ザマスターオブザヘルメス2 後夜の暗礁
@jealoussica16
第1話
第二部 第五編 クリスタルガーデンの消失
毎月、定例のミーティングが、事務所の一室ではとり行われる。
事務所所属のタレント、社長マネージャー、合わせて八人が集まった。
佐々木ウンディーネ社長が、事務所全体の経営状況を説明した。
またそれぞれのタレントが抱えている問題点を発表し、みなでその認識を共有するというようなこともやった。ひととおり、退屈な報告会が終わり、来月からの各タレントの、中心になる仕事を発表した後で、長谷川セレーネは佐々木社長に、クリスタルガーデンの話題を振った。
あの物件はどうなりました?売れました?誰か買い手はつきました?
長谷川セレーネは社長に自宅のことを話し、実は買って住んでみたものの、あまりのサイズの大きさに、次第に辟易してきたこと。掃除をする気にもならず、周りからじろじろと見られているような気が常にしてきて、気分が悪くなるのだと言った。
夜になると、本当に心細いのだ。確かにセキュリティは強度であり、外からは誰の侵入も許さないのだが、元々内部に住み着いている奴らに対しては、一体誰がどう対処してくれるのだろうか。長谷川セレーネはそのことについては社長には語らなかったが、むしろそれが一番の問題であった。住み始めた初日から、感じていたことだった。この家にはすでに先客がある。これだけの大きな家が存在する意味も、何だかわかってきた。所有者が誰であろうが、すでに大勢の人間が、この家には住んでいたのだ。
長谷川セレーネは、霊感のようなものは自分にはないと思っていたが、ここの情況は、異常だった。半年以上、所有してはいられなかった、過去のオーナーたちの顔が目に浮かんできた。シカンも相当苦労したことだろう。私はシカンの家だったときに、一度だけ彼に呼ばれて、行ったことがある。あのときは、他にも客がたくさんいた。なので、全然気がつかなかった。誰か一人でも、部外者がそこに居れば、そんな元々いる影たちも、闇の中へと潜りこんでしまうのだろうか。客人が帰り、住人だけになった時、影たちは自由に躍動し始めるのかもしれない。
シカンもまた、一人で過ごした夜のことは、誰にも言わなかったはずだ。
しかし、彼もまた、悩まされていたはずだ。
彼は家を手放す前に、何らかの事件か事故に巻き込まれて、行方不明になってしまった。
もしかすると・・・、長谷川レーネは内心思った。
まだ、クリスタルガーデンの中にいるんじゃないだろうか・・・。生きているんじゃないだろうか?いや、さすがに、それはない。いるとすれば死んでいる。どうしてだろう。自ら命を絶ったのだろうか。人知れず。そういう男に見えただろうか。よく覚えてはいない。
その、正体不明の蠢く影たちが、シカンの命を奪ったのだろうか。
私も夜な夜な、狙われているのだろうか。
「そのことなんだけど」
佐々木ウンディーネ社長は、答えた。
「名乗りをあげてきた不動産会社は、いた」
「不動産屋か」
「不動産屋だけじゃなく、その不動産屋に物件の依頼をしていた人に、紹介したらしい。それで、購入に前向きな反応を、得ているみたい」
「ほんとに?」
「たぶん、決まるんじゃないかしら。そうなると、来月には、あなたも出ていかないと」
「来月とは言わず、今からでもいい」
「けれど、相当叩き売らないといけないわよ、きっと」
「でも、購入には、前向きなんでしょ?」
「ずいぶんと、低価格で話を持ちかけたようなの」
「いくらなんでも、それは駄目よ。ある程度、まとまったお金を残してもらわなくては」
「交渉次第ね」
「けれど、いるものね。物好きも。そのうちきっと、誰も欲しがらなくなるわ。あの家は。そういえば、北川会長は、今日も来ないの?」
長谷川セレーネは、今や事務所の会長になっている彼女の事を訊いた。
北川裕美と、同じ会社に存在するのは意外だった。形としては、佐々木ウンディーネが社長に就任するとき、知り合いの北川裕美も一緒に誘って、自分が実務を担当するから、あなたには事務所の顔として居てもらいたいと。対外的にも、所属のタレントに対しても。どうも、そういうことらしかったが、実体はよくわからなかった。
長谷川セレーネも、特に、気にすることもなかった。ただ憧れの女性と、これからは傍で生きることになるという嬉しさ。緊張感。このときは舞い上がってしまいそうになった。しかし今だに、北川裕美は事務所に姿を現すことはなかった。
電話で何度か話しただけだった。彼女は今、画業に集中しているらしく、あまり外部と接触したくないというのだ。女優業も同時に再開していたが、それも自宅アトリエからロケ地に直行しているらしく、事務所に顔を出すことはなかった。
次第に長谷川セレーネは、そんな居るのに居ない、彼女の存在が目障りになっていった。代わりに会う顔といえば、決まってこの佐々木ウンディーネだ。34歳の女で、かつてはモデルとして活躍していた。十年近く前の北川裕美の全盛期時代、二人は知り合った。仲良くなった。しかしこの女と、北川裕美のどこが重なりあったのか・・・。セレーネにはさっぱりわからなかった。
たしかに顔はいいし、スタイルも抜群ではあった。頭もそれなりに切れた。けれど人前に立つ人間としては、いささか魅力に乏しかった。本人もそれを十分に自覚しての引退だったのだろうか。その変わり身の早さに、彼女の勘の良さと頭の回転の良さが、現れているのだろうか。そのタイミングでやめなくても、まだあと何年かは、十分にモデルとしての輝きは続いていただろうし、仕事もたくさんオファーが来ていたことだろう。しかし彼女は裏方へと回り、経営の勉強をしたのだろうか。その後、事務所の社長に収まることになった。よりによって私があたらしく、井崎から譲ってもらった事務所に。初めは違和感を覚えたし、別の人間の方が望ましかった。けれど北川裕美がセットで来ることを知ると、私はウンディーネのことはどうでもよくなった。それ以来、特に気にすることもなかった。
けれどここまで北川裕美の姿が見えないとなると、佐々木ウンディーネの行動が、言動がいちいち鼻についてイライラしてくる。この女とは合わない。二人きりで部屋に置かれたら、私は間違いなく発狂してしまうだろう。
「まだ、詳しいことは不動産屋には聞いてないんだけど。もちろん、買い手が誰であろうと、長谷川さんは関係ないのよね。売れて手放すことができれば、それでいいのよね」
「そうです」
長谷川セレーネは、ぶっきらぼうに答えた。
「進めておくわね。本当に、いつでも出ていけるのね?」
「何度も、言ってるでしょ」
あからさまに、不満たっぷりの口調で、長谷川セレーネは答えた。
部屋にタレントやマネージャーもいることを強烈に意識し、セレーネは無理やり心を落ち着けた。
北川裕美がここにいてくれれば、そんな気も治まるだろうにと思った。
「北川さんとは、どんな関係なんですか」と、今にも訊いてしまいそうになる。
ミーティングの焦点は、その後、新人の戸川兼のことに集中していった。
長谷川セレーネの意識は、次第にぼんやりと薄れ始めていった。
売買は呆気なく成立した。ミーティングの三時間後に、セレーネの携帯電話にメールが入った。
ほとんど、旅行者のような荷物は、すぐにスーツケースとボストンバックに詰め、本当に翌日にはそのままタクシーを呼んで、出ていける状態になった。引っ越し先も、ウンディーネに任せた。すぐに契約を結ばせた。あっというまの出来事だった。その夜が長谷川セレーネにとって、クリスタルガーデンで過ごす最後となった。
三か月は何とか住んでみた。初めから、こんな結果になるような気がしていた。だがここである時期を過ごすということが、ある意味、必要な気がした。初めて見た時は一目ぼれだった。ずっと求めていた家だと思った。自分の理想が目の前に突然出現したことに驚いた。ある種のご褒美だと思った。大学を休学してから芸能界で走ってきた、そのご褒美だと思った。ここで少し、贅沢をしながら休息したらいいのだと思った。けれど結局、ここに男を呼ぶことはできなかった。誘うことすらできなかった。こんなにも大勢の影に常に見つめられているのだ。男との行為を曝け出せるはずもない。風呂にはいるときでさえ、タオルを身体に巻き付け、できるだけ皮膚を晒すことを抑えたりもした。体は休まらない。心も休まらない。長谷川セレーネはそんな不安定な気持ちを我慢した。
ここは一体誰のものなのだろう。今までも、これからも、長谷川セレーネはこの家がこの土地が、個人にはまるで所有することのできない、手にいれることのできない、拒絶感をさらに強めて、存在するのではないかと直観した。そうなのだ。ここは誰のものでもない。この後も、私は賃貸契約を結ぶ人間を、細かにチェックさせようとさえ思った。手放すに決まっているそのときを、この目で見て、その後、彼らはどうなってしまうのか。どんな人生になっていくのか。そもそも、購入する人間に、何か共通点のようなものはないだろうか。とりあえずは次の人間だった。
そしてこの土地が何故、このような影の蠢きを始め、個人が所有することを拒否する空気を醸し出しているのか。それを知る必要があった。特別な場所だからか。聖地?浮かんできた言葉に驚いた。その言葉はすべての疑問を一瞬で吹き飛ばす、強烈な言葉だった。世界中には多くの人間にそう呼ばれ、歴史的にも認知されているそのような場所がある。けれども私は、そんな場所が聖地であるという実感を得たことはなかった。実際に日本でも。そのような場所に足を踏み入れたことはあったが、確かに空気感は違っていたかもしれないが、私自身、聖地だと感じたことはなかった。あくまでそれは他人事だった。私の現実の中には、決して特別な場所として刻まれることもなかった。それなのにと、長谷川セレーネは思った。まさかとは思う。それに聖地が、こんなにも居心地が悪いはずがなかった。そもそも聖地というのは、誰にとっての、ものなのだろう。不特定多数の人間にとっての、聖地など存在するのだろうか。
その夜はずっと眠ることができなかった。聖地という言葉が発狂しそうなくらいに頭の中を駆け巡った。ここは聖地なのか。何の聖地なのか。誰だろう。誰の土地なのだろう。個人には決して所有されたくはない。大地はそう主張しているようだった。そうか。私は購入してここに暮らしているから、気分が悪くなるのだ。もしそうではなく、私以外の人間が所有し、その上で、私がここで過ごすとしたらどうだろう。意外にいけるかもしれない。事務所名義で、仕事場として存在させて、それで、私の家として、住むのはどうだろう。真夜中ではあったが、佐々木ウンディーネの携帯に、電話をかけた。何度も何度も、出るまで執拗に鳴らし続けた。留守電に繋がること十五回。擦れてほとんど聞こえないくらいの小さな声で彼女は出た。長谷川セレーネは事情を説明し、何とか売買契約は中止にしてもらえないだろうか。そして、事務所がとりあえず買い取って、私に貸すということで、段取りをつけてはくれないか。長谷川セレーネは迫った。答えはもちろんノーであり、もう二度と電話をかけてくるなと怒鳴られた。なぜか、途中からは、通話は男に変わっていた。気づけば男に怒鳴られていた。確かに無謀な行動だった。最近の私は、どこか頭のネジが外れてしまっている。おもい起こせば、セトのVA事務所を出た後からだ。独立すると啖呵を切り、井崎の事務所と合併することで、私は自分だけの居場所を作ろうとした。あれからだ。私の中でコントロールの効かない部分が目覚め始めたのは。事務所のVAは消滅し、そこに所属していたタレントも、私以外はすべて死んでしまった。心の繋がりは北川裕美一人になった。その彼女とも今や、良好な関係とは言い難かった。今の状態では、佐々木社長を通じてしか、北川裕美と連絡をとることができなかった。もともと、北川裕美から直接、私のところに連絡がきたことなどなかった。私もまたそうだった。気軽に話し合う関係ではなかった。何を話していいのかすらわからない。ただ、偶然、道でばったり会う以外に、よく考えてみれば会ったこともなかった。テレビ番組で共演したのだって、偶然の事故といえばそれまでで、しかも出演中も、まったく会話すらすることはなかった。アナウンサーを介して、やりとりをしたわけでもなかった。心を鎮めてよく考えれば、心の繋がりなど、あったものではなかった。私の一方的な憧れであり、共感であり、畏怖の念であった。
関係は今悪化したわけではなく、関係すらほとんどないような状態だったのだ。それなのに、妙に近くにいるような状態だった。気が変になってくるのも、当然なのかもしれなかった。
だんだんと、長谷川セレーネは、心の落ち着きを取り戻していった。
この眠れない夜だからこそ、整理しておかなければならない事があるのだと感じだ。そして、購入以来、ずっと感じ続けてきたクリスタルガーデン内の蠢く影が突然、ベッドの周りを囲み、聳え立っていることにも気づいた。はっきりと数をかぞえることができた。五人だった。五人の巨人が私を見下ろしていた。恐ろしくて目を瞑った。うつ伏せになり、慌てて布団にくるまった。寒気が襲ってきた。そんなことをしても、無駄なのに、抵抗するというポーズを見せつけたかった。私は拒絶したのだとはっきりと示すために。私は受け入れなかったのだと。長谷川セレーネは布団越しに、蠢く影に身体を完全に押さえつけられ、彼らは長谷川セレーネの衣服を引きちぎり、強引に両腕を持ち上げられ、下半身もまた、無防備に夜のクリスタルガーデンに、曝け出されてしまった。
初めからこうなることはわかっていたのかもしれない。
再びその言葉を繰り返した。今さら、男を招き入れなかったことを後悔しても、仕方のないことだった。結局、私は、私の秘部は、私そのものは、こうして複数の男に蹂躙される運命だったに違いない。長谷川セレーネは、自分とは違う性のエネルギーの奔流に対して、完全に身を預け、次第に自ら快楽の淵を探るように全身をくねらせた。抵抗したのだという痕跡もまた、夜のクリスタルガーデンに、いや、大地の奥底に投げ入れていた。
深く一つになることで、ここまで生きてきた自分をも壊そうとしていたのかもしれなかった。
渡されたファンレターの束の中には、見覚えのある名前があった。
鳳凰口昌彦。一度、鳳凰口建設という会社に、履歴書を提出したことがあった。
就職するために上京してきたときのことだった。鳳凰口建設に内定したが、結局、採用されることはなかった。社長の鳳凰口は突然亡くなり、会社も存続するのかどうかも、微妙になった。そこの息子が鳳凰口昌彦だった。そのあと鳳凰口建設がどうなったのかは知らない。あのときは、昌彦は継がないことになっていた。あの男のことはあまりよくは知らなかったが、あのときは確かに職はなかった。自宅で彫刻家の真似事のようなことをしていた。その男が何故ファンレターなど送ってくるのだろう。戸川は警戒した。ウンディーネに事情を話し、誰か別の人間に、開封してはもらえないかと言った。ウンディーネは即刻、その場で封筒の端を激しく破いた。中から、紙きれを取り出した。黙読し始めた。戸川は破かれた封筒を手に取った。何度も表裏を、ひっくり返しながら、別に何の仕掛けもなかったことを、何故か、残念な気持ちで受け止めた。
佐々木ウンディーネには全部読まれていた。彼女は、その手紙を戸川に渡そうとしなかった。何回か宙を見上げては、再び頭を整理するように、ぐるぐると回してから、また元へと戻した。
「返して下さいよ」ひらひらと、彼女の手に弄ばれた紙を掴もうと、戸川は身体を乗り出した。
「ねえ、この人よ」
佐々木ウンディーネは言った。
「長谷川さんは、もう帰ってしまったわね。いいっか別に。彼女に報告するまでもない。戸川君。この鳳凰口って人は、いったい誰なのよ?この人よ。長谷川さんの家を購入するのは」
「昌彦が?」
「そうらしいわ」
「そんな、金を持っているのか、あいつ」
「どういう知り合いなの?戸川くん」
「ほとんど知りませんけど。ただ。いや、もう隠したって、どうせ、バレるでしょうから、言ってしまいますけど、就職活動してたときに、彼の会社に、面接に行ったことがありましてね。彼の家が、建設会社をやってまして。親父さんなんですけど。昌彦って奴は、まったく、継ぐ気はなかったみたいだけど。家に引きこもってましたよ、彼。彫刻家だって言ってました。少し気のふれた男でして、どうして、そんな大金を持っているのか」
戸川は、金のことを呟き続けた。
「鳳凰口建設。たしかに、存在するわね」
佐々木ウンディーネは、すでにネットで検索をしていた。
「そんなはずは」
戸川は身を乗り出して、パソコンの画面を見た。「ほんとうだ」
「昌彦が、継いだんだ」
「そうでも、ないみたい」
佐々木ウンディーネは、画面をスクロールしていった。
「代表は、激原徹。この男ね」
「ゲキハラ?ゲキハラって・・・まさか」
「知ってるの?この顔よ」
「これだ!俺と同じ時期に面接を受けた男だ。鉢合わせたことがある。なぜこの男が?そんなはずはない。あのとき、採用されたのは、俺なはずだ。あいつは落ちた。なのに何故。だいたい、鳳凰口建設はあのとき潰れたはずです」
「鳳凰口昌彦が購入するわけではなさそうよ」
佐々木ウンディーネは今だ、手紙を戸川に渡そうとしなかった。
「鳳凰口建設が、建物を改装するらしいわね。あの豪邸に手を入れるみたい。それで、全面リニューアルするって。で、肝心のオーナーは、また別にいるみたい。はっきりと記してはいないけど、そんな雰囲気ね。鳳凰口って人は仲介しているだけのようで、たまたま戸川君のことを知ってたから、連絡してみた。長谷川セレーネの繋がりで。彼女を紹介してほしいのよ。何か直接、訊きたいことがあるみたい。だから、戸川君には関係ないわね。あなたも昌彦って男も、あいだを取り持つだけのようね。そういう私もそうだけど。旧オーナーの北川裕美と、新オーナーの誰かさんが、繋がりたいだけね。いろいろと経由しないと辿りつかないから」
ここでやっと、戸川に手紙は渡された。
なぜ彼女が、渡すのを渋っていたのかが全然わからなかった。
佐々木ウンディーネが、特に細工をしたようにも見えなかった。
「あなた、鳳凰口って男には、会うつもりなの?」
「さあ」
「さあって、一度は、会わなくては駄目よ。こういう男はしつこいから。一度会って、それで、懐かしい話でもしてこなきゃ」
「長谷川さんのことは?」
「私が何とかするわ。絶対に直接会わせては駄目よ。何かの罠かもしれないし。あなたもそうだけど、一般人に、それも素性の知れない人に、無防備で会おうとしては駄目。あなたも自覚しなさい。この鳳凰口という男と、その背後にいる人間たちは、人気の出てきたあなたを利用しようとしているのかもしれないから。いや、あなただけじゃない。長谷川セレーネもそう。いや、これは、そもそも、まったく家を購入する気なんかなくて、ただ、長谷川セレーネに近づきたい人間の行動なのかもしれないから。この手紙に書いてあることは、全部嘘で、ただ長谷川セレーネと、話しがしたいだけなのかも。気をつけなさい。とにかく気をつけないさい。でも、知り合いなんだから、一度は会っておきなさい。その代わりに、長谷川セレーネを紹介しては、駄目。きっぱりと拒否するのよ。そのために会うんだから」
まるで、母親に諭されるように、一方的に言われた戸川は、そのあと鳳凰口に電話をした。
すぐに二人きりで会う事になった。
しかし待ち合わせた居酒屋には、昌彦だけではない黒い影が、その横にも、複数蠢いていた。
「久しぶりだな、戸川」
手を差し出してきたのは、鳳凰口昌彦だった。ずいぶんと値段の高そうなスーツを着ていた。腕には豊かな気が溢れた時計の存在があった。
「手紙は届いたようだね。ああいう、ファンレターというのは、ちゃんと目を通すものなんだな」
戸川は握手に応じた。
「久しぶり」その横から近づいてきた影は、次第に人の姿を形作った。
「水原か」
戸川はおもわず嬌声を上げた。
「ということは・・・」
他の影に、戸川は意識を移した。
次々と人の輪郭をとり、戸川に手を差し出してくる。
「激原・・・。そして、あ、たしか、見士沼。そうだよな」
戸川を含めた五人の男は、その後軽く抱き合った後で、席に座った。
「どういうことなんだ」
事情の分からない戸川に、鳳凰口昌彦は説明を始めた。
実は、見士沼の実家の教団が、新しく設備を建てるので土地を探している。それで白羽の矢が立ったのが、クリスタルガーデンだった。その所有者は、長谷川セレーネ。戸川、そのときだよ。お前が芸能界で活躍しているのを知ったのは。それで、すぐに連絡したんだ。鳳凰口建設が、建物の改装を担当する。これは仕事で、集まったんだ。特に俺は、何をするわけでもないけど。鳳凰口昌彦は言った。
「水原?水原はどうして?」
「俺も、特には関係ないよ」水原は答えた。鳳凰口の方をちらりと見た。
その一瞥を、戸川は見逃さなかった。この物件の売買に、最も関係なさそうに見える鳳凰口と水原が、妙な意思疎通を計っているように、見えたからだ。
「まあ、同窓会のようなものだ」と水原は笑った。
「そうか」と戸川も同調した。「長谷川セレーネを、紹介してくれってことなんだろうけど」
「いやいや」と鳳凰口は大げさに両手を使って、そうではないことを表現した。
「そんなお願いなど、出来るわけないじゃないか。君に伝言してもらいたいだけだよ」
「伝書鳩みたいに?」
「個人情報のやりとりを、してほしいだけだ。といっても、家に関係することだけね。いろいろと問題のある家のようなので、事前に知っておきたいことがあって。もちろん彼女は本当のことは言わないだろうと思うけど。でも、出来るだけ、正直になってもらいたいんだ。その代わりに、逆に、購入価格を上乗せしてもいいという条件をつけたい。そのことを、伝えてほしいんだ。頼むよ、戸川」
「そんなことでいいのなら、いくらでも、訊いてあげるよ」と戸川は闊達に答えた。「ただ、ウチの社長が少しうるさくてね。だから、あまり表立っては出来ないけど、何気なく、長谷川とはやりとりするよ」
「すまんな、戸川」
見士沼は、深々と頭を下げた。
やはり、見士沼個人の話しなのかもしれないと、戸川は思い直した。
見士沼と長谷川のラインに、仲介の人間が繋がっているだけなのだ。
「そういえば、激原」
戸川は、親しみの念をほんの少しだけ混ぜて、彼の名を呼んだ。
「まさか、お前が、社長になっているとはな」
「実は、俺も、つい何日か前に、知ったことなんだ」鳳凰口が、割って入ってきた。
「そうなのか?」
「もう家はあれから、出ていてな。実家には戻らなかった。鳳凰口建設は、親父と共に消滅して、財産も全部処分したと思っていた。俺は何も受け取らず、弁護士に任せて、それで」
「行方をくらました」激原が言った。「俺も探したんだけどね。半年あれば、状況なんて一変してしまう」
激原は、鳳凰口に向かって言った。
「商売してるんだろ?うまくいっているようで、よかったな。そんな商才があったのなら建設会社を継いでも、うまくいったんじゃないのかな?」
「いかないよ」鳳凰口は、一瞬不機嫌になった。
「とにかく、頼むな、戸川」
そのあと、戸川は先に帰ったが、四人はその場に残った。結局、Kの話は、一度も出なかったなと戸川は思った。そして、半年前のあの出来事は、もうすでに、現実味が全くなくなってしまっていることに気づいた。
戸川は長谷川セレーネに、次期クリスタルガーデンの購入者が、自分の知り合いであることを伝えた。
彼らが知りたい情報を彼女に求める代わりに、家の値段を、提示額の二割増しにできることを伝えた。ただし、ここで情報交換をしていることは、社長には黙っていてほしいと言った。社長はこういうのを嫌っている。
「言うわけないでしょ。むしろあの女は、除外したいくらいよ。今になって、あの女に売買を頼んだのを、後悔しているくらい。ここで直接、やりとりした方がいい。でも、もう遅いわ。急に値が上がるのを、あの女は怪しむんじゃないかしら?」
「なら、その、二割増しの分は、直接、長谷川さんに振り込むってことで、お願いしておきますけど」
「助かるわね。何でもしゃべっちゃう」
「で、ですね、率直に言って、手放す理由は、何なのですか?表向きの理由じゃなくて、誰にも話せない理由を教えてくれと」
「いい質問ね。でもやっぱり、あなたには話せないと思う。それくらい話したくないことなの」
「わかります」
「その、見士沼くんだっけ?」
「いや、交渉の席につくのは、鳳凰口昌彦という男です」
「昌彦さんに、直接、話したい」
「直接、お会いしますか?」
「そのほうが、いいと思う」
「話が早いですね。では、いつが、よろしいでしょう」
今から行こうと長谷川セレーネは言った。「連れてって」
戸川は鳳凰口に電話をし、事情を説明した。鳳凰口の方もすぐに会いたいと言ってきた。
「じゃあ、せっかくだから、クリスタルガーデンに来てもらいましょう。外では誰に見られてしまうかわからない」
こうして、その日の夜に、長谷川セレーネと鳳凰口昌彦は会うことになった。
戸川は同席することを許されず、鳳凰口も他に誰も連れては行かず、一人で行くということになった。
後日、長谷川セレーネに、この時の話しを訊くわけにもいかなかったし、一度、鳳凰口から礼の電話をもらったが、情報交換は一晩で終わり、順調に契約を結ぶことになるだろうと、彼は自信満々だった。
戸川は、鳳凰口の、その一晩でという言葉が、何故かしら引っ掛かった。クリスタルガーデンに一組の男女が、ずっと一緒にいるというのが、戸川には良からぬ妄想を掻き立てた。
その後、戸川は知り合いの彼らと会うことはなくなった。このタイミングで、仕事が多忙を極め始めたことで、彼らのこともまた忘れてしまった。戸川は自分がまさか芸能界に進むなんて、考えたことすらなかった。内定の決まらない就職活動は、すでに三か月を過ぎていた。面接では確実に落ちた。それなりに雰囲気よく談笑をしていたので、いつも採用は決まったかのように錯覚した。あとで問い合わせをするわけにもいかず、戸川は思いあまって、面接中に、自分の何がいけないかを、面接官に訊ねてしまった。はっきりと理由が知りたかったのだ。
今後の自分にとって、大事なことなんです。
彼は真剣に、五十代半ばの部長という肩書きの男に迫った。
「戸川くん、君はとてもいい人間のように見えるよ。でも、うちの会社には、必要ない。あなたのような人を、僕は雇えるとは、とても思えないから。自信がないんだ。君に居場所を作る自信が。何か申し訳ないような気がしてくる。罪悪感のようなものを覚えてくる。具体的にどういうことなのかは、私にもよくわからない。でも、採用はしていけないと、心の底からそう思うんだ。本当にすまないとは思うよ。君の問題というよりは、私たちの問題なんだ。いや、私のといっていい。私が嫌なんだ、戸川くん。私が、君の道を作る責任者になっては、いけないような気がするんだ」
彼は、戸川の眼を見て真剣に話してくれた。
戸川はなぜかしら、感動を覚えてしまった。
こういった、率直に話す上司のもとで働けたら、どんなに素敵なことだろうと思った。
その夜、ふとこれは、自分の向かう場所が、全然見当違いなのではないかと、戸川は思うようになった。どうして、うまく展開していかないのだろうというよりは、違う可能性を、示唆しているかのように、戸川には感じられたのだ。やめようと思った。こんなことはもうやめようと。一度、いや初めから、心の状態をセットし直そうと思った。そもそもの始まりから、いかに自分はいい加減なスタートを切っていたのだろう・・・。それを思い知らされた。ほとんど機械的に上京し、ただ働き口を探していたという、それ以上の行為は、何もなかったのだ。行動の、動機となっていることといえば、ただ地元にいたくない。親の世話になりたくない。ある程度の、生活費を稼ぎたいという、不明瞭で、別に自分の望みから出てきたわけでもない、誰かの受け売りな発想、そのものだった。
戸川は吹っ切れた。別に就職なんてしなくて構わないじゃないか。それよりも、どうやって生きていこうか。どう生きるのが、最も自分らしいのか。何をしたら他の人は喜んでくれるのか。俺にしかできないこととは、何なのか。答えのない問いを、戸川は毎日、自らに投げかけ続けた。ヒントはどこからも返ってはこなかった。
戸川はぶらぶらと街を歩く日々を送る。
ホテル住まいを続ける資金は途絶えてしまった。それでも何とか民宿を訪ね、ほとんど詐欺同然の交渉の末に、破格の値段で、一か月の滞在を勝ち取った。
民宿という看板は出ていたものの、おばあさんが一人で経営していて、客はまったく来ることはなく、ほとんどつぶれているのではないかと思った。これなら交渉するまでもなかった。しかしそのおばあさんは、別に呆けてるわけではなかった。逆に彼女は一日中、何誌もの新聞を読み回していた。いつ発刊したのかもわからない薄汚れた書籍を読んでいることもあった。戸川が働きもせず、一日ブラブラしていることにも気づいていた。けれども何も言ってこなかった。
そんな日々が続いた、ある日のことだった。自らに投げ続けた問いへの答えが、その日に一気に舞い戻ってきたかのごとく、これまでにない現象を怒涛のように運んできた。
戸川に話をかけてくる女性の姿があったのだ。初めは道を聞かれたり、荷物を持つのを手伝ってほしいと言ってきただけだったが、次第に今からいっしょに食事をしないか。うちに来て飲まないかと、どう考えても裏がありそうな、誰かの陰謀かとも思うくらいの積極性を見せる女性の姿が、次々と現れ出てくるようになったのだ。
一度、そうした現象が起これば、それまで躊躇していたかのように、そんな欲求不満な状態のような女性たちが、勢いよく訪れてくるようになる。そしてその流れは次第に若い女性に留まらず、男性にもまた、いや人間だけではなく、犬や猫にまで敷衍し、さらには民宿のおばあさんにまで伝染していった。
戸川はそれから民宿に帰ることが少なくなっていった。
出会った女の部屋で、寝泊りを繰り返すことが増えたからだった。
もうすでに、民宿には一か月分の宿代を払ってしまっていたので、特に婆さんに報告するまでもなかった。それでも、一度、荷物をとりに行ったときに、婆さんは初めて、まともに口を聞いてきた。職に困っていたらココに連絡しなさいと。いいね。戸川はいきなりそんな事を言われたので驚いた。婆さんの眼をじっと見た。婆さんの眼は実に美しく、澄んでいることに、そのとき初めて気づいた。
まともに顔など見てなかったから、こんなにも素敵な女性が近くに居たとは、全然知らなかった。婆さんは、民宿の経営者という以外に、また別の顔を持っているようだった。
困ったら来なさい。でも全然、困ってはいないね、あんた。そう言って彼女は笑った。何もかもがお見通しのようだった。
戸川は、それから半年近く、何人もの女の元で過ごした。どうして突然モテるようになったのか。戸川にはわからなかった。学生のときから、女子に人気のあったことなど、一度もなかった。誰かに、強烈に好かれるということを、経験したことはなかった。
あの民宿に泊まったことが、転機のきっかけにでも、なったのだろうか。婆さんの瞳がずっと忘れられなくなった。さすがにいつまでも、女の世話になっているわけにもいかず、婆さんに教えてもらった番号に、電話をすることにした。それが今所属している事務所だった。佐々木社長との面会がすぐに決まり、これまで、まるで採用とは無縁だった自分が、あっけなく所属先を決めた瞬間だった。婆さんと事務所の関係は、詳しくは分からなかったが、彼女はどうも芸能界の周辺にいたらしく、そういった関係で、今スカウトのようなことをやっているようだった。民宿というのはやはり表向きだった。金になりそうな逸材に、目を光らせていたのだ。それでも彼女の眼は美しかった。若い女と寝続けていたが、不思議と手も触れ合ったことのない、婆さんにも性的な何かを感じてしまった。
戸川は晴れて芸能事務所に所属することになった。そこに長谷川セレーネもまた所属していた。そのことを知るのは、正式に契約を結んだ後のことだった。北川裕美のことも、もちろん知っていた。戸川の人生は突然動き出したのだった。
激原は、依頼されたクリスタルガーデンの改装に、喜々として取り組んでいた。
自ら率先して、彼は指揮をとった。まず、このクリスタルガーデンそのものに、興味が湧いた。こんなすばらしい家を持つことなど、まるで想像したことはなかったが、このとき初めて、激原は突然起こされたように、強烈に欲しいと思ったのだ。
半年前の自分とは違った。今だったら、これを望んでも可能かもしれない。半年後、いや、一年後になら、買うことができるかもしれない。俺は将来、こんな家に住むことができる。清々しい気持ちになってきた。激原はクリスタルガーデンの改装を、まるで自分の家を装飾するかのごとく、自分ごととして、取り組み始めていた。
自分の家を、自分の手で建てるということが、どれほど幸せなことであろうか。激原はまた、鳳凰口建設のことを同時に思った。確かに今は引き継いだこの会社を、ある意味、元々の役割の延長線上にもっていく以外に、道はなかった。そういった見えている道を行くという、安定性のもとだからこそ、いつもの激しく込み上げてくるこの感情の発揮場所の確保ができる。この破壊的なエネルギーの落としどころが、出現してくる。
その場所ができたことが本当にうれしかった。感謝すべきことだった。それだけで深い満足感を覚えた。しかし、このクリスタルガーデンを見たとき、激原には眠っていたもう一つの欲望が目覚めていくことを知った。鳳凰口建設もいずれは、完全に俺のものになるであろう。今はまだ移行期なのだと自覚した。鳳凰口昌彦と再会したことも、影響していた。彼はまったく会社を継ぐ気など、なかった。これまでも、どこか気になっていた。あの息子が突然姿を現すんじゃないか。特にこうしてまた、経営が軌道に乗り、会社の規模も徐々に拡大していくうちに、やっぱり俺のものだと言い始めるんじゃないのか。金をせびりに来るんじゃないのか。裁判を起こされたりするんじゃないのか。少なからず、そんな不安があった。
だが、それも解消した。彼は、この俺に感謝までしていた。何度も念を押して訊いたが、彼は組織というものを、本当に毛嫌いしていて、社員を一人雇うことさえ、肌に合わないといった様子だった。自分が、雇われることに対しても、ひどく嫌っているようだった。彼にとっては、雇用関係は表裏一体であり、そのどちらの側につくというイメージも、全く持っていないようだった。
それでも彼の外見からすると、金はかなりもっているようだった。何か単独で商売をやっているような感じもした。その風貌にも、激原はまた、さらなる安心を得た。彼は確実に建設会社に関わりを持つことはないだろう。少なくとも内部の人間としては。それでも、ほんの少しの懸念は残った。完全に彼との関係を絶つことはできなかったからだ。今度のクリスタルガーデンのこともそうだった。彼も関係者の一人として参加していた。それに創業者の息子という立場は、永遠に変わりようがなかった。
しかし激原は、そんな気分さえあっけなく覆すほどに、クリスタルガーデンに魅了されていった。
身士沼祭祀と何度も打ち合わせを重ねた。ほとんど、彼としか会わなかった。結局、最初に会ったとき以来、水原も鳳凰口も、姿を見せることはなかった。本当に、うちと見士沼の間を取り持っただけだった。仲介しただけだった。完成するときまで、会うことはないのかもしれなかった。
見士沼に、彼ら二人のことを聞いた。
水原とは、けっこう頻繁に会っているが、鳳凰口に至っては、ほとんどまた行方知れずになっているということだった。
「あいつは、ほとんどが、そういった状態だ」と水原は言った。
「俺にも、居場所はまったくわからん。ほっとけよ。俺らが気にすることじゃない」
そうだなと、激原も相槌を打った。
クリスタルガーデンは、外観をほとんどそのまま生かすことになった。新品同然だった。
もう一年以上も、違う持ち主に使われていたが、そんなふうにはまったく感じられなかった。すでに長谷川セレーネの持ち物はすべてが運び出されていて、激原が入ったときには、本当に建売に出された直後のようだった。モデルルームのようだった。
激原は、ひととおり自分の眼で実物を把握し、そのあとで、見士沼祭祀と会った。
彼の希望を訊いた。だが、彼は無口な感じのまま、打ち合わせはなかなか進展しなかっ
た。
深く考え込んだ様子の彼に、激原が、ちょっとした探りを入れるような提案を、するこしかできなかった。
次第に、祭祀の落ち込みは増していき、最後には、あなたたちに任せると、丸投げしてきた。
「実は、僕が望んだことではないんだ」と彼は言った。
「親父さんか」
見士沼祭祀は、答えなかった。
「教団の方針か」
見士沼祭祀は、後ろ髪を邪魔くさそうに、払うように触った。
「それとも、あいつらか」
見士沼祭祀は、びくっと身体を震わせた。
「そうなんだな。どういうことなんだ?話してほしい。何か裏があるのか?なら、どうして、あいつらは姿を見せない?何をやっている?」
「俺は、な」
見士沼祭祀は口を開く。「たしかに、俺も、望んでいる。おそらく、な。ただ、俺が、考えていることは、もっと別のことだ。実際に、教団施設をどこに建設して、どういうものにしていくのか。そういうことじゃない。でも確かに、移設は必要だ。気持ちの問題かもしれない。環境を変えるという意味かもしれない。それ以上に、俺にとって、建物に執着はない。でも、場所はとても重要だな」
「言ってることがよくわかんないぞ」
「任せるよ」
「どういうイメージもないのか?」
「ああ、そうだよ。でも、新設した建物が、どんな役割を担い、この社会の中でどういった影響を及ぼし、何の活動をしていくのかの、イメージは鮮明だ。でもそれは、君に話すことじゃない」
「なるほど」
「服みたいなもので、どんな服を着たいかと言われても、特にこだわりがないとしか言いようがない。かっこよければ、似合えば全然、いいよと。むしろ、それは、俺の問題じゃない。見る側の問題だ。見る人が気持ちよくなればそれでいい。建物も、そうだ。だから、君に任せる。ファッションコーディネーターのようなものだ。頼んだよ」
激原にとって、さらに喜々とする事態が、重なっていった。俺の思い通りに、仕事が進められる。それも、未来の自分の城を建てる、まるで、その予行練習のように利用することができる。
外観は、このままのイメージを尊重することにする。ヨーロッパの地中海沿いに聳え立った、別荘のような城のような風貌だ。外形を、ちょっとずつ変えていくことにした。でっぱりを、付けたり、丸みを帯びさせたり。上空から見たときの絵を、彼はすごく意識した。
ふとそのとき、ここに、俺のメッセージを埋め込んでしまうのはどうだろうと思った。
誰にも気づかれずに。そういった、おかしな願望が込み上げてきていた。以前、水原と親父の仕事現場のシートに印刷された、動物の姿を思い出していた。その動物の風貌は、よく覚えていた。今でも寝るとき、天井に、その動物の姿が映ったかのようにイメージが浮かぶことがあった。それを、クリスタルガーデンの形にしてしまったらどうだろう。
激原はさっそく絵を描いた。設計士にそれを回した。あとはプールを潰し、駐車場を拡大したり、庭をより簡素にして、掃除をしやすくし、代わりに、室内に大量の観葉植物を入れることを提案したり、実情に即した微調整を加えていった。
そして、一番の大仕事は地下室の拡大だった。これは、身士沼高貴からの注文だった。彼はクリスタルガーデンの上物よりも、広い空間を地中に欲した。
激原は、その要求に応ええるべく、作業に奮闘した。社長自らがドリルを持ち、仕事に入るのが、この会社の大きな特徴だった。彼は、単純で一番力を必要とする作業を、自ら受け持つのだった。心を無にして全霊をかけて、そこにエネルギーを注ぐ、その時こそが、自分にとって、最も神聖な場になるということを、この身で知っていたからだ。
荷物をまとめ、クリスタルガーデンを出た長谷川セレーネは、佐々木事務所社長が用意した、新居へと出向く。
すでに段ボール詰めのされた私物は、到着していた。手際がよかった。
長谷川セレーネは、二十畳ほどあるワンルームに立ち、しばらく、悄然と時を過ごしたあと、そういえば頼んでおいたソファーがまだ来てないことに気づいた。カーテンさえついていない。おかげで、日が沈むあいだ、街を見下ろしていた。
時間が経つのは異常に早いもので、すでに、満点の夜景が目の前には出現していた。
あきらかに、クリスタルガーデンにいる時とは、時間の進み方が違う。これで本当によかったのだろうかと、自分に問いかけずにはいられなかった。あの豪邸の残像が瞼に強く焼き付いていた。あの家を手に入れ、ずっとあそこで過ごすというのは、夢物語だったのであろうか。外見に囚われすぎていた。あの中に入ってしまえば、とても心穏やかに過ごすことなどできなかった。豊かな時間が流れてくることはなかった。また別の機会を探そうと彼女は思った。あの土地が合わなかったし、今がそのときでもないのかもしれなかった。
セレーネはふと、あの家を購入したのは、自分の本当の望みではなかったような気がしてきた。シカンが行方不明になり、家が売りに出されたとき、クリスタルガーデンのCМに出演した。撮影のために、何度も足繁く通った。そのため、あの家に住んでいる自分のイメージが次第に鮮明になっていった。ついには、広告塔が自ら購入するという事態になってしまった。大きな部屋に住みたいという、幼い頃の私の願望とも、結びついた。貯金のすべてを使い果たしてまで、手にいれようと必死になってしまった。
どう考えても、正気じゃなかった。どうして貯金のほとんどを使い果たすという行動が、とれてしまうのか。幼き時の自分が、今蘇ってきていた。母子家庭で、母は男性と寝ることを仕事としていたが、少しも生活は裕福にならなかった。おそらく、同じような境遇で生きた人間だったら、もっとお金に貪欲になるに違いなかった。けれど私は、そうではなかった。母のいなくなった今、自分が不自由なく生活できる程度があれば、それでいいと思っていた。けれども、お金に対する私の態度は、やはり、自分で思っているよりも健全ではなかったようだ。
ふと感じたことは、溜まっていた貯金を、すっからかんにしたいという見えない欲求だった。私はいち早く、預金のない状態を望んでいたのかもしれなかった。いくら撮影で何度も家を訪れたからといって、衝動買いしてしまうはずもなかった。私の中で、密かに、蠢いている複数の欲求が、一つに重なり合ったからこその出来事だった。もう一度、夜景を眺めながらよく考えてみた。
あの家に住んでいるというイメージが、深く刷り込まれたこと。
これは疑いようがなかった。そして、お金に対する私の態度。なぜ貯まっていく預金に耐えられなくなっていったのだろう。そんな欲求が、本当にあるのだとしたら、目の前に差し出されたのがクリスタルガーデンではなかったにしろ、何であろうと、手放してしまったことだろう。恐ろしいことだった。むしろ今、そのことに気づいて、よかったのかもしれない。今後、もっと預金が莫大に膨れ上がったときに、その恐ろしい事態が、起きる可能性すらあった。壊滅的な被害を、蒙る前でよかった。胸を押さえ、なぜか母に感謝までしていた。母を近くに感じていた。そして母はまたさらに、私に何かを気づかせようとしているようだった。どうして預金が貯まっていくのが許せないのか。長谷川セレーネは問い続けた。しかし、答えは出なかった。翌朝になっても、出なかった。ソファーもまた、やってはこなかった。一晩中、長谷川セレーネは、部屋の中をうろうろと歩き続けた。クリスタルガーデンと、この部屋との気流の違いが、神経を高ぶらせてもいた。もう二度と、あそこに帰らなくてもいいという安堵の気持ち。今後、未来で起こすかもしれなかった金銭の問題。それを回避することができるという慰め。しかし、原因は全くもってわからない。解決されなければ、再び繰り返すことになる。
午前七時を超えたが、全く眠気がやってくる気配はなかった。長谷川セレーネはシャワーを浴び、服を着替え、段ボール二箱を開け、整理を始めた。旅行者並みの荷物は、すぐに新しい環境にも慣れる。自ら居場所を見つけたかのように収まる。長谷川セレーネはリッツカールトンホテルへと向かった。ラウンジでブレックファーストをとろうと思った。歩いてかなりの距離があったが、長谷川セレーネは歩いて向かうことにした。公園の中を通り、木漏れ日にうっとりとした気持ちになりながら、鳥の鳴き声に、自らの波長を合致させた。そのときだった。お金の問題に対する答えが、鮮やかに沸いてきたように思えた。
私は、芸能界で一体なにを目指しているのか。そんな疑問が、突如浮かんできたのだ。
そのあとが続かなかった・・・。沈黙は、どんどんと巨大に増殖していき、公園中を満たしていった。さらに拡大を続けて、その沈黙のほうは、すでにホテルに到着してしまっているかのようだった。クリスタルガーデンにも届いていく。すでに始まっているはずの工事そのものを、包みこんでしまっているかのようだった。
すべては、沈黙に答えがあった。お金はただの道具にすぎなかった。問題は私が、この芸能界で何をしようとしているのかということだった。私が望んで入った世界ではなかった。望んだ職業でもなかった。そもそも望んだ容姿でもなかった。これが当たり前であり、その容姿は一人歩きしていき、道が情況が、勝手に作りだされていってしまった。モデルになった女性は、きっとこのように、自然発生的に、自分の居場所が生まれるパターンが多いに違いない。しかしそうではない人もいるはずだった。そもそもモデルを、本気で目指し、それでいて、なることのできなかった女性が、数知れずいるはずだった。彼女たちは一体、その後どうしたのだろう。長谷川セレーネは、そのようなことを今まで考えたことがなかった。
私がこうして生きていける、こうして活動していける影で、いったいどれだけの女性が望みを絶たれているのだろう。特別な容姿を持っていないにもかかわらず、なりたい想いだけが先行していく。胸が、きゅっと締めつけられるのがわかった。だが、そういった女性たちの中にも、わずかながら、夢を達成した人もいる。ポジションを自分で掴み取った、奪い取ったものも、いるはずだった。そうした彼女たちは、その後、どういった人生を切り開いていったのだろう。どんな末路を辿っていったのだろう。興味深かった。
けれど、そうして大きな野望を抱いたものの、生まれ持った才能の欠如から敗れ去った女性に対して、意識は拡大していった。もしかすると、彼女たちの方が、幸せだったのではないだろうか。物事が自然発生的に構築されていくというのは、もちろん理想的だった。けれど、人生の始まりの時点においては、逆な状況のほうが、結果的にいいのではないか。夢破れ、居場所もなく、今後の展望も描けずに、自分とは何者なのかわからず、絶望的な気持ちに陥る。これからどうしていこうか。何を目指して進んでいこうか。状況が自分を決めるということが、一切なくなる。そうなった女性たちはどうなるのだろう。
長谷川セレーネは、まるで今、そんな女性になったかのような幻想を抱いた。いや、本当に、私はそういう女性なのかもしれなかった。そのことにも、感謝の気持ちが沸いてきた。母が、このような状況を演出してくれたのかもしれなかった。こういう状態にしたかったのかもしれない。だから、クリスタルガーデンを購入し、手放した。大金をつぎ込み、その半分以上を二か月あまりで失った。この状態を体験するために。安いものだと、谷川セレーネは思い直した。お金というのは、私がこれから描いた人生と共に、あるものだった。預金を全額使ってしまいたいという衝動は、今後のビジョンが、何もないということを意味していた。これまで形づくられていた道。それが、この先はないのだというシグナルだったのだ。
私は今日まで、佐々木ウンディーネ社長とは反りが合わず、殴ってしまいたい衝動を心に秘めていたことに気づいた。けれどそれは、社長本人を憎んでいたわけではなく、その背後にいる北川裕美が、全くもって、自分に関わってくれないことへの苛立ちだった。北川裕美が肝心な時にやってきて、この私に、今後の指針、どう生きていくのかを、一緒に考えてくれるものとばかり、どこかで思っていたのだ。まさか、北川裕美に対する怒りが、こうして形を変え、ウンディーネとの対立に構図を描いていたとは、思わなかった。そして元を辿れば、それは、北川裕美に対する怒りでもなかった。
もうすぐ、母から、天から与えられた力が、消失するという、予兆だったのだ。
わかりやすく、この身体の外側に突き出た才能。それは使い尽くし、この身体の奥底に眠ったままの別の泉の数々が、私との一体を目指して疼き出している、その始まりでもあった。そうだった。北川裕美もまた、同じ道を辿っていったではないか。輝かしい時代は過ぎ去り、枯れ、埋もれたままの光が内包された、輝かしい闇の世界に囲まれ、そこから泉を掴みとり、再び自らが輝かしく再生していくという課程を経ていたこと。今更ながら、思い出していた。
激原は、クリスタルガーデンの改装工事が、終わりに近づいていることを、残念に思う気持ちが募っていっていた。全身全霊エネルギーをかけて、作業をしているこの状況は、肉体的に非常につらかったし、精神的にも自分が思っている以上に、負荷をかけていることに、終盤になってから気づき始めていた。
けれどもやはり、人が何と言おうとも、これこそが生きている実感であり、何にも代えがたい体感だった。こうした仕事が、自分に必要であることは、ずっと若い時から気づいていた。軍人の端くれになったのも、それだけの理由だった。ある意味、激原にとっては、目的などどうでもよかった。ただ湧き上がってくる、この正体不明のパワーに、自滅しないことだけが大事なことだった。こうして建設会社に身を置くことができて幸せだった。
しかもまさか、社長になれるなどは、思いもしてなかった。一度、社員の採用面接に落ちた身であるのに、状況の変化によって、その激変期に、タイミングよく居合わせたことによって、山の一番高いところに乗っかることができた。
激原にとっては、別に、この場所は好きでも嫌いでもなく、それよりも一人の作業員として、他の社員の誰よりも、現場で身体を動かすことを必要としていた。結果的にすべてはいい方に転ぶというもので、そんな社長の姿勢こそが、社員の士気を劇的に上げ、経営は、V字回復を達成していた。信頼も厚く、経営は他の人間に助けてもらいながら、ある意味、自分は作業員の代表として、象徴として働くだけでよかった。
その仕事も、当然終わりが来る。非常に残念な気持ちで、彼は最後の日の朝を迎えることになった。他の作業員を前に、労いの言葉をかけ、最後まで心を込めて行ってほしいと彼は言った。
「いろいろと、御免なさい」
長谷川セレーネは、佐々木事務所社長を前に、素直に謝った。
「これからも、よろしくお願いします」
セレーネは、丁寧に頭を下げた。
「あなたのこと、少し誤解してたみたい。で、北川さんは、今日もアトリエかしら?」
「いるわよ、隣の部屋に」
「うそっ!」
長谷川セレーネの背筋に、緊張が走った。
それならそうと、最初から言ってくれればいいのに。
自分が訊かなかったら、社長からは教えてくれなかったのだろうか。
「どうして?」
長谷川セレーネは、声を詰まらせながら、精一杯それだけを発した。
「遊びに来たんだって。今日は、暇なんだって」
壁を一枚隔てたところに彼女がいると思うと、足は竦み、逃げ出したくなる。
けれども、そんな極度の緊張は、ある一つのことが思い浮かんだときに、解消した。
そうだ。今、訊けばいいじゃないか。絶好のタイミングだった。
長谷川セレーネは、ドアを勢いよく開けた。隣の応接室には彼女の姿があった。
ソファーに座ることなく、立ったまま窓越しに外を見ていた。
「北川さん!」セレーネは、ドアを開けた勢いで声も出した。
「あなたに、ずっと、訊きたかったことがあるんです!クリスタルガーデンのことで。あの場所は、一体、なんなのですか?唐突にごめんなさい。シカンさんは、何故、あそこを手にいれたのですか?シカンさんは、結局、あの家を手に入れたことで、人生の何かが狂ってしまった。そうですよね?どうして、私も、あの家を欲したのでしょう。どうして、私は、こうしてあっけなく手放せたのでしょう。何なのですか?あの家は、普通じゃない。何が、そうさせているのですか?教えてください。そして、あそこは今、どんな人が買ったのですか?どんな人が何をするために?あなたなら、何か知ってるのでしょう。一度、行きましたよね?いや、あなたは行ったことがないか。私が、あの家を訪れたその帰り道に、あなたに会った。近くにアトリエがあるって、そっか、そうよ。今まで忘れていた。私の家も、あなたの傍にあったんです。事務所も同じ。いつも近くにいた。そうか。あなたは、クリスタルガーデンの傍に、住んでいるんだ、今でも。よく知っているはずですね。いつもあの家が見えているんでしょ?もしかして、本当に見ているのかしら?あなたの視線を、ずっと感じていたのかしら、私。もし、あなたが私だったら、あの家は買ってましたか?ねえ」
長谷川セレーネは興奮して、息が上がってしまっていた。
自分の呼吸に意識を集中し、ゆっくりとその波が治まっていくのを見守った。
目の前の北川裕美に目を戻した。ずっと彼女は、何もせずに立っていると思っていたが、実はそうではなかった。彼女は大きなスケッチブックを、左腕でかかえるように持って、ものすごいスピードで鉛筆の先端を動かしていたのだ。彼女は絵を描いていたのだ。その速さは圧巻だった。彼女が絵を描いているところを始めて見た。一枚の絵が、数秒で浮き出てきていた。彼女は絵を描写しているというよりは、紙面に鉛筆を通じて、自身のエネルギーを放出し、一瞬でイメージに移し替えるといった、念写のようなことをしていた。
こうやって描くんだという光景を見せつけられていた。
心を完全に奪われた状態で、悄然と魂を抜かれたように、セレーネは静止していた。
北川裕美は画家だったのだ。その事実を今、皮膚感覚で受け止めていた。今までどこか、彼女が画家であることに実感が伴なわなかった。女優であり、モデルであり、自分と同じ世界に存在する、生きる伝説であり、先輩であり、先達者であり、道先案内人だった。だが、このとき、そんな想いはばっさりと断ち切られてしまった。彼女とはまったく違う!彼女が歩いていく道を、追っていくことなど絶対にできない!そう悟った瞬間だった。
長谷川セレーネが部屋にいることを、全く気にもとめず、ひたすら何枚もの描写をやめなかった。見れば見るほどに、加速していく彼女の作業を、もうこれ以上、凝視してはいられなかった。
胸が苦しくなり、もう結構だからと、もう十分に理解したからと、彼女に叫びたくなった!代わりにセレーネは来た勢いと同じく、社長の待つ隣の部屋へと戻っていった。そして今から、クリスタルガーデンに付き合ってほしいと社長に訴えた。もう新しい住人も、住み始めた頃でしょ?改装工事も終わった頃でしょ?見に行きましょう。あなたも興味があるでしょ?もう中には入れないけど、最後に見ておきたいの。付き合ってくれるでしょ。今から車を出してください!
