璟国からのお客様 1

 けい族というのは、秦青の北方に住む、半農半牧を営む遊牧民たちのことだ。


 秦青と璟は陸続きであるのに、二国の民のあいだには深い川が流れている──。

 そう歌に詠まれるほど、璟は、近くて遠い国。


 二国のあいだで、戦があった。先代皇帝の時代のことだ。


 徴兵された男たちは帰ってこず、女と子どもは、身を売って命をつないだ。

 ──あたしの村が特にひどい地域だったのだと知ったのは、女衒ぜげんに連れられて南市に移り住んでからのことだ。ここでは食べものも着るものもあったからびっくりしたのを覚えている。

 みやこに近ければ近いほど、命の危険とは遠ざかるのだ。戦とは、そういうものらしい。


 互いの国の皇帝が代替わりして五年がたったが、辺境の村には戦火の名残が色濃くある。姐さんたちが公羊つきになるのを嫌がったように、璟族への差別もしかり。


 そんな理由で、彼のように変装もせず、璟人であることを隠さずこの国で堂々と過ごしている人は、珍しいのだ。


 あたしは二胡の弦を爪弾いた。ぽん、ぽろん。こぼれた音が蛇皮の琴筒に反響する。この人のために弾くのならば、この音では鋭すぎる。少し弦をゆるめて、次の曲のための調音をする。


「──嫌うだなんて。主さんみたいな素敵な人、世界のどこに行っても愛されるでしょうに」

「……その楽器も。あなたが二胡と呼んでいるそれは、もともと北方の国々のものだ。かの国では、けい琴、と呼んだ。形こそ少し違うが、絹糸で作った二弦を、竹弓で弾く。あなたのその弓は、馬の尾か。今どきの、かなり新しい弾き方だな」

「まぁ、お詳しいのね」

「あなたはどこでそれを習った? 琴や筝でなく、なぜ二胡を?」


 あたしを見つめる、真剣な瞳。空を閉じ込めたような青が、燭台の灯りにたよりなく揺れている。


「もしかしてあなたも、その……璟の人間なのではないか?」


 あたしは内心でひっそりと納得していた。


(なるほど。……こりゃ郷愁ホームシック、かな?)


 男が妓楼に来る理由だ。

 女遊びに心を掴まれる男は、みんな人知れない空虚を抱えているもの。彼の場合は、きっとそれで。


(たしかにあたしは、彼をもてなすのにふさわしい妓女かもしれない──)


 彼の出自を知った今なら、そう思える。あたしと彼の共通点。これが切り札になるかどうかは、あたしの手腕によるのかもしれないけど。


 あたしはつとめて儚げに見えるよう、目を伏せてまた曲を奏で始めた。


「妓楼での二胡弾きは、それほど珍しくありません。宮妓であろうと官妓であろうと、はたまた私のような市妓であっても、胡なら教坊で習うことができますから。でも、そうねぇ。……たしかに私のこれは、みんなのものとは少し違います」

「なにが違う?」


 公羊は、あまり駆け引きが得意な男性ではないらしい。

 こんなに素直に好奇心を表していては、悪い女に簡単に食べられてしまうのではないかしら。今までよく無事だったわねと、少し心配になる。


「私は、主さんと少しだけ同類なの」


 内緒話をするために。ほんの少し二人の距離が近づく。


「少し、とは? ……あなたのご両親は、北の生まれなのか?」

「この続きが聞きたいのなら……そうねぇ、今夜はおへやでお休みになっていきませんか?」

「へ、室、とは」


 うろたえる男の手を握る。「ほら、」と周りに目をやると、つられて公羊も視線をあげた。


 あれだけ賑やかだった宴会場も、いつの間にやら夢の跡だ。公羊の付き人らしき武人の姿もない。外で涼んでいるなら、今のうちだ。


「ね? 私たちも、二人で飲みなおしましょうよ?」


 あたしは精一杯、色っぽく囁いて、彼を誘った。こんなこと初めてではないのに、らしくもなくドキドキしながら。

 だって近くで見る公羊は、本当に美しい人だから。


 立ち上がったあたしに、男衆おとこしの一人がさっと近づいてきて一輪の花をよこす。

 これは金花楼独自の合図だ。

 金花楼ではへやひとつひとつに花の名前がついている。高貴な──特に財力のある太客には、それなりの個室をご用意するのが決まり。


 公羊には、最上階の部屋の一つ、蘭の間をあてがわれた。あたしも初めて使う部屋だ。やっぱり公羊は、すごい人に違いない!


(──逃すもんですか!)


「ご案内いたします。とても眺めが良い部屋なの。きっと璟への道も見渡せるわ……朝になったら、だけど。ああ、寒い。今夜は、きっと雪ね」


 公羊は「う」とか「でも」など言い淀んでいたが、あたしが楽器を片付けて立ち上がると、困惑しながらも断ろうとはしなかった。

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