていきます。身体の変化も、おそらく、始まっているのでしょう。私は、行為後は長々と、ベッドの中にいることはありません。なるべくすぐに服を着て、起きてしまいます。男の時は、そのようなことはありません。私は両性を生きているのですと、その男に向かって言いたかった。自在に行き来はできていないのです。しかし、それ以外は、あなたの言っていた、あなたの特権にしていることもまた、私には可能なのです。

 エルマは、自宅に着いた。

 こんな雑音だらけの世界にあっては、移動手段として、スペースクラフトの購入は時間の問題だと思った。そのためにも、今度のアンディ・リーの女性スキャンダルのネタを、高い金額で売らなければならなかった。

 こうして無条件に、誰かを欲し、性的な行為に及びたいような夜には、エルマはいったい、どちらの性別になっているのか、感覚としてはよくわからなかった。



 その夜、エルマははじめて、キュービック・シリーズの封を切った。

 これまでの単行本とは、その形状からして違っていた。一回りも二回りも大きく、重厚なつくりであった。豪華本の類いだった。その装飾性もまた、見事なものだった。単行本のようにすべすべとした、あるいはつるつるとした質感とは違って、しっとりと手に馴染み、手からは離れず、また離したくはないと思わせる、皮膚との合一感があり、写真や絵柄が、一般的だった単行本の世界とは、異なり、内容を象徴するような、いかなる図柄も印刷されてはいなかった。

 象徴的な、小さな図形の連なりだったり、幾何学模様が、ほんの薄く刷り込まれていて、曼荼羅のような象徴的な図柄が、僅かに印刷されているだけで、注意してみなければ、全く見落としてしまうほどに、その主張は弱かった。

 装丁で読者を引き付け、手に入れたいという欲求を、まるで起こす気はないことが明確であった。高貴な近寄りがたい存在感と、美しい佇まい。気軽に開くことを拒否する空気感。しかしながら、いつまでも、待っているといった懐の広さのような、包み込む母性のような雰囲気すら、漂わせている。部屋のインテリアとして置いておくだけでも、十分、に絵になった。エルマはやっと、封を切る決心をつけた。

 タイトルは「D」だった。

 何故この本を選んだのか。今となっては思い出すことができなかった。

 ベストセラーだったのか。発売したばかりで、店に山積みされていたのか。棚に挟み込まれた無数の本の中から、妙な輝きを発していたから、選んだのか。迷いなく、この本を選んだその感触だけが今は残っていた。

 序章なのか、一章なのか。最初に登場した男は、あの「教団」の男と、同一人物のように思えてしまった。そんなことはないのだが、あまりに、あの舞台の印象が強すぎて、脳の中にその残像が残ってしまっていた。本の登場人物にも、その映像を投影してしまっていた。

 キュービック・シリーズの仕組みは、普通の本とはまるで異なっていた。自らの意思で並べられた言葉を読み進めていく必要などなかった。ページには文字の姿はなかった。紙の中に、プログラミングとして埋め込まれているのだ。言葉なき言葉として。そして、プログラミングを脳が読み取り、その複雑なすべてのプログラミングを、読み取り、脳の中で再構築され、再現されるのだ。

 読者は、自分の優位な五感の元に、映像として、音声として、香りや、味わい、感触として、それぞれの中で、再生されていくのである。

 その内容は、もちろん同じだ。しかし、表現のされ方に、個性が出る。この技術が確立したことで、作者はより、複雑な物語を、作品の中に組み込むことができるようになった。それまでの二次元な世界の中においては、平面で再現できる、ある種単調気味な、読んで理解のできる範囲の中における、創作を、余儀なくされている部分があり、その制限のある媒体に、創作者の意識は、合わせざるをえない状況にあった。もちろん、そういった媒体に対して、息苦しさや不自由さを感じていた作者の数は驚くほどに少なかった。皆、その媒体に、何の疑いもなく、何の不自然さも、不自由さも感じることはなく、そこに合わせて物語、フィクションの世界、あるいは、ドキュメンタリーや論文のようなもの、実用書などを発行していた。不自由さと退屈さ、つまらなさを感じるのは、いつも読者の方だった。その単調さは、常に似たような展開をもたらしていて、どこかの何かに似ている、体験したことのある、繰り返しであることを、認識せざるをえなくなり、どんな新しい本を読んだとしても、その形態としての繰り返し。ぐるぐると、その場を回り続けているような切なさ、惨めさを、感じるようになっていったのだ。

 それはまた、自分の人生、人間全体の運命そのものを、表しているようで、どこにも行き着くことのないむなしさが、色濃く感じられるようになっていった。その状況を、打開するための、新しいテクノロジーの登場だった。むしろ、この登場によって、作者は、それまでと同じような平板で単調な論理展開、物語展開を入れ込んだとしても、この新しい受け皿が、その単調さを再現することを許さなかった。複雑で、カオスの宇宙を通過させ、多次元な世界を表出するという結果をもたらした。そして、にもかかわらず、受け手は、込み入った文章を読むといったことが一切なくなり、始まりから終わりへと、順番に読んでいく、情報を取り込んでいくということがなくなり、途中で頭がこんがらかってしまうといったこと自体が、回避されたのだった。読むといった、自力による努力から解放され、ただ心を無にして受け止めるといったことで、吸収できるのだった。ほとんど、映画のようなものだった。

 エルマは、その初めての体験を、あっというまに終えた。

 反射的に時計を見た。時間をまるで感じなかったのだ。かと思えば、遥か長い時間、本の世界の中に浸っていたような気もする。長い時間をかけて、通過していったような気もする。そのどちらともいえない。どちらともいえる。よくわからなかった。時計だけが、客観的な事実を、示していた。

 ほんの一分か、二分ほど。そんなものだった。これは、多重な夢のようなものだと、エルマは思った。そして、その内容を、今はっきりと思い浮かべ、ひとに説明する難しさを感じた。だが、時間が、少しずつ経つにつれて、物語の断片断片が、強烈に甦ってきて、緩やかな流れのようなものが見えてきて、シーン同士が繋がっていって、細胞のネットワークが、形成されるような世界が、脳の中でできていくのだった。

 単純なストーリーではなかった。しかし、すべては繋がっていた。まるで無駄なラインはない。不必要なシーンもない。無意味な人物も、いない。ふと思ったのは、これまでのフィクション、物語とは違って、登場人物がかなり多かったことだ。そして、主人公が誰なのか、一見わからなかった。というよりは、主人公が複数、いや、それ以上、ほとんど全員が、そうといっても過言ではなかった。そして、そのどの主人公からも、物語は全体へと派生していて、と、ここまで考えるとエルマは、ひとつの物語を、すべての登場人物が、その人物独自の捉え方をしているというところに、主人公という暫定的な概念が、浮かんでくるのだと思った。主人公など、いないのだ。受け手の私が、その時々で、出てくる人物を、主人公に指定することで、主人公となるのだ。その人間の物語となるのである。物語は、人の数だけあり、それでいて、一つでもあるという、その二重性。矛盾性。同時性。多次元性。新しい単純性。そしてとエルマは思う。これは、時間が経つにつれて、鮮明になっていった。鮮明になればなるほど、それまで、はっきりしていたことが、ぼやけ始め、脱落し始める。そうやって、全体像はすでに、全てが獲得されているにもかかわらず、まったく全体を見渡すことができない。エルマはとりあえず、ひとりの男に、最初に現れたひとりの男に、その焦点を凝縮させて、回想するよう、その物語を振りかえってみることにした。



 もし、性別の自在性を、人々が獲得できなかったとき、と男は言う。

 それが必要な数、そろうことがなかったとしたら。今まででは、全く考えられない天変地異が、この地球を襲うことになるだろう。これまでにはなかった、地形ではない、空間そのものの形状が、変わってしまうほどの。

 男は、図形予報師という職業が新たに現れることを予測していた。

 天気予報の後にすぐ、図形予報というコーナーが現れるということを。今、この瞬間における、空間の状態。図形という表現で、示される、特定の地域の存在状態。それを、逐一把握することでしか、あまりに不安定すぎる世界で生きていくことなどできない。

 ほとんど、予測などできないのだが、それは、状態を捉えた時点で、すでに過去ということになる。

 ほんの少し先の状態を、予想できないのだ。予測は、もっとずっと先。ほとんどフィクションのレベルのような、そういったことでしか、できない。あとは、過ぎ去った形状の変遷の記録。天気予報とは、まるで異なったスパン。天気予報と図形予報は、それぞれ時間という象徴物としても、捉えられる。長期的な見方をするのか。あるいは、短期的な見方をするのかという。もし、性別の自在性を、人々が獲得できなかったとき、と男は繰り返す。それは、滅びの道だと言う。空間がこれほど歪み、むしろ、空間の方が、自在性の自由を、獲得できたかのように、好きなように、ほとんど生き物のように、これまで抑圧されてきた奔放性を、爆発させていくかのようになる。まるで、人間が獲得するはずだった、獲得できたであろう、その可能性を、代わりに獲得することで嘲笑うのごとく。

 手に入る寸前で、逃した人間を嘲笑うかのごとく。そして、空間の奔放性に、その後の人間は、ただ翻弄されていくだけである。

 人間は、空間の気まぐれに、運命を握られ、操られ、そしてただ生き延びるためだけの、対処を迫られることになる。その状態は続いていく・・・。

 人間の対応力とは、実に見事なものだ。どんなに困難な局面においても、必ず打開の道を提示することができる。人間の能力は試され、進化していく。人間とは、こうも、打たれ強いものなのか。まるで打たれることを、喜んでいるかのようだ。そうなることを、望んでいたかのようだ。人間は、空間の跋扈に、完全に対応していくようにもなる!しかし災害は増していく。死者の規模も、年々増加していく。その根本的な推移そのものに、人間は働きかけることはできなかった。自然現象として、あるべき展開を、受け入れていくしかなかった。初めの、あのときに。初めに答えはあったのだ。あそこで獲得できるその力を、逃したばかりに。時間は刻々と過ぎていく。

 過ぎていけばいくほどに、図形予報が必要になった本当の理由からも、遠ざかっていく。

 何もわからなくなっていく。気づかなくなっていく。そうして、人間は、再び、行き着くところまで行ってしまう。次のポイントまで、ずっと。何千年。何万年が、無意味に過ぎ去っていく。

 けれども、と男は続ける。

 いつだって、大事なことは、一緒なのだ。

 性別の自在性を獲得できたかどうか。我々は、思い出すときが近づいてきている。何万年にも渡り、繰り広げられてきた無知なるゲームを、終わらせることのできる、その地点が、もうすぐそこにまで、迫ってきている!チャンスは、たったのそこにしかない。過ぎてしまえば、その自在性は、人間ではなく、この地球上の空間、宇宙空間へと、無条件で譲り渡してしまうことになる。これまで以上に、人間は運命に、操られ、弄ばれることになるだろう。私はそうなってもらいたくないのだ!

 私は達成した。私は達成できたのだ。だから、できないとは言わせない。

 ひとりの人間に可能なことは、全ての人間にも可能であるということを、わかってもらいたいのだ!

 まずは、そこからなのだ!自分にもできると、確信を持つことこそが、入口となる。

 図形予報は早いうちに、あるいは、確立する方が、望ましいとも考えている。

 その後、手遅れになってから、必要に迫られて発展するよりも、今のうちに。そう。兆候はすでに、出てきているのだから。もうすぐ、デモンストレーションが行われるのだから。それは警告だ!獲得できなかったときは、こうなるのだという。そう。見せしめなのだ。しかし、それを、見せしめだと気づける人間は、非常に少ない!

 気づける人間は、私が今主張していることを、理解できる人間と同一だ!

 男は常に、そういった存在であったようだ。男は何度生まれ変わっても、同じ役割を担っていたようだ。形は変わろうが、常に、性別の自在性の獲得を、訴え続けていた。自ら、その獲得を目指して努力を続けていた。獲得できている人を求めて、さまよう時も過ごしていた。長いあいだ。そして結局はつかめずに、誰の後をついていっても、達成することができず、最後は、誰の助けも求めることをやめた。自分ひとりしか、頼るものはいないこと。その自分さえ、あるいは、何もできないのだということ。それでも自分しか、きっかけを与える存在が、この世にはいないのだということ。それだけは、事実だと理解する。

 男の心は、完全にひとりきりになっていった。

 頼るものは、自分しかいなかった。自分さえ、頼ることはできなかった。

 そして、どこにも行き着くきはしない。その場から全く動けなくなる。

 視力を失い、盲目になったようだ。


 その心の痛みを、坂崎エルマは感じ取った。

 心に触れた、初めての出来事だった。感情を揺さぶられたことなど、生まれて一度もなかった。男は色彩を失い、景色そのものを失ったのだ。空間を失い、地面を失ったのだと、エルマは思った。

 空間か。ここでは、空間が、決定的に重要なものであることを、あらためて知らされた。



 いつのまにか、この男の単独インタビューに成功していた。坂崎エルマは、ペンスという男と接触していた。ペンスの仲介で、教団の男と直接繋がることになった。

 エルマは、この本の事ばかりを考えていた。無意識に、このキュービック・シリーズを、外出中も、鞄の中に入れていたようなのだ。それを落としたところを、たまたまこのペンスという男が、拾い、手渡してくれたのだ。そういう出会いだった。

 ペンスもまた、この本に大変感銘を受けていて、まさに、キュービック・シリーズの、最初の幕開けとなる作品としては、申し分ないですねと彼は語った。

 そして、実はと、声を潜めてエルマに語り始めたのだ。

 僕は知っているのです、この男のことを。これは、フィクションの小説ではない。実在するのです。ええ、知ってますと、エルマは答えてしまいそうになる。寸前で、何とか堪える。彼を、主人公にした、舞台を見たことがあるんですと、言ってしまいそうになる。

 確かに、あの男は、舞台に出演していたようだ。しかし、役者としてではない。演劇でも何でもない。教団をアピールするための、宣伝活動をしている。それに遭遇したのです!

 確かに実在していますと、エルマは無言で呟いた。

「坂崎さんて、言うんですね。本名ですか?」

「所々」

 エルマは笑う。相手の男も笑う。

「エルマって、珍しい名前ですね」

「そっちが、本名なんです」

「そっちですか!坂崎って写真家が、デビューするようですけど、その人と、何か関係があるのかと思いました。違うんですね」

「ええ、存じ上げません」

「僕、キュービック・シリーズについて、けっこう詳しいんです。関係者ではないんだけど、その辺りに居る人間なんですよ。だから、今後に、出ていく作品の流れも、少しは知っているんです。小説の次は、写真集なんですよ。これは秘密ですよ。もちろん、世界観は、キュービック・シリーズですけれど。構成が。構造そのものが。これまでの出版物。メディアに乗った媒体物の、あらゆる分野を、これからなぞっていくはずですよ。塗り替えていくはずです。キューブ化していくはずです。一通り。これまで、存在しているあらゆるジャンルを、網羅していくはずです。まずは、既存のレールに乗っていくのが狙いですから。全てを塗り替えていく。二次元、三次元に乗っかってるものに、次元の魔法をかけていく」

「段階を、踏んでいくんですね」

「そうです。次元を上昇させていく。より、複雑な、その多次元世界を、露にしていく。同じ媒体の上に、被せていくことが非常にわかりやすい。どう拡大していったのか。どう俯瞰していったのかが、手にとるようにわかる」

 ペンスの言葉が、一瞬詰まり、間が空いた。

 エルマが素早く、そこを埋める。

「今でも、理解されてはいない。何が何だか、受け止める方が困っている。純粋に楽しめていない」

「ええ。しかし、あなたは、非常に楽しんでいらっしゃるようだ」

「あなたも」

「少数派です。けれども、近い将来は、違います。今が耐えどころなんです。そういった意味では、スペースクラフトバイブルの売れ行きが、好調なのが、追い風になっているんですよ」

「同じ会社の、商品なんですってね」

「ほとんど、同時期の、発売です」

「売れ行きに、だいぶん、差が生まれてしまっている」

「そのとおりです。しかし、想定の範囲ではあります」

「そうなんですか?」

「こんなものでしょう。今は、スペースクラフトがさらに、爆発的に、ブームになっていくのが自然な流れです。もちろん、緩やかに伸びていってくれても、構いませんが。あっという間であっても、構いやしません。どちらであっても」

「あなたの話を聞いていると、どうも、リー・グループの人か、関係者か、そのように感じてくるんですけど」

「鋭いですね。でもそこまで近い人間ではありません」

「なるほど」

「しかし、あなたのような、ファンになりそうな人に出会えてよかった。あなたのような人が、今後増えていくということは、わかっていても、実際にこうして出会えたなんて」

 ペンスという男は、本当に、自分が開発者か、あるいは作者であるかのような喜び方をした。

「お礼といっては、変ですが、この作中に出てくる男。まあ、モデルになった男とでも、申しましょうか。彼を紹介することはできます。あなた、ご職業は?」

 フリーのライターだと、エルマは答えた。

「そうですか。それなら、彼に、単独インタビューという形で、取材されるのはどうでしょう。二人で会うシチュエーションは、僕が作ってあげられます。是非、そうしてください。あなたの力になりたいんです。嬉しい、この今の気持ちに、僕の行動を、伴わせたいんです」

 こうして、あの男への単独インタビューが、その場で決まってしまったのだ。

 そして、翌日には、その男が、目の前にこうして居る。あの劇場ホールでの講演が決まっていた。まだ、あの公演が続いているのだという。その合間に、時間を作ってくれるのだという。ホールのロビーで会ってくれるということで、エルマは行った。

 公演は見なかった。ロビーで公演が終わるのを待っていた。

「お待たせしました」と男は頭を下げて、足早に登場してくる。

 舞台に居たときとはまるで、雰囲気が異なるため、エルマは戸惑ってしまう。

「興味をもっていただいるようで、大変嬉しく思います」

 恭しく律儀に、男は礼を述べる。

 エルマは内心、キューブの仕組みに、感銘を受けたのだと、思わず心で呟いてしまう。

 けれども、多少は、男の話していた内容にも、引っ掛かりを感じた。

 しかしあくまで、キュービック・シリーズのテクノロジーとしての素晴らしさに、興味をそそられていた。

 どうして、この教団が、そのキューブの第一段として選ばれたのだろう。むしろ、題材が、ヒットの芽を摘んでいるのではないかと思ってしまう。恋や友情や恋愛や、家族愛。同志の絆、などの題材で、展開すれば、もっと違った受け取られ方をしたのではないか。この意味不明な男を、選んだばっかりに、キュービック・シリーズは、停滞を余儀なくされている。そう思えてならなかった。


「何でも答えますよ」と男は言う。名前もまだ訊いてなかった。

「ギエール・Dと申します」

 おかしな名前ばかりだ。私の前に現れる人間は、どれも、常軌を逸している!自分の名も、確かにそれほど一般的だとは思えかったが、こうして次々と、現れ出てくる人間に比べてみれば、あまりにマトモすぎて逆に申し訳なくなる。

「坂崎エルマと申します」

 そう言うしかない。

「宜しく。で、さっそく本題に取りかかりましょう。時間がありません」

「何時まででしょうか」

「一時半から、公演が再開されます。二十五分には、切り上げなくては。今は、一時五分です。二十分はあります」

「進めましょう。その前に、簡単な、自己紹介をしておきましょうか」

「いえ、キュービック・シリーズを、私は、拝見しました」

「たしかに、それなら、あなたの脳には、私の成り立ちについては、ちゃんと入っている。しかし、今、それが、明瞭に取り出せるかどうかは、わからない。ちょっとばかし、突っつかないと」

「お願いします」

 目の前の男が話しているのか。脳の中の記憶回路に組み込まれた情報が、開示されているのか。目の前の現実が薄らぎ、意識が飛んでいっているのを、エルマは自覚する。

 この男を主体とした、ネットワークが、その混濁していく意識を、再構成していくようであった。男が今、どんな職業で、誰と、どのように生きていて、それはどういった経歴でそうなり、その後どういった目的の元に進んでいくのか。そういった、通常の情報であるなら、平板な紙の上、映像の上をなぞって行くだけで、十分だ。そして、そうではない、あまりに複雑で、俯瞰的な情報が、今開示されようとしていた。

 男を中心として、激しい渦が発生していた。

 男は、様々な風貌に分裂していき、そして、その分岐した人間たちが、同時に今、存在していた。性別も風貌も、格好も異なる、それらの人間たちは、皆、遡れば、この同じ人間へと辿り着いている。

 男は、今、死のうとしているのかもしれなかった。全力で死のうとしているのかもしれなかった。今ここまで導いてきた、分岐してきた様々な自分が、影として、纏わり彷徨っている。

 亡霊だ。男は、亡霊と共々自殺しようとしている。

 そういった映像が、感覚として甦ってくる。男は死のうとしている。

 存在のすべてをかけて、死のうとしているのだ。死だけが、その目的であるかのように。そこにだけ、今を生きている意味があるかのように。

 そして、男は、戸惑ってもいた。まだ、その時が来ていないかのように。

 男は待っているのだ。死神にとりつかれるのを。自らを、解放して、招き入れる体勢なのだ。

 ふと、エルマは、閃いた。この男は、画策している。死神を招き入れることを。男は死神を自ら創造しようとしている。自分を殺すように、自分を殺さなければならないように。逃げることのできない、その状況を、つくろうとしている。

 いや、もう、作ってしまっていた。だからこその、待っている、この状態なのかもしれなかった。

 そして、その死神は、この私ではない!

 私は死神として、男に選ばれたのではない!私は違う。

 私は何なのか。何のために・・・。その答えも、すぐにわかるような気がした。

 私は目撃者として、選ばれたのだ。中立な目撃者として。証人として、事件を証明できる存在として。私は男の画策に、まんまと嵌められたのだ。陰謀は、最初から、うごめいていたのだ。

 来たるべき場所へと来ている。今となっては、誰がどんな役割を担って、ここへと導いたのかを、思い出すことができなかった。意識は朦朧としている。男の姿も、次第に、渦となった影の嵐に、巻き込まれ、消えていた。影は、今、人の姿をしていない。ただの荒れ狂った海となっているだけだ。渦は、激しく旋回している。

 私が巻き込まれるのも、時間の問題だった

 男の存在の、全ての宿命に、今、私は巻き込まれようとしている。


 エルマは思う。このまま自分もまた死んでしまえばどうかと。ここで消えて何が悪いのだろう。何の不都合もありやしない。エルマは、これまで生きてきた人生に、何とか後悔の種を見つけようとしていた。引き留める何かを探していた。エルマはしかし、分かっていた。そんな種など、どこにもないということを。この自分こそが、いつでも、死神の到来を待っていたのだということを。待ち望んでいたのだということを。友人たちの死を、ただただ、羨望の眼差しで、見ていたということを。自分の順番が来ることを、心から天に訴えかけていたということを。

 男は消えている。私も消えている。渦の嵐の中。そして、その渦は水ではなく、空間そのものが、回っていることを知る。それはほとんど、映像という名の空間だった。わずかずつだが、その激流の粒子が、見えるようになっていった。それは、過去、脈々と生きてきた自分の、人類の、歴史の瞬間瞬間が映った記憶の海のようであった。

 その記憶が密集し、理不尽な同居を拒むかのごとく、対立しあい、ぶつかりあい、避けるように、こうして動きを加速していくかのようだ。

 そして交わることはない。交わることはない、全ての粒子が、今ここに存在していた。

 その渦は、次第に大きくなっていった。この世の元素すべてに至るまで、拡大していくようであった。破裂の時はもう近かった。爆発はとてつもない規模になるのだろう。そのときはもう来る。私はそこにいない。私はどこにもいない。空間がないことに気づいた。地面がないことに気づいた。寄って立つ場所は、もうどこにもないのた。

 黙って、じっと立っている空間はない。私はすでにいないのだ。

 私の肉体は、すでにどこにもない。時空の中に失っている。そして、その時空もまた、なくなっている。進みも後退もしない、ただ静止しているだけの、激しい旋回の中で。

 全てが音もなく炸裂する様子が思い浮かび、それと同時に、感覚はすべて消えた。





















 荒い息を、苦しそうに轟かせながら、耳元のそばに迫ってくる。

 音だけが復活していた。

 懐かしく、甘い、ねっとりとした匂い。心を解放している、この味わい。何かが、戻ってくるのも、すぐ、そこのような気がする。関根ミランは目を醒ました。

 どこをさまよっていたのか。暗闇の中で、この場がぐるぐると旋回していた。

 その渦中に私はいた。完全に官能のなか、イッてしまっていた。全身の輪郭がうまくとらえられてはいない。このときばかりは、自分が狭い入れ物に詰め込まれているような感覚は、失われている。すぐにそれも、失われることだろう。いや、これがずっと、続いていくと、想像しよう。そのとおりに、なっていくのかもしれない。二度と、この肉体には戻らないのかもしれない、その不安を抱きつつも、このときが、永遠に続けばいいとも思った。これまでとは同じ形では、存在することができないのだとしても。

 ルネとも、同じ関係を結ぶのが、難しくなることだろう。それだけが、心残りだった。

 居るはずのその男を、確認するため、静まりかえったその吐息のある場所を、見上げた。


 しかし、そこには、見知らぬ男がいた。

 恋人のD・Sルネではなかった。関根ミランは、一気に、解放感から引き戻されてしまった。体の中に一瞬で戻り、硬直させ、凍りついた頭の中で、前後関係を、必死で取り戻そうと揺すぶろうとしていた。しかし、何もかもが、気味悪く、静まりかえっていた。

 虫の鳴き声ひとつ聞こえてはこない。通りゆく車の音ひとつ、聞こえてはこない。

 何が起きてしまったのか。理解することができない。知らない男。年上の男。あの懐かしい匂いが、戻ってきた過去は、すでに過ぎ去っている。

 この男と関係を持ったのは、間違いない。両者は裸だ。そして私は、無防備に、ベッドに横になっている。男が体の上に乗っている。足は開かれている。しかし、ベッドの上に横たわっている感覚も、男が上に乗っている感覚も、そのどちらもまるで、捕らえることができない。私は浮いているかのごとく、何の支えも重みもなかった。どこで何をしているのか。この視覚に、その答えを求めることができなかった。五感のすべては、まるで、信用のできない代物のように成り変わっている。

 何も思い出すことができない。時間もまた、ここでは意味をなくしている。


 自分が、関根ミランであることだけは、辛うじて思い出すことができる。しかし、証明できる物が何もない。身動きもとれない。どうしたらいいのかがわからない。どうしたいのかも、わからない。ただ、さっきのあの解放感に、戻りたかっただけだ。

 しかし、今となっては、その戻り方すらわからない。


 死が迫ってきているような気がしてならない。

 あのナルサワトウゴウの不審死が、そのきっかけとなっていた。

 ナルサワとは直接、関わりがあった。彼とは、何度も仕事をした。共に食事をした。それ以上の関係はなかったが、今後も何度だって顔を合わせるはずだった。関根は、ナルサワの人間性に好意を抱いていたから、突然亡くなったことに、絶大なショックを受けた。初めは、哀しみに支配されていた感情は、次第に薄れゆき、いつのまにか、別のものに成り変わっていた。ナルサワのことは薄れていったが、代わりにやってきたのが、この自分に死が迫ってきているという感触だった。

 すべて、自分を中心に、とらえ始めたことだった。ナルサワの死は、ナルサワ個人の問題ではなかった。この私に迫ってくる、その本命の死の予行に、すぎないのだ。ここへ至るまでのステップ。段階を経てくる、その始まりなのだと。

 そして、昨夜の出来事だ!

 記憶は抜け落ち、綺麗に摩り替えられていたようにも思う。

 夢の中に誰かが侵入し、そして、別の人間の体験にすり替える。別の夢に成り変わっている。夢同士が交換された。私の知らないところで。あのあと、慌てて、男のマンションからは逃げ帰った。だが、その途中、またもや、意識が遠退いていた。朝目が覚めたとき、私は自宅のベッドの中に居た。あれは夢だったのだと、そう納得させようとしたが、体の倦怠感は、この半日以内に、性行為が行われたことを如実に示していた。そして、ルネの元に行く予定は、そこにはない。ルネ以外とは、セックスしていない。しかも、私は、あんな年上の男になどに、興味はない。抱かれたいと思うはずもなかった。たとえ、夢の中の出来事であったとしても、体は正直に、その痕跡を留めている。

 混濁してきているのだ。意識が。祖母の死に立ち会ったときも、彼女は譫言を発し続けていた。夢の中にいるようだった。体はそこに確かにある。意識が身体からは分離し、自ら彷徨い歩いていたのだろう。そして、別の意識と邂逅していたのだろう。そこには、あらたなる出会いがあり、あらたなる道が開けていたのだろう。すでに、次の世界、向こう側の世界に、行ってしまっているのかもしれなかった。それは、今の私、そのものだった。

 私の意識は、すでに分離を開始しているのだ。

 ときおり、私から離れていっている。こうして、強い意思を持って、ここに留まっている自分を持っているときには、その兆候は現れない。しかし、少し気を緩めれば。あっというまに、飛び去っていってしまう。それを留める力を、私はすでに、持ち合わせてはいない!きっと、あのナルサワトウゴウの事件以来。あれが始まりの合図だったのだ。事件は、今も解決していない。ニュースで報道されることはなくなった。犯人が上がったという情報もなかった。捜査の進展に関する情報もなかった。忘れ去られてしまっている。ありきたりの事件といえば、それまでだ。依頼された事件に、自ら乗り出した探偵が殺される。よくある話かもしれない。そのきっかけとなった事件の真相を、恋人のD・Sルネは、知っているようなことを、言っていた。リー・グループの、アンディ・リー会長が、その首謀者なのだという。ナルサワの秘書だった、リナ・サクライを、自分の所の秘書にしたいがために、邪魔な存在のナルサワを、罠にはめ、殺した。架空の依頼をかけて、誘きだし、その依頼に関わりある、何かに巻き込まれた形で、消されてしまったのだと。

 ルネは、リー・グループの幹部の一人、アンディの実の弟であるラファエル・リーに、そのことを聞いたのだと。ルネは、リー・グループの仕事を、かなり請け負っていた。リー・グループの、システムのプログラミングの主要なところを、ほとんど担当していた。

 もちろん、リー・グループ専属のプログラマーではなかったし、今となっては、リー・グループからの請け負いは、ほとんどないと思う。リー・グループの創業当時、立ち上げに、大きく関わっただけだ。しかし、今も、アンディとの繋がりはある。もし、その事件の真相が、本当であるのなら、ルネはアンディの秘密を握っていることになる。それ以上、ルネは何も話そうとはしなかった。しかし、このまま放っておくようには思えなかった。


 関根の直感としては、ルネが、何かを考えていること。その考えのもとに、今回のことは、一つの材料としてストックしておくこと。そのストックは、まだ使える状態ではないし、状況もそうではないということ。何かを狙っているのだ。ルネは。最初にそう感じたからこそ、それ以上、ルネに問い正すことはしなかった。できるだけ、自分は離れていなくては、と思ったのだ。関わりをもってはいけないのだと思った。ルネのことは、もちろん信用していた。恋人としても何の不満もなかった。けれども、と関根は思う。それは、今現在においてのことだった。未来はどうなるのかわからなかった。互いの状況など、予測不能だった。関根も仕事柄、状況などというものは、次の瞬間には別の姿を見せ、局面によっては、人間関係など、一変してしまうことを常に覚悟していた。今回のこともそうだった。

 そうか、そういうことなのか。今度の件を境に、ルネと私の関係は一変してしまったのかもしれない。その象徴としてのあの夢。別の男と関係を持った夢が、差し込まれていたのかもしれなかった。今は、その解釈が限界だった。からだに残った痕跡を説明できる、何の持ち合わせもなかった。どっちにしろ、死が迫ってきている感覚を、払拭することはできそうになかった。誰に狙われているのかもわからないし、どうしてそういった事態になってしまっているのかも、わからなかった。

 誰かの陰謀のもとに行われている、大仕掛けの何かなのか。それとも、私の個人的な寿命の問題なのか。あるいは、私がこれまでしてきたことに対する、その報復が、来つつあるとでもいうのか。

 ナルサワトウゴウの事件を、個人的に深く、調べてみる必要があるのかもしれないと、思うようになった。



~その性別の超越というのは、具体的に、どのようなことをすれば、達成できるものなのですか~

 再び、公演が開始されるまで、五分を切ってしまっていた。最後の質問だった。

「簡単に言うと、というか、達成は、簡単ではありませんね。しかし、可能性のことを言っても、仕方がありません。確率の問題でもない。いいですか。まず、大事なことは、死ぬポイントです。人が死ぬポイント」

~と申しますと?~

「寿命というのは、この生命体それぞれが、元々持って生まれてくる。それを引き伸ばすというのは、なかなか難しいし、それこそ、ほとんど不可能です。それに、引き伸ばして良いことなど、何ひとつない。そのことの方が、考えるべき問題です。命を引き伸ばして良いことなど、何ひとつない。私は断言できます。なぜなら、これも、私は遥か昔に試したことがあるからです。それは、本当に、無意味なことだった。根本的な解決法としては、実に稚拙なものだった」

~解決法とおっしゃいました。何を解決するのでしょう。根本的に~

「いい質問ですね。それこそが、核心に迫る、唯一の質問です。人は何故生きているのか。何故生まれてくるのか。何故死んでいくのか。その繰り返しには、一体、何の意味があるのか。何かはわからないが、きっと、重大な意味があるのだろう。そう考えずには、人というのは生きてはいけない。そう。希望ですよ。欲望といって差し支えない。欲望が生を生むわけです」

~では、死は?~

「欲望とは、残念ながら、関係がありません。何度も言いますが、それは決められたものなのです。設定された肉体の限界値です。ただのそれだけです。意味なんて何もない。食べものには、賞味期限がある。それと同じことです。それが来たら、腐って滅びてしまう。その目安。ただの、メモリです。それを引き伸ばして、いったいどんな意味があるのでしょうか?日持ちが、するだけです。いずれは、腐ります。それまでに食べなくては。つまりは、食べる時期を、ただ後ろにズラすだけ。先送りにしてしまうだけ。腐り終わるという事実を、ただ逸らしてしてしまうだけ。寿命を伸ばすというのは、ただの、それだけなのです。哀しみも、いずれは、やってくる。ならばそうです。時間もなくなってきました。結論を急ぎましょう。つまりは、早めるということです」

~早める?~

「寿命として、設定されたそのメモリを、前倒しするということです。それに伴い、すべての現象、展開、生活を、前倒しにする。今に凝縮して、プレスしてしまう、ということです。前にもってくる。あと、五十年生きることになっていたとすれば、それを三十年、あるいは、十年、五年と、縮めていってしまう」

~そんなことが・・・~

「できるにきまってるでしょう。だって、あなたたちは、そういったことを、ずっとやってきている。あなたが今、ドラッグ漬けになったとしたらどうです?ジャンクフードを死ぬほど食べてみたら、どうです?世界に対する怒りを、これでもかと、心に持つことを、始めてみたらどうです?人に対する恨みに、まみれていったらどうです?罪悪感を重ねるためだけに、生きてみたらどうです?そういうことを、人は日常的に、多かれ少なかれやっているものです。そうやって、自分の持ち時間を、すり減らしている。前倒してしまっている。無意識に」

~確かに~

「この無意識にしていることが、山ほどあるんです。そして、この行動は、実はそれほど前倒しもされていない。緩い自殺を、日々繰り返しているようなもので、実に生ぬるい。そうですよね?考えてもみてください。ご自身のことも。他人のことでもいいですけど。サンプルなど、人の数だけありますから」

~日々、ゆるやかな自殺・・・確かに~

「答えは、近づいてきました」

 エルマは初めに、自分がした質問を忘れていた。

「ポイントは、自殺なんです。その前倒しという意味での。そして、ゆるやかなそれではなく、急激にそのエネルギーを、前に引き起こす。ズラしてしまう。次の瞬間にまで、急速に」

~そんなことが~

「だから、通常では、とても難しいことだと言っているんです。生というのは、実にのっぺりとした、悠長で、猶予そのものの海、といっても過言ではない。のんびりと、我々は過ごしているんですよ。何か、急激な大災害でも、目の前にしないかぎりは、その悠長さには限りがない。日々、膨張していくようなものです。それでは、益々、我々人間というものは、性別を顕著にしていってしまう。男が男である。女が女である。その現実が、日々色濃くなっていってしまう。性的な文明になっていってしまう。ほとんど、セックスにしか、魅力はなくなってしまう。セックスから派生した物事で、溢れかえってしまう。それが現代です。そして、今後もさらに、その傾向は加速していってしまう。科学テクノロジーは、人の命を劇的に伸ばす方向へと進化していきます。人々も死の恐れから逃れるために、その傾向を支持します。ただ、先送りをしたいがために、今を見なくてすむようにするために、先送りを強烈に支持します。同化していきます。そして、どこかの時点で、そのセックスにさえ、興味を失います。ただそれは、私が主張している性別を越えているということではありません。それは生きながらにして、生命力を失ったことを、意味するだけです。

 では、公演の時間が来てしまいました。これで、失礼します。インタビューを受けるのは、今後もかまいませんが、こうした合間でしか、時間はとれそうにありません。それにあなたは、こうしたインタビューには、もう来ないのではないでしょうか」

 男は、最後に、不可解な言葉を残して、エルマの前から颯爽と立ち去ってしまう。



















2048 4





















 図形予報というものを見たのは、その時が初めてだった。天気予報に続いて、図形予報が流れた。図形予報師という男が現れ、関根はついにその夜、自分がおかしくなってしまったのだと思った。それでも、推移を静かに見守る冷徹さは、持っていた。職業柄、身についてしまったことだった。図形予報師とテロップが出ていたが、この男は、地質学者なのだと確信する。

 ふとこれは、未来には、本当にそうなっているのではないか。未来の絵の反映が、きっと何かの拍子に、こうして差し込まれているのだとも思った。だとしたら、自分は狂ってなどいない!狂っているのは、外側の世界の方だ。私ではない!むしろ私は、こうして取り乱しもせず、かといって、疑いもせずに、同化もしていない。ただ耳を澄ませている。

 関根は、そういう状態だったため、語られる用語を、次々と難なく記憶していった。

 二ヶ月後に、シークレットフォールズが、日本列島の東海岸に現れます。関東地方を直撃し、強烈な地下への気流が発生し、周囲を飲み込み、著しく地形を変えます。準備をおこたりなく、それに向けて、対策をとっていってください。セブンスパイラルも、各地で同時に起こります。たいへん狭い地域での出来事ですが、細心の注意を払ってください。その後、地形は、ブルーオーシャンとなり、大陸は、ニューレムランティズへと変わります。そのあいだ、ブラッキホールが出現するため、とても大きな処分品をお持ちの人々、企業の皆様は、この機会を是非ご利用ください。ホワイテスタホールは、起きません。一年後、さらにはその先になるまで、ホワイテスタホールはありません。図形予報師の隣には、若いアナウンサーとおぼしき女性が立っている。「今度のセブンスパイラルは」と台風のようにその女は言った。「セブンスパイラルは、各地で、細かい欠片で、起こるそうですが、その威力と規模は、どのくらいになるのでしょうか」

「確かに」図形予報師の中年男は、すぐさま答えた。「その規模は、微々たるものでしょう。しかし、その数は、これまでの観測史上、最高となる見込みです。したがって、その連動性には、注意を払うべきでしょう。どういった結び付きのもとに、現象を起こしていくのか。注意深く、推移を見守るべきです。今はまだ、予測することはできません。その兆しが、現れ始めたということです」

「威力の方は?」

「それも、結び付きの度合いと、多様性でしょう。その渦中、ピンポイントに入ってしまわなければ、人も物も、損壊はありません。ピンポイントに入ってしまえば、命の危険もあるでしょう」

「ということは、その結び付き次第では、クラスターウィングの、発生もありえるということですね」

「いまだ、そのような現象は、観測で、確認できたことはありませんが。今度は、確かに、その恐れはあります」

「気象庁の実験では、すでに、データとしてはありますよね」

「ええ。空に舞い上がっていく、その砂塵のような翼の姿をした、その現象は、地上に光を封じてしまうほどの発達した雲のような、障害物として・・・」

「その被害は、図りしれません」

「それは、舞い上がる、何の塊なのでしょう」

「詳しくは、また、近づいたらお話します」

「とにかく、クラスターウィングの発生も、ありえるということですね。そのことだけは、頭にいれておきましょう」

「すべては、シークレットフォールズが、現象化することで始まる、一連の出来事です。その、最初の兆しには、注意を払いましょう。図形予報は以上です」


 テレビ画面は、コマーシャルへと入った。

 関根ミランは、このわけのわからない言葉の羅列を、目の前の空間に浮かべ並べていた。

 それは聞いたことのない言葉であったものの、ちゃんと序列があり、順番があり、連動性と連鎖性のある、一つのまとまりのある世界であった。混乱をただ、引き起こすだけのものではないらしかった。そして、この私もまた、狂ってなどいない。ただ、私のその死の予感に連動して、世界が劇的に変わっていくのが、はっきりとわかったのだ。

 どっちがどっちに、影響を及ぼしているのか。その両方であることに、疑いはなかった。ということは。関根ミランは思う。これは、私だけに起きていることではないんじゃないか。こうして、公共放送で、堂々と開陳しているのだ。私だけが、目撃しているものでもないはずだ。

 ということは、少なくない人たちが、自らの死を感じ始めているのだろうか。どういう終わり方をするのかはわからなかったが、確実に、生は、絶ちきられてしまうのではないかと思った。

 この図形予報は、どういった経緯で、世の中に登場してきたのか。そのあいだが、ずいぶんと飛んでいたが、関根は自分の想像力で、そこを補い始めていた。天気予報ではすでに、手に負えなくなっているというのが、最初に思ったことだった。

 災害の割合は、劇的に増え、規模は拡大し、多様性に富み始めているということを、現代人はすでに知っている。それが急激に、加速していった結果、天気などといった情報では、まるで賄うことのできない現象が、実は、この自然現象の裏には存在していた。それを発見した学者、研究者たちが、図形予報なるものを造りだして、研究者自らが、まずは図形予報師になった。そして、図形予報師を専門職として確立させ、その人間を養成するべく、国家試験を成り立たせて、学習体系を創出していった。自らは、図形予報師なるものから、降りる算段をつけていった。彼らは学者へと戻っていった。研究機関の人間に。または、大学の教授に戻っていった。彼らは、元々は、地質学者だったのだ。地質学が、空間推移学へと変化していき、今見た状況が、当たり前になっているのだ。そしてと、関根は、欠落を埋めるべく作業を繰り返す。

 突然、涌き出てきたのは、多重性という考えだった。多次元性といってもよかった。その多重性を、加速していった、多次元性を、加速させていった、そのときに起こる絶大な現象・・・それが、まさか、迫り来る死として、私が個人的に、捕らえてしまったのではないだろうか。

 私の死というよりは・・人類全体の・・・地球全体の・・・いや、早合点はいけない。

 これはあくまで、私個人のことだった。私だけが感じる、独自の焦燥感だった。そうか。D・Sルネに会って、それを確かめてみたらよかった。彼もまた、同じことを感じているのなら、それは、とりあえずは、自分一人の事柄ではない。すぐに地球全体のことまで、飛躍するのは危険であった。



「ああ。ラファエルか。最近は、どうしてる?新しい事業も、ちっとも、立ち上がってこないじゃいか。あいつはほとんど何もやってない。ああ、そうだよ。兄弟だよ。実のね。そうなんだ。だから、やっかいなんだ。切るに切れない。しかし、行方がわからないって。なに?海外に、視察に行っている?本当なのか?ただ遊びに行ってるだけなんじゃないのか?まったく。今度、一度、腹を据えて、二人で話しをするしかないな。わかったよ。了解だ。よく報告してくれた。すまない。それじゃあ」

 アンディ・リーは、脱ぎかけたシャツを完全に身体から外し、細身の筋肉質の肌を、恋人に晒した。江地凛はすでに、ベッドの上で、下着だけを身に付けた状態だった。

「すまん。会社の人間からだ」

 アンディは、電話を切り、さらには電源までを切り、テーブルの上に置いた。

「もう大丈夫なの?」

 江地凛は、いつもの白すぎる肌を晒して、ほんの少し肌寒くなった初秋の中、アンディの熱をもらうことを、欲していた。アンディはすぐに、彼女を抱きしめ、冷たくなった江地凛の全身を、包み込んだ。その冷たさは、江地凛が死んだときに、まるで自分が抱きかかえている未来を先取りしているかのようで、ぞっとした。何故か、予行のような、予告のような、あるいは過去にあったかのような、錯覚に陥っていた。その後も、抱擁を繰り返し、彼女に暖かみを取り戻そうとしたが、いつになっても、その熱は移ってはいかず、彼女自身から発する熱もまた、生まれ出ることはなかった。しかし、アンディは、汗ばんできていた。彼女の冷んやりとした肌は、逆に、心地がよかった。唇には暖かみがあり、アンディはずっと、彼女の口から、自らの唇を離すことはなかった。江地凛の小ぶりな胸を、口に含むため、キスをやめるまでずっと。さらには、下着をとり、その下にまで。

 性器は、強く熱をもっていた。全身の熱のほとんどが、ここに結集しているかのようだった。アンディは、夢中で、彼女を口に含み、そして、その熱を自らの内へと、吸いとっていった。そしてさらに、熱くなったアンディ自身から、彼女に熱を返していった。

 その日のアンディ自身の熱もまた、相当なものだった。彼女の中に入ったときには、その結合した部分の熱に、これほど驚いたこともなかった。そして、その熱は、少しも冷めることなく、二人を愛の中心へと導いていった。アンディは、これほど愛を感じるときもなかった。アンディはじっと、体を動かさずに沈黙に溺れ、動かし愛してると呟いて、全身を震わせながら、自分も失っていった。輪郭のすべては、溶けきっていった。そこには、誰もいないかのようだった。ベッドもなく、部屋もなく、ただ、あまりに広い海が、そこにはあるかのようだった。漂っていた。誰もそこにはいない。海そのものがあるだけだった。自らの放出物もまた海に流れだし、海そのものとなり、どこかに消えてしまったかのようだった。その海は、少しも冷たくはなかった。熱そのものであって、暖かみのある心地のよい世界だった。時はずいぶんと長く続いた。

 ふと、彼女の中から、抜き取らなくてはならないことを思いだしたことで、一気に、寒気が襲ってきた。

 江地凛の体が下にあった。彼女の皮膚は、少しも熱を帯びてはいない。抜き取るときに少しだけ性器に触ってみる。そこもすでに熱は失われている。わずかに残っていたものの、その寿命も、わずかであった。江地凛は、目を瞑っている。不安に思う間もなく、彼女は目を開ける。アンディに両手を差し出して、体を求めてきている。アンディは江地凛の唇にキスをする。そして、彼女の体を包み込む。その白い肌は、発光しているかのように輝きに満ちている。江地凛は、満足そうな笑顔を浮かべる。何も言葉はいらなかった。だが、アンディは、不安が募っていった。こうして、彼女との絶頂を体験していくにつれて、彼女はますます、死んでいくのではないか。死に近づいているのではないか。その身体は、死んでいっているのではないか。彼女からある種の生きるエネルギーが失われていってるような気がする。彼女を抱き、彼女に快感を与え、与えられ、登りつめていく度に、彼女からは、エネルギーが極端に失われていっている・・・。どこに消えてしまうのかはわからない。アンディの中で、そのようなエネルギーが、失われている様子はない。彼女から、こっちに移ってきているわけでもない。彼女の失われたエネルギーは、どこかに消えてしまっている。そして、満足そうに彼女は微笑んでいる。まるで、それを望んでいたかのように。失われていくことが望みであったかのように。その相手が、アンディであることを、心から喜んでいるかのように。体もまた、正直だった。あの冷たい全身とは裏腹に、彼女の局部は、あれほどの熱をもっていた。アンディのそれよりも、遥かに熱をもっていた。そこにすべてのエネルギーが、一時的に結集しているかのようだった。そして、そこから、アンディの放出と共に、熱はどこかに消えてしまった。抱くたびに、消えていった。アンディの不安は、彼女を抱くことをしばらく躊躇していくかのように、この終わった瞬間は、思ってしまうのだった。しかし、二週間もすれば、再び二人は、自然と体を寄せ合い、二人の世界へと登りつめていく。彼女の肉体は、さらに冷たさを顕著にして、それに反するように、局部は熱を帯びていく。アンディもまた。そして、そのときはやってくる。終わったときの彼女のしおらしさといったら、たまらなかった。彼女のことを愛しているのだ。そういった想いが、自然に湧いてきては、立ち昇ってっていく。行為そのものに、全霊で傾注していけばいくほど、アンディを引き留めるものは何もなくなり、あの大海へと突き進んでいってしまう。

 江地凛ひとりが居ればいい。彼女が自分の全てになればいい。彼女は妻であり秘書であり愛人でありビジネスパートナーであり、同じ趣味を持つ同士であり、人生を共に最後まで歩んでいく、唯一の人なのだ。他には何もいらない。残りの時間、彼女と一緒に生きてさえいければ、他には何もいらない。アンディは全身で、その瞬間は求婚していた。そういう想いがすべて詰め込まれて、彼女に流れ出ていっていた。彼女の子宮の中に、響き渡っていった。しかし、そうなればなるほどに、彼女はますます死んでいってるような気がした。この二人の世界は、今、この瞬間にだけ存在していて、その後は冷たく、彼女はエネルギーを失っていくのだ。この自分だけが、僅かな熱の復活と共に、この場に取り残される。ひとり取り残される。その現実が訪れる。アンディは、別の女性の影が、近づいてきていることを感じとる。

 江地凛は、そう長くはないのだ。俺は何かを知っているのだとアンディは呟く。知っているのだ。江地凛がどうなってしまうのかを。自分は、どういった状況で取り残されてしまうのかを。知っているからこその、この瞬間の邂逅を、奇跡のようにとらえ、その瀬戸際の生に、全霊で没入しているのだ。後にやってくるものは、それ以外にはない。それ以外にはないのだ。江地凛はそう長くはない。今日ではなかった。けれども、そう遠くはない。それがいつなのかはわからない。そんなことは考えたくもない。考える必要もない。けれども体は知っている。細胞は知っている。知っているに、きまっている。これほど二人は、無防備な状態で、触れあっているのだ。深く愛し合っているのだ。すべてを知っているのだ。アンディは、今にも壊れそうなガラス細工を、拾い集めるように、江地凛を抱き抱え、そしてゆっくりと起こしていった。



 言うならば、それは、凝縮させた自殺ということだよ。それが、本当の自殺ということだ。逃げるために突如ぷつんと、絶ちきるといった、あの自殺のことじゃない。あるいは通常、多くの人間がしているような、だだっぴろく、自殺の痕跡すら残らないくらいに、引き伸ばされた、あのくだらない生のことでもない。それは、前倒しだ。つまりは、前倒すための努力だ。そうなのだよ。努力が必要なのだよ、それには。ただ、何もせずに、あるいは、やらされること。皆も、そうしているからといった、その理由でのみやっている、やってしまっている、行為とはまるで対極にある、自分の意思で、力強い意図に基づいて、全霊の傾注で、日々、瞬間瞬間を前倒すためだけに生きる。それが、私のいう自殺なのだ!

