第7話 ティンダロス その二
ひび割れた空間を押しやぶり、人影が舞い降りる。暗闇はその人の放つ輝きで払拭された。
「龍郎さん!」
青蘭は龍郎が助けにきてくれたんだと信じて疑わなかった。
が、よく見れば違う。それどころか人ではない。背中に翼が生えている。正真正銘の天使だ。青蘭のようなもどきではない。
ガブリエルである。
人間に化身しているときと、ほとんど容貌は変わらないが、身長は三メートル強になっている。
「愚か者が。手間をかけさせるな」
冷たく言い放ち、ガブリエルは青蘭の手をつかんだ。とたんに戒めが解かれ、青蘭は自由になる。ガブリエルにぶらさがる形で空中に浮遊した。
「チキショー。仲間が助けに来たか。それはあたしの獲物だよ。返しやがれ!」
マイノグーラは空中に飛びあがることはできないようで、わめきながら走ってくる。彼女が指笛を吹きならすと、どこからか全身がトゲだらけのカマキリのような犬のようなものが現れた。それに乗って追ってくる。
「倒さなくていいの?」
青蘭の問いにガブリエルは答えない。
さっきの空間のやぶれめにとびこむのが精一杯のようだ。戦闘力はあまり強くないのかもしれない。
ガブリエルと青蘭が空間の裂けめをくぐると、そこは閉ざされた。
忌々しそうなマイノグーラの顔が暗闇のむこうに封じられる。すぐに追ってはこれないようだ。
ガブリエルはいったん、青蘭をおろした。
その場所も現実ではないと、ひとめでわかった。
さっきの暗い場所とは異なり、青黒いような汚いグレーと暗緑色のまざった色に壁全体がうっすらと光っている。壁のなかに槍の穂先のようなものが無数に並列している。
「ここは……?」
たずねると、これにはガブリエルも返答した。
「ティンダロスだ。さっきの空間はマイノグーラの結界のなかだった。ヤツの結界がティンダロスのなかに存在していたのだろう」
青蘭は自分より一メートル以上も大きなガブリエルを見あげながら、もしかして助けてもらったのだからお礼を言わないといけないだろうかと考えていた。
なんとなくだが、ガブリエルが自分を嫌っているらしいことは感じていた。でも、いちおう彼に救出されなければ、さっきの状態はそうとうにマズかったということだけはわかる。
「えーと、ガブリエル。あの……」
ありがとうと言おうとする青蘭の言葉を、ガブリエルが不愉快げにさまたげる。
「おまえのために助けたわけではない。我々の宇宙を消されては困るからだ。きさまが殺されるだけのことなら放置したとも」
青蘭は怒りと羞恥で、カアッと全身が熱くなる。おまえなんて死ねばいいと言う相手に対して、あやうく『ありがとう』なんて言ってしまうところだった。
やっぱり、龍郎以外は誰も信用できない。青蘭を愛してくれるのは龍郎だけ。青蘭が愛するのも龍郎だけ。
でも、このごろ、ときどき夢を見る。
夢のなかで青蘭に微笑みかける白銀の髪の人物。彼もまた人ではないのだろう。きっと、天使だ。あざやかな青い瞳の……。
物思いに沈んでいたが、ふと青蘭は心づいた。そうだった。油断のならない相手と二人きりなのだ。それに、ここは異次元のようだ。用心しなければ。
「どうやって、ここから帰るの?」
たずねるが、そのとき、青蘭はガブリエルの自分を見る目つきに気づいた。冷たいのを通りこして、冷徹にきらめいている。
「ガブリエル……」
「私はおまえが嫌いだった。アスモデウス。双子なのに、まったく似ていない。能力も違う。おまえは神に愛され、私は愛されなかった。卵のなかで、おまえが私の力をすべて吸いとったからだとすら考えた。だが、おまえが神に従順なうちは我慢したさ。なのに、おまえは神にあだなし、英雄の卵を盗んで堕天した。何が不満だったのだ? アスモデウス。私にはおまえの気持ちが永遠にわからない」
どうやら、青蘭がアスモデウスだったころのことを話しているらしい。だが、そんなことを聞かれても思いだせない。天使のころの記憶はかすかだ。
「双子? 僕と君は双子だったの?」
ガブリエルの麗しい顔が侮蔑的にゆがむ。
「おまえは私の卵に寄生してきたパラサイターだ。なぜなら、私たちの親となる天使のどちらの魂も、おまえは有していない。天使にもまれに双子はいる。その場合は重ねた二つの心臓の持ちぬしのそれぞれが蘇る。だが、おまえはそうではなかった。心臓の持ちぬしに由来しないで誕生することを、天界ではパラサイティクスという。きわめてまれにしか起こらない、“無”から生まれし者だ」
無から生まれし者——
なんだか、その語感には青蘭をゾッとさせる響きがある。
「パラサイティクスによって誕生した者は概して強い。不自然なほどに。私はそれをクトゥルフ側のスパイだからではないかと考えている」
青蘭が反論しようとしたときだ。
とつぜん、ガブリエルの手に弓矢が現れた。矢じりがまぶしいほどに輝く。
切っ先がまっすぐに青蘭を狙っていた。
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