獄界裁判

@ssSnufkin

第1話 さらば人生

景色は朧げに揺れていた。

ピッ、ピッ、と規則正しく響く機械音がまだこの命が途切れていない事を教えてくれている。

もう頭の中も虚ろで、全身の感覚も殆ど無いと言って良い。

そんな私を強く励ましてくれるのは右手の温もり。絶えず私の手を握ってくれている妻の手の優しさだ。

だんだんと遠ざかっていく全身の感覚とは反対に、右手の温もりだけはその熱を増している。


「ずっと言いたかったんだ」

その言葉は喉から先には出なかった。もう声を出す事もできないようだ。

「はい、ここにいます」

一抹の不安をかき消すように、声なき声に妻は返事をくれた。

絞り出し返事をしようにも、やはりもう声は出ない。朧げな視界にはもうその姿も映らない。せめてもと残りの力でグッと握りしめた手を妻は優しく握り返してくれた。

そうか、もう言葉なんて必要ないのだ。このか弱くも強い力と、温もりの優しさがただ迫り来る死への不安も恐怖も、全てをかき消してくれている。

ああ、まるで出会ったあの頃の様だ。おどおどしながらそっと繋いだ手を顔を赤らめながら握り返してくれたな。

あの日から何度となく、落ち込んだ日やうつむいた日はこうして手を取ってくれた。不器用を言い訳にありがとうの一言さえ言えない私を見捨てる事なくこうして手を取ってくれた。

何度、お前を泣かせたことだろう。それなのにこうして私の最後に寄り添ってくれているんだ。


ありがとう、本当にありがとう。

私の感情に呼応したのか、段々と規則正しかった機械音が乱れ始めた。

すると脳裏に走馬灯が過ぎりはじめた。幼い頃の何気ない日々の思い出、すでに他界した父や母、古い友人や恩人、沢山の人や情景が勝手に頭の中を駆け巡る。

それが脳に写る映画を感覚で見ているように、私の意思とは無関係に流れていく。そう、映画のエンドロールのように。

だが、それに浸るつもりは無い。過ぎた過去に慰めなんてあるはずが無いだろう。

そんな思い出達なんかより一分一秒でも永く、妻の手の温もりを確かめたかった。最後の最後まで、これに甘えさせて欲しかった。今、確かに私を包むのは妻の愛しさと優しさなのだから。

もはや開き方を忘れた瞼の向こう。どんな景色があって、妻はどんな顔をしているのか分からないが、この温もりだけで十分だ。


悔いは無い。

もう、全てにおいて悔いは・・・

いや、ただ一つだけ。妻にありがとうと伝えたい。

いや、もう一つ。何年も言っていなかった愛していると伝えたい。

だがもう私の体は限界のようだ。当然、声は出ない。そればかりか走馬灯さえ霞み、頭の中の自分の声も遠ざかっていく。

さらば、我が人生。私は生ききったぞ。胸を張ってどうだと言える人生を完結させたのだ。

さらば、人生よ。

さらば、世界よ。

さらば、愛しき




「おい、起きろ」

乱暴に足を蹴られた衝撃で私は目を覚ました。そこは漆黒の世界。地平線も空も地も無い、ただただ漆黒の世界。

目の前には人外なるモノがいた。

ギョロリと見開いた一つの目、歪に尖る二本の角、耳まで裂けた大きな口にはボロボロの牙が涎に濡れていた。

「いつまでも寝てるんじゃねえ、起きろ」

鬼、と言うに相応しいだろう。その人外なるモノはもう一度、乱暴に私の足を蹴る。慌てて身を起こすと改めてそこは漆黒の世界。天も地もない闇の中にその鬼は佇んでいる。

同時に先程までの全身の苦痛や感覚の虚ろもなく、活気に満ちていた若い頃の様に研ぎ澄まされている自分に気がついた。

「こ、ここは、私は、一体・・・」

そう言いつつも、何となく直感は答えに辿り着いていた。是も非も、その答えは怖かった。鬼は分かりやすく溜息を漏らし、面倒臭そうに、吐き捨てる様に言った。

「てめえは死んだんだよ、早く起きろ」

そうか、やはりここは死後の世界なのか。オカルトや超常現象は信じていなかったが、こうして体感してしまっては否定のしようもない。

いや、これは例えば臨死体験、死ぬ間際に見る夢の様なモノの可能性もあるが、そうではないのだろう。

このハッキリとした感覚と否定のしようがない本能がここが死後の世界である事を私に告げていた。

そうして戸惑う私に辛抱ならなくなったのだろう。鬼はもう一度、私の足を蹴った。

「早く起きろと言っているだろう」

鬼の威圧に私は慌てて立ち上がった。老齢になってから続いていた膝の痛みもない。漆黒の世界、地面も無い暗闇の中で私は確かに自分の足で立っていた。それが何だか嬉しい。健康第一だ、と死んだ私が言うのも滑稽な話だ。


鬼は振り返ることもせず、漆黒の中を歩き出した。ただ呆気に取られながらも私はフラフラとその後をついていった。

恥ずかしい話だが、不安だったのだ。このただただ広がる漆黒の中に置き去りにされるのは不安でしかない。

溺れる者は藁をも掴むと言う様に、迷える者は鬼さえ頼みにしてしまうのだ。私に限らず、万人がきっと同じ気持ちになるだろう。

鬼は何も言わずただ歩いた。私は少しだけ冷静さを取り戻し、頭の中を整理する事にした。

恐らく、この先は地獄なのだろう。この鬼の背中と、不安を掻き立てる漆黒の世界が天国のはずがない。

いや、そもそも天国なんてあるのだろうか。人間が永い宗教観の中で生み出した天国や地獄と言った死後の世界は生前の人間が生み出した希望や戒めの類でしかない。

どんな聖人も、また悪人も死後は一律で同じ場所、そして同じ第二の人生が待っている。この可能性を生前の人間は肯定も否定もできない。知りようがないのだ。

このまま鬼に連れられ私はどこに行くのか、心が騒めきたった。

そんな不安を打ち消す様に、私は鬼に問いかけてみた。

「ど、どこへ行くのですか」

鬼は足を止め、少し振り返るとニヤついた。

「どこへ行くのかを決めるんだよ」

「決める...」

「どこでどう知ったのか、お前達はお前達が言うテンゴクとジゴクを知っているんだろう、それを今から決めるんだ」

鬼はそれだけ言うとまた歩き出した。私は戸惑いながらも、鬼が言う天国の存在に少しの安心を得た。どうやら一律強制で地獄に行く訳ではないようだ。

だが本当に天国と地獄がありふるい分けされるならば私はどっちへ行くのだろう。

これまた、生前の宗教観で考えるならば善行を積んだとか、徳があるとか、そうした行動が必要だったのか。

それとも、まだ見ぬ神への信仰が大事なのか?


そこまで考えてハッとした。この鬼は少なくとも、自らの意思で私を案内している訳ではない。

逆らえない何かの命令で仕方なく私をどこかへ案内しているのだ。

それはこのふてぶてしい、サービスの悪い安いレストランのウェイターさながらな態度が示している。そして、これから行く場所にはこのウェイターの上役がいる。

そう、我々が神と呼ぶ何かがそこにいるのだ。


どれだけ歩いただろう。不思議と足が疲れたとか、そればかりか時間の感覚さえ無かった。

ふと気がつくと目の前には壮大な門。見たことも無い材質の、率直に言うならば気味の悪い門がそこにあった。

鬼はいつの間にか姿を消していた。この門は自分で開けて中に入るのだろうか。少しの説明もない、不親切な恐怖へと自分で戸を開けろと言うのか。

よくよく周りを見れば何人かの人間がそこに座り込んでいた。

ただ遠くを見つめ今にも漆黒の中に溶け込んでしまいそうな程、その存在を虚ろにしながらそこに座り込んでいた。目を凝らせば凝らすほど、沢山の人が見えてくる。

どこかの国の難民達のキャンプのように、生気のない多くの人がただぼんやりと、転がっているようだ。

私に近い場所、門のすぐ脇の辺り。何とも見窄らしい、頼りない老人が涎を拭くこともせず座り込んでいた。

「あの、もし・・・」

私の問いかけに、その老人は瞬き一つせず、ただ漆黒を見つめていた。

隣にいる若者もそう、ただ横になりぼんやりと漆黒をみつめていた。少し離れた場所、泣き腫らした顔でへたり込む女がいた。

生前のままなのだろうか、シャツにジーンズといったラフな姿で感情を無くした人形の様にそこにいた。辺りにはそうした人が何人もいた。皆、一様に漆黒を見つめているだけだった。

理由は分かる、この門を開ける事が出来なかったのだ。そのまま膨大の時をこうして虚無に過ごしてしまったのだ。

私も今、思う。この次に鬼がまたここに誰かを連れてきて、その連れられた人が門を開けるのを見たい。そして開けられた門の隙間からその中を見たい。

いや、ここにいる人達はその中を見てしまったのかもしれない。見た上で、中に入ることが出来ずにこの場所に佇んでいるのかもしれない。


迷ってはいけない。迷えば迷う程に、この不安と漆黒は増大してしまう。人生、何事もチャレンジだ。死んだ身でこんな事を思うのも少しおかしいが、私はそうして生きてきた。この門を開けよう。この先に待つのが天国なのか地獄なのか、何をもってそれを分けられるのかも分からないが先へ進もう。

病に苦しみ病院のベッドで横になっていた私はもう死んだ。今ここにいるのは、そう、まだ若かった頃、未知や不安に飛び込む事を良しとしたあの頃の活気に満ちた私だ。

そっと手を伸ばし、門に触れてみる。温度のない不思議な感覚だった。

意を決しそっと力を入れると何の抵抗もなくスッと門が開いた。漆黒の世界を真っ二つに分断するまばゆい光が門の隙間から目に突き刺さり思わず身をかがめてしまう。

後は重力に導かれたリンゴが地面に落ちる様に、私はふらりと門の中へ誘われた。

一瞬、振り返った背後の漆黒の世界。

光に反射するいくつもの目が私の背中を追いかけていた。

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