ザマスターオブザヘルメス1 前夜の紋章

@jealoussica16

第1話


第一部 第一編  前夜の紋章 Ⅰ





















 映画の試写会のあったその夜、自宅に帰った原作者のKは、部屋で一人でいることに居心地の悪さを感じ、近所のカフェテリアに行っては、また外を散歩するということを繰り返した。

 しかし、落ち着かない気分は一層募っていった。具合の悪いことに、こんなときに限って、彼女の聖塚を捕まえることができない。仕事で遅いのか。研究に没頭しているために、電話に出てくれないのか。マンションに出たり入ったりを繰り返す。

 が、その時、エントランスで知ってる顔を、見かけた。


 長谷川セレーネは、サングラスを外した。

「Kさん。こんばんは。こんな時間に、偶然ですね。同じマンションに住んでるみたいで。お話、聞きました」

 長谷川セレーネは、まだ春の夜風が冷たい中で、ずいぶんと短いスカートを履いていた。

 白くて長い脚が、発行体のように闇から浮き出て、エントランスの照明に当たっている。

「今日の試写会でも、隣の席で。あまりお話しはできませんでしたが。ちょうど、よかった。こんなところでは、何ですから。うちに来ませんか?ご迷惑ですか?でも、ここはちょっと。外もちょっとね」

「いや、僕は、その、お構いなく」

 Kは、突然現れた美しすぎる女に戸惑い、言動も不審を極めていった。

「一度、話しがしたかったんですよ。意外にも早く、その機会は巡ってきた」

 Kは、自分の原作を元にした映画の内容に、ずっと囚われていた。ずいぶんと違う内容に戸惑うばかりか、あんな結末のままに放り投げられた状態に、心は不安定になっていた。

 原作では、あそこまで露骨に、世界の変化を描写してはいなかった。それを、あの映画監督ときたら、その最後のワンシーンだけに焦点を当てて、引き伸ばし、拡大して、大画面に突きだしてきたのだ。そこだけを鋭利に、差し出してきた。

「長谷川さん」

 Kは、やっと、目の前の美女を直視できた。

「長谷川さんは、あの映画、どう思いましたか?」

 長谷川セレーネは、エントランスロビーのソファーを指差した。

 二人はそこに移動した。長谷川セレーネは、思むろに足を組み、それでも前かがみにはならず、背筋はぴんと伸びたままだった。

「アトランズタイムのことですか?」

 長谷川セレーネは、Kの背後を何故かよく見ていた。

「怖いの?」と長谷川セレーネはKに訊いた。「怖いんでしょ。いつ起こるのか。怖いのね。あなたの本はどうも、過去に体験したことを書いているのではなさそうね」

「それは、誤解です。僕は」

「何かを先に感じ取って、書き写している」

「誤解ですって、長谷川さん。僕にそんな能力はないです。もう起きてしまったことなんですよ。あなたにそれを訊きたかった。あのとき、会ったじゃないですか!シカンさんの豪邸で。そうですよね?会いましたよね?他にも、井崎とかその奥さんとか。まさか、あなたが来るとは思わなかった。Gさんの舞台。あなたも出ていたじゃないですか!そうですよね。Gは亡くなった。そうでしょ?あなたも、出演していたあの舞台です。途中で中止になりました。街は大変なことになった」

 長谷川セレーネは表情一つ変えずに、Kの背後を見続けていた。


 Kは、自分の発言が、どこにも終着点を見つけられていない現実を知るにつれて、恐れていた事態が本当にやってきていることを知る。

「そんな・・・。それも、違うのか・・・」

「恐れているんですね」

 長谷川セレーネは、その言葉を繰り返した。

「もう、あなたは、限界に近づいているように思います。どうして手放さないんですか?あなたにはもう、わかっているはずです。何を守ろうとしているんですか?死ぬのが怖いからですか?あなたの心一つでしょう。私も短い期間だったけど、モデルになって精一杯、生を駆け抜けてきた。ここで終っても、何の悔いもない。いいの。終わりにして。すべてを終わりにしてちょうだい。私はちゃんと、自分を取り戻せたから。もう大丈夫だから。それでいいの。あとは、あなたの好きにしていいの。それを伝えたかったの。私はもう平気だから。心配しないでいいから。しっかりと駆け抜けたの。もう時間を先延ばしにしなくていいの。わかった?わかったらもう、私。部屋に帰る。あなたも帰って」


 長谷川セレーネは組んでいた足をほどいた。雑誌の撮影中のように、無駄のない動きで立ち上がった。エレベータまでの道のりをいく、長谷川セレーネの背中から足首を、Kはずっと見ていた。長谷川セレーネは、一度も振り返らずに、エレベータの中へと消えていった。

 Kはそのあともしばらく、ソファーに座り続けた。

 彼女と会ってから、力はずっと抜けたままだった。



 翌日、Kは、電車に乗ってるときに突然、声をかけられた。

「あの、これは、何の建築現場なのでしょうか」

「えっ、どれ」

 突然、Kは、ある男に声をかけられた。

「戸川と申します」いきなり名乗られたことにも、Kは警戒感を強めた。

「この街は、初めてなんです。最初に、このテントが気になったもので。教えてもらえませんか」

 確かに、工事内容を記した板の存在は、どこにもなかった。

 サイズからして、高層ビルか商業施設か。そのどちらかだと思った。男にはそう伝えた。

「それは、本当ですか」

「たぶん」

「申し訳ないですけど、正確なところが知りたいんです。失礼ですけど、あなたはどなたですか?」

「Kと言います。詳しいことは、ちょっと言えないです。有名ではないですけど。それなりに、人前に出ている仕事なので」

「そうですか。幸運だ。いきなり、芸能人に会えた」

「芸能人じゃないんだけど」

「教えてください!ここの建築現場のことを」

「これ以上、わかりようがないよ。中は、見られないわけだし」

「ですよね。どうしたらいいんだろ」

「そんなに、重要なことなの?」

「ええ。そうなんです」

「逆に、俺の方が訊きたいな。何が引っ掛かるの?」

「いや、実は、今、僕は地方から上京してきたばかりなんです。出身は鹿児島でして。それで、就職先をこれから探そうとしていて」

「そうなんだ」

「それで、僕ね、ばあちゃん子なんです。その、全然、どうでもいいことですけど。両親が早くに離婚しまして、母子家庭だったんで。ほとんど、ばあちゃんに育てられているんですよ。それで、そのばあちゃんには、一つの教訓がありまして。それは、環境が新しく変わる時、まず最初に疑問に思ったことを、見逃すなって。ばあちゃんの言葉なんです。強烈に気になった最初のことを、その新しい土地において、気になったことを、うやむやにするなっていう。自分の目的とは全く関係のないことであったとしても。いや、関係ないと勝手に思っていることに、ばあちゃんは、警告を与えているんです。それを見逃せば、そのあとどんなに懸命に探し回ったとしても、必要なものは何も見つからないぞって。『兼』が新しい土地で生きていく上で、一番大事なことから、どんどんとズレていくぞって。なぜなら『兼』。それはお前が、お前でなくなってしまうことだから。最初のサインを見落としたことが、後々まで、つまりは土地を去るときまで、続くってね。兼って僕の名前なんですけどね。戸川兼と言います。よろしくお願いします。なので、僕は、あきらめません!ここが何であるのかを突き止めるまでは!」

「ちょっと。待てよ」

 すでに、踵を返している戸川を、Kは呼びとめた。

「おい、戸川!」

「何ですか?」

「待てよ。言いっぱなしで、逃げるのかよ」

 何とか引き留め、近くのカフェテリアに入った。窓際に座った。

 工事現場はよく見えた。水を運んできたウエイターに、白いシートに覆われた建物のことを訊ねた。

「ええと、ちょっと、待ってください」

 若い大学生風の男は、厨房の中へと消えていった。

 そのあいだ、Kと戸川は、メニューから飲み物を選んだ。

「何か、食べる?俺が奢るよ」とKは言った。

「お構いなく」

「上京祝いだよ」

「そうですか、じゃあ、遠慮なく」

「あのウエイターと同い年ぐらいだな。大学は出たのか?」

「八年前です。卒業して、新卒採用でIТ企業に就職して、それで辞めて、ファッション業界に。そのあとは、画廊の方に」

 ウエイターが戻ってきた。

「今、店長に訊いたんですけど、わからないそうです。申し訳ありません」

「今まで、気になった?あの、シートの被った工事現場のこと」

 Kは、ウエイターの男に訊いた。

「いえ、今、言われるまでは、特に」

「そうだよな。別に、気にならないよな。何の変哲もない、工事現場だからな。そこらじゅうにある」

「僕はアイスティーを」

 戸川は言った。

「アイスカフェラテね。それだけでいいの?」

「いいです。お腹はすいてません」

 そう言う、戸川の視線は、窓ガラスの向こう側に飛んでいた。



 戸川に加え、あのウエイターの男までもが、首を突っ込んでくるとは思わなかった。

 ウエイターは仕事の合間にKのテーブルにやってきて、「僕も、あの建物のことが知りたいです。仲間に入れてください」と言ってきた。仲間ってなんだよと思うKをよそに、戸川は立ち上がり、ウエイターの男に手を差し出していた。二人は固く握手まで交わしていた。その不可思議な光景に、Kは呆れた。とりあえず、三人は、連絡先を交換して別れた。

 けれど、言われてみれば確かに、あのホワイトシートの中が気になる。

 Kは、そのシートの色に違和感を覚えていた。あまりに白すぎると思ったのだ。汚れの目立たない真新しいシートであるという以上に、外から、ものを隠すために覆う色には、思えなかった。外から見えないようにする目的を、あのシートには感じなかった。じゃあ、隠すためではないのなら、何のために存在するのだろう。そのように考えていくと、確かに変な物体だった。時間が経てば経つほどに、周囲からは浮きまくってくる。あいつの言うとおりだと、戸川の着眼点に、だんだんと意味が付加されていった。おかしな奴だった。

 しかし、別の世界から見れば、的を得ているのかもしれなかった。

 Kは、水原永輝とアイフォンに登録する。大学の四年だった。今夜、戸川はホテルに泊まるらしかった。明日からは職探しに奔走するのだという。



 翌日、Kは、一人で工事現場へと行った。白いシートには、昨日は気づくことのなかった模様が入っていた。馬のような、下半身に、大きな翼を持った上半身が、組み合わさった鳥のような獣のような生き物が描かれていた。よく見れば、看板のようなものも設置されていた。『グリフェニックス』とアルファベットで書かれていた。グリフェニクスという文字だけが刻印されていて、テントには、不可思議な動物が描かれている。

 Kは、来る途中に買ってきた本を片手に、カフェテリアへと入る。ウエイターは今日も水原永輝だった。すぐに、テーブルへと案内された。そこには戸川兼がすでに居た。

「これは、これは、みなさん、御揃いで」

 戸川は、Kに席を勧める。

「アイスティーね」

 Kは、水原永輝に言う。

 戸川兼は、スーツ姿だった。

「これから面接に行くんですよ。でも、その前に、昨日のことが気になって。あなたもそうなんですね。そういえば、Kさん。あなた作家だったんですね。ネットで調べましたよ。しかも、来週から、原作の一つが映画化されるそうですね。すごいじゃないですか!全然、知らなかった!驚きです。まさかあなたが」

 戸川はすでに、Kの著書を買い込んだらしく、テーブルに出して広げて見せた。

 水原永輝は、Kの最新刊を手に取り、ぱらぱらと中身を見ていた。

「すいませんね、僕。あまり本を読まないので。でも、お名前は聞いたことがあります。まだ、お若いんですね。僕らとあまり変わらない」

「君、何歳だっけ?」

 戸川は、水原に訊いた。

「25です」

「俺は、27。Kさんは?ええと、あった、あった。30か。まあ、似たようなものか」

「今、テントを見てきたんだけど」Kは言った。「柄が描かれている。何でだ?朝からか?」

「気がつきましたか」

 戸川が言った。

「ここから見ても、はっきりと見えますよね」

 水原も言う。

「やっぱり、朝から?」

「昨日は、なかった」

「夜中に、誰かが描いたのか?でも、そういう感じではないなあ」

「そうですね」

「シートごと、変えたとか」

 戸川と水原が、絵の話をしているあいだ、戸川はずっとKの著書の中身を見ていた。

「そうですか。作家さんでしたか。そうだ。K先生の次の本。表紙のデザインは、あんな感じでは、どうでしょうね?」

 戸川は、窓の外を指差した。

「建設会社のロゴなのかなあ。それとも、新しい施設のキャラクターなのかな。今、調べてるんですけど、なかなかヒットしない」

 戸川はすでに、Kの著書をテーブルに広げてなかった。アイパッドで検索をしていた。

「ないなぁ、ないなぁ」彼はずっと呟いている。

「そんなことより、面接の準備は、できてるの?」

「今日は、行くのをやめましたよ」戸川は即答した。

「それどころじゃないですよ。変な絵が浮き出ているんですよ。これは行くなというサインです。ばあちゃん、言ってました。サインを無視して、自分のエゴを通すんじゃないと。サインの方に合わせろと。ばあちゃん、いつだって、間違ったことは言わなかった」

 戸川は、携帯電話で断りの連絡を入れた。すぐにロゴの検索を続けていた。

「あ、そうだ、Kさん。あなたは、今日、ここには何をしに?あの現場を見に来ただけですか?」

「いや、ついでに、ここで仕事を進めておこうかなと思って」

 戸川は熱心に検索を続けていたが、やはり、同じロゴの姿を、見つけることはできなかったようだ。代わりに彼は、違う事実に突き当たっていた。



 Kはその後、あの工事現場のテント前で、水原を目撃する。声をかけようと思ったが、Kは何故か一瞬怯んだ。水原はスーツを着ていて、連れの男がいた。恰幅のいい、年上の中年の男で、二人は大きな紙を広げて、何やら話し合っていた。彼らに気づかれないようにさりげなく近づいていった。最初は水原がこの工事現場について、知っている男性を見つけて、いろいろと質問をしているのかと思った。だが聞いていると、どうも事情はそうではないようだった。水原の方が積極的に話をしていた。年配の男に、わかりやすいよう説明を加えていた。大きな紙は設計図のようだった。その光景が、Kにはしばらく理解できなかった。水原が設計図を広げ、目の前の工事現場を、別の人間に説明している。どう考えても変な話だ。辻褄が合わない。水原は大学院生であり、まだ仕事はしていないはずだった。喫茶店でアルバイトをしている。この工事現場については、何も知らない。だが、目の前の男は違う。もう一度、横顔を、よく確認してみる。やはり水原永輝だ。

 いまだ、その光景が、信じられずにいた。しかし、だんだんとKには、状況が鮮明に浮かび上がってきた。

 この男は嘘をついているのだ。我々に対して。大学院生なんかではない。バイトをしているのは、本当のようだ。だが、建築会社で働く男であるという、この目の前の姿を信用すると、我々に話したことはすべて、出鱈目だった。

 ここの建設に関わっていながら、完全に、知らばっくれていた。そうか。嘘というのは、そこだけか。隠したかっただけだ。完成までに、情報を漏らすことが何か、不都合なことであったのかもしれない。バイトについては、どう考えたらいいのか。建築会社の社員でありながら、喫茶店でも働いていた?

 Kは、目の前の二人の男の会話に、意識を集中した。

「場所は、確かに確保しました」

「まだ何も、出来てはいないんだろう?今回は我々も、初めての試みなんだ。君たちがどんどんと、提案してくれるものとばかり、思っていた」

「もちろん、そうですよ、社長!」

「鳳凰口と、呼んでくれ」

「鳳凰口さん。僕は、大胆な提案がしたいんです」

「デザイナーズマンションだというコンセプトは、聞いているよ」

「当初は、そうでした」

「変更したんだな。いったい、何を建てるつもりなんだ?場合によっては、協力できんぞ。資源だけを用意しろ。言うことは聞けというのでは、あまりに不公平だ。うちの借金をすべて、肩代わりするという条件であっても」

「もちろん。すべてを、あなたに相談した上で、議論を重ねた上で、すべてを決定していきますから。むしろ、ウチの会社は、僕に、全権を委任してくれています。僕と鳳凰口さんとの間で、進めていくことができるんです。僕にはある考えがあります。会社とは別に。僕にはずっと、考えていることがある。あなたとは、永久のパートナーになります。借金なんて、あっというまに、吹き飛んでしまうでしょう。あなたの会社は、再び軌道に乗ります。そういえば、息子さんが、居ましたね。昌彦君。僕と同い年でし。偶然、彼とは幼馴染なんです。鳳凰口さんは、全然覚えていないと思いすが、小さい時に、あなたの家に何度も、遊びに行ってるんですよ、僕」

「そうなの?」

「あなたとは、出身も、同じなんです」

「昌彦と会ってるのか?」

「いえ。まったく。すべてが、偶然なんですって。昨日、知ったことだから。鳳凰口って苗字が、妙に懐かしく思ったのも、昌彦君に関係があったからでしたよ。最初にピンと来ることもなかった。確かに、珍しい名前ですけど。でも調べてみると、やはり、あなたの息子さんが昌彦くんだった。すみません。話しを、仕事に戻します。建築会社も、今後はいろいろと厳しいでしょうね。それに、これは、批判ではないですけど、今後の文明のあり方として、都市計画なんかも含めて、この高層ビルばかりのコンクリートジャングルを、乱立させること。これって、どうなんでしょうね。それを助長する建築業界。もう作り方さえ、機械的です。建築現場で働く人だって、ものをつくるという生きがいに、満ちているようには見えない。個々の創造性を、遺憾なく発揮しているのでしょうか。ただ設計図に合わせて、簡略化した資材を集め、人力を集めて、予算と期限の中で、何かに追われるように動いていく。立ててしまえば、あとは知らんぷり。ビルのメンテナンスだけが、アフターフォローってわけで。周りにどんな影響を与えているのか。その建物にどんな意味があるのか」

「君は、何を言ってるんだ?さっきから。論点は、ここに、何を建てるのかということだ」

「ビルはやめましょうという話です」

「何?」

「代わりに、公園にしましょう!」

「気でも狂ったか?どうやって、儲けるんだ?」

「ただの公園ではないです。公園の概念を変えるんですよ」

「わからんな」

「ある意味、複合施設になります。街に存在する意味があるね。公共性の高い」

「あなたの会社の借金を、肩代わりすることは、決まってるんですよ」

「言いなりだな」

「これ以上、我々は、商業施設、高層ビルを建て続けることに、大変な危惧を、抱いているんですよ。いますぐ、取りやめるべきです。そうは言っても、誰もストップはかけない。まずは一社から。あなたの会社から。幸い、あなた方は、経営が立ち行かなくなっている。ところがまさに、今、あなた方は、逆にそこに救われることになるんです。道を逸れていくことができる。その入り口が、目の前に広がっているのだから。世の中の大多数の流れに、歯止めをかけることなどできない。抵抗すればするほどに、その意味はなくなっていく。ならば、どうするか。逆を行くことです。商業施設。高層ビル、例えば、それとは真逆の意味付けを、最初にしてみる。つまりは、上に建てるのではなく、下に掘るとか」

「ほる?息子のことを、今、思い出したよ。昌彦だよ」

「昌彦君」

「あいつも、わけのわからないことを始めている。建築資材のクズ材に、ナイフか、何かで、彫刻をしている。わけがわからない」

「知ってますよ。あなたの会社を、最初に訪問したときに、彼に会いましたからね。作品も、見せてもらいました」

「どうだった?」

「単なる、ガラクタですね」

 恰幅のいい男は、両肩を激しく落とし、悩ましい表情をした。

「そう、気を落とさないで。昌彦君。今は、迷っているだけですから。きっと、自分の道を見つけますから。見守っていればいいんです。とにかく、下に掘るんです。そして、巨大な穴を、そこに出現させる。それが、公園の意味です。不気味でしょ。大都会に、大きな穴をこしらえるんです。そして、立ち入りは厳禁にする。これは絶対です。ガードマンを配置してもいいです。ただし、周りからは、見えるようにしておく。ココが重要ですね」

「人々を、怖がらせたいのか?」

「例えばね、そうですね、ナイアガラの滝です。ちょっと違うかな。底なし沼のような。大きな暗闇。ぱっくりと広げて、いつでもあらゆる生命体、有機物を引っ張り込む、というような恐怖が、煽られるものがいいです。僕は真剣に話しをしてます。何が言いたいかというと、闇です。死と言い替えていい。闇を象徴するものを、目に見える形で存在させることに、意味がある。隠そう隠そうと、文明は無意識に人々に働きかけます。そうでしょ。これだけ毎日、人は死んでいくのに、その様子は、本当に綺麗に覆い隠されている。だいたい、身内が死んだときだって、火葬されている所を、ずっと見ていることさえできないんですよ。人が焼かれたときに発生する匂いだって、日常の中で嗅ぐ機会すらない。逆に、おそろしいことだと思いませんか?生と死で、一つの円還が成り立っているのに。夜を無視して、昼の世界で、すべてを染め上げようとしている、この人工性。我々は、その夜の方を、人工的に創造するんです」

 鳳凰口と呼ばれる男は、黙ってしまった。

 すでに、設計図と思われる大きな紙は畳んでいた。

「社長。何も悩むことはないじゃないですか。儲かる商業施設の建設がしたければ、そのあとで、いくらでもすればいいんですから。借金がない状態になってからね。ただ、今度だけは、あなたに自由はありませんよ」

 社長はそのあと、どれだけ経っても、首を縦に振ることはなかった。

 しかし、どう見ても、落ちるのは時間の問題のようだった。Kにはそう思えた。



 鳳凰口は今日も完成をみない彫刻の制作に励んでいた。父親が経営する建築会社の使わなくなった倉庫を制作場所にして、そこで寝泊りもしていた。鳳凰口は、大学を卒業して、しばらくは会社に勤めたものの、一年足らずでやめ、一人暮らしをしていたマンションを引き払い、実家に戻ってきた。父親と二人で長い時間話し合い、表現者として作品を創造したいという彼の想いを、父親は受け止めたのだった。会社の一部を、息子に使わせることにした。

 鳳凰口は、美術の経験はまったくなかった。けれども、ゴッホやピカソの絵画にひどく衝撃を受けた。同世代の人間や今まで出会った人間、世の中の第一線で活躍してる人間に、何の影響も受けなかった鳳凰口だったが、現在生きていない、時代も国籍も何の共通点もない、この二人の芸術家の作品に対してだけは、膝が崩れちるほどの電流が体中に走った。会社をやめる最大の要因にもなった。きっと、そのときの感動を、俺は求めているのだろう。そして、求めれば求めるほどに、この目に見える現実は色褪せて見えてくる。そこまでの話を、父親に話すことはなかった。自分の心の中に秘めておいた。

 鳳凰口は、建築現場に転がる材木たちに囲まれていたため、反射的にその木との間に、心の繋がりが生まれていった。おもむろに材木を手にとった。彫刻刀で彫り始めたのだ。自分でも驚いた。金槌で思いきり叩いたりして、変形させたりする。自分の心の形を目で見える状態にしたかった。色とか匂いよりも、まずは、形なのだと鳳凰口は思った。その輪郭、形状、凹凸。彫刻とは、自分の心と同じ形を表現することなのだ。絵画も音楽も、同じことだった。

 無軌道な彫刻の制作も、三年がすでに過ぎていた。鳳凰口の建築会社を訪れる、ある存在があった。水原永輝という男だった。彼とは中学の時の同級生だった。それ以来、ずっと途切れることなく、友情を育み続けたが、卒業をしてからは疎遠になった。まさか、このタイミングで会うとは思いもしなかった。会社の方に、営業に来たのだという。そんな再会をするとは、思ってもいなかった。中学の時、鳳凰口の実家は今の東京ではなく、千葉だった。もしかしたらと思ったよと、水原永輝は言った。

「珍しい苗字だったから。お前の実家だったとは。お前が始めた会社かと思った」

「俺が?」

「お前の、親父さんの方か」

 二人は、久々の再会を喜んだ。そのとき制作していた、三体の仏像のようなものを見た水原永輝は驚いた。

「お前が?これを?」

「ああ。趣味でやってる」

「趣味って・・・。度が過ぎてないか?お前も、親父さんの建築会社を、手伝っているの?」

「いや、無職だよ。会社は、去年、辞めた」

 水原永輝は、困惑していた。鳳凰口の行動に対して、納得のいく理解ができないでいた。

 やってきたばかりの木製の仏像を、手にとって、眺めた。

「これが、趣味?精巧しすぎやしないか。・・・売れるぞ」

「こんな、木の屑が?」

「親父さんは、何て言ってる?」

「親父は関係ない」

「今後は、どうする?」

「それを、最近、悩み始めてる」

「どこで、彫る技術は、習った?」

「独学だよ。そもそも、こんなことになるとは、思ってもいなかった」

「そうなのか」

 水原はしばらく、沈黙してしまった。

 腕を組み、俯き、膝に、何度も手を触れて擦り、腿を叩いてみたり、そのような動作を繰り返した。

「今、ちょっと、頭の整理をしているから。待ってくれよな」

 仏像の他にも、動物や、実際には存在しない伝説の生き物の彫物があると、鳳凰口は言い、ガレージの奥から数体を持ってきた。

 水原は無言で、何度も頷いた。「わかった、わかったから」

 彼はそれ以上の彫像物の到来を拒否した。

「そうだ、そうだよな」

 水原永輝は再会してから、初めて納得のいく表情を見せた。

「よくよく考えてみれば、お前は元々そういう奴だった。しばらく忘れていた。いや、ずっと忘れたように感じ続けていた。普通に優秀だったからな。成績もよかった。大学も名門だ。だけど、違う。お前の本性はそれじゃない。思い出してきた」

「お前こそ、今日は、ウチに何をしに?」

「仕事だよ。今度、お前のところの会社と組んで、斬新で、巨大な高層ビルの建築を、計画している。ウチはデザイン会社だ。デザインといっても、ウエブだったり、インテリアだったり、家具だったり、生活全般における幅広い仕事をしている。その延長線上で、今度は、ビルごとデザインするという、あくまで、コンセプトや装飾の部分が担当だけど。それで、俺が、橋渡し的な役割を果たすことになった。今日は、挨拶を」

「デザインは、すでに、完成しているの?」

「これからさ。まさかな。お前と再会するとは」

 そのとき、ガレージにはまた、別の男の影が蠢いていた。

「事務所は、こちらで、よろしいのでしょうか」

 若い男だった。

「そこを真っ直ぐ、突き当りまで行って」

 鳳凰口が答えた。

「ありがとうございます」

「あいつも、今度のプロジェクトの?」

 鳳凰口は、水原に訊ねた。

「いや、知らないよ」

「ねえ、ちょっと」鳳凰口は、男を呼びとめた。

「今日は、何の仕事で?」

「面接です」と男は答えた。「臨時雇用の応募で」

 男は、激原徹と名乗った。

「ゲキハラっていうの?」

「すげぇ、苗字だな。一発合格だな」鳳凰口は笑った。

 肩幅が広く、胸板の厚い、体育会系な雰囲気だった。スーツはパンパンに張っていた。

「こちらは、鳳凰口建設の社長の、息子さん」

 水原は勝手に、鳳凰口を紹介した。

「あ、そうなんすか。よ、よろしくお願いします。お世話になります」

 すでに、採用が決まっているかのような、男の振る舞いになっていた。

「といっても、会社とは、何の関係もないらしいがな」水原は言った。

「あ、そ、そうなんすか」激原は戸惑っていた。

「俺も、ここの社員では、ないんだ」水原は続けた。

「そ、そうなんすか」

 その言葉を、激原は、連呼した。

「営業でね、来ただけなの。なので、この会社に、直接関係のある人間ではないから。さあ、はやく、面接に行って。時間に遅れちゃうよ」

「し、失礼します」

 激原徹は、機敏に頭を下げて、ガレージを後にした。


「で、話は、元に戻すけど。今後は、どうするの?」水原は鳳凰口に訊いた。

「まだ、続けるのか?この彫像は、どれだけ、たまってるんだ?」

「確かに、困ってる。どうしたらいいと思う?」

「お前の進路?それとも彫像の?」

「彫像など、どうだっていい。別に処分すればいい」

「それは、駄目だ」

「どうしようもないじゃないか。こんなガラクタは!ゴミでゴミを作っただけなんだぞ」

「もったいない!」

「じゃあ、お前が、引き取るか?」

「けどな。その技術は、生かせる。木の屑に彫るのをやめてさ、ちゃんとしたものに彫れ。それには、意味が必要だ。テーマもコンセプトも必要だ」

「それだ」と鳳凰口は答えた。

「それだよ、水原。それがないんだよ。俺には昔から。今も。まったく。意味が見いだせない。何のためにやってるのか。身体の方が、先に動いてしまっている。でも彫ったからといって、答えは何も見つからない。意味は相変わらず、どこにもない。なあ、意味っていうのは、後からわかるものなのだろうか。いいや、絶対に違う。もしわかるという保障があるのなら、俺はいくらでも彫るよ。これまで見つからなくても、これからに、意味が見いだせる可能性があるのなら。でも、そうじゃない!意味なんてものは、やっていれば、それで、そのうちに見つかるものじゃない。意味ってのは、最初にあるものなんだ。そう思うようになってきた。こんな意味のない作業を、ずっと続けてきた意味はあった。まさに、それだ。最初に、意味を見いだしていないものには、意味など永遠に宿ることはない!」

 鳳凰口は頬を赤らめ、興奮していった。

「落ち着けよ」

「お前の言うとおりだ。意味があって、すべての作業がある。意味があるから、終着点は見つかっていく。お前の仕事はそういうことなんだ。デザインだったな。最初に、意味がある。その意味を強調するために、デザインという作業がある。そうなんだよ。それなら、俺のことも、デザインしてくれよ。頼む。意味を見つけ出してくれ!水原!」

 鳳凰口の口調の後半は、水原に突っかかるようになっていった。

「はやまるな!」

 水原が、少し大きな声を出した。

「いいか。俺は、仕事をしに来たんだ。お前とは違ってな。まずは、それをやらせろ。お前のことは、その後だ。ずーっと後だ。後回しにして、後回しにして、それで、やっと、いや、それでも、出番などない!」水原の顔も赤くなっていった。「ほら、作業に戻れ!戻るんだよ!やめられないんだろ!意味など見い出せなくても、身体は、要求してるんだろ!なんて奴だよ。仕事でも、やりたいことでもない・・・、意味も、重要性も、何もない、目的すらない。そんなんで、よく・・・」

 水原は捨て台詞と共に、ガレージを後にした。

 鳳凰口には意外なことだったが、水原の口調には、ほんの少しだけ、羨望の色が滲んでいるように感じられた。



 鳳凰口昌彦は応接室の隣で、父親と水原の会話を聞いていた。最初はあまり、明瞭には聞こえなかったが、次第に父親の声が大きく響き渡ったために、内容はだいたいのところ把握してしまった。ウチにこれほどの借金があるとは知らなかった。会社は倒産寸前だったのだ。水原もそのことを知っていた。その上で肩代わりを申し出ていた。次の仕事は、その穴埋めになると父親を説得していた。初めは渋っていた父だったが、水原の熱意に押されていった。脱サラして突然建築会社を始めるときは驚いた。だがこの経済状態は、父が経営者としては、失格の烙印が押されたようなものだった。

 水原は経営を立て直すために呼ばれたのだろうか。父親の方が水原の会社に目をつけたのだろうか。水原の会社の方が、都合のいい建築会社を調べて、やってきたのだろうか。いきさつはよくわからなかった。

「一度、建築現場を見てください。急いで準備します。来週の水曜日は、どうですか」

 すでに、水原のペースで話はまとまりかけていた。

「今、面接に来た子を、待たせているんだ」

 そのとき、父親はいきなり、話の腰を折った。

「求人ですか?そんなことより・・・」

 水原は、溜息をついた。

「水曜でいいから。だから、もう、解放してくれ」

「どうして、同じ時間に、したんですか」

「君が、どうしてもって、割って入ってきたんじゃないか。面接は、もうだいぶん前から、決まっていたんだぞ」

「わかりました。それでは、確実に、水曜日で」

 水原が、部屋から、今にも飛び出してきそうだった。鳳凰口昌彦は慌てて、ガレージの方に移動する。

 しばらく呆然としていた。そんなにひどい状態だったとは。確かに、仕事が殺到してる様子はなかった。しかし、自分の家のことなのだ。もっと関心を持つ必要はあった。鳳凰口昌彦は、水原が帰るところを捕まえようと、玄関へと移動する。だが、水原は、いつまでも現れはしなかった。応接室を覗いてみたが、すでに誰もいない。社長室へと行く。ほんの少し、ドアが開いていて中が見えた。激原と父が、履歴書を片手に話し込んでいる。水原はいない。そのあとも、家の中を徘徊したが、彼の姿はどこにもない。社長室をノックする。二人が振り返る。水原はどこに行きました?と訊く。答えはとっくに帰ったということだった。水原の連絡先も訊いてなかった。まあ、しかし、今後も、ウチの建設会社とは関係が続くのだろう。焦る必要はなかった。そう思ったときだ。自分が水原に会ったことで、何か焦燥感を掻き立てられていることを知った。


























第一部 第二編  インタビュー オブ アーキオロジー





















 時の宗教からは粛清され、異端の信仰者として生きるようになってから、数十年が経とうとしていた。表向きは農民を装っている。だが、昼の世界が退くそのときだ。その本性は目覚め始める。自宅を改造し、地下へと通じる階段を降りれば、そこにはあまりに小さな礼拝堂が出現する。

 父も母も、幼き妹も、奴らに粉々に殺害された。私はそのとき、偶然、一人散歩に出ていたため、その場に居合わせることはなかった。今でも懺悔の念でいっぱいだった。私も家族と一緒に、この思い出の詰まった家で、生涯を閉じるべきだったのだ。私は見ていた。両親と妹が殺害される所を。直接ではないにしろ。私は妙な胸騒ぎを感じ、いつもよりも早めに、散歩を切り上げることにした。もうすでに異変に気づいていたのかもしれない。胸騒ぎは家が近づくにつれて、すぐに判明する。すでに、近隣一体は荒らされた後だった。家を覗くと、そこには死体が転がっていた。祭壇は、粉々に破壊され、私はその瞬間、自宅へと駆け出した。十数人の牧師と祭祀が、家の中へ押し入っていた。私は駆け出して、彼らを止めに入ろうとした。だが、十数人は、ちょうど家の中に入ったところだった。間に合わなかったと私は思った。私はすぐに次の行動を考える。瞬時に木々の裏へと隠れた。そして様子を見守った。五分後、男たちは出てくる。そして何事もなかったかのように去っていく。すべては終わったのだ。私は木の影から出る。部屋へと急ぐ。そこには、さっき見てきた光景と、同じ状況が広がっていた。彼らは、ノーと言えばよかったのだ。あなたはイエス・キリストへの直接の信仰を、これからも続けますか。ノーと言えばよかったのだ。その信仰は捨て、我々の教会を媒介とした、真の宗教と共に生き、教会に所属すること、それに同意しますか。そこでイエスと言えばよかったのだ。

 ふと込み上げてきたこの偽善の思いに、私は自分を呪った。私は奴らを前にしても、おそらく平然と自分の信仰に対して、嘘をつくことができるのだ。私のように嘘を言って、生き延びた村人は、いなかった。結局のところ、私は生き残る運命なのだった。奴らと、遭遇していたとしても、私は、心の中とは逆の返事を、平然とするのだから。

