リンカーネーションズ deux

@jealoussica16

第1話


刑事が一人でやってきたのだ。

「今、時間は、大丈夫ですか?」

 その男は、自分からは、名乗らなかったにもかかわらず、私はすぐに、刑事だと理解した。

 ただ、どちらの刑事だったのかが、分からないだけだった。


「この前は、悪かった」

「いえ、とんでもないです」

「もう、客は、来ないのか?」

「営業時間は、さっき終わりました」

「だと、思ったよ」

「お一人なんですね」

「今日は、仕事じゃない」

「というと?まさか」

「いや、そうじゃない。そういうことじゃない。ただ、この前のことが、気になっていてね。その、俺の仕事柄なのか、性格上なのかは、わからないが、事実と違ったままの情報を、そのままにしておくことができないんだ。それを、今日は、修正しに来た」

「何のことですか?」

「君の仕事のことだ」

「わかりませんね」

「君は以前、会社員をしていたなと、もう一人の男が言ったはずだ」

「ああ、その話、ですか」

「それからやめて、フリーで、占いの真似事を、テレビ電話を使ってやるようになったと」

「そうです」

「それで、在宅はやめて、本格的に、物理的に、占いの館を作って営業することにした。しかし、事実が一つ抜けている。会社員の後、君は、デザイナーに転身したはずだ。カード制作の、デザインを担当する、フリーランスだ」

 二人のあいだに、妙な沈黙が生まれた。

 私は何も、答えなかった。


「あの男は、その事実を抜かしてしまった。思わず、飛ばしてしまったのか、何なのか。いいや、違う。わかってるよな」

 私は、それでも、答えなかった。

「なぜ、俺が知っているのかって?そして、あいつは、その事実は知らなかった。公にはされていない事実だからな。しかし事実は事実だ。表も裏も、すべて込みで、一つの実体だ。そうだよな?」

「強請に、来たんですか?」

「だとしたら、どうする?」

「警察官とも、あろう人が」

「関係ないね」

「ただ、そういう事実は、ありましたが、別に、公表しても構わないんですよ」

「履歴書には、そう書いているのか?」

「どうでしょう」

「書けるはずもない」

「今後は、考えておきましょう」

「履歴書が必要な事など、あるのだろうか」

「いやね、実は、この店も畳もうかと思っているんですよ」

「潰すのか?」

「もうね、潮時だと思うんです」

「まだ、始めたばかりじゃないか。客足も、伸びてきているようだし」

「今のところは。でも、いつ途絶えるのかわからない。あなたたちの捜査、次第じゃないですか。あのカードを、没収する時も、実に近い気がしますね。そして、遺体が、発見される日も。どの道、この唯一の物的証拠から遡って、捜査する以外に、打つ手は何もないと思いますよ。そこから、始める以外には」

「それは、そっくりとそのまま、君に返すよ。君も、そこから始めるしかないんじゃないのか。何が言いたいかわかるだろ?この仕事は廃業するって言ったよな。何をする?はっきりしてるじゃないか。戻るんだよ!その仕事に。その履歴書には記載できない仕事にな。カードデザイナーか。つくづく、カードに縁のある男だ。いいか。そこに、始まりはあるんだ。そこから始めるしかないんだ。どうしてあの時は、やめてしまった?最大のチャンスだったはずだ。自ら放棄したのか?それとも、続けられない事情のようなものができてしまったのか?何だっていいさ。続けられなかったという事実だけが、今は残っている。しかし、ちょっと調べれば、この通り、ちゃんと正式な情報として上がってくる。どれだけの期間やってたんだ?生計は成り立っていたのか?いくつこなしたんだ?納品はいくつしたんだ?頼まれたものを、造っていただけなのか?それとも、自ら作ったものを、売り込んでいたりもしたのか?まあ、いい。そうだな。廃業は、賛成だ。何を予感しているのかは、知らんが、そうだな。君が店を閉めて、行方を眩ます前には、カードは受け取っておこうかな。ただし、刑事として正式にではない」

「何なら、今持っていっても、構いませんよ」

「なあ、この前の話だけど、俺は全然、鵜呑みにしてないからな。この前来たとき、その一週間前に、ある男のセールスに、乗ってしまって購入したと。あの話。俺は、まったく信じちゃいない。あの男は、信じたようだが。君が自ら作ったものではないという証拠は、どこにもないんだから。自作したカードで、独自の占いをしている。その可能性は、まったくもって否定できない。君はすべての主導権を握りたいと考えていた。カードも、既存のものではない、人が作ったものではない、自前で、全てを飾りたかった。そして、そのカードも、誰かに納品することを拒み、自ら使用することで」

「その全ての主導権を、とりたかった」

 私は、男の口調を真似て、言ってみた。

「何です?その主導権っていうのは」

「すべてを、自分仕様にしようとした」

「それなら、達成したじゃないですか。してるじゃないですか。どうして、やめてしまうんですか?理由がないじゃないですか」

「結論を、今すぐに出すのは、あらゆる意味において、危険だね。その真相は、ずっと後になってから、明るみに出る。必ずな」

「どちらの事の、真相が、先に解明するのか。楽しみですね」

 私はそう言ってやった。

「とにかく今日、あらためて、この前の誤った事実は、修正させてもらったからな」

「気が済んだのなら、幸いですね」

 刑事の男は、今日もカードを引き取っていくことは、なかった。

 このことが、何を意味しているのか、私にはわからなかった。






















 その刑事が帰ってしまった後、私は無性に、誰かが傍にいてほしくてたまらなくなった。

 何故か、他者の不在性を、これほどまでに感じることはなかった。

 居たはずのものが居なくなる。そうだと私は思った。どこかで感じた状態だった。

 あのときだと、私は思った。あのとき、あの仕事を、していたときだった。

 あまりに一人で居続けることに耐えられなくなっていったのだ。あれほどまでに、孤独になるとは、思いもしなかったのだ。私は会社員時代もずっと、一人になりたかった。本心を言えば、誰とも関わりたくなかったのだ。学生のときからそうだった。物心ついたときから、そうだった。私は誰とも話したくはなかったし、誰とも遊びたくはなかったし、家族とさえ、一緒に食事を共にするのが苦痛だった。私という人間は初めからそうだった。だが大学時代、軟派なテニスサークルに入ったことで、逆にいつも、人に囲まれているときの方が、一人でいるような感覚を持つようになっていった。大人になるにつれて、その傾向は強くなっていった。小学生時代は、本当に一人遊びが得意で、勉強に熱中することや、野球の個人練習に没頭するのも、ただ物理的に一人になりたかったからだった。熱心でも、努力家でも、何でもなかった。ただ、外部の全てから、切り離されたかっただけだった。ところが、大人になるにつれて、だんだんと、そのような一人きりでいる状況の方が、他者の目線を意識することが多くなっていった。こうして、一人きりでいる状況を、他人はどのように見ているのだろう。他者の目には、どのように映っているのだろうと。一人でいればいるほど、周囲には、たくさんの人が集まってきているように感じられるのだった。そうであるならばと、私は一浪した末に入った大学で、方向を一新した。人の群れに、自ら飛び込むことにしたのだ。それもできるだけ中心に。できるだけ、人込みの色の濃いところに。そしてそうすればそうするほどに、逆に私は内部においては、一人きりの時空間を、見事に確保しているような感覚になっていった。その流れは卒業後、就職してからも続いていった。そもそも就職もまた、そういった観点で選択したのだ。できるだけ人と関わる仕事。関わりの中でしか生まれない仕事。一人になる状況が、極力現れ出ない職種。私は、化粧品メーカーの営業職として採用された。

 三年が過ぎた頃だった。

 突然私は、物理的に一人になりたくなったのだ。それは反転だった。

 それまでの生活に対する、心の奥底からの叫びでもあった。ずっと封印してきた、ずっと目には触れないようにしてきた唯一の事柄だった。それをいつだって覆い隠すために、人生の様々な局面で、道を選んできたのだ。その目が、向けられなかった一方に溜まった淀みのようなものが、臨界点に達したのだった。私は翌日、すぐに会社をやめた。何の当てもない、衝動的な行動だった。私はたまたま、その求職中に出会ったタロット占いに心惹かれ、その特にカードそのものの存在に、目を見張ったのだった。占いの内容に関しては、どうでもよかった。そのカードだけが、私の心を見事に捉えていった。そして、そのカードの意味を、私は考えようとしたが、何故か、その内容に関しても、興味が湧くことはなかった。

 何が、惹きつけたのだろう。私は、その好奇心の正体を、日々探ろうとしていった。そこでわかったことは、カードの図柄がどうだとか、全体の世界観だとか、そういうことよりも、カードが生まれ出た課程。こうして現実に存在しているのだ。目には見えない、精妙な何かを捕らえ、そしてそれを目に見える形に置き換え、こうして複数のカードにしている、その一連の課程に、興味があったのだ。自分も何か、そのようなことがしてみたい。無から何かを、生み出してみたいと、そう思った最初の瞬間だった。だったら、やってみるしかない。時間はあった。カードの中身を、自分でデザインしてみて、それを実際に形にしてみよう。いや、何も、アイデアを、自分に求める必要はなかった。誰かが、こういうものが必要だという、その依頼に応える形で、制作していっても全然構わなかった。

 何か、その後の人生の方向性が、見えた瞬間であった。


 そうこうしているうちに、夜は明けてしまっていた。

 その日の営業のための準備を始めなくてはならない。

 そうした時だった。また予期せぬ訪問者があった。

「少し、お話し、よろしいですか」

 扉をすでに無造作に開けている男の姿があった。

 その雰囲気から、警察の人間であることはわかった。

「どちらさまでしょう」

 何故かしら、昨日来た刑事とは、違うオーラを身に纏っている感じがした。

 声の区別はやはり、全くつかない。

「この前来た、警察の人間だ」

「今日は、お一人なんですね」

「いつだって、そうさ」と男は答える。

 もう一人の刑事が昨夜やってきたことは、口にしなかった。

「ちょうど、話相手が欲しいと思っていたんで」

 嘘ではなかった。

「今日は、どのような用件で?」

「そんなこと。一つしかないだろ」

「でしょうね」

「さっそく」

「進展したんですか?」

 そうだと、男は答えた。意外な反応だった。


「僕に、報告をしに?」

「犯人から、再び、連絡があった」

「いつのことですか?」

「昨夜のことだ」

「何時頃?」

「十時過ぎ」

 ちょうど、もう一人の刑事と、ここで話し込んでいた時間だ。

「それで、なんと」

「事はすべて、終えていると」

「あなたたちの、読み通りだ」

「我々は、黙って、聞いていた」

「本当に、犯人から、なんですか?」

「全てを、終えた上で、あらためてこうして、犯行予告を出していると」

「さらに、犯行を、増やそうとしているんですか?」

「そうじゃない。全てを、終えていることを、彼は、必死で伝えようとしてきている」

「わかりませんね」

「つまりは、自己をアピールしている。はやく、結果を見つけてくれと」

「催促してるわけだ」

「幾分、怒ってもいた」

「見つけるのが、遅すぎると」

「そうだ」

「まだ、何の手掛かりも得ていないのに、ですね」

「そういうことだ」

「それは、まだ、なんですよね?掴んでいたとしたら、こんな所には、やってくることはない。だから、言ったじゃないですか。ここからしか、遡る入り口は、ないんですって。はやいところ、あのカードを持っていって、分析しないからですよ。あそこに証拠の画像は、全部詰まっているんだから。どうして、持っていかなかったんですか?」

 刑事と名乗る男は、黙ってしまう。

「それで、今日は、回収しに来たんですよね?持っていってください。それで、解決です。しっかりと、解析に時間をかけてください。遺体の現物が、上がってはいないんだ。それしか、やるべきことはない」

 私は、テーブルに、カードの束を置いた。

 シカンの頭骨。

 そのような名前がついた、商品であることを思い出した。

 シカンの頭骨。

 どうして今まで、忘れていたのだろう。

 だが、刑事と名乗る男に、その名前を伝える気にはなれなかった。

 名前など、おそらく、気にもとめないことだろう。

 シカンの頭骨。

 このカードを全部渡してしまうのだ。

 私の手元には、その名前だけが残る。

 私がしがみつくことのできるものは、唯一、それだけになる。

 心細かったが、仕方がない。

 捜査に協力するしかない。

 だが、男は、カードを受け取ることを拒み続けた。

 理由を問うと、それは君の商売道具だからだと答えた。

「任意で取り上げるわけにはいかない。正式なプロセスを経てのことなら、強行するさ。だが、任意で取り上げるわけにはいかない」

 そこに、妙に拘る男だった。

「それならそれで、構いませんけど」

 私は、テーブルの上のカードを、放置した。


「いずれにしても、僕にはもう、不必要なものですけどね。廃業するんですよ。カードも必要ない。あなたが持っていかないのなら、破棄しますよ。それでいいんですね。もう僕の元にはない。今後、僕を訪ねてきても、シカンの頭骨はどこにもない」

「何?シカンの何だって?」

 私は思わず、口にしてしまった。

「いや、何でもありませんよ。もう、廃業するんですよ」

「何故」

「足を洗うんです。転職します」

「我々が、きっかけなのか?そうなんだろ。警察には、金輪際、関わりたくないわけだ。この商売を続けている限りは、我々が、常に嗅ぎつけて、つきまとってくる。事件が解決するまで。そして、解決には、相当な時間がかかる!君はそう読んだ。だから、手を引くことにした。それは、占い師としての勘なのか?そういった未来が指し示されていたのか?」

「あなたは、未来だとか、そういうことに興味が?」

「誰がないと言った?」

「確か、前来たときには、言ってましたよね。未来というのは、過去なんだって。過去も未来もすでに、起きてしまったことなんだって。それを何でしたっけ?その後で時間の流れに合わせて、一直線に並べ直すでしたっけ?。だから未来というのは、これから起こることではなく・・・」

「そんなことは、言っていないし、そんなふうに考えたこともない」

 男は言った。

「じゃあ、もう一人の刑事の方、だったのかな」

「誰なんだ、それ」

「二人で来たでしょ」

「君は、何かを勘違いしてるな。俺は、一人でしかここを訪ねたことはない。それに、いつだって、単独行動だ。俺はな、いつも、一人になる機会を伺っているんだよ。二人にさせられる時も、その隙間を縫って、人に会いに行く。ひとりになる口実のために仕事をしているようなところがある。おっと、そんなことを、話している場合ではない」