長谷川セレーネのマネージャーを電話で呼び、助手席には佐々木社長が乗り、後部座席にはセレーネが乗り込んだ。佐々木社長は何も言わずについてきてくれた。
事務所には北川裕美だけが残った。彼女はまだ絵を描いているのだろうか。
あの何十枚と繰り返したスケッチが、一体どのように絵として表現されるのだろう。あの調子では、百枚では終わらない気がする。
狂乱に満ちたスピードであったにもかかわらず、北川裕美の表情はまったく涼しいものだった。手元をよく見てなかったときは、本当に彼女はただ立って、外を眺めているだけのように錯覚した。彼女は何かのエネルギーを感じ、そのエネルギーを取りこむために、ああして描いているのだと思った。
あれは、厳密には絵ではないのだと思った。暗合だった。別の世界との交信を記録している姿だった。絵をかくときは、あんなスピードではないのだろう。おそらく、私があの部屋にいたことなど、彼女には認知されていないはずだ。彼女に向かって声を張り上げていた自分が恥ずかしくなってきた。
見慣れた風景が、蘇ってきていた。
街路樹の続いた、大通りから、すれ違うのも、注意が必要なくらいの、細い道へと移行し、石垣に囲まれた大邸宅の片鱗が現れ始める。
門の姿がもうすぐ見えると思ったところで、何か不自然な空気を感じた。
また、北川裕美が現れたのかと、一瞬ぞっとしたが、すぐにその不自然さは現実となって目の前に現れる。あるものがなかったのだ。ここまでくれば、あの大邸宅が嫌でも、小高い丘のように拡がっているのが見えてくる。なのに、あの威圧感がまったく感じられない。邸宅がないため、石垣がいつもよりも嫌に高く感じられる。車は門の前で止まった。いつものようにリモコンを操作し、門を開かせることもない。マネージャーも社長も何もしゃべらない。社長は携帯電話をいじっている。マネージャーは前方を、所在無げに眺めている。
「取り壊したの?それならそうと言ってよ。どうしてよ。新しく買い手がついたって、言ったじゃないの!壊すなんて聞いていない。そうだと知っていたら。社長、あなたは知ってたの?知ってて私に隠してたの?」
「まったく知らないわ」
前方を一瞥もすることなく社長は答えた。「今ね、戸川くんからメールが来てるの」
「ねえ、あなた」
長谷川セレーネは、マネージャーの男に声を掛ける。
「あなただって、私を何度もここに、送ってきたでしょ?どういうことなの?取り壊しのことは聞いてたの?」
マネージャーの男もまた、長谷川セレーネの問いかけには、たいして興味もなさそうに首を横に振るだけだった。
「これ以上、ここに居たって、仕方がないです。そろそろ、車を出します。中には入れませんから。十分見ましたね。さあ、行きましょうか」
「そうよ。はやく、出してちょうだい!」
佐々木ウンディーネもまた、少しいらいらし始めていた。長谷川セレーネは遠ざかっていく、クリスタルガーデンを振り返り、ずっとその目で追っていた。そこにあるはずの邸宅の残像を眺めていた。
「長谷川さん、取り壊したわけではないのかもしれませんよ」
マネジャーの男が思いついたように最後の一言呟いた。
取り壊したわけではないのかもしれませんよ。・・・しれませんよ。・・・しれませんよ。取り壊したわけでは・・・・。脳の奥で、マネージャーの声が、木霊している。その意味を、長谷川セレーネは、何度も咀嚼するように、あらためて頭の中で駆け巡らせた。
クリスタルガーデンは忽然と姿を消したのだと、彼はそう言わんばかりに、その後の沈黙を、長谷川セレーネに引き継がせていた。
第二部 第四編 ニューカジノシティ
東京に引っ越してから、すでに半年が経っていた。
まさか、幼馴染の一人が、突然有名な芸能人になるとは思ってもいなかった。
私は一目見た時から、戸川があのときの戸川だと認識した。中学校の1年生まで、彼とは同じ学校に通い、同じクラスで、家も歩いて一分の距離だった。中学1年の夏だろうか。彼は突然、親の仕事の都合上、転校を余儀なくされた。ほとんど別れの言葉も交わさないまま彼はいなくなり、その後、連絡を取ることもなくなった。どうも、その後の噂によると、夜逃げに近いかたちであったらしい。父親の事業がうまくいかなくなり、その父親は蒸発してしまった。戸川は母と妹の三人で、こっそりと故郷を離れていったらしかった。あの慌ただしさを今、私は思い出していた。
戸川とは親友で、同じ野球チームに所属していたし、お互いの好きな女の子の相談に、常に乗り、アドバイスをし合い、結果、うまくいくことが多々あった。いい思い出しかなかった。彼とは喧嘩をしたことすらなく、運動神経も勉強の出来も、同じくらいのレベルで競ったものの、なぜか対立することもなく、居場所がかぶってしまうこともなかった。好きな女の子が、かぶることもなかった。高校、大学と、彼の存在は気になることもなくなり、日々の忙しさに追われていった。なので、街中で彼の特大の看板を見たときは、本当に驚いた。思わず兼ちゃんだと叫んでしまった。俺のことは覚えているだろうか。兼ちゃんとまた、友達として一緒に人生を歩んで行きたいという思いが、芽生え始めていた。私はテレビも雑誌も全く見ないため、今売れている芸能人の名前さえ、よくわからなかった。ところがこうして、東京に出てくると、嫌でも数多の広告が目に飛び込んでくる。けれどもその日から、兼ちゃんへの想いが増してくるほどに、彼と会うにはどうしたらいいか、わからなかったし、会うことに躊躇する自分もまた、居た。偶然、街ですれ違うイメージを思い浮かべようとしたが、うまくはいかなかった。どんな再会の仕方があるのだろう。
私はここ数か月の間、そんなやきもきとした想いを抱えながら生きていた。馬鹿みたいな話だった。私は兼ちゃんにファンレターを書いていた。自分の連絡先も書いた。彼が読んでくれるとは思わなかったが、それでも何もしないよりはマシだと思い、気軽に手紙を送った。その送ったことすら、私は見事に忘れてしまっていた。その後は戸川兼と、間接的に遭遇するはずもなく、再び日々の雑務に追われていった。彼から、突然の返信が来たのは、そんなときだった。
「アキラちゃん、うれしいよ。ずっと、アキラちゃんに会いたかったから。よかった。もう、一生会えないと思っていた・・・」
彼は会うなり心底喜んだ。私以上に気持ちは上ずり、今後も定期的にご飯を食べに行こうよ。旅行にも行こうよ。海外は好きかい?一緒に行こうよ。そうなんだよ、アキラちゃん。僕ね、旧友っていうのがいなくてさ。友達そのものがあんまりいないから。ねえ、一緒に色んな国に行こうよ。彼は自分の仕事の忙しさを、そのあと、滔々と語りまくった。
それでも、暇なときは全部、旅行に当ててもいいぐらいだと彼は言った。それがアキラちゃんとなら、これ以上に素晴らしいことはないよ。そんなことを言われて、嬉しくないわけがなかった。しかし、このいささか常軌を逸したような歓喜の声に、私は少し引き気味であったのが、正直なところだった。けれどその後、彼と何度も食事をして酒を飲んで酔っ払っているうちに、この自分もまた、心の奥底では同じくらいに彼を求めていたことに気づかされ、こうして再会できたことを、何かの運命だと心底思い、感謝さえし始めていた。
兼ちゃんは本当に、数少ない休日には、必ず私に電話をかけてきた。私の都合が合わないときでも、ほんの少しの時間しかとれない時でも、お茶を飲んだりして、時を過ごした。
あの、十五年以上も前の、兼ちゃんそのものだった。逆に今のほうが、中学生以上に馬が合った。二人は会うなり、きゃっきゃっとし合い、女同士の友達ではないかと思うほどに、騒いだりもした。彼の部屋にも、一度上がったことがあった。高級マンションの二十五階で、日当たりのいい広い部屋だった。カーテンを開けると全面に窓が現れ、カーブのついたガラス窓が、ショーウィンドーのように広がった。見晴らしが良いだけでなかった。こうしてずっと景色を眺めていると、色んな物事をすべて、俯瞰して考えられるようになるのではないかと思うほどに、生活の中の小さな雑念の束を、解き放つことができた。部屋にはほとんどキングサイズのベッドとソファーが置いてあるだけで、あとはアンティークの家具がいくつか、洒落た照明と共に、エレガントに存在しているだけだった。空間は益々、拡がり続けているような錯覚を起こした。
葉の大きな観葉植物が二つほど置かれていた。空気清浄器はなかったが、心地のよい空気が漂っていた。冷蔵庫の隣には浄水器があった。キッチンにはほとんど調理器具は見当たらなかったが、低速ジューサーが置かれていて、彼はこれで毎日のように、野菜や果物をジュースにして飲んでいるのだという。冷蔵庫の中には酒が少々と、納豆の束がいくつか存在しているだけだ。ほとんどが外食だという。家ではほとんど野菜しかとらないらしい。トランポリンや腹筋マシーンが転がっていた。朝起きるとすぐに身体を動かすのだという。天気の良い日は外を走るのだそうだ。「まだこういう生活は始めたばっかりだけどな」戸川に女の影はまったくなかった。全然そんな暇がないんだという彼だった。しかし、こうして私と会っているくらいの時間はあった。女性に興味はないのかと訊いたが、彼はその逆だと答えた。実は付き合ってるコがいるんだと、彼は答えた。
「マジか?誰?」
まったく影の感じない彼に向かって、私は驚きの声を上げた。
「いずれは紹介するよ」
「結婚は、まだだよな?」
「そりゃあ、もう。それはないよ」
「今後も?」
「しばらくは」
「芸能界に入る前に知り合った人なんだな」
「今はあまり会ってないんだけど。お互い了解済みだよ。向こうも忙しくてね」
「一般人?」
「そうなんだが、わりと職種としてはさ、俺と、遠からずって感じ。本当にいずれは紹介するから」
「無理しなくていいんだよ」
「そういえば、昔はよくお互いに好きな子の話しをしたっけ」
「お互い、アドバイスしてたもんな。それが、だいたいハマってな。うまくいったよな。そう。あのときは、本当に俺の恋愛はうまくいっていた。お前がいなくなってからだよ。俺、自分の好きになった子と、付き合えた試しがない。どういうわけか」
「今、彼女は?」
「もちろんいるけど。俺が、熱烈に好きになったわけじゃなくて、何となくね」
「結婚は?」
「お前と同じだよ。するわけがない」
「また、いろいろと相談に乗ってくれよな。そういえば、俺もそう変わらないかもしれない。あの中学の時以来、本当に好きになった女の子とは、付き合ったことがないかも。全然、そうは思わなかったけど、アキラちゃんの話しを訊いていてさ、今、なんだか他人事に思えなかった」
今後、少しはテレビや雑誌の中で、この親友の姿を見つけてみようと、私は思い始めていた。
戸川はその後もさらに精力的に仕事をした。戸川の存在は同じ事務所の長谷川セレーネにも迫る人気を得ていった。戸川はモデルの仕事一本に絞り、ドラマや映画出演、バラエティ番組への出演オファーはすべて断った。戸川は芸能界で通用する芸は何も持っていないことを強く自覚していたので、下手に手を出して、イメージが総崩れになることを恐れた。マネージャーからも、新しい分野への挑戦を促されていたが、戸川は頑なに拒否し続けた。
唯一、長谷川セレーネだけが賛同してくれた。その彼女は、最近では演技の世界にも足を踏み入れ、その実力も徐々に評価され始めていた。けれども、あなたは私と同じ道に来ては駄目。あなたは向かない。言葉は悪いけれど、あなたはマスコット人形のような存在が一番向いている。だからそれに徹しなさい。みんなはいろいろなことを、言ってくるでしょう。けれどもあなたは、マスコットに徹しなさい。いいわね。あなたもそうする必要があると思っている。その勘を信じなさい。あなたはモデルの中のさらに広告だけに、仕事を絞るの。いいわね。幅を広げようなんていう風潮に乗っては駄目。私は乗るべき。他の多くの芸能人も乗るべき。でもあなたは違う。偏屈扱いされるほどに、もっと絞りなさい。やり方は偏屈でもあなたの人間性が偏屈でなければ、それでいい。
長谷川セレーネとは、感性が非常に近いところにあるなと、戸川は感じていた。彼女を姉のように慕うのは間違ったことだったが、それでも仕事の唯一の相談相手にはなりそうだった。こういうことはアキラちゃんじゃ駄目だと思った。佐々木ウンディーネなどは論外だった。
長谷川セレーネの後押しもあり、戸川は仕事の幅を広げることなく、広告塔であることに徹した。その代わりに、広告の仕事に関しては、断ることを全くしなかった。怪しげな企業からの依頼でさえ、彼は二つ返事で対応した。佐々木ウンディーネは激怒した。しかし長谷川セレーネは当然のごとくOKをし、後押しまでしてくれた。長谷川セレーネの一言で社長も黙るしかなかった。挙句の果てには、社長は北川裕美にまで戸川への説得を求めたのだが、北川はそれには応じず、何の回答もせず、傍観者の立場を表明した。広告塔としての、戸川のブランド価値はさらに急上昇し、長谷川セレーネを軽く追い越し、それまで彼女が務めていた、イメージキャラクターの仕事までをも、奪う恰好となった。
社長はセレーネに、自分の首を絞める結果になったわねと、皮肉を連発した。しかしセレーネはまったく動じず、軽蔑するようなまなざしで、黙殺した。彼女にはこうなることは、予め予測がついていたらしかった。戸川を巡る広告のモデルオファーは、時を追うごとに、激しさを増していった。
彼の居る、物理的時間と、空間を、すべて埋め尽くすかのごとく、その奔流は留まることを知らなかった。
仕事に対する姿勢を変えてから一か月近くが経っていた。
共演した女性や、仕事現場で出会った女性、広告主の企業に勤める女性、出会う人出会う人が、戸川に積極的に関わりを持つようになってきた。それまでの戸川は遠くから人に見られていることはよく感じたが、直接、連絡先を渡されるなどということは、一度もなかった。戸川はそんな状況の変化に驚いた。何か自分そのものが、渦になでもなったかのようだった。仕事に対する姿勢を急激に絞ったこと。それと無関係とは思えなかった。
戸川はそんな女性たちのアドレスに仕事の合間、よくメールを送った。彼女たちと二人きりで食事をすることもあった。しかし戸川は、一人の女性に絞って付き合うことはしなかった。恋愛関係になった女性も、一人もいなかった。付き合ってるつもりになっている女性は、多かった。戸川もまた、二人でいるときはそうだった。けれど、現実的に、そんな二人の時間は、長くは続かなかった。すぐに仕事へと向かった。戸川の周りには、いつも人が溢れかえっていた。なので家に帰ると、一人の時間を楽しんだ。トレーニングや、ランニング、さらには新鮮な野菜や果物やポロテインやハーブを、共にジューサーにかけて、飲み物をつくり、接種したりもした。長い時間に渡って、瞑想をし、心を落ち着けたりもした。そして理想の未来を思い描き、気分を高揚させたりもした。その時間が戸川にとっては、最高の至福の時であった。誰にも邪魔をされたくはないと思った。その上でさらに、空いた時間で女性に会ったり、アキラちゃんに会ったりもした。
戸川という人物の渦が、さらに加速度的に強力になっているのを、自分でも肌で感じていた。戸川は時間に追われることなく、時間に支配されることなく、自分の呼吸のリズムをまったく乱すことなく、気持ちのよい精神状態で、毎日が送れるようになってきていた。そして自分で決めたルールである、広告の仕事以外は一切引き受けず、広告の仕事なら何でも引き受けるといった姿勢を貫いた。
事務所に所属するタレントの数はいつのまにか倍になっていた。知らない顔とすれ違うことも多くなった。事務所内での恋愛はもちろん禁止だった。なので、戸川に個人的な連絡をしてくる人間もいなかったし、戸川もまた、特別な興味を抱くこともなかった。
そのあいだ、長谷川セレーネの存在感はどんどんと低下していった。
ウンディーネに訊いてみても、彼女は日本にいることが極端に少なくなっていたらしかった。海外での仕事に興味を示しているようでもあった。たいした仕事ではないようだったが、それでも国内の仕事は断り、細く頼りない伝手を辿り、旅も兼ねて訪問しているようであった。海外進出ですかと戸川はウンディーネに訊いてみたが、彼女は顔をしかめ、あまりセレーネについては、語りたくないような様子を見せた。社長はすでに、セレーネ以外のタレントの育成に、力を入れているようだった。戸川の多忙さと連動して、事務所内の情況も大きく変わろうとしていた。そして社長は、あまり口にはしなかったが、戸川を巡る争奪戦の激化に、少し疲れているようにも見えた。彼女の元にオファーは来る。戸川にそのすべてを開示し、戸川からの確認をとる。それを再び、社長を通じて、企業に了承を伝える。すべては彼女を経由してのことだった。自分は仕事現場に、この身体を何も考えずに持っていけばよかった。気楽なものだと思った。社長には感謝の意を伝えた。だが彼女は意外にも戸川を褒めちぎった。あなたの才能に、私は心底驚いているのだと言った。その表情は真剣そのものだった。あなたのような芸能人を、私は初めて見たと。どうして、疲れを見せないの?愚痴一つ言わないの?不思議で仕方がないと言った。本当にこんなスケージュルで辛くはないの?戸川は初め、何を言われているのか全くわからなかった。こんなに楽しく、自分らしいと感じる日々を、これまで経験したことがなかった。
日が経つほどに、生活スタイルは洗練していき、エネルギーが心底湧き起こってくる。
正直にそう言いたかった。
だが、社長をさらに困惑させてしまうかもしれないと思い、控えめに表現することにした。
「これまでの自分を思ったら、このあたらしい環境には、感謝してもしきれません。たくさんの人に、求められているということが、どんなに幸せなことか」
嘘ではなかったが、本心とはズレていた。
「ま、それは、そうだろうけど」
「遠慮なく、仕事を取ってきてください」
ウンディーネは了解した。
「僕のことだけでなくて、いろいろと大変そうですね」
戸川は彼女を慮った。
「わかる?」
「そりゃあ、いつも、傍にいるんですから。今が、辛抱のときですよ」
「いろいろと、あるのよ。北川会長とも、いろいろとあって」
「北川さんとも?」
「セレーネとも、ね」
「それも、何となくわかりますけど」
「京子ちゃんのことも」
「京子ちゃん?誰ですか?」
「新人の子よ。超かわいいんだけど、我儘を、視覚化したような子で。はぁ」
「僕のような資質を、みんな持っていたとしたら。さぞ楽でしょうね」
戸川は、冗談ぽく言ってみた。
「ほんとにそのとおりよ。でも、あなたは、不思議すぎる。ほんとに疲れないの?」
「ええ。身体は鍛えているし、食事も睡眠もバッチリです。人からエネルギーをもらえているし、女の子とも、ご飯を食べにいっていますし。あ、そうだ。ずいぶんと古い友達とも、再会したんですよ。ちょうど上京してきて、わりと近所に住んでるんです。彼とも、暇さえあれば、会ってます。女の子よりも頻繁に。先週も、海外旅行に行ってきたんですよ」
その言葉に、ウンディーネは絶句した。顔には『このタイトなスケージュルの中で、どこにそんな暇が』、という文字が浮かんでいた。
「一泊二日なら余裕ですよ。むしろ二泊三日してきました。ベトナムです。別に飛行機の中で寝ればいいんだから、余裕ですよ。その旧友の彼は、ビジネスで成功していて、時間に縛られた働き方をしていないから。誘えばすぐにでも、来てくれる。海外でもどこでも、パソコンがあれば仕事はできるんです。だから、ビーチサイドでも、彼はカチャカチャと仕事をしています。向こうに着いたら、半分以上は、別行動ですけどね。その彼がいるからかな。俺が疲れないのは」
そう言い終えたとき、戸川はすぐに話題を変えようと思った。
社長はそんな休暇すら、まともにとれずに働いているのだ。
彼女はどんなときも日本に居て、事務所に居て、外との窓口となり、緊急事態に対処するために、存在していなければならない、そんな役割だった。
「とにかく、僕のことは、何も心配しないでください」と戸川は一言を加えた。
「僕以外のことで、悩んで下さい」
戸川は、今でもその時の出来事が、夢の中の出来事のような気がして仕方がなかった。
被害は甚大であり、事務所も、戸川の自宅マンションもまた、半壊状態になった。しかし原因の方は、今だ誰も掴めていないでいた。地震だったのか、竜巻だったのか、それさえも、はっきりしてなかった。目で確認できる災害でもなかった。
体感だけの現象だった。皮膚を高速に揺さぶりこと、五分あまり。
痛みもなく、ただ強い圧迫感を覚える五分間だった。
自分の身体が揺れているものだから、当然視界も揺れた。地面が揺れているのとも、全然違う。例えようがなかった。マッサージ機を使用しているときのような震えとも、違った。冷たさも、暖かさもなかった。風圧でさえなかった。ただ、空気が、空間が、震えたとしか言いようがなかった。その場から動けなくなり、重力を次第に感じなくなっていった。意識の衝撃は次第に和らいでいき、気持ちいいとさえ思えた。
その状態から、しばらく時間が経ち、やがて震動は薄れていった。
戸川もまた、身体を自分に返却されたかのごとく、地面にへたり込んだ。
戸川は会議室で打ち合わせをしていたのだが、その場に居合わせた人間は、みな、同じ現象を味わった。へたり込んだまま立つことができなかった。
全身に、特に、下半身には全然力が入らなかった。みな、笑い出してしまった。
その脱力感が、あまりにも心地よかったというのもあった。そして、そんな状態も、次第に解けていった。
意識が明瞭になっていくにつれて、風景が一変してしまっていることを知った。天井は落ち、蛍光灯は粉々に砕け散っている。机もまた割れた。すぐに外に出なければ生き埋めになるかもしれないと、恐怖した。それでも、慎重に、瓦礫とさらなる落下物に注意しながら、戸川たちは、外への通路を確保するために、神経を集中させた。
建物は危うく崩壊を免れていた。今にも倒れそうな状態を維持していた。外に出ると、すでに全壊した建物があることがわかる。戸川は同じ場にいた、人間の生死を確認したが、誰一人として、怪我すらしてなかった。見る限りでは火災なども起こっていない。誰か怪我をしている人はいませんか。戸川たちは呼びかけた。生き埋めになっている人も多いだろう。救急隊が来るまで、出来る限りの救命をしなければと思った。だが、建物の外に出てきた人間は、みな無事であり、建物の下敷きになっている人間も確認できないということだった。だんだんと戸川も、これは災害ではないのかもしれないと、冷静に思うようになっていった。他の人間もそうだった。
頭の中はずっと、混乱しっぱなしであった。
とにかく、怪我がなくて何よりだった。身体機能も、とりあえずは損なわれた様子はない。しかしこの崩壊してしまった無数の建物の残骸は、一体なんなのか。道路はまったく無傷のようで、亀裂すら入っていない。人間もまた、無傷。ふと戸川は、空爆を連想してしまった。ピンポイントで爆撃された映像を、思い起こしてしまった。
しかし、建物の崩壊だけを狙った攻撃など、できるはずもない。これは、テロなのか?戸川とマネージャーの二人は、事務所へと戻り、社長たちの安否を確認した。彼女たちの情況も、ほぼ同じだった。誰一人、怪我をしていない。建物はほぼ全壊している。だがここで、戸川は我に返った。これからどうすればいいのだ?家もなく、これでは食糧の調達さえ不可能だ。これは東京周辺だけに起きたことなのか?アイフォンの電源を入れた。どうやら、日本全国で同じ現象が起こったからだ。海外はどうなのだ?別の大陸の様子も伺う。恐ろしいことが起こった。どこもまた、似たような情況だった。人工の建物だけが崩れていた。政府はすぐに緊急対策本部を取り、食糧の確保に奔走しているということだ。備蓄した水などに被害はないらしく、いや、スーパーなどの食料も瓦礫の中、ほぼ奇跡的に潰されてなかった。十分持ち出して、食べることができそうだという。
近くにコンビニがあったなと、戸川は確認しにいく。言われている通りだった。すでに、何人かの人間が、散乱した惣菜を集め、袋を開封して、中を確認してから口に運んでいた。とりあえず、飢え死にすることはなさそうだった。住居はどうするのだろう。街は壊滅している。脱出できる場所もない。避難所すら作ることができない。
そのときだった。
じょじょに壊れたていたはずの、すでに組織が分断してしまったはずの素材が、自ら、くっ付き始めたのだ。戸川は、その瞬間を、はっきりと見てしまった。エントロピーが逆に向いた瞬間だった。そして建物は、次第に壊れた時の時間を遡るように、融合、復旧を自ら始め出した。
戸川は自分の顔を叩いた。だがその復旧は、留まることをしらなかった。あっというまに元に戻ってしまった。気づいたときには、再生はほぼ、完了してしまっていた。
夢を見ていたのだ。その夢を、戸川は、一緒に居た人間と、分かち合うしかなかった。
みんなで同じ夢を見ていたのだ。みんなで違う世界に、ほんの少しだけ旅をしていたのだ。その後、会う人会う人、あの日の出来事が、話題に上らない日はなかった。人々の話題は、ほとんどあの事件だった。しかしだいたいの体感は、ほとんど同じで、あのときは凄かった、気持ちいいとまで、言う人がいた。景色は崩壊していて、慌てて家族を探しまくったよ・・・。ネットで情報をとりまくった。そしたら、さ・・・。ほとんど、ワンパターンだった。けれども盛り合上がりに欠けることは常になかった。同じ話を、みな、熱情を持って語れたし、リアクションが取れた。誰もが、興奮する話題を持つことになった。しばらくすれば、その熱も冷め、記憶もじょじょに薄らいでいくだろうが、まだまだ、あと数百回は、自分でも狂ったように語るであろうと思った。
一か月後のプラダのイベントでも、戸川はマイクを向けられ、あの日の出来事について訊かれることになった。同じパターンの返答を、するしかないにもかかわらず、自分もまた、周りもまた、歓喜の想いが込み上げてきて、盛り上がった結末を迎える。
戸川の生活は相変わらず、広告モデルの仕事で多忙を極めていた。
三か月が過ぎ、やっとほとぼりが冷めはじめた、まさにその時だった。
戸川は鳳凰口らと再会した。テレビ局の楽屋に、自分よりも早く、二人の男が入っていた。鳳凰口と水原は、差し入れだと言って、新鮮な果物の盛り合わせを持ってきていた。
戸川は素直に受け取った。
今一番、もらって嬉しいものかもしれなかった。しかし何の用だろう。
鳳凰口はサングラスをかけ、高そうなスーツを着ている。水原もまたスーツを着ていたが、こちらは会社の営業マンのようなシンプルな出で立ちだった。
「どう?元気?見ない日はないね、戸川ちゃん。ほんとに売れっこだね」
金を無心しに来た、チンピラのように見えなくもなかった。
だが、鳳凰口がサングラスを外すと、急に彼は成功している青年実業家のようなオーラを出し始めた。その変貌ぶりが、いかにもわざとらしく、戸川は笑ってしまった。
楽しんでくれたかなと、鳳凰口は言った。「でも、お楽しみの本番は、これからだよ、なあ、水原?」
「何の話しだ?」戸川は水原に訊いた。
「今日は、ただの差し入れだよ、戸川。最近、健康にはまってるんだってな。いいことだよ。うらやましい。そんなことに楽しみを見いだせる、お前が。でも、大事なことだ。いいところに、早くに目をつけた。この売れ方と、何か関係がありそうだ。なあ、水原?」
鳳凰口は、自らの発言のすべてに、水原の同意を求めた。
「戸川。俺たちの広告塔になってもらって、それでいいよな?」
今度は水原に同意は求めなかった。戸川の目をじっと見た。
「断る理由はないよ」戸川は答えた。
「そうだろうな。実に怪しい会社の広告にも、平然と出てるんだからな。君の人気ぶりが、わかるよ。選ばないんだな。そんな奴、なかなかいない。事務所もよくオッケーだよな。その潔さが逆にウケている。戸川のその美貌と、マッチしない行動っぷり。その対比が実にいいんだと思う。君はずいぶんと、見せ方というものを心得ている。それは戦略なのか?それとも、天然なの?」
鳳凰口は、豪快に笑った。
「実にいいじゃないか。こないだは、ウチのポストに入っていた、デリヘルのチラシが、君だったよ。笑ってしまったね。ギャグでもあんなことにはならないよ。しかも、今季一番の決め顔だった。あの、チラシ、ファンならきっと欲しがるよ。切り取って、ファイルにするだろうな」
「要件を早く言ったらどうだ?それに、モデルの依頼だとしても、俺に、直接言っても駄目だぞ。事務所を通してくれ。形だけでも、社長の承認を得てくれ」
クリスタルガーデンの外枠に足場を設置し、来る日も来る日も作業を続けているとき、激原は次第に、予定の日数よりも長引いていくことを、自覚し始めていた。作業をすればするほど、何故かクリスタルガーデン自体が、大きくなっているような気がするのだ。
だが実際に作業の全体を把握してみれば、確実に進行している。
作業に当てる日は確実に減ってきている。にもかかわらず、激原の認識にはどんどんと延期されていくようなのだった。感覚の問題であり、イメージの問題なのだと、社員たちには言いたかった。だが鳳凰口たちも、作業が始まるやいなや、現場に来ることもなかった。誰にも打ち明けられない。打ち明けても到底、理解されないだろうという気持ちのままに、激原は孤独な作業に没頭する以外になかった。
激原は拡張されていくこのクリスタルガーデンに、身も心も心酔していった。
激原は、母の子宮のなかに帰ったかのごとく、女性の腕の中に抱かれているかのごとく、だんだんと自分という存在の輪郭が消え失せていった。確実に抱かれているという実感が伴った。ある一つの終着点を、自分の中に、見い出し始めていた。それは作業をすればするほど、この場にいればいるほど、空間は拡がり、作業に必要な労力は増えていく。やればやるほど、完成からは遠ざかっていくという感触が、加速していくということ。しかしその感覚が、最大限に膨張した瞬間、作業は完結するのだろう。
一瞬の、出来事に違いない。一瞬の感覚の変化であろう。クリスタルガーデンを、ジャングルジムのように囲んだ鉄の棒は、それ以上の資材を要求することは、なくなる。すべては終わる。
激原は、拡張作業を期日通り仕上げるため、肉体をクリスタルガーデンと、一体化させ、毎日作業を続けていった。設計図はすでに出来あがっている。
自分と自分の会社は、物理的資材を投入すれば、それでよかった。ずっとこの肉体の激しい発火の処理に、困り続けた人生だった。これはある種の怒りのようなものだった。誰かに向かって、見知らぬ不特定多数に向かって、暴発してしまうことだけは避けたかった。そうなると、必然的に、自らにその刃は向かうことになる。あるいは、目的のない行動や運動へと投入し、疲れ切って倒れる以外に、うまい方法は思いつかなかった。
しかし、そんな無尽蔵の体力の持ち主であり、エネルギーの発動場所であったこの自分でさえ、このクリスタルガーデンの作業においては、疲労が困憊していった。限界は近づいていた。自らが崩壊することも恐れ始めた。だがその先の、その極限状態を抜け出た未知なる世界を体感してみたかった。その気持ちは募っていった。
まだ、建築のことは何も分からなかったし、信頼しているスタッフに丸投げの状態だった。そのため建築途中、さまざまな最新テクノロジーが投入されていることも知っていたが、どういった効果があり、どういった効率化がなされているのかも、よくわかってなかった。
とにかく自分は、肉体的エネルギーを使う仕事に特化していた。身体的エネルギーを軽減するためのテクノロジーが、投入されたわけではなさそうだった。
設計図を大幅に書き換えるのだと、専務の男は言った。当初の計画の原型はそのままに、より深く、大きく修正するのだと、彼は語った。今になってそのことを思い出した。
その影響に違いなかった。作業をしても、さらにやるべきことは増えていくような気がした。錯覚なのだと分かっていながらも、激原は生まれて初めて、自分の体力の限界に迫るのではないかと、不安になっていった。
これが、最初から望んでいたことなのではないかと、思い直した。
するとエネルギーはまた、無尽蔵に湧き出てくるような気がした。
激原は、束の間の幸福感に浸った。きっと頭があまり良くないのだろう。スタッフに恵まれていてよかった。肉体労働一辺倒の社長が、存在していられるのだ。すると激原の気持ちの良さは、さらに増していった。作業をすればするほど、終わりが遠くなるのではなく、すればするほど、創造物が幾何学的に膨張している。すごいことだった。
力をかけた、分だけではない、さらなる目に見えない応援が加わり、あまりに巨大な建造物へと、様変わりする。
これが導入されたテクノロジーと関連がないわけがない。筋肉増強剤のようなものなのか。同じ量のトレーニングで得られる筋肉量は、爆発的に増大する。
そう思えば思うほど、激原はさらなるエネルギーが、地の底から湧きあがってくるのがわかった。
鳳凰口建設が関わったこの建造物は、歴史的にも特異な、千年先にも残るすごい建物になるのではないだろうか。鳳凰口建設という名前だったが、実質的には、代表であるこの自分の名が刻まれることになる。見士沼教団の施設であるにしろ、この激原徹の名は間違いなく、遍く轟くことになる。このとき初めて、激原は自らのエネルギーの出所、投入先ばかりを考えていた頃の自分とは、様変わりしていた。自分という存在が、この世界に、この社会に、この歴史の中に存在する。存在の意味を初めて感じたのだ。ここだったのだ。ここに居場所があったのだ。これまでの苦悩の意味も、すべて分かった。今俺は、その場所へと、加速度的に突き進んでいるのだ。間違いなく、その確信がある。生まれて初めて、いや、初めて、自分は生まれようとしているのだった。
生まれようとしている。産み落とされようとしている。これはギザのピラミッド並みにインパクトのある、時間の長い経過に耐え切ることのできる、そんなものなのだろうか。
現代の、この一瞬に、とてつもなく、意味のある役割を、果たすことになるのかもしれない。機能としての現代性と、遺跡としての耐久性の両輪が、今、稼働している。
激原は心に強く思った。結局は、この身体のエネルギーというのは、心の、意思のパワーそのものと、融合しているのだ。激原は、高まっていくエネルギーに我を忘れ、我を超え、この一瞬を自分のものとするため、自分を解き放っていた。建造物は天を突き刺す勢いで、最後の飛翔を果たした。
戸川は本当に多忙になった。一か月以上も会ってなかった。メールの返信もかなり遅くなっていた。彼に遠慮するあまり、私も連絡を取らなくなっていた。私は変わらず戸川抜きで、その間も海外によく出ていた。仕事はどこにいても成立する。私は常に新しい刺激を欲していた。戸川のいない、元の一人旅に戻ってしまったが、戸川と居たら絶対に行かなかったであろう、おかしな場所にも行くことになった。台湾の街中で地下に占い街があったのだが、その奥に別の道に抜けるルートがあって、その先では占いではない賭博が行われていた。そしてさらに奥には堅牢な扉があり、その向こうにはさらなる賭博場があるのだという。私は気まぐれで占ってもらおうと、その地下街へと足を運んだ。占い師であろう中年の女性と、その横には、日本語を話せる通訳の役割を果たすべく、婆さんが居た。その婆さんが占いの後で耳打ちをしてきた。彼女は私を奥へと案内した。堅牢な扉の前まで導いていった。ここからは私は関われない。私を通じてではなく、別の人間を経由して、是非行ってほしい。婆さんは、賭博場へと見込み客を繋げる、ポン引きのような存在なのだろうか。とにかく、私は行く意志はないと、はっきりと断った。だが婆さんは、あなたは必ず、行くことになると断言した。占いにそう出とった。わしは誰ふり構わず、奥の世界に紹介しているわけではない。一年に一人か二人。二人いたら多い方だ。今年はもうその二人目だ。一人目も日本人だった。婆さんは日本語以外にも、英語、中国語、フランス語、スペイン語、ロシア語に堪能であるということだ。あんたくらいの歳だ。忘れもしない。美しい男だった。あれで男だというんだからな。素晴らしい!日本に帰って確実にスターになれると、彼女は断言しとったけど、あんなのは占うまでもなかった。わしでも、わかった。そして彼はその通りになった。彼もまた台湾滞在中には、その扉の奥に行って、多額の金をかけて遊んでおった。「それは戸川という男ですか?」戸川?違うな。そんな名前ではなかったな。何だったか。ずいぶんと特徴的な名前だったから。そうだ。婆さんは台帳のようなものを持ち出してきた。これだ。ホウオウ何じゃ。ホウオウグ・・・、そんな名前だ。「鳳凰口か」ああ、それだ。よう、知っとるな。ホウオウグだ。婆さんは何度言っても、ホウオウグだった。ずいぶんと珍しい名前だなと思った。その男はそんなに美しかったのか。戸川のことだと思ったよ。本当に戸川じゃないの?いや、違う。婆さんは言いきった。やはり違うらしかった。それでその奥では、何が行われているんだ?バカラとかブラックジャックまでは、さっき見た。その先は何故、あんなに厳重な扉で囲まれている?金庫のようだ。まさか本当に金庫なのか?金庫の中で、すごい学の金が動いているのか?婆さんは急に、怖い顔になって私の目をじっと見た。うんと言っているようだった。そんな金など、持ってはいない。私は言った。あんたには商才がある。手相にそう出とった。そしてわしが見る限りでも、そのような顔相をしておる。支払能力は十分にある。やれ。「やれって、そんな遊びでも、俺はやりませんよ。どこが面白いんですか?賭け事なんて」そうだな。そういう顔もしておると、婆さんは笑った。自分の運命を他者に託すような顔はしていない。私は婆さんの次の言葉を待った。けれどあんたは、ゲームは好きそうだ。賭け事そのものに対する、メンタリティはないが、ゲームそのものは好きだ。ゲームに参加するのもそうだが、ゲームそのものの構造、世界観、そんなものに魅了されている顔をしておる。あるいはゲームを作る方か。なるほどと、私は思った。ビジネスがそうだ。仕組みを作ることが生きがいだ。そうか。この奥で行われているゲームは門外不出の変わったゲームに違いなかった。多額の金が動いていることを除けば、ゲームそのものから刺激を受けるかもしれなかった。眼の色が変わったことが、婆さんにも伝わったらしかった。婆さんは名刺のようなカードを私に渡し、元の占い場へと戻っていった。
私は渡された名刺に電話をした。出た男は英語を話した。名前を訊かれた。目的を訊かれた。私はギャンブルがしたいというよりは、新しいゲームに刺激を受けたいと答えた。
すぐに泊まっているホテルの名を訊かれる。そこで待ってろと、男は言った。部屋で寛いでいると三十分後、ドアがノックされる。
エメラルドブルーのチャイナドレスを着た若い女が立っていた。
私は部屋の中に入れ、ソファーに座るように彼女を促した。女は深くスリットの入った衣服から、ほどよく筋肉のついた綺麗な足を、惜しげもなく披露していた。女は何も言わずに煙草に火をつけた。私は彼女と相対する位置で、立ったまま彼女を見た。
「シュンチョウ」
いきなり言葉を発したものだから、私は思わず咽てしまった。
「春に鳥と書いて、シュンチョウ。そのまま、ね。あなたを賭博場まで連れていく人間。すぐに出ますか?それとも」
その後に続く言葉は、なかった。
女は後ろ髪を両手で束ね、左の片側へと流した。右側の首筋が露わになった。
どういうことなのかわからず、茫然と立っている私を無視するように、春鳥は煙草を吸い続けた。
「覚悟はできてるの?」
何の覚悟だろうと、一瞬性的な行為を想像してしまったが、心を落ち着け、賭博のことだと認識し直す。
「ルールさえ、わからない」私は正直に答えた。
「当たり前じゃない。覚悟はできてるのかと、私はそう訊いたの」
「日本語、うまいね」
「お茶の水女子大出身だから」
「ほんとに?」
「アルバイトしてるの。夏休みの間だけ」
「なんでシュンチョウ?」
「ないしょ」
「ゲームに勝ったら。教えてくれる?」
「何だって、教えてあげる」
「覚悟って、そんなにヤバいんだ。まさか、命まで取られるんじゃないだろうな」
「ほんとに、知らないの?」
「成り行きすぎて」
「馬鹿じゃないの」
「一人が淋しくて」
「どうして、台湾に?」
「旅行だよ」
「仕事じゃないのね」
「仕事はパソコン一台あれば、どこでもできるから」
「経費で来てるのね。羨ましい」
「そんなにヤバいのか?」
「人によるわね」
「今月は、二人目だって。俺の前の奴は、どんな感じだった?覚えてる?」
「私が担当したんじゃないから、知らないわ」
「そうか」
「それよりも、私にもビジネスを教えて。あなたみたいにどこにいても、稼げる人間になりたい。誰に頼らなくても。どこかに所属しなくても。もう大学にも戻りたくない」
「俺が無事に日本に帰ったらな。だから、どれほど、ヤバいのかを教えてくれ」
「いいわ」
それはカードゲームの一種だと言う。ただカードは、二次元ではないサイコロのように三次元のように一瞬見えるのだが、実はそれ以上の奥行を持っているのだという。
とりあえずカードと呼ぶことにすると、そのカードは全部で、三種の系統があるという。
一つは「場」という名で呼ばれ、もう一つは「人」。最後の一つは「空間」。
「人」と「場」と「空間」という三種のカードを組み合わせ、その組み合わせから発生する、「世界」というあらたなるカードを創造し、その「世界」同士でプレイヤーは争う。
「その「世界」の、いったい何が勝ち負けを決める?」
「わからない」
「やったことは?」
「ないわ。ちらりと見ただけよ」
「勝ち負けの基準が分からないとなると、何もしようがない」
「やっていくなかで、分かるんでしょ?」
「いま、何を考えても始まらない」
「掛け金は、莫大に膨れ上がるんだろ?」
「そうよ。人を三度破滅させられるくらいに」
「金のある奴しか、プレイヤーになれないんだろうな。たとえ、今は持ち合わせがなくても。俺には商才があるそうだよ。今、稼いでいるだけの仕事を続けていくだけなら、とてもその賭博場に入場する資格はない。でも大負けして日本に帰ったあと、俺は新たなるビジネスを立ち上げて、莫大に稼ぐことができるというわけだ。何かをやらされるんだ?代理店のようなものか?自由もなくなるな。奴らの手となり足となって、働かされるんだ。そういうことだよな?完全に嵌められてる。馬鹿だろう?笑っていいぞ。でも、何故か急に、一人が淋しくなってしまった」
「彼女に振られた?」
「女じゃない。それに別れてもいない」
「複雑そうね」
「全然」
「そろそろ連れていかないと怒られる」
「もう逃れられないな。無事、日本に帰ったら、本当に会ってくれるのか?」
「お茶の水女子大に来て、文学部のハルヤマアスカという女を訪ねれば、これとよく似た女が、お目見えするわ」
シュンチョウはドアを開ける。
結果はボロ負けだった。ゲームのルールはとすぐに理解できた。
勝敗がどういった基準で決まっているのか。明らかに自分が組み合わせた「世界」と、対戦相手たちが送り出した「世界」を見たとき、誰がその局を制したのかは、一目瞭然だった。勝敗は、激然とそこに存在していた。
しかし、「場」と「人」と「空間」を組み合わせたときに、どんな「世界」が生まれるのかは、まったく予想できないことであり、あらかじめイメージしていたとしても、結果は似ても似つかわないものになる。
私は結局、五十六局の対戦をして、その五十四局で敗北を喫した。
