2020  それはあまり重要ではない

 私は自分が思ったことを文章にする機会が少ない。

 と言うと今までWeb 上で書いてきた文章は何なのだと人から言われそうなのだが、私は自分のなかにある筍の芽を掘っていくと文章ができあがるという、そんな文章の書き方をしている。

 私にわかるのは筍の芽の部分だけで、構成や結論はだいたい自動で出てくる。頭で構成してから書くと、構成とは別の文章ができあがる。小説も雑文も自動筆記に近い。なので「あなたは何を書きたいんですか?」と聞かれると「さあ」としか答えられない。自分のなかに飛んでいる蝶々を追いかけたいだけである。

 短文でも約三十万字の小説でもやり方は同じなので、そういう書き癖なのだろう。


 なのでとくに小説の推敲が苦手である。

 言葉の推敲はふつうにできるのだが、構成をいじることがなかなかできない。最近自分の小説の書き方は初心者から抜け出していないのではないかと痛感するようになった。他人にどんな影響を与えようとか、どんな感情を持たせようとか、意識したことがない。自分のなかの蝶々を追いかけているだけである。

 もっと頭を使って文章を書くべきなのだろうが、エンターテインメントは一生書けないんだろうなとも思う。自分の勘の精度を上げるしか、文章が上達する方法はないのだろう。


 自分の考えていること以上の何かを書けたときが快感なのだ。

 子供のときから(覚えているかぎりでは十六歳のころから)私はそれが楽しくて文章を書いている。

 小学校二年生のときに初めて作文を作ったとき、私は歯医者に行った経験を書いた。私は「お医者さんが使っている道具の名前がわからん」と思いながらもめちゃくちゃな擬音を使って作文を書いた。当時の自分の言語力を駆使して、歯医者にかかった自分の実況中継をした。なんか知らんが自分は文章を書けるらしいと悟った最初の体験だった。


 私は言葉を話すよりも文章を書いたほうが楽という変な子供だった。言葉を話すと主語がどこかへ行き、話の順番がわからなくなる。私は考えるのが遅いから話すのが苦手なのではないかと思っていた。苦手意識がなくなった今でも、聞き役のほうが得意である。


 自分の文章の書き方は自由連想法なのだろう。

 だから自分でコントロールできないし、コントロールする気もない。

 自分の考えや感情をそのまま文章にすることにも興味がない。それはだいたいTwitter で事足りる。私にとって、表層に浮かぶものはあまり重要ではないのだ。


 今回はここまでです。お付き合いありがとうございます。

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