保健室にさえいれない私とカウンセラーな先生
柊かすみ
保健室にさえいれない私とカウンセラーな先生
「不登校から脱却した」という言葉はおそらく、多くの大人にとっていくらか耳触りのよいものなのでしょう。多くの大人はその人を異常なまでに褒め称えるでしょうし、かくいう私の場合もそうでした。しかし実際には私はただ、活動場所を自宅の自室から学校の使われていない面談室へと移しただけです。
相変わらず私はペンを握らず、好きな本ばかりを読んで過ごしています。過ごしてしまっています。学生という身分でありながら勉学に励まないのはいかがなものか、と他でもない私自身が最も懸念しています。教科書読破こそしましたが、とても残念なことに私は、読むだけで内容を記憶できるような才能は持ち合わせていませんでした。
……もしかするとこれは、「多くの大人」という存在による巧妙な作戦なのかもしれません。過度な称賛で良心の呵責を引き起こさせて登校させる、という。なんて、今読んでいるこの本の影響を受けすぎています。
チャイムが鳴りました。この面談室にもスピーカーは取り付けられており、そこから、この狭い面談室には大きすぎるほどの音量でチャイムの音が再生されました。そういえば壁のスイッチで音量を変えることができたはずです。が、私は立ち上がることはせず、椅子に座ったまま荷物を整理し始めます。隣の椅子の座面に寝かせて置いていた鞄を取り、その中に本を詰めます。
ノックの音が聞こえました。おそらくはこの面談室のドアに対するノックです。しかしその「おそらくは」が、私を、荷物をまとめていたいびつな姿勢で硬直させました。自覚できるほど鼓動が速くなります。喉のところで何かが詰まります。
「失礼しますね」
その声とともにこの面談室のドアが開けられました。そちらへ目線だけ動かすと、数時間前に私をこの面談室へ案内したいつもの先生が立っていました。とても若い、男の先生です。が、私は先生の年齢や性別に関してあまり気にしていませんでした。と言うのも、この先生は若い男性ではありますが口調はとても落ち着きがあり一人称も「私」で、背は高いものの中性的な容姿をしていたためです。
「4限が終わりましたが……どうします? お昼は持ってきていますか?」
先生は私に問いかけます。
「……帰ります」
私は一言だけ発します。もっと愛想のよい返答をできたら良かったかもしれません。今更ながら思いました。
「そうですか。それでは、忘れ物のないようによく確認して、気をつけて帰ってくださいね」
先生は目を閉じるような柔らかな笑みを浮かべながら、完璧な返事をしました。なぜでしょうか。それがほんの少し、そのとき私の心を乱しました。いつもは言われたとおりに帰る私ですが今日はそうせず、先生の方を向きました。落ち着き始めていた鼓動がまた速くなります。
「……?」
先生は首を傾げます。当たり前でしょう。私のようなものに真正面から見られたら、誰でも首を傾げたくなります。喉のところで何かが玉突き事故を起こしました。
「……先生は、なぜ先生をしているのですか?」
私は、なんとなく気になったことを訊きます。なぜでしょうか。そのときの私はそれに興味をいだきました。もしかしたら私は、答えることが難しい質問で、完璧な応対をする先生を困らせたかったのかもしれません。だとしたら私は最低です。
その言葉に先生は少し悩むかのように顎に手を当て、しばらくしたあと口を開きました。
「まず、私は正確には『先生』ではありません。この学校に雇われた、外部のカウンセラーです」
先生は手を自身の胸に置き、答えます。
「そして、私がカウンセラーをしているのは……こう言ってはなんですが、『なりゆき』です」
良く言えば運命ですね、と先生は笑顔で続けます。
私はそんな先生を見つめ続けます。何か気の利いたことを言えたら良いのですが、私の頭の中は、先生の運命がどういったものだったのか気になっていっぱいいっぱいでした。
「私は難病を患っていました」
そんな私を見越してか、先生は一人話し続けます。その内容は驚くべきものでしたが、先生の落ち着いた語り口もあって私の心臓は落ち着いていました。