彼らは、私に金銭的な借金を負わせることはしなかった。日本に戻り、彼らの要求するビジネスを実践し、その利益のほとんどを寄越せと、そのようなことにもならなかった。私はこうして無事の身と共に帰国した。彼らの要求は、ただの一つだった。ある人間の追跡調査だった。その男がどうなり、その男を狙った勢力が、何であり、今後どういった動きをしていくのか。探偵業など、やったことがないと言うと、彼らはそんなに難しいことを要求しているのではないと言った。ただ一つだけ、気をつけなければならないことは、その男がどんな結末になったとしても、君は瞬間的に、彼を助けに行ってはならないということだ。彼に手を差し伸べてはならない。それが唯一の条件だと言ってきた。
ただ傍観する。それは時に、最も困難な行為でもある。
だから君にはその困難な要求をしたいと思う。これが負けを埋める唯一の方法だ。それさえしてくれれば、その身の安全はもちろん、金銭的に破滅へと追い込む行動も慎むことにする。いいね。難しいことではないが、簡単なことでもない。その男の結末を知っているような口ぶりですねと、私は言った。ある意味、そうかもしれないと、彼らは答えた。彼に纏わる、彼の周りに蠢く人間たちのことを知りたいのだと、彼らは言った。そのためにはただ傍観者に徹する。
いつまで、そんなことを続けていればいいんですか。
その男を狙う人間たちを、今度は追えばいいんですか?気づかれて僕が狙われるんじゃないんですか?それはないと、彼らは断言した。あなたたちには、いつ報告すればいいのでしょう。そうだな。また台湾に遊びに来てくれるときでいい。ずいぶんと緩い決まりですねと、私は言った。必ずこの日に来いと、強制しないんですか?
「強制してほしいのか?そんなことはしなくても、君はまた台湾に来るよ。というよりは、ここに来る。借りを返しに。負けたまま帰ることに、君は納得しない。それに、勝ち負けよりも、このゲームに興味を持ってしまった。君がね、ゲームの神髄を脳が追及するのは、むしろ帰国してからだろう。君は中毒者になる。そう断言してもいい。我々がもう来るなといっても、必ず来てしまうだろう。そして、このゲームは日本では見ることはない。日本だけに限らず。
君はまだ、ゲームの何も把握してはいない。ただ、五十何局だっけ?それを体験したにすぎない。その体感は、君自身の身体に、インストールされた。潜在意識に落としこまれた。君はまだ、日本に帰ってからは、我々が要求する仕事が残っているため、意識は緊張したままだろう。特に今は。だが仕事も無事終え、意識に余裕が生まれるときになって、じわりじわりと、その埋め込まれたその体感は、蘇ってくる。君はジャンキーだ。もうそれなしには、生きてはいけない。いちはやく、ココに戻りたくてたまらなくなる。我々への報告など、そのついでにしかすぎなくなる。だが、それでいい」
「馬鹿馬鹿しい」私は強がった。
「ギャンブルに必勝法などないが、ゲームの本質を探しに、君はまた舞い戻ってくる。いいか。日本に帰っても、頭の中はゲームのことだらけになるよ。今日経験した、その体感を蘇らせながら、君は、頭の中で一人、対局を続けていく。そのあいだ、君はここに来なくてもいい。そういったシュミレーションを繰り返すことで、疑似的にゲームの本質に辿り着いてやろうと、もがき苦しむ。それは現実的に対局をするのと、同じだけの効果がある。なぜなら体感はすでに獲得しているのだから。君がここに戻ってくるときには、ほんのわずかだが、本質に近づいているはずだ。その僅かながら掴んだものを、今度はここに実践するために戻ってくる。その掴みかけた本質が、無残にも散ってしまうために、再び対極に身を投ずる。虜になってしまった君を、止める障害は何もなくなる。ただし、ここに入り浸ることはない。君は出たり入ったりを繰り返す。あるときはここに籠り、対局を繰り返すこともある。ここを出て、外で違うことをしながら、頭の中で続けることもある。それ以降、君は、場所に拘ることはなくなる。縛られることはなくなる。場所は問題ではなくなる。君が望むときに、対局に身を投じることが可能になる」
私は彼らの言うことが全く理解できなかった。
「ゲームをする場は、ここだけでは、ないんですかね?」
「ここだけだと、言ってるじゃないか!」
「日本でも、どこにでも、地下には、あるんじゃないんですか?今はここだけでも、いずれは」
彼らは答えなかった。
「世界の大都市の至るところに、存在しているんじゃないですか?もうすでに」
彼らは、それ以降の質問には何も答えることはなかった。重厚な金庫のような扉が、けたたましい音と共に開いた。私はそうして無傷で帰国した。帰国した翌日、言われた男の存在をネットで確認した。新興宗教団体の代表の息子だった。教団のホームページによると、本部の移設がたまたま、その日に行われるということだった。旧施設と新設の住所は明記されていたので、とりあえずはその引っ越しを見届けるべく私は行動を開始した。
すると、トラックが旧施設から出てくるところと遭遇した。けれども私は、そのトラックを追うことはしなかった。人の出入りが途絶え、静まり返った旧施設を、しばらく眺めていた。すると、その目的の男が、一人で外に出てくる光景に出くわした。タイミングがばっちりだった。すぐに、男の後を気づかれないよう、徒歩で跡をつけていった。事件はその十分後に起こった。
私は、ギャンブルをしているシーンが蘇ってくることを、必死で抑えながら、彼らに言われたとおりに、一人の若い男を射殺した男たちの影を追った。この時期は本当に戸川とは疎遠になっていた。こっちから電話をすることもなければ、彼の方から、海外旅行に誘われることもなくなっていた。いずれ、この自分は、ギャンブルに狂うだろうという予感を秘めつつも、今は男たちの身辺調査をしなければならなかった。探偵事務所に足を運び、事の成り行きを説明した。若い男が突然、道端で射殺されたことを話した。すぐに助けようとしたが、近くに居た別の人間が救急車を呼んだ。撃たれた男は搬送されていった。しかしその事件に関するニュースが、まったく出てこないのだ。どういうことなのか。個人的にそれが知りたいと私は訴えた。見間違いではないことを強調した。
「でも、それって、殺人か殺人未遂事件ですよね?個人的に知りたいというレベルでは・・。もし本当に事件であったときは、警察に報告します。それでいいですか?」
私は了承するしかなかった。一週間後、結果が報告された。男は身士沼祭祀という名前の28歳の男で、実家は新興宗教団体であり、彼は代表の地位を親から譲り受けたところだったのだという。教団本部を変え、新しい出発をする、矢先の出来事だったらしかった。警察にそのことは報告されていない。極秘にその男を狙って、葬ったということだった。彼を狙った人間のことだがと調査員の男は言った。誰が撃ったのかはわからないが、その背後にいる組織は浮かんできた。別の宗教団体かと思ったが、どうもそうではないらしかった。表向きは政治団体のようだった。実体はわからない。暴力団と繋がっているのかもしれないし、企業傘下の集団なのかもしれない。見士沼教団を狙ったテロ事件なのだが、それは教団に対する攻撃というよりは、場所の問題であるらしかった。教団が新しく移動するその先。クリスタルガーデンと呼ばれる豪邸があるのだが、その場所がどうも問題らしかった。
この場所を巡る争いの一端だという。
争奪戦が繰り広げられていた。
祭祀という若者を殺したくらいでは、教団はあの土地は譲り渡さないだろう。攻撃の手を緩ませはしないだろう。手放すまで、執拗な行為は続くはずだった。
今回は見せしめだ。一番ガードが甘い若者を狙った。しかし教団側も、今回の射殺事件のことを公表するのだろうか。新しい代表がいきなり殺されてしまったのだ。
「本当に死んだのでしょうか」私は訊いた。
「なんだって?」
「あれだけの血が流れていましたから、当然、駄目だったのでしょうけど」
「確かに情報としては、死亡が確定したわけではないな。病院に運び込まれたところまでしか、追い切れてはいない。見士沼祭祀が死んだとして、その遺体を外に運び出し、葬儀を行った形跡もない。それどころか、教団関係者は、誰も病院には来ていない。見士沼祭祀に関しては、さらに追跡調査かけておくよ。万に一つ、生き残っているかもしれないし」
「お願いします」
「しかし、見士沼祭祀の行方がはっきりと掴めないとなると、警察に連絡する必要は、ないな」
「あの、ですね。見士沼祭祀の追跡は、もちろんですけど、それよりも、彼を狙った勢力の調査の方に力を入れてもらいたいんです」
「というと?」
「彼らが、何を狙っているのか。それが知りたいんです」
「どうも、個人的な好奇心ではなさそうだね」
「そうかもしれません」
「いいよ。別に君を詮索する気はないから。だいたいのところ、彼らの目的はわかっているよ。彼らの実態を知りたいのか?それとも、彼らが求めているものの方か?」
「後者です」
「やっぱりそうだと思ったよ。すでに、突っ込んで調べてるよ。さっきも言ったように、ポイントとなるのは、クリスタルガーデンだ。けれども、その大邸宅を彼らが欲しがっているわけではない。上物ではない。その土地そのものだ。だから、クリスタルガーデンを最初に建てた人間に、先を越されてしまった。その前に、彼らは手に入れたかった。だが、認識がほんのわずかだけ遅かった。最初にクリスタルガーデンを購入したのは、不動産屋だ。大きな家を建てて販売した。カメラマンだったか、映像ディレクターだったか、その種の人間が即刻、購入した。その不動産屋が買う前に、何としても購入しておくべきだった。先を越されてしまった。だが不動産屋は、特に何も気づいてはいない。見士沼教団は明らかに、あの土地の意味を知っていて、購入したのだ。どういった経緯で、ディレクターから教団に渡ったのかはわからない。そこに、誰が関係しているのか。取次いだのかもわからない。
とにかく、見士沼家は自分のものにできた。これからどうするのだろう。強引に奪おうとしてくる人間たちの攻撃は、増していくはずだ」
「見士沼家は当然、彼らのことは、知っているのでしねょう?」
「そうだろう」
「初めから、わかっていたことなんですね」
「そうだ」
「なら、対抗策は、すでにあるのでしょう。息子一人殺されることも、想定済みだったのかもしれません。いや、違うな。あれは替え玉じゃないのか。見士沼祭祀本人じゃないのでは?似ている若者を、どこかから。絶対違いますよ。そうか、あの土地の、これは争奪戦なのか。それであの土地には、いったい何が?」
「地下だよ」
「地下室ですか?」
「じゃなくて、地面。掘って、掘って、掘ってそれで何がでてくると思う?別に何も出てきやしない。ただ土の中の鉱物にエネルギーが染みこんでいるだけだ。その昔、あの場所には物質の組成を変化させてネルギーを発生させ、それを石に変換したり、保存したり、粉末にして使用したりと、それでその粉末などが、今も土の中に混じり合っているということだ。地中深くに。その土を分析したいのさ。あわよくば、土からエネルギーを取り出して、再生使用したい。どうもね、あの土地に、局地的に保存したらしいという大昔の文書が存在するようだ。わかるだろ?どんな団体であろうと、エネルギーが欲しくない人間など、どこにもいない。エネルギーがあれば、それを金に換えることだってできる。エネルギーを無尽蔵に作るやり方を掴めれば、なお、いい。土を分析すれば、それも可能になるかもしれない。不可能かもしれない。それでも自分たちで気のすむまで、調査できる環境が欲しい。土地を手にいれるしかない」
「見士沼教団も、そのエネルギーを求めた。何に使うのでしょうか」
「さあな。彼らの思想が、どこに向かっているのか。それ次第だろう」
「誰のですか?」
「教団のだよ」
「見士沼祭祀の?」
「祭祀の意志じゃない。教団の、だよ」
「一致してないかもしれないですよ。だとすると、土地を求めた別の勢力の仕業ではなく、見士沼教団の犯行かもしれないですよね。見士沼祭祀を消したい身内がいたのかもしれない。それを外部の勢力がやったかのように、見せかけた。とにかく色んな可能性を考えた上で、調査を進めてください。お願いします」
カードといっても、その表面に浮き出ていたものは絵柄ではなく、映像だった。
しかも、カードはプラスチックのトランプのようなものだったが、視覚では立体と化していた。
その三次元カードに映った、人や物や場は、絶えず動いていた。
「人」と「場」と「空間」のそれぞれのカードが三枚揃ったところで、一瞬、軽い無音の爆発のようなものが起きて、「空間」が出現する。
そこに、本当に何かが現れるわけではなかった。あくまで、私の知覚の中で、ただそういう空気の中に包まれるというだけだった。
この奇妙な感覚が局ごとに、またプレイヤーごとに、繰り返された。確かに面白い。
日本に上陸し、世界に広がってもおかしくなかった。
私はふと、その三枚のカードの組み合わせによる現れた「世界」を、彼らは記録しているのではないかと思った。タロットカードのように感じられた。図柄は様々なアイテムやキャラクターが描かれ、その混在した一枚に、タイトルが付けられている。
「人」と「場」と「空間」は、無数に作ることができる。組み合わせも無限に続いていく。
私はふと、彼らはこの無数に現れ出る「空間」を収集するため、このようなゲームを開発して、ゲームとして賭け事として、提供しているのではないかと思った。
確かに利益を上げるためのツールではあったが、それ以上に、何か得体の知れない思惑が隠されているのではないかと。私はプレイヤーとして復活するだけでなく、それらのゲームを生み出す製作者の側に、強烈な興味を抱いたのだ。
そして、出来ることなら、新しいゲームを作ることを仕事にしたいと、そう思い始めてもいた。
アキラ連絡がつかなくなってから、戸川は前にも増して、不眠症がひどくなっていった。夜布団に入っても、なかなか眠ることができないだけでなく、浅い夢が、ずっと続いているような状態になっている。明らかに、自分がベッドの中でもぞもぞと動いて、その世界を感じていながら、同時に別の世界にもいるようだった。
そしてその頃からだった。戸川は毎夜女性の部屋に泊まるようになった。
仕事で知り合った女から、知人から紹介された女。レストランのウエイターなど、彼は自分が気に入った女性に、積極的に声をかけて連絡先を訊きだし、食事に誘い出した。
連絡先を訊いて断られたことはなかった。戸川を知らない女性も中には居た。戸川は、仕事が半日休みになったときに、幾人もの女性を梯子しながら会うこともあった。戸川は人をすぐ好きになる傾向が元々あった。女性に対しても同じだった。本気で心が揺さぶられ、もう二度とその彼女を見ることがなくなると思ったとき、何としても繋ぎとめるための連絡先を欲した。そうして集めた電話番号やメールアドレスの中から、まるでトランプゲームをしているときのように、直観で何枚かを選び出した。相談に乗ってくれる親友は、傍にはいなかった。戸川は女性たちと未来の話しをした。彼女の理想の未来を引き出した。特に知りたかったわけではなかった。そういう話にもっていけば、彼女たちは自然と気分が乗っていき、目の前に居る戸川との、緊張も解け、あっというまに親密な仲になることができたからだ。もちろん戸川もまた、彼女たちのリラックスした姿を見るのが大好きだった。戸川は女たちの上機嫌な世界に便乗し、自分もまた、彼女たちから同じエネルギーをもらった。そして循環させた。彼女たちの話しは弾んだ。だが逆に、戸川に同じように未来のことを訊いてくる女の子は、誰一人いなかった。それで戸川は全然構わなかった。戸川は誰とも共有した未来を、思い描くことはできなかった。戸川は家庭を持つことにも興味がなかった。ましてや、特定の彼女を作ることにも、興味を示さなかった。未来の世界から見ると、まだ取るに足らない人数だったが、彼女たちの、いったいどの子が自分のパートナーなのだろう。見極めることなどできやしなかった。まだそういった女性が、現れていないことの証しだったのだろう。しかしそれでも戸川は、これからもそういった女性と出会う気が全くしなかった。生涯独身を貫く男だって、数多くいる。彼らにどんな事情があったのかはわからない。そうなったとしても、別に全然構わなかった。本来なら、彼女など、一人もいなくてよかった。こんな不特定多数の交際など、何もないのと同じだった。むしろ親友との交際の方が、自分にとっては重要な気がした。アキラちゃんとは、それほど長くない時間だが、共に過ごすことに悦びを感じていた。そしてその頻度に重要な要素があった。短い時間であっても、また今度ね。そういう確証が、自分にはもっとも必要なことだった。ところが、そんな確実な次回の時間もまた、突然消えてなくなってしまった。彼が何か事件に巻き込まれたのではないかと、心配になった。けれども家族からの捜索願いは出ていない。彼の両親に連絡を取った。彼はしばらくのあいだ、仕事で海外に行きっぱなしになっているのだという。だとしたら、俺には何らかの連絡が来るはずだと言いたかった。でもそうすると、アキラちゃんは俺に、わざと連絡をよこしていない何か事情があるのかもしれなかった。それとも俺のことなど、もうどうでもよくなっているのだろうか。アキラちゃんの意志なのか。連絡できない状況があるのか。このままずっと、音信は途絶えたままなのか。仕事に対する不安はなかった。オファーは数限りなくあった。事務所との関係もまた良好だった。さらなる強固なタッグが組めている。
戸川は時間を未来へと向けた。このままずっとオファーが絶えることがないとしよう。この生活をずっと続けていて全然よかった。体力も増強できていた。どんどんと健康にすらなっていた。独身の自分が、未来でも同じように、存在している。アキラちゃんは無事日本に帰国し、彼との友情も復活している。彼はその頃には結婚してるかもしれなかった。会える機会はめっきり減してしまっているかもしれない。しかしまた、会えるという確証がいつもそこにはある。音信の途絶えた、あのときとは違い、不安は何も感じることがない。
だが、そのときになっても、一人の運命の女性は決まらない。
仕事の仕方と何か関係がありそうだと直観する。
戸川には、あの日の決意が、蘇ってきていた。
広告の仕事に専念する。広告なら、どんなオファーにもイエスと言う。そう決めた日からだった。家庭を持つことも特定のパートナーと関係を結ぶことも、現実味を欠いていったのは。
パートナーもまた同様だ。ほとんど一期一会で、自分の肉体を通り過ぎていく。
空虚を親友の存在で、何とか埋めようとしていた。その親友も今はいない。親友の欠如を生めようと、今度は女性を当てはめようとしている。堂々巡りだった。
戸川はさらに未来へと、時間を進めていった。この美貌、外形を、保つことが難しくなっていく自分が、そこにはいた。次第に広告塔としての煌めきを失っていく、この自分がいた。
潮の引きは早かった。あっというまに、戸川はモデルとしての価値を失った。仕事の取り方を変える。さらに幅を広げる。何でもやりますと言うわけにはいかない。何でもいいということは何も来ないのと同じだ。自分は広告しかやらないのだと、そう宣言して表現することで、有象無象の広告が殺到してくる。
俺は何を求めるのだろう。そんな状況になってからでは、当然遅かった。
フレームをあらかじめ変え、準備しておかなくてはならなかった。
アキラちゃんと突然、繋がらなくなった理由が、戸川にはわかってきていた。
それでも今は、女性たちで埋めなくてはならない空間ができていた。
その立食パーティでは、モデルの戸川兼の姿も見た。水原永輝は、ミュージアム・プロジェクトの話をするため、壇上へと上がった。戸川はちらりとも見向きもせず、年配の男数人に囲まれ、彼らとの談笑に熱心になっていた。
水原永輝は構わず、マイクのスイッチを入れ、口元へと近づけた。
「みなさん、今日はお集まりいただき、本当にありがとうございます。ビルの出資者と、スポンサー協賛会社の、皆様。それに建築関係の方々、プロモーション広告関係の方々と、お忙しい中、本当に感謝しています。なので、前置きはこのくらいにして、さっそく本題に入りたいと思います。かなり大きなビルとなりますが、ここを美術館として、世の中に公開していこうと思っています。民間の美術館であり、ある一人のアーティストの、専門のミュージアムということになります。25階建てのビルを予定してますが、皆様方との話合いにより、さらに大きな箱へと、変更することは可能です。
さて、一人のアーティストに対して造られるミュージアムとしては、過去に例のないほどの大規模なものとなります。話題性はもちろん、中長期に渡って、たくさんの人が来ていただける施設に、していくつもりです。海外からも、たくさんの観光客が集まってくることを期待します。それでは、質問のほうを、どうぞ」
水原永輝は、司会の男にマイクを戻す。
『毎日新聞の、中川です。一人のアーティストに、特化するということですが、その最大の利点と、欠点を、端的にお願いします。それと、その一人の偉大なアーティストということですが、まだ公表されてないようです。相当な大物で、すでに歴史的評価も固まっている人物であるとは思います。もちろん、専属美術館に所蔵する契約も、すでに結ばれているものと思いますが、今日、この場で、そのアーティストの名を伺うことは、可能なのでしょうか』
―ええと、複数の質問が含まれていましたね。まずは、一人のアーティストに特化する理由ですね。おそらく、そうでなければ、作品をすべて所有するという契約ができないからでしょうね。どうですか?水原さんー
「違いますね」
水原はそれ以上、答えることはなかった。
―今の答えで大丈夫ですか?―
『いや、もう少し詳しく。とりあえず、すべての答えをお願いします』
―一人のアーティストであることの、長所と短所をー
「あの、すべての質問に、同時に応えてもよろしいでしょうか。おそらく、今の質問者の方。その彼以外の、ほとんどの人の質問もまた、この一言で解決すると思うんです。その一人のアーティストとは、誰か。そんな人はいません。それが答えです」
会場はどよめいた。
水原永輝は表情一つ変えずに、言葉を続けた。
「今のところ。つまりは、過去の評価の定まった巨匠か、誰かではありません。まったくの新人です」
会場はどよめきを通り越して、静寂が漂い始めた。
「新人の作家、アーティストが、この美術館専属の契約を結ぶのです。箱だけを作り、外枠だけを作り、その箱に値する匹敵するアーティストを、これから探すんです」
『本気か?』
『そんな、馬鹿な話があるか』
『誰が、どういった選考基準で選ぶんだ?』
『話にならないぞ。そんな博打、誰が手を上げる?』
列席者は即刻退場をしてしまうかのように、立腹する者から、呆れたと天井を仰ぐ者まで様々な反応を示した。戸川の反応はどうだろうと、水原は、彼の姿を追った。
今度は一変、彼は、列席者とのおしゃべりをやめ、こっちをじっと見ていた。
俄然、興味が沸いてききたような、表情だった。
水原はそんな戸川に向かってしゃべるように、次の言葉を紡いだ。
「いいですか。我々はいつも、話の順序が逆なのです。評価の定まった、もう死んでしまった人間を、あるいは死にかけている人間を取り上げて、それ以上、もう評価を変えられない、変える必要性のない人間をですね、こんな豪華な建物に祭り上げても、仕方のないことです。それでは、単なる墓場です。ピラミッドが、ただの王の墓だと主張する、そんな考古学者に、我々もなりたいのでしょうか?そんなことは、もううんざりですよね?それよりも、この美術館に展示、所蔵する権利を掛けた公募を打つんです。世界中に。無名から名の通った、世界的なアーティストから、すべての人間に対してです。募集をかけるんです。一つだけ条件をあげるとしたら、ビルが完成してから、公募をかけるということです。わかりますか?もう後戻りの出来ない状況に、我々の方が、先に落とし込まれなくては、それに見合う人間、商品。ああ、この場合は作品でしょうか。とにかく、そういったものは、集まって来るはずもない。我々が、背水の陣を敷かないことには、何かがやって来る気配すら感じとれない」
『君の言い方だと、まるで、その建物さえあれば、相応するアーティストが現れるといった、そんな夢物語のように聞こえるのだが、そんなことは現実的じゃないぞ』
「もし建てるだけ建てて、そんな人間が、作品が、集まらなかったらどうしようと、みなさん、考えることは同じです。ところが必ず現れるんです。その建物が、現実的に立ったというところで、勝負は決まります。なぜなら、出資者や関係者の想いのすべてが、その一点に集中することで建造されたからです。わかりますか?その想いの結集が瓦解することなく、建造されたという事実が、そのエネルギーに相応しいものを、惹きつける。呼び寄せる。つまりは、僕にはもう、そのアーティストというのは、すでに存在しているという認識です。ただ誰の目にも、そう、我々の目にも映ることはない。本人すら、見つけていないのかもしれない。なので、あるのにないといった状態が、ずっと続いていってしまう。しかしその建物が立つとなると、その眠ったままの才能は、そのニュースの衝撃で、ぶったまげ、ひっくり返り、目覚め、そして姿を曝け出し始めることになる。ニュースを見なくても、それは自然と伝わります。一人や二人じゃない。そうなんです。このミュージアムを建てることで、それに相応するアーティストは、数えきれないくらいに出現するんです。一人に絞ったことが悔やまれるくらいに。歴史に名を響かせる作家が、それこそ、すごい数、存在することになる。それだけでも価値は計り知れない。そうでしょ?ところが門は広がらない。広げない。一人が決定する。しかしアーティストとしての勝負は、それからです。誰が勝利するのかは、実際のところ、生涯が終わってみなければ、本当のところはわからないものです。
話を元に戻しましょう。美術界も文學界や音楽の世界と同様、マーケットも縮小し、作品の質の低下も著しい、この状況の中で、どういった行動によって、我々はかつての水準を取り戻し、さらなる圧倒的飛躍を、創造することができるのでしょうか。ただ勝手に、アーティストが現れることを、淡く期待するだけで、可能なのでしょうか?そうやって、今までずっと、来たはずですよね?それで現れましたか?現れる気配がありましたか?我々がまずはれ真のアーティストにならなければいけないのです。たかだか数千億です。しかも一企業が、その額を賄うわけでもない。共同出資者として、それぞれが互いに協力して積み上げるわけです。リスクもさほどないでしょう。ただし保険はありません。建物をミュージアム以外に転用することは許されないですからね。一人のアーティストを選び出し、そのアーティストを生涯応援し、作品の発表をサポートしていき、あとはその美術館に所蔵していく。生涯をかけて、このビル一つを埋めるべく、その人間は生きることになる。最初に、彼の全生涯の作品を受け入れる体制があるんです。すでにその場があるんです。彼はれいや、彼女かもしれないですけど、とりあえず彼は、その彼の方が、この所蔵体制に合わせて、自らを拡大していくはずです。かつて存在した、超人的な多作作家の人生を、そう、何十回も繰り返しても埋まらないような、そんな規模のビルを、我々は提案しましたが、その期待に、彼はれ必ず応えてくれるはずです」
水原永輝はれ堂々たる口調でそう言い切った。
質問者たちはすでに別の問題へと焦点を移していた。
その一人の選考について訊いていた。誰が選ぶのかで、結果はまるで変わってしまう。水原はその選考については、詳しくは答えなかった。まだ具体的に詰めていくには議論を重ねる必要があると、今度は妙に慎重な口ぶりへと変わった。そして水原は、最後は穏やかな笑みを浮かべて、スピーチを締めくくった。檀上から降りていった。
立食パーティはその後も続き、列席者は、思いの思いの会話をして、過ごした。
だが、その建物の話に、結局は行きつき、君のところはどうするのか。参加するのか。金は出すのかといった話に、いつの間にか、なることがほとんどだった。
「あちらに、戸川兼さんがいらっしゃいますよ。イメージキャラクターの、戸川さんです」
マネージャーが、水原に近づいて耳打ちした。
「知ってるよ」
「挨拶はいいんですか?」
「別に、いいよ。またどこかで会うだろうし」
「そう言わずに」
水原は、戸川の元に連れていかれた。
マネージャーは去り、戸川の周りに張り付いていた人間たちが離れていき、二人きりになると、仕方なく、水原は戸川に声をかけた。
「忙しそうだな」
「あなた、こそ」
「特にプロジェクトはこれしかやっていないよ」
「大胆なアイデアだ。まるで決まっているかのように、動いてる」
「お前だって、分かってるだろ?もう最初から決まってる」
「そう言い切れる、あなたが羨ましいですね。僕は個人的には、鳳凰口さんとかよりも、あなたの方が自信に満ち溢れているように見えますね」
「じゃあな。とりあえずは、これで挨拶はしたし、お前と談笑しているようには見えるな。じゃあ、俺はこれで」
二人は握手を交わし、さらに目配せをして、離れた。
すぐにマネージャーの男がやってきて、水原は彼と二人で会場を後にした。
そのまま事務所へと直行した。水原デザイン事務所というプレートの嵌められたビルへと入っていった。物がほとんど置かれていない、作品を展示していないギャラリーのような空間には、長いテーブルと十脚にも及ぶ椅子が置かれていた。
そこにはすでに、六人の男が座り、水原の帰りを待っていた。
「じゃあ、始めよう」
水原も席に着く。
「VDCのロゴのデザインは決まった?」
水原の斜め前の男が、大きな紙を広げ、机の中央に置く。
「これか。まあまあだな。別のは?」
六人の男たちは、順々に、自分の持ってきたデザインを披露した。
「わかった。それじゃあ、後日また、連絡するよ。どれか一つを選ぶというよりは、いくつかの要素を組み合わせて、それで一人のデザイナーに、あらためてお願いすることになると思う」
六人の男たちは、深々と頭を下げて帰っていった。
「彼らは、VDCの意味は知ってるんですか?」
マネージャーの男が部屋に入ってくる。
「知らないよ」
「それでいいデザインなんて、できるんですか。首都構想ですよね。ヴァルボワという架空の首都をつくると仮定した、新しい都市構造をもった国。その中心があの《ミュージアム》。そういうことでしたよね。イメージキャラクターは、戸川兼」
「ところで、今日は、もう一人にさせてくれないか?」
「疲れました?」
「いや、もう一件、大事な用事があるんだ。ここに人を呼んでるんだ」
「仕事ならば、私も同席しなければ」
「妻だよ」
「奥さんですか」
「ああ」
「どうしてまた、こんな場所で?」
「別居してるんだ」
「聞いたことがありますね」
「今後のことで、話し合いたいことがある。どこか二人きりで、レストランで会うのも、嫌だしな。だから、ここに」
「そうでしたか」
「何も訊かないんだな」
「ええ。だって、もう結果は、分かってますからね」
「どこかで聞いたような台詞だな」
水原は、口元を緩ませた。
「俺はね、あいつに対して責任があるんだ」
「そうですね」
「いや、単なる夫婦においての責任じゃない。あいつの人生全般に渡っての責任だ。たとえ結婚してなかったとしても、俺にはその役割があった。結果、結婚してパートナーとなったんだが、それも事実上は、すでに解消してる。最初から結婚する必要がなかったんだ。でも形はどうあれ、あいつにはこれからもっと、自分を開花していってもらいたい」
「というと?」
「わからない。けれども、あいつは、このままでは駄目だろう。離婚がいいキッカケになるはずだ。俺に捨てられるという体裁をうまく使えば、あいつは変わる」
「何を目覚めさせたいんですか?」
「誰にも頼らず、あいつ一人で、何かを生み出す方向へと、進んでいってほしいんだ。願望でも期待でもない。そういうことだ」
「それも、決まってることなんですね」
「ほんの、きっかけを作るだけのために、俺は存在してるのかもしれないな。そういう役割なんだ。あいつにとっての。でも、ずっと、何をすればいいのか、気がつかなかった。それでピンときた」
「離婚ですね」
「別居はしているが、非常に良好な結婚生活を送っていると、あいつは思ってる」
「そこにこの晴天の霹靂ですね」
「痛い目に合わないと、何も変わらない。そうじゃないと、人はなかなか変われない」
「そう思います」
「始まりは痛みから、というのが、大体のところだ。それでこの機会を、使わせてもらうことにした」
「まるで永輝さんが親みたいですね。子供を崖に落とす」
「這い上がって来いってか」
「ふふふ。彼女に対する愛情はなくなったんですか?」
「元々、親友でいることが一番自然だったんだ。たまに男女関係のある、親友っていう距離が一番しっくりくる」
「じゃあ、まだ、新しい女性がいるわけじゃないんですね?気になってる人とか」
「いるよ」
「ああ」
「何人、か」
「すでに」
「でも、どれも違うような気もする。結局誰もが違うような気がする」
「まだ出会ってないってことですかね?」
「それもわからないよ。これだって一目でわかる女が現れるのかもしれないしさ、あとはどの女性もそうではなく・・・、俺はもっと抽象的な女性像を必要としているのかもしれないな」
「わかりませんね」
「彼女にすべてを曝け出したい。捧げたいって。毎日、天に向かって、祈りを捧げる修道僧のような存在に、俺はある意味なりたいのかもね」
「らしくないですね」
「そう、思うよ。でも、たまに、ふと、そんな絵が降りてくるんだ。時代が変われば、そうなっていたのかもしれない。だから、その架空の女性とは、別に本当に、女である必要もないのかもしれない。男であっても。人間でなくても。そこまで行くと、本当に頭のおかしな人間だよ」
「そんなことはないですよ。素晴らしいと思います」
「無理しなくていいよ」と水原は笑った。
だが、マネージャーの男は、急に真剣な表情で相対してきた。
「確かに、そんな女性像を求めていたのでは、今の奥さんとは違いますね。あなたの方が、親になっちゃってるわけだから」
「責任は果たさないとな」
「わかりました。では僕は帰ります。奥さんによろしく言っておいてください。これでも、僕にはわかってますからね。あなたは奥さんを傷つけるために、そのようなことをするのではない。僕だけは信じられますから。僕も心を鬼にして、見過ごしますよ。見て見ぬふりをします」
戸川は事務所に戻ると、佐々木社長に呼び止められた。
社長室で二人きりになった。二人で向かい合うようにソファーに座った。
「ずいぶんとお疲れのようね」
「ええ、ああいう場にはちょっと・・・」
「これからは慣れないと駄目ね。でも、あなたは本来得意なはずよ。あなたはシャイな性格かもしれないけど、それが逆に好感がもてる。仕事はあなたの元に殺到してるけど、どこか人に対しては、心を閉ざしてしまってるところがあるわね、戸川くん。私に対しても。他のみんなに対しても。どうしてかしら。人と関わるのが怖いの?人に対して不信感というか、警戒心が異常に強い。もちろん表向きはそうではないように見せかけているけど。でも実体は強固なブロックをしている。あなたの仕事の仕方も本来なら、とても不自然なものよ。あなたのその、心のブロックを維持しながら仕事をしていくための、苦肉の策みたい。今のあなたの心の状態を、維持するために創造したアイデアのよう。私はずっと、気がついているけど、見て見ぬふりをしているけど。でもそろそろ言わせてもらう。いずれ、破綻するわよ、戸川くん。その前にいい方向に道筋を作るのが、私の役目。そのブロックが解消すれば、あなたはもっと自由に生きられる」
戸川は黙って聞いていた。
「あなたはとても賢い。だから私の言ったこと以上に、思う所があると思うの。私から強制することは何もない。人に対して心を晒け出すことを躊躇するブロック。それを外そうと努力することよりも、あなたの本来持っている別の部分に気がついて、それを積極的に表現していくことの方が大事だと思う。これまで、使うことのなかった、どこかの時点で使うことをやめてしまった、その要素をちゃんと見つめることよ。そうしたとき、これまでやってきた仕事の意味が再定義される。そしてさらに進化していく。
あなたの器量はとても大きくなり、それでいて、高い位置でバランスがとれるようになる。バランスなんて言葉はよくないわね。あなたが自分でそうなっていけるの。ごく自然に。私は見守る。それしかできないから。相談があったら来なさい。頼みごとがあったら正直に言いなさい。話しはそれだけ」
戸川はソファーから立ち上がり、挨拶もそこそこに、部屋を出て夜の街を歩き出した。
これまでの社長とはずいぶんと違った印象を持った。彼女のことは少し信用してみ
ようかと、初めて思い始めた。
水原と妻は、暖房を切ったデザイン事務所に居た。照明は半分消していた。
「呼び出してわるかったね」
「いいわよ。そんな気がしてたから。それで何の用?」
「俺たちのことだよ」
「知ってるわ」
「別れよう」
水原は、直入に結論を言った。
水原の妻は一瞬、表情をこわばらせたものの、快活さをありありと滲ませながら、窓から外を見た。
「私も考え始めていたところよ」と彼女は答えた。「私もいい歳ですもの。子供のこと。わかってるでしょ?」
「それは素直に、出来なかったとしかいいようがないな」
「そうよ。私に問題はないわ。ちゃんと検査も受けたし。パートナーを変える以外に、道はない」
その意外な反応に、水原の方が少し狼狽えた。
「そんな話は聞いてないぞ。子供が欲しいだなんて」
「そんなこと訊かなくたって、当たり前じゃないの」
「そうか。君も別れることを望んでいたか。それなら話しは早い」
水原はそれ以上、話すことがなかった。
自分のイメージしたシナリオは、どこかに吹き飛んでしまっていた。
「それで、あなたは、本当にいいの?私を手放してしまって、本当にいいの?覚悟はできてるの?」
水原は今だに、心のざわめきを消すことができずにいた。
「二度と、戻ってこないわよ。最後に確認したいの」
「もう、次の女はいる」と水原は言った。
「でしょうね」と水原の妻は言った。
「私の話よ。その女の話じゃない」
水原は深い呼吸を意識した。だんだんと自分を取り戻してきていた。
「私が二度と手に入らなくなってもいいのかって。それを訊いてるのよ。これまで通り、私は何も要求しない。いいじゃないの。このままでも。その新しい女とどうしようと、私の知ったことじゃない。私は、私。あなたと、私。他に、登場人物が増えても、別に驚きはしないわ」
「その新しい女のことだけど」
「なに?」
「彼女も違うかもしれないんだ。彼女もまた、俺のパートナーになるかどうか。確信が持てない。おそらく、そうではないと思ってる」
「その女もって、今、そう言ったわね。私もそうだったのね」
水原の妻の目は、いっそう鋭くなった。
「ああ」と水原は、溜息にも似た言葉を漏らした。
「すべてはわからない。今までも、今も、そしてこれから知り合う女の、いや、その、さらに外側に、俺のパートナーはいるのかもしれない。俺は一生、独身なのかもしれない。パートナーが女性なのかどうかもわからない。人間であるのかもわからない」
彼女は、その一言で黙りこくってしまった。
眉毛を何度か触った後に唇に触れ、そのあとまた、眉毛に指を這わせた。
彼女もまた、動揺しているように水原には思えた。
水原はやっと、深呼吸の効果が出始めていることに気づいた。すっかりと自分を取り戻してきていた。
このまま別れればそれでいい。けれど、二度と会わないとは、一言も口にしていない。
「会うくらいは、問題ないだろ」思わず、水原はそう反論した。
「なら、これまでと、同じじゃないの」
「違う。はっきりとさせたいんだ」
「はっきりって、何にもわかってないじゃない!あなた。誰が、あなたのパートナーで、誰がただの友達であって、知り合いであって、誰が運命を超えた、女神のような存在であるのか。全部がごちゃごちゃで、不明確で、よくそんなんで、仕事の方はビシッと決められるわね。仕事ができるのなら、女のことだって、しっかりと整理できるでしょ」
「だから、それをしようとしてるじゃないか!」
再び、動悸が激しくなっていった。
「いいのね、切って。私を」
「ああ、構わないよ。去れ」
最後は、びしっと締めた。
言葉に出した瞬間、そして言い切ったことで、事実は確定した。
「頑張ってね、お仕事」彼女は、健気な声を出した。
「お前もな。俺はわかってるぞ。お前は、これから、自分だけの仕事を持つ。雇われている身を放り出すときが来る。誰にも守られない中で、君は自分の仕事を突き進む。最初は誰も助けてくれやしない。非難や拒絶されるだけでなく、無視、無関心の嵐が、君を襲うことになる。俺は傍にはいない。君は一人で、その仕事を完遂する。いいな」
彼女からの反応は、なかった。
「聞いてるのか?聞いてるよな。そうさ。俺は、君の心の深いところに今、暗合を送りこんでいるんだから。下手に何かを考えてもらうよりは、よほど深い場所に、言葉は突き刺さっていく。イメージは埋め込まれる」
水原はそう彼女に言い聞かせるように話したが、心の中では光の見えない錯綜とした女性関係が、少しも頭から抜け出てはいかなかった。そしてついには、独身を継続する自分、複数のパートナーのいる自分、絶対に手には触れられない時空にいる女性性の塊に、手を伸ばしている自分がすべて、目の前にいるような気がした。
佐々木ウンディーネは、戸川と話した後、どうしてあんな話を突然彼にしたのか。不思議に思った。私も殻を破るために、新しいことをする必要があるのだろうか。
すぐに、自分でブランドを立ち上げようと思い立った。
しかし、ブランドといっても、一体そこで何を売るのか。服か香水か、ピンとこない。
そのとき、突然、携帯電話が鳴った。携帯に連絡をしてくる人間は、ほとんどいなかったので、ウンディーネは、親が緊急事態に陥ったのだと思った。だが電話の相手は鳳凰口の代理人という人間だった。
鳳凰口という名で思い出すのは、長谷川セレーネの、かつての豪邸の新しい所有者の知人だった。クリスタルガーデンの名を出すと、その代理人の男はそうだと言った。
鳳凰口からこう言われていますと、彼は言った。そしてその話は、まさに、いま考え始めたブランドについてだった。芸能事務所の一つが全面的にマネージメントの枠を超えて情報の一大発信地にしたいと、鳳凰口は言っております。知人の戸川兼も所属しているあなたの事務所が、適当なのではないかと、私どもは考えております。ブランドといっても、単にファッションに特化した従来のものではありません。エネルギー産業や芸術支援活動、都市構造計画など、社会的に大きなインフラ事業も食い込んで、イニシアチブを取っていきます。そういうプロジェクトの中心に、存在するブランドです。どうでしょうと、佐々木ウンディーネは言われた。ちょっと考えさせてくれと頭は訴えたが、身体はすぐにでもオーケーだった。躊躇する素振りを感じさせながら、彼女は興味はありますと答えた。鳳凰口さんと、直接話をする必要があると思います。二人きりで。もちろんですと、代理人は答えた。そういった場を、もちろん設定いたします。すでにそういった段取りは、つけられているようだった。それならお任せしますと、ウンディーネは言った。
ところで、鳳凰口さんは、今は?