 私はいつだって生き残る方を選ぶ。そして、村人で唯一、生き残る。


 その後、新しく入居してきた村人に混じり合い、何食わぬ顔で、元の家の住人におさまった。住人たちは当然、教会の一員である。私に対しても、そうであることを疑いもしない。週に一度、教会への礼拝が義務づけられ、聖書を毎晩、声に出して、読み込むことが義務づけられる。多額の金銭を、教会に奉納することも義務づけられる。私は特に拒みもしなかった。そもそも、教会の礼拝にしても、聖書を読むことにしても、自分にとっては何ら変わらぬ日常だったのだ。イエスに対する敬愛の念をこめることに、何ら、不都合はない。不思議なものだった。行為そのものには、まったくの矛盾はないのだ。教会に対して払うお金のこともそうだった。そもそも、私は、裕福であることには興味がなかった。豪華絢爛な衣装や住居にも、まったく興味が湧かなかった。そんなことはもう飽きた。私は自分の人生の中でそのような経験など、たったの一度だって経験したことがないにも関わらず、そんなことはもうたくさんだと、まるで散々、そのような生活をしてきたかのような感覚を抱いた。なので、教会の幹部たちが、あれほど豪勢な生活と装いをしていることにも、何の感慨もわかなかった。羨ましいとも思えず、怒りを覚えることもなく。巨大な権力を振りかざし、脅しのようなことをされても、まったく意に返さなかった。

 私には心というものがあるのだろうか。この非情さが、きっと家族を見殺しにしたのだ。

 私は、平然と嘘をつき、心の奥では全く別のことを考えている。装いには、執着が沸かない。そうなのだ。結局、教会に言いように扱われようが、何をされようが、そんなことはまったく構わないのだ。生きていることが、大事なのだ。そして、心の奥に刻み込んだ、イエスへの敬愛の念を、持ち続けることこそが、生きる意味であり、生涯まっとうする意味なのだ。表向きなど、どうだっていい。衣装が気に食わないと、剥奪されるのなら、それに素直に従うし、これを着ろと強要されるのなら、それはそれで構わない。私はもうずっと幼い時から、そのように妙に割り切った心を持ち合わせていた。そしてその通りに、ここまで生きてきた。

 ところが一人暮らしを始め、新しい住人たちと共に、新しい教会の一員として日々の農業生活を過ごしていくうちに、予期せぬ行動を取り始めていた。

 自宅の改築である。私はこの誰にも心の奥の真意を見せない習性を、ずっと作動させないようにしておくことが不可能だったのだ。他の人に対して表現しないだけであって、どこかにその捌け口を見つける必要があったのだ。それが、地下に自分の礼拝堂を持つということだった。そしてそれは、私以外の人間には見せないということが絶対条件だった。私はこのとき、自分の想いを知って、ぞっとしてしまった。

 誰も家族が居ないこの状況を、本当は望んでいたのではないかと。

 あのとき助けに入らなかった自分の真意とは、実はそのまま見殺しにすることで、完全に一人になることができる。それ、だったのではないか。しかし、一端そう思い始めると、本当にそうであったかのような気がしてくる。

 誰にも見せる必要はない。誰にも見せてはいけない。そのことに気づいたとき、すべての情況は、実は、自分が望んでいた状況なのだということが分かってきた。そして、異端の宗教家として秘密裡に生きることが、最初から決まっていたのではないか。この状況は単に、無軌道な流れでそうなったのではない。巧妙な計算の上で、寸分狂いなく、現実化されたことなのではないかと思ったのだ。

 私は気づいた。一生涯、何にも気づかず、この生を終えることもできたにも関わらず。何故かこのタイミングで知ってしまった。そのときから数えてはや三十数年。私は一人の農民としての生涯を閉じようとしている。身体はどこにも不調をきたしていないにもかかわらず、私は残りの人生がそう長くはないことを、何故か自覚し始めていた。



















第一部 第三編  前夜の紋章 Ⅱ





















 Kは、戸川をいつもの喫茶店ではない、別のレストランへと呼び出していた。

「どう?その後は?」

 Kはそれとなく、話を切り出した。

「あのロゴ、ありますよね?僕はあのロゴに焦点を合わせたんです。あそこを、最初の手掛かりにしようと。あそこしかないと。でも、あのロゴと、同じロゴ。ネット上では見つけられませんでした。建築関係やデザイン関係、どこを検索しても、あの絵柄は見当たらなかった。代わりに、おかしなものを見つけました。なんと、部分的には、まったく同じ絵があるんです。二つの生き物を組み合合わせた柄なんです。当然、現実に、存在する生物ではない。結論から言うと、二つの、これまた、実在しない生き物を、別々にもってきて、それで、雑にドッキングさせたものなんです。あまりに雑すぎて、逆に気づかなかった。何か、キャラクターとして設定したんですかね。不死の鳥である、フェニックス。それと、地上の王である煌びやかな獣、グリフィンを、合体させた生き物だったんです。架空と架空を掛け合わせて、さらに、架空の刻印をシートに施したんです。しかし、一夜にして、どうやって絵柄をプリントしたんですかね。取り外して、どこかで、色をいれて、それで戻したんですかね。どうして、そんなに面倒くさいことを?ね、聞いてます?それなら、設置する前に、印刷したらいいじゃないですか。どうして急に、思いついたように外したり、覆い直したりするんですか」

 Kは、自分が持ってきた話題を、いつ切り出そうか、そのタイミングをずっと計っていた。

 わずかに、戸川が息継ぎのために話すのをやめた、その瞬間だった。Kは瞬時に割り込んだ。

「水原を見たんだ。あいつは嘘つきだ」

「えっ?」

 その一言に、完全に、戸川は話のリズムを崩してしまった。

「水原は、俺らに、嘘をついていた」

「どういうことですか?」

「あいつは、建設現場のことを、何も知らないと言った。俺らと同じで。何故だか、興味が湧くといって、連絡先を、交換した。ところが、奴は、何もかも、初めから知っていた。あっ!」

 Kは、突然、大きく引きつった声を上げた。

「そうか。なぜ、あいつが、あそこでバイトをしていたのか。ということは、あの店も、グルだったのか」

 Kは独り言のように呟いた。

「あいつは、あそこで、見張っていたんだ。あの現場に、異常に注意を魅かれた人間を、チェックしていたのかもしれない。おい、戸川!俺らは、追跡調査をされているかもしれないぞ。この会話も、盗聴されているのかもしれない」

 Kの豹変ぶりに、戸川もつられた。

「あいつは、危険だ。仲間じゃない」

「始めから、筋を追って、説明してください!」

「いいか、戸川!水原は、あそこの喫茶店の人間じゃないんだ。大学院生だという話も、嘘だ。あいつは学生じゃない。会社員だ。デザイン会社の人間なんだ。あの場所に立つ建造物の責任者の一人だ。あいつを見たんだ。あの現場で。建築会社の社長と、二人、建築計画を話しているのを聞いたんだ」

「じゃあ、すべてを知ってるんですね。それで、知らばっくれていた」

「騙されてるフリをしていよう。協力してくれ」

「もちろんです」

「とにかく、もう、あの喫茶店には、二度と行かない。あの現場付近もフラフラしないほうがいい。あいつを、監視しているつもりで、逆にどこから見られているか、わからない」

「それにしても、もし、あなたのいう事が本当だとしたら・・・、ますます怪しいな。テントの中では、何が始まってるんですかね。すでに、何らかの作業が、進行しているんですね。ひっぺがしたいな」

「気持ちはわかるよ」

「待つべきですね」

「ああ。でも、実際はまだ、中には何もない可能性が高い。二人の話を立ち聞きした感じでは、場所を確保しただけのようだったから」



 水原の元に、鳳凰口建設から電話がかかってきた。うちに変な奴が乗り込んできたと、社長は言った。聞けば、宗教団体の関係者だと言う。

「宗教?」

 そうだと社長は答えた。あの建設現場のことで、物言いがあるのだと。

「すぐに、建設は取りやめて立ち退けと」

「理由は?」

「それが、まさに、おかしな理由なんだよ。方位がどうだとか、水の配置がどうだとか。とにかくあそこに、何かを建てることは、絶対に禁止なのだと。街全体が不幸になるのだと。側に、その宗教団体の施設があるとか、そういう理由じゃない。日が当たりにくくなるとか、そういったことでもない。空気の流れなんだと。あそこは空洞であるべきだと。私たちの、利益のためではないと、彼は繰り返してたよ」

「男なんですか?」

「そう。代理人と名乗る男」

「弁護士?」

「違う。その団体の、関係者のようだった。親族というか。その団体には、直接関わっていない親族。若い男。いたって普通の。その辺の、二十代の。学生といってもおかしくはなかった。一応、ジャケットは着ていたが、どうもは教祖の息子のような感じだった。代々、教団を引き継いでいるは家系らしいよ。君も、もしかしたら、聞いたことのある名前かもしれないね。枢機教っていう」

「ああ」

「やっぱり、知ってますか」

「全然」

「そうか。どうしようか。このまま放っておこうか」

「いや、でも、後々、こういうのこそ、面倒なことに、なるんじゃないですかね。早いところ、手を打っておいた方が、いいと思いますよ。その男に会わせてください。二人きりで話がしたい。そのほうが、手っ取り早い」

 水原は電話を切ると、さっそく、ネットで枢機教を検索する。すぐに数万件ヒットした。

 信者数は不明となっていたが、おそらく三万人はくだらないということだった。結構な

勢力だった。代表者は、身士沼高貴となっている。五十代の男だった。三百年前から、続

いている、とても新興宗教とは呼べない重厚な歴史がある。時期代表として、身士沼祭祀

という名前があった。32歳。水原よりは少し年上だ。画像検索する。なるほど。端正な

顔つきだ。この男が、次期代表だということだったが、まったく宗教の匂いはしない男で、

むしろ、自分の家系とは、少し距離を置いている人間なのだという。引き継ぐ気はないの

だろうか。言われるがままに、こういった面倒な交渉事にだけ、使われている身なのだろ

うか。

 見士沼祭祀。もしこの男が団体の代表になったとしたらと、水原は考えた。この男が、広告塔となって、大々的に売り出していったとしたら・・・。どんな教義で成り立っているのかはわからなかった。しかし、従来の固い規律を、この男の後ろに忍ばせ・・・、この男が代表に就く意義が、水原の頭の中で駆け巡った。

 そのときは、近いのではないだろうか。そんな予感が鳴り響いた。

 単なる、立ち退きの話し合いではない、個人的な興味から、むしろ、水原の方がこの男に会いたくなっていた。



 Kと戸川は、水原との待ち合わせ場所を、郊外のワイナリーに併設されたレストランに設定した。

「今日は、とりあえず、それぞれが集めた情報を、みんなで共有しようと思う」

 戸川が、場を仕切り始めた。

「じゃあ、まずは、水原くんから」

 戸川は、Kを横目で見る。

「僕、大学の講義が忙しくてですね」

 水原は即答する。「少し忘れかけてました」

「興味を失ったのか?」

「まさか」水原は必要以上の驚きをみせる。

「とんでもないです。ただ、本当に、今週は忙しくて。バイトにもほとんど出てないんです」

 戸川とKは一瞬だけ、顔を見合わせた。

「本当にそうなのか?」Kは水原の肩に触れる。

「はい。店長に聞いてもらえれば」

「どの店長だよ」

「だから、あの喫茶店の」

「そうなのか。お前は、本当に、学生なのか?なら、学生証を見せろよ」

「ちょっと。僕を脅しているんですか。ありますよ、ほら。何なら、コピーをとってもらっても構いません」

 受け取ったプラスチックのカードを、Kは眺め回す。精巧に作られた偽物なのだろうか。だが、傷のつき方、汚れ方など、数年に渡って、使い込まれているような表情をしている。

 顔写真も、目の前の男、そのものだった。大学名。本人の名前。すべては本物のように見える。

 戸川に渡した。戸川はKよりもさらに時間をかけて、何度も裏表をひっくり返す。

「コピーは、取らなくていいんですか?」

 水原は、勝ち誇ったように堂々としていた。

「じゃあ、いちおう、悪いね」

 水原はあっさりと快諾する。

 戸川が近くのコンビニエンスストアまで走る。

「実は、戸川を追っ払いたかったんだよ」とKは嘘をついた。

 水原は、口元に笑みを浮かべる。

 Kは水原の口元をずっと見ていた。この男は確かに、嘘がうまかった。所々で嘘をついているのは明白だった。本人はそれを特に隠そうともしてなかった。そういう波動が伝わってきた。多少、胡散臭いイメージが付きまとう方が、逆に、正常なのだと開き直っているようにも見えた。いや、本気でそう思っている節があった。どこで、どのタイミングで、この男は嘘をつくのだろう。どういう織り交ぜ方をしてくるのだろう。そのパターンを、Kは早く掴みたかった。そのためには、確かに、二人きりになる情況が好ましかった。

 ところが、Kはふと、この水原という男の発言するすべてが、とる態度のすべてが、嘘なのではないかと思ってしまった。ということは、学生証のことだけではなかった。むしろ、もう一方の面、建築のデザイン関係の社員であるということも、嘘なのではないかと思った。両方が嘘で、その周りに配置されていく別の事柄も、すべてが嘘。嘘が幾何学級に増大していく、その入り口に、Kは立たされているような気がした。

 戸川はあっというまに帰ってきてしまった。ご丁寧に二枚ずつコピーをとって、学生証を水原に返した。まったく使えない男だと、Kは聞こえない声で呟いた。

 水原がこうして、自分らと付き合うつもりのある態度をとるその意味が、Kにはわからなかった。俺ら二人を利用しようとしているのは間違いなかった。けれど、どんな戦力として考えているのかがわからなかった。

 Kは、この会合の進行をすべて放棄して、水原に丸投げする決意をした。

 三人は、しばらく無言で、飲み物を啜り続けた。

「そのうち、あの建物の正体は、わかるんですかね」

 戸川が最初に沈黙を破った。この男は、まったく何もない空間には耐えられないのだと、Kは思った。すぐに間を埋めよう埋めようとする。前のめりになって、無理やり無意味なガラクタで満たしていこうとする。空間は、拡がろうとしている最中なのに。そうかと、Kは沈黙の中で思う。これは自分に対して、どれだけ沈黙に耐えることができるのかという、試験のようなものではないのか。あのテントの中が、今は、空洞だと仮定して。その空洞が何かに満たされていくことではなく、逆に空洞のままにキープしていくことに、違和感なく共に存在する。戸川を見ていてそう思った。戸川は必ず先走った。沈黙と戸川は、決して結び合うことはなかった。

 戸川のことを、何故か憐れんでいる自分がいた。水原は違った。水原は最後まで沈黙に耐えられるはずだ。そして沈黙の中で、別の俊敏な行動をとることができる。その行動こそが、水原の唯一の嘘ではない、真実なのかもしれなかった。

 この男は、その一つの俊敏さだけを、自分のものとしている。それ以外のことには、嘘を散らばらせていて、それでいて、平然とした顔を世間には晒している。






























第一部 第四編  時の彼方から





















 鳳凰口昌彦は、あれ以来、水原永輝が一向に訪ねてこない様子に苛立った。あの調子だと、すぐにでも来て、また親父との話し合いを繰り返すものだと思っていた。親父に訊いてみた。

 水原の会社との話は、進んでいるのかと。親父は、順調そのものだと言ってきた。近い時期に、うちには来ないのかという質問にも、水原はもう来ないと言い切った。もう契約は済ましている。あとは工事の開始を待つばかりだと。今度はどんな建物を立てるのだと昌彦は訊く。いくら息子でも、今、部外者に打ち明けるわけにはいかないのだと親父は答える。水原の電話番号を教えてくれと言ったが、それは無理だと断られる。お前の私用には使わせないと。友達だぞと言い張ったが、それもまったく受け入れてはもらえなかった。

 昨日、工事現場の視察をしたと親父は言った。そのあとですぐに契約を決めた。あいつはお前と違って、仕事の出来る奴だ。信頼もできる。うちの命運を任せられる。借金があるんだなと、昌彦は言った。借金はない。余計なことを言うなと、昌彦は一蹴される。これはいいきっかけだと、親父は言った。あいつは救世主だ。その考え方は、危ないんじゃないか。昌彦は言った。だがその言葉は、直接自分に跳ね返ってきた。水原永輝。あいつは危ない存在だ。自分もまた、水原という人間に強烈に引きつけられていた。

 こうして、水原と会えない時間は、さらに彼を求める気持ちを、誘発していった。親父はすでに、術中にはまっていた。親子共々、何をやっているのだと、昌彦は青ざめる。

 けれども、水原には、本物のビジネス手腕の持ち合わせがあるのかもしれなかった。淡い期待も抱いた。この俺を未来に導いていく、独特な方法が、彼には見えているのかもしれなかった。



 鳳凰口昌彦は、留守中の社長室に入る。机の上に散乱した書類の中から、激原徹の履歴書を見つけ出す。彼に連絡をとろうと思った。電話番号をメモした。彼の履歴をチェックした。彼は軍人の端くれのようだった。その前後は、短期の仕事で生活を繋いでいるようだった。三十歳に近づいて、長期の仕事を求め始めたのだろうか。自己のピーアールの欄には、自分の軍人としての気持ちの強さ。一端、取り組んだことには何があっても到達すること。つまりは、戦場に上がれば、相手を殺すまで突進するという・・・。なぜ履歴書に、そんな危険な香りをわざわざ漂わせるのか。昌彦は理解に苦しんだ。趣味の欄にも、サバイバルゲームだとか、ライフルの収集とか。長所にも突進と書かれていて、笑ってしまった。とにかく、突進という言葉ばかりが、連呼されているように感じられてしまう。

 それでも、この激原の顔写真からは、そんな危ない男の眼差しは、どこにも感じられない。その屈強さに裏打ちされた顔つきにも、どこか穏やかさが漂っていた。この前会ったときも、恥ずかしがり屋の控えめな男であるという印象しかなかった。大きな身体を生かして、建築現場で働きたいのだろうと思った。ありあまるエネルギーの発揮場所を、彼は単に求めていて、そのアピール方法が、少し過激なだけだと思った。

 話相手になるのなら、誰でもよいと思っていた。水原とは再会できず、これまでずっと、部屋に籠って彫刻の制作をしていたために、昌彦は交友関係を誰とも育んでいなかった。

 突然、誰かとの関わりを切望したため、この上なく、淋しくなり始めた。激原という男の顔を眺めていくうちに、彼となら、二人で話すことを拒絶しないだろうなと思った。それに、ウチの会社で働くことになっているのなら、社長の息子の誘いにも、無碍なる対応はできないだろうという打算も働いた。すぐに、彼に電話を掛けた。

「選考にもれた僕を、まだ相手にしてくれるのですね。希望を持っていいんですかね?追加で、僕を加えてくれるのでしょうか?」

 激原徹の第一声は、大いなる勘違いだった。

「採用されてなかったんだ・・・」

 鳳凰口昌彦は、その意外な事実に、少し驚いた。

「それで、職は決まったの?」

「いいえ」

 そのとき、昌彦は、激原の履歴書を鮮明に思い出した。

「確かに、あれでは、な」

 独り言のように呟いた。

「それで、何の用事ですか?」

 激原徹は、このときも、スーツを着ていた。

 まだ、採用に望みを託しているような、恰好だった。

 昌彦は、何だか申し訳ない気持ちになっていった。

「ほんとに、軍人だったの?」

「書いた通りです」

「また、やればいいじゃないか」

「軍人を、ですか?僕は、もう、そういう戦闘行為には加担したくないですよ。でも、この有り余るパワーを封じることはできない。こう言っては何ですけど、僕は合法的に、この持って生まれた暴力を使い切りたいんです。ただ、それだけが望みなんです」

「まだ、使い尽くしてないんだな」

「そうです。身体を使う仕事がいいかなと。どうして不採用になったんですか!僕は誰よりも働きますよ。誰よりも体力がありますから。あなたの会社の役に立つと思います。使ってやってください!消耗しつくしてやってください!」

「ずいぶんと投げやりだな。そんなに穏やかな顔をしているのに。なんだか話出すと、顔つきが変わるよ」

「わかってもらえますか。僕の本性の、これは、ほんの片鱗にすぎないんですよ。このままほったらかしにしておいて、いいと思いますか?危険ですよ。自分でもわかります。暴発するのは時間の問題だし、その暴発を食い止めることなどできない。だから、そのエネルギーを、何かの目的のために、使い尽くす。爆発的に、体力を消耗させるような仕事が、一番望ましい。あなたたちの会社が、適任だと思ったんですけど。今からでも、考えなおしてもらえませんか?あなた息子さんでしょ?お父さんに何とか言ってもらえませんか?もし採用の話で、あなたが来たのでなければ、僕の方からお願いします」

「申し訳ないけど、僕は、父の会社にはノータッチなんだ。まるで関係がない。すまない。会社のことは何も知らない。逆に、もうちょっと、関心を持っておけばよかったくらいだ。経営が立ち行かなくなるくらいの借金があるとは、全然知らなかった」

「そうなんですか?」

「つい、何日か前に、知ったんだ。なのに、どうして、社員をさらに募集するのか。俺には理解できなかった」

「じゃあ、誰の採用も、してないんですね」

「たぶん。経営を立て直すために、外部の人間が、今、入ってきてるんだが、おそらく、その男に、会社の方針の転換を指示されたんだろうな。親父はどんなつもりで、従業員の募集をしたのかはわからないが」

「で、何故、僕のことを呼び出したんですか?」

「気を悪くしないでくれよ。怒らないでくれよ。ここで、エネルギーを暴発させないでくれよ。約束してくれ」

「もう、いいですよ。来てしまったんだから・・・」

「話し相手が、欲しかった」

「たったの、それだけ?」

「・・・すまない」

 激原は湧いてきた感情を、必死で押し殺そうとしているようだった。彼は大きく息を吸い、その倍の時間をかけて、丁寧に吐いていった。

「ずっと、話し相手がいなかった。これまでは、何とも思ってなかった。それで、いいと思っていた。強がっていた。内心は、誰かと心を通わせたくて、淋しかったのかもしれない。たまたま、こないだ君の顔を見て、それで君は、いい奴のような気がしたから。でも全然、穏やかな男ではなかった。それでも、いい奴には違いないと、確信したよ」

「あまり買いかぶらないことですね。あなたは人に会ってなくて、目が曇っているだけでしょうから。僕はいい人間ではない。問題を起こして、絶交されるのが、得意な男なんですよ」

「これまでも、そうなんだな。それで、転々としてるんだな。どうしてだ?君は、全然、悪い眼はしていないのに。輝きも秘めている。情熱もありそうだ。なのに、何故。思いやりもありそうだし、他人の身になって、考えることもできそうだ。何故なのかが、わからない」

「最初は、そうなんです。表面的には、何もかもが、うまくいきます。それ以上深入りしなければ」

「誰が、深入りするんだ?相手が、か?それとも、君から?」

「どっちからでも・・・はい。関係ないですね」

「結婚は?彼女はいるのか?」

「ご覧のとおりですよ」

 激原徹は、両手をはちきれんばかりに左右に広げ始めた。その姿は、まるで鳥が隠れていた羽の存在を開示したかのようだった。その一瞬の姿に、鳳凰口は、言葉を失ってしまった。

 しばらく、その姿が頭に焼き付いたまま呆然としていた。周りの風景が消え、その翼を広げた大きな鳥の姿だけが、浮き上がって見えた。木屑を相手に、彫刻刀を挿入しているときのような感覚が、蘇ってくる。次第に、ただの木屑が、生命力を獲得し、その生物が、自分とは切り離されて自律性を持ち、木そのものから離れ出る瞬間と、同じ感覚を、鳳凰口は感じたのだった。

 似ていると思った。そして羽を広げた鳥は、強烈に激しい光に包まれていった。

 鳥自体が、発光しているわけではなかった。

 時間は、目の前の男に引き戻ってくる。

「たとえ、彼女が居たとして、それで一体なんなのでしょうか。居ても居なくても、僕の横というのは、感覚としては、いつだって空位です」

 俺が木を彫る理由は、この鳥の姿なのだろうか。この鳥を生みだし、羽ばたかせたかったからだろうか。でも、鳥の形状で、制作したことはなかった。今はじめて、鳥を強く意識しただけだった。激原が、ただ両手を広げた姿に、俺の中の何かが反応してしまった。

 激原は、何も気づいてなかった。女の話を、延々と続けていた。

「たとえ、結婚したって、同じことですよ。いつだって、僕の隣は、空位、空席です」

 空位という言葉にも、鳳凰口は反応してしまった。空位という言葉を、日常会話の中で、そんなに頻繁に聞くことはなかった。空席だの、空位だの、いったいこの男は、どんなつもりで言っているのか。鳳凰口は、激原の立ち振る舞いや言葉の端々に、いちいち反応してしまった。この男と、こうして二人で対面しているのも偶然じゃなかった。会うべくして会っていた。これまで存在しなかった、いや、自覚することなかった、何かが、こうして心の闇の中から立ち上がってきていた。それはまず、鳥の姿として、浮き上がってきた。そして、空位という言葉と、結びついた。何かの空白に、その鳥が、嵌るのだろうか。空白の象徴としての鳥なのだろうか。

「僕はね、これから、超えていかなくてはならない境界線が、あるんですよ」

 激原はそう続ける。

「超えていくための狂気は、ほら、ここにあります。僕の中に。誰がどう使おうと、それは、構わないんです。ずっと探しているんです。でも、どこを探しても見つからない。あなたの会社が、僕の最期の居場所だと、思ったのですが、どうも違ったようですね。かなり本気で、そう思ったんですけどね。採用も、決まると思ってました。あなたの会社に足を踏み入れた瞬間、そう確信しましたから」

 そうだよ、その通りだよと、鳳凰口は、心の中で思った。それは、俺さ。この俺なんだ。

 お前の目的は、この俺なんだよ!扉はね開いたじゃないか。始まりのテープは、切られたんだ。俺には、その刻印が、はっきりと見えた。お前には見えないのか?俺らは一緒にやっていくんだよ!鳳凰口建設とはね何の関係もないんだよ!俺だってそうなんだ。



「さっき、激原と会った」鳳凰口昌彦は、親父に言った。

 それは誰なのかと、訊き返してきたので、面接に来たやつだと、昌彦は告げた。

「あとウチの財政状況のこと。悪いけど、この前、立ち聞きしてしまったよ。なぜ、このタイミングで求人を?」

「大規模な工事が、始まるからだ」

「その、水原との仕事だな」

「だが、思ったよりも、人手は必要なかった」

「激原徹は嘆いていたよ。頼みこまれた。無理なのか?」

「採用は、もう決まった」

「採用したのか?」

「戸川だ。激原の後に、面接に来た男。彼に決めた」

「なぜ、激原を、落とした?俺はいい人間のように見えた。体力も申し分なさそうだったし」

「いちいち、首を突っ込んでくるなよ、昌彦」

「俺は、水原と会いたいんだ」

「会えばいいだろ」

「連絡先を教えてほしい」

 父親は、その申し出には何も答えなかった。

「人手は、それほど必要ないって、いったい、あの交差点の側には、何が建つんだ?」

「いっさい、答えられない」

「そうか、わかった。いつ、完成予定だ?」

 その問いにも、鳳凰口建設社長は、無言を貫いた。

「何も言わないんだな。それで、この仕事を終えたときには、借金はチャラになってるんだな」

「元々、借金など、ないさ」

 社長は、平然と、顔色一つ変えずに答えた。

「水原の話を、俺は、訊いたんだぞ」

「思い違いだよ。ウチの税制状況は、極めて健全だ。倒産する可能性は、今後もないだろうし、これまでも、赤字を計上したことはない。そうでなければ、好き勝手にやってるお前を、うちに置いておけるはずもない。そうだろ?お前は自由にしたらいい。ウチは、何の問題もない。今度の仕事がなくても、経営はちっとも傾いてはいない。お前は、勘違いをしている。水原は確かに、そういう提案をしてきた。俺は無条件に受け入れたが、事実は違うんだ、昌彦。水原は、誤った情報を得ていたわけだが、俺としては、別にどうでもよかった。提案された条件だけを検討して、それでオーケーを出しただけだ。あとのことは、別に、あいつが勘違いしてようが、何だろうが、こっちには関係がない。お前は心配するな。それよりも、順調なのか?」

「何がだよ」

「お前の人生だよ」

「わからないね」

「わからない、とは?しっかりとした考えの元、着実に力を積み上げてるんだろ?そうであるのなら、俺は何も心配していない。しっかりとした、目的。最終的に、どうなっていたいのか。そのビジョンさえ見えていれば、あとは勝手に、力も状況も備わってくる。運気も応援してくれるようになるだろう。俺のようにな」

 鳳凰口豊は、そう言って笑った。

「理由など、何もない。木屑に彫刻を施す意味など、何もない。俺はビジョンなど、何も持ち合わせてはいない。行きつく先はどこなのか。見当すらつかない。あなたが思っているようには、俺はなっていない。混乱は、さらなる混乱を、招いていくだけだ。俺はどんどんと混乱していってるんだ、むしろ。それは、そうさ。最初から、理路整然とした道など、歩いていないんだから。描けていないんだから。迷いの道に入って、それは当然だ」

「俺には、そうは見えない」

「えっ?」

「俺には、そうは見えないと、言ったんだ」

「あなたにそう見えなくても、実際はそうなんだから。あなたは本当に、眼の前の現実を見ているのか?見て見ぬふりをしているんじゃないのか?そういった詭弁を、常に造り続けていて、だから真実を捻じ曲げて、自分の都合のいいように解釈している。借金だって本当は膨大にあるんだ。たまたま水原がその肩代わりを、提案してきただけで。その幸運を、さぞ当たり前のように、受け取っているだけで、実情は紛糾している」

「たまたまで、何が悪い?たとえ、借金があったとして、このタイミングで、それを帳消しにしてくれるチャンスが来たとして、それを受け入れて、何が悪い?そんな借金など、ないけどな。もしあったと仮定しても」

「そんな幸運は、続かないぞ」

「どうだろう」

「俺はね、別に、幸運が続くとか続かないとか、そういったことは何も気にしちゃいない。そんなことは誰にもわからない。その瞬間に、幸運と呼ばれるものがやってきた。真実は、その瞬間にしかないものだ」

 話がまったく噛み合わないことに、昌彦はやきもきし始めた。

 居てもたってもいられず、すぐにでも退去したい気分になった。

「なあ、昌彦。お前にも、近いうちに分かるようになるよ。だから、今は何も言わない。お前は、俺の息子だ。切っても切れない連鎖の中にいる。一つだけ、話しておきたいことがある。ちょうど都合がいい。それもまさに、今、この瞬間がもたらした、幸運の一つだ。いくら前もって、お前に話そうと、算段をつけておいても、その時というのは、やってくることはない」

「もったいぶらないで、早く言え!」

「鳳凰口家の話だ。鳳凰口の先祖から連なる、話だ。お前には聞く義務がある。俺もそうだった。親父から伝達された瞬間があった。親父もまたそうだった。祖父から」

「はやく言え。俺はもう行くぞ」

「一度しか言わないからよく聞くんだ」

 その後、鳳凰口豊が、語った話には、昌彦は思わず、身を乗り出すほどにのめり込んでしまった。



 鳳凰口家は、元々王家であり、没落した貴族の系譜を辿って今に至っている。

 しかし、自分の一つ前の代から、すでに、鳳凰口家は再び隆盛の時代に入っている。

 そうなんだ、もう始まっているんだよと、鳳凰口豊は熱心に語る。自分はそんな幸運にすでに守られている。今度のこともそうだ。窮地が窮地ではなく、それは新しく差し伸べられる手を招き入れる、一時的な状況なのだ。昌彦、お前の代で、鳳凰口家は復活を果たす。お前に対して、何も心配していないのは、そういった理由が背後にあるからだ。もうその時は近い。そうだろ、昌彦?お前にもわかってきてるんじゃないのか?お前の元に、何かが集まってきているんじゃないのか?そうだろ?昌彦。俺が生きてる間に、鳳凰口家の復活は、完全に陽の目を見る。

 俺は、それを見届ける役目がある。俺には俺の役割がある。お前には、ウチの会社を継げとは決して言わない。これは俺の代で終わりだ。俺はな、昌彦。今、お前に、この家の系譜を語ることで、バトンを受け渡しているんだ。継ぐべきものはそこにある。建築はただの表面だ。お前が、今、熱中している行為にしてもそうだ。それはあくまで、上っ面にすぎない。

 なあ、お前はどうして、そういった行動をとっているのか。わからないことが多々あるだろう。当然だ。お前を、いや、お前に、流れる血に、その原動力は隠されているのだから。それを、今、お前は自覚した。それでいい。もう何も心配するな。お前の道は、今、明確に整備された。あとは、時間が隙間を埋めていくことだろう。

 いいか、昌彦。血の系譜は無視することも、放棄することもできない。

 しかし、血に操られて縛られることもまた、愚かなことだ。

 昌彦、知ることだよ。事実を知れば、お前は自由になる。それが今だ。血の秘密を知ること。知ったとき、すべての行動の意味が浮かび上がってくる。脈絡もなく動いていた、その一つ一つのシーンのすべてに対して、辻褄は合う。辻褄が合えば、すべての情況がかみ合ってくる。

「水原は、どこなんだ」

 鳳凰口昌彦は、心の中で呟いた。父親にはすべて、筒抜けだった。

 いいか、昌彦。水原に拘るのはやめろ。あいつがどれだけお前にとって、ウチにとって、重要な人間であろうとも、彼に執着するのはやめろ。それも、一つの表面だ。表面を追いかけるのはもうやめろ。あいつは鳳凰口じゃない。あいつ一人では、この世界は、何の意味もなさない。あいつも、ある世界を、作り上げる中での、一つの要因にすぎない。

 全体を見るんだ、昌彦。お前の現実はお前だけのものだ。水原の現実は、水原だけのものだ。俺もまたしかりだ。だから、昌彦。水原の存在に騙されるな。目移りするな。はっきりと言っておく。水原はお前にとって、最大級に重要な人物だ。だが、ただ、それだけなんだ。それを知っていれば、後は何の問題もない。重要だと知った上で、あえて無視をするんだ。いずれ、気づいたときには、お前の横か背後に、彼はちゃんといる。

 鳳凰口昌彦は、父のそんな姿を初めて見た。彼は何かに執りつかれたように、いつもよりもさらに、低く響く声で、昌彦に諭した。その後、父親はまた、いつもの無口な状態に戻った。表情も幾分精彩を欠き、いつもの彼の姿へと、戻っていった。


 鳳凰口昌彦は、事務所に行き、戸川の連絡先を調べた。すぐに戸川に電話した。留守電に繋がってしまった。しかしそのあとで戸川は電話に出た。履歴書によれば、彼もまた、これまで職を転々としていたようで、激原と事情はよく似ていた。けれども、文言はごくまともだった。親父が戸川の方を選んだのは、妥当な気がした。戸川に、どこかで会って話がしたい旨を伝えると、彼は、あの工事現場の側にある喫茶店を、再び指定してきた。

