第2話 地獄の犬 その三
ホテルの庭を散策したり、スパへ行ったり、個室用とは別の大きなプールへ行ったり。優雅な時間はあっというまにすぎていく。
ホテルのなかだけで一日をすごすのはわけもない。青蘭と二人でいるのなら、木陰でよりそいあっているだけで幸福なのだから。
「日が傾いてきたね。部屋へ帰ろう」
「うん。龍郎さん」
「何?」
青蘭は微笑むだけで何も言わず、龍郎の腕をとる。
甘ったるい気分に満たされて、ヴィラへ帰ったのだが、待っていたのは、それどころではない事態だった。
窓からさしこむ落日の陽光が炎のようだ。その光のなかで、ナイトテーブル上のケースがガタガタゆれている。それも、今にもテーブルから落下しそうに激しくだ。
窓は閉ざされ、快適にエアコンが効いていた。風のせいではない。風が吹きこんでいたとしても、災害級の台風でもなければ、重いケースが宙に舞いあがりそうなほど動くはずもない。
周囲には誰もいなかった。
特定の振動も感じない。
ケースがそれじたいの力で動いているとしか思えない。
龍郎はあわてて、テーブルにかけよった。ケースを両手で押さえる。すると、憑き物が落ちたように、ケースはおとなしくなった。ピクリとも動かない。試しに龍郎が手を離すと、すぐにまた暴れだすのだが。
「おれの右手のせいだ。たぶん、苦痛の玉の力がコイツを抑制してる。これじゃ、ずっと手を離せないよ」
「苦痛の玉の力を嫌うのは悪魔だよ。石が苦しんでるんじゃないの?」
たしかに青蘭の言うとおりかもしれない。しかし、その仮説どおりだとすると、このまま、龍郎は利き手が使えない。食事もとれないことになってしまう。
「おれ、ずっとこうしてないとダメかな?」
「えっ? それじゃ、今夜、どうするの?」
「手が使えないのは困るなぁ」
「うん。口だけでもできるけど」
「そうか。青蘭に食べさせてもらうって方法があったか」
「いいよ。僕が上になる」
「上? 青蘭、なんの話してるの?」
「えっ? 夜のお楽しみのことでしょ?」
「…………」
龍郎は顔から火が出る思いだ。
いつ、どこで話がすりかわったのだろう?
「えっと……とりあえず、コイツをなんとかしないと。これ、悪魔なのかな?」
「そうだと思う」
「これが悪魔なら、退魔できるんじゃ?」
「どうかな。石だから」
「そう言えば、穂村先生がコレのこと、変な呼びかたしてたよね。石物なんとか体とか」
「せきぶつかそうたいって言ってた」
「バーチャルの仮想って字をあてるなら、仮の体ってことだろ? 仮に石みたいな形をとった何かって意味かな?」
「そうかも」
石に化身した悪魔……ということだろうか?
龍郎は右手をケースから離さないよう気をつけながら、念入りに石を観察した。ケースを持ちあげて下からのぞくと、石の断面が見えた。それを見て、ギョッとする。
キレイな直線の断面の内側で、青黒い流動的な物体が渦をまいていた。ときおりソーダのように気泡がはねる。
この感じ、見覚えがある。
昨夜の女。
体が半分しかないあの不気味な女の切り口と同じだ。
「もしかして、この石……」
龍郎がつぶやいたときだ。
どこか遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。四頭か五頭くらいだろうか。それがだんだん近づいてくる。
「野犬かな?」
「いやな匂いが強くなった」
まさかこの高級ホテルまで野犬は近づかないだろう。来たとしても敷地内へ入れない。柵や庭木で侵入経路を絶ってあるはずだ。ホテルの外周からヴィラまでは百メートル以上もある。
と思っていたのだが——
「龍郎さん!」
青蘭がテラスのある窓を指さす。
まだ日が落ちていないのでカーテンは閉めてなかった。
その窓の外に数匹の犬が次々と現れる。プライベートガーデンを囲む高い塀を跳躍し、テラスにとびこんでくる。
「なっ——塀、二メートルはあるぞ。ありえない」
「ヤツらもただの犬じゃないよ。龍郎さん。戦わないと」
体の大きな黒い犬だ。ドーベルマンのように毛が短い。牙をむき、泡を吹いている。狂犬病にでもかかっているように見えた。ふつうじゃない。
窓は閉まっている。だが、鍵がかけてあるわけではなかった。犬が窓ガラスに体当たりすると、その勢いで両開きの扉がひらいた。室内に狂犬の群れが入りこむ。
龍郎はもうケースを押さえているどころではない。かまえをとったときには、右手の内に退魔の剣が現れていた。清浄な光を放つ神剣を大上段にふりかぶり、今まさにとびかかってくる黒犬の鼻先に打ちおろした。
ギャンッと苦痛の鳴き声が響き、一匹は床に落ちた。鼻から首にかけて二つに裂けている。裂けめから光に焼かれるように、メラメラと燃えて空中に消えた。
でも、まだ五匹もいる。
それがただの野犬でないことは一目瞭然だ。ウウッとうなりながら牙をつきだす首が、急にグルグル回転しだした。と思うと、弾丸のように体から分離して、こっちにつっこんできた。
「危ない! 龍郎さん!」
青蘭がロザリオをかかげる。
黒犬の首はまぶしそうに目を閉じた。
龍郎のことが見えていない。
肩先をとびこえていこうとするので、上から叩きおとす。首は消えたが、胴体のほうから新しい首が生えてきた。首はつながっているときじゃないと致命傷にならないようだ。
「青蘭、おれから離れるな!」
「うん」
次は二頭同時に左右から襲いかかってくる。
剣を水平にないで、左、右と切りすてる。臓物がはみだしてくるかと思ったが、血の一滴も出ない。ただ紙のように燃える。
燃えつきる前に一瞬、断面が見えた。ガラスか石のような切り口と、その内側で流動する濁った液体。
あの半分の女と同じだ。
これは、あの女の
ハッとしてケースを見ると、ガラスのふたが外れている。
石が床の上にころがっていた。
そして生き物のように脈打ち、増殖している——!
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