「申し訳ありません。答えられません。ただ、少し取り込んでおりまして。あとで必ず、本人から連絡を差し上げます」
「代理人とおっしゃいましたね。彼とはどのようなご関係で?マネージメント契約を、結んでいらっしゃるのでしょうか?」
「ええ。彼の所属組織といって、いいでしょう。その組織と、彼を結んでいるエージェントのような存在です」
「エージェントですか」
「芸能事務所も、いずれはなくなるでしょう。タレントが個別に外部のエージェントと結ぶ時代が来る。どこかに所属させて、その人間を囲い込むようなこともなくなる」
「エージェント・・・か」佐々木ウンディーネは呟いた。
「あなた方と彼が契約したのは、確かなんですね。ではどうして、話を私のところに持ってきたのですか?あなたたちだけで、進められない事情でもあるのですか?」
「ええ。組織といっても、実体としては、最初のアイデアを立ち上げるところまでが、仕事でして。あとはクライアント様同士、事業を発展してもらう他はありません」
「仲介するだけ、ね」
「そうです」
「まあとにかく、彼と会って話してみないと、何も決められません。そこのところは、よろしく。あなた方のエージェントの名前を、教えていただけませんか?」
「ミシヌマ・エージェント、と申します」
佐々木ウンディーネは、繰り返す。
見るに、武士の士、沼は沼です。
「オッケー」
「どこかで聞いたことはありませんか?」
「はい?」
「ミシヌマ」
「そういえば」
「見士沼教団という新興宗教団体がありましてね」
「まさか」
「こういうことにも手を出すのですね。これからは、芸能事務所も出版社も宗教団体も、その業界や職種だけで、小さくまとまっていて、成り立つ仕事ではなくなります。徹底的に情報を制御して、カルトにしてしまうのなら、話は別ですが。それも現実的には、力を失っていく。一時的に恐怖を仕掛けて、取り込むだけではね。いずれ人の心は、自由に羽ばたいていく」
しかし、宗教団体と関わりになるのはどうかと、佐々木ウンディーネは身構えた。
鳳凰口という男が、そんな集団と契約を結んだということも、なんだか信憑性がなくなっていった。胡散臭い連中が彼を説得したのだろうか。それとも・・・、そうか、彼は、監禁中なのかもしれなかった。彼らに捕らえられ、好きなように出汁にされているのかもしれなかった。
佐々木ウンディーネは何度も、直接会わないことには、何も進まないことを強調し、電話を切った。けれど、胡散臭さは全開であったものの、代理人の男が言う話はもっともなことであった。
みんなそうやって、これまでの殻を破ろうとしている。私もまたそうだった。
水原永輝の元に、前妻から離婚届けが送られてきた。
彼はすぐに役所に提出しに行った。未練はもう吹き飛んでいて、同時に彼は清々しい気持ちにもなっていた。これまでの女性も、今現在知り合っている女性の中にも、パートナーはいないのだということ。今後、どんな女性と付き合っても、その可能性はとても薄いのだということを自覚するにつれて、何故だか心は軽くなり、いなくていいのだという、腹の底から込み上げてくるエネルギーのようなものが感じられた。
前妻も前妻で、これから自己表現の道を歩んでいく。
またどこかで、再会することはあるだろう。
再会する日を楽しみに、水原は《ミュージアム》のビル構想の現実化に向けて、心を集中させていった。
第三部 第五編 ヴァルボワの秘宝
私は職業画家として当時のヴァルボワ共和国の市民だった。私は幼いときからアート見習いのようなことをしていて、画家になることは、ごくごく自然の成り行きだった。
私は腕の方もずいぶんと初めから際だっていた。手先が器用だった。配色も的確で、少しのズレも許せない神経の持ち主でもあった。この性格は仕事にとっては、最大のアドバンテージになった。成人する頃には職人として、一目置かれる存在になっていた。たくさんの工房からの引き抜きの対象となっていることに、気をよくしていた。しかし私は、条件の良い工房を渡り歩くことを、良しとはしなかった。私はさらに、きめの細かい仕事ができる環境を重要視した。近い将来には、独立して、自らの工房を持ちたかった。ヴァルボワ国で一番いい仕事をし、自分が死んだ後も、ずっとその称号が受け継がれていくような、そんな小さな帝国を築きあげたかった。その一番肝になるのは、技術力であるということは言うまでもなかった。画業は国家のプロジェクトだった。共和国は、絵の制作を一手に引き受けていた。全体の構想を立て、国中を一つの世界観で、美的に統一しようとしていた。さらには、何十年にも渡り、その世界観を洗練させ、進化させていくプロセスを、ビジョンとして打ち出し、文字通り、ヴァルボワ共和国の全史を、そこに刻みこみ、描き残しておくために、国が全主導権をとって進めるプロジェクトだった。
画業や、彫刻業が、美的センスからは、加速度的に堕落していくその国の課程を、ヴァルボワ国は熟知していたため、個人で、好き勝手に描き散らし、彫り散らかすことを認めなかった。美的景観、国の外観を守ることが大事だった。人々の知的感性に、良い影響を与えるためには、ある一定の高いレベルの論理を掴み、その土台の上で広げていくということが必然だった。さらにその上で、ヴァルボワ国の、他の国とは明確に違う特色を見極め、伸ばしていくことを目的とした。
そのためにも国が美の土台を確実に保証して、職人の育成を、徹底的に後押ししていくシステムが必要だった。
私が職人の見習いになった頃には、すでにそのシステムは確立できていて、私はそのハイレベルな環境の中で、自らの才能を発揮することが容易にできたというわけだ。
特に私は、他の見習いの人たちとは異なり、たいした訓練もせず、的確な仕事をすることができた。私は初めから、ある技能を徹底的に洗練させていくことに、全力投球した。気づけばあっというまに、四十のときを迎えていた。その頃にはすでに、工房の長となっていた。いくつもの団体を率いる経営者でもあり、現役の画家でもあった。人生は順風満帆であり、何一つ悩みのない幸せな日々を送っていた。仕事で自らの存在を国や人々のために与え、認められ、安定した生活を得て、さらには仲間にも弟子にも恵まれ、妻にも子供にも愛し、愛され、同業者同士においても、お互いを尊重しあって、完全に、得意分野に特化した棲み分けが、綺麗に出来ていて、喧嘩することも、争うことも、大きなトラブルが起こることも何もなかった。職人同士が、小競り合いになることはあったが、それも、お互い所属の長が出てくれば、即刻解決も途へとついた。画業の世界だけでなく、国そのものが平穏だった。綺麗に棲み分けがなされ、混沌と混乱の世とは、まったくの無縁の空間が、そこにはあった。それが四十までの時であった。
運命はまるで、全体の右半分をアンバランスにも食い散らかし、手つかずであった、これまで生きてくることのなかった、その左半分を、後半に怒涛のごとく、浴びせかけるために、こうして大事に後にとっておいておいたかのようだった。私はまだ、人生を回顧するには若い年であった。しかしその左半分に満ちた時代も、もう行きつくところまで行ったのではないかと思うくらいの、年月は経ていた。余生というものがあるのなら、そのときこそ、前半生と後半生を極端に生きることでなく、共存し、その極端な二つの、認識の中で、バランスの最も良い方向を、自ら創造していきたいと思った。
そう。人生に翻弄されるのではなく、自らが意図して造りあげていきたいと思うのだ。
きっかけは何気ない思いつきだった。ふと教会の外観を見上げたときに、彫刻されている何か動物のようなものが、目にとまった。ちょっとした驚きだった。絵を描く作業に日々、夢中になっていたため、教会の彫刻にすら、意識を止めない日常を送っていたのだ。同じ教会の、装飾に関する仕事でも、彼ら彫刻の仕事している連中とは、何の交流もなかった。自治会にそういったメンバーがいても、特に仕事の話しをするわけでもなかった。共通の話題などいくらでもあった。しかし仕事は専門分野であるため、容易に話のネタにすることを、皆しなかった。そういった傾向があった。その動物の彫刻が嫌に私の神経をひく突かせたのだ。ひどく気に障ったのだ。温厚そのものであると思っていた、この私は、自分の反応を疑った。まるで感じたことのない強い感情が沸き起こったのだ。そう思った瞬間だった。その彫刻ではない、手の届く範囲に施された外壁の動物の一つを、激しく叩き割っていたのだ。私は周りを見た。誰もいなかった。よかった。私はもぎ取った彫刻を。コートの内側に包むように抱えて、その場を速やかに去った。その夜、私はずっと自分の行動の意味を考え続けた。私ではない、別の誰かがやった行為を、たまたま傍で目撃しただけのような気もしてきた。
翌日、仕事に行く前に散歩を称し、その付近まで行ってみた。おそるおそる破壊されているはずの外壁の場所を見た。しかしそこには破壊の跡はなかった。場所を間違えたのだ。何度かうろうろとしてから、やっとその場所を探し出した。私はここでも自分の神経を疑った。わざと違う場所へと自分を導いていたのだ。その欺きに、やはり私は気持ち悪さを胸に感じた。何かが起ころうとしていた。もう起きている。胸騒ぎだけが募ってくる。とりあえず、損傷はそのままに仕事へと向かった。心は浮ついていた。乱れを隠し通すことはできたが、自らの筆先までをも、誤魔化すことはできなかった。取り繕った仕事はできる。だが手とカラダの本体が、やはり奇妙な乖離感を表現している。どんどんとその乖離感はひどくなるばかりだ。夕方を待たずに、私は仕事を弟子たちに引き継がせた。用事があるからと言い、工房を離れる。自然と足は教会の方へと向かっている。私は教会に暴力を振って傷を負わせたのだ。その傷を放置し、自分のした行為とは切り離し、再びこれまでの日常に、回帰しようとしていた。この嫌な予感と、胸騒ぎ。それはこれから起こるであろう、激しい喧噪と騒乱を、燦然と輝く、未来に黒く刻印して、私を待ち受けているかのようであった。
いつのまにか、破壊した彫刻は元に戻っていた。
誰かが速やかに修復したのだろうか。それともそんなはずはなかったが、そもそもあの彫刻には、指一本触れていないのではないか。しかしどの道、また自分の意志ではコントロールできない領域で、行動は暴発してしまうことだろう。彫刻か。今まで考えたこともなかった。確かに無意識に毎日見ているし、彫刻工房だって同じ地区にいくつもある。まるで興味はなかった。
ふと、どうして今まで彼ら彫刻家と交流し、彼らから、何か技術を学ぼうとしなかったのか。何故、あたらしい領域に、この絵画を発展させようとしなかったのか。国家が管理する壁画、宗教画の制作計画は、あらかじ決まっている。その広大なスケジュールは、我々の人生の時間を有に超えている。したがって、その通りに仕事をしていく意外に我々に選択肢はない。それが当たり前だと思っていた。敷かれたレールの上に乗り、その中で最高の技術を会得し、発揮する。そうやって今までずっと研鑽してきた。
だがそんな人生は、あの彫刻への一撃で、脆くも崩れ去ってしまった。あれからというもの、絶えず心の中には渦巻く強い感情が存在している。その得体の知れない塊は、激しく放出する機会を、ずっと伺っているようだ。このまま死ぬときまで、同じことの繰り返しなのだろうか。同じこと?そんなはずはない。一枚として同じ画業などない。毎回学ぶことはあった。技術の話しだ。あっと私はそのとき、大きな声を思わず上げてしまった。
私は今さらながら、自分が宗教画を描いていることに気づいたのだ。そういえばそうだ。そういえば。彫刻が急に気になったから変になってきたのではない。そのだいぶ前から、予兆はあった。あれだ。あの絵だ。彫刻じゃない。あの絵を見たときからだ。
あの絵。思いだせない。どこで見たのだろう。誰と見たのだろう。旅行だ。フランスの南部に行ったときか。家族で。そう確かにそうだ。美術館か。いや、そうじゃない。どこだ。あれは。うん?あれはそもそも、絵だったのだろうか。ああ、そうだ。田舎の農業を営む家に招かれたときのことだ。納屋の横に、その絵は捨てられているかのように立てかけられていた。あの小ぶりな額縁にすら入れられていない絵。キャンバスの角はぼろぼろに腐り、そうだ。確かにあれは、捨てられていた!誰もその絵に気づくことはなかった。話題に上ることすらなかった。放置されていた農具と同じような扱いを、私たちもしていた。あの家の人たちもそうだった。しかしあれは紛れもない絵だった。その絵を私は必至で思い出そうとしていた。だんだんと端の腐ったキャンバスの状態が、生々しく蘇ってきた。
下手くそな風景画だった。あんなものが目に入るはずもない。あの時は。そう、しかし。あれはいつのことだったか。半年前か、一年前か。もっと前か。時間を経た、今その存在はじょじょに蘇ってきている。私の中にそのときに確実に入り込み、刻み込まれた。その絵が今、このタイミングでゆっくりと海底から浮上してきている。背景には山と雲が描かれ、手前に向かって村の様子が描かれている。家や畑が力強い曲線で描かれている。私にとっては強烈だった。こんな絵を私はすでに見ていたのだ。私の中に入りこんでいたのだ。自分の描く絵とはだいぶん異なっている。対極といっていい。この絵に目的などない。そう、我々のように、組織だった目的の上に成り立つ、秩序ある、安定した平穏さがまるで感じられないのだ。不穏。一言で言うと、そうだ。だが、絵そのものの構成に、不安定な要素は見受けられない。この絵の作者なりに、しっかりとした秩序を、画面に埋め込んでいるようだった。この一枚の絵という存在そのものが、不穏で、不安定だったのだ。そうまさに、納屋の横に捨てられるような絵。どこにも居場所を見つけられない絵。居場所の決まった情況の中から、生み出されてはいない絵。つまりは、無目的な産物。ゴミ同然。けれどもそれならどうして、焼くなり、さっさと処分をしてしまわないのか。たしかにただ放置されていたことには違いない。しかしあの家の人間にしてみれば、完全に捨て切ることができない代物だったのではないか。それであんな中途半端な状態で置いておくしかなかった。まさに処分という結末にすら、居場所を見いだせない絵。
笑いたかった。正気じゃなかった。ただの気まぐれな落書きだと、レッテルを付け、早々と、意識から消去したいと願っている自分を発見する。気分が悪かった。しかし、そうおもえば思うほど、絵の方は生命力を宿すらしく、この胸の奥に、疼きとなって、反応を返してくる。どうしたらよいのだろう?もう一度、あの絵を見に行けばいいのか。家の人に譲ってくれるように懇願すればいいのか。あの絵はただ、自分の家から見える風景を記したものじゃなかった。そのとき、私の中では明らかに、一つの答えが浮かび上がってきていた。これまで宗教画の世界に生きていた自分だったが、まったくその中身に関しては、思い入れなどなかったのだ。聖書にも興味はなく、真剣に読んだことすらない。カトリックの洗礼は受けていたが、神などどうでもよかった。神よりも大事なのは国であり、その国が構成する秩序のある安定と平穏さを、何よりも愛した。天上の神よりも、地上の現実だ。すべては安定した配置の中に幸福がある。そしてその配置を、絵で表現するのが、自分の仕事だった。配置を信仰しているといってもよかった。私の存在、私が作業に費やした絵の存在。すべては美しい配置の元に生命を宿す。全体の配置から外れたものに、生きる資格などない。その考えが私という人間の全てを、構成していた。そして、その構成とはまるで反対の極から、あの納屋の絵は現れた。一度も覗いたことのない闇の中から、突然目を覚ました。あの絵の印象が契機となり、何故か彫刻が気になるようになったのだ。破壊し、自らを動揺させた。すべてはあの絵が始まりだった。いや、もしかすると、さらに遡る必要があるんじゃないだろうか。どこに始まりはあるのだろう。それを追及すればするほど、私の人生はどんどんと後退していくような気がした。そう、私の生きてるこの現実の世界が、私からはそっくりと外に出て、私自身がその球体からどんどんと遠ざかっていっているようなのだ・・・。大気圏を飛び出し、宇宙の深淵に引っ張られていき、眼下に見える地球はどんどんと小さくなっていくようなのだ。何が、起こり始めているのか、まるでわからない中、私は画業の他にも、彫刻をやってみたくなった。近所の工房に顔を出し、ちょっとだけ、いじらせてもらった。彫刻の工房も、システムは、我々と同じようなものだった。すでに全体の計画に埋め込まれた作品を、自分の人生を削りながら嵌めこんでいくという連続だ。生涯かけて技術を磨き合い、次世代へと伝えていく。師匠になりながらも、最後まで現役を貫き、生を終えていく。私は彫刻工房に弟子入りできないかと、尋ねてみた。画業は続けながらも、一から彫刻を覚えてみたい。そう願い出た。だが当然、答えはノーだった。私はその頃から周りの人間に疎まれ始めていた。何故このような分業制をひくのか。次第にこの国家のプロジェクトさえ、くだらないと思い始めていた。
あの一枚の絵が私を変え、あの絵が私にこのような言動を促してきていた。行動を引き起こしてくるのだ。自分は何のために絵を描いているのだろうと。信仰とは一体なんなのだろうと。どれもこれも似かよった絵を描いていく、その意味とは何なのか。国は永久に続いていくものなのだろうか。プロジェクトに終わりはあるのだろか。異国で一人きり、何の目的も居場所もない絵を描いた、その名もない画家のことを想うと、何故か、彼は大変信仰心に篤く、それでいながら、世の宗教からは排除され、生きたいと情熱を燃やしている反面、すでに野たれ死んでいるのではないかと、感じ始めた。
私は引退を決意した。生涯現役であることが当たり前だったヴァルボワ国にあっては、前例のない異例な交代劇だった。後継者を使命し、特に仕事の業務には、何の差し障りもないことをアピールした。思ったよりも、たいした騒動にはならなかった。世間から離れてみると、実に色んなことがよく見えた。みな馬鹿みたいに日々同じことしかしていないアリのように見えた。国家プロジェクトというものを、俯瞰して眺めてみた。次第にこれは我々を飼いならすための、ただの道具ではないかと思うようになってきた。絵や彫刻そのものには、実はまったく意味などなく、ただ我々に、決まりきった綺麗な道筋をつくるためだけに、存在しているような、張りぼてに見えたのだ。
そもそもこの国は、金融業で国庫のほとんどを稼ぎ出していた。それを宗教関連の国のプロジェクトに投資し、我々の多くは給料として、金を受け取るシステムだった。我々がそれぞれ、自分で何かを決め、動き出すことで生まれる、複雑で多様な世界を作り出さないために、国家は国民をシンプルな形で、コントロールする必要があった。ということは考えられないだろうか。一度そんなふうに考え始めると、本当にそのように見えてくる。偏見による盲信は、避けたかったが、私はもっと、この社会の裏のことを知りたいと願うようになっていった。と同時に、こんな見せかけの、どうでもいい形式的な宗教という衣装ではない、本当の信仰とは何か。それを求め始めているようでもあった。国家のレールから外れた私の不安は、ある瞬間には、極限まで突き上がってしまい、その身体の空洞を埋めるための、本物の運命の地図を、自分の存在理由を、照らし出す真摯な祈りを、私は心から欲し始めていた。
私の元に密封された葉書が来たのは、ちょうどその頃だった。
文字通り、何枚もの厚紙に、ぐるぐると巻かれ、中身の一枚の何十倍もの太さで、完全に防備されていた。私は自室で一人、この荷物を開封した。差出人は、BHと記されていた。横書きの文書であったが、文字が読めなかった。見たことのない文字で書かれていた。署名のBHだけが、ローマ字で書かれている。真ん中で二つに折られ、何かの招待状のように見える。紙は黄色がかった茶色な風合いで、この文書が公式なものであることを、暗に示しているように感じられた。
私は家族の誰にも、この郵便物のことを言わなかった。幸い私が一人でいるときに来た。画業を引退した私は、昼間、一人で家にいることが多くなっていた。留守番の役目を担っていた。招待状のしまう場所に困ったため、肌身離さずに持っておくことにした。一日の終りに、風呂に入るときもまた、脱衣場の傍のカーペットの下に隠した。出るとすぐに、衣服と共に身体に纏った。光の具合によって、その文書のカードは黄金に輝き出したように見えた。そのうち、文字が読めるのではないかと思った。私に理解できるような形で、伝え始めるのではないかと思った。これを招待状だと仮定した場合、私は誰かに目をつけられ、アプローチされているのだ。こうして一人家に居るときであっても、その視線を私は感じないわけにはいかない。監視されているのだろうか?まさか国家だろうか。そうか。これまで、誰も、早期に引退する人間などいなかった。私は要注意人物としてマークされているのだ。きっと、そうに違いない。でも、そんな疑いと、このカードから受ける印象とが、うまく噛み合わない。そういった私を、縛りつけようとしているような窮屈さが、感じられないのだ。むしろ、私は、一日のうちに何度となく、カードを眺め、うっとりと放心してしまい、時間を忘れてしまうことさえ増えていった。カードが、私そのものであるかのように、同調し始めているように感じられた。そう思えば思うほど、カードが伝えようとしていることが理解できる日も、かなり近いのではないかと直観した。それを遮っている何か最後のブロックが、私とカードの間には、存在しているようだった。
何だろう。そうだ。疑いだ。まだ心のどこかで、このカードが罠ではないかと思っている。私を監視し、恐怖を与える物としての認識が、完全に消えてはいなかった。だが私は焦らなかった。ベストなタイミングで、カードは、私にその姿を晒すだろう。私は少しずつ少しずつ、その真実に近づいていくことにする。私は心の準備を始めていた。おそらく、これを送った誰かも、そのことを承知していて、今はあらゆる物事の調整期間であることを、私に伝えているかのようだった。これは、私の元にだけ、届けられたものではない。そう思った。私だけではない。画業を引退したのは、確かに単独ではあった。しかしそれも、何か大きな流れの中の、一部の現象であって、言ってみれば、私個人の問題ではない、凌駕した事実が、あるような気がした。私だけではなく、連動したすべての事柄が、小さな調整をし合い、支流に向かって動き始めている。一体、何が起ころうとしているのか。ヴァルボワ国の地下で、何かがすでに起こり始めている。家族に話しては、駄目だった。家族もまた、国家の一部に組み込まれた世界を、多分に持ち合わせていた。今は、そこに同調しては駄目だった。家族とは別の繋がりが次第に見えてくるはずだ。このカードがその入り口になるはずだった。私の人生の後半は、おそらく、これまでとはまるで違うものになるだろう。その覚悟は、すでにできていた。すべての状態が突然変異するかのごとく、五感の感触さえ異なった世界に、存在することになるかもしれない。
怖くもあったが、私は何故か、見えない何かに守られているような気がした。覚悟さえ決めて、それを、残りの生涯で貫くことをやめなければ、必ず、あるべき道が見え、その道の先に行くことができる。
私は、自分の望みを思い起こした。この社会の裏で行われていることを知りたい。本当の存在理由、運命の有無、信仰の本質。私がこれまで、全く意識してこなかった、けれども、本当はずっと求めていたこと。それを、残りの時間で、解決するという意志を固めていた。
インビテーションカードは、日に日に何か質感が変わっていくように感じたが、見た目には全く変化しなかった。見た目もそうだし、触った感覚もまたそうだった。
しかし、ほんのわずかではあったが、私には、この厚紙がほんの少しだけ硬直し、重みを増したかのように思えたのだ。画業は引退したものの、筆を持つ感覚は忘れてなかった。手にかかる重みには敏感だった。様々な筆を使い分けて仕事をしていた。そして重みは、日に日に変化していった。ふと軽くなる時もあった。だが、トータル的には、増える方に向かっていた。それに伴って、私の視界にも変化が生じてきた。
これこそが錯覚だと思った。だが明らかに、インビテーションカードの表面は、初めて見たときよりも黄金色が増したように感じた。あるいは、そんなことはないが、このカードそのものが、ゴールドなのではないかと思った。カードのように見せたその偽装が、剥がれ始めているといった・・・。
なぜ重みが増すのかは分からなかったが、五感のすべては、確実に連動していた。
輝きを増すカードに私の不安は募っていった。肌身離さなずに、持っているのも、次第に困るほどに重くなるだけでなく、その輝きが、衣服を通過して丸見えになってしまうのではないかと思ったのだ。
私はさらに、人と会うことに敏感になっていった。何も悪いことなどしてないのに、私はヴァルボワ国全体の、得体の知れない雰囲気を感じていた。そのシステムの外に出たからこそ分かる、異様な空気だった。監視されているといった感覚だ。監視のネットワークは家族にも及んでいた。家族は当然、そのことに気づいてはいない。
私の身に何か起こっていることを、彼らに伝えてしまった瞬間に、私は国から抹殺されてしまうであろう。私は秘密を知ろうとしている。けれどもまた、その秘密を、私に知らせようと、欲っしている人間の意思をも感じていた。
不安と期待が入り混じった私は、そのあと何日も家に閉じこもっていた。
夜が明け始める時にだけ、街中を散歩した。ほんのわずかだったが、身に着けたカードが、その時、ぶるっと揺れるのを感じた。磁気か何かが反応しているのだろうと、初めは気にもしなかった。
同じ工房で働いていた職人と、偶然すれ違うこともあった。
彼らは、私の異変には何も気づいていないようだった。少し気を許せば、挙動不審になってしまうほどの神経の高ぶりの中、私は日課の散歩を終えた。
朝は、七時を少し超えたところだった。すでにインビテーションカードは、ちょっとした重りのように、私の身体に加重を施している。
「引退のご身分は、どうかな」
私がかつて雇っていた男は言う。
「いかに、これまで、気を張って生きてきたのかがわかったよ」
私は、思いとは裏腹の言葉を、出した。
「気楽になったのか?」
「ああ。でも、また、別の仕事でも始めてるかもしれないな」
「そうだろ。なっ。そうだと思った」
男は安心した表情へと一気に変わった。何故だろう。男の顔をじっと見た。
「しかし、あなたはいいよ。働かなくても、お金はたんまりあるんだろうから。俺はそうはいかない。みんな、あなたの話で、持ちきりなんだよ。休憩時間も、仕事のあとに飲みに行った時間にも。あなたの話題が、出ないときはない」
「そうなんだ。それは嬉しいよ」
「あんた、気が狂ったんじゃないかって」
「えっ」
あまり言いたくはないんだが、と男は言いづらそうに首をすくめた。
「いいんだ。言ってくれ」
「俺も、あまり、告げ口のようなことはしたくない。でも、あなたには、ずいぶんとよくしてもらったから、正直に話すよ」
「頼む」
「何か良からぬことを、策謀してるって噂だよ。あなたは、何か深い恨みがあって、我々の共同体から自ら抜け出た。これから復讐をしようとしてるってな」
「おいおい」
「いや、ほんとだ。標的は俺らだ。住民を、無差別に巻きこもうとしてるって。いや、そんなことなど、ありえないよ。あなたは、そんな人間じゃないことくらい、わかってる。あなたの後を、引き継いだ男だって、そう思ってる。俺らも、またそうだ。今だって、信頼している。うちの工房はそうだ。しかし、それ以外の奴らは、違う。そしてウチの工房は、日に日に、嫌がらせを受けている。工房を潰そうと、画策している奴らがいる。誰の意図で動いているのかはわからない。ただ、先頭で、旗を振っている人間は、同じ地区で彫刻工房を営んでいる、ガッシェだ。誰に嗾けられているのか。ウチの工房を潰そうとしている」
「なんだって」
「ああ、ほんとだ。乗っとろうとしている」
「ウチとは、違う商売だろ」
「だから、どういった魂胆なのかは、わからない」
「むしろ、彼らの方に、何らかの恨みが、あるんじゃないのか?」
と言ったところで、私はある事実を、思い出してしまった。
まさに、あのとき、衝動的に殴り、教会の外壁から、潰し落としてしまった、あの龍のような彫刻の姿。あれを思いだしたのだ。まさか、その時のことが。
「乗っ取って、それで、彫刻の工房を拡大するのか?棲み分けが綺麗にされていたじゃないか。どうして、今さら」
「今さら?あんた、よくそんなことが、言えるな。あんたが、そのシステムを崩した張本人なんじゃないか。あんたが、おかしな行動をとったから。それが始まりなんだぞ。俺の本音は、こうだよ。あんた、やってくれたなって」
「お前、そんなふうに」
「あんたを信頼しているのは、事実だ。ある面では。だが、もう事態はそんなことを言ってられる状況では、なくなった。わかるだろ?ウチの工房は、存続が危ぶまれている。何とか、生き残る方法を模索している。これまでの安定した国に、戻したい。どうしたら修復するか。俺も必至で考えている。なのに、その張本人のあんたは、呑気に散歩なんかしてやがる」
「悪かった」
「謝るんじゃない!」
「どうしたら」
「お前などな、そもそもの、初めから、この世界になど存在していないんだ!そういうことだ!それが、最も辻褄の合う方法だ。お前なぞ、この国には、存在していない。むしろ、他国から入り込んだ虫だ。そう、ただの虫だ。汚い虫だ。俺は、今、虫と話をしてるんだ。ふんっ。勝手にうろついていていたらいいさ。お前の存在など、誰も見えやしない。俺のように話しかけられるだけ、ありがたいと思うんだな。ただ俺も、そこまでの卑怯者じゃない。これまでの恩義もある。三十年近く、あんたには世話になった。娘が病気で苦しんでいたときも、あんたは多額の金を出して、他国から良い医者を呼んでくれた。その長女も今は、子供を生んで、俺も祖父になったよ。その金もまた、俺には一切、請求しなかった。これからも、ウチの工房で頑張ってくれと。何事もなかったかのように、俺を励ましてくれた。本当に感謝してる。俺の複雑な心中を、察してくれ。もう苦しくて耐えられないんだ。もうこれくらいでいいだろうか。とても見てられない。ううっ」
男は気力を振り絞り、最後の言葉を口にした。
「あんた、逃げろ。あんたを消しに来る連中が、押し寄せるてくるぞ」
インビテーションカードが、劇的に変化した瞬間だった。厚紙だったものが、完全に薄い立体物に変化したのには、驚愕した。
誰かが、物質の業態を変化させたかのようなで超常現象を見ているかのようだった。重みは増し、折り曲げることが不可能になった。
黒い文字の羅列は消え、黄金の世界の中からは、白く輝く光の線が浮き上がってきていた。太い線のようだったが、次第に、細長い立体物として、黄金版からはさらに浮き上がって見えた。細長い直方体は直径を伸ばしていく道路のように、四方に伸びている。白い蛍光色の中でも、僅かな違いで構成されていて、より光の強い白い箇所が点滅をし始めた。
私の立った床にも、同じように、白い蛍光色が照らされ、点滅し始めた。
その直方体は、次第に入り組み始め、私はそこでやっと、これが街の地図の上に掛けられていることに気づいた。道路のようであったが、自分の知っている位置関係とは、だいぶん違う。別のルートの網目が、こうして浮き上がってきたのだろうが、これが、何を意味しているのかが、わからない。ふと、もしかすると、これは、緊急避難経路なのではないか。私がこのような事態に陥ることを、あらかじめ知っていた誰かが、逃走経路を示唆している。そんな気もした。だが罠かもしれなかったので、私はすぐには行動に移さなかった。そもそも、私を追ってくる人間の存在さえ、確認していないのだ。自分の工房と同じ地区の彫刻工房の様子を、確認したい。午前中の今、工房はフル稼働しているはずだ。堂々と行ったらいい。私は何の気兼ねもなく、一か月ぶりに工房に顔を出すことにする。だが、あるはずの工房まで、なかなか辿りつかない。通い慣れた道でも、忘れてしまうことがあるのだろうか。街の配置が、全然違うように感じる。あの角を曲がれば、何があるのかは、意識しなくてもわかる。いやと私は思い直した。建物が移動するわけがないのだから、やはり私が忘れかけているのかもしれない。そういえばそうだ。私は自宅から工房へと毎日通うときに、わざわざ道を確認しながら、街の様子を確認しながら、歩いていただろうか。そんなことは全くしてなかった。近所の彫刻工房すら、ほとんど気にとめたことがなかった。とすると、あの当時はまったく、夢遊病者のごとく、適当に歩いていたことになる。それ以外には考えられない。誰かに操作されるかのごとく、道も知らずにただ動かされていただけのような気がする。工房をやめた瞬間、その経路すら、思い出せないのだ。でも散歩はちゃんとできていた。迷子になって、家に帰れなくなることもなかった。
そうか。ちゃんと自宅に戻ることを先に意図して、歩いている間も絶えず、意識の片隅に家の存在があったために、迷うことはなかった。いったい工房はどこにあるのだ?