 鳳凰口が店内に入ると、すでに二人の男が客として来ていた。

 激原も、この喫茶店に呼んでおいた。

 その二人連れの一人が、履歴書の写真の、戸川の顔と、一致する。

 鳳凰口は二人に近づき、会釈をした。鳳凰口ですと、彼は右手を差し出した。

「戸川です。こちらは作家のKさんです」

 Kも立ち上がり、手を差し出してくる。

「最近、Kさんとは知り合いました。まさに、ここでね。今日も、偶然、顔を合わせてしまったので、あなたが来るまで話をしていたんです」

「そうだったんだ」

 昌彦の意識は、Kと呼ばれる男の表情を、捕らえていた。

「お名前は聞いたことがあります」

 鳳凰口は言った。

「本はあまり読まないので、わかりません。あっ、そういえば、この前、あなたの原作で、映画になっているのがありました。北川裕美が出ている、・・・なんだっけな」

「アトランズ・タイム」

 Kは言った。

「そうそう。見はぐってしまいました」

「鳳凰口さんは、何のお仕事を?」

「実は、何もしてないんですよ」

「実家が、建築会社をやってるんだ。俺は、そこに採用された」

 Kは、戸川に身体を向ける。

「就職、決まったの?」

「ええ。おかげさまで。鳳凰口建設に」

「そこの息子さんか」Kは言った。「なんだ、そういうことか。じゃあ、これから、仕事の打ち合わせなんだ。僕はどのみち、邪魔者だな」

「居てください」と鳳凰口昌彦は言った。「行かないで!」

 切迫にも似た語調に、Kは立ちあがりかけた腰を、すかさず元に戻した。

「僕は、会社とは、何の関係もありません。親父とも、仕事の繋がりはない」

「じゃあ、今日は、何をしに?」

「戸川さんと、話しがしたかったから。もうすぐ、僕の連れが来ます。激原徹という男なんですけど、彼もまた、ウチの会社の面接に来た男です。戸川が採用されましたが、激原は落ちました」

 Kはまったく、状況を掴むことができなかった。それはまた戸川も一緒だった。

 三人での会話も急激になくなってしまった。激原は約束の時間を十五分過ぎても、やって来る気配はなかった。

「あれ、ウチの会社が関わっているんです」

 鳳凰口が窓の外を指差した。その瞬間、目の前の二人の男が、突然眠りから醒めたように空気を揺らせた。

「鳳凰口建設が、これを?」

 戸川は驚きのあまりに、声を詰まらせた。Kは絶句していた。

「そういうことか!」しばらくして、Kの思考回路は、激しく復活していた。「あの水原と話しをしていた、恰幅のいい男性。あれは、鳳凰口建設の社長。つまりは、あなたの親父さんだったんだ。辻褄が合い始めた。その会社に、戸川は就職が決まった。いないのは水原だけだ。水原はどこに行った?」

 水原という言葉に反応したのは、今度は、鳳凰口昌彦の方だった。

「水原のことを知っているのか?」

 激しくKに詰め寄った。そして戸川にも、水原のことを訊いた。ここに居る全員が、水原永輝のことを知っている。それだけでも、ずいぶんな共通点だと、鳳凰口は思った。

「水原は、中学の同級なんだ」鳳凰口昌彦は言った。

「水原は、危険人物だ」とKは言った。「あいつは嘘ばかりを並べている。水原はこ、の建築に深く関わっているんだろ?大丈夫なのか?親父さんは騙されているんじゃないのか?」

 Kの方も、鳳凰口昌彦に詰め寄った。

「あいつ、ここで、働いていたんだよ。この喫茶店で。ウエイターをやっていた。しかも、大学院生だという嘘までついていた。自分は学生だと言い張った。ところが奴は、鳳凰口の父親さんと、仕事の打ち合わせをしていた。これはどういうことなんだ」

 それまでは、まるで話題のなかった三人だったが、水原の話に、すぐに飛びついた。水原と深く関わる、窓越しの建築現場に、思いは飛んでいった。そのときだった。

 激原徹が現れた。三人は、激原にはまったく気づかず、彼は三人の話が途切れるのを待った。

「あの、僕」

 三人の男は、ウエイターが来たのと間違え、注文はもういいからと、断りの仕草を見せた。

 彼は、何度も、激原だと名乗り、鳳凰口の肩を何度も叩いた。

 鳳凰口の他の二人は、見知らぬ顔だった。

 激原は仕方なく、知らない男の横に空いたスペースに、静かに座った。

 三人が気づくのを待った。


 戸川とK、激原に、鳳凰口。四人の男が初めて、顔を合わせた日になった。共通点はただの一つで、工事現場と水原の話題だった。水原とは中学の同級だという鳳凰口昌彦は、親父の建設会社もまた水原と繋がっていると言った。水原は嘘つきだと語るKに、昌彦は強烈な興味を抱いた。水原との接点は、あの日以来、なくなってしまったが、ここに僅かな光が灯っていた。

「確かに、彼は、この喫茶店で働いていた。大学院生で、今は就活中だと言った。それなのに、奴は、あなたの親父さんとこの建設現場で打ち合わせをしていた。はっきりと見た。そしてそのあと、あいつはバイトをやめた。俺らの疑惑をかわすように。身の振り方が早い男だ。さらに、ウチの会社にも、あの後は顔を出すこともなくなった。もうすでに、打ち合わせは終わっていて、あとはウチの会社が、工事を請け負うだけになっているらしい。水原はもう二度と、ウチにはこない。連絡先も知らない」

「交換した電話番号には、繋がりませんでした」と戸川は言った。

「あの・・・」

 激原は、その巨体とは似合わないか細い声で、自分の存在を訴えた。

 他の三人は、ここでようやく、激原の存在を正式に確認した。

「いつ、来たんだよ」

 遅いじゃないかと、昌彦は言った。

「え、ええ」

 激原徹は、どもってしまった。「結構前から、はい。い、いたんですけど。みなさん、話に夢中になっているようで・・・」

「えっ、なに?」

 あまりに小さな声に、三人は、激原の声を聞きとるのに難儀した。

「彼は、激原徹くんと言って、ウチの会社に面接に来た男だ。落選したけどね。そこの戸川君が、採用になった」

 激原徹は、戸川をじろりと見た。戸川は、激原に目を合わせなかった。

 二人はその採用のことで、何か発言することはなかった。

「あの男は、学生ではない!でも、デザイン会社の社員であるというのも、本当なのだろうか」とKは言った。「すべてが、嘘のような気がする。鳳凰口さんには、残念なことですけど、あなたの会社は、彼に騙されているんじゃないでしょうか。親父さんとよく相談してみた方が。僕らは、詐欺師の男を捕まえるチャンスかもしれない。みんな騙されている」

 頭を冷やそうと、Kは言った。

 不安になってきましたと、戸川は言う。激原徹は終始無言だった。

「まずは、水原を探し出すのが、先決です。そうでしょ」

 たまらず、昌彦は言った。

「ここに、水原がいないのが、最大の問題だ」

 そう言った昌彦は、何故か落ち込んでしまった。

 水原が、すべての鍵を握っていた。他の奴が何人集まろうが、解決へと導く暗合が、浮き上がってくる気配はない。

 四人の男が、ただ無意味に、たむろってるだけの、ひどく哀しい光景に見えた。

「手掛かりはどこにもない。探偵に頼むか?それともサイキックか?そうだ。サイキックがいい。水原の居場所は、すぐにでもわかる。いや、その両方がいい。徹底的に、手を尽くすべきだ。すべてはあいつから、事は始まっている。あいつに集約されている。あいつは、結末も知っている」

 Kは興奮していった。ここで、鳳凰口昌彦は、Kに言った。

「作家だそうですね。推理小説か何かですか?この状況を、おもしろがってるんだろ。水原が、すべての鍵を握る人物だって?彼を探すことに、全力をあげましょう、だって?」

「そう言ったのは、あなたの方です」

 Kは反論した。「僕は便乗しただけだ。支離滅裂だな」

「とにかく、作家のあなたは、口をだすべきじゃない。何が詐欺事件だって?勝手におかしな話に、祭り上げるのが、癖になってるんだ!他人の人生を、一体、なんだと思ってやがる。あることないこと、勝手にでっちあげて。俺はな、戸川を、呼んだんだ。戸川と激原を呼んだんだ。あんたに用はないんだ。誰なんだ?あんた。Kだって?聞いたことないな。そんな作家、存在していただろうか。知らないね。なあ、お前は、知ってるか?」

 そう言われた激原は、今度も、か細い声で「はい」と答えた。

「知ってるのか?」

「は、はい。わりと有名な方です」

 激原は、申し訳なさそうに答えた。

「どのみち、ウチの会社に、俺は、関わってはいない。親父に言ってくれ。俺を通して話を伝えるというのはナシだ。俺は水原に、個人的に会いたいだけだ。ただ、それだけだ。十何年ぶりに立ち話をした。その続きがしたいだけだ。それなのに、何だ?おかしな作家まで出てきて。詐欺だって?水原が、何か良からぬ計画をしていて、その計画に、ウチの会社が巻きこまれたって?そんなばかな。くだらないよ!まあ、いいよ。それも、結局、水原に訊いてみないと、わからないことだから。親父と水原のあいだで、交わした約束事には、俺は、触れられないから。親父は口を割ろうとはしないし、俺も、無理やり、訊き出すことはしない」

「とりあえずは、みな、水原を探し出したいという気持ちは、一致している。結果、やはり、プロに捜索依頼をするのが、妥当ですね。そのことに、異論はないね?鳳凰口さん、も」

 昌彦は、認めるしかなかった。



































第一部 第五編  時の彼方から Ⅱ





















 飛行物体グリフェニックス・アイテナリー・アソシエーション、通称GIAが普及して新文明が花開いてから、すでに、三十数年のときが経っていた。車体には四本の足の生えた馬のような下半身に、燃え盛る鳥の上半身が組み合わさった絵が、ペイントされている。伝説に登場する、フェニックスとグリフィンが合体した、さらなる創造上の生物だ。

 グリフェニックス・アイテナリー・アソシエーションは、この世に生を受けた全員に、製造元から配給されるシステムになっている。燃料はいらず、運転に特別な技術もいらない。胎児の頃には、ある種の保育器として使用し、成長するに従って、子供のおもちゃとして扱われ、さらには青年期になって初めて、移動するための乗り物としての機能が、付け加わる。そこからのグリフェニクス・アイテナリー・アソシエーションは、乗り物、兼、ちょっとした住居、ホテルの代わりを務めることになる。

 人間の成長と共に、この車体も、埋め込まれた多機能性が目覚めていくのだった。この二者の関係を分かつことはできなかった。この世を去ることが決定する少し前に、分離の作用が働く。GIAは本人よりも先に、天へと返還されるのだった。


 開発、製造、流通のすべてを一手に担う、《オブロン社》に勤める元化学者、ニナガワは、車体のメンテナンスを担当する社員だった。《オブロン社》は、GIAの製造に成功すると同時に、世の中にデビューした。表舞台に登場した。ニナガワは大学を卒業して、新卒で《オブロン社》に採用される。商品はGIAのみである。メンテナンスの仕事だけを請け負っている。社員は誰であっても、GIAがどのように製造され、どのように破棄されるのかを知らなかった。《オブロン社》の責任者の存在さえ、わからなかった。社内情報は、外部にも公表していないばかりか、社員同士の繋がりも、まったくなかった。新卒者がいったい何人採用されているのかもわからなかった。入社式もなければ、上司と呼ばれる人物の存在もいない。部下もいない。しかし、《オブロン社》は、巨大なビルを、所有していて、広大なほとんど何もない空間を、内部に構築している。この建物を、ニナガワは常に不思議に思った。内部にめくれていると、彼は思った。非常におかしな建物だった。たまに、社の人間とすれ違うことはあったが、互いに会釈をするだけだった。そのすれ違う相手も、いったい本社に、何をしに来たのかわからなかった。メンテナンスをする場所は、他にあった。数百か所に、散らばっているという。その所在地も、社員はすべて把握してはいなかった。正確に記載した地図の存在もない。社員は自分が所属する場所を言い渡され、そして数年に渡って、そこに勤務し、それから、別の場所へと転勤させられる。

 ニナガワは、大学時代に付き合っていた女性と、入社してから三年後に結婚していた。今では娘もいる。娘のグリフェニクス・アイテナリー・アソシエーションも、すでに自宅にはあった。パパのお仕事はね、この車の修理を、することなんだよと、そんなふうに話しかける日も近かった。娘は二歳だった。

 ニナガワはたまに、このGIAの車体に描かれた奇妙な生物を、じっと見つめていることがあった。特に休日、何もやることがなかったニナガワは、よく眺めていた。車体の表面から、今にもその生き物は、飛び出してきそうだった。ニナガワが見つめれば見つめるほど、まるでニナガワの中に宿る得体の知れないエネルギーに反応するかのごとく、グリフェニクスの目に生気が宿る。それが青色に光って見えることもあった。両翼がさらに頭上へと持ち上がり、炎が一気に爆発するかのように、ニナガワの目を眩ませることもあった。一瞬の強烈な光の後、再びグリフェニクスは燃え上がり、フェニックスが空高く飛び立ってしまう様子を、ニナガワは目にした。そして、残った下半身からは、鳥に似た頭部が生まれ出てきて、一つの生物として再生する。しかし、グリフェニクスとは明らかに違う。グリフィンとフェニックスが、それぞれに分離した瞬間のように見えた。

 ニナガワは車体のイラストに視線を戻した。そこには変わらず、グリフェニクスの存在があった。他の社員たちも、この自分と同じような現象が、起こるのだろうか。そもそも、休日に、車体をじっと見つめることなどあるのだろうか。成長した娘は学校が休みになったとき、車体を見つめることがあるのだろうか。妻はどうなのだろう。疑問は潰えなかった。

 休日に、彼は《オブロン社》の本社建物に、一人で、ふらりと訪れることがあった。

 あの何もない広大な空間の中にいることが好きだった。社員証があれば、いつでも中に入ることができた。あのすれ違う社員たちも、自分と同じように何の目的もなく、ただこの空間が好きだからという理由で、訪れることはあるのだろうか。今度訊いてみようと思った。

 真っ白に染められた内部は、雪で作られた丸みを帯びた建物のように、内部に曲線を描いている。外部の光によって、自然な優しいドーム型をしている。本当に何も置かれていない。奥にエレベーターがある。しかし、それに乗るための通行証を、ニナガワは持っていなかった。本社の上階には、役員級の人間の部屋があるのだろう。

 こうして、平穏な日常を送っていたニナガワだったが、近く戦争が起こることを、ある情報筋から伝えられていた。



 軍人Rは、戦闘準備に備え、一年にも渡って、激しく過酷な演習を続けていた。

 彼は非正規の軍人予備軍として採用され、演習における好成績において、正式に採用されるかどうかという段階まで、進んでいた。実際、内乱が起こる不穏な雰囲気に、国内は襲われていて、何らかの闘争がいつ起こってもおかしくない状況だった。市内でのゲリラ戦に備え、Rは絶えず演習場との往復を頻繁にしていた。不穏な情報が入るとすぐに、彼は市街戦へと備え、解除されればまた、演習を繰り返す。彼はこの目覚ましく、忙しい日々に満足していた。これからやってくるであろう、華々しい自分の活躍の場に、目を輝かせていた。こんなにも、心が高揚している時期が、これまでの人生であっただろうか。その煌めきが、Rにとっては何よりも嬉しかった。生きがいが初めて、本格的に活動しだしていた。軍人の仮採用に応募してよかった。それまでは、何に対しても、人生に、意義など感じられなかった。Rは、軍人になったこの運命に感謝した。

 不眠など、たいして問題ではない。Rの神経は高ぶり、炎に燃え盛る、自分の内面の肉体をも感じた。もし、市街戦で、多量の銃弾をこの身体に浴びたとしても、全部素通りするか、弾き返してしまうか、自分の無敵さを感じた。何の恐れも感じなかった。演習も、順調にこなしていた。すべての準備はできていた。

 ところが、事態の変化は、突然やってきてしまう。軍隊の解除が通達される。Rはその瞬間、退役軍人としてのレッテルを張られる。演習はすべて中止となり、寝泊りしていた宿舎から、退去が命じられる。退職金は出た。一年以上は、有に暮らせるほどの額だった。しかし、そんなことはどうでもよかった。この沸騰した熱を、一体、どうしてくれるのか。退役軍人Rは、突然、極度の不安に襲われた。まるで自分の内部に、いつのまにか、怪物が生まれ出ていたかのようだった。この怪物を、俺は抑えきることができるのか。そういう不安だった。けれど自分は、この怪物の存在に気づいている。まだマシだと思った。気づかぬままに、この肉体を乗っ取られてしまっていたとしたら・・・、それこそ、破滅であった。

 今はまだ、分離していた。しかし、時間の問題ではないのか。

 怪物は、この肉体を浸食していく。そう考えると、恐ろしい一年だった。この怪物の芽を育てるためだけの、一年になっていたのだ。

「武装解除とは、いったい、何事なのですか」

 退役軍人Rは、上官に食い下がった。

「書類は、書いてきたかね」

 上官は、静かな声で、諭すように言う。

「何が起こったのですか」

「とりあえず、書類に不備はないようだ」

「聞いてるんですか!」

「ええと、何だっけ」

 上官は、菓子の包みを指でいじり始めた。

「クビにしないでください!」

「もう、書類を記入したじゃないか」

「返してください!」

「まあ、まあ。早まらないで。退職金が、フイになっちゃうよ」

 退役軍人Rは、眉間の皺を深くする。

「とにかく、軍人を増強するという方針が変わった。減らす方向となった。私たちも、いずれは、退官を要求されるだろう。君と同じ運命だ。今残るか、後まで残るか。それだけの違いだ。さあ、帰ってくれ!」

「わかりました。僕のことはもういいです。何が原因なのでしょう?内乱の危険性は、低くなったのですか?ゲリラ戦の予兆も?」

 上官は何も答えなかった。退役軍人Rはその後、職を転々とした。がしかし、目覚めてしまった激情を見たす仕事は、どこにも見つけることができなかった。何かを壊したい。この自分の身体と心を、すべてぶつける対象が欲しい。そんな場所を探していた。どうしたらバランスが取れるのだろう。

 そんなとき、退役軍人は、ある集会に参加したのだった。夜の闇に浮かぶ、森の中で集まる奇怪な場所であった。真夜中過ぎの、最も闇が深まる時間に、さらに市街のすべての闇を結集させたかのような、深い黒さが森にはあった。そして、その集会は、その闇のさらに奥に潜む、絶対に開けてはいけない箱の中身を、さらけ出そうしようとしているかのようであった。そんな雰囲気を、一瞬で感じた。集まりの場に入るためのゲートに、触れただけで、そのことがわかった。

 通常の状態であるのなら、こんな場所には二度と近づかない。というよりは、まず、出会うことがない。このゲートの前まで来ている時点で、すでに見えない力に導かれている。ゲートの奥に踏み込むことはなく、Rは引き返した。それが第一夜だった。だが気になり続けた。意識から振り払うことができなかった。第二夜、第三夜と続けてゲートの前まで行った。真夜中に一人家を出て、その場所まで行く。ゲートの中から、人が出てくる気配はない。ゲートは手をかければ、簡単に開くのだろうか。あの森の中では、一体何が行われているのか。この満たされない激情を解消する行為が、何か、行われているのだろうか。音は何も聞こえてこない。人の出入りすらない。思い違いをしているのだろうか。別に何も行われていないのではないか。この頭の中で、闇を深く重ねていった結果が、たまたまこの森へと辿りついただけじゃないのか。単なる妄想。勘違い。いよいよ重症になってきたのだ。ゲリラ側に寝返ろうかとさえ、思い始めた。寝苦しかった。

 退役軍人Rは、多額の退職金を受け取った。その後の仕事は続かなかったので、慎ましく、質素な家に住めばいいものの、何を思ったか、彼は高級アパルトマンと賃貸契約した。目的も算段も何もなかった。もし一年のあいだ、何もしなくて暮らせたとして、それがいったい何なのだろう。だったら、三か月しか生きられなくても、いい所に住んだ方がマシだ。そう考えた。

 そして、そのアパルトマンに引っ越した夜から、闇の深くなった森を、求め始めた。



 科学を捨てたニナガワは、大学の同級が誰も進むことのなかった、《オブロン社》を、選択した。いずれ、テクノロジーのほとんどは、人間を破滅へと導く兵器の製造に大きく貢献することになるだろう。そのことを予知しての決断だった。化学とは全く関係のない分野に進もう。もちろん、文明の外に生きることは、不可能だ。しかし、直接関わり合うのだけは避けよう。

 内戦がすぐ近いことを知らされたその相手は、ニナガワがこれまで徹底的に避けてきた大学の同級だった。その旧友から、結婚式の招待状を受け取った。それがきっかけだった。ニナガワの奥さんと共に、式に呼びたいのだと彼は言った。式の前に、一度、四人で食事がしたいと彼は続けて言った。ニナガワは了解するしかなかった。その四人で食事をした。ふと、女性同士で何か盛り上がっていたときだった。旧友は、ぼそりと、ニナガワにある情報を打ち明けた。

「近いうちに、うちの会社は、政治の道具にされるよ」

 軽い口調だったが、黒目の奥は、純粋に光っていた。

 どういうことなのかと問うと、彼はこう答えた。世の中には、偏った一方的な価値観を元にした、思想や世界観の対立が激化していて、それは物理的な対決という形で、近い未来に表面化するということだった。

 その際、ウチの会社も、例外ではなく、科学技術の争奪戦が、かなり露骨に始まっているというのだ。

「武器ということか」

「行きつく先は、な。けれど、単純に、技術の奪い合いや駆け引き、そこで勝敗が決するということはある」

「核の保有みたいなものだな。抑止力といった」

「そう。とにかく、もうウチは、巻きこまれている」

「技術や機密情報を、売り渡したのか?政府か、それとも民間の。それとも、テロリストか?」

「それは、わからない」

 女たちは、初対面にも関わらず、話題がまったく尽きなかった。

 むしろ、この旧友の二人の男の方が、長い沈黙を生み出してしまっていた。

「お前は、どうして、化学を捨てたんだ?せっかく大学まで出て、専門を学んだのに。すべてを投げ捨てた。両親も泣いただろ?」

「ああ、親には本当、なんと言ったらいいか、申し訳なく思っている。でも、自分の心に嘘はつけなかった。それだけは、今も後悔していない」

「そうか。本当に、そうなんだな」

「ああ」

「俺も、お前のような選択を、すればよかった」

「そんなはずはない」

「俺も、今のお前のような仕事を、していればよかった」

「GIAのメンテナンスだぞ。誰でも出来る仕事だ。ただの単純作業だ。時間を売って、暮らしてるようなものだ」

「けれど、絶対に、暮しには必要なものじゃないか。お前のような人間がいなかったら、社会は回らない。俺は、感謝してるんだ」

「なあ、いったい、何が言いたい?」

 ニナガワは、旧友の、内に籠り気味な言葉を聞くにつれて、だんだんと、イライラが募っていった。

「そんなに俺が羨ましいのなら、今すぐ、転職すればいいじゃないか」

 ニナガワは、吐き捨てるような口調で言った。

「無理なんだよ。もうすでに、雇用の解除を申し出ることは、できなくなっている。ある意味、非常事態宣言が発令されてる。水面下で。今、会社にいる技術者は、我が社の外に、自由に出ていくことができない」

「そういうことか」

「ああ。争奪戦は凄まじい」

「わかったよ」

 気づいたときには、四人での会話に戻っていた。結婚式は一週間後に迫っていた。

「それにしても、君たち二人は、初めて会ったようには見えないね」

 旧友は二人の女に言った。「俺らよりも、古くからの友達同士みたいだ」

 ニナガワはその後も、あの日のことを考えていた。企業に対する大学からの推薦状を断り、両親にもその旨を告げたときのことを。父親は烈火のごとく怒りを爆発させ、母親は悲鳴を上げた。ニナガワの家は裕福ではなかった。それどころか、事業に失敗して借金を返しながらのギリギリの生活であった。それでも、息子のことを考え、奨学金をもらうことは避けた。息子の学業に、負債を抱えることだけは、避けた。よって、家計は火の車になり、日々のやりくりに、母は奔走した。父親もただただ、借金の返済と、息子の授業料を稼ぐためだけに、過重な労働を繰り返した。事業で失敗して以来、ニナガワの父親は、自分で事を起こすことを封じだ。一人の労働者として、残りの生涯をまっとうすることを、決心していた。安い時給で働くことも厭わず、違う意味で、心を改め、文句ひとつ言わずに懸命に生きた。自分が封印した自由のようなものを、息子に託したのかもしれなかった。そのため、ニナガワが、それまで積み上げてきたものを、簡単に放棄したとき、自分までもが、船を思いっきり転覆させられたかのような、衝撃を受けたのだ。出て行け、と言ったきり、ニナガワにその後会おうとはしなかった。母親もまた、しばらくの間、ニナガワとは距離をとっていたが、そこは母親の本能なのだろう。一人、タッパに入れた、肉じゃがとポテトサラダを片手に、ニナガワのマンションを訪れた。母親は、ニナガワの身体を気遣い、これまでもずっと、心配していたのだと言った。確かに、あのときの告白を許したわけではない。でも今さら仕方がない。あなたも悩んで苦しんで、決めたことなのだろうから、私は何も言わない。時々、心配だから家に帰ってきて。それだけよ。母親は言った。オヤジはまだ怒ってるんだろ?たしかにそうだと、母親は答えた。でもあの人も、最近は、ずいぶんとあなたのことを話題にするようになった。お父さん、あれからもっと無口になってしまって。でも何か顔つきが変わっていった。お母さんの、予測だけどね、お父さんも、もう、あなたのことを許していると思うの。あれから深く、悩み抜いたと思うの。あなたはただの感情だけで、重要なことを決める人じゃないし、浅はかな考えを吹き込まれて、惑わされる人でもない。何か深い考えがあってのことなんじゃないか。あなたが表面的に、私たちに言ったその言葉以上のことが、あの決断には、秘められているんじゃないのか。お父さんは、そのことを今でもずっと、考え続けているんだと思う。その結果はまだ出ていない。おそらく、これから、そう、近い将来に、あなたのあの決断の意味を知ることになると思うの。母さん、そう思うのよ。

 両親とは、その後、結婚する時に、正式に挨拶の場で再会し、式にも出てもらった。父と二人で話す機会もあり、もちろん、《あの日》のことには触れなかったが、見えないわだかまりは、すっかりと鳴りを潜めていた。子供が出来てからは、なおさらだった。しかし不穏な空気は消えたものの、心の奥底には解明できない永遠の謎のような小骨が、何故か輝きを増しているように、ニナガワには感じられた。


 ニナガワが化学者を志した理由も、科学者を拒否した理由も、彼には化学者として生きている自分の姿が、青写真として、この身体の中に焼き付いていたからだった。何故なのかはわからなかったが、その青写真の見え方によって、彼は自分の人生の選択をしているように思われた。高校の時、進学を希望したときには、すでに実験室で研究に打ち込む自分の姿がはっきりと見えていたし、《あの日》もまたそうだった。あの日初めて、化学者としての人生の末路が見えてしまったのだ。

 ニナガワは同級生たちと共に、大企業の研究室に就職する。そしてまさに、今日のような事態の中で、身動きの取れない化学者としての自分の姿を、十年前に見たのだ。あの日の出来事を、誰かに話すことはなかった。ただ、化学の道は、自分には責務が重いだとか。特別な才能もないし、自分には向いていない分野だとか。友達にも親にも教授にも、そのように説明した。しかしそのどれもが、本当は的外れな表現だった。ニナガワには、化学者としての末路がすでに見えていたのだ。だから、その道を絶った。どうして死ぬと分かっている道を、あえて進むのか。十年前のニナガワには、まだ、その見えたビジョンについての確信が持てなかった。だから、周りに、科学の道を降りることを伝えたときも、それほど堂々とした立ち振る舞いが、できなかったのだ。確かに、母の言葉、母の直観は、それほど的を外していないと思う。そしてニナガワは今、母にあの日のことを少しずつ話し始めていた。旧友との食事会の翌日のことだった。

「あいつ、結婚するんだってさ」

「それは、よかったわね。あなたの友達は、独身が多いから」

「確かに、そうかも」

「研究者は、あまり、家庭を作ることに、関心がないのかしらね」

 そう言った瞬間、彼女は言ってはいけないことを、口にしてしまったかのように、慌てて訂正しようと、何か戸惑った様子を、見せた。

「そうかもね。没頭してしまうと他の事に目がいかなくなってしまうから。そういうことを、わかってくれる相手の人とじゃないと、うまくいかないのかもね。俺は、その道は、降りたから、嫁さんは普通の人でいいけど」

 ニナガワは、自分でフォローを入れた。

「なあ、母さん。その、旧友なんだけど。あいつ、今、やっぱり、よくない状況らしいんだ。そのね、科学技術は、今後、政府や民間、よくわからない組織や、利益団体などで、えげつない争奪戦が繰り広げられる。もう、あいつも、会社をやめられない状況になっている。情報が他に漏れることを、極端に嫌っている。自分には自由がすでにないと、あいつは言っていた。このタイミングでの結婚だ。何か思い当ることがあるのだろう。仕事とは、別の何かを求め始めたのか。一人で生きていくことに、極度に不安を感じたのか。でも、とにかく、科学の世界は、これから大変なことになっていく。世の中の中心に、祭り上げられる。神以上に、宗教戦争のような様相を呈する。その前哨戦が、すでに始まっている」

「あなたの会社は、どうなの?」

「幸い、そのような話は聞かない。それに、うちの会社のテクノロジー部門は、社内の俺たちにも、理解ができていない。新しい技術の開発に、邁進している様子もないし、革新的な商品が、生まれ出るといったこともない。GIAは、そもそもの最初から、存在していて、それが今も、例外なく在り続けている」

「そうなんだ」

「結婚式は、来週なんだけど」

「どうしたの?」

「何かが、起こるような気がするんだ」

 ニナガワは、自分では思ってもみなかったことを、口にしていた。

「ねえ、母さん。十年前のことは、本当にすまないと思ってるよ」

「いいのよ」

「本当に申し訳なかった。でも、もうすぐ、その答えは出ると思う。なぜ俺が、化学者の道を自ら閉ざしたのか。あの当時は、うん、決断事態は確信があった。でも理解するには遠く及ばなかった。自分で理解できないのだから、他人はもっと混乱するよな。そういう意味で、すまなかったって言ったんだ。でも、俺には、だんだんと明確になってきている。だから、母さんや父さんにも、分かるときが必ず来る」

 ニナガワの母は、黙って聞いていた。

「俺は逃げたんだ!」ニナガワは続けた。「あのときは、そうするしかなかった。とにかく、もう、止まることのない列車からは、飛び降りるしかなかった。大学受験のずっと前から、そのレールは存在していた。俺は何の疑いも抱かなかった。それに、そのときは、それが正しかった。今になって思う。科学の道を志したのは、間違いではなかった。勉学に励み、知識を得ていったことも、間違いではなかった。今もそう思う。錆びついてはいるものの、その知識は、この身体の内部に刻まれている。取り出すことは可能だ。そして何より、この身は自由だ。あいつは、旧友は、俺に助けを求めているんだと思う。もしかしたら、結婚することも、本当の目的は・・・俺に何かを知らせるための、口実にすぎないんじゃないのか。それは、考え過ぎかもしれないけど。一週間後に、何かが姿を現すと思う。そういえば、父さんは元気なの?」

 ニナガワは、ここで話を変えた。

「元気。それが、去年あたりからかな、急に体調の方もよくなって、体力もついてきたみたいで。あなたが、結婚する前までは、膝を痛めて、歩くこともできなかったのに。孫が生まれてからは、膝どころか、血流の循環がすごくいいとかで、一日に二時間以上も歩いているのよ。何か、自分の趣味というか、勉強のようなことも始めてもいる。最近では、私と二人で話す時間も増えてきてね。父さん、変わったの。生き生きとしてきたの。自分のやりたいことがここに来て、できるようになってきたみたい。自分の求めていることを躊躇なくしているみたい。そうすることを、自分に許しているみたい。私もそれを見て、自分のやりたいことを、思い切りやろうって、思ってるの。本当に、ここ一、二年なのよ。急速に変化し始めたのは」

「それは、よかったよ」ニナガワは、心からそう思った。

「そういえば、その旧友の彼。あなたの結婚式にも来てたわよね。披露宴が終わって、招待客を見送るときに、ほら、あなた、紹介したじゃない。大学の研究室で、一緒だったって。ずっと仲良くしている。論文も一緒に書いた奴だって。あの子なのね」

「そんなこともあったかな」

「彼、いい子よ」

「そうだな」

「力になってあげなさい」

 母のその言葉を、ニナガワは聞きたくて、今日、ここに来たのかもしれなかった。

 両親も元気そうで、本当によかった。

「また来なさい。今度は、家族三人で」

「わかったよ」

 ニナガワは、あの日逃げたことも運命であり、今度は逃げないことが運命であるような気がしていた。



 科学者になって、ちょうど、十年が経っているニナガワがいた。

 ニナガワは、エネルギー開発室の副室長になった。テクノロジーの進化に時を合わせて、その技術を独り占めにし、社会や人々を支配しようとする勢力同士の見えない闘いが、激化していった。無数の思想を軸とした人間の集合体が、自らの利益と正当性を主張するため、意見を異にし、対立した相手の集団よりも、さらなる武力を装備することに、奔走し始めていた。武力を背景にした、恐怖による争いへと発展していた。テクノロジーは、武器の進化と直結し、思想の道具にされていた。しかし今のところ、巨大な勢力同士がぶつかり合う戦闘は起きてなかった。小さな勢力同士が、拙いテクノロジーによる戦闘はあったものの、局地的であり、社会全体に及ぼす影響力はなかった。最も進化したテクノロジー同士を持つ、巨大勢力同士の衝突が、もっとも恐れられている事態だった。人々の認識は、ほとんど同じだった。自らが暮らす空間まで破壊する、兵器の使用は、自らの集団だけを、安全に囲い込むことができる技術を得て、初めて、使用のゴーサインが出る。いまだ、自業自得のジレンマを、抱えたままだった。

 ところが、そんな防衛技術が、すでに確立した段階になっても、戦闘は一向に起こる気配がなかった。それどころか、一番鮮明に、対立が露わになっていた二つの巨大勢力が、和解はしていないものの、共に声明を発表したり、共同プロジェクトを発表したりと、表向きは、タッグを組んでるような姿さえ、見受けられたのだ。

 ここにきて、情勢は変わっていた。

 ニナガワが見ていた戦闘のビジョンは、実現しなかったのだ。とりあえず、街が戦場と化さなくてよかった。まだ安心はできないが、この流れの中では何も起きない。カオス状態と化していく、人々の支離滅裂な、怨念の気の状態の方も、すでにこのときは安定していた。その空気の変化を、ニナガワは、この二か月の間に感じ取っていた。

 いったい、目に見えないところで、何が変わっていったのか。

 これはいい兆候なのか。悪い兆候なのか。自然の摂理で、安定するべき所に安定しているのだろうか。それとも、誰かが不自然な手を加えているのか。それを、ニナガワは見極めたかった。彼は、その手掛かりをさぐるため、時間があれば街を歩いた。そして、あらゆる職種の、ときには高官のような人物にも、積極的に会いにいった。もちろん、他の化学者たちにも。街で普通にすれ違う人にも。人々の心は、荒れ狂ってはいないようだった。しかし、それが逆に、不自然さを、助長してもいた。

