第5話 不思議な冒険者の話

「……南方のエルロッカでは嵐の群発で記録的な不漁。東は日照りで大干ばつ。

 こらあ厳しくなるなあ」


 情報誌を読みながら、俺は独りごちる。

 いずれも娼館ウチに直接関わりはない―――って考えは早合点で、漁や作物の収穫量が減れば景気も落ちる。


 景気が悪くなりゃあ、喰っていけなくった村や田舎から口減らしのための子供が出るのは道理で、死にたくない子供たちは人の多い街を目指すが、道々で怪物に襲われたり、山賊に捕まる例も多い。

 どうにか街まで辿りついたガキどもも、生きていくためには冒険者稼業や浮浪児として徘徊するほかなく、街の治安だって悪化する。

 要は世の中はバランスってやつで、どこかで起きた歪みは回り回って様々なとこまで波及するって話だ。


 単純に腹が減って喰うものがなければ人間ってのは荒む。

 娼館だって、娼婦の口に入る飯が入ってこなきゃ働きようもねえしな。

 

 それに、口糊を凌ぐための冒険者が増えたからといって、ウチの身入りが良くなるとも限らない。

 礼儀作法も知らない冒険者に成り立ての客を一々諭して弾くってのも、あれでなかなか骨が折れるもんだ。

 

 ともあれ、魔王だ魔族だ戦争だ、ってんならまだどうにかできるかも知れないが、相手が自然災害ってなると人間も分が悪い。


 コンコン、と扉がノックされる。


「あいよ」


 俺が返事をすると馴染みのある顔が現れた。娼婦のサヤだ。


「支配人さん、オーレリオを見なかった?」


「うん? 今日はまだ見てないが」


「さっきから姿が見えないんですよね。今日はせっかくの新しいお化粧品の説明会なのに…」


「またか」


 俺はガタリと席を立つ。


「わかった。適当に俺が探しておく。サヤは先にいってな」


「はい……」


 支配人室の前でサヤと別れる。

 溜息を一つ零して俺が向かったのはオーレリオの私室だ。

 サヤのやつも真っ先に探したはずだが念のため。なにせオーレリオのやつときたら、ベッドの下の隙間やカーテンに包まって寝こけていた前科がある。


「オーレリオ?」


 比較的がらんとした部屋が俺を出迎えた。

 彼女の私室はものが少ない。

 鏡台にベッドと本棚と衣装棚。それだけだ。

 一応ベッドの下とカーテンの裏を探してから本棚を見れば、本の替わりに酒と杯が鎮座している。私室=仕事場でもあるわけで、これは客用のものだろう。

 そんな中で、一冊だけ本があるのを見つけて、俺は頬に苦笑を浮かべてしまう。


「オーレリオのやつ、まだこれを持っていやがるのか……」


 勇敢な騎士が囚われの姫を助けるために繰り広げる波乱万丈の冒険話。

 巷間によくある子供向けの英雄譚。

 

 もはや色褪せてボロボロの表紙の本の内容を、オーレリオは痛く気に入っていた。

 なんせ店での源氏名を、登場人物である姫様の名前【オーレリオ】としているくらいだ。

 

 確か本名はマツキといったっけかな?

 東方の出身で、漆黒の髪に清楚な佇まいは旦那衆に絶大な人気を誇る。

 

 しかし、しばしば奇矯な言動をとるためか、仲間うちでついた仇名が『夢見るオーレリオ』。

 誰が言い出しっぺかは知らねえが、言い得て妙だぜ。


「しっかし、ここでもねえとなると、心当たりはなあ……」


 一度、雨の降る中、屋根に上ってぼんやりと外を見上げていたことがあった。

 でも今日は快晴だから多分いないだろう。前になんでわざわざ雨の日に上るんだ? と俺が訊ねたときの返事を思い出す。

『お日様が熱いのに、なんで晴れている日に屋根に上らなきゃいけないの?』


 だからといって、こっそり足抜けしたりするようなやつじゃあない。絶対に娼館の近くにいるはずなんだが。

 

 何気なく窓から外を覗き込んだ時だった。

 娼館の裏手から、白く細い煙が立ち上っているのが見えた。

 ふと、オーレリオの顔が頭に浮かぶ。

 予感ではなく、確信が俺を裏手へと導く。


 果たして、オーレリオはいた。

 娼館裏の空き地で、何やら木を組み上げて祭壇のようなものをこさえ、そこで火を熾してぼんやりと空を見上げてやがる。


「おいこら、そこで何やってる!?」


 黒髪を翻してオーレリオは振り返る。

 とっぽい表情に、まったく悪びれた様子はない。


「……お祈り」


 近くまで来た俺に、オーレリオは膝を抱えたまま言った。


「おいのりだあ?」


「そう。空の神様にお願いしているの。どうか雨を降らせてくださいって」


 ふむ。雨乞いってわけか。


「って、なんで雨なんぞ降らせたいんだ?」


 どうせ屋根の上に上りたいから、なんていうつもりだろう?

 そんな風に答えを待ち構える俺だったが、オーレリオは答えず、拍子抜けするくらいあっさりと立ち上がり、ぱっぱと膝のほこりを払っている。


「支配人さんこそどうしたの?」


「ああん? 今日は新しい化粧品の説明会がどうたらって……」


「ああ、そうだった! 早く行かなきゃ!!」


 言うなりオーレリオは娼館目掛けて走っていってしまう。


「おい、こら!」


 俺の制止の声も届かない。どころか、祭壇らしきものの火もつけっぱなしだ。

 ったく、大した夢見るお姫さまだぜ。

 ぶつぶつ言いながら俺は火に土をかけて消した。ついでにあたりを見回せば、似たような焼け跡がいくつも。


 ……オーレリオのやつ、普段からこんなことをしているのか?


 半ば呆れ、半ば薄気味悪くなってきた。

 そういやあ地面に刺さっている枝も、なんか図形みたいに組み合わさっていてまじないみたいな感じで気味が悪い。


 ん? でも、これは……?


 地面に突き刺さったそれを持ち上げて、俺はまじまじと見つめた。

 四本の枝が微妙に交錯しているこれは、鳥居に見えなくもない……か?