しかし、知らない街に足を踏み入れた感じは、まったくない。それはそうだ。街並みにも、特に違和感を抱く場所はない。どこまでも、統一された世界が続いている。まさかこのまま、自宅にすら、うまく辿りつくことができないのではないか。不安は的中する。私は完全に迷い人になっていた。別の工房すら、目に入ることはなかった。住宅が続いていく。レストランも何軒か見た。学校のようなところもある。だが、工房が見当たらない。あれほど、工房が点在していた街のように思っていたが、今はその影すらない。
インビテーションカードは、家に置いたままだ。今ごろ、家族の誰かが、その存在に気づいてしまったかもしれない。すでに隠そうとしてなかった。折りたたむことのできない重みを備えた、置物のようになっていることだろう。しかし私の脳裏には、不思議と、あのゴールドを背景とした、白色の立体経路が、すでに刻み込まれていたようだった。目を瞑れば、あの地図が出てくる。
次第に目など閉じなくても、勝手に浮き上がってきていた。街の風景が半透明になり、その地図と、綺麗に融合していた。私の視界は激変していた。私の今居る場所。今居る道が、その白い発光立体の一つと、完全に重なった。そして私のいる地面が点滅し始めた。
その状態のまま、私は自分の身体を、右に左に動かし、早歩きで、Т字路まで急いだ。
白く細長い、発光する立体の道は、生き物のように、配置を変化させ、また別の世界を描き出す。次第に足元だけではなく、少し離れた別の場所に、同じような点滅する地帯を発見した。実際に目に見えた場所ではなく、頭の中で展開している上空からみた、俯瞰したような映像だった。私はその映像と、こうして肉体そのものの視線と同化している二つの映像の両方を、切り替えることなく、同時に見ているような感覚だった。
私は点滅しているその場所を目指した。
この足元の点滅と、遠い点滅地点を結び、最短のルートを直観で感じとることで、歩を先へと進めていった。自分が動いているような、景色の方が動いているような、まったく不可思議な体感に包まれていった。
「まずは、その縦の線を、繋いで。そうそう」
鳳凰口建設の社長の激原は、作業員に指示を出していた。
これまで半年の間、社長に就任したものの、社員と共に、現場で一作業員として働いてきた。この有り余るエネルギーのすべてを、作業にぶつけることなしには、力の行き場をコントロールすることは、不可能だった。社長とは名ばかりだった。業務のすべては、創業者の前の社長が残したシステムを、そのまま使っていた。人材もまたそうだった。
激原はただ、一作業員として、これまで以上に、仕事に奮闘していた。その仕事っぷりによって、社員の熱気は結果的に上昇していった。
しかし、建物が完成に近づいたとき、ほぼ完成したときだった。このままではいけないと、突然、激原は不安に駆られていった。これほどエネルギーを注ぎ込んだ仕事を経験したことはなく、幸福に満ちていたが、しかしこの状態では、建物は何の機能も果たさないのではないかと思ったのだ。どういうことなのか、自分でもわからなかった。建物には、設備は完備されていたので、誰がどのように使おうとも、ビルとしての役割は果たされる。そうなのだが、と激原は思う。何かが足りなかった。
この建物が、本当の意味での存在意義を発揮するには、何かが、重大な何かが。
ただ言われたとおりに、物理的に発注に応えた。それで仕事は終わりなのだろうか。それが仕事なのだろうか。そもそもこの建物は、一体何なのだろうか。激原は自ら深く関わったこの建物を見上げた。
これは何なのだ?
その言葉が何度となく、頭の中を駆け巡った。
何度だって言ってやる。口にしてやる。
これはいったい、何なのだ?
あまりに巨大すぎるそのビルは、いったいどんな用途のために建設されたのか全くわからなかった。当初は、知り合いの見士沼という男の教団施設を、リニューアルするというのが始まりだった。ところがその話は途中で頓挫した。別の企業がその土地に別の建物を立てることで再度合意に達する。引き続き、鳳凰口建設における作業が続いた。そして当初の計画よりも、遥かに巨大な施設が生まれる。
激原はそのあまりに広大な仕事のスケールに、初めて自分が打ち負かされるのではないかと思った。これこそが望んでいたことだった。自分のエネルギーに見合った仕事を、心から欲していたのだ。だがこうして、その作業をすべて終えたとき、この自分のエネルギーの化身のようなビルを見たとき、唖然とし、この先の自分を見失った。それは見てはいけないものを見たかのような、それでも見なければいけなかったかのような、そんな光景だった。そして激原は悩み始めた。この建物に、本当の意味での機能が備わっていないことを悟ったのだ。そのことを深く見つめたのだ。誰が入居して、誰が何の目的で、何の事業をしていくのか。そういった、個別の目的ではない、この建物そのものが存在する、理由の問題だった。
ビルに入ってくる人間、会社が、この先もずっと、使用するとは限らない。存続していたとしても、出入りする人間は無数であるし、利用目的はその都度変更されていく。
そうではない、この建物それ自体の意味だ。
それは、この、鳳凰口建設が、目に見えないシステムとして埋め込んでおかなければならない役目のような気がした。
激原はただ盲目的に、眼の前の作業に全力投球するだけの仕事の仕方からは、脱皮する必要性を感じていた。一社員としても、このままでいいはずがなかった。そして何と、激原は、全身のパワーを使い果たし、疲れ切っていたのだった。生まれてから今日までの、すべての溜めこんだ力を、解き放ってしまったかのようだった。あれほど無尽蔵に沸いてくると思っていたエネルギーには、限りがあったのだ。
激原はここで初めて、まとまった休暇を取ることにした。館山の海の傍のコテージを借り、まずは一週間滞在することにした。着いたその日は夕食を取り、温泉に浸かり、昼近くまで寝た。昼過ぎにようやく起きて、ビーチを散歩する。ハンモックに寝そべり、まだ海水浴には寒い、六月の風に揺られながら昼寝をした。夕方には近くのレストランで、和牛ステーキを食べる。夜はまた温泉につかり、早めに就寝する。翌朝は七時に目が醒めた。気温は前日と比べて十度近くも上がっていた。この時期では異例の高さを記録していた。服を脱いで海に入る。内海だったので、波はほとんどない。激原はずっと海水に浮かんでいた。海から上がると、風がさすがに冷たかった。コテージに戻り、そのあとレストランに向かい、生野菜とフルーツを中心とした食事をとる。そのあとで海辺を歩く。悩みはすべて忘れてしまうくらいに、のんびりとした時間を過ごした。四日目のことだった。
閃きは突然大空から舞い降りてきた。ビーチで過ごしていた時に、空と海がいきなり一つの線で繋がったような気がした。そこに太い巨大な白い筋が通った。回路のようなものが出来たかのような錯覚がした。今、天と地はがっちりと繋がったのだ。手が組まれたのだ。そのとき海に内包された情報と、空に内包された情報とが繋がり、行き来し、交換し、循環したかのようでさえあった。数分後、その目に見えていた回路は、消えた。
だがそのエネルギー循環の回路は、すでに存在していて、その流れは加速していっているように感じたのだった。
激原の中ではその後コテージに戻ってからも、その回路の印象は消えることなく、逆に強まっていった。結局、館山を後にしてからも、その回路のイメージは薄れることなく、強力になっていくばかりだった。通常の業務に戻る気にもなれなかった。激原はさらなる旅行へと出た。オーストラリアのゴールドコーストを選び、ビーチ沿いのホテルに宿泊した。今の業務を回していくだけなら、社長である俺がいなくても十分だった。むしろ居るほうが、効率が悪くなる。あれほど過激に仕事をしていたため、長期休暇の願いに、口を挟む重役は誰もいなかった。さらに二週間、激原は海のそばでぼーっとした時を過ごす。あの回路はやはり弱まりもせずに、存在していた。しかしオーストラリアの海では、視覚を刺激してくる現象は何も起こらなかった。
「まずは一つの循環の回路を、強力に発動させること。そこから始めよう。そのあとで別の循環の回路を、連動的に増やしていき、循環のエネルギーを伝播させながら、さらなるエネルギーの渦を生んでいく。渦だらけになるな。まるで、建物は、その複数の秩序だった気流に包まれる。霧じゃなくて、強力な気流に包まれるビル。強烈な気流を生み出す建物。その中で個々の利用者は、それぞれの目的で、このビルと契約する。そういうことで、いいだろうか」
「社長、何をおっしゃられているのか、わかりません」
側近の重役は即答する。
「これから、ちゃんと、順を追って説明するよ」
「ぜひ、お願いします」
「まずは縦の回路だ。天と、この地であるビルを結ぶ回路を、確立しないといけない。確立して、情報と物質の交換をさかんにしていく、必要がある。与え、与えられという流れを加速させていく」
五十代の重役の男は、早くも口ごもってしまった。
「社長、休暇はどちらに?」
「ゴールドコーストだよ」
「そこでは一体、なにを」
「ただ、海で、寝そべっていただけだ」
「本当に、そうでしょうか」
「どうした?」
「いえ、だいぶん、お疲れだったのでしょう。羽目を外されて、大変、けっこうなことです。まだ頭が切り替わっていらっしゃらないようです。あと数日、家でゆっくりなさってから、仕事に復帰されるのはどうでしょうか」
「それも、いいね。でも説明を続けさせてもらうよ。その縦の回路が、肝だからね。そのあとで、次の作業を全力で取り組んでいったらいいと思う。そして、それが確立したときに、今度は横の平面における循環を作っていく。このビルと、また遠距離にある一地点を結び、そことを、ぐるぐるとエネルギーが行き来するような流れをつくるわけだ。一点、二点と拠点を増やしていって、複合的な空間をつくっていく」
「まるで発電所みたいですね」
「え、あ、そ、そう?そうかな」
「ええ。あの建物を、自家発電仕様にしたい。そういうことでしょうか?」
重役の男の顔は、話始めた当初よりも、だいぶん穏やかになった。
それに反するように眼差しの方は強くなっていった。
「エネルギーを、自分で賄える建物にするということですね。なるほど、社長。わかりました。承知しましたよ」
「あ、伝わった?」
「はい。最初は変なことを言うなと、正直思ったのですが、よく聞けば、そんなことはなかった。社長。そういえば初めてですね。我々にアイデアを出してくれたのは。遠慮なさっていたんですね、ずっと。もう、これからは、この調子で構いませんから。あなたの思うことをどうぞ自由に、我々に投げかけてみてください。何だって受け止めますから」
思ったことをしゃべってよかった。
激原には、二つ目、三つ目の循環回路が、すでに見え始めていた。
次第に私は、インビテーションカードの世界に這い込んでしまっているかのようだった。
ゴールドの中に浮かび上がってくる白い光の通路が張りめぐる街の中に、私は居たのだ。昨日まで生きていた世界とは、明らかに違った。毎日肌身離さず、そして、ずっと見続けていたカードの世界は、私を取り囲む形で出現した。私はすっぽりと白い光の世界の中に入っていた。私はとても官能的な気持ちになっていたのだと思う。真っ白なシーツを敷いたベッドの中、昼のやわらかな光に包まれた世界で、透き通るような白く弾力のある裸の女性を、抱いているかのようにも感じられた。その女性は、私の腕の中に隠れてしまっているようであり、私の全体を覆うように、包んでいる光そのものでもあった。
妻にも誰にも、感じたことのない快感に、私は絶句していた。
その立体の通路の世界を突き進んでから、どれほど時間は経ったことだろう。ふと、時間のことが思い浮かんだ。あれから、何日が経ったのか。同僚の男の影は、遥か遠くに消えてしまっていた。私を導く世界が現れた。白い世界の中で、黄色い光が混ざりあってきたのがわかる。黄金色の大きな門のようなものが現れたのは、そのときだった。
扉のない通過するためだけの門。迷い込んだ私に、声をかけてくる人の姿はない。人ではない、何かが、ここまで私を連れてきたのだろうか。不安は募っていった。
そもそも、ここはどこなのだろう。教えて欲しいと私は呟いた。私に分かる形で教えてほしいと。大勢の人の姿が、その白い闇の中から姿を現すのに、時間はかからなかった。
この街の別の次元に、こんな組織が存在していたとは、知らなかった。
最初、国家が運営している場所だと思った。だが彼らは関係ないようだった。
国家とはまったく無関係に、集った団体ともいえない集まりだった。彼らの顔を一人一人じっくりと見てみた。しかし知ってる顔はない。彼らは私のことを、じっと見てはこなかった。まったく関心を払ってこなかった。しかし、私の存在を、確かに認めているように感じられた。私が初めてこの場所に来たことを、彼らは皆知ってるようであった。
まさか、彼ら全員が、私のことを招待したのだろうか?私は歓迎されているのだろうか。私は何をしたらいいのかわからなかったが、不思議と、居心地が悪くなることはなかった。洞窟の中なのかと思ったが、この柔らかな照明のような感じの黄色い光は、何なのだろう。壁には本棚が設置されていて、本が並んでいる。窮屈そうに詰めこまれているわけでもなく、隙間の空いた感じでもなかった。あるべき書物が、あるべき場所にしまわれていて、それが必要な人を、いつでも、待っているように感じられた。
私は目についた一冊の本を、手にとるために近づいた。その本が私を呼んでいるような気がした。この本が私にインビテーションカードを発行したように感じられた。私は本を手にする。するとたくさんの人が、それぞれ作業している部屋ではない、さらに奥の部屋へと行くような気がした。そしてその通りに移動していた。机のような形の凹凸物が並んだ部屋に出る。白い霧の塊のように、立ち並んだ机に椅子はない。私は本を、その固体のようには、まったく感じられない机らしき物体の上に、本を置き、ページを捲った。紙だと思っていたが、その質感は、まるで違った。指で触れた部分が、右に左に動き、別の文字の塊へと移行していった。私は人差し指を触れ、右に左にスライドさせながら、情報を吸収していった。
どうも、ここはB・Hという組織らしかった。国家のように、決められた役割分担があって、生涯にわたり、仕事として共同体に奉仕し、そこで豊かな生活を享受するといった、私の知ってる世界とは、かなり異なる成り立ちをしているようだった。
ここは勉学に励むための場所だった。そして、知りたいこと、身につけたいことは、個々で違っていた。必要な資料は、すべて揃っていて、まずは書物から学び、頭で理解したことを、今度は肉体で表現できるように、実験、実践するための空間を利用する。そこで初めて、実践者という、その同じ課題をすでに身につけた先生のような人間が現れ、アドバイスと共に、次のステージへと行くのだという。
ここは学校だったのだ。さっき見た人たちは、先生だったのだ。生徒でありながらの、先生たち。私にとってみれば、すべての人が、先生だった。私は、私が生きている、この時代、この国に存在している意味を、深く知るための場所だった。そしてここが、キリスト教の神秘主義組織であることを、後に知るのだった。
入門の許可を申請しようと、私は思った。だが入門の許可は、誰にとるわけでもないことが、なぜか分かった。そんな気がした。私がここで学ぶことを、反対する人は誰もいない。私が認めれば、道はでき、扉は開く。あの人たちの姿を見たときに、一瞬で、それを理解した。それにしても驚きだった。こんな世界が、ヴァルボワ国に潜んでいたなんて。
これまで居た世界が表ならば、ここは完全に裏だった。不思議な世界だった。私がこれから何をするのか。何をしているのかが、見えてくる。私は学んだことを、自分の身体に染みこませるために、彫刻を作っているのだ。
あのとき何故彫刻を破壊してしまったのか。今、繋がった。いずれ自分も彫ることがわかっていたのだ。わかっていながら、踏み込んでいない嫉妬が引き起こしたのだ。彫刻そのものの技能を、磨くためでもなく、職人になるわけでもなく、私にとっての彫刻は、それ自体に目的のない、瞑想のような行為だった。
鳳凰口はここで、はっと我に返った。
約一年前まで、どうして実家の建設会社に籠って木屑に向かい、彫刻刀を入れ込んでいたのか。それがわかったのだ。ここに繋がっていたのだ。
「俺はもう、保てない。全然、違う人間の体感が・・・今」
「どうした?」
「保てない。自分を保てない」
今、ハンドルを握っているのが、俺でなくてよかったと、鳳凰口は思う。
「どうしたんだ?」戸惑う男を押しのけ、水原が、後部座席から顔を乗り出してくる。
「もうちょっとだろ。耐えろよ。もう少しで、捕まえられるんだろ?」
「捕まえる?」
愛華友紀の声がした。
「保てない。入れ替わろうとしてる」
鳳凰口は叫んでいた。
「誰と、だよ」
男も呼応するように叫ぶ。
「誰なんだ?あいつは。あの男は誰なんだよ!あれはどこの国なんだ?年代は?あいつに、何が訪れようとしてる?」
「だから、もうちょっと、なんだろ?」
水原の声だけが、冷静だった。上ずっていない唯一の声だった。
「こっちのことは、任せろ。だから、もう少しあっちに。入れ替わることなんてない。そんなことにはならない。お前はお前だ。完全に戻ってくる。だが、今のままでは、駄目だ。ケリをつけてこい!」
ケリ?
水原は、確かにそう言った。
「お前の中途半端な能力。それを完全に、自分のモノにしてくるんだよ。もう開きかけてる。今しかない、鳳凰口」
その言葉は、力強かった。
最後に、鳳凰口と名前を呼んでくれたことが、嬉しかった。
そうなのだ。ここが分かれ目なのかもしれなかった。
ここで引き下がってしまうのか、突っ込んでいくのか。ここが、俺の人生の分岐点なのかもしれなかった。そしてアイツの分岐点でもあった。
入れ替わるだって?アイツの人生と、俺の人生が?そんなはずはない。アイツはアイツで、あの国で、生をまっとうするのだ。日常に帰っていく必要がある。あのまま、あの場所に、置き去りにしてしまっていいわけがなかった。
鳳凰口は、戻る決意をする。
私はここでかつて、学んでいたことがあることを思い出した。
入門、入学の許可を、心の中に申請するのも、おかしな話だった。
私は戻ってきたのだ。いや、違う。いつだって出入りしていたのかもしれなかった。幼い時から、画業の見習いをしていたが、驚くほど技術の習得は早かった。私は自分の知らないうちに、ここで習得していたのかもしれなかった。
夜も寝静まったとき、私はヴァルボワ国を抜け出し、ここに出向いていたのかもしれなかった。ここで学ぶ人たちとは、元々顔見知りであったのかもしれなかった。ならば、インビテーションカードが送られてきたというのも、どこか勘違いだったのかもしれない。
私はこの地底の世界に、意識のほとんどが向くことを、あらかじめ予期し、仕事をやめ、家族とも距離を置き、迷宮に迷い込むがごとく、こうして・・・。だとしたら、私は今もヴァルボワ国で、画家の頭領として活動しているのではないか。家族に囲まれ、平穏な時を過ごしているのではないか。教会の彫刻を壊すことなく、それでも彫刻の素晴らしさに新ためて気づき、仕事以外に、様々な幸せを吸収し始めているのではないか。
そうだ。分岐などしていない。私という存在が、地上から地底へと移行してしまったわけではないのだ。同時に存在している。私の意識は分裂などしていない。意識が拡大しているだけなのだ。これは夢の中と同じだった。目が醒めれば、私は、元の状態に回帰する。そのときの私は、色んな私を内包している。この場所に意識をもっていけば、すぐにでも、目の前に現れる。この場所に包み込まれた自分を発見する。こうしてここに来るまでに経た、長いステップを辿ることは、もう二度とない。一瞬で。
意識を向けた瞬間、私は私のままで世界は変わる。
「みんな、集まってくれ」私の居る部屋にも、その声は届いた。
私は、図書館が内包された広い空間へと戻っていった。
そこには、人々が集まっていた。
「いつだって、我々の教会は、開かれている」
誰が話をしているのか。声の出所を私は探す。
「それを、忘れないでほしい。今から協力してほしい。ほんの一時的だが、我々は、この場所には居られなくなった。エネルギーを畳むのを手伝ってほしい」
次の瞬間、地下世界は、一気に光の量が減った。
淡い蝋燭の光が、わずかに、人々の輪郭を浮き上がらせた。
「今、この瞬間、超大なエネルギーを、地上は欲し始めている。我々も、協力する必要を感じた。すぐにまた明かりは取り戻せる。少しだけ我慢していてほしい。地上に光を。その最初の点火に協力することで、地上はその後、半永久的に、光が差し込む土壌ができる。光は循環の輪と重なりあう。すでに地上では、光を受け取るシステムができた。光を増幅して、地球上に注ぎ、闇を回収することで、再び光を増幅する装置が。その最初のきっかけが必要だ。協力の手を、我々BHが、挙げたいと思った」
私はまだここで、学び始めたばかりなのです。どうか、その中断も、一瞬のことでありますようにと祈る。
「あなたたちは光がなくとも、いつでもこの場で、学び続けている存在です。どうか信じてください。たとえ別の世界で何をしていようとも。もう一人のあなたは、ココにいるのです。そして学んだことを元に、あなたたちはそれぞれの世界で、まさに実践しているのです。実現していくのです。今、この瞬間に。そう、目の前のことを、よく御覧なさい。あなたの肉体を、そこに全力で注ぎこんでみなさい。あなたの身体こそが、あなたの学んだことを発揮する場所なのですから。場とは、あなたの体のことなのです!時というものは、ありません。場というものはあります。あなたの肉体がそれなのです。時間というものを、もし、表現するとしたら、そのあなたの肉体に包まれた中身。それこそが、時間の実態なのです」
私は、同じ地区の彫刻工房にいた。昼休みを利用し、この工房に見習いとして彫り方を学びにきている。私は何度も何度も、夢の中の書物に記してあったことを、確かめ合うように、同じ像の制作を、この新しい工房で繰り返していた。
第三部 第六篇 ステルスビルディング
鳳凰口昌彦と愛華友紀の結婚式は、都内のホテルで開かれた。
二人が出会ってから三か月後のことだった。総勢百名ほどの披露宴には、水原や見士沼祭祀の姿もあった。激原は体調不良ということで、急遽欠席をした。祝いの電報が届いた。鳳凰口は出会って、すぐに結婚を決めたことを、みなの前で報告した。披露宴の食事の最中、個々の列席者は、新郎新婦の元に伺い、談笑したり写真を撮影したりをしていた。
ふと一時的に、誰の訪問も受けない、そんな間が空いたときだった。
水原が一人で、鳳凰口の元にやってきた。
「その、美術館の話だけど、アーティストが決まったんだ」
水原は小さな声だが、よく響く声で力強く言った。
「ずいぶんと、早いな」
「時間の問題じゃない。お前の結婚だって。それより悪いな。離婚したての俺まで、こうやって、ノコノコ来てしまって」
「どうした?」
「元妻のことでね。その選考のオーディションにさ、彼女、応募してたんだよ。あとから分かったんだけど。驚きだよ。あいつ、美術をやり始めてたんだって。しかも、この短期間で、相当な数の作品を提出したらしい。俺は見てないけど」
「一度、見て見たら、どうだ?」
「そんなこと、するか?落選してるし、それに、彼女とは何の関係もなくなった」
「関わりも持ちたくないのか?」
「そうだよ」
「でも、何かと、お前の仕事に絡んでくるな」
「嫌がらせなのかな」水原は笑みを浮かべた。
「縁があるんだよ。切っても切れない縁がさ」
「変なこと、言うなよ」
「そういうのって、あるんだぜ、ほんとに。なかなかないことだよ」
「どういうつもりなんだよ、鳳凰口。縁結びか?まあ、こんなときだから、浮かれてるのは当然だけど。何もかもが、繋がってるように、お前には見えるんだろうけど。羨ましいよ」
水原はちらりと、新婦の方を見た。
彼女の方には、いつのまにか、三人の女性が来ていた。
「もし事前に、前の奥さんが応募していることを知ってたら、どうしてたんだ?」
「どうしたも、何も。別に何も変わりやしないよ。俺は選考に関わってないし」
「そうじゃなくて、奥さんと、そのことについて、話し合ったのかってことだよ。でっかい共通の話題が、日常生活の中にも、生まれたわけだろ?離婚は回避されたんじゃないかと思ってさ。そんなことはないか」
水原はしばし、返答することなく、言葉を飲みこんだまま、ぼんやりと遠くを見た。
「そういや、結婚式はやったの?」
鳳凰口は訊いた。
「やるつもりもなかったよ。彼女もむしろ、やりたがらなかった」
「珍しいな」
「意外に、あいつは、俺らが早くに壊れることを、知ってたのかもな」
「あれ、そういえば、激原は大丈夫なのかな。入院してるんだって。さっき知った。何だか、俺ばっかりが浮かれた感じで、みんな大変なんだな。あの屈強な男がダウンしたなんて信じられない」
「あいつも普通の人間だったんだよ。過労だって。後で見舞いに行ってくるよ。お前が新婚旅行に行ってるときにでも。でも、たいしたことはないと思うな。バランスを崩してるだけだよ。まだあいつなりのエネルギーの使い方を、マスターしてないだけだろ。建築作業に、全エネルギーを投入したその後で、逆のエネルギーを意識的に使うことを怠った結果だよ。厳密に言うと過労じゃない。わかる?Aというエネルギーを使っていたとして、それを使いすぎで、消耗したって話じゃない。Aのエネルギーを、もうちょっと弱めようってそういった消極的な、バランスの取り方の話でもない。Aをとことん投入する。そのあとでAとは逆の質であるBのエネルギー。それをこれまた、同じくらいの全霊で投入する。そうすることでバランスをとる。足し算の方法だ。ああいったタイプは、そうでないといけない。俺はあいつのようなタイプではないから、逆にああいったタイプの扱いがよくわかる。あいつが自分で気付かなければ、誰か周りが教えてやったらいい。そういう奴はいるのか?いなかったら俺らの出番しかないよな」
水原は、長居してしまったと言った。
「いや、いいんだ。ここで話すだけじゃ、とても足りないな。あとでな」
鳳凰口は、水原を見送った。
愛華友紀の元に集まっていた三人組みの女性は、すでにいなかった。
「誰だったの?」
そういえばと、鳳凰口は思った。
「紹介してなかったな。あいつも何の挨拶もしなかった」
「いいの」愛華友紀は言った。
「幼馴染だよ。小学校の時からの」
「意外ね。そんなふうには見えなかった」
「どんなふうに見えた?」
「ビジネスパートナー」
「そうなんだ。そっか。見え方っていうのは、不思議なものだな」
「ほんとに仲いいの?」
そしてまた、列席者からの訪問客がどっと押し寄せてきた。
祝福の喧噪に二人は包まれた。鳳凰口は、その桃色の海の中で、両腕を最大に開き、全身の力をこれでもかと抜いて、浮かんでいた。この世のすべての物質と、一体化しているような感覚だった。自分の肉体の境界線が、ひどく曖昧になり、天と地さえも、その区分けが完全に消えてなくなっていた。
「鳳凰口さん」
その桃色の世界の中にあって、突然、濃い紫色の液体が投入されたような、感覚だった。
「ミシヌマの代理人です。ミシヌマエージェントです」
鳳凰口は、まどろみの中から戻った。
「見士沼は帰られました。一時間、披露宴を楽しんだあとで、自分は失礼することを伝えてほしいと言われました。こういう場が、あの人はひどく苦手なんです。たくさんの人が居る場所に長時間いることが、今の身士沼さんには大変厳しいことなんです。わかってください。とても楽しまれていました。心からあなたたちを祝福しているようでした。あんな祭祀さんを、我々はあまり見たことがない。なので、彼がいなくなった空席に、とりあえず私が入ることで場を保つことになります。よろしくお願いします。津永と申します」
「ミシヌマ・エージェントって、なに?」と鳳凰口は訊いた。
「ここで話すと、長くなりますが」
「簡潔に」
「祭祀さんの、身の周りの世話を」
「どういう意味で?」
「祭祀さんと、この現実世界を、うまく繋げる役目というか」
「教団は?教団はどうなったの?クリスタルガーデンの改築も、途中で・・・」
「祭祀さんは、教団から離れました」
「そうか。そうなんだ、なるほど」
「それでも、教団と祭祀さんは、完全に分かつことはありません。できません」
「物理的には分離していても」
「はい」
「水原の夫婦と、同じだな」
「水原?」
「独り言だよ。なるほどね。それで?それで、あなたは教団の人間なの?」
「正確に言うと、違います」
「わからないね」
「外部の人間です」
「祭祀に雇われた?」
「いいえ。我々が、彼に近づいていったんです」
「我々って」
「ですから、私は代理人です」
「祭祀の代理人なのか、教団の代理人なのかってことを訊いてるの」
「どちらとも言えます。お互いが同時に望んだことですから。そのタイミングで、我々が、その間を」
「とりもったのね。わかった、わかった」
「今日は、ご挨拶を。今後とも、よろしくお願いします。祭祀さんと、あなたを繋ぐ役目も、私が担っているので。あなたにも許可を出していただけると」
「いいよ」と鳳凰口昌彦は、簡単に返事した。
「よろしくね。あいつは元気なのね」
男は深々とお辞儀をして、退席した。
「なんなの、あれも」
花嫁が介入してきた。
「知り合いが、また、増えたらしいよ」と鳳凰口は笑った。
「あなたの周りは、ずいぶんと変な人がいっぱいいるのね」
「あれはどう見えた?」
「伝書鳩よ」
まあそうだなと鳳凰口は答え、二人は顔を見合わせて笑った。
激原は病室のベッドで、天井をぼんやりと見ながら、式は今ごろ盛り上がっているだろうなと思い、少し歯がゆい想いがした。
激原は一人、悦びの場から取り残されたかのような恰好になったことを、後悔もしていた。
これまでの生き方、やり方で、いいはずがなかった。その現実を思い知らされたかのようだった。何がいけなかったのか。どうしたら自分は、最高の一日を過ごせるのか。そして過ごせたとして、どこにも負荷がかかることなく、こうして後日に崩壊することのない、静寂と至福に満ちた毎日を送ることができるのか。
それこそが、自分の望みのすべてだった。
鳳凰口の建設会社に入り、こうして作業に打ち込むことで、その望みは達成されたかのように見えた。だが実態は、アンバランスなままに突っ走り、挙句の果てにはこのあり様だった。
激原はベッドから起き上がり、腕には点滴の針が刺さったまま、窓から外の様子を見た。季節はいつだろう。時間の感覚が妙になかった。建設の仕事をしているとき、俺は周りの様子は一切見えなくなっていたな。その後で、ちょっとした長い休暇もとったのに。過労は全く回復しなかった。ただ漠然と身体を休ませても、状態は好転することがなかった。しかし一度壊れてしまえば、こうして安らぎに満ちた孤独の世界に存在する。悪くはないなと思った。さっきまでの落ち込みが嘘のように、気持ちはどんどんと明るくなっていった。
不調の底は過ぎたのだろうか。鳥のさえずりが聞こえてきたような気がした。もう春なのかもしれない。そうだ、きっと春だ。激原は窓から見える木々の様子を注意深く見た。しかし枝に葉はなく、まだ冬からの脱皮をしていない寒々しさを、投げかけてきた。まるで自分を見ているようだった。そのときふと、さっきまで見ていた夢のことを思い出した。不思議なものだ。夢を見ている最中には認識がなく、こうして目覚めてから思い出すのだから。どんな夢だったか。激原は遠くの景色に焦点を飛ばしながら、軽いまどろみに入っていった。
そこに自分の肉体はなかった。
激原の意識、肉体を持たず、ある種、そこに浮遊しているようだった。
ここはどこだろう。山々が四方に聳え立っている。そんなに高い山ではない。山脈のようだった。岩が大きく切り剥がれている。トンネルでも彫ろうとしているのだろうか。工事現場のようだった。作業員の姿を、たくさん確認することができる。ヘルメットはしていない。建設の現場ではないようだ。あっと、激原はそのとき声にならない声を上げた。岩は繰りぬかれ、そこに細かい彫刻が施されている。まるで仏像だった。岩はすでにかなり彫られていて、そこには一つの大きな世界が広がっている。一つの仏像を、目的別に、それぞれ制作しているようではなかった。全体で一つの何かを作り上げようとしていた。彫る職人はたくさんいて、みな、沈黙の中で黙々と作業に集中していた。現場監督だろうか。全体を見渡せる大きな岩の上に立って、じっと見ている大柄な男の姿がある。時おり、彼は大きな声を出すが、それもめったになく、だいたいが無言を貫いている。そのあいだも個々の職人は、自分の為すべき仕事が明確にわかっているのだろう。別々の作業を続けている。そんな現場監督らしき男よりも遥か後ろ、高くに引いた場所から、激原はこの丘というか、山全体の連動した作業を見ていた。美しい光景だった。彼らの動きにはまったく淀みがなかった。無駄もなければ、かといって切羽詰まった異様な緊張感もなかった。全体がゆったりとした、それでいて撓んでいない絶妙なバランスの中、職人たちはまさに、その場で寝てしまっているような、それでもエネルギーを、全身から注ぎ込んでいるような、激原は一種の衝撃を受けていた。こんな世界があるのかと思った。
俺の生きていた現実とまるで違った。それでいながら、エネルギーの燃焼度合いは、彼らの方が大きいかもしれなかった。なのにまるで力みがなく、寝ているようでさえある。気持ち良さそうな微睡を、まさに感じているのだ。全体が何の障害もないまま、一つの目的に向かって進んでいっている。
目的か、と激原は思った。そうだ、ここには明確なビジョンのような設計図が存在している。間違いのない意図が、そのビジョンの後ろには聳え立っている。すると今見ているこの光景が、非常に立体的に見えてくる。焦点の絞られた意図が、大きな設計図に光を放ち、その設計図に映し出されたビジョンが、この山全体に彫るべきポイントを指示している。そこに、肉体を持った人間がエネルギーを加え、物質に働きかけ、変形を施し、結果として、仏像を仏教の世界を創造している。
激原は、その美しい人間たちのハーモニーに、見入ってしまっていた。
これなのだと心の中では呟いていた。自分に足りなかったもの。いや、自分が認識していなかった盲点のようなものが今、目の前に現れているような感覚だった。
設計図か。俺にないものは、この設計図だ。俺の意図が投影した、設計図だった。会社が提示する設計図ではない。会社に持ち込まれてくる設計図でもない。俺が投影したい設計図だ。あの現場監督。彼はただ見守り、職人たちがバランスを崩した時に修正を加える、ただそれだけのために、あそこにいるのではない。彼は設計にも携わっている。彼はすでに知っているのだ。この山がどういう形になり、どんな装飾が施され、どんな世界が現出するのかを。あるいは今彼は、そのすでに出来上がっている幻想の世界に、さらにどんな演出を加えていけば、より煌びやかに、厳かに、よりパワフルになるのかを、楽しんで考えているのかもしれなかった。
それもこれも、彼や他の設計に携わった人間の最初の意図が、明確だからこその、遊び心だった。
いったいどれほどの人間が、設計に携わっているのだろう。職人一人一人が、まさかみな関わっているのだろうか。この今見た限りではわからない。激原は、自分がこれから戻っていく世界のことを、すでに考え始めていた。と同時に、自分もあの現場監督の意識と同化して、この世界全体を眺めているような錯覚をも感じた。この存在しないと思いこんでいる意識は、あの現場監督の肉体を拠り所として、本来存在しているものではないか。それがたまたま、この肉体を抜け出し、ずいぶんと空高い地点まで浮き上がってしまったかのような。ということは、俺は、俺はいったいどこにいるのだろう。誰なのだろう。
激原は、自らの肉体の中で、微睡からの回帰を果たした。
病室の窓から遠くを見ている自分を、今という時間の中に落とし込んだ。
俺は変わりたいと思った。本当の意味での、建設会社の社長になりたい。ある意図から、ビジョンを明確に提示し、それを設計図へと落とし込み、できあがる建築計画の数々。俺が鳳凰口建設を、あらたに作り上げていきたい。生み出したいのだと、気づけば激原はこの身に誓っていた。
宗教画家としての生涯を終えるときが来ていた。この人生においては、画家であることから、最後まで外れることができなかった。画家の枠を超えることができなかった。
それもまた、良しとしよう。私は死の床にあっては、この人生全体をゆったりと眺め、それでも、心残りのようなものを感じながら、静かに目を閉じた。
やはり、最後まで、私は国家の社会の枠組みから外れる勇気が持てなかった。
現実的に外れることで、生きていく考えも手段も何の持ち合わせもなかった。
自信以前の問題だった。それでも、あの納屋に捨てられた一枚の絵を忘れることはできなかった。今度生まれ変わったら、誰にどんな扱いをされようが、たとえ食べ物さえ買えなくとも、自分のために、自分のためだけの仕事を可能な限り、続けていこうと思った。そんな人生もまた、良い。私は今とは極端に真逆な世界を思い浮かべることで、この人生における少しの後悔を、慰めようとしていた。そして本当に、あの納屋で見つけた絵は、私自身がそのような別の人生で残した絵のような気がしてきたのだ。あれは他でもない、私が描いたものなのかもしれない。私はあのとき、時空を超えて、別の私自身と出会ったのかもしれない。結局、私は今の画業をずっと続けながら、あのBHに出入りしながら、この社会から逸脱することに躊躇い続けていた。私にとって社会はすべてであり、そこに、富も家族も仕事も生も、すべては存在していた。それを捨てることなど、できるはずもなかった。私の心は、それまでもずっと、孤独だったが、物理的にも、それらに別れを告げ、一人きりになるということは、自殺行為以外の何ものでもなかった。私は怖かったのだ。
BHでは、現実を自ら生み出していくやり方を学んだ。しかし、私は最後まで、実践に踏み切ることができなかった。社会から切り離された私に、いったいどんなパワーを発揮することができるのか。あの絵のように、誰にも相手にされず、打ち捨てられたかように、風雨にさらされるだけだろう。そのイメージが、ずっと抜けなかった。もう少し若かったなら。人生の前半に、BHと出会っていたならと。そう思わずには、いられなかった。この人生をかけ、すべてを組み替えることだって、可能だったはずだ。画家の、まだ見習いのときに。たいして社会的に力を発揮していないときに出会ってさえいれば。今、私は死の床ですべてを理解していた。私がやろうとしていた心の奥底で思っていた画業。そして、宗教への信仰心。それと、この社会全体の意識は、絶対に釣り合わない。絶対に噛み合うことがない。だが、それも、私の思い込みであったのかもしれなかった。私に芽生えた新しい意識もまた、それまで生きていた社会意識もまた、元はまったく同じであり、同じ素材でできていることを知らなかったのだ。世界のすべては同じ要素から成り立っている。だから何も恐れることはなかった。恐れが絵を納屋に置き去りにしていた。あの絵を受け入れてくれる社会などないと、私自身がそう思いこんでいただけなのかもしれなかった。あの絵も、このベッドも、ヴァルボワ国も、ヴァルボワ国の宗教組織も、宗教画も、すべては、同じ要素からできている。同じ要素同士、働きかけのできないことなど、あるだろうか。私自身が違う要素だと思い込んでいただけのことだ。
私は、次に生まれたときには、そういった思い込みをすべて外し、世界はすべて同じ要素でできていることを、心から感じ、その要素を自分で自由に使い、思い通りの人生を歩みたいと思った。そんなふうに、世界に働きかけるのなら、私の望みとは、きっと誰かの望みでもあり、より多くの人の望みでもあり、社会の望みでもあり、この今の私の望みでもあり、あの絵を描いた、もう一人の私の望みでも、あったことであろう。私はすべての私が望んだ存在となり、望まれる、すべての存在になる。しかし、たとえ一人きりになってしまったとしても、それはそれで構わない。
