29. エドとリオネル

「あ、生きてる」


 うっすら目を開くと、そんな声が聞こえた気がした。

 けれどどうにも起き上がる気力もなくて、エドはまた目を閉じた。


 これはもう十年以上も前の話だ。

 エドは貧しい出だ。今日明日も知れない生活で、親も、到底親とは思えないような人たちだったから、自分のことがある程度できるようになって、エドは勝手に家を出た。

 どうせ家にいても飢えている。ならば、屋根があろうがなかろうが、しがらみなく生きる方がずっと良かった。


 スタッグランド王国の王都には、貧民街こそないが、それなりに下っていけば、ちょっと貧しい輩が、青空の下で点々と生活しているような区画がある。

 エドもその中に混じって、盗みをしたり、軽い小間使いのような仕事をしたりしてその日暮らしをしていた。


 だが、そういう生活は丈夫な身体あってのもので、一度ひとたび身体を壊せば、それが軽い風邪であったとしても、途端に食うに困ることになった。

 最初は軽い風邪だったものをこじらせて、おまけに食べる物も飲む物もないとなれば、治るはずもない。何日寝て過ごしているのか数えられなくなって、もはや空腹なのかどうかすら分からなくなって、エドはもうダメなのかもしれないと悟った。


 死に際くらい、人に迷惑をかけず、綺麗に死にたかった。

 けれど、綺麗に死ぬと言うのは存外難しいことで、エドにできたのは路地裏で倒れこむことくらいだった。


 前日から続いた雨が路面を濡らし、触れた肌を容赦なく冷やしていく。

 もう何日も着替えていなくてボロ切れ同然の服が、じっとりと濡れる。

 だがそれが、不快かどうかすら、もはやエドには分からなかった。


 次に目を開いたのは、つんつんと自分の唇を突く何かがあったからだ。

 気力を振り絞り目を開けると、目の前に肉の串があった。それで唇を突かれて、無意識に口を開けると、それを口の中に押し込まれた。

 少量かじりとり、嚥下する。


 だが長く食べ物を入れていない胃には、かじっただけの肉すら負担であったようで、咳き込むと同時に吐き出してしまった。

 すると、エドに肉を差し出してきた何者かは、汚いとでも思ったのか、ぱたぱたと足音を立てて去って行ってしまった。


「ねぇ、これなら食べられる?」


 そんな声が聞こえたのは、エドの体感では、数秒後のことだった。

 エドは促されるまま口を開く。中にさじで流し込まれたのは、水分の多い粥だった。

 久しぶりに口にする食事は、たとえ味気ない粥であったとしても美味く、甘みが舌全体に広がって、極上の贅沢だった。

 後々エドは、あの時食べた粥ほど美味いものは、今までにお目にかかっていないと何度も酒席で口にすることになる。


 そうして、何度か口に粥を運ばれ、それを大人しく食べていた頃、別の足音が路地裏へと入ってきた。


「いた! リオン! なにしてるんです!? 父上が血相変えて探してますよ!」

「パトリス」


 どちらも少年の声だった。

 エドはようやく定まってきた視点で、自分に匙を差し出している少年を見上げた。


 雨に濡れて艶めく、鴉のように美しい黒髪に、琥珀色に輝く瞳の少年。ちょっとそこらではお目にかかれないくらい顔立ちが整っていて、エドは男ながら一瞬見惚れた。

 続いて、視界に入ってきたのは、明るい茶色の髪の少年で、こちらはエメラルド色の瞳に、まだ幼いのに眼鏡をかけていた。こちらも美少年だ。


「わ、どうしたんです、この人?」

「倒れてたんだ。ほら、まだ食べられる?」


 差し出された匙を、また口に入れる。

 パトリスと呼ばれた少年が、顔をしかめて見せた。


「ちょっと、リオン」


 その咎める口調を、リオンと呼ばれた少年はまったく意に介すことなく、エドに匙を運び続ける。

 やがて皿の中身が空になったと見えて、黒髪の少年は匙を置いてエドの顔を覗き込んだ。