 オーレリオの出身地である東方は、俺の元居た世界の日本と共通する文化が見受けられた。

 ひょっとしたら、ずっと昔に、俺みたいにこちらの世界へ流されてきた人間がいたのかも知れん。

 ……今度時間があれば、色々と調べてみるか。

 鳥居もどきを放り出し、俺も店へと足を向けた。






 時に、うちの娼館の自慢は大浴場である。

 だからと言って、誰もが無条件で入浴を好むもんじゃないってことも承知している。

 身体にひどい傷を負って肌を晒したくないもの、風呂場で知り合いに見とがめられたくないもの、宗教上の信条など、お客によって理由は様々だ。

 

 むろんそのような理由でうちが入店を拒むことはない。

 清潔配慮に関しては、部屋で行水できるようにするとか、様々なオプションを準備して対応している。

 どんな客でも出来得る限りの都合を汲んで、誠心誠意持て成す。それが俺の店のポリシーだ。

 だが、いかなる客でも一つだけ娘を抱く前にしてもらっていることがある。


「すいやせんねえ、お客人」


 俺は客に向けタライを差し出す。

 タライに張った水に浮かぶ純白の花。とある錬金術師が造ったとされるマグダリアと呼ばれる花だ。

 花弁を水に浸してそこに手を入れれば摩訶不思議。なんと性病などに罹っている場合、反応して色が変わるって代物である。 

 俺の店の場合、浴室に入ってすぐに花を満たした手洗い場を設けているが、風呂を利用しない客には申し訳ないがこうやって別の形で対応していた。

 

「……ああ」


短く答え、すっぽりと被ったフードの向こうから細い手が伸びてくる。

まるで女みたいなすんなりとした指が花の散らばる水に触れた。色に変化はない。


「ありがとうございやした。ささ、どうぞどうぞ」


 俺が食堂を指し示すも、まっすぐフード姿は二階への階段へと向かった。

 建物の中でも頭をすっぽりと覆う格好は、どこぞの大店の旦那が御忍びで来たわけじゃない。

 れっきとした冒険者で、名はメイズといったか?

 あのオーレリオにご執心らしく、最近は三日と開けずにやってくる。

 そして夢見る姫様の方も満更じゃないらしい。


 しかし、ポリシーを掲げておいてなんだが、俺的にはあの怪しい風体が気にかかっている。

 いくら娘たちが熱を上げても、俺は親代わりに相手の本性を見抜いてやる義務があった。

 酒を飲むと人が変わるのはともかく、実際に身請けしたとたんに豹変する野郎ってのも良く聞く話だからな。


 もっとも、あんな素性の知れない冒険者にオーレリオを身請けするだけの金があるとも思えない。

 せいぜいご贔屓の馴染みってところに落ち着いてくれれば、俺も心配はないのだが。


「旦那、ちょっとよろしいですか?」


「サイベーか」


「だからあたしの名前はサイベージですって!」


 憤慨する黒衣の痩身は、いつの間にか俺の店に居座っているふてえ野郎だ。

 どんな客も分け隔てなく持て成すって看板に対して横紙破りとは思うが、俺はこのサイベージに、あのメイズとかいう冒険者の素性を調べさせていた。

 コイツの報告は、さあて、俺の心配を減らしてくれるか、それとも苦労の種を運んできたか?


「で、どうだったんだ?」


 俺が促すと、サイベージは声を潜める。


「比較的最近ここいらへ流れてきてから冒険者の登録をしたみたいですね。前歴はほとんど調べられませんでした」


「ふむ」


 冒険者ギルドに登録し所属すれば色々な活動情報が残る。

 大陸中に散らばるギルドではそれらの情報はある程度共有されていると聞くが、この街へ来て初めて登録したとなると、そりゃあ何も分からんか。


「何度か他の徒党に加わってギルドの依頼をこなしてますが……」


「腕はあるのか?」


「なにやら不思議な剣技を使うそうですが、腕は確かみたいですよ。一緒に組んだ連中にも訊ねてみましたが、悪くは言ってませんでしたね」


 一匹狼を主張するわけでもなく、協調性もあるってか。それなりに世間で苦労をした経験があるらしいな。

 まあこの程度の話なら、凡百の冒険者の一人でしかない。


「それで? ヤサは押さえられたんだろうな?」


 どんな冒険者であっても、この街で活動する以上、寝座ねぐらがいる。

 注意を払うにせよ、話をつけるにせよ、そっちを知っているのと知らないのでは段違いだ。


「―――すみません。それが、毎度毎度見失ってしまうんですよ」


 珍しくサイベージの野郎が項垂れた。

 俺は口元を手で隠し、驚きを噛み殺す。

 コイツの多才さには、俺をしても一目置いている。

 それが二度も三度も撒かれるたあ、ちょっと尋常じゃねえな。


娼館みせを出てから追いかけるんですがね、この雨に紛れていつの間にか……」


 情けない表情を浮かべるサイベージと一緒に窓の方を見る。

 夜に染まる窓ガラスの表面を、幾つもの水滴が流れ落ちていく。

 ……そういえば、あの客が来る日は、決まって雨が降っているような。


「旦那。ひょっとしたら、あの客人は『魔族』かも知れないですよ」


「ほ」


 思わず声が出た。

 そのまま笑おうとして、笑えない。

 この世界には人間を最大数としたさまざまな種族がいるが、魔族とはその中でも一番の脅威とされている。

 それぞれが超常の能力を持ち、個体サイズも見た目も様々だ。

 人間とは異なるロジックを行使するが、決して会話や交渉が成立しないわけではないし、無暗矢鱈と暴れまくる連中じゃあない。実際に人間に友好的なやつを見たことがある。

 北の海峡を隔てた大陸が勢力圏ではあるが、世界中に散らばって人間社会に溶け込んでいるやつも結構いるとか。


 問題は、時たま『魔王』って存在が生まれること。

 魔王は、破壊衝動の権化ともいわれる。

 その出現する原因は、かつての地上の覇者としての栄華を取り戻すためとか、または他種族から迫害された怨恨の歴史ゆえに、などと言われているが詳細は不明。

 この突然変異的に現れる魔王は実に厄介な能力を行使するのだが、その中でもとびっきり迷惑な特質に『狂奔』がある。これは他の魔族の破壊衝動を問答無用に駆り立てるという、災害級の能力なのだ。