 エルマは夜寝ているときも、昼間起きているときも、絶えず夢を見続けているようであった。あの男が常に現れ、そして講義の続き、公演の続き、インタビューの続きを、執り行っているかのようだった。それも、私個人を相手に。私に向かって、私だけのために。

 次第に、エルマは、心の中で自分がその男の言葉の続きを、生み出していってるかのような錯覚に陥っていた。すでに、男の声は、自分と同化している。私の肉体に、いつのまにか入り込み、操り始めているかのようだ。そして日々、君は、自殺を繰り返していくのだと。全身全霊、その瞬間に、すべてのエネルギーを注いでいくのだと。何でもいいのだと。何をしていても構わないのだと。ただの、ルーティーンワークだったとしても、ただの思い付きだったとしても、ただの義務として、しなければいけないことだったとしても。何でもいい。そのとき、する必要のあることなのだ。それは、成り行き上、そこに現れ、君が主人公として、執り行う必要性を、物語っている。逆らう必要は何もない。逆らえば、余計な複雑性を、日々持ち込むことになる。あれこれ考える必要などない。あれか、これか、などと迷う必要などない。やるかやらないか、または、やってよかったのか悪かったのか、振り返る必要もない。そんなことはすべて、無駄だ。やめなさい。そうではない。何だって題材はいいのだ。大事なことは、物事に取り組む、君自身の態度の方だ。君の意識の方だ。その意識がいかに、自殺の色を帯びるのかが鍵なのだ。決められているその寿命の設定ラインを、前に持ってくるという強烈な意図。そして、そのために、目の前のやってくる物事に全力を投じるということ。死ぬつもりで、そこで死ぬつもりで、それが死ぬためにやってきた、物事であるかのように。ようにではない。それが現実だ!死ぬためのチャンスは、いつだってやってきている。その目の前の出来事、それがそうなのだ。死ぬための場所は、常にそこにある。死ぬための時は、そこに熟している。時間も場所も常にそこにはある。見逃しているのだ!人々は!いったい何をしているのだ。何を眠っているのだろう。寝ぼけているのだ。そうじゃないだろう。そこにすでにあるじゃないか。そしてと、男が僅かに、息継ぎする瞬間を、エルマは確認した。その隙間が、実に貴重であるかのような気がした。ほんのわずかに生まれた、男の隙のような気がした。そこになら、漬け込むことができる。エルマはよくわからない考えが、頭を過った。しかし、男に遮られる。そうではないのだと。考えてはいけないのだ。目の前の出来事に、ただ集中するのだと。そして、全霊を込めて死ぬのだ。死ぬつもりで挑むのではない。死ぬのだ。全霊で挑むことと死ぬことは同義だ。そこに場所がある。そこに時間がある。死のためのそれがある。一度でそうなれば、願ったりだ。だが甘くはない。人間は、引き伸ばされていく生というものに、あまりに慣れきっている。それしか、ほとんど生きたことがない。放っておけば、必ずそうなっていくことだろう。引き伸ばされていくことになるだろう。人生は引き伸ばされていくのに、しかし最後はあっけなく、絶ちきられることになるだろう。事故のようなものだ。本人が寝ているあいだに、突然起きる、事故のようなものだ。麻酔のかけられた、痛みのない最後なのだ。痛みは相当なはずだ。それを避ける努力を、誰もがすることになる。その瞬間までに、完璧に感覚は、麻痺にかけられることだろう。じょじょに、麻痺状態になっていくための人生になっていく。引き伸ばされるという意味が、わかるだろう。そうなのだ。死というのは、大変な痛みなのだ。それをわざわざ、前倒すのだ。痛みは考えられないほどに増大する。増大して増大して、増大しつくすことだろう。それでいいのだ。痛みなど幻想なのだから。今はわからないだろう。私の言う意味が、これっぽっちもわからないだろう。

 だが日々、一度では、決まらない、決められない自殺を、繰り返していくことで、必ずや、わかるときは来る!痛みは消える。痛みなど存在はしない。そのことがわかるだろう。君は何度も自殺を繰り返すようになる。自殺のみが人生そのものとなっていくことだろう。それでいい。死ぬために、生きることになっていく。それでいい。本来、生きるということは、そういうことなのだから。死のために生きる。死をすぐそこ今この瞬間へと、引き戻すことだけに生きる。あまりにのっぺりした、生に慣れすぎているために、一度では決められない。仕方がない。それでも続けるのだ。やればやるほどに、君の中に占めるこれまでの生は、減っていくことだろう。割合は、じょじょに変わっていくことだろう。そしていつしか。いや、そういう話はやめよう。まるで意味はない。未来の話などやめよう。ただ、これだけは言っておく。君は、廃人の道を突き走っているとね。廃人になってきている。わかるかね。この意味が。君は廃人そのものに、日々なってきているのだ。生きるエネルギーはほとんど枯渇していっている。エネルギーの全ては、そう。死ぬために使われているのだから。死に近づくために、死そのものになるために使われているのだから。それも何度も。何度も積み重なっていき、君の中でほとんど、その割合が占めていっているのだから。生きるためのエネルギーは残っていない。生き延びるために使うエネルギーなど、残ってはいない。生き延びるための選択肢を、君がとることさえありえなくなる。エネルギーがなくなれば、その使い道である方向性も、また、閉ざされていく。生きるためのどんな行為も、君はすることはできなくなる。そして、それでもまだ、残るエネルギーはさらに、死ぬためだけに使われていくことになる。どれだけなくなろうとも、君はある分だけ、全霊を込めて使っていくことになる。一度で使いきれなかったその悔しさと共に、今を生きていくことだろう。

 実に、逆説的だが。しかし、必ずそうなる。人間の終わりというのは、いつも同じなのだ。

 多様性というものは、生を引き伸ばすための、色々なアイデアということだ。

 死に向かえば、人の道は、たいして変わりのないものとなる。終焉はもう近い。


 男は、公演が続く日々の中、その最後のときは訪れた。男が公演を終了させる日が。そしてそれは、男の命が尽きるときでもあったのだ。男が公演を続けている意味。男は全力でそれをこなしていった。死ぬために。エネルギーは使われ、日々、男は廃人と化していった。男を見る人間には、そのようには見えなかったかもしれない。男はますます、エネルギーに満ち溢れてているように見えたのかもしれない。しかし、実情は違った。日々、公演ごとに、枯渇していったのだ。男の望むその通りに。そして、それは、実演も兼ねていた。その最後のときを、男は、舞台上に設定していたのだ。男は、自らの死と引き換えに、教団へ引き込むべき人間たちに向けて、最初で最後のアピールをしたのだ。

 坂崎エルマは、こうして、その男のドキュメンタリー映画を見終えた。



 映画館を出ても、エルマの夢うつつは、終わらなかった。

 インタビューをその男にした気にも、直接会った気にもなっていた。それが、映画で見た内容だったのか、あるいは、キュービック・シリーズの書籍で見たものなのか。それとも直接、取材対象として会ったことなのか。どれでもないような気もした。どれもが、そうであるかのような、気もした。

 そういえば、映画もまた、キュービック・シリーズへと、形態は移行するようなことを言っていたが、まだその現実には、なっていないのだろうか。なっているような気もする。そこも、曖昧だった。いや、まだなっていないはずだ。キュービック・シリーズの書籍すら、成功はしていないのだ。大規模に、よりお金のかかる映画館で、そうなっている現実は考えにくい。しかし、いずれは、そうなるのだろう。なってしまえば、私のような意識の混濁者が、激増するのではないだろうか。被害者なのかもしれない。エルマは、そう自分を捉えることで、この不安定な心持ちに、ほんの少しだけ、耐えられるような気がした。

 もうすぐに終わるさと、楽観視しようとしてみるが、それでも、自分がもう間もなく、死を迎える気がして仕方がない。私は終わる。どういった形で、それが訪れるのかはわからない。しかし、それは、確実だ。もうすぐそこにまで、迫ってきている。この最近起こったことの全ては、その現実の、発露にすぎなかった。おかしな考えもよぎってきている。もし、私が死んだとしたら、そのとき。そのとき、この映画館のキュービック化もまた始まるのではないだろうかと。キュービック・シリーズの爆発的なヒットが、始まるのではないだろうかと。何の脈絡もない考えだったが、何故か、本当に、そうなるような気がして仕方がない。私が邪魔なのだという発想を、拭い去ることができない。私はこの世界にとっては障害物なのだ。


 エルマは、差し迫る死の空気の中で、生を続けている。

 その両極の揺り戻しの中、ますます、依って立つ地の不在性に、心は不安になっている。

 それは、男と女を、常に行ったり来たりしていた自分に、どこか似ていた。攻めて、圧倒していく男があるときに、突然、受け身へと反転する。好きにしてと、全ての攻撃性を受け止める側に回っている。殺そうと、狂気を振り回して突き進む男は、そのすべてを受け止め、無力の海にただ漂う以外、何もすることはなくなってしまう。かと思えば、再び、反転。あの男の言葉もまた、甦ってくる。寿命を前倒しにしていくほどの狂気で、全霊をかけて死ぬために突き進んでいくのだ!そして、その狂気は一転、何者でもない無力感のみが残る、廃人の姿。無気力に苛まれ、ただ死んでいくという自分を、見ているだけの第二の自分。その反転の繰り返し。そういった要素が、ずっと、自分の資質として存在していたことに、エルマは驚いた。ほとんど、あの男が語っていたことの要素を、持ち合わせている。ほんの少し突っつけば、それは、あの男が語る世界へと繋がっていくように思える。何の苦労もなく、通じていくように思える。私は、あの男の格好の獲物だったのだ。簡単に餌食になったのだ。私はもう、誰のものでもなかった。私はすでに、自らをコントロールできる力を失っていると、エルマは思った。

 エルマは、それでも、アンディ・リーの女性関係を把握し、スキャンダルを見つけ、売り飛ばすために集めた断片の数々を、このときも必死で、集めようとしていた。

 これが、私の最後にやることだ。やりかけた仕事を、途中で投げ出すことは、私の性格ではない。私であることを繋ぎ止める最後の碇でもあった。アンディ・リーの女性関係。そして、リー・グループの事業内容。スキャンダルを掴むのだ。名を上げ、お金を掴み、人生の次のステージへと、進んでいくのだ。ほとんど絞り出すようにエネルギーを生み出そうとしたが、もうその方向に、出力できるものは、何も残っていないことを、ただ感じるだけだった。まだ、自分は生きようとしているのだ。最後の残り滓のようなものが、力なく、敗北を認めるかのように火を吹いている。これだけは、やり遂げなくては。これだけは残しておかなくては。次の人に。誰か引き継ぐことのできる、その人に。何かの役に。別の重要な何かに、繋がるように。そのきっかけ、入り口、となるように。私の生

も、また。意味があったと。意味を見いだせたと。

 エルマは、複数の影を感じた。もうそこにまで、迫ってきていた。

 これが、最後の思考だ。最後の認識だ。影が私を覆いつくしたとき、私の意識は永遠に消え入るのだ。


































2048 5





















「処理しておきましたよ」と、シュルビス初の明るい声が響き渡る。

 アンディは、江地凛が作った料理を食べた後、スペースクラフトの中の通信で、報告を受けた。

「処理って、お前」

「そういう、約束でしたよね」

「約束って」

「とにかく、言われたとおりに、しましたから」

「お前、今、何をやってるんだよ」

「プライベートまで、詮索ですか?一仕事、終えたんです。少しくらい、休ませてくれたっていいでしょ。前回から、ほとんど立て続けですよ。勘弁してくださいよ。これでもう、しばらくは、ありませんよね?いや、あったって、お断りですから。限界は、遥かに、越えている。あなたは、自分の手で、くだしたことがないから、このキツさがわからないんだ。どれほど疲弊して、傷ついているのかが」

「傷ついているのか?」

「当たり前でしょ」

「それは、知らなかった!」

「これだから、人に命令する人というのは、困りますね」

 その言葉が、妙にアンディには、突き刺さった。

「すまん」アンディは、素直に謝った。

「ちょっと、やめてください。今度は、気持ち悪いな。いいんですって!命令する人というのは、それくらいで。冷たくあしらって、それでいいんですって。それくらいじゃないといけない。使う人間に対して、そっけないくらいで。だから、やめてくださいね。僕はそういう反応が欲しいわけじゃありませんから。ただ少し、グチりたかっただけで。軽く冷たく、受け流してください。いいんですって。いつも通りで!僕の言葉など、受け流してくれて。無視してくれて」

「ああ」とアンディは、力なく答える。

「どうしたんですか。本当に。どこか悪いんですか?」

「どこかって、一体、どこだよ」

「体調が、すぐれないとか」

「ないね」

「単なる、機嫌が悪いとか」

「どうだか」

「今は何を?」

「女だよ」

「そうですか。それは、羨ましいです」

「そう思うか?」

「当たり前じゃないですか!誰だって、女は好きですから」

「お前もか?」

「そりゃあ、そうですよ。ありとあらゆる女を、抱きましたよ。抱いただけではない。深く、付き合いもしました」

「で、どうした?」

「捨てたり、捨てられたり、今では、誰も残ってませんけどね」

「残ってないのか?」

「ええ」

「今日は、抱いたのか?」

 アンディは、何故か、人のことに関して、いつもとは違った入り込み方を、したくなった。

「お言葉ですけど」とシュルビスは言う。「女性はもう、卒業したんですよ。抱くとか、付き合うとか、そういったことはもう、だいぶん前に。そう。あなたの仕事を請け負うようになってからは誰も」

「そうなのか?」

「ええ。人を殺した後に、人を抱くなんてことは出来なくなりましたよ。裸にして、その裸の隅々まで、堪能していくことなんて。人の体を無きものとしているのに、同時に、人の体を愛でるなんて、そんな両極端なことは。でも、あなたがいちいち、気になさることではありませんから。何か、今日のあなたは、ひどく感傷的ですからね。また、変な同情でもかけられたりしたら、たまりませんから」

「君は、ずいぶんと、達観している」

「そんなことはありません。普通です」

「女を抱けなくなった」

「そういう言い方は、少し違うように思います。やはり、自分の意思で、どこかやめたというのが、正しいというか。あなたの仕事が原因で、そうなったというのではない。むしろ、あなたの仕事は、その後で付けたされたような形でやってきた。大元は、こっちです。僕は女を抱くことに、次第に、興味をなくしていった。女の体に執着していくことが、次第になくなっていった。抱いても抱かなくても同じ状態になっていった。自らの体に関しても、同じように関心を失っていった。セックスが、僕の周囲からは遠く離れていったようにですね、僕の体もまた、何故かしら、僕から離れていっているように感じるときが多くなっていった。二つに分裂しているというか。体が遠くにあるといった感覚です。それでも、当初は、女を抱きましたよ。けれども、その抱いているこの自分の姿もまた、遠く離れていくんです。だんだんと、僕とよく似た人間を見ているような気になっていった。二人の男女が、ベッドの中であんなこと、こんなことをして、楽しんでいる。もちろん、気づけば、そうやって傍観しているものの、引き戻そうとすれば、それはそれで可能だった。自らの体に激しく降りて、同化していくことは、可能だった。そして、セックスを激しくしている自分に戻る。ですが、その時間も、やがては長くはもたず、すぐに解離していってしまうようになる。そうやって僕は、じょじょにじょじょに、女性からは離れていくようになった。そのうちに、あなたからは、今度のような仕事を依頼されることが多くなっていった。それで今です。女に欲情することはなくなった。大きな仕事を終えるごとに、やることといえばギャンブルですよ。しかも、あなたのところの。ムーンです。あのゲームにひどく嵌まってしまって、ほとんどこれをしてますよ。ひと仕事やる前には、禁止してね。仕事に集中します。ほとんど、禁断症状の中で、仕事に及ぶんです。ある種、そういった状態でしか、人の身体機能を停止させることというのは、できることじゃない。その困難を、通過できたことによるご褒美として、ムーンを解禁するんです。これまたあなたのところの利益に貢献してしまうことにはなるけど。あなたが開発したものだ。当然の権利です」

「ムーンか。確かに、うちのビルの中の、巨大なギャンブル場でしか、あれは運用できない」

「ですから、通うことになってしまいます。そこの宿泊施設で、ほとんど、生活することになってしまいます」

「依存症だな」

「依存症ではありませんよ。知り合いで、そういう人間は、けっこういますけどね。依存症の人間と、カジノ場で知り合うこともありますけど。それと比べても、僕は違いますね。見事に」

「今のところはな。あれは、ヤバイゲームだ」

「開発者は語る」

「あれを作ったのは、僕じゃない。開発者は他にいる。あくまで、運用をしているのが、僕の会社ってだけだ」

「あなたの会社の社員でしょ?同じことじゃないですか」

「社員じゃないさ。外部の人間であるが、限りなく、ウチの人間でもあるという。ほとんどが、そういった契約関係で、ウチと繋がっているわけさ」

「僕もまた」

「そう。ほとんどが、実際は、外部委託という形をとっている」

 アンディはふと、口を滑らせてしまったことを隠すかのように、話を別に逸らそうとした。けれども、咄嗟には何も思いつかなかった。

「そうですか」とシュルビスは言う。「あなたの経営手腕は、たいしたものなんでしょうね」

「僕はね」アンディは、妙に自制のネジが緩みきっていることに気づいていく。こんな状態では、何から何まで、この男にしゃべってしまいそうだと思い直す。しかし、江地凛と過ごした時間が、全身からその硬直性がすべて、取り除いてしまっていた。止めることなどできやしなかった。

「僕が開発したことなんて、どれも、これっぽっちも、ありやしない。すべては人さまが、おこなったことさ。すべてはね。それを僕は、ただ集めて、組み合わせて、コーディネートしただけ。再構築しただけさ。何もしちゃいない!開発者には、どれをとってもなれやしない。したがって、僕は、本当のところは何も知らない。修理すらできない。その延長にある、次なる発想もなければ、次なる開発の種すら、持ってはいない。過去もなければ、未来もない。何もない、空っぽアンディ。見事だろ。この何もなさ。何も生み出すことのできない、男。わかるか?何ひとつ、生み出せていないんだぞ!そんな男が、消す権利などあると思うか?」

 言われていることが、一瞬わからなくなり、シュルビスは黙りこんだ。

「消す、壊す、終わらせるという人間はな、相応の力を持ち合わせているものだ!君もまた、そうだ。作り込んだものが大きければ大きいほどね、その責任は絶大だ。そういった人間は、むしろ、その後、悠々自適に暮らすことなどできない!運命が許さない。どこかで、清算しなけらばならない。責任放棄することは許されない。どこかで誰かに、そういった事を、差し向けられる運命にある。君だ。僕が依頼しなくとも、誰かが同じようなことを必ずする。放っておかれることなど、ない。君は、誰を雇い主にしようが、同じようなことを繰り返すはずだ。それは決まっている。僕にはそれが見える。見えるからこそ、頼んだ。誰かに取られる前に、僕が潜り込んだ。そういった匂いをかぎとる能力は、僕は図抜けている。匂いを発する前に、むしろ、気づくことができる。発するであろうものの存在に、早く気づくことができる。誰にも負けはしない。物事が起こる前に、予兆が現れるだいぶん前に、僕は気づける。そして、取り込み、コーディネートしていくことができる。実際に、それが、現実にあらわれる頃には、僕はほとんど何もしていない。ただ見ているだけだ。することなど何もない。色んな女に、相手になってもらうくらいに、暇な人間になる」

「そして、退屈している」シュルビスが割り込んでくる。

「退屈な状態など、はるか昔に、通りすぎたさ」

「今は?」

 数時間前から急激に広がっていった、種の存在については、アンディは口にしなかった。

 どれだけ意識が緩みきっていようが、それだけは、言葉にするのが阻まれた。制止している何かを、身の内に感じた。

「とにかく、お前は、今から、会社に来るんだ!本社だ。グリフェニクスの」

「今からですか?」

「そうだ。命令だ。いいな」

 シュルビスはわけもわからず、言われたとおり従うために、ムーンをやめた。

 それに来いと言われたものの、すでに居た。グリフェニクス本社の中に、シュルビスはすでに居た。



 グリフェニクス本社巨大ビルの中に、シュルビス初はすでに居た。カジノは、この中に存在している。グリフェニクス社が経営する、公認のカジノが、白昼堂々営業している。性産業に携わる女性の出入りは、禁止され、グリフェニクス本社ビルにおいては、売春やそれに準ずる行為は禁止されていた。アルコールの販売も禁止されていた。バーなどの、飲酒を主とする店の経営も、禁止されていた。アルコールとドラッグ、売春行為は許可されてなかったが、ビルの中には、カジノに伴う高級宿泊施設は存在し、もちろんギャンブルに関係なく、泊まることもできた。飲食だけをしにやって来ることも可能だった。シュルビスは、カジノにムーンだけをやりに来ていたので、施設で食事をとったり、宿泊したりしたことはあまりなかった。一度だけ、女性を連れてきて、泊まったことはあった。部屋で待ち合わせをした。それまで、シュルビスはムーンに没頭していた。その後、ホテルデートをしようということだった。ギャンブルは大負けで、シュルビスは、グリフェニクス社に借金をして、高額の宿泊費を支払った。そういった経緯もあってか、シュルビスは一晩で四回も彼女と交わった。交わっては、風呂で体力を回復させ、二人でじゃれあい、再びベッドに戻っては、体を味わいつくしていった。性的には、それほど強くないはずのシュルビス初だったが、この晩は、どこかららともなく力が沸いてきて、女のほうも拒絶することなく、何度も股を広げて受け入れていった。むしろ、もっと欲しいのだと、目は訴えかけていた。半開きとなった口の中にも、何か入れてほしいような表情を、ずっとシュルビスには向けていた。

 もう一度、ここに宿泊して、女を呼びたかった。けれども、今は、付き合っている女は誰もいない。ホテルでは売春婦を呼ぶこともできなかった。掟を破り、それがバレたときには、法外な金額が請求されることになっている。これ以上、借金を増やしたくなかった。これまでにおいても、相当な額に膨れ上がっている。あまりに突出して、金を借りていたのだろう。シュルビスは、グリフェニクス社から警告を受けるようになった。そして、ついには、アンディ会長自らが、面会を設定し、その金額を見せられ、帳消しにするための、仕事の提示をされたのだった。それがきっかけの、今であった。会長に呼ばれれば、何を切り上げても、会いにいかなければならない。女の中に性器を突っ込んで、まだ射精をしていない状態であっとしても、すぐに抜きとらなければならない。この施設の警備システムが、どのようになっているのかはわからなかったが、常に見張られているように、シュルビスには感じられた。盗撮や盗聴が行われているはずはなかったが、それでも、その代わりを、十分に果たすような仕組みが、組み込まれている。すべては丸裸であっても全然不思議ではない。すべてが記録されているのは、間違いない。一度利用すれば、データとして、永遠普遍に残ってしまうに違いなかった。一度、データベースに乗ってしまえば、生きている限り、何らかの手が、その人間に忍び寄って、グリフェニクスが関わる何らかの事業に、貢献するよう誘惑われ、取り込まれていくような気がした。グリフェニクス社のお得意の客に、染められていくのだろう。

 シュルビスは、カジノに初めて足を踏み入れたときのことを、思い出そうとした。

 はっきりとは覚えていないが、やはりここに誘導する、何らかの情報だったり、仲介した人間の囁きだったり、広告による意識への埋め込み、評判、あらゆる魔の手で、そこらじゅうから、影響されていたような気がした。どれがそうだったと、特定できるものは何もなかったが、それが逆に不気味でもあった。そして、この自分は、グリフェニクス事業におけるギャンブル漬けというカテゴリーに放りこまれ、こんな結末になってしまった。断れない仕事をこなす、操り人形と化していた。これもまた、嫌いではないところを見ると、性格と人格、趣味趣向が、しっかりとリサーチされているのかもしれない。

 今は、本社ビルの非常に偏った一部にしか、出入りしていないシュルビスだったが、この巨大空間の別の領域には、何がどのように配置されて成り立っているのか、知りたくなるときもあった。しかし、あまりに広大な砂漠に、放り出されるような気がして、不安にもなり、また他の領域のことを考えると、頭がぼおっとして、思考力がうまく働かなくなってしまうため、あえなく、考えるのを諦めた。ギャンブルの領域と、本社の領域とを行ったり来たりするだけであった。そのグリフェニクス本社の領域でさえも、どれほどの広さがあり、どれほどの複雑な組み合わせの元に、成り立っているのかはわからなかった。ただ、会長に指定されたその場所へと、直行するのみであった。

 固めの絨毯がひかれた、長く幅の広い贅沢な廊下を、シュルビスは歩いていった。

 重い扉を開けてカジノを出ると、そのような照明の絞られた、通り道のみが、ショウアップされた場所があり、歩いていくことになる。その廊下で人とすれ違ったことはない。一方通行だからなのか、別の客とすれ違うことを回避する、微妙なシステムが働いているのかわからないが、遭遇したことはなかった。この廊下では、グリフェニクス関係者を見かけたこともなかった。ひとりで歩いていった。この道が、外と中を隔てる、緩衝材のような役割を、果たしているのか何なのか。心を切り替えるスイッチのような役目を果たしているのか。人格が、変えられてでもいるのか。何もない空間を、何の目的もなく、グリフェニクス社が作るはずもなかった。ただ、その意図が、いつも見えない領域に隠されてしまっていた。目にできる、五感で感じられるその情報は、あまりに表面的で、実態のほとんどは闇の中だった。

 光はない。グリフェニクス社は、闇を支配した、闇の帝国のごとく君臨し、そのわずかな身体の一部を、光と称して、地上に露出させている。それさえもが、何らかの特定の反応を、我々が示すよう、計算された見せ方をしている。そう思えば思うほど、得体が知れずに、恐ろしかった。その頂きに君臨にする、アンディに呼び出されている。シュルビスは、廊下を歩き続けた。だんだんと、動かす足が、自分のものとは思えなくなっていった。いつのまにか、足は勝手に動いていて、その動きを制御する元が、いったいどこにあるのか、わからなくなっていった。意識はひどくぼんやりとしていて、心地がよくなっていった。眠いが、眠ることのできない不可思議な状態になっていった。もっと続いていってほしいと思うそのとき、廊下は、突き当たりになってしまった。今度は、人の手で開ける重い扉ではなく、端正な自動ドアが、音もなく開いていく。エレベータのようであった。シュルビスは乗り込んだ。番号を記したボタンの存在はなかった。内装は廊下とほぼ同じ、黒を基調にした背景に、ピンポイントでライトアップされている豪華なものだった。何のストレスもなく、上昇していった。そして、止まった。扉は開く。また長く広い廊下が、続いていくのかと思いきや、そこはすでに、部屋の中だった。振り替えると、エレベータは跡形もなくなっている。白を基調とした、それでも明るすぎない部屋が現れている。大きな大理石のテーブルに、金の蝋燭立てがいくつか、真っ黒のソファーが並べられていて、そこには後ろ向きに座る男の姿があった。座りたまえと、言われたような気がした。シュルビスは、男の向こう側にも続く、ソファーを目掛けて、歩いていった。

「呼び出して、悪かったな」

「いえ、同じ建物に、いますから」

「だとしても、ご足労願ったわけだ」

 話し方が、アンディ・リーのそれとは違う気がした。

「そのとおり」男は高らかに言う。「私は、アンディではないよ。そう、アンディではない。ユーリ・ラスだ!はじめてだね。よろしく!」

「ユーリさんですか?何とお呼びしたら」

「なんだっていい」

「でも、お呼びになったのは、アンディさんでしたが」

「そうだね。アンディだね。急に用事が入ったみたいで、代わりを頼まれた」

「そういうことでしたか」

「私は、ほとんど、会長と一緒に仕事をしている。私に任されることも、多くてね。最近ではほとんど、私が仕切っているといっても、過言ではない。アンディが席を外すことが多くなってね。このビルから、外に出ていくことが、圧倒的に多くなった。今は、会長はいなくても、そして何もしなくても、会社は回っていくんだ」

「そうなんですか」

「私にすべて、任せているといっていい。ほとんど私が、今は、指示をしているくらいだ。会長は帝王だよね。つまりは、この私は、代わりの王というわけだ」

 シュルビスは頷いた。

「それで、どういった、ご用なのでしょう。伝言を受け取っているんですよね?」

「伝言?馬鹿言っちゃいけないよ。いったい僕に、何の指図を、あの男がしたというんだ?」

「あの男って」

「いやいや、これは失礼。そうだよな。外部のお客さんに、その言い方はまずかった。身内すぎてね、ほとんど兄弟のような関係なんだ」

「本当のご兄弟では、ないんですよね?確か、会長は、三兄弟でしたよね。三人とも、グリフェニクス社の」

 と、そう言いかけた時、ユーリラスと名乗る男は、瞬時に会話を遮ってきた。

 その一瞬、感じた圧力は、忍者が何の予備動作もなく、手裏剣を投げつけてきたような、そんな俊敏さだった。

「その三兄弟の話」と男は言った。

「その兄弟の話には、秘密があってね」

「秘密ですか?」

「そう。重大な機密といっていい。知りたいか?」

「知りたいかと、言われましても」

「何か、堅い殻に覆われているね、君は。何がそうさせているんだろうね。私?会長?それとも、この空間が?確か、今まで君は、カジノに居たんだよね?今日は勝ったの?」

「大負けですね」

「ムーンだそうだね」

「ええ」

「あれは、通常、勝てるようにはできていない」

「そうですね」

「それでも、君は勝ちたいと」

「勝ちたいというか、まあ、そうですね。勝ちたいですね」

「勝ちにいく、気概みたいなものが、あまり感じられないね」

「言ってみれば、結果よりも、そのゲームそのものに、魅力があるってことですかね」

「それは、経営者側としては、うれしい悲鳴だね」

「世界観です」

「ほう」

「あのゲームの世界観が、僕を魅了するんです。いや、その言葉も全然、正確じゃない。ゲームの、背後にある世界。あのゲームの、世界観を存在させている、その背後にある世界観。そっちの方に、より魅力を感じる。そう言った方が、正しい。それも、一筋縄にはいかない。背後に複数の世界観が、複雑に絡み合っているような気がするんです。ゲームとして、姿を現している部分など、実にたわいもない部分にしか、すぎないと思うんですよ」

「なるほど」

「けれども、ゲームから離れて、その背後にある何かを考えてみても、まるでぼんやりと、想像することすらできません。何が何なのかさっぱりわからない。気が狂いそうになる。なぜなら、ゲームから離れていては、ちっともわからないものが、ゲームに挑んでいるとき、ゲームの中に入り込んでいるとき、夢中に没入して、その世界の中に生きているときには、その中に自分が完全に存在しているときには、ふと、その背後の多次元世界のことが、感じられるからなんです。それをしているときにしか、そこには感じられない」

「だから、君は、ムーンの世界に、戻っていくわけだ」

「そうです。けれども、だからといって、ゲームを重ねていけば、その世界が姿を現してくるわけでもない。ちっとも、現れてはくれない。むしろ、どんどんと、複雑怪奇に、遠ざかっていくような感じがする。手の届かなくなっていく様子が、鮮明になっていくだけのような。やればやるほどに、わからなくなっていく。そして、離れれば離れるほどに、より、引き戻される力に、抗うことができない。そのジレンマは次第に拡大していく。僕は、どうにもできない状態に、陥ってしまっている」

「莫大な借金」

「そうです」

「それを減らすための、アンディからの、仕事の依頼」

「すべては、ムーンから、始まっている」

「そのムーンの話を、もっとしたいところだが、さっきの兄弟の話が、途切れてしまっているね。それを話さなくては。でないと、私が誰なのか。何者なのかが、わからなくなる」

「私は、代わりの王なのだよ。そして、そうなっているとき、アンディは、ペンディング・リーとなっている。アンディがアンディではない時だ。よくわからないかな?まあ、そうだろうな。アンディは、グリフェニクスのこの本社ビルに居るときにだけ、アンディになるのだから。出てしまえば、アンディという器は、脱ぎ捨てなければならない。アンディのままに、外に出ていくことのできる自由は、アンディにはない」

「全然わかりません」とシュルビスは正直に答える。「来てすぐにいったい、何の話なんです?全然ついていけない。僕も、自分で言うのも何ですけど、それほど頭が悪い方ではありません。少し、時間をください。ゆっくりと、説明してください。ゆっくりと」

「スピードの問題なのだろうかね。とにかく、私は私のやり方で、君に伝えるよ。つまりは、アンディは、自らの意思で、そして、彼の独創から、こうして企業を組織して、事業を展開しているわけではないということだ。では誰なのか。この私だよ。ふふふ。悪い冗談か。そうだな。そういうのは余計なことだな。しかし、君が時間をかけろといったんだ。回り道をしたって、構わないということだろ?私ではないさ、もちろんね。あくまで、私は、アンディ会長の手足なだけだ。アンディ会長よりも、さらに低い下の地位だ。そして、君は、もっと下だ。気を悪くしないでくれよ。卑下する必要は何もない。ただの事実だ。いいとか悪いとかでもないし、価値があるとかないとかの、話でもない。そんなことは何でもないことなのだよ。馬鹿みたいに気にすることじゃない。会長は少し、そういうところを、気にしすぎる傾向がある。会長は、自分が開発した事業やプログラムが、全然ないことを卑下なさっている。そんなこと、何でもないことなのに。そこに自分のトップとしての弱点を感じ、コンプレックスさえ感じている。実に馬鹿馬鹿しい話さ。そういう憧れを、いつまでも持っているのだから。会長そのものに、憧れている人間の方が、遥かに多いのに。自分の幸運と、あるべき役割ということを、実にわかっていない。わかっているのかもしれないけど、時たま、逸れていってしまう。そして、女にうつつをぬかして、その女たちに、執着していってしまう。さらには、突然反転したかのように、その女たちからは離れ、別の女、別の女へと、転々としていってしまう。まるで、一貫性などない。ただのエネルギーの無駄遣いだ。女を抱いて、その中に放出するという行為が、いかにエネルギーを失うのかということを、彼はわかっているのだろうか。もちろん、そんなことは、一言もいわない。どうして言う必要がある?会長のプライベートに、どうして首を突っ込む必要がある?誰のためになる?私はグリフェニクスの社員なんだ。グリフェニクスの未来のことを常に考えている。それしか考えていない。他に何も、興味はない。ただのそれだけだ。女にも、ギャンブルにも、何も、興味はわかない。会長が何をどうしようと、別に構わない。ただ、グリフェニクス社の未来となると、話は別だ」

「相変わらず、何が言いたいのか、少しもわかりません」

 シュルビスは、さらに混迷を、深めていった。

「アンディ会長が、自ら、生んだ企業でないとすると、いったい誰のものなのか。グリフェニクスだよ。グリフェニクスという名前はね、グリフェニクスという、生物からとった名前なのだよ。つまりは、その生物こそが、主人公だ。アンディは、その頂きの位置を表現している、人間側の象徴にすぎないんだよ。だからこそ、一歩、グリフェニクス社の領域から出てしまえば、降りてしまえば、その名を名乗ることはできない。役割を降りなければならない。それはもちろん、この私についても、同じことだ。そして、アンディが降りてしまった、その空白には、ペンディング・リーという名前が与えられ、その隙間を埋めることになる。本人の代わりに、本人の人形を置いていくようなものだよ。もちろん、ただの形骸にすぎない。実質、業務を担っているのは、この私なのだから。アンディがいても、実質動かしているのは、この私なのだから。まさに、その時は、より私の権限に実体が生まれるということだ。アンディの手足として、動いているだけの、その公式記録からは逸脱して、まさに王としての役割が与えられるということだ。つまりは、今、私はグリフェニクスの王であるのだよ。王として、君に対峙しているのだよ。そのつもりでいてほしい。そして、こういった状態が、最近では頻繁に起きていることも伝えておこう。この暫定的な状態が、実に恒常的にもなろうとしている。また、なったとしても、何も、現実には変わりはしない。今の、グリフェニクスの流れの中での、状態というのが、実にアンディ会長としては、全霊に取り組むべきことを失っている時期でもあるわけだ。会長は、そんな状態に、時間をもて余しているともいえる。だからこそ、余計な卑下をしてみたり、余計な女に手を出してみたり、次なる展開が起きるまでを、過ごしているのだ。私が口出しすることは、何もない。さっきも言ったとおり。ただ」

 ユーリラスの口調が、一変する。

「その、ペンディング・リーという人形は、確かに、短い時間、置かれているだけでは、ただの動かぬ置物に、すぎないのかもしない。しかし、その時間が長くなり、頻度が多くなっていくにつれて、どうなるのか。何でもそうなのだよ。生命というのはそういうものなのだよ。しかるべきときに、あるべき状態で、そこに存在すると、その場の力といったものの影響のためなのか、命を宿ってしまうものなのだよ。つまりは、人形は、ただの置物ではなく、自ら動き出してしまうということだ。ペンディング・リーがいつのまにか、人格をもって、勝手に動き出すということだ。これが、何を意味するのかわかるか?何を引き起こすのかわかるか?」

 これがゆっくりと、わかりやすいように、している説明なのだろうかと、シュルビスは思う。

「それは、アンディそっくりな機能を、し始めるということだよ」

 ユーリラスは、構わず話を続ける。「けれども、それは、本体のアンディとは、もちろん違う。つまりは、誤差が生まれている。言ってみれば、アンディのようでありながら、アンディではない事を、し始める。そういったことが、起こり始める。私が言おうとしていることがわかるかね?」

 全然わからないですと、シュルビスは心の中で思う。いつになったら、解放してくれるのか。すでに意識はムーンに移ってしまっている。

「つまりは、リー、三兄弟というのは、幻想なんだ。そんなものはいないんだ。ペンディングリーが、弟だって?馬鹿いっちゃいけない。それは、人形なのだよ!ただの人形!ただし、自ら動いてしまうという、ギャグの付いたね。そういう意味では、その時は人間として考えても、差し支えはないのかもしれない。兄弟だと偽っても、何の問題もないのかもしれない。ただし。それは、アンディがいない場合に限っての話だ。アンディとペンディングは同時に、グリフェニクス関係者としては、存在しえないということだ。どちらかが存在していれば、どちらかは存在していない。同居することはありえない。それはペテンだ。兄弟などというのは、ペテンなのだよ。そうじゃない。同一人物だ。そして、同時に、存在はしない」

 話の内容は、さっぱりわからないくせに、シュルビスは、「じゃあ、グリフェニクスという媒体を、抜き去ってしまえば、二人の人間は、同時に存在しているということですね」と訊いていた。自分で言っておきながらも、意味は全くわかってなかった。

 そのとおりだよと、ユーリラスは答える。「そうさ。決まってるじゃないか!ここを、どこだと思ってるんだ?君はどこに今、居ると思ってるんだ?」

 二人のあいだに、長い沈黙が現れる。



 ユーリラスと名乗る男から、解放され、シュルビスは、カジノへと戻った。あれほど時間をかけて移動してきた往路だったのに、復路はあっという間だった。ほとんど、一瞬のように感じた。本腰を入れて、ムーンに取り組むことができる。喜びが込み上げてきた。

 ムーンは、太陽と月の、二種類の極に別れたカードが、33枚存在するゲームだった。そのうち、中の1枚だけが、そのどちらの極にもない、存在だった。そして、その1枚を、これまで、シュルビスは見たことがなかった。この1枚が、本当に、33枚の中にあるのか。疑問に思うこともあったが、残りの32枚のカードは、ほぼ確認することができていた。

 月と太陽、陰陽二極に分かれたカード。次に自分が引くカードが、そのどちらの極であるのかを予測し、自らのキーカードを設定する。キーカードは、一回一回変えることもできれば、しばらく変えずに、ゲームを続けることもできる。対戦相手もいなく、ディーラーの存在もない奇妙な世界だった。

 プレイに入ると、自分以外に、人は誰もいなくなる。

 あまりに広いその場に、たったのひとり取り残された形となる。いつも、シュルビスはこのひとりきりという状況が生まれてくるとき、死ぬときのその状況に、非常に近いような気がして、不気味さで始まったこの趣味が、いつのまにか、たまらない要素になっていったことに、快感を得ていった。ほとんど、この状態になりたいがために、あるいは、ムーンに嵌まっているといってよかった。この静寂。外のどこにもないものだ。どれだけお金を積んでも、どれだけ人との接触を無くそうとしても、叶えられない現実のようで、シュルビスは、ギャンブルというのはただの体裁で、本当のところ、求めていることは、別のものであるということに、気づくようになっていった。しかし、その思考も、プレイに入ってしまえば、忘れてしまい、終わって外に出たときに再び、考え直すといった具合で、まったくその本質を深めていくことができないジレンマに陥っていた。確実に、自分は、ギャンブル中毒ではなかった!ムーンの他、どんなゲームにも興味を示さない。ムーンに没頭すればするほど、大金を得ることからは遠ざかり、ただ入金を繰り返すだけであった。これは、確実に、ギャンブルではない。ただ吸いとられているだけだ。得るものは、この完全に、隔離されたような、ひとりの静寂。ムーンではない、他の何かで代用することはできないものなのか。資金のかからない、何か別のもので・・・。しかし、シュルビスには、何も思いつくことができなかった。そして、得られるものが、ここにある以上、どうして別の何かを探さなければならないのか。行き着くところまで、行き着く以外に、意思の発動など不可能であった。操られるがままに、操られていくしかなかった。その操る相手が、アンディであったとしても、別の何かであったとしても、問題はもうそこではなかった。その相手が、ユーリ・ラスだったとしても。もうすでに自分は、失われた存在なのだ。自分という輪郭は、日々溶けていくのだ。ムーンと出会い始めたときから、その侵食は始まっているのだ。そして、やり続けることで、加速的に、自分は溶け始めていった。行き着くところまでいけば、この個体は、完全に溶解してしまうことになる。跡形もなく。このカジノの場で。グリフェニクス本社ビルの中にある、このカジノの場で。それは確実のようだった。ここが自分の墓場になる。あとのことはすべて、面倒を見てくれる。それも含めたこの投資なのだと。シュルビスはそう考えるようになっていった。死に場所が決まっているというのは、実にいいものなのだ。あとは時間の問題だ。すべてが尽き果てるまで、続けていけばいい。すべてというのは、資金なのか、エネルギーなのか。資金はいくらでも、借りるといった形で続いていく。アンディからは、返済のための仕事を与えられる。それも、続けていけばいい。アンディの仕事の状況やプライベートの状況など、俺の知ったことではない。勝手にすればいい。ユーリ・ラスなんて人間には、興味もない。このムーンにおいて、関わりをもたざるをえないのなら、それはそれで仕方がない。甘んじて受け入れる。

 すべてはムーンありきなのだ。ムーンに、この残った自分の生命エネルギーを、全て吸い取られてしまっても、何ら、後悔の念はない。本望だ。だらだらと、生き続けることほど、罪なものはない。縮めたいのだと、シュルビス初は、叫びたくなる。どうしたら、それができるだろう。自殺ではないそのようなことが、どうしたら。

 そうしたときに出会ったのが、このムーンでもあった。

 単純なゲームではあった。だが、没頭すればするほど、いや、経験を重ねていけばいくほど、そのひとりの静寂の度合いが増しているような気がした。資金も、エネルギーも、時間も、かければかけるほどに、次のゲームにその静けさが深まってきている。そこにどんな秘密があるのかはわからなかった。だんだんと、思考するエネルギーが、枯渇してきているように思われた。余計なことを、考える必要もなかった。ただ、この身を、全霊で、投げ出すことのできる対象が欲しかっただけだ。ふとそれは、愛する男に、心身の全てを投げ出して、抱かれる、女にでもなったかのようだった。

 女になりたかったのかもしれない。

 さらには、何か物をつくる職人が、その作るという行為に全面的に没入し、我を忘れるといった、時間を繰り返すことと同じようにも思えた。

 自分は女でもないし、物を生みだす才能もない。そういった訓練もしてこなかった。何に向いているのかもわからない。残ったのは、この身をそっくりと目的もなく利益を生むことのない誰かの作ったゲームに、堕ちていくことだけだった。それでもと、シュルビスは思う。選ぶ権利は、俺にはある。堕ちるに値する、対象であることが重要だった。最後の意地でもあった。ムーンは、俺のために作られたゲームなのだ。それは、どんな女を提供されようが、ムーンを失うくらいなら、余裕で断ち切ることができた。

 キーカードを月に設定して、引いたカードが、やはり月系の陰側であったとき、プレイヤーの勝利である。太陽系の陽側であったなら負け。それを瞬時に、ほとんど一秒間に、十以上のゲームを駆け抜ける。その速度は、没入が深まれば深まるほどに、加速していく。そして、意識が、没入のトンネルを通過して、ふとした隙間ができたときに、中断して、勝敗表が、コンピューター画面にあらわれ出る。その詳細が記される。すぐに、次のゲームに向かうか、休息をとるか、やめるかの判断を下す。そのように、ゲームはひたすら続いていく。もはや、時間など、どうでもよくなっていく。そういった概念が、吹き飛んでしまっている。自分がどこにいるのか。あるいは何をやっているのか。意思がどこにあるのか。カジノ場の状況。外の状況。すべてがわからなくなっている。消え去っている。周りのすべてが、消え去ったときに、この自分もまた、消え去っている。本当に、溶解してしまったかのように感じる。しかし、それは錯覚だ。いずれ来るかもしれない事態の、ただの予行にしかすぎない。資金は、確実に減っているし、ゲームはいずれやめざるをえなくなる。心身共に投入しただけの、エネルギーの損失を示している。その日のゲームは、切り上げざるをえなくなる。心地よい疲労だった。

 だが、その後、後遺症に襲われることになる。エネルギーが、何をするにも、沸いてはこないのだ。アンディからの依頼は、不思議と、残ったエネルギーが再結集してくるように感じていた。その再結晶は、ほとんど、非常事態に使われるためにとっておいた、隠れたエネルギーのような気がしてならなかった。あるべき以上の生命力まで、差し出して来いと要求されているようであった。シュルビスは素直に差し出した。そして、さらなる廃人状態へと堕ちていった。だが、しばらく、そのスパイラルが繰り返されていくと、ふと、あのムーンをしている時にしか現れなかった、あのひとりの静寂状態が、普段の何気ないときに、包まれているような気がするのだ。初めはただの気のせいだと思った。しかし確実に、そういったことが増えてきている。なのに、エネルギーは枯渇していて、何をする気にもなれない。その、する気のなさが、さらにあの静寂を再現しているかのようでもあった。そして、このままムーンを続けていけば、あるいは、ムーンをしていてもしていなくても、同じ状態になるのではないかと、そう夢想する自分さえいた。

 勘違いであるに決まっていたが、しかしそういった予感が、日に日に濃くなっていってることに、疑いはない。次第に、シュルビスは、そういった自身の状態のようなものを、注意深く観察するようになっていった。わずかな違い、わずかな変化を、感じとる鋭敏さが、沸々と、目覚めてきているようでもあった。どういった推移をしているのか。それはどこに向かって、何のために進んでいるのか。あるいは、それは、どこから元々やってきたものなのか。シュルビスは、日常を越えた自らの人生もまた、そのような視点で振り替えざるをえなくなっていた。そして、そうすればするほど、あの陰陽どちらの極にも存在しない、33枚目のカードのことが、気になって仕方がなくなっていった。

 一目見てみたい。そのときはもうないかもしれないという疑いは、一掃されていた。それは確実にある。それがなければ、そもそも、ムーンというゲーム全体が、成り立たないのだと思った。もし、月系、太陽系の陰陽二極の種類しかない、偶数枚の世界だとしたら・・・。それは、どこにも行き着きはしない。どこからも始まってはいない。ムーンというゲームの世界が、全く消え去らないことになってしまう。誰が作ったわけでもないのに、そこに存在することになってしまう。消えもしなくなってしまう。そんなはずはなかった。誰かが生み出したものなのだ。そして、時が来れば消え去るのだ。ということは、軸になった最初のカードがあるはずだった。そこから、残りのカードは、派生的に現れたのだ。順次、現れたのかもしれないし。すべてが、同時に現れたのかもしれない。それはそこに立ち合ってみないとわからない。いや、とシュルビスは思い直す。あのカードの中身。図柄であったり、絵柄であったり。それをしっかりと把握し、分析することで・・・あるいは、わかるのではないだろうか。生まれてから、なくなるまでの推移が、想像できるのではないだろうか。

 そんなことまで、考え始めていた。その33枚目のカードを引いたときが、ゲームの終わりのときだ。ムーンが消滅するときなのだ。そこがクリアなのだ。まだ登場していなくて、当然だった。登場したときには、すべては終わるのだから。はじめから、なかったかのように、ムーンは、跡形もなく消えるのだから。それが、どちらの両極にも属していない理由だ。

 俺は、陰陽の二択のゲームに溺れすぎている。あまりに溺れすぎている。どちらの系のカードであるか。それしか気にしてなかったのだ。ただの勝ち負けだけを。しかし、図柄はすべて違うのだ。どうしてもっと、繊細な意識を働かせて確認しなかったのだろう。確かに、ゲームの勝敗には、少しも関係はない。だが、ゲーム全体のこと。ゲームの世界観。成り立ち。クリアのとき。消えた後の世界。そう。ゲームの背後にある世界。表向きに、パッケージングされたムーンの、それを背後で支えている構造物。それは、二択のゲームに、ただ没頭している俺には、まるでわかりようのないものだった。一枚一枚に表されている、その図柄。暗号だ。暗号が浮き出ているのだ!それを、読み取ろうともしてなかった。最大のヒントが、そこに、ものすごい数となって現れているのに。あれだけ、ゲームを繰り返してきたのに。何一つ覚えていないとは。

 シュルビスは、自分の不注意さに呆れ返り、嘲笑った。無意味に時を過ごしてしまっていたのだ。今からしか、取り戻しようがなかった。間に合うとか、間に合わないとか、そういった問題ではなかった。今、していく以外にはなかった。どうせ、残りはもう長くはないのだ。圧縮された極限の意識状態が、現れるかもしれない。そうだ。それが現れない限りは、読み取れる暗号では、なかったのかもしれない。

 シュルビスは、自分の中に、これまでとは違う次元のエネルギーが脈打つのを、感じ始めていた。






























2048 6





















 D・Sルネは、ここのところ、リー・グループ関連の、プログラミングの仕事からは、離れていた。ナルサワトウゴウもいなくなっていたので、彼を経由して入ってくる仕事もなかった。一時期よりも、だいぶん暇をもて余していた。

 またこれが過ぎれば、殺到してくるような気もした。これまで納品したプログラミングのメンテナンスのために、駆り出されることもあるだろう。リニューアルが要求されることもあるだろう。束の間の、空白時間なのだ。休息に当てたらいいと、思うこともあった。旅行にでも出ようかと思った。だが、依頼は突然やってくる。どこで受けてもいいが、一度バカンスに入ってしまうと、なかなかモードを、元に戻すことができなかった。バカンスに邪魔を入れたくはない。どちらも、中途半端になるように思えた。海外への渡航はやめにする。しかし、休息をとるということが、ルネにはあまりよく、理解することができなかった。何もしないというのが、休息なのだろうか。心はまったく休まらない。むしろ、忙しくプログラミングしている時間の方が、最もリラックスをしている。ということは、多忙な時ほど、自分は休んでいるんじゃないのか。今こそが、荒れ狂う非創造性に、苛まれ、苦しくなっていく。そのとき、偶然読んだ本があった。キュービック・シリーズに、書籍が移行していく、その最後に買った、旧式の本だった。そこには、こう書かれていた。