 人は、こんなにも穏やかな状態を、保てるわけがない。そんなに、聞き分けのよい人間

など、本来、どこにいるのだろう。やはり、何らかの手が加わっている。その意図を、彼

は探ろうとした。どんなカラクリがあるのか。その答えは、週末に行われているあるイベ

ントにその片鱗が現れていた。郊外にある森の中で、それは行われていた。初めはロック

バンドの野外フェスだと思っていた。実際、そのような装いだった。他にも様々なイベン

トが行われていた。毎週、趣向の違ったエンターテイメントが行われていた。ニナガワは

ここに、強烈な腐臭をなぜか感じ取った。彼は、好きでもないバンドのコンサートに足を

運び、マジックショーや、時には、政治的集会にも足を運んだ。そして、毎回、彼は吐き

気を催すある場面へと導かれることになった。ある演劇の公演のときが、その最初の体験

であった。執事が主を殺害する場面があったのだが、そこで、本当の殺人が実行されてい

た。もちろん、そんなことなど、あるわけがないと思った。初めは違うと思った。しかし

匂いが発生したのだ。前列に近い席に、ニナガワは居た。強烈な腐臭が漂ってきた。野性

の動物を切り開いたような。そして、その時、聴衆はもっとも大きな歓喜の声を上げた。

死体は処理されることなく、観客も出演者も、会場を後にしていた。ニナガワにはわから

なかった。どうして、この殺人の場面の後で、芝居の何もかもが終わったかのように、ス

トーリーも、途中でブチ切れたままに、誰もそのあとを、続けようとしないのか。明らか

に、宙ぶらりんな状態だった。しかし、よく考えてみれば、その殺人というのが一体、ど

んなストーリーの元に起こったものなのか。あらすじを遡ってみたが、まるでうまくは繋

がらなかった。

 観客席に、人がほとんどいなくなった時だった。

 紺色の制服を着た警官によく似た人物たちが、この死体を処理するためにやってきた。

 死体はぴくりとも動かなかった。死体を運ぶのとは、また違った人間たちが、やってきた。血で汚れた舞台の洗浄を始めたのだ。ニナガワの思考回路は、完全に止まったままだった。ニナガワは、係員に誘導され、森の外へと退去させられる。

 ロックバンドのライブでも、激しいパフォーマンスの最中に、ギタリストが、観客の一人に目掛けて、ギターを思い切り振り降ろした。即死だった。曲は、無軌道な終わり方をして、観客は満足したように帰っていった。

 ニナガワは気づいていた。ありとあらゆるフェスティバルは、すべてが嘘の装いであるということを。目的は、この殺人にあった。この犠牲者たちは一体誰なのだろう。この狂気の祭りを開催している人間とは、一体誰なのだろう。どの組織、団体なのだろう。体を処理しているのは誰で、死体はその後どこに行ってしまうのだろう。このすべての凶行を容認しているのは、誰なのか。この凶行は、一体いつから始まっていたのか。いつ終わるのか。何もわからなかった。

 すべてがわからなかった。しかし、そこには明らかに、戦闘行為の代替が、いつのまにか世の中に放りこまれていた。ある種の、公認された局地的な残忍行為が、挿入されていたのだ。



 退役軍人Rは、熱情の源から、自分は捨てられたと思った。その気にさせられ、技能を身につけさせられ、準備が万端に整ったところで、その梯子は外されたのだ。運命の歯車は、狂ったのだと思った。だが彼は、この夜の出来事によって目が醒めた。

 今の俺は、運命に見放されたわけじゃなかった。むしろ、運命が俺を助けたのだ。急角度で、彼の意識を変えたのは、深夜の森の中のゲートが、開いたことが始まりだった。退役軍人Rは、門番も誰もいない夜の森の中へと、入っていった。

 街灯はまったくなかった。小動物が木の葉を揺らせる音が、聞こえてくる。その音に耳を澄ませているうちに、彼には、別の低音の男の声が重なった、気味の悪い響きが、森中を震わせていることに気づいた。その幾層にも重なった低音に、一端波長が合うと、どんどんと声は拡大していき、その声は退役軍人を迎え入れるための、狂騒曲であるかのように思えていった。

 だんだんと、漆黒の闇の調律が、なされていくかのようであった。

 闇に、足元から引きずりこまれていくようであった。もう引き返せないかもしれない。恐怖が迫ってきた。しかし、Rは思い直した。これは、俺が望んでいたことだったじゃないか。情熱の、その熱源へと、今から誘われるのだ。俺はそこで、再び、生きる力を取り戻すことができるのだ。だが、その夜の出来事は、Rに死を求める世界が、提示されたのだった。森の中をどう歩き、どんな気持ちで、突き進んでいったのか。薄ぼんやりと、魂を抜かれてしまったかのごとく、気づけば彼は大勢の聴衆の中に居た。

 前後左右には、聴衆を取り囲むかのように、炎の松明が、等間隔で、円形状に並べられている。人々は、その輪郭の中に、すっぽりと収まっている。そのさらに外周には、鬱蒼とした森が広がっている。ここは、森の中にぽっかりと空いた、円形の空間だった。隣に居た老婆の顔を見る。逆側には若い女性の姿もある。自分と同じような若者たちの姿もある。特に変わった人間のようには見えない。誰も言葉は交わさない。唸り声のような男の低音の層は、あいかわらず鳴り響いている。炎は、その音響の震えと同調している。不気味な儀式が始まる前兆のようであった。

 退役軍人は緊張し、だんだんと意識が鮮明になっていくのがわかった。

 何か、重大なことが今から撮り行われる。少なくとも、この自分にとって。

 通過儀礼だ。突如、頭に浮かんだ言葉だった。この夜は。人生における、一つの分岐点になる。そう思った。ますます、胸は締め付けられるように高鳴っていった。明日には、世界はすべて変わってしまうことだろう。一体どう変わってしまうのか。ふと、俺次第、なのではないかと思った。俺の反応次第で、明日の世界は、まるで変わったものになる。そう思った瞬間、彼は、この群衆の一人に埋もれながらも、群衆からは抜けだし、森の上空に、一人浮かんでいくような錯覚を覚えた。

 低音の声は、次第に、その重なりを濃くしていった。いったい、何層に重ねられているのかわからない。最初は、地底から鳴り響いているようだったが、次第に、あらゆる方向から、別の音階で唸る声が聞こえてきた。Rは気が狂いそうになった。最初は気味の悪さに頭が揺れ、ぐらつき、回転しそうになった。三半規管が完全にイカれ始めていると思った。平行感覚が揺さぶられ、正気を保っていることが不自然になっていった。

 だが、次第に、その不調和にも体は慣れていく。

 Rは、その現象が起きている最中も、群衆の中に埋もれる肉体からは、抜け出て、重空へと意識を保とうとした。いったい、この声の出所は、どこなのだろうか。空からも感じた。再び肉体へと意識を戻した。この重低音の呻き声は、さらに、複雑性を増していた。まるで、細胞を切り刻み、ばらばらにするかのごとく、肉体の隅々にまで浸透してきた。

 ところが、肉体は、完全に適応してきていた。

 心地いいとは言わないが、それなりに、リラックスをしていく自分をも感じていた。

 隣の聴衆に目を移した。何と彼らの眼は青く光っていた。視線の先には、炎に包まれた巨大な舞台が、空へと舞いあがっていた。いや、舞い降りてきたのか。炎はいまだ、輪郭が不安定で、その内部には何が存在しているのかわからなかった。自分の目もまた、青くなっているのだろうか。複雑に入り組む、重低音の呻き声の多様さに、呼応するかのごとく、炎のゆらめきは、一筋縄ではいかなくなっていた。炎が、天から降臨してきていることに、Rは気づいた。聴衆の間に、円形の空間がいつのまにか出来ていた。そこに炎は降臨してきた。深緑色の軍服姿の男たち数十人が、突然現れた。この軍人のような男たちに連れられてきた、白い布で顔も覆われた人間が、炎の中へと突き出される。そして、一瞬のうちに、燃えてなくなってしまう。次々と、白装束は、放り込まれていく。炎は、ますます巨大になる。ここから見ると、ほとんど、天へと届きそうなほどの勢いであった。

 重低音の呻き声が、だんだんと鮮明になっていく。

 最初は、苦悶する人間の声だと思った。しかし、これは、呪文の羅列なのかもしれなかった。

 この炎を天から誘き寄せ、地へとグラウンディングさせるための。

 炎は、龍のような輪郭へと変化していった。

 そこには、生き物の顔が映っている。

 その目と、Rは一瞬合ったような気がして、ぞっとした。

 慌てて目を逸らそうとする。しかし、すでに、身動きがきかない。隣の若い女が、突然、その炎のある場所へと駆け出した。彼女は笑っていた。檀上のように高くなっていた場所へと立った。彼女は至福の表情を浮かべ、天へと、何かを呼び寄せるような仕草を、繰り返す。火は、巨大な炎に包まれた生物から、彼女へと燃え移る。人が焼かれ、焼き切るまでの過程を、Rは初めて、この目で見てしまった。

 目を背けることが、彼には出来なかった。戦場に行かなくてよかった。

 初めて彼はそう思った。この街が戦場と化さないで、よかった。本当によかった。彼女が焼かれているあいだ、彼は自分が戦地で喜々として、情熱と同化している姿を、そこに重ねて焼き切っていた。

 自分が抱いていた想いは、情熱ではなかった。埋め込まれた偽りの代替えものだった。情熱に、よく似ていたものの、行き着く先は、黒い闇に生息する、生物との合体であり、世界の破壊と、自分自身への破壊そのものだった。

 そのときだった。濁った声が、ほんのわずかに聞こえてきた。

「次は、誰の番だろう。そろそろ、その君、行きたくなっているんじゃないか?初めての参加だからって、遠慮することはない。誰が手を挙げてもいい。ほら、もう、三回目の、君。いいかげんに、気持ちは固まっているだろ?もったいぶらなくていい。自分の気持ちに正直になったらいい。そうだ。その調子だ。本当の望みに気づきたまえ。火をよく見るんだ。火の中に浮かんだ生物を、しっかりと見るんだ。そこに浮かんでいるはずだ。そこに、確かにあるはずだ。そう、それが神だ。神の姿が、そこにはあるのだ。我々は、神を出現させているのだ。さあ、その神と、一体に、なりたくはないだろうか。この私の声が聞こえている諸君。声が聞きとれたのなら、もう、その日は、近い!どれほど、君たちは神と肉体を、ずっと切り離し続けてきたのか。人間の宿命だ。人間の宿命に甘んじること。我々は、そんなことは許さない!人生を、生命を、乗っ取られたままではないか。取り戻そう。我々の手で。我々の力で。さあ、神は、降臨なさっている。あとは、勇気だけだ。一心同体になりたいと、そう願うことこそが、勇気だ。さあ、もう何度、この場にいるのかは、問題ではなくなった!勇気のある者から、動きだせ。もう君たちの心は、決まっているはずだ。行くのだ!」

 その声に激励されるかのごとく、聴衆は、次々と檀上に昇り、炎の欠片を受けとり、自らの肉体を、闇に捧げていった。

 彼らは皆、青い目の輝きを持っていた。












































第一部 第六編  前夜の紋章 Ⅲ





















 水原永輝は、抗議をしてきた宗教団体の代表代理と、正式に会う事になった。代表である見士沼高貴の息子である、見士沼祭祀だった。彼の情報は、インターネットで入手することはできなかった。水原はアルバイト先である喫茶店に、交渉の場を設定した。

 見士沼祭祀は、時間どおりにやってきた。

 水原は十五分前にすでに来ていて、コーヒーを二杯飲んだ。挨拶を交わし、さっそく二人は本題へと入った。見士沼祭祀は、おもむろに紙を広げ、水原に見えても、別に構わないといった無造作な仕草で、紙に書かれた要綱を、ぶっきらぼうに読み始めた。彼がこの役回りを望んでいないことは、明白だった。

「ということで、一つ、宜しくお願いします」

 水原は、身士沼が読んでいるあいだ、口出しは一切しなかった。

 見士沼が読み終えたあと、二人のあいだの沈黙は長く続いた。

「大学は出たの?」水原は身士沼に訊いた。

「三年前に。卒業しました」

「そうか」

「家を継ぐの?働いては、いないんだろ?」

「家は継がない」

「でも、今日も、代表者として来てる。まったく、望んではいないんだな。なら、どうして、家を出ていかない?企業に就職しても、いいだろ」

 見士沼は黙ってしまった。少し顔をひきつらせ、目は安定感を失い、目の前の空間を彷徨い始めた。精神的に問題のある男かもしれないと、水原は思った。少し知能がないのだろうかと一瞬思ったが、そうではなさそうだった。

「事は、荒立てたくはないそうだよ」見士沼祭祀は言った。

「建築のことか?」

「妥協は、一切しないそうだ。うちの代表の意見はね。ここは、気流の大事な拠点であって、その流れを阻害する建物は、街全体にとって、好ましくはない。私たち一団体の利益を、代弁しているわけではなく、全体のことを、思ってのことだと。そこを強調してくれと、代表は言っておられた。そして、一切、譲歩条件は認めないと。建築の中止のみを結果として求めると。平屋建ても駄目だそうだ。空間であることが必要であり、つまりは、空地以外には何も認めない。唯一、公園ならば、可能だそうだが、それは公共の施設なので、あなたたちの出る幕ではない」

 公園という言葉に、水原は反応した。

「その、あなたが、今おっしゃった、公園なんですよ、実は。内容をまだ、公表してませんでしたね。しかし、公園ということで、間違いはないです。平屋の高さも認めないんでしたよね?もちろん、我々は、平屋よりも高い建造物を立てることもありません。なので、あなたがたが抗議している内容には、まったく触れていません。大丈夫。安心してください」

 予想外の対応に驚いたのは、身士沼祭祀のようだった。結局、彼は、建設会社には受け入れてもらえないという前提で、来たのだ。だから、ただ、文書を通達するためだけに、最も暇で、しかも、正式な団体メンバーではない、見士沼祭祀を寄越してきたのだ。

「地上に建物を立てるつもりはありません」水原は念を押した。

 見士沼祭祀はしばらく、固まったままであった。だが突然、思い出したように携帯電話を片手に席を立ってしまった。外に行って電話をかけ、彼は事態を報告し、五分ほどして戻ってきた。そういうことならわかりましたと、彼は言った。

「本当に、公園なのかどうかを確認して、それで今日は、帰って来いということでした」

「もう、会わなくていいんだよな?これっきりにしてくれよ」

 見士沼祭祀は、腑に落ちない表情を続けた。

「一つだけいいですか?」

「いいよ」

「公園じゃないでしょ?」

「公園ですよ」

「僕にだけ、事実を教えてほしい」

 見士沼の表情は、明らかに最初とは異なっていた。

「帰ってから、団体のメンバーには何も言わない。約束する。彼らには、公園だということで、それで済ましてもらう。事実、本当に、あの場所の高さが阻害されないのなら、あの人たちは、おとなしく引き下がると思う。だから、教えてくれ。僕の興味だ」

「タダでは教えられないね」

 水原永輝は、言った。

「どうすれば」

「あなたの秘密の一つと、引き換えなら」

「というと」

「僕が、そこの土地の情報を、暴露するに値する、君の秘密だよ。それを一つくれ。君自身に関する。交換しよう。これまでの経歴と、これからの経歴だ家。の宗教団体と、君との関係性。今までと、これからの。さらには、その宗教団体とは、一体、どんな教義の元に、運営がなされているのか。それをぜひ、教えてほしい」

「全然、一つじゃない」

「ひっくるめて一つだ。だぶん、中身は一つなはずだ」

 見士沼は、特に躊躇いもせず、次々と話し始めた。誰かに言いたいことを、溜めに溜めていたため、ちょっと突っつかれただけで、感情の奔流は、凄まじいレベルに、達したかのようであった。

 水原は逆に驚いたが、静かに、その奔流を受け止めた。見士沼の宗教団体は、数百年続いている、彼の家系による継承を続けた、集団だった。見士沼高貴も、当然のように、代表を引き継いだ。その流れは、祭祀にも受け継がれる。宗教家になることが、特に嫌いなわけではないと彼は言った。けれども、宗教というものが自分にとっては、根本的にわからず、そこが解消しない限りは、安易に引き継ぐことはできないと彼は言った。

「僕はね、宗教よりも、むしろ、芸術に興味があるんだ。宗教家というのは、今の時代、ペテン師だ。そうだろ?ペテン師に、政治的な血を混ぜるか。商売の血を混ぜるか。芸術家とは、まるで結びもつかない。そもそも、芸その術家というのも、別に、現代の音楽家や、画家、文学者が、そうであるとも、俺には思えない。いろんなことが、俺の中では、混濁としていて、そんな、レッテルのレベルの話では、何も解決はしない!」

 芸術という言葉に、水原は、妙に打ちのめされた気分になった。

「芸術のことは、俺にはよくわからない」と水原は正直に言った。

「宗教のある生活とは、どういうものなんだ?教義や戒律を守って生活することが、そんなに大事なことなのか?生活していく上での苦しみを、人と分かち合うことで、緩和していくこと。それが、本当に、大事なことなのか?全部、誤魔化しなんじゃないのか?ペテン師だと呼ぶ、その理由だよ。あんなのは、嘘の世界だ。ウチの団体だって、信者を飼いならしているだけだ。俺には、そんなことなど、できっこない!気味が悪い。かといって、音楽や絵を描く才能もない。たとえ、その才能があったとしても、それで、一体何なのだろうと思う。心地の良いメロディーを作れば、それでいいのだろうか。それとも、荘厳な曲調の方か?俺の考えは、どっちつかずだよ!誰かに話したかった」

「その話す相手は、俺で、よかったのか?」

「そっちの秘密を、聞かないことにはな。まだ、何とも言えないね」

 水原永輝は、この土地に作る、本当の建造物のことを包み隠さず、見士沼祭祀にすべて語った。



 水原の捜索は難航した。依頼した探偵会社からの報告もなく、再び訪れてみると、彼らは何も情報を得られなかったことを、素直に詫びた。昌彦は親父に何度も水原のことを、問い正した。しかし彼はけっして口を割ろうとしなかった。そんなにも重大な秘密を抱え持っているのかと思うほどに、頑なだった。そしてすぐに鳳凰口豊は、脳溢血で倒れてしまった。そのまま帰らぬ人となってしまった。建築会社の存続は不可能になった。鳳凰口豊は自宅で倒れたため、そのあと警察の検証が入った。慌ただしい状況になった。喪主は母親が務めることが決まった。葬儀は親族と数人の従業員のみで、しめやかに執り行われることになった。その通夜にも、水原永輝の姿はなかった。彼は完全に意図的に姿をくらましたようだった。

 建築現場がその後、どういった展開を辿るのか。鳳凰口昌彦は弁護士と話しをした。

 水原の捜索願いを、警察に提出するのかどうか。Kや激原、戸川と話し合った。だが水原に関する事柄は、すべて保留となり、今は鳳凰口豊の葬儀に集中すべきだという忠告を、そのときは得た。

 確かにそのとおりだと、昌彦は思った。建築に関する契約を弁護士に訊くと、彼はそんなものはないと言った。あの大通りの交差点の、すぐ側の土地なんですよ。そこに建てる上物の施工を、ウチが担当しているんです。水原永輝という男が所属する、デザイン会社との共同で。もうすぐ、作業に入る予定でした。それはどうなるのでしょう。

 しかし、弁護士からは、そんな事実はないと何度も言われた。警察にも言った。しかも水原永輝の捜索願もついに出した。だが警察は受理したものの、彼を捜索する意志はないことが伝えられる。あなたは親族ではないのでしょう?彼の親族に訊ねたところ、彼らには捜索願いを出す意思がないということでした。しかも、詳しく言えませんが、彼の行方は非常にはっきりとしていて、所在もまた、明確だということでした。

 水原の居場所は、実ははっきりとしているという警察の言葉に、鳳凰口昌彦は理解ができなかった。水原はどういうつもりなのか。しかも、施工を請け負ったはずの建築が、今はまったく白紙の状態になっている。親父はそのことは何も話さずに、他界した。

 鳳凰口昌彦は葬儀の準備を抜け出し、一度交差点の側のシートのかかった工事現場に、足を運んだ。だがそこにはあるべきはずの、あのロゴの描かれた部分が、くっきりとなくなっていた。

 あの、鳥のような獣のようなデザインが、綺麗にそっくりと消えていたのだ。その部分だけが、黒い空洞になっていた。遠くからみると、黒い鳥のような輪郭になっていた。



 高まっていく水原への気持ちは、戸川も激原も、Kも、みな同じだった。戸川はしかしそれ以上に、就職先であった鳳凰口建設の、今後に絶望し、水原よりも新たな就職先に意識は傾きかけていた。けれども激原は、そんな戸川を、水原に差し戻す役割に、何故か終始した。激原は誰よりも、建築途中の現場に執着していた。その執着の表現として、水原にも焦点を集中させていた。Kはもちろん、建築途中の現場から遠ざかる様子はなかった。この人の場合は、単なる創作者の好奇心にすぎないなと、鳳凰口は思った。鳳凰口は、それぞれの人間の心に入り込み、彼らの視点で、この空地を眺めることを繰り返した。

 例えば、この四人の中では、誰がリーダーになるのだろうかと、思う。誰が中心になりえるのだろうかと思う。水原以外にはありえなかった。ここの中身を知ってるのは、今や、彼一人しかいなくなっていた。彼の所在不明に、一番やきもきしているのは、この俺なのかもしれない。鳳凰口昌彦はあらためて、そう思い直した。



 Kは、鳳凰口豊の通夜に参列し、そのあと自宅マンションへと帰った。

 あわよくば長谷川セレーネとすれ違わないかなと思ったが、結局、あの一度きりで、それ以降は、まったく気配さえ感じなくなってしまった。しかし、気配はなくとも、突然、現れるということはよくある。心構えはしていた。だが彼女は現れなかった。

 Kは突然、自分はもう長くはないかもしれないという想いが湧き起こってきていることに気づいた。通夜に参列したことが、引き金になったことは間違いなかった。けれど、その予感にも似た想いの塊は、もうずっと以前から、身体の内部に在り続けたものだった。

 その気配こそ、Kはずっと感じていたものだった。その思いが今、すっきりと意識の上に立ち上がり、外に放出しかかっていることに、なぜか安堵にも似た気持ちになっていた。

 だがすぐに、悪寒へと変化していった。本当に俺はもう長くないのかもしれない。

 一体、いつなのだろう。いつ、この世を去るのだろうか。胸騒ぎは、喉からさらに顔の内部へと上がっていき、瞼のあたりに到達して、小刻みに揺れた。

 急に、あの工事現場の光景が浮かんできた。なぜか自分の死と、あの場所とが結びついて離れない。不気味だった。そうだ。あの場所を目にしてからだった。あのときから、この胸騒ぎは、水面下で活動し始めたのだ。最初は、自分の作品が原作となった映画、『アトランズ・タイム』の影響だと思った。あの作品に描かれた現実は、未来の俺自身が体験する現実だった。そう確信したときに、この死の予感が、芽生えたのだと思った。だが、違う。あれじゃない。

 建設現場が、直接の原因だった。そのことを自覚してから、Kは急速に、あの場所を避け始めるようになった。そのあいだも、戸川や激原からの連絡は、絶えなかった。

 なぜか、あの二人は、あの場所に執着していた。

 鳳凰口建設による工事は、その後、行われることはなく、テントに印刷されたロゴもまた、消えてしまっていた。工事の陣頭指揮を執っていたはずの水原は、失踪し、・・・とそこまで考えたとき、Kは身ぶるいが止まらなくなった。

 水原は消されたのではないか。この工事をよく思わない人間たちが、居たのかもしれない。

 もしかすると、鳳凰口社長も、そうなのだろうか?事件性が背後に隠れた、急性心不全だったのだろうか。社長は見せしめのために殺され、それを知った水原は、逃げ出してしまったのだろうか。雲隠れ中なのだろうか。とにかく、工事に反対する勢力は、確実にいる。

 Kは、自らの死の予感を打ち消すかのように、工事に関する、近隣の住民を中心に調べることにした。すぐに、一つの怪しい影が、浮かび上がってきた。

 工事現場から二百メートルほど離れた、大通りから奥に少し入った場所に、その施設はあった。新興宗教団体の本部だった。見士沼高貴という男が代表の組織だった。

 その宗教団体は、付近に、新しい建築が予定されるたびに、抗議文を提出し、建築の妨害をしていたというのを、近隣の住民から聞いた。そして、今度の建築物に関しても、同様の行為に及んでいたという。しかし、訴訟を起こすとか、執拗な嫌がらせをするとか、そういった行動には出たことはな、何か奇妙な事がく、何度か直接話あう機会を、持つだけで、その後は穏便にすむのだという。だがそれは起きることで、工事が途中で中断、中止されるといった、穏便な解決の仕方だった。場所の移転を余儀なくされる事が起こるのだ。人が亡くなるなどの。

 Kはここでも、人が死ぬ話が連鎖したことを、気味悪がった。俺には直接、関係のないことだ。彼らに、何か、危害が加えられる可能性は低い。でもと、Kは、その考えからなかなか離れることができなかった。見士沼家の情報を、さらにネットで集めることにした。そういえば、この身士沼側と、建築する側との接触は、何かあったのだろうか。おそらく、鳳凰口豊がそうなのだろう。今となっては、接点は見事に消え失せてしまっていた。水原も接触したのかもしれない。それならば、あの建築現場も、工事の中止をもって、見士沼家との接点もまた綺麗に途切れてしまう。これ以上、何の関係もない俺に、危害が加わる理由など何もない。

 けれども、この身士沼家と自分が、何故か、繋がるような気がしてならない。

 俺は、きっと、ノイローゼになっているのだなと思い、笑いが込み上げてきた。狂ってる。狂ってるんだよ!あははは、狂えばいいさ。もっと狂ってみろよ。Kは、身体を震わせながら、笑い続けた。見士沼側からの接触は、何もないじゃないか。上等だよ!Kの思考回路は、完全に支離滅裂になってきていた。錯乱の中、わけのわからないままに死んでしまう人間も、世の中にはいるのだろうと思った。俺はそれになるのだろうか。いいだろう。なってやる。

 Kは自分の心に向って叫んだ。

 そうだ。あの男はどうなのだろう。鳳凰口昌彦と言ったな。鳳凰口建設の長男。

 でも、あいつは、会社には、何の関係もないと言っていた。あいつの元に、見士沼側が、接触を図ったとも思えない。やはり、手掛かりは、すでに闇の中か。ここでやっと、解毒作用は完了したようだった。誰かに消される恐怖は、だんだんと薄れていった。

 しかし、そう長くはないなという直観だけは、消えてはくれなかった。






























第一部 第七編  時の彼方より Ⅲ





















 このままでは、異端で終ってしまう。

 父、母、妹、村人のすべてが殺された現実を、私はずっと、直視することを避けてきた。

 たいして気にもしていないという態度を、とり続けてきた。

 だが、人生の終わりをどんどんと自覚していくにつれて、その現実は重くのしかかってきた。そして私は、親族を皆殺しにした、現在の教会に、平然と属していた。さらには、その教会の意志に、逆らう地下信仰を、毎夜繰り返してもいた。

 表向きのすべてが、偽りだった。私は偽っているという気持ちすらなかった。

 それは偽りよりも、さらに重篤なものだった。私は自分以外に心を開いたことなどなかったのだ。

 おそらく、死期が近づいたことで、その事実に気づいたのだろう。この気づいたままに死を迎えることが、どれほど恐ろしいことか。刻々と時を刻んでいく現実の中、私は生まれて初めて、人生が間違った方向に進んでいることを自覚した。あるべき姿とは、かけ離れた終焉を迎えることになることを知ったのだ。それまでにおいて、まったく考えられない局面に、私はいた。どういった最期を遂げるのか。その一点に、私という存在のすべてが絞られていくような気がした。人生の意味、生きていくことへの意義。それまで考えたことすらなかった。イエスへの信仰を捧げることだけが、心の拠り所であり、為すべき行為であった。日々は、単調に、穏やかに、過ぎ去っていった。しかし、そんな安らぎなど、今となっては、どこにも存在してなかった。

 何と皮肉なことだろう。これまで、五十年以上ものあいだ、心に葛藤などなかったのに。安らぎに満ちた生活を送っていたのに。にもかかわらず、そんな平穏さは吹き飛んでしまっていた。たったの一日で、覆されてしまっていた。私はこれまでの人生を呪っていた。そのような想いが、一体どうして、若い時分に、生まれ出なかったのか。深い苦しみは、人生の初頭において、究極的にあるべきだった。いや、おそらくは、そこにはあったのかもしれなかった。私は見過ごしていただけなのかもしれなかった。その罰がこうやって、晩年になって、現れ始めてきたのかもしれなかった。

 苦しみは倍増し、迫ってきていた。

 穏やかな死など、私には望めそうになかった。

 私は、自分に正直に生きてきたと、そう思い込んでいた。

『このままでは、異端で終ってしまう』

 その言葉が、胸の奥側から、突き上げてきた。

 陽の目を見ずに、闇に生き、闇に包まれたままに、終わった、その異端の信仰のすべての無念さ・・・。それが何故か、私の胸の奥にまとまって、押し寄せてきているような気がした。心の闇はまた、別の闇へと繋がっていた。

 私は、この日から、闇が、急速に、心の中で拡大していく様子を見ていた。自宅の地下の祈りの場と、私は直結していた。その、地下空間そのものも、口を閉ざさずにはいられなかった、過去の異端たちからの、怨念にも似た、苦悶の気で満たされていた。

 これが、私の晩年だった。そう認めるしかなかった。

 けれども、私には、まだ僅かに残された時間が、あった。

 これらの怨念の塊に、加わりたくはなかった。その想いは、私に絶望感から抜け出す、強い意志をも、もたらし始めていた。まだ終わってはいない。まだチャンスはある。死ぬ前に、気づいたじゃないか。心を開くことの大切さに。ならば、それを、実行するしかない。私が信仰している、この地下の世界を、公に晒すのだ!そうすると、私は、どうなるのだろう?私は・・・。確実に、殺される。同じ聖書であるのに、教会とはまったく異なる解釈をする、私の信仰。イエスの代理人の否定。神の世界と、人間一人一人の世界の間に入る、別の人間による組織に対する、完全なる否定。教会は、私を抹殺することになるだろう。私は健康的には、まったく問題がなかった。体力も人並み以上にあった。この感じ始めた死期というのは、病死ではなかったのだ。私は、殺される運命にあったのだ。剣で、首を切られるのか。刃物で身体を無数に切り刻まれるのか。それはわからない。しかし、私の死は、殺されることで終結する。死期を悟るというのは、こういうこともあるのだ。

 私は、そのとき、何故か、安心した。

 終わりが決まれば、あとは、怖いものなど何もなかった。

 肉体が蒙る一瞬の痛みなど、この、引きずれるままに感じ続ける、心の痛みに比べれば、何てことはない。

 私は、社交的だと思われていたようだが、実はそうではなかった。心を通わせていないだけだったのだ。心を通い合わせているように、周りには、見せることができただけだ。

 私は、その日から、自分の最期を、どのように迎えるのか。つまりは、どのように、この自らの信仰を公に晒すのか。その一点だけを考え続けていた。

 私は空を仰ぎ、結末へと向かう、私自身のゴルゴダの道を、天に問うていた。



 水原は、身士沼祭祀と会ったあと、彼から受けた影響が、ことの他大きかったことを、日に日に実感していった。見士沼祭祀は、自分が宗教系の家に生まれたことに関して、特に、葛藤は感じていないようだった。しかし、内容に関しては、違和感を抱いているようだった。それは、すべての新興宗教を初めとした、あらゆる既存の宗教にまで、及んでいた。

 ふと、いつの日か、見士沼祭祀は、自らの家の宗教を継ぐことではなく、既存の宗教に入信することではない、自ら、新しい宗教を開くのではないかと思った。宗教というものは、本来、人間には必要なものではないと、見士沼は繰り返した。宗教体験が必要なのだと言った。どう違うんだという質問に、彼は、「自分が掴みとる感覚を抱くことだ」と答えた。劇場で、演劇の講演があったとする。観客として、その劇を鑑賞する。それが、宗教だ。俳優として舞台に立って、演じている人間。それが、宗教体験だと説明した。今の宗教は、客席を埋めることだけに奔走している。舞台で演じられる劇も、全く緻密ではない幼稚な遊戯だ。そんな見世物に、多額の金を払う。自分の人生を切り売りする。代用品に成り下がっている。彼はそう力説する。それは、何も宗教ばかりじゃない。ありとあらゆる分野に、この代用品というまがい物が侵入し、今では、大きな顔をして、そこらじゅうに氾濫している。

「それで、君は、どうしたいんだ?」

 水原はすでに、この目の前の男に、感情移入していた。

 水原は、この瞬間、見士沼が、自分で何かを立ち上げることを、悟ったのかもしれない。

「特に、何をすることもできない」

 答えはまったくの、期待外れだった。

「俺自身の問題を、解決することが、先決だ」

「どんな問題?」

「いろいろとある」

「解決したときは?」

「少なくともこの家にはいないね。縁は切れている」

「企業で働いている?」

「それもない」

 次第に、水原は、ある一つの答えを、望み始めていることを、自分自身知る。

「自分で、開くんだろう?」

 待ちきれずに、水原は、口走ってしまう。

 見士沼は黙ってしまった。待ちきれなかったことに、水原は後悔する。

 けれども、見士沼と話したことで、何かが自分の中で、目覚め始めているのがわかった。

 俺は、この世界の社会構造に、疑問を持ったのだ。気流がうまく循環していないように感じていた。それは、埃や塵、ゴミなどの物質的なものだけでなく、人間が生み出した様々な感情や想いが、自分では処理しきれず、また、自分ではまったく気づかぬうちに、溜まりに溜まって漏れ出てしまい、それがこうして、共有の大気の中で混ざり合い、行き場をなくして、散乱している様子が、はっきりと見てとれるのだった。そして、それは、次第に結びつきを強め、凝縮し、凝縮することで、逆に、一見、小さくなったように見えた。だが、圧縮すればするほどに、塊は重くなり、二度と解凍されることはなくなる。そうして、どんどんと重くなり、淀んだ塊が、この大気の中を占領していくようになる。人間は、その塊たちを見事に放置していた。いずれ、その塊が、塊を呼び、巨大な化け物となって、復讐に転じてくることを、無視し続けている。

 今からでも遅くはない。できることをしなければ。

 水原は、そんな想いから、《グラウンドゼロイチ》の建築を思い立ったと言った。

 鳳凰口建設に、目をつけたのは、当然、倒産寸前の税務状況だったからだ。

 ここならほとんど、無条件で、仕事を引き受けてくれると思った。詐欺まがいの契約を、結んだ。実際、借金を綺麗に返済できる、五千万円の振り込みは完了した。

 鳳凰口建設はこれで負債はなくなった。鳳凰口豊は、時を同じくして、急死したことが知らされる。水原は葬儀の参列を見送った。鳳凰口建設とは、もう縁は切れたのだ。必要な工事はすでに、執り行われた後だった。このまま静かに、立ち去ろうと思った。五千万もの大金は、働いていたデザイン会社から横領した。デザイン会社には去年まで勤めていた。勤めながら、大学にも通い始めた。大学が忙しくなるからと、会社には退職願を出した。水原は会社から少額ずつ、不正な財務処理で着服していった。退職時には、三千万もの金が貯まっていた。辞めてからも、不正にコンピュータに侵入した。さらに、二千万円もの金を引き出した。誰にも気づかれることはなかった。その金は、全部、鳳凰口建設へと流した。

 すべてを終えたときに出会った、見士沼祭祀に、水原は強烈な興味を抱いた。彼の魅力に引き込まれた。俺が協力できることは何でもしたい。そう申し出そうになった。どうせ俺はすでに犯罪者なのだ。これからだって、そうあり続けて、全然構わない。あなたの負の部分、負債を俺がかぶっても、全然構わないのだと言いそうになった。これからあなたが宗教を開くとき、それを、心待ちにしていますと。

 見士沼は、宗教体験を重視した。まずは、自分がその体験をすること。体験し続けることが可能になること。それを自分以外の人間に、伝授することの現実化。自分にはやるべき課題がたくさんあるのだと、見士沼は言った。

 そのあいだ、俺は、何をしていればいい?水原は自らに問うた。

 答えはすぐには出てこなかった。とりあえずは、今はおとなしく身を潜めていよう。鳳凰口の家と関わりをもってはいけない。せっかく事はうまくいったのだ。鳳凰口昌彦との久しぶりの再会は、妙に懐かしかった。あいつとまた話がしたい。また友達になりたい。あいつは変わった奴で、付き合っていておもしろい。でもと、水原は思い直す。あいつと繋がっていれば、いずれ社長と交わした密約が、誰かにばれてしまう。墓穴を掘りたくはなかった。水原は友情を放棄する。

「天との回路を、再び、取り戻す体験。それが、俺が求めていることだ」見士沼祭祀は、繰り返した。「その体験を伝えることじゃない。その体験そのものを、この世界で、現実にすること。それが、俺の考える宗教だ」

 その、見士沼の力強い言葉に、水原は、放棄した様々なことが、少しだけ癒されていくような気がした。





 そういうことか。そういうふうに形を変えたのか。戦闘に至り、お互いを完、膚なきまでに叩きあうことで流す血。すべてを破壊し、無に返すために、行きつく所まで行く残虐行為。その無数の蟠りを、特定の場所、特定の人間に集中させることで、社会集合体の憤りを終結させる。別の次元へと、逃がす。

「力になるよ、井上」

 ニナガワは、結婚式を控えた旧友に、電話した。

「初めて、名前を、読んでくれたな」

 身動きの取れなくなった旧友の立場に、自分のあったかもしれない現実を、重ねていた。

 井上、お前は、俺の身代わりになったんじゃないのか?