水原は、鳳凰口の入院する病室にいた。
もう明日には、彼は退院するらしかった。入れ違いにならなくてよかったと水原は言った。
「盛大だった?式は」
鳳凰口は見舞いでもらった、リンゴを撫でながら、水原に訊いた。
「派手だった。いかにもあいつらしかったよ。そういえば、激原。お前とはこうして二人きりで話すのは初めてだな。いつも三人以上はいたし、直接、お前と話しをしたことはほとんどなかった」
「前任の社長、鳳凰口の親父さんとは、ずいぶんと懇意だったようで」
「そうだな」
「それからは手を引いたんですね。どうして親父さんに近づいたんですか?あのタイミングで、親父さんは死んでしまった。あなたは、親父さんに個人的に繋がっていたんですよね。そもそも会社が、存続するとは思ってなかったんですね。まあ、過去のことは、もういいですけど。今日は、鳳凰口さんの代わりですか?」
「彼は、新婚旅行に行ったよ」
「ええ。メールが来ました。鳳凰口さんから、頼まれて来たんですよね。彼抜きで、個人的な話があったわけじゃないですよね。僕は、どうも、あなたが、苦手だ。何故でしょう。はっきりと言います。僕はあなたが嫌いです。あなたの行動はどれもこれも純粋に見えない。何か裏があるように映ってしまう。妙なタイミングで来るし、その妙なタイミングというのが、けっしていい意味じゃない。不吉な予告を突きつけにくる、死神のようだ。正直、あなたに来られて、迷惑なんです。来るような気がしたから、できるだけ早く、退院の許可をとりつけたかったに。くそっ。でも、間に合わなかった。親父さんとの縁が切れてから、あなた。今まで何をしていたんですか?」
激原は、リンゴを弄ぶことをやめ、水原の目を睨みつけた。
「大きな仕事としては美術館の建築だよ。そのプロジェクトを発案し、いろいろと資金を集めていた」
激原は、大きく一度頷いた。
「そういう仕事、向いてますよね。ところが、その中身が問題だ。今度は、何ですか?また誰かをけしかけて、唆して」
「ただ、一人の人間、アーティストのために建てる、ミュージアムだ。前例のない」
「何のアーティストですか?」
「別に何でも」
「彫刻でも?」と言って、激原は笑った。
「もちろん」
「実は彫り方を、鳳凰口さんから、伝授されたんです」
「そうなの?」
「ええ。鳳凰口さんも、もう、そんなには彫ってらっしゃらないようですけど。でもやめてはいません。彼が選ばれる可能性もあったわけだ」
「決定の前だったらね」
「僕も、応募ができたわけだ」
「一週間前ならね」
「そんなに最近の話なの?僕が入院したのと、同時期じゃないですか」
「三月十八日」
「まさにその日ですよ」
「応募する気はあった?」
「知っていれば。だって別に、完成した作品を見せろってわけじゃないんでしょ?」
「作品審査はあるよ」
「でも完成品を、たくさん揃えておくって、条件ではないんでしょ?片鱗さえ見せておけば、それでいいんでしょ?可能性をあなたたちは、買うわけでしょ?」
「あなたたちっていうか、俺はいっさい、選考に関係ないけど。自信あったのか?」
「さあ、どうだろう。一週間前なら、確かに、まるで駄目だったでしょうけど。でも今なら、これからなら。なんだかやれそうですよ」
「何があったの?病床でうなされておかしくなったのか?」
「そういうことにしておきましょうか」
「そういえば、顔つきが少し変わったかもな」
「そうですか?」
「自信が漲ってきているような」
「ほんと、ですか?あなたに言われると嬉しいな」
「胡散臭いんだろ?」
「だから、余計に」
水原は、激原の背後を、何故か気にしていた。
「何か吹っ切れたようだな。面白い奴だ」
「あなたと鳳凰口さんって、幼馴染なんですよね。それは。本当なんですか?」
「どういう意味」
「いや、全然、そんなふうには、見えないから。そういう気の許し方を、お互いしているようには見えないから。どこか壁があるというか。それで疑ってるんです。あなたのそのキャラクターも、実に不自然だし。鳳凰口さん、騙されているんじゃないかと思って。彼の親父さんと、同様」
「なんだって?」
「おおっと怒らないで、怒らないで。あなたとは、やり合いをしたくないから。この先、長い付き合いになるかもしれないから」
「なら、答えろよ。俺のどこが胡散臭い?どこが不自然だ?」
「正直言うと、本音を隠してるというか。要するに自分を信じてない。何か仮面のようなもので幅を利かせて、そう、まさに相手を説得させようとしてる。あなたと一緒にいたいとか、何かをやりたいっていう気には、全然ならないわけで。そうでしょ?あなたの周りに、人はあまり寄りつかないでしょ?みんな、感じてるんですよ。危険人物であるということを。百も承知だ。僕はそのことに最初の瞬間から気づいている。あなたに必要以上に、近づかなかったのかもしれない。その美術館のプロジェクトは、あなたが言い出したんですよね。ということは、あなたの思想や哲学、想いのようなものが入ってしまっているわけだ。実に可哀相なものだ。悲劇的な結末が、すでに目の前に浮かび上がってくるようですよ。あなたが自分の意志で起こした行動で、ハッピーな結果を出したことって、あるんですかね。そうそう。もしあったとしても、あなたはずいぶんと、ご自分を捻じ曲げて、自分を押し殺して、いい結果を生み出したにすぎない。その反動は偽りなく、あなたを襲いますね。もうすでに襲われていて、襲われたことも過去の出来事になっていたりして。また、あなたは、新たな悲劇を巻き起こしたいんですか?懲りてくださいよ。あなたみたいな人は、じっとしていればいいんですから。何故、それがわからないんですか?ただ言われたままに、会社に来るオファーの一端を、あなたは担っていれば、それでいいんですから。あなた自身のエネルギーは、極力撒き散らさないでもらいたい。僕の病室も、すでに空気は詰まって、息苦しくなっています。お帰りください。もう二度と、二人きりでは会わないと思いますよ。それじゃあ」
水原は、激原が病み上がりであることを気づかい、これ以上、滞在することを遠慮した。
反論したい気持ちは、少しも起こらなかった。
激原は、この自分という人間の鏡に映った、彼自身を見ていたのだろう。
情緒の不安定になっている彼を、憐れに思いながら、水原は病院を後にした。
俺だって、あいつと反りの合わないことくらい、わかっていたさと水原は呟いた。
けれども、鳳凰口に言われなくても、一度、あの男とは会っておく必要があると思った。
何かに呼ばれているような気がしたのだ。こうして物別れに終わってしまったが、それなりに意味はあったように水原には感じていた。今はまだわからないその理由を、彼はそれ以上、詮索する気にはなれなかった。鳳凰口や他の奴とは明らかに、あの男は異質のような気がした。あの男に秘められた凶暴性が、そう思わせているのか。確かに、破壊願望のようなものが、あの男にはあるような気がする。破滅願望ではない、破壊願望だ。
そう思ったとき、何故かあの男はひどく純粋な心を持っているような気がしてきた。俺らが綺麗ごとにして、片付けてしまおうとするものを、あの男は大事に抱え持っていて、反逆してくる。まるで病原菌のような奴だ。俺らが見過ごしてしまう、その微細な矛盾する感情を、あの男は精妙に捉え、溜め、巨大に積み重なった後で、激しい怒りと共に爆発させる。あの男はそんなエネルギーを生命力へと、書き換えているようでさえあった。
その男が倒れたというのは一体、どういうことなのか。自爆でもしたのか。いや、エネルギーの爆発を終え、ある意味、抜け殻になったことで、何かウイルスの侵入でも許したのだろうか。
この一週間のあいだ、あいつはベッドの上で何を考えていたのだろう。水原は、自分が激原になったつもりで考えた。
何か穏やかな表情はしていた。言葉は荒々しく挑戦的だったのに、身体から発する雰囲気はひどく柔らかかった。腑に落ちることがあったかのような顔だった。辻褄が合うことがあった顔だった。その気づきを得ている最中に、この俺が姿を見せたものだから、イラついていたのだろうか。
それにしても反りが合わないのは、いつになっても解消する気がしない。
鳳凰口や見士沼たちと、これからも関わりがあるのなら、あの男もまた漏れなく付いてくる存在だ。合わないなりに、最適な関係に落とし込まないと、やってられなかった。怒りの矛先が、全面的に俺に向かってこられても、困る。ただあの男には、何か大きな存在の片鱗があった。おそらくそこが、俺と最も違うところなのだろう。あのまま建設会社の社長に収まっていられる器には到底見えない。何かやらかすはずだ。俺にはあの男が身体も含めた巨人に見えることがあった。能力的には劣るかもしれないが、破壊力だけを見たら、到底、人間離れしている。あいつは自然の力を、それも、良からぬ嵐や雷といったそういう存在に、バックアップされているのではないか。彼自身がそこに気づいていないため、そのバックの存在は、全面的に力を貸そうとはしない。それどころか、事あるごとに、それらのバックの存在に、彼自身の平穏が脅かされる。脅かされ、翻弄されてきた、これまでの人生だったのかもしれない。
しかし、あの穏やかな彼の表情を、俺は見た。
気づいたのではないか。彼には今後のビジョンが見えたのではないか。未来の光景が現れたのではないか。未来の方向性が決まったその課程で、彼の背後についている存在に、気づいた。それを思い通りに操り、今度は自分がそれらのバックにつこうとしているのではなかろうか。だとしたら、超大なエネルギーの転換が起こる。まさに彼が巨人として再生する。
ふと、水原は、激原が今の激原として、その存在を確認する最後の機会に、立ち合ったのではないかと思った。そのために、自分はあいつに会いにいったのではないか。ある意味、最後の激原の姿を目撃するために、俺は遣わされのではないか。まさに変わり目に。これだけ文句を言われることも、運命ではすでに決められていて、そのあとでこうして俺にも気づきを促すようにした。何かが大きく変わり始めているのがわかった。
それは激原を起点とした、何かではなかった。起点はあいつになりそうにない。あいつも一つの現象なのだろうと思った。鳳凰口が起点というわけでもなさそうだった。俺でもない。もっと大きな何かの存在だった。その大元のエネルギーが、激原の意識を劇的に変え、自身と背後の存在を入れ替えてしまっていた。入れ替わろうといる。俺はどうなのだろう。俺は、背後にいったい何の存在があるのだろう。あいつのように、激しい自然現象を巻き起こすような何かが、いるのだろうか。そうには思えない。
俺は激原ではない。激原は俺のことを虫けらのような扱いにした。そうなのだ。あいつにしてみれば、俺など、そのへんをうろちょろする、ネズミのような存在だ。そんなふうにあいつは俺を見た。確かに大きさでは、あいつにはかなわない。エネルギーの総量でもかなわない。しかしあいつにはない別の能力がある。そうだ。あいつも、俺を嫌っていたじゃないか。俺もあいつが嫌いだった。まったくの正反対の対極にある要素が、俺らにはあるんじゃないだろうか。ということは、あいつの背後を見れば見る程、俺という存在も、また鮮明になっていくのでないだろうか。巨大で、激しい、自然エネルギー、その逆だ。小さくて、人工的で、穏やかな波のような存在。対立する者同士の潤滑油のような存在。意図的に、大きな存在を、この世の、この世界に合うサイズにして、合う形態にして嵌めこむ。落としどころを探る。そんな存在なのではないか。
だからあいつは、俺のことを胡散臭いだとか、そんな表現をしたのかもしれなかった。
あいつもまた、自分にはない能力を、俺の背後に、見たのかもしれなかった。
あの男と会って、悪いことは何もないようだった。得られる能力ばかりだった。定期的に会いたいとさえ、思い始めていた。俺の背後をより明らかにする、最適な人物を見つけたような気がした。
「縦と横の統一が、一番のポイントだ」
闇の中、自分の肉体の輪郭が、はっきりしない世界において、その暗闇が言葉を発したかのようだった。
「どっちのラインが、初めに強く開発されるのか。それは運命だ。選択の余地はない。しかしいずれは皆、統一への道へと進む。縦のラインが強力に開発され、すでに何の努力もないままに、そのラインは出来てしまい、今は横のラインの開発に、意識を絞っていることもある。横のラインが、次第に完全になっていくにつれて、縦のラインとの融合をしていく感覚を得ることだろう。そう感じたときから、融合は加速していく。
なぜなら本来、地空間には縦も横もないのだから。初めの認識として、分かれていただけだ。そう、認識として。認識というのは、そんなふうに、分けることが得意だ。分けることで、互いの存在を確認しようとする。だが、認識してしまえば、それはまったくの別物ではなくなる。同じものだ。同じだという感覚を得たとき、その縦横ラインは姿を消す。だが今はまだだ。やっと縦と横のラインを認識したのだ。まさにこれからだ。縦というのは天と地のことだ。天と地をつなぐ、エネルギーの回路のことだ。横というのは、地における存在と存在を繋ぐエネルギーのことだ。どちらかが先に、発達することになる。そしてその回路を、完全に安定したものにしたとき、もう一方のラインの存在を確認する。
つまりは、無意識かもしれないが、先に現れたライン、それを完全にモノにするとき、もう一方のラインに気づくことになる。そしてそのラインの開発を、今度は意図的にする必要性を感じる。二番目のラインを強力にしていこうとすればするほど、第一のラインもまた強固になっていく。確定する。縦と横のエネルギーは、次第に融合していき、いずれは縦も横もなくなっていく。この三次元の現実に、縛られることはなくなる」
激原は、闇が語る言葉に耳を澄ませた。幻聴ではなかった。水原と会った夜、入院最終日の夜に、病室は停電してしまった。建物は強い風雨に晒され、電線に異常が発生してしまったのだろう。夜が明け、この自分の肉体の輪郭を取り戻すにつれて、この幻聴も消えてなくなることはわかっていた。輪郭を感じるのか感じないかで、五感は驚くほど、変化する。
激原は、目を閉じたつもりになったが、それもまたあやふやであった。
あるかもしれない耳に、意識を集中するが、声は聞こえてはこない。耳という輪郭を意識してしまったからだと、彼は思った。この暗闇全体が一つの耳でもあるという体感へと、意識を移っていく。声はそれでも聞こえてはこない。何かの波長が偶然合ったことで届いた、幻であるらしかった。続きは想像に頼るしかないと思った。縦のラインだとか、横のラインだとか、よくわからないことを言っていたが、要は、この世の物理法則なのだろうと思った。確かに俺は、建造の作業をしているとき、極度のトランス状態に陥っていたが、おそらくあれが、縦のラインを繋いでいるのだろうと思った。空の彼方と、俺はひとつになっているようだった。この肉体そのものが、地球を超え、宇宙のいくつかの星と、直接関係を結んでいるかのような、今思えば、そんな感覚だった。その強烈なエネルギーをこの全身で浴び、そしてそれまでに、自分の身体に溜まりに溜まったエネルギーを、宇宙の星に向かって放出する。彼らもまた、そのようなエネルギーを欲し、要求しているのかもしれなかった。エネルギーの激しい交換をしていた。そしてそのトランス状態から、この世界へと戻ってくる。
確かに、それはそれで、また急激な着陸をしているようだった。身体にかかる負担も、相当なものなのかもしれなかった。その影響が、今こうして出ているのかもしれなかった。縦のラインだけしか、俺にはないのかもしれなかった。横のラインを意識し、意図的に開拓する必要が、あるのかもしれなかった。
そう思ったとき、激原には、昼間ここに居た、ある男の姿が蘇ってきた。
闇の中で、彼は微笑んでいるようだった。横のラインか。あの男は、そのラインに、深く関係している奴なのかもしれなかった。そのラインが今、俺の中に確立していないものだから、それを持っているあの男の雰囲気を、ひどく拒絶したのかもしれなかった。
水原永輝。いや、それにしても、あの男はひどく嫌いだった。
あの企画書は、すべて出鱈目だった。画家であると自称しただけでなく、すでに作品も所有していること。今後の制作の予定。方向性。全体のビジョン。すべて思いつきだった。
俺は何としても生涯食べていくのに困らない情況が欲しかった。風雨を凌げる安全な屋根のある家がほしかった。会社に就職する気もなかったし、アルバイトをする気にもなれなかった。大学も何年留年していることか。そんなときに広告が目に入ったのだ。
一瞬でコレだと思った。こんなおいしい話が、他にあるわけがないと思った。しかも完成した作品、すでに世に出した作品の全てを、審査し、選考するということでは、一切ないのだという。応募資格に、専門性はがなかっまったく問われない。俺は絵など、真剣に見たことすらなかった。美術にもまた全然、興味た。けれどもこの募集要項はおいしすぎる。確かに俺が、選考に通る見込みは万に一つない。今のところ。しかし選考委員に、俺がその該当者であると思わせることはできないものか。決まってしまえば、こっちのものだ。不思議と自信がなくもない。その日以来、俺はもっともらしい履歴書をこしらえるため、日々、意識の片隅に、その選ばれしアーティストが自分であるという妄想を色濃くさせていった。
それでもまさか、自分が選ばれるとは。電話では、何度も聞きかえしてしまった。本当に俺でいいのか。大丈夫なのか。その瞬間から、背筋はずっと冷たいままになった。やっと、事の重大さに気づいたのだ。俺のために何千億という金が動いている。今さら、絵など描いたこともないと前言を撤回するようなことはできない。ならば、どんなひどい絵を描こうが、画家であることを貫くしかない。
俺はどんな画材が必要なのかも知らなかった。
それも、もうヤケクソで適当に仕上げていったらいいとさえ思った。真剣にキャンバスと向き合うことなど、できそうにはなかった。あまりに退屈な作業だった。画家という人間を、心底、尊敬し始めた。こんなことにエネルギーを費やすなど、疲れるだけだ。見る人を感動させることのできる絵など、そもそも今現在、現実に存在しているのだろうか。そんな絵があったら、是非見て見たいものだった。なるほど。描く前にまずは見ることか。とりあえず、東京で開かれている展覧会にすべて行った。さらには地方の美術館にも、足を延ばした。海外はどうだろう。この自分は、巨大な自前の美術館を持つことができるのだ。経費は使いたい放題だろう。あらゆる絵を見てやろうじゃないか。描くのはそれからでも遅くはない。もう一度、俺は提出した企画書を読み直してみた。ずいぶんな、大風呂敷を広げている。とても自分が書いたものには思えない。恥ずかしいだけでなく、よくこんなことが思いついたなと、ある種、代筆を誰かに頼んだかのような、気持ちにもなった。確かに、この募集要項と出会い、下書きを始め、実際に提出するまでの二週間、そのときの記憶を今、鮮明に思い出すことはできない。
ふと、これでいいのではないかと思った。こうなることがさだめだったのではないか。
もしかすると、本当に画家なのではないか。画家になるために生まれてきたのではないか。これまでその運命に触れることがなかった。だがこうして突然、目の前に現れ、何の躊躇もなく行動し、あっというまに結果までついて来ている。あとで調べてみると、このオーディション、コンテストには、国内外から錚々たる名前が挑戦しているのを知った。その中でどうして、俺が選ばれているのだろう。まったくもって、理解することができなかった。まだ公の発表は、これからだが、いったいどんな顔で出て行けばいいのか。どんな発言をすればいいのか。すでに人の目も気になっていた。急に不安になってきた。
しかしそれでも、選んだ方にも、責任はあるさとケイロは開き直った。
「ケイロさんの電話で、よかったですよね。水原です。ミュージアムのことで、今後のお話が」
「ああ、ええ。ケイロです。初めまして」
「大学生でよろしかったですね」
「経済学部です」
「それで契約書の方を、お送りしましたので、読んで精査してみてください。来週の火曜日はいかがですか?ホテルでお会いしましょう。そのときに契約書に判を押して、それでいいですかね。急な話で申し訳ないです」
「あの、公に発表するのは、いつですか?」
「記者会見ということでしょうか」
「はい」
「特に予定はしてませんでしたが、そうですね。やっぱり。やったほうがいいですよね?」
「いえ、別に、そんなことは」
「顔を出したくないですか?公に出るのは、作品だけが、よろしいですか?あなたのやりたいように、やってください」
「もう一度、訊きますけど」とケイロは、控え気味な声で言った。「本当に俺でいいんですね?どんな選考をなさったのかは、わかりませんが、本当に俺で間違いないんですね?もしよかったら、その中身を、教えていただけませんか?」
「間違うはずもありません。あなたです。あなたでいいんです。わかります。恐れが沸いてきてる、あなたのその気持ち。わかります。当然です。あなたに期待されていることは、非常に大きいから。またこんなことを言うと、プレッシャーに感じるかもしれませんが、本当のことなので。でも、あなたは大丈夫です。プレッシャーだとか人目だとか、そんなものにいちいち影響される、人間じゃないから。実はそこが、最も選考するときの基準になったことでしてね。あなたにだけあるもの。あなたにだけ、強烈にあるもの。あなたには、強力な武器があるんです。それですよ、まさに。今回、応募者に、どれほどの才能や技量があるのかということは、実は、あまり審査の対象にはなっていないんです。経歴とか実績とか、びっしりと凄い感じで、書いてきた人ばかりでしたが、これも、まったく読まれてはいない。我々の求めているものを、勘違いなさっている人ばかりで。ですので、あなたはそのようなことはないようですが、まったく美術を知らない、制作をしたことのない人であったとしても、選ぶ可能性はあったわけです。あなたにだけは多少はネタばらしをしてしまいますが、基準はたったの一つだった。それに照らし合わせたときに、強烈な光を放っている人物。あなたしかいませんでしたよ。何の迷いもなかった。おそらくこの美術館建設のプロジェクトが発案された瞬間に、もうあなたに決まっていたのでしょう。何も心配はいりません。あ、そうそう、美術館の建設の着工は、もう来月です。四月十三日。おそらくは三年はかかるかもしれません。なのでは展覧会を開くにしろ、作品を所蔵するにしろ、いくらあなたが望んでも、今年の実現はありません。違う形で仮の展覧会は開くことは、もちろんできます。それに合わせてはあなたを公にお披露目するということはできます。あ、いいですね、それ。そうしましょうか。それなら年内に、いや、来月にでも可能です。どうですか。今、制作はしてらっしゃるんですか?」
ケイロの背中に汗が流れた。
「今はしていません、はい。美術館巡りをしてまして。いろいろと刺激のほうを」
「そうですか。わかりました。では来月の開催は不可能ですね」
「いやっ」とケイロは、反射的に答えた。「大丈夫です」
自分でも驚いた。
「どれくらいまとまった数の絵があれば、開けるんですか?」
ケイロは、電話相手の水原に訊いた。
「五十枚か。それに近い数があれば」
「オッケーです」
「ほんとですか?」
「はい。是非、やらせてください!」
驚きは通り過ぎ、諦めにも似た気持ちが沸いてきた。
「いけると思います」
「もしかして、もう相当数のストックが、あったりとか」
「今はありません」
「これから一か月でそんな数を?」
「可能です」
「焦る必要はないですよ。今は選ばれて気持ちが昂ぶっているようですから」
そうじゃないんだと、ケイロは小さな声で呟いた。
「やらせてください」
試したい気持ちがあった。こんなことでも、出来ないようなら、俺は間違った該当者になっている。それを、証明したい気持ちが半分、もう一方では、もしかしたら、ここに自分の道が開けているのではないかと、期待する自分もいた。
一か月前に、オイシイ話だと飛びついた、あのときの浮ついた気持ちは、今はどこにもなかった。
私はまだ生きていた。寿命が尽きるであろうと感じていた日付からは、すでにどれだけ経ったのか。私は自宅のベッドの上で、寝たきりの生活を送っていた。私の感覚では審判の日からは、すでに一週間が過ぎている。死にきれない私の意識は、次第に寝ていることに飽きていった。街に出て散歩しようと思った。弱り切っていた足腰を振い起させ、久しぶりに工房まで歩いていこうと思った。一か月前には病院にいた。昏睡状態も経験し、そのときは工房の職人たちが、私の最期を看取るためにやってきた。私は持ち直し、家族のいる家へと移された。思い返せば、一か月以上も死にきれないでいる。
私は、ヴァルボワ国の、今の情報を入手するため、情報通の旧友たちを訪問しようと思い、工房から行き先を変更した。突然生きている私が、しかも、ぴんぴんとして歩いてきたものだから、彼らはひどく驚いた。ほとんど歳も同じなドートも、また驚いた。しかし驚いたのは私の方だった。ヴァルボワ国は大変な激変期にあったのだ。そうとは知らず、私はベッドの上で茫漠とした数日を過ごしていた。時代の変り目に、私たちは立ち合っていたのだ。死んでる場合ではなかった。ドートが言うには、ヴァルボワ国もまた、周辺諸国と同じように、君主制への移行が避けられなくなっているらしかった。彼は政治経済の情報に大変詳しかった。彼自身も銀行業を営んでいた。
「これまでだって、君主制のようなもの、だったじゃないか」と私は言った。
「いいや、そんなことはない。起業家や職人たちの自治で、この国は成り立っていた」
「表向きは」
ドートは口を噤んだ。それ以上は、その話を深入りさせたくないらしかった。
「そうだな。自治で成り立っていたよ」私は同調した。
「対外的に、より強力な国家の整備が、必要になった」
「国内の問題じゃないんだな」
「そう。あくまで外の問題だ。じゃないと、どこかの国に乗っ取られる。滅ぼされるか、奴隷国家にさせられる」
「なるほど。で、誰が君主に?」
「金持ちだ。国際的な銀行業を営んでいる家がある。彼らが有力だ」
「お前のところか?」
「ウチじゃない。ウチはヴァルボワ内での業務が専門だ。職人たちの自治と同じレベルだ」
「じゃあ、君主制になったら、お前のところも、だいぶん力がなくなるわけか」
「一極に、富と権力を集中させねば、外とは戦えん。そういった認識は、すでに職人の組合の中でも湧き起こっている。国の外を見てきている商人たちが、彼らに話をして、彼らもまた敏感に反応している」
「ほんとなんだな」
「時代だよ」
ドートとの会話を皮切りに、私は私なりの情報網から、あらゆる材料を集めていった。
確かにドートのいうように、マリキという国際銀行業を営む家が、今君主になるべく工作を国中でしかけていた。彼らに同調する勢力が、徐々に増加しているという情況だった。彼らが表舞台に現れるのは、時間の問題だと思った。すでに国民の意識は、彼らを望む機運になっていた。問題なのは私の命が持つのかということだ。マリキ家が台頭するときに、その光景を私は見届けることができるのかということだ。
私は散歩を続けながら、思考を整理した。そのとき病院の医師にばったりと会った。彼は私の姿に絶句していた。呼吸困難に陥り、今夜が峠だという場面に立ち合っていた医師だった。初め、幽霊でも見たかのように目を伏せ、私の横を足早に通りすぎようとした。私は声をかけた。彼はびくっと体を震わせながら、裏返った声を出した。
「お久しぶりです、先生」
私から声をかけた。
「お化けじゃないですよ。こうして今も元気で、余生を暮らしてますから。少し寿命が延びたようです。まだ死ねない何かが残っていたようです」
「あ、ああ。そ、そう、なんだ・・・」
医師は、頭をなかなか上げなかった。
「生きかえったわけではないので、ご安心を」
「いや、別に、いいんだ」と医師は、意味不明な言葉を発して去っていった。
ずっと以前から、ヴァルボワ国の自治は見せかけにすぎないと思っていた節が、私にはあった。しかしこう見ていくと、少し過剰に私は思い込んでいたのかもしれなかった。確かに自治に近い形での、国の運営がなされてはいた。職人たちが作る商品は、ヴァルボワ国の宗教建築や美術品として納品されるだけでなく、海外に売ってもいて、その業務に銀行家も深く関わっていた。じょじょに彼らは力をつけていき、今表舞台へと現れようとしていた。
私はその後、さらに二か月、生を延長することができた。よって、マリキ家が正式に政治の頂点に駆け上がる様子を見られたし、さらにはあれほど強固だった職人の組合が、ほころびをみせる最初の瞬間にも、立ち合うことができた。マリキ家は、組合とはまったく関係のないところで、専属の画家や建築家、彫刻家を持つことになった。そして彼らはマリキ家の要求する仕事を、忠実にこなしていった。だが事はそれだけでは終わらなかった。
彼ら芸術家は、マリキ家の要求とは関係のないところで、自分の好きなように制作をしていた。マリキ家の莫大な富をバックに、彼ら芸術家は、自分のしたい表現を存分にし始め、マリキ家の発注する作品を制作し、マリキ家がその作品に満足をし続けられる限り、芸術家はほとんどの時間を、自分のために使うことができた。そしてその費用を、マリキ家に請け負わせることができた。生活も職人たちとは比べ物にならないほどに裕福になった。だが誰でもなれるわけではなく、厳正なる審査があり、ほとんど天才レベルの職人しか、マリキ家と専属契約を結ぶことはできなかった。
しかし一度、一人そのような人間がでてくると、職人の組合の中には驚くほど才能のある人間がいた。彼らはこれまで決められた仕事しかしてなかったために、まるでそんな能力があるとは自分でも知らなかった。しかしマリキ家が表に現れ、公に専属契約を告知すると、彼らはみな大金欲しさにその職を求め始めた。そしてその中には、独創性を発揮したくて、自分の表現をしたくてたまらなかった連中も、当然ながら存在していた。才能と意欲の格段に高い人間たちが、マリキ家お抱えの芸術家として、新しい時代を切り開いていくことになった。
私は少し羨ましかった。ほんの少し後ろの時代に生まれてくればよかったとさえ思った。
私がずっと思い悩んできたこと。特に、この晩年に発生したその葛藤が、解消できそうなそんな流れが、今やってきていたのだ。若かったらと、私はそう思わずにはいられなかった。私は再び体調が悪化し、ベッドから起きられなくなってしまった。一人息子を呼んだ。彼もまた私の工房で働く職人の一人だった。
「どうだ調子は?」
私と息子は、普段からあまり話をする間柄ではなかった。仕事を通じて、師弟のような関係でもあったので、画業を通じて、意思疎通を計るという繰り返しだった。しかし我々の画業は、このヴァルボワ国の自治政治と宗教観に、しっかりと嵌められていたため、その縛りの中での会話しか、成り立つことはなかった。そう思うと哀しくなった。我々の自治政治を維持するため、自ら制限をかけていた、そんな人生のような気がしたからだ。
「お前にはそうなってもらいたくない」と私は息子に言った。息子の表情はさえなかった。
「お前も応募してみたらどうだ?」
返答は思わしくなかった。淡を絡ませ、彼はせき込んでしまった。
「金持ちになれるぞ。応募するだけ応募してみろ。しないで後悔するよりは、よっぽどいい。俺がお前の年齢なら、喜々としてチャレンジするぞ。願ってもないチャンスだ。父さんはこのまま死にたくないくらいだ。もう一度、人生のすべてをかけて、状況を変えたいから」
「そんなふうに、俺の周りの奴らも、言ってるよ」
「な、そうだろ?」
「うんざりなんだよ」
「えっ。なんだって?」
「そういうのは、本当にうんざりだって言ったんだ」
「もういっぺん言ってみろ」
「何度だって言うぞ」
「どうしてそんなことを。ならお前、俺と入れ替われよ。お前の方が老人みたいだぞ。何の意欲もなく、明日にも死んでしまいそうだぞ」
そう言ったとき、私の身体の深い部分が妙に疼いた。消えてしまう寸前だった灯が、また発火してきたかのようだった。ベッドから起き上がり、散歩ができそうな気持になってきた。
「お前がいらないのなら、俺によこすんだ」と私は言い続けた。
そのときにはすでに、息子の表情など、どうでもよくなっていた。彼の心情を察する余裕など、なくなっていた。
私は息子を攻め立てるように、彼の消極性をなじり、それに連動して、自分の生きる力を盛り替えそうとしていた。もうとっくに、寿命の尽きている身体に、鞭を入れるよう、激しくエネルギーを地の底から、呼び起こして、目の前の空間にぶちまけていた。
私をもう少し長く、この世に存在させてほしいといった欲望からは、さらに飛躍し、もう一度、これまで生きてきた人生に匹敵する長さの、時間と場所を、獲得したいという、極限の祈りにまで、昇華していたのを、息子のいなくなった部屋で自覚していた。
その提出した書類をかいているときだった。ケイロの頭の中では、無数の声なき声が、鳴り響いていた。そこには、死の床で発狂する父親の画家が居て、それを看取る息子の画家の姿。さらには、この父親の画家が、生前、想いを寄せていたという、納屋に打ち捨てられた絵を描いた、名もない画家の姿。彼らの嘆き悲しむ声が、ケイロの肌の奥から聞こえてきているようだった。彼らがこの自分と一体になろうとしていることを、ケイロは悟った。
いったい、誰なのだろうと思う。しかし、ケイロは、その嘆きたちを受け入れることができなかった。身体は拒絶していた。彼らの声は凄まじく、それでいて、どの声もまた決して、他と混じり合うことのできない哀しみに、彩られていたからだ。そんなものを俺一人に押し付けてくるのか?考えられなかった。なぜ、自分ひとりで、解放することができなかったのか。俺に何を頼ろうとしているのか。そんなものを受け入れてしまえば、俺はそれぞれのエネルギーが身体に入ってきて、矛盾を起こし、カオス状態になってしまうことだろう。そんな人生でいいわけがなかった。
ケイロは必至で抵抗した。それらの声を存在しないものとして、捉えようとした。だが、そうすればするほど、彼らは、自分に近い存在へとなっていく。ならばと、開き直り、受け入れてしまおう。同化してしまおうとする。が、そんな恐ろしいことはできない。俺を廃人にしようとしているのか。ケイロは必至で問いかけた。
しかし、答えは返ってはこない。まるで、こちらの声には応えようとしない。
自分らの主張を、これでもかと、繰り返すだけだった。わかった。せめて一人ずつにしてくれと彼は呟いた。すると、願いは聞き入れられた。一人の声が、実にクリアに実体を持ってやってきた。それはまるで自分の声のようでさえあった。
自分の心の中での一人ごとのように、響いてくる。死の床で発狂した画家の男は、息子に果たせぬ想いを託したが、彼はまったく異なる思想を持っていたため、死の直前に交わした会話で、全面否定され、拒絶された。それが、この世での最期だった。時代は変わったのだ。その変り目に立ち合いたかったのだ。息子はこれから、その変り目で新しい人生を展開するチャンスがあった。そのチャンス、は俺が欲しかったものだ。どうしてこう、タイミングは絶妙にズレるのだろう?彼の実態は消えていった。
息子の画家という男が、会話を引き継いだ。父の気持ちはわかると、彼は言った。そして自分もまた、ある面では、そのようにしたいのだとも語った。父の想いと重なる部分はあった。そこを生きたいという自分もいた。でも今の状態で、それを実行してしまえば、不幸になるだけだ。自分には解消しておかなければならない心の問題があった。二つの矛盾する想いを、抱えたまま、世の中に大きく出てしまってはいけなかった。よくない影響、よくないエネルギーを、撒き散らしてしまうことになる。それが俺には怖かった。ならば、これまで通りに、工房職人として働いている方がマシだ。今は、その時期じゃない。ケイロは答えた。ならば、そのことをちゃんと、お父さんに話したらよかったのに。それなら、安らかな最期になったんじゃないのか。どうして、そうはしなかったのか。男は、百も承知だと言った。そして、驚くべきことに、父を最後に発狂させるのが、自分の役目だとも言ったのだ。
ケイロには理解できなかった。親をそのように貶める子供を、どんな気持ちで眺めればいいのか戸惑った。しかし、男は撤回する様子もなく、父の望みを、自分は叶えてやったのだと主張した。父は安らかな最期など、期待してなかった。もしそうなら、とっくに死んでいたはずだ。死ぬべき「トキ」を、わざわざ延長したのは、この俺に、何かを言い残したかったからじゃなかった。俺に自分を発狂させるよう、仕向けたかったからだ。あなたにはわからないだろう。あなたは他人だから。あなたは、だいぶん離れた場所に、いるから。あなたとは、心も到底、交わり合わせることができない。あなたには、何もわからない。ただ、声だけは、届けることができる。こんな親子がいたということを。忘れないでほしい。あなたに原因があるのだから。ケイロはそんなふうに、身に覚えのない責められ方をされたのは、初めてのことだった。到底受け入れられないよと、ケイロは呟いた。父はあれでよかったのです。むしろ、僕は、最大の親孝行をした。褒められるべき存在だ。あなたのためであった。そう、これは、僕自身の意志では、まったくなかった。ただの情況がつくり出した茶番だ。情況がそれを実現させるために必要な役者を、呼び寄せた。僕自身の人生は、これからある。確かにそれは父の言うとおりだ。しかし僕は、父の想いを受け止め、引きずるつもりは全くない。すると意識は、納屋に打ち捨てられた唯一の絵を描いた画家へと突然移る。しかし、声はあいかわらず、その工房画家の息子から、変わることはなかった。あの男はと、声は言った。あの男は、この世の仮初めのルールに拘りすぎた。そこでの勝利に拘りすぎた。だから、敗北した。そのルールは、設計者が自ら勝つように組んだ、ルールだ。時代と社会と設計者が、グルになって作ったワナだ。その男は、そのワナに拘りすぎた。勝つことは到底できない闘いから、抜ける出ることができなかった。抜け出ようとも思わなかった。彼はますますハマっていった。彼はね、自分の絵が社会の人々には受け入れられないことを、良く知っていた。時代の精神の推移に敏感だったから。彼のやりたいことを、社会意識は拒絶することも知っていた。でも、彼はやりたかった。やりたいと願い、やれると信じれば信じるほど、画業を成立させる社会の基盤と、ズレていくその自分の存在の後ろめたさを、急上昇させていった。まったくもって、不幸な男だ。君が工房作家をやめられない理由だなと、ケイロは言った。どうして人間を信じてやれなかった?人間そのものを信じてやれなかった?一人の人間のことを考えてやれなかった?
ケイロは、声の主がまるで納屋に打ち捨てられた、絵の作者であるかのように、その声に向かって語りかけた。その画家は、社会意識から逸脱していた。
その当時の人々の多くは、逸脱したい気持ちを持っていた。自分らしく、自然と宇宙と調和した、自身を取り戻したかった。画家もまたそうだった。彼は、その意識を鮮烈に持っていた。いちはやく、絵に表現したのだろう。なのに、彼は、そんな行き詰った社会の意識に、また合わせようとしてしまったのだ。うまくいくわけがなかった。心を病んでしまって当然だった。自らが自らの行為を拒絶してしまっているのだ。彼は誰に拒絶されたわけでもなかった。ただ、自分に否定されただけだった。人間一人一人に、本来眠っているはずの本来の完成。なぜそこに、訴えかけなかったのだろう。いや、訴える必要もない。自ら貫いていけば良いだけだった。彼は過ちを犯したのだ。そうだろ?