 創造的な人と、非創造的な人の違いは、理解されなければならないと、筆者は言っていた。創造的な人は、何か美しいものが創造される時にのみ、幸せだ。そのとおりだと、ルネは協賛せずにはいられなくなる。創造的な人の天国は、創造性の中にある。もし、ミケランジェロやレオナルドダビンチを、非創造的な天国に放り込んでごらんなさい。彼らの創造性は、干からびてしまうことだろう。もし、何らかの創造性が許されるならば、彼らは地獄にすら、喜んで行くかもしれない。そのとおりだと思った。エネルギーが漲ってくるのがわかった。だからあなたが、創造的でない時は、いつでも、どこか落ち着かないように感じるだろう。本当にそうだ。賛嘆しすぎて、もう頷くことさえ、面倒くさくなってくる。なぜなら、創造性へと動いていた同じエネルギーが、動く先を見つけられなくなり、するべきことを見つけられなくなるからだ。あなたの休息は、落ち着かないものとなるだろう。

 これは、自分が書いたものなのだろうか?実際、仕事に、とてつもなく没頭している時は、それがいかに激しいものであろうと、あなたは休息を感じることだろう。だから、休息が必ずしも誰にとっても、休息になりえる訳ではない。

 そして、こうも書き記してある。もし、非創造的な人が、何らかの創造性の中へ、自分自身を強制でもしたら、彼は自意識がとても強くなるだろう。とても不安になり、心配で緊張していて、落ち着かなくなるだろう。仕事以外の時はオーケーだ。彼はくつろいでいる。なるほど。そういう人種もいるのだ。全く理解することできなかったが、確かにそういった意味での休息のことを、一般には言うのかもしれない。そうか。そういう人間たちも、たくさんいるのだ。そういう人にとってみれば、まるで自分のような人間は、理解できないに違いなかった。お互い様だ。この筆者はさすがだ。その両者のことを、対等に見ている。そして筆者本人が、そのどちらであるのかは、明言されてはいない。

 ルネは本を閉じた。いつまでも、自分が書いたような文章を眺めていても、仕方がなかった。同じ想いは、実に勇気づけられた。こうしてはいられないと、ルネはプログラミングを始めようと前のめりになる。しかし、依頼は何もない。いいじゃないか。依頼があるから仕事をする。そう思っていたが、それは間違っていることを知った。仕事は常にやるものなのだ。プログラミングは、自分が呼吸をすることくらい、ごくごく自然なもので、それをせずには、ほとんど窒息してしまうくらいなのだ。それは直ちに始めよう。

 何のプログラミングを?誰に頼まれた、依頼された・・・自分発なのではないだろうか。誰もいない時こそ、まさに、自分が自分に依頼することのできる唯一の機会のではないだろうか。依頼のし放題だ。やり放題だ。ならばと、ルネは頭を捻った。何も浮かびはしない。かつて、依頼されたものに似せた何かを考え出そうか。一時間ほど、唸り続ける。しかし、何も思い浮かびはしない。なぞるように、似たことをやる意味もなければ、そもそもそういった種類のエネルギーは、沸いてこなかった。からだの内から、爆発的に放出される、フェロモンのような何かがちっとも出てはくれない。一体どうしたらいいのか。何故、出てこないのか。ルネは頭を捻るのをやめる。

 前に前に、ただ突き進んでいこうとする焦燥感を、見つめる。そうじゃない。それでは決してうまくはいかない。まずは落ち着くのだ。目をとじるのだ。心に浮かんでは消える、不安定な想いを見続ける。そして、それが静まっていくのを待つ。ただ、じっと見ていれば、雲散していく。そういうものなのだ。

 ルネは、何かを知ってるような気がした。これまで、何も知らないことを装ってはいたものの、身の内に、何か大事なことを、ずっと秘めていたような気がしていた。それが今、少しずつ開陳してきているような。漏れ出てきているような。目をつぶったことが、その引き金になったのだろうか。これまでだって、何度も、目はつぶっていたことはある。しかし、今日のそれは全く違う。漏れ出てくるための条件が、何故か揃ってしまっている。その条件については、後で振り替えることにして、今はただ、心の波を見続けよう。あるいは、あの本の内容が、引き金になっているのかもしれないなと思った。

 ルネは、暗闇のなか、ひとりで取り残されたその無柱の空間で、大きな二つの幻の柱を目撃していた。その二つの柱が、プログラミングの骨格になる。その二つを、別々に精巧に作り上げ、そして掛け合わせていく。掛け合わそうとしなくても、それは勝手に交わり合っていく。影響し合っていく。ある種、男と女のようなものだった。引きつけあう対極の性は、同じ運命の元に、原初に生まれている。同根他者。そして、激しく引き付け合い、絡み合う。その異質の交わりは、断続的に、永続的に続いていく。そして、そのエネルギーは、積み重なっていく。どちらでもない、第三のエネルギーとして、積み重なっていく。

 三つ目の世界が現れ始める。三つ目のプログラミングが、誰の手も経ずに、自然発生していく。そういったビジョンが、ルネにははっきりと、浮かび上がってきたのだ。そして、第三の世界は、また次なる展開のために、待機をしていく。今は、それ以上のことに、想いを馳せる必要はなかった。今、次の瞬間に、やるべきことに、全力を尽くせばいい。

 そういうふうに、あの本の筆者も、綴っているに違いなかった。



 このプログラミングは、自らの脳の意識の中に、埋め込むものである。

 ルネは、初めて、自らの中に発令させる、二つの世界の設計に取りかかった。

 目的は三つ目だった。ただし、この三つ目は、直接設計することができない。あくまで、第一と第二の回路が激しく発動することで、その連動性の中、見えない交わりの中で生まれ出ることになる。

 自然に発火してくるのが、第三の特徴だ。これまでも、ルネは依頼された仕事のプログラミングを、ただ要求通りに単純にこなすだけではなく、自らの楽しみのために、ほとんど同時期に、舞い込んできた依頼との、全く関連性のない二つに、密かに関連を持たせるような、裏のプログラムを、それとなく組み込むことを繰り返していた。

 AとBの依頼が、別の会社から、別の目的で舞い込んでくる。時期が非常に近いというのが、ポイントだった。何の関係性もないように見えるが、タイミングは少なくとも共通なのだ。そこに、ルネは、裏に潜む関係性をあぶり出すための、工夫をすることを厭わなかった。個人的な趣味で、誰に直接迷惑をかけるわけでもなかった。Aに対して、確実なプログラミングAを提出する。Bに対しても、B。それぞれが、それぞれの領域で、正しく発動し、依頼主も満足を得る。ところが、別の領域では、このAとBにかけたプログラムそのもの同士が、見えない交わりを始めていく。距離は関係ない。障害物は関係ない。それは同期する。降って沸いたように、この第三のCという現象が起こる。

 その現象を、ルネは、自分だけの楽しみとして見ていることにした。

 しかし、世界に巻き起こった、一体どれがCであるのか。特定することが難儀であった。けれども、確実にCは起きてしまっている。そして、それは、ルネが恣意的に発令した、彼自身が意図したものではなかった。そんなことができるはずもなかった。

 そのAとBが掛け合わされることで起こる、ある種、その組み合わせでしか、起こらないことであり、それは、ルネの意思を越えていた。ただ彼は同期させただけだった。同時に仕事を始め、同時存在と彼は呼んだが、そういったことを、自らの中に環境として、用意しただけだった。

 ただ、同じ部屋で培養し、同じタイミングで出荷するだけであった。それらは、脳の別の場所に放りこまれ、同時に育まれ、同時に出ていくこととなった。

 D・Sルネは、このように、脳の中に仕事部屋を持ち、そこに次から次へと、来る依頼を放りこんでいった。なので、AとBの、そのたったの二つが、いつも同時に部屋に入って、出ていくわけではなく、常に無数の依頼が入ってきては、出ていくといったことを繰り返していたため、もし他人に覗き見されたとしても、その複雑性の中では、何がどう同期しているのか、わからなかったであろう。単純化して見たときに、そのような二つが、常に同期していて、そこに関連のある裏のプログラミングCが、常に世の中に放出されているということだった。

 これは何も、本来、特別なことでも何でもなかった。男女のカップルが二人近づき合うことで、彼でも彼女でもない、三つ目の何かを、二人のあいだに発生させていることと同じであった。この場合も、同期しているということがたった一つのポイントであった。同じタイミングで、存在するだけではなく、互いに心牽かれ合い、近づいていくということで、起こることだった。さらに、人間同士の場合、男女の場合は、ここに激しい絡み合いが付いてくることになるが、それはあくまで、結果としての副産物だった。肉体を持つもの同士の、単なる本能であった。


 D・Sルネは、AとBを共に、自分で仕事部屋に放り込む必要が、この場合はあった。

 そして、そのイメージは、すでに持っていた。常にこれまでも、そのAとBは、男と女の性のように、常に対極にあったことを思い出した。不思議と、同期していくものというのは、対極の性質を持っている。その対極を、同時存在させることで、何かが生まれ出る。別の次元が生まれ出る。月と太陽のように、陰系と陽系にわかれ出る。

 今回もまたそうだった。陰陽が、同時に存在することが、ポイントになってくる。

 その陰の方には死を。陽の方には生を、彼は設定することを決めている。

 死をもたらすもの、死をイメージするものを、一方に据え、生をイメージするもの、生をもたらすエネルギーのものを、もう一方に据える。それは絡み合うことなく、ただ同期する。陽には、激しさ。陰には、静けさを対置させる。激しさとは、楽しさの謳歌ではない、死に向かう狂気といっても、構わない、没入、全霊、自殺といった、プログラムを組み込んでいく。死に向かう、陰に向かう激しさだ。陰から離れていく激しさではない。陰を回避させる激しさではなかった。一方、陰には、激しさの要素は、少しもない。よって、どこに向かっていく力も、備えてはいない。そこに、ただ留まるだけだ。留まることから、逸れない軸のようなものだった。死んでいく、ひとり、置き去り、眺めている、そういったものを、プログラムしていく。ある種どこにもいけない、いかないという意思さえ、背後には感じられる、そういったものだ。肉体からの分離、観察、上昇などのイメージが、続いていく。一方、陽の方は、肉体に対する、肉体への激しい没入、肉体との意識的な同化、終わりへ向かって、縮める、といった具合だ。

 組み込んでいくコンピューター言語が、次第に増えていくにつれて、いよいよ実態を持ち始めていく。AとBの納品へと、ルネは向かっている。そして、発動させていく。


 ルネは、それから何日も、プログラミングを繰り返し行っていった。加えては削り、加えては放っておきを、繰り返し、精巧に磨きあげていった。

 一週間が経っていた。達成感があった。やはり、旅行に行っている場合ではなかった。

 その後に得る快感がまるで違う。十分な休息が取れたことを、この心身が見事に表現している。そして、何かが、自分には備わっていた。今も発動し始めている。まだ現象としては、顕れてはいない、その第三の世界が。蠢きだしているのがわかる。

 死はただ、どこにも逸らさずに、受け止めるべきもの。

 生は死へと向かう、ただ一つの手段。

 そして、第三の道が。

 ルネは、何故かしら、世界中に、この構造が流布しているような気がしてきた。

 というよりは、元々、世界は、このように出来ているのではないだろうか。これはある意味、自分で勝手に設定したことではなく、世界のあるがままの、姿なのではないか。依頼のくる仕事を見ても、そうだった。あれは誰かが意図して、そのようなタイミングで放ってきているわけではないのだ。たまたま、そのような組み合わせでやってきているわけではなかったのだ。世界がそのようにできているからだ。だから、自然に受け止め、自然に行動をとれば、必ずこのような構造が生まれてくるのだ。このような構造が見えてくるのだ。ただのそれだけのような気がした。自らの、独創でもなく、誰かの恣意的な考えでもない。そんなふうに思うのは、それが見えていなかったからだ。自ら、そのあるべき状態から、逸れていたからだ。無意味な情報の奔流や、心の気まぐれな動揺によって、目が曇らされていただけだからだ。感じなかっただけだからだ。不感症だったのだ。

 ルネは、仕事に感謝した。自分の趣味に感謝した。すべては繋がっていた。すべては、あるべき暗号を指し示してもいた。

 暗号に気づかなかったのは、自分もまた、その暗号の中に居たからだと、ルネはこのとき思った。



 ルネは、休暇中を、そのまま一人で過ごした。関根ミランからの連絡もなかった。彼女もまた何かあったのか。仕事が忙しいからなのか。他に気になる男でもできたのか。今は気にもならなかった。ただ、誰からも横槍が入らないことが、純粋に嬉しかった。家族がいないのもこういう時は助かった。

 ふと、リー・グループの、過去のプログラミングの仕事のことが蘇ってきた。スペースクラフトバイブルと、キュービック・シリーズの、二つの事業のシステム構築を、主に依頼された。アンディから構想を聞き、ただそれに従っただけだったが、あれもまた、二つの対極性を、見事に表現していたものなのかもしれないと思った。

 アンディが意識的に選んだのか、それとも、たまたまなのかは分からなかったが、あの男も実に、的確だったのだ。二つを同時に存在させ、同時発進させることに、拘りを見せていた。今思えば、そういうことだったのかと、納得もする。アンディという男のことを考えた。スペースクラフトもキュービックも自ら考えだしたアイデアではないという。他の人間が、違う場所で発案したその二つを、彼自身が組み合わせたのだという。彼を交差点にして。ほとんど彼は、それだけのために存在していた。それしかしていない。ただ立っていただけのようであった。しかし、彼は、それを組み合わせた。交わることのない独立した二つを、ただそこに並べた。何でもないことだったが、それこそが、あの男の最大の功績なのかもしれなかった。しかも、その二つは、規模が計り知れないほどに大きい。小さな二つでは、たいした第三の道も、芽吹いてこなかったであろうが、しかしこれは違うと、ルネは思った。自分にかけたプログラムなどあまりに卑小だった。だが原理は同じだ。効果は同じなのだ。発生するシステムは同質だ。だが、規模がまるで違う。スペースクラフトは、テクノロジーの最先端を走り、文明社会を、これからリードしていく。一方で、キュービック・シリーズの方は、逆に過去へ過去へと、自身の誕生の始まりへ、人類の始まりへと、その根元へと還っていくような構造を持っている。対極だ。月系であり、太陽系である。その配置も素晴らしい!同時に発動するからこそ、意味がある。後に必ず意味が明らかになる。もし、その第三の発動を、アンディが最初から意図していたのだとしすると・・・。この男はいったい何者なのだろう。聞けば、キュービックの方はまったく売れず、その売れ行きが伸びていないのだという。通常なら、この事業はそろそろ、撤退の時期へと近づいている。スペースクラフトが、これだけ好調なのだ。足を引っ張ることにもなりかねない。キュービックの方の赤字は、相当な額に膨れあがっているという。スペースクラフトの方は、そろそろ頭打ちになる。その前に、キュービックの方は引き上げるべきだ。普通はそうなる。ところがアンディにはその気はないのだという。反対を押しきり、彼は一人、この両輪の展開を強行する気でいるのだという。彼にはわかっているのだ。大事なポイントが見えているのだ。見えていないとしても、感じとっているのだ。

 おそらく、変節はしないだろう。周りはきっと、方針転換を図るものだと思っているはずだ。だが、それはない。彼に非常に近い人間たちはどう思っているのだろう。外野は別に関係ない。言わせておけばいい。しかし、彼の側近の人間たちは、このことをどう捉えているのだろう。アンディに全面的に反対な人間は、一体、どれほどいるのだろう。アンディの真意には、誰も気づかず、アンディを引きずり下ろそうと、そう考えている人間もいるのだろうか。いるような気がする。アンディ自身も、自らの方針の真意には、もしかしたら気づいていないのかもしれない。強烈な直感として、ただ貫こうとしているだけのかもしれない。だとしたら・・・とルネは考え始める。



「あの黒い密閉の地の意味が、全然わからないんですよ」とD・Sルネは切り出した。「あの黒い、何なんですか、素材は。黒に綺麗にコーティングされた四角い物体は。三次元の。砂漠のような不毛地帯を、周りには配置して。あれは、砂漠の中に、建てたものじゃない。むしろ逆だ。あの建物を作ることを前提として、周りの方を変えていった。意図的に作った不毛地帯。周りから、人や物の存在を排除したかった。何故です?危険な場所なんですか?それとも、どんな接触も持ちたくなかったから?わかりませんね」

 ルネは、アンディ・リー会長本人を、目の前にしている。

「君の仕事には、大変満足しているよ」とアンディは言う。「これからも、宜しく頼む。スペースクラフトⅡのプログラミングを、次は、お願いすることになるだろう」

「いつでも、どうぞ」

「しかし、あなたも、ご存じかもしれないが、そうなるまでには、いささか問題があってね」

「キュービックの方ですか?」

「そうだ」

「どうなんです?期待は、薄いのでしょうか」

「どうだろう」

「撤退ですか?」

 ルネは試しに、そう訊いてみる。答えは予想通りのNО。

「でも、幹部の人たちは、黙ってないでしょ」

 痛いところをついてみる。

「それは、平気だ。俺を皆、信用してくれている。そうでなくとも、誰の会社だと思ってるんだ?誰の発案で、すべてが動いていると思ってるんだ?」

 まるで、自分の所有物であるかのように、この男は言う。ルネは同調する。

「僕もね、二つは本体の車輪だと思っているんですよ。どちらが欠けても、成り立ちはしないと。たとえ、一方が出遅れているとしても、取り除いては絶対にいけないと」

「そう思うか?」

「思いますね。誰よりも」

 その最後の言葉を、強調してみる。

「プログラミングを担ったのは、僕ですよ。この両輪の重要さは、よくわかりますよ。もし、一方だけなら」

 ここで、D・Sルネは、わざと言葉を詰まらせてみる。

「もしそうなら、一方だけでは、決してスペースクラフトでさえ、軌道には乗らなかったはずです」

 アンディ・リーに反応はなく、ただ、D・Sルネのことを、じっと見つめていた。

 ルネは、その表情から、心を読み取ることはできなかった。この男は何を考えているのか。今この瞬間においては、何も考えてはいないように見える。ほんのわずかな間で、この男は、心を無にできるのだ。

「さすがだな。D・Sルネ。まさに、なくてはならない男。リー・グループにとって、重要なスペシャリスト。そして、話してもいないことに、君は気がついている。ただのプログラマーではない。プログラミングをただ、表面的にしているだけの男ではない。その裏を、常に見ている。見抜いている。背後にある世界の方を、冷徹に見ている。そして、その背後にある一次元ではない混濁した世界の中から、理路整然と、いくつかの形を取り出すことのできる男。それは、プログラミングをすることで身に付けた能力なのか?それとも、初めからなのか?どうなのだろう。答えたくはないか?」

 D・Sルネは、臆することなく、プログラミングによるものだと答えた。

 個人的な趣味のことを話す気にはなれかった。

「物の成り立ちというのは、全て同じことですからね」とルネは答える。

「背後がどうだとか。混沌とした背景であるとか、そういう捉え方は、どうなのでしょうかね。それは別に、影に隠れているわけでもなければ、何か、特別な意図を持ち合わせているわけでもない」

「なるほどな。君には、すべてが丸裸なわけだ」

「どうとってもらっても、構いません」


 アンディの側に立つのか、そうでないのか。D・Sルネは見極めようとしていた。そのための訪問だった。アンディのすぐそばで闘争が、事件が、トラブルが、すでに起き始めているような気がする。この男の真意を見極めたかった。今後の展開において、アンディにつくのかつかないのか。それがルネにとって、著しく重要なことのように思えた。この男は本当に、二つの対極の世界を、同期させることで、第三の何かを生もうと、明確に意識しているのだろうか。意識しているのなら、一体、何を生み出そうとしているのか。生み出したものから、さらに、何を派生させようとしているのか。連鎖させようとしているのか。その片鱗だけでも、掴んでおきたかった。この男が信用に足る人物なのかどうかを。

「何でも、お見通しのようだから、話すが」とアンディは、さらに声を一段階、落として話し始める。「スペースクラフトバイブルは、遥か未来から、やってきたテクノロジーだ。そして、キュービック・シリーズは、過去から。太古からやってきた、精神構造世界。その両極から、今、この瞬間へと、強烈に空間を圧縮させるために、両者が必要だった。あらゆる物事が、この二つの世界観で成り立たせることこそが、事業の核だと、私は思っているのだ。あらゆるね。企業というのは、それを運営していく媒体。そして、そのトップというのは、そのことを知っている人物。誰よりも理解している人物だ。それ以外にはない。理解していない人間は、時間の経過と共に、消えゆくのみだ。それが、これからの経営者のあり方。事業者のあり方。いや、あらゆる、分野の、つまりはアーティスト、芸術家のあり方。トップスポーツ選手の、あり方だ」

「なるほど。未来と過去ですか」D・Sルネは演技ではなく、心底、感嘆していた。月と太陽、陰と陽の二極のことは、考えたが、それが過去と未来という、時間の話にも、通じているとは思わなかった。ということは、例えば、過去から今に流れて来る風が、陰。未来からやってくる波が、陽なのだろうか。いや、その逆の、可能性もある。あとでしっかりと考えようと思った。

「別にね、等しく、その力が両極からかかることは、必要不可欠だとは思ってないんだ。それは、双方が存在しているということが、大事なことでね」

「しかし、やはり、同等のエネルギーを、望みますよね」

「ああ、そうだ」

「やってくるんですか?近い未来に」

「私には、何ともいえないよ。もうやることはやったんだ」

「その、何か、爆発的に売れていくための仕掛けというか、働きかけを、すでにしているとか。そういった方策をお持ちだとか」

 ルネは、前のめりに、アンディに畳み掛けていきそうになっていった。

「私は、こう思っているのだよ。むしろ、働きかけるのは、我々ではないとね。そしてキュービックの方に、直接、働きかけるのでもない。むしろ、やるとしたら、スペースクラフトの方をだ。そして、やるのは我々ではない。ユーザーだ!」

 予想もしない答えに、ルネは固まってしまった。

「つまりは、今現在において、我々にやるべき事柄は何もない。特に、私は」

「それで、あなたは」

 ルネは、昨夜知った話を、急に思い出した。週刊誌にアンディのプライベートが暴露されていたのだ。彼が交際している女性が、実名で書かれ、それが図に描かれ、説明がされていたのだ。まだ詳細は読んでいなかったが、誰か、側近の幹部が、リークしたのではないかと、ルネは思ったのだ。

 今は、何もすることがないから・・・だから、女に・・・。女遊びに。そうなのか?とても、そのような男には見えない。そんな生産性のないことに、エネルギーを?

「ユーザーは、まだ、スペースクラフトの、本当の使い方を、熟知してはいない。彼らは、装備されている機能を、ただ使っているだけだ。使いこなしているだけだ。ただのそれだけだ。それは、便利な移動手段。仮初めの居住空間。ビジネス会議空間。プライベートな外部からの逃避手段。それくらいにしか、使ってはいない。そうじゃない。彼らがもっと、別の使い方をするようにならないと。彼らが、自らの知恵で新たなる使い方をしてもらわないと。そうでないと、何ら、スペースクラフトの長所を、生かしきれはしない。そうなんだよ。スペースクラフトⅡというのはね、実は、こちらから与えるものではないんだ。君にだけ言ってしまうと。話の流れだ。そして、君という能力と理解力を持った人間だ。構わないだろう。スペースクラフトの進化系は、こちらから、提供するものでは決してないということだ。彼らが自ら産んでいくものなのだ。スペースクラフトⅠを、元手に。基盤にしてね」

 ルネは、放心状態が続き、ほとんど頭の中は、真っ白になってしまっていた。



 しかし、自分はどんなことがあっても、アンディ側につこうと、このとき、D・Sルネは思ったのだ。この自分が理解することのできない、そこに、計り知れない可能性があるのだ。

 このつまらなくなりすぎた自らの生活を、奮い立たせるものがある。すでにルネは、自分が、この世から消え始めていると思い始めていた。舞い込んで来る仕事は、確かに、今までのように、引き受けていくことにはなる。しかし、気持ちを強く入れることで挑む仕事では、すでになくなっている。機械的にすらなっている。むしろ、余計な気を、できるだけ排除することで、物事は滞りなく進行していく。自分はすでに、いなくなっている。誰もいないこの場所に、仕事は勝手にやってきて、そして仕上がり、去っていく。生きる欲望がなくなってきている。関根ミランとの関係も、すでに飽きている。他の女にも興味はなくなっている。関根ミラン本人に飽きたというよりは、異性全般、さらには、すべての人間関係、何も刺激を受けることはなくなっている。誰と居ても、誰ともいない。ひとりそこに居る。いつでも変わらない。仕事をしていても、実情は、何もしていないのと同じだ。人といても、誰ともいない。雑踏の中、多種多様な音が鳴り響いていても、実際は、何の音も聞こえてはこない。すべては、自分の身に起きていることではなくなってきている。透明になっているかのごとく。この身には触れずに、ただ通過していってしまう。

 あのアンディという男が唯一、強烈な存在感で、目の前に立ちはだかったのだ。掴まえるよりは、むしろ、行く手を遮っているように感じられた。回避できる、どんな方法をも、自分は持ち合わせているような気がした。そして、アンディに対立する立場ではなく、同じ側につくことを、D・Sルネは決めていた。

 ルネの頭の中は、今だに、白い靄が広がっているだけで、不明瞭で理解不能な概念が、視界の前に浮遊しているだけだった。スペースクラフトとキュービック・シリーズのプログラミングをしたのは、この自分だった。しかし、中身の真髄までは、何もわからなかった。アンディ以外には、わかりようがなかった。そのアンディが、意識的に構築しようとしていたのか、それともたまたま、成り行きで立ち上げたのか、そこが知りたかった。そして、知ることができた。あの男には、明確な想いと、ビジョンが確かに備わっている。理解できないのは、こちらに問題があるからだ。こちらの目が曇りきっているからだ。しかしこうして、理解できないのに、思考を巡らせているだけでは、何の解決にもならない。何も、前には進んでいかない。自分がプログラミングしたこの二つを購入し、日々付き合っていかなければならない必要性を感じてくる。毎日接することで、新しい感覚が目覚めるのではないか。そこに、アンディに繋がる根本的な兆しが、感じ取れるのではないか。

 D・Sルネは、スペースクラフトを購入し、移動に公共機関を使うのをやめた。賃貸契約のマンションを解約し、移動だけではなく、ほとんどの時間を、スペースクラフトの中で過ごすことにした。さらには、キュービック・シリーズを手に入れ、その書籍を読んでもみた。いまだ、一冊しかリリースされていない書籍の存在が、ヒットしていないこの業態を、素直に表現している。しかし、ルネは、この一冊を繰り返し、体験した。やりつくすしかないことを決めていた。不思議と、この相容れないように見える二つは、もしかすると、同時にすることで、別の効果が期待されるように、出来ているのかもしれない。プログラミングと同じで、二つを同じ場所で、直接交わることなく、同時進行させることで、スペースクラフトでもない、キュービック・シリーズでもない、第三の何かが、生まれ出てくるのではないかと感じ始めていた。むしろ、同時にしなければ、何も機能はしないのではないか。今はまだ、同時にやる人はほとんどいない。二つを共に購入している人さえ、ほとんどいないのだ。スペースクラフトの未来思考の便利さに、飛び付き、享受している人が、多勢なのだ。そして、この一方を享受していくことで、どんどんと、不安定な人格を自らに育み、加速していくことで、やがて、対極にあるものに気づいていく少数派も出てくるに違いなかった。だが現実は、少数派すぎるために、一方に行き着くその果てで、反転を強いられる摂理となるに違いなかった。

 アンディが焦る必要など何もない。待っていればいいだけだ、と言ったその意味を、何度も噛みしめてみた。いずれにしても、それは、同等の存在となると、力強く語った、その姿をルネは思い出していた。

 アンディもまた、この自分と同じように、今、時間を持て余しているのかもしれなかった。様子を見ているだけのために、日々を生きている。世界が変化していく様子を、観察するためだけに、日々を生きている。退屈さをまぎわらせるために、何かをしている。その何かはわからない。次なる発明に邁進しているのかもしれない。次なる構想が、彼の中で渦巻いているのかもしれない。きっとそうに違いない。

 アンディは常に先へと動いている。彼が暇のように見えるのだとしたら、それは、今の世界の現状に照らし合わせて彼を見ているからだ。それは彼の天才性を、こっちの凡人の世界に、無理矢理に引き戻すようなものだった。それは恥だ。スペースクラフトで、キュービック・シリーズを見続ける、その意味。自らに、インストールしていくその意味を、考える。体の反応から感じとる。

 D・Sルネは、自らにかけたプログラミングのことを思い出す。死に纏わるプログラミングだった。この、残っている、まだ残っている、この世に生きるためのエネルギー。生き残るためのエネルギー。この世に繋ぎ止めるための希望、欲望、野望の欠片のすべて。全霊で今やるべきことに、投入するのだ。枯渇させるために。生きることになっている寿命を、今に圧縮して、極端に縮めるために。生きていくための、気持ちを、すべて奪い取っていくために。綺麗に何も残すことなく、消えていくために。そして、そのプログラミングは、おそらく効いているのだろう。日々、ルネは、生きていく気力を失っていった。全霊に取り組んでいる、他の時間は、ほとんどかろうじてこの世に繋がっている屍のようになっている。何もする気にはなれない。仕事はほとんど、意識が解離した状態で、体が自らこれまでの経験から自動的に行っている。それでも時たま、沸いてきたエネルギーを、高濃度に圧縮して、全霊を込めて取り組むこともあった。まだ完全には、生命は停止していないのだ。その瞬間まで、この事は続いていく。しかし、頻度は激減し、結集させるエネルギーの総量は、驚くほど少なくなっている。とことんまで絞り出すよう、それさえもが、自ら全霊に取り組んでいるようにも見える。

 ルネはすでに、自らにプログラミングをしているため、特に何もする必要はなかった。この二つの死が、ルネの傍を、常に旋回していた。そこに舞い込んでくる、アンディの二つの世界。スペースクラフトは、未来からやってきたテクノロジーであり、キュービック・シリーズは、過去からやってきたテクノロジーなのだと彼は言う。その両極から、この今という時を、痛烈に圧縮する。彼は静かに語る。ほとばしる、彼のエネルギーとは裏腹に、そのしゃべる口調は、あまりにも静かだった。

 その圧縮の頂点で、三つ目の世界が生まれ出る。彼の言葉に、そのような内容が現れ出てきたのか、それとも自分が付け加えているのか。混濁していく。彼が言ったことなのか、自分で言ったことなのか、区別がつかなくなっている。融合して、妙に混じり合っているような気もする。そして、彼はこうも言う。

 事業は、その二つだけでは、もちろんないのだと。様々な展開を見せていくのだよ。もちろん、第三の世界における多種多様な事業。でも、それだけではない!この二つの融合の世界のことを、何かの形で、暗号として残しておこうと思ってね。そう。残さなくてはならないのだよ。もしだよ、スペースクラフトも、キュービックも、いずれこの世には残らずに、消えてゆく運命にあるとしたら、その始まりにあったビジョンもまた、辿れる痕跡を失ってしまうことになる。それに、この二つの事業が、共にうまく行き続けたとしても、ただのそれだけで、背後にあるビジョンには、誰も気づいてくれない可能性もある。僕はね、誰かにその真実を伝えたい、その資格のある人間に伝えたいと、常に思っている。それは義務でもある。もちろん、全ての人にというわけにはいかない。わかる人間。わかろうとしている人間。気づき始めている人間。究極を求め始めている人間。彼らに、大いなるヒントを伝授しなければならない。種として、植える役目があることを自覚している。僕はね、本当は教育者になる夢もあった。

 アンディは表情ひとつ変えずにそう言うのだ。ただし、その内容は教員という立場でできるものでは到底ない。職人の師匠のような、弟子への伝え方でもない。どちらかといえば、芸術家のそれに近い。絵を描いて、それも一枚ではない生涯をかけて描いた絵、すべてに、暗号を個別に組み込む。全てを合わせ見たときに、浮かび当たってくる鍵。他にも、装飾の技だとか、美的感覚などの、より表層的な技術も、もちろん含まれている。それもまた、参考になるだろうし、未来の画家たちにも、ある種のお手本のようなものになるだろう。けれども、肝心なことは、それだけではない。その奥。背後にある世界。多重の世界。その多重の、さらに深く進んだところにある、根源の基点。探求者は必ず、絵の森の中へと、突き進んでいく。そういった世界における、教師としての、導く者としての役割。それに近い。僕は、それに近いのだよ。その表現の手段が、絵ではなく、事業なだけで。そして、そういった本物の絵を描いた一人の画家が、居たことも知っている。その絵を、すべて、僕は買い集めた。世界中に散ってしまっていた、そのすべての絵を集めきったのだ。スペースクラフトで得た、巨額の利益を使ってね。なにせ、スペースクラフトの次号の開発には、回さなくていいのだから。

 自らの声と、混じりあったアンディの声が、残響を轟かせていた。

 ギャンブルだよと、アンディは言う。カードゲームの、開発だよ。それも、僕は作った。僕が作ったわけではないけれど。例のように、人が作ったものを、自らの事業へと組み込れた。

 いつものことだ。カジノで行われている自前のゲーム、ムーンだ。グリフェニクス本社内に設置された巨大カジノ場の中に、それはある。そこ以外で、プレイすることはできない。普及もさせない。スペースクラフトやキュービック・シリーズのように、外部に普及はさせない。それとは反対だ。対極な存在として、生きていってもらう。閉ざされた密教世界のようなものだ。ここにしかない。ここ以外にはない。こちらからは決して、出向いてはいかない。ただ、やって来てもらうのみ。それも、すべての人に、門戸が開いているわけではない。ほとんどは門前払い。カジノ場は会員制ながらも、万人に開かれてはいる。だがムーンは違う。ムーンだけは違う。プレイするに値する人間だけを、選別している。その資格のある者だけが、通過を容認される。もちろん、僕が判断しているわけではない。ムーンさ。ムーンそれ自体が、人を選んでいる。むしろ、ムーンが、呼んでいるとさえいえる。ムーンが、その人間を、導いているともいえる。受けるに値する、人間を。そこから自ら探求の世界へと進んでいける人間を。ムーンそれ自体が、見抜いているともいえる。


 世界中に、この構造が溢れているような気に、すでにD・Sルネはなっていた。少しずつ違うものの、それは扱った人間の個別性が反映された、結果であって、その原型はこうして、世界を覆っているのではないだろうか。この世に存在する物質のすべてが、この原型を元に、今動いているのではないだろうか。無意識に、それに反応する人間が、出てきているのではないだろうか。意識的に、その流れを、より鮮明にしようとしている人間もまた、出てきているのではないだろうか。

 少しずつ違うものの、そうした構造に気づき、具現化していく人間が、増えていくことで、その原型は発動する仕組みになっているのではないか。そんな気がしてきた。そして、自分以外で、それを顕著に象徴しているのが、アンディ・リーだった。この男は、意識的に扱ってもいた。だいぶん前に、行動を起こしてもいた。すでに、一大企業を作り上げ、大ヒット商品を産み出している。そして、次なる行動の時を待っている。だんだんと、ルネは、アンディと意識が合一してきているように感じてきていた。自分が、たった今、アンディだと言われても、そうなれるような気がしてきた。たった今、外見がそっくり入れ替わったとしても、仕事がこなせるのではないかとも思った。

 ルネは、そんな勘違いと共に、第三の現象のことに思いを馳せた。スペースクラフトと、キュービック・シリーズの二大事業が、融合なき化学変化を、交わることなく、引き起こした、その場、空間に、いったい何が起きるのだろうか。個人の意識の中で、何が引き起こされるのだろうか。全体としては、どんな現象が顕れ出るのか。何もない気が少しもしないのは、何故なのか。

 ルネは、次第に緊張感が走ってくるようになった。エネルギーが失われた、生きる屍は、時おり不安定な電流が走るように震わされた。これはエネルギーではなかった。自らの中に残った、エネルギーの疼きではなかった。そうではなかった。何か別のものだった。自分の内奥でもない、外側からでもない、どこからやってきたのかわからない、疼きだった。その度に、ルネは、思考停止を余儀なくされた。

 その度に、自分の体の輪郭が、感じられなかった。震源の場所が、うまく特定できないのだ。何かが崩れてきているのだ。これまであったはずの堅固な構造物が、壊れてきているのだ。それが、この疼きの、正体であるような気がした。いや、崩れる前兆としての脈動。すぐそこにまで、あるいはまだ、だいぶん距離がある中での、異変の示し。そして、その小さな異変は、異変同士が呼応しあい、来たるべき大変動の合図を、確認し合っているようでもあった。

 不気味な静寂。交わされる暗号。そう、暗号だ。俺はまだ、暗号が読み取れているわけではない。暗号は、そこらじゅうにあるのだと、そういう考えが浮かんできただけだ。これからやることは、その暗号の痕跡を見つけ、読み取り、再構成し、自らの身の置き所に、その成果を反映させなくてはならないことだ。アンディのように、先を読み、先に行動をとり、いざ、それが来たときには、次の展開へと移っている。移った者同士が出会い、あらたなる未来の情報を、確認し合い、交換し合い・・・そして。

 ここに来て、違うエネルギーが生まれてきていることを、ルネは不思議に思った。

 自分はもう、生きていくエネルギーはほとんど枯渇していたのではなかったのか。未来に想いを馳せているこの現実は、いったい何なのか。そして、その想いとは、実にたったの一つ。この暗号が、示している真実だ。おそらく、全神経が集まり出しているのだ。

 ルネはそういうことならと思う。そこに再び、全霊をかけて、沸いてきた命を注ぎ込むべきではないか。そうやって生まれた寿命は、ことごとく使い尽くす。放置しておいてはいけない。そうすれば生はのっぺりと平らにただ広がり、引き伸ばされた薄い生活が、そこには展開されていくのではないか・・・。

 ふと、D・Sルネは、寺院のことが頭をよぎった。

 過去のデータの中に、寺院という建造物が、乱立していた時代があることを知った。

 そのときは、何の引っ掛かりも感じなかったのだが、今あの映像が、突然甦ってきた。寺院について、少し調べてみる気になっていた。何の脈絡もない、思い付きだった。寺院建築が完全に、この世から消えてしまって、どのくらいが経つのだろう。宗教と呼ばれる信仰が、姿を消してしまって、どのくらいが経つのだろう。信仰を立体で再現したのが、寺院建築であり、その信仰に、捧げる祈りを行う場所としての、寺院建築であったようなのである。

 ルネは、コンピュータで、過去の寺院を検索してみる。しかし、いくら繰り返しても、そんな情報は出てこない。画像に、一つも行き当たりはしない。前に見たのは、それほど昔のことではない。全然、アクセスできなかった。ブロックがかけられているのだろうか。どうしてヒットしないのだろう。何度も、何度も、寺院建築という言葉を打ってみるが、何の反応もない。検索するキーワードに、問題があるのだろうか。キーワードが合っていないのだろうか。寺院建築というのはあくまで、自分が勝手に作った造語なのだろうか。正式な名称は、他に。じゃあ何故あのときは、ヒットしてしまったのか。何か別のものを調べているときに、たまたま、その付近に、寺院建築なるものの情報が、旋回していたのかもしれなかった。そう考えるのが自然だった。

 ルネは、あの寺院の映像を見たときの状況を、思い起こそうとした。

 記憶はまるで整理のつかないガラクタの森の中で、改編が繰り返され、同じ状況を再現することが、非常に困難であることを、ルネに訴えかけてきていた。遡ろうとすればするほど、駄目だった。行き当たるどころか、膨大な記憶が、津波のように襲ってきて、窒息しそうになった。

 今さら、亡き世界を呼び戻すことに、意味などなかった。そう言われているようであった。確かに、そうかもしれなかった。未来に進むべきだった。だがどうしても、寺院建築のことが、意識の中から離れ去ってはくれない。このタイミングで、呼び戻された断片なのだ。そして、その断片は、これから起ころうとしている、第三の現象世界と、密接に関わりをもってくるような気がするのだ。






































2048 7





















 ナルサワトウゴウは、長い長い眠りの果てに、ようやく目が覚めたかのようだった。

 一夜の睡眠には、とても思えなかった。背中の感触は、自宅のベッドのそれではない。

 クリスタルガーデンの自室には、こだわりの寝具を揃えていた。そもそも、背中に当たっているシーツの感触はどこにもない。何にも触れてはいない。横にはなっていないのだ。

 ナルサワトウゴウは自らが両足で立っていることに気がつく。立ったまま、意識を失っていたのだろうか。しかし、その両足にもまた、体重がまったく感じられなかった。足の輪郭も、感触としては消えてしまっている。陽の光さえ全く入ってきていない。暗闇は微動だにせず、ナルサワトウゴウを取り囲んでいる。身体にまとわりついている。

 一筋の光も本当にない。まるで、体そのものが、闇と同化してしまっているようだ。この闇の中のすべてが、自分の肉体のようでもあった。ナルサワは、体を動かそうとしても、その輪郭すら曖昧な中で、何をどう指示したらいいのかわからず、瞼さえ閉じても開いても変わらない中で、何をすることもできなかった。山奥の洞窟に置き去りにされた、子供のように、ナルサワは、何もできずにじっとしているしかなかった。様子を伺い続けた。

 ここはどこなのだろう。どういった経緯で、誰に連れてこられたのだろう。誘拐されたのだろうか。自ら意識を失ったまま、移動してきているはずもない。誰かに連れ去られたのだ。監禁されているのだろうか。ナルサワは、夢の中を、彷徨っているようには思えなかった。意識は何故かはっきりとしている。匂いはないが、もっと意識が鮮明になってくれば、何らかの感触が得られそうな気がする。冷気が漂っていて、清々しさすら感じる。ここは都会の中心ではない。自然に囲まれた無人の領域だった。他に誰の存在もない。人間以外の、動物の気配もない。無音だ。虫の鳴き声ひとつしない。風が吹く気配もない。生物はいなく、植物の匂いすらしない、何一つ、息耐えた世界に、取り残されてしまっているようだ。

 ナルサワトウゴウは、声を発してみようと考える。だが、その意思は暗闇の中に焦点の合わない浮遊をするだけで、雲散してしまう。指令は、あるべき喉には辿り着かず、消えてなくなってしまう。

 何もできない中、何の変化もない暗闇の中、時間だけが空しく過ぎ去っていく。僅かな変化の兆しが、現れることを、期待している自分がいる。

 ナルサワトウゴウは、すぐに、自分の名前を思い出したが、その男がここに来るまでに、どういった経緯があったのか。そこに意識を合わせる瞬間、今のこの不動な状況に、激しく跳ね返されるのを感じた。

 暗闇は、その外側に、意識を移行させるのを、激しく拒絶してくる。

 ナルサワが逃げようとするのを、阻止するかのように、その度に、さらに闇は濃くなっていくるように感じた。何かの意思を感じた。やはり、誰かに見張られている。心の内までをも、監視されているような気がする。相手は自分の全てを、把握しているような気がする。体の自由を奪い、記憶を奪い、時間を奪っていった。そのすべてが、止まってしまっている中、ナルサワの意識だけは、奪い取ってはくれなかった。ひどく、苦しかった。生殺しにされているような、拷問を受けているような。死ぬことのない肉体に、殺害すること以上の危害を、終始与え続けているような。そんな静けさだった。


 静寂は、鋭い刃のように、ナルサワの心身を切り刻み続けていた。

 その状態が、ずっと続いた。

 ナルサワは、反抗することも受容することも、どちらとも、区別がつかない状態で、放置され続けた。

 そういえば、お腹が空いていない。食べたいという衝動すら起きてこない。喉も乾いてなかった。その喉がどこにあるのかすら、わからない。全く理解ができない。性欲もわかず、帰りたいという気持ちは、浮かんできたものの、どこに帰ったらよいのか、帰る場所の存在すら、思い出すことができない。帰らないのなら、どこかに行く必要がある。これまでとは、異なる場所へ。助けを求めて、逃げ出すのが、この場合は当てはまっている。何のために。何をするために。前後関係がまるで見えない状況は、身動きすらできない現実に、ぴったりと嵌まっていた。

 そのことを、ナルサワは感謝すらし始めていた。

 ならいつまでも、このまま居てやるさと、別の意思もまた、発動されてくるのがわかる。いつかは腹が空き、喉が乾き、飢え始めてくる。体はのたうち始めることになる。そのときに、やっと、己の身体の輪郭が感じられ、その中身の重み、繊細な動きまでをも、把握することができるのかもしれなかった。

 苦しみが始まり、そして、初めて体を動かすことができるのかもしれなかった。光を求め、洞窟内をさまようことができるようになるのかもしれなかった。助けを求めるべく、叫ぶことができるようになるのかもしれなかった。洞窟内に水の存在を発見して、脱出に向けて、するべきことが、次々と連鎖してくるのかもしれなかった。

 今は待つべきなのか。まずは、飢えることから、全ては始まるのだろうか。そうしよう。

 ナルサワは、訪れることのない睡魔の存在を見つめ、それが音を立てずに、去っていく様子を、想い描いてみた。



 ドクター・ゴルドは、坂崎エルマと名乗るフリーライターから連絡が入ったことを、秘書の女性から聞いた。直接話したいことがあると、レストランに出てくるよう要求された。

 あなたの開発したスペースクラフトバイブルのことについて。あなたが開発したことになっている、スペースクラフトバイブルのことについてです。この言い方で、理解できますでしょうか。

 ドクター・ゴルドは、外に行くことを秘書に伝える。同行の必要はないことと、二時間もすれば、戻ってくることを伝える。

 レストランに入るやいなや、ゴルドは、ウエイターに奥へと案内された。個室に一人、座っていた女のような男のような、年齢性別国籍不詳な、褐色気味の肌をした小柄な人物を目にした。

「坂崎です。坂崎エルマ。来てくれてありがとう」

「無礼な奴だな。俺の歳の、半分も、いっていない。日本人か?男なのか?」

「今となっては、よくわかりませんね。最初は、そのどれかだったのでしょう」

「気にくわない話し方だ。それで、用は何なんだ?」

「わかってるから、誰の同行もなく、一人で来たんでしょ」

「さっさと、進めろ」

「原岡帰還さん。ご存じですよね?」

「知らないね」

「スペースクラフトの開発をされた、技術者です。研究者です。彼が一から設計して、そのほとんどを、仕上げた。そうですよね?」

「そんな事実はないね」

 ゴルドは、表情ひとつ変えず、答える。

「では、質問を、変えましょう」

 エルマもまた、何ら感情の発露を見せずに、先を淡々と続ける。

「スペースクラフトバイブルⅡの、発売の目処は、立っていますか?」

「なんだと!」ゴルドは、目の前のテーブルを激しく、蹴飛ばしたい、雰囲気を漂わせ、すぐに、その想いを抑圧し、失礼と言って、真向かいの椅子に座った。

 二人の視線は、初めて同じ高さになった。

「目処は、立っていますか?」

 エルマは、続ける。

「お前に、うちの企業の情報を、渡すわけがないだろ」

「まあ、そうですね。試しに、訊いてみただけですよ」

 エルマの挑発的な物言いは、少しも、鳴りを潜めることはなかった。

「その予定は、見事に、頓挫してるんでしょうからね。大変ですね。開発者が、すでにいなくなっているのに、彼が生み出した商品だけが、爆発的に、一人歩きしてしまっている。誰もついてはいけない。あなたも、今は必死で、開発にこぎ着けようとしているのでしょうけど。全然、睡眠を、とってる目をしていない。表情もほとんど死んでいる。それでも、諦めないその心は認めましょう。あなたもあなたなりに、必死だ。あなたの命がかかっている。雇い主のアンディを騙しているんですからね。あなたが開発したことになっている。今後も、あなたが改良し、進化させていくことになっている。暗黙の了解だ。しかし、あなたには、その目処が、少しも立ってはいない。実に滑稽だ。必死で、あなたの持っている、すべてのものを投入して、技術も知識も、エネルギーも、時間も、寿命も投げ打って。それでも、少しの効果もない。時間は、どんどんと差し迫ってきている。遠ざかるということはないですからね。まさに、人の命と一緒だ。どんどんと迫ってきている。期限は迫ってきている。もし、そのときが来てしまえば、あなたは自害なさるんですかね」

「いい加減にしろよ。こうして、会いに来てやってるんだ。いったい、何が目的なのか。はっきりと言ったらどうだ」

「前置きは、もういいですか?」

「帰るぞ」

「ええ。いくら待っても、料理は出てきませんからね。そういうお願いを、店にはしているんですよ。ただの場所代です。それも経費として、しっかりと、引かせてもらいますけど」

「誰に売りつけるんだ?そして、どこまで、知ってるんだ?目的は金なんだよな、もちろん。他に、どんな目的もないんだよな?」

「とりあえずは、そういうことにしておきましょうか」

「いちいち、気にくわない野郎だ。男なのか女なのか?」

「声で、判断がつきませんか?」

「どうしていちいち、質問で切り返すんだ?やってられない!俺をわざと怒らそうとしてるんだな。この会合が、破談になることを望んでいるんだ。警告か。予告をするために、来ただけか。金じゃないな、目的は。俺に買い取ってもらうために来たのでは。雑誌の人間か。雑誌に載せるつもりなんだな。確かに、スペースクラフトのネタは、今は、一番の高値だ。売り時だ。だが、お前のその嘘を、いったい誰が、信用する?そもそも、何を、掴んでるんだ?何を知ってることにしているんだ?」

「私は別に、このネタを雑誌に載せるつもりはありません。世間に公表するつもりもありません。そんなことをして、何になるのですか?私はこれでも、スペースクラフトのファンであるし、所有者でもありますし。滞りなく、今後、ただ、進化していってほしいだけですから。ただのそれだけ。お金なんか必要ないわ」

「ないわって、やはり、女なのか?」

「馬鹿なこと言わないでよ。私はただ、スペースクラフトを、ここで終わりにしたくはないだけ。もしあなたが、その開発者ということで、その偽りを手放さないのだとしたら、そう、あなたには、絶対に無理よ。開発していくことなど、不可能なのよ。それを阻止したいのよ。純粋に」

 坂崎エルマは、笑い始めた。

「お前のはったりには、最初から、うんざりだね」

「本当よ。何もかもが、本当なのよ。あなたには無理なのよ。三流科学者さん」

「もう、その手には、乗らないさ」ゴルドは言った。「それが、お前の手なんだ。怒りを誘発させて、自分が知ってもいない情報を、相手から引き出す。相手から漏れた欠片を、ただ拾うだけ。これまでは、通用してきたんだろうが、俺には駄目だ。底が浅い。透けて見えるようだ」

「今日は、このぐらいにしておくわ」とエルマは答える。「今の言葉は、撤回する。三流っていうのは。あなただって必死なのよね。それは認める。それに、キュービックの方は、あなたの開発だって言うじゃない。今はひどい売れ行きみたいだけど、私はむしろ、

