いい人形

葉野赤

いい人形

 いい人形があるそうだから見に行かないか、と木原に誘われたのは昨日の昼ごろだった。たしかに人形は気になるが私は明日魚だから水がないところには行けないと断ると、道中折々で水をかけながら行けば大丈夫だろうと言われたので、特段予定もないし、それじゃあということで出かけることになった。


 翌日は午前9時きっかりに木原がうちに来た。初めて見る木原の車は白いミニバンだった。助手席に乗ると、さっそく足元に水の入ったバケツがあった。カルキは抜いてあるよと言うので、別に平気だからそこまでしなくても大丈夫だったのに、と私は笑った。私は一定時間おきに足元にその水をかけたり、時にはそのバケツの中に入って全身で泳いだりした。カルキがあっても別に平気なことは本当だが、やはり抜いてあると泳いだときの気持ち良