「あなた、何をしに、来たんですか?」

 私は、積み上げられたカードの束を見ながら言った。

「占いだよ」

 男は言った。

 意外な言葉に、私はここでも、状況を飲み込むことがうまくできなかった。



























 あの時のことは、当然、履歴書に記入するわけにはいかない。

 もちろん、疾しいことをしていたわけではない。

 しかし、カードを納品した先の一つが、違法カジノだっただけだ。

 この前の刑事も、調べてそのことを掴んでいる。今となっては、私に害が及ぶわけではない。

 あの時も確かに、相手は誰かを知っていたものの、そもそも相手側が、もし何かがあったときも、私には被害が及ばないよう、しっかりと算段をつけていたのだ。

 辿っても、私には決して繋がらない細工をしていた。

 用意周到な相手だったし、そもそも彼ら自身が、カジノそのものを警察に捕まれないよう、細心の防御体制を敷いていた。

「本当に、占いをしに?」

「本当だよ」と男は言う。

 確かに、昨夜の刑事とは、雰囲気からしてまるで違う。

 ひとりひとり、別々に会えば、確かに明瞭な区別がつく。


「誰の何を占えば、いいんですか?また、我々だなんて、言いませんよね?僕を含めた」

「占う対象は、何だっていいんだ」

「ずいぶんと投げやりですね」

「占うという行為が、大事なことだ。そのような状況を、作ることが」

「不思議なことを言いますね」

「君が、そのように、占いを考えていないこと自体が、驚きだよ」

 言われている意味が、まるっきりわからなかった。

「では、とりあえずでいいので、占う人と事柄を提示してください」

「そうだ」と男は言う。

「そのとおりだ。何であろうと、便宜的に、そのような設定が必要だ。この意味がわかるかな。我々が、この世に生まれて、そして、生きることそのものだ」


 何故かしら、言われている意味が突然、わかってしまった。

「あなたこそ、刑事をやめて、占い師になったらいいんじゃないですかね。そうだ。それがいい。あなたが、ここを引き継ぐべきだ。僕なんかよりも、よっぽど向いている。我々は、あれですね。ひどく、自分に不向きな職業についている。そうは思いませんか?ここで一旦、シャッフルしたらどうでしょうかね。集めるだけ人を集めて、そしてみんな、自分の職業を差し出して、ガラガラポンで、再設定したらいい。そう思いませんか?」

「このカードゲームのように」

「ゲームじゃありません」

「ゲームだよ。そして、我々が生まれるときの情況もまた、これと酷似している」

「やはりあなたは、こっちの仕事の方が向いている。刑事なんかじゃない」

「同じことだよ」

「占い師と刑事の、いったいどこが異なるんだ?」

 何もかも異なりますよ、と言いたいのを抑えて、私は何も答えなかった。


 ここでは、何も答えないというのが、唯一の正解のように思えた。

 この男を前にしては、ありきたりの何を答えても、的外れであることを思い知らされる。

 そして、状況はいつのまにか、占い師を訪れる身元不明の男、という役割が、自分には与えられているような気がした。

「すべての情況は、実は酷似しているものだし、そのそれぞれの衣装もまた、たいした違いなどない。気にするな。我々に与えられている役割など、たいしたものではないから。そこに拘る必要など、どこにある?固執することほど、愚かなことはない」

 我々が、今、刑事と占い師であるという確証は、どこにもないようだった。

 ここが、占いの館であることも、だんだんと真実味を失くしていった。

 殺人現場を目の前にした、二人の刑事という可能性もありえた。


「じゃあ、始めてもらおうか」


「ですから、設定を」

「そうだった。では、今回は私ということにしようか」

「わかりました」

「私の過去を占ってくれ。私が、これまで歩んで来た道を、占ってほしい」

「過去ですか?」

「ああ、そうだ。そういう奴はいたか?」

「いませんね。そう、あらためて言われてみたら、いませんね、見事に。過去を占うという、言葉としても、実に筋が通らない」

「細かいことは、気にするな。設定など、本来は何も意味してはいないのだからな」

「占うというその行為そのものが、唯一、大事なことですからね」

「そのとおり」

「だいぶん、あなたの影響を、受けてきましたよ」

「それは、よかった」

「では、あなたの過去を、引いてください」

 男は、あっという間に、一枚のカードを、裏面にひっくり返した。

「何がわかった?」

 図柄がどうだとかいう前に、ただ、赤い色がぱっと、閃光のように輝いたのがわかった。

「初めて見るカードですね」

「いつだって、初めてだろ」

「確かに。言われてみれば、二度、同じカードは見たことがないかもしれない」

「不思議じゃないか。カードの束には、物理的な限界がある」

「ええ、そうですね」

「なのに、出てくる図柄は、無限大だ」

「それは、わかりません」

「たまたま、二度、同じカードを引いてないだけで、まだ、終わりまでは、行きついていないと、そういうことか?」

「ええ」

「その発言は、いつまで続くのか。見ものだね。終わりは来る」

「そうですね」

「カウントダウンは始まっている」

「そう遠くはない、未来に」

「また出た。未来という言葉。だから、そのようなものなど、ないんだ。何度、言ったらわかる?未来などない。それは過去だ」

「ああ、なるほど。じゃあ、あなたは、自分の過去を占ってくれと、言ってはみたものの、やはり、未来を占ってほしいということですね」

「すべては、過去だということだ」

「誰かも、同じようなことを、言ってたな」

「誰もが、同じ運命を、人間は背負っているものさ。過去。つまりは、すべては、もう起きたこと。過ぎ去ってしまったこと。順番があるだけ。地上に現れ出るのに、順序があるだけ。そして、その順序は、勝手に生まれ、連鎖していく」

「なので、事件も、いつかは、必ず明るみに出る」

「結果は?」

 赤い光が、視界をくらましていたのだが、こうして話をしているあいだに、少し和らいできたようだった。


 女性の風貌を、模したような面だった。

 しかし、顔中、首に至るまで朱色の塗料で覆われている。

「何なんだ、これは」

「あなたの過去ですよ、お望みの」

「で、解釈は?」

「そう先を、急がせないでください」

「ところで、さっきの有限なカードの数に対して、無限なる図柄の候補が存在する、その現実については、どう決着がつくのだろう」

「決着など、つくのですか?」

「それを、訊いてるんだ」

「何だか、あなたは、僕の師匠のような気がしてきますね。これまで、師匠がいなかったことが、必然であったかのような。あなたと出会うことが、命づけられていたような。それまで、にわかの先生が、運命に避けられていたかのように。余計な知識を植えつけられずに、真っさらな状況で、あなたと出会うために」


 だいぶん、時間の猶予が、生まれていた。

 その空白に、情報はどこかからやってきて、埋めていった。

 この空白を、意図的に作ることこそが、占い師なのだと、師匠に言われているかのよう

だった。

 それが、神髄なのだと。そしてそれは、本来は意図的に、作るものではないのだと。

 だが今、それが、出来るわけではない。

 出来てしまうその時までは、状況を作らなくてはならないのだと。


 カードは、その人為的な行動を補佐する、道具の役割を果たしている。

 そんなものは本来、必要はない。そして質問もまたそうだ。

 人為的な状況を作るために、あえてする必要がある。


「あなたはこれまで、女性として生きてきましたね。実際は、そうではないかもしれないが、しかし、あなたの中には、女性である部分が、多くを占めている。表向きとは別に、そこの部分をあなたは生きてきている。しかし生きすぎた。あなたの内面的なバランスは、今や、極端に、そっち側に寄ってしまっている。修正のときが迫ってきている。しかし、それもまた、あなたが勝手に何かをして、解消できるものではない。あなたは何もする必要もない。ただ、その偏りが、閾値に達することで、事は起きる。それを意味しているカードです」

「全然、過去のことじゃないな」

「そうです。今のことです」

「私は、過去の占いを、所望した」

「そうでしたか。しかし、結果的には、今へと集結する」

「だったら、未来を占うことも、同じだね」

「そうかもしれません。まさか、そのことを、僕に気づかせるために?」

「どう、とってもらっても、構わない」

「まるで、僕が、あなたに、何かをお願いした、みたいだ」

「そういうのは、もうやめよう」と男は言った。

「誰が誰にとか、誰が誰をとか。そういったことには、まるで意味はない。ただ、状況があるだけ。そのことを、しっかりと考えた方がいい」

「そして、未来も過去も、思いを馳せれば、それはすべて、今へと返ってくる。今を占っていることに、他ならないと」

「占ってるわけでもない」

「というと?」

「占いなんてものは、この世には、ないんだ」

 私はここで、間を開けるべきだと思った。

 ここに、空白を、意識して作るべきだと思った。

 今はまだ、人為的に、それをしなければならない。

 そんなものはないんだ。


 沈黙が、そのあとを引き継ぐ。

 引き継ぎ続けている。

 何かが、意識の中で繋がってこようとしていた。


 それまで、言われたことの全てが、ぴたりと繋ぎ目を形成して、いまやネットワークのように、そこに張り巡らされている様子を、私は夢想した。





















「その、偏ったあなたの内面の性別が今、再び、バランスを取り戻そうとしている。反転しようとしている、その時を待っている」

「なるほど」

「それは、あなたに限ったことでは、ないのかもしれない」

「そういうものさ。私に関わる物事は、君にも、そして他の人々にも、密接に関係している。すべては連動しているし、それぞれを分けることなどできない」

「あなたが言われていることは、どれも同じことなのかもしれない」

「光栄だね」

「続けていいですか」

「どうぞ」

「あなたは、今、その結節点にいる」

「続けて」

「反転へのカウントダウンに入っている」

「なるほど」

「世の中もまた」

「時代もまた」

「ええ」

「あなたもまた」

「そうです」

「俺が引き継ぐのか?」

「そう願いたいですね」

「師匠が、弟子の後を引き継ぐのか?そんな話聞いたこともない」

「順番は、本質ではありません」

「なるほど」

「師匠も弟子も、本来、そんな区分は何もありません」

「確かに」

「どちらが前で、どちらが後かという、時系列に沿った飾りに過ぎません」

「その通りだ」

「まだ、何か試してます?」

「十分だよ。君はやっていける。ひとりで十分にやっていける」

「頼もしい、お言葉です」

「励まされたか?」

「本当に廃業します」

「心配いらないさ。後は引き継ぐ」

「退職するんですか?」

「そういうことは気にするな。どちらにしろ、現実においては、あまり関係がない。やめて専業になろうが、警察官との兼業であろうが。それは、俺が決めることじゃない」

「もうすでに、決まっていることですもんね」

「ああ。過去の出来事だ」

「何度も、確認するようですけど、過去にすでに起きたことが、時系列に並べられて、順番に起きていくんですものね」

 男からの返答は、何もなかった。

「僕には、その、結節点というんですか?そういう結び目が、たくさん見えてくるんですよ。あなたの人生を、一つとってみても、その生涯全体においては、何度か、その反転というか、変転ですか。そういう境目がある。そして、あなたの生涯を、もうちょっとその両サイドを伸ばしてみると、さらに、結節点がそこにも現れ出る。そしてさらに、さらにとその便宜的な直線のラインを、伸ばしていけばいくほどに、結節点はやはり、いくつも存在している。そうして、あなたは姿を変え、時代を変え、状況を変え、持っている才能を変えて、いろんな体験をしていっているように思えるんですよ。そのほんの一部の、直線上が、今のそのあなたという、生涯のラインだ。そういうふうに、僕は捉える以外に、この見えてくる状況を表す方法が、見つからない」

「表現なんて、しなくていいんだ」

「ただ、感じればそれでいいんですね」

「それさえ、必要はない」

「ただ、傍観していろと」

「考えを巡らせる必要は、どこにもない」

「あなたが、質問してきたんです」

「そうだったかな」

「便宜的な設定は、いつだって必要だと、そう言ったのは、あなたですよ」

「それは、何事も、始まりの点が必要だからだ。入口となるね。ただ一度入ってしまえば、そんな入口など、場所は特定できなくなる。あらゆる場所が、入口であったことが、鮮明に理解できる」

「たしかに」

「君という点も、私という点も、この二人が、こうして同じ時を過ごしているという状況も、それぞれが、入口の役目を果たす。だが、入場してしまえば、あとは関係がない。いつまでも、拘っていることは、愚かなことだ」

「忘れます。しかし」と私は言う。「だとしたら、出口が分かりません。その入口が、普通は出口も兼ねるのが、物事の通常の在り方かと、思います」

「出口の話か」

「そうです」

「それは、大事な話だな」

「ええ」

「それは、この俺にも、言えるよ」

「というと?」

「あの事件のことだよ」

「それですか」

「ここにも、出口を求める事案が、浮遊している」

「見つけられるのでしょうかね」

「私も、君も、実に、横一線なのだよ。共に出口が見つけられていない」

「そしてそれは、我々に限ったことではない・・・」

 男は答えない。

「すべては繋がっているし、連動もしている」

 私は畳み掛ける。

「そして、全ては、異なる衣装を身に纏っているものの」

「何が言いたい?」

「いえ、別に」

「結論を焦っては、駄目だ」

「わかってます」

「しかし、無限に、あるわけでもない」

「探しては、駄目なんでしょうね」

「そこが、難しいところだ」

「あなたたちは、捜査しているようには見せている。仕事ですから。でも、それでは、何も掴めはしない。結末には、けっして至らない。しかし、時間を稼いでいても、仕方がない。どうすればいいんです?それでも、事が起きるまで、待たなければならないのですか?遺体が発見されることでしか、この膠着状態は、打開できないものなんですか?」



 ふと、私が、その捜査に加わり、刑事の真似事でもしてみたらどうかと、思ってしまった。

 あなたと今、そっくりと入れ替わってしまえばいいんじゃないか。

 そのことを伝えた。

 男の返答はなかった。

「僕は本気ですよ。どうせ、廃業するんですから。同じことです」

「君はどうして、カード製作者としてのキャリアを、途中で投げ捨てた?」

 突然、男は話題を変えてきた。


 その話題に引っ張られるまいと、抵抗しようとするものの、やはりできなかった。

 ずっと心に引っ掛かっていたのだ。

 そこから、今も逃げているんじゃないのかと、男に指摘され続けているような、居心地の悪さがあった。

「別に、やめてはいませんよ」と私は答えていた。

「やめてはいません。決して」

 強がりを言っている自分を、唖然と眺めていた。

 この男は、いったい、何を言い出すのかと。

「誰が言ったんですか。やめたなどと」

「そう見えるのは、気のせいなのかな」

「気のせいですね。あなたは、何も見えてはいない」

「まだ続けていると」

「確かに、少し休止していた節はあります。でもそれは、時が来ていないから。天が、望む状況にはなっていなかったから。僕はそのあいだは、別のところに目を向けて、やり過ごすしかなかった。時が来れば、また現れてくるはずです。そして今度こそ」