こっちの方がすごい発明だと思う」

「本当に、どういうつもりなんだ、お前は。急遽、戦略を変更したのか?」

「あなたはまったくのぼんくらではないってことよ。むしろ、ある方面では一流、いやそれ以上。だから、あなたを潰したいわけじゃないの。わかるかしら?でも、あなたがスペースクラフトの開発者じゃないっていう事実は、少しも変わらない。その事実は、捩じ曲げられない。でもあなたは、両方の開発者として今、王者に君臨している。これは、危険なことなのよ。私は、あなたに忠告をしに来たの。その虚偽は、近い未来に、必ず破綻する。その警告に。それは、あなたの一方の功績をも、塵に返してしまうことになる。考えなさい。対策を考えなさい。その無意味で、絶対に突き止めることのできない、スペースクラフトの研究は、直にやめなさい。わかってるのよ。あなたは誰よりも今必死で、その開発となる鍵を、見つけ出そうとしている。スペースクラフトのⅠだけを分析して、その発展系が、生まれるほど、生易しくはない。Ⅰを生んだ、その背景にある原型。その複合的な世界観を、掴むことなしには、何も起こりはしない。あなたは誰よりも、そのことを知っている。だから苦悩している。その苦悩は、誰にもわからない。誰にも理解することができない。あなたは孤独なの。王者でありながら、誰よりも孤独なの。そして、死期が迫ってきていることも知っている。私にはわかる。あなたのことがわかる。あなたが、誰であるのかも。どうしていくべきなのかも。私にはわかる!」


 いつのまにか、ゴルドは声を上げて泣いていた。坂崎エルマの胸に、顔をうずめていた。 膨らみは弱く、かといって、真っ平というわけでもなく、その感触は、ゴルドが今まで感じたことのない不思議なものだった。包まれている感じでもなく、突き放されている感じでもなく。この人はいったい、何者なのかがわからず、けれども、胸の内を、ゴルドは解放せざるをえなかった。これまで、誰にも言っていないことだった。

 ゴルドと原岡帰還は、共に科学者で、親子の歳ほども離れた、国立研究帰還の同僚だった。原岡が仕事とは別に、独自の研究をしていることを知っていた。原岡もゴルドだけに、明かしていた。二人は、親友だった。プライベートでも、互いの家を行き来していた。そのときもほとんどが科学の話だった。未来のテクノロジーの話ばかりをしていた。そんなマニアックな男たちに関わる女性は、極端に少なく、それでも二人には特定のパートナーがいた。原岡は結婚してなかったが、ゴルドはしていた。別居状態でしか、婚姻関係を続けることはできなかったが、それでも、社会的な体裁は保てた。ゴルドもまた、原岡の影響を受けて、何か開発でもしてみようかと思い立った。それが、今のキュービックという技術に、繋がっていた。原岡の研究は、スペースクラフトそのままに、直接実現した。しかし、原岡が生きているときに完成はしなかった。原岡は三十七歳で亡くなった。病気でもなく、事故でもない、突然死だった。あるいは、過労死だったのかもしれないと、ドクターゴルドは一人振り返った。原岡の、通常の仕事だけでは、過労といった発想は、誰にも湧かない。しかし、プライベートな時間の使い方までをも、知っている友人としてみれば、原岡がどれだけのエネルギーを、自分の研究に費やしているのかは、わかっていた。根拠の不確定な未知なる領域に、果敢にチャレンジしていく彼に、鬼気迫るものを感じていた。原岡は、自分の命を縮めてまで、自らの研究に取り組んでいる。それは、熱心さを通り越して、ほとんど狂気のように、映ることもあった。原岡が研究が好きだということは認める。しかし、何をさておいてまで、のめり込むほど、好きかといえば、そういった意味での熱心さとは、明らかに違っていた。たまたま彼にとっては、科学という分野での、研究行為となった。才能がそこにあったから。それだけのことのように思えた。何だっていい。狂える対象さえあれば。ゴルドは、幾度となく、そう感じたものだった。この男は、単なる科学者では全然ない。ほとんど死にかけている。死に挑んでいる。死を克服するとか、そういうことではない、死ぬためにやっている、死期を早めるために、わざわざ、持っているエネルギー以上のものを、引き出すために自ら。つまりは、研究の内容などはどうでもよく、ただ、未知なる領域であるということだけが重要。自らの才覚がそこにあり、それでいて、全くの未知なる暗闇の領域が、存在する。無尽蔵に投入できる宇宙レベルのキャパが必要だ。すぐに行き着いてしまう探求ではまるで意味がない。たどり着くことのない、世界であるということが、最低条件だ。彼は、その場所を見つけた。独自の取り組み方を見つけた。つまりは、それは、死に方を見つけたということだ。

 ドクター・ゴルドは、原岡との友情が、今蘇ってきたことに感極まった。あのように、仕事においても人生においても、深く関わった人間は他にはいなかった。年齢の差や、付き合った時間の短さでは、問うことのできない永遠の絆だった。だから、原岡が自宅で死んでいるのが発見された時も、驚きはしなかった。ショックは、突然ではなく、その後あったはずの彼との交流が、失われてしまったことに気づいたときに、じわりとその不在性に、悲しみが積もっていったのだ。それは今も終わらない。癒えるどころか、増していっている。あの死後の、冷静な受け止め方からは、どんどんと、離れていっている自分がいる。その想いもまた、誰にも打ち明けられずに、貯めていくしかなかった。不意に現れた、見知らぬ人間に、垂れ流してしまっていた。ほとんど、決壊寸前状態を生きていたことを、ゴルドは見せつけられてしまっていた。すすり泣く中年の男を、少し離れたところから見ている自分がいるような気がした。この二人はいったい、何をしているのか。ウエイターが入って来たら、どんな反応を示すのだろうか。一瞬、俯瞰して見えていたが、次の瞬間には再び、エルマと名乗る人間の胸に頭を強く押しつけている自分がいる。

「あなたのこと、誰よりもわかるのは、この私なのよ」

 エルマは、ゴルドの頭を擦り続けた。ほとんど、子供と化したゴルドは、エルマに、原岡帰還のことを語り始めていた。

 原岡が死んだとき、第一発見者は、同居していた女性であったということ。彼女はその後、別の男の家の中で、全裸で死んでいたこと。原岡の死に、彼女が関わっていたのではないかと、警察も考えていたこと。その別の男と彼女は、交際もしていたこと。さらには、彼女は、別の男とも関わりがあったということ。全てを明らかにするには、あまりに混沌としていて、警察も途中で根を上げてしまったというのが、実情だった。それに、解明したとして、別にたいした事件でもなかった。それに、どの死体も、他殺の痕跡を、少しも見つけることができなかった。それが最終的には決め手だった。ゴルドもまた同じ結論だった。少なくとも、原岡の死に関しては、他人の手はかかっていない。同居女性の死については、何の興味も沸かなかった。勝手に死んでくれたらいい。原岡に対しては、純情ぶりを見せつけていたようだが、性根、腐った女なのだろう。男を駄目にしていく典型がいなくなって、未来の被害者が激減したことに、逆に喝采を送るべきだった。原岡の死には何の関係もない。原岡は突然死。それも自殺。未来のテクノロジーに、その身を捧げた。生け贄だ。彼は、生け贄になりたかったのだ。自分の身を、天にそっくりと捧げたかったのだ。彼を産み落とした運命に、ただそっくりとそのまま返したかったのだ。それだけが、望みだった人生なのだ。

 ゴルドには、何故か、そうする彼を、理解できるような気がした。自分もそうしようとは思わなかったが、自分の中のほんの一部に、似たような想いが見え隠れすることがあった。ほんのわずかな一部しかないものが、原岡にとっては、構成要素のほとんどを占めていたのだ。だとしたら、分かるような気がしたのだ。当然の挑みであり、必然の結果であるということが。そして、残されたのが、スペースクラフトバイブルなのだ。これを世に出さないでどうするのだろう。原岡は、もちろん、その後については、何の興味もなかった。それはそうだ。彼にとっては、ただ自身のエネルギーの注ぎ場所にしかすぎなかったわけだ。だが、残された者にとっては、特に科学者である自分にとっては、これほど魅力的のあるものはなく、それに人類にとっても、多大な恩恵であることは間違いなかった。進歩に貢献する、このようなものを、出さないでいる理由などない。ただ、その出し方として、夭折した、若き科学者の置き土産として、出ていくのはどうなのだろう。ゴルドは、その製作段階から、原岡の技術を間近で見ていた。それは到底、出来上がったものを解析して、それを基盤に発展させていくのが、不可能な気がしたのだ。原岡の、最初に生んだ基盤を知ってこそ、その後の発展にはじめて寄与できるのだと直感した。ならば、それを間近に見てきた、そして親友だったこの自分に、その可能性があるのではないか。自分しかいない。これは、原岡との友情の続きでもあった。そっちの方が大きかった。原岡と繋がりを保つことでしか、これから生きていくことができそうになかったのだ。時間と共に深まっていく悲しみに対抗できる、唯一の手段なのかもしれなかった。

 誰にも、渡したくはない!誰にも邪魔されない環境を作るべきだ!ドクターゴルドは、自らを開発者とした、特許を申請し、その状況を着々と作っていったのだった。



 アンディ・リーのスキャンダルが出たとき、その内容は、アンディ個人のプライベートな事柄と、リー企業の主力商品であるスペースクラフトに関する、二本立てで構成されていた。

 スペースクラフトの開発者とされた男が、実は完全なる盗作者であり、その真実の原案者はすでに、死んでいるという記事が出たのだ。仮に、その科学者を、Gということにすると、そのGでは、今後、スペースクラフトを改編、進化していく力は全くなく、事業は滞ることが、宿命づけられていると、その記事は指摘していた。しばらくのあいだは、この好況が続いていくことだろう。誰も何の疑いも抱かず、スペースクラフトを購入していくことだろう。それに、このⅠだけでも、購入する価値は十分にあるというものだ。しかし、それもまた、文明社会が要求する、次なる水準を満たすことができなくなるとき、人間がさらなる利便性を欲求するときに、応えることができなくなるだろう。

 アンディ・リー・グループは、崩壊の序章を、ひた走っていくことになる。それは、スペースクラフトが世に登場する前よりも、ひどく醜い状況を、誘発していくことにもなるだろう。リー・グループは、文明を導く、旗手では全然なく、むしろ急激に上げたその手で、人々を奈落の底に落とす、まさに堕ちた宇宙船の象徴として、君臨することになるであろうと。

 D・Sルネは、この辛辣な記事を、自宅で読んでいた。こうした中傷記事が出てくることはもちろん、予測されてはいた。全く、びくともしないであろうが、それなりに興味深い内容ではあった。虚偽であったとしても、一時的な影響力は、与えそうだった。

 無条件に購入していた人々の意識を、ほんのわずか、立ち止まらせるには十分な役割も果たしそうだった。だがいずれは、時間が解決してくれる。スペースクラフトⅡが、満を持して発売されれば、全く問題はないのだから。いつになるのかは、わからなかったが、D・Sルネは、スペースクラフトの進化の仕方を、アンディから直接聞いていた。それによれば、この記事に書かれているような進化の仕方、リリースの仕方はしないからだ。アンディの言葉を信じれば、記事の内容は、完全に作り物であることがわかる。それでも、ルネは、記事の信憑性とは別で、何かが気になり続けた。Gという科学者に、この記事が出ることを伝えると、彼はひどく動揺し、泣き出したという下りがある。あまりに、馬鹿げた描写だったが、逆にそれこそが、あった話なのではないかと引っ掛かりをも感じてしまったのだ。Gという科学者を、特定して、直接、話を訊きにいってみようかとも思った。だが記事の続編を読んでからでも、遅くはなさそうだった。原岡帰還という科学者が、原作者であり、Gが盗作したことになっている。原岡は死亡して、真実はうやむやになっている。この死にも、記事は疑いを持っていて、Gが、そのアイデアをそっくりと自分のものにするために、原岡を殺害したのではないかとも、暗示している。原岡の同性相手も死んでおり、Gは、この女を使って、スペースクラフトを手にいれ、そのあとで、口封じのために殺したとも匂わせている。そのように、血まみれの手を持ったGと、アンディが、タッグを組むことで、この事業は成り立っているのだとも。この物言いでは、アンディとGが共に画策して、アンディの首謀ですべてが行われているのだとも、そのような方向に話が進んでいってしまう可能性すらあった。アンディ・リーが、目指す対象であるかのような。初めから彼以外には眼中がないかのような。Gではない。狙いはアンディただ一人であるかのような。

 そして、二本立ての記事のもう一方は、アンディの女性関係だった。アンディに妻はなく、数人の女性が、親密に楕円形を描くように、彼の周りを旋回していると。アンディは、その女性たちに、それぞれの役割を与えているようで、それは、アンディの日々の動き、事業の展開と共に、姿かたちを変えて歩んでいくようであると。なので、今、確定したこの女性たちの配置は、もう次の瞬間には、変わってしまっている可能性すらあるのだと。そう、ご丁寧に但し書きまでついていた。名前は、実名のようで、ずいぶんと思いきった記事ではあった。アンディの秘書として、一人の女性が直近に雇われたこと。リナ・サクライという女性で、以前は、別のところで秘書をしていたようである。それまで雇い主であった、探偵業の男が、仕事絡みで命を落としたことから、再就職先として、アンディの所にやってきたようであった。そして、アンディは、仕事のパートナーとして、彼女をすぐに信頼し、まさに仕事においては、夫婦のような関係で、常に二人は一緒にいるようであった。周りにもほとんど夫婦同然に見られていた。二人のやり取りは、長年、共に生活をしてきたパートナーであるかのように、言葉よりも先に行動が、互いに気を読み合い、予期したような行為が、素早く交わされるのだ。もちろん、このリナ・サクライとは、男女関係があると思われる。さらには、マナミ坂下という女性。リナは、二十代後半であるが、マナミは、四十を越えた娘のいるホステスなのだという。彼女とは長い付き合いで、主に、店での邂逅に終始しているように見せているが、実は違うのだ。マナミの家に、アンディは不定期に通っている。マナミに母親のような甘え方をしているアンディを、店で目撃している人も多数いる。マナミの自宅マンションでは、それ以上の甘え方をしているに違いないと、記事にはあった。そして、三人目の愛人は、江地凛という女性だった。国籍は、日本であるようだが、両親、親族のルーツは、日本以外にあるのは確実だ。詳しいことは調査中だが、この女性の職業は特定できていない。以前はケーキ屋で働いていたようだが、今はわからない。アンディが資金を提供していて、今は働きに出てはいない可能性もある。この女性は、外出が極端に少なく、病気がちであるようにも思うのだが、事実はわからない。二十代半ばのようだ。色の白い細身の美人だ。マナミは、均整のとれた肉付きのよい美人で、家庭的な雰囲気を醸し出している唯一の女性でもあった。リナは、働くキャリアウーマンといったイメージを損なうものではない。さらに女性の羅列は続いた。ハルカ・タトゥー。アーティストだった。ピアニストで、お金は稼いでいるようだが、あくまで、生活のために技術を売っているようなところがある。クラッシックからジャズ、ロックバンドとの共演、DJとのコラボ、色々なことをやっている。音楽を特技としなから、そこには没入せずに、別のことをやっているようにも見える。そのための時間とエネルギーを、十分に、確保しているようにも見える。その合間に、アンディと会っている。どうも、交際相手は、アンディ一人のようだ。

 どの女性も、今のところ、アンディの他に、交際している男性はいないようだった。影すら見えない。ハルカ・タトゥーも、ショートカットではあったが、女性的な顔立ち、表情、柔らかさを内包しつつも、中性的なエネルギーを発露していて、才能の片鱗が、そこらじゅうに感じさせる、謎の多い女性だった。アンディと二人きりになったとき、逆に、一番女性らしくなるのは、彼女なのかもしれなかった。アンディは、彼女の女性としての魅力はもちろん、この芸術的才能にも、目をつけているように思う。芸術・アートの領域にも、事業を進出させようとしたときのために、彼女を確保しておこうという裏読みもできる。そういった意味では、前者の三人と、ハルカは全然違った。そして、ハルカのように、才能を秘めている女性を、さらに探している予兆は十分に感じとれた。まだ、複数回に渡って、交流が確認されていない女性は、記載することにはならないが、そういった女性の候補は、複数存在していて、ハルカに続く女性が現れるのも、時間の問題のように思われた。



 アンディは、二つ目の夢に破れた後、失意の日々を送っていた。アンディ・リーは、芸術家になる夢を、二十歳を過ぎる頃に抱いたのだった。自分の思うように、物事を創造することに喜びを抱いた。はじめは、ほんの些細なことだった。学校においては、宿題や課題というのが、とにかく嫌だった。勉強も好きにはなれない。決まった答えがあるものを、何故、なぞるように、皆と同じプロセスを踏んでいかなければならないのか。そもそも、何故、大多数の人間と同じカリキュラムを、こなしていかなければならないのか。そして、やった結果が、優劣をつけられ、順位までつけられる。あまりにくだらなすぎて、ただ呆然としてしまうばかりだった。大学時代も、アルバイトはほとんどうまくいかず、マニュアルのあることが、ことごとく、向いてなかった。ただ、自分を無にして、その場、その時をやり過ごしていけばいいのだが、短時間は、それが可能だったが、やがてはすぐに破綻した。給料を貰うためだけの我慢を、何故し続けないといけないのか。アンディは生まれてからその時まで、ほとんど我慢しかしてこなかった。そして、ありとあらゆる憤りが殆ど沸点にまで達していたのだ。部活でスポーツをやることはあったが、それもまた、決められたルールの中でどう勝ち抜いていくかという世界観が気にくわず、ゲームに勝つために、どんなトレーニングをするのだとか、そういった発想が少しも沸かずに、ただ怒りを、ボールにぶつけ、または、自身の身体にぶつけ、相手の身体にぶつけることで、日々、暴発する心の捌け口に利用していただけだった。

 アンディが二十歳を越えて出会った芸術は、音楽、そして、絵画だった。文学もまたそ

うだった。しかし、楽譜は読めず、小さい頃から、楽器の習得にも難儀し、絵心の方も、まったくなかった。文章も、うまくは書けなかった。しかし、自分には何か、内なる心の発露が必要であり、この憤りをどこにも逃がさず、ひとつにまとめきれたとしたら、とんでもない作品が、創出できるのではないかと思った。それは、ただのマグマであり、エネルギーだったのだが、これにある種の、地上的な形を付与することで、大芸術家になるという夢が描かれたのだ。たいしたビジョンだったが、それを裏づけるどんな分野の技術もなく、またそれを育んでいく訓練も、することはなかった。ただ、募るばかりの得体の知れないマグマが、大きく育っていくだけだった。アンディは、それを見続けた。それでも、絵や文章、詩に、そのマグマの出所を探り続けた。だが、徒労に終わった。しかし、収穫もあった。この巨大な憤りを生み出している根源は、いったい何なのか。それを問う自分が、生まれていたのだ。むしろ、何をどう表現するかというよりは、このことの方が遥かに重要な気がしたのだ。たとえそのマグマに形や装飾を与え、美しき芸術作品をつくりあげたとしても、それでいったい何になるのだろう。他人に対するアピールとしては、十分かもしれない。快く受け取ってくれる人も、なかには出てくるかもしれない。ただ、それで、この自分はどう変わるのだろう。このマグマが、自分を何に変容してくれるのだろう。憤りは、浄化し、静けさには包まれているかもしれない。しかし、それは一時的だ。性欲と同じで、放出して、空っぽになった精液が溜まっていくにつれて、再び、同じ衝動に駆られる。その衝動は、前回とはいったい何が違うのだろう。その衝動を、発生させているこの自分は、いったい、前と何が変わっているのだろう。

 何も変わりやしない。ただ、食物をとり、消化し、排泄することを、繰り返している生理作用と何ら変わりはない。そう。生理作用なのだ。動物として生まれ出た宿命のままに、ただなぞられているだけなのだ。一番嫌いな、まさにそれだった。引かれたレールに、他の大多数同様、無意識に何もわからず、運ばれていっているだけ。自ら、独創しているというのは、ただの形だけで、何も変わってなどいない。マグマが生まれ出たその根源を、知ってはいないのだから。

 そこに気づいたとき、アンディは芸術家として、何かの才能を生まれ持っていなくて、心底助かったと思った。もしそうだったとしたら、安易に、その才能に頼りきり、根源を突き止められないままに、排泄行為を続けていったに、違いなかったからだ。それで成功しようが、評価されようが、挫折しようが、苦悩しようが、そんなことは、ただの茶番のように思えた。結局は、今のこの同じ状況に、引き戻されるのだ。早かれ遅かれ。才能があって、その道を突き進んでいってしまえば、人生の晩年、終わる寸前で、この状況に、引き戻されることは間違いなかった。絶望的な事態を、引き起こしてしまうのだ。進んでいかないでよかった。だが、一つの夢は破れ去った。アンディは、二つ目の夢を持つことになった。この憤りを生んだものを解明すること。そこから、第二の人生はスタートする。アンディは、心の世界を表現したり、分析したりするだけでは、どこにも行き着かないことを直感し始めた。堂々巡りを繰り返すだけだということ。一時的な気晴らしや、慰めは得られるが、その後の落ち込みは、やる前よりも激しくなる。心の領域で、事を起こしたとしても、まるで駄目なのだ。芸術のほとんどは、心の領域における、堂々巡りの言い換えだった。これでは駄目だ。心を越えた領域を知ること。心を越えた領域に、自らが進み出ること。これが最大の目標となった。心を越えるための手段とは、いったい何なのか。どうすれば、その領域に、運び込まれる力を、誘発することができるのか。もし、そのように芸術を活用できれば、芸術は辿り着くべきゴールではなく、ゴールへと導く、ただの乗り物になる。芸術を利用して、心を越えた世界に行くことができる。心を表現する、表現し尽くすという形を、踏み台にして、その先に行く。その先を表現するのではない。その先に、本人が行く。だがそれは、当然不可能なことであった。芸術表現を、何一つ、持ち合わせてはいないのだ。

 アンディは行き詰まった。しかし方向は見えた。何らかの手段が必要なだけだった。何らかの方便が。何だってよかったが、自分にとって、適する何かが存在しているはずだった。それさえ見つかれば。見つからない間は、そのマグマの存在を、ただ見つめ、観察していよう。そんなことでは、分かるはずもなかったが、そういった行き詰まりに、自ら突き進んでいってもいいだろう。そう考えた。

 はやくに、挫折した方がいいこと。はやくに、行き着く先を見極めた方がいいことを、アンディは、それまでの経験から、体得していた。



 マグマは、変わらずにあった。その根源は、見たこともない深淵に沈みこんでいるように感じられた。そこから出てくるエネルギーに対して、その時々で違った顔を付与しているように感じられた。だが根本には、怒りのエネルギーが充満している。アンディは見続けた。芸術家になったかのように見続けた。そして、芸術家ならば、そのマグマを、自らの表現で形づくるための努力に、奮闘することだろう。この自分は違う。表現する手段がない。それを逆手にとるしかなかった。表現できないもどかしさは、ただ見続けるしかない。表現に、意識をそらすことができない。表現に逃げ込むことはできない。表現に救いを求めることは、できないのだ。ただ、現実に絶望するしかなかった。どこにも行けない哀しみに、取り囲まれるしかなかった。

 アンディは、動くことができなかった。ほとんど、息すらしていない自分を、発見してしまった。硬直して死んでいる自分を、一瞥してしまった。これが実態だった。これが自分という人間の実態だった。惨めな姿を、アンディは受け止め続けるしかなかった。生まれ出る前から、この怒りのマグマは、存在している。この人生が始まる前から存在していた。この人生が終焉を迎えた後も、存在している。アンディであることを主張するために、アンディの中に存在しているものではなかった。

 それは、新しい発見だった。これは、自分の属性なんかでは、全然ない。自分が産み出したものでもなければ、自分がきっかけで、引き起こしたことでもない。自分が誕生する前から、存在していたものなのだ。ふと、この身の内が軽くなったように感じた。これは、俺が手に負えることではないのだ。自分という卑小な存在を、遥かに越えている。自分で何とかする必要はどこにもない。足掻く必要はないのだ。

 ただ、存在していたものだ。ただ、存在させておく以外に、いったい何ができるだろう。アンディは見続けた。このマグマ。もしかして、このマグマが俺を産み出したのだろうか。この、ある種の憤りが、自分を産み出したのだろうか。きっかけとして、機能したのだろうか。だとしたら、筋が通るような気がする。

 このマグマの性質が、この自分にも血となり通っている。何に対する憤りなのだろう。

 だんだんと、そのマグマは、アンディの肉体からは離れ始め、巨大に膨らんでいった。

 ほとんど、天体のようなその物体は、さらに膨張を続け、宇宙空間の中で破裂してしまいそうだった。そして、破裂する。音もなく。

 アンディは目を覚ました。ずっと目を閉じていたのだ。寝ていたわけでもなかった。幻覚だった。これが、瞑想であったことを、アンディは後に知るのだった。ある一つのものを、見続けていく過程で、脳に幻影を引き起こしていたのだ。だが、マグマの存在は、自分の中からは、消えてはいかない。逆に、マグマに包まれているように感じる。いつのまにか、マグマは憤りではなくなっていた。アンディを優しく見つめる、母親のような存在に変わっていた。アンディを産み出した、母の子宮のように、浮かんでいるように思えた。

 ちょうどそのときだった。アンディは、ドクター・ゴルドという科学者と出会った。同級生の友達の知り合いだったその男は、大学の卒業パーティにゲストとして来ていたのだ。ОBだったのだ。そして、アンディもまた、後輩の誘いで来ていたОBだった。ОB同士の初対面だったのだ。アンディは、ゴルドの研究内容を、熱心に聞いた。ずっと誰かに話したかったかのような口ぶりで、この男にはほとんど、友達がいなく、家族も居たが、心の開き合う関係ではないことが、一目瞭然だった。あえて、わざと口を閉ざして、孤独な生活を作り上げているような感じがした。きっと、研究は機密事項だらけで、誰にも本当のことが言えない生活なのではないかと推測した。こうして酒が入り、母校を訪れたことで、警戒心は必要以上に緩んでしまったのだろう。アンディは熱心に聞いた。内容がおもしろかったのだ。ゴルドが提唱するキュービック・テクノロジーは、企業からまったく相手にされず、開発費も膨大で彼自身、回収できる見込みもないのだという。これは誰にも言っていない研究で、同じ研究所に働く人間には、誰にも言っていない。唯一、親友の研究員には話していたが、その男もまた、数日前に急逝したということだった。そういうことだったのだ。それが、この男に感傷を引き起こし、饒舌にしていたのだ。キュービック・シリーズと名付けた新型のメディアを、書籍に搭載することから、これからの時代は始まるのだと熱く語り続けた。他企業に、オファーをしているが、もちろん、大々的にそのようなことはできない。研究所に所属している限りは、それらを通しての、世の中への表現ということになる。しかしこれは、自分独自の仕事だ。研究所を私的に使い続けた中での産物だ。今、自分は、どうすることもできず、ただ、この技術を、実際に試したいという欲望だけが、日々募っていっているのだと、ゴルドは語った。さらに驚くべきことに、スペースクラフトバイブルという技術についても、語り始めたのだ。亡くなった親友との共同開発で、やはり、個人的な趣味の延長で、作り始めていたのだという。共同研究者が亡くなった以上、これからは、一人で仕上げなくてはならない。でも、亡き友のためにも、絶対に仕上げるつもりだと彼は息巻いた。ならばと、アンディは提案していた。この二つを事業の核にして、同時に、立ち上げてしまいましょうと。僕の作る会社の二大事業として、大々的に、打ち出してしまいましょう。あなたは、ただ移籍してくれればいい。あなたのためだけの、研究所を用意します。あなたが所長だ!研究員は、好きに集めてくればいい。誰も必要ないのなら、あなただけでも構わない。あなたは、アンディ・リー・グループの研究所を、一手に掌握するプロフェッショナルだ。アンディは、ドクター・ゴルドをそのように励ました。その場限りの思いつきだったが、今思えば、それがきっかけとなって、全ては始まったのだ。ゴルドは、真に受け、すぐに退職し、そして立ち上がってもいないアンディ・リーグループに、移籍してきた。実態のないことにも、彼は驚きもせず、むしろ嬉々として、一人で会社の設立を行ってしまったのだ。しかも、自らを社長とすることもなく、ただの研究所の長としての所属も、決めてしまう。あれよあれよという間に、アンディは、社長へと祭り上げられ、それに伴う事業計画もまた引かれ、アンディはその叩き台の上で、指揮をとる役割が、急に生まれ、その流れに従っていったのだった。ゴルドの動きは早く、的確で、技術には厚みがあった。実用化し、二つの事業の一つが、すぐに花開き、爆発的なヒットを引き起こした。アンディは、事業をさらに増やすべく、カジノ場の経営を皮切りに、次々とアイデアを現実にするべく、奮闘していった。

 その二つの事業を同時に立ち上げましょう。その言葉を、自分が発したようには全然思えなかった。その言葉が、アンディの周りにはいつも浮遊していた。それがすべてだった。そのコンセプトが、全てを一気に、始動させるスイッチの役目を果たしていた。あまりに関わりの深い、それでいて、相反する二つの物事を、まるで混じりあうことのない対極のこの二つを。同時に、同じ場所に存在させることほど、重要なことはない、その場を、自分は作ったのだ。

 ただのそれだけのことだったが、場を作ったのは間違いなく自分だった。そして、そのたったそれだけのことが、アンディに、みなぎる自信を植え付けていた。どこにもなかった才能が、ここにあるのだと、感じた瞬間だった。

 ゴルドとは、緊密に連絡をとっている。

 ゴルドは、スペースクラフトの絶頂と共に、次第に、神経を損なうようになった。

「研究が、うまくいっていないのか?」

 アンディは訊いた。

「いえ。大丈夫です」

「いつだって、開発というのは、キツいものだからな。ゆっくりとやれよ。まだ、キュービック・シリーズはヒットしていないんだし。僕の考えでは、この両雄が同じくらいのパワーを発揮することで、次が生まれると思っている。それまでは、スペースクラフトの独走を、さらに強めていく行動は慎まなければならない」

「そうなんですか?」

「そうなんだよ。だから、今は逆に、スペースクラフトの開発の方は、滞ってくれていた方がありがたい。まあ、ⅠからⅡへと、続いていく技術が、すでに備わっていたとしても、別に構わない。準備万全であることに、こしたことはない。君だって、そのほうがいいだろう。けれど、少し、考えてもみてくれ。キュービックの方が、近い将来に売れる可能性はあるのだろうか」

 アンディは、笑った。

 ゴルドは、キュービックが馬鹿にされたように、感じられてむっとした。

「むしろ、私は、キュービックの方が、売れると思ってましたよ。何かきっかけがあれば。ほんの僅かなきっかけさえあれば。現実は逆転するように思うんですよ。その一撃さえ加われば」

「それは、引き起こすものなの?僕らが」

「違うでしょうね」

「なら、なおさら、ゆっくりと進めていくべきだな。何を焦っているのだろう。君は天才だよ。スペースクラフトⅠを生み出せるんだ。何だって生み出せる。現代の錬金術師だ!」

「馬鹿にしないでください。そして、買い被りすぎないことです。僕はあなたが思っているような人間でもなければ、ましてや、天才でもない。あまりに地道な研究生活を、これまでも送ってきただけです。やっとのことで、一つの芽を見つけたにすぎない。偶然にね。幸運にも。それがずっと続くわけもない。トントン拍子に、様々な発明がなされるほど、豊かな才能を、僕は持ったことがありませんから。確率のあまりに低い達成に、標準を合わせないでいただきたいですね」

「もちろん、そんな簡単ではないことは、わかってるよ。だからゆっくりとやれと、そう言っている」

 まるで、話が通じていないことに、ゴルドは怒りが込み上げてきていた。

「それに、キュービックが、ヒットしないことも、僕にとっては、ずいぶんと気がかりなことだ」

 ゴルドは、自らが産み出したキュービックが、ヒットしないことを、心から不安がり、そして、もし売れたときには、アンディの言う、次なる展開が起こることにも、不安を持っていた。

 スペースクラフトが、次なる段階を要求されることに、ゴルドの焦燥感は、ピークに達しようとしていた。ゴルドは、解消できない矛盾を抱え続けていた。







 暗闇に佇む男がいる。ナルサワトウゴウだった。自分の姿だった。身動きのとれない男は、立っていた。それを見ている人間は、いったい誰なのだろう。

 ナルサワトウゴウは、自分の肉体を眼下に感じながら、暗闇全体に、意識を拡大しようとする。

 輪郭のないその闇に、映るものは何もなかった。ナルサワトウゴウの輪郭が、うっすらと浮かび上がっているだけだ。白い影のようだった。

 次第に、ナルサワは、自分がどういった状況で今ここに居るのか。記憶が蘇ってくるのを感じた。探偵だったのだ。そして、依頼者を、装った男に、殺されたのだ。いや、殺されかけたのか?ここに、肉体はまだある。その肉体から離れかけていた。死んでいるところなのだと、ナルサワトウゴウは思った。これから、死の世界に出奔していくのだ。その境目にいるのだと。あの依頼者を、途中からは、警戒していた。あのタイミングで牙を向いてくるのは分かっていた。そもそも、あの仕事の依頼が入ったときから気がついていた。これが最後の仕事になると、秘書にも伝えていた。秘書であったリナ・サクライの、次の就職場所も探していた。リナ・サクライは、スムーズに移動することができたのろうか。ナルサワトウゴウは、自らの肉体の幻影に、戻ることができずにいた。ずっと浮いたまま、下降をすることができなかった。逆に、上昇したらどうかと思った。その瞬間、なんと上昇していた。ナルサワは驚いた。どんどんと、肉体からは遠ざかっている。そして、遠ざかれば遠ざかるほどに、この洞窟のような闇の世界に、薄い映像が浮き上がってくる。そうなのだ。解離は、状況を明確にしていた。ほんのわずか、頭上に解離していただけで、死ぬ前の状況がよく見てとれた。

 今は、探偵になったいきさつ、その前の人生の段階。展開の数々。一つのストーリーを見ているように、遡っていた。ナルサワは、そうなるべき道を、なぞってきているように感じた。何の違和感もなく、進んできているように感じた。そして、この今よりも、先の状況もまた、出てきていた。

 ナルサワは、生の世界に戻っていたのだ。この暗闇の中で、一人の老人と出会っている。親族でもないこの男に、親しみを抱く理由がわからなかった。けれども、初めて会ったようには、とても見えなかった。彼に会うために、これまでの状況が、展開されていたかのようだった。状況を整えるために、様々な出来事が、立て続けに起きていたかのようだった。

 そして、満を持して、老人は目の前に現れる。

 ナルサワトウゴウは、同じ目線に居る、その男のことを、見つめた。

「ここに、連れて来たのは、あなたですね」

 ナルサワトウゴウは、心の中で思ったのか、実際に口に出して言ったのか。どちらなのか、区別がつかなかった。そう伝えていた。

 そうだ私だ、と老人は答えたように思えた。

 その理由を、反射的に問いかけている。老人は、首を横に二度振り、そのようなことは訊いては駄目だという、ジェスチャーを繰り返した。

 これから、さらに、肉体とは、解離していくような気がします、とナルサワトウゴウは伝える。

 そのとおりだと、老人は感応する。

 それでも、再生する姿が、見えます。

 そのとおりだ。

 解離は、その先で、どうなってしまうのでしょう。

 解離は、解離だと、老人は感応する。

 わかりませんと、トウゴウは答える。

 何も心配はない。ただ、解離していってるだけだ。

 距離も、どんどんと遠ざかっていくように見えます。

 そのとおりだ。

 気のせいではないのですね。

 それは、肉体の感覚にすぎない。それはただの。

 解離が極まったときです。そのとき、私は、再生するのでしょう。再生のときを迎えるのでしょう。その先の光景は、何故か、見えます。

 それは、良いことだ。しかし、それに、固執する必要はない。あくまで、参考程度に留めておくんだ。

 わかりました。しかし、不思議な感覚です。まるで死んでいくようです。私は私ではなくなっていくようです。私からは、どんどんと、遠ざかっているのですから。これまでの人生の情景が、下には見えています。どれも、私のものです。私が体験したものです。でも、今となっては、他人事のようにも思えます。他人の人生を、こうして眺めているような。何の感慨も沸きません。あのときは、こうしたらよかったと、そう思うこともありません。ただ、これで、良かったのだと。そうするしかなかったのだと。受け入れるだけです。そう思えば思うほど、解離は加速していっています。もうすでに、私の誕生のときの、遥かに、前の世界までが見えてしまっています。どんどんと解離していきます。その裂け目に、こうして見知らぬ記憶までもが、映されています。投影するスクリーンのような役割を果たしています。これ以上、私は耐えられそうにありません。姿かたちは、私のそれとは、どんどんと、かけ離れていっています。肉体の姿も見えません。私はどこにいるのでしょうか。

 眼下には、ただのスクリーンが、あるだけです。

 どこまでも、映像が続いていきます。渦を巻いて、螺旋状に連なって。そうです。中心があるようです。中心に向かって螺旋は・・・、いや、その中心から、螺旋を描いて出ていっているのか・・・判断がつきません!

 目の前から、老人の姿が消えていた。

 老人がいる空気感も、消えている。あなたとは、もう会えないのでしょうか。何故私は、このような時を、通過しなければならないのでしょう。本当に、死んではいないのでしょうか。一度、死んだのではないでしょうか。再生への道を、進んでいるのでしょうか。

 自分は、やはり、確実に殺されたようだった。

 しかし、特別、恨みを抱かれたわけではなさそうだった。ただ、この状況を作りたいがために、作られた。そうなるシナリオが、組まれていたように思います。相手の男に殺意はない。しかし、殺す役割を担わされた。つまりは、殺し屋です。その依頼者にも、殺意は感じられない。ただ、そうなるべく、遣わされた無害な男のようなのです。すでに、水面下では、約束が交わされていたように見えます。私とその男は、この事態を、了解していた。ずっと深いレベルで。

 あの日常では、何も理解することができない。たとえ、私の死体が出たとしても、警察は掴むことはできない。何も解明することはできない。自然消滅が宿命づけられた案件になる。今、私には、そのことがよくわかります。これは前もって、多数の存在によって決められた事柄のようなのです。あなたもまた、そこに関わっている。その一員だ。そこに、気づきかけたとき、あなたの存在を、私は初めて感じた・・・。あなたは、まだ、私の周辺にいるのですよね?あなたが、私の死体を、地上のあの場所から、移動させたのですよね?地上からは、除去した。ここに運んだ。あなたがそれをした。そして、時が来たとき、肉体は再び地上に姿を現す。ここは一体、どこなのですか?解離の果てに、私は、肉体を取り戻すわけですよね?けれども、その過程が、いまいち見えてこない。教えてください!すべてを、教えてください!

 ナルサワトウゴウは、映像の層が渦巻く闇に向かって、問いかけ続けた。

 祈りは通じたかのように感応が返ってくる。それは、自ら通過することで、体験するものだと。そういう答えを、ナルサワは、すでに予期していた。そういう答えが返ってくる前に、十分承知している自分がいた。





























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「その圧力には絶対的に、逆らえなかったんですよ。どうして、僕を、そのようにしたい力が働いていた。もちろん抵抗もしました。僕は普通の人間ですから。普通の生活というものを、当然イメージしていた。けれども、幼い頃から、どうも、そうはならないだろうなと薄々は感じていた。けれど、ここまで極端に、そういった方向の世界に引き込まれるとは、思いもしませんでした。闇に僕は、引きずりこまれていったんですよ、そのとき。そして、それ以来、闇は次第に、濃くなってきている。何度抜け出そうとしたか。そんな抵抗など、まるで無駄なのに。その無駄であるということを、確かめようとするかのように。そして、想像通りに、自分が無力であることを、思い知らされました。


 僕の意思では何も変えられない。今ではよくわかりました。そんな意思など、あまりにくだらないものだってことが。僕が決めたと思い込んでいるだけで、それは、本当のところ意思でも何でもなかった。まだ僕は、闇の外の、いわゆる、普通の世界に戻ることを、望んでもいた。そういった生活に、戻れることを、そういう人生を、再び歩めることを、期待もしていた。これが何を意味しているか、わかりますか?そう。幼きときから授けられた、ただの幻想です。そんなものは、本当はありもしない。僕はただ、この闇からやってくる圧倒的な力に、抗いたかっただけだ。抵抗する力は、どんどんと弱くなっていきました。当時よりも。そして、時間とは何かを、僕は知るようになっていきました。時間とは抵抗なのだと。僕という人間が、闇からの巨大な力に抵抗すること。そこに時間というものが生まれ出るのだということを。そして、次第に、抵抗できないこと、抵抗することには、意味がないこと、無駄なことを知っていくうちに、僕は時間というものが、実に感じにくくなっていった。時が経つという感覚が、以前よりも、明確に感じにくくなっている。先のことも、過去のことも、認識することが、極端に減っていって、何かを思い出すことがあっても、それは、別の人間のことであるかのような、自分事のようには、とても思えなくなっていった。先の希望もまた、そうです。それは、誰か別の人間の夢であるかのように。僕はずっと生きようとしていたんですよ。死ぬそのときまで、生きようと。当たり前じゃないですか!それのどこがいけないんですか。普通、そうでしょ。どうしてそれくらいのことが、許されないのですか?僕を導こうとしている力というのは、その反対の方向だ!闇だと、僕が言う意味はわかりますよね?光の世界が、生きていく通常の世界だとすれば、その逆ですからね。その方向に、人生など、ないんですよ。誰が見たって。どうして、その方向に、このあまりに強い力は、導いていこうとするんですか?抵抗するじゃないですか!僕は別に、我が儘を言ってるわけじゃない。どうして、そういう方向に」

~それは、いつぐらいのことですか?~

「二十の初めか、半ばくらいのことですね」

~なるほど~

「その力は、僕の抵抗力を、削ぐためだけに、存在しているようだった。ある時点まで」

~どの地点でしょう~

「その地点ですよ」

~あなたが完全に、その抵抗をやめた地点ですね?~

「そのとおりです」

~すべてを、受け入れたのですね。屈服したというか。でも、初めからずっと、心底ではわかっていたことだった。むしろ、幼いときから。予感としては感じていた~

「そうです。すべては、繋がったんです。繋がったというよりは、一点に収縮した。その一点しかなくなった」

~抵抗することが、時間を生み出していた。人生を生み出していた。生きる光の道を、照らし出していた~

「そうです」

~そして、それは、完全に塞がれていった。じょじょにあなたを圧迫して、最後は完全に押し潰されていった。しかしあなたは、死ぬことはなかった。今こうして、私の目の前に、確実に居る~

「以前の僕は、その地点で、確かにいなくなりました。そういった意味では、死んだのかもしれません。消滅といった方が正確かもしれない」

~では、今のあなたは~

「わかりません。誰なのか」

~繋がりが、ないんですね~

「まったく」

~何と、お呼びしたらいいものか~

「ひとつ言えるのは、さっきから、闇の力、闇の力と、言ってますよね。闇の力に、引きずり込まれたって」

~ええ~

「それは、以前の僕から見た感じ方。表現方法なんですよ」

~と言いますと?~

「闇のように、そのときまでは、感じていた」

~闇ではなかった~

「光です。それは、光だったのですね、ある意味。それもまた、全然、正確ではないですけど。わかりやすく説明するための方便として、理解してください。ある種の光を、闇だと、捉えたんです。この意味はわかりますか?」

 坂崎エルマは、取材対象の言葉を、頭の中で素早く咀嚼した。

~以前のあなたが居た場所、あなたが向かおうとしていた人生そのものが、実は、闇の方だった~

「もちろん、例えですけれど」

~ええ。けれども、だからこそ、逆方向からやってくる力を、そのように捉えてしまった~

「僕が言おうとしているのは、別に光だからどうだとか、闇だからどうだとか、そういうことではありません。対極のエネルギーの一方を、ひとつの捉え方をすれば、もう一方は、正反対の意味付けを、自動的にしてしまうということですよ。ただの解釈です。解釈というのは、不思議なものでしてね。何かを読み取るということはですよ、その逆の世界を同時に存在させてしまうということです、そして、二つの世界に、分岐させてしまう。そして、分岐した世界の中で、我々は、そのどちらかに存在することでしか、自分を認識することができない。その一方に、そのまま延長していくのか。対極に移っていくのか。いったり来たりを繰り返すのか。どれも、実は同じことなんですよ。そのときはわかりませんが」

~今は、わかるのですね?~

「その、闇からの力だと思っていたものに、完全に飲み込まれたことでね。その一点に、僕のすべてが収縮されていった時にね。力というのは、僕を、対極に引きずりこむために、存在していたものではなかった。その一点に引き戻すために。それだけのために、僕を日々、見つめていた。それはすでに、決まっている結末だったのですよ。ただ、僕が、いつ、完全に抵抗を諦めるか。それだけの問題で。ただのゲームだったのですよ。天地にとってみれば」

~天地ですか~

「天地を主語として、仮定した場合ですよ」

 男は笑った。

~どうして、取材を受けてくれたのですか?~

 坂崎エルマは訊く。

「あなたは、実に、変わり者だ。そんな質問をしてくるとは。あなたにとって、致命的になる、そんな質問をしてくるとは」

~どういう意味ですか?~

「あなたも、すでに知っていることでしょう?こうして、質問を聞いていても、あなたは非常に賢い方だ。言葉を信用していない。言葉が連鎖していく表面上の世界に、意識が引っぱられない明晰な方だ。あなたは常に、その背後にある意味に、意識を向けている。いや、向けているというよりは、自然に向かってしまっている。さらに、あなたは、その背後の複合的な世界同士を、意識的に精査までしている。そこに、あなたの自覚性が、投入されている。つまりは、それよりも先にある、深い世界を理解しようとしている。ご存じのように、言葉の世界というのは、ひどく物質的なものでしてね。辞書を見てもそうでしょ?ある言葉の意味を説明するためには、別の言葉を引っ張ってくる以外にはない。その引っ張ってきた言葉とは、また別の言葉から引っ張ってきたもの。そうやって、言葉というのは、辞書の中をぐるぐると回っているんです。勝手に旋回してしまっている。そして、お気づきのように、辞書の外に出ていくことができない。これは、人間の世界を見ているようなものです。人間もまた、この地球の世界から、外に出ていくことができない。放っておけば、人生というのは、ぐるぐるとただ、同じ場所、同じ地平、同じ次元を、回り続けるようなものなんですよ。成長のない行き止まり、行き詰まりの中、どんなに遠くに走っていっても、また元に戻ってきている。どれだけ必死で努力していっても、再び死が元のところに、引き戻してしまうことになる。人間というのは、ただ漠然と、何の気づきもなしに生きてしまえば、必ず、そういった結末を、引き起こしてしまうものなんです。そういうものなんです。そして、あなたは、そういった世界を実に否定している。あなたはもう二度と、そのようなメリーゴーランドに乗りたいとは思っていない。乗ることに絶望している。あなたはお若いのに、実に誰よりも、老齢に達しているようにも見える。私にはね。他の人間には、若々しくすら、あなたは、見られているかもしれないですが。私には、まるでそうは見えない。そして、そういった、あなたであるからこそ、その便宜上、闇だと言いますが。その巨大な力が、あなたを放っておくはずも、ないのです」

~どういうことですか?~

「訊くまでもないことですよ。あなたが一番ご存じなはずだ。あなたと僕を繋げたものも、その力であるということは明白なのですから。あなたはここまで来る過程で、あなた自身の理解を深めるために、動いてきている。動かされてきている。あなたはすべてを知っている。僕が話した僕自身の話というのは、あなたのことだったのかもしれませんね。そう思いませんか?あなたの話を、さも、僕個人のことのように、話をした。あるいは、僕個人の話は、実に、あなた自身の話と酷似してしまっている。僕ら二人だけではない、さらに多くの人にとってもまた、酷似した話である可能性すらある。さあ、僕らはいったい、誰の話をしているのでしょう。そのこともまた、あなたは、最初から知っているんですよ。何も、僕に訊くことなどない。それを確認するために、あなたは、会ったんですよ。この僕に」


「君は、クリスタルガーデンという建物を知っているだろうか。クリスタルガーデン東京。マンションとして、現在は使われている。君も一度住んでみるといい。実に、興味深い建物でね。真ん中に、空間がくり貫かれていてね。無柱空間が、そこには無意味に、広がっている。そこに、是非行ってみたらいい。そこに住んでいる人間と知り合いになって、その中に入れてもらったらいい」

 男が、何故、突然、その話をしたのかが、エルマにはわからなかった。意表をつかれた形になった。

「是非、行ってみるといいとしか、僕には、言えない。あの場所には、重大な秘密が隠されている。君の知りたいことの殆どが、あの場所に、暗号として組み込まれているといっていいくらいに。僕が連れていってあげたいくらいだ。しかし、僕も、そこの住民ではなくてね。知り合いもいない。セキュリティは実に厚い。簡単に、部外者は、入れない。宅配業者ですら、入ることは許されない。誰か、その住人と恋人関係になれば、一番良いのですが。住むのは危険だ。あそこに事務所を構えるのも危険だ。長居するところではない。ほんの一夜くらいの滞在を、何度も重ねるのが理想的だ。強力なエネルギーを有する場所というのは、どこもそうです。長居するところではない。そのエネルギーは、物質を焼き切ってしまう。燃え尽きた肉体を、再生させることは難儀だ。余計な作業が増えていくのは、無駄なことだ。わかってることは、はじめから回避したほうがいい。そうでしょ?」

 エルマは無条件で頷く。

「よく覚えておくといい。クリスタルガーデン。必ず役に立つはずだ。君にとって、何らかの過渡期が訪れたときに、役に立つはずだ。過渡期というのは、実に重要な時空間だ。その、何者でもない過渡期を表現すること。それが芸術というものだ。僕はね、芸術にも一過言あってね。まさにそれは、その何者でもない過渡期を、表現する、表現しているものこそが、唯一の芸術だとね。このことも、覚えておくといい。君の役には、立たないかもしれないが、芸術を志す若者にとっては、一助になるかもしれない。ならないかもしれない。より混乱を招く結果を、導くかもしれないが。それもまた、いいだろう。