「お兄さん、起きられる?」


 粥を食ったくらいでは、とても全身を動かすには足りなかった。

 喉を動かすこともできなくて無言のエドに、黒髪の少年は考え込む素振りを見せて、「ちょっとごめんよ」と、エドの脇に腕を差し込んだ。


「まさか、助けるんですか!?」


 茶色の髪の少年が、悲鳴のような声を上げる。


「そうだよ。ほら、パトリスもそっち支えて」

「えーっ」


 パトリスがおずおずと、黒髪の少年の反対側に回って、エドの脇に腕を差し込んだ。


「よっと」


 彼らはエドよりもだいぶ背が低かった。それでも二人はそう苦労することなくエドを立ち上がらせると、黒髪の少年が先導する方へ向けて歩き出した。


「あ、お兄さん、俺、リオネル。リオンでも良いよ。こっちはパトリス」


 歩きながら、リオネルは言った。


「お兄さんは?」


 エドはなんとかかすれる声で、「エ……ド…」と返事をした。

 唇は乾いて、思った以上に声は出なかった。


「エドか。よろしく、エド」


 大通りに出る直前、リオネルが黒いマントのフードを深くかぶった。

 昼間の雑踏に足を踏み入れる。何人かが、子供が痩せたエドを連れ出す様子にいぶかしむ表情をしたものの、雨が降っていることもあり、特別気した者はいない。


「ちょっとリオン! どこへ行くんです!?」


 大通りから王都の中心部の方へ足を向けたリオネルに、抗議するようにパトリスが言った。


「どこって、宿舎」

「まさか! やめてください。軍の宿舎ですよ!? 部外者はご法度です!」

「それもそうか…」


 リオネルは一瞬歩みを止め、すぐにまた歩き出した。

 そして近くの宿屋に入ると、一旦エドをパトリスに任せて側を離れ、次に戻ってきた時には手に鍵を持っていた。


「ん、部屋取ってきた。二階だよ。上がれる? ゆっくりで良いから」


 そう言ってリオネルはまたエドを支えると、一段一段ゆっくりと階段を登り始めた。

 清潔な部屋に入り、ベッドに寝かせられる。

 パトリスの方は、白いシーツの上に薄汚れたエドが乗ることに軽い抵抗を示したものの、リオネルは全く気にすることなく、エドをベッドに寝かせると、何回か部屋と外とを出たり入ったりした。


 変わっている、と思う。

 どちらかと言えば、パトリスの反応の方がずっと普通だ。

 どうやら貴族の子供らしいし、エドみたいな平民は、もしかしたら一生顔を見ることすらないような殿上人だ。

 それが、あんなに躊躇いもなくエドに触れ、話しかける。


「はい、ちょっと起き上がって」


 リオネルはパトリスにエドを支えさせ、服を脱がせ、身体を濡れた手ぬぐいで拭くと、真新しい服を着せた。

 そしてベッドにエドを再び横たえると、枕元に椅子を引っ張ってきて座り込んだ。


「なん…で…」

「ん?」


 声がかすれて出ないエドの口元に、リオネルが耳を寄せる。


「なんで…ここまで…」


 俺、お金なんて払えないよ。

 こんなにしてもらうような人間じゃない。


 言いたいことは沢山あったけれど、それを言うには、気力が足りなかった。

 だがリオネルは、エドの言いたいことを大体察したようだった。


「なんでって、そこにお兄さんがいたから。見つけたらほっとけないでしょ」


 それはどうだろう。

 ほっとく人間なんて沢山いる。むしろ大多数だろう。

 実際、路地裏にいるエドを、確かに見つけたはずなのに、見て見ぬ振りをして通り過ぎる輩が沢山いた。


「だからって、わざわざ助けますか?」


 同じことをパトリスも思ったのだろう、呆れた口調で言った。


「本人を前に言うのもなんですが、リオンが知らないだけで、こう言う人は山ほどいるんですよ。それを見つけたからって全員に、宿を与え、服を与え、食事を与えるつもりですか? そんなのキリがない。気まぐれはこれっきりにしてください」