 思い入れは、そこまで、行きついてしまった。

「井上、大丈夫だ。戦争は、起こらない。市街が兵器で破壊されることもない。人間同士、傷つけあうことにはならないから。お前の会社も、間接的に、参戦することにはならない」

「そうなのか?」

「安心しろ。だから、早まるな」

「俺は、別に・・・」

「いや、もう、何もいうな」

 ニナガワは、井上がここのところ、何を考えているのかがわかった。

「早まるな。今は、それだけだ。この電話も、盗聴されているかもしれない。用心に越したことはない。式までは、もう三日だな、井上。その前に時間をつくってくれ。二人だけで会いたい。そのときに、話しておきたいことがある。あそこに来てくれ。わかるだろ?あそこだ。卒業するときに、ほら」

 それ以上、ニナガワは、何も言わなかった。

 日にちも、時間の指定も、しなかった。

 もう逃げることは不可能だった。加担していないと思い込んでも、それは全然駄目だ。

 井上の情況は、かつての、大学の同級だった他の奴の現実にも、当てはまっていた。

 幸い、《オブロン社》に進んだ自分は、自由の身だった。

 この自分だからこそ、できること。それをニナガワは、探し始めていた。



「この街の、この世界の構造を、変えようと思ってるんだ」

 ニナガワは旧友に向って、はっきりした口調で言った。

「ちょっと待てよ、ニナガワ。いいからちょっと待て」

 井上は、急に心拍数を上げて、呼吸を荒々しく、動揺を示した。

「いいから、ちょっと、時間をくれ!水を飲ませてくれ!」

 そう言って、井上は水だけではなく、ポケットから錠剤を取り出して、三錠ほど、口に放りこんだ。

「それは?何の薬だ?」

「いや、たいした物じゃない」

「他にも、飲んでるのか?」

「いいから、ちょっと待てよ。何も訊くな!」

 数分が経ち、井上の呼吸は、落ち着いていった。

「ここの所、ひどくてな」

「大丈夫なのか?式は明日だぞ」

「ああ、問題ない。いつものことだ。持病なんだ」

「持病って・・・、大学のときは、そんなこと、なかっただろ!」

「最近ね。つい、最近だ、発症したのは。でも、潜在的には、ずっと持っていたそうだよ」

「ちょっと、いいから、いいから、待てって!それ以上、言うなよ。わかるだろっ。明日は、大事な日だ。言うなら、そのあとで、言え!それもできることなら、この俺じゃない!誰か、別の奴にな」

「どうしたんだ、お前」

「いいから。わかるんだよ!お前が、何を言おうとしてるか。昔からそうだった。お前の話は、何の脈略もない!突然、湧き出した、ガスだ!そして、すぐに、引火してしまう。いいか。それを今、ここで、撒き散らすな!引火するまでに、俺は逃げられないから。俺の関係ないところで、爆発させてくれ。今、俺は大事な時なんだ。お前になど、構っていられない!」

「俺に連絡をよこしたのは、お前の方なんだぞ!」

「たとえ、そうだったとしても」

「お前は、もう、限界に近づいてるんだ」

「それ以上は言うなと、言ったはずだ!言ったら絶交だ。そうさ。俺はずっと、お前を恐れていたよ。お前を避け続けていた。特に、卒業後は。お前の突然発するその言葉を聞きたくなかったから。その言葉は、一度聞けば、二度とこの脳裏からは、離れなくなる。脳と同化して、浸食し、犯され、その奇妙な生き物に、支配されるようになってしまう。ウイルスだ!やめるんだ。ウイルスを撒き散らすのは、やめるんだ!」

「なぜ、俺を、避け続けなかった?」

「わからない。お前を何故、式に招待してしまったのか・・・。俺は嫌だった。お前を呼ぶのも、お前に会うのも。ただ、決着だけは、つけなくてはと思った。そういう想いは、確かにあった」

「言ってることが、滅茶苦茶だぞ!」

 井上は再び、錠剤を取り出し、今度は、五錠を一気に飲み干した。

「それは、また、別の薬だな」

 井上は答えなかった。

「いいから、これだけは言わせてくれ」ニナガワは、強引に話を続けた。

「この街の、この世界の構造を、変えようとしてるんだ」



「着いたわよ」

―よく、周りを見てなかった。ここはー

「廃墟がさらに朽ち果てた、石の破片の残骸。八百年前は宮殿の中心地だった。ここに、かつて、栄華を誇った王朝の中心地。そのエネルギーが微かに残っている。ここに権力は集中していた。それは、徐々に分解され、各地へと分散していった。権力の、影響力の拡大に伴って。そして、拡大期は、終了する。潜在的に持っていたエネルギーが、最大限に膨らんだ瞬間。人々を支配できるエネルギーの強さは、だんだんと減っていく。綻びは、その外周から始まる。断片的に、支持基盤が綻び落ちる。次第に、王朝の権力が効かなくなるところが、現れ始める。そうして、何十年かけ、じょじょにじょじょに分裂していく。

 それでも、王家の中心基盤は、強固であり続ける。盤石な範囲は、どんどん縮小していくが、逆に中心地は、一時的に強くなることがある。時代は変わり、しかし、それでも王朝は、その外形的な存在だけは、保ち続ける。貴族の象徴としても敬われる。政治的経済的な力は、ほとんどなくなっていったが、文化的な価値は、そのまま輝き続ける。その最後の輝き。どのように滅んでいったのかはわからない」

―どうして、ここがそうだと、言い切れるんですか?最後の王は、どんな結末を?―

「そこの煉瓦、あなた、踏んでるわよ」

 そのときだった。聖塚は、悲鳴にも似た声を上げる。「誰よ!」

 陽の落ちかけた夕暮れの淡い光が、ほとんど建物の体をなしていない瓦礫の隙間から、時の終りを告げるように伸びてくる。

「ここで、何をしているの?」

 聖塚の視線の先には、残った壁の一部を背景にして、一人の女が立っていた。

「あなたは・・・」

「吃驚させてしまいましたか」

「ちょっと、待って。見たことがある。誰だろう。わたし、知ってるかもしれない。ねえ、あなたも知らない?」

 聖塚は、インタビュアーの男に振り返り、見つめた。

「知ってるね」男は即答した。「そちらは、女優の、北川裕美さんだよ」

「そうよ。北川さんよ。見れば見るほどに」

「こんにちは」

 北川と呼ばれた女性は、その名を否定することなく、会釈をした。

「ここで何を。お一人で?」

「そう。ごめんなさい。でも、許可は取ってるのよ」

 そう言われた聖塚は、インタビュアーの男を不安げに見つめた。

「悪いのは、僕らの方です。すぐに退去しますから。すみません」と男は答えた。

「あの、やはり北川裕美さんでよろしいんですよね」

 女は軽く微笑み、頷いた。

「本当に美しい!」

 聖塚は思ったことを、素直に言った。

「北川さん、そういえば絵を描かれるんですよね。ここで、制作してるんですか?」

 聖塚は、壁に描かれた曲線に、目を移す。

「ええ。先週から」

「どうりで。この前は、お目にかからなかったわけだ」

「何度か、来ていたんだ」

 インタビュアーの男は、独り言のように呟く。

「ごめんなさい。私たち、許可なんて、何も」

 聖塚は、壁の線に気をとられながらも、北川裕美をちらりと見た。

「いいのよ。ぜひ、居てください。私こそ、もう帰らないと」

「北川さん。ここが、何の廃墟であるのか、ご存知なんですか?」

「さあ・・・」

「あなたも、もしかして、私たちと目的が」

「そんなわけ、ないだろう」

 男はずっと、北川裕美から視線を背けなかった。

「恥ずかしいんで、あんまり、壁は見ないでくださいね」

 そう言う北川裕美は、まるで自分の裸を見られているかのような、照れ方をした。

「まだ、スケッチの段階のようですね。でも、キャンバスじゃなくて、壁そのものに、描くとは。いや、実は、ここ。ある王朝の、遺跡の可能性が高いんです。正式な発掘調査は行われていないし、今後もそれは難しいんですけど、それでも、私は個人的に、ここに関わっていたいと考えているんです。あなたは、どう考えていますか?」

 答えを迫られた格好になった北川裕美は、特に動揺する様子も見せずに、聖塚の目と目の間を、じっと見つめていた。しかし、表情は明らかに変わっていた。

 その視線は、これより話を進めて、本当にいいのかどうか。逆に聖塚に迫っているように、インタビュアーの男には見えた。

 聖塚はふと、廃墟の一部が、一瞬組み変わったように見えた。崩れて無軌道な配列にされた石の一部が、再構築されたように感じた。

 しかしそれは、感覚だけではなかった。明らかに、宮殿の入り口のような場所が、生まれている。その不可思議さに、聖塚は心底驚いた。言葉を失ってしまった。横にいる男に話しかけることさえ、できなかった。階段のような構造体が現れていた。数段しかなかった。その先には何もない。小高い丘を背景にして、不完全な建物の欠片の輪郭が、そこにはある。階段の左右には、いつのまにか、石像が一つずつ存在している。聖塚の意識は、右側の石像に集中していった。両翼を目一杯に広げた、鳥のようだった。翼は上空に向かって持ち上がっていて、それは単なる飛行のためだけではない、激しいドラマが起こっていることを、表しているようだった。

 これから、嵐を巻き起こそうとしているのか。すでに、嵐の真っ只中にいることを、示しているのか。その鳥に反応して、廃墟の周りの気流が、一気に引き締まり、渦を描き出しているように、聖塚には感じられた。この鳥は、一体・・・。

 目の錯覚だったが、廃墟全体が激しく炎で燃えあがったように見えた。炎を身に纏う巨大な鳥の姿が、背景を目一杯、占めているように。あっ。聖塚は、いつのまにか、壁に描かれた曲線が、その鳥の正体であることを知る。さっきまでは、何にも見えなかったその線が・・・。

 北川裕美。彼女は、どこに?その姿は見当たらなかった。


 そのとき、聖塚は、もう一体の石像に目を奪われていた。鳥ではなかった。

 四本の長い脚が台座を力強く支えている。翼のようなものはある。しかし、鳥と比べたら、それは退化した羽が、これから生えようとしている、何か身体的な印のような存在に見えた。下半身は、馬のようにも見えた。筋肉質な、がっしりとした土台だった。それは、上空へと舞い上がることよりは、地に根を張ることを、力強く主張しているようだった。

 顔には特徴があった。鳥とは明らかにサイズが違う。毛並みのよい、金髪にも思える長い毛を、頭部にも顎下にも纏っている。その生き物は、神々しく、大地の上で輝いていた。

 地上を支配する、王のようだった。

 そのときにはすでに、聖塚は、この石段の辺り以外の光景が、目に入らなくなっていた。

 インタビュアーの男の姿も、北川裕美の姿も消えていた。



キチガイだ。帰れ!はやく帰るんだよ!」井上は激高した。

「明日の結婚式も来るな!取り消しだ!今後、二度と、俺の前には現れるな。絶交だ!嫁さんにも、そう伝えておけ。もう二度と会うことはないから。これっきりだ」

 ニナガワは驚かなかった。心は穏やかだった。じっと井上を見た。

 すると、激情に駆られた井上の奥には、泣いている彼の姿が見えた。

 ニナガワは静かに頷き、その後、二度と、井上の方を振り向くことなく、店を去った。

 ニナガワの足は、実家へと自然に向かっていた。母親は不在で父親が一人いた。玄関を開けると、父の声がした。居間に上がると、父は珍しく何もせずに、テーブルを前に座っていた。新聞すらなかった。何もしていない父親の姿を、ニナガワは初めて見た。父はいつも家にいるときも、掃除をしているか、ご飯を食べているか、何かを飲みながら新聞や雑誌を読んでいるか。彼はいつも忙しなく何かをしていた。心ここにあらずといった状況に、ニナガワは声をかけられずにいた。

 しかし、このときは、違った。父は誰かを待っているようだった。

 まさか、この自分のはずはなかった。ニナガワは思った。

「やあ、父さん」ニナガワは、気軽に声をかけてみた。だが、父からの返事はなかった。ニナガワは仕方なく、自分の椅子に座った。父は目を閉じていた。

「たった今、友人を一人失ったよ」ニナガワは、反応のない父親に向って、言った。

「でも、当然だ。俺があいつだったら、やっぱり、そう言うと思う。追い返す。でも俺は、あいつの力になりたい。その想いを伝えられてよかった。自己満足じゃなくて。あいつとはもう、会うことはないかもしれないけど、それでも、あいつの力になれたら嬉しい」

 父親からの反応は、相変わらずなかった。

「ある考えがあるんだ」彼は続けた。

「ただそれは、井上に言っても、仕方がなかったのかもしれない。それに、父さんに言っても」

 ニナガワは、その後も延々と、構想を語り続けた。言い終えたそのときだった。

 ふと、父親は、すでに死んでいるのではないかと、そんな思いがよぎった。

 まさかとは思ったが、来てから一度も、言葉を発していないだけでなく、目を開けた姿も見てはいない。近づいてみる。呼吸は聞こえない。手首に触れる。脈拍もない。父の頬を叩く。反応はまるでない。両腕はだらんと、重力に従っている。ニナガワは、その後も何度か、父の身体を揺らせた。だが、反応は返ってこない。ニナガワは救急車を呼ぶ。いったいいつ彼の心臓は止まってしまったのか。母親はどうしたのだ?一緒に救急車に乗り込み、病院へと行った。数分後、母親も到着する。

「どこに、行ってたんだよ!」ニナガワは大きな声を出す。

「どこにって、買い物よ」

「父さん、息をしてなかった」

「そうらしいわね。私が家を出るときは、そんなことはなかった」

「出るときって、いつだよ」

「三十分前よ」

 言われた時刻を遡りして考えると、本当に、これ以上にないタイミングで、入れ違っていた。

 そのときふと、衝撃的なことを想い出した。家に入る時だった。父親の返事で俺は家の中に入ったのだ。頭が混乱した。あのときは生きていたのか。心臓は動いていた。じゃあ、いつ、止まった?俺が居間に入ってからか?俺の話を聞いていたときか?いったい、いつ?だが、居間に入ってからの父親は、まるで反応がなかった。初めは、自分が、突然訪ねたことに、気をよくしていないのだと思った。しばらく自分が話していれば、そのうち言葉を返してくれるだろうと思った。いったい、いつ、彼の心臓が止まったのだ?救急車の中でも、心臓マッサージが幾度となく繰り返される。病院に着くと、緊急処置室へと入っていった。今も、処置は続いていた。母親の方を見る。彼女に差し迫った焦りは、感じられなかった。ニナガワは、自分の呼吸に意識を集中した。動揺を回避しようとしていた。最悪な事態を、すでに受け入れようとしていた。しかし、いったいいつ、止まったのか。

 それだけが、ずっと気になり続けた。まさか、俺があんな話をしたから?だから、彼はショック死してしまった?振り返れば、俺は両親に、ショックばかりを与えていた。安らぎこそが、彼らの求めているものだった。俺は、大事なものを、何も与えられていなかった。申し訳なさでいっぱいになった。

 緊急処置室のランプが消える。医師が現れる。深々と頭を下げ、辛辣な表情を浮かべ、ニナガワギんイチさんはお亡くなりになりましたと、彼は言う。自宅での死亡であったため、解剖へと回すことになります。ご了承ください。この度は大変残念でした。

 母親も医師に向かって、深々とお辞儀をした。ニナガワは呆然と、その様子を見ていた。



 二つの彫像は、彼女の知覚の中で重なり合い、一体となっていた。左右に、別々の一体として、存在していた石像だったが、聖塚はそれを、一つの架空の生物に、昇華させていた。その幻は、ちょうど、途中で途切れた、階段の上空に存在していた。宙に浮いているにもかかわらず、それは、地をしっかりと、踏みしめているように見えた。その一体の生物は光を放っていた。いや、違う。聖塚には、その光が外に向かって放射しているのではない、むしろ、その輪郭の内部へと、周りの空気を吸い込んでいく光のように見えた。

 今まで見た、どんな光とも違った。ライトのような淡い光でもなく、太陽光のような目を眩ますような光でもなかった。じっと見ていられた。見れば見るほど、この生物の輪郭の内部に吸い込まれ、向こう側にある世界に出てしまいそうだった。鳥のような獣のような生物は、どんどんと、その存在を拡大していた。聖塚の意識は、ここで耐えられなくなった。すでに、石像に吸い込まれ、別の世界へと抜け出てしまっていた。肉体は確かに、この地に釘づけられていたにもかかわらず。聖塚の目の前には、すでに石像の姿はなかった。廃墟の階段もなかった。身体には妙な感覚があった。

 この身体の内部に、あの生き物が、居るような気がした。一体となっている。そんな感覚が続いた。


 次第に、聖塚には、その生物が紋章のように、刻まれていくのがわかった。

 そうだ。あれは、実際の生き物ではない。シンボルだ。見る者を強力に惹きつけ意識を変性させるシンボルだ。何のシンボルだったか。聖塚は、過去形で考え始めていた。私は知っている。さらに、その紋章に、意識を集中させていく。その意味を、問いかけていた。答えは返ってはこない。代わりに、聖塚の周りを、強烈な光が取り囲んでいる。

 やはり、この自分が、シンボルそのものに、なっているかのようだ。

 私自身が。それが答えだ。私はいつのまにか、宙に浮いていた。上空の高いところから、地上を見下ろしていた。

「私は、悔しい」

 その声が、聖塚を我に返させた。

 見下ろしていた街並みは、今や、どこにも存在してなかった。

 目の前には、北川裕美がいる。その横には、インタビュアーの男。

「なめられたくない」

 そう言う北川裕美の身体からは、青白い炎が燃え盛っていた。

「私は証明したい!私は必ず、王家を復活させてみせる。それが、私の役目だから。私はあの日の出来事を忘れやしない。私は、運命に復讐がしたい。ずっとそう考えていた。惨めな地下の世界へと追いやった、そいつらを。見返してやりたい!私の血を、私の血脈を断ち切った、あいつらに!けれどあいつらは、もうこの世にはいない。あいつらもまた滅びてしまった。すべては滅びの道を、例外なく突き進んでいく。一体、この恨み、憎しみは、どこに、誰に向けて、解き放てばいいのか。私の想いは燻ったまま・・・。私は周りを不幸にし、私自身に牙を向けていく。私はその憎しみを、ただ撒き散らすことしかできなかった。でも、ある人との出会いが、その憎しみを別の形へと変え、浄化させることができることを知った。芸術と出会った。芸術を通せば、すべての憎しみは、形を変えて、天へと返すことができる。

 私は新しい私を見つけ、新しい私になった。

 あなたの見ている私は、その、新しい私!

 では、古い私は、消えてなくなってしまったのか。それは違う!それもまた、ここにある!あり続ける。その古いわたしを、あなたは見ることができる。あなたの波動が、そこに一致したときに。そこにずっと、あり続けているのだから。思い出す王妃の記憶。ブルーブラッドの血。失われた血脈。そして、あなた」


 聖塚は、ここで、気を失ってしまう。





 心を開く必要があった。私は、その殺される瞬間を、どういう舞台で表現するのか。そもそも、どうして、心を閉ざし、人との交流を極度に避けているのか。そこを探ろうとした。死期を悟った人間には、これほどまでにあっけなく、答えは返ってくるものなのか。私は、人に何故か、好かれたくないと思っていたのだ。そればかりか、興味を、持ってもらいたくない。自分がそんなふうに思っていたなんて、考えもしなかった。

 私という人間への関心を高め、時に夢中になってしまうような状況、それを極端に恐れていた。ということは、そもそも、私という人間は、人を熱狂的に好きにさせる、そんな要素を持っているということなのか。だとしても、どうして、それを恐れる必要があるのだろう。その答えも、すぐにわかった。殺されるからだ。殺す対象として、私が選ばれることになるからだ。それを恐れているのだ。もし、人々に興味を持たれ、好意を持たれ、それ以上に関心を極端に集めることにでもなれば、おそらく、私のパーソナリティは、時代や権力の琴線に触れてしまう。私は、処刑の対象になってしまう。そんなふうに死ぬことには、耐えられそうになかった。

 だが、そんな恐怖は解消された、今、私はむしろ、人々の関心の対象になることを歓迎していた。そうなる状況が作られることを許してもいた。私は、聖書への解釈をどう表現してみんなに伝えようか。信仰は神を崇めることではなく、神と一体化すること。この自分こそが、神の化身であることを体感すること。そして、その長さ、頻度こそが信仰であるということ。それを伝えたかった。私は聖書の解釈を、自分の言葉に直すことにした。詩になるのか、物語になるのか、それはわからない。とにかく、まとまった言葉へと、集約しなければならない。そこが始まりだった。そして、私は幼い頃、ピアノを習っていたことを想い出した。今まで忘れていたことの一つだった。家族との思い出に、繋がることから、これまで無意識に避けてきたのだろう。

 しかし、家族のことも、今はむしろ積極的に思い出したかった。これまで見ないようにしてきたすべての記憶を、あぶり出し、抽出した塊を、一つの空間に重ね合わせたかった。そうしたとき、私は真の私に、回帰することができる。たとえ、物理的な危害を加えられようとも、何のダメージも受けずに、私はこの世を去ることができる。それこそが、キリストだった。私こそが、イエス・キリストなのだった。みなもそうであるということを、私が証明したかった。想いは次々と沸いてくる。それらはバラバラに散らばることなく、一つの大きな想いへと集約していくようだ。私という存在が、まさに、渦そのものになっていた。ここに、すべては集まってきている。なんと幸福なことだろう。私はこれまでの人生のすべてを、肯定し始めていた。すべては、ここに至るための、道程であったのだ。私は死に向かって、自ら疾走していっていた。だが、これほど生きがいを感じ、生きることを欲する私もまた、初めてのことだった。

 だんだんと、私は、時間の感覚から逸脱していった。初めから、私は私であった。何も恐れる必要はなかった。死ぬ場所を見つけたのだ。ピアノのリサイタルを開いてもいいのかもしれない。メロディーをつけて演奏してもいい。歌詞をつけて、誰かに歌ってもらうのもいい。みんなで歌うのもいい。聖書の解釈を、ノートに書きつける作業を進めながら、ピアノの調達にも奔走する。いや、そんな必要もない。オルガンがある。教会には、備え付けのオルガンがあった。

 私は、教会の音楽部門に直接話をもちかけた。率直に演奏会を開きたいのだと言った。

 それと、昔、会得した演奏を取り戻したいので、練習もさせてもらえないだろうか。そう頼んだ。

 老人の気まぐれな発言を許してほしい。けれども、自分の命は、そう長くはないと思う。最後に、一つだけ叶えたい夢がある。私は幼いころからずっと、教会のオルガニストに憧れていた。音楽の道に本当は行きたかった。けれど、そのようなチャンスには、恵まれなかった。強い意志もなかった。ただの憧れだった。でも、こうして今、もうすぐあの世へ召されていく身になったとき、私はそのような憧れに、悩まされているのです。一度でいい。たったの一度でいい!たくさんの人の前で自分の演奏がしたい!迷惑はかけない。私は、熱情を込めて訴えていた。

 オルガニストは、自分は許可する立場にないからと言い、キリスト教会の上の人間に相談してくれと私に促した。しかし、その申し出には、共感してくれた。推薦状もつけておくと言われた。

 一週間後、その返事は来た。キリストの生誕祭までは不可能だが、それが過ぎれば、検討の余地がある。それと、あなたが、どれほどの演奏技量の持ち主で、どのくらいの技量が、どれくらいの練習によって、取り戻せるのか。それを見極めてからにしたい。そういった内容だった。

 物事は順調に進み始めていた。



「荒れ狂っていく心の中の淀みを、循環、浄化する装ための装置。都市構造を中心としたこの世界に、インフラ整備として、組み込むべきだ」

 ニナガワは主張した。

「もう、それは、個人が個人としての責任を、持つこと以上に、社会的な問題なのだ。この文明の構造が、心を乱す波動を、垂れ流しにしているのであるならば、その乱れを回収して、浄化し循環させて、元に戻す作用もまた、前提として組み込まれている必要があるんじゃないのか。

 有毒な排気ガスを、そのまま、いつまでも放置しておくわけにはいかない。

 そんなガスを、発生させないことが、本当は望まれるが、今はそんな悠長なことは言っていられない。有毒なガスは、そのまま完全には、自然に浄化されることはない。濃度は積み重なっていく。いつかは臨界点を迎える。最後に代償を得るのは、そう、我々の文明の全体だ。しかし、その極限地に辿りつくまでには、人間そのものが、影響を受ける。より、敏感な人間、より繊細な人間、より遺伝子レべルの弱い人間から、その影響は、出始めることだろう。兆候はすでに、至るところにある。とにかく、緊急に、循環装置をつくり、文明の構造に埋め込まなくては」

 ニナガワは、意識のなかったかもしれない父親に向って、話したことを、ここでも繰り返した。結局、ニナガワは、《オンブロ社》の本社ビルに来ていた。拒絶され続けた、ニナガワの心の拠り所は、すでにココにしかなかった。この一階ロビーにしかなかった。白い曲線を描いたドーム型の広い空間。ニナガワの他には、誰もいなかった。

 白い壁は、外からの日光のせいなのか、電気で照らしているのかわからなかったが、内部は非常に明るかった。ニナガワは、特定の誰かに語るように、正直に心を開いていた。見たこともない《オブロン社》の代表たちに向かって、話しているのだろうか。旧友の井上を初めとした、他の同期たち、似たような境遇に置かれた人たち、すでに、荒れ狂う感情のカオスに、発狂してしまった人たち、その寸前の人たちに向かって、発信しているのだろうか。

 とにかく、今は、この戦闘気味になった激しい狂気を、文明の構造の外、逃がす作用が必要だった。特定の人間に、その狂気を向けることは、絶対に間違ったことだった。

 ニナガワは、言葉を出し終えた。ふと、ここが、礼拝堂であるような気がして、なぜかしら、懐かしい気持ちになった。



 ファラオは、幼き自分の姿をその闇の中で見ていた。三歳の頃であったり、八歳、十歳、十三歳あたりまでの、自分の映像が、浮かんではまた消えていた。

 客観的にみて、彼の見た目は本当に素晴らしかった。周りの大人からは常にかわいいと言われていた。子供があまり好きではない人にまで、彼の魅力は行きわたっていた。ほとんど、十代前半までは、そのような扱われ方だった。ある意味、おもちゃか小動物を扱っているかのように、ファラオには見えた。その光景は実に腹立たしかった。その想いがどこから湧いてくるのか、ファラオにはよくわからなかった。

 好かれ、甘やかされ、場の中心に祭り上げられる、もう一人の自分の姿に、嫉妬しているのだろうか。しかし、ファラオは、その幼き日の自分が、後に感じるであろう、大きな出来事を予感して、そのときの想いが憑依してきたことを、すぐに知る。

 親戚の叔母という人物が現れ、彼女は吐き捨てるようにこう言った。

「所詮、この子だって商品なんだからね。可愛いに越したことはない。それも、商品価値の一部なんだから。相手の家の男は喜ぶわ」

「ちょっと、叔母さん。やめて。この子は、男の子なのよ」

「男?まあっ!」

「そうよ」

「そうだったんだ。ごめんね。叔母さん何も知らなくて。そう。男の子だったの。それはよかった。王は見栄えが大事なんだから。この子は、素敵な王になる。誰に似たのかしら」

 その声は、だんだんと、闇の中へと消えていく。


 商品という言葉だけが、ずっと残り続ける。

 十代の終わりに、差し掛かる頃だった。王の後継者としての、戴冠の儀が、執り行われることになる。

 王族としての成人の儀のようなものだった。親族のすべてが集まった。そこで、彼は宣誓した。その後、民衆の前にお披露目とされることになる。盛大なパレードが執り行われる。しかしそのあいだ、彼の心はずっと気落ちしていた。俺はこの場にふさわしくない。王としての人格は、何も備わっていないのだから。教養も国の未来のビジョンも、何の持ち合わせもない。その片鱗すら、持ち合わせてはいない。こんな男が、王の後継者だって?笑わせてくれるわ。そのとき、あの叔母の商品発言が、蘇ってきた。所詮、あなたは、商品なんだからね。王家の商品なんだから。王家のロゴを身に纏った、商品。それ以外に、あなたの価値などないのだから。

 どんな衣装を身に纏うのか。それだけが、人間の価値なのだと。そうなのだと、彼も思ってしまった。民衆の姿を見下ろしながら、彼は、人々がどのような恰好をしているのか。それをじっと観察していた。彼らもみな商品だった。すべてが商品としての、役回りだった。一旦外の世界に出てしまえば。

 だが、そう思えば思うほど、彼は自分という人間が、いかに空っぽであるのかを思い知らされた。

 商品というのは、空っぽの代名詞だった。中身が何もないからこそ、衣装という名の豪華な装いを、被せる。衣装のランクは、様々だった。自分は、この衣装を生涯身に纏っていく。それは運命だった。

 二十歳を前にした彼は、豪華な装いとは、逆に、その気落ち度合いは、加速度的に増していった。

 そして、ファラオは、今、思う。

 自分のそのような生い立ちが、人からの好意を、頑なに拒み、人から興味を持たれることに、注目されることに、歪んだ解釈を、加えてしまっていたのだと。誰にも相手にされない自分、世間に放っておかれる人間。誰にも、本気で愛されない人間。そんな自分を、内面では、求め続けていたのだ。あの幼き日に、ただ無条件に愛された自分を、許すことができなかった。あいつらは、あの人たちは、俺の本質など、何も見てはいない。ただの表面的な可愛さだけを、弄んでいる。俺の内面を見るんだ。そして、その内面とは、空っぽの荒れ地だ。そこを見て、本当に、お前たちは、俺を愛することができるのか?王家の没落が顕著になり、王位が剥奪される時になるにつれて、実はファラオはそんな状況を、笑っていたのだ。ほら見たことかと、自分を、親族を、民衆を、あざ笑っていたのだ。お前たちは、俺の何を見ていた?何を好きでいた?どこを愛していたのだ?と。

 ところが、こうして、何百年と闇に生きた末、今思うこととは、あの、幼きときの愛され方というのは、ただの表面的な称賛ではなかったような気もするのだった。

 あれは、あれで、幼き自分の本来の輝きが、周りを和ませていたのではないか。確かに、何のビジョンも、力もない、幼き時代ではあった。でも、その代わりに、濁った眼はしてなかったのかもしれない。その眼を、ファラオは今、本気で取り戻したいと思い始めていた。この闇に生きた数百年と融合させて、本当の自分の姿を、輝かせたいと、今初めてそう思った。





 長谷川セレーネは、モデルとしての活動を続けていた。自分が好きになった男には、確実に拒絶されるという連鎖は、いまだに続いていたが、それでも少し薄まってきているように感じられた。交際を断られる。または交際の初期に、相手が自然と離れていくという現象は、あいかわらず続いていたが、その感覚は、恋人になるかならないかの、僅かな差の、どちらにでも転ぶ、可能性のある空気へと、変貌していた。

 長谷川セレーネは、本来、感受性は強かったために、この変化はすぐに察知した。

 私は変わり始めている。そう確信した。

 心の中にある、強固なわだかまりは解け始めていた。ふと感じたのは、本当は私が、男達に拒絶されたのではないということだった。私の方が、最初から拒絶していたのだ。私のことを好きにならない、そんなタイプの男をわざと選び、モーションをかけていたのだ。その思いつきは、最初信じることはできなかった。どうしてそんなことをわざわざするのか。私は拒絶されることで苦しんでいるというのに。苦しんでいる?本当だろうか。違う!喜んでいるんじゃないのか。本当は。そこまでは言わなくとも、密かに望んでいる!私は貶められ、卑しめられたいのだ・・・。どうしてだろう?この美貌だ。

 この美貌は、多くの男たちを惹きつける。多くの女性たちを、憧れの対象にさせる。そんな自分とのバランスを、取ろうとするかのように、違う要素を意図的に挿入させたい。私の心はそう願っていたのだ。けれど、そんな願いは歪んでいた。本当に私は傷ついていた。私ではない、何か別の生き物が、私の中には住み着いていて、その生き物は私がもがき苦しむ姿を喜んでいる。

 そう考えると、私が好きだと強烈に感じる男たちは、本当は好きでも何でもなく、ただ私を好きにならないという、その一点だけを察知して、告白に挑んでいたのかもしれない。

 合点が行き始めていた。わざわざ、そのような男の存在を、私は嗅ぎまわっていたのだ。



 意識が戻った時、聖塚は、白亜の部屋の中にいた。ベッドに寝ていた。腕には物々しく包帯が巻かれ、天上からは点滴の袋が吊るされていた。ベッドの横で動く影があった。

「聖塚さん。あっ、気づいた!Kです。作家のKです!ちょっと待ってください。今、先生を呼びますので」

 二人の看護婦に続いて、恰幅の良い医師が登場する。

「いかがですか、聖塚さん」

「いかがと、言われても」

「覚えてますか。あなたは、僕と居るときに、突然、意識を失ってしまったんですよ。遺跡の取材です。覚えてますよね?」

 Kと名乗る男が、ベッドに顔を覗き込んでいた。

「お二人は、付き合っていらっしゃるのですか?」

 医師は訊いた。

「仕事です。取材で一緒に郊外に行ったんです」

「なるほど。顔色もいいようですし、栄養も十分に補給されています。血液検査の結果も、良好です。ただの一時的な過労でしょう。もう、ほとんど、回復なされています。もう一晩、ここで過ごして、明日の朝には、退院なさって構いません」