 僕は以前、若いときは、デッドバイブルというロックバンドが実に好きでね。デッドバイブルが出したアルバムの一枚目、二枚目までが、好きなのだよ。三枚目以降。それは駄目だ。何故なのか。彼らは、何者でもない、過渡期に作った曲のカオスに、デッドバイブルというバント名をくっつけて、世の中に出した。デッドバイブルという名義はついているものの、中身は、デッドバイブルに彼らがなる、以前のものだ。わかるだろうか?そのわずかな隙間。何者でもないが、何者かになろうとしていたその前夜。その僅かな隙間にこそ、絶大なエネルギーが、眠っているということ。僕はそのことを、彼らから学んだ。そして、デッドバイブルに、彼らはなった。しかし、それ以降の彼らは、デッドバイブルであることを表現していくことに、なってしまったのだ。この違いがわかるだろうか。そこにエネルギーは、本質的には含まれていない。エネルギーは、何者でもないその過渡期にのみ、存在するものだから。何者かになってしまった彼らには、それは生み出すことはできない。そして、何者かであることを表現していくほど、退屈なものは、この世にはない。そういった現象は、すべての芸術行為によく見られる事柄だ。いろんなもので見てみたらいい。実に面白い。僕の言ってることが、よくわかると思うから。その境目にしか、その隙間にしか、真実は見え隠れしていないことが、よくわかると思うから。皆、無意識に、その鉱脈をとらえ、ほとんど偶然、そこに行き当たるものだ。そして、過ぎてしまえば、二度と、取り出せなくなってしまう。彼らは、何にも気づいていない。再現することもなく、あらたな実現に、意図的に走ることもなく、朽ち果てていく。もちろん、彼らは、朽ち果てていっているとは夢にも思っていないだろう。むしろ、社会的には、認知され続けているし、売れ行きだって、著しく伸びていることだろう。すべてが、恵まれていく。ただひとつの、枯渇を伴ってね。そういうことだ。芸術のひとつの真実だ。どうして、こういった話をしているのか。クリスタルガーデンと、何か関係があるのか。白状してしまえば、実に、何の関係もないのだよ。脈絡のない、無駄話をね、君相手に、しているだけなのだよ。愉快だろう。ただ思いついたことを、何も組み立てずに、垂れ流している。いいじゃないか!これは、インタビューなのだから。それが、インタビューの醍醐味じゃないか!たとえ無秩序であったとしても、より情報を引き出すことが、求められることだろう?組み立てなど、後からすればいい。僕がいなくなった後で、時間は腐るほどあるだろうから。そうじゃないか!これは、芸術を生み出す創作行為にも言えることでね。湧いてきたその瞬間に、すべてを、汲み尽くせとね。あとのことは、あとでなるようになると。時間というのは、実に不思議なものだね。ある瞬間に、多大な情報が沸いてくるかと思えば、長いのっぺりとした平らな時間の中で、吟味しながら、その構成を考えていく。どちらも時間の中の出来事だ。

 クリスタルガーデンに是非行ってみたらいい。何か、君も、ものを作りたくなるかもしれない。ならないかもしれない。その無柱空間が、ひとつの死と再生を表現していることを、体感するだろう。それだけは、断言しておく。あの場所は、そうした物質世界が死んで、別の形態に復活するということが、極めて長きにわたって繰り返されてきた場所だ。人間もまた。人間の血液が、深く濃く染み込んでいる。そんな血なまぐさい場所だとは、まるで、思いもしない近代的なテクノロジーが駆使された場所となるだろう。エレガントで、アーティスティックな景観を見せてくれることだろう。しかし、君の目は、その奥に深く刻まれた、別の姿を、必ず見ることになる。その目を、君は持っている。僕はそのことを確信したからこそ、この話をしている。僕に対するインタビューは、とっくに終わっている!そうだろ?これは、君のために話していることだ。退屈になってしまったら、申し訳ない。あとひとつ、言わせてほしい。あとひとつだけ、最後に伝えておきたいことがある。是非、受け取ってほしい」


「クリスタルガーデンの背後に佇む、その死と再生の装置は、これから、文明世界に起こることを、静かに見つめている」

 男の声は、急に、穏やかになった。

「クリスタルガーデンは、時代の過渡期を、人類の歴史を、常に見つめている。今は、その新たなる装いで」

 人類の過渡期という言葉が、坂崎エルマの神経の中枢を打った。

 過渡期の話を芸術に例えて、確か男は語っていた。意識にはっきりと、浮かんではこなかったが、水面下で、密度の濃い渦巻きを形作っている。あの芸術の話もやはり、たとえ話だったのだろうか。無秩序に語っているだけだと男は言っていたが、細部に渡って、実は計算されつくされているのではないだろうか。

「ある種の、天変地異がやってくる」男の声は、その内容とは裏腹に、ますます穏やかになっていった。「街に建立しているその寺院は、まるで役に立ちはしないだろう。それまでの地形を保てずに、人は、その上に、これまでと同じ生活を築けずに、ある者は死に、ある者は生き延び、動揺と絶望した、その心を抱えて、崩れた寺院を訪れる。または、寺院の跡地を訪ねていく。しかし、そのようなことをしても、そこで祈りを天に捧げたとしても、応える力を、寺院はまるで持ってはいない。天変地異が、寺院の力を奪いとったわけではない。人を救う力を、寺院はまるで持ち合わせていなかった。その現実が、表出されたにすぎないのだ。実に残念なことだ。丸裸になることほど、残酷なことはない。そして、聖書もまた、何の役にも立ちはしない。無力だ。全くの無力だ!人々を無力に落とし込むといった意味では、大変な意義が、それでも残っていたのかもしれない。人々の心を奈落の底へと落とす、最後の後押しを、それらの本や建造物が、その役割を引き受けたのかもしれない。本や建造物というのは、非常に意味のあるものだ。人間社会の現実を、まさに、写し出す鏡となっている。そして、世界が、過渡期を迎え、苦境を迎えているときには、その後に渡る、助けにもなれば、さらに苦境へと落とし込む、ものにもなる。


 君には、感じられるはずだ。君には見えてくるはずだ。その無力さとは対照的な、別の寺院の姿が。そして、別の書籍の姿が。君には見えてくるはずだ。今はまだ見えていないかもしれない。しかし、その過渡期に起こる現象によって、君の目は開かれるはずだ。何が、実際は起きているのか。人々は、真実を見失う。ますます、その目は、閉ざされていく。だが、君の目は、逆に開かれていく。僕は君を、暗示に今落とし込めているのだよ。君にそのとき、しっかりとした意識を保ってもらうために。君にある種の、催眠状態をかけているのだ。僕の、最後の弟子のためにね。僕の最後の、弟子としての出会いを、無駄にしないために。僕は誰かに、このことを伝えておかなければならなかった。僕は君を選んだ。君の目は確実に開かれていく。何が起きているのか。これから何がどう展開していくのか。君にはそれが明確にわかるだろう。この世界は常に、二重にできている。その閉ざされた一方を、君は自分の認知として、取り込んでいくことに成功するだろう。そして、これまでの一方は、影を潜め、静かに崩壊していくことだろう。その崩壊していった側が、天変地異の起こった世界であるということを、自覚していくことになるだろう。君の肉体は、ある種、その世界と共に、滅びてしまうことになる。死んでいくことになる。それを見届けたらいい!クリスタルガーデンと共に。クリスタルガーデンは、永遠不変だ。君もそうなったらいい!その機会を利用したらいい!その瞬間にしか、君が再生できるチャンスもない。だからこそ、僕は、君に、繰り返しそのことを吹き込んでいる。君が逃さないために。君に注意深くなってもらうために。もちろん、肉体的には、そのまま世界と共に、滅び去っていくこともできる。だが、逃避できる余地もまたある。それは君個人の選択だ。君自身が決めていったらいい。僕は何も強制はしない。強制する意味もない。どちらに行っても、結末は一緒だからだ。ただ、その通り道は、君が、好きに選んでいったらいい。肉体、つまりは、物質を保護する場所、空間が、この地にはすでに、創作されている。ブラックタージと、後に呼ばれることになるだろう。そうした土地が準備されている。これもまた、誰かが、個人的にその場所を創造したわけではない。空間は、はじめから存在している。その特性に気づいた特定の人間が、そこに名前をつけたり、その時代の、あるべき装いを施したりするようになる。ただのそれだけだ。今は黒い、ただの黒い覆いが、直方体として存在している、その場所だ。調べればわかるだろう。周りに建物は何もない。道路もない。公園も森林も、人の姿も動物の姿も。何もない。あらゆる生命が、まるで近づかない場所。近づくことのできない。離れたいという衝動を、本能的に誘発する場所。つまりは、死の世界に見えるわけだ。今は。

 こちらが、本来は、死の世界であるのにね。

 これもどこかで君には話しただろう。一方に居て、そこに同化していれば、その反対の性質のものは、逆の存在として、目に映ってしまう。その写ったものに、実態はない。真実はない。立っている場所が歪んでいれば、その対極にあるものもまた歪む。正反対の特徴と共に。同じ歪み方をする。つまりは、そこは再生の場なのだ。文明は死を嫌う。死をできるだけ回避し続けようとする。逃れられない、ほとんど直前に迫るまで、回避し続ける努力を、文明全体が促していく。人々もまた歓迎だ。だが、死は確実に迫ってきている。その事実は変わらない。水面下に隠されていくようになる。ブラックタージが、その象徴のように、人々の目には映る。そう感じていく。顕著に死を表現した死臭のする、そういった波動を、そこに感じるようになっていく。必要以上に感じるようになっていく。本当は、クリスタルガーデンの地と違って、ブラックタージに、その土地のパワーはそれほどなかった。人々の意識があまりにも、死を忌避しているものだから、そこにポンと黒すぎる覆いをした空間を創造してしまえば、彼らの意識が一斉に投影してしまうのだ。そうして人工的に、その場所は、死の場所、死が密集した場所として、人々の意識に跳ね返っていったのだ。まさに、人類自らが創造したといえる。創作者は、ほんのちょっとの後押しをしただけだ。そして一度、そのような場所として存在するようになってしまえば、あとは加速度的に、エネルギーは注入され続けていくだけだ。つまりは、文明が進めば進むほど、生が不自然に延ばされ、日常から死の意識を回避していき、そうなればなるほど、ブラックタージに、その回避されたエネルギーが、貯まっていくことになる。ほとんどどそこは、エネルギー貯蔵庫のようになっていくことだろう。それは、生命力なのだ。僕が再生の場所といったのが、わかるだろう。天変地異で、街が、極端な変形を余儀なくされて、肉体も心もそう、心は物質だからね、それらがすべて傷つけられ、瀕死の状態に陥ったときに、まさに、その逆のエネルギーが貯めこまれ、充満した、その地が、再生の地として、次の世界の中心になることがわかるだろう。そして、過渡期においてはまさに、隔離の地。避難場所としての役割を、果たすことがわかるだろう」

 男が、そのように全部しゃべったのかどうか、エルマにはわからなくなっていた。

 男が一瞬にして、丸ごと情報を、エルマの肉体に注入してきたかのような、無時間性を感じていた。

「もうひとつ、言い忘れていたことがあった。申し訳ない。避難の地は、ブラックタージばかりではなかった。そこは過渡期よりも、その後の、再生地としての役割の方が強烈だ。もっと身近に、避難の空間はある。そうだ。それだよ。君は気がついている。本当は気がついているのだよ。スペースクラフトだ!それが最も近い安全な場所となる!その荒れ狂う、過渡期の中を、無事に通過していく、最強の隔離の地を、提供してくれることになる。そこから出ないことが、必要になる。出ては絶対に駄目だ。人々は恐怖から、外に出ていくことだろう。人間の心というのは、不安に耐えきれなくなると、必ず、外へ外へと、目を向けて出ていくようになる。じっと内側にとどまるということができない。たとえ、クラフト内が安全だとわかっていたとしても、時間がそれを許さない。人は必ず外へと出ていってしまう。恐怖を回避するためなら、命さえ惜しくはないわけだ。その恐怖を抱え持つことができない。その不安を、抱え持つことができない。そもそもその性質が、こうして、文明を不自然な形で、生のみを彩るようになってしまった。

 とどまるということは、死を意味する。死にとどまることなど、彼らにはできっこないのだ。そして、最も安全なその地を、後にすることになる。強烈な変形の地へと赴き、その一部となっていくことだろう。そもそも、スペースクラフトを、そのような場所として、捉えられない人間もまた多いがね」

 坂崎エルマは、このインタビューの記事を、即刻誰かに託して、すぐに発表ができるよう、取り次ぐ必要性があることを感じた。目の前の男に、インタビューを継続するよりも、その方がずっと大事なことであるように感じた。

 エルマは、自分の命をずっと狙っている、不穏な影の群れが、今消えていることに気づいた。それはまるで、殺されることになっていた現実が、綺麗に回避されたかのようでもあった。

































2048 9





















 アンディは久々に、クリスタルガーデン東京に来ていた。敷地に入ることなく、ただ部外者のごとく、外観を眺めてみているだけだった。ここがかつて、処刑場であったことに思いを馳せていた。処刑場を買い取り、粉々に潰して、高級マンションを建てたあの頃を、感慨深く見守っていた。グリフェニクス本社ビルを建てる前に、何よりも先に、これを建設する必要を感じた。建てることよりも、とにかく、この場所を手にいれることの方が、重要のことのように思えた。ちょうど時流は、死刑を廃止する流れになっていた。処刑場もまた、この世から消えようとしていた。国は売り払いたかった。しかし欲しい人間など、ほとんどいない。あまりに安い価格で、アンディは何なく、手に入れることに成功した。資金のほとんどないアンディにとっては、願ってもない一等地の獲得だった。

 だが、アンディにはここが元々、どんな空間であるのか。積み重なってきた人の思念というものが、ありありと感じられるのだった。何としても、手にいれなければならない。ここが手に入らないのなら、全ての計画は白紙だ。白紙というよりは、廃止だ。何も事を成すことはできない。ここがあるからこそ、全てが始まる。ある一点から、物事は始まる。その一点を逃したら、すべては終わりだ。こんな好都合な購入が、できるとは。強烈な時代の後押しを感じた。まさに、アンディに、手にいれてもらいたがっている。時代の過渡期の境目に、この自分がぴたりと嵌まる感触があった。そして、場そのものが、アンディに近づいてきたように感じた。まさに、アンディを呼び、アンディは導かれるように、こうして来た。アンディに宿った未来図を、現実のものとするために。あのときは、そうは思わなかったが、この未来図そのものを、アンディに、あの土地が授けてきたのかもしれなかった。

 アンディは、本当のところ、何ひとつ、自分で生み出しはしなかった。すべては、代理人としての役割を、与えられただけだったのかもしれなかった。とにかく、この地は、しっかりと手にいれた。それ自体が、目的だった。そのまま放置していて、全然構わなかった。ここに本社ビル、もしくは、自分の会社の入った建物を作ってはならない。それは駄目だ。別の場所だ。そもそもここは、処刑場だった。そのイメージは、人の意識からすぐには消えてくれないだろう。そのイメージが、自然消滅するのを、待っている悠長さはなかった。圧倒的短時間で、払拭するために、アンディは、超高級マンションを建てることに決めた。その豪華さで、植えついたイメージを、一掃しようと思ったのだ。賃貸料も破格に設定し、価値を高騰させよう。その運営で利益を上げよう。そして、本社ビルの入った、別の土地を買う担保にしよう。大きくお金を動かしていく必要性を、アンディは、最初から意図していた。エレガンスという言葉をキーワードに、彼はその世界の構築に専念した。クリスタルガーデンと名付け、処刑場のイメージは最初からなかったことにした。そもそも、処刑場であった時期は、驚くほどに短かった。法を犯した人間を処罰するためという、後ろ向きな理由で、死を誘発する場所では、そもそもないのだ。それまでに、積み重なった、人が死んでいった気というものが、そのような後ろ向きであっても、死に関連する施設を引き寄せてしまったのだ。そういった後ろ向きではない、人の死ぬ場所として、ずっと長いあいだ、この場は息づいていた。生け贄だ。人を天に捧げる、命を生きている段階で、明け渡すといった神聖な行為のための場所として、息づいていたのだ。地にある、地を巡っていく生命を天へと引き上げる。重力に逆らってでも上昇させていく。その自然に逆らった上向きの気流を、人類は長い時間をかけて、しっかりとつくりあげていったのだ。そして、その積み重なりは、今でもたしかに、必要な行程を踏めば、天へと召される回路を、出現させることができる。そうした流れが、出来上がっているのだ。ずっと忘れ去られた地であるのなら、錆び付くことも、あるだろう。実際に長いあいだ、そういった地であったことを、人々には忘れていた。だが、処刑場に選ばれたことで、再び、潜在能力に火がつくことになった。そうした眠ったままの地の、目覚めのために、導入された起爆剤のような存在になったのだ。本来の目的に気づいた、人間に引き渡すことに成功した瞬間、処刑場はあっけなく消滅してしまった。

 この地が、元々、そういったつもりであるのなら、わざわざ、豪華絢爛なマンションなど建てなくても、簡単に忘れ去られていたのかもしれなかった。

 しかし、アンディは、このクリスタルガーデンを好んでいた。そこに住んでみたいとも思っていた。そこに住む人間は、天に召されていく気流を、細胞レベルで取り込んでしまうことを知っていた。ちょっとしたきっかけで、簡単に死に近づいてしまえることを。わずかな力添えで、地に繋ぎ止めておく縄が、緩んでしまうことを、誰よりも直観していた。

 そして、その気流を最大限、抑え込んでおくストッパーのようなものを設定する必要性を感じていた。そうしなければ、すぐにでも、死人の多数出るマンションというレッテルが張られてしまうだろうと思った。それを回避する手段が、ゼロポイント構造という、アンディが考案した設計だった。クリスタルガーデンの中央には、無柱の、何もない空間が作られた。部屋の間取りも、エレベーターの設置も許されず、ただ、風の通り道のような大きな空白だった。アンディは、さも、デザイン性のために、風水学的なもののための装いを、全面に出して、真意をコーティングした。これがストッパーだった。あの死の地を、出現させるのを抑制する、装置だった。そういった意図を強く念じて、設計図に落としこんだのだ。ここは中立地帯だった。天でも地でもない、どちらにも属さない、境目を象徴した場所だった。この存在が、天は天にあり、地は地にある現実を、そこに固定し、行き来を自在にしている局所的なエネルギーを中和し、ゼロにする。抑制されたその開通したエネルギーは消えることなく、クリスタルガーデンの構造体に入り込み、蓄積されていく。そして、溜め込む構造を、意図的に入れ込んだ。刻々と、今も、エネルギーは増大していっている。そのストッパーが外れるとき、それは非常事態であったが、そのとき、天と繋がったエネルギーは、局所的な場所には到底収まりきらない膨張を見せることだろう。アンディはこれを、緊急事態の、最後の砦に設定することで、全ての事業を開始したのだった。この備えがあるからこそ、勇気ある行動が常にとれるのだ、とも思った。

 アンディは、この地を自らの中に封印した。そして、クリスタルガーデンは建ち、今も機能している。だが死者はすでに出ている。これからも細々と増えていく。注意深く見ていれば、その不可思議さはすぐに散見する。坂崎エルマという人間が、身辺を嗅ぎ回っていることは知っていた。まだ、女性関係だけを、マークしているだけだと思っていたが、その女はスペースクラフトの開発過程におけるスキャンダルまでぶちまけてきた。それには、アンディも驚いた。そんな事実は知らなかった。スペースクラフトも、キュービックも、共に、ゴルドの発明だと信じて疑わなかった。今もその認識は変わらない。だが、あの女が調べあげた女性関係は、実に的を得ていた。蠢く影を、ずっと知っていながら、泳がせてはいたが、ここまで正確に掴むとは驚きだった。ほとんど、プライベートのどこにでもついてくる秘書であるかのような正確さだった。あの女は、距離をとってついてきているだけのようではないのだ。ただ周りの人間を、嗅ぎ回っているだけではないのだ。何か特殊な方法を使っている。この女をすぐに抹消する気はなくなった。特別な能力が、あった。それを密かに使っている。その力まで、この世から消し去ってしまうのは、あまりに惜しかった。その力を取り込めたら最高だが、最悪、その力を分析して、コピーするということができればそれでよかった。リー・グループで使えるようにできれば、それでよかった。その後で、言うことをきかなければ、抹消すればいい。まずは、あの女を捕らえて、真実を吐かせて、その肉体を科学的分析にかける。解体して、すべてをさらけだす。

 アンディは、シュルビスに電話をかけた。すぐに、殺害を撤回するように言った。

 シュルビスは、しぶしぶ了解した。最初は乗り気ではなかったのだが、無理矢理駆り出され、その上、急にドタキャンされたのだ。身体のバランスも悪くなる。たが、何もせずに、報酬はそのまま出るということだったので、すぐにカジノ場に舞い戻ることができた。それはそれでよかったと、シュルビスは思うことにした。その代わりにと、アンディは言う。坂崎エルマを、今後も、マークし続けるんだ。

「そんな。いつまでですか?ムーンにはいつ戻れるんですか?ずっと、つけていろって?冗談じゃない!前よりも、任務は過酷になってるじゃないですか!」

「そう言うな。これまでの借金を、すべてチャラにすることも考えている」

「ほんとですか?」

「確定ではない。考慮にいれようってことだ」

「今すぐ、確定してください。それなら」

「そうしたいところだが、とりあえずは、この女を近い未来に捕らえて、引っ張って来ることになる。そのときに契約を結ぼう。それでいいかな」

「それまでは、とにかく、その女の行動を、すべて把握するんだ。そして、女はまた、新たな記事を、雑誌に投稿するはずだ。その因果関係と、どういったやり方をしているのかを、明確に掴むんだ。そうしたら、捕らえる指令を出す。そのときだ」

「わかりました。約束ですよ。そしたら、それからは、ムーンはいつでも好きなときに好きなだけできる。その後も、金を払わずに、自由にプレイできるよう、取り計らってくれますか?」

「いいだろう。それも、考えておくよ」

 アンディは、そう答えた。出任せではなく、本心からだった。それほどまでに、坂崎エルマの得体のしれない実態を知りたいと思ったのだ。そして、その能力を暴き、手に入れたいと思ったのだ。

 アンディの元に、秘書のリナ・サクライから連絡が入った。スペースクラフトバイブルの不具合に関するクレームが、三十件、突然入ったという報告だった。スペースクラフトが走行中、緊急停止をして、そのまましばらく動かなくなってしまった、ということだった。すぐに復活したものの、これまでなかったことなので、不安を感じるという趣旨の内容だったという。さらには、嫌な予感がしたという報告も、同時に届いた。

「ゴルドには、報告したか?」

 アンディは、訊く。

「もちろんです」

「彼は、何と」

「まだ、様子を見ているようです。特に思い当たることはない、といった感じでしたが」

「お客さんの所に向かう準備をしておけと、言っておけ」

「わかりました」

 緊急停止か、とアンディは呟いた。確かに、これまで何の不具合も起きなかったことのほうが奇跡のようだった。試験段階から、そのような事態は少しも発生しなかった。完璧な商品だった。完璧な姿で、この世に出現した、完全な空間設計だった。そして今思えばだが、あのクリスタルガーデンのゼロポイント空間に、そっくりとそのサイズで、スペースクラフトは寸分狂いなく、嵌まるような気がしてきた。あの空白にあまりにぴたりと当てはまった。あの空間から切り取ったかのように。取り出したかのように。そう思ってしまうのは、いったい何故なのだろう。どうしても、無関係なようには思えない。そのサイズから質量におけるまで、測定し直したらどうだろう。突然のその思いつきを、アンディは、実行してしまう。リナ・サクライに、測量師を一人、雇って欲しいと要求していた。

「測量師?何のですか?」

「あれだよ。あの、建物の歪みをチェックしたり、矯正したり、そういうことをする」

「建築士ですね」

「いや、違う気がするな。そういう、部分的なことをする人間じゃない」

「言ってる意味が、わかりませんけど」

 リナ・サクライは、答える。

「俺もわからん。相談だよ。君に。何でもいいから、応答してくれ。変な質問に」

「わかりました」

「考古学者、っているよね」

「はい」

「その地層とか、太古から今に渡る、地層の変化を、ちゃんと把握して、それで、遺跡の発掘をしたり」

「いますね」

「あれに近いんだよ。感じとしては」

「その、時間の範囲が、ですか?」

「そうそう。つまりは、今のそれを、測量するだけじゃなくて、もっと、幅の持った、その前後にわたる情報まで、正確に掴めるような。それも相当広く。深く。そういう意味での」

「地質学者ですかね」

「そうそう。それでもいい。その線で、しかも、建築にも、明るい感じで。ただ、建築だけでは、全然駄目で。もっと、総合的な目線。知識だ。感性だ」

 リナ・サクライは、沈黙する。

「何か答えてくれ」とアンディは強く言う。

「言わんとしていることは、何となく」

「ほんとか?」

「ええ」

「さすが。俺の秘書だな。引き抜いただけある、才女だ」

 アンディは息巻いた。

「ちょっと、時間をください。でも、それってまさに、ドクター・ゴルドさんが、最適だと思うんですけどね」

 アンディは、一瞬、硬直してしまう。

 ドクター・ゴルド?ゴルドが適任?あいつに、何がわかるんだ?

 ふと、アンディは、あの男の能力を、深く考えたことはなかった。ただの開発者にすぎなく、テクノロジーの申し子としてしか見てなかった。だが、彼の能力は、本当のところはまだ、何も見いだされていないのではないか。もっと引き出す必要があるのではないか。まだ十分に、彼を使いこなせてはいない気がしてきた。

 不満の炎が燻り続けている。さらには、あの坂崎という女。まるで、ゴルドと坂崎を二人合わせて見たら、その突然欲した人間が、何故か、目の前に現れるような気がした。



 突然の停止、僅かな振動、奇妙な揺れ、妙な圧迫感、息苦しさ、異臭騒動、短時間における視聴覚の異常などを訴えるユーザーの声は、止まらなかった。さらには、価格のへの不満。アフターケアが無いことへの疑問。メンテナンス不要の不可思議さ。さらには、進化系である、次のシリーズが出てこないことへの不満。そして、スペースクラフトが、空間に横付けにするときの、僅かなズレ。境目の問題発生。その非難は、とどまることを知らなかった。アンディ本人に対しての攻撃も、開始されていた。不可解で複雑な女性関係。社会性のない、変態癖のある、この男の会社を信用していいものなのか。早かれ遅かれ、商品に綻びが生まれるのではないか。何事も途中から、亀裂を生む、そういった男なのではないか。一貫性のない、支離滅裂なその精神性は、必ず会社に細胞レベルで、組み込まれている。そういった誹謗が重なっていった。アンディは気にもしなかったが、ゴルドに連絡が取れなくなっていることを不審がった。

「まだ、完全な不具合には、発展してないし、その不具合も、確証がとれたものじゃない」

 アンディは、リナ・サクライに言った。

「けれども、ゴルドには、明確に説明してもらいたい。必要とあらば、修理の方法論を、しっかりと提示してもらわないと」

「ちょうど、昨日から、行方がわかっていないんです」

 リナ・サクライは答える。

「宙空建築のゴルド邸は、藻抜けの殻で。家具だけが残されている状態で。私物のほとんどは、持ち出されているようです。誰かに家を明け渡すかのような、綺麗さで。しかし、引き払ってはいません。賃貸ではありません。ゴルドの持ち家です」

「彼の、スペースクラフトは?」

「それと共に、なくなっています」

「移動中か。または、停泊しているか」

「追跡しているところですが、至る所で、その痕跡は消されています」

「完全な確信犯だな。逃亡している。何故だろう。あの記事か。あの記事に、信憑性があるからなのか?ゴルドの盗作。殺してまで、その原作者のテクノロジーを盗みとった。だとして、逃げて、どうする?誰から、逃げてる?そして、このタイミングでの、スペースクラフトの不具合というのは、いったいどういうことなんだ?ゴルドが捕まらないか・・・」

「もし、本格的に、不具合が始まったら、どうするんですか?」

 リナ・サクライは訊く。

「もちろん、販売の停止。使用の停止。自主回収。全破棄。損害賠償請求を、すべてを飲み、廃業だ。破産手続きに入る」

「ほんとですか?」

「そのつもりだ」

「ずいぶんと、思いきった」

「それ以外に、考えられるか?しかも、盗作だったのかも、しれないんだぞ。それで、測量師のことは、どうなった?」

「どうにも、なってませんよ。それどころでは。廃業したら、それこそまるで意味が」

「進めておいてくれ」とアンディは言う。「今すぐに。今やるべきことは、むしろコレだ。ゴルドの方じゃない」

 リナ・サクライは、絶句した。

「俺の言うことは、おかしいか?おかしいよな。知ってるさ。でも、何故かそう思うんだ。悪いようにはならない。進めてくれ。といっても、具体的な指示が必要か。測量部門を立ち上げてくれ。それだけだ。測量師を集めるのは、それからだ。測量師が建築家なのか考古学者なのか地質学者なのか何なのかはわからないんだからな。集めようがない。場を作ろう。空間を作ろう。僕は常に、このやりかたで通してきた。場をつくれば、それに見合う人間、資材は、自然と集まってくる。こっちから、探しにいかなくても、必ずやってくる」

 リナ・サクライは、答えようがなかった。

「こういう男だ。慣れてくれ。ゴルドの方は、心配いらん」

「誰かに拉致されているとか。そういうことは、考えられませんか?」

「どうだろうな」

「考えたくはないですけど、自害しようとしてるとか」

「ないね」

「他殺は?」

「もっと、ない」

 アンディは、リナの肩を、二度軽く叩いた。

「来てそうそう、忙しくなってきたな」

 そのとき、キュービック部門の社員が、アンディの社長室にやってきた。

「キュービック・シリーズが、今日の午後から、急激に売り上げを伸ばしています」

「それだ!」アンディは、リナの顔を覗きこんだ。

「何がですか」

「わからないのか?スペースクラフトの一時的な異常は、まさにこれだ。この前兆を、感知したんだ。キュービック・シリーズに纏わる空気の変化だ。その微妙な潮流が、さまざまな変化をもたらしている。そのひとつの現れだ。そうだ。これは、全く故障でも不良品でも何でもないぞ。ただ、やりすごせばいいだけだ。何もするな。ゴルドを探すのも、打ちきり。あいつはただ、遊びに出ているだけだ。気分転換だ。あんな記事から受けた、ショックの緩和のための。放っておけ。ふっきれたら、戻ってくる。そうか。ついに来たのか。これは、キュービック旋風だ!スペースクラフト以上に、売れ行きが伸びるのかもしれないぞ。こっちはどのみち、ゴルドが開発したものだ。これが伸びれば、あいつの自信は、回復する。喜び勇んで、戻ってくる。俺が開発したんだと。大きな顔をして。それに、そのときには、スペースクラフトの不具合なんて問題は、これっぽっちもなくなっている。あいつの態度は、どれだけ、でかくなることか。わかりやすい男だ。あいつは、外から来る力に脆い。影響されやすい。トップにはなれない男。よく見ておくんだ。どういう人間が、トップに立てるのかということを。人を見る目を、今の仕事で、日々養っておくんだ。リナ」

「わかりました」とリナは答える。



 キュービックシリーズⅠは、売れに売れた。Dというタイトルのそれは、品切れが続出し、生産ラインが急遽増幅して、過剰供給体制が組まれた。たとえ今、作りすぎたとしても構わないと、アンディは指示を出した。大量の在庫を抱え持つつもりでいいと、指揮をとった。

 生産ラインは、シリーズの第二段、三段の構想を実現するべく、ⅠのDが大量に出荷されるのを、すでに待っている状態になっていた。アンディは、次の書籍の販売のことをすでに考えていた。スペースクラフトよりも早く、続くシリーズが、世に出ていく算段がつくとは思わなかった。次々と、書籍は、キュービック・シリーズで、埋め尽くされ、他メディアにもキュービック化が加速していくことは、間違いないようである。

 スペースクラフトに関しては、技術開発による進化、進展ではあったが、キュービックの方は、技術革新がテーマではなく、その運用による内容の多義性。技術の使い回しによる、今は書籍の大量生産、大量発行であった。

 違ったストーリー、違った趣旨の内容、ジャンル。それらをキュービック化をするべく、レーザーを当てていく。もちろんこれまでの平板な二次元内容の書籍の内容で、キュービック化しようとしても、それではまるでうまくはいかない。キュービックの技術と、相関性のあるテキストを製作し、レーザーによる同期によって、商品として仕上げていく。そういう意味では、キュービック技術と同期できる内容の製作部門が、これからは最も大事なことであった。技術はすでに完成しているので、中身の充実が問われていく。そして、その内容を生み出すことのできる作者、アーティスト、学者、といった人間をどれだけ集め、商品を揃えていけるのか。そのラインナップ作りが、リー・グループのやるべきことであった。

 ゴルドの仕事は、すでに終えている。今は、アンディ・リーに、丸投げ状態になっている。ゴルドは、スペースクラフトの開発に、すべてのエネルギーを注いでいる。そっとしておく以外に、アンディにできることはなかった。

 キュービック・シリーズをヒットさせ、彼に次なる段階を与えてあげることしか、できなかった。そして、キュービック・シリーズは、唐突に起動に乗り始めた。まず、アンディは、書籍の内容が面白いとか、大衆に受けるとかいった観点では、選抜することができなかった。まずは、キュービック技術にしっかりと乗ることこそが、絶対条件であった。内容を問えるほど、キュービック技術に同期できる、構想の数は、なかったのだ。ほとんどがはじかれた。最初のDにしても、ただ唯一、同期を達成した、というだけの理由で、第一段のリリースに選んだ。これしかなかったのだ。ドキュメンタリータッチで書かれたフィクションという作品であって、このDという人間も、哲学と宗教の狭間に、生きているような、実に得体の知れない怪しさのある人物であったが、細かいことは気にしてられなかった。キュービックにそのとき同期した唯一の作品だった。アンディは、密かに公募を打ち出し、知り合いからも数多くの原稿を集めていた。内容に感銘を受けたり、面白さのあまりに徹夜して読みふけった作品はあったものの、キュービックとの同期はまるで果たせなかった。既存の形で書かかれたものを、キュービック化することの困難さ、不可能さを、思い知らされることになった。

 この謎の、史実家という名前で投稿してきたDという作品だけが、唯一ハマった。

 それは、通常の書籍のパターンで書かれたものではなかった。そのまま通しで読んでみても、全然意味が読み取れなかった。話の内容はあちこちに飛んでいて、焦点を合わせることがうまくできなかった。出てきたものに合わせようとしてみても、すぐにはぐらかされ外された。別のものに焦点を余儀なく移された。それも、移そうとした瞬間に、まるで見られているかのごとく、図られているかのごとく、撤去を迫られる。消え失せている。足場のなくなった読者のアンディに、また別の救いの手が、現れ、アンディは溺れた人間のように、藁をもつかむ思いで、その救世主にしがみつくことになった。それもすぐに外され、今度は完全に放置されることになる。その繰り返しで、結局、どこにもたどり着くことなく、どんな整備された道を通ることも許されず、ただめちゃくちゃに蹂躙された果てに捨てられるといった、最悪な結末を迎えることになった。しかし考えてみれば、当然だった。これはそもそも、キュービックの形を想定して書かれたものなのだ。どういうわけか、そうなのだった。このペンネーム、『史実家』という人間は、キュービック技術のことを知っているのだ。あらかじめそのつもりで、そこに乗せていくつもりで、製作しているのだ。でなければ、キュービックに無条件で適合するはずもない。これは、通常の作品を、キュービック化していくという荒治療は、全くできないのだ。最初から、そのつもりで挑まなければ、達成できるものではないのだ。それがわかっている人間。仕組みを理解している人間のみが、キュービック・シリーズの作者になることができる。この史実家という男は、実体を明らかにしなかった。自らの存在をシークレットにすることで、出版リリースをアンディに許可してきた。男なのか女なのかすら、わからなかった。主人公とされるDとの関係も、わからなかった。Dが実在する人物なのかもわからなかった。何もアンディは知りえることがなかった。ただ史実家には、Dという作品では終わらない、著作のストックが数多くあるということだった。どういうわけか、史実家は、その事実を隠そうとはしなかった。むしろ、暗にアピールもしてきていた。これだけではありませんよ。今後もずっと、多岐に渡る展開を、用意しているのですよと。あなたたちは、私を必要とするでしょう。私にしか、その要求に応えられる人間は、いないでしょう。必ず、私の元にやってきます。私は、あなた方の救世主です。そう言っているようだった。そして、事実、今こういった状況になっては、再び、史実家と連絡を取り合わなければならなかった。書簡による、やり取りを要求され、その原始的な連絡の取り方は、キュービック・シリーズとは、全くの対極的な存在であった。

 考えてみれば、あの通常の書籍のように原稿を読むだけでは、まったく焦点が合うことがなく、読み終えるというのも、当たり前のことだった。三次元映像として製作されたものを、二次元の画面に乗せて見せられたとしても、薄ぼやけたままに、時間は過ぎていくのだ。キュービックとして発信し、キュービックとして受け止める以外に、焦点の合わせ所はない。アンディは、Dのヒットを手紙で報告し、別の作品の原稿も送っていただけないかと、丁重にお願いした。今後、爆発的に、キュービック・シリーズを体感したい人々が出現してきます。一冊ではなく、次から次に、読んでいきたい。味わい尽くしたいと。ゲームよりも、中毒性の強いキュービックです。読者の数の急拡大に、留まらず、一人の人間の中でも、相当な量を、味わい尽くしたいという欲望が、爆発していきます。それに応える、それに耐えられるラインナップを、急速に整えていく事態となりました。あなたの原稿が、無尽蔵に存在するとは思いませんが、是非、表に出せるだけのありったけのものを、私どもに預けていただけると、とても有り難い話であります。是非、このご縁を最大限に、お互いの利益として、発展させていければと思っています。アンディは書簡を送った。史実家からの返答は早かった。すでに準備は整っておりますという即答だった。そのつもりで始めから、準備させていただいております。私に、秘書のようなものはおりません。伴侶も家族も、誰もおりません。取り次いでくれる人間もおりません。私とあなたのホットライン以外に、私たちを繋ぐ糸は何もありません。今後も是非、そうしてください。私はあなたと直接関わり合いたいのです。誰を経由してもいけません。そうした瞬間に、この関係は終わりを告げます。そのことを、アンディは念を押された。そして、キュービック・シリーズのことを、あらかじめ知っていたのか。その形態を念頭に、製作をしてきているのか。またいつ知ったのか。どのように知ったのか。疑問は、次々と積もっていった。しかし史実家は、その質問には一切答えることをしなかった。完全にスルーしたのだ。なかったことのように、流されてしまったのだ。彼は、次の書籍と、その次の書籍に関する原稿を、これから送ることだけを伝えて、文脈を唐突に切ってしまった。

 原稿は数分後に、データとして送られてきた。あとは、ゴルドが開発したレーダーで、キュービック化し、何次元なのかわからない、複合的な多元世界を、五感を越えた媒体に閉じ込め、読者に五感を越えた感覚に訴えかけていく。読者はいったん、自らの内なるその領域にデータを残し、その後、ゆっくりと、自らの五感の特性に合わせてダウンロードするように、細部の部分部分を認識していくのである。全体像は、本人の知らないところですでに、すべてを把握している。

 キュービック旋風は、吹き荒れた。一度体感してしまえば、体内には免疫ができてくる。これまでの書籍による、情報の取り方が、全然合わなくなっていく。苦痛になっていく。テレビや映画、インターネット、ゲームのようなあらゆるメディアの形態に、体はついていかなくなっていく。退屈から始まり、拒絶にまで達していく。人の認識手段、感覚の交換手段、発信方法、伝え方、すべてが変わっていくのだった。そして、キュービック・シリーズへの傾倒、一時的な執着、飢餓感が加速していく。

 今が売り時だった。史実家からの供給も、十分であった。今できる最大限の放出を、グループすべてをかけて、行わなければならなかった。アンディは、全霊に取り組んだ。そこに波は来ていた。



 キュービック・シリーズが、旋風を巻き起こしていく中、スペースクラフトバイブルの売れ行きは、ななだらかになっていき、ほとんど世界には行き渡り、飽和状態になっていった。アンディを中傷する声は薄れ、あれ以降、坂崎が執筆する記事の供給も、止まっていた。スペースクラフトバイブルの不具合もほんの一瞬、過渡期の繋ぎ目のごとく、すぐに塞がっていった。

 次第に、キュービック・シリーズと、スペースクラフトバイブルが、同一業者による商品だということが、世に知られるようになっていった。大半の人は、別の企業が別の目的で発表した商品であることを信じて疑わなかったのだ。二つのあいだに、関連性は何も見えなかった。そうして、この二つの軸は信頼の芽を、互いに植え付け合うことにも成功していった。

 アンディは、ここが勝負とばかりに、スペースクラフトバイブルの変則的進化バージョン、トランスレゴフォームを、立ち上げた。車の素材をそのままに解体して、家の素材として再生させたり、その逆もしかり、自由に組み替えていけるハイブリットな素材のキッドを販売、リフォーム、メンテナンスする部門を、突如立ち上げたのだった。それは、次世代の、スペースクラフトバイブルにも通じる、共通の概念であり、翌年に、その第一段の販売を予定していると、発表をした。ゴルドの開発が、ここにも生きてくると、想定しての立ち上げだった。それに伴う不動産業。さらには建築業。あらたなる次元の高層ビル、巨大ビルの構想もまた、アンディは発表した。ステルスビルディングと名付けられたそれは、今後、地上における土地の不足を想定した、複数のコンセプトの建物を一ヶ所に寸分ズレなく重ね合わせて建てるという、バーチャル世界と物質世界の相関性を現実化した事業であることを発表した。そして、エネルギー産業を、独自に立ち上げることも。エネルギーはただ、それを発生させて、運用することを目的に、起こすものではなく、何か別の目的で、別の活動を、つまりは人間に置き換えて考えたときの、普通の生命活動をしていくなかで、自然と生み出た排泄物のようなエネルギーを、回収して使うといった、副産物として出てしまうエネルギーを、人間の文明生活において実用化しようというのがコンセプトの、それは、アンディのこの複数の事業計画が進むことで、自然と立ち上がってくるエネルギー産業であるということが、簡潔に説明された。

 ネットワークが鍵なのだと、アンディは言った。

 趣旨の異なる、別の産業同士を一企業が起こして、同時に運用していくことで、その同時性のなかに、ぶつかりあうエネルギーが生まれてくるのだと。絡み合うエネルギーが生まれ出てくるのだ。助長しあうエネルギーが、生まれ出てくる。アンディはそう強く主張した。

 混乱と混沌の世界の極限に、最大のエネルギーは創出される。

 そして、その創出は統一し、相互に自由に行き来することで、全体としてのバランスをも成り立たせる。まとめあげる仕組みを、存在させることで、次元の高い一貫性が、実現されるとも語った。

 アンディの構想は、留まることを知らなかった。旅を担う産業、シンボリック・ボヤージュの設立もまた打ち上げられた。エネルギー産業が世界を網羅することで、人々の生活、拠点の移動、滞在、再び移動。人間生活は、定住と移動を、不定期に、またスピーディーに執り行っていくことが想定される。余暇の旅行のコーディネートもしかり。総合的にプロデュースしていくこと、個別にプランを練り上げていくこと、スケージュールを組み上げ、共に寄り添っていくような代理店。住居と移動手段と互換性。エネルギー契約の個別的プラン。生活の総合的なプロデュースと、手段のプレゼンテーション。さらには、旅のお供の、キュービック・シリーズの選定。特典としての、ディスカウント・カジノカードの発行。上げればきりのない、ネットワーク事業を、リー・グループは構想しているのだと、明確にアンディは言い切った。

 ここぞとばかりに語るアンディに、リナは必死で、メモを取り続けた。

 アンディの思い付きは、一瞬にして、すぐに消えてしまう。その記録を、アンディに命じられていた。アンディが饒舌に、ほとんど気の狂った、何かに乗り移られたような表情をして、語り始め、動き出したときに、絶対に逃してならないと、正気な時のアンディにリナは言われていた。ある種、僕が僕ではなくなったとき。そこが肝心なのだと彼は言った。

 そこにこそ、未来の指針が隠されている。いずれ、リナ君にも、わかるときが来る。

 自分が自分でないときに、自分を動かしている何者かが、出現するということがね。



 キュービック旋風は二ヶ月が経っても三ヶ月が経っても、半年が経っても、一年が経っても、勢いが衰えることはなかった。人々のキュービック化を求める意識は、日常レベルでも増していき、ついには企業広告にまで発展していきそうだった。

 大手広告代理店を始め、世に存在するほとんどの広告会社、あるいは広告関係でない大企業、中小企業、または個人事業主からの、リー・グループへの問い合わせは止まらなかった。キュービック・テクノロジーを駆使した広告を、出すことはできるのだろうかと。

 アンディ・リーは個人や中小企業からの問い合わせには、広告代理店の方に訊いてくださいと、対応を統一し、広告代理店の幹部との話し合いを重ねていた。

「是非、お願いします」と某大手代理店の幹部は、頭を下げた。

「と言われましてもね」

 アンディは自ら、会社に広告部門を設立するかのような、含みのある話し方を、自分がしていることに嫌気がさした。そんなつもりはなかった。広告業には、決して進出しないことを決めていたからだ。在るものを、必要以上に、過剰に装飾をほどこして、人に薦めていったり、時には詐欺まがいな偽りを、述べることさえ厭わない、売れるためなら何でもする、人の意識まで変形させてしまう、洗脳してしまうといった世界観が、自分とは相容れないと思ったからだ。

 しかし、広告業には、全く興味はなかったが、このキュービック・テクノロジーが、資本主義の核でもある広告の手法に組み込まれることは、けっして悪いことのようには思えなかった。むしろ、積極的に参戦したい心づもりもあった。このテクノロジーそのものが、人の意識を劇的に変える起爆剤のような役割を果たすのだ。それが、日常的に体験できることに、悪いことは何ひとつないような気がした。たとえ、害悪のたっぷりと含んだ広告であったとしても。これまでの二次元、三次元の広告こそが、害悪の根元であると思ったのだ。洗脳の最たる道具であるかのように、思った。ところが、これが四次元、さらには多次元にまで広がったものとして、人々の意識に入ったときには逆に、洗脳手段としての効力は、劇的に低下していくのだとアンディは確信していた。次元が増えていく意識の拡大が、助長されていけばいくほど、部分的で偏狭的な思想、情報は、底が透けて見えるようになってしまう。誤魔化しが、まったく効かなくなってしまう。それはいいことだ。キュービック・テクノロジーが、人間の意識に浸透していけばいくほど、その人間本人が、キュービック化していくのだ。だとしたら、この街に常に流布され、人々の意識に、ダイレクトに刺激を与えている状態が、整備されるということは、願ってもない状況だった。

 アンディは、「前向きに考えています」と正直に答えた。

「ただ、問題があります。非常に核心的な問題が。というのも、これまでのような広告の作り方が、まったく通用しなくなるということです。二次元、三次元用に、下準備をしたものに、ただ、キュービック化していくことはできないんですよ。キュービック・テクノロジーをかけて、変換していくというやり方ではないんです。つまりは」

「つまりは?」

「どういうことだと、思いますか?」

 アンディは、試すように、男に訊いてみる。

 男は、この回答の仕方で契約が決まるとばかりに、短くない時間をかけて、ゆっくりと丁寧に話はじめた。

「おそらく、こういうことでしょうか。はじめから、キュービックに適合した青写真を提供することで、はじめて、キュービック広告が現実化すると」

「さすがですね。そして、それは、簡単なことではない」

「わかります。すべて、あなたの会社に、委託という形でお願いしようと考えています。ほとんどの利益は、あなた方の会社が取ることになります。我々は、ほんの数パーセント。わずかなものです。それでも、多大な売り上げを計算にいれることができる」

「こういっては、何ですが」とアンディは言う。「これでは、我々の会社が、めちゃくちゃ大きく成長して、あなたたちの企業を、圧迫してしまうのではないですかね。こういっては、失礼な言い方かもしれませんが、この資本主義経済圏を仕切っていらしゃる大企業の方々にとっては、実におもしろくない話なんじゃないかと。僕らの企業が、一人勝ちとは言わないけど、急拡大していってしまう。あなた方がその片棒を担ぐことになる。これまでいい関係を築けている所が、悪化してしまうんじゃないですかね」

 アンディは、まだ続けたがったが、言葉を切った。

「おっしゃるとおりですよ、もちろん。しかし、たとえそうなったとしても、我々は、あなたたちと組みたいということです。誰よりもはやく、あなたたちとの信頼関係を、築きあげたい。これから、長い期間に渡って、協力していけるような土台を、今、築き上げたい。その思いもまた、強いんです。ただの目先の利益のことだけではない。共に伸びていくことのできる関係だと、確信しているんです。それに、このキュービック・テクノロジーと、広告世界の相関性は、非常に高い。あなた方は、新しい時代の書籍から、スタートしたようですけど、これはただの入り口でしょう?現存するすべてのメディアに波及していく、そういった計画がおありなのでしょ?計画がなくても、自然とそのように広がっていくはずだ。その自然の展開の中に、我々の今回の行動も、あるんですよ。我々の思いというよりは、時代に動かされている感が、強いですからね。そのあたりのことは、どうお考えですか?アンディさん個人は」

「もちろんそうですよ」とアンディは即答する。「もちろん、僕だって、時代のことは、常に考えていますよ。時代が要求してないことをしても、どこにも行き着きませんからね。ただ、動かされているとは、個人的には思いませんね」

「そうですか」

「ええ。というよりは、アイデアを、脳に直接注入されているような、そういうときは、確かにありますけどね」

「なるほど」

「僕は、あなたの提案には、非常に前向きであるということは、はっきりと答えておきます。今すぐにでも、手を組みたいと」

「ほんとですか?」

「さっきも言った、その唯一にして、最大の問題点さえ、解決できれば」

「我々も、最大限の協力を、させていただきます」

「少し、時間を、いただけませんかね。これは、我々の部門で解決しなければならないことですから。テクノロジー上の問題です。あなたがたは、今まで通りに、広告の叩き台を製作していただければ、それで構いません。これまでの業務を、何ひとつ変えていただく必要もない。業態は変えずに、展開は大きく変わる。その叩き台を、我々のところに送信していただければ、我々が、その情報を読み取って、そして、キュービックテクノロジー用に作り直すという、一つの行程があいだに入ることで、全ては解決できます。そこにキュービック・テクノロジーを同期させて、瞬時に商品化できる。あなたがたに納品し、それを、世の中に流していただければいい。何ひとつ、業態を変える必要はない。あなたがたに努力はいらない。問題は、我々に、その一過程が加えられるかどうか。それにかかっている。少しの時間が欲しいということです。もちろん、キュービック・テクノロジーが照射される、映像媒体のインフラ整備などの必要は、ありますけど。それは、あなたがたの仕事ですね。これまでの広告看板は、役に立たず、広告のためのディスプレイ、LEDなどの機械は、まるで役には立たず。段階的に、すべては、撤去の方へと進み、キュービック・テクノロジーを受け入れる容量が含んだ設備に、組み替えられる。あなたがたの得意分野です。そこでかなりの利益が上がるのでしょう」

「よくわかっていらっしゃる」

「あなた方のほうが、儲かるんじゃないですかね」アンディは笑い、そして、相手の男も笑った。



 ゴルドとの連絡がようやく繋がった。アンディは彼にどこにいっていたのかは問わなかった。確かクリスタルガーデンに、一つ空きが出ていたよなと、ゴルドは言った。「あれは、あのままか?」どうしたんだ急にと、アンディは答える。「あそこに引っ越したい」とドクター・ゴルドは言った。「今からでもいいか?」切羽詰まった声で、そう迫ってきた。まだ、心は安定を見せてはいないようだった。休息をとって、疲れが癒えたために、戻ってきたわけではなさそうだった。

「大丈夫だと思うぞ」とアンディは言った。すぐに、ゴルドは通信を切ってしまった。

 アンディは繋げ直す。「引っ越しを開始する前に、俺のところに来い。いいな」ゴルドからの返信はなかったが、彼はすぐにやってきた。スペースクラフトバイブルに乗ってきたようだった。グリフェニクス本社ビルに、横づけになっている。一目見て、彼が死のオーラを放っているのがわかった。どんな心情なのかは、一目瞭然だった。その死のオーラがクリスタルガーデンを引き寄せたのだろう。クリスタルガーデンもまた、彼を呼び込んだのだ。

