2020 『博士の愛した数式』の構成要素について その2

 『博士の愛した数式』の構造分解、第三回目です。


■セーフティ・ブランケットとしての数学


 博士の病気はおそらく後天的な前向性健忘です。1975年以降、80分しか記憶できないという状態にあります。

 博士にとって世界は見知らぬ場所、見知らぬ人間、合わない時間という不条理な状態です。

 博士は不安になると数学の話をするという癖がありますが、それは数学が博士にとって確実不変のものであるからです。数学が博士の不安を取り除く、セーフティ・ブランケットになっているのです。


 博士は八十分の記憶のなかで、営々と数学の証明を積み重ねています。彼の身体に張りつけられたメモには、私やルートの記憶のほかにも、数学の論文や公式などの記述があります。自分の行動を忘れてしまう博士の並々ならぬ努力で、博士は論文を書いています。


□シーン18 静けさ

私は、博士が数学の問題を解いたときに得るのは「静けさ」だと述べています。あるべきものがあるべき場所に収まり、一切手を加えたり、削ったりする余地もなく昔からずっとそうであったかのような状態。それは調和であり、博士の時が永遠に繋がった状態であり、後述する0のように安定した状態です。博士が80分ごとの混沌のなかで失ってしまった平和な一瞬でもあります。


■数が象徴するもの


 お話のなかでさまざまな数字が出て来ますが、数式が現実の象徴になっています。

 まずは私の誕生日である2月20日(220)と、先生が論文のお祝いにもらった時計の文字284。これは友愛数という組み合わせで、私と先生との深い繋がりを象徴する数になっています。


 博士は素数を大切にします。素数は1より大きい自然数で、正の約数(割りきれる数)が 1と自分自身のみであるもののことです。

 博士は子供の正当な庇護者であり、素数を愛するように私の子供であるルートを愛します。博士は、私には必ず数字の紹介から入りますが、ルートには無条件の抱擁を与えます。博士にとって素数も子供も慈しみ、無償で尽くし、敬いの心を忘れない対象です。


 作中に双子素数の紹介がありますが、その文章がとても美しいです。

 双子素数とは、17・19、41・43など、続きの奇数がふたつとも素数であるところを指します。


 友愛数でも双子素数でも、的確さと同時に、詩の一節から抜け出してきたような恥じらいが感じられる。イメージが鮮やかに沸き上がり、その中で数字が抱擁を交わしていたり、お揃いの洋服を着て手をつないで立っていたりする。


 概念として数字を捉えると、数学がわからない自分でもその美しさがわかるような気がします。小川氏や博士は、数学の翻訳者でもあるのです。


■オイラーの公式


 作中でもっとも重要な役割を果たす公式です。

 熱を出した博士を泊まり込みで看病した私は、ルール違反だということで博士の家の家政婦を解雇されてしまいます。

 その後ルートが博士のもとへ行き、義姉と私は言い争いをします。「お金が目的か」と聞く義姉に私は「友達だからです」と答えます。

 博士は「子供をいじめたらいかん」と数式のメモを置いて去り、その数式を見た義姉がふたたび私とルートを博士の家に受け入れます。そのきっかけとなった数式が、オイラーの公式です。

 πとiを掛け合わせた数でeを累乗し、1を足すと0になる。式で書くとこうなります。


eiπ + 1 = 0


eはネイピア数 (自然対数の底)

e= 2.71828 18284 59045 23536 02874 71352.....と延々と続く超越数です。


iは虚数単位(2乗するとマイナス1となる数)

虚数とは想像上の数「Imaginary number」のことです。√のなかが負の数になると、実数の範囲では「解なし」となりますが、2乗するとマイナス1になるiという数(虚数単位)を考え出したことで、√のなかが負の数になる2次方程式が解けるようになります。


そしてπは円周率です。


円周率と虚数単位を掛け合わせた数でネイピア数を累乗(同じ数をかけ算)する。

その数に1を足すと、結果が0になる。


 こういう式ですが説明している私がよくわかりません。

 頭が算数で止まっているので、「πとiを掛け合わせた数でeを累乗するとマイナス1になるの?」くらい単純なことしか思いつきません。


 ですが「πとiを掛け合わせた数でeを累乗」が非常にややこしそうであることだけは、私にもわかります。


 思いきり簡単に解釈すると、混沌の状態が、整数の1を足す(違う要素が入る)ことで、調和が取れた状態、0になる。

 博士の80分が何度も続く混沌の状態が、訪れた友人たちのおかげで調和の取れた状態になる。

 そういう解釈でいいのだろうかと思います。


 このオイラーの公式を、小川氏はとても美しい文章で表現しています。


果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。

 オイラーの公式は暗闇に光る一筋の流星だった。暗黒の洞窟で刻まれた詩の一行だった。


■0の概念


 ルートがキャンプに行き、私は博士とふたりになります。ルートがいないと淋しくなる私は、空っぽとはつまり0を意味するのだろうかと博士に問います。

 博士は0を発見した人間は偉大だという話をし、0を発見したのは名もないインドの数学者だと説明します。

 博士は0の概念をこのように説明します。


梢に小鳥が一羽とまっている。済んだ声でさえずる鳥だ。くちばしは愛らしく、羽根にはきれいな模様がある。思わず見惚れて、ふっと息をした瞬間、小鳥は飛び去る。もはや梢には影さえ残っていない。ただ枯葉が揺れているだけだ」(中略)

「1-1=0

美しいと思わないかい?」


 数式が哲学のように見える、美しい瞬間です。


 数学や数式の美しさを翻訳することにかけては随一の小説です。

 長々と説明してしまいましたが、興味がある方はぜひ小説を手に取ってみてください。


 今回はここまでです。お付き合いありがとうございます。

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