第54話 正人と茜 ①
隼人と桜が病室に入ると、茜は窓の外を眺めていた。
殺人鬼に
病室に籠る茜は、家や仕事の事が気になり落ち着かない。
それに病室でじっとしていると、忘れたくても小田川の拷問を思い出してしまう。
「茜さん、体は大丈夫ですか?」と、桜と一緒にお見舞いに来た隼人は、花と果物をベッドの横に備え付けられた台の上に置いた。
「ふふふ、ありがとう。少し痛みはあるけど、大丈夫よ」
入院着姿の茜は、額に包帯を巻き、顔にはガーゼが貼りつけられている。
彼女は、体中から絶え間なく襲ってくる疼きと痛みを彼らに感づかれないように、作り笑顔を見せた。
「無理しないでね、仕事は私と隼人で何とかするから」
「あなた達が居てくれて心強いよ。正人は、どうしているの?」
「正人さんは、事務処理に四苦八苦していますよ。普段から茜さんに任せっきりだから、要領が分からない見たいです。長老に叱咤激励されていました」、隼人の見せる苦笑から、茜は大体の事は想像できる。
「はぁ、ちょっと不安ね」と、ため息交じりで茜は答える。
隼人と桜は、窓際に置いてあった椅子に座った。
窓から差し込む光が眩しいので桜は、カーテンを閉めた。
「茜さんは、心配しなくて大丈夫だから。今は、ゆっくり休んでね」と、桜はそっと茜の手を握った。
「そうですよ。心身ともにしっかりと休養を取ってください」
隼人が話した後に茜は、神妙な面持ちで本音を漏らす。
「もし・・・、もしも私が居ない時に正人が正気を失うことがあったら、力づくでも正人を止めて欲しいの。出来るかな、隼人君」
「ええ、その時は、僕が正人さんを殴り倒してでも止めますから安心してください」
「お願いね。昔の正人に戻って欲しく無いの」
「昔ですか? 今とは、違っていたのですか?」
「そうよ、何て言うか、歩く凶器見たいだったかな。自分以外の人は、全て敵とみなす様に睨みつけて、笑わなかったの。今とは、正反対かな」
「へぇー。今の正人さんからは、想像できないですね」
正人から知らない人と出会い、話すことが好きだと聞いていた隼人は、自分の知らない過去の正人が気になった。
「本当に、昔は何を考えているのか分からない人だったな」
茜は、古い記憶の糸を手繰り寄せ始める。
初めて正人と会った日の事から今に至るまで。
ふぅと、茜は息を静かに吐くと隼人と桜の二人を見つめた。
「私が、初めて正人と会ったのは、小学一年生だった時。里親に連れられた彼が、私の家に来たの。どうしようも無い悪ガキに手を焼いた、里親の鬼塚さんが私の父に相談しに来た日だったかな」
茜の記憶が、鮮やかに蘇って来る。
里親の鬼塚さんと手をつなぎ、鋭い目つきの七歳の正人が玄関で立っていた。
父親の後ろから覗き見る茜を見ても、表情を変えず睨みつけてくるような視線の彼を怖いと感じた。
「源一郎君、すまないね。この子に柔術を教えてやって欲しい。人の痛みを知らないのか粗暴な性格が治らなくて、同級生と喧嘩ばかりしていて困っているのだよ」
「鬼塚さん、彼は数カ月前に引き取った里子ですね。元気そうだが、うん・・・、目の色が」
「気になるか。この子は、赤い目をしている。そのせいで忌み嫌われ、施設で他の子供達から酷い仕打ちを受けていた見たいでね」
赤い目の少年に何かを感じた源一郎は、「引き受けますよ。明日から来てください、武術を通して彼の心が開かれると良いですね」
「そう願います。失われた感情を取り戻し、笑顔を見せてくれたら良いのですが」
翌日から茜の家の道場に正人は、通うようになった。
袴姿で毎日、毎日、源一郎に投げられながら正人は柔術を学んだ。
同じ小学生の仲間と一緒に、憑りつかれたように無我夢中に武術を学ぶ彼は、通い始めた頃は道場でも一人無言でいる事の方が多かった。
一か月を過ぎると、正人は受け身も上手くなり動きも俊敏になってきた。
道場の他の子供達とも、話をする様になり穏やかな表情を見せ始める。
そろそろ頃合いかなと感じた源一郎は、茜と手合わせをさせた。
「師匠、女の子が相手なのか?」
「そうだ正人、女だから負けないと思っているのか?」
「はい、こんなチンチクリンに負けるはずが無い」
当時の茜は、天然パーマの髪の毛が方々にはねてカールしていた。
その姿に小学校で茜の事を男の子達は、天パのチンチクリンと彼女をからかっていた。
「お父さん、この子を思いっきり投げて良いですか」、茜の鼻息が荒くなった。
にらみ合う二人を見て、源一郎は可笑しくて吹きだしそうになる。
「くっ、くっ、く、じゃあ始め」と、源一郎が仕合開始の合図をした。
力で負けるはずが無いと自信満々の正人は、自分より背の低い茜の奥襟を取ろうと右腕を伸ばす。
茜は、冷静に正人が伸ばしてきた右手を避ける。
正人の懐に飛び込むと、彼の襟を掴んだ彼女は体を小さく丸める。
ズドンと、正人は仰向けで畳の上に転がった。
「どうして、投げられたのか・・・俺が負けるはずないのに」
「どうした、正人。お前の負けだぞ、続けるのか?」
正人は立ち上がると、乱れた上着を直し、お願いしますと頭を下げた。
何度やっても正人は、茜に勝つ事は出来なかった。
彼女は、小さな体を上手く使いながら素早い動作を見せる。
正人の手や足を払い、たまに腕を掴むと相手の力を利用して投げ飛ばしてしまう。
懐に入られると、正人は容易く投げられてしまった。
「そこまでだ」と、源一郎は二人の仕合を終わらせた。
「くっ、ちくしょう。どうして、どうして負けるんだよ」と、正人は悔しそうに自分の髪の毛を掻きむしった。
「べえーだ、チンチクリンに負けたのよ。もう、偉そうにしないで」と、茜は正人に向かって舌を出した。
小学生の頃の二人は、男女を意識する事は全くなかった。
毎日、飽きもせず源一郎から柔術を学ぶ日々を二人は過ごした。
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