 ゆえに、魔王が誕生した際は、その存在を抹消するのが人間を含めた対抗種族の急務となる。

 ―――かつてこの店を訪れた勇者のように。


「雨や雷雲を伴ってくる魔族ってのもいるらしいですよ……?」


 これまた珍しく声を震わせるサイベージに、


「おいおい、俺の店のポリシーを忘れたのか?」


 俺は今度こそ笑った。


「どんなお大尽や大貴族でも、よしんば王族だって平等に扱う……?」


 呆然とした顔つきでそういってくるサイベージの続きを、俺は引き取る。


「それが魔族だって例外じゃねえ。いやさ、魔王だって歓待して見せるさ」





 って感じで啖呵を切ったものの、俺の内心は穏やかじゃない。


 くそ、こんなことなら、館を建てる時に魔除けの結界石も埋め込んでおくんだったぜ。

 最近の娼館では当然のように整備されているらしいが、あれはべらぼうに値が張るんだよなあ。


 もちろん後悔は先に立たない。

 だからといってサイベージに言ったことが嘘なわけでもなかった。

 例えメイズと名乗る冒険者が魔族だとしても、きちんと持て成すつもりだ。

 それがウチの店のルールに逸脱しない限りは。


 しっかし顔形まで分からないってのは、なんとも尻の収まりが悪い話である。

 仕方ねえ。こんな時は無礼も承知で当たって砕けろだ。


「失礼します。ちょっと宜しいですかい?」


 俺がオーレリオの部屋をノックしたのは、大食堂のステージも済んで諸々がひと段落して落ち着いたころ。

 今日もやってきたメイズは、脇目も降らずオーレリオの部屋へとしけこんでいた。


「あれ? 支配人さん、どうしたの?」


「いや、おまえの客人にちょいとご挨拶をな」


 あれこれ悩んでも仕方ねえ。

 見せてくれないなら、こっちが直接その顔を拝んでやろうじゃねえかという正攻法だ。

 不思議そうなオーレリオの瞳が、俺と部屋の中を往復する。


「―――構いませんよ」


 部屋の中から鈴のような澄んだ声がしたが、もちろんオーレリオのものじゃない。


「そいじゃ、失礼しまして」


 素早くドアの隙間から身体を滑り込ませ、俺は目を見張る。

 ベッドに端座して黒衣を着たままだが、その顔は晒されていた。

 俺が初めて目にしたメイズの顔は、それは端正で気品のある男の顔。

 白磁みたいな頬は女よりもきめ細やかに見えて、色気まで漂わせるあたりは、まさに水も滴るなんとやらって具合だ。


「どうしました?」


 そのメイズの声に我に返る。

 やべ、見惚れちまっていた。


「あ、いえいえ、とんだ不調法をお見せしやした。

 当館の主、尾妻連太郎と申しやす。改めて挨拶にきさせて頂いたのは他でもありやせん―――」


 口にしつつ、俺の頭の中は真っ白だ。実は全然何も考えてなかったぞ、おい。


「お客人―――メイズさんは、随分とウチのオーレリオにご執心でらっしゃるとお見受けします。オーレリオも満更じゃないと思いやすが、ひょっとして身請けなんぞもお考えで?」


 すると、メイズは流麗な顔立ちにきょとんとした表情を浮かべる。


「あ、ああ。そうか、身請けか。…ちなみに、どれくらいですか?」


「金貨500枚ってとこですかね」


 もちろん金貨500枚ともあれば、オーレリオの実際の身請け金を遥かに上回っている。

 だが、他にもオーレリオにご執心のお大尽は多く、連中からしたらこの程度が最低ラインだと俺は睨んでいた。

 同じ客が同時に身請けを申し出て、肝心の娘もどっちつかずとあれば、もう金を積むしかない。

 これは古今東西の娼館に見られる話で、娼婦の娘の身請けを巡っての旦那たちの金銭と意地の張合いを【達引たてひき】という。


「……500枚、ですか」


 メイズの目が大きくなる。しかしたちまち顔ごと目線を伏せてしまった。

 無理もない。一介の冒険者にゃ、とても用立てられる額じゃないしな。


「……そこんところを承知して愉しんで頂ければ」


 俺も深くは追求しない。

 手土産替わりの果物を盛りつけた鉢を置いてさっさと退散することにする。

 長居は無用とばかりに踵を返す俺だったが、不意に後ろ髪を引かれて振り返った。

 閉まりゆく扉の隙間から、例の本を持ってメイズの隣に腰を下ろすオーレリオの姿が妙に印象に残った。










「支配人さん。このパン、美味しくない~」


 朝の―――といっても娼館では昼過ぎ―――食堂で、娼婦の一人が声を上げる。

 よその店ではどうかは知らないが、うちの店では住み込みの下働きも含めて朝食は一斉に摂ることが多い。

 その方が、スープやらサラダやらを作るコック長の手間が省けるのはもちろんだが、こうやって店にいる連中の顔を一気に眺める機会ってのも中々少ないもんだ。

 他にも不満そうな顔つきになっている娼婦たちの目の前にあるのは黒パン。

 パンばっかりは近所の店からまとめて購入してきていたが、ここしばらく質の低下が激しい。


「なに贅沢いってんのさ。食べさせてもらっているだけ感謝しなきゃ」


 クエスティンの声に不平は収まったものの、俺も齧った黒パンの味気無さに閉口していた。

 先ほど飛び出した不満は、何もウチに限ったことじゃあるまい。この内陸に位置するヒエロの街全体で、余すことなく似たような不平が上がっているはずだ。


 東の干ばつによる不作の影響で、小麦相場が例年にない高騰を繰り返している。

 原材料が足りなけりゃ、そりゃ市井に出回るパンの質も落ちるのは道理だ。

 普段であれば白パンにバターが、今日は黒パンにラードである。


 もっともクエスティンが言った通り、不味いだなんだとは口の肥えた連中の戯れ言だ。喰うや喰わずでのた打ち回っている連中にしてみれば、贅沢の極みだろう。

 しかし。


「不味いな……」


 俺の呟きはパンに対するものじゃない。

 質が下がれば次には量が減る。

 それでも手に入れようと思えば、価格は青天井だ。

 こうなってくれば国や政庁頼みで、どうにか価格を上げないように裁定してもらうしかなかった。

 決して物がないわけではなく、今年の不作を見越して先年度分の作物を商家が流通制限しているのが現在の市場なのである。

 近隣で取れる野菜や果物はまだ値段の変動は少ないが、このさき高騰するのは目に見えている。


「飯の問題はそのうち俺がなんとかする。だから決して客に粗相すんじゃねえぞ?

 わかったら、さっさと腹を満たして、自慢の商売道具を磨き上げておけ」


 俺の声に「は~い」と散発的に声が上がり、一応の不満は収まったようだ。

 本音を言えばあまり期待をされても困る。

 そりゃあ俺なりに持てるコネは活用するつもりでいるが、いくら金を積んだとて、元から無い物まで融通できるわけはないんだよなあ。

 ウチの店の売りには大食堂もあるわけだから、こっちも頭が痛い問題だぜ。








 こんな背景事情があったからこそ、俺はオーレリオの身請け話に心が揺れてしまった。


 話を切り出してきたのは、以前から彼女を贔屓にしていたランブル商会の若旦那エイゲル。

 実は、ほぼ同じタイミングで身請け話を申し出てきた人物はもう一人いた。

 こちらは水運ギルド『銀の櫂』の大旦那スレイガー。


 エイゲルとスレイガー二人を支配人室に招き、相対する俺の隣の席にはちょこんとオーレリオが座っていた。

 相変わらずの夢見がちな黒い瞳なのだが、化粧をしっかりして身なりを整え、ピンと背筋を伸ばした姿には気品すら漂う。伊達に姫の源氏名を名乗ってないってことか。


「ですから、オーレリオさんは僕と一緒になって欲しいんですよ!」


 熱弁するエイゲルは、ランブル商会の次男坊。

 皇国でも五指に入る有名な商家だから、普通であれば娼婦を正妻にするなど鼎の軽重を問われる話だ。

 ところがオーレリオにぞっこんなエイゲルは、彼女のために別の商会を立ち上げるつもりだという。そうすれば誰を妻に迎えても本家の看板に傷がつかない、という配慮らしいが、なかなか並みの発想じゃない。


 対してスレイガーは、ほぼエイゲルの倍の年を重ねた50歳。

 まだ男盛りを匂わせる風体だが、オーレリオを迎えて一緒に隠居したいというのが彼の望みだ。

 『銀の櫂』の運営も息子たちに委ねて、長年連れ添った妻はもう亡い。

 さすがに正妻に迎えるわけにはいかねど、妾にして囲うにしても破格の話である。

 彼の築き上げた資産は膨大で、文字通り死ぬまで遊んで暮らせるだろう。


 俺から見ても中々の男たちがそろってオーレリオを贔屓している。

 娘の幸せを祈るって意味なら、どちらを選んでもオーレリオの残りの人生は苦労と無縁で済むはずだ。

 だが肝腎のオーレリオの態度が明確でないことが、男たちを燃え立たせている。


「では僕は、身請け金の他に、ほぼ一年分の小麦粉を適正価格で融通しましょう」


 エイゲルが口火を切る。

 娼婦に客が自分をアピールするには金を積むのが手っ取り早い。金目の物を贈ったり、ここいらへんでは手に入らない希少品を用立てたりする。

 それらを用意できる自らの経済力や人脈や手腕を誇ると同時に、相手にそれだけの価値があることを伝えるというわけだ。

 このご時世、一歩間違えれば脅迫じみた物言いに聞こえ兼ねないが、エイゲルの言動はあくまで真摯。

 決してこの娼館の事情を知って足元を見ているわけではない。ひたすらオーレリオに己の寛大さを示そうとする必死さが伝わってくる。


「むう」


 重々しい声を漏らしたのはスレイガー。

 彼ならばエイゲルと同程度の差配は可能だろうが、今や軽々に動けぬ身だ。事実、息子たちからは、娼館の若い娘に熱を上げていることを揶揄されているという。


「…ならばワシは、『銀の櫂』の扱う商品全てを優先的に適正価格で娼館ここへ卸すよう取り計らおう」


 スレイガーの切り札に、エイゲルは仰け反った。

 こちらの条件は破格を通り越している。もっとも先述した通り、大半の実権を息子に譲り渡している彼が、どこまで公言した内容を履行できるか難しいところ。


 どちらもとびっきりの太客だ。

 普通の娼館であれば、こんな上客から身請け話が来れば、なんだかんだと娼婦の借金に追い金を重ねて身請け金を吊り上げるのが常である。

 あいにくと俺の店ではそんな阿漕なことはしねえし、身請けされた娘には心底幸せになって欲しいと思っている。

 旦那二人によって吊り上げられた身請け金の差額は盛大にご祝儀として周囲にバラまくにしても、付け足された二つの条件はこの店の主としては旨すぎる話だった。


 ……いやいや、だからといって俺が判断することじゃあるめえよ。


 そう思い隣を見れば、オーレリオがこちらを見上げてくる。


「……支配人さんは、どうなると嬉しい?」


 無邪気というか不思議そうな表情でそんなことを訊ねてきやがるもんだから、俺の背筋は凍りつく。


 ―――他ならぬてめえのことを俺に預けてどうする! だいたい俺が肩入れしたら、もう片方から不満が出るだろうがっ! 


 二人きりだったら遠慮なくそう叱りつけただろうが、この場ではさすがに憚られた。

 エイゲルとスレイガーの視線が突き刺さってくるのを感じながら、俺は腕を組んで軽く目を瞑る。

 それからゆっくりと目を開けると、なるべく優しい声音でいった。


「こっちのこたあどうでもいい。とにかく、おまえは義理を欠くような真似だけはするんじゃねえぞ?」


 今の俺に、他に何が言えるってんだ。





 オーレリオが娼婦として働くようになったのは、ウチの店先でぶっ倒れていたことによる。

 なんでよりによって俺の店の前で―――と思わなくもないが、見つけたときはひどい有様だった。


 ぼろぼろの外套の下はほとんど裸で、痩せた体に黒く長い髪が生き物みたいに巻き付いていた。

 手足もぼろぼろの血まみれで、大方奴隷商から逃げてきたとの見当をつけた俺は、風呂を使わせながら近隣に問い合わせる。


 しかし、どうもオーレリオに該当する娘の話はなく、そのまま彼女の身柄は宙に浮く格好に。

 そのオーレリオも記憶がないというのだからどうしようもない。覚えているのはマツキという名前だけだという。


 黒髪黒目は東方の出身の特徴ってことだが、俺は困り果てた。

 はっきりいって、この手の如何にも訳ありでございってのは厄ネタだ。

 だが、裏路地へ放り出すのも忍びなく、不安を飲み下して俺は彼女を店で働かせることにした。

 靴の上げ下げから仕込んでいるうちに、血色を取り戻した彼女が見る見る輝きだす。


 俺の見込んだ通り磨けば光る宝石の原石だったようで、水揚げをしてからこの方、贔屓の旦那衆に事欠かない。その最たるものがランブル商会の若旦那と、『銀の櫂』の大旦那だろう。

 オーレリオを見出だした慧眼をてめえで褒めたくなったが、今となってはやっぱり厄ネタだったかな、と俺は頭を抱えている。

 エイゲルとスレイガー、双方の申し出は、このご時世ではまさに渡りに船の有難いお話だ。

 だからといって、一方を選べば角が立つことは請け合いで、やっぱりなんとも面倒くさい。


「どうしたもんかね…」


 いっそ酒をかっ食らって寝るか。

 もっとも朝になったら泊り客を見送らねえと悪いから、せいぜい眠れて2時間ほどか……?


 欠伸交じりに俺が支配人室の窓から外を見下ろしたときだった。

 ようやく白み始めた大通りに、例のフード姿がひっそりと姿を現す。

 ……あれはきっとメイズだ。

 そう思うや否や、俺は外套を引っ掴んで部屋を飛び出す。

 素早く階段を駆け下りて入り口の扉を開けば、朝靄の漂い始めた空気に遠ざかっていく細い背中。

 逃がしてなるものかよ、とすかさず跡を追う俺だったが、雨上がりの地面は妙にぬかるんでいて走りづらい。

 そういや、昨晩も雨が降ったよな。

 そんなことを考えつつ、急ぎ足で路地を曲がれば、真っすぐの道行きに人影はなかった。

 くそっ、サイベージのやつも撒かれたって言っていたが、こういうことかよ。

 歯がみする俺だったが、急に背後に気配を感じてヒヤッとする。


「……何の用ですか?」


 ゆっくりと振り向けば、フードを下ろしたメイズが立っていた。

 しかし雰囲気は尋常じゃない。

 剣呑な口調には怒りのようなものが滲んでいる。

 だが、俺も真っ向から受けて立つ。


「いやね、ウチの可愛い娘と懇ろのお客人の素性ってやつに、親としてちょいと興味がありましてねぇ」


「……親、だと?」


 メイズが目を細めた。今度ははっきりと声に怒りが灯ったのが分かった。


「娘に身体をひさげさせて益を得るなど、親の所業かッ!」


 黒い外套の下で腕が翻る。


 ―――この太刀筋、左と見せかけて、右だっ!


 咄嗟に横っ飛びで一撃を躱す俺。命拾いした代償に、俺の羽織っていた外套は裾からバッサリだ。


「いきなり一撃たあ、ちょいとシャレになってやせんぜ」


 叩いた軽口と裏腹に、俺の背筋に冷たい汗が流れている。

 今の剣筋を見たことがあった。かつての知り合いの達人が振るっていた、今や使うものも滅多にいないいにしえの剣技だとか。

 俺が躱せたのはその経験と運ゆえだ。知らねえ奴にはまさに初見殺しってやつだろう。


 くそ、せめて得物かサイベージにでも声をかけておけば良かったぜ。

 いかな『六億殺し』の能力も、相手に触れる前に斬り伏せられちゃあ意味がない。


「……確かに俺はひでえ親です。手前に対する罵詈雑言は甘んじて受けましょう。ですがね、身体を張って世の中と渡りあっている娘たちまで憐れまないでやっちゃくれませんか?」


 思わず口にした台詞は、何も時間稼ぎをしたわけじゃあない。

 娼婦は文字通り自分の身体を張った商売だ。

 時には嫌な客もいるだろう。気が乗らない時や体調が悪いときだってあるはずだ。

 それでも必死に笑顔を湛え、男たちの腕に身を預ける。

 単純に欲望の捌け口となる時もあれば、ひたすら慰め癒す日もある。


 それが彼女たちの仕事だ。必要とされたものを提供し、その対価を得ているのだ。世の中のあらゆる仕事と同様に。

 それを汚れ仕事だなんだと腐すやつはいくらでも腐すがいいさ。

 だが、俺の目の前でそんなことを抜かすやつは、絶対に勘弁しねえ……!


 睨みつける俺の先で、メイズの殺気が緩まる。


「……彼女は望んで身体を捧げたというのですか?」


「望んでいたかどうかは分かりやせん。でもね、その果てに、あいつはいい縁談を引いたんです」


 身請けを縁談と言い換えたのは言いも言ったりだが、意味的に遜色ないはずだ。

 むしろ俺はメイズが色を無くしていることを不審に思う。

 おまえだってオーレリオを抱きに日参していたんじゃねえのか?

 そう面向かって問い糺してやりたかったが、俺は別の言葉を重ねた。


「ようやっと幸せになれそうなオーレリオに、不審な客がチラついている。俺が気になってあとを着けたのは無礼だったかもしれませんが、無体な話でもないはずです。そうでしょう?」


「私は……!!」


 メイズの全身から力が抜けた。何かを言おうとしているようだが言葉にならないようだ。

 しかし俺は容赦なく言葉で斬り捨てにかかる。


「あいつは直に身請け話もまとまり、その証を身に着けることになりやす。そうなれば、もう他のお客人に抱かれることはありません」


「………」


「彼女の幸せを思うなら、どうか邪魔をしないでやって下さいまし」


 殺しかけてくれた相手に、俺は丁寧に頭を下げる。

 娘の幸せなら、この程度のわだかまりなど屁でもねえ。


 果たして俺が頭を上げると、メイズの顔が歪んでいた。

 なんか泣きそうだと思っている俺に向かって、彼はきっぱりと言う。


「私は彼女を愛しているんです……!」


 稼ぎの悪い冒険者と好きあって、年季明けまで頑張ってから嫁いでいった娼婦の美談もあることはあった。だがこれは、元々身請け話がなかった不人気な娘の最後の手段との見方も成立する。

 その点オーレリオは売れっ子だ。年季明けまで太客を袖にし続け、互いの好きあう気持ちを維持できるものだろうか。

 仮に相手が冒険者となれば、明日も知れぬ稼業である。途中で落っ死ぬ可能性は高いし、なにより冒険者当人が、意中の娘が自分以外の男に抱かれ続けるのを我慢できるものか―――。


「気持ちだけでは罷り通らないのが世の常です。どうか筋を通した上であの娘に想いを伝えてやっておくんなさい」


 俺の物言いが冷たく響くのは百も承知だ。

 まずは身請け金を用意しろ、話はそれからだ、と言っているのに等しい。


「―――いいえ。私が彼女を娶ります」


 首を振り、きっぱりと断言するメイズ。

 へえ、一体どうやって? と俺が訊ねようとした矢先、バチャバチャと泥濘の跳ねる足音。


「旦那ッ!?」


 この声、サイベージか。

 思わず振り向いた俺の面を驟雨が叩く。

 先ほどまで漂っていた朝靄を洗い流すように、周囲には細い雨が降り注いでいた。

 前を向きなおれば、そこにはもうメイズの姿はない。


「一人で出歩いちゃヤバいですよ!」


 横に来たサイベージの腹を軽く小突く。

 ったく、来るタイミングが悪いのか良いのか判らねえ野郎だ。

 訳の分からない顔をしてくるサイベージを軽く睨み、雨の幕の先を見通そうとして見通せない。

 メイズの立っていた場所まで歩き、キラキラと輝くそれを見つけた。


「こいつは―――」


 なんですか、それ? と覗き込んでくるサイベージを無視し、俺はそいつを懐にしまう。

 ……どうやらあいつの正体が見えてきたぜ。


 とにかく、メイズは雨に紛れて姿を消したのは間違いなかった。

 ならば、再び俺の店を訪ってくるのも、やはり雨が降る日で間違いないだろう。








 ここ一週間ばかり雨が降り続いていた。

 むき出しの地面は雨が降れば泥濘み、石畳の上に小さな川を作る。

 よほどのことでもなければ露店も畳まれ、必然的に多くの客足が鈍る。


 それは娼館も例外ではなかった。

 稼ぎのある冒険者は流連いつづけしているが、相手している娼婦以外は無聊を囲う日々。


 もっとも俺にしてみれば、エイゲルとスレイガーへの返答の猶予期間が出来たことに胸を撫でおろしている。さすがに盛大に雨に濡れてまで訪れるお大尽はいない。


 反して、世情はとても安定したとは言えなかった。

 東方の大干ばつはいよいよ洒落ならない段階まで進み、このままでは畑どころか人間まで干上がってしまうとか。

 こっちは連日雨塗れだってのに、まったく理不尽な話だ。


 そんなどこか他人事に構えていた俺たちも、例年になく続く長雨に危機感を覚えたのは降り始めて10日も過ぎたころ。

 このままではウェッピン川が氾濫する危険性があるとの報告が、界隈の娼館主たちの会合で取り沙汰された。

 万が一でも氾濫されたら、ここら一帯は押し流されてしまい、甚大な被害を齎すだろう。

 適当な高台にある屋敷を借り受けて避難場所を制定することを確認しあい、平屋建ての娼館のところから優先的に避難させることを決める。当面は二階建ての娼館は上の階で待機させ様子を見るしかないだろう、と話がまとまったのは夜半過ぎ。