「お世話になりました」とKは言った。

「私・・・」

 聖塚は、部屋を出ていく医師の姿を、目で追った。

「よかったですね、聖塚さん」

「ああそうね。ねぇ、ところであなた」

「何でしょうか」

「誰?」

 聖塚は、虚ろな目で、Kから天井へと目を移した。

「どうしたんですか、聖塚さん。Kですよ。K!」

「科学雑誌の?」

「科学ですか?」

「そう」

「科学とは、残念ながら関係ありませんよ。作家のKですよ。エッセイとか小説とか、そういうのを書く」

「私、科学雑誌の記者から依頼を受けて、それで、若手の考古学者としての取材を受けていた」

「そうなんですか?」

「ええ」

「僕のことは、覚えてないんですか?」

「Kさんでしたっけ?」

「そうです」

「存じ上げません」

「そうですか。記憶が抜け落ちているんだな」

「あなたと私は、どんな関係なのでしょう」

「友達です。あなたが僕の家を訪ねてきたことがきっかけの。出版社の丸丘っていう男、知ってますよね?僕の仕事仲間です。彼と、あなたは、知り合いだそうで。それで彼から、あなたの所に話がいった。それで丸丘を通じて、あなたと僕は引き合わされた。それ以来の友達です。ほんとに覚えてないんですか?考古学者のあなたを紹介された。自分が考古学者であることは、覚えてますよね?」

「もちろん」

「それなら、僕を思い出すのも。時間の問題だ」

 Kは息を深く吐き、安堵の表情を浮かべた。

「二人で、遺跡の跡に行ったのは、覚えてますか?」

「遺跡の跡」

「レイラインの」

「レイライン?」

「その言葉も、覚えてないのか」

「いえ、それは、私の研究のキーワードです」

「そうです」

「遺跡に行ったのは、覚えてますよ」

「そこで、気を失ったんです」

「でも、あなたとは、行っていません」

「別の人とも行ったんですね。でも、倒れたのは、僕と一緒の時です」

「でも、私、一人で行った以外に誰かと行ったのは、一度きりです」

「じゃあ、それが、僕ですよ」

「違うわよ。科学雑誌の方ですもの」

「なんという雑誌ですか?」

 聖塚はしばらく考えていたが、諦めて、首を横に振った。

「覚えてないんじゃなくて、記憶がほんの少し、ズレちゃってるんですね。違う回路同士で、くっつきあっちゃってる。まあ、いいですよ。徐々に、回復なさっていけば」

 聖塚は、Kの顔を、じっと見上げていた。

「北川裕美」と聖塚は呟いた。

「今、何て?」

「北川裕美。彼女に会ったわ」

「女優の?」

「画家よ」

「あ、今は、そうか」

「その北川裕美と、遺跡で遭遇した」

「そうなんですか?」

「あなたも、一緒だったんでしょ?」

「いえ、会いませんでした。でも、北川さんなら、今・・・、ええと、ちょっと待って。ああ、そうだ、ちょうど、記者会見をやってる時間だ」

 Kはテレビをつけた。北川裕美は一年ぶりの公の舞台だった。二科展で特別賞を受賞して騒がれ、初めての個展を三か月に渡って開き、その後再び姿を消していた。作品の制作をしているという噂だけを残して、その後ぷつりと、消息を絶ってしまっていた。

 事務所の人間も、彼女の行方を掴めなかった。その北川裕美が、この度、大作を掻きあげたというのだ。本人自らが、その報告をする予定だった。集まった報道陣は三百人以上を超え、貸し切ったホテルの会場の周りには、入りきれないマスコミの人間で、ごった返しになっていた。さらには、ファンや野次馬など、数千人が犇めきあい、警察官も異例の千人態勢で警備に臨んでいた。時間通りに会見は始まった。テレビ画面のテロップには『最後の審判 ~16ヘリオポリス~ と ~16スワスティカ』と記されていた。

―それでは、今から、画家で女優の北川裕美の記者会見を始めさせていただきます。まずは、ご本人の口から、伝えたいことがありますー

「本日は、みなさん、お忙しい中、こんなにもたくさんの人たちを、巻きこんでしまい、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます。私はこの一年のあいだも、画家としての歩みを、止めることなく生きてきました。次はどんな展覧会を開こうか。海外に発信していくべきか。いろいろと考えました。しかし、頭で考えたことはすべて、現実にはうまく定着せず、代わりに、私には大作の構想が浮かび、それは離れず、自分の血肉へと結実していきました。ずいぶんと長い構想期間を経ての、そのあいだにはあの不幸な天災がありました。そのときも、私は、アトリエで制作をしていました。あの多大な被害にも関わらず、私のアトリエは無傷だったのです!少し都心からは離れていますから。たまたま場所がよかった。うちから数百メートルの場所は、地面が捲れあがり、壊滅状態でした。私はそれまでも、これから描く作品の核となる部分を、しっかりと掴もうとしていた。それがどんな作品となり、定着するのかは、予測すらつかなかった。実際に、制作する本番の直前になるまで、本当に寸前になるまで、ビジョンは見えてはこない。その頃の、私は、次なる作品群における一連のテーマの核を、定着させようとしていた。それを中心に肉付けしていき、肉付けを通してまた、核をより鋭くしていくことを目的としていた。

 しかし、あの天災が、その私の構想を、大きく変化させていきました。

 作品群と、先ほどは申しました。絵はある意味、一枚一枚、連続で描いていく場合、そこにはストーリーが発生します。その発生したストーリーを掴み、追い、行き着く先を見極める。その作業のすべてが、制作期間と一致します。もちろん、今回も、数十枚、数百枚の絵を連続して、描いていくのだと思っていました。しかし、その構想は、変わりました。一枚の絵。いえ、大きな壁に、それは一発で描かれることになる。一瞬ですべてが見えました。全体像が見えたのです。二週間前です。無事に生還しました。完成に至りました。ご報告します。これまで心配なさってくれた方、応援してくれた方に、本当に感謝を申し上げます。ありがとうございました」

 北川裕美は、一年分のコメントを一気に吐き出したかのごとく、大きく息を吐いた。

 コップを掴み、水を一気に飲み干した。Kは、ベッドから上半身を起こした、聖塚の様子を見た。

 北川裕美は、集まった記者の質問を受けた。

―大作ということですが、一体、どのくらいのサイズなのでしょうか。そして、壁に描いたとおっしゃいました。自由に運べるのでしょうか?ー

「横、三百メートル。縦、二五メートルですね」

 会場は、どよめいた。

―お一人で?―

「手伝ってくれる人など、誰もいません」

―凄いな。公開予定はあるのでしょうかー

「こんなにも、集まって、報道していただいてますからね」

―そうですか。場所と、日程はー

「それは、また、あとで報告致します。この質疑応答の後に」

―製作期間の方はー

「約、三か月だと思います」

―最後の審判、というタイトルで、よろしいんですねー

「サブタイトルもお忘れなく」

―ヘリオポリスと、スワスティカの、二つがありますね。壁画自体は、一つなんですよね。ということは、上下か、左右、二つに分かれているということですか?―

「二つに、はい。確かに。上下左右ではないです」

―ということは?―

「同じ平面に、綺麗に、重ね合わせました」

―ちょっと、分かりませんね。見てみないと。二つの世界を、混ぜ合わせたということでしょうか?ー

「混ざり合っては、いません。もしかしたら、見る角度によって、別の画に見えるということは、あるかもしれないですね」

―ああ、あれですね。ほら、白黒の絵で、あるときには、老婆に見え、また少し見方を変えると、壺に見えてくるー

「一概にそうとは言えませんが、そういう人も、出てくるかもしれませんね」

―謎だらけですね。ところで、その作品に込められた想いなどを、お聞かせ願えればと思います。それは、やはり、あの天災が影響されているということですが、内容にも、当然、反映されているのでしょうか?ー

「確かに、天災は、影響しています。間違いありません。けれども、想いとしては、そこにはあまり向いていません。あの天災によって、私は、知り合いをたくさん失いました。それはとても、悲しいことでした。彼らに対して、後悔を抱くこともあります。生きている間に、もっと話をしておくことがあった。けれども、もっと、遊んでおけばよかったとか、同じ時を、過ごしておけばよかったとか、そういう気持ちは、これっぽっちも沸いてはきません。私はすでに、彼らとは十分に関わりあったからです。私は冷たい女ですか?旦那は、その天災の前に亡くなりました。でも今となっては、同じことです。どっちが先でどっちが後か。全然、どうでもよくなってしまう。時間の経過とは、その程度のものです。私は、彼らとしかるべき時に、しかるべき場所で、同じ時を過ごしたから、それでもう、十分なのです。天災そのものに対して、無力感を感じることは、確かにあります。けれど、それさえもが、結局、次なる創作へのインスピレーションに変換されただけなのです。

 天災のことよりも、私はある光景の方が、自らの前に立ちはだかっていることを知りました。それは、ヨーロッパでしょうか。街並みからしてフランスかドイツか。その辺りだと思うんですけど。市街には大きな森がありました。この森は、昼間は、確かに市民の憩いの場になっているようでしたが、夜になると、別の顔を見せます。その森自体が、一つの巨大な生き物のように、大きな口を開け、昼の世界に回収されなかった心の奥を集めているようでした。怪物は、それを好物に生息し、その体を肥えさせ、大きくしているようでした。私にはすでに、森よりも遥かに大きくなっているように見えました。昼の世界における森の大きさは、まるで大きくなっていないのに。ほとんど、森以外の部分が感じられないほどに、夜の街は変貌していました。私は自分が鳥になったかのように、夜の街を見下ろしていました。『最後の審判』の視点は、まさにここです。

 森の中では、誰が主催したのか分からない、奇妙な集会が催されていました。街中から、人が集まってきていました。無数の炎を灯し、人々の意識を揺らめかせ、いつのまにか、その炎は大きな一つとなります。その瞬間、空からそう・・・、私の、ほんの側から、龍のような生き物が、突然現れ、火を目掛けて、降臨していった。炎と一体化しました。人々は熱狂していました。驚いたのは私の方です。一体どこから、あの龍は、姿を現したのか。龍と呼んでいいのかもわかりません。炎と一体化したその生き物は、とげとげしい放射物を、自らの肉体から、放っていました。液体なのか気体なのかわからない、その黄緑色に、発光した物質を、街中にまき散らしていました。集会に参加した人は、次々と、自らの身体も、炎に向けて、解き放っていました。

 彼らは、皆、自ら死んで行ったのです。その恐ろしい光景は、一晩中、続きました。

 私は夢を見ているようでした。自分の肉体は、すでに感じなくなっていました。本当に、鳥になっているのだと思いました。また、こんな発言をしてすいません。どうして、私の記者会見は、問題発言を連発させてしまうのでしょう。止められません」

 北川裕美は、この先、何十年分の発言量を先取りして、表明しているように、Kには感じられた。そのあいだも、聖塚は瞬き一つせず、画面に食い入っていた。

「これは、新種のホロコーストだと思いました。強制的に連れ去り、列車に詰めこみ、収容所に放り込み、残忍な死を強要する時代ではない。自らを、死へと突き進ませるべく、人の意識に働きかける。それこそが、新しい時代のホロコーストだと言わんばかりに。夜の街に、身を投げていった人々は、意識をすでに奪い取られていたんです。そして新しくプログラムされた意識を、埋め込まれていった。夜な夜な、繰り返される集会によって。火に飛び込むことなしに、その夜は帰宅するという人も、数多くいた。徐々に徐々に意識は入れ替わっていった。そう思います。私は一体、何を目撃したのか。夢は醒めました。しかし、それは一時的なことです。すでに私は、目の前とは、違う世界に、足を踏み入れていましたから。絵を制作するときの空気に、変わっていたのです」

―よくわかりました。それよりも、本当に、そんな巨大な世界を構築できたのでしょうか。今は、どちらに、保管されているんですか?誰か、その作品の存在を、見たことはあるんですか?―

「今のところは、・・・いません」

―本当なんですか?本当に、そんな常軌を逸したサイズで?いったい、どんな絵なんですか?―

「いつだって、私は、常軌を逸してますよ。そう、いつだって。私の本当の姿を、私はあなたに、少しずつ見せているんですよ。見ていったらいい!私が狂っていく姿を。その行き着く先を」

―そんな恐ろしいことを、言わないでくださいー

「私は気づいたんです。その夜の集会に、私自身も参列していたということを。私の肉体は、本当は上空になどいなかった。鳥になど、なってはいない。私の肉体は、そう、地上の、あの人の群れの中の、一つの体の中に、あったんですよ。意識だけが、空に向かって、抜け出てしまっていた。私は、危険を察知して、肉体の外へと逃げ出したのです。そうでもしなければ、私は、無意識にあの炎に向かって、駆け出していたはずです。私は意識を保ちたかった。抜け出るしかなかった。私は、その時、夜が明けるまで、上空で意識を保っていた。昼の世界の到来と共に、私は、自分の肉体へと帰っていった。何とか、寸でのところで、危機を回避した。しかし、これも、時間の問題だった。いつかは、抜け出るだけの時間すら持つことができない。私は知らぬ間に、森へと導かれ、知らぬ間に、炎に歓喜し、あの巨大な生き物と共に、一心同体になるべく、この身を捧げていくんです。何故、そのような現実が、起こるのか。私は、あの死んでいく男女たちを、羨ましく思っている自分を、見つけたからです。愕然としました。自分が死にたがっていることを知ったのです。ホロコーストの実体が、どういうものなのかはわからないが、しかし、死を強烈に求める僅かな心に、奴らは、入り込んできている。そして、いつのまにか寄生し、次第に蝕まれていってしまう。私は喜々として、森の集会へと、出ていっていたのですから。そして、時が来たときに、破滅へと突き進んでいくのです。おそらく」

―その課程を、絵にしたのですか?―

「スワスティカというのは、こちら側の世界のことです。そして、ヘリオポリスがあちら側。こちら側と向こう側が、一つの二次元の壁に、表現されているんです。私はそうやって、夜の森に死んでいく魂を、止めたいんじゃありません。むしろ、積極的に、認めたいんです。その魂の意志を、尊重したいんです」

―どういうことなのでしょうかー

「私は、その森で死ぬことができなかったのです。境界線を越えられなかったのです。本当は超えたかったのです。意識を取り戻し、肉体の外に、逃げてしまったことで、私の肉体は、死への道からは、外れてしまった。けれど、本当に、死ぬことになったとしたら、そのときはずっと、無意識のままでしょう。私は、目覚めたままで、死にたいんです。だから私は、火に飛び込んでいく自らの魂を、認めたいのです。その想いを表現し、さらに、この目で見える形でずっと、側に存在してくれる『もの』へと、変換する。それが、私には、必要だったのです。それを、描ききることができたのなら、そこで新しい北川裕美が、生まれ出るとさえ思った。かつての北川裕美は、炎に巻かれて、死ぬことができる。私は、目を覚ましたままで、死にたいのです」



 あの日、本社ビルの内部で、心情を吐露した帰り際、ニナガワは、こんな声を聞いていたことを思いだした。

「その願い。確かに受け止めた」

 男の声だった。

 そのときは、全然、気がつかなかった。一週間ほど経ってから、ニナガワの脳裏に、その声が蘇ってきた。

 ニナガワは、人工ブラックホール構想を、あのとき語っていた。まずは、夜の森から始まる。そこには集まり溜まっていく魂たちがある。人々の身体から抜け出していく、黒く穢れた生命力。人から離れることで、生き生きとしていく。人の身体へと戻れば、それらは、人をひどく落ち込ませ、視界に黒いフィルターをかけ、人生を曇らせていく。

 離れた魂たちは、夜の街に喜々として、飛び出していく。森へと結集する。ニナガワは、そこに溜まっていく魂たちを、別の次元へと逃がす装置を、国家で取りつけるべきだと主張したのだ。重要な公共事業の柱になると、言った。

 そして、その合体して、巨大になる前の魂たちを、まだ個別の、その時に浄化させ、街に、そっと戻す機能。それを、文明に組み込ませることを、主張した。

 ニナガワは、具体的に、どういった技術を導入すればいいのか、分からなかった。翌日の井上の結婚式には、予定通りに参加した。式場で、井上と一瞬目があったものの、彼は微笑みもしなかった。披露宴でも、ニナガワは新郎新婦との写真撮影を避けた。結局、彼とは一言も話すことはなかった。人工ブラックホールの話は、そのあとも誰にも話すことはなかった。

 森そのものを、ブラックホールにしてしまう。

 夜に蠢く魂たちが、近づいていく。

 あっという間に、闇の最も深い世界へと、吸い込まれていく。

 一端、その渦に巻きこまれてしまえば、二度と、引き返せなくなってしまう。

 魂たちは、例外なく吸い込まれていく。そのまま吸い込まれたまま、抜け殻になった身体たちが朝を迎えたとき、彼らの身に何が起こるのか。おそらく、それまでのインプットされた生活習慣を繰り返すことは、可能ではあるが、それ以上の機能は働くことはない。新たなる機能を、加えることができないまま。時間の差はあっても、魂は、ブラックホールの闇の中から、昼の光の世界へと呼び戻さなければいけない。闇は闇でしか救われることがない。

 そのあとは、光の世界へと戻っていくのが自然だった。その道筋と、セットでなければならなかった。人工ブラックホールの機能そのものに、あらかじめ、内臓されている必要があった。ニナガワは、結婚式の最中も、ずっとブラックホールのことを考えていた。何度か、井上が自分の方に、意識を向けているのがわかった。決して、顔は合わせようとはしなかった分、その目には見えない視線の方は、くっきりと認識できてしまった。その度に、ニナガワは、ブラックホールへの意識を断ち切られ、目の前の世界に、引きずり戻された。隣にいた妻が何度か話かけてきた。出されたフランス料理のことについてだったが、彼女もまた、ニナガワが別のことを真剣に考えていることを、簡単に見通してしまっていた。絶妙な間で、彼女もまた、ニナガワの思考に割って入ってきた。そうでもしないと、ニナガワにとっての自分の存在が、消えてしまうかのように、彼女は必死であった。ニナガワは、妻の方に体を向けた。彼女の存在を、しっかりと確認した。その度に、彼女はほんの少しだけ、安心した表情へと戻った。子供は知人に預けていた。久しぶりに、二人で外出していたので、結婚式を媒介とした、二人のデートのようでさえあった。



「あれ、今さ、天災って言わなかった?天災が起こったことで、何か、北川さんの中で、大きな変化がありませんでしたかって」

 Kは、突然、大きな声で、テレビ画面に向って叫んだ。

「なあ、言ったよな!」

 聖塚は、CМ中の画面からは目を逸らし、すでにベッドからは、完全に起き上がっていた。

 まだ青白い顔ではあったが、目は生気を取り戻しつつあった。

「やっぱり、もう、起こったことだったんだ」Kは力なく言った。

「あれは、もう、過去の出来事なんだ」

 Kは、だんだんと、あの日の現実を受け止めることに、真剣になっていった。

「私にはまだ、起こってないわ」聖塚は言った。

「えっ」

「私には、まだ、起こっていない」

「どういうこと?」

「私の身には、まだ、起こっていないって言ったのよ」

「ほんとに?」

「天災って、どんなの。地震?」

「違う」

「じゃあ、何」

「ゼロ湖現象だ」

「説明して」

「東京都心に起こった現象で、突然、地面に巨大な穴が出来て、それがいくつもの場所で起こった。その穴に吸い込まれていった人たちは、今も行方不明のままだ。その他のところでは、そのゼロ湖現象の余波なのか。地面が割れたり、捲れあがったり、そんなことが多発した。ゼロ湖同士が引きつけ合い、くっ付き合い、さらに、巨大化していくこともあった。都心から起こり、さらに、日本中へと拡大する予兆があったが、そのときは、それで収まった。その続きは、まだ地下で蠢いているのかも」

「いつの話?」

「半年前」

「私、そのとき、東京に居た」

「大変な騒ぎだったんだぞ」

「知らない。まったく、知らない」

「離れていたんじゃないの?」

「大学の研究室にいた。神楽坂よ」

「じゃあ、知ってるはずだ」

「私の身には、起こっていない。本当に、そんなことが起こったの?」

「北川裕美だって、はっきりと言ってたじゃないか!」

「天災って言っただけよ。地震のことを言ってるのかもしれない」

「その、ゼロ湖現象が、起こったときにね」とKは言った。「俺は、北川裕美とも会ったんだ。長谷川セレーネとも。あれ、ちょっと待てよ。そのとき、確か、聖塚・・・、そんな名前の女も居た」

 Kは、目の前の女を見る。

「君も、聖塚だよな。でも似てないな。別人か。いや、でも。わからない。どうして、聖塚が二人。いや、そんなことはないか。あのときの聖塚と、あなた。実は同じ人間で、でも別人で。いや、別人のふりをしていて。分裂していて。

 もし、本当に、あのゼロ湖がまだ発生していないんだとしたら・・・。いったいいつ、起こるのだろう」



 結婚式から、一週間が経ったときだった。

 ニュース速報では、警察から森の側に近づくことを禁止する発令が、出されていた。

 森からそう遠くないエリアに、《オブロン社》の本社ビルはあった。

 会社にすぐに連絡を入れた。しばらくは通じなかった。何度もかけているうちに、受付の女性の声が、やっと耳に届いた。社員にはこれから、通達が行くと思いますがと、彼女は前置きをした。封鎖によって、会社には入れないということだった。発令が解除されるまでは、自宅待機ということになった。娘の学校は、森とは反対方向にあったので、妻は娘を連れて、すでに家を出ていた。しかし、ニナガワは嫌な予感がした。すぐに家を飛び出した。彼女たちの後を追った。森の付近だけではない街全体を、早く封鎖するべきだと感じた。



 今夜も、長谷川セレーネは、恋人の一人のマンションを訪ねていた。長谷川セレーネは最初にこの男と会ったときから、彼がいい人間であることを知っていた。この人に抱かれたいと思っていた。長谷川セレーネは、激しい一目惚れや、強烈に好きという感情が、ここのところ、勢力を緩めて消えていく様子を、自分で見ていた。

 ただ、人間的に素晴らしい人で、男性としても魅力的だなと感じる人に、自然と惹かれていった。そして彼女がそう思うのと同時に、その男性とはすぐに、親しくなる機会が訪れることになった。静かに意気投合した。食事に行き、その後の流れも、自然に展開されていった。長谷川セレーネは、いつのまにか、バージンからは、ほど遠い存在になっていた。

 初体験はいつだったか、もう思いだせないくらいに、数多くの男性と体を重ねていた。

 性的な経験を繰り返せば繰り返すほど、長谷川セレーネからは、あの狂気的な一目惚れ

の症状が和らいでいった。男性との付き合いは数回。数か月の時もあれば、半年続くこと

もあった。長谷川セレーネは、特定の男性に絞ることはなかった。また同時に、付き合っ

ているという感覚さえなかった。ずっと昔に、バージンを失ったような感覚さえ抱いてい

た。

 初体験の印象は、驚くほど薄かった。どれがその体験だったのか。誰とだったのか。長

谷川セレーネは、不思議と、鮮明に思いだすことができなかった。男のいない、男を知ら

ない女の姿は、そこにはなく、長谷川セレーネは、極端に仕事にエネルギーを注ぐことで、

好きな人の存在を忘れようとすることもなくなっていた。有名になることで、彼らにアピ

ールするとか、見返してやる、復習してやるといったことさえ、完全になくなっていた。

 夜はたいてい、好きな男のマンションへと向かった。長谷川セレーネは、十二時を超えて、男の部屋に居続けることはなかった。男の部屋に泊まることもなかった。男たちはみな仕事に忙しかった。朝起きたときに、女の相手ができるような、暇な人間は誰一人いなかった。

 長谷川セレーネもまた同じだった。自宅から、翌日の仕事に向かいたかった。その日の仕事の段取りのイメージを、一人、部屋でシュミレーションしてから、家を出たかったのだ。

 長谷川セレーネと、男達の考えは、だいたいのところ一致していた。なので、そういった価値観の違いで、喧嘩することはなかった。別れる時もまた実に自然であった。付き合うタイミングと同じく、二人は去るときもまた心得ていた。付き合う時にはすでに別れるタイミングまでもが、分かっていたのかもしれなかった。長谷川セレーネは夕食を男と共にして、男の部屋で性行為をしてから、その日のうちに、自宅まで送ってもらった。彼女の自宅に行きたいと言う男も、何人かはいたが、長谷川セレーネはそのすべてを拒んだ。男達を、信用してないわけではなかったが、性行為の後、男が完全に寝てしまうことを恐れたのだ。朝まで居られては困る。長谷川セレーネは、一度も、男の部屋で熟睡してしまうことはなかった。

 高級マンションの最上階に住んでいた長谷川セレーネだったが、同じマンションで有名なスポーツ選手や映画監督、メディアで見たことのある経営者などと、エントランスですれ違うこともあった。エレベーターが一緒だったりすることもあった。お互い目があっても、軽く会釈する程度だったが、いつのまにか、近所のバーで密会するようになった相手もいた。同じマンションの違う階に、恋人になった男を、訪ねていくこともあった。別れてからトラブルになることはなかった。男がセレーネの自宅に、押し入ってくることもなかった。みな紳士的だった。家庭を持っている男もたくさんいた。このマンションに住むようになってからは、すべてがスムーズに動き始めていると、セレーネは感じていた。最近、Kという作家が、このマンションに入居してきたことを知らされた。Kは、最下層の一番安い部屋に入ったようだが、すれ違う事はまったくなかった。長谷川セレーネは、このKの著書を何冊か読んでいた。本の内容よりも、Kという人間に強く興味が湧いていた。いつか、会って訊いてみたいことがあるような気がした。彼がどんな日常を生きているのか。どんなバランス感覚で生きているのか。知りたかったのかもしれない。

 そういった興味を抱いた相手は、彼の他にはいなかった。



 まさか、そんなことになるとは、ニナガワは思いもしてなかった。妻も娘も人工ブラックホールに飲みこまれて死んでしまったのだ。森の空気が震動し、内へと向う渦を作り出して間もなく、その渦は、森の中に留まることを拒絶し、街へと拡張していった。

 台風の目のように、それらは動き回った。あっというまに、人を物を吸い込んでいった。ブラックホールは細胞分裂するかのように、局所的に現れては、遠隔に互いを感知しながら勢力を広げ、融合していった。最大限、威力のある融合の仕方を、あらかじめ知っていて、そこに合わせて、初めから出現しているようだった。

 ニナガワの妻子は、発生の初日に、ほんの三十分後に、飲みこまれてしまった。

 哀しんでいる暇などなかった。すぐに、緊急避難命令が発令された。

 ニナガワはGIAに乗った。だが、ブラックホールの威力は凄まじかった。すぐに風圧を感じ、大きく揺れた。普段なら、ハンドルを握ることもないのに、このときは、かなり強く固定しようとしても、簡単に吹き飛ばされてしまった。GIAは,不規則な回転を繰り返した。あっというまに、粉々に破壊されると思った。だが、しばらくすると,GIAは機体を安定させた。何事もなかったかのように、目的地の入力を要求する。妻子の無事を祈った。彼らもまた、GIAに乗っていた。GIAが、この混乱極まる外界からの、シェルターであるような気がした。GIAに乗ってさえいれば、この局面は耐えられる。乗り越えられると直観した。しかし、水も食糧も何もない。だが、ニナガワは思い出す。緊急の保存食品が、機体のどこかに備え付けられていることを。すぐに、ハンドルの横の赤いボタンが目につく。ここを数十秒押せばいい。まさか、こんな機能を本当に使うとは、思ってなかったので忘れていた。管が天上から伸びてくる。ニナガワは、そのチューブを口に咥えて勢いよく吸う。ゼリー状の甘味のある物質が、口の中を満たす。ニナガワは大きく息を吐いて、安堵する。死ぬことはなくなった。完全食品の中の完全版で、未来食として、その現実化が騒がれていた。すでに非常食として、完備されていた。それは、大気と雨水から抽出されるフリーフードで、半永久的に、抽出することのできるテクノロジーを応用したものだ。こうした技術が、人間社会の中では、あらゆる分野ですでに網羅されていて、完備されているのではないかと、ニナガワは思った。自分たちは何も知らない世界がすでに出来あがっているのだ。

 あの男の声を思い出す。あの声の持ち主は、そんな未来の世界からの伝達者のようだった。

 いつかは終わりが来るだろう。ニナガワは外部の荒れ狂うブラックホール化現象のことを思った。ブラックホールが、別のブラックホールを発生させる。誘発させる。引きつけ合う。拡大、巨大化する。この時空を、物質を、飲みこんでいく。その連鎖は止められない。止める必要もない。だが次第に、飲みこむことのできる物質は、減少していく。勢力は減退していく。

 静かな世界が、広がり始める。そこには、音さえない沈黙の世界が広がっている。



 成人したファラオは、今はなき王家の復活を心に決めていた。闇を転々とした時代は、終わりを告げた。ファラオは一つの紋章を、王家の象徴とすることにする。そのシンボルはすでに幾度となく、夢の中に現れた生き物だった。その光輝く紋章の奥には、教会での演奏会へと向かう、中世の農民の姿があった。彼のために、教会は場所とオルガンを提供した。

 男はありがたいと思う反面、今から起こることを考えると、ほんの少しだけ心が痛んだ。

 この世での、我が人生の終わりを告げる、鐘の音が、胸に染みわたった。教会までの道中、さまざまな記憶が浮かんでは消えていった。そのほとんどは、時代も性別も違う、別の人間の姿たちであった。懐かしく思った。その違う人間たちがすべて、終わりに向かって今歩き始めている。

 男は自分の周りに、そのエネルギーの層を感じていた。自分は一人ではない。

 大勢の人間と共に、今、故郷の轍を歩いている。そんな気がする。

 演奏する曲のメロディを、何度も、頭の中で反復した。歌詞を書くのを、男は最初の段階で放棄していた。オルガンの練習を始めた彼は、自分が思いの他、音楽に能力があることを知って驚いた。そして言葉に起こしたいというその想いのすべてを、音に込める決意をした。天との回路を取り戻すのだと、男は思った。信仰などすでに、どうでもよくなっていたことに気づいた。異端の信仰、教会とは違う聖書の解釈、地下の礼拝堂。それらの外観は、次第に溶けてなくなり始めていた。自分の想いを告白するのだという意志もまた、急速に薄れていっていた。

 男は自らの存在、自らの身体を、この広い大地と同化させていた。その上で天との回路を取り戻そうとしていた。天井と意識を疎通させる。その回路としての音楽。メロディ。男は次第に、自分が死に向かっているということも、忘れていった。

 生きるとか、死ぬとか。そんなことはもうどうだってよくなっていた。教会まで歩いているこの現実さえ、すでに、天との回路の一部になっていた。男は穏やかな心と共に、教会の内部へと入っていた。そのまま礼拝堂へと進み、オルガンのある舞台へと歩いていった。

 すでに人々は、席についている。

 異様な静けさの中、男は自然光に照らされたオルガンの前へと座る。

 その場所だけが、淡い光に包まれている。この、暗闇の中世のことを彼は思った。世界全体が、黒く大きな雲で覆われてしまっている、この時代のことを深く思った。その世界に、一縷の光を差し込ませる。そう。一縷でいいのだ。消えない光を。光はやがて生命力を伴い始め、成長していくのだから。このオルガンの舞台のように。小さな範囲かもしれなかった。でも、光は、確かに定着するようになる。そして拡がる。

 いつか、あの鳥が、グリフェニクスが、その淡い光の世界を捕らえ、舞い降りてくることを、予感させる。

 その予感は、さらなる光を集め、輝きは礼拝堂へと拡張する。

 演奏を聞く人々の周りには、光の粒子で満たされていた。グリフェニクスの降臨は、もう間もなくだった。男は優しくて力強い調子で、鍵盤の上の指を滑らせていった。すでにそのときには、どのメロディを弾いているのか、その自覚さえなくなっていた。男は心のすべてを解き放っていた。
























第一部 第八編  前夜の紋章 Ⅳ





















 高まっていく水原への気持ちは、戸川と激原で爆発する。

 鳳凰口には、その爆風で押されるような形で連鎖する。

 鳳凰口は、葬儀のあと、会社の処分に追われた。財務状況をチェックしたが、確かに親父の言うように、借金はなくなっていた、彼が死ぬほんの少し前に、多額の金が入金されていて、この金を税理士は問題にしかけた。しかし結局、会社も存続させないということから、税理士も面倒が起こることを好まなかった。よって、うまく処理してくれた。

 作家のKも、水原の捜索に、力になってくれるものだと鳳凰口は思っていた。彼の人脈を通じて、捜索が、劇的に進展する可能性もあるなと期待していた。ところがKは、執筆の忙しさを理由に、あからさまに鳳凰口たちを避け始めたのだった。むしろ最初は、Kが一番首を突っ込んできたのに、だ。この豹変ぶりに、鳳凰口は苛立った。Kに何度も電話をかけ、いやがらせのように、彼を罵った。そうすればするほど、Kは遠ざかってしまうのはわかっていながらも、その行為を止めることができなかった。

 だがようやく、Kは、鳳凰口の呼び出しに応じることになった。激原も戸川も、当然同席した。やはり、交差点付近の喫茶店だった。ついに、工事現場を覆っていたシートの存在がなくなっていた。そこはまったくの空地になっていた。更地だった。いや、そうではない。白くて、低い塀に囲まれていたのだ。そこにはかなり、深い池のような、巨大な四角い穴が広がっていた。建物ではなく、貯水池のようなものが、出来上がっていた。

 鳳凰口は、その白くて低い塀の上に立って、中を見下ろした。ずいぶんと深い。その中心には、深い闇が広がっていた。怖くなって、鳳凰口は塀から降り、遠ざかった。親父はいつのまに、ここの工事を、終わらせたのだろうか。入金の意味は、はっきりしていた。確かにウチには借金があった。しかし、この事業を請け負ったことで、完済したのだ。

 喫茶店に入った。すでに、Kも激原も戸川も来ている。鳳凰口は窓の外を指差した。戸川はもう自分は見てきたと言った。激原も頷いた。Kは特に何の反応も示さなかった。

「これが、正体だったんだ」

 戸川は、青ざめた顔で言った。激原は無言だった。しかし、明らかに、この二人の様子はおかしかった。

「どうしたんだ?」

 鳳凰口昌彦は、気を取り直して、四人目の席に着いた。

「あれは、いったい、何なんだ?聞いてないぞ」

 戸川は、憤慨した声で言った。

「どうしたんだよ、何が気に食わないんだよ」

「お前んとこの会社だよ。ちゃんと、工事はしていたじゃないか!そのあいだ、俺には、何の連絡もなかった。ただ、採用しましたとだけ。それで放っておかれているあいだに、工事は終了し、社長は死んで、会社は解体された。怒りを覚えないことの方が、不思議だ」

「悪かった」と昌彦は謝った。「親父のこととはいえ」

「ああ、そうだよ。償うんだよ。お前でいいから」激原は、戸川の肩を、静かに抑えた。

「俺は、お前の会社にも、振り回された」

「だから、申し訳ない」

 鳳凰口昌彦は、謝り続けた。

「存続は、可能なんじゃないのか?君が、会社を継げばいいだろ?」

「無茶を言うな」

「素人なら、水原が代わりに、経営をしていけばいいじゃないか!水原が、この会社を、事実上は乗っ取っていたんだろ?彼を呼び戻すんだ!」

「そのとおりだよ!」激原も続いた。「そして、俺の採用も、考えてくれ!」

「とにかく、水原を呼ぶんだ!彼を、代表に据えてくれ!」

「無茶を言うな!」

 そのあいだも、Kはずっと、つまらなそうに外を眺めていた。

 昌彦は、そんなKに、矛先を向けた。

「新作の準備は、進んでいますか?」

 昌彦は、穏やかな口調で、彼に訊いた。

「新作?」

「仕事、忙しいんでしょ?」

「誰が、そんなことを?」

「執筆してるんでしょ?あなたにとっての、あの工事現場は、単なる次回作への入り口。インスピレーションにすぎなかったんですよね?」

 激原と戸川は、Kを睨むように、強い視線を送っていた。

「みんな、そう怖い顔をするなよ。悪かった。悪かったよ。でも、そういうつもりはないから。勘弁してくれ。ただ、水原のことは、もういいじゃないか。水原は、俺たちとは、何の関係もないんだ。鳳凰口建設とは、少し仕事をしたみたいだったけど。俺たちには、まったく関わりがなかった。何度だって、繰り返すぞ。あいつは、俺らとは、何の関わりもなかった。そうじゃないか。えっ?実際、何の話をした?それなのに、水原に勝手に想いを寄せているのは、俺らだ。馬鹿馬鹿しい。それは、何も、水原じゃなくてもよかった。ただの、実体のない幻想に対しても、きっと今と同じような、関心のよせ方をする!君たちは、そう。申し訳ないが、はっきりと言わせてもらうが、自分に、関心を集中させることができない人間たちなんだ。焦点を結ぶための関心事が、そもそもない!自分の中に。だから、外にばっかり、求めだす。まがい物だろうが何だろうが、そんなことはお構いなしだ。何だっていいんだ。ただ、そのときに、目の前を通り過ぎたものであれば、何でも。そして、それが、自分の求めていたことだと錯覚して、執着していく。茶番だ!!何とも哀しい光景だよ。今日は、そのことを言いにきた。忠告しに来た」

 気づけば、Kは、胸に溜まっていた言葉の混濁を、皆の前にぶちまけていた。



 水原永輝はふと、嫌な胸騒ぎを感じた。見士沼祭祀を伴って、完成したグラウンドゼロイチへと向かった。あの場所が、誰かに侵略されるような、予感がしたのだ。完成はしたものの、まだ安定していないあの場所には、人の激しい往来は好ましくなかった。いまだ、白いシートをかけたままに、しておきたかった。だが、シートは、いつのまにか取れてなくなってしまっている。鳳凰口建設の人間が、外した感じでもなかった。予想外に、鳳凰口建設社長は、急死してしまったが、ぎりぎりのところで工事が間に合ったことが、せめてもの救いだった。

 見士沼祭祀は、水原の命令に、わけもわからずに従った。水原の、慌てふためいた様子に、本能的に手助けをする必要性を感じたのだ。見士沼は黙って、彼についていった。ぱっくりと、地底への扉の開いた元工事現場に、人の影が蠢いていた。

 やはり勘は当たっていたと、水原は思った。あの場所でいったい何をやっているのだ?数名の影は、もみ合っていた。大きな声が響き渡っていた。男だった。四人の影を確認する。声はだんだんと鮮明に聞こえてくる。

「お前など、もう二度と現れるな。絶交だ」

「許さないぞ」

「お前は言ってはならないことを、平然と言った」

「一人だけ、自適な生活をしやがって。それなのに何故、首をつっこんできた?つこんできたのなら、最後まで、行動を共にしろ」

「何故、今さら、手を引く?」

 三人の男に、一人の影が押し包められるような、恰好だった。

 次第に、その影が、見覚えのある顔であることを、水原は確認する。


 後ろを振り返ると、見士沼の姿がある。まるで理解ができない表情を浮かべながら、彼は不安そうに、焦点の合わない目を泳がせている。

 水原は、四人の影に向って何度も叫んだ。争いはやめるように、心を落ち着けるようにと叫んだ。だがその矢先だった。もみ合ってる最中、その一人の影が、グラウンドゼロイチの中へと落ちていった。水原は全速力で接近した。三人の男は、その事態に呆然としてしまっていた。場の時間は止まっていた。水原は、鳳凰口昌彦の顔を確認する。そして、あとの二人も、どこかで見たことのある顔だと思った。そういえば、この辺りの喫茶店で、見たことのある顔だった。そうだ。話したこともある!この工事現場に、非常な関心を寄せていた奴らだ。

 あまりに怪しい影だったので、近づいていったのだ。彼らの身元を把握したかった。

 邪魔者はすべて、排除するつもりだった。そうだ。そいつらだ!鳳凰口も一緒だ。巨大な穴に落ちていったのは、一体、誰なのか。水原は、その三人の顔よりも、堕ちていった男を何とか助けようと、覗き込んだ。男は地底まで落ちてはいなかった。数メートル下の狭い平面の突起物に、引っ掛かっていた。彼はそこから、自力で平面に両足を乗せ、さらに上へと登ってこようとしていた。その男の顔も、知っていた。作家のKだった。やはり、この工事現場に何らかの関心を抱いて近寄ってきた男だった。この男が、最大の危険人物であった。おそらく、この現場を題材に、作品を描くのだろう。何としても、妨害したかった。

 しかし、現場が完成すれば、あとはどうでもよかった。彼の存在も、俺の中では消えてなくなった。

 そのとき、地面が揺れた。地震は、すぐに止まった。だが数秒おいて、さらにドスンと、縦に一瞬震動が走った。そのあとだ。大きな横揺れが襲ってくる。

 水原は、その場に立っていられなくなった。地面に跪いた。幸い、上からものは落ちてはこない。ほんの少しだけ、地面が割れていた。そう思った瞬間だった。亀裂は一気に開いていた。反射的に亀裂の片方に飛び移る。他の四人がどんな様子なのかは目に入らなかった。揺れは激しく、水原は思わずは目を瞑ってしまうほどだった。亀裂は拡がり、地面は崩れ落ちるように傾いていった。まさかと彼は思った。地盤沈下が起こったのではないか。地震に連動して。この地ははグラウンドゼロを作ったことで、地盤が極めて弱くなったのではないか。タイミングが悪かった!完成のほぼ翌日に、地震に見舞われた。耐震のことに、頭を巡らせてはいなかった。

 水原は、それ以上、亀裂が広がらないことを祈りながら、地面にしがみ付いていた。


 地震が収まったとき、おそるおそる彼は目を開けた。

 視界は絶望的に歪みきっていた。最初、地面はどこで空はどこなのか。地面はどのようにズレてしまったのか。全体像が、まるで把握できない状態だった。

 水原は、自らの知覚が狂ってしまったのだと思った。時間が経ってからも、修正される様子はなかった。水原は何度も何度も頭を振った。いまだ知覚は正常に戻っていなかった。度の入った眼鏡が吹き飛んだくらいの、焦点のぼやけから始まった。色彩も、その輪郭から見事にはみ出ている。入り乱れていた。高低差がよくわからない。その断層には、均等なリズムは、走っていない。ぐちゃぐちゃに乱れ、それでいながら、その後、無理やりにくっつけ直したようなフォルムが、続いていく。

 もしかして、俺はすでに、地上にはいないのではないかと思った。

 あの穴から落ちていったのはこの俺で、ずいぶんと深い場所に、短時間で潜りこんでしまった。光は失っていない。身体を強烈にぶつけた様子もない。そういえば声が聞こえてこない。周りにいた四人の男の声が、聞こえてはこないのだ。彼らはどこに行ったのだろう。聴力が失われている。視界は狂っている。まともな器官はどこなのか。匂いはよくわからない。焦げたような匂いもしない。饐えたような臭いもしない。無臭に近い。手を動かしてみる。足を動かしてみる。どこにもぶつからない。砂のような場所に横たわっているような感覚だけがする。見士沼!と叫んでみる。不思議なことに、自分の声も出ているのかどうかはわからない。鳳凰口!と叫ぶ。どの名前を呼んでも、自分の耳には聞こえてはこない。

 水原はその状態のまま、身動きのとれない長い時間を過ごす。

 いつのまにか、意識を失っていた。目が醒めたときにははベッドに横になっていた。だんだんと周りの様子が見えてくる。視界は正常になったようだ。身体の感覚も戻ってきた。人の影も見えてくる。

 水原はベッドではなく、茶色の固いソファーの上に、寝かされていた。

 そこは喫茶店だった。アルバイトをしていた喫茶店だった。影は三人だった。

「目を覚ましたな、水原!」

「お前を、待ってたんだ」

「やっと、会えた」

 右から左から、太さの違う男の声が連呼される。

「Kは死んだ。あんなところからは真っ逆さまだ。まず助からない。途中、ひっかかって、もがいていたようだが、それも、そのあとに来た地震によって」

「たぶん、駄目だろう」

「Kって」

 水原は呟いた。起き上がろうとした。全身に強烈な痛みが生じた。

「あの落ちた影はやっぱり、Kだったのか?」

「Kだよ」

「どうして」

「お前だよ」

 影の一つは大きな声を出した。

「今頃、来るとはな。どこに雲隠れしていた?もう少し早く来たら。そうすればKだって、な」

 言われている意味が、水原にはわからなかった。

「Kが何かしたのか?」

「お前とは、どんな関係だ?水原。お前と、Kとの関係だ」

 鳳凰口は言った。

「知らない。ほとんど知らない!一、二度、顔を合わせただけの、顔見知りなだけだ。それ以上、何も知らない」

「お前の方は、そうかもしれない。だが、そうじゃない奴らも、たくさんいる」

「俺が、何をした?」

「すべてを企んだのは、お前だ。全部、話してもらおうか。そうしなければ、わかってるよな。あの穴に、Kを落としたのは、お前だよ。お前の仕業だよ。俺らはそう証言する」

 水原は、自分が連れてきた見士沼祭祀の存在を、思い出す。

「見士沼さん」

 水原は、途切れそうな声を、必死で紡いだ。

 見士沼祭祀は、この影の中にはいないのだろうか。

 思ったほど、視覚が取り戻せないことに、水原はやきもきする。

 身体の痛みのほうは、少し和らいだ。

「見士沼っていうのか?お前」

 別の影は言った。

「そうです。見士沼祭祀です。あなたたちは?」

「戸川だ。よろしく。こっちは、激原」

 影たちは、お互い、自己紹介を始めた。

「見士沼さんですか。この水原とは、一体、どんなご関係で?」

「二人でいらっしゃいましたね」

「さっき会ったばかりで。ほとんど知りません」

 見士沼は、正直に答えた。

「水原とは、どんなご関係なのですかと、聞いているんです」

 戸川は、厳しい口調で問い詰めた。

 見士沼は、なかなか、口を割ることはなかった。

「俺が説明するよ」

 水原は、四つの影に見下ろされる形で、そう答えた。

 まるで、グラウンドゼロイチに落とされたのは、この自分で、その様子を、地上から四人が見ているような光景だった。この四人が、水原の口を割らせるため、拷問のために身体の自由を担保に・・・。こうして・・・。

「見士沼さん。いいかな」

 いいです、という声が聞こえた。

「見士沼祭祀という男だ。彼の家は、ちょっとした有名な宗教団体で、彼の父親、見士沼高貴が、代表を務めている。彼は今度の件で、その団体の代表として、ウチと鳳凰口建設が施工中の、あの場所に対して、抗議文を提出しに来た。それで顔を合わせた。それだけの関係だ。そして、その問題に関しては、すでに、解決済みだ。何の問題も起こらなかった」

「じゃあ、何故、一緒にいたのですか?」

「だから、その話し合いの、続きだ」

「解決したんでしょ?」

「解決するまで、話し合っていたんだよ!わからんやつだな」

「ほんとうですか?」

 戸川は、身士沼祭祀に訊いた。

「ええ。そのとおりです。それだけです」見士沼祭祀は言う。

「どうして、二人で、連れだって来たんですか?そこが、全然、不明瞭だ。どうして、あの現場に、お二人で?」

「俺が、どうしても来いと、言ったんだ」

「どうして」

「嫌な予感がしたからだ。そして、来てみたら、やっぱり」

「俺らが、揉めていた」

「ばっちりと当たっていたじゃないか」

 水原は、イラついた口調で言った。

「遅かったですよ。あなたの行動は。もっと、早く来ていれば、Kもここに、居ることができたのに」

「何で揉めていた?」

 水原は、四人の影のどれかに向って訊いた。

「あなたの所在が、わからなかったからだよ」

「それと、Kは、どんな関係があるんだよ」

「けっ、今さら、首を突っ込んでこられても、困るんだよ!!Kがどうしたとか。Kと、どんなトラブルがあっただとか。もういいかげんに、Kの話はやめてくれないか!別に、Kには、何の問題もなかったよ。ああ、そうだよ。特にはな。Kには、何の問題もなかった。問題があったのは、水原、お前の方だよ!!お前が俺たちの前に姿を現さなかったからだよ!!」

「だから、どうして、それとKが、関係あるんだ?」

「関係などないって、そう、言ってるじゃないか!」

 鳳凰口が、これまでで、一番大きな声を出した。

「ただのトバッチリだよ!何の意味もない!!Kはな、お前のことは、もうどうでもいいと言い始めたんだよ!!あいつは、何故か、この工事現場に関しても、お前のことに関しても、突然、興味を失っていった。いや、急に、何かに、怯えはじめたんだ。一人だけ違う意見を言い始めた。だから、揉めた」

「それに、俺らは、奴を、殺してなどいない!あいつは生きていた。あそこに落ちた後も、しばらくは生きてあがいていた。途中で引っ掛かっていた。あの後たまたまやってきた揺れで、行方がわからなくなっただけだ。そうじゃないか。俺らのせいじゃない!あれは、自然災害の一部だった。ごく自然な成り行きだ。それは、お前も、わかっているはずだ」

 そう言われた水原は、確かに、生きてるKを最後に目撃していた。

「それは、そうかもしれないが・・・」と水原は言った。「でも、過失はある」

「お前のせいだからな!Kがああして、危ない状況になるまで、お前は、姿を表そうとしなかった。その嫌な予感さえなければ、いつまでも、隠れていた。そうだろ?お前は、はっきりとした意思の元で、姿を消した。どんな計算が働いていた?だから、Kのことは、とりあえずは、もういい。忘れろ。もともと、たいした知り合いじゃなかった。ほんのすれ違っただけの人間だ。知り合いというレベルでもない。それよりも、水原。お前だよ!お前は、そもそも、何を考えて、誰のどんな意図のもとで、動いていた?そして、あのわけのわからない建築物。あれは、いったい何なんだ?Kのことだって、すべては、繋がっている。Kはまさに、あの場所に落ちていったんだ。偶然じゃ済まされない」



 水原は、今だ自由のきかない身体を、横たえさせながら、すべてを語る決心をした。四つの影に向って、すべてを吸い込む渦が必要だったと述べた。詳しい話を、今となってはするつもりはないし、四人それぞれの受け止めたかも違う。それまで勤めていたデザイン会社の金を着服し、退職したあとも、横領し続けることで、資金をつくったのだと水原は言った。その資金を、経営が立ち行かなくなっている鳳凰口建設に流した。自分の言うがままの工事をやらせた。鳳凰口社長は、素直に従ってくれた。俺が昌彦の同級生だったことも、交渉が円滑に進んだ一つの要因だ。そして、俺はその後、工事を邪魔する者の監視をしていた。工事が終わるまで何とか、目を逸らしておくくらいのことしかできなかったが。

 でも、それは、裏目に出たようだよ。君たちを騒がせてしまった。大人しくじっとしていればよかったものを。何か疾しいことがあると、つい、何か動いていないと、落ち着かなくなってくる。文明の中で処理しきれなくなった、あらゆるエネルギーを、吸い込む渦が、この世界には必要だと思ったんだ。ものを作り続けることは重要だ。それが、あらゆる進化に繋がっていくことも当然のことだ。しかし、多くの人間は、高く積み上げることにしか頭がいっていない。そのあとで、不要になった物質のことには、あまり意識がいっていないように見える。そのことが、俺には、どうにも解せなかった。そして、積み上げることに加担することは、もうたくさんだと、そう思うようになっていった。積み減らす方に、何とかシフトできないものかと。社会構造に、そのような機能を組み込む仕事がしたいと。

 けれども、それは、自分一人でできることではない。どうしたらいいのか分からなかった。確かに、今後、何十年、何百年という構想を思い描き、そのために、少しずつ歩み始めることは、可能だったかもしれない。でもじゃあ、今、この瞬間の俺はどうなのか。今、何ができるのか。一人で、何ができるのか。間違った行動だったのかもしれない。でも、こうするしかなかった。それが唯一、これまでの自分を慰める方法だった。

 あの巨大な穴が、すぐに実用的な機能を果たすことはない。でも、それでいい。何か、自分の想いをすぐに形にしたかった。そこから、始めたかった。新しい始まりを意味する、シンボルだった。君たちには、まるで意味不明な穴ではあっただろうが。

 鳳凰口社長は、文句ひとつ言わずに、作業を続けてくれた。単に、借金がゼロになる、ただのそれだけの理由で、引き受けてくれたのでは、全然ないような気がした。彼もまた何か、人には言えない想いを抱え持った人生だったのかもしれない。俺に何かを、託しているような、そんな雰囲気さえ、何度となく感じたものだった。昌彦。それはお前に、完全に受け継がれているんじゃないのか。俺にはわからないけれど。昌彦、お前なら、気がつくんじゃないだろうか。グラウンドゼロイチと名づけたあの場所に、まさか人が落ちていってしまうとは、思いもよらなかった。救助はすでに要請したのだろうか。

 答える影は、ない。

「その彼は助かったのだろうか。大きな怪我でも、しているのだろうか」

 どの影も、やはり、答えはしない。

「グラウンドゼロイチは、今のところ、それはただの、巨大な整備された穴だ。それでしかない。大洪水でも起こったときにはせめて、水を流すくらいの役目しか果たせない。でも、俺のイメージは違う。これは、まだ、ほんの始まりであって、その穴は、すべてを吸い込む渦へと進化する。この社会における、気流の循環装置となる。俺はそう信じている。必要なテクノロジーさえ、とり込んでいくことになるだろう」

 水原は影に向かって主張した。その影の誰かが、自分の想いを引き継いでくれるのではないかといった、哀願にも似た、切ない訴えだった。

 しかし、影からの反応は、まったく返ってこなかった。次第に、水原の身体からは、重みが消えていった。彼はソファーから身を起こした。

 四人の影に、彩りが戻っていく様子を確認する。そして、水原は一人、会釈をして、店をあとにした。

 すぐに、一人の影が後を追ってきた。その足音に、水原は反応する。後ろを振り返った。

「待てよ」

 追ってきたのは、鳳凰口昌彦だった。

「ありがとう」と昌彦は言った。「たとえ、どんな理由にしろ、ウチの借金を帳消しにしてくれたこと。素直に感謝するよ。俺に負債を残さないようにしてくれて。お前のおかげだから。何とお礼を言ったらいいか。お前とまた、縁が繋がるとは思わなかった。ありがとう。これからは、俺ができることは何でもする。だから、言ってくれ。鳳凰口の建設会社の継続を、もし君が望むのなら、俺が引き受けたっていい」

「建築会社は、もういいんだ」と水原は言った。

「君が引き継いだって、あっというまに潰すだけだぞ。また、莫大な負債を、背負いたいのか?君は稼ぐ側だ。是非、そうあってくれ。今からなら何だってできる」

「手伝ってくれ」と昌彦は言った。

「確かに、君とは、不思議な縁があるな。今でも友達だ」

「俺の彫刻のこと」

「ああ、そうだったな。君は、彫刻家だった」

「彫刻家じゃない。俺は、何者でもない。何をどうしたらいいのか、全然、支離滅裂だ。だから助けてほしい」

「人助けには、興味はないよ」と水原は言った。「俺自身だって、何の創造もできちゃいない」

「俺らが、力を合わせれば、・・・きっと」

 水原は、首を横に振る。

「何かの縁だ。また、繋がる時がくるだろう。それじゃあな」

 水原は、呆気なく去っていった。鳳凰口昌彦は喫茶店に戻った。戸川と激原の姿はなかった。見士沼祭祀という男だけが残っていた。

「二人は?」

「帰りました」

 見士沼は静かに答えた。

「そうか」

 鳳凰口昌彦は、ソファーに座った。見士沼祭祀も、昌彦の正面に座った。

「鳳凰口さんですね。水原が話している時も、僕はあなた一人にず、っと注目してましたよ。鳳凰口っていう苗字が、最初から気になっていたし。親父が、あなたの建設会社に、文句を言い始めたのを機に、僕もまた違う観点で、ずっとあなたに注目してたんですよ。鳳凰口家に、一人息子の長男が居ると聞いて、さらにその興味は加速していった。すると、僕と同じ世代の人が、いるじゃないですか。しかも、家は、会社をやっている。親父が代表を務めていて、いずれは、継ぐことになる。内容は違うにしろ、いや違うからこそ、僕はあなたの家と、共通点を見い出して、合わせ鏡をみているように、傍観していた。あなたとはいつか、お会いしたかった。ところが、代表者として来たのは水原だった。それでも、昌彦さん。あなたに会える日は、近いと思っていました」

 鳳凰口昌彦は、身士沼祭祀という男の風貌を、観察した。

 その瞬間、水原の影は、この男にとって代わった。

「宗教関係の仕事だそうですね」

「軽蔑してますか?」

「まさか」

「正直に言ってくださいよ」

「いや、まあ、よく、わからないんですよね。実体としての宗教って。実際に、入信っていうんですか?内部に入ってみないことには、何とも言えないです。わからないですね」

「そのとおり。あなたの言うとおりです。中に入ってみなければ、何も、わからない。閉鎖的な怪しい団体です。けれど、周りが感じる程、おかしなことをしてるわけでもないんです。ただ、自分たち寄りに、偏った解釈をしてるだけで。ただ、僕は、宗教と宗教体験とはまったく違うと、ずっと主張し続けているんです。いや、心のなかで。もちろん、そうです。そんなこと、口が裂けても言えません。僕はこれでも、大人しく家を継ぐようなポーズを、ずっととっているんだから。実際、継いでいいとさえ、思っているところがある。あるとき、ある時点で、突然、教義の内容をガラリと変えて、別物にして、内部クーデターを起こしたいですよ。穏便に相続した、その瞬間にね。狭く限定的な宗教ではなく、広く開放された宗教体験に、様変わりさせたいんですよ。もちろん、僕一人では、そんなことは無理だ。でも、ある意味、その宗教体験というのは、一人で、可能なことです。いや、一人で、可能なことでなければ、何の意味もなさない。そして、一人で体験したことこそが、みな、可能であるということを証明して広めていく。

 一人一人の宗教体験が、ある時間、ある場所で、同時に多くの人間が体験するという現象も、その一人の体験の延長線上で、ありえる話です。いや、そうあるべきだ!是非、そうしたい!それが通常の在り方にしたい。

 そういう意味で、水原の行動には、共鳴できたんです。

 彼が目指しているビジョンは、正直、僕にはよく理解できなかったけれど。理解しようとも思ってなかったけれど。でも、その渦っていうんですか?それを、この社会、世界全体で共有するべきであって、それが、通常の常態なのだという考え方には、おおいに共鳴できたんです。一人から始まること。水原にもわかっていた」

 鳳凰口昌彦は、身士沼の圧倒的な言語の奔流を、自分なりに、頭の中で反芻していた。

 とても、自分の頭では理解が及ばないなと思いながらも、意識は思わぬ状況といつのまにか繋がってしまっていた。

「俺はね、これまで親父の会社にはまったくのノータッチで、かといって、外でどこかの会社で何か働いたわけでもなくて、何をしているのか、自分でもよくわかっていない。けれども、とにかく、彫刻をしていた。自宅のガレージで。彫刻家でもないのに。ただ何かが、俺を突き動かしていた。別に彫る必要なんて何もない。絵をかいていようが、楽器を演奏していようが、別に何でもよかった。彫刻刀を手にしたのも、まったくの偶然だ。それに、もし、彫刻刀じゃなかったら、それは、刃物だったのかもしれない。その刃物で、あらゆるものを切りつけ、傷つけていたのかもしれない。怒りなのか、哀しみなのか、何なのか。この湧き上がってくる感情の行き場所が、とにかく欲しかった。その場所が、いったいどこなのか、まるで見当もつかなかった。でも、彫刻刀を握ることで、その感情と一つになれることがわかった。そして、その辺に転がっていた木屑を相手に、その一体化した感情を、ぶつけていった。感情というのは、ただ、それだけでは、どこにも行き場所を、見いだせないものなんだ。そのことが、よくわかった。何かと一体にならなければならない。そして、そのための道具が必要だ。つまらない話だな」

「いえ、続けてください」

「その道具がね、あるいは、その人間の運命と、呼ばれるものなのかもしれないし、仕事と呼ばれるものなのかもしれない。俺はまだ、混乱の中にあるから、この彫刻刀が、仕事と同義ではなかった。仕事にするつもりもなかった。仕事にできるとも思ってなかった。でも、最悪な事態は、避けられた。たとえ、どんな感情に、俺自身が支配されてしまったとしても。変な話、彫刻刀がある。これを握り、彫る場所さえ、準備できれば、・・・。どうして、こんな話になってしまったのだろう。やめよう。そもそも、何の話、だったのか。ええと、そうだな。一人から始まる話だった。そこから脱線していった。要するに、そうだ。俺も、その気持ちがわかると言いたかっただけだ。共鳴させてくれ。そう。その、感情と、彫刻刀と、木屑と、この俺。すべてが一つになっているときだ。そういう経験を、何度もした。わかるよ。俺は、別に、美術家になりたかったわけじゃない。でも、この創作している心身の状態というのは、まさにそうだ」

 見士沼祭祀は、じっと、鳳凰口の言葉に耳を澄ませた。

 見士沼の表情は、時おり曇り、陰りをみせたかと思えば、圧倒的に輝きを取り戻した。

 恍惚にも似た表情にもなり、激しく変化していった。その変化もまた、次第に落ち着きを見せていった。穏やかな雰囲気を取り戻していった。

「あなたは、本物かもしれない」

 見士沼は言った。

「あなたのような人を、僕は求めていたのかもしれない。心の奥底で。それです。あなたは、すでに知っている。それが、宗教体験です。僕は芸術と宗教は、完全に繋がっていると思っていましたが、まさにそうだ。あなたこそが、宗教家だ。まったく、信じられない。どうしてこんな短いあいだに、出会いは連鎖したのだろう。それぞれが、全く違うことをしているのに」

 身士沼祭祀は、息が上がっていた。

「表向きはまったく気づかない共通点があった。あなたはこれから、大きくしていくべきだ。この社会で、世界で、宇宙で。会えてうれしかったです。本当に、ありがとう。また、どこかで会えたなら」

 見士沼祭祀は、晴々とした表情で、彼もまた去っていった。



 喫茶店を出て、交差点付近の元工事現場の横を、戸川と激原は、二人で歩いていた。

 二人は、この短期間で起こった出会いと別れを、まだすぐにはうまく受け止められずにいた。

 何を話していいのか分からなかった。当てもなく歩いていた。

 Kを除いた四人が、同じ場所にいたのだが、どうにも、その雰囲気に耐えられなかったのだと、激原は戸川に打ち明けた。戸川も同意した。

「やはり、そうだったのか。そう感じたんだ」戸川は言った。

「あの、見士沼という男は、ずいぶんと、独特な雰囲気だった。俺は、身士沼に、強いエネルギーを感じた」

「俺は、身士沼というか、もっと全体的な空気だ。今は、この四人は、同じ場所に居ては、駄目だって」

「見士沼からは、どんな、エネルギーが出ていた?」

「穴倉から、出てきたような雰囲気だった。そう。まさに、Kが堕ちていった穴の底のような場所だ。まるで、堕ちていった人間と、入れ替わるように、浮かあがってきた。這い上がってきた、そんな感じだった。一見、暗さは、背負っていない。そう見える。ところが、違う」

「それは、いいエネルギーなのか?」

「いいも悪いもない。ニュートラルだよ」

「害を、撒き散らす男ではない」

「ふと、思ったんだが、お前は、そういう目に見えないエネルギーを、見ることができるのか?」

「わからない」と激原は答えた。

「でも、確かに、あの場では、そう感じた。Kと入れ替わるように現れた、見士沼」

「Kの話はやめろ」

「悪かった」

「あれは、不可抗力だった。仕方がなかった。俺らが直接、殺したわけじゃない」

「いちおう、警察には、連絡しておいた」

「ああ」

「地震が起きたときに、あの穴に、落ちていった人影を見たと」

「救援が要請され、捜索が開始される。俺らは特に、関わる必要はない。静かに見守ろう」

 戸川は、しぶしぶ了解した。

「俺らも、また、いつまでも一緒にいたって、仕方がない。ここで別れよう」

 二人もまた、去っていった。



 長谷川セレーネは久々の収録のため、テレビ局を訪れていた。撮影スタジオやCМ撮影のため、野外での仕事ばかりが続き、休みの日は日帰りであったが、ほとんど海外と行ったり来たりを繰り返していた。自宅に帰らない日が続いた。

 クイズ番組やトーク番組への出演は、すべて断っていたが、今日は例外だった。

 北川裕美と一緒に番組に出演するのだった。真面目なニュース番組だった。女優の北川裕美の特集コーナーに、ゲストとして呼ばれたのだ。北川裕美本人とのやり取りはなかったが、なぜか彼女が自分を呼んでいるような気がしたのだ。一度、道でばったり会った以外に、彼女との接触は、まったくなかったが、それでも長谷川セレーネは北川裕美との絆を感じない日はなかった。

 北川裕美はすでに、女優という肩書きに完全に戻っていた。突然、奇襲攻撃のように、記者会見を開くこともなくなった。一年以上も、姿を消し、スタッフも誰も、その行方がわからなくなることもなくなった。彼女は、芸能事務所に所属し、マネージャーも付き、かつて十年前のように、華々しく表舞台に復帰していた。二科展で受賞して騒がれ、そのあと個展を開き、長い雲隠れの後で、あまりに巨大な壁画のような作品を発表したあとで、彼女は静かに女優へと復帰した。まるでそれまでの長いブランクなどなかったかのように、今までずっと、芸能界で活動してきたかのような自然さで、彼女は本来の居場所にぴったりと納まった。

 長谷川セレーネは、北川裕美が同じ世界に居ることを、心の底から安堵の気持ちを持って迎えていた。

 彼女がいない間、ずっと不安だった。北川裕美にあのとき言われたことを思い出そうとしたが、不覚にも、忘れてしまった。ただ、どんなときも、私はあなたの味方で側にいるからと、ずっと、そう言われ続けているような気がした。それだけが支えだった。北川裕美が芸能界に復帰を発表したとき、それまで自分の中に抑えてきた、見せかけの強気が、音もなく崩れていく様子を、この目で見た。これまで自分が、どれほど、無謀で過剰に突っ走ってきたのかが、思い知らされた。

 北川裕美がなぜ、自分をゲストとして呼んだのか、その思惑はわからなかったが、すでに、いくつか向こうの部屋には、彼女がいる。そう思うと、胸は高まり、同時に締め付けられる気持ちになった。もうすでに、横にいる実感が、沸いてくる。と同時に、これまでの、どんな時よりも、遥かに遠い地点に、飛び去ってしまったかのような、そんな感覚も抱いた。

 長谷川セレーネは、アシスタントディレクターに誘導され、収録スタジオに入る。

 すでにキャスターはいた。長谷川セレーネは指示された椅子に座る。ちょうど斜め前に、空席が一つある。そこが北川裕美の席だった。隣ではなかった。しかし顔はよく見える。ずっと見ていることができる。長谷川セレーネは、その特等席に、心底、喜んだ。そのあとのことは、心が高ぶりすぎて、所々、記憶は飛んでしまっていた。北川裕美を交えての収録は、だいぶん進んでいた。

 彼女が目の前にいる光景は、夢のようだった。彼女からは、まだ直接話しかけられていない。いまだ長谷川セレーネに、話は振られてなかった。北川裕美が、キャスターのインタビューを延々と受けていた。彼女は饒舌に話していた。彼女は生来、話すことが得意であった。あの記者会見を見てもそうだった。理路整然とした話し方をした。説得力もあった。時々、意味のわからない発言を繰り返したが、それも、あとになってよく考えたときには、深く納得するのだ。常人の理解を超えた言葉、考え方、そして行動。周りはみな、彼女に振り回される。それでも彼女は、決して人を傷つけることはなかったし、その一見奇怪な行動であっても、実はよく考慮されたのではないかと思うほどに、のちになってからは、辻褄が合うのだった。

 北川裕美は、女優を引退してからの私生活を素直に話した。

 画家としての復帰と、その後の活動の経緯、女優に戻るまで赤裸々に語った。

 だが、その激しい内容にも、どこか、彼女の話し方には腰の据わった静けさがあり、もうあらかじめ決められていた計画通りのことを、淡々と進めているというような、そんな不思議な整然さが、漂っていた。長谷川セレーネも、その整然さに、すでに引き込まれてしまっていた。それはキャスターもまた、同じだった。他のスタッフもみな同じだった。世界は北川裕美一色に染まってしまっていた。彼女が中心にいながら、その空気に、逆に彼女本人をも同化させているような、そんな雰囲気さえ感じられた。これが、北川裕美なのだと、あらためて、長谷川セレーネは感動した。

 話が振られたことに、長谷川セレーネは、全く気がつかなかった。

 メインキャスターの横にいた女性のアナウンサーに、何度も肩を叩かれた。

 やっと長谷川セレーネは、目の前の現実に戻った。長谷川さんは元々、北川さんのファンだったんですよね。デビュー前から。そうですと、長谷川セレーネは答える。小さいときからずっと。いつか一、緒の世界で生きることができたらなと、そう漠然と考えていました。でもそれは、小学生くらいの子なら、誰でも思う事ですよね。北川さんが引退なさってからは、急激に芸能界への興味はなくなりました。でも、その頃からでしょうか。スカウトされることが多くなりました。学校にもスカウトの人が来て。大学に入ると、それは劇的に増えていきました。

「長谷川さんは、当時、学生の中でも、大変な注目度があったと聞いています。芸能界ではすでに、知らない人がいないほどの知名度があった。誰が、どの事務所が、あなたを落とすのだろうと。そこに注目が集まっていたようです」

 それはよくわかりませんと、長谷川セレーネは言った。そんな世界が自分にふさわしいとは、全然思ってなかった。でも、そのオファーの熱のようなものが、もう、私個人の思惑では、逃れられない地点に達したと感じたとき、やはり、そこでも、思い浮かんだのは北川さんでした。彼女と同じ世界に立つというよりは、彼女がいた世界に、自分も触れることができるんじゃないかという想いが、最終的に、私を決断させたのです。まさか、こうして、北川さんが復帰して、同じ時代に、こうして近い場所で、活動できるとは思いもよりませんでした。ましてや、今日のような日が来るとは・・・。もうさっきから、感動しっぱなしで、心がここにないんです。何を言ってるのか・・・、滅茶苦茶だし。眩しすぎて、直視することが、できません。

