二胡弾きの玉蘭 2

 他の妓女たちの視線を振り切って、上座の男性の前に平伏する。


「お呼び立ていただきありがとうございます。玉蘭でございます」

「あ、ああ。よろしく頼む」


 思いのほか、若い声だった。促されて顔をあげ、あたしは今夜の相手と対面した。


「──あらぁ、綺麗な男」


 思わず口に出してしまうほど整った顔の青年が、困った顔をしてあたしを睨んでいる。


「やめてくれ。このような場で、綺麗だなんて言われても、困る」

「ごめんなさい。主さん、とてもいい男だから、嬉しくて」

「……たぶん世辞だろうが、貴女みたいな美人に言われたら、どういう顔をしたらいいか、わからない」


 美人、だって。

 こんな男性に褒められたら、そりゃ悪い気はしない。


 この豪華絢爛な美女が勢揃いする金花楼で、ちびで色気不十分なあたしを褒めてくれるお客様は、なかなかいない。


 その彼は、自分で言って照れてしまったのか、そっぽを向いてしまった。耳まで赤らめちゃって。ずいぶんウブなお坊ちゃんみたい。


 ますますやる気を出したあたしは、自分がいちばん綺麗に見える角度──客から見て少しだけ右斜めを向いて、押しすぎず引きすぎず、この初会の旦那様をささやかな微笑みで迎えることにした。


「私こそ不躾に申し訳ありません。素敵な方だったのでつい、ぽろりと本音が。主さん、こういう場所は初めてでいらっしゃる?」

「そ、そうだ。……その、今夜は無理やり、連れてこられて」

「そうでしたの。お連れの白陽様は、たしかに最近よくいらしてるみたい」


 袖を持ち上げて下座を示す。男が、ちょうど鈴蘭を押し倒したところだった。「あぁれぇ」甘ったるい声が耳につく。


「なっ、あいつ……! ちょっと、止めてくる」

「ああ、平気です。男衆おとこしの誰かが運んでくれると思いますから。お部屋に案内する係がおりますの。心配なさらないで、皆慣れているから」


 浮かせかけた腰を再び落ち着けて、青年は居心地悪そうに頬をかいた。


「そういうもの、なのか」

「主さん、お優しいのね。ありがとう、鈴蘭のために止めようとしてくださって」

「い、いや……」

「一杯、いかが?」

「あ……そ、そうだな。頼む」

「はい」

「すまない、酒は少しでいいんだ。あまり、強くなくて」

「主さんの、言うとおり」


 杯にうすく張った水面が、男の吐息で揺れる。それをぐっと一気に呷って、青年は嘆息した。あたしも自分の幸運にため息をつきたい気持ちだった。


 ほどほどに観察するつもりだったのに、目が離せなくなってしまう。見れば見るほどに眼福な青年だ。


 柳眉をひそめるとはよく言ったもので、眉は細くきりりと整っているし、睫毛はふわふわで長くて、瞳は澄んだ青色。


 髭の剃りのこしなど見当たらないきめ細かい頬に、主張しすぎない控えめな鼻梁。


 そして新雪のような輝く銀白髪を、惜しげもなく背中に垂らしている。男くさくなく、かといって女々しいわけでもなく。神仙のごとき神秘さを纏って、優雅に杯を傾けている。


 身なりも明らかに高級そう。

 身動ぎするたびにきらめく、高貴な絹の輝き。この生地、そして帯も。あたしの見立てじゃ、たぶん、鼠州産の絹で仕立てたもの。つまり、ものすごーく高級品。


 黒地の袍衣に濃緑の帯と、襟元には銀の刺繍。髪色がよく映えて、綺麗だ。色合わせの感性センスも悪くない。


 これは間違いなく、お金持ち。金花楼の門をくぐることのできる若い男といえば、科挙の合格者か宮廷関係者、はたまた隣国の大商人の跡取りか。


 どちらにせよ普段だったら、絶対にあたしなんかに任せないような身分の御仁。


 けど、牡丹姐さんをはじめ、気位の高い姐さん方がこの人を避ける理由── 目の前の美青年ときたら、明らかに北方の異国人なのだった。


(しかも、この様子だと女慣れしてないっぽい! こんな美形にしちゃ珍しいことにさ。まるで鴨がネギを背負ってきたみたいじゃない!)


 あたしはひっそりとほくそ笑んだ。上手く誘導してこちらのペースに持っていけば、あのお綺麗な衣のあいだから、金貨銀貨がざくざく出てくるかも!


「その、楽器が得意だと、連れに聞いた。遊びにも少々飽きた頃合いでな。何か弾いてくれないか?」


 こちらを見ないまま、彼はそう言った。どこまでも綺麗な横顔の、耳だけがほんのりと染まっている。

 高貴な御仁とはいえこんな調子では、やっぱりあたしにとっては良い鴨なのだった。


「かしこまりました。では、さっそく」


 視線をやると、妓夫が飛んできてあたしの二胡を持ってくる。


 姿勢を整えて、弓を構える。


 そうこうしているうちに、周りで騒いでいたお客人たちも酒令あそびの手を止めて、あたしの演奏を待っている。

 二胡弾きの玉蘭と言ったら、この界隈ではちょっとした名妓として有名なのよ。


 あたしは少し考えて、故郷をしのぶ優しい唄を選んで弓を引いた。

 なるべく、この若い旦那様の緊張がほぐれるよう、あえて視線を送らず、微笑みはたやさず、囁くように歌う。


 秦青の人間にはあまり馴染みのない歌かもしれないが、気にいってくれただろうか。男たちは杯を片手に聴き入っている様子だ。



「──もう少しお酒を? それとも、何か別の曲を弾きましょうか?」


 弓を置くと、彼は夢から覚めたみたいにはっと瞬きを繰り返した。

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