 会合先を出た俺は、強まる雨と吹きつける風に顔を顰める。

 これは本当にヤバいかも知れねえな。

 泥濘みに足を取られながら、サイベージを供に従えどうにか娼館まで帰還。

 不安そうな顔を並べて出迎えた娼婦たちは、何も川の氾濫におそれをなしていたわけじゃない。


「オーレリオがいなくなっただァ!?」


 俺の素っ頓狂な声に、一番仲の良いサヤが首をすくめる。


「へ、部屋に行ったら、中のものが整頓してあって、誰もいなくて……!」


 俺の剣幕にぐすぐす泣き始めたサヤを宥めるのをサイベージに任せ、俺はオーレリオの部屋を目指す。

 元々ものが少ない室内は、サヤの報告通りこざっぱりとしていた。


 きちんとシーツと寝具が畳まれたベッドの上は、綺麗に積まれた金貨がおよそ30枚。その横には指輪や首輪といった装飾品もきちんと並べてある。

 基本的に娼婦としての稼ぎは娼館に支払われるも、客が娼婦相手に贈るものまでは取り上げない。

 硬貨だったり装飾品だったりの違いはあれど、それが娼婦個人の財産となる。

 客からもらった小遣いや心付けを貯めに貯め、自分で自分を身請けした剛毅な娼婦もいたくらいだ。


 それはともかく、そいつを全て置いて姿を消したってのは問題だ。

 俺の脳裏をメイズの姿が浮かぶ。

 せめて書置きでもないもんか、と俺は周辺を見回す。


 すると、鏡台の引き出しの中に、何やら包み紙が置かれているのに気づく。

 白い懐紙の裾が赤く染まっていた。

 こいつは一体…。

 おそるおそる中を見て、俺は大きく目を見開いた。


「……オーレリオ。あいつ……」


 それ以上、言葉にならない。

 ここまで思い詰めていたのか。

 それとも追い詰めてしまったのか。


「おいッ!」


 俺は、部屋の入口で鈴生りになっている娼婦たちに声を放る。


「誰もオーレリオが店から出ていったのを見たやつはいねえな!?」


「は、はいっ!」


 弾かれたような声を出す皆の言うことにゃ、鎧戸を下ろして定期的に見回っているが、誰も出ていった形跡はないという。

 ―――ならば、決まりだ。


 娼婦たちの間から、黒衣を着た野郎がひょっこりと顔を出した。

 サイベージの首根っこを掴んで、俺は素早く耳打ちする。


「てめえは支配人室へひとっ走りして、神棚に供えているやつを持ってきてくれ」


 返事も聞かず俺は走り出している。


「旦那はどちらへ!?」


 サイベージの声に、俺は振り向かず怒鳴り返した。


「オーレリオのお気に入りの場所だッ!」







 備え付けの松明に火を灯す。

 こいつは水棲獣ケルビーの鬣を編み込んで作られた特注品で、たとえ嵐の中でも炎は消えることはない。

 それから開けたのは、屋根裏の天窓だ。

 吹き込んでくる雨粒に顔を顰めながら屋根の上にのぼり、周囲を見回せば―――いた。

 雨の降りしきる闇の中、オーレリオが青い顔をして震えていた。胸には例のボロボロの本だけを抱いて。


「……支配人さん」


「おう、オーレリオ。何もいうな。こっちへ戻ってこい。まずは風呂へ入って温まるんだ。詳しい話はそれから。な?」


 精一杯優しい声音で言った。

 しかし、オーレリオは首を振る。それから「ごめんなさい。ごめんなさい」と繰り返すばかり。


「なにも謝る必要はねえ。おまえの気持ちに気づかなかった俺の方が悪いんだ。だから戻ってこい。ほら」


 俺がオーレリオへ向かって一歩踏み出したとき、にわかに強い風が吹く。大きくなった雨粒に横っ面を叩かれて踏みとどまる俺の前に、いつの間にかフードをすっぽりと被った人影が浮かびあがっていた。


「……やっぱり来やがったか」


 俺は呟く。

 フードを跳ね上げ、晒された顔はやはりメイズ。秀麗な相貌からは、まさに水が滴っていた。


「……支配人さん。彼女は私が頂いていきます」


 既に腰の物は抜き払われていた。

 剣呑な空気を肌に感じ、はいそうですかと娘を差し出せるほど、俺は人間ができちゃいねえ。


「……旦那ッ」


 折よく背後にサイベージが立つ気配。

 野郎に松明を渡し、代わりに持ってこさせた白鞘を掴む。

 紙の封を破り、久方ぶりの白刃を晒すのに躊躇いはない。


 松明を高く掲げさせ、俺は油断なく護身刀を構える。

 対するメイズも構えたが、その姿は威勢に欠けた。


「くく、どうしやした? ひょっとしてコイツの物騒さが判りやすか?」


 挑発的に松明の灯りを煌めかせる段平は、俺がこの世界に来たときに唯一帯同していた同田貫。なんでこんな物騒な刀を後生大事に抱えていたのか思い出せないが、これには、知り合いの魔法使いから『つらぬき』の言の刃を付与してもらっていた。


「コイツなら、あんたの逆鱗も貫けますぜ?」


「!!」


 完全に委縮するメイズに、俺は容赦なく同田貫を突き入れようとして―――寸前、オーレリオが割り込んできた。


「駄目ッ!!」


 目を見開くオーレリオの顔の前で切っ先が止まる。

 ぷるぷると震えたまま、それでも目をかっぴらくオーレリオに、俺は刀をひいて溜息をつく。


「一つだけ聞かせてくれ。おまえもこの御仁に惚れてるのか?」


 ゆっくりとオーレリオは頷く。


「私は、この人の花嫁になるの」


 その瞳は、待ち焦がれた騎士を迎える姫君のように見えたが、俺の錯覚だったのかも知れない。

 だが、その証だけははっきりと彼女の左手に存在する。

 オーレリオから視線を逸らした俺は、蹲るメイズを見やった。


「あんたも、ちょいと左手を見せてくれませんかね?」


 素直にメイズの左手が持ち上がり、俺はまたしても溜息をつく。

 二人の左手には、それぞれ小指がなかった。


 俺はオーレリオの部屋で見たものを回想。

 懐紙に包まれていたのは二本の小指。


「……ったく、指切りの作法なんてどこで知ったんだ」


 誰ともなしに呟く。

 意中の相手に己の小指を切り落として贈るのは、それだけ相手を想っていますという証拠だ。

 転じて、指切りげんまんの語源となったわけだが、それを揃って部屋に置いてくなんざ、ヤクザ顔負けのケジメだっての。


 俺はどっかりとその場に座り込む。


「……その御仁と行くことが、お前の幸せなんだな?」


 同じくへたり込んでいたオーレリオが力強く頷く。

 その肩を抱くようにしてメイズもこちらを見てきたが、敢えて乱暴に俺は顔を逸らした。


「わかったわかった。これ以上騒ぎになる前に、さっさと行っちまえ」


 バタバタと手を振れば、


「―――感謝します」


 不意に、オーレリオの身体を抱いたまま、メイズの身体が宙に浮かぶ。

 そのまま雨の降りしきる真っ暗な空へと吸い込まれていく様子に、サイベージはあんぐりと口を開けた。

 一緒になって見上げていると、闇の中に雷光が走る。

 その刹那に浮かび上がった光景を、俺は忘れないだろう。


「ド、ドラゴン……?」


 サイベージの驚愕の声を耳に、巨大な鱗を纏った胴体が空中で身をよじる姿が、まぶたに焼き付いている。


「……あのメイズって野郎は、龍人族ってやつだろう」


 巷間で怪物と称されるドラゴンとは似て非なる龍。

 人に転ずることができるため龍人族とも称される彼らは、とても珍しい種族だ。


 俺は懐から、以前に拾った鱗を引っ張り出す。

 これからメイズの正体を推測したわけだが、ドンピシャだったな。

 希少な種族だから、この鱗もひょっとしたら売れるかも……。

 そんな益体もないことを考えてから、俺は慌てて空へと向かって叫ぶ。


「こらッ! 曲りなりにも身請けしたなら金を置いていきやがれッ!」


 返答するように雷鳴が一つ轟く。

 中空から何やら輝くものが落ちてきて、俺は思わず受け止めてしまった。

 松明の光にキラキラと反射するそれを見て、またもや素っ頓狂な声を上げたのはサイベージ。


「だだだ旦那っ! それってドラゴンドロップですよ!?」


 別名、竜の涙。竜の琥珀とも呼ばれる鉱物は、ドラゴンの分泌物だといわれているが詳細は不明。だが、その美しさと希少さから、市場では目ン玉の飛び出る値で取引されて、その価値は大きさに準ずるという。