 スポットライトは、再び、北川裕美へと戻った。

「画家の活動は、どうなるのでしょう。画家として、芸能界に復帰なさったときは、その道で、ずっと行くというようなことを、仄めかしていましたけど」

「そうですね。あのときは、全くそうでした。でも、今は、まったく考えられません。少なくとも、今は、まったく制作する気にはなれないんです。絵を描くという行為が、ずっと途切れることなく、続けていく仕事には、今は、思えてこないんです。仕事という意味では、やはり演技をすること、そこに縁があると思います。ずいぶんと長い、専業主婦時代に溜まってしまった心のエネルギーの発揮場所が、最初の創作に、すべて吐き出された。そのあとも、いろいろと、トラブルが続いたのですが、それがまた、絵に変換されていった。最後は、あの巨大な絵に、行き着いた。あれを描いたんです。もう、他に描きたい絵など、ありません」

「そうですか」とキャスターは、簡単に同意した。「その絵が、こちらです」

 VТRが流された。「この絵は、今も、ある遺跡に描かれています。移動は不可能ですね。ここは、今、一般の人の立ち入りが禁止されています。遺跡の、修復作業が始まっています。いずれは、公開されるんですよね?」

「急に、遺跡が注目されてしまって」

「あなたが描くまでは、誰にも、見向きをされなかった遺跡です」

「あの遺跡は、重要な場所です」

「本当に、一人で、あのサイズを描いたのかと、みんな驚愕していますが。本当のところ、どうなのでしょう」

「一人ですね。まったくの一人です。普通に考えても信じられません。私ですら、そうなのですから。とても、信じられない。もし、自分で、信じられたとしたら、そのときは、画家として、今後も生きていきますよ」

 北川裕美は、そう言って笑ったが、スタジオにいた人間は、誰も笑うことはなかった。

「もうすぐ、北川さんの復帰作、アトランズ・タイムという映画が公開ですね」

「すでに、舞台挨拶は、終わりました」

「明日からですね」

「久しぶりの演技は、新鮮でした」

「どんな内容なんですか?」

「小説が原作なんですけど、だいぶん、映画的に、改編したようですね。原作とは少し違った世界になっている。この東京が、舞台の話です。地殻変動の話です。地震ではなくて、大陸移動の話。今も大陸は、ほんの少しずつですけど、動いていますよね。それが急加速していくというアクション・サスペンス大作です。危機的な状況が一気に訪れ、あっというまに、首都は壊滅します。しかし、日本列島の話ではありません。地球上の大陸分布が、一気に、変化するわけですからね。続編はあります」

「なるほど。怖い映画ですね」

「いえいえ、怖がらないでください。怖がってはいけません。観客としては、怖がってもらえれば、嬉しいですけどね」

「そうですね」

「でも、見終わったら、別に、忘れちゃってください。かなり誇張して、描き過ぎていますから」

 北川裕美は笑った。

「次の出演作も、決まっているのでしょうか?」

「ええ。再来年までの仕事は、決まっています」

「では、本当に、画家としての活動は?」

「ないですね」

「休止ということで」

「筆をとることは、もうないと思いますよ。それよりも、あの壁画の公開に、尽力を尽くします。あれが、私の画家としての集大成ですから。あれ以上はありません」

 長谷川セレーネは、その後、話題を振られることはまったくなかった。

 北川裕美とも、番組内で言葉を交わすことはなかった。対談形式のようなものも予想していたが、そういった様子すらなかった。二人の関係にも焦点はまったく当てられず・・・。完全に、北川裕美一人の特番だった。長谷川セレーネは、存在意義をまったく見い出せないままに、番組は終了してしまった。

 収録後の楽屋でも、長谷川セレーネは何度となく、北川裕美の部屋を訪ねようとした。

 けれども、同じ世界に、こうして同時に存在している状況を、客観的に認めれば認めるほど、何故か、彼女との体感としての距離は、ずいぶんと遠くにあるようだった。



 北川裕美の新しいスタートをこの目で見た、その日の夜、長谷川セレーネは、一か月ぶりに自宅マンションへと帰った。エントランスが妙に騒がしかった。人の出入りが、頻繁にあったのだ。長谷川セレーネは特に変わりなく、建物に入っていった。しかし、大きな声で、別の人間に指示を出す様子からは、何かが起こっていることを意味していた。紺色の作業着のようなものを着た何人もの人間が入ってくる。

 長谷川セレーネに気づいた一人が、深々とお辞儀をする。何が起きているのか。自分の部屋に関係があるのだろうか。だが誰も声をかけてくる様子はない。長谷川セレーネは、エレベータに乗る。自宅のドアを開ける。中に別条はない。エントランス付近の喧噪からは隔絶している。電気をつけ、上着を放り投げ、ソファーに深く座る。目を閉じて、収録の光景を思い出そうとする。だが、やはり、同じマンションのことが気になって仕方がない。もう一度、上着をひっかけ、外に出る。最上階の様子に異変はない。エレベータに乗る。一階に戻る。やはり人だかりが出来ている。ふと彼らが鑑識のように見えてきた。そして、スーツを着た男たちは、警察に見えてくる。何かが起きたのだ。

 長谷川セレーネは、サングラスをしたままの自分に気づいた。素早く外し、彼らの前に登場する。すぐに、長谷川セレーネの存在に、気づいた。しかし、彼らは、深く頭を下げるだけだった。すでに、事情を知っていると思われているらしい。なので自分から訊いた。驚いた様子を浮かべた男は、やはり、警察の人間だった。そして、一階に住むKという男が、二日前に亡くなったことが告げられた。自宅で亡くなっているところを、訪問した知人が発見したということだった。

 事件性は薄いようですが、とりあえず、詳しく調べています。お騒がせして、大変申し訳ありません。男はさらに、深くお辞儀をした。そのあとで、仕事に戻っていった。

 突然のことで、Kが亡くなったことを、受け止められずにいる自分がいた。呆然としてしまい、はやくも、エレベータに乗ろうと、ボタンを押してしまっていることに気づく。慌てて、正気に戻した。捜査員の一人に、再び近づいていった。

「あの、死因のほうは、何だったのでしょうか」

 目の前の女性が、長谷川セレーネだということに気づいたのだろう。捜査員は仰け反るような仕草をした。だが、次の瞬間、あっというまに佇まいを修正し、「心不全です」と答えた。「ご自宅で」

 捜査員はや、はり深々と礼をして、長谷川セレーネの前から去っていった。

 後日、長谷川セレーネは、Kの葬儀に参列した。しかしそこで見た、棺の中のKの姿に、心底驚いてしまった。そこには、首と胴体が分離し、胴体と両腕、下半身、さらには両足と、綺麗に分断された人間の姿があったのだ。そして、そのそれぞれは、何故か、一人の人物のものではないようにも見えた。

































































 Kは、帰国後、『アトランズタイム』の日本公開の試写会に参加するため、六本木へと向かった。舞台挨拶の前に、関係者だけが楽屋に集まり、あらためて自己紹介することになっていた。

 もちろん、出演者を含め、ほとんどの人と会うのが初めてだった。誰もKのことは知らない。演者同士はすでに雑談をし合っていた。Kは居心地が悪かった。ここで、三谷という監督が最後に部屋に入ってきて、人物の紹介をし始めた。


 Kの名前はなかなか呼ばれない。忘れられているんじゃないだろうかと思うくらいに出てこなかった。だが、ほとんどあきらめかけたそのとき、最後にKの名前が呼ばれた。Kは一歩前に出てお辞儀をした。原作者のKくんです、と言われた。この映画の、そもそもの発案者のKくんだ。彼がいなければ今日我々が集まることはなかった。そういう意味でも、Kくんを囲む集まりだと言って、過言ではない。三谷という監督の物言いは、大げさすぎた。一同は拍手をしていた。それでは、Kくんから一言。

 Kはマイクを渡される。


 みんなの前で、挨拶をするなど考えてもいなかったので、一瞬頭は真っ白になる。

 秘書の聖塚の方を見た。彼女は、Kの目を見て何度か頷いた。

「みなさん、ご紹介に預かりましたKです。原作者とはほぼ名ばかりで、映画はみなさんの力で完成にこぎつけたので、この僕がこの場にいるのは、どうも場違いなのではないかという感じがして、気後れしてしまっています。まだ、完成した映画を見てないんです」

 俺たちもそうだぞと、よくテレビ画面で見たことがある俳優が言った。

「自分の原作がどんなふうに変わっていっているのか。とても楽しみです。ですが、一抹の不安もあります。作品はまったく違うものになっているんじゃないかと。もちろん、それで全然構いません。そのほうが僕も安心します。でもそうなると、この自分が原作者だなんて、そんな扱いをされることに耐えられだろうか。そう思ってしまう自分がいます。そのときは、みなさん。是非、僕の名を、クレジットから外してください。どうか、よろしくお願い致します」


 どういう挨拶だよと、三谷という監督は呆れた。

 Kに続きをしゃべるように促した。

 有名な俳優陣も私語を慎み、みなKの次の言葉を静かに待った。

「続編を書いたんです」Kはその静寂を切り裂くように、言葉を繋いだ。

「この映画の続きです。まだ結末には至っていません。原作としては何本か、すでにできています。もし、この第一作が、ヒットしたときには、その続きも是非、みなさんで、作り上げていってください」

 会場には何故か、笑いが起こった。

 Kには何が起こったのかわからなかった。

 この話のいったいどこがおもしろいのか。

 三谷という監督がみんなを代表して口を開いた。

「続きがあるとは知らなかった!」

 その言葉は、さらに、会場中の爆笑を誘った。

 聖塚は、周りに合わせて笑っているようだった。

「おもしろいことを、言えるじゃないか」三谷は、感心していた。

「あの始まりでは、ずいぶんと、つまらない話が続くんだろうなと思っていたが、実は、ギャグ好きな男だった」

 みんなは大盛り上がりだった。

 K一人だけわけがわからず、三谷という男にマイクを返した。


 出演者、スタッフは皆、Kに拍手を送る。

 そのあとは、滞りなく、試写会へと場を移す。

 そのあとで、舞台挨拶があるのだ。そこには、監督と出演者のみだけが出席する。


 試写会場へと移るとき、秘書の聖塚に訊いた。

 いったい俺のスピーチのどこがおかしかったのか。

「あなた、本当に、すました顔してさ、平然とジョークを言うのね」

「だから、俺がいつ、そんなことを?」

「言ったじゃないの。続編を書いてるから、期待してくれって。また出演、お願いしますって」

「それが?」

「だって、出演者は、全員死んでしまうのに、どうやって続編に出るのよ」

 そういうことかと、やっと、Kは理解した。

「ゾンビのように、また、平然と出てくださいって、そう言ってたのよ」

 試写会場に入り、席につくと、隣には、モデルの長谷川セレーネが座った。

 振り向かなくても、それが長谷川セレーネだと感じる。

 匂いから、空気の圧力から、何もかもが常人離れしている。

 Kは、彼女の存在を無視するかのように、黙って座っていた。

 そういえば、あの楽屋でのスピーチの時には、彼女の存在を感じなかった。

「今度は、あなたが、イケニエね」と彼女は、耳元でそう呟いた。

 Kは、それでも、彼女を直視しなかった。

 何も、訊きかえさなかった。

 結局、彼女は、それ以上、何も、言葉は発しなかった。すでに、フイルムは回っていて、最初のシーンは始まろうとしていた。いつのまにか、試写会場には、自分ひとりしかいなかった。隣には、長谷川セレーネだけが座っている。そんなイメージに、Kは支配された。

 映画は、中盤を迎えていた。だが、そのとき、はっと気づいたことは、この映画の主人公はいったい誰なのか。思い当る顔がなかったのだ。楽屋には錚々たる顔ぶれの演者たちがいた。あの人たちの中に主役がいて、脇役がいるはずだった。だが、まったく出てこない。フイルムの前半を頭の中で、再現してみた。いたかもしれない。何気ない日常のシーンの一コマを、飾っていたかもしれない。

 しかし、そんな程度の出演だった。時計を見ると、あっというまに、一時間が経ってしまっている。感覚としては、まだ最初の五分程度しか見ていない気がする。それなのに、フイルムは、すでに、中盤に差し掛かっている。事前の話では、120分の映画だった。前半はほとんど、日常のあらゆるシーンをランダムに並べているだけのようだった。ドキュメンタリーなのか、ニュースなのかも、不明瞭な。不明瞭すぎて。何も考えずに、自然に受け入れてしまっていた。横に長谷川セレーネがいたというのもある。出だしは、彼女のことばかりが気になって、映画に集中してなかった。

 ほんの存在を確認するだけのために、横をちらりと見る。

 確かに、彼女はいる。間違いない。長谷川セレーネだ。

 ストーリーが激しく展開していた様子は、皆無だ。

 なので、今からでも、映画は、取り戻すことができた。

 そう思って、画面に集中した。




 特に映画のシーンとしてのセリフのようにも思えない。本当に、普通に街のあちこちにカメラを無造作に設定して、日常を撮っているようにしか見えない。それが何重、何百場面と続いていく。よく見ていると、それでも、サラリーマンの集団の中に某俳優がいたり、カップルがデートしていて、その女性の方が、有名アイドルの一人であったりと。注意深く見ると、確かにいることにはいた。これは、あくまで、適当に撮影したものではなかった。

 映画における映画のための映像だった。そう思い直してみると、これは、後半に向かって重大な意味が凝縮されているのかもしれないと思うようになった。

 けれど、自分の原作が、このような作品に化けているとは驚きだった。ある種、あの三谷という監督は、才能があるのもしれないと思った。もし大きな変動が、この映画の中で起こるとしたら、その撮影スタイルそのものに、強く内容を反映させているのではないかと思った。構造そのものに、表現手段、手法そのものに、内容を強く反映させているのかもしれなかった。単に、ストーリーに乗せるだけではない、創造の仕方。だとしたら、後半は、どんな撮り方になっていくのか。そこが、どんどんと、変化をしていくのではないかと、Kは期待した。

 匿名の人物のように、さりげなく、登場する俳優人も、来たるべき大変動のための、サブリミナル的な効果を狙った、出方をしている。そのようにも見えてくる。

 ただ、時々、数字が映像に挿入されていた。それが気になる。西暦の年月日が。本当に注意していないと見逃してしまうほどに、背景の色と、そっくりな色で差し込まれている。すぐに消えてしまった。始まりのときからずっと、この数字は現れていたのかもしれない。一度、気づかなければ、気づくことはない。一度気づけば、そのあと何度も注目することになる。

 この数字だけは、シーンを象徴する、重要な情報だった。その数字は、時の変化を忠実に表現しているようだった。2011、12、13と、前半は、淡々と時は移ろっていく。その単調さは、Kの心を鎮めていき、ずっと催眠にかかっていたかのように、意識をすっかりと抜き取られていく。

 三谷という監督の、これが狙いなのだろうか。

 何故か、Kはたった今、スタート地点に立ったような気がしてきた。

 それまでは、本編が始まる前の、別の映画の宣伝広告を見せられているような、そんな無意識が、ずっと続いているようだった。

 バシャンという、物が何かつぶれるような巨大な音がした。

 そこで、Kの意識は、完全に醒めた。

 何の音なのかは、まるで判然としなかった。映像の中に手掛かりはなかった。視覚との連動性がまったくなかった。何の音なのかかが、ずっと気になり続けた。映像はあいかわらず、前半と同じく、淡々と日常の一コマを展開している。まるで間違って挿入されてしまった音のように、編集のときに消すのを忘れた音のように、厳然と脳裏には残り、住み着いてしまっている。振り払おうと、Kは内心格闘していた。その音を、この自分の身体からは外に出したい。排除したいと、そう強く思えば思うほどに、その音は身体の内部へと深く突き進んでいくようだった。そのあとに続く音は、まるでない。

 その不自然な音の続きを、求めてしまっていた。映像は、何も解決してはくれない。

 前半とはまったく同じ世界観の映像が、続いているのに、前半とはまるで違った風景に見えてくる。

 こんな映画は、見たことがなかった。音声と映像が、完全に食い違ってしまっている。

 思い返してみると、しかし、最初から、音声は分離などしてなかった。

 映像に関する音を忠実に流していた。それが、いや、今も続いていた。

 映像と音声は分離などしていない。分離しているのは、この自分のほうだった。

 自分の中で勝手に、あの変な音を、再現してしまっているのだ。

 映画の世界から、分離されてしまったのは、この自分の方だった。

 時は、2014年5月24日。

 不穏な予感は、刻まれていく。

 ビリっという大きな音がする。

 その瞬間だった。映像が引きちぎれるように切り裂かれた。初めてだった。

 初めて、違和感のある音に映像が反応したのだ。一致したのだ。その亀裂は、すぐに元へと戻った。また淡々とした日常のシーンが続く。だが、確実に、映像には、変化が生じている。人々の動きが早く小刻みになっていった。何かを避けるように、走って移動する人も出てくる。何かが起こっていたのだ。

 ここは、その起こった何かの中心地ではなかった。その中心地の周辺から逃げているような映像だった。もしかしたら、違和感のある音声は、その何かが起こったことと連動しているのかもしれない。きっとそうだ。なるほど。最後まで、その中心地は、映さない。人々は、完全に逃げ惑っている。パニックを起こす人たちで、街は溢れかえっている。

 ここで、緊急ニュース速報の画面へと替わった。

 日本列島に大きな亀裂が入りました。東京の有楽町付近です。突然亀裂が入り、あっというまに、その穴は拡大しています。辺り一キロメートルにいた人たちは、その穴の中へと、落下した模様です。ニュースは以上です。そして、その亀裂は、今後どこで発生するのか、まったくの、予断を許さない状況です。政府は注意を促しています。数字は一気に、2015年の8月30日へと飛んでいた。もはや、さっきまでの静寂は、どこにもなかった。

 亀裂は深く至る所に存在していた。まるで出現した化け物から逃げ惑うようだった。

 人々は、パニックを起こしている。ある有名な女優に映像が、クローズアップしていく。

 彼女が逃げていく様子を、カメラはいつのまにか追っていた。


 そのあとも、特定の人間を、複数の軸に据えての、カメラアングルであったが、そのどれもが、一人に集中していくことはなかった。

 出演者にあらかじめ会っていたから、すぐに画面の中に居ても気づいたし、有名俳優もいたので、瞬間的に気づくこともあったが、それでも、この喧噪な街の様子に、主人公は誰なのかが、映画の後半になっても、全然わからなかった。

 ふと、どこかで見たことのある光景のような気がしてきた。

 まさに、数か月前、自分が体験した街の様子にそっくりだった。

 有楽町界隈で爆発が起こり、数日のあいだをおいて、東京の別の場所でも次々と爆発が起こった。次第に、地面が捲り上がり、津波に襲われるかのごとく、人々を飲みこんでいった。

 Kの時間の感覚は、まったくもって狂っていった。

 あのとき見た光景によって、知り合いは何人も死んでしまっていた。

 ところが、街そのものは、そのあと無傷だった。何か悪い夢でも見たかのように日常は復活していた。あのときの光景が、そっくりとこうして、映像に撮られている。わけがわからなかった。あれは、映画の撮影だったのだろうか?それとも、今見ている映像の方が、実際に起こったときの光景を、そのまま映しているのだろうか。

 それをこうして、我々が見ている。その構図もまた、理解不能だった。

 過去に見た光景と、映画の中の光景が、こうして重なり、その両方を見ている自分がいる。

 しかも、この映画の原作は、自分である。

 まだ起こってもいないことを体感して、それを本にでも、書いたのだろうか。

 そして、その本の内容を、映像作品へと移し替えた。その映像が、たまたま、自分が想像していた絵と似ていた・・・。そういう偶然なのだろうか。

 ということは、あの知り合いたちの死は、何だったのだ?

 俺の想像の中の、話なのか?だが、そんなことはなかった。

 井崎の死体も、聖塚の死体も、この目で確認した。目の前で彼らは死んでいった。

 聖塚?確か、あの女はそういう苗字だった。俺の秘書の名もまた聖塚だった。

 どうして、忘れていたのだろう。彼女たちは別の人間だったが、初めて会った時に、どうして同じ姓であることに気がつかなかったのだろう

 そうだ。隣には、長谷川セレーネがいる。映画が終わったら、あのときの街の被害について、彼女に訊いてみたらいい。彼女とは、ほんのわずかではあったが、同じ部屋で、同じ時間を過ごしていた。

 あのあと、何が起こったのかを、彼女からすべて、聞き出せばよかった。

 夢ではなかったことが証明される。

 逃げ惑う人々の中の一人に、女優の北川裕美がいた。彼女は人々が逃げていく方向とは、逆に走り出していた。大規模な火災が起こっていたが、その中心地へと、彼女は全速力で移動していた。火災を鎮火しにきたのか、わからなかったが、その上空には飛行船が浮いていた。

 放水するのかと思いきや、縄の梯子のようなものが、落とされた。

 北川裕美は、その梯子に飛びついた。あっというまに、飛行船の中へと引き上げられていった。彼女のあとには、数人が同じように、火災の中心地へとやってきて、同じように引き上げられていった。

 ここに、あらかじめ、飛行船が現れるのを知っていたかのように、彼らは何の迷いもなく、救助されていった。

 街の至るところで、もっとも被害の大きな場所に、その飛行船は現れる。

 そこに引き寄せられた、わずかな人びとを、地上から引き離していった。

 飛行船は、そのあとで、一斉に姿を消した。街はすでに、火の海だった。地面が割れ、海水がすでに流入している場所もある。火災が起こっている場所に、その海水が入り、鎮火しているようなところもある。

 大地は、急激に揺れ始めた。動いているところもあった。

 すると、ものすごい揺れが次にやってきた。海水がすごい勢いで、大地を浸し、沈んでいる面積が多くなっていった。大きな衝撃を、彼らは感じていた。何かが衝突したようだった。警報が出される。小規模な大陸や島が、猛然と、日本列島に向かってきたという事後報告だった。空は漆黒の雲に覆われ、光を遮り、気温は激変に下がり、強い風が吹き始める。火災が起こり、海水が流入してくる。大地に亀裂が入り、強い衝撃が加えられ続ける。

 揺れはずっと止まらなかった。

 報道番組は、放送を続行できずに、人々はネットでしか、情報を得ることができなくなった。

 交通機関は止まり、電源は消失する。

 残ったバッテリー分の携帯電からの情報しか、ほとんど頼れるものはなかった。

 日本列島における安全地帯を示す情報に、人々は殺到した。

 大移動が始まった。その情報しか頼るものがなかった。とにかく、その場にはいたくはないという心理も、働いていた。その場にとどまり、嵐が過ぎ去るのを待つために、比較的身を潜めてられる場所を、探そうとする人は、ほとんど皆無だった。


 とにかく、何かしていなければ、落ち着かないようだった。

 しかし、サイトによって、情報はまちまちだった。

 無名の俳優たちは、そのネットの情報の選択肢を迫られる。

 発作的に、そのどれかを信じ、行動を開始する。そんなとき、飛行船は、いくつかその姿を上空へと現す。

 だが、空を見上げている人々などいない。誰もその存在には気づかない。大地にへばりついたまま、どの大地を選択するのかに囚われている。

 飛行船は、それでもわずかな救出を、続けていた。人々が殺到しない場所に、静かに現れた。

 火はほとんど消え、大地の半分以上は、すでに海に沈んでいた。

 ここでも、Kは、デジャブを見た。まるで、自分が体験した光景を、誰かが映像で押さえたかのようだった。

 そして、今、その映像を、他の人間と共に、見せられているような、そんな錯覚が続いていた。



 地上で逃げ惑う不特定の群衆のほとんどが、海水に飲みこまれ、流されていく中、映画はいよいよ佳境を迎えていた。地上数百メートルのところには、地上からの脱出を図った飛行船が浮いている。その飛行船は、着陸すべく大地を探していた。

 複数の飛行船の内部の映像に、切り替わる。操縦士はみな、緊迫していた。浮いていられるだけの燃料は、あと数日で底をつきることがわかっていた。それまでに、いかに無駄な燃料を使うことなく、最短で着陸地へとこぎつけるか。そのことに、意識を、集中させていた。

 しかし、大陸はいつになっても、安定することはなかった。そればかりか、時間が経つにつれて、どんどんと、その姿を消していってしまった。もっと広い範囲で、地上を見なければ、全体像など、まるで把握できなかった。この日本列島付近においては、ほとんど残る大陸は、ないのではないか。それなら、別の大陸に生き延びる道を、探らなければ。だが、このまま飛んでいけるだけの燃料が、あるのだろうか。操縦士の一人がこう言った。これではあと、二日後には、すべての飛行船が、どこにも着陸することなく、海へと墜落してしまう。どの機体かに、集中して燃料を集めろ。他の操縦士は、反対だった。すべての飛行船が、無事に助かる道を、みな模索していた。その、一人の操縦士を除いて。

「駄目だ」と孤立した操縦士は、言う。

「燃料を、二つか三つの機体に、まず集めろ。その機体を遠くに飛ばせ。これは、情報収集のための飛行だ。乗客はすべて、他へと分散させろ。その二基か三基を、今すぐ選び出すんだ。立候補でもいい。だが、その操縦士は、残念ながら、戻ってくることはできない。帰ってくるだけの燃料はない。つまりは、墜落する最後の情況まで、情報収集のために、燃料を使い切る。その情報を、こっちで待機している飛行船に、すべて送り届ける。分析にかける。残った飛行船で、その後の対策を、立てる。おそらく、日本列島近辺で、着陸できる場所はない」

「何を言っている?どうして、そう言い切れる?」

「違う」と孤立した操縦士は、言う。

「もし列島に、このすべての飛行船が着陸できる、場所が現れるのなら、それが一番望ましい。それで、落着だ。もし現れない場合は、どうする?そのことを言っている」

「許さないぞ。どうしてわざわざ、捨て駒のような操縦士を、選ばなければならない?俺は、絶対に御免だ」

 すべての操縦士は断った。乗船した人々も、同じ気持ちだった。

「もちろん、その一人は、この俺だ。だから、あと一人を選びだせ。そして、その二人は、永久に戻ってくることはない。では、次の話に移る」

 孤立した操縦士は、淡々と話を続けた。

「残った飛行船は、生存する確率のもっとも高い、いちはやく、安定を取り戻した大陸への、着陸を模索する。その際、移動するのに、燃料が足りている場合は、それでいい。しかし、おそらくは、足りない。燃料を、またいくつかの飛行船に、集中させる。いいな。乗客も、そこに移せ」

「そんな馬鹿な。定員をオーバーしてしまう」

「なら、切れ!どんな選び方をしても、構わない!」

 他の操縦士は、みな絶句した。すでに、反論すら起きなくなっていた。

「そうやって、どんどんと、可能性を模索していけ。そこまでくれば、もうやることは、自然と見えている。いいな。では、俺と共に、情報収集機を、飛ばしていく男を選ぶんだ」

 孤立した操縦士は、そう言って、無線で立候補を募った。


 その後、なんと一人の立候補者が現れる。二人の操縦士は、すぐに逆方向に機体を飛ばしていった。無線でのやりとりをすることもなかった。お互いの機体の位置をレーダーで確認しながら、なるべく広い範囲での情報を、集めることに集中した。残された空中に浮かぶ機体に乗った人間たちは、ざわめき始めた。このまま何もせず、情報を待っているだけの状態には、だんだんと耐えられなくなっていった。

 別の操縦士たちは、二人の操縦士に、置き去りにされた格好になっていた。彼らも、だんだんといたたまれなくなっていった。地上に着陸できる大陸をいくら探しても、そんな場所はすでになくなっている。完全に、大地は沈没してしまっていた。一時的に、空中に避難しても、すぐにどこかに不時着できると、楽観していた。むしろ、水に巻きこまれずに、脱出できたことに幸運を感じていた。それで、万事が切り開かれると、勝手に思ってしまった。

 だが、あと二日もすれば、燃料切れで、水の中へと墜落する。結局は、命を長らえさせただけの結果に終わる。それなら、あのとき、一気に地殻変動の波の飲みこまれてしまったらよかった。操縦士たちは、もう二度と現れる可能性の低い、大地のことを思った。それでも、数人の操縦士は、まだ念力を送るかのように、大陸の出現にエネルギーを注いだ。

 乗客たちは、だんだんと、あの二人の操縦士のことを口にするようになる。最初に孤立したあの操縦士の言葉を繰り返した。あの人が言ってることが、正しいのかもしれない。同調する人々は、増えていった。可能性を狭めなければいけない。誰かが言った。狭めることで、生き延びる道を明確にしないと。もうそこまで、我々は追い込まれている。全員は、助からないかもしれない。操縦士の耳にも、彼らの話声は届く。だが、そうなると、殺し合いのようなことがおこる。誰もが感じていたことだった。機内が、殺伐とした空気に変わることを、操縦士は恐れた。あの男たちは、火種を置いていったのだと、操縦士は思った。俺は最後まで、あの男の言うことは信じないからな。たとえあの男の予言通りになったとしても、俺は最後に、人々が殺伐とした想いを抱えながら、死ぬことだけはさせたくない。乗客の誰を突き落すのか、ということだろ?操縦士である自分が、先に落とされることはない。その安心感もまた、嫌な感情だった。そんな不穏な空気には、耐えられない。そうなったときには、真っ先に、自分で、機体から飛び降りてしまうかもしれない。

 操縦士は、二基の偵察機からの、情報を待った。

 けれども、彼らからの情報は、いつになっても、来ることはなかった。無線を妨害する、何らかの問題が、発生したのか。それとも、すでに、彼らは、墜落してしまったのだろうか。状況はまったくわからなかった。乗客たちは、窓を開け、用を足していた。食べ物は何もなかった。空腹でいらいらとしている人も出てきた。陽は沈み、夜を迎える。連絡はまったくこない。

 こちらから、何度も、応答を要求するが、二基のどちらからも、返答はない。

 夜が明けてしまった。すると、二人目の操縦士の方の声が来た。

「応答願います。302機です。応答願います」

「どうぞ」

 一斉に、各飛行体の操縦士が声を出す。

「見つかりました。大陸が見つかりました。着陸できる広さにあります。すでに、1時間以上、観察しておりますが、安定しています。可能性を感じます。東京から、1万3千キロメートル離れた場所です。東の方向です」

 もう一機からの連絡も、そのあとに、やってきた。

「こちら、西に飛びました49機です。こちらもわずかにありました。島のような場所です。ここは、地殻変動の波に、まったく、影響を受けていないように思われます。全員、この島に、着陸できると思われます」

「東京から、西に何キロですか」

「3万5千キロです」

「わかりました」

 無線を受けた飛行体の操縦士は、東を選ぶことで一致する。

 それ以降、西に飛んだ飛行体との連絡は、絶った。

「今後、49機との交信はしません。いいですね」

 63機の操縦士が言った。

「彼はそうしろと、自らに言ったようなものです。可能性のあるものに、どんどんと道を狭めていかないといけない。絞っていかないといけない。西に道はない」

 誰も反論するものはいなかった。

「よし。東に向おう。全員で向かうぞ」

「そんな。無茶です。1万キロまで、もちません。燃料を集中させましょう。僕の機体を捨てます。ここで終わりです。彼はそう言って、隣の機体に近づき、燃料を移し替える作業を始めた。そして、そのあと、彼は一人機内に残り、だんだんと、高度が下がっていく機体に、抵抗することなく、海へと消えていった。爆発はなかった。すぐに巨大な波に飲みこまれ、機体そのものの姿が、なくなった。眼下の海は、さまざまな海流が、激しく入り乱れ、上空に残った人間たちを、呼び込むために、ぱっくりと口を開いていた。


 落雷が始まり、計器は制御がきかなくなっている。燃料の移動も簡単にはいかなくなった。それでも、宙に残った人々は最後の望みを託し、狭い可能性にかけていくことにする。

 轟く雷鳴は、まさに、人々の神経系統を変えた。彼らは、自らが助かる道を放棄し、一人でも、この世界に人間を残そうとすることだけに集中していった。必然的に、自らの命を放棄し、最後の行為に走る者もいた。それも止まない雷鳴が、彼らの恐怖心や自己保存の本能を、打ち消していくようだった。落雷はひどくなっていく。だが、それにつれて、太陽の光は強くなっていく。雨雲はまだ存在していた。その合間から強烈な光が射していた。雲越しにも、光が感じられた。けれども、雨もまた、多量に降り注いでいた。異様な混在ぶりの天候が、続いていった。

 画面は、船内の映像と外の天候とを、交互に映し出している。船内の人間たちは、光の存在にはまったく気づいていない。黒い雲は、さらに厚みを増し、水を地上へと落としていく。その強烈な勢いを受け止めるのも、また、今や地上の水そのものだった。海の水嵩は益していった。もう二度と、大地が地上に現れるのを防ぐかのようだった。その降りっぷりは、容赦がなかった。風は飛行船を煽り続ける。人々は傷を負いながらも、最後の一機になるまで、生き延びる道を探った。髪の毛はびしょ濡れになり乱れた。着ているものなど、ほとんどない中、人々は、必至に人間そのものを絶やさないよう、行動し続けた。

 結局、偵察にいった飛行船の情報は、生きず、さらには燃料を移し、飛行船の数を減らしていく作戦も、功をせず、最後の一機もまた海の中へと沈んでいった。その光景は、あまりに無残だった。そして、その最後の一機が陥落したのと、ほぼ同時に、落雷は止まった。雨雲は消えていった。太陽が完全にその姿を覗かせていた。飛行船が海面に浮かび上がってくることはなかった。海は穏やかになり、波はどこにも発生しなくなる。終わりのない湖をみているようだった。


 Kは、その静寂さに、ずっと見とれてしまった。数分前とはうって変わり、世界には、誰一人として、人間がいなくなってしまっていた。水面は燦然と煌めいていた。カモメのような白い鳥の群れが、じょじょに近づいてきていた。映像は、限りのない湖を映し続けていた。ピアノの音色も加わり、クレジットが現れた。出演者からスタッフ、スポンサーの名前がた羅列されていった。映画はエンディングに入っていた。

 Kはそのクレジット越しに、最後まで湖の姿を見つめていた。

 上映が終わった。スクリーンは黒い映像が続く。けれど、照明はいつになっても、灯ることはなかった。横にいる長谷川セレーネの方を向いたが、輪郭は判然としなかった。手を伸ばしてみた。だが、誰にも触れることはなかった。Kは、電気の点灯を待った。



 いきなり、ものすごい照明が、劇場内に一気に灯った。

 と同時に、カメラのフラッシュがたかれ、人の声が飛び交うようになった。

 Kはなかなか、目を開けることができなかった。

「ちょっと、君。そこにいると、邪魔だから、こっちに来て。さあ、早く」

 Kは肩に触れられ、別の場所へと、誘導されることになった。

「ちょっと、何なんですか」

 Kはささやかな抵抗を見せた。

「舞台挨拶だよ。君は、取材の人間か?」

「違いますけど」

「速やかに、退席するように」

 すでに、場面は、記者発表の場へと早変わりしていたのだ。

 さっきまでの、映画が流されていたスクリーンには、北川裕美をはじめ、出演者がずらりと、横一列に並んでいた。

「ただいまより、映画『アトランズタイム』の舞台挨拶を、始めさせていただきます。主演の北川裕美さん、同じく、主演の・・・」

 Kは、この強烈な光の嵐から逃れるように、速やかに会場から去った。

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ザマスターオブザヘルメス1 前夜の紋章 @jealoussica16

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