 双方が獲物として、求めるものが合致しているようだった。

 その秘密はまだ、公には流布していない。ゴルドは、生きる気力が完全に失せ始めている。だが、エネルギーは消えてはいない。彼の寿命はまだ先にある。そのときでは、全然ない。そのギャップが死臭を、より強烈にしている。死の地は、彼を認識している。ゴルドに自覚はないのだろう。

「開発に、苦戦しているようだな」

 アンディが、口を開く。

「もう、その話は、けっこうです」

「かたはついたようだな。そのつけ方で、いいのだろうか。スペースクラフトの、その後の心配は、結局のところ、何の解決もされてはいない。そのまま放置して、いなくなってしまっていいのだろうか」

 ゴルドの同僚であった、今は亡き、原岡という男のことを、暗に思い出させるような言い方になってしまったなと、アンディ自覚した。だが、あの記事のことを信じているわけではなかった。

「キュービック・シリーズの方は、どうだ?話はこっちの方なんだ。今、どれだけ売れているのか、知ってるか?知ってるよな。だから君は追い込まれていっている。スペースクラフトの次なる展開を、生むことができない責任を感じている。君ひとりが背負ってしまっている。だが、どうだろうな。スペースクラフトは、君が、科学的に思っているものでは、実はないかもしれないんだぞ。科学的には、確かに、君自身の力で、進化させていかなければならないだろう。だが、スペースクラフトには、違う進化の仕方がある。スペースクラフトは、生物と物質の両面を兼ね添えた、有機物質の兆候があるということに、君は気づいているだろうか。そっちが育つのは、人が、外から手を加えることでではない。勝手に、自発的に育っていくものだ。その土壌の整備くらいを、してあげれば、その物質は、自然に行くべき場所へと伸びていく。むしろ、障害なのは、そう。君のような科学者の方だ。自分の力でなんとかしなくては。なんとかできると、信じて疑わない、その傲慢さだ。それが障害になっていることに、本人自身が、一番気づいていない!君のことだよ。よく聞くんだ!君が障害なんだよ!君がやる気になったり、やる気を失せたり、喜び勇んだり、悲しみにくれたり。そういった、上がったり下がったりの、君自身のエネルギーの流動が、どれほど邪魔であるのか!スペースクラフトにとって、どれほど、迷惑極まりないものになっているのか!君が一番自覚していない!ところが、キュービック・テクノロジーの方は違う!あれは、有機物質の兆候など、これっぽっちも入ってはいない。君自身がどんどんと引っ張っていって、進化させなければならないんだ!何をやってるんだ!ほったらかしにして!どこにいってたんだ!僕が君を、最も必要としていたときに。いったい何をやってるんだ!無責任極まりない!責任を持つんだ。自分の作ったものには、最後まで責任を持つんだ!生きる気力が失せただって?君は死ぬつもりなのか?死ぬことが、できるとでも?その溢れる生命力を持ったまま、死にたいだって?冗談じゃない!冗談じゃないぞ!死ねるわけがない!君に、死ぬ権利なんて全くもってない!これは、能力の問題だ。今の君には、まったくもって、どんな手段をもってしても、それは不可能だ!クリスタルガーデンに移転だって?冗談じゃない!クリスタルガーデンが許してくれるとでも思うのか?君を受け入れてくれるとでも思うのか?身の丈を考えるんだ!君自身の生涯を見渡してみることだ!どこに、死の場所があった?今ここか?ないだろ。ないはずさ。そんなところにはない!ずっと先だ!見果てぬ先の世界が、さらに激変を繰り返した、もっとずっと先の果てだ!僕では、とても見届けられないほどに遠い、その果てだ!」

 ゴルドの周囲から、死臭が払拭されていた。ゴルドは魂の抜かれたような、まだ寝ていて起きたばかりのような、焦点の不確実な様子を、晒していた。

「何、突っ立っているんだよ、ゴルド!さっさと、仕事をしたらどうだ!キュービックの方だよ!広告業界から、オファーを受けたんだ!これまでの広告を、キュービック化してくれとな。すべて、お任せします。キュービック化をって。そんなこと、不可能じゃないか!そうだろ?それまでの既存品なままに、キュービックに変換することは、不可能だろ!だから、困ってるんじゃないか!仕事を受けたものの、それに応えられる、リー企業ではないんだ!君の出番なんだ!考えてくれ!わかるだろ?はやいところ、開発を済ましてくれ!戻れ!自分の研究所に。いいな」

 ゴルドは呆然としたまま、アンディの言葉を光の放射を受けたように、吸収し続けた。

「どうしたんだ?何とか言ってみたらどうだ!」

 ゴルドの顔つきが、少しずつ変化していった。

 血の気を帯び、目は咀嚼した情報を、次々と、回答へと変換している。

「お言葉ですけど、その技術は、ありますよ、もうすでに。僕は開発済みです。ただ、言わないでおこうと思いました。それが可能だったら、何の技術革新もないままに、簡単に、既存品をキュービック化できてしまうから。でもあなたには、隠しておけそうにない。なら、特許をとって、うちにだけ可能な仕事にしてしまいましょうか。それで、いいですかね」

 わだかまりがすべて、ふっきれたようにゴルドは語った。

 葛藤は解決し、穏やかさが、死臭の代わりに漂うようになった。

 そうなってしまえば、今度は、一気に花開いたかのごとく、穏やかさの広がりが止まらなかった。

 アンディの言葉が、彼を閉じ込めていた蓋を、ほんのちょっとした突きで外してしまったかのようだ。

 ゴルドは、あとほんの一押しされることを、待っていたのかもしれなかった。

 アンディでなくても、ほんの僅かなきっかけで、崩れ落ちてしまうような蓋が、ぶら下がっていたのだ。

 そのときだった。

 グリフェニクス本社ビルに、シュルビス初が坂崎エルマを連れてきたという報告が、リナ・サクライから入った。




























2048 10





















 リナ・サクライに、アンディは指示をしていた。

 シュルビス初に、坂崎エルマを捕らえるようにと。坂崎エルマを連れてくるようにと。

 ゴルドと坂崎は、アンディをあいだに挟んで、合い対していた。

 どちらも互いを見つめ、視線を外すことはなかった。アンディは何も言わずに。坂崎の背後にいたシュルビスは、静かに退出した。二人は見つめ合っていた。

 アンディは、一瞬、シュルビスと目があったが、彼の退出を、引き留めようとはしなかった。二人はいつまでも、先に視線を外すことをしなかった。

 アンディには、割って入る気はなかった。シュルビスが、どのように、坂崎を連行してきたのかは分からなかった。脅したのか、説得したのか。だが、物理的に強制して、連れてきたのではなさそうだった。

 坂崎は、自分の足で、ここに出向いてきていた。そして、アンディには、目もくれず、偶然いたドクター・ゴルドを見つめている。これは、偶然なのだろうか。この二人は、たまたま、ここで初めて出会う運命にあったたのだろうか。元々、知っている可能性はないだろうか。

「たいした女だな」

 先に根負けしたのは、ドクター・ゴルドの方だった。

 女だと、はっきりとそう言ったのだ。シュルビスに言わせると、坂崎は男なのか女なのか、判別がつかないということだった。今、アンディが初めて見る坂崎もまた、同じ印象だった。しかし、ゴルドははっきりと、女だと断言した。元々の知り合いであるという疑いは、刻々と膨張していった。何故かしら、自分だけが、この場で浮いているような気がしてくる。部外者として、まるで邪魔物になっているかのような気がしてくる。ここは自分の会社であり、オフィスであり、本社ビルであった。だが、二人を前にして、アンディは、居心地が次第に悪くなっていった。

 二人の天才を前にした、何者でもない、凡人であるかのように、自分が思えていった。

 坂崎エルマは、それでもまだ、ゴルドから視線を逸らそうとはしなかった。

 アンディは、エルマの目を見つめていた。その視線の先を丁寧に追った。不思議と、坂崎の目には、ゴルドを見ていながら、何者も見ていないかのような、焦点がどこにも合ってないかのような、そんな印象が、受け取れたのだった。だが確実に、ドクター・ゴルドの存在を捉えている。ゴルドのいる向こう側を、見つめてるいるような気もする。それでいながら、ゴルドをも、しっかりと見据えている。ゴルドを含めた、もっと、より範囲の広い空間を見つめているような、情報を読み取っているような、だが、焦点は、ゴルドの肉体のみには合っていない・・・。

 アンディは、突然、閃いた。これはキュービック書籍を読んでいるときの感覚だった。

 彼女そのものに、キュービック・テクノロジーが搭載されているかのような、そんな視線のように、アンディには感じられてきたのだ。一度そう思えば、確信は増していく。あらゆる視覚情報が、その事実を裏付けるために、一斉に集まってくるかのようだった。

 坂崎エルマ。この女に、キュービック・テクノロジーは搭載されている。キュービック・テクノロジーそのもののような。どういったことなのか、まるで理解ができない中、坂崎エルマはようやく、第一声を打ち上げた。

「ずいぶんと、ご無沙汰していました」と小さな声で呟いたのだ。

 その音質は、まさに、男のそれなのか女のそれなのか。判別しずらかった。

 どちらか一方に決めることのできない、決めることを拒絶するような、どちらでもあるというのが、唯一の正解のような。「お久しぶりですね」とエルマは続けた。

 ゴルドに向かって、発信しているというよりは、アンディを含めた、この部屋全体を振動させるかのような。不思議な空気の振るわせ方をした。

 今度は、ゴルドがまるで声を発することはなくなった。呆然として、見てはいけない存在を感知したような。生きているあいだには、二度と見ることはないと確信していたような、そんな体の振るわせ方をしている。

 アンディだけが、何の事実も知らない中、再会のときを迎えているような気がする。

 奇しくもそれは、街の中ではなく、レストランや店の中でもなく、パーティでもなく、リー・グループのビルの中であった。

「驚いたようね」坂崎エルマは言う。「私が生きていて、びっくりされたでしょうね」

 ゴルドは、微動だにしない。

「私は、あなたに、会うのを楽しみにしていたのよ。そのタイミングを、ずっと図ってもいた。けれど、作為的なことは、何もしたくなかった。それと、二人きりで、会うのだけはよそう。それだけね。二人以外、誰もいない状況で、会ってしまえば・・・あなたは、何をするかわからないでしょ!」

 坂崎エルマは、初めて、アンディの存在を認めたかのように、アンディ自身は感じた。

「人目が、必要だったのよ。衆人環視のような、不特定多数の目では、やはり、二人きりで会ってる次に怖い。そんな状況なら、やっぱり、あなたは何をしでかすかわからない。あなたは好き放題、私の体を弄んだ。好き放題、自分のものにして、自分の思うように改造しつくしていった。人体に対して、試してみたいと思っていた全てのことを、私で試しつくした。私は、あなたの好きなようにされ続けた。人工的に。そして、人工的に保護され、人工的に補強がなされ、人工的に強固になっていった。自然なままの有機体は、どんどんと崩壊していき、弱まっていくにつれて、その人工的な補強は、日々、複雑に私の新しい体を作り替えていった。あなたは、私を使い尽くすことで、その技術を手に入れた」

 アンディは、息を飲んだ。

「あなたは、必要なものを手にいれた。私にこは用はなくなった。その日が来るとが近いことを、私は知っていた。私は自ら、その前にあなたの元から去っていった。あなたが欲しいものを手にいれたことを確信してすぐに。あなたの手を煩わせるようなことはしたくなかった。私はあなたから離れ、ひとりで最期のときを迎えようとした。本当に、そのつもりだった。あなたに迷惑はかけずに、私は、私自身の生を終わらせるべきだと思った。けれども、私は死ねなかった。私は自分に致命的な傷を、負わせることができなかった。むしろ生きたかった。ここにきて、私は生きたいという気持ちが、急激に沸き起こっていた。そんなことは、初めてのことだった。私は自分の人生に、希望が見いだせなかったからこそ、死のみに、この生きていた意味を、見いだそうとしていた。終わりのその、ただ一点だけに、真実を見いだそうとしていた。しかし、実際に、そのときになってみれば、私はそれを引き受けるだけの本物の意思が、著しく欠けていることを思い知らされた。私はやはり、あなたに殺されるべきだった。消去されるべきだった。あなたは、そのつもりだった。そうでしょ?」

 ゴルドは、答えなかった。

「私は、その後、自分の肉体が変化していることに、気づいていった。私の体は、すでに、人工物で、ほとんどが固められていたため、私の精神は、その入れ物とじょじょに、齟齬を来たし始めていた。肉体と私、という分離は、どんどんと強くなっていった。私は、自分の体との距離を、物理的に、とり始めていった。離れ始めていた。少し遠くから見つめることが多くなっていった。そのうちに、私の意識は、妙に、遠くまでのことを感知できるようにまでなっていった。鳥のごとく、高く飛び立って、その肉体の中にいては、絶対に見えない範囲にまで。さらには、そこを見ようと、目を向けなくても、壁の向こう、ビルの向こう、海の向こうまでが、うっすらと見えるようになっていった。次第に私は、女であるという、肉体的特徴が薄れていき、男でも女でも、そのどちらでもあるかのような意識になっていった。そして、その日は、突然やってきた。私が男だと強く感じるときには、肉体は男に、女だと感じるときには、肉体も女に変化していた。ほんの僅かな違いだったけれども、それは、確実に変化した。性的相手を騙すことくらいには、可能になっていた。そして、私の認識の仕方は、さらに拡大していった。その物体の背後にある、さまざまな情報が、そこに今もあるように、読み取れるようになってしまった。その物体が、どういう過程を経て、そこにあるのか。そもそも、生まれたときの状況。そして、近い未来には、どういったことになってしまうのか。最終的に、どのような結末を、この物質は迎えるのか。形態は、そのとき、どのように変化していくのか。どのように別のものに変化していくのか。そういった一連の流れが、全体像のようなものが、何故か見えるようになってしまった。その流れは、止まらなかった。あなたが、私の体で、実験を繰り返して、見つけ出した、取り出した、技術の何かが、きっと私の体に残ってしまったのだと思った。それは、残像なのかもしれない。残像が残ってしまっているのかもしれない。でも、効力は、同じだと思った。残像だから、耐久性は、ないのかもしれない。そんなに長いあいだ、続いていくようには思えない。私の命同様、そうは長くはない気がした。私はそう長くはない。けれども、終わる、そのときまでは、この意識状況は続いていく。もっと拡大していく。もっと進化していく。終わるその日まで、私の意識は、膨張し続けていく。そう確信した。終わるそのときまで。これまでの生とは全く異なる。異なる生をいきることで、その寿命のときを迎える。そう長くはない。そのときを迎えるまでに、あなたとは一度、会わなければならないと思った。そのときは、こうしてやって来た」

 ゴルドも、アンディも、その場に釘付けになっていた。

 凍りついたその空間には、さらに追い討ちをかけるように、さらなる別の訪問者がやってきていた。


 ユーリ・ラスは、三人には気づかれないように注意して、そっと部屋の中へと入った。

 緊急に、アンディに呼ばれたのだと嘘をつき、建物の中へと入っていった。

 ユーリ・ラスは、リー・グループの特別顧問であり、外部委託業者の一つとして、常に存在していた。リー・グループと、専属契約しているわけではなく、クライアントを複数、持っていた。アンディからは直接、会社に来るよう言われていたわけではなかったが、事業の急拡大が、始まるから、実際に動き出したら、そのフォローを頼むと昨晩連絡を受けていた。アンディの秘書のリナ・サクライからは、ワードにタイプした構想書なるものを、メールで受け取っていた。ユーリ・ラスは一晩考え、アンディに直接会って、彼の雰囲気をじかに感じとらなければ、今回もよく理解できそうにないことを察した。

 アンディは極力、ユーリ・ラスとの直接交渉は、避ける傾向にあり、アポなしで、突然の訪問をする以外に、方法はなかった。すでに来客があると、セキュリティの女性には言われていた。その来客が、帰るのを待ってもよかったが、ふとこのタイミングで来ているその人間を、一目見ても、悪いことはないような気がした。まさに、同じタイミングでアンディを訪問してきている。何かあると、ユーリ・ラスは感じた。直接ではないにしろ、何か自分に大きく関係があるに違いない。ドアを開けると、アンディをはさんで、二人の人間が立っていた。あまりに張りつめた空気に、ユーリ・ラスは、圧倒されてしまった。わずかに開いた隙間から、食い入るように見た。誰も何も言葉は発していない。身動き一つとってはいない。剣の達人が、僅かに相手が動いた隙に攻撃をしようとして、互いを狙っているかのような、シビアさだった。命がかかっているような、そんな不穏さかあった。透明さがあった。アンディを挟んで、二人の人間は、そのように繋がっているようであった。アンディは何をしているのか。何のためにいるのか。いないも同然なのか。状況が全く見えてはこなかった。

 アンディの向こう側にいる男が、口を開いた。そして、その男は、延々としゃべり続けていた。最初はわからなかったが、だんだんと内容がわからないなりにも、呑み込めていった。アンディの事業の、根幹において、トラブルが持ち上がっているようなのだ。その成り立ちに関する、秘密の事柄のようなのだ。自分にはまるで関係のないことだったが、ユーリは耳を澄ませた。いずれ、役に立つ情報なのかもしれなかった。自分の身を、最後に守るようなものになるのかもしれなかった。

 ユーリ・ラスは、アンディの会社の他にも、同じように外部顧問として、数社と契約していた。ユーリには、その一点を見つける天才コンサルタントという呼び名が、ついていた。ユーリは、複合的で、時に複雑な、数々の情報が羅列された、あるいは事業が並列した、さらには、経済圏全体の動きであったり、その個人の人間の全情報であったり、膨大な情報量を有する全体から、ある一点を導き出すこと、絞り出すということ、焦点をあてるべき場所、一つの手段、そういったものを、発見する能力が、非常に長けていた。

 特に、専門性など、何も身に付けていないこの男は、その能力だけで生きていた。

 その能力だけが、高く評価されてもいた。ユーリは何もないところに、何かを生み出す能力は少しもなかったし、ちょっとしたアイデアの欠片を、大きく成長させていくといった能力も、まるでなかった。誰かが組み上げた事業を、進化させていくことや、現実世界にフィットさせること。事務作業や、メンテナンス、何をやっても人並みな事はできず、要するに、言われたことを確実にこなすことができずに、あるべき作業を正確になぞることさえろくにできなかった。だが、全体を見渡して、クライアントの欲求、要求される打開策であったり、今何をしなければならないのか、今そういった事態に陥っている、最大の要因は、何なのか。根源にある要因の一つは何なのか。それを見つけ出す能力は、完全で、外したことがなかった。

 要求される答えを、瞬時に見破る直感があった。洞察力があった。彼は学校のテストでも、複数の選択肢の中から、一つの答えを導き出すことが、元々得意中の得意であった。設問も読まずに、本文を詳細に読み込むこともなく、ただ全体を一瞬見ただえがけで、答出るといった具合で、彼に言わせると、選択肢など、この世にはないのだということだった。あれかこれかで、迷うことなんてありえないと、ユーリは言う。すべての事に選択肢などありはしない。分岐している道などありはしない。それは、一本の道なのだと。その道を進めば、答えは一つじゃないかと。選択肢に見えるその分岐は、幻想なのだと彼は言う。結局は、どれをとっても、最後は同じ答えになる。じゃあ、最初から、それを選びとればいい。選んでいるのではない。そういうものなのだ。あまりに自然な事柄なのだ。

 彼は労せず、その能力をビジネスとして打ち出すことで、コンサルタント業を始めることになる。やり方はたったの一つしかなく、その一つでさえ、選ばれたものではなく、磨きあげて育て上げたものでもなかった。

 ただの生まれつきの属性であった。


 ユーリは、企業だけではなく、個人コンサルタントもしていた。

 一回一回のインスタントであり、それは、プライベートに関するものに、限定していた。

 夫婦関係のことを相談されたり、日々、頻発する、喧嘩の根源的な要因の特定をしたり、対策としての一つの行動、言動などを、アドバイスすることもあった。旅行先を絞り切れずに悩んでいるといった、どうでもいいことを持ちかけてくるクライアントもいた。それでも、そのひとつひとつに対して、自分の能力の訓練であり、維持のためにと考え、ユーリは、真摯に答えていくのだった。中には、自身の抱える病気のことだったり、余命を宣告されるほどの深刻なケースもあって、しかしそれでも、ユーリは、特にいつもどおりに、簡潔に答えを提供していった。ユーリは当然、案件が大きければ大きいほど、複雑であればあるほど、明確な解決のための、一点。最も重要だと思われる一点を、特定できるのだった。よって、個人的で単純な質問ほど、中心を見つけることに少し難儀してしまった。

 この特質を訓練するために、それらを逆手にとって、受け入れていたのだ。

 あくまで、自分の能力のためだった。持って生まれてきたものを、そのまま放置して、何のメンテナンスもすることなく、都合のよいときにだけ使うといった行為を、繰り返していて、それで最後まで、良い思いができるとは、さすがに考えてなかった。それではいつか見放されてしまう。能力はある時を境に、跡形もなく、消えていってしまう。ユーリは偶然見つけた、この才能を、育てていく必要性を感じていた。たとえ、そうした、ちょっとした努力を続けていたとしても、何の進化もしない可能性の方が、高いだろう。あくまで努力でどうこうできるものでないことは、分かっていたし、傲慢にも、そのような捉え方はできないでいた。けれども、何もせずに、一方的に使い尽くすことが、どれだけ不義理であるか。ユーリは、無意味かもしれない継続を、大事にしていこうと思った。

 ユーリは、高校でも大学でも、ほとんど落ちこぼれであり、勉学にその才能はなかった。スポーツも得意ではなかった。勉学ではない、頭の回転の方もよくはない。就職しても、売り上げに繋がる営業成績が上げられない。開発に携わるスキルもない。語学も不得意。人付き合いも不器用で、異性にモテるわけでもない。何をやっても、平均以下であり、人に教える、何の持ち合わせもない。何一つ、人の関心を得るようなものを持っていなかった。ユーモアもなく、一つのことを貫くといった真面目さや、探求心もなし。向上心を抱くこともなかった。かといって、人助けのためにボランティアをすることもなかった。どれも気は向かなかった。

 そんなユーリは、未来が見えずに、一度だけ、占いに頼ったことがあった。

 人の過去や未来、生まれてから死ぬまでの生涯を一瞥できる人間がいるとしたら、それは占い師だろうと安易に考えた。信じてはいなかったが、一度見てもらうのも、悪いことではないような、気がした。何か、ヒントが得られるかもしれない。ならばと、ユーリはどうせ見てもらうなら、稀代の、ものすごい易者に、判別してもらおうと調べ始めた。ネットから、書籍から、または、直接、知り合いに尋ねたり、ありとあらゆる情報の中から、特にレベルが高いと評判になっていた一人の中年女性に、ユーリは当たりをつけた。それが、セレスティアル景子だった。ヘラクレス明子を母親に持つ、占い師だった。母親の方は、過去に総理大臣や大企業の会長、歴史に残る大画家、音楽家のアドバイザーとして、活躍した後、実娘の景子に、すべてを教えこんで、自らは、すでに引退の身であるということだった。明子は、一般人を相手に、商売をすることはなく、浮世離れしていく地上の支配者のような人間と個人契約を結んで、お抱えの顧問として、活動をしていくのみの、スタイルを貫いた。景子の方は違った。彼女は、一般の普通の悩める男女の力になるために、低料金で来やすい雰囲気を作ることに特化していき、見る時間も短く、より、たくさんのお客さんの役に立つための工夫が、随所に取られていた。ほとんど、流れ作業のように、長く話し込むことはなく、あらかじめ質問を一つに絞ってくるよう求め、別の質問があるのなら、また改めて、別の予約をとることが義務付けられた。景子からの回答も、実に端的で、それ以上、質問を返すようなこともない内容だった。それでも、人というのは、質問を返したいものだった。コミュニケーションを何度も行き来させることで、より親密になったかのように、感じようとする傾向があった。そして、その繰り返しは、回答をより明確にしていく行為に他ならないと信じこんでいる。だが、景子は、その冗長性を許さなかった。すっぱりと、鉈で切り落としてしまうのが、この女性のスタイルだった。母の明子の方は、ひどく肥満だったらしいが、景子の方は、細身で背が高く、白い肌は発光していて、目鼻立ちは、女優のそれでもあった。だが、女性としての魅力に付け入る男は、誰もいないようであった。セレステイアル景子は、五分にも満たないその会合で、すべてを終わらせた。二度目はなく、一度目ですべてが解決してしまう。セレスティアル景子に会う二度目は、それは、実質上は一度目であって、一回完結のスタイルは、二度目でも初対面であるかのような印象を受けた。常に一度で、リセットされる。時間に繋がりはなかった。時間が経過しているという感覚がなくなる。景子はまったく時間の流れから閉ざされているかのようにも見えた。その五分だけがかろうじて、前に進んでいるかのように感じられた。だがそれも、五分後に、部屋を出ていくときには、完全に最初に戻ってしまっている。来たその瞬間に、綺麗に重なってしまっている。来て話したことが、夢の中の出来事のように、すぐに感じられてしまう。夢の中に現れた彼女が、答えをくれたかのような。あとは帰って、実行するだけであった。彼女のスタイルは、質問に対して、その問題が起こっている根源的な要因を一つ提示し、まず何をする必要があるかだけを、一つ提示する。それをワンセットとして、受けとることになった。

 このスタイルを、実際に、目の当たりにして、ユーリは非常に感じるものがあった。そして、彼女の回答にも、それは反映していた。ユーリは言った。これまでの人生の中で、何をやってもうまくはいきませんでした。うまくいくものが、僕の中には、何もないように感じるのです。その事実を受け入れつつも、ひとつでも秀でたものが、人にはあるのではないでしょうか。教えてください!自分では、簡潔にまとめたつもりだった。景子の反応からして、それでもかなりの、冗長をきたしていたようだ。彼女は答えた。あなたが何をやってもうまくいかないのは、非常に重要な天からの啓示ですと彼女は言った。天、と彼女は言ったのだ。その言葉に馴染みのなかったユーリは、少し面食らった。天からの啓示だと、いきなりそう言うのだ。天はあなたに指し示しているのです。あなたが望む、すべてのことを。それを達成するというのは、あなたの運命に反しているということを。あなたは天に守られているのです。天がうまくいかせないように、あなたをガードしているのです。では、天は、あなたに何を望んでいるのか。あなたが望んでいることではない。あなたが望むことというのは、そのすべてが間違っています。そのことを示しているのです。あなたが望むことはやめましょうと。まずはそれからです。これのどこが、簡潔な回答なのだろうと、ユーリは心の中で思う。これだと、ずばり一言で提示するのが、この女性の真骨頂なのではなかったのか。こんなにも長々と話をしている。あなたはすべてをお持ちです。あなたは望まないことです。天があなたに何を望んでいるのか。それが重要なことなのです。あなたの意思は関係がない。あなたの意思そのものが邪魔なのです。それがあなたの実体です。今のあなたの状況です。さてと、セレスティアル景子の語調が、突然変わった。あなたは、これから、人の役に立つ仕事をします。あなたは私のように答えを求められるようにもなります。相談事をされる人になるということです。そして、あなたは、的確な答えを提示できるようにもなります。相手が、最も必要とするであろう一点を、あなたは見つけ出すことができるのです。何の苦労もなく、提示してあげることができる。あなたの元には、あなたと出会うことが予定されている人たちが、次々と現れ出てくることでしょう。あなたが探しにいく必要はありません。あなたはただ、あるべき場所に居ればそれでいいわけです。ある種、占いという形ではないのですが、私と似たような事をしていくことになる。私とあなたは、ある意味同志なのです。そういった因縁があるのです。あなたは人の役に立つ。そして、それは、あなたの存在する場所を、この世に確保することにもなる。鍵となるのは、あなた自身の意思を、外すことです。あなた自身が望むことをやめることです。それは全部、間違ったことなのです。あなたが欲しいと、どうしても得たいと、奮闘しそうなことを、ひとつ残らず、丁寧に自覚していくことです。ただそれだけが、あなたの道を滞りなくさせていく、鍵なのですから。自覚することで、それは消えていきます。あなたは、それを望むことはなくなります。望むために努力や行為をしていくということが、すべてなくなります。

 得られないために、怒りを感じたり、得ている人に、嫉妬を感じたりということが、劇的になくなります。それが鍵です。ご活躍を、お祈り申し上げます。情報の全体を、一瞥することです。あなたが消えた、その状態で。

 答えはそこにあります。探す必要はありません。

 すでにそこにあるのです。五分が経ちました。お帰りください。

 ユーリは、部屋の外にあっさりと出されてしまう。過去のシーンが、頭をよぎってきていたユーリは、いつのまにか、アンディの会長室のなかに入っていた。

 ドアの隙間は静かに開かれ、その身をするりと、通過させていた。



 アンディは、部屋の中の気流が、わずかに変わっていたことに気づいた。

 少しだけ濃く複雑になっていた。すぐには気がつかなかった。

 何故か、その男の輪郭を、鮮明に、視覚で捉えることができなかった。

「それで、何をしに、私の前に現れた?」

 ゴルドの低くて、太い声が鳴り響いた。「何が望みなのだ?」

「望み?そんなものは何もないわ。私はただ、今嬉しいの。嬉しくて仕方がないの。私に付きまとっていた影がいなくなったから。完全にどこかに消え失せてしまったから。ずっと私を狙っていた。私の命を狙っていたその影が、消えたの!ずっと、あなたじゃないかと思っていた」

「それを、確かめに来たのか?」

「そうじゃない」

「私が、君を殺そうとしていた?そんなはずはない。私は君のことなど、今日、ここで会うまで、忘れていたのだよ!すっかりと。はははは。ちょっと、自意識過剰なんじゃないか?私が君を?何故。何故消そうと?邪魔なのか?邪魔になるほど、君には、存在感があったのか?私のこれからの仕事の、差し支えになるのか?冗談じゃない!君なんて、とうの昔に忘れた」

「なんですって!」

「嘘をついても、仕方がない」

「私にしたことをすべて、洗い晒してもらいたいの?今ここで。私たち以外の、人間を証人にして」

 坂崎エルマは、女性のそれであるかのような、ヒステリックさを全面に出していた。

「確かに、二人のあいだには、色々なことがあった。そのことは認めよう」

 ドクターゴルドは、傲慢に、さらにわざとらしく、肉付けしたような言動をとった。

「所詮は、二人のあいだの秘め事だ。そもそもが。情事の延長だ。これは、二人だけの世界だ。二人以外に知りえることなど、何もないのだ。何を言ったって、構わない。他人に何を言ったって、変わる過去など何もありやしない。どんな事であっても、あれは二人の思い出だ。大事に持っていようと、さっぱり忘れてしまおうと、なかったことにしようと、ないことをあったかのように思おうと、何でも構わない。自由にしたらいい。そうだろ?そして、誰も、この秘め事に関しては、確定させることはできない。好きに暴露したらいいさ。くだらない話さ。プライベートなことを公にして、いったい誰が、信用するんだろうな。当事者でもないのに。世に出回っているそういう類いの雑誌と、大差がない!」

 そう言って、ドクターゴルドは、アンディ・リーの方を見た。

「そこのアンディくんも、誰の暴露なのか、世間をずいぶんと賑わせていたよ」

「わたしよ」と坂崎エルマは言った。「あれは、私が書いた記事なのよ」

「ほおっ」ゴルドは意外にも、驚いた表情を浮かべた。

「あれは、私が書いたものなのよ。誰の聞き取り調査も、していない。誰かの密告ではない。私がアンディ氏の後をつけて、逐一、書き留めたものでもない」

「想像で書いたのか?これは傑作だ」ゴルドは笑った。「君には、小説家になる才能があったのか」

「誰も、暴露はしていない・・・」アンディは呟いた。

「君という人間は。金になるなら何でもやる。そうか。金か。金をせびりに来たんだな。生活費に困ってるんだろ?また、ホステスをやればいい。それとも、体を売る方か?しかし、今となっては女なのか男なのか」そう言いかけたところで、止めた。

「どうして、俺のことが、そんなにわかる?」アンディは言った。「俺意外には、知り得ない事実も、書かれていた」

 坂崎エルマは、沈黙した。とそのとき、アンディは、エルマの背後にいる輪郭に焦点があった。

「ユーリじゃないか!どうしたんだ!急に!いつのまに!どうやって、入ってきた?驚いたな。全然、気づかなかった。誰も気づかなかった!そうだよな?」

 三人は、一斉に、新しい訪問者に目をやった。

「ご無沙汰しております」ユーリは、深々と礼をする。初めましてと言って、ゴルドに手を差し出す。握手を交わし続け、坂崎エルマとも交わした。

 張り詰めた空気が、一気に緩和へと向かった。

「そうだ、ユーリ。君が担当したらいい!測量部門。新しく立ち上げた部署だ。世界の空間の変異を、観測していく部署だ。そして、事業戦略と連動させて・・・、おい、聞いているのか?」

 ユーリ・ラスは、坂崎エルマのことを、ずっと見ていた。

「なるほど」とアンディは言った。「君も手伝うんだ。ユーリの部下になるんだ。測量部門で、二人は働け。いいコンビになる。その能力を生かすんだ。あんな記事を書いて、売ってる暇はない。うちの社員になるんだ。高い給料を出す。いいな。上司はこの男だ。あのゴルドではない。関わりたくなければ、関わり合わなくていい。何か伝言があれば、俺に渡してくれたらいい。俺経由で、彼に伝える。決まりだ」

 アンディは、坂崎エルマに、右手を差し出した。そして、坂崎に、ユーリラスと握手するよう求めた。二人は素直に従った。

「これで、一見落着だ」

 アンディは、謎の四人の会合を締め括るかのように、そう言い放った。

「実りの多い再会劇だったな」と自己満足を見せ、戸惑う三人をよそに、一人退出してしまった。アンディの部屋に、三人は、突如取り残されてしまった。

「まあいい。好きにしろ」

 ドクター・ゴルドは、投げやりに言い捨てて、そして去っていった。

 残された二人は、濃淡の極端に薄くなった広い空間で、所在なげに立ち尽くしていた。

























2048 11





















 広告業界にも、キュービック化の波は、大きくうねりを開始し、世界を席巻し始めた。

 街中の広告が、次々とキュービック化して、人々の神経を刺激していた。キュービック・テクノロジーがあらゆる場所に展開していて、人々の意識の、キュービック化への入口となっていた。これから育っていく子供は、生まれながらにして、キューブの森の中にいることになる。次第に、旧型の二次元広告。三次元広告は、姿を完全に消していくことになる。書籍はすでに、旧型を見ることはなくなった。コレクションとして保存しているマニアが、高値で取引をする時代は、もう少し先だ。たとえ、二次元三次元のレベルで表現したものであっても、時間に耐えうる、時代を超越した、心の世界の執着から、少しでも飛び出ようとしていた作品しか、マニアの間でも、取引される価値は見いだされないだろう。広告業界が、キュービック・テクノロジーを、全解禁したことで、資本主義そのものが、完全にキュービック・テクノロジーで一気に染まっていくことになった。複数の情報を同時に処理することなく、メッセージを受信することはできない。複数の視点で、複数の次元から、一ヶ所に、光を照射するようなこの方法は、その一ヶ所に浮かび上がる情報の背後にある世界をも、複合的に表現していき、メッセージを越えたメッセージをも、総合的に租借するよう、人々を導いていく。

 人間の認知能力の改編を、促していくようになる。それが、スペースクラフトバイブルの次なる進化に、影響を及ぼす。所持者が、自ら、スペースクラフトに改編をもたらすのだ。持ち主以上に、スペースクラフトが、進化していくことはない。

 キュービック・シリーズは、第一弾のDという作品に続いて、第二段、第三段が、次々と発表され、複合的な大ヒットを記録していた。第二段は、マップルオブ・ザテンプルというタイトルで、リリースされ、第三段は、バルドオブ・ザテンプルというタイトルで、リリースされていた。寺院マップルと前者は呼ばれ、これは、寺院の歴史に関する本であった。寺院の成り立ち、変遷、そして、今建立しているもの。その種類。タイプ。見分け方。さらにこれから、建立が予定されている寺院。建立が予測される寺院。その意味。存在意義。残る寺院。淘汰される寺院。寺院が指し示す人類の未来。そのガイドブック。目に見えるレベルのことから、見えないレベルのことまで、全てが網羅されている情報群。瞬時に、読者の脳にインストールされる。

 読者そのものは、最初の瞬間に、全てを理解する。

 細胞は、全てを吸収している。だが、本人の理解には、個人差が現れる。

 キュービック化は、人それぞれのペースで進んでいく。旧型の平面的な因果関係による理解、論理的展開でしか、把握することのできない、部分的な知性では、まずほとんど読み取れないといっていい。何が書かれているのか、どんな情報が埋め込まれていたものなのか、何もわからない。

 しかし、これからは、キューブの森の中で文明社会は運営がなされていく。

 キュービック化の流れは、すべての人の中で進行していく。今は、反応の早かった人間から、キュービック化が、急速に起こってきている。寺院もまた、旧型のものは存在意義をなくし、人々は、物理的に離れていくことだろう。運営がうまくいかなくなり、朽ち果てていくことだろう。キュービック化していない寺院は、消滅していく運命にある。すべての物事に、共通することだが、完全に入れ替わるまでには、まだだいぶん、時間の猶予がある。そして、キュービック化している寺院というのは、確実にあり、それを見分ける、見抜く、バイブルとしての本書、ということだった。

 キュービック化した寺院を見つけ、そこに通い、体感し、何度も体感していくことで、本人のキュービック化は、劇的に加速していく。このキュービック化の度合いは、そのまま社会の階層を、綺麗に形成していくことになるだろうと、筆者である史実家は語っている。それは、経済的自立能力にも、そのまま反映するし、知性そのものの表現であり、哲学、死生観の深まりをも意味していて、個人における宗教の消滅、芸術の消滅をも、意味しているというのだ。第三段の書籍は、そのキュービック化した寺院の究極の形としての発露を予言するもので、その設計図を示し、その寺院において体験することを、先取りするよう情報として、提供しようという意図が感じられた。

 第一段のDという人物は、その寺院を指南していくガイドのような役割であって、二冊目以降には、姿を現さなかったが、常に、このDの影が感じられ、彼がやはり語り手として、情報を開示しているような受信が、意図されているようでもあった。Dの存在を提示するための最初の書であり、これ抜きには、やはり続編がどれだけ展開しようが、それは土台のない砂上の城のような存在に、なってしまうのかもしれなかった。


 アンディは、自宅に、ユーリ・ラスを招待した。部外者を招き入れた、初めての機会だった。ユーリは、その屋上庭園のような世界に感嘆していた。グリフェニクス本社の屋上から、GIAと言う専用の乗り物で、上空に移動していくのだった。自動操縦のGIAで、二分の飛行だった。グリフェニクス本社の真上の空に、こんな空間があるとは、ユーリは思いもしなかった。広い庭には植物が咲き誇っていて、鳥や虫の鳴き声も聞こえた。風が吹くと、花の匂いがユーリの鼻をかすめた。

「あなたの自宅なんですね」ユーリはアンディに言う。

「妻以外では、君が初めてだ」

「えっ?奥さんですか?奥さんが居たんですか?」

 ユーリは、アンディのことが書かれた記事を知っていたので、一瞬、冗談を言ったのかと思った。

「もう、存在はしないんだがね」とアンディは言った。

 ユーリは、何も答えられなかった。

「だいぶん前に、死んだんだ。突然死だった。寿命だったのだろう。病気でも事故でもない、予測不能な、本当に突然の」

「そうなんですか・・・」

「彼女との新居が、ここだった。ほんの一ヶ月くらいだったかな。新婚生活も、一年はなかった」

「そうですか」

 確かに、この場所には、人の気配が感じられなかった。出入りしている人間を、想像することができなかった。

「どうして、ここに?僕を?」

「秘密中の、秘密の会談を、するからだよ」アンディは答える。

「会長室では、セキュリティとしては、完璧ではない。誰に傍受されているか、わからない。念には、念を入れての、この場所だ」

「いいんですか?」

「ああ、いいさ。話を終えたら、少し、庭を堪能していったらいい。地上ではすでに、絶滅している品種もあるだろう。自然は極端に減り、種子の多様性は、急激に消滅してきている。その前に移した」

「素敵な場所です」

 アンディが、ここで毎日生活しているとは、どうしても、現実味が沸いてこなかったものの、GIAで二分の行き来をするだけの利便性を、日々使わないないわけがないと、ユーリは思い直した。

「どうだ?最近の事業全般を見て。全体を見たときに、どう思う?何が鍵に見える?これからどうなっていくと思う?どう展開していくと思う?どこに終息していくと思う?」

 アンディは、最初から、核心に迫る一つの答えをユーリに要求していた。

 ユーリは、少しも考える様子なく即答した。

「急激な圧縮でしょうね」

 アンディは、ソファーに座り、腕を組んだまま、目を閉じていた。

 反応はなかった。聞いてないようにも見え、聞き流しているようにも見え、深く租借している最中のようにも、ユーリには見えた。

 アンディは、そのまま、時間が止まってしまったかのように、微動だにしなかった。

 彼をとりまく空気は、凍結してしまっている。

 ユーリは話しかけることができなかった。次に訊かれる質問を予測し、答えを準備しようとしたものの、そんな回答の仕方のほうが、不可能なことであった。

 セレスティアル景子に言われた、あなた自身が邪魔なのだという言葉が、すでに血肉と化していた。

「そうか」アンディは目を開けて、ユーリをじろりと見る。「いつだ?」

「半年後、くらいでしょうか」

「半月後は、無理か?」

「人工的に引き起こすものではないですよ」

「だろうな」

「それに、時間のことは、不可抗力が起こりすぎます」

「まったく、予測はつかない」

「時間のことは」

「でも、時空って、言うくらいだ」

「というと」

「空間の方を予測できれば、それは必然的に」

「ええ」

「そういう意味での、測量部門の立ち上げだ。君がトップだ。部下には、あの坂崎エルマ」

「彼女は、おそらく、キュービック化が、最も早く脳内で起こった人の一人ですね」

「エルマの話を真に受けるのなら、彼女のからだの中で、キュービック・テクノロジーが開発されたってことだからな。ゴルドによって。残像として、照射されてしまったって」

「あの二人の言葉を、信じれば」

「そう。事実は、闇の中」

「でも、彼女の能力は、確かにすごいですね。何でも読み取ってしまう。一つの事実、一つの現実、一つの状況から、彼女自身がキュービック化させて、その背後を含んだ大きな空間を読み取ってしまうことができる。その当事者が、知らないことまで。彼女は知り得てしまう能力がある。彼女はその能力で、俺の私生活を読み取っていた。試していたんだ。自分が得た能力を、現実で試していた。どうして僕がその対象だったのだろう。彼女は、ゴルドに近づきたかった。直接ではなく、間接的に。そして、傍にもいきたかった。僕が叶える役割を、担ってしまった。君との出会いも、そこでは起こった。どうだ?いいコンビになりそうか?」

「一つ、提案があるんです」とユーリは言う。「彼女に、これは、直接関わることですけど。その能力。今は読み取ること、だけですよね。それを作り出す能力として、進化させていく必要性を感じるんですよ」

「おお、なるほど」

「それを、レクチャーしていく必要性を、感じるんです」

「ただ、読み取るだけではなく、作り出せる能力か」

「はい。私にはない、能力です。そして、彼女には、そういった能力もまた、潜在的にはあるように思うんです」

「引き出せるのか?」

「わかりませんが、やってみる価値は、十分あると思います」

「本人は、どう思ってるんだろうな」

「もうすでに、次なる次元に、進みたがっているように、私には見えますね。彼女の本能は、すでに。彼女の意思とは別に」

「わかった。それは、任した。で、僕の方はやはり、この事業の拡大、事業同士の化学反応、爆発による、旋風のさらなる引き起こしに、邁進していればいいのだろうか。最も、何をするわけではなく、ほとんど、眺めているだけなのだが」

 アンディは、言った。

 ユーリは、何度も頷いた。

 そして、その頷きは、さらなる頷きをも引き起こしていき、ユーリは、最後の頷きへと到達した。

「そうです。今となっては、あなたは、ただ眺めているだけでいいのですね。見下ろしているだけで。この場所で。そう、この位置から」

 ユーリは、アンディを見つめ、アンディの秘密を深く理解したかのように、再びもう一度だけ頷きを見せた。



「ああ、すまんな。そうだ。来週はキャンセル。ちょっと、いつ終わるのかはわからない。ごめん。埋め合わせはするから。そのあと、旅行にでもいこう。海外でもいいぞ。じゃあ、そういうことで。納期が近い。急ぎだ」

 D・Sルネは、通信を絶った。相手は、関根ミランだった。アンディ・リーから突如、膨大な新たなプログラミングの仕事が入ったのだ。その多さは、これまでルネが経験したことのない規模だった。これが全て作動してしまえば、いったい何が起こるのか。この世の地形がすべて変わってしまうのではないかと思うほどに、巨大で、質量が、極めて重かった。

 交際相手の関根には、ほんの二週間ばかりだと匂わせたが、これは半年経っても、終わることがなさそうに見えた。一度、プログラミングモードに入ってしまえば、同質のもとでは、途中で中断することはできなかった。そう思うと、ルネは一度、関根と会っておくべきだなと感じ、すぐに電話をかけ直した。これから食事をしようということで合意し、関根の方が、店を指定してきた。すぐに行ってみると、そこには加穂留という小さな表札が付いていた。どこかで聞いたことのある名前だった。以前にも同じ名前の店に行ったことがあるような気がする。けれどもここではない。チェーン店のようには見えないから、同じ名前の、別の店ということになる。カウンターだけの小さな店だった。関根はすでに来ていて、カウンターを挟んで、女将らしき人と会話をしていた。

「先に飲んでいてくれて、全然よかったのに」とルネは言った。

「仕事、大変そうね」

「リー・グループからだよ」

「そっちは、全然関係ないからね、私は。ナルサワトウゴウが、いなくなってからは、私の方は暇が多くなって。あ、そうそう。ナルサワトウゴウのさ、こちら幼馴染みの加緒留さん。前も、店をやっていたんだけど、畳んじゃって。でまた、再開したの。別の場所で」

「ああ、それで、前にも来たような気がしたんだ」

 ということは、この女将とは、前にも会ったことがあるわけだよな、とルネは思ったが、全然覚えてなかった。

「加緒留さんの店をよく、ナルサワトウゴウとの情報交換のときに、利用していたのよ。プライベートで来たのは、あなたと一度きりだけど。仕事では何度も」

 関根ミランは、女将の加緒留に目配せする。加緒留は微笑んでいる。穏やかな女性だなと、D・Sルネは思う。控えめで、言うことはじっくりと聞いてくれそうだ。それでいて、冷静で、厳しい意見も柔らかに言う。甘えたくなる雰囲気がありながらも、思わず、居ずまいを正してしまうような芯を持っている。

「ずいぶんと、長い仕事に入ることになるから、伝えておこうと思ったことは、伝えておこうと思って」

 関根ミランは、何度も、加緒留の方を見た。加穂留はすでに、関根の方は見ずに、料理の準備を続けていた。

「ナルサワトウゴウの事件の警察の捜査は、進展を見せず。遺体も今だ、発見されてはいない。確実に、致死量のナルサワの血液が、発見されていたものの、死亡は確定できず。その状況は続いている。そしてね、私の元には、差出人不明の手紙がやってきた。手紙というよりは、文字の羅列。私宛てだった。何とそれは、加穂留さんにも。全く同じものだった。そちらも差出人は不明。挑戦状?脅迫状?予告状?招待状?わけがわからない」

「ちょっと見せて」D・Sルネは言った。

 その、両開きのハガキのようなものは、すでに、カウンターテーブルの上に乗っていた。

 ルネは手に取る。


 ナルサワトウゴウは、確かに預かっている。今はまだ、回復の途上ではあるものの、近い将来には、完治することは間違いなく、本人もまたそのつもりだ。それについては、安心してほしい。保証する。ただ、細かいことは言えない。いつ復帰するとも言えない。そして、どのような処置をしたのかも。

 こんな目に合わせる人間には、相応の報いがあることだろう。そのような人間を生んだ土壌、この歪んだ世界には、当然の報いがあることだろう。責任は、個人に限定することは許されない。それは共通の時空に存在する、この場合は人間に値することを、よく理解してほしいと思う。生み出した芽は、必ず花を実らせ、反転する。その果実を是非、受け取ったらいい。ナルサワトウゴウは、預かっている。時が来ればわかるだろう。彼の存在を再び確認することができるだろう。ナルサワトウゴウは、今、回復の途上にある。


 文言は、すべて、パソコンで打たれたものだった。名前もなく、文章の中には個人を特定できる何の情報も記されてなかった。これが事実であるのかもわからない。しかし、ナルサワトウゴウの事件を認識している人間だ。そして、ナルサワトウゴウの人間関係を知っている人物でもある。仕事上のパートナー。さらには、プライベートで繋がっている、幼馴染みの女性。その両方のラインを、把握しているということを、これはアピールしている。D・Sルネは思った。ただ、目的もわからなければ、たとえこれが事実だったとしても、我々にとって、味方なのか敵なのかが、わからないということだ。どこに属している存在なのかすらわからない。この文言を送ってきた理由さえ、わからない。目的があることを、匂わせながらも、その目的を雲散させている、いくつかの仕掛けが、見え隠れしているようで気味が悪かった。

「何が、言いたいのか、わからないね」

 D・Sルネは、関根に文言の書かれたハガキを、返す。

「これが、郵便で?」

「郵便じゃない。直接の投函よ」

「あなたも?」アンディは、女将に訊ねる。

「そうです」と加穂留は答える。

「家もすべて、知ってるわけだ」

「監視されているみたいで怖い」関根ミランは言う。

「調査してみたら?」ルネは言う。

「馬鹿なこと言わないで。依頼者のいない調査は、できないわ。足を突っ込んだら、向こうは、牙を剥いてくるかもしれないし。迂闊なことはできない」

「じゃあ、放っておくしかないね」ルネは、女将の方を、ちらりと見た。

 彼女もまた、不安の色が隠せていなかった。D・Sルネは、加穂留を慮り、発言の内容を考え直した。

「ナルサワトウゴウは、生きている可能性が出てきたんだ。それは喜ばしいことだよ。どんな理由にしろ、彼は生きている可能性がある。五体が、満足かどうかはわからないが、とにかく、元に戻る可能性がある」

 ほんの少し、加穂留の皮膚に、赤みが戻ったように感じた。

「また、次の予告状が、来るに違いない」

「私たち、脅されているの?何なの?」

「狙いはわからん」

「警察に持っていった方がいいのかしら。でも、報復が怖い。それに、警察が本腰を入れて、捜査の再開をするようには思えない」

「そうだね」

「警察は、ほとんど、打ち切っていると思う」

「実質上」

「何故か、関わりを、最小限にしていていた節がある。すぐに、処理してしまいたかった事情のようなものを感じた」

「何か裏があるな」

「警察に報告するのは、やめましょう。当分、私たちだけの、秘密で」

「また何かあったら、ここで三人で、話をしよう」

 D・Sルネはそう言うと、席を立ちかけた。「悪いな。しばらくは、連絡は繋がらないと思うけど。直接、君たちに、危害が迫ってくることはないだろう。もし何かあれば、伝言を残しておいてくれ。それは毎日確認している」