「……こいつが結納金替わりってかい」


 両手にずっしりとした重さを感じながら、俺は空を見上げる。

 いつの間にか雨はやんでおり、久しぶりに二つの月が俺たちを照らしていた。







 オーレリオが去った晩に雨は上がった。

 たちまち水は引いて、ウェッピン川も普段の流れを取り戻す。


 客の足もどうにか戻ってきた数日後、俺は支配人室にエイゲルとスレイガーを迎えていた。


 オーレリオの件を、すべて包み隠さず話す。

 俺としては最大限に仁義を切った苦渋の選択だったが、二人ともにわかに信じがたい様子だった。

 そりゃあいきなり龍人族に連れていかれたと言われてもな。

 身請け金を吊り上げるためか、娘が嫌がって身を隠している言い訳と解釈するのが妥当ってもんだろう。


 だが、俺が二本の切り落とされた小指に、例のドラゴンドロップを見せたところで、渋々ながらも二人とも認める気になったらしい。

 さすがに商売を生業にしているだけあって、こんな巨大なドラゴンドロップの存在を否定することはできないようだった。その価値が、自分たちの用立てるはずだった身請け金を遥かに凌駕していたこともすぐに理解出来たのだろう。


 というわけで、大変に申し訳ないと思いつつ、二人には了見してもらった。

 お互いに10歳も老けたような容貌でトボトボと娼館を去っていく両名が心底気の毒に思えたが、こればかりはどうしようもなかった。

 ウチの店のご贔屓を一ぺんで二人も無くす羽目になった帳尻は、この貴重なドラゴンドロップ一つで御釣りがくる―――とはいかない。

 なんとこれほど巨大なものは市場に出回ったことはなく、価格が付けられないとか。

 となれば買い手がいない。売れなけりゃ、こんなもの持っていてもガラクタと同じだ。

 仕方ねえから砕いて小分けにして売ろうとしたのだが、サイベージのやつに泣いて止められた。

 結果から言えば、今回の収支は大赤字もいいところだ。


 そして、ウチの娼婦たちの反応はというと、こちらは淡白なものだった。

 足抜け同然のやり口に、普通だったら煮えたぎった怒りがぶつけられそうなもんだが、不思議と皆が納得している。

 今思い返せば、オーレリオにはそんな超然とした雰囲気があったからかも知れない。

 存在自体がまるで夢のような―――。

 ちなみに残された二人の指は娼館の裏に埋めていた。


「ったく、最後の最後まで色々と締らねえ結末だぜ……」


 嘯いて、俺は窓から空を見上げる。

 すっきりと晴れ渡った空の彼方に、オーレリオのことを想う。


 彼女が嫁いだことになる龍人族の件だって、俺が人づてに聞いた話だ。

 実際の龍人たちがどこでどんな暮らしをしているのかなんて皆目見当もつかねえ。


 そんな龍人から見初められたオーレリオにしたって、果たして本当にあのメイズと名乗る龍人と本気で好きあっていたのか疑問が残る。

 あいつが後生大事に抱えていた本。囚われの姫様を助けに騎士がやってくるって話は、まんま娼館に囚われた自分を救いに来てくれたメイズという図式に当て嵌まるのでは?

 本当に騎士が来てくれることを夢見ていたオーレリオにとって渡りに舟の話で、夢を実現させるために、すべてを捨てて彼女はここを出ていった。


 そんな解釈ができると同時に、あの指切りという大仰な作法も疑問だ。

 お互いに相手を思いやった故の、なんとも強烈かつ情熱的な作法だから、オーレリオもメイズもお互いを好きあっていたからこそ出来たと強弁することは可能だろう。

 だが、むしろ俺が気にかかっているのは、オーレリオのやつ指切りの作法なんてどこから知りやがった?


 日本からこの世界に流されてきた俺ならともかく、こんな作法が一般に膾炙しているのを聞いたことはない。

 となれば、やはり俺と同じような人間が流されてきて文化圏を形成したらしい東方に、ひっそりと伝わっていた可能性が考えられる。

 そして、オーレリオも東方の出身なのだから知っていたのかも知れない―――って、おいおいちょっと待て。


 オーレリオは確か記憶がないと言っていたはず。

 となれば、それは嘘ってことか? それとも今更ながら思い出した?

 ってなると、本当のあいつの素性はなんなんだ?


「……わからねえな」


 訊ねようにも、もうオーレリオはいない。疑問は永遠に疑問のままだ。


 だが、一つだけ確かなことがあった。

 未曾有の大干ばつとされた東方は、いまや一面に雨が降り続けている。

 強烈な日照りを避けるように日陰にいた人たちは、恵みの雨に歓喜の声を上げ、皆して空を見上げた。

 そこで多くの連中が、雨雲の隙間をうねるように行く巨大な鱗の胴体と、その背中に小さな人影があったのを確かに目撃したという―――。


 干ばつも間もなく改善するとのことで、機に敏な商家たちの動きもあり小麦の相場価格や物流も回復、落ち着きつつある。

 俺はとっておきの酒の封を切るとグラスへと注ぐ。

 立ち昇る香しい匂いを嗅ぎながら頭に浮かぶのは、遠い日本の昔話の一説だ。


 ―――日照りに苦しむ村のために、庄屋の娘は龍神様の住む湖に身を投げました。

 すると間もなく周囲に雨が降り始め、村は救われましたとさ……。




 理由はどうであれ、オーレリオが自分の命を捧げて東方を救った、なんて陳腐な解釈はしたくない。

 龍人族の生活がどういうものか知らねえが、どうか幸せでいてくれと、俺は遠くへ行った娘へと献杯したのだった。




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