「なるほど。それが今というわけだ。また、カード製作者に戻る、タイミングが、来たわけだ」

「どうとってもらっても、構いません」

「それなのにまた、今度は刑事になるだなんて」

「冗談ですよ」

「逃げ道を探ったわけじゃないよな」

「ええ。天が望むのなら、受けて立つ次第ですよ」

「その言葉、忘れるなよ。そして、カードは没収していく。やはり、捜査の足しになるのは、これしかなさそうだ。君の言うように、ここを手掛かりに、情況を遡っていくことにするよ。何事も、便宜的な入口の存在は必要だからな。そして、その入口は、存在しないように見えるときは、人為的に作っていく以外にない。そうだよな?手の届かないところにある物を取りたければ、梯子を持ってきて、掛ける以外にない。わかったよ。戻るよ。俺も自分の仕事に。悪かったな。君に八つ当たりのように、難題を吹っかけてしまって。でも、気晴らしにはなった。またあらためて、真面目に仕事に取り組むよ」

「ところで、本当にカードは、持っていってしまいます?」

 私は芽生え始めていた執着を、断ち切ることに、いささかの苦痛を感じた。

「ああ。持っていくよ。君にはもう、必要ないだろうから。我々が引き継ぐ。あるべき場所に、あるべき物がない限りは、流れは滞ってしまう。バラバラにされた遺体もまた、戻るべき基点の存在を、失ってしまう。君も、あるべき場所に帰ってくれ。もう会うこともないだろうが、その後の展開がうまくいくことを、祈っているよ」

 刑事の男は、そうして姿を消したのだった。




 廃業へのカウントダウンは、それでも着実に、刻み続けていた。

 私は、あの男がどうであるとかは関係なしに、生涯のカウントダウンに入っていた。

 私は《シカンの頭骨》がなくなった、その机の上を見つめていた。


 ほんの数分前までは、確かに《ここ》にあったのだ。

 はじめから、なかったかのように、今は消えていた。

 痕跡など、どこにもない。

 私の記憶の中以外に。

 全ては、そうなのかもしれなかった。


 そういえば、あの男に、その名を伝えることはなかったなと、私は思い返した。

 しかし、あの男にとっては、それは《シカンの頭骨》という名は、まるで意味のないものだと、思い直した。

 どのような意味においても、この占いの館での仕事が、カウントダウンに入っているわけではなかった。私の生涯そのものだった。


 あの男は私にカードのデザイナーに再びなれと言っていた。

 君の今の仕事がカウントダウンに入っているのなら、そっちに、転職すればいいじゃないかと。

 あのとき逃げ出し、それをそのままに置き去りにしていいのだろうかと。

 あの男は確実に、私が逃げ出したことを知っていた。

 戻る必要のあることを、私に告げていた。

 すでに、カウントダウンに入っているのだ。

 はやいところ、残された短い時間の中で、やるべき仕事はしっかりとやるべきだ。


 君にはもう、逃げるための時間はない。

 逃げるための場所もない。

 天はそこに君を導いている。

 天の意思はそこにある。

 君は必然的に、そこに辿りつく。

 何度逃げ出そうとも。

 そして今度は、逃げ出すことなどできない。

 それは、君が一番よくわかっている。

 誰よりも。


 私は、もうすでに、占いの館での活動が、休止していることを知っている。

 お客はもう誰も来ないだろう。

 皆、すでに承知しているのだろうか。

 私はひとりぼっちだ。

 孤独な空気に、すっぽりと包まれてしまっている。

 誰の訪問もないだろう。

 刑事もまたやってくることはないだろう

 彼らは、自分の仕事に戻っていった。

 事件への探究を、続けていくだろう。

 確実に、その終わりは、来る。

 事件は起こり、そして、終焉を迎えていく。

 カウントダウンは、始まっている。


 すべては連動して、一つの大本へと、分散した始まりの素材は、回帰していく。

 ここの賃貸契約は、どうなっていただろうか。

 どのように、解約すればいいのだろうか。

 細かな余計なことばかりが気になっていく。

 だがと、私は思い直す。

 そんなことに気を煩わせることが、まるで無意味だということを。

 天がちゃんと計らってくれている。

 そもそも、天のはかりごとの上に、私が成り立っている。

 天の配剤で、あの男たちはやってきて、同じ時空間を共にした。

 そして、今や、その必要性はなくなり、個別の小さな世界へと、分岐していった。


 分岐という言葉が、妙に頭に刺激を与えてきた。

 分岐の波は加速し、それ以上には、切り刻めない事態に、すでになっている。

 行きつくところまで行っている。

 その反転が起こる。

 臨界点は、もう真近だ。

 そのカウントダウンでもある。

 私は逃れる道がない。

 その細かく分岐していき、切り刻まれていったその断片の一つに、この私が存在している。

 そして、この私を、それ以上切り刻むことはできない。

 これ以上、切り刻むことなどできないのだと、頭の中では、何度も、その言葉、その感触が、ぐるぐると回っている。


 天からの声なのだろうか。

 いいや、違う。

 そんなものが、届くことはない。

 遥か昔には、かろうじて、届いていた時期は、あったのかもしれない。

 今はない。

 自明なことだ。

 ここはあまりに、切り刻まれた断片の世界だからだ。

 光は届かない。

 天の声は、途中でか細く、途切れ。

 失ったその回路は、真っ暗な闇で、輪郭さえ見せることなく、失われ続ける。

 その極限にまで、来ている。


 そして、その事実を、私は、《あのとき》知った。

 あの時、そこに気づいたからこそ、怯え、逃げたのだ。

 逃げ切れることなどできないことを、知りながらも。

 それでも、あのとき、あの瞬間だけは、回避したかった。

 まだ、準備ができていない。

 心の準備がまだ。

 そんな準備など、必要はないのに。

 どんな準備もまた、可能ではないのに。

 ただ、心の構えがなかっただけ。

 こうして、無意味に時間が経ってしまった。

 それもまた、天の配剤だった。

 無意味で無駄な時間が作り出した、この限定された空間こそが、私に、心の構えを無条件に備え付けさせるための、醸造所のような役割を果たした。

 その空間が消滅する、そのときに対する、カウントダウンなのだ。

 天が作り出したこの時空間は、天が決めた、その終わりに向かって、激しく収縮していく。


 私はもう、誰とも接触することはないだろう。

 あの見知らぬ刑事たちさえもが、今や、懐かしく思えるほどだった。

 最後に目撃した人間の姿なのかもしれなかった。

 私は、どうなってしまうのだろう。

 何を考えても、無意味なことであることはわかっていた。

 私はすでに、人間としては、その存在を、この地上から消してしまっているのかもしれなかった。

 すでに、亡きものとして扱われ、その処理は、天が速やかに、すでにしてしまっているのかもしれなかった。

 私という人間が、存在したという痕跡を、ことごとく、消し去っているのかもしれなかった。

 いや、そんなことすら、する必要は、ないのかもしれなかった。



 私は、初めから居ないこととして、世界はただ、歩みをおこなっているだけなのかもしれなかった。

 私ひとり居ても、居なくても、世界は何の変哲もない。

 現れては消えていく、ただそれだけの流れの中にあっては、すべての生命体は、天に委ねていた。

 私はあの時、カード製作者としての人生を、スタートさせた。

 いつか、するべきその仕事を、あのときスタートさせたのだった。

 だが、天の予測どおりに、それは頓挫した。

 人生の履歴から、その期間を消滅させているのは、違法カジノにカードを納品したことが、要因なのではなかった。

 表向きに打ち出した、ただの言い訳のようなものだった。

 天は、その言い訳さえも、作れるような配材を私に施した。

 至れり尽くせりだった。

 私に必要なものは、どんなときも確実に、目の前に揃えてくれていた。


 私の仕事は、繁盛していたのだと思う。

 他の会社員時代や、その後のフリーでの、電話相談。占いの館の主人。

 どれも、ぱっとしない中にあって、あのカード製作者時代だけが、違った。

 高い報酬を与えられ、というか、高い収入を見込めるクライアントからしか、依頼は来なかった。

 私の技術を高く評価し、私もまた自分の才能に、多大な自信を持っていた。

 大手ゲームメーカーからは、破格の契約を、打診されたこともあった。

 今もまだ、世の中には、その私が作ったカードゲームが、流通していることだろう。

 今も実は、その印税が入り続けているのだ。

 その収入を、私は今はないこととして生活している。あの時期に関わったすべての仕事から発生した影響力を、それ以外の私の人生に、及ぼしたくはなかった。

 あのことだけは、あの部分だけは、他の私の属性に、反映させては駄目なのだ。こちら側の私の、くだらない断片の情報を、あの部分に流出させては、駄目なのだ。

 あの部分、あそこだけには、私の最良の本質的なものが、溶け出ている。そこだけは守りたかった。その唯一、天と繋がっていたかもしれない、その部分だけは、それ以外の断片の海に、汚されたくなかった。

 その守ろうとする自分もまた、断片の一つで、まるで意味のないことはわかっていたが、そうでもしなければ、私は自分自身に、顔向けができなかった。

 だから、削除した。

 私とは関係のない、私本人が関わったことではない、現実として、それは残しておきたかった。

 私に架けられた橋の数々は、こうして、取り除かれてきている。

 私は、その手つかずのままに残された、その世界に、今戻らなければならなかった。



























 『見ると哀しみの果てに』と題したその名前とは、まるで相容れない儀式であった。

 冬の祭りだった。街中で火を灯し、そして人々は裸になり、赤い塗料を全身に塗りたくり、太古や木製の弦楽器の調べと共に、踊り狂った。酒も入り、薬物の使用もまたあった。子供も参加し、その子供もまた、薬物で変性意識に入っていった。街中が異様な赤き世界に変貌した。一晩中続いた。だが夜が明け、日が変わったことが、誰の目にも明かになると、人々は急に目が醒めたかのごとく、踊るのをやめ、打楽器の音はピタリと止まり、反転、それまでの日常世界に戻るのであった。

 一年の中のたったの一日であり、その夜は、満月の刻でもあった。

 これまで何度参加しただろうか。天は雨を降らせることはしなかった。

 人々は、その一夜のあいだ、食べることはしなかった。前日に、食事は、完全に済ませておき、そのときを待った。酒と薬物以外に、何も接種はしなかった。そして踊っていない人間は誰もいなかった。

 街中が、普段とは別世界へと変わり、その影響を受けぬ者など、誰もいなかった。

 たとえ、祭りに参加することを、快く思っていなかった者であったとしても、一度体験してしまえば、誰も、翌年の儀式から逃れることはできなかった。すでに、その構成要素の一つとして、事前に組み込まれてしまうかのようだった。私は、この街の生まれでもなく、この街に成人してから、途中で引っ越してきた人間であったので、彼らのように、生まれたと時から、儀式と切り離せない、そんな人間では全くなかった。彼らは生まれる前から、母親の胎内にいるときもまた、母親を通して、儀式に参加していたのだった。妊婦であろうが、老人であろうが、赤ちゃんであろうが、不参加の住人は、誰もいなかった。私はそういった儀式が存在することを知っていた。私は歴史学者だった。大学を卒業し、大学院へと進学し、専門の博士課程を経た、研究者であった。大学で教える傍ら、自ら旅行をして、現地で様々な遺跡の調査にも、積極的に参加し、原住民の祖先のような人間にも多数、面会を申し入れて交流していた。

 大学に帰れば、過去の文献を漁り、残された人類の遺産の精査に、勤しむ日々を送っていった。そして私は次第に、そんな遺物を整理して並べることでは、全く満たされない自分を発見していくようになった。実体験という言葉を、何よりも重要視している自分をだ。そんなことは、不可能であることは百も承知で、実際にその時、その場で、文化体験をする以外に、真実などどこにもないことを、自覚していったのだ。私は自らの仕事を、ずっと、偽善行為だと思い、ある種の裏切り行為であると思っていたのだ。偶然、その噂を聞きつけたときも、私はまったく、信用することができなかった。そんな太古の世界が、今だに続いているわけがなかった。遺物さえ、出ていなかったものの、様々な文献に、確実に記されていたその世界が、いまだに生き続けているとは、信じられない話だった。それも、密林の奥深くだとか、深海の底であるとか、人類の未開の地に、それが残っているというのなら、まだ話はわかる。それが、そんな大都市のど真ん中で、しかもそんな大規模に?冗談にも程があった。ただし、その状況が現れるのは、特殊な場面にならなくてはと、その情報提供者は言った。学生だったのだ。私よりも一回りも年下の、しかも女性だった。大学三年の女子学生だったのだ。彼女の祖父も歴史学者として生きていたらしく、その時は亡くなっていたが、彼は大学にもどこにも属せずに、独自の活動をしていた。フリーライターとして、たまにマイナーな雑誌に寄稿していただけで、生活費すら稼ぎだせないようなその仕事に、没頭していたのだという。連れ合いのパートナーの女性は、大学の講師を務めるなど知的な女性で、高額の給料をとっていたのだという。アカデミックな世界では、一つの権威にもなっていた女性であり、彼らの子供たちもまた、起業家や有名スポーツ選手、そして女の子に至っては、他国の王室に嫁いだということだった。資金は身内に贅沢に存在し、何故か、その祖父という人間が、金を無心しなくとも、周りは、自然に彼を支えることをしていったのだという。女子学生もまた、幼いときには、そのような身内の行動を目の当たりにしていたし、個人的には、とてもやさしいおじいさんあり、大好きであったらしい。しかし彼の仕事は、その身内にすら、全く理解されることはなかった。そういった話になると、誰もが目を背け、耳を塞いでいたのだという。祖父はとても悲しい目をして、私を見つめていたわと、女子学生は言った。おじいちゃんは結局、死ぬまで、誰とも分かり合うことができなかった。それだけはわかった。そして、私に、そのことを伝えたかったのだと思うの。一度でいいから、私と分かり合いたいっていう目だった。私はそのときは気がつかなかったのだけど、後になって、あのときのことが、今の自分の道を選択した、唯一にして、最大の瞬間だったのだと、彼女はそう語ったのだった。

 女子学生とは、研究室で二人きりで話込むこともあった。周りの目を、とにかく気にしていた私だったが、内容が内容なだけに、その状況を、積極的に、望みもしていた。


「それで、特殊な状況というのは、どういうことなのだろう」

「私にも、正確には。わからないの」

「おじいちゃんの遺品の中に、手掛かりはないの?」

「その遺品なんだけれど。それも、どこにあるのかわからないの。不思議よね。祖父のあれだけ膨大にかけた時間は、いったい、何に費やされていたのか。どこに結実していったのか。その仕事の成果が、たとえ、世間には認められなかったにしろ、手元には破大量に残っているっていうのが、筋じゃない。それが、どこにもないっていうのは、一体どういうことなのか」