「わかった」

 関根は、加穂留で食事をしていくということで、ルネは一人、店を後にすることになった。また今度、ゆっくりと食事に来るよと、女将に言って静かに退席した。

 ルネは、夜道を一人歩いて帰った。何かが蠢く気配は、ないだろうかと神経を尖らせてみたものの、不穏な動きは何ひとつ、起きてはこなかったし、自分の身に直接、何かが迫ってきている気配もなかった。ただ一つ、ルネは、これまでやってきた仕事の一つ一つにおいて、プログラミング同士の背後にかけた、裏のプログラミングの蓄積のことを思った。

 現実的には、何の現象をも、引き起こさなかったそれらの裏プログラムが、その重なりの臨界点に、突然到達して、それをかけた自分に反転して、迫ってきているように感じられてきたのだ。どこかに、消えてなくなってしまったのかと思われた、自分の悪戯に、趣味に、ちょっとした遊びに、現実が大きく反応して、一度風穴が空いてしまえば、これまでの全ての蓄積が、縦横無人に、互いに結び付きを始め、化学変化をもたらし、急速な連鎖のもとに、劇的なエネルギーを創出している様子が、目に浮かんでくるようでもあった。ただの気まぐれで、しかも、ランダムに行ったことではあったが、それは、この自分にとってのことであり、この世界においては、全く偶然ではない、来たるべき絶妙なタイミングで、絡み合い、在るべき絶妙なタイミングで、そこにあり、それを繋ぐ手先のような行為を、自分が果たしているかのようでさえあった。

 ただの趣味であり、気晴らしであり、ストレスの解消、人生の不条理に対する、ささやかな反抗、生きることへの反逆行為のつもりが、実は、大きな視点においては、青写真がきっちりとある、事柄であって、その片棒を知らぬ間に、担いでいたようにも感じるのだ。主権はまるで自分にはなく、ただ、無意識であったことの弱味につけこんだ、確信的な操り行為であったかのような・・・。

 ルネは突然、怖くなってきた。適当に選んだことが、全て、大きな青写真の中では精妙に決められたことであって、何ひとつ寸分狂いなく、全てのことに意味があるような、そんな気が突然してくるのだ。

 誰がその青写真を描き、実現しようとしているのか。考えただけで、頭は混乱しそうになる。しかし、それを実行に移すためには、あらゆる手先が必要なわけで、それは、その場所を偶然通った人間に、割り当てられるような。そこをたまたま自分が通った。通ってしまえば、無意識に、その思惑どおりに、動いてしまうといった必然だ。これだけ、地上には人間が生きていて、生活しているのだ。その手先の候補は、ほとんど無尽蔵だ。人材に困ることなどない。でももしそうなら、別に、この自分でなくとも、ちょっとだけズレたことで、偶然そこに居合わせた人間が、その思惑に操られ、事を起こしていた。結局は、誰がやっても、その青写真は、実現される方向で動いていくのかもしれなかった。

 ルネは、今度は、胸を撫で下ろした。ほっとしていた。よくわからない心の乱気流を、何度か繰り返すうちに、だんだんと、冷静になってきていた。あの文言を読んだからなのだと思った。あの文を読んだことが、引き金となって、心が乱れているのだ。またもや、誰かに動かされているのだ。何かの力に動かされているのだ。操られているのだ。ルネは自嘲した。こんなことの繰り返しなのだ。自分という人間は。今までも。これからも。情けなかった。そして、こうも感じ始めた。この心に沸き起こるすべてのことは、あるいは、誰かの何かの思惑の元に、必然的に沸き起こってくるものではないのか。これまで、心というのは、自分の所有物なのだと思っていた。自分の心にアクセスしているのは、この自分しだけしかありえない。アクセスできるのは、この自分しかありえない。心とは、自分の輪郭の、その内側にしっかりと収まっているものだと思っていた。ところが、今の感じ方は違っていた。心は、この自分の輪郭をはるかに凌駕するものなのだ。そして、ここに、アクセスできている自分とは、非常に、微々たるもので、卑小な領域にしかすぎない。ほとんどは、自分以外の部外者で、占められている。それは無法地帯であり、出入りは自由。どんな蹂躙も自由に行われている。すべては操られているといっても過言ではない。そして、この心全体は、そもそも、自分のものではないのだ。自分とはまるで関係のない、繋がりが少しもない、異物にすぎないのだ。自分だと思っていたものは、全然誰のものでもない、異物であった。突然よそよそしく、ルネには感じられていった。他人が自分の中にいるような。大勢いるような。そして、そう思えば思うほど、傍には居たくない。できるだけ離れていたい。近寄りたくはないと、強烈に忌み嫌いだしていった。

 D・Sルネは、その自分の中にいる他人と、どんどんと解離させていった。この夜を境に。切り離すきっかけが、この夜にはあった。そしてそれは、切り離したというよりは元々、別物で、遥か遠くに存在する別物であって、関わりさえなかったものかもしれない。そう思うようになっていった。

 風が冷たく、秋はずいぶんと深まってきていた。ルネは、足早に家に帰り、そして翌日からの徹底的な仕事を思って、早めに風呂に入り、寝た。



 ユーリは、自宅への帰り道、久々に、夜風にあたりながら街の様子を眺めていた。

 アンディ宅からの、地上への帰還に、身体を慣らすためだった。ずいぶんと気圧に違いがあった。何故か、こうして地上に来たときには、息苦しくなっていった。地上から、向こうに、着いたときには、身体は何の反応も示さなかったのに。アンディがああいった、住まいを持っていることには驚いた。本社ビルに住まいもあるということになっていたからだ。あの中に在ると考えるのが、普通だった。まさか、天上にあるとは思わなかった。垂直に上昇した場所にあるとは、知らなかった。自分は信頼されているから、招待されたのだろうか。本当に盗聴を警戒したことで、あの場所に招待されたのだろうか。疑問だった。

 それでも、会長の最大の好意には、しっかりと、報いたくなる気持ちにはなっていた。

 ユーリはアンディに死の寺院の建築を提案していた。今後、最大級に、アンディの事業が広がりをみせ、そのそれぞれが急拡大をみせていき、互いが連動し合って、さらなる思いもよらない展開や現象を、引き起こしていくことで、その行き着く先で、急激な圧縮現象が起こる。

 この地上の一点において、急激な縮小現象が起こることを、ユーリは示唆した。

 いつ起こるという時期の問題ではなく、それは、アンディの事業の拡大が終了した、その瞬間をもって、引き起こされる出来事でもあった。拡大と旋風、地上を網羅する、その張り巡らされる帝国の下地が、完成された瞬間に、つまりは時間というのは、その始まりから終着点までの距離であり、ギャップのことだった。

 我々の時間の推移に、置き換えてみると、ずっと先のことではあったかもしれないし、ほんのすぐ先のことであるかもしれないと、ユーリはアンディに語った。


「起きない可能性は、ないんだな」アンディは訊ねてきた。

「と申しますと?」

「僕の事業は、いつまでも、完結することがなく、よく言えば、ずっと、発展途上を・・・」

「ありませんね。終わりは必ず来ます。あなたに作為は必要ないし、またそうすることもできません」

「僕の手は、もうとっくに、離れていると」

「いえ。まだ、離れていません」

「手綱は、ここにあると」

「そうです」

「そういった感覚は、すでに、ないんだがな」

「もっと、感覚を研ぎ澄ましてみることですね。まだ、やりきっていない、まだ、残り火が燻っている、そこを、よく見てみることですね。結局、あなたがやるべきことというのは、もうすべてが、決まっているわけですから。気づかぬふりをして、回避したり、のんびりと、遠回しに事を進めたり、あるいは、全部を最初から把握して、同時連動的に一掃してしまうことだって、できる。結局は、いずれにしても、全部、やることになるんですから」

「自分次第か、それは」

「あなたの、匙加減ひとつです」

「むなしい、意思の発動だよ」

「ええ。時間というのは、それぞれの、人の気づきと、実に関係してますからね」



 アンディは、ユーリと過ごした「時間」の余韻を、残しながら、眼下の世界を見つめていた。

 わずかな期間しか、共に生活することのできなかった女性に思いを馳せながら、戻らない時間を、懸命に埋め尽くそうとしていた。

 ユーリの死の寺院構想は、聞いていて、まさに、クリスタルガーデンに関する自分の考えと、ほとんど一致していた。

 ユーリはやがて来る、世界の収縮期において、その期間を無傷で通過できるよう、訓練施設が必要だと言った。その期間、生き物を含む物質は、死を体験する。

 一度死ななくてはならないのだと、彼は語った。それは、実際に死ぬこととは、掛け離れているかもしれないものの、そのことを知っておかなければ、本当に肉体は死んでしまうこともありえる。それまであった、生きとし生けるものは全て、消滅してしまうといった、事態を生むと彼は言った。

 意識の訓練。つまりは、予行練習を重ねる必要があるのだと、彼は言った。

 その施設が、是非とも、必要だと。それも複数。あればあるほどいい。人々は、すぐに始めるべきです。死の寺院。死をもたらす寺院ではない。死んだ人間を、運び込むための寺院でもない。死の予行をする、寺院。死んでいくその前後における過程を、なぞるための寺院。そんなものは、どこにもない!

 寺院というのは、死んだものを弔うための場所。まだ生きている人間が、死者に想いをはせる場所。この世からあの世に向けて、祈りを捧げる場。つまりは、ここにはいない他者のための場所だ。この自分が、今は亡き妻に、意識を飛ばしている現状に、ぴたりと重なりあう。寺院というのは、本来そういうものだ。だが、ユーリの言うそれは違う。

 死者のための寺院ではない。他者のための寺院ではない。まだ生きている自分自身のための寺院だ。

 そして、死を通過していくための寺院。まさに、焦点は、この自分に合っている。他の誰でもない、自分だ。「逃れることのできない死だからこそ、誰にとっても、この新しい寺院は、必要なものとなります」とユーリは言う。

「誰しもが、予行をしておく必要がありますからね。突然、訪れる、通過するべき状況のために。今がいい機会です。この世界全体が、大きく改編される、近い未来の状況を、利用するべきです。そのために、我々は、新しい寺院を建設して、無償で提供しておく必要がある」

「その寺院というのは、あの二冊目の、キュービック本の内容に関係があるんだよな?君の話に実に似ている。寺院、そして、バイブルは、すでに、今の世界の現状に全く適合していない。まったくの、無意味な化石となっている。目に見える、今、寺院だと確定できるすべての寺院は、まるで、役には立たなくなっている。そのことを、自覚する必要がある。そうではない新しい寺院が、新しい時代には必要だ。そして、その寺院のある場所。それを指し記した情報を、人々は、必要としている。寺院マップルだ。その全情報を、こうしたキュービック・テクノロジーに乗せて、あなたたちには、提供することができる。



アンディからは、ユーリを経由して、寺院の建築に携わってほしいと、中心的な役割を果たしてほしいと言われた。リー・グループの測量部門に突然配属になり、ユーリという上司までつけられてしまった。科学部門には、ゴルドがいた。同じ傘の下に、所属してしまっている。アンディは、私の能力に注目していた。結果的には、アンディに、自分の力を売り込んだような形になってしまった。そんなつもりはなかった。ただ本当に、小金を稼ぐために、ネタを集めて、売っただけだった。特に、アンディに対する思い入れは、何もなかった。相応のお金が取れると思っただけだ。確かに、ゴルドが、リー・グループに所属していたことから、アンディを対象にすることを、思いついたのは事実だった。だが、そのアンディにこうして取り込まれ、ゴルドの近くに、再び居ることになってしまうとは、全くの予想外だった。

 君の体は、すでにキュービック化している。キュービック・テクノロジーが細胞を侵食している。テクノロジーが、君の体の中で一人歩きしている。誰も止められはしない。今のところ、体調はいいんだよな?健康には、何の問題もないんだよな?変わったのは、その認識能力だけなんだよな?

 エルマは、男と女の垣根が溶解していたことは、特に話さなかった。生まれながらにして、厳然と存在していた敷居が、次々と崩壊していく様子を、エルマは思い描いていた。これはまだ、ほんの始まりに違いなかった。いずれ、訪れるのは、この肉体と意識は完全に解離し、二度と戻らなくなるという現実だ。方向としては、進むだけだ。おそらく、それは、死なのだろう。私はすでに、死の道を、激しくひた走っているのだろう。

 もっと、ずっと遥か先に、寿命はあったに違いなかった。だが、ゴルドと出会い、こうしてゴルドに、ある種の実験台として身を捧げたことによって、その設定された寿命は、大きく前倒しされることとなった。それについては、何とも思ってなかった。いずれ、訪れる現象なのだ。そして、それまでの人生をどう過ごしていようが、結局は、死の直前に身を置く状況は、同じなのだ。

 どんな人生であろうが、それは、ほとんど同じなのだ。あったものが消える。消えてなくなってしまう。まるで、それが、本当にあったことが信じられないかのように。最初からそんなものはなかったかのように。

 そう思うと、エルマは、この人生は、本当に、幻のようなものに感じられていった。

 消える運命にあるこの現実は、実は存在していない夢物語にすぎず・・・とそこまで考えたときに、この死の寺院の建築に携わるように言われた意味が、からだ全体で感知したかのようだった。このキュービック・シリーズの存在意義。キュービック・テクノロジーは、人が死んでいくときに必ず起こるその感覚を、生きているときに体験するべく、予行練習のように体感していく。その感覚を・・・。ということは、この肉体はすでに、死の世界に突入している・・・。まだ、始まりにしかすぎないのかもしれない。これからじょじょに、私は死の世界に深く入りこんでいくのかもしれない。死と呼ばれる領域が、増していくのかもしれない。領域の問題なのだ。じょじょに、その割合が変化していく。移行していく。私は移行していく。死というのは、一気に、その状態変化が起こるものではないのかもしれない。ゆっくりとゆっくりと、変容していくものなのかもしれない。この私がいい見本だった。その過程で、意識はキュービック化していく。キュービック化が増大していく。キュービック化が極大に達した時点で、死は確定する。生の領域に、戻ることはなくなる。だが、方向としては、確実に一方向な気がする。それは、どれだけ早く通過するのかが問題なだけで。ある人はゆっくりと、ある人はあっという間に。私はすでに、その領域に戻ることのできない最初の臨界点を、越えているのだろう。極大化したその第二の地点に向かって、あとは到達を待つのみなのだ。

 どうして、こんな装置を、ゴルドは開発したのだろう。そして、どうしてこんなものが、世の中では売れているのだろう。まるで死期を早めていくための道具のような気がしてならない。いや、違う。それは、私の場合だけだ。キュービック化が体に内蔵されてしまった、私だけの問題だ。他の人は、そうではない。ただ外側から、その認識を刺激するための、ある意味、疑似体験するための引き金が与えられているだけだ。それは、体内に留まり、内蔵されていくようには働かない。もしそうなるとしても、相当な回数を重ねて、蓄積していかなければ達成されることはない。

 言ってみれば、慢性化させる以外に、テクノロジー自らが、肉体を侵食していく可能性はない。世間で起こっている現象と、私個人の内部で起こっている現象は、根本的に違っている。似て非なるものだ。開発したゴルドでさえ、この私の感覚を共有することはできない。誰も私以外で、同じ感覚を共有できる人間はいない。そう考えると、孤独だった。私は、この世にたった一人生きている人間。一人取り残された人間であるかのように感じられていった。私だけが生き残り、他はみな消え失せている。こうして、目に映っているのは幻想であり、本当は何もなく、誰もいないのに、それを認識したくはないばかりに、記憶のトリックで、ただの夢まぼろしが再現されている。

 あるいは、私以外のすべては事実存在していて、この私だけが、透明な人間のように、幻としてここにいる。誰も認知してはくれない。本当は今、ここにはいない存在。どっちにしても、私は私以外に、手をとりあう誰の存在もない。そういった存在に、いつのまにか成り果ててしまっている。

 ただひとつ、死の寺院の建造のことだけが、本当のことであるかのように、感じられる。



 クリスタルガーデン東京と呼ばれている地がそれだと、アンディは言っていた。

 その場所を、坂崎エルマは訪れる。実際に見てみることでしか、情報の本質を捉えることができない。近づいていくそのときから、確かに血の香りが漂ってくるようだった。

 すでに、意識はその土地に焦点が合ってしまっている。どれほど遠くにいても、感覚は、その場所に幾分行ってしまっている。何人もの処刑が行われていた、雰囲気が感じられる。まだ、最近のことのように。ここで、人が殺された形跡が、感じられる。殺人は、突発的に個人的な憎しみの元では、行われていないようだ。決められたとおりに、計画どおりに、事は進められているような気がした。死ぬことを決められた人間を、予定通りに処理している。そういった型のようなものを感じた。

 それに気がついたとき、エルマの意識は、垂直に過去を遡るように、次々と違う光景が現れては消えていくのを、繰り返すようになった。そういう土地なのだ。そういう波動が、さらなる同じ波動を呼び寄せ、過去からの連なりを強化していくのだ。時代が変わり、装いが変わっても、同じ螺旋は、繰り返していく。そして今は、クリスタルガーデン東京になっている。人が死んでいく場としては、実に、似つかわしくない姿に変わっている。

 その、高級マンションを、坂崎エルマは見上げていた。豪華絢爛な、マンションは、必要以上に美しかった。これは、王族の墓石なのかと、世界最大の墓石なのかと、エルマは思ってしまった。これまで処刑され続けた、同じ王族を、弔い称えた、墓地なのではないかと。墓地として、再生された建物なのではないか。

 エルマは、王族というイメージが抜けずに、戸惑っていた。これは、人が住むような場所ではない。住み続ける場所ではないと思ったのだ。これは、生きるための場所ではない。人生を育んでいく場所ではない。終わりの地だ。終わった命を弔う、土地なのだ。かつてあった生命を、今はないことを再確認させるような、そんな地だ。今は絶えてしまった王族が、かつて居たことを思い起こさせるような、そんな土地だった。

 エルマは、垂直に過去へと遡っていった。地上が平和に包まれ、あるいは、統率のとれた近代国家や、独裁的な豪族が、一帯を支配し、静かな生活が営まれていったときには、まさにここが、死の象徴となるような、血なまぐさと、戦慄を心に呼び起こさせるような、人の死を、終焉を、あえて喚起させるような、場所として、機能していた。また、民衆の、日々の、生活の捌け口として、その憤りを浄化させるための、祭りの場所の中心となることもあった。そこでは一年のあいだに溜まった狂気を、発散させるための、危険な催しが執り行われ、さらに時代を遡っていけば、選ばれた若い男が死をもって、天に捧げるといった、非人道的な行為もまた、甦ってくるようであった。生贄だ。

 逆に、そうかと思えば、戦乱極まる時代においては、ここは唯一、血とは無縁な、心を静めるための、ひとり天との繋がりを取り戻すべく、祈りの寺院としての、空っぽな整然とした無宗教空間を、提供していたこともあり、人が死ぬという事の、その一辺倒な土地ではないことが、わかってくるような気がした。

 エルマは、より深く読み取ろうとした。

 今現代においては、死を誘発するような場所にはなっていない。ということは、今は、逆にある意味、戦乱の世の中なのではないだろうか。国と国、人と人とが面と向かい、あるいは向かわずに、剣を抜き合い、切り合っているような。そして、その渦の中、対極な存在として屹立する、クリスタルガーデンの姿。

 ここは、死が渦巻く、世界の中で唯一、巻き込まれることなく、ひとり祈りを捧げられる場所。

 しかし、とても、そのような装いは、していない。だから、この私に?私に装飾を?私が作り直せと?そこに気がつき、気づける私であるからこそ?

 アンディは、そのこともわかっているのだろうか。それとも、持ち前の勘で?何となくの勘で?


 死を象徴する場所というのは、まだ浅い見方だと、坂崎エルマは分析した。

 それはある時には、そういった場所に見えるということだ。常に地上の状況によって、その役割は変わるのだ。装いは変わるのだ。

 死の場所というのはあくまで、象徴であり装飾だ。外側の見え方だ。その奥にある真意は、常に天との関わりを取り戻そうとする、その意思だ。

 それがあるときには、生命における死をもって、達成しようとする。

 死ぬ瞬間、あるいは死んだ後、すぐにその垂直な関係を復元しようと、試みているだけだ。天と地を繋ぐ方法を、常に模索しているのだ。どんな形だって構わない。それは、地上の光景によって、必然的に決まる。そこに、土地の意思はない。あくまで、天との回路を取り戻すといった意図しかない。それだけが、唯一の存在意義だ。そして、地上のどこにおいても、天との回路が存在し、交流が自在に起きている世界においては、この土地の存在は、意味を失くす。消滅する。積み上げてきた記憶は、空へと消えていく。最初から、なかったかのように跡形もなくなる。

 だが現実は、この土地がはじめて、存在意義を持ったときからの記憶で、埋め尽くされてしまっている。

 そして、今と、僅か未来の現状に、坂崎エルマは思いを移す。


 この世界はどう変化していくのか。クリスタルガーデン東京は、どう変化していくのか。

 私はリー・グループの一員になってしまっている。アンディ・リーに雇われる形となってしまっている。リー・グループの事業展開に、無縁ではいられなくなってしまっている。リー・グループの二つの主幹事業の行き先、そして、アンディがそれに連動させて、水平方向にも、数多くの事業を併存させようとしているこの現在が、見えきていた。

 そして、その状況は、リー・グループだけではなく、多くの企業が同じような方向で成長している様子が見てとれるのだ。今は、アンディのところにいる分、より鮮明に、自分事として強調されて、認識することにはなっているが、これは地上の、大きな傾向の象徴であった。世界のうねり、そのものなのだ。

 同じような役割を果たす場所は、無数にある。そうなのだ。

 死の寺院は、無数にある。作り上げて、撒き散らす必要などない。すでに、それはある。待ち構えているのだ。私は私にとって、最大に認識できるその地で、やるべきことをやるまでなのだ。

 この時代、この状況における、天との回路を、最大に取り戻した構造を、表現するだけなのだ。それが、私に残された仕事だった。私がずっと望んできた仕事だった。気づかずに埋もれていた私が、この世に生まれてきた唯一の理由だったのだ。

 私は偶然、今の状況に組み込まれたわけではなかった。

 坂崎エルマは、クリスタルガーデン東京を後にした。せっかく建てた、この豪勢なビルは、そのまま残しておこうと思った。構造に変わった点があった。真ん中が、綺麗に直方体にくり貫かれていた。風水上の取り決めなのだろうかと、思った。だがそういった意図は、特に感じられなかった。何なのだろう。エルマは、じっと見ていれば見ているほど、わからなくなっていった。建物からは離れ、物理的な距離を置き、残像を薄く照らし出しながら、ぼんやりと考えた。

 答えはなかなかやってこなかった。

 誰が何の意図で設計したものなのか。人工物なのだ。制作者の意図が、反映されていないわけがない。

 クリスタルガーデン東京はまだ歴史がなかった。エルマはそうした物の方が、情報を読み取ることに難儀した。そのまま放置して、やはりこれから起こることに、意識を移してみた。

 アンディの事業のそれぞれが成長し、急拡大していくにつれて、引き起こる現象。そのときに果たす、この地の役割。発注される死の寺院。唯一にして、最後にやるべき私の仕事。使命。そのために、私自身の体内に、直接キュービック化が成されたかのような。

 そのために、わざわざ、ゴルドはあえて、私の身体を使ったようにも思えてくる。



 目を閉じ、エルマは、自分の肉体の中心に、意識を集めた。外の景色は消える。さらに小さな領域に、さらに小さな領域に。自分の中心に。深い深い奥底に、落ちていくように。

 圧迫感が強くなっていく。その圧迫が、さらに強くなるよう、エルマは狭い一点にさらに縮小していく。

 エルマは冷たい領域を感じた。冷気が固まりとなって、あるその地点に、同化していく。

 すでに、身体の輪郭がわからなくなっている。エルマは、体の外の世界も、体の輪郭もまた、不鮮明になった世界に、冷気と共にいる。

 ふいに上向きに伸びていく気流のようなものを感じた。エルマはそれと共に、上昇していく。ゆっくりとゆっくりと。冷気はだんだんと熱を帯びていく。

 エルマは、その熱、そのものと一緒に、どんどんと上昇していく。

 加速していく中、その速度は、最高潮に到達したのではないかと、思うがいなや、吹きだまりのような場所に、その熱はこもり、溜まっていく。その狭い部屋に、熱はたまっていく。圧迫感がすさまじい。エルマは頭痛がした。そうなのだ。ここは、自分の頭部なのだ。頭部に熱がたまっていっているのだ。どこにも行き着くことなく、ここに溜まっていっている。

 エルマは逆らわずに、その様子をただ見守っていた。もうすでに、自分で、コントロールなどきかなくなっている。成すがままに放っておく。熱は溜まり続けている。破裂せんとばかりに、無限に溜まっていく。どこにも、漏れ出ていく様子はない。溜まっていく。

 エルマは、その流れに身を委ねる。

 突然、その熱の塊は、さらなる上昇を急に始める。天井が抜けたかのように。上部には何の存在もなくなる。閉じ込めていた強固な蓋が、突然消えたかのように。上昇は無限だった。そして、横にも、拡大していった。どこまでも、限りはないように思えた。

 そして、エルマは、空の中へと消えていった。


 暗闇の中、突如、眼下には、風景が見えてきた。いくつもの世界が、並び重なりあうように、螺旋を描いていた。エルマはそれでも、さらに上昇を続けていった。

 複数の混じりあいながらも、完全には混じりあわない光景は、現れる人間の数も増え、異なった色彩を放ちながら、複雑な調和を、より濃くしていった。

 エルマはずっと見ていた。遠ざかっているようだったが、どんどんと肉薄していくような不思議な感覚だ。いつまでも、終わることはなかった。エルマは見ていた。

 そうして意識は、いつもとは違う状況を続けていた。いつ戻ったのか。エルマは自宅の椅子に座っている自分を発見する。どこにいき、どうやって戻ってきたのか。そもそも自分は少しも移動していなかったことに思い当たった。

 エルマは、時間が許すかぎり、同じことを繰り返した。

 まるで、あのクリスタルガーデンの地を、自分自身の中につくるかのように。

 天との回路を取り戻すために、地は、自ら上へ上へと、人の意識を移行させていくことを、繰り返した。

 人間にとって、死の瞬間、死の後こそが、その上昇を、容易にさせるのかもしれない。死を意図的にもたらすことで、地にへばりついた人間の心を、上向きに解離させようと繰り返していった。

 そして、短いあいだでは、それは達成された。また、長期的には、それが可能な場として、機能させることが可能な空間として、存続していくことに成功していた。

 それを、エルマは、この自分の身体で、達成することを今、意図し始めていた。

 キュービック化したこの肉体なのだ。それは、可能であるような気がした。通常の人間よりも、遥かに短い時間、小さな労力で、実現が可能な気がした。

 この現在において、私にしか可能ではないことなのだ。そして、エルマは、これまで、ずっとまとわりついてきた、最初はアンディからの刺客だと思っていた、黒い影の存在について、ひとつの真実へとたどり着いた。

 迫ってくる影は、ふと消えていたが、ここで再び復活していた。

 これまでの、いつの時よりも、鮮明で濃淡が厚かった。

 これほど確信めいた闇を、初めて感じたような気がした。

 私はここで死を迎えるのだ。ここが私の墓場なのだ。運命が用意した終焉の地なのだ。

 私は終わる。私は自分で意図した、生の世界との離別を果たす。私はここで、生の世界を後にするのだ。私にしかできないのだ。私はそれをやるために生まれてきた。ここに、導かれてきた。たくさんの人が居た。関わりのあった人たちは、今となっては、皆、実在しない影のように思えてきた。ここに導いてきたのは、ただの影の存在でしかなかったのかもしれない。時に、人の姿で現れ、他人とは違った、資質を持った、個別の人間として、色彩豊かな仮面をかぶった、違った肉体を持った、実体として現れては、また消え。その繰り返しによって、私は動かされるように、こうしてここに来た。それもまた、夢のようであった。

 はじめから、何も起きてはいなく、ずっとここに居ただけのような、気もしてきた。

 エルマは繰り返した。自らが、死の寺院が立つ、地となったつもりで。その空間、それ自体となったつもりで。死の寺院そのものになったつもりで。エルマはただ、繰り返していった。繰り返すしかなかった。そして、この地上に、確かに存在した、クリスタルガーデンの地と、融合させていった。その地に重ね合わすように、繰り返していった。ひとつになっていった。

 そうして、エルマは、死の寺院を残し、自らは解離の果てに、大空へと抜けていくのだ。

 エルマは上昇していた。戻る場所はもうなかった。透明な力は、何も妨げるものはなかった。肉体のなくなったエルマの背中に、羽として、ぴたりと付いているようだった。

 ずっと、纏わりついていた刺客の黒い影は、今はじめて透明に光輝く、重さのない羽として、上昇をさらに助長させていく、力になっているようだった。

 エルマは静かに、目を閉じ、天へと召されていった。


































あなたが、この暗夜を通過していくとき

これまで地と認識していた空間は


シークレットフォールズと化す


その場所が



初めのひとつを、皮切りに

至るところで散見されることだろう


シークレットフォールズは

その閾値でブラッキホールへと変わり


気流はセブンスパイラルへと、業態変化していく



クラスターウィングが至るところで起こるだろう

それらは、初めの、一なるものから

次第に、数を増やし、無数の広がりを見せていくことだろう


ホワイテスタホールへと変わり

いずれ

時空は、全て、崩壊し

再構成されていくことになるだろう


ブルーオーシャンと呼ばれ

ニューレムランティズが、無から、その姿を、現すことになるだろう























2048 13





















 女性が、薄いテキストの一枚目を読み上げている。

 男が、暗闇から、一心に光を浴びて現れてくる。

「さて、今日から、新しいスートラを取り上げて、その一つ一つに、解説を加えていきたいと思う。みんなも、すでに、文章を読んだことだろう。何度も読んだことだろう。

 聞きなれない言葉ばかりが並んでいるため、何度読んでも、理解することができなかっただろう。けれども、あなたたちは、何度も読み返した。とても良いことだ。意味を理解できなくとも、何度も、からだに染み込ませる。それが、肝心なことだ。

 それでこそ、私のこれからの解説が、あなたの奥底まで浸透していくというものだ。あなたの個人的な理解が、大事なのではない。あなたたちは理解ができず、それを放棄したところから、本当の旅が始まる。本当の自分自身に向かう、旅が始まるのだ。

 読み込みが足りなかったと思う者。私が解説を始める前に、何度も読み込むことを勧めよう。今この瞬間も、あなたがたは、時間を無駄にすることはできない。今日のスートラを、何度も頭に入れよう。


 さて、前置きは、このくらいにしておこうか。

 まず、この短いスートラは、いったいいつ、作成されたものなのか。

 何の目的で作成されたものなのか。誰が誰に向かって、書いたものなのか。

 色々な疑問が、みんなにも沸いてきていることだろう。だがまずは、それを、すべて取り除いて、純粋に、この文章と対置してみようか。

 大事なことは、この文言そのものなのだから。背景知識は、時に、スートラの真意を濁らすことにもなりえる。

 ただ、すべての情報を横に置いて、あなた自身の解釈も、発動させずに、さあもう一度、私と共に、一つ一つを受け入れていこうか。


 男は、集まった人たちに向かって、挨拶も自己紹介もせずに、本題へと入っていった。



あなたが、この暗夜を通過していくとき

これまで地と認識していた空間は

シークレットフォールズと化す

その場所が


初めのひとつを、皮切りに

至るところで散見されることだろう


シークレットフォールズは

その閾値でブラッキホールへと変わり


気流はセブンスパイラルへと、業態変化していく


クラスターウィングが至るところで起こるだろう

それらは、初めの、一なるものから

次第に、数を増やし、無数の広がりを見せていくことだろう


ホワイテスタホールへと変わり

いずれ

時空は、全て、崩壊し

再構成されていくことになるだろう

ブルーオーシャンと呼ばれ

ニューレムランティズが、無から、その姿を、現すことになるだろう























あなたが、この暗夜を通過していくとき


 さあ、この、あなたという言葉に着目してみようか。

 私があなた方といってるあなたと、同じなのだろうか。

 それとも、違うのだろうか。特定の誰かなのか。特定のできない、不特定多数の人を、指していることなのだろうか。

 これは、あなた方。そう。あなただ。まさにあなたのことだ。そうとってもらって、構わない。このあなたとは、不特定多数に向かって発信されていながら、これを読む、このスートラと出会った、特定のあなたということになる。

 つまりは、みんなは、それに該当している。このスートラに出会い、そして体験している、あなたということだ。

 呼び掛けている相手は、このスートラが作成された時代の、特定の国か、地域における、人だけではない。

 時を越え、国境を越え、繋がっていった、あなたということだ。

 では、続けよう。



あなたがこの暗夜を通過していくとき


 この暗夜ときた!この、とはどれか。暗夜とは何か。

 このスートラに出会い、読み体感している、あなたという人物は、この暗夜。

 つまりは、あなたという人間は、今、この暗夜。あなた自身が、体験している、今置かれているということだ。

 あなた個人の、あなたが体験している暗夜。

 つまりは、このスートラを読んでいるあなたは、皆、暗夜に、今、直面しているということだ。

 それが、唯一の共通点。ここで一気に、視点は、あなた自身の内面へと、向けられることになる。瞬時に、反転する。

 あなたは、自覚してなかったかもしれない。

 だがあなたは、今、暗夜にいるのだ。

 昼であっても、夜であっても、あなたは、ひとりでいても、誰かといても、幸福の絶頂にいても、不幸のどん底にあったとしても、あなたは今、暗夜に生きているということだ。

 そして、そこを通過している。

 ということは、動きが、多少なりともあるということだ。

 闇の中を抜け出るべく、進んでいるのか。さらなる、深淵にはまりこんでしまうのか。

 それはわからない。

 通過、というくらいだ。おそらく、前者かもしれない。しかし、迂闊なことは何もいえない。

 男はここで、一息入れる。

 会場は、静まりかえっている。物音ひとつ、立てる人間はいない。



これまで地と認識していた空間は


 あなたたちが、これまで地と認識していた、その空間。素直に読んでいこう。



シークレットフォールズと化す

その場所が


 さあ、困った!

 シークレットフォールズという、聞きなれない言葉が出てきている。

 直訳すれば、秘密の滝か。だが、何のことだかわからない。この後に続く、化すという言葉に着目してみようか。化すとは、普通、どのように使うものなのか。

 これまで、地と認識していた空間。それが、変化したものが、シークレットフォールズということになる。

 共通点と相違点が、両方含まれているということが、解読の鍵だ。


 これまで、足を踏みしめ、歩き続けてきた今世における、人生というものが、別の状態に変わるということだね。足元がぐらつくどころではない。

 足場がまったく失われる。

 地に足がつかなくなるということだ。地がなくなる。

 地が、底無しの下降を続けていく。その場所が。

 そう、あなた自身の、足元のことだ。



初めのひとつを、皮切りに

至るところで散見されるだろう


 ここに、不可思議な言葉は、何も登場していない。

 みんなも気づいたと思うが、このスートラには、いささか、意味のわからない言葉が並んだかと思えば、次には、誰もが当たり前に理解できる、平易な言葉が並んでいる。

 交互に現れる両極のハーモニーであることが、よくわかると思う。

 そして、平易な方は、素直に受け取っていくことが望ましい。

 緊張と弛緩の連鎖によって、この文章は、生まれているということを、理解する必要がある。

 初めのひとつを皮切りに。これは、個人においても、そう。社会全体にとっても、そう。

 大小問わず、主観客観、問わずに、すべてのことについて、言っている。

 至るところで、散見されることだろう。世界中に、似たような現象が、起きるということを言っている。すべてが同時に、そして、相似形が表現されるということを言っている。

 散見という言葉からも、まだ、全体を覆い尽くしてはいないことが、伺える。続けよう。



シークレットフォールズは

その閾値でブラッキホールへと変わり


 さあ、再び出てきた、理解不能な言葉。弛緩からの、究極の緊張感。しかも、直訳さえ拒絶する、その単語。ブラッキホール。ブラックホールなら、少しは知っているかもしれない。ブラッキホール。そんな言葉は、存在していない。しかし、ブラックホールと、酷似している。その点にしか、読み取れるポイントはないね。

 つまりは、ブラックホールと、とりあえずは置き換えて、読むことが可能だということだ。だが、ブラックホールではないブラッキホールだ。何かが違う。何かが大きく違う。

 まったく別物として、そこには現れるかもしれない。このブラッキホール。ブラックホールと読み直すが、それは、シークレットフォールズの、変化形だ。

 進展した、あらたなる形ということだ。閾値。

 限界を越えた時点で、変化していく。

 より、足場のない時空が、進んでいき。



気流はセブンスパイラルへと、業態変化していく


 気流が変わるのだ。セブンスパイラル。また現れた!

 七つの螺旋。さっきは、下降していく流れだった。そして、今度は、反動なのだろうか。吹き上げていく。空へと吹き上げていく力が、起こっている。それは風だ。

 風が竜巻状に、空へと吹き上げていくのだ。

 ここまでは、何とかわかる。続けよう。



クラスターウィングが至るところで起こるだろう


 ここだ。ここが、このスートラの、もっとも肝な部分だ。そして、難解な場所だ。

 クラスター。玉砕していく。ウィング。翼。羽だ。つまりは、気流は、そのような翼のような形状で、それまであったはずの時空を、粉々に破壊していくということを、意味しているのかもしれない。至るところで。すべてではない。すべては、覆い尽くされてはいない。部分的に。狭くはない、小さくはない、いくつもの地域で。



それらは、初めの、一なるものから


 素直にとっていこう。



次第に、数を増やし、無数の広がりを見せていくことだろう


 ここで初めて、広がりについて言及している。ここは注目だ。横への繋がりを、示唆している。これまでの地上とは、一新されてしまった、その空間における、平らな視線への回帰。



ホワイテスタホールへと変わり


 この、ホワイテスタホールもまた、造語だ。

 つまりは、既存の言葉に、表現が値するものが見つからないことの結果だ。読む者が、安易に、想像することのできない、工夫だ。

 これは、重要なことだ。これからもみんなは、様々なスートラを読んでいくことだろう。

 そのとき、造語が出てくることもあるだろう。それはつまり、想像をするべきではないと、作者は言っているのだ。たとえ、してしまうとしても、君の、君たちの知っているもので、代用してはいけないと。そう、注意を促しているのだ。

 だから、そういった言葉は、想像するために使ってはいけない。その言葉どおりに、何も想像することなく、受けとるのが正しいやり方なのだ。これは、非常に難しい!

 ほとんど、不可能だとも言える。しかし、その不可能を、作者は、要求している。

 その要求に足る、人間であることを、作者は認めているのだ。

 ここに出会い、そして、読み進めているあなたは、完全には、不可能ではないということを、指し示しているのだ。

 ホワイテスタホールは、ブラッキホールと対応していて、ここでも、業態は変化している。

 ホワイトホールに似せた、その言葉は、我々にはまったく、想像することができない。

 進めよう。



いずれ


 そう。ここに、時間の表現が出現している。

 いったい、いつなのかわからない言葉で、表されている。

 確実に起こることは、間違いないが、明確に表すことができない。それはそうだろう。

 それまでの時空は、崩壊してしまっているのだから。

 まったく違う世界に、生き始めているのだから。素直に受けとろう。



時空は、全て崩壊し

再構成されていくことになるだろう


ブルーオーシャンと呼ばれ

ニューレムランティズが、無から、その姿を、現すことになるだろう


 最後に極めつけのように、二つの強い言葉が刻まれている。

 青い海。そこに勃興してくる、新しい、これは大陸のことだ。

 無から現れ出てくる。

 この青い海というのも、通常の想像できる海では、もちろんない。

 すべては、我々の、この時空における想像力とは、異なってしまっている。

 その世界に、実際に、居る以外に、わかることは何もない。何もわからないのだ。

 このスートラからは、本当のところは、何も読み取れはしない。それが答えだ!


 唐突な締め方だった。

 男は、何か、言葉を濁すように、最後をあっさりと打ち切ってしまった。

 静まり返った会場に、物音がし始めた。

 照明がいっせいに付き、参加者全員の姿が、互いに確認できるようになった。



 シュルビス初にとって、最初のセミナー体験だった。

 アンディの命令通りに、坂崎エルマを本社ビルに連れてってから、猛然と荒れ狂う心に拠り所が与えられず、シュルビスは困り果てていった。しがみつくものが欲しかったのだ。

 それは、カジノのゲーム、『ムーン』では全く収まりがつかなくなっていた。

 ちょうど、借りた金もまたなくなっている。借金はチャラとなっていたが、また新たに大金を借りる気にもなれない。今度こそ、抜けることはできないと思った。アンディの元にも、二度といくまいと思った。金を借りることも、ムーンをプレイすることも、アンディと関わり合うことも、すべてから、撤収しなければならないと思った。これらの事に、今度の衝動が、嵌まるはずもな大かった。きく凌駕していた。


 シュルビスは、これまでに体感したことのない胸騒ぎに、あるいは拠り所というよりは、これが何なのかを知りたいという想いが、募っていったということだった。

 ギエール・Dという男だった。

 キュービック・シリーズの一巻に現れたその人物だった。

 実在する、その人間のセミナー講演が、偶然、目の前に舞い込んできたのだ。

 その会場の前を通ったのだ。二万円を支払い、シュルビスは、テキストを受けとった。講演前に、何度も読み返してください。時間はないですから。さあ、急いで。

 シュルビスは、近くのカフェに入り、人口密度の薄い場所を選んで、集中モードに入った。この人物ならば、知っているのではないか。この胸騒ぎの理由を。シュルビスは、新しい人生をスタートさせるきっかけを、ずっと探していたことに今思い立った。ムーンは、その過渡期に、持て余していた自らの存在を、ただ当てはめただけの、単なる道具のような気がしてきた。

 全然、中毒ではなかったのだ。中毒のふりをしていただけなのだ。自分を騙してきたのだ。シュルビス初は、まったくギャンブルになど、乗っ取られてなかった。すべては、時間稼ぎだったのだ。そして、この胸騒ぎは、今始まったことではないことに気づく。

 初めから、あったのだ。

 そして、その胸騒ぎに対する答えを、探していた。答えが見つかる、そのきっかけと出会うことを、望んでいた。まだしばらく先であるということを予感していたため、それまでの空白を埋める茶番劇を、求めていた。

 シュルビスは、ギエールの作成したであろうテキストを読み込んだ。あまりに薄っぺらな、ほとんど紙一枚にも満たないような詩の羅列に、血の気は引いていった。

 全然意味がわからなかった。だが、シュルビスは怯まなかった。

 理解のできない状態をつくることを、このテキストは、意図して製作されたように感じるのだ。その極限状態を、講演前に、それぞれが作っておく。

 そのためのテキストなのだ。その無知を埋めるためにセミナーがある。

 だが、シュルビスは、実際に講演を受けたにもかかわらず、その空白を埋めることはできなかった。さらに、増長されただけだった。乱れる心は、留まることを知らなかった。助長されていくのを、ギエールは楽しんでいるかのように。そして、テキストは、セミナー会場からは退場するときに、回収されてしまった。すべて暗記ができなかった。何となく、文言は薄く幻と化したままに、脳の上を浮遊していた。


 講演は、次もあることが、スタッフの女性から伝えられた。自宅に、次回のテキストは郵送されるのだという。講演の回数は、記載されてなかった。場所はまた違う。一度目の会場は地下であった。地下のかなり深くにまで、階段を使って降りていったのだ。エレベータは上り専用であった。あまりに長い階段を、下っていった。その感触は、コンクリートでも、木でもない、建物の足場のような簡易なものでもなく、土のような気がした。


 わずかに湿っていて、泥濘になっている段もあったが、ほとんどが、堅固に土が凝縮された、正確無比な人が、長い時間をかけて作った、もののように感じた。年季が入っていた。

 シュルビスは、ギエールDのことを調べようとしたが、個人情報は何一つ、見当たらなかった。次のセミナーのテキストは、まだ届いてはいない。脳に残った、今日のスートラを反芻する以外に、やることはない。

 シュルビスは、ギエールを、全面的に信じることはできなかったが、これを新しい人生の入り口にすることだけは、決めていた。

 もう二度と、アンディと、アンディに関係する人間たちと、会うことはない。

 そのことだけは確信していた。だが、それも間違っていた。
































2048 14





















 クリスタルガーデン東京は、もう間もなく、死の寺院へと変わる。

 アンディは、事業の最後の仕上げに、取りかかっていた。といっても、アンディ自身がすでに旗を振り、全霊で指揮をとる時期は過ぎていた。アンディは自らを、すでに終わった人間であると捉えていた。あとは死を待つばかりであると。やるべきことはすべてやった。その最後の見届ける役目を、アンディは、自分にとっての最後の仕事と位置付けていた。

 アンディはほとんど、グリフェニクス社の屋上から、さらに上空、開発途上の宙空建築による、庭園住宅である自宅に、ずっと引きこもるように動かなかった。すべての指示を終え、あとの細かいことは、ユーリに引き継がせた。数人の関係のある女性たちと、地上で過ごしてもよかった。これまではずっと、そうしてきた。集中的にやることをやったあとは、彼女たちと転々と遊びまくった。だか今は、その気にはなれなかった。ひとりでただ静かに過ごしたかった。元妻の気配も、すでにはないこの庭園住宅においては、アンディは、誰にも邪魔されずに、その時を迎える体勢が整っていった。

 スペースクラフトで、地上は埋め尽くされている。国籍、老若男女問わずに、一人で一台、所有するケースがほとんどだった。自宅住居となり、移動手段としての乗り物となり、会議室、共同空間としての、ちょっとしたパブリックスペースにも早変わりしている。


 インターネット社会が、人の移動を、それ以前よりも少なくしていたのに対して、スペースクラフトは、人のこの地球上での移動を、促進させていた。人はより、活発に動くようになっていた。この地球上を、我が庭であるかのごとく、闊歩していた。もうすぐ、ワープによる移動技術が完成するであろうし、そうすれば、スペースクラフトの盛況にも、影響が出てくるであろう。ライフスタイルは、一変されることになる。地球の外にも、容易に移動する手段が開発されることになる。だが、しばらくは、スペースクラフトの天下だ。

 キュービック・シリーズはさらに、長く生き残ることになるだろう。人の認知能力の過渡期に現れた、このテクノロジーは、さらにまた来たる時期に、そのテクノロジーの上書きが、成されていくことだろう。キュービック・シリーズが、全てのメディアを一新するための、長い過渡期を経ていくことになるだろう。広告メディア業界は、すべてがそうなった。映画も音楽産業もすべてがそうなった。人の暮らしの隅々にまで、テクノロジーは行き渡っていった。人は生まれながらにして、キュービック化した世界で育っていくことになる。物事を、順を辿って、部分的に理解していく思考回路の方が、物珍しくなる時代はもうすぐだ。全体を一瞬で、理解する。異なる無数の次元を、同時に理解する。同時に、作業、発信する。それが当たり前の、情報テクノロジーになる。そのやりとりの、一瞬性は、時間の概念もまた、一新していく。時間は、極端に圧縮していくことになるだろう。圧縮に圧縮を重ねた人の認知は、キュービック・テクノロジーを近い将来、軽々と凌駕していくことになる。そのとき、キュービック・シリーズの存在意義は、消滅する。商品ラインナップからは、姿を消し、スペースクラフト共々、販売実績は、ほとんどゼロと化す。過去をノストラジックに懐かしむためだけに、残る、趣味としての遺物としてのみ、取引きされることになる。

 それはもう、我がグループのすることではなかった。

 スペースクラフト事業が、トランスフォーム・レゴに転じた空間産業が、これからは伸びていくことになる。

 乗り物と住居、住居と住居の同じ素材による組み替えは、資源を無駄遣いしないという意味でも、意義深いものだ。そのまとまった素材を、一度購入すれば、その素材で、あとは必要に応じて、乗り物にしたり、住居にしたり、自在に選択して、変えることが可能になる。リー・グループが、その素材のキットを販売して、そのキットをどの方向に組み立てるのか。その作業も担当し、どう組み替えていくのがいいか。ライフスタイルに合わせた提案、または、こう組み替えることで、こんなライフスタイルが実現されますといった、未来のライフスタイルのプランを提供する。そんな仕事も、今スタートさせている。互換性が達成されたことで、仕事は他業種にも、劇的に踏み込んでいくことになった。不動産業がそれであり、今はまだ、開発途上の宙空建築も、もうすぐ完成する予定である。これは、人々を地上に留まらせる不自由さを、消滅させられる可能性がある。地上に鉄筋を打ち込んで、基盤を埋め込む必要性がなくなる。どんな重い資材でも、宙に浮かせて、建築することができる。耐久性に弱点があるものの、これだけ移動が頻繁にされる世界にあっては、短い期間、そこに固定しているだけの空間の方が、好まれることも多く、これもまた、同じ資材キットだけで、形態を変えていくことが可能であった。


 スペースクラフトが、小規模なスペースの創造であるとすると、宙空建築の方は、より大きな規模の空間、ということになる。住居、乗り物、ライフスタイル、移動の容易さ、形態変化の容易さを、提案することに連動して、旅のプランの創造が仕事のひとつとして、生まれ出るのも必然だった。

 どんどんと拡大していっている。売り上げも鰻登り坂だ。そして、ライフスタイルから派生していく、娯楽産業としてのカジノを、再構成していく必要に迫られたアンディは、オリジナルゲームを、ムーン以外にも三つほど増やして、完全なオリジナルカジノとして、今は、グリフェニクス社本社内に、巨大レジャー施設として、高級ホテル、レストランと共に運営がなされていた。それも盛況状態だった。ムーン、マスターオブザヘルメス、テンペンツ、デッドバイブルと、それぞれ、同等の人気を誇るものに、なっていた。娯楽産業は、その隣り合わせの芸術産業をも、刺激し、アンディも本腰を入れ、ここのテコ入れをおこなった。

 アンディの考える芸術は、広大であったが、その半分を網羅するために、音楽、絵画、文学、映画、演劇。キュービック化させた内容の原作を、組み込むべく、ユーリに指示を出していた。

 ひとつの原作から、それを起点に、それぞれの部門に、楽譜、原稿、スケッチとして、多重の草案を供給し、そこに、各芸術の技術部門が加わり、形にして仕上げていく。そして作品、公演、商品として、提供、販売をしていく。その一連の流れを、しっかりと、図で説明して、指示を出した。実現してきていた。あとは宗教だと、アンディは思った。

 アンディは地上を完全に制覇したいという欲望があることを知った。

 すべてを網羅して、連動させて組み上げることで、地上を制圧したい!