 だがリオネルは、明らかに気分を害したような顔をして、パトリスを見た。


「じゃあ見て見ぬふりをするのか?」

「まぁ…そう言うことになりますね」

「嫌だ」


 きっぱりとリオネルは言った。


「キリがないから、目の前にある命も救わないのか? それは違うだろ」


 エドは今も覚えている。

 その目の強さ。


「今、目の前にいるたった一人さえ救えないなら、これからも誰も救えない。そのたった一人を積み重ねるから、やがて沢山の人が救えるんだ。だから俺はこの人を助けた」


 その琥珀色の瞳が、彼が本心からそれを口にしたのだと告げていた。

 パトリスはすっかり何も言えなくなっていて、そんな彼に、リオネルは満足したように笑うと、エドの額に濡れた手ぬぐいを乗せた。


「宿の女将さんに、たまに様子を見にくるように頼んどいたから。元気になったんなら、別に勝手に引き払っても良いけど、無理して出て行かなくて良いよ」


 そう言うと、リオネルとパトリスは帰っていった。

「また来る」と告げたリオネルに、「勘弁してくださいよ…」とパトリスは頭を抱えていたけれど。


 数日後、二人は本当にまたやって来た。

 エドの方も、もう体調は良くなっていたけど、お礼が言いたかったから彼らが来るのを待っていた。


「ねぇ、お金とか、俺払えないけど」


 エドは、もし請求されたらどうしようと思いながら言った。

 この宿は安宿だが、それでも一週間も三食飯付きならかなりの金額になるはずだった。

 いくら貴族の子供とは言え、そんな金額が自由に使えるはずがない。…多分。


 だがリオネルはカラッと笑って「良いよ、そんなの」と言った。


「俺、お給金貯まってるし。他に使い道がないから、ちょうど良い」

「また、リオンはそんなこと言って…」


 パトリスが腰に手を当てて、ため息をついた。


「お給金って?」


 エドが尋ねると、椅子に腰掛けたリオネルは足をブラブラさせながら言った。


「俺、軍で働いてるんだ」

「…って君、まだ子供じゃん」


 その言葉に、リオネルはなんとも言えない顔をした後、「事情があるんだよ」とだけ言った。


「エドは? いくつ?」

「俺、十五」

「五歳上かぁ」


 と言うことは、君らは十歳か。

 エドは言葉にしないまでも、内心驚いてリオネルとパトリスを見た。

 二人とも…特にリオネルは、年齢以上に大人びて見えた。


「リオン、今日はもう行かないと…」


 パトリスが時計を気にしながら言った。

 リオネルは、椅子から飛び降りてフードを被った。また今日も黒いマントだ。


「じゃあね、エド」


 そのまま部屋を出て行こうとしたリオネルを、エドは「待って」と呼び止めた。


「何?」

「俺、もう宿ここ出るよ。体調良くなったし。…ありがとう」

「そっか。行くとこあるの?」


 問われて、エドは黙り込む。

 当てはなかった。どうせまた、青空を屋根にしてその日暮らしに戻るだけだ。

 エドの沈黙をどう受け取ったのか。リオネルは少し考え込んで、それから顔を上げると、「ちょっと待ってて」と言った。


「え、リオン!?」


 部屋を飛び出して行ったリオネルに、パトリスが慌てて声をかける。

 だがその声は、閉じた扉が受け止める。


「ねぇ…あの子、いつもあんな感じ?」

「…ですね」


 パトリスが眉間を揉みながら言うのが、まるでおっさんのようで、幼いその身体に全く合っていない。

 すぐにリオネルは戻って来た。


「あのさ、そこの食堂、住み込みで従業員募集してるんだけど、やらない?」

「やらない? って…」


 エドは軽く告げられたその言葉に、呆気に取られる。


「三食まかないがついて、トイレは共同だけど個室にシャワー付き。それ以外に、ちょっとしたお給金も付いてくる。本当は十八歳以上らしいけど、一生懸命働くなら、十五でも良いってさ」