「確かに、妙だね」

「何もかも、不可思議なことだらけなのよ。まるでね、そんな祖父なんて存在は、一度たりとも、この世には生まれ出てはいなかったかのような、気がするのよね」

「それは・・」

「ないわよね。それなら、この私が」

「おじいさんは、確実に居た。確実に、歴史学者としての仕事をしていた。生半可ではない没頭のし具合に、比例した、何らかの成果が、いったいどこに」

「何も、見つかってはいない」

「雑誌に、寄稿していたのは?」

「それとは、関係のないことみたいね。歴史ミステリーみたいに、文明のあることないこと特集されている雑誌ってあるじゃない。そこから依頼を受けて、要は、ピラミッドだの何だのって、わかりやすい歴史の遺物を語るっていうか、研究者としての意見を言うみたい。どうでもいい、ありきたりな仕事よ。学者がやる仕事じゃない」

「よくて、ノンフィクションライターとか、そんな感じだ」

「ええ」

「生活費を稼ぐために、仕方なく?」

「そういうことでもないみたい。実はそれもよくわかっていないの。どうしてあんなことをしていたのか。それも、何度か、依頼されて応えていたことじゃなくて、三十年も、がっつり」

「まるで、本業だな」

「たいした、小銭にもならないのに。でも、祖父は、その真意をいっさい、明かさなかった。私たちにも」

「君たちが、そもそも、知ろうとしなかったんじゃないの?」

「それは、もっと、深いところの話よ。今のような、日常の延長線にあるような話は、何だって、訊きたいじゃないの」

「そういうことは、いっさい話さなかったわけだ」

「そう」

「なるほどね」

「なるほどって、何かわかるの?あなたに」

「日常の延長線上ね。なかなか、いいことを言うじゃないか」

「からかわないで」

「いや、ほんとうさ。君は、あれだな。たくさんのヒントを周囲に散りばめる、そんな人なんだな」

「ほめてるの?」

「貴重な人材かもしれない」

「ほんとに?」

「卒業したら、いや、今からでもいい。専属の助手になってくれないかな。大学に正式にオファーをしてみる。もし駄目でも、僕が個人的に、雇う形を取りたい。君の祖父も込みで考えてくれないかな」

「それなら、即答よね。祖父の話を出されたんじゃ、即、決まりよ」

「よかった」

「祖父の生涯を、意味のあるものに変えたいのよ。それが、私の願い。身内では誰も、そのように考えてる人はいない」

「それで、その遺跡のことなんだけど。今も、存続しているという。どうして、そんな中南米の大都市に?」

「どうしてって、そこに、初めからあるからよ」

「初めから?」

「そう。今の都市の方がずっと後になってから、ほんの最近になってから、建てた方なのよ」

「でも、過去に滅びた彼らの土地に、新しく今の住人たちが、移り住んで、建てた。いや、違うな。その住人は、新しくやってきた人間じゃないんだな。彼らこそが、先住民そのものだ。血を引き継いでいるんだ。そのまま同じ土地で暮らしているんだ。装いは近代的に変化させていっただけで」

「理解したようね」

「つまりは、その特殊な状況、っていうのは」

「なに?」

「彼らが、同意の元に、その日だけを祭りと称して、太古の世界に一変させることをしている」

「何も、説明する必要が、ないじゃないの。私がいなくったって」

「君が、ここに、居るから。いろいろと思いついてくるんじゃないか。そして、その住人たちは、この地球上に生きる今の現代人と、同じ装いをしている。誰も、その土地が特殊性を帯びていることには、気づいていないし、彼らもそう宣言することはない。むしろ、秘匿している。君のおじいさんが偶然、それを発見してしまった。遭遇してしまったのかもしれない。現代社会とは著しく外れていったおじいさんだったからこそ。何か波動のようなものが、ぴたりと合ってしまった時があったのもしれない」

「そして、祖父は、ぽろりと、幼かった私に、そのことを漏らしてしまった。私もこうして覚えているとは思わなかったけど」

「ここに、確かに引き継いだ、細い線がある」

「どうするの?」

「君の知ってるすべてを、話してくれ。そして現地へと行く」


 私はそうして、大学に長期の休暇を申し入れ、ほとんど半ば、任意の引退のような形で、表向きはまったく秘境でも何でもない土地へと、向かうことになった。







 あなたの祖父はきっと、コレに遭遇したのだと、その女子学生には言ってやりたかった。

 だが、周囲に彼女の存在はない。私はもう、儀式の渦中にいる。祭りであることは、間違いなかった。しかし、やはりそこには、儀式が深く染みこんでいる。その世界観。ただのお祭りなんかじゃない。見ると哀しみの果てにという世界観。どんなに飲めや歌えの大騒ぎに見えようとも、いや見えれば見えるほど、そこには底知れない暗黒の世界が、表現されているのがわかってきた。

 まだ見えなかった。まだ、その姿は見せてこなかった。私は外の様子を伺う余裕があった。他者がどのように、その時を通過しているのかを、観察している余裕があった。女学生のことを、考えている余裕があった。彼女に伝えたかった。君もここに居て、参加していたら、どれだけよかっただろうかと。おじいさんが遭遇した世界を、直に体験できたのに。おじいさんと心を通わせることができたのに。けれども、私が、その体験をしっかりと君に伝えるから。君は私を通じて、おじいさんと心を共有していったらいい。あくまでこれは、心の世界なのだから。そして私は、裸で、全身が朱色に染まった自分の肉体を見ながら、ふとまだ冷めた目で、いったい何をしているのだろうと思った。何が起きているのだろうと。本当にこれは、現実の世界なのだろうか。しかし、酒も薬も、じょじょに、私の内部に深く浸透し始めていた。ちょうど、半年前のことだった。私は、観光ビザでこの国に入った。一通り、普通の旅行者の行くような、ありきたりのルートで、全体像を捉え、その後、日本の大学に連絡をして、現地の大学に伝手のある一般企業に、仲介を依頼して、私は大学の非常勤講師兼留学生ということで、就労ビザをもらい、一年に渡る、本格的な滞在を許可してもらった。一年あれば、その特殊な時期にも当たる。それは、半年先のことではあったが、そのあいだに、そこに向かう国全体の状況や、内部の変化を、つぶさに見てとれるだろうと、目算した。どのように刻々と、この現実が変化していくのか。まさに、その過程を、私は克明に記憶することができる。だがそれでも私はそんなことが本当に起こるとは、思ってなかった。女学生が嘘をついているとは思わなかったし、彼女のおじいさんが、何の根拠もない架空の話をしていたとも、思わなかった。それはある種、存在するのだろうが。この自分が、完全に体験する状況になるというのは、いささか難しいのではないか。ほとんど、不可能なのではないかと思っていたのだ。それでも、私は、もうそこに執着して探究していく以外に、道はないように思えたのだ。もうすでに、私はある種、限界に来ているのだと思った。私が私として、日本で大学の講師として、一人の人間として、社会人として、存続させていくという気力というか、気概というものが、全く失われていることに、私は完璧に気づいたのだった。ずっとその終わりに向かって、疾走していることを知っていたのだ。そして加速していっていることにも。

 彼女が、そのタイミングで現れた。ここに、何かがあると考えるのが、本能だった。そして、通常では、まるでありえない話であるからこそ、それが真実であるということを、私は確信したのだ。これが、ありきたりのことであったのなら、切羽詰まったこの自分のための道だとは、けっして思わなかったはずだ。私だけの特別な道だとは、これっぽっちも思わなかったはずだ。とことん現実離れをしているが、それでも、そこに関わる人間が、真顔で、真剣であったこと。

 私が道を確信するのに、不足は何もなかった。それでも。

 私はすでに、祭りの渦中にいる。

 刻々と、深い陶酔の地へと堕ちていっている。

 女学生の姿は、彼方へと消え始めている。彼女に、今から起こることを、正確に報告しようと思ったことが、いかに愚かなことであるかを自覚していった。

 そんな機会が、ちゃんと用意されていることを疑わなかった自分を、恥ずかしく思った。

 ここから帰れる可能性など、万に一つないかもしれないのに。

 そして私は、そうした考えもまた、この肉体からは遠くに離れた、ただの断片として、浮遊していることにも気づいていった。

 いや、この肉体さえもが、だいぶ、自分とは離れたところにいるのを、確認したのだ。

 体からも離れ、そのような考えの塊からも離れ、私は自分の身につけていた属性を、どんどんと捨て、あるいはそっちの方が自ら離れていって、解体がすごい速度で進んでいっているようでもあった。

 その現実を、私は目の当りにしていた。

 解体が、解体を誘発し、呼び込み連動して、そして私以外のものも、同じような工程に、すでに入っているかのように思えた。

 祭りの変性意識状態にある、時空間の全てが、同じように進んでいっているのだろうと感じていった。

 そして、それは、解体しているのではない。

 初めから、それは、離れていたものなのかもしれなかった。

 何かの作用で、それは集まり、融合し、いや、融合しないままに、互いに纏わりついていただけだったのかもしれなかった。

 無理やりに寄せ集められ、くっつけられていた。結合させられていた。

 結合を強固にするための作業を、日々強制されて。あるべき最初の状態に、今、戻っているだけなのかもしれなかった。私の朱色の肉体は、どんどんと離れていく。そして、そんな朱色の肉体は、複数、無数に、目撃することになる。他者の肉体もまた、自分の肉体と同様に、ただ寄せ集められただけの、存在であることがわかっていった。そして、今思うこともまた思った矢先に、自分からは離れ始め、一つの断片の塊として、自ら意思を持ったかのように、さらに遠くへと離れ去っていってしまっていた。

 宇宙の廃棄物のように。ぐるぐると旋回しながら。

 そうした断片が、遠ざかっているのだった。

 私が発した断片ではない別の断片もまた、見えてきて、同じようにぐるぐると、大きく旋回しながら、遠くへと消えていった。

 私だけじゃない別の人もまた、同じ体験をしているのだろうか。わかりようがなかった。

 あの歴史学者もまた、同じ体験をしたのだろうか。

 もうすでに、朱色に塗った肉体で、踊り狂う自分は、どこにもいなかった。

 祭りの渦中にいる私自身は、どこにもいなかった。

 太鼓の音で踊り狂う私は、どこにもいなかった。

 弦楽器の調べは、もうどこからも聞こえてはこない。

 人々の悲鳴や叫び声もまた消えている。

 場所を失っている。

 私は、寄って立つ、大地を失っていた。

 地がないところに天はなかった。

 左右前後は秩序なく、無限の領域を奏でている。

 白くぼんやりとした視界が、続いていく。

 旋回していた断片の姿も、もうそこにはない。

 他者の存在もない。しばらく、私は、その状態のままだった。

 どれほど時が経ったのかはわかりようもなかった。

 そのとき私は、声ではない声のようなものを、感知していた。

 誰かが、そのように囁いたわけでもなければ、私に伝えようと、力強い口調を投げかけられたわけでもなかった。

 空気が何かの意志の元に、震え響いていたわけでもなかった。

 何の感覚すらなかった。

 しかし、私は、その核なる何かに触れたのだった。


 それが『見ると哀しみの果てに』だった。

 見ると哀しみの果てには、それ以上、どこにも動くことなく、どんな状態変化をすることもなく、そこに居続けていた。動きというものがまったくなかった。

 いつのまにか、動きという動きが、その空間からは失われていたのだ。

 祭りの中心地に入ったのだと、私は思った。そう考えた断片も、また生まれず、旋回して、遠ざかることもなく、時空には、何の波も立つことはなかった。静けさとは違った。

 何も変化はないものの、その背後には、強烈なマグマが潜んでいるように思えた。

 あまりに、中心にきているために、どんな動きもやめているといった様子だ。おそらく、現実には、私は裸のままに、住人と共に踊り狂っているのかもしれなかった。

 いや、さらに言えば、そんな祭りにすら、私は参加していないのかもしれなかった。

 今も、日本で、大学の講師として、授業をしているのかもしれなかった。

 ある一人の女子学生を相手に、現実離れした会話を楽しんでいるのかもしれなかった。

 その無動は、あいかわらず、『見ると哀しみの果てに』のままに止まっていた。

 私からは、何も働きかけることはできなかった。

 互いに相対していながら。同時に、自分自身そのものでもあった。

 何かが突然、浮き出てきそうではあった。

 その何かは、ずっとそこにあったものだった。

 最初、祭りが始まったときから、そこにあったものだった。

 その存在に、私はずっと、気がついていた。背後にはそれが在るとこを。

 それが、祭りを起こしているということを。目には見えないが、実体はある。

 実体しかない、それが。

 この私を、遠い日本の地から、呼び寄せ、そして渦中の中心へと、落とし込めている。

 その何かは、決して姿を現さない。現すことなどない。

 もし姿を現すのなら・・・そんなときは。あるのだろうか。

 私に、その機会は、あるのだろうか。遭遇するために、私はここにいるのだろうか。

 そのための過程を、ずっと踏んできたのだろうか。もうすぐ、そこにまで、迫ってきているのだろうか。私の人生の、その始まりから、準備されていたことなのだろうか。

 その前から、そうなることが、決まっていたのだろうか。ずっと、準備が進められていたのだろうか。


 私はもう、無抵抗な状態だった

 何に怯えても、逃れることなど、できないだろうし、何を望んでいたとしても、それは私の望む形では、決して叶えられないだろうとも思った。



















 その白い茫漠とした世界の中、突然、暗黒が私を包んでいたのだった。

 私は、ここの文明に確かに所属している。ほんの半年のあいだのことであったが、確かに。もうずっとここで、生きてきたかのように。そして、これからもずっと。私と世界は一体になっている。この共同体が、私の体そのものになっている。意識そのものになっている。それは、終わりの時に向かって、ひた走っている。

 もうすでに、文明を前に進ませるための力は残っていない。

 これまで続いてきた惰性が、まだ回転しているだけだ。

 すでに、エネルギーは骨抜きにされている。それが、この暗黒の意味だと、まるで暗黒そのものが、語ってきているかのように感じた。

 そして、この白い茫漠は、どれほど暗黒に視界が埋め尽くされようとも、背後には、確実に、存在し続けているように感じた。


 私は暗黒に包まれ、暗黒そのものになっている。

 この暗黒は、この文明の一つの共同体なのだ。

 その終わりのときに、死が、顕れ出たものだ。

 すべては、この暗黒へ、生まれ出たものは帰っていく。

 暗黒そのものに落ち着いていく。その暗黒は、常に終わりに向かう、世界の中にあっても、確実に背景として、常に併走している。

 私は、暗黒そのものだった。


 しかし、しばらくすると、私はその暗黒からも外れ出していた。

 