ケイロは、声の主に迫った。
工房で働き続けた君の父は、その自分の生きていない想いを、生きたもう一人の画家に、満たされない自分の気持ちをすべて、投影していた。でも、彼のようには生きられない、自分もまた知っていた。そして、彼のような画家が、どう社会に適合していくのか。解決策をまったくもって見い出せないこともまた、知っていた。ケイロは言った。ところが、そんな納屋の画家でも、生きる術が存在するかもしれない時代になったことを、君のお父さんは君に伝えた。君はそのような人生を望んではいないんだな。あなたは知っていると、声は言った。あなたはすべてを知っている。あなたがすべての原因なのだから。すべては、あなたから始まっているのだから。あなたが作った、あなたが思い描いた舞台、戯曲に、我々はすべて吸い寄せられているだけなのだから。そして今も、吸い寄せられ続けている・・・。あなたがすべてを知っている。あなたの行動に、すべての起源が埋め込まれているのだから・・・。
声は消え、静寂のなか、放心状態を続けたケイロに、視界が戻ってきた。
目の前には、アーティスト募集に提出する書類が、出来上がっていた。
第三部 第七編 幻影のピラミッド
その、バラバラになった男の死体を、女は見下ろし、見つめていた。
今がいったい、深夜の何時なのか。なぜ死んでいる男を、こうして眺めているのか。女は何もわからなかった。ただ、この自分の手で殺めたわけではないことはわかっていた。
身体に残った残虐な行為の跡は、何もなかった。感触がまったく存在してなかった。女は少し安心した。男の顔に見覚えはなかった。まだ年齢は若そうだった。一見するだけで、男が死んでいるのがわかる。顔の血色はあまりによく、今にも自力で立ち上がりそうだった。しかし身体はきれいに切断されている。今はまだ、ほとんどくっついているかのように、近くに置かれている。月光の下では、本当によく近づいてみたいことには、切り離されているようには見えない。
見下ろした状態から、すでに、一分以上は経過していた。だんだんと、切り離された境界線同士の幅が広くなっている。肉眼で見るかぎりでは、ほとんど違いはわからないが、それは明らかに離れているように感じる。そして、時間が経てば経つほどに、距離は伸びていく。夜が明ける頃には、あまりに遠くに分断されてしまうだろう。二度と混じり合わない肉体同士になってしまう。一体、誰がこんなことをしたのか。目的がわからなかった。
そして何故、誰の手も加わってないのに、距離は広がっているのだろう。
ふと女は思った。バラバラにしたのは、コイツなんじゃないか。コイツが自ら切り刻んだんじゃないのか。自殺ということか。この場には、私以外の誰かが、いたような気配はなかった。私が殺したのではないとすると、考えられるのは、自分で切り刻んだ以外に考えられない。しかし、そうなると、死んでからでは遅い。彼は生きているときに、自らの肉体を傷つけて、切り離した。痛みを感じないような、工夫をしたのだろう。何か瞬間的に切り離すような技術を持っていたと考えられる。男は誰かから、この技術を会得した。ラインマーカーを引くかのごとく、自らの肉体に切れ目を入れる。すべての切れ目が書き終わったとき、肉体は瞬間的に、一気に分離独立する。痛みはない。男は気を失う。私はいつ現れたのだろう。ほんの入れ違いだったのか。すれ違いというか・・・。
女はあらためて男を見る。そんな経緯など、すでにどうでもよかった。このあと、自分は、この死体とどう向き合うのか。放っておいてはありえない距離にまで、遠ざかっていく肉体を、ただ見ているだけなのだろうか。観察するためだけに、ここにいるのか。わからなかった。女はしゃがみこみ、分離し始めた胴体と、右腕の境目を消すため、両方を近づけて重ね合わせた。その瞬間、強烈な痛みを自分の右肩に感じた。痛みは引かなかった。女は分離した状態へと男を戻した。痛みはなくなる。触れることはできない。いったいどうしたらいいのか。女は男を元に戻してくれと、月に叫んだ。男は何故、自らの身体を切り刻んだのか。その理由がわかれば、元に戻せるのではないかと思った。まだあるはずの男の心の中に入っていった。夜が明ければ、男の心もまた、粉々に分解されてしまい、ここにはなくなる。男の心を知りたい。そして元に繋ぎ合わせたい。
陰西カスミの目の前には、水原永輝が居ることに驚いた。ここは研究室だった。
「どうしたんですか?」
水原は、陰西カスミの手を握りながら、心配そうな表情をしていた。
「大丈夫。私は分解しないから。だから、離して」
「分解?ああ、実験のことですね。木端微塵になってしまったビーカーと、その中身のことだね」
「体よ!いいから離して。お願い。ちょっと夢を見てたみたい」
「夢?夢ってあなた。全然寝てませんでしたよ。ずっと僕と話していたじゃないですか」
「そうなの?何をしゃべってた?」
「あなたの研究のことですよ。13年前の、雑誌に掲載されていた記事の内容と、あなたのこれまでの研究の意味を、結びつける内容のことを、延々と語っていましたよ。その、何でしたっけ?誰も寄りつかなくなってしまった更地のことですよ。そこだけを避けるように、街の開発ラッシュが、続いていくにつれ、ますます上空の気流が、おかしくなっていったって話。霧が発生したとき、その霧は、その空白の地帯に、集中していった。濃霧は、その場所で起こり、いつまでも去ることはなかった。人々が忌み嫌う、そのエネルギーが、ますます、その物理表現をとるかのごとく、重なっていった。白い闇のように」
「そんなことを?」
「そうですよ。それで。その濃霧の奥には、何かが隠されていた。濃霧は、その何かを隠すシートのように張られていた。その中身の正体を、知っている人がいると、雑誌であなたは、答えていた。14年前に。いや、13年前でしたか。でも、それは、張ったりだった。あなたは何も掴んではいなかった。でも、確信はあった。あったからこそ、それを証明するために、躍起になって研究を続けた。あなたは、誰も注目すらしていない、あなた自身の発言に、縛られていった」
「縛られてなんかいない」
「そう言ったんですよ。だから、解放されたいって」
「私が?」
「そうですって。あなたが、何かを知ってるんじゃないかって。僕に期待までかけ始めた。狂ってますよ。だいたい、その濃霧が、極度に濃くなった場所って、どこにあるんですか?霧がずっと晴れることのない場所って、どこなんですか?連れてってくださいよ。この目に、見せてくださいよ。さあ、はやく!見せられないでしょ。そんなもの。だって、どこにもないんだから。あなたのその研究。その濃い霧を、発生させるための装置だそうですね。笑っちゃいますよ。そんな濃霧、どこにも発生してないんだから、自分で作ってしまおうってことですね。自作自演をすることで、その狂った心を満足させたいんでしょ?いいですよ。続けてください。さあ、はやく。何度、失敗したって、構いませんから。もう13年、経ってしまったんです。あと、どれだけ続けようが、もう時間の観念は、崩壊してしまっている。さあ、僕が見守っています。だから続けなさい。付き合いますよ。一人で孤独だったでしょう。これからは違いますよ。僕が見届けますよ。さあ、はやく、ほら。あきらめないで、続けて」
「馬鹿にしないで!」
陰西カスミは、怒鳴り声を上げた。
「帰ってよ!」
「異常だな」水原は、小さな声で呟いた。「まともじゃない。男だって、逃げるわけだ」
「なんですって!」
「鳳凰口だよ。彼氏だったんだろ?」
「知ってるの?」
「幼馴染だよ」
「うそっ」
「まさか、彼が、こんなキチガイと、付き合っていたとは。信じられないね。それでよく、研究員が務まってますね。鳳凰口は最近まで、別の彼女が居たって話だから、それが、あなただってことだ。ずいぶんと、長い付き合いだったんだな」
「13年よ」
「ほんとですか?その、あなたが狂っていった時期と、符合するじゃないですか。ちょっと頭が痛くなってきたな。まさか、そんなね。どういうことなんだろう。鳳凰口に、訊いてみるか。あなたとでは、話にならない。さっきも、目の前で話をしていたのに、意識はどこかにトリップしていたみたいだし」
「バラバラになった死体を、見下ろしてたの」
水原は天井を見上げ、息を宙に強く吹きかけながら、降参だよと言った。
「絶対にあるのよ。濃霧が消えない場所が。みんなが忌み嫌う、その場所が」
彼女は叫び続けた。
「忌み嫌って、避けまくられてるのは、あなたの方でしょ?あなたそのものでしょ?」
とんでもない世界に来てしまったと、水原は後悔した。しかし、その異常な彼女の幻想は一年も前から、この街に作ろうとしていた「ゼロ湖」を、再び想起させるようで、その符合は、奇妙な一致をも見せていた。
鳳凰口昌彦の親父と一緒につくった「ゼロ湖」は、そのまま彼の死と共に、放置されたままもった。
水原は、元妻との会食の誘いにも素直に応じていた。
彼女とは、これからも友達だし、力になれることがあったら、何でも協力するつもりでいた。
「ごめんね。はやすぎた。あなたを呼び出すの」
そんな健気な態度をみせるなよと、水原は、困ったように答えた。
「あなたも、知ってると思うけど」
「応募したんだろ?」
「そう」
「驚いた?」
「美術に、興味があったなんてね」
「違うの。絵なんて、何も興味はないの。彫刻も工作も何も。でも、どうしても応募したかった。一人に選ばれたかった。あなたにアピールしてた。また気をひいてもらえるんじゃないかと思って。馬鹿よ。でももう吹っ切れた。いいのよ。気にしないで。もうこれで、未練はなくなったから。そのために何かに打ち込む必要があった。ちょうど、そのタイミングで、公募のことを知った。それで。衝動的に。ただそれだけ。本当にそれだけ」
「で、今日は?」
水原は、タイ料理のパッタイを食べながら、特に表情を変えずに訊いた。
元妻は急に黙ってしまった。やはり、特に用事はないのかもしれない。
「決まったんだってね。アーティスト。誰なのかは、教えてくれないよね。もう会った?」
「ああ、彼とはまだ会っていない。来週かな。たしか会食をする。そのあとで、記者会見を開くらしい」
「男なんだ。よかった」
水原は、水を何度も飲んで喉を潤した。いまだ、陰西カスミの衝撃を引きずっていたため、元妻の姿に、その残像を重ねてしまっていた。ぴたりと符合するような錯覚も起きれば、やはり、似ても似つかない別人にも成り代わる。
「なに、考えてるのよ」
「仕事のことだよ」
「女性ね。わかりやすい」
「いや、ほんとに、仕事。いろんなプロジェクトが、同時に、目まぐるしく進行していて、たまに、わけが分からなくなる」
「ほんとうかしら。一個じゃないの。そのミュージアムだけの」
「まさか」
「ねえ。私、誰よりも、あなたのこと理解できてると思うわよ。そういう認識は、ある?丸見えなのよ。あなたが考えていることも、やってることも。やろうとしてることも。企んでいることも。だから観念したらどう?」
「なあ、こうして、ご飯を食べるだけじゃ、不満なのか?」
「なに言ってるのよ。誰がそんなことを。嬉しいの。私、嬉しいのよ」
水原は、溜息をついた。どうして俺の周りに近づいてくるのは、気のふれかけた女ばかりなのだろう。
「本気で目指したら?アーティスト。君ならなれるんじゃないのかな。今回は、その始まりだよ。きっかけだよ。これから続けていったらいいじゃん。なあ、そうしよう。絶対に才能あるから」
「そういうこと、どの女にも言ってるのね」
「初めてだよ」
「いままで、気がつかなくて悪かったって、思ってるくらいだ。付き合ってたのに。恋人が、能力を引き出してあげなくて、どうするんだって。自分に言ってやりたい。ほんとにすまなかった。今まで。でもまだ、間に合うと思う。だからさ」
どうしてそこまで、強引に勧誘するのか、水原にもわからなかったが、とにかく必死だった。彼女の意識の矛先を、自分からズラすのに。でもそんなでまかせで、いつまでも誤魔化しきれるはずもない。女たちの幻影が、さらに複数、重なっては、分離するのを繰り替えしているかのようだった。だんだんと、水原の意識は、混濁していった。目の前の風景が、次第に遠ざかっていくようだ。水原は大聖堂の中に、いつのまにか、いるような気がした。最盛期のゴシック様式の聖堂だった。祭壇には、当然、キリストの彫刻が祭られてると思った。がしかし、その像は、男には見えなかった。豊満な乳房を大衆にさらし、下半部分にも、衣服は何も纏われていないように見えた。深い切り込みが施され、ずっと見ていると、切り込みはますます深く、奥まっていくようだった。マグダラのマリアだろうか。しかし中世にあって、こんな露骨に切れ目を晒した彫刻が、置かれることがあるのだろうか。そんな裸体の像にばかり目がいってしまったため、彼女が両腕で抱えもっている何かに気づくのが遅くなった。何か、幾重にも乗った塊を彼女は抱えているようだった。人の頭部のような塊に気付いたとき、その重ねられた塊が、人体の腕や足であることを知った。バラバラになった人間を、彼女は集め、胸に抱いているのだった。情況がよく掴めなかった。
水原は、礼拝堂に目を移した。今は誰の姿もない。ずいぶんと幅の広い、しかも、天井なんてほとんどないんじゃないかと思うくらいに、天高く、柱は伸びている。マグダラのマリアらしき像に、視線を戻す。表情をよく見た。水原は笑ってしまった。
陰西カスミみたいだった。しかし、眼を一瞬離した隙に、像は服を描かれた彫刻へと変わっていた。顔もまた、別の人間の顔に変っていた。次々と、イメージは連鎖していく。手に抱え持っている像もまた、キリストと思われる男性になっていた。
そう思った瞬間だった。目の前には、元妻が現れた。まったく人のことが言えなかった。
白昼夢に気づいたのは、初めてのことだった。元妻は微笑んでいた。
あなたのことは何でも知ってるのだと言う彼女が、そこにいた。
第三部 第七編 ステルス パンデミック
映画の地上波放送中に、緊急ニュースが入る。
ケイロはいまだ、展覧会を開くための五十枚の絵を制作できずにいた。
デザイナーでプロデューサーの水原永輝に対する口約束を、これでは果たすことができなかった。焦る気持ちばかりが募っていった。しかし、それでも僅かにほっとする自分もいた。この制作ができなければ、自分はまさに選ばれしアーティストではないことが証明される。この自分の気まぐれな応募に反応した、奴らのせいなのだと、ケイロは思う時があった。しかし、その自分の気持ちを見てしまったとき、彼はたまらず不快になった。
応募は自分の責任でしたことだった。最後まで自分が引き受け、全うするべき事だった。自発的に何かをしたのは初めてのことだった。まさか事が進むとは思わず、初めてのことに面食らったのだった。
ケイロはだんだんと落ち着きを取り戻していった。自分が責任回避するような卑劣な人間なのかどうかを問うていた。だがケイロは自分を全くそのような人間として捕らえることができなかった。怖かったのだ。これから起こる出来事、展開していく運命に、恐怖を感じていただけだった。逃げたい衝動にも駆られていた。だがケイロは同時にそのような感情を引き起こしているものは何かと、考えた。うまくいくと思っているんじゃないだろうか。心の奥底では、この道がもう自発的に進んでいくことを、すでに知っているんじゃないだろうかと思った。だからそれが引き起こす現象に、今から怯えてしまっているのかもしれなかった。
なるほどと、ケイロは思った。だとしたら制作は完全になされる。五十枚の絵は二週間後には、確実に完成する。それはもう、決まっていることなのだ。ケイロの目の前にはすでに、その五十枚以上の絵が存在しているように感じられてきた。まさかとは思ったが、この手にも重みが感じられるようになってきた。すべての制作を終えたような感覚。倦怠感のある充実感とも言うべきか。ケイロは我にかえった。手に感じた重みはなくなっている。しかし、その重みに至る経路のようなものが、今設定されたような気がした。
描けそうだった。本当に俺は展覧会を開くのだろう。記者会見を開き、この自分の存在を公に広める。今後も制作を続け、作品はビルのミュージアム、丸ごと一棟に、保管される。必要に応じて他美術館、他国にまでも貸し出され、そのあとで再び、ビルへと戻ってくる。
緊急ニュースを見逃してしまった。
何もすることがなく、テレビで放送中の映画を見ていた。
緊急放送のテロップは消え、画面は、映画放送に戻っている。
はじめから、集中して見てなかった。筋は何もわからなかった。カーアクションの激しいシーンに突入していた。この運転している男が、主人公なのか。銃弾が後から追ってくる車から放たれている。窓に命中し、激しく割れる。そのとき、ケイロの頭の中では、無意識に眺めていた緊急ニュースの内容が復活した。脳波は覚えていた。鮮やかに蘇ってくる。「底なる神殿」に、今日、午後二時過ぎ、付近をDIで走行していたIDナンバー、489044の男性、棚橋清さん、44歳が、誤って吸い込まれていってしまいました。棚橋さんは仕事で、移動の最中、KNA構造の変化する時間帯の認識を間違えたか、空間帯の認識を間違えたか、わかりませんが、乗り物ごと危険区域に侵入してしまい、レーダーから消失。すぐに交通警察が確認致しました。棚橋さんが故意に突っ込んで行ったとは考え難く、事故としての捜査が今も続けられています。棚橋さんに、日常のトラブルはなく、遺書の存在もなく、大変多忙な生活の中、この日も超速で、移動をしていたと考えられ、底なる神殿の出現時間と区域の把握をミスし、あるいは忘れ、付近を走り抜けようとしていたと思われます。ニュースは以上です。アナウンサーは深々と頭を下げた。
「またか」とケイロは思った。確かにKNA構造は複雑であり、自分も一日の中で忘れることも多々あったが、DIに乗って移動しているときは、DIにその情報が搭載されていて非常ベルが鳴るか、自然に回避する行動をとる。システムを解除していたのだろうか。確かに手動で運転するときには、解除することもよくある。だが通常はみな、解除することはない。自動に任せていた方が効率よく、目的地まで着く。時たま手動による操縦を好む人間が、郊外でそのように運転をすることはある。だがこうして都市のど真ん中で、解除運転することは稀だ。しかし最近はそういった人間が増えた。この手のニュースも増えてきている。国としては別に法を整備しようとはしていないみたいだ。自己責任で運転してくれということなのだろう。吸い込まれていったDIと人間は二度と、この地上に現れることはない。どこか別の次元へと消えていってしまう。底なる神殿は一日の中で、一度出現する。磁気によっては二度ということもあった。そのあたりの周期もまた、細かく設定されている。覚えることも難しい。暦のようにシステムデーターが、国から発行されている。向こう五年の早見表が配られている。データをDIや住宅、自分の身の周りの、すべての電子機器に、インストールする。底なる神殿が現れる時間。少なくない人々が、それ以上、近づいては危険なラインぎりぎりの所にやってきては、底なる神殿に向かって、相対して祈りを捧げる。心に溜まってしまった叫び声をあげる。声に出す者もいれば、無言で叫ぶものもいる。感情を一瞬露わにし、すぐにいなくなる人もいる。底なる神殿が消えた後も、しばらく残り、眺めている人間もいる。様々だ。
ケイロは一度もまだ行ったことがなかった。祈りだとか、叫びだとか言われてもよくわからない。昔、確かに都市には教会や聖堂、神社仏閣のような、もっと古い時代には小高い山や盛りが信仰の対象になることもあったという。その名残なのだろう。ケイロはそんな行動には、まるで興味も理解も示さなかった。この時代には、もう形骸化したものだと思った。しかし知り合いの多くも、人には特に言わなかったものの、こっそりと訪れ、日ごとの鬱憤を晴らしている人間は、多いようだった。信仰心に対する、理解はなかったが、こういった愚痴のような行為には、もっと関心がなかった。どっちかにしろと言いたかった。俺のようにまったくの無神論者になるか、じゃなければ徹底して跪き、天にすべてを問えと。
ケイロはテレビを消し、自分の展覧会のことを考え始めた。
あれは、ケイロのちょうど成人式の時だった。
エネルギー革命が起こり、街に供給されるエネルギーがすべて、無料、フリーとなった。
それまでは、確か、ガソリンで車は走っていた。車が地上を走らなくなってからも、灯油やガスなどの燃料で、動いていた。それがケイロの成人式を境に、燃料を補給することなく、疾走するDI車が市場に投入されることになった。
最初の一年こそ、高い価格で販売されたが、二年経つと、価格は一気に暴落し、そして今では子供でも買えるほどの価格へと下がっていた。DI車を街に走らせるのにコストはほとんどかからなくなった。ただし、一人が二台以上所有することは、禁じられていたので、その数は最高で住民の数と同じとなった。
洞窟の中で行われた成人式のことを、ケイロは今でもはっきりと覚えていた。
あのときは何の意味があるのか全然分からなかった。成人式は個別で順番に行われる方式だった。親の世代とは異なっていた。彼らは合同で、地元の母校などで行われるのが常だったらしく、ただの同窓会のような集まりであったという。議員や教育委員会の人間が、意味のないツマラナイ話をするのを、聞いたあとで、成人になった皆で酒を飲みに行くというのが流れだった。
ところがケイロが生まれる少し前から成人式は個別になった。郊外の洞窟の前に、個別に割り振られた時間に行くことになった。三十分刻みで組まれていた。ケイロは予定の13:30の、およそ五分前に到着した。神社の境内のような入口には、白い装束を着た三十代くらいの女性がいた。彼女に自分の名を告げると、すぐに、暗くぱっくりと闇を広げた穴倉へと連れていかれた。彼女は何もしゃべらなかった。ケイロは自分で、足元を注意せざるをえなかった。下っていく坂の構造は、どんどんと傾斜がきつくなり、あるところで、足が滑ってしまった。地下水が湧き出ていたのだろうか。湿っていた。すると、足の先端に何か触れるものがあった。恐る恐る足を伸ばしてみた。坂はすでに行き止まりになっているようだった。しばらくして、その遺物が木製の梯子であることに気づいた。そのときには女性の姿はなかった。ケイロはただ、その梯子を下に向かって降りていくだけだった。暗闇は続いた。足はいつのまにか地面についていた。そこからの話を、今はあまり思い出す気にはなれなかった。ただ、そのときの体験が、その後の意味不明なアーティストの応募に繋がったことだけは、はっきりとわかる。あの場に三十分近くはいただろうか。目の前に光が現れた。
何か、得体のしれないものが、降臨したのかと思った。だが違った。扉が開かれたのだ。
あの女性だった。出口に今度は居た。視界を取り戻していったケイロは、扉の外に、出ていった。ここは山のどの部分なのかと思う暇もなく、一瞬で、ケイロはすでに、自宅付近の見慣れた道路に立っていた。
エネルギーの構造が、いったいどうなってるのかはわからなかった。DI車を製造している会社が、どのように利益を得ているのかも。DI車は、自適に回遊する、最新鋭の乗り物であるという以外には、何も知らなかった。空間の層を、突き抜けているという感覚があった。空を飛んでいるという感じではなかった。空間を抜けているという感じだ。
むしろ、車体が、懸命にエネルギーを燃焼させ、移動している風ではないのだ。こういっては語弊があるかもしれないが、むしろ、車体の方は、ちっとも動いてないのではないかという気がしていた。DI車を囲む、周りの空間の方が組成を変え、DI車を動かしているように見せているようなのだった。なので、エネルギーは、車体みずから、生み出す必要はないのかもしれなかった。とにかく、街の構造そのものに、エネルギーがすでに組み込まれているということらしかった。KNA構造と言われているものも、燃料フリーのDI車の登場と同期して、世の中に現れていた。すべてが連動していた。あらゆる構造の変化と自分の年代の成人式もまた、偶然に一致していた。それから二年が経った。アーティストの公募があった。巨大な美術館の建設は続いている。ケイロはいまだに、その場所を知ることはなかった。事あるごとに街のいろんな場所に行き、建設途中の建物をチェックしたが、そんなものはどこにも見つからなかった。どこにも情報は出てなかった。
それにしても、圧倒的なデカさを誇る建造物だ。すぐに目につくはずだった。
姿形が、どこにも見当たらないのは、少し不可思議だった。国が関わっている事業だったので幻ではない。そんなものを探している暇もなかった。ただ建築の方法に関しても、様々な画期的技法が開発されているから、おそらく最新のテクノロジーが、ここでもお目見えするのだろうと思う。普通の建築技法で、普通に建てるはずもなかった。
単に、ミュージアムだけのための事業だとは思えない。あらゆる始まりとしての、デモンストレーションを、この一つのイベントに詰めこむはずだと、ケイロは思った。
DI車もまた、著しく進化していた。今や、DI車は、その形態までもを、自在に変えることのできるものとなった。素材が劇的に変わり、簡単なトランスフォームを数分で、しかも飛行中に執り行うことが可能となった。いずれはそのバリエーションも劇的に増え、まさに恐竜のジュラ紀のような多彩な形態を持った乗り物が、爆発的に自らを表現するような世の中になるであることは、確実だった。
実際、恐竜の形状にインスピレーションを受けたのだと、車の設計者の一人は、インタビューで答えていた。
鳳凰口は、久々に戸川兼に会った。佐々木ウンディーネと、仕事の話を事務所でしていたときに、彼が姿を現した。鳳凰口のところの商品の広告に、彼を起用したらどうかと、ウンディーネには提案された。しかし、知り合いの男が、ビジネスで関わるのもどうだろうと、鳳凰口は少し躊躇った。戸川は会うなり、「あいつはやめておけよ」と言った。ウンディーネのことだと思った。彼女と仕事で手を組むのだけは、やめておけという意味だと思った。
しかし戸川は、「女だよ」と言った。「お前の女」
「友紀か?」
「違うよ。浮気相手さ」
「陰西か」
「それも、違う。立花フレイヤだ。モデルの。あいつだけはやめとけ」
「立花?」
「他の女だったらとやかく言わない。ただ、あいつは駄目だ」
「フレイヤ?外国人?」
「恍けるな」
「俺じゃない、別の奴と勘違いしてないか?」
「お前だよ」
「そういう言いがかりは、やめてくれないかな。今、新しい仕事を立ち上げようとしているところで、忙しいんだ」
「ウチの社長、とだな?」
「いや、相談だけだよ。友人として。アドバイスを」
「仕事の話は、興味ないね」
「お前に、モデルを頼んだらって話だった」
「どうぞ、ご勝手に」
「いいんだな」
「わかってるだろ?」
「オファーは、すべて受ける。立派だな。選ぶことはしない」
「選んでるさ」と戸川は、急に反り返った声を出す。
「選んでるよ。選んだものが来るんだから。所詮はそういうものさ。だから俺は、あえてまたそこから、精査しようとはしないだけだ。俺のエゴだからな。そんなものはいらない。自分の存在を狂わせるだけだ」
「さっきの話」
「立花フレイヤ」
「本当に誰なんだ?」
「モデルだって」
「ココの?」
「違う」
「別の事務所か?」
「本当に手を出していない?」
戸川はしつこく訊いてきた。
「そうか。嘘を言ってるようには見えないな。ふうん。そうか。わかった。じゃあ、今のところはおとなしくしてる。でも、もう、会ってるはずなんだけどな。そういう感じがするんだけどな」
祭壇に刻印されたシンボルマークは、ずっと羽の柄だと思っていた。だがそれは舌なのだという。国の至るところに、この羽の紋章が施されている。王が一代で築いた国だった。王は、王妃と、寵愛する若い娘11人を、身の周りに配置させる。彼はエネルギーを消費するためではなく、得るために、このような生活を続けた。王朝が存続させるのも、エネルギーをもってしてだった。王が政権をとるまでの王朝は、短期の間に、目まぐるしく変わっていった。暫定政権は、他の、無数の有象無象の集合勢力に、すぐに倒された。安定的な基盤を作る暇すら、与えられずに。台頭しては崩される。ある程度、力を持った勢力は、次第に、自らが先頭に立とうとはしなくなった。身代わりを立てて、頂点をとることを目指した。それを繰り返しているあいだに、真の力を漲らせようという、時間稼ぎだった。
王はそのとき、ある小さな勢力のリーダであったが、彼の意識は自分の王朝がどうやったら始められるかを、真剣に考えていた。この群雄割拠の世で、闘いに勝ち、屈服させることで、支配するやり方を、早くから捨てていた。いちおうは誰かの味方になり、どこかの勢力に加担するという体をとったが、そこにエネルギーはほとんど費やしてなかった。根本的な問題を、彼は解決したかったのだ。国家を打ち立て、存続させていくというのは、途方もないエネルギーを必要とする。勝った負けた、どんな戦術で掴み取るのか、そんなことはどうでもいいわけではなかったが、それよりも問題は、頂点をとった後の話だった。ビジョンだけでは足りない。力だ。存続させる力。国というその幻想に、パワーが供給され続けなければならなかった。その方法がわかり、確実に成立させることができない限りは、何をやっても無駄だ。さらには、闘うことで、疲弊していくエネルギーも計り知れなかった。ビジョンだけが掴めている今、エネルギーのまったく不足している今にあっては、今あるエネルギーを、いかに温存できるかだった。そのあいだに、何としても、無尽蔵にパワーを供給できる回路を、開通させておかねばなるまい。彼は焦る心を宥め、自分がやろうとしているステップを信じた。王朝がいつの日か、存続するためのパワーを失った背景には、いろいろな理由があると、彼は分析した。エネルギーはかつて国の外から、膨大な量で流れ込んできていたのだ。その回路が、突然絶たれてしまった。乱世の世は、すべて、そこから始まっていた。そしてその回路を再び、開通させる方法を、誰も見い出せてなかった。見い出そうという意識も、ないのかもしれなかった。エネルギーが不足しているなど、考えもしていない可能性すらある。兵力はむしろ、かつての時代よりもどんどんと進化していっている。男たちが荒々しく戦い、女との繰り返される性行為もまた、激しさが増していっていた。男たちは一見力強く、女たちもまたそ、んな男たちに力を与えるべく、寄り添っているかのように見えた。だが彼はそうは思わなかった。エネルギーの枯渇具合は、すでにピークに達しようとしている。どうしてわからないのだろう。このまま行けばお互いにすり減らす以外に、道はない。共倒れだ。だがそれは、自分にとっては好都合なことだった。まさにその瞬間に政権がとれる。どんどんと闘っていったらいい。俺は闘っている、フリをするだけだ。しかしもう時間は残されてなかった。タイミングがすべてだった。本当に共倒れになってしまえば、荒廃した世界が、目の前には広がるだけだった。そこで政権をとったとしても、復旧させることに、膨大なエネルギーをつかってしまう。最初の段階で。それは避けたかった。
壊滅状態の、手前である必要があった。そして、それまでに、見つけなければならないエネルギーの源の存在があった。その源と、この土地との回路を繋げる、必要性。源は一つではなく、いくつかの回路を複合的に組み合わせ、構造化する。一つに頼ってはあまりに心もとなかった。そして王は、その一つの回路として、まずは女性の力を使うことにした。パートナーを合わせて、12人に増やした。自分もいれて、ちょうど、13人に揃えた。セックスのエネルギーを消費することなく、結合させようとした。
性エネルギーで国を成り立たせ、さらには存続させるエネルギーへと、変換しようとした。自分が男である限り、男と女がこの世に存在する限り、枯渇することはない。自分が年老いても、信頼のおける若い男を使い続ければいい。複数の回路もまた、初めの一つを確立することから始まる。ここから始めようと彼は思った。自分の肉体から始めるのが、理に適っていると思った。人間なのだ。
その王はいい意味でも、悪い意味でも、巨大な影響力を誇り、その影響力の源はすべてエネルギーだった。エネルギーを国内中に充満させ、それを意のままに、操ることに長けた、まさに魔術使いだった。彼には政治的な野心は、それほど強くなかったし、人間がこういう生活をしていくべきだというような、理想の持ち合わせもなかった。彼のビジョンは安定的な王朝を確立し、存続させるという、ただの一点だった。そのためのエネルギー政策であり、そのためのエネルギー回路の複合化だった。
そのシンボルが、羽ではなく、舌であることを指摘した人物が、考古学者の中に居たことを私は突き止めた。彼への取材は、いまだ叶っていなかったが、彼が記した論文の断片はいくつか手にいれていた。王その人自体が、その舌を持っていたのかどうかはわかっていない。誰にも証明することはできない。ただ、そのエネルギーの第一回路を開通させるために、その舌が、重要なファクターであったことは確実だった。舌が女性の閉ざされた回路を解き放ったのだ。
自身の男性エネルギーもまた、損なうことなく、融合したエネルギーを、しかも国の基盤に流れこむようなシステムへと変換した。
第二、第三の回路の存在は、まだこれから解明するしかないが、第一の回路のシンボルはとにかくここに揃っていた。
しかし第一の回路だけで、すべてが賄われるはずもない。そんなことは王は最初から百も承知だった。しかし自分にできることから、始める以外になかった。彼はこの国の政治的支配を始める前に、すでに王朝を独自に始めていた。彼は戦国の世に参加することなく、勝手に王朝を始めてしまっていた。妻を娶り、恋人たちを集め、家を改装し、エネルギーを漏らすことなく、溜め続けることを決意する。彼は第二の回路に取りかかる。
第三の回路と同時に。地球のパワーを取り込み、地球の外からのパワーを取り込む通路を確立したかった。おそらく、王朝が安定的に存在していた時代には、このエネルギーが惜しみなく降り注いでいたに違いないのだ。しかし、いつかどこかで、その回路は閉じてしまった。地球に変動があったからなのか。宇宙における、地球の存在意味が、変わってしまったからなのか。人々の意識がエネルギーを拒絶することになったからなのか。そのすべてが、同時に偶然、起こってしまったからなのか。
とにかく、すべての回路は封鎖されてしまった。人間は武力と強い意思で争い、その戦いを経て、天下をとるシステムへと移った。三つのエネルギーの回路を、すべて開通し、それらをこの国において、きわめて精緻に融合させる必要があった。
後に王となるこの男は、自嘲気味に自らをエネルギーマスターと呼んだ。科学者にでもなかったかのようだった。腕力と戦略に、己の運命と力のすべてを、投入する男たちを尻目に、自分は全くおかしな方向に進んでいることを、自覚していたが、自らの方向性を、男は信じた。信じざるを得ない、世の中でもあった。時代の変り目であった。その変り目に、自分が立ち合い、その変り目の象徴として、自分の王朝を作ることが、暗黙の了解のように思われた。
ほとんど彼は、このとき確信していたように思う。あとは時間との闘いだと。
第二、第三の回路を開通させる、最初のきっかけが欲しかった。
だが彼は、焦る心とは裏腹に、大きな目でこの世を見下ろしていた。自分の運命を見下ろしていた。すべては同じタイミングで連動していた。第二、第三の回路もまた、王朝の勃興に合わせて、絶妙なタイミングで見つかり、だんだんと開いていき、進化し、融合していくことだろう。彼はまさに、回路が自ら出現し、開いていくことを見守るという立場に自分を移行させていることに気づいた。
見つかる、見つからない、できる、できないに拘り、戦ってしまえば、結局はあの戦国の武将たちのような結末を辿ることになってしまう。第一の回路の確立に彼は専念しているように自分を見せた。女性から引き出し、自らと融合させた、そのエネルギーを漏らすことなく、邸宅中にエネルギーを循環させる。まずはここからだった。循環の回路を、一日一日、さらに強化していく。漏れないように工夫することで、その道は太く強くなっていく。循環の道はエネルギー漏れではない、余剰のエネルギーが、邸宅の外へと出ていくことを誘発する。彼の邸宅に、人がどんどんと集まり出していた。しかし彼は容易に屋敷の中に人々を招くことはしなかった。エネルギーの循環を荒らされたくはなかったからだ。立ち入り厳禁とした。邸宅の外堀のようなものを作り、そこで人々との交流を図ることにした。こうして自分のもとに興味を抱き、集まってきてくれる人がいる。大事にしなければならないと思った。この人たちが後に、王朝を開始したときの、唯一の資源となる。彼らはこの世の成り事にうんざりし、疲弊を感じ、別の可能性に目覚めようとしている人たちだった。まさに変わり目だった。人々の意識が、劇的に今変わろうとしていた。このままで、いいはずがないと感じる人々の群れは、これからどっと押し寄せてくるであろう。この第一の回路を明かすことはしないが、この回路が人々の知覚に、影響を与えているに違いなかった。人々を力で押さえつけ、支配する時代ではない。こうして自然に集まってくるエネルギーを醸造することが、唯一の道だった。
第一の回路を強化しながらも、集まってくる人との対話に、日々力を注いだ。
そうしながらも、第二、第三の回路の開発に着手した。
そして、あるときふと思った。
戦乱に紛れて、国中に、小さな装置のようなものを、設置したらどうだろうと。
この屋敷が、王朝の中心地。つまりは都となる。ここが中心の大きな装置だった。第一の回路のメイン施設だ。それはこの自分が中心となったものだ。第二の回路は一か所ではなく、この大地に拡がる複数の場所をツボとして。そうだ!地中からの自然エネルギーを取り込み、この地中に逃がす役目を果たす。地下へと籠ってしまうエネルギーを、うまく利用するのだ。こもってしまえば、いずれは地下で大爆発が起きてしまう。そうなれば、人間もまた、無傷ではすまされまい。どの道、誰にとっても良いことだ。大地にとっては、過剰になったエネルギーがうまく逃がすことができる。人間世界にとっては、そのパワーを使うことができる。便乗することができる。なるほど。地質を初めとした大地全体の調査が必要だ。本当に戦闘能力を磨く時代の方向性とは、完全に逸してきていた。地質学者を大量に要請しようとしているみたいだった。だがこの集まってきた人たちに、その人材を見つけることにした。彼らを中心に、他の大勢は従い、全国に散らばり、調査を開始する。すぐに彼は行動に移した。あとは調査報告を待ち、その反応によって次なる方針を決めるまでだ。
第二の回路のステップは、次第に、固まりつつあった。
この流れの中で、第三の回路にまで、彼は思いを馳せた。
今度は、上から降り注いでくるエネルギーの方だった。夜空を見上げ、考えていた彼の元に、ふとエネルギーはすでに今、このときも降り注いでいるのではないかと、感じた。意識したときに、それはそこにあると心、の中ではそんな声が聞こえてきた。降り注いでいることに気づかず、さらにはそのパワーをあえて遮断することまで、人間はしている。この世界がまさにそうだった。この降り注ぐパワーを、どう生かせばいいのか。第一の回路は、人間の含有するパワーに基づき、第二の回路は、大地の息遣いに基づいていた。波のような激しさと穏やかさを、交互に織りなすパワーだった。
だが、第三の回路は、少し違った。そのような波は、とても微細で、高度に敏感にならないかぎりは、人間にはまったく感知できないレベルのもののような気がした。目が細かく、この肉体においては、全く素通りしてしまうほどだった。受け皿だと、彼は思った。受けるための受信装置が、ここでは必要なのだ。霧雨をどこまでも、細かく切り、肌に当たっても、その体感すらないような、エネルギーの雨を、吸収するための装置開発こそが、第三の回路を目覚めさせるのだ。
ますます、化学者の道を進んでいるようだと、自嘲した。
ずいぶんと、高度なレベルの教育が基盤になる、王朝かもしれなかった。
第三の回路は、テクノロジーに特化していることだろう。この時代からは、大きく逸脱している。後に王になるこの男は、そのテクノロジーの片鱗を感じながらも、それが達成された情況を、細かく思い描こうとした。
ケイロは、午前中の制作を終えるとすぐに、DIに乗り込んで疾走させた。
今日もまた、DIは少しずつ進化を遂げている。DIは元々成人式のときに、それぞれのDNAを採取され、その情報を元に、最初の原型をインストールした乗り物だった。
運転者のDNAの変化に従い、車体もまた自在に、その可能性を広げていく。自由にトランスフォームしながら走る車体もある。ケイロはトランスフォームに関しては達成していたが、自在に変化しながら、走らせることは、まだできていなかった。あらかじめ、設定した車体から、また別の車体へと、変化させるときには、以前の形態しか、瞬時に変えることはできなかった。
新しいデザインを投影し、実態化するまでには、まだまだかかりそうだ。
今の形態は、テントウムシのようなフォルムだった。しかし、移動の仕方は、だいぶん進歩してきた。行きたい場所を特定し、その場所と、意識の上での、回路を結ぶ。何度も強固に結ぶ。その場所は、具体的な地名である必要はない。例えば、服を選ぶように、こういう場所を見て見たいというような、抽象的な条件でもかまわなかった。いや、むしろ、ケイロは、その方が簡単だった。現実に、強固に存在する場所を、思い浮かべるよりも、イメージ上の、あるのかないのかわからないような場所を設定した方が、理由はわからなかったが、今いる場所との通路を、速やかに作り出すことができた。むしろ、近所にある、自分の知っている場所であるのなら、回路をつくって、圧倒的に短縮された時空の中を、通過するよりも、景色を見ながら、通常どおりに移動していくほうが、全然よかった。効率的に、移動したいわけではなかった。制作でたまってしまったストレスを、発散させたいわけだ。
しかし、抽象的な望む場所を設定し、そこにあっというまに、移動するということは、何にも代えがたい悦びではあった。その方法が身についただけでも、劇的な進化だった。あとは、中空を飛び回っている様々な形態のDIを、見ていることも楽しかった。走行中に形状を変えていく瞬間も、たまに目撃することがあった。上級者だ。めったにいなかったし、彼らは、その能力を、あまり人目にさらすこともなかったため、見たときはラッキーだった。知っている具体的な場所でも、抽象的なまだ見ぬ場所でも、一度その特定の場所と、周波数を合わせ、開通すれば、その場所を、思い浮かべるだけで、その場所に行こうと意識するだけで、一瞬で移動することが可能だった。
ただ、そうなるためには、50回を超えるトライが必要だった。
そうやって、開通する場所を、日々、増やしていくのもまた、楽しみの一つだった。
そして、そこらじゅうが、開通だらけになってしまえば、瞬間移動を、日常的に繰り返すことができる。しかし、そうなってしまえば、逆に困ってしまうのではないか。ケイロは、一抹の不安を感じた。ゆっくりと景色を楽しむことができなくなってしまうのではないか。頭の中で想像しただけで、自分の存在する空間が、あっという間に変わっていってしまう。それはどんな気分なのだろう。どんな感じなのだろう。自分は動かずに、景色だけが瞬時に変わっていく。自分が物理的に動いているという感覚は、消えてなくなってしまうのだろうか。
けれど、それは、DIを降りればそれで済む話だった。
身体を思いきり使い、この重力の中での、ダンスをしたいのであれば、存分にしたらよかった。そうやって、DIと、この身体の二面性、二重性を楽しんだらよかった。
ケイロは、再び家に戻り、制作の続きをした。キャンバスを買うのを早々にあきらめ、自宅の白い壁に、直に筆を入れていくことを決意していた。その後、どうやって運ぶことになるのか。壁を解体し、家そのものを、解体することにもなるかもしれない。そうだ。解体中に、その壁の外側にも何か装飾したらどうだろうか。アイデアは、次々から次へと浮かんできた。キャンバスに描くというのは、そもそも、自分の発想からして違った。人工的な設定に、あえて追い込むようなものだった。そうではなく、今ある既存の物質や、何かの役割を果たしているような物を、相手に挑んでいきたいという気持ちが、芽生え始めていた。そして、挑めば、それは作品として、解体される運命にある。形態を変えてしまう。買い取りだ。DIだってそうだった。瞬間瞬間に、姿形を変えていく日は、そう遠くはない。みな、そのレベルにまで、到達する。
エネルギー構造が、複雑化した街で、その理解できない空間で生きているケイロは、このKNA構造が今後、どのようなに変化していくのかを知りたいと思うようになった。
移動中でも家にいても、底なる神殿の存在を忘れたことはなかった。底なる神殿に、不注意にも吸い込まれていく人間がいることは、信じられなかった。どんなに複雑なエネルギー構造をしていても、底なる神殿は、この自分たちの無意識の中では、いつも同じ姿形をとっているものなのだ。不必要に近づくことはしない。その複雑すぎる構造の一番奥に存在する、“底なる神殿”。KNA構造が設定されたときに、同時に現れたというよりは、それを中心に組まれた都市構造なのかもしれなかった。
その昔、マスターオブザヘルメスという賢帝が、この構造を生みだし、それ以来、この世界は、それを中心に唯一の法則として、時空を回していた。誰も、その法則に逆らう事はできなかった。その賢帝の痕跡は、至るところに残されていた。紋章という形で、街のあらゆる場所に羽のような印が彫られていた。賢帝が好んで使ったシンボルだった。『羽の紋章』として広く認知されていた。紋章に手を加えることは許されなかった。だがケイロはこの紋章が何故か気にくわなかった。激しい怒りすら湧いてくる時があった。ふだんは少しだけ、目障りだなと思う程度だったが、突然ナイフで切りかかり、ずたずたにしてやりたい衝動にも駆られた。ふと自分が、展覧会に向けての制作を、本格的に開始したことが、その症状に拍車をかけているような気がした。なので、その突然、起こった激情を宥めるために、制作にぶつけるといったことを、繰り返した。
ケイロが描いた、絵のほとんどが、この羽の紋章だった。
だが、目に映るその絵の実体からは、まるで、羽の姿が見当たらなかった。
あれほど羽を思い描き、羽を切り刻むためにおこなった、激しい行為だったはずなのに、羽はいったい、どこにいってしまったのか。何が賢帝だ?勝手に構造だけをつくって、それでサヨウナラか?気楽なものだ。あとに残された身にもなってみろ。
家中に、絵は描かれていった。ケイロは、完成まで、誰にも言わなかった。ミュージアム関係の、特に水原といっただろうか。あいつには、最初に知らせることになるだろうが、茫然としてしまうだろうな。こんなこと、想定もしてなかったであろう。解体のための指示を、青ざめた顔か血を登らせた顔で行っているアイツの姿が、思い浮かんできて、おもわず笑ってしまった。いや、逆にあいつは、喜ぶかもしれないな。それにしても、羽の紋章には、いらついた。この街からすべての痕跡を消してしまいたい。そう思っているのは、俺だけなのだろうか。みんな、何とも思わないのだろうか。
このKNA構造が、いったいどれほど、俺たちを閉じ込めているのか。DIを得て、DIの劇的な進化に喜んでいるのが人間たちだ。確かに俺もそのなかの一人だった。だが絵を制作していくうちに、だんだんとDIが一体どうしたといった気持ちになっていった。賢帝という男の手の中で、うまく転がされているように思えてくる。そう感じれば感じるほど、KNA構造の成れの果てを考えてしまう。姿形を変えていくのが、KNAの骨頂だとしたら、今は一定のサイクルを刻んでいるこの構造もまた、ほんのわずかだが今も変化を遂げているということだ。その変化もまた、その男が作り出した、意図的なものなのだ。この文明そのものが、賢帝の意図と同化している、人工的なものなのだ。その人工的な檻の中で、我々はただ踊らされているだけだ。それを歴史と呼んでいる。自由に変化、進化しているようで、それは違った。すべては、その男の、思惑通りに事は進み、最期のときを迎えるのだ。結末すら、今はなき男の頭の中で描いた、シナリオ通りなのだ。許せないとケイロは思った。結末すら、与えられていないとは・・・。封鎖からの解放だと、ケイロはキャンバスに見立てた壁に向かって、絶叫した。そして激しい怒りを抱きながらも、頭は驚くほど冷やかになっていくことに気づいた。