「…それ、君が一人で交渉して来たの?」


「そうだけど?」とリオネルは、それがどうしたという顔で言った。

 エドをこの宿屋まで連れて来たことと言い、驚くべき行動力だった。


 結局、エドはリオネルが見つけて来たこの求人に乗っかって、無事に三食宿付きの仕事を手に入れた。


「なんでさ、こんなにしてくれんの? 貴族の道楽かなんか?」


 別れ際、そう尋ねたエドに、リオネルはニッコリと笑って「俺、貴族じゃないよ」と言った。

 後年、貴族どころか彼が王族だと聞かされて、エドはひっくり返ることになるのだが、この時はそれを信じた。


「もらってばっかで悪いな…。なんか俺にできることある? …って言っても、今、何も持ってないけど」


 するとリオネルは少し考え込んでから笑った。


「今はいいや。いつか返してもらうよ」


 いつかなんて、きっと来ないんだろう。

 エドはこの出来事を思い出すたび、食堂の二階の小さな部屋で、あの二人はどうしているだろうと、ちっぽけな窓の外を眺めながら思っていた。


 けれど、いつか、は突然やって来た。

 食堂の扉を、マントのフードを深く被った人物がくぐった。フードを下ろしたその下に、かつての面影を残す少年がいた。


「良かった。まだ働いてた」


 久しぶり、エド。と告げたリオネルは、すっかり逞しくなっていた。まだ青年とは言えない年齢だが、彼の従来持つ大人びた物腰に加えて、何か圧倒されるような空気を身につけていた。


「あれ? 忘れちゃった? リオネルだけど」


 彼は、驚きすぎて言葉を発することを忘れたエドに、きょとんとした顔をして言った。


「い、いや、覚えてる! 覚えてるよ!」

「そっか、良かった」


 はにかむ笑顔に、一緒にいた食堂の女将と従業員の娘が顔を赤らめる。

 リオネルは早々に、彼の本題に入った。


「ねぇ、前に、いつか返してもらうって言ったの覚えてる?」

「…覚えてる。…でも、そんなに俺、金貯まってないよ? だからすぐにはそんなに払えないかも…」


 部屋にどれくらい残ってたかな、と頭の中で考えながら言うと、リオネルは笑って首を振った。


「違う。お金はいらない。そうじゃなくて、ちょっと俺を助けてくれないかな」

「助けるって、何を?」


 俺の、目と耳になって欲しい。

 リオネルはそう告げた。


 なんのことかはわからなかった。

 けれど、エドは迷わなかった。


「わかった。やるよ」

「いいの? 詳細まだ話してないけど」

「良い」


 もし『いつか』が来たら、絶対に返そうと思っていた。

 エドに与えてくれた全部。

 リオネルのおかげで、エドは人生が変わったから。




 ぴちょん、と水音がした。

 エドはマントのフードを手で持ち上げて、空を見上げる。

 気づけば曇天で、雨が降り始めていた。


「あちゃ。寝すぎたな〜。リオネルに怒られる」


 寄りかかった木から背中を持ち上げる。

 隣では木につないだ馬が、エドが目覚めるのを待っていた。

 よっと、と掛け声をかけながら立ち上がると、馬の背を撫でてやる。


「懐かしい夢を見たもんだね…」


 かつてのエドとリオネル、そしてパトリスの出会いの夢。


 その後エドは食堂をやめ、リオネルの従者になった。従者というと聞こえは良いが、やってることは小間使いだ。

 頼まれたことはなんでもやる。…文句は言うが。


「リオネルのやつ、人遣いあれーんだもんな」


 馬相手に愚痴ってみるが、その口元は笑っている。


「さて、行くかね」


 胸元には、三日でアザリア公国との国境まで届けろと頼まれた手紙がある。

 その存在を確かめてから、胸をポンと一つ叩く。


 さぁ馬に乗ろうとした瞬間、雨宿りに来たのか、エドの足元に犬が一匹やって来た。

 エドを見つけて、足にすり寄ってくる。


「お? 餌か? なんかあったかな…」


 ごそごそと皮袋の中を探して、干し肉のかけらをやる。

 必死に干し肉に食いつく犬の頭を撫でてやる。


「俺と一緒だなぁ」


 リオネルの忠犬。

 エドはそう自称する。


 何があってもリオネルを裏切らない。

 彼が立つ不安定な足場を見せられた時に決意したことだ。


 ぽつん、と大粒の雨が馬の尻を打った。


「おっと。行かなきゃ。じゃあな」


 犬の頭をもう一度撫でて、エドは立ち上がった。

 馬に乗り、手綱を打つ。

 馬で駆ければ雨が顔に当たるのが不快だった。フードをさらに深く被り直す。


『ねぇ、名前どうしよっか?』

『名前?』

『あった方が何かと便利だからね。エド、だけだとたくさんいるでしょ』

『名前ねぇ』

『あ、こんなのどう?』


 レイン――雨。


『エド・レイン。雨の日に出会った君にぴったりだ』


 その目深に被ったフードの下。

 エドはふっと口角を上げた。


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