 やはり、部外者であるからか、半年しか滞在していない事実を、ここに当てはめたが、乖離はまるで止まらず、暗黒は次第に、眼下へと外れ、ものすごいスピードで、私からは遠ざかっていってしまった。

 小さな塊に、成り果ててしまった。ミクロの点に消えてしまった。


 また、暗黒は別の角度から、この小さな点に始まり、そして私をあっというまに覆い尽くしていった。さっきの暗黒とは、質感も、その動き具合も、全く違っていた。

 私は包まれ、そして同化した。

 その暗黒は、さらに肥大を続け、私を遥かに超えた、大きな存在に成長していった。


 別の文明だと、私は思った。

 生まれては消えていく、この流れの中に、私は今存在しているのだ。

 暗黒は波打っていた。

 次第に、圧縮されていき、私からは乖離して、私の中で小さく萎んでいった。

 そして、さっきと同じように、ミクロの点になって消えた。


 音のない消滅だった。

 私の心に、哀しみが湧いた。その哀しみを、私は見ていた。

 哀しみが生まれ、そして、消えゆくその繰り返しを、私は何度も何度も、見せつけられていた。


 私の体なのか、意識なのかは、わからなかったが、通過していき、そして姿を消した。

 また別の暗黒が、生まれ、同じことが繰り返されていった。


 それは、終わりのない映画を見続けているような感覚だった。

 まったく終わりはない。始まりが、すでに終わりであり、終わりはまた始まりであった。それぞれが、違った性質と目的、望みを持った文明は、生まれては消えていっていた。

 私は今、そのどれとも同化してなかった。

 どこにも存在してなかった。

 私に、地上の存在はなかった。どの地上からも、見えてしまっていた。

 私には、哀しみだけが残っていた。そして、目に映るすべてが、哀しみそのものだった。

 それを見続ける以外に、私にすることはなかった。

 身動きのとれる肉体の存在もなかった。別の次元に飛ばせる意識の存在も、なかった。

 私はただ、そこに留まり続けるしかなかった。そして、繰り返される暗黒と共に、宇宙の中に取り残されていた。


 次第に、私は、白い茫漠とした世界を求め始めていた。

 そのとき何故か、繰り返される暗黒の中にある、すべての意識体が、同じ想いを共有したかのように感じたのだった。

 あの白い世界は、今も、背後に隠れているのだ。そこに行きたいと。

 いや、それこそが、現れ出てほしい。この私を包みこんでほしい。そう思ったのだ。


 私だけではない、暗黒の中のすべての意識が、そう思ったかのように感じた。

 ふと、私は、その暗黒の波の中の全てに、存在しているのではないかと感じた。

 そのどこであっても、姿かたちは、変わっていたかもしれないが、居たんじゃないだろうかと。

 居るんじゃないだろうかと。

 全てが、私そのもののような気がしてならなかった。

 そして、今、思いは一つであり、けれども決して、この目の前に繰り広げられている事態には、関わり合うことができない・・・私はただ、見つめ続けるだけだった。

 ずいぶんと、遠くに、来てしまったなと私は思った。

 私という輪郭は、もう思いだせないくらいに、別離してしまっていた。

 遡り、掻き集めてこようとしても、たとえ、そのようなことができたとしても、きっと以前のようには、戻らないだろう。二度と、過去にあった同じ姿としては、再現できないであろう。する要もなかった。私は戻るべき場所を失い、帰るべき形を失っていた。そして、進むべき方向もなく、次に用意された形の存在もなかった。

 私を呼び寄せるどんな力の存在も感じなかった。

 エネルギーはすでに、枯渇していた。世界を存続させるための隆起が、そこにはなかった。どんな意思もなかった。

 私は、行き場を失い、そして、ただ見つめていることしかできなかった。

 私は私を失っていた。



 三カ月前になっても、祭りが催される気配は、どこからも感じられなかった。

 逆に、私は、ほっとしてもいたのだった。本当に、そんな太古の気の狂った行事が始まってしまっては困ると、内心は思っていたのだ。

 ところが、一か月を切った頃だった。突然、宅配物として、家に朱色の塗料が届けられたのだ。私は絶句してしまった。差出人には、役場の名前が記されていて、どの世帯にも、一斉に届けられたもののようであった。そして、その塗料の入った管以外に、同封されているものは何もなかった。一言、口添えがあってもいいだろうと、私は箱の中を探したが、何も出てはこなかった。これがやって来たことを、私は誰に相談すればいいのだろう。他者を相手に、話題にしてもいいのだろうか。私は様子を伺うことにした。大学の他の講師や、教授生徒たちが、その話をしている様子は少しもなかった。しかし、確実に、届いているはずだと私は思った。この数か月で出来た、友人の家を訪問する機会があったときも、当然、その缶の姿を、密かに探したものだった。だが、その家にも、その存在はなかった。もし、私の家を誰かが訪問したのなら、確実に、その缶は発見されてしまうはずだ。私は特に隠そうとも、人目につかないところに保管しようとも、思わなかった。ただ、無造作に置いていた。しかし、私以外の人間は、決してそうではなかった。本当に来ていないのだろうか。私はそれでも注意深く、周囲の様子を伺っていた。食料品を扱う店に行ったときも、レストランに行った時も、いつだって私は塗料の存在を探していた。

 しかし、缶は、どこにも見つからなかったものの、人々の顔はことごとく、その一か月のあいだ、変化していったのだった。

 ここまで、あからさまに、変わるだろうか。やはり、その祭りは確実に、存在するのだと私は思った。そこに向けて、皆の意識が、移行しているのがわかったからだ。つまりは、この現実の日常においては、腑抜けになっていっているのだ。もぬけの殻というか。心ここにあらずというか。肉体は、ただの置物みたいに。彼らは、別の場所へと彷徨い出ていっている。そして、私もまた、この肉体において、確かにここには居るのだが、中身がそこから乖離していくような、独立性を保って、外へ外へと出ていこうとしているのを、感じ始めたのだった。中身と入れ物が、互いに、相反し始めているのだ。その圧力が、次第に強くなっていったのだ。そのとき私は、これは、外の様子をちらちら見る必要など、少しもないことを悟ったのだ。この自分に起こっている感覚に、注意深くなれ、ということを、教えられているかのようだった。あきらかに、自分を取り巻く空気の振動が、変わってきている。その震動は、ここにいる共同体の全てに、共通に行き渡っている。その事実を感じ、私は自分が除外されていないことを、嬉しく思ったものだ。私もまた、ちゃんとそこに含まれている。私も参加できるのだと。悦びは、もうこれで、逃げられないのだという、恐怖心をも巻き起こしていき、私は落ち着かなくなっていった。

 この塗料を、その当日、体じゅうに塗りたくるだけで、いいのだろうか。他に何か、準備をしなくてはならないことはないのか。ちらちらと、周囲を見るも、彼らが何か特別な行動をとっていることはなかった。私の知っている祭りのように、設営に対する準備もなければ、祭りを盛り立てる、楽器などの準備、神輿やその他の道具が、見え隠れすることも全くなかった。もし必要なら、そんなものはすでに用意されているとのだ言わんばかりに。それよりも、君のその、不安定な心を、しっかりと見つめることに、集中した方がいい。そう言われているかのようだった。

 君はどこにも逃げ出ることはできない。

 もうその日、その場所に、存在することが、決まってしまっているのだから。

 その事実を、その事実だけを見つめてほしい。そういった波動ばかりが、どこにいても充満しているようで、脱出することなど、本当に不可能なことを、私は自覚していくのだった。

 私は、ある種、捕らえられたのだ。誰に。天にか。

 ここに来る流れが、いつからか、道筋は確立されていたのだ。

 それこそが、祭りを含めた、準備の作用であった。











 それぞれの文明がそうして、急速に終わりに向かっているのを、見ているうちに、その終わりは、同時に、一つの大きな境目に、結集しているのではないかと、思うようになっていった。

 この地上を失っている今、私は、そのような場所が、どこにあるのはわからなかったし、どこにもないのかもしれなかったが、それでも、そこがもう近づいてきているように感じていた。

 と同時に、私の世界の終りでもあった。


 陶酔した祭りの状況は、今は、どのような感じになっているのだろう。

 そこに居ながらも、もうずいぶんと、意識は乖離し遠ざかってしまっている。

 一人、深淵の彼方へと、吸引されていったかのように、私はどこでもない場所にいた。

 そして状況は、それ以上変わりなく、静止したままであった。

 私は今、何を見つめているのだろう。

 白い茫漠とした世界に、時おり知らない世界の状況が、映り込んでは、また消えていく以外に、蠢くものは何もない。

 その映り込みは、時に、複数の違った方向からやってきて、混じり合うことなく、無関心に、互いをすれ違わせ、白い茫漠とした世界の端へと、消えていった。


 その端には、おそらく、暗黒が待ち構えている。

 今は全面に、その姿を現してはいない暗黒が、背後にはしっかりと存在している。

 その白い茫漠とした世界と、暗黒の深淵の世界もまた、生き物のように、時空間に、その出現と消滅を、交互に連動し合い、繰り返している。

 私は、その循環をも、また見ていた。

 私は今、どこにいるのか。地上で確定できないところに、居るがゆえ、そのような体感のあるところで、ただ見ているだけの存在と化していた。



 外の世界では、今も、時は容赦なく刻んでいて、私の状況は、次々と、変貌を遂げているに違いなかった。

 そちらに意識が戻るとき、そこは、私がそれまで知っている世界では、到底ないのかもしれなかった。

 無数の文明は、終わりに向かって、ひた走っていた。

 その連動した全ての終わりの地を、同時に意識したことで、私は、そのそれぞれの断片の世界が、始まった瞬間のことに、思い当たることになった。

 その始まり。すべての断片化された世界が、同時に始まった、その瞬間だ。

 終わりも、同時なら、その始まりすら、同時であった。

 まるで、一枚の鏡を、ハンマーで、最初の一突して、バラバラの破片に、してしまった瞬間があったかのように。

 そして、それはあったのだ。そんな瞬間があったのだ。

 そこを、私は確信するに至った。

 その瞬間に、世界は始まり、その世界は一つではなく、無数に鏡の破片のように、分岐して、同時に存在するようになった。

 それが、暗黒なのだ。そのそれぞれ別々に、始まった世界こそが、暗黒なのだった。

 そのどれかに、意識の部分は、存在することで、他の世界との交流は、完全に閉ざされ、そして、見える光景は暗く、不鮮明になっていった。その断片に閉じ込められた世界にだけ光は当てられ、それ以外を見ようとしたときに、視界は真っ暗な闇となってしまった。

 暗黒同士の、認識しかなくなる、その断片の世界が、全て、終幕を迎えるとき。

 始まったものは、確実に、終わりの時を迎えるその時。

 始まりが同時なら、終わりもまた同時であるのだ。

 同時にして、互いの交流はなく、それでも、影響し合ってきた、

 それぞれの世界は、同時に終わる。

 その、最初の一突きをした、瞬間の刻。

 私は、そこに向かって、今進んでいるのだと感じていた。


 始まりの刻に向かって、私は、近づいていっている。

 そして、そう感じれば感じる程、その前の世界。それ以前にあった場所に、意識は向かっていくのであった。

 そのハンマーが振り降ろされる前の世界に。

 そこには、いったい何があったのか。

 どんな存在がそこを占めていたのか。人間は居たのか。

 そういった概念、輪郭はあったのか、なかったのか。生命体はあったのか。何が起こっていたのか。何もなかったのか。そもそも、何がその一突きを誘発したのか。

 どんな目的があったのか。なかったのか。そういった流れが、より大きな時空では、構造として、存在していたのか。私には何もわからなかった。


 ただ、そういった世界が広がっているのだと、感じただけだった。

 そこには間違いなくある。

 そして、このまま私は、そこに向かって、進んでいることがわかる。

 その最初の一撃を通過点に、その場所へと、私は進んでいっているのだ。

 しかし、その感じとは裏腹に、ここではずっと、時空は静止したまま動かなかった。

 私を連れていくどんな流れも、起こってはこなかった。行き止まりのような場所だった。

 私の意志では抜け出すこともできない、状況を変えることもできない。

 しかし、それでいながら、確実に、何かが進行している。


 その様々な時代として、この地球上に時間を無視して、散りばめられた、無数の文明の存在が、今、終わりに到達しようとしている。

 始まりの時に、すべては戻っていっている。

 その瞬間、始まりも終わりも何もなかった、それ以前の状態に、一変する。

 私にわかるのは、ただそれだけだった。


 そこへの回帰を、天は望んでいるだけだった。

 始まりを望んだ天は、始まりを望まなかった世界に、返そうとしていた。

 私は、その意思を感じた。もう十分なのだと思った。私はこれ以上、何を体験する必要も、なかった。

 ただこの静止した、何の動きも、見せようとしない世界に、溶け込む以外になかった。

 その場所が、私そのものとなることを、天は望んでいるのだ。

 昔、誰かが言っていた。

 天が主語になるときが、いつかは、来るのだと。

 それが誰だったか、私は思い出すことができなかった。



 そうした祭りへのカウントダウンは、着々と、私の中で刻まれ続けていった。

 そういった素振りを見せない、共同体の状況は、逆に増々、そうした準備を、実のところ加速させているのではないかといった、私の想いを強くしていった。

 そういった素振りを見せないとき程、事態は、急速に進んでいることを、私は確信したのだ。

 静かに音もなく、移行していっている事ほど、恐ろしいことはない。

 そしてそれは、物理的な準備に、ほとんど労力がかかっていないことをも、意味している。

 大がかりな装飾の必要すらない。見世物ではないのだ。

 他者への見世物、他文明への、権威の誇示。住民のアイデンティティの誇り高き高揚を煽る、必要性の皆無。内なる世界への導きのためだけの、きっかけとしての存在。

 あとは、個人がそれぞれ、内面への旅を開始することで、共同体としての、連動性が生まれ、全体が維持されていく。

 同時に、その変性意識に入ることで、外側の、物理的共同社会は、その瞬間、まるで意味をなくしてしまう。

 そのとき、その夜、その一日だけは、まったく人がいなくなる。


 そう、ある日突然、都市を放棄した、その歴史が示す文明社会のように、そのときだけは、まるで、人がいなくなってしまっているかのように、天には見えることだろう。



 次第に、私にも、視界に、いつもとは違った兆候が、みられるようになっていった。

 確かに、見えている光景は、まったく変わりはしなかったものの、何故か、その光景に自分が含まれていないかのように、感じることが頻発していった。

 そこにいるはずの自分が、どうしても居るように感じられない。

 時間は消えてしまったかのように。

 透明人間になり、私のことには、誰も気がつかないかのように。

 そこに居るようには、感じられないのだ。

 そういう状況に、なっているのではないかと、ほとんど、確信するに至ってしまった。

 と同時に、確かに、人といるときは、彼らと会話をしている私が、そこにはいた。

 透明になるはずなどないのだから、当然ではあったが、その私という人間が、談笑しているその姿と、妙に距離を感じるのだ。

 それは、私とは関係なく、勝手に、その場に対応している別の人間を、見ているかのようだった。


 彼は、その場に適応している。その場に馴染んでいる。その場が求める役割を、ちゃんとこなしている。そういうふうに感じる。彼はよくやっていると。この半年、よくやっていると。この新しい文化に適応するために、適切な、努力をしていると。そうして私は何故かしら、その男からは次第に距離を置き、離脱していっているようなのだ。


 あとは、彼に任していい。彼はしっかりと、あるべき対応をしてくれる。

 何も心配することはない。あとは任せておけばいい。そしておそらく、その通りに、事は運ばれていくであろうと。

 私は、この共同体が、その祭りに向かって、全住民を主導している姿が、見えてくるようで、それでいながら、私自身は、この内側へと引きこもっていくような、そんな乖離が、日増しに加速していっていることを思った。

 そう思いながら、時はカウントダウンに入っていった。


 祭りが終われば、共同体は、日常へと回帰していく。

 来年のこの時に向かって、再び事象を整理していく。

 私が手を加える要素は、何も存在しない。

 私はただ、ここに含まれていれば、それで、いい。

 そう感じれば感じるほど、肉体と意識の分離はもう、誰にも止められないレベルになっていた。

 そうして私は、気づけば、祭りの始まりの時に、存在し、やはり、渦中に存在していた。




































「このテンプルオブザエンドというカードは、そういったものなのです」

と、その訪問販売の男は言った。


「これは、バラバラになった最初の瞬間へと、戻るために、引いていくものなんですよ」

「これは、ゲームなのですか、占いなのですか、何なのですか?」

「そういった質問は、的確じゃありません」

「僕は、占い師です」

「そういう体裁は、確かにとっていますね」

「実体は、違うと」

「何だって、そうでしょ」

「何だと、言うんです?」

「私だって、こういった形は、とっていますが・・・。実際のところ、私の方が、占い師なのかもしれないし。この出現が。つまりは、あなたは、カードを引いた。そして私を、引き当てた。私とあなたが出会っている、この光景のカードを引き当てた。そうした現実が、動いてしまった。カードには、可能性として起こりえる、場面の数々が、はじめから存在している。その一つを、あなたが引き当てた」


「本題に入ってもらえますかね。はやいところ、切り上げたいんです」

「そんなふうに、あなたは、私を邪険に扱うことは、決してできやしない!この前のカードは、どうしたんです?」

「だから、言ったでしょ?客の一人に、持っていかれてしまったって。客の誰かに、泥棒がいたんですよ。私の気づかないところで、盗みが行われた。間抜けな話です」

「そのようですね」

 男は否定をしなかった。


「それで、再び、私が、呼ばれたわけだ。何か、別の道具を用意しろと。あなたの希望で、私は、忙しい時間を縫って、やってきたというのに」

「ですから、そのことには、感謝しています」

「私のペースで、事を運んだって、構わないはずです」

「本来、何かを言える立場に、僕はいない」

「わかってもらえれば、いいんですよ!なにせ、私が扱うカードは、少し特殊ですからね。これはね、有名な歴史学者の方が、作ったものなんですよ。寺西薫氏って、ご存知ですか?」

「知りませんね」

「でしょうね」

「有名な方なんですか?」

「これからね」と男は言った。

「まあ、今は、ほとんど、存在していないんですけどね」

「どういうことですか。ほとんどって」

「生きてるとも、死んでるとも言えない。行方不明なんですよ。彼は、ある文明の祭りに果敢に参加していくといった、そういった男だったのですが、それで、いなくなってしまったのです。過去に存在していた、遺跡の残された土地に行ったまま、音信が途絶えてしまったのです。その直前まで、彼は、大学の自分の生徒と、メールをしていたようですけど。女性の学生です。親密な関係だったそうですよ」

 私は黙って聞いていた。

 男は特に何の反応を求めていないようだった。

 淡々と話を続けた。

「見てください。このカードの束を。ねっ?わかりますか?この短い時間のあいだに、カードはすでに増えているのですよ。気づきました?」

 その全く変わらない高さの束を、私はじっと見つめていた。


 何故かしら、そこから目が離せなくなっていた。

 カードのてっ辺、つまりは一番上のカードの表面に、焦点は固定されていた。

 そこに何があるというわけでもないのに、私の目は逸らせなくなっていた。

 高さはまるで変わらない。

 男が何も言わないので、私は耐え切れず、増えているようには見えませんけどねと、言った。

「見た目にはね。でも、数えてみれば、それは一目瞭然なんですよ。今はあえて、数えませんけど。でも、私は、何度も確かめましたから。こうやって、テーブルの上に置くと、その数は、どんどんと増えていくんです。これ、どういうことなのかわかりますか?今もこうして、その嵩はどんどんと増している。物理的には変わらない。でも、増殖は、抑えがきかなくなってるいる。さあ、我々は、引きましょう。少しでも減らすために。我々は引くことで、減らしていかなければならないのですよ。止めなければならない」


 言われていることが、全くわからず、私は一心不乱に引き続けた。

 引くごとに、表に裏返しながら。

 そして気づけば、テーブルには、図柄が丸見えになったカードでいっぱいになっていた。


 男は、カードの束をテーブルから引き離し、専用のケースの中に残ったカードを、しまいこんだ。

「こうしなければ、カードの増殖は、止められません」

 やはり何をしているのか私には全くわからない。

「さあ、見てください。カードは全て、正方形で統一されています。あまりないタイプですよね。正方形というのは。その理由もちゃんと言います。まずは、これらのどれもが朱色で統一されている。背景は、真っ黒。暗闇に浮かび出た、朱色の何かわからない物体。ある人は、これは人間の肉体の一部だとも言う。そうとも言えるし、そうではないとも言える。人間に限った話ではありませんから。生物一般、生命一般について、いえることですから。生き物でなくとも、植物、天体、あらゆる、塵芥の世界の総称です。そして、どれ一つとして、同じ図柄はないように見える。いいですね。そのことを、確認してください。これは、バラバラにされた何かの存在を表現しているのです。つまりは、一つ一つのカードは、そのどこかの部分、ということになる。わかりますか?枚数が増えていく理由が。つまりは、切り刻まれ続けているということを、表現しているのです。それには、終わりがない!切り刻むという行為には、終わりが全くない!どこまでも、それは細かな世界へと分岐していく。物理的な終わりはない。つまりはこのカードの薄さです。物理的な総量は、変わらないように我々には見えるその理由は、厚さが永遠に切り刻まれているからです。本題に戻りましょう。

 その切り刻まれていく世界にあっては、当然、カードに照射される部分もまた、永遠に断片へとわけられていく課程、そのものなわけです。我々もまた、日々、切り刻まれていっているわけですから。こうして、カードと向き合いながら、そのことを、明確に自覚するべきです。その現実と、向き合うべきです。そのために、制作されたカードなのですから。さっきも言ったはずです。これは、占いでもなければ、ゲームでない。本質的にはね。これはただ、あなたの現実、実態を、正確に映したもので、今、向き合う必要のあるものであることを伝えている。占いという体裁をとろうが、ゲームという体裁をとろうが、あるいは、絵画として、そのそれぞれが、別々に販売もされているんですよね。世界中の画廊に、散らばった形で売られている。または、美術館に所蔵もされている。一人の画家による連作という形をとることもあるし、一人の画家の、生涯にわたった全画集という形を、とることもある。また、ある特定の時代に、同じ傾向を持った複数の画家において、同時的に、それぞれの部分が創作されることもある。絵画だけではない、アニメや映画、あるときは音楽にまで、それは散りばめられることもある。断片はどこにでも、そして、どういった形でも、物質に入り込むことはできるし、物質そのものに、成り代わることもできる。世界はさらに、切り刻まれていくことの例えを、表現することになる。つまりは、連動しているし、同等に表現されてもいる」

 男は一息吐き、すぐに続きを話始めた。


「世界の始まりには、一つのテンプルがあっという話です。というよりは、それは私が、このカードの制作者を想像して、そう考えたということですけど」

「あなたが」

「そう、私が。作者の意を汲んだというか。私はね、ただの訪問販売をしている、セールスマンという体裁は、とっていますが、実際のところ、どうなのでしょうか。歴史学者であると、考えてもいいくらいだ。そしてあなたは、この歴史学者の弟子といっても、学生といってもいいくらいだ。そうあってしかるべきだ。そうであった時が、あったのかもしれない。一つ言えるのは、深い因縁があるということです。我々は、そういった因縁の連鎖のネットワークの中に、存在している。その一つの断片であるといえる」

 思わず、そのようですねと、同意してしまいたくなるような男の熱意のようなものを、私は感じた。

 私こそが、あなたの講義を聴講している、一人の学生のような気さえしてくる。

 そういった現実が、あったのかもしれない。なかったのかもしれない。


「その最初にあった一つのテンプルの姿を、彼は、制作者は見たのかもしれない。見たからこそ、こうして残しておきたかったのかもしれない。誰かに伝えたくて。いや伝えようとはしていなかったのかもしれない。ただ記録として、残したかった。いや、それさえ、なかったのかもしれない。ただ、やってしまったことなのかもしれない。ただやってしまったことが、たまたまカードとしての体裁を、自らとっただけなのかも。そもそも、我々が、勝手にカードとして、認識してしまっただけなのかもしれない。もしくは、カードとして、我々が、認識したいがために、そのような体裁を、逆に取ってくれたのかもしれない」

 沈黙は突然現れ、それは永遠に続くかのように、我々の目の前に居座り続けた。


 男が、会話を再開する気はなさそうだった。

 急に、エネルギーが枯渇したコンピュータのように、ぴくりともしなかった。


 彼を熱に浮かしていたものが、急にいなくなってしまったかのようだった。

 彼を操る、何かの存在が、立ち去ってしまったかのようだった。

 何か、別の用事があり、席を外してしまったのか。

 何か、別のやるべき事を思い出して、不本意ながら、そっちの対応をしているのか。

 しかし、いずれも、私が勝手に解釈したことであり、真意は何もわからなかった。


 世界の最初には、一つのテンプルがあったのだということですよ。

 それを、このカードの制作者は、見たのかもしれない。

 カードはこうして、プレイのために、テーブルに乗せた瞬間に、増殖を続けていきます。

 終わりはありません。

 どこまでも、切り刻まれていくのです。

 断片へと、分岐させ続けていくのです。さあ、引いてください。引くしかないのです。引くことで、その増殖を止めることができるのですから。

 男の言葉が、脳の中を、高速で駆け巡っていっていた。


 脳細胞は、確実に記憶している。

 消去しようとしても、確実に、粘り、纏わりついてくる。

 これは、ゲームなのですか、占いなのですか。

 私の声が、木霊している。































 私の声が、木霊していた。

「ちょっと、先生、心ここにあらずなんじゃないですか?聞いてます?」

「ああ、悪い。何だっけ?」


「祖父は、昔、ゲーム会社の社員だったんですよ。腰掛け程度だったようですけど。履歴書にはかけない、空白の何年というか。大学院の学生だったときに、その後の就職が、うまくいかなかったようで。大学に残って、研究を続けることを望んでいたのだけど、欠員がないみたいで。それで。別に、ゲームが好きだったわけでもないのに。そのへんのことは、よくわかりません。どうして、その会社だったのかは。でも、履歴書には、書いていないようで、誰もそこを追及する人もいない。訊かれることもない。そのことも、私に、ふとした時に、漏らしてしまった。私は祖父に聞いたわ。楽しかったのかって?でも祖父は、首を横に振るばかり。あまり思い出したくはなかったみたい。営業職で、他社に店に置いてもらえるよう、売り込みにいっていたみたい。あとは、カードの制作者に、依頼だったり、納品までの打ち合わせだったり、小さな会社だったから、何でもやらされたみたいで、空いている時間は、すべて売り込み。新規開拓ばかりを、やらされたって話。そのような日々を、三年も送っていた。その後、大学に欠員ができて、祖父は研究者としての道を歩いていった。その三年は、何もなかったことになっている。よく見てみなければ、その空白には、誰も気がつくことはない。大学、大学院、その後の研究者生活。大学講師、っていう、真っ直ぐのラインを、疑う人間は、誰もいない。思い込みね。逸れたその道に、気づく人は誰もいない。祖父もまた年度を少し誤魔化して、辻褄を合わせていたみたい。もし指摘されたときでも、空白の説明をしなくていいように。でもね、私には、その三年が妙に気になるの。祖父はただ、研究者とは、何の関係もない営業の仕事を、しかも、小さな会社でしていただけだと言っているけれど、そこには、裏があると思うの。祖父はやはり、あのときも、自分にとって何か重要なことをしていた。仕事をしながら、空いた時間には、歴史の勉強を続けていたのかもしれない。

 でもね、私には、もっと、その仕事そのものに、彼の研究者人生にとっての、何か重要なことをしていたんじゃないかって、そう思うの。私の勘よ。そう考えると、祖父の、大学に欠員ができなくて、就職できなかったという発言も、なんだか疑わしくなってくる。彼は、そのような不運のために、脇道に逸れたわけではない。自ら、そのような行動をとった。彼にとって、その後の研究者生活に大事な、一つの要素を、そのとき、自ら取りに行った。そのように、私は考えてしまうのよ。あの温厚な祖父だったけれど、自分の道に対しては、冷徹で、厳しい目を持っていた。そして、情熱があった。でも彼は、外部にまき散らすことなく、誰かに漏らすこともしなかった。もうだいぶん、年月が経ってからしかも、ほとんど、直接関係のない孫に、ちょろっと言ってしまっただけ。彼は一人、その空白の期間に、何かを掴みに行っていた。どうして玩具メーカーだったのかしら。どうしてカードゲームの販売をする、会社だったのかしら。彼がその後の集大成として、考えていた世界の、その一部に、確実に必要なピースが、そこにはあったと考えるのが、自然なことだと思う。彼はあえて、そこに取りにいった。そこにしか見ることができなかった。研究者の道を、一端脇に置いてまで、掴みにいかなければならなかった。このことは一体、何を意味しているのか」

「君には、検討もつかないんだね」

「ええ」

「何か、思い当たることはないの?雑誌の、あの仕事のことは?」

「そこと、関係があるのかって?」

「そう」

「私も、そう考えたけれど、出版社と、玩具メーカーを繋ぐ線は、何も」

「直接では、ないにしろ」

「どうでしょう」

「ただ、全く、関係はないのかもしれない。どうも、彼の行動を見ていると、その都度、彼にとって、必要だと思うものは、一つの道にはないみたいだ。そのさ、言葉は悪いんだけど、寄せ集めのようなことを常にしている。周りから見たら、それは奇想天外で、支離滅裂で、そう思われても構わない、っていう感じで、むしろ、説明が面倒くさいから、あえて見えないように、カモフラージュをしている。そんなふうにも見える」


「あなたも、そうなの?」

「僕は違うね。誰がどう見ても、真っ当というか、アカデミックなど真ん中を歩いてる」

「表向きは」

「表も裏もない」

「でも、衣装なんて、たまたまそれなだけで、実態なんて何もないじゃないの」

「寄せ集めって言い方が、適切かどうかはわからないけど。装いがその都度違うことの方が、奥深くの世界では、同じことを違ったやり方で表現しているだけ、ということはあるかもしれない」

「手を変え、品を変え、でもやってることは、同じ」

「そう」

「そうか。そういう目で、祖父を見ろ、ということなのね」

「あるいは、同じ一つの道を、明確に歩いているように見えて、実は、全くの支離滅裂だってことも」

「誰のこと?」

「一般論だよ」

「自分のことを、自虐的に表現したのかと思った」

「いずれ、僕も、外れるときが来る。そう遠くない日にね。君のおじいさん以上に」


 私は、それ以上、何も言わずに、自らの沈黙の中へとしずみこんでいった。




































 私は占いの館を閉め、一人カード制作をするために、自宅に引きこもる日々を送った。

 あのとき逃げた、その続きに、向き合う必要があった。

 いつかは、どうしたって向き合わざるを得ない。

 あのときもわかっていた。

 しかし、あの時はまだ、その時ではないと思った。

 私に準備が足らなかった。あの時はそう、警告だった。

 私が向き合うことになる時のための。心構えを施すための。

 そして、月日は経ち、職を転々としていき、その時がやってきた。


 占いだろうが、ゲームだろうが、形は何だろうが、関係がないのだと、心の奥から誰かが伝えているような気がした。

 二人で対面するのか。一人で対面するのかが、とても大事なことなのだと。

 その両義性を、一つのカードに、埋め込むのだ。

 その両方が、必須であり、それが結局のところ、両輪となって機能していく。

 二人のとき。それはプレイヤーとマスターという役割が、どんな時も与えられる。

 つまりは、先の一人は、すでに体験していて、全体像を知っている。

 プレイヤーは初見者で、何も知らない。

 それはある一方から一方へと伝える、役目を果たす。

 マスターは教えることで、さらなる自分の理解を深めていく。

 プレイヤーは、未知なる世界を、既知なる世界に変えていき、人に伝えるべく、マスターの道へも入っていく。

 そのプレイヤーとなった人間は、その後一人で、カードと向き合うことで、理解を深めていくことになる。

 これが唯一にして、必須な時間なのだ。

 この空間を作るために、すべての役割と小道具が、演出されていくことになる。

 演出も小道具も、本質ではなく、それは役割を終えれば、跡形もなく消え去る。

 占いだろうが、ゲームであろうが、他の何であろうが、それは関係がないことだと、我々が言うその意味だ。


 我々?

 私は耳を疑った。

 ふと、夜の暗闇の中で、何か複数の存在が部屋を取り囲んでいるように、感じられた。

 その包まれた中に、私は足場を失い、しかし目の前にはまだ、何にも取り掛かっていない、空白の原案が宙に浮かんでいるようだった。

 まだ何も始まってはいない。

 しかしそれでいて、何かがもう、終わっている。

 すでに取り決めは、なされている。

 それならばと、私は蠢きもせずに、静止し続けるその何かに向かって、呟いた。

 それならば、制作するときは、どうなのですか?と。

 誰か、二人目が、いると仮定して、その二人のやりとりのエネルギーも、カードに入れ込めということですか?

 暗闇は、何も、答えはしなかった。


 すでに私には、自分が何をもって、制作をしていくのか。

 その根幹にある世界が、あることを自覚していた。

 それは、体験していたことだった。

 私には、そのことが信じられずにいた。

 これまで、ずっと信じてこられなかった。

 だからこそ、こうして、遠回りをしていた。

 そして辿りついた。

 辿りつくべき場所に。

 それはどこでもない、ただのココだった。


 すでに体験していること。

 それを残す必要があること。

 書き留めるように、自分からは、切り離す必要があること。

 私が、この肉体を離れるときに、そのまま持っていかないようにするために。

 地上に降ろさなければならないこと。

 私には、もう、ここで抱えている意味などないこと。


 それは、私以外の誰かが、必要としているものを与えることができるということ。

 求められ、そして、私は不必要な荷重を、手放すことができる。

 そのタイミング。

 迫りくる最後の瞬間。

 カードを引くことで、そのプレイヤーは一人、暗闇の中で、トランス状態が引き起こされ、太古のその記憶の中へと、その中枢へと入っていく。

 その始まりの場所に。そこからすべては、分岐してしまったこと。

 分岐した世界同士が交わることなく、ぶつかりあい、分岐の流れを加速させ、複雑怪奇な迷路を、作り上げてしまったこと。

 その自律性に命は宿り、成長し続けてしまったこと。

 文明は、多様にして低俗で、地の低いところを、のた打ち回ることで、生を浪費させていくことを助長した。

 その全貌は明らかになっていく。


 深い意識の中で、それは、明らかになっていく。


 もうこれ以上、分岐の波に加担することはできない。

 その自覚が、その人間の歩みを、急速に止める。

 カードは、その出発点を創出する、装置として機能する。

 出発点は、また、終着点でもあることを。

 私はすでに、その材料を、この身の内に持っている。

 解放されるその時を、天は、望んでいる。

 私は、今、天の意思に操られている。

 私は、最初で最後の、意思を操る魔術師のように、名もなき時空間に、今挑もうとしている。
























 その不思議な展開の本を発売した、寺西という著者は、発売元の出版社で、取材陣のインタビューに応じていた。

「問い合わせというか、苦情が殺到していることには、どう、お考えですか?どのような対処を、検討されているのですか?」

 寺西という男は、平然と、涼しい顔をしていた。

 今、インタビューの会場を急遽設営しますから、少しお待ちを。

 寺西の代わりに、出版社の社員が、報道陣の罵倒に答える。


「寺西さん。どう、お考えなのですか!」

 怒号は、鳴り響く様子はない。

 報道陣はひとしきり、大きな声を出しつくすと、溜まったものを全て吐きだせたことに、とりあえずの満足感をあらわにした。

 今は、妙な静寂が、フロア内に漂っていた。


 寺西は、自らの著書を持ち、それを天に掲げるかのごとく持ち上げ、そして静かに降ろした。

「実は、これなんですけれど」彼は言った。

「最初に、取り外すことから、始めてほしいんです。バラバラに。これは一見、繋がっているように見えて、実は違います。始まりがあって、終わりへと繋がっていく、そんな直線的な物語では全然ありません。それどころか、真っ直ぐに進む意思すら、内包していない。ジグザグもいいところです。ほら、ページ番号も、印刷されていないでしょ?これはある種、絵本なんですけど、従来のあるべき展開を、完全に無視している。けれども、反論させてもらうと、ここにも、ストーリーはちゃんと内包されている。ただし見える形で、誰もが同じ通り道を伝って、通過しないというだけのことです。そのことがわかっていれば当然、このまま切り離すことなく、そのまま使用していただければ、問題はありません。しかし、そういった制作側の意図は、全く伝わらなかった。それがこの事態を引き起こしてしまったのです。なので私は、その対抗措置として、すべてのページを切り離して、解体してくれと言うわけです。本当に、そうしてくださいね。そうしなければ、何も始らないですから。そして、この表紙、裏表紙共に、それもまた、一枚のカードとして、使用することにはなります。それも中身の一部ですから。中身とか外側とか、そのような区別も、本来はないのですけど」

 寺西は、饒舌にそう言い放った。

「解体って、全然、書籍ではなくなるということじゃないですか」

「私のせいにしないでください。本来は手にした人が、自由に扱うべきものですから。まったく、こんなことになること自体・・・」

「で、それで、カードみたいに、一つ一つを分岐させて、それでどうするのですか?」

 また、別の記者のような人間が、大きな声を上げる。

 すでに、記者会見のような場になってしまっている。

 会場の設営など、もう何の意味もなくしていた。

「横に一面に広げて、一望させてみたり、束にまとめ上げ、トランプのように、シャッフルしてみたり、自由にしたらいいじゃないですか」

「冗談は、やめてください」

「好きなようにしてくれって、何度言ったら、分かるんですか?これは、テレビゲームでもなければ、ネットゲームでもないんですよ。あらかじめ、決められたその世界の中で、その制限された形で、右往左往をするための装置では、全くないんですよ。料理のようなものです。素材をぽんと置いて、あとは、調理者がそれを使って、自分の好きなものを作り上げていけばいいんです。何で、それが、できないのですか!手取り足取り、説明書きを付けて、それで、皆を同じ料理にありつけるよう、導いていけば、いいんですか?それこそ、冗談でしょ!」

 寺西は、言った。


「ただし、一つ、自由にやってはいいのだけど、忠告がありますからね。私は、それを今日、この場で伝えに来たんですよ。そのためにこうして、怒号の中、わざわざ来たんですよ。つまりは、それでも、一度、この読書というんですか、とりあえずは、便宜的には。それに、一歩でも踏み入ってしまえば、もう出口はありません。そう。これは、出口のない書籍なんですよ。皆が、騒然と、意識を逆撫でする、理由も、確かにわからなくもない。的外れにしろね。何か、心をザワつかせる要素が、確かに、内包されている。それが、あなたたちを、こうして、ここまで来させている。

『シカンの頭骨』というこの絵本。幼児向けなのか、大人向けなのか、日本人向けなのか、外国人向けなのか。人間向けなのか、そうではないのか、よくわからないこの物体の正体は、一度始めてしまえば、二度と出てはこられない、そんな未開の秘境のような存在なんですよ。よかったですね。皆さんは、そこに踏み入れていないで。危険なことは、百も承知のようだ。それで、いいんですよ。容易に招き入れない、これは、防波堤のようなものですから。あなたたちの怒りとか、不満、不安は、正しい反応なんですよ!それは、それ以上、進ませるのをやめさせる、生命からの、実に温情なのですよ。素直に受け取ったらいい!そして、二度と、こんなものに見向きをしなければいい!人生の貴重な時間を奪い取られないようにした方がいい!つまりは、正常な世界に戻った方がいい」

 フロアは、静まり返ってしまった。


 この自分の方が、異常なのだから、もう近くにうろつかない方がいいと、本人が宣言しているのだ。

 記者たちは、出鼻を見事にくじかれ、それでいて、退散するためのエネルギーもまた、奪い取られてしまったかのように、茫然と立ち尽くしていた。

 追い打ちをかけるように、寺西は言った。

「それでも、まだ、私に纏わりつきたいというのなら」

 そんな人間はもう、誰もいないように思えたが、皆、この寺西という男に、両手両足首を、強固に掴まれてしまっているかのようだった。


「忠告を、よく聞くことです。最低限の予備知識を備えることです。完全にすぐ、自由になれないというのなら、ある程度の制限を、必要最低限の制限を、あなた方は受け入れなければならない。それを基点に、それをテコにして、あなたたちは、次なる羽ばたく機会を、伺うべきです。いいですか。まずは、出口はないこと。最初から、もう一度言いますよ。これは、普通の出だしから終局まで、真っ直ぐに誰もが同じように進んでいく筋をとってはいない。従って、ページの数も意味はなく、そこには誰もが同じように理解できるストーリーの存在もない!読む人が、独自に進んでいく以外に、道はない。そして、その道を見つけ、突き進んでいったとしても、読者は、ゴールという名の、この書籍における出口を、そこには、全く、見いだせないということです。つまりは、書籍の中に、閉じ込められてしまうということです。決して、外に出ることができなくなる。これは、例えでも何でもないです。事実、あなた方は、そこから脱出することが、不可能になる!二度と、それまでの生活に戻れるチャンスは、なくなる。あなたは、外の世界においては、実に、行方がわからなくなった存在になる。そういった覚悟のある人間だけが、本来は、中に踏み入れることが可能になるのです。あなたたちのように、入らずに外から、批判の声をあげているというのは、実に正しいことなのですよ。むしろ、入ってはいけない!私はそう断言します。しかし、それでも、どうしてもという人間が、出てきてしまうのは否めない。私は、その人のために、こうして話しをしているわけです。わかってくれますか?そして、その出口は、けっして見つかることはない。いいですか」


 静まり返ったフロアにあっては、どんな小さな声でも、全員の耳の奥を、しっかりと響かせる震動になりそうだった。

 一人の男の、あまりにか細い声が、一瞬で、フロア内を響かせた。

「あなたのお話を、しっかりと、聞かせていただきました」

 その男は言う。

「これ以上、どんな質問も、無益に返すことを知って、自分は腑に落ちました。出口はない。では何故、出口のない場所に、入り口はあるのでしょうか。出口を設計していない建物に、どうして、入口の存在があるのでしょうか。つまりは、あなたは、入口すらないと、おっしゃっている。入口がない。滑稽ですね。つまりは、この絵本は、誰も読むことができないことになる。何なのですか?ただの置物なのですか?入ることすらできないわけです」

 寺西は、すぐに答えた。

「入口は、あります」と。

「へえぇ、そうですか。それは、意外だな」

「入口と出口は、同じではないんですね」

「普通、本というのは、出入口は、異なっている。一ページ目が、入口のそれで、最終ページが出口のそれだ」

「普通の書籍のことを、言ってるんじゃない!」

 男の怒鳴り声は、もはや、妙に静まりきったこのフロアでは、その音量を、皆うまく計ることができなくなっていた。

「あなたのこの場合だと、出入口はまったく同じように思うんですよ。どうなのですか」

 寺西は、今度は十分に間をとった。

「そう、思いますか?」と。

「思いますよ」

 男は言う。

「ならば、確かめに行ったらいい」

 挑発するように、寺西は言う。

「私は、ただ、忠告しているだけです。現実に、そうであるのかは、行った者にしか、わからない」

「そして、入口というのは」

 男は、食い下がった。

「実は、もう、我々は、その中に入ってしまってるのではないですか?」

 寺西は答えなかった。

「読む前から、書籍があるなしに関わらず、我々は、入ってしまっているのではないですか」

 男の声が、空しく響き渡る。

「誰もが入ってしまっている。そう、この世界。この世界が、あなたの言う、書籍の中と同じなのではないですか!あなたの書籍に、我々が、入っていくのではない。すでに、入ってしまっていることの例えを、あなたの書籍が、果たしているだけだ。実体を浮き彫りにさせているだけだ。つまりは、我々は、あなたの書籍の中にも、入ってしまっていることになる。あなたは、この世界全体を、そのままの相似形で、こうした小さな物体に、置き換えて表現した。我々は、この世界に、入ってしまっている。生まれてきた時に、そう、入ってしまっている!。生まれる前には、入っていなかったのか。生まれる瞬間に、入ってしまったのか。それはわかりません。どの時点で、どうやって、入り込んでしまったのか。それはわかりません。