「難病、特定疾患、治りにくい病……。呼び方はなんでも構いませんが、『不治の病』という呼び方だけは適切ではなかったということでしょう。今はその難病は完治とはいきませんでしたが、寛解、症状がでないまでになりましたから。治療も何もやりようがなかったので放置し諦めていた、一緒に墓に入ることを覚悟していたこの病は、ある日突然、どこかへ行ったのです」
そういう先生の笑顔は、どこか悲しげでした。
「理由がわからないことは少し怖いことです。もしかしたら明日、再発してしまうかもしれません。しかし、そんな来るかも来ないかもしれない明日を心配して何もせずにいられるほど、私は経済的に裕福ではありませんでした」
そういう先生の困り顔は、少し嬉しげでした。
「そこで、私のような人を支援する機関の職員さんにおすすめされた、このカウンセラーという仕事を始めました。なぜこの仕事を勧められたのか当時の私はわかりませんでした。つらい思いをした人は今つらい思いをしている人に寄り添える、だなんて言われましたが、私はそこまで立派な人間ではないと感じていました。今もです。今も、私は自分がそこまで立派な人間ではないと感じています。……しかし、そうですね。いざこうして働き始めてみるとわかりました。……私は人と落ち着いておしゃべりをするのが好きなようです」
先生は笑います。
「今しているように、誰かと語り合うことは私にとってとても楽しいものなのですよ?」
先生はそう言いますが、私は先程から一言も発することができていません。何か気の利いたことを言えたら。
「……少し訂正しましょう。私は、誰かに語ること、そしてその誰かが私の話を聞いてくれることに、楽しさを感じるのです」
先生はウィンクをします。見透かされているのでしょうか。その言葉は、何も言えずにいる私を助けようとしているかのようでした。
「貴方はとてもよい生徒さんですね。私の話をきちんと聞いてくれていることが、見てわかります」
私は、見透かされているようでした。しかし、何か言わなければならないという気持ちが消えることはありませんでした。というより、私は何かを「言いたかった」のです。
「……先生は、学校は好きですか?」
私は、これまたなんとなく気になったことを訊きました。
それに対し先生は、首を傾げ天井を見上げ少し考えました。先生は全体的にオーバーリアクションです。しかしそれが私にとっては、何をどう感じたのかわかりやすくて助かります。
「私は『学校へ行きたくても行けない』状態でした。しかし『学校へ行きたい』と思っていたかどうかは、今の私にも残念ながらわかりません」
先生はまっすぐにこちらを見つめて答えます。
「好きな教科もありましたが、嫌いな教科ももちろんありました。好きな先生もいましたが、嫌いな先生ももちろんいました。友だちは数人いましたが、心を許し合えるほどの仲になる前に、私は学校へ行けなくなってしまいました。そんな私の学校生活は、普通の人の言う学校生活とはかけ離れたものでした。ですので、私のあの心が学校へ行きたがっていたのか、客観的に判断することはできません」
先生は少し目を逸らしながらも答えます。
「しかし健康になった今は、私は学校が好きです。こうして毎日学校へ通うのは決して苦ではありません」
先生はまっすぐにこちらを見つめて答えました。
私はその言葉を受けて、いろいろなことを感じ、考えました。今の私は、学校というものをどう思っているのでしょうか。過去の私は、学校というものをどう思っていたのでしょうか。未来の私は、本当の意味では学校へ行けていない今の私をどう見るのでしょうか。
「お時間取らせてしまって申し訳ありませんでした。私はもう帰ることにします」
考えたまま、私は別れの挨拶をします。
「いえいえ、こちらこそ、お付き合いいただきありがとうございました」
先生も別れの挨拶をします。
「気をつけて帰ってくださいね」
先生はそう言うと、先に面談室を出ていきます。
一人になりました。私は何をしたくて今を生きているのでしょうか。いつかこの日々を思い出すことはあるのでしょうか。
私は、私自身について何も話していないのにも関わらず軽くなった心に気が付きます。そして立ち上がりました。私は壁のスイッチを操作してスピーカーの音量を下げ、そのまま面談室をあとにしました。
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