 すべての分野に、リー・グループが力を発揮している。供給できる商品を持っている。宗教は大事だ。経済と宗教が、最終的な二本の柱となる。政治は、いずれ消滅する。宗教もまた、今の形では政治と同等、先はすまいぶんと短い。深淵な、本質に迫る、それこそ芸術の残り半分のビジョンと、アンディの中では重なっていた。信仰ではない、真実の体験だ。そしてこの部門は、究極的には、最も難儀を要する、達成のしんがりを努めるに、違いないこともわかっていた。

 まずは、その部門を任せられる人間を、見つけることからだった。

 そうした人物は、すでに見つけていた。だが今は、率いれることはできない。

 そうした巨大グループの一員になど、その男がなるわけがなかった。そして今後も、ない。だがその男以外に、任せられる人間は、誰もいなかった。

 アンディは、様子を見守ることにした。その男で間違いないという、確信と共に。


 名は、ギエールDといった。まだ、はっきしたことは何もわかっていない。

 だが、活動を始めたことは確かだった。こんなとき、坂崎エルマのような能力があったらなと、アンディは思う。宗教部門は、最後に立ち上がってくることなので、今は何を考えても、意味のないことだ。それよりも、差し迫った、激変期における時空構造の変化を、事前に予測し、前兆を把握し、その通過していく最中の、詳細な情報を捉える測量部門の設置を、アンディは急いでいた。ユーリ・ラスと坂崎に、その活動の場を与えた。彼女の探求心は、そこに向かって走っていくことになる。激変期を通りすぎた後で、もっとも飛躍しているのは、彼女かもしれなかった。考えられない変化を、彼女は体現しているのかもしれなかった。その種はすでに、彼女の体内に宿っている。

 それに連動して、ゴルドの科学部門もまた、急速な進化をしていく。文明のテクノロジー水準は、上がることしか知らない時代になる。人の寿命は延び、生きるためのその欲望を、満たすためなら、どんなテクノロジーも、人は我が物としていくことになる。科学の一人歩きは、止まらない。それでいい。そこと対極な構造を、そのもう一方の側が、急速に育っていく現実を、科学は一人歩いていった先で、眺めて見下ろしていることになる。ギエールDを初めとした、宗教的な人間が、多数現れるのを心待ちにしていることだろう。彼らがもたらすものは、太古の世界観。人が原始的に、生と死を繰り返していく世界だ。死ぬべきときに死に、生きるときには生き、生まれてくるときに、生まれてくる世界だ。死に対しては、急速にその焦点が色濃くなっていくことだろう。教育は、死を中心に、発達していくことになるだろう。死に纏わる知識が、ある種の、教育そのものになっていくことだろう。テクノロジーを信望する技術教育が、一方の柱となる、その逆で、死に纏わる世界の教育。それがまずは闇の地下世界から始まり、次第に、地上で、陽の目を浴びていくことになるだろう。二つの世界は、交わることなく、流動、旋回することなく、対立し合っていくことだろう。宗教戦争のようなことが起こるだろう。戦争の時代が顕著になっていくことだろう。教育は、洗脳の道具と化し、その一方のみを、推し進めていこうとする人間で、溢れかえるようになるだろう。だが両方の世界を、こっそりと行き来する人間もまた出てくる。堂々と行き来する人間もまた出てくる。両者の架け橋となる人間もまた出てくる。両者を融合して、より高い次元で、第三の別なる化合物を、表現する者もまた出てくる。さらには、どちらにも汲みすることなく、すべてに精通していながら、無為を貫く人間もまた出てくる。


 いずれにしても、原始宗教と超テクノロジー文明のコントラストは鮮明となり、過激になっていくことだろう。そのとき、自分は、生きているかわからないと、アンディは思う。先の話だった。そこで果たす自分の役割は、少しもないはずだった。

 アンディは、この場所から、時空の裂け目、変わり目、境目を、この目ではっきりと目撃するため、ここに存在していた。

 アンディそのものが、目撃する巨大な目となり、荒れ狂う世界に巻き込まれることなく、ほとんど接触することなく、体験していかなければならないことだった。そのあいだ、地上に降りるつもりはなかった。

 降り立つことのできる地上があるとも思わなかった。

 親密な関係を築いている女性たちのことを、ほんの少しだけ懐かしく思った。


















クリスタルガーデンは、死が渦巻く海のなか

変貌を始める、その残像に


あなたの目は掠め取られることだろう



それが合図だ


別の兆候を見せ始めた、その時期を

あなたの体感は、捉え始めることだろう


バイブルは震え


スペースクラフト

ブラックタージ

その他

いくつかの拠点が


逃げ込む場所として



目を見開き

現実を受け止められるために


汝に対し

その身を、開いていくことだろう












地上では、キュービックの風が吹き荒れ

汝の体も

キュービックの炎を


燃え上がらせる



安全であり、危険であるその場所は


来たる世界に生み出る

子宮となる


すべてが終わる、そのとき



クリスタルガーデンは消え


あらたなる、無の寺院がそこに

残像として

聳え立つことになるだろう。





























2048 15





















 さあ、さっそく、今日のスートラに入っていこうか。時間はもう残されていない。

 急ごう。

 前回とは、また違う場所の、地下の部屋で、セミナーは行われた。

 これが、何回目の開催なのか。シュルビス初は知らなかった。


 前回と今回しか、参加したことがないのだ。この連続の講義が、一続きであること以外に、彼が知り得ることは何もなかった。



クリスタルガーデンは、死が渦巻く海のなか

変貌を始めるその残像に


あなたの目は掠め取られることだろう


 クリスタルガーデンとは、知っている人も多いだろう。

 クリスタルガーデン東京という、高級マンションのことだ。

 ここで、予想外な、超近代の建物が、登場してくることに、驚いた人が多いかもしれない。

 このスートラは、ごく最近に、書かれたものではないかとそう思った人もいることだろう。しかし、そうとは限らない!

 これを書いた人間が生きていた時代、住んでいた場所には、そのような名前の場所は、なかった。

 あくまで、いずれやってくる世界を予期しての、その名前の使用、ということだったのかもしれない。

 あるいは、未来のずっと先で、その人間は書いた。

 今はなき、古い過去に、そういった場所が存在していたと、書き記しているのかもしれない。

 それだけ、このスートラというのは実に広い範囲で、光景を捉える目というものを、持っている。目そのもの、だといってもいい。



クリスタルガーデンは、死が渦巻くなか


 そうだね。前回のスートラを踏まえて、その大きく変動する時代。

 死をも辞さない、世界の変化、ということになる。

 海という言葉もある。前回出てきただろう。その海は、血の海であったのかもしれない。最初の起こりとしては。



変貌を始める残像に


あなたの目は掠め取られることだろう


 いささか、ぎこちのない、この文章。残像。あなたの目に映る残像。映像ではなく残像。

 これは、どういう意味なのだろう。

 そして、それに続く、目は掠め取られる。おそらく、あなたという人物は、死の光景を見た。それをまた、別の場所で思い出しているといえる。

 つまりは、あなたという人物は、死が渦巻く中にあっては、その惨事に、巻き込まれてはいない。

 しかし、目撃はしている。実に近い場所で。いや、そもそも、巻きこまれているともいえる。その矛盾する世界が、ここには、渦巻いている。

 一つの解釈としては、過去の映像が、脳裏にこびりついたまま、あなたを、いつのときも脅かす、材料として、存続していくということだ。忘れられない出来事で、あり続けているということだ。



それが合図だ


 実に、力強い言葉だね!

 こびりついた不幸な記憶として、流され始めているところに、それが合図だと、肯定する言葉で、状況を、反転させている。

 わかるだろうか。ここでの、反転の仕方が。

 それまでは、あなたがたは、外をただ見ていたのだ。

 外に起こった現象を、ただ見ていただけなのだ。物事の表面を。


 そして、そっちに流れていくことを、作者は、戒めるのだ。

 たったの六語で。それが合図だと。



別の兆候を見せ始めた、その時期を

あなたの体感は、捉え始めることだろう


 その反転した内面世界が、あなたには、見え始めることだろう。そう言っている。

 内なる目で見た、本当の世界を。

 そのとき、そこで、何が起こったのか。起こっていたのかを、理解し始めているのだ。あなたが。

 あなたの体感。内面の世界だ。



バイブルは震え


 さあ、ここでまた、唐突な言語が登場する。

 バイブルというのは、聖書。あの聖書のことだろうか。新約聖書。旧約聖書。あのバイブルのことだろうか。

 バイブルが震え、振動している。現象に反応を示している。存在を自ら、主張している。

 あなたに、その中身を確認しろと、言っているかのように。


 後に続く、造語の展開からして、このバイブルは、もちろん、キリスト教の経典として、捉えることはできない。別な、聖書の存在。

 あるいは、このスートラ群が、納められた、一冊の本のことなのかもしれない。

 いずれにしても、そういった経典が、生命力をもって、ウズき始めたということだ。



スペースクラフト

ブラックタージ

その他

いくつかの拠点が


 これもまた、現代の今、世界中に広がっている、スペースクラフトを予知してか。

 今、リアルタイムで見ているのか。ずっと未来に、今はなき過去を、振り返って、そう言っているのか。特定はできない。ブラックタージ。こちらは、馴染みがないことだろう。

 しかし、文脈からして、同格に並列されている。

 さらには、その他にも、並列された、別のものが存在している。それを拠点と呼んでいる。並列されているのだ。

 スペースクラフトの特徴と、同格に並べられる要素を、共に持つということだ。

 みんなも、少し考えてほしい。



逃げ込む場所として


 これは、逃げ込む場所。

 そう。ここで、前半のスートラと繋がった。

 死が渦巻く世界の過渡期に、巻き込まれることなく、注視している様子がね。

 スペースクラフトの中に、あなたはいる。ブラックタージに、あなたはいる。

 他にもいくつか、ポイントとなる場所は、存在する。

 そこにいるあなたは、この過渡期を生き延びる。

 そして、反転した内面世界。掠め取られた目が、本当にあった現実の本質を、しっかりと捉えている。

 つまりは、これは、空間を意味する、言葉の並列だったのだ。



また目を見開き

現実を受け止められるために


汝に対し

その身を、開いていくことだろう


 それらは、あなたがたを受け入れる。

 あなたがたは、それを、知っている必要がある。

 あなたがたは、拒絶されてはいない。

 あなたがたを、迎え入れるために、待っているのだ。



地上では、キュービックの風が吹き荒れ

汝の体も

キュービックの炎を


燃え上がらせることだろう


 みんなも、気づいてきただろう。

 もう、私の解説など、ほとんどいらなくなっているということに。

 あなたたちは、もう理解し始めている。

 私が解説を始める前に、わかっている人たちが、実にたくさんいるのだ。

 私はいつのまにか、あなたがたの理解を、ただ上塗りしているだけの、無能なスピーカーに成り果てている。

 男は自嘲気味に、そう話す。


 話し方は、ここに来て、いたって優しさのある丸みを帯びてきていた。



安全であり、危険であるその場所は


 混沌渦巻く、両義性の吹き荒れる、その世界だね。



来たる世界に生み出る

子宮となる


 実に、おもしろい!子宮という表現。ただの避難場所ではない。来たる世界に生み出る、子宮となる。あなたがたは、子宮に入る。子宮に入れと、スートラは言っている。


 子宮は、あなたがたを、望んでいる。

 あなたがたのための、場所を、準備して待っている。

 あなたがたを、様々な形で受け入れる体制が、できている。そう言っている。

 だから、いくつもの羅列が、記されているのだ。

 その人間によって、状況はそれぞれ、異なっている。

 しかし、慌てることはない。

 受け入れるその体制は、たったの一つではないのだから。

 あなたに合ったそれが、準備されている。

 スペースクラフトは、個人のための、個人が購入した空間だ。

 所持している人、その中にいた人、近くにいた人は、そこに入り込めばいい。



 所持していない人、購入できなかった人、遠くに置いてきてしまった人。

 彼らは、共用施設である、ブラックタージへと入り込むのだ。

 黒い外壁で、外部のいっさいを中には入れない。そし、避難してきた人間のみを、受け入れるその場所。

 君たちも、これから、探してみるといい。

 場所を確実に、把握しておくといい。

 必要になるかもしれない。ならないかもしれない。

 それ以外の場所を、スートラは記してはいない。

 あとは、それが起こったときに、個人が、見つけていくことになるだろう。

 いくつもあるのだ。

 諦めてはいけない。

 スートラはそう、あなたに伝えている。



すべてが終わる、そのとき

クリスタルガーデンは消え

あらたなる、無の寺院がそこに


 無の寺院というのが、理解ができない箇所になると思う。

 ヒントとしては、その直前にある、クリスタルガーデンが消えること。

 つまりは、ここと、対応している。対応しているという箇所の特徴は、そう。共通点がありながら、相容れない相違点が、存在するということだ。

 共通点は、何か。建物だ。空間だ。

 そして、相違点。

 無は、豪華絢爛さの対極として、描かれている。

 つまりは、これまでの流れを、そのまま踏襲している。

 外側の目からの、内なる反転。今日のスートラでは、執拗に、そのことを繰り返している。


 混在しているように見えるときは、必ず、この二つの方向性が、同時に存在している。

 表面的ではない、目には見えないが、そこにある本当の実態。

 そういった場所。空間。時間。そこだ。そこを示している。

 無というのは、何も無いという意味ではない。寺院というのも、みんながよく知っている、寺院のことではないのかもしれない!

 象徴するものを、君たちは、考えてみる必要がある。

 内側の目で、見ることができなかったとしても、見ようとすること。

 今は、その見ようとすることが、非常に大事な、訓練になってくる。



残像として

聳え立つことになるだろう。


 スートラは、そう締めくくる。

 ここでも、残像という言葉が出てきている。

 ということは、最初の残像というのも、あるいは、時間が経って、振り返ったという、時間差による残像、ということではないのかもしれない。


 外側の目でとらえた映像を、内側の目に切り替える。

 それを、意味していることがわかる。

 外側を見ている瞬間、同時に、内側にも像は映っている。

 もう、今となっては、君たちが進めていった解釈に、私がなぞっているだけのようになってしまっているね。


 さあ、時は、来たよ。私の必要性はなくなった。

 講演は、ここで終了しよう。

 前回と同様、スートラが、印刷された紙は、入り口で回収され、シュルビス初は、何時間ぶりかに、地上の空気を吸った。






































2048 16





















 暗闇の中、上昇している自分を感じ続ける。強烈な光が、前方からやってくる。

 と同時に、背後から、くすんだ光もまた、体に近づいてきていた。私は誰なのだろう。

 失った意識は、この暗闇で、浮遊する物体として甦っていた。

 今は、束の間の静寂が、闇を取り囲んでいる。光がだんだんと、鮮明になってきている。

 轟音が光の中で炸裂しているような気がする。轟音が近づいてきている。前から後ろから。取り込まれるのは、時間の問題のようである。前方から、黄金に輝く光がやってきている。背後からは、青色、赤色、緑色、黄色が渦巻く、くすんだ光のようだった。どちらも迫ってきていた。私は上昇を続けている。だが、光に取り込まれるのは、時間の問題だ。

 私はどこにいるのだろう。そして、誰だったのだろう。この場所で、浮いているという感覚以外に、必要なものは、何もないと言われているかのように、情報や記憶の持ち合わせはない。

 私を、待ち合わせ場所として、二方向からの光の大海は、やってきているようだった。

 それは確実に、私に向かって迫ってきていた。



 ユーリ・ラスは、グリフェニクス本社の応接室で、リナ・サクライと対面していた。

「いつものように、社長室で、待っていたいんだけど」とユーリ・ラスは言う。

「会長は、不在ですので」

「どこに、行ってんの?もう帰ってくるんだよね?遅くても、今日中には」

「存じ上げておりません」

「存じ・・・って。あなた秘書でしょ」

「仕事以外のことは、把握しておりません。会長は、プライベートを重視する方ですので」

「秘書は別じゃないか。まあ、いい。会長室に行くぞ。そっちでなら、いくらでも、待つ」

「無理ですよ」とリナ・サクライは、毅然として答える。

「会長の生体認証でなければ、扉は開きません。会長一人か、会長と相席する方のみしか、あの部屋に入ることは、許されません」

 ユーリ・ラスは仕方なく、ソファーに全体重をかけて、大きく息を吐く。

「今日はもう、来ないんだな」

 念を押すように、リナに訊く。

 しかし、どうしても、今日話しておかなければ、気の済まないことがあった。

「わかりません。戻られる可能性もあります」リナは答える。

「ちぇっ。どっちなんだよ。じゃあ、待つよ。待てばいいんだろ。ここで待たせてもらうよ」

 ユーリは、全ての事業の統一と、展開を進めていたのだが、ふとアンディが買い集めた、ケイロ・スギサキの大量の絵については、どうするのかを聞いてなかった。

 それを埋めずには、肝心なことが抜け落ちているような気がして、気持ちが浮わつくのだった。

 リナもまた、応接室から動こうとはしなかった。

 何をやるわけでもなく、リナは、備え付けの机の前にある椅子に座って、虚空を見つめていた。

「会長は、女のところか?」

 ユーリは、気晴らしをする相手が、目の前にしかいないことに苛々した。

「どうでしょう」

「あんたも、会長の女なんだろ?」

 リナは答えない。

「まあ、いいさ。一目見て、あんたとアンディは、肉体関係があることはわかった。何だっていいさ。他の女が居ても、あんたは許せるんだな。そうか。むしろ、会長の女としては、あんたが一番のシンガリか。それなら、何も文句はいえないな。いや、言ったっていいんだぞ。私以外の女を、すべて切れって。そうじゃないか!あんたもまた、他に男が?アンディだけじゃないんだな。そういえば、前職は、何だった?誰のところに居た?あんた普通じゃないな。アンディと一緒で、パートナーは、無尽蔵にいるんじゃないのか?いい身分だな。お似合いの、カップルってわけだ。俺も、参戦していいのか?いいんだよな。このあと、付き合えよ。いいだろ?一度抱いてみたかったんだ。素晴らしい女じゃないか。頭は切れる。あらかじめ、状況や人の行動が見えている。先に先に、環境を整えていく女だ。それが実に自然だ。優秀な秘書だよ。しかも、見た目がいい。美人だし、服のセンスもいい。身のこなしも優美だ。そして、どんな人間が相手であっても、媚びる様子が全くない。気高い女だ。かといって、性格はきつくない。情のあるスタイル抜群の女だ」

「よくしゃべるのね。次から次へと」リナは言った。

 そのとき、部屋の扉がノックされる音を聞いた。

 ユーリの神経に、一気に緊張が走った。

 アンディが帰ってきたのだろうか。

 いや、だとしたら、応接室なわけがない。

「どうぞ」と無防備にも、リナは、芯のある低めの声で部屋を震わせた。

「失礼します」

 入ってきたのは、ドクター・ゴルドだった。

「なんだ、君か」

 ユーリは、ゴルドの表情からも、自分と同じアンディに、用事があることを悟った。

「開発は、順調か?」

「何のだ?」

「色々だよ。会長が、あまりに多くの要求を出したんだ」

「君の出番の方が、遥かに多いぞ」

「何をしに?」

「会長に、相談さ」

「だろうな」

 また、部屋がノックされる音がする。リナは変わらず、どうぞと答える。

 まるで、リナが呼んだ客が、次々とやってきているように、ユーリには感じられた。


 現れたのは、長身の細身の若い男だった。ユーリは、知らなかった。ゴルドの表情を伺うが、彼もまた面識のない男のようだった。向こうも同じだった。部屋にいる誰のことも、知らないようだ。アンディに直接、会いに来たのだろうと思った。

「そちらに座って」

 リナが用事のあったのは、唯一、この男であったかのようだ。

「誰なんだ」ユーリは、リナに向かって声を発する。リナは完全に無視した。

「D・Sルネです」と男は、誰に向かってというよりは、誰でもない虚空に向かって、頭を下げた。

「君は」声を出したのは、ドクター・ゴルドだった。

「君は、プログラマーをしてる人だろ?僕らが立ち上げたあらゆる構想を、最後に、現実におとしこむ、役割を果たす」

「はじめまして」D・Sルネは、頭を下げ続ける。本社を訪れたことはなかったなと、やはり虚空に向かって、ルネも話始めた。

「ずっと、オンラインでのやり取りばかりでしたので。こうして来たのは」

「アンディに、直接、会いに?」

 ユーリが、訊く。

「特に、用事はないのですが」とD・Sルネは答える。

「ちょっと、胸騒ぎを感じたもので」

「胸騒ぎ?」

「感じるんですよ。時々。いや、滅多にではないですが」

「アンディは、不在だよ」ユーリは、ぶっきらぼうに答える。

「そうなんですか?」

「お帰りの時間も、不明だ」

「こんなこと、今まで、ありました?」

 ルネは、リナに向かって問いかける。

「初めてです」彼女は、虚空に向かって答える。

 この女は、特定の誰かに、面と向かって答えるということがないのだろうか。

 言葉の発信先が、あまりに曖昧だと、ユーリ・ラスは思った。

 ゴルドの携帯電話が鳴っていた。ゴルドは退席することなく、周りに気遣いをする様子もなく、そのまま通信をオンにした。そして、何も答えることなく、ずっと相手の話を聞き続けていた。ゴルドの顔色は、みるみる悪くなっていった。それで?それで?と同じ言葉を発し続ける。

「わかりました。今は安静なのですね。よろしくお願いします。あとで見舞いに行きます。本当によろしくお願いします。命に別状ないんですね。緊急施術などの処置も、必要ないんですね。ただ、昏睡状態を保っている状態なんですね。容態が変わったら連絡してください。あ、それと、連絡先は、ここでいいのでしょうか?ちょっと待ってください。直属の上司の、ユーリさんが今います。彼に連絡された方が。あ、そうですか。私で。わかりました。失礼します」

 部屋にいる全員が、ゴルドの方を見ていた。


「なんだよ」とゴルドは、恥ずかしさを隠すように、次なる言葉を探し始めていたが、何と繋げていいのかつまってしまった。

 ゴルドはあらためて、ユーリに向き直り、坂崎エルマだと言った。

 彼女が突然倒れた。自宅で。発見者は、大家の男性だ。彼女の部屋に、マンションの会報を、届けに行ったらしい。インターホンで会話をしていた直後に、倒れてしまったらしい。すぐに、病院に搬送されて処置を受けたらしい。意識は戻っていない。だが、心拍数は安定している。今、原因を探っている。考えられるすべての検査を、始めているようだが、原因の特定には、まだ至っていない。このまま眠り続ける可能性もある。明日の朝には、目覚めている可能性もある。様子を見守るしかない。医者に任せる以外にない。ゴルドは一気に、まくしたてた。

 部屋は、静まり返っていた。

 ふと、ユーリは今、この応接室の真ん中に、坂崎エルマが横たわっている遺体があり、それを囲むように、我々が集まってきている幻想が、見えてくるようだった。彼女は目を閉じ、うっすらと、微笑んでいるようにも見えた。それでも、リナ・サクライはいまだ、虚空を見つめているような気がした。



 軽い揺れと共に、ユーリ・ラスの体は、ほんの少しぐらついた。眩暈かと思った。

 だが直後、あまりに激しい横揺れにソファーに倒れこんでしまった。自分がいつのまにか立っていたことに気づかされた。視界が消え、一瞬で、どこか別の場所に、飛ばされてしまったような一撃だった。だが揺れは大きく右側に傾き、その反動で、左に傾くそれだけで、止まってしまった。

 ユーリは、ソファに横たえてしまっていた。視界がいつになっても、戻ってはこない。

 脳天を思いっきり揺さぶられたかのように、元通りになるには、時間を要している。

 女の悲鳴が聞こえた。リナの声だろう。それぞれが直立を保てず、ソファーに床に倒れ混んでいる様子が、目に浮かんできた。だが、感覚が戻らなかったのは、視界だけではなかった。

 耳もだいぶん遠くなっていた。

 リナの高い声しか、聞こえなかった。男たちの声がまるで聞こえてはこない。

 リナの声以外に、部屋の様子を示す音が、聞こえてはこない。匂いは、初めからなかったのか、鼻を刺激してくるどんなものも感じない。一人、世界に取り残されてしまったような静寂だ。あの一撃で、自分は、世界から放り出されてしまったかのような、閉め出されてしまったかのような、そんな断絶の中にいた。

 声を出そうと思うが、うまく声帯を震わせることができない。

 今の揺れは一体何だったのか。体験したことのない感覚に襲われる。

 地震ではない。地殻がズレたような、そういう感じがしない。地下から突き上げられたものでもない。このビルの応接室に入ったときから、今思えば、不思議な感覚だったことを、ユーリは思い出す。地にずっと足が着いていない感覚が、続いていた。高層ビルだからという理由は、全く当てはまらなかった。そういう場所ばかりに、自分は居たからだ。ここが特別、高い場所ではなかった。しかし、感覚は、地上からはずいぶんと解離し、地球上の重力とは異なった変な浮遊感を、ずっと感じていたのだ。色々な人間が現れ、会話をし、意識が完全に、それらの人物を精査することに使われていたために、この感覚の違和感に関しては、認識から巧みに排除されていた。


 視界は突然戻る。音声も復活する。匂いもわずかだが、この場所特有のものを感じる。

 ゴルドも、ソファーに倒れ、リナは床に、D・Sルネは壁にもたれ、もう一人の男が、ドアをちょうど閉めているところだった。

「シュルビスじゃないか!何をしている!」

 ユーリは、叫ぶように言う。声の出し方を、ずいぶんと忘れてしまった人間が、暴発したかのような、いきなり発した大声だった。

 シュルビスは、その音量に、いささかおののいてしまった。

「どうしたんですか?ユーリさんもそうですけど、リナさんも。僕の知らない人もいる。集まっていたんですか?何か、会議でも、していたんですか?すみません。何も知らなくて。無断で入ってきてしまって。受け付けの女性も誰もいなくて。警備の人に止められることもなくて」

 シュルビスは、申し訳ないという思いに、全身が包まれていた。

「何をしに、来たんだ」

 ユーリは、さっきの揺れによって生じた、心の不安定さを、大きな声で誤魔化すかのように、今度は意識して、シュルビスにぶつけた。

「いえ、その、アンディ会長に。会長に呼ばれてまして、それで」

 シュルビスは、嘘をついた。

「会長は、残念ながら、不在だよ」ユーリは答える。

「会長が呼んでおきながら、どこかに行ってしまうとは。まったくどうなってるんだ」

 リナは、シュルビス初めを睨むように、警戒するように、じっと見ていた。

「皆さんは、どうして」

 その言葉に、反応する人間は誰もいなかった。

 リナはいまだに立ち上がろうともしない。皆、体の芯に、力が入らなくなっていると、ユーリは思った。自分もまたそうだった。揺れについて、言葉を発する者は、誰もいない。

 そのときだった。また、同じ状況が再現されたかのように、激しく右に、大きく傾き、悲鳴が聞こえ、左へと揺り戻された。

 この現実は確実だった。もう言い逃れは、できなくなった。五感は、再び飛んでしまい、再構成されるまでに、空白がしばらく続いていく。体からは力が抜け、その場に安定的に、固定することができなくなる。

 しかし、二度目は、それほど驚きはしなかった。視界が戻るのを静かに待った。

 部屋にいる人間は、皆立っていることができなくなっている。物はどうか。机や椅子、棚に置いてある物は、少しもズレてはいない。何もズレてはいないのだ。何が揺れたのだろう。重力が不可思議になった、この空間の違和感を、指摘しようと、ユーリは声を激しく張った。

「おい。そこの秘書!説明してもらおうじゃないか!」

 リナは、ユーリを睨み返した。無言だった。

「お前でもいい。ゴルド。説明するんだ!どういうことなんだ。おい、誰か。何なんだ、これは!何が起こったんだ」

 誰も何も答えようとしない。自分の声も、何故か、自分の知っているそれまでの声では、ないような気がする。

 そういえば、何もかもが、数分前とは異なっているような気がする。

「お前だよ」

 誰かの声が、鳴り響いた。

 そうだと、ユーリ・ラスは思う。

 聞こえてくる声が、誰の声なのかを、いまいち特定することができない。

 区別がつきずらくなっている。わからない。誰がどんな意図を持って、何の話しているのか。

 声の質、空気の震わせ具合からは、相手の心情がうまく読み取れなくなっている。

 何かがいつもとは違う。皆もそうなのだろうか?そうなんだよな?ユーリは想いを吐き出し、感覚を相互に交換したい衝動に、駆られる。

 何人いようが、たった一人になっているような気がする。これほど近くにいるのに。遠ざかり続けているような、気がする。

「お前だよ」と声は、連呼している。

 一人ではない。二人でもない。大合唱するかのごとく、お前だと、名指しをするかのように、ユーリに迫ってくる。

「お前が、説明するんだよ!お前が、知ってるはずなんだよ!お前に、我々は、このことを、一存していたはずだ。お前に、専門の部署を作らせたんだ。もう成果が上がっていてもいいだろう。それを聞きにきたんだ!忙しいのに、皆、こうして集まってくれたんだ。お前の報告を待っているんだ。何をやっている?はやく、説明を始めたらどうだ?この揺れは何なんだ?お前が、説明を容易にするために仕掛けた、演出なんだよな?そう聞いているぞ。さあ、説明するんだ。揺れは、いいからな!もう、十分だからな!もういいぞ。本当に。さあ、準備は整った。これだけ集まればもういいだろう?もっと必要か?もっと聴衆が必要か?あとは、我々が、手分けをして、伝言することを約束しよう。必要な人間には、確実に、情報は届く。安心してくれ。さあ、今日のメインに、移ろうじゃないか!」


 特定のできない太い声は、ユーリに迫り続け、そして物理的に、この肉体を圧迫し始めていた。苦しくなっていった。誰が口を開いているのか。本当にわからない。

 だが、ユーリはふと、測量部門を命じられた自分自身のことに、思い当たった。

 図形予報というのを、作成しかけていた。アンディの意図はおそらく、これからの事業展開が推移していくときの、さまざまな状況の変化を、情報として、所持していくということだ。経済の動向、国際政治の状況、天候の変化、災害の予測、人々の内面性の変化、さまざまな推移を、数値化して、グラフ化して、俯瞰するということを、アンディは常に望んでいた。その一端として、この時空間が、これから急激に変化していくことを、彼は予期していた。その推移を、科学的に、超能力的に解析してほしいと、測量部門に暗に指示をしていたのだ。

 ユーリが責任を担った。まだ、日は浅かったが、次第に、気流が不規則な動きをし始めていることを突き止めた。季節による変化の予測では、説明のつかない、局所的に、しかも、ランダムに、一貫性のない動きを同時にしている箇所が、膨大に増えていったのだ。

 ユーリは、その観測に時間を当てた。

 正確に、データをとろうと思ったのだ。

 だが、データにはまるで、意味はなかった。法則性は見いだせず、ただの空からの気まぐれが、降り注いでいるだけのようだった。アンディに早く、第一報を上げるべく、ユーリは奮闘したが、観測をすればするほど、頭は混乱していくばかりだった。

 全体性がまるで見えてはこない。そう。全体がつかめないからこそ、こうして、部分の膨大なデータに、翻弄されてしまうのだ。

 主導権がとれていない。ユーリはふと、何の繋がりもなさそうなケイロ・スギサキのことが頭に浮かんだ。アンディが、その全画を資金の力で集めたのだ。ケイロ・スギサキは、生涯画家と呼ばれ、そのデビューから死ぬそのときまでの、全ての作品が、同一の美術館に収められることが、初めから決められていた画家だった。そして、ケイロもまた、その生涯に渡る全作品の創造を念頭に、彼に言わせると、その瞬間瞬間は、全集の中の今ここを書くのだと、そういった考えの元に、製作を進めていることが喧伝されていた。その考えは、まさに、この場合、自分の測量部門で、結果を出すことにおいて、唯一、必要な武器であるかのように思えた。ケイロに、突破口が見いだせそうな予感が、したのだ。すぐに、アンディに、全画を見せてもらうよう、交渉しに来たのだった。

 だが、ふと、そのことを思い出すと、その、当初の思惑に、意識の焦点を当ててみると、この一連の出来事が、そのために起こった重要な材料であるかのように、感じられてきた。

 こうして集まってきた人間。そのあいだに起こった、あの揺れの片鱗。そうだ。

 あれは、片鱗に違いなかった。まだ、ほんの端っこの、欠片にすぎなかった。

 これから、起こるのだ。あんなのは、起こったうちには入らない。ほんとに狭い、たったのこの場でしか、起きなかったことなのかもしれない。本番は違う。全体だ。全体でそれは起こる。この文明世界全体で、それは起こる。同じ世界観を共有している全世界で、それは起こる。文化や人種、気候や経済力の相違を越えた、その底辺にある、共通のテクノロジー社会で繋がったこの基盤において、その全体で起こる。

 気流の変化に伴う、地上、宙空、三次元、四次元に渡った全体における、強烈な変化。変調だ。それを、アンディは捉えて、予測して、対応しろと言っていたのだ。

 そのための状況は、全て俺が整える。そのための資金は、すべて用意する。

 何も心配はいらない。すべては俺が整える。君は、やるべきそのことに集中してくれ。必ず、良い結果が出るだろう。君ならできる!そのために必要なことは、全て、この俺が整えるのだから。そして、アンディは、姿を消し、代わりに、別の人間たちを集め、新しい予兆を始めとして、違った局面へと導いていったのだ。



 ユーリは、それぞれの人間を、個別に直視していた。

 しばらく、それぞれを見続けていた。だが違うと思った。そうではない。

 結局、ケイロの絵の全容を、見ることはできなかったが、とにかく、全体を見るのだ。

 どんな局面においても、できるだけ全体から見る。全体しか見えないのだという、視点から見るのだ。

 ユーリは、この空間を俯瞰した。さらに、広げていった。

 ビル全体に、ビルを取り巻く周りの建物。街並み。人々の動き、そして、街全体。

 その中における、今この空間。この空間で起こっていること。これから起こること。

 ユーリは、いつのまにか、時間の枠も越えていた。この場にもたらした、何らかの力の存在。そして、未来に導いていくこの場の引力。

 すべては、たまたま、何の意味もなく、起こっていることではなかった。

 時間を拡張していけば、全ては因果で繋がっている。意味はないのかもしれないが、因果の連鎖が、そこにはある。その範囲を、できるだけ広げるべきだった。

 最も広がった全体性を捉え、そこから、この今へと意識を収縮してくる。

 ユーリは、そのように目の前の光景を、捉え直していった。すぐに、目に入ってきたのは、シュルビス初だった。まさかシュルビスが、この場の中心に位置する存在だとは、思わなかった。ユーリはシュルビスただ一人に、焦点を合わせていった。そして、彼以外の背景を、全て消していくかのように、ただ彼一人に集中していった。そして、次第に、彼そのものの輪郭もまた、溶解していくようであった。

 目に映った全ての光景は、消えてしまった。代わりに、浮き上がってきたのは、シュルビスが、この場のキーポイントであるという事実だけであった。

 シュルビスは、何も言葉は発しない。

 この男が本当に、重要な情報を持っているのだろうか。もしそうだとして、何と、声をかけて引き出したらいいのだろう。

 ユーリは、関係のなさそうなゴルドに声をかけた。研究は順調かと。最近何か新しい進展はあったのかと。そのときだ。シュルビスが急に蹲り、震え始めたのだ。D・Sルネは駆け寄った。背中をさすっていた。シュルビス初は泣き始めていた。リナ・サクライは、一人高いところから見下ろすように眺めていた。ゴルドは携帯電話をしきりに気にしている。坂崎エルマの容態が気になっている。三者三様で、それぞれが心ここにあらずといった風に、ユーリには感じられた。皆、意図的に、あの揺れとは呼べない、ズレのような現象から、意識を逸らそうとしているようだった。逃避の場所を、意識の中に探しているようだった。ユーリは泣き止まなかった。一人、何か重大な秘密を背負っているかのように、肩を震わせていた。声を上げ始め、リナは呆れたといった表情を、浮かべ始めた。

 だが、次第に体の震えが止まり、涙の後も消え、立ち上がり、ほんの少し、体全体が大きく見え始めた。シュルビスは、自信にも満ちた顔つきに変わり、背筋もぴんと伸びた。空など、見えないにも関わらず、天を見上げ、雄叫びをあげるかのように、言葉にならない言葉の波動を、遥か高い場所に伝えるようなしぐさを、繰り返した。

 ほとんど、この男は、気が狂ったのだと、誰もが思い始めたその瞬間だった。シュルビスは、ユーリに向かって話し始めた。

「あなたが、測量部門のトップの方ですね」

 まるで、シュルビス初は、名前を完全に忘れ、初めて出会った男に対するかのように、ユーリに向かって話しかけた。

「あなたに、お話があります」と丁寧な言葉使いで話し続けた。

「大事な情報です。あなたにしか、理解ができないことかもしれない。しかし、状況が状況だ。皆にも聞いてもらいましょう。ここにいる全員に関わることです。それぞれが自分の力で、この時期を通過しないと。僕が、先日、偶然手にいれた情報と、あなたの部門がなさるコンセプトの概要を、うまく合わせることができれば」ユーリは息を飲んだ。

「さっきの揺れのこと。わかるんだな」

「はい」とシュルビスは静かに答える。「あなたの図形予報の話」

「まだ、何も、進んではいない」

「もちろんです。何も起こってはいない。サンプルがない。今度のことを、是非、研究の対象にしてしまったらいい。そこから発展させていける」

 ユーリは、黙って頷いていた。何故かしら、強い説得力が感じられた。

「僕は、その情報を、学問や長い探求心へと、変えることはできそうにない。その役目は、あなたにある。リー・グループにもまた、貢献してください」

 ユーリ・ラスは頷いた。

「僕もすでに、記憶はそのときよりも、薄らいでいる。どんどんと消えかかっている。正確ではないのかもしれない。でもそれを使って、生かしてほしい。足りないところ、誤読をしてしまったところは、あなた方で、修正が、可能なはずです。僕はあくまで、全体像を。これから起こる、通過していかなければならない、現実の全体像を、示すことができるだけです。この揺れは始まりだ。そして、これは、地上、そう、地面が、揺れたわけではない。地面にだけ動きがあったわけではない。わかりますよね」

 シュルビスは、ユーリに同意を求めた。

「三次元、四次元の立体世界において、そのすべての領域において、揺れたのだと。宙を含めた、空間と空間同士の重なりが、ズレた。新しい隆起が、古い空間とクラッシュした。可能性は色々とある。ある現実と、別の現実との側面が、触れあった。行き来しあった。交わるはずのない人間同士が、一瞬交わった。色々な可能性があるし、またそれらすべてで、あるのかもしれない。あるべき時間と、そこにはないはずの遠くの時間が、一瞬出会ってしまった。相対してしまった。そして、これは始まりです。前兆です。私たちは、これまで体感したことのない振動の中を、生きることになるのです。それは、揺れという現象から、スタートする。地面など、なくなります。重力も感じなくなります。飛んでいっているのか、落ちていってるのかも、何もわからなくなります。五感はすべて、使いものにならなくなります。我々は拠り所を失うのです。つかまるべきところは、どこにもない。人はもがきます。何にでもいいからと、飛び付こうとします。固定された、固定されているように見えるものになら、何にでも。必ずそうします。そんな中、さらなる追い討ちが起こります。水の大量発生です。水源が特定できない大量発生です。地面が失われ、天井がどこなのかわからなくなった時空世界です。水の出所を探ることなど、愚の骨頂です。それはただ、発生するものなのです。そして空間は、水没を余儀なくされる。そして我々は、溺死する。それでいいのです。水はただ、出力のみを備えた、エンジンであるかのごとく留まりを知らない。流れなど生まれない。ただ、沸きだし、吹き出し、空間を埋め尽くすように、空間内をかき回すように、激しく旋回していくことでしょう。そのあいだ、何故か、火が発生します。水に対抗するかのように、至るところで、火事が発生するのです。火の元など、わかりません。ただ発生するのです。そして、水もまた、止めどなく出続けます。互いが相殺することも、当然ありません。我々の知っている世界では、すでになくなっている。互いが互いを尊重するように、力を貸し合うように、さらに勢いを、増していきます。もう、私たちは、すでに粉々に破壊され、跡形もなくなっているかもしれません。出火はとまらない。そして、爆発が始まる。火と水が、助長し合った結果、それはぶつかりあう局面がやってくる。爆発は小さく狭い場所で、同時多発的に起こり、次第に、爆発同士が結びつき、より大きなひとつの爆発へと、統合していくかのように、威力を増していきます。そして、爆発は、最後のとどめを、全時空に炸裂させ・・・消えてゆきます」

 部屋は、静まり返っていた。誰も反論はしなかった。

 シュルビスは続けた。

「ノアの方舟を、ご存じでしょうか」



「ノアの方舟は、ご存じでしょうか」

 部屋はさらに、静まり返っていった。

「生き延びる、ただ一つの方法。それは、その災害とは、とても呼べない大混乱期を、逃げることで乗り切ることは、できないという自覚です。それは確実に、我々を飲み込んでいく。この時空間で起きていることなのです。それも、その中の一部が、例えば、地球における無数の地殻プレートの、たった一つの箇所がズレるといった、そういったものではないのです。

 この時空間全体で、さまざまなズレ、クラッシュが、根元的に起こる。どこにいても、逃れようがない。我々はこの時空内に存在しているのだから。この時空間の外に、出る以外に、逃れる方法はないのです。つまりは、逃げても駄目。逃げないということが、何よりも重要なことなのです。逃げずにただ、受け止める。この場に留まる。どこに居ようが、その場に留まるということが重要なのです。ただ一つの工夫だけが、必要なことだ。知っているか知らないか。ただのそれだけ。そして知ったときに、それを受け入れ、実践するのかどうか。あなたがたが、実践すればいいのです。隣の、その人ではない!あなたがやれば。あなたが、自らの責任でやれば。ノアの方舟です。ノアの方舟に乗れば助かるのです!その、激流の渦中にいながら、それを使って逆に、あなたは、その外側へと飛び去ることができる。つまりは」

 シュルビスは、乾き始めた喉を、自らの唾で潤すように、飲み込んだ。

「つまりは、利用することです。利用するために、こうしたことが起こっていることを、知らなければなりません。巻き込まれ、粉々に消滅するために、これは起こることではない。知ってるか、知らないか。ただそれだけなのです。私は、偶然知り得ました。あなたたちも、それを知り始めた。機は十分に、整い始めた」



 スペースクラフトが、その方舟です。あなたたちの。あなたたち個人の。方舟に乗ってください。今すぐに。それが可能でない人は、ブラックタージに。そこが必要な方には、必ずわかります。それは、共用の大きな方舟なのです。出放を待っています。

 そこに入っていってください。他にもいくつかあります。あとは、個々が必要に応じて、見つけていくはずです。そう伝えてください。すぐに伝えるのです。シュルビスの言葉に、D・Sルネはすぐに関根ミランに、そして関根ミランにもまた伝言するように言った。加穂留さんにもすぐに。ゴルドは、坂崎エルマが入院している病院にかけたようだったが、繋がらなかった。元妻にかけたのだろうか。小さな声だったので、シュルビスには聞こえなかった。リナはアンディに頼まれていた女性のリストに電話をかけていた。マナミ坂下さんをお願いします。その名の女性と、しばらく会話をしていた。江地凛さんにも、確実に伝えてください。そう言って、リナ・サクライは通話を絶った。それぞれが、慌ただしく連絡を終えると、再び応接室には、静けさが漂った。

 シュルビス以外に、口を開く者はいなくなっていた。

 それが始まった世界は、地面をなくし、シークレットフォールズが至るところに、出現します。方舟に入らない限りは、確実に、その闇へと落ちていきます。人も物も飲みつくしていったその谷は、谷同士で融合を始め、巨大なホール、ブラッキホールを形成していくのです。その巨大な黒い闇は、上昇気流を発生させ、そして、螺旋状に飲み込んだものを、すべて舞い上げていきます。粉々に砕かれた物質が、巨大な鳥の羽のような形状を表しながら。飛び立っていくように、上昇していきます。クラスターウィングと呼ばれるその現象は、各地で起こっていく。同時多発的に。それらは、融合を果たし、巨大な空間、ホワイテスタホールを形成していき、ついに、激しい変形を繰り返したその世界は、だんだんと静けさを取り戻していく。地球上が、海の中であるかのように。今だ、地面は、現れず、天地がかろうじて、その区別がつくといった段階で、穏やかにとどまり続ける。

 あなたたちは、それぞれの場所で、この時を迎える。ついに、新しい大陸、ニューレムランティズと共に、夜明けは訪れる。あなたたちは、それぞれの場所で、夜明けを見ることになる。

 さあ、もう、今にも、時空間は崩壊を始めます。閾値に近づいています。

 ここが限界なのです!この時空間が誕生した瞬間に、発生したエネルギーの、行き着いた場所。これ以上の膨張はありません。最後の拡大を、急激に今終えたのです。その反動を使い、空間は、急激に縮小します。どこまでも、膨張した時空間を削り取っていく。始まりのその一点にまで、戻るまで。少しの辛抱です。

 スペースクラフトは、世界に行き渡りました。見事に間に合いました。

 地上は、キュービック化していくのです。

 人の意識は、キュービック化し、生命の業態もまた、キュービック化していくのです。

 時空間もまた。新しい仕様へと変わっていく。

 生命はうねり、進化していくのです。皆さん。新しい世界で会いましょう。

 それまではそれぞれが、この通過する現実に、耐えていきましょう。

 しっかりと、その変化を脳裏に焼き付けるべく、注意深く、観測していきましょう。

 それぞれが、この特異な時期を、その才能をもって、吸収し尽くすべきなのです。

 それが、あなたたちの、その後の人生、仕事にも反映されるはずです。また会いましょう。今とは違った形で。無事を祈っています。それでは。


 シュルビス初は、そう言い残すと、誰よりもはやく、この場を去るべく、あっというまに出ていってしまった。ほとんどその場で、消えるようにいなくなってしまった。それが合図であるかのように、揺れは一往復するだけでは、終わらなかった。どの方向に揺れているのかも、わからなかった。自分の外側が、揺れているような感覚もなくなっていった。体の中の全ての細胞が、震え始め、からだの外へと飛び出しているかのようだった。外側の目に見えない物質もまた、体内へと入り込み、その出入りは激しく、輪郭をなきものとして、次々と溶解していった。

 ユーリは自分を見失っていた。

 輪郭こそが、自身と外の世界を分ける、唯一のものであったからだ。

 揺れに揺れ、揺さぶられ続けた世界に、シュルビスが予言した通りの水が、発生した。

 すでに、水の中に、ユーリは浸かっていた。肉体の輪郭を失っていたために、水が体内に入ってきたのか。体のある場所から、だいぶん離れた場所で、水を感知したのか、わからなかった。地球上のあらゆる場所に、自分が遍在しているかのようだった。

 水は増え、流れは旋回し、なくなり始めた輪郭から溶け出た物質を、より混ぜていくかのごとく、そして、混ざりきった混沌そのものを、焼ききるかのごとく、火が生まれ、水の旋回に連動するかのように、激しく、天高くに燃え上がっていった。

 不要な物質を、無に返すかのごとく、空間全体が火葬されるかのごとく、激しく燃えていった。

 爆発が至るところで起こり、轟音が鳴り響いていった。地獄と化したその世界を、ユーリは、しっかりと目撃していた。そのときはすでに、自身のスペースクラフトの中にいた。スペースクラフトは確実に、この身を守りきってはいたようだが、それでも、激しさを増していく外の世界は、スペースクラフトの輪郭を、次第になきものとして、ユーリはいつのまにか、クラフトの外にいるのか、中にいるのかがわからなくなっていった。自分が今どっちにいるのか。外へと放り出され、宙をさまよっているかのような。水の冷たさも火の熱さも、全く感じないこの肉体は、いったいどこにいってしまったのか。全ての感覚は逸脱し、混沌の海の中に放り出されているかのようだった。安全なはずのスペースクラフトに、全ての混沌は侵入して、飲み込まれてしまったかのように。だが、巻き込まれているようで、巻き込まれてはいない。からだは巻き込まれているようだが、意識はそれとは関係なく、超然としている。スペースクラフトは、確実に、この身を守ってくれている。それがなければ、今ごろは、この世界に巻き込まれて、死んでしまっているに違いなかった。こうして、超然と経過を見続けることは不可能だ。スペースクラフトと一緒にいるのだ。その想いを、ユーリは強くもつようになっていった。スペースクラフトを物理的に感じなくなればなるほど、何故か、それまでよりも、近くに感じるようになった。同化しているようにも感じられた。だが、どこにも存在はしない。同化とは違う、融合の仕方をしていた。スペースクラフトがふと、生き物のようにも感じられた。その生き物を、仮の住まいとして、今、自分は完全に乗っかっていっている。そして、世界のキュービック化を目撃している。

 スペースクラフトそのものも、それに連動して、進化していっている。

 生き物の突然変異が起こっているかのように。ユーリは、さらに、物体としての自分を見失い、スペースクラフトを見失い、そして、世界の混沌に飲み込まれることなく、飲み込まれていった。

 シュルビスの言ったとおりだった。彼が言ったことは、ほとんど間違いではなかった。スペースクラフトに入れという、その情報だけで、すべてがあるべき形へと自然に移っていくことができる。しかし、その簡単さとは、裏腹に、こうしてスペースクラフトが世に登場して、展開していった労力。スペースクラフトが登場する土壌を、社会がつくり、そして、スペースクラフトへとテクノロジーが転化され、またそれまで発展してきた過程、関わった膨大な人たちの知識や、エネルギー、時間を思うと、そのどれが一つ欠けていたとしても、こうした今に繋がることはなかったのだという、その全体性に、深い感慨を得ていったのだった。



今世を生み出した欲望が消えたとき


 えっ?誰の声だろう。ユーリは、音声の出所を探ろうとする。



今世を、生み出した欲望が消えたとき

今世もまた消える



今時空を、生み出した因果が消えたとき

今時空もまた消え去る



 声というよりは、何だろう。

 ユーリは、出所を探すのをやめる。



今時空を、生み出した、その因果を生み出した、すべての因果の網もまた

全消滅の連鎖を

始める



 自身の耳を探すまでもなく、全体で注意深く聞いた。

 輪郭の失った、広がりすぎたその意識全体で、音声ではない何かを、捕まえ続けている。


 時空が、今縮小し、消えていこうとしているその時空が、語りかけているような気がする。

 あったはずの時空が、最後に囁いているかのような。



存在本来の姿

多次元世界への回帰


それは終わる



今時空を、生み出した因果が、消えたとき


今時空もまた、消える。



今世を生み出した欲望が、消えたとき


今世もまた、消える・・・



 狭い場所に閉じ込められてきた、獰猛な動物が、その檻という輪郭を、溶解させていったとき、それまでの怒りを全て、閉じ込めた世界に向かって、吐き出し、荒れ狂い尽くしていったその果てで、今。

 ようやく、穏やかで、広がりのある、動きのなくなった世界が、出現しようとしていた。

 スペースクラフトは、どこにもないが、ここにある。

 ユーリは、そう思ったとき、このスペースクラフトが、今、この新しく生まれようとしている身体に、あらかじめ内蔵されていることを、知った。

 来たるべき時空においては、自分が世界であり、世界がまた自分でもある。

 時間も、空間も、すべてはこのあたらしい肉体と、同義になっている。





あなたが、この暗夜を通過していくとき

これまで、地と認識していた空間は

シークレットフォールズと化す

その場所が





               Dead VIBLE 2048 完

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