 一つわかることは、我々は、その入ってしまった世界からの脱出方法を、失っているということです。その例えを、あなたは、ご自身の書籍で、言い替えているだけだ。そう考えると、あなたの書籍というのは、別に、特異でも何でもない。ごく当たり前の、全ての人に当てはまることを語っているだけだ。ただ、目の前に、現出させているだけだ。鏡のようなものです。どうです?その通りじゃないですか?何も、答えなくていいですよ。おそらく、そうなのだから。私はずっと、そのことを、今日言いたくて来たわけですよ。こんなくだらない議論のようなことに、無駄な時間は、費やしたくない!私には、わかっているのです。あなたの意図が。そして、あなたはご自身がその閉ざされた世界からの脱出をするべく、そのような装置を作りたかった!つまりは、これは、あなたご自身のために作られたものだ。そして、あなたは、これからお試しになる。そうですよね?行方不明になるのは、あなたの方です!あなたが、この世界からは、消え去ってしまったかのように見えるのです。どうなのですか?そのとおりでしょう。それでも、出口がなければ、あなたは戻ってくることはない。むしろ、あなたは、この書籍にわざと出口を作らなかった。そういうものを、あなたは何としても作りたかった。あなたは、出口がないことを、明確に、ご自身にわからせようとした。どこかにあるはずだ。そうした希望を、あなたもまた持っていた。今も持っている。そのように、人は出口がいつかどこかに現れ出て来るはずだという、希望と共に生きている。けれども、そんなものはない!現れ出て来ることはない!心底、そう思えるときが、来るのか。あなたは、その認識が、最大の鍵だと感じとった。そしてあなたは、その認識が本物かどうか。自らで試すことになった!」

 男はここで、急に黙ってしまう。


「あなたを、本の著者として私は認めません。あなたに、そんな権利などない!あなたに、この世界での居場所などないのですから。さあ、行ってください。あなたが居るべき場所は、ここではありません。ずっと昔から、わかっていたことでしょう?この地上においては、あなたのための出口など、どこにもないのですから。さあ、行きなさい。もう茶番は、けっこうなはずだ。一人くらいの理解者が欲しかったのなら、別にそれでも、構わない。けれど、だからといって、事体は、何も変わりやしない。あなたは、行かなければならない!」

 フロアに居た人たちは、この意味のわからない問答を、結局、最後まで聞かされたのだった。









 刑事は、再び現れ出た、その複数の殺害写真に、眠り始めていた仕事への本能が、呼びさまされていた。

 そして、その写真が堂々と、『絵本』として、世の中に出版されたことを知った時には、心底驚いた。いや、正確に言うと、それは写真ではなかった。絵として描かれてはいた。ただ、実写に非常に近い形で描かれていたので、リアル感は半端ではなかった。その絵柄を、自分はつい最近まで、写真として見ていたものだったのだ。今も要求すれば、すぐにでも見られる。警察に保管されている、その複数の写真が印刷されたカードの束は、今も犯人の逮捕を望むべく、警察にプレッシャーをかけ続けている。


 刑事は、発売された絵本を、本屋で購入した。

 喫茶店で、一人眺めみた後、署に持って帰り、上司の男に一連の話をした。

 机の上には、カードの束と絵本が、二つ並べられていた。

「これが、偶然の一致だとは、思えませんけどね」

 刑事は言う。

「だとすると、容疑者は、これで、二人に増殖してしまった。寺西徹と、著者は、名乗っている。何なのですか、この図柄は」

「二件目か」

「ええ。いまだに、実物はお目見えしていない。解析をずいぶんとしたのですが、背景からも、場所は確定できませんでした。ただ、土の感じや、地形の細かな特徴からは、やはり、日本のどこかであることは、確かなようです。そして遺体は、フェイクではありません。写真越しにも、生体反応のなくなった、人間であることは、突きとめました」

「何を、焦ってるんだ?」

 上司の男は、言う。

「もう、これは、終わってしまった犯行なんだ」

「であるのなら、なおさら。犯人は、すでに、存在しているということです。今も、自由な身です」

「気持ちはわかるさ」

「協力してください。僕一人だけでは、手に、負えません。警察全体としては、まだ、捜査本部を立ち上げる機運は、ないようですから」

「君一人が、威勢がいい」

「そういう言い方は、やめてください。もう起こっていることを、見過ごせというのですか?」

「時が来れば、必ず、明らかになる」

「勇み足ってことですか?」

「二件目なんだ」

「といっても、同じことの繰り返しですよ。焼き増ししただけの。この作者の男に、事情を訊きにいって、構いませんよね」

「どうだろうな」

「まだ、様子を見ろって、言うんですか?」

「この前のその男も、話を訊きにいっても、全然、成果がなかったそうじゃないか。ずいぶんと、署内では噂をしていたよ」

「どんな」

「とにかく、突っ走りすぎなんだよ。材料が、一定量集まるのを、待ったらどうかと、そう言ってるんだよ」

「手をこまねいて、待っているだけで、それで解決しますか?」

「君はまだ若いから、分からないかもしれないが」

「若い?どこが?この僕が?冗談言っちゃ困ります」

「いいから、これ以上、迷惑はかけんでくれよ。フォローすることも、できなくなるぞ。後ろ盾を失くすぞ」

「脅すんですね」

「そうじゃない。冷静になることも、必要だと言ってるんだ。浮ついたままでは、どんな行動も、あるべき秩序を、乱しにかかるだけだ。君のその、撒き散らした害悪を、いったい誰が、後片付けをすればいいんだね?」

「もう、いいですよ。放っておいてくださいよ。僕が、勝手にやりますから」

「そうなるから、忠告しているんだよ。君はまだ若い」

「若くはありません」

「いいから聞け。勝手にするなら、それからだ。いいか。きちんと、整理して考えよう。これは二つ目の手掛かりだ。そして、同じ証拠を焼き直して、こうして表の世界に、ばら撒き始めている。いったい誰が?犯人がか?それとも、共犯者がか?あるいは、事情を知ってる誰かがか?おおっぴらに言えないことを、こうして、暗に仄めかすような形で、公開してるのか?その、どれだと思う?まずは、それからだ。そして、そう考えれば考えるほど、次の三つ目、四つ目の手掛かりが、時間を置いて、必ず出現してくるはずだと思われる。ここには世間に晒したいという意図が、感じられるから。そうだよな。君のような男の意識を誘発する、行動を促す、そんな力がここには秘められている」

「それなら」

「だから待てと言っているんだ。そしてそれは、攪乱するため、という目的もあるかもしれない。自ら証拠をばら撒くことで、逆に、手掛かりを多くして、それでいて、支離滅裂な情報で、混沌を引き起こすというような。つまりは、手掛かりが多くなればなるほど、その真意はぼやけ、真相からは遠ざかっていってしまう。それが狙いの。つまりは、まだ、この時点では、犯人の意図がわからないということだ。時間の問題もある。これが、過去のある出来事を、正確に写しとったものなのかもわからない。いくら、AIがそれを実物の人間であることを確定させても、そっくりとそのまま、我々は受け入れるわけにはいかない。その寺西という作者が、容疑者の一人とすると、この前、君が会いに行った占い師の男。さらには、このカードを売りつけたセールスの男もまた、容疑者としての候補リストに名を連ねる。そうやって、容疑者ばかりが、今後も同じ図柄が世に現れるたびに、出続けていくことになる。私には、そうした現実が、目に見えてくるようだよ。その度に、君は、振り回され、心乱され、混乱し、激しい感情を抱き、そしてそれを払拭するべく、ただやためたに行動を起こし、再び私に泣き付いてくる。いいか。これらは、ただの現象にすぎない。これは水面に映った、月の姿だと考えたらいい。月はいったいいくつある?一つだろ?ところが世界に水面はいったいいくつある?数えられないだろう?海もあれば、池も、河も、数限りなく存在する。こっちで月を見れば、あっちでもまた見る」

「そういうことですか」

「月は、一つだ」

「反映した月は、複数ある」

「君は、その反映された方の月を、見ている。見させられている。そして、そこに、縛り付けられている。私は、それを指摘している。まずは、その誤解を君自身が認識しなければ。そしてそれは、今回がいい機会になる。今後のためにも。反映された月の情報は、これからも、数限りなく出てくるはずだ。月は一つだが、地上のあらゆる場所が、その月を反映させるための、場所になりえるからだ。そこに制限はない。どんなところにも、どんな小さな場所にも、その断片化された本当に小さなところにも、月は、確実に反映することができる。どんなに切り刻んだ鏡にも」



 刑事は、荒れ狂う波が、次第に収まってきているのを感じていた。

「ということは、犯人の意図でも、誰か事情を知ってる人間の、リークでもない」

「それは、わからんね。とにかく、反映された月を、本物の月だとして、見てしまう、君のその目を、矯正しなければ、話は始まらない。誤った、君のその視力では、とった行動のすべてが、的外れになってしまう。害を撒き散らしてしまう。反映の、月の方の情報を、拡散してしまうことになる。それでは、犯人の本望と、同質化してしまう」

「なるほど」

「少しは、落ち着いたか?」

「それで、その視力の矯正というのは、いったいどのように」

「そのために、私が居るわけだな」

 上司の男は、静かに笑った。

「まずは、簡単なことだ。それが、反映された、偽物の月であるということを、自覚することだ」

「はい」

「実体と、すごく似ているのかもしれないが、現実には、そこにない。そこにはないんだ!それは、そこにはない!」


 目の前の二つの物体を、刑事は眺めている。

 どうしてもそれが、実在していないとは、思えない。

 口を開かずに、ただ見つめていた。

「簡単なことだが、実際には、それほど安易なことではない」

 刑事は、見つめ続ける。

 いつになっても、それがないものとしては、考えられない。

「そして、二つ目。その反映された偽物でも、それを生かす手は、あるということだ。というのも、それ自体は、実体のない偽物であっても、触ろうとすれば、するりと手から逃れてしまうものであっても、それでもそれは、本物を常に映しとっているものだからだ。本物がどこにあるのかは、わからないが、常に、その本物を映しているということだ。だからといって、それが近くにあるとかそういうことではない。月だってそうだろ?海面に映った月の傍に、本物の月があるというのか?そうじゃない。しかし、確実に言えることは、本物を映している鏡ではあるということだ」

「鏡」と刑事は、復唱する。

「そうだ、鏡だ」

「では、鏡を見ることも、悪いことではないと」

「それが、鏡と知っていれば」

「手掛かりが、つかめることも」

「ただし、見る人間の視覚が、正常なら」

「あなたは、正常なんですか?」

 刑事は、唐突に訊いてみた。

「私だって、正常じゃない」

「なるほど」

「湖面に映っているという、その現実。そうか。映ったそれは、実在はしてないけれど、映っているという、その事実は本物だ。そういうことですね。つまりは」

「なんだ?」

「このカードや、書籍に纏わる、現実的なこの世界の人間。つまりは、容疑者や、その関係者、そこはすべて偽物ではあるが、この映ってしまっている実態。それは、本物であると。そうか。僕は、偽物を漁りにいこうとしていたんですね。もっと、現実の方を見なくてはいけなかった」

「そう。手掛かりはあるのだよ、やはりここに。この二つの証拠品に。そこに写った共通の現実に」

「ということは、この二つを、よく見ることが、大事なわけだ」

「ちゃんと、見たのか?」

「そう、言われてみると」

「数えきれないほど、見てはいないだろ。意識は、外に外に、さまよい出ていって、暴れ狂っていたはずだ。そうじゃない。ここにある。ここに焦点を絞ってくるんだ。反映の海は、ここに二つに増えた。これは大事なことだ。一つが二つになった。これは、大事なことだ」

 刑事は、二つになったその意味について、考え始めた。


 反射的に質問することは、すでに、鳴りを潜めていた。

 ただ、反応だけで、前のめりに突進することほど、愚かなことはないと感じ始めていた。

 まずは、定まること。この自分が定まること。焦点を定め、正しい視覚を持つこと。

 この今の視界では、何も見つけ出すことはできない。


 どうしたら、いいというのか。

 二つ目が出てきたことが大事なことだと、彼は言う。

 刑事はその真意を掴もうと考えを巡らせる。

 一つが二つになったことで、劇的に変化したこととは。

 その内容が、問題なわけじゃない。


 任意の二つの点が、現れたこと。

 それを結ぶと、直線ができる。

 彼は、三点目が現れたことが、劇的だとは言わない。

 二点。

 結ぶ。

 直線。

 それで?

 それは、この視覚ならではの、見え方だ。それは違う。


 二点を結び、直線的に見る、その間違った視覚。

 間違いであることから、正しい道が見つかることもある。

 いや、そういった見つけ方しかない。

 今のこの自分の状況では。

 二つを結ぶ直線。高さのない、世界。地を這うように、平面的な世界は、続いていく。

 あっ!


 そのとき、三点目の存在に、刑事は気づいた。

 その三点目は、三つ目に発見される事柄ではない。そうではない。

 この自分だ。

 ここが、三点目になるのだ。

 三点目にするのだ。

 二点目が、発見されたことと、同時に、この自分という、三点目が発動するのだ。


 二つの反映された、偽物の月。

 それと、この自分。

 三点。

 その三つを見つめている・・・。

 うん?

 その上に、何かが。

 何かの存在を感じた。

 それだ。

 それこそが、本物の月だ。

 月のある場所がわかった。

 その存在を感じた。

 刑事は、どうすることもできなかった。

 ただ、この今のままの状態を、キープするしかなかった。



 目の前の上司の姿は、どこかに、消えてしまっている。

 ここが、警察署であることも、実体をなくしてしまっている。

 今、二点の証拠物と、この自分の三点目だけが、背景のない空間に任意に浮かんでいるようだった。

 そして、その頭上には、本物の月の存在が。

 そういった位置関係が、このとき、刑事には見えてきていた。

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リンカーネーションズ deux @jealoussica16

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