これから起こっていくこと。劇的な変化の果てに訪れる、最期のとき。
賢帝が組み込んだ、リセットのとき。この世界で、散々実験を繰り返し、そして無へとかえす。あの男のやりたい放題の結果だ。KNA構造の結末を読みとり、逆手にとる以外に、道はないとケイロは拳を強く握った。
まずは、その男の思惑、全体の地図を、読み解かなくてはならなかった。
水原は、ケイロから連絡を受けた。予定通りに展覧会を開いてくれるよう、念を押す電話だった。やはりケイロは、きちんと期日に間に合わせて、制作をしてきた。たいしたものだと、水原は思った。
「それで、少し、問題があるのですけど」とケイロは言った。
「作品の制作はしたものの、動かせないんです。というのも、家の壁に描いてしまって。どうしたらいいでしょうか」
「壁って、また、どうして。言ってくれたら、同じような壁を揃えたのに」
「それでどう運びましょう。それとも、うちをそのままに会場にしてしまいますか?」
水原は少し考えさせてくれと言って、電話を切った。情況はわかった。ケイロは十二階建てのマンションの、三階住んでいるのだと言う。やっかいなことをふっかけてくるものだ。昨日までは、誰からも連絡がなかったというのに。今日になると、ケイロだけではなく、立て続けに、鳳凰口からも留守電が入っている。元妻からも来ている。鳳凰口とは話が長くなりそうな気がしたので、先に元妻のメッセージを聞いた。彼女はまた会って話したいことがあると言ってきた。大事なことなの。あたなにも関係のあることなの。関係がなかったことなどあるだろうか。水原は思った。
掛け直すと、ワンコールで彼女は出た。直接会うことは避けたかったので、電話で用件をすまそうと思った。彼女も珍しく、直接会いたいとは言ってこなかった。
「制作を開始したの」と彼女は言った。「私は、落選者の怨念を、一身に背負ってるの。決めたの。その一人のアーティストを倒すことに。同じ気持ちを抱く、人間たちのすべての感情を、結集するための役割を、引き受けたの。私のため。私が駄目にならないため。私を支える、強力な網が必要になるから。あなたの言ったとおり。あなたは何でもわかっている。私が何を必要としていて、どうなっていくのかも。あなたの手の中で転がされているよう。
でも、わかって。これはあなたを取り戻すためにすることじゃない。あなたのことは、もう吹っ切れたの。私は私の道を行く」
水原は、元妻の周りの半径一メートルの辺りを、ボンヤリと眺めていた。
何が彼女に、そのようなことを言わせているのだろう。彼女を後押ししている、無数の影の存在を感じた。やはり、電話で済ませることはできなかった。彼女はすでに、自分を失くしてしまっているのだろうか。乗っ取られているのだろうか。明らかに自分の知っている彼女の雰囲気ではなくなっている。
水原は、自分が捨てた格好となった女の存在を、目の当たりにしていた。こんなにも短期間で、人は変わってしまうものなのか。彼女の言葉の強さとは裏腹に、生気はまったく感じられなくなっていた。動くのさえ、自分の意志ではなく、誰かに動かされているようだった。確かに彼女は、無数の落選した人間の怨念を、自分の空洞と化してしまった場所に埋め込むことで、今を生きていこうとしているようだった。水原の心は痛んだ。けれども、彼女とはあの時点で、別れなければならなかった。いずれは、どんな形にしろ、別々の道を歩んでいく二人だった。結婚した当初は思いもしなかった。すでに陰西カスミが新たな彼女になっていた。水原は、そのことを元妻に言った。彼女は素直によかったねと言った。「君の方は?」
「彼ってこと?いないわ。当分いないだろうし。あなたの他に、好きな人ができるとも思えない。でも結婚はまたしようと思うの。次に出てくる人と。安心した?」
「別にそんなつもりで言ったんじゃないよ」
「そうね。どのみち、あなたには、迷惑をかけないわ。絵の制作だって、する前に、あなたに報告するだけで、これからはいちいち何も言わない。途中経過を、言うこともないし、完成したからって、あなたに、何かを頼むこともない。新しい彼女に嫉妬して、ちょっかいを出すこともない。きっぱり、別れましょ」
何故だか、この元妻に、振られているような気になってきた。
「もちろん」と水原は了承した。
「辛くはない?」
元妻は言った。
「寂しくなるときも、あるんじゃない?そのときは言っていいのよ。本音が聞きたいから。それに今日だってどうかな?ウチにこないかしら?まだ、昼間だけど、いいのよ。好きなだけ、私を抱いたらいいの。今日で、最後にしてもいいし。これからも好きなときに来てもいいの。一つ、提案があるんだけど。私たち、夫婦になることは向いてなかった。お互いに。でも相性って、すっごくいいと思うのよ。友達としても。でも、男と女でしょ。ただ、会ってお茶してお酒飲んで、話をしてって。それで楽しいかしら?満足するかしら?そうでしょ?だからさ」
「何が言いたいんだ?」
「これからも、私たちの縁は切れないってことよ。あなただってそういう気がするでしょ?私くらい、忌憚なく話をすることができる相手っている?男でも、女でも。特に女で。その新しい彼女だって無理よ。恋はしてるのかもしれないけど。だから、あなたに彼女がいたっていいの。奥さんができてもいいの。私たち、そんな形なんて大きく超越しているんだから。何にも縛られない男女の関係が、まさにこれから本当に築いていけるの。そのための離婚だったのよ。わかる?わかるわよね?私たちって何も言わなくても、通じ合えるんだから。そんな相手っていないのよ。でも、それを恋人だとか夫婦だとか、そういうもので、嵌めこんだ瞬間、実態は消えてなくなってしまう。そこに私たちは、違和感を抱いてきた。それを外そうとしただけなの。そうでなければ、今も、これからも、ずっと続いていく関係なの。すべては、勘違いだったのよ。続けましょ。世間では愛人関係だとか、何だとか言われるかもしれないけど。そういう形が一番しっくりとくる。今後も続けましょう。あなたは結婚して、子供をつくっても、それで全然構わないんだから。私に気兼ねしないでね。私も、別の男の人と、結婚するかもしれないし。それに、絵を本気で描こうと思ってるから。それほど暇でもなくなるのよ。お互い、多忙の合間を縫って、会ったらいいわ。ただ、世間話をする関係じゃないの。わかってるでしょ?今日も、今から。あなたのために、身体は、いつでも空けておくから。余計なことは何も考えなくていいの。ただ、純粋に、心を通じあえる男と女が、一対、そこにはいるだけで。そのことに、意識を集中するのよ。私もそう。ただ、そのときだけは。終れば、また、お互いの現実に戻っていく」
水原は、何の反論もできなかった。彼女の話の腰を折ることもできず、頷くこともできず、いろんな可能性と新しい現実が、錯綜する中、まったく身動きもとれずに、混濁する意識の海の中で佇み続けた。
我に返り、鳳凰口の留守電のこと、ケイロの壁の絵のことに、意識がほんの少し移りながらも、水原はこれが最後だと自分に言い聞かせるように、元妻のマンションへと向かっていた。
「なあ、ブランドを、立ち上げるというのはわかった」
水原は、鳳凰口に言った。
「その商品が、いまいちわからないね。グッズということか?洋服でもなさそうだし、アクセサリーでもない。インテリアでもないし、家電でもない。メーカーでもあるんだよな。要するに、お前の彫刻作品を売るということだな。装飾を施して、スタイリッシュにして。インテリアということでいいのか」
「ああ、なんでもいいよ。最初は何でもそうだ」
「最初?」
「これは、入り口だよ、水原。何だっていいとは言わないけど、できることから始めないとな」
「俺にできることがあれば」
「いずれな。そう。いずれだ。あ、そうそう。俺のアノ能力あるだろ。あれを、みんなにもさ、少しだけでも使えるように、っていう意図もある。その置物には、エネルギーが入っている。パワーストーンとか、そういった類の商品なのかもしれないな。もしかすると。広い意味では。どういったキャッチコピーをつけて、売るのかは、全然考えてないけど。うさんくさいと思っただろ。けど、俺が彫る作業を、加えたものなんだ。何かしらのエネルギーは入ってしまっている。以前からな。それを、意図的に焦点を絞ってさ、商品ごとに異なったエネルギーをと、そう意識してるんだ」
「そうか、鳳凰口。その手があったか!」
「なんだよ、急に」
「また、お前に、以前の仕事のことを思いださせてしまって、申し訳ないけど。一度だけ、手を貸してくれないか?物の周りの空間の気流を、自在に変えることができただろ。あれを、一度、使ってもらいたいな。今度のミュージアムの件があるだろ?あのアーティストがさ、自宅の壁に絵を描いてしまったんだよ。それで、それを移動させられなくて、困ってるんだ。協力してくれ、鳳凰口。一度でいいから」
「どうしたら、いいんだ?」
「マンションの、その壁以外、その外側の物質の粒子を変えて、それで、壁の絵の部分をそっくりと移動させてしまいたいんだ。空白になった部分には、別の用意した、壁の素材を組み込む。お前ならできるだろ?」
「ちょっと、待てよ、水原。そんなことできるわけないだろ」
「銀行に盗みに入るときに見たぞ、俺は。いとも簡単に中に侵入できていた」
「確かに。でも、それは、例えばマンションだとすると、その中に絵を描いたキャンバスがあって、それを盗むために、キャンバスの周りの気流を変えて、侵入するというのが可能なだけだ。壁が、キャンバスなんだろ?壁を切り取って、そこに別の壁を埋める。確かにそれはオーケーだ。しかし、盗んだ壁そのものは、ある一定の時間しか、その形態を保つことができない。元の形態へと容易に戻ってしまう。古い情報というのは、長年エネルギーが費やされている。そう簡単には、消すことはできないんだ」
「じゃあ、新しい情報を被せていけばいい」
「そういうことだよな、水原。それならば、可能だ。新しい形態に固定するためには、その新しい情報を、プログラミングし続けなければいけない。物質が望む状態で、固定するまで」
「どうやってやったらいい?」
「俺が、その壁を取り出したときには、すでに新しい情報は、あとは、プログラムするだけの状態にしておかなければならない。取りだした壁を含めた、その絵に働きかけなければならないが、それはある意味、簡単な作業だ。根気がいるだけで。やり方はいくつもある。無限にあるといっても、構わない。君の意図次第だな。意図が明確になれば、手段など、後からついてくる。どうしたい?」
「ケイロという作家なのだが、彼の作品はすべて、最終的には巨大ビルミュージアに所蔵されることになる。ただし、今回の作品は、ビルの完成の前にね、彼が公に対してお披露目されることに合わせた、ちょっとした展覧会を、開くことになっているのさ」
「なるほど。展覧会経由の、ミュージアム所蔵だ。じゃあ、そういった明確な予定表を組み、それをプログラムしておくんだな。あとは俺に任せろ。絵を移動する日を、決めてくれたら、後は問題ない。そういう仕事は、もう、これっきりにしてくれよな」
鳳凰口は、苦笑いをした。
謎が解けた。
ケイロの最初の画業は、この謎を解くために、行われたかのようだった。
無我夢中で、制作に没頭していた。たとえ、どこに描いたとしても、水原というプロデューサーが搬送を考えてくれる。その約束をとりつけた瞬間から、ケイロの制作への没頭が、始まった。そのとき、強烈に疑問に抱いていたこの都市の構造について、彼はもやもやとした感情やイメージを、自分の外に吐きだし、それを見つめることで、このとき解明したくなったのだった。
絵を描く行為は最初から、そのような思惑によって、進んでいった。何かが申し合わせたように、ケイロの思考と感情、イメージ、身体状態が一つに重なり始めていた。
時間の経過を無きものにしていた。KNA構造の中心にある、“底なき神殿”の存在。物理的実体のすべてを吸い込んでしまうその神殿は、外に突き出した男性器ではなく、内に抉りこんだ女性器のようだった。女性の神殿だった。“底なき神殿”が発生する時間は、その付近は立ち入り禁止となった。決められた限界ぎりぎりの場所で、人々は内側に抉りこまれた神殿に祈りを捧げる。祈りを捧げる場所が、人々には必要だった。心の叫びを受け止めてくれる場所が必要だった。受け止め、別の次元へと通過させていく装置が、必要だった。こっちの、この次元の中で、ぐるぐると浄化されることなく、燻り続ける情念の海が、それ以前の文明都市を自壊させていくことになってしまった。その教訓から、この“底なき神殿”が設営されたのだった。文明都市が産声を上げ、発展していったその土壌には、“底なき神殿”を中心とした、KNA構造、強固な基盤が存在していた。そして、季節が巡るように、巧みに姿形を変えていった、このKNA構造都市は、これまで一体、何回転、いくつのサイクルを経てきているのだろう。気の遠くなるほどの循環を続けていた。
誰もが、永遠に続くと思わされながら、心のどこかでは、いつかは終わりが来る。終わりへの変化が始まり、次第に加速していくことを、感じとっていた。そして、最初の設計者が、そのことに無知なはずがなかった。この宇宙のサイクルを知り、その中で、最適な時間と空間を、生命の息づく場所として選ぶ。だが、いずれは、その最適だった環境は変わる。そのときに、どういった情況になるのか。設営者は想像ができていたことだろう。そんな彼が、どのような最期を迎えるべく工夫をしたのか。直前まで快適に過ごせて、最後の瞬間のときにだけ、壊滅的な世界が現実になるというような、設計をしたのだろうか。それとも、だいぶん前に人々に気づかせ、その最期のときまでに、備えることを促す、そんな設計をしたのだろうか。KNA構造と共に、人々が“終わりの始まり”を生きていけるような、そんな設計にしたのだろうか。
ケイロは、設計者の意図と同化するため、絵を描き続けていた。
絵で何かを表現したかったわけではなかった。ただ、設計者と意識を重ねあわせていくためのプロセスとして、ずっと、その作業を繰り返したのだった。
ケイロは、制作の途中で気づいてしまっていた。きっとこの出来あがった絵もまた、それを見る人々に自分と同じように、設計者の意識と同化していき、その意図を掴むための「装置」のような、そんな役割を果たしていくのだろうと思ったのだ。
絵は描いた順番に、並べる必要があった。
展覧会の形式に、当てはめるときには、その順路が、描いた絵の順番と照合することになる。ケイロは途中、すでに何枚目なのかわからなくなってしまっていた。絵と絵が、どこで区切られ、どこで転調しているのかも、次第にわからなくなっていった。すべては全体を表現する一続きの世界だった。今は振り返ることなどできなかった。ただ先に筆を進めていくだけだった。水原というプロデューサーの顔の印象も、次第に消えてなくなっていった。
もうすぐ設計者に近づくことができる。彼の意図に辿りつくことができる。
すでに、自分がその人間に成り始めている。ケイロはそう感じた。
ここで、焦点を逸らしてはいけない。ケイロは寝食を放棄し、次第に忘れていくことで、この肉体もまた抜け出ていってしまったかのように、実感がなくなる瞬間を覚えた。
俺そのものが、最期のときを迎えているのかもしれない。しかし、そんな時に湧いてくる恐怖もまた、肉体を抜け出したかのような浮遊感に消し去られた。
ケイロは次第に、設計者の存在の影もまた、だんだんと消えていっていることを知った。その代わりに、彼が同化していると感じたのは、神殿の存在だった。
まさに、“底なき神殿”だった。
しかし、そこにあるのは、内側に抉っていく、女性器の化身ではなかった。
受け入れ、吸い込んでいく、目には見えない建造物の存在ではなかった。この世界の、この大地の底から突き現れ、空に向かって聳え立つ、見るものを圧倒する、まさに目に見える巨大な建物だった。それはケイロがかつて、映像で見たことのある神殿ではなかった。何故、そのような建物が突如、絵の中に現れ出たのか。“底なき神殿”はどこにいってしまったのか。KNA構造は、いったいどうなってしまったのか。
街が時間の経過と共に変化する、KNA構造の世界は、すでに挿入された白昼夢であったかのように消えていた。
何千年、何万年続いていたのかわからない歴史は、一回の瞬きであったかのように、儚く消えていた。
それに伴い、“底なる神殿”もまた、消えていた。
世界は逆転していた。
光だと思っていたものは、闇へ。物質であると思っていたものはエネルギーへ。男であると思っていたものは、女へ。変幻自在な構造は、強固な安定性へ。世界は、裏っ替えっていた。ケイロはピンと来た。あの“底なる神殿”が立ち入り禁止にした、そのラインを超えていったとき、人間もまた、あの底のない闇に吸い込まれていくのだろう。その先には、ちょうどこの世界と質を異にする、逆転構造の別の世があり、そこが新たな始まりの世界なのではないか。ということは・・・。
ケイロは、考えだした。あの自殺や自己のように報道された、あの自らあの場所に突っ込んでいった人間たち。彼らは知っていたのではないだろうか。世界が最期を迎えることを知っていて、その前に自ら変化を起こしていったのではないか。飛び込む勇気を奮わせ、彼らは一足先に、次なる世界に移行していったのではないか。そのような通路が、あの場所であったのではないか。だから人々は怯え、恐れ、畏敬の念を持って、祈り叫ぶための場所として、認識したのではないか。だからこそ、神に成りえたのではないか。死と再生を生む場所だった。次の世界へと通じる、唯一の通り道だった。
ケイロはここで、意識を今へと戻す。
このKNA構造は、次第に、どのような変化をとげていくのだろうか。世界が、まった裏っかえっていくその最期の瞬間を、どのように街は表現するのだろう。その中で人間はどんな現実に直面し、どんな運命を辿っていくのか。ケイロは、そのプロセスの逆算を思い描きながら、作業に没頭していった。
ケイロは、神殿と同化した。神殿がこの世に出現していく世界と同化した。それに合わせるように、周りの物質は変化していった。この都市が、“底なる神殿”を軸に成立しているように、次なる都市は、この屹立する巨大な神殿の存在を、その後のすべての進化に対する根幹に据えているはずだった。
ケイロは今、二つに完全に分かれてしまっていた。意識のすべては、屹立する神殿にあった。半分のエネルギーは“底なる神殿”が中心に居座る、これまでの世界にあった。その乖離は、次第に加速していった。そして最期に向かう、世界の疾走を、目の当たりにしていった。あれほど力強く、変化を構造的に起こしているKNAが、次第に綻び始めていた。歯車の一つが脱線し、車輪が底のない闇に落ちていくがごとく。大きな音をたて、別の歯車の一部に激しく衝突する。そのように、この見えない機械構造の強固な枠は、破壊されていった。それは、天災のようにも見えた。強風が発生したり、マグマが吹き出したり、止まらない地震が発生したり。だがすべては、KNA構造の崩壊だった。断片的で、不規則に、地球全体で起こる、不可思議な現象とは別に、“底なき神殿”の付近で、起こる怪現象は、止むことなく、時間と共に増幅していった。
吸い込む範囲と、威力を加速させ、必要な養分をすべて、吸い取るモンスターのように。
ぱっくりと口を開け、人間も物も、植物も地面も空気も、吸い取れるだけ吸い取っていき、遠くから見ると、その場所は、黒く輝いているように見えた。闇というよりは、光っていた。黒い強烈な光を放つ現象を、ケイロは初めて見た。
ケイロは、黒い絵の具を使い、壁のほとんどを、黒く塗りたくっていた。部屋じゅうが闇に輝いているようだった。
不穏な物々しい雰囲気は、街に一歩出たときから、激原は感じていた。
今日は、ミュージアムの、アーティストの発表記者会見だった。
水原に頼みこみ、記者会見場に入るためのパスを貰った。どうしても、その人間を一目見たいと思った。水原に無理を言った。激原は現場に出て、仕事をすることを、次第に控え始めた。体調がまだ本来のものに戻っていないという表向きの理由は立てたが、実際はほとんど問題がなかった。問題なのは、これからのビジョンの方だった。これまでのように、エネルギーのすべてを建設の作業に投入し、投入しつくした後で倒れてしまうといったそのパターンからは、抜け出す必要があることを自覚していた。次のステージに入ったことを、激原は自覚していた。自分の精神世界をコントロールする術を身につける必要があった。激しい感情の波に翻弄されてはいけなかった。そのあいだの穏やかな世界の中に、自分で設計した地図を、定める必要もあった。そこに自然と、エネルギーを流し込むようにすればいい。思いつきは簡単だが、実際にそういうシステムを作るのは、最初は難しいだろうなと思った。
激原は周りを見ても、自分のように過剰なエネルギーをもてあまし、自分自身までをも、その力で焼き切って身を滅ぼすような、そんな人間を見ることはほとんどなかった。ミュージアムのアーティストの応募に、激原は密かに参加していたのだった。けれども、応募するときからすでに、自分は通るような気がしてなかった。自分の道ではなかった。激原は、この選ばれた人間を、どうしても知りたかった。彼こそが、自分のように、いや、自分以上に、強烈なエネルギーを持っている人間だと確信した。彼はそのエネルギーをどのように手なづけ、どのように翻弄されることなく、疲弊することなく、逆に自分自身にさらなるパワーへと変換し、循環させているのか。彼の存在が、俺に教えてくれるに違いないと、激原は思った。
最終的には、自分で編み出さなければならないことはわかっている。しかし、あまりに、同類だと感じる人間がいない。自分だけが、この世界から切り離されているかのようだ。自分自身と繋ぐ方法。世界と繋ぐ方法を、彼なら、知っているに違いないと思った。知っていてマスターしているからこそ、選ばれた。そこに俺との決定的な違いがある。それを掴んでいれば、俺が選ばれる可能性だってあった。だが結局、俺の道ではないのだろう。アーティストという柄でもなかった。ただし、応募したことで、アクションを起こしたことで、自分の中の何かが変わっていた。
まだ、ミュージアムの完成には期間があるし、そのアーティストの作品を見る機会も、ずっと先になりそうだった。だが、本人を見ることで、何かを強烈に感じることはありそうだと思った。同じ空間にわずかであっても、一緒に居たいと思った。同じ時を共有するべきだと感じた。水原は、快く了解してくれた。激原は、会場となっているガルシア・リッツホテルへと向かった。
何人の警官と、すれ違ったことだろう。意識がそこに合うと、そこらじゅうにパトカーが徘徊している姿が目に入ってくる。物々しい厳戒態勢が引かれているのか。駅の傍の線路のあたりで、駅に進入してくる列車を見た。その列車の車掌席には、何と十人を超える警官が同乗していた。駅に着いた列車は、しばらく動くことはなかった。車両点検をするというアナウンスと共に、作業員が一斉に線路に降り、レールに密着している車輪の付近を、入念に目視していた。激原はタクシーを拾った。
入り口で券を見せ、首から下げるIDパスをもらう。中にはすでに取材カメラが多数入っている。記者の姿もたくさん見える。仕事でないのに入場する人間は、なぜか自分だけのような気がしてくる。激原はノートを広げ、質問項目をおもむろにメモした。激原は、手を挙げ、指名され、みなの前で質問をしている自分の姿を、想像していた。
すでに、予定時間を過ぎていた。数回の発砲音を聞いたのは、そのときだった。
黒い覆面をした男たちが、一斉に会場になだれ込んできた。彼らは、奇声を発することなく、実に低音で、安定感のある響く声で、冷静に話始めた。何語で話しているのか、激原にはわからなかった。彼らは我々に狙いを定め、何かを要求しているようだった。スタッフは慌ただしく、電話で連絡をとっている。そんな彼らに対して、覆面男はいっさい銃を向けなかった。やがて通訳と思われる人間が呼ばれ、覆面男たちとスタッフの間に入る。何度かの往復のあとで、スタッフがまた慌ただしく動き出した。彼らは舞台裏へといっせいに引っ込んでしまった。次の瞬間だった。
一人の若い男を囲むように、スタッフたちが戻ってきた。そして、その一人の男に向かって、覆面男たちは近づいていった。数発の発砲がなされ、若い男は床にあっというまに倒れてしまった。何が起こったのか、激原にはわからなかった。ただその若い男が、そのアーティストであることだけは、一瞬でわかった。彼を取り巻く輝きが、まったく違った。倒れ込んだ男を、スタッフたちが取り囲み、しゃがみこみ、息の確認をした。黒い覆面男たちは、低音で安定的な声を崩さず、まるで、マイクを通してしゃべっているかのように、会場中に響き渡る声を送っている。部屋は彼らの声の震動で満たされていた。
やがて、警備の男たちに続いて、武装した警官が流れこんでくる。騒乱が瞬間的に、想像されたが、覆面男たちはあっけなく捕まってしまう。発砲することなく、何の身体的な抵抗も見せずに、床にうつ伏せにさせられてしまった。覆面は剥ぎ取られ、男たちは黒くて長い髪を、我々に晒した。顔立ちは、どう見ても日本人ではなかった。彼らはその後、二度と言葉を発することはなかった。あっけなく警官に退場させられてしまった。撃たれた男の周りには、血の海がすでにできていた。男の意識はなく、呼吸もすでに止まってしまっているかのように見えた。こんな光景を俺は見にきたのかと激原は思った。彼は死んでしまったのだろうか。覆面の男たちの目的は、この男の殺害だったようだ。目的を果たした後は、気力が抜き取られてしまったかのように、茫然と立ち、誰かと交信するかのように、そこにいるだけだった。しかし、警備の人間や警官たちは、一体なにをしていたのか。あれほど、街は厳重厳戒だったじゃないか。肝心の会場が、どうしてこんなにも緩いセキュリティだったのか。怒りが湧いてきた。本当に守るつもりがあったのか。グルだったんじゃないのか。警官もまた、武装勢力と利害が一致していたのではないか。良からぬ想像が掻き立てられてくる。
何か示し合わせたようなタイミングで事件は起こっていた。まるで舞台の裏でカウントしている演出家が、潜んでいるようだった。役者たちはそのタイミングに合わせているかのようだった。激原は冷静になった。いつもなら爆発しているはずの感情を、このときは見事に抑えこんだ。激しく疼いてくる怒りを、ずいぶんと遠くから見ている自分がいた。この会場全体を、そして裏の舞台全体を、全部見ている自分がいるような気がした。会場の中にいる、この自分の姿もまた見えた。激原は、この不可思議な感覚を失うことなく、保つことに専念した。
余計なことを考えてはいけない。勝手な解釈をしてはいけない。俺はいつもそうだった。
俺は勝手に熱くなり、マグマを噴出させ、その熱に自分もまた、巻きこまれていった。目の前に繰り広げられる不協和音と、同調しているだけだった。そこで、その世界で何が起きているのか。まるで知ることなく、激しい空間の中に、自らを閉じ込めてしまっていたのだ。そんな繰り返しは、もううんざりだった。
救急隊が到着し、タンカが会場に入れられる。血だらけの男の呼吸を確認し、気道を確保するようなしぐさをする。出血に対する、応急処置をしている。男はあっというまに、運ばれていってしまう。その間、まったく動く気配を見せなかった。完全に即死だと、激原は思った。とんだ記者会見になってしまった。記者会見は行われず、入場まもなく男は撃たれてしまった。その事実だけを、激原は受け止めた。感情はその後も、突然疼きだし、発火することはなかった。カメラのフラッシュに気づいたのは、まさにその時だった。
それまでは、全く気づかなかったのだ。記者たちは、みな、どこかに一斉に電話をかけていた。右に左に意味なく動いて、動揺を隠そうとしているように見えた。警官の姿は一斉になくなっている。会場を仕切るスタッフの姿もない。警備員の姿さえない。記者会見の関係者が一斉に消えていなくなっているようだった。あの撃たれた男が何故か、これまで生きてきた、この自分のように一瞬思えた。
鳳凰口が、記者会見場についた時、すでに救急車は現場を離れた後だった。入り乱れた気流の中を縫うように、鳳凰口は中へと進んでいった。座席には記者たちの姿がある。カメラ陣もまた、きちんと配備についている。まさに今から、アーティストがお披露目になる寸前のようだ。だがいつになっても、会見の司会を務める人間が出てこない。現場を取り仕切っている人間がいる様子もない。取材の記者たちがすでにパソコンに向かって、一心不乱にキーボードを押している姿が目につく。そんな様子に、鳳凰口はすでに、会見は終わってしまったかのような印象を受けた。画面を覗いてみると、テロ事件が発生という大きな文字が目に入った。公に現れた瞬間に、射殺されたという文字もある。ふと目を上げると、警官の姿が何人もある。現場検証のような情況がそこにはあった。この入り乱れた気流の原因は、そこだった。カメラマンたちは、鑑識の人間と思わしき人間を、撮影している。俺が来る前に、事件が起こったのだ。
鳳凰口は、並んだ座席の一番後ろのところで、会場全体を見ていた。近い過去に、いったい何が起こったのかを、視ようとしていた。ひどい血が流れでている世界がだんだんと見えてきた。発砲音が聞こえてくる。誰が撃ったのだろうと思う間もなく、黒い覆面姿の男たちが、ホログラフィック画像のように現れ出る。何かを言っている。しかし、うまく聞き取ることができない。発砲によって男が一人倒れた。会見場は鎮まり返っている。異様な光景だった。喧噪も、混乱も、その状況からは特に感じられない。非常に静かな気配だ。みなが見守っている。倒れた男ではなく、覆面の男を注視している。
「今、来たの?」
背後から女性の声がした。と同時に、甘い花の匂いがする。女は鳳凰口の左隣にきた。
「わたしもよ。何か、あったのかしら?」
女は馴れ馴れしく、鳳凰口に話かけてきた。鳳凰口が答えないでいると、女は先に話を続けた。
「死んじゃったのかしら」
「なんだって?」
鳳凰口は、女の方を振り返った。
「立花フレイヤ」
女は、固有名詞をいきなり口に出した。
「私の名前。あなたは取材の方じゃないわね。何をしに?私?私はほんの好奇心よ。何かおもしろいことが起こるような気がしたから。それで。でも間に合わなかった。見たくなかったのかしら。残像が、僅かに残ってるだけ。あなたは感じる?」
鳳凰口は、女の顔をじっと見た。横顔だけだったが、そこには圧倒的に整った輪郭があった。誰かが言っていた名前だった。この女には気をつけろと、誰かが言っていた。その誰かをすぐに思いだすことはできなかったが、女は確かに立花フレイヤと言った。言われた日から、妙に気になった鳳凰口は、ネットで何度かその女を調べた。モデルだった。このモデルは現在23で結婚していた。結婚しているのに他に男がいた。その男とも同棲をしていて、また別のボーイルレンドの存在もあった。ずいぶんと問題のありそうな女だった。確かに、こんな女に関わる謂れはない。言われなくても無視をする。どうせ出会うことはないと、高をくくっていた。しかし、こんなとところで、出会ってしまってた。
「立花、フレイヤさんでしたっけ」
「よく覚えたわね。まあ、けっこう、メディアには出てるからね。ふふっ。いつもは、撮られる方だから、たまには撮る側、書く側から、見てみたいってことで、来たんだけれど。なんだか大変なことが起こってしまった。大変な事態。私っていっつも、こうなのよ。行く先々で、事件が起きてしまう。この前も、そう。私が行こうとした所に、誰かがわざわざトラブルを持ってくるのか。それとも、トラブルが起こりそうなところを、私が前もって嗅ぎつけて、自ら選んで行っているのか。その、どちらかだとは思うんだけど」
鳳凰口は女を無視して、離れようとしたが、この情況だった。誰かと話がしたくて仕方がない自分もいた。このまま現場を後にするのは、もったいないとも思った。まだ、何かが起こりそうな予感もする。あるいは、会見は、この後で始まるのではないだろうかとも思えた。
「あなたは、どなた?」
「不法侵入者だよ」
「そうには、見えないわね」
「あなたと、一緒。何の関係もない人間だよ。ただの好奇心で来たのさ」
「気が合うじゃないの。これから、暇?」
「暇じゃない。会見は、これから始まるんだから」
「死んだのよ。襲われて」
「ああ。誰かが、な。でも別の誰かが出てくる」
「どういうこと?」
「俺には、会見がすぐに行われている絵を、ここに見ることができる」
「あなたの願望じゃないの?」
「いいや、確かに、始まっている」
「どのみち、私も帰らないけど。名前を教えて?」
妙に面倒くさくなってきたので、鳳凰口は、自分の名前を言ってしまった。
連絡先まで渡してしまった。
「これ、本名?」
「まあね」
「そう。いい名前ね」
「だろ?」
「鳳凰口フレイヤか。ちょっと合わないかな」
「何?」
「私が、あなたと一緒になったらの話。旦那とは、別れる気はないんだけど」
「それは、よかったね」
「でも、色々な苗字が、欲しいのよ。その都度、その日の気分で苗字を変えたいのよ。そういうのって、面白そうじゃない?一つの名前に縛られるなんて、つまらない。下の名前はこれでいい。これがいいの。これ以外には考えられないし、変えたらきっと、運気がすごーく、下がるような気がする。それなら、上を自在に変えたい。ねえ、一妻多夫制に、ならないかしらね。そしたら夢は叶うのに」
「俺も、結婚していてね」
「ちょうど、いいじゃない」
何がちょうどいいのか、全然わからなかった。この女はイカレているのだなと思った。モデルっていうのは、こんなのが多いのだろうか。しゃべり方には知性がなく、視覚的にも、おそらくすっぴんは平凡で、ただ飾り付けが上手いだけ。そんな気がする。メイクの重ね方が、絶妙な多層構造を、生んでいるのだろう。その層同士の接合にも、磨かれたセンスが投入されている。彼女を視る角度によっては、その固有名詞は呆気なく、変化していく。しかし悔しいことに、そのどれもが美しい。
「いつ、結婚したの?私はもう、だいぶん前よ。五年とか、それくらい前のこと。デビューする前にね。ずっと隠してたんだけど、芸能誌に抜かれて」
「三か月前」
会見場の気流が、僅かに変化したのを、鳳凰口は見逃さなかった。
「いい人そうね。でも、私の入る余地はありそう」
「ちょっと、静かにしてくれよ」
「一対一っていう関係が、向いている人もいれば、そうでない人もいる。みんな、それぞれが一番、ぴったりなバランスを見つけて、それを永続していけばいいと思うの」
マイクの位置を確認しにくる人間の姿があった。
「私の場合は、まだベストなバランスに、なっていないの。あなたが来れば、ちょうどいいと思うんだけど」
やはり今から、会見が始まるのだ。いや、事件の顛末に関する、報告だろうか。だが、そのような負のエネルギーが、少しも感じられなかった。
「子供もいるの。実は。旦那が主に面倒をみてるんだけど」
司会の男が現れた。
『今からアーティスト、ケイロ・スギサキ氏の、記者会見を、始めさせていただきます。ちなみに、先ほどの不手際を、我々、運営スタッフ一同、大変申し訳なく思っております。しかし、ケイロ・スギサキ氏は無事です』
「もともと、宇宙って二つの陽と、一つの陰によって、中庸の神が出来たって話よ。一人の女に、二人の男が当たり前のようにいても、全然、変なことではないのよ」
『狙われ、狙撃されたのは、スギサキ氏だと、我々も思ってしまいました。しかし違いました。まったくの別の人物だった。犯人たちは、確かにスギサキ氏を狙っていましたが、プロデューサーの一人が、この事件を事前に察知し、スギサキ氏を、安全な場所へと移動させたとのことです。したがって、あの撃たれた人物は、別の人間です。身代わりを置いたのです。しかし、防弾チョッキを着ています。偽物の血を用意して、それを床に垂れ流しました。犯人たちはそれで満足しました。事は達成できたのだと、勘違いしました。スギサキ氏は無事です。ご安心ください。間もなく登場です。お待ちください』
「でも、私は、ほんとうに、色んなパターンがあって、いいと思うの。女性が四人で、男性が一人ということもある。色んなパターンがあっていいと思うの。それが文化によって、その一つに固定されてしまうのって、おかしいと思わない?混在したままで、誰もがどのパターンを選択するのかを、自由に決められるっていう雰囲気が、とても大切なんだと思うの。人によって、うまくいくパターンが違うから」
鳳凰口は、ケイロ・スギサキの登場を待った。しかし、誰が何の目的で彼を狙ったのだろう。あとで水原に電話をしよう。もしかすると、あいつが察知して、機転をきかせたのかもしれなかった。
「あなたにも私が必要よ。引き合ってるんだから」
その女の声はずっと、耳元で聞こえ続けていた。
ケイロの会見を聞き、その記事を執筆している私だったが、今読み返してみても、彼が何を言おうとしていたのか。全然理解することができなかった。確かに彼は、自作の絵のことについてしゃべっていたのだろうし、初めての展覧会についての告知を、していたのだろうとは思う。けれども、これはどうやって記事にしたらいいものか。新聞社の記者などは、これをどうやってまとめるのだろうか。
記者会見が行われた、その事実を列挙して、あとは写真でも載っけておけば、いいのかもしれなかった。長々とした文章もいらない。彼は、宇宙の成り立ちについて力説していた。無から有が生まれる、その瞬間。有が、別の有にとって代わる瞬間。
そういった話を、延々としていた。彼が画家としてどんなキャリアがあり、またどんな経歴の元に、今に至っているのか。年齢はいくつなのか。誰も質問すらしなかった。
ケイロは記者に質問させる暇を与えず、ずっとしゃべり続けていた。
気づけば彼はマイクの前からいなくなっていた。いつのまにか、会見を終わらせていたのだ。その場にいた人たちは、彼がいないのを知って、お互い目配せをした。いなくなった瞬間を、誰も目撃してなかったようだ。新聞社やテレビ局は、その前に起こった身代わりのテロ事件の話を、大々的に報道することだろう。ケイロの話の内容に、切り込む人たちはあまりいないのかもしれなかった。
エネルギーの話から始まり、そのエネルギーがどのように分岐し、分岐した二つの真反対のエネルギー同士が、どんな第三のエネルギーを生みだし、この三つのエネルギーが、共存することで、世界が誕生する準備を宿した。ケイロは力説していた。
これまでの絵を、僕はすでに、書き終えていると彼は語った。
その後、三つのエネルギーは、二つの両極の神を生みだし、両極の二種類の人間を、産み落とすことになった。また宇宙とは無数にあることにも触れていた。四つの宇宙が一組となり、その集団が無数に拡がっている。四つの宇宙はそれぞれ一つずつ、順番に経験していくことが決まりで、その四つすべてを体験し終えたときに、その宇宙からは、解放される。縛られることはなくなる。また別の、四つの組み合わさった宇宙へと、移行していく。
こんなことを、僕は、この会見で語る必要はなかったと、ケイロは自省し始めた。
しゃべりすぎたと、彼は言った。しゃべりすぎたし、いくら話しても、しゃべり足りないとも彼は言った。どっちにしろ、僕の欲求は、満たされることはない。したがって、絵を描く以外に手段はないのです。絵でなくとも、別の表現形態で、外の世界に伝えていかなくてはならない。この世にヒントとなるようなものを、設置しなければならないのだとも、彼は語った。今度の、建設予定のミュージアム。そこがある一つの、宇宙観の提示場所として、人々に認知されることになるであろう。我々が今、自分が今ここに確かに存在するための叡智が、失われてしまった現代において、自分を世界を取り戻していくためのきっかけを、ヒントを、人々は、切に必要としているのです。ほんの入り口すら、公の場には与えられていないのが現状なのです。
意図的に隠している時代は終わりました。これからはよりオープンに、世の中で分かり合う必要がある。そういった活動の始まりの象徴としても、このミュージアムは非常に重要な役割を果たすと思います。色んな意味で時代が変遷していく、その変り目の象徴として、屹立することになると思います。僕はその重要な役割を担う。
ミュージアムの中に、その叡智の片鱗を置き、時に強調的に飾り立てることを、僕は生涯の仕事とすることでしょう。僕もまた、みなさんと同じで、この叡智を掴みとり、より拡大させていくために一緒に歩んでいく、そんな人間の一人です。みなさんの中に、僕はいます。僕はみなさんでもあります。絵は別の何かに、だんだんと変わっていくかもしれません。どういった形態をとっていくかは、正直わかりません。しかし、僕の活動に終わりはありません。今が始まりなのです。一度、回路が開かれてしまえば、あとはいつまでも、閉じることはありません。命が潰えるときまで。本日はお集まりいただいて、有難うございました。まさか自分がこのような場で、こういった発言をするとは、数か月前には夢にも思いませんでした。応募をしたときでさえ、そうでした。選ばれたときもそうでした。
僕は元々、絵描きを目指していたわけではなかった。描いたこともほとんどなかった。
何故、応募したのかも正直わかりません。当選の通知をもらったときも、実感がわきませんでした。どんな画家になればいいのか。構想すら思いつきませんでした。彫刻がいいのか、建造物がいいのか。今もわかりません。しかし絵を描くことから始まるのは、実際に描いてみて、確信しました。すべてはここから始まるのです。
原画のスケッチが、創造すべての、根源であり、唯一の設計図なのです。
ここを極めずに、物をつくる人間として、生きていくことはできません。存在意義もありません。僕はこの作業を、今度の展覧会をきっかけに、さらに加速させていこうと考えています。ここに、十数年のときを費やしてしまっても、構わないとさえ思っています。これさえ極められれば、怖いものは何もなくなる。この上に、いずれ何かが建っていくはずです。そうです。ここで初めて、本当の真の創造物が、この世に、この街に、出現するのです。そして、その原画は、すべて、ミュージアムの中に所蔵される。つまりは、ミュージアムには今後、僕が制作していく原画ばかりが、集積されていくことになります。収納されていくことになります。絵であっても、別の形態であっても、それは原画のファイルということになるでしょう。その原画が、次なる世界の創造に加担し、ミュージアム全体を埋める頃には、それと同時に、新しい世界の構造もまた、完成していくことでしょう。すべては連動しています。ミュージアムの外と中は、完全に連動しています。繋がっています。中で起きたことが、外の世界に反映し、その逆もまたそうです。そうした連動性の中で、あらたに別のエネルギーも、発生することでしょう。そのエネルギーを巧みに扱い、別の目的で、有効に使う、そんな人たちもまた、出現してくるように思います。
今日は、このくらいにしておきます。もちろんこれから、こういった会見を開くこともないでしょうけど。どうぞ僕の風貌を、覚えておいてください。写真もたくさん撮ってくれてかまいません。今日くらい、みなさんの目に、はっきりとした姿で現れることは、今後はないでしょうから。
そう言い放ったケイロの姿を、私はじっと見つめていた。
ふと、彼を狙ったあの武装勢力とは、いったい誰だったのかと思った。
この、ほとんど一度きりしか表に晒さないと自称する男を、消そうとした勢力、組織とはいったい・・・。黒い覆面をして、発砲したという男たちの姿に、いつの間にか、意識を集中していた。
すぐに第三の勢力という言葉が頭に浮かんだ。彼らが第三の勢力の一員だということか。雇い主がその第三の勢力なのか。いや、彼らが、そうではなさそうだ。じゃあ、第三の勢力とは何なのか。ケイロだ。彼が第三の勢力なのか。第三の勢力を消そうとした人間は、一体、誰なのか。どこにいるのか。私は目をつぶり、息を深く吐いた。
この記者会見場の全体を、包み込むように私は見ていた。感じていた。第一の勢力と第二の勢力は同じ仲間であった。同一人物でもあった。この会場にいるすべての人間が、そうだ。はっと我に返った。自分もまた、その勢力だったのかもしれない・・・。
檀上のケイロのみが違っていた。いったい誰が殺意を抱いたのか。私はその事実を、これ以上探究するのを恐れた。私もまた加害者だったことに気づくのに、時間はかからなかった。私を含めた、この場にいたすべての人間が、ケイロの殺害を望んでいたのかもしれなかった。身代わりの血が流されたことで初めて我に返った。みな無意識に、あの男が死んでくれることを望んでいたのかもしれなかった。何故だろう。何故、ケイロはそんなふうに思われたのだろう。危険人物なのだろうか。彼がアーティストとして世に出ることによって、重大な不都合が起こってしまうのだろうか。
ミュージアムに意識を移す。
ミュージアムの建設をバックアップしているのは、いったい誰なのか。公募を企画したのはいったい誰なのか。第三の勢力に違いなかった。彼らが表に出ていく、表でパワーを解放する、そのきっかけが、欲しくなり始めていた。パワーの出口が必要だった。ケイロは、その出口なのだろうか。そうに違いなかった。彼は出口なのだ。彼だけに、元々特別な力が備わっているわけではなさそうだった。彼が出口役として選出された瞬間、地下からマグマのように吹き上がってくるエネルギーを、あの男は感じた。そしてエネルギーは、彼と同化し始めた。彼も言っていたではないか。応募したときも自分の仕事に対する自覚は、全くなかったのだと。そんな男がしゃべるような、今日の会見内容ではなかった。彼の元にどんどんと第三の勢力のパワーが流れ込んでいるのだ。今も。加速度的に。彼の元で増幅し、ミュージアムへと流れ込む。ここに回路が出来る。完成予定のミュージアムに意識を移す。
ミュージアムもまた、そのパワーを拡散させるシステムを内包している。絵をただ、所属しておくだけのスペースではない。絵から生まれるパワーを取り込み、増幅し、目的に合わせた変換をして、拡散させていく巨大な装置なのだ。だんだんと、実体が見えてきたと、私は思った。面白くなり始めてきた。この仕事を本業にしたいくらいに、私の中の何かが目覚めていることに気づいた。
私は帰国後、やっと日本の空気に慣れ始めていることも知った。
そろそろ本業も再開させないといけない時期だった。ギャンブラーとして、日本のカジノでも荒稼ぎをする、本来の役目を果たしていく準備を、する必要があった。私はまだ不自由であった。外国で道を踏み外し、闇の組織が運営するギャンブルに、紛れこんでしまい、そこで、大損してしまったのだ。その埋め合わせをするため、私は日本への帰国を禁じられた。シンガポールや韓国などで、ギャンブラーとして金を稼ぐことが義務付けられたのだ。彼らはギャンブルを徹底的に私に教え込ませた。色んなカジノなどの場に派遣された。そこで、システムを滅茶苦茶に破壊するまで、勝ち、そのあとで、出国するということを、繰り替えしさせられた。もちろん、逃亡にはバックにいる組織が、私を最大限に守った。私は一度も危ない目に合わずに、今日という日を迎えていた。組織への借金はすべて返済し、私は日本へ戻ることが許された。そしてこれが最後の仕事だった。
これが終われば、彼らは、私を解放することが決まっている。私は日本人として、本名のアキラとして、この世界に復帰することができる。これでやっと、戸川兼にも会える。無言で、彼との友情を終わらせ、姿を消したことはあまりに辛かった。彼の活躍は、日本にいなくても随時チェックしていた。彼に自分が元気でいることを早く知らせたかった。これまでのことはもちろん、守秘義務の契約を結ばされている。戸川には嘘をつくことになるが、それも仕方のないことだった。その嘘から、事実を察してくれたらと思う。戸川は鋭い男だった。
それでは、ライターの仕事は名残り惜しいが、ここで本来の現実へと戻ることにする。
すべてが在るべき場所に、戻ることを祈って。
ザマスターオブザヘルメス2 後夜の暗礁 @jealoussica16
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ザマスターオブザヘルメス2 後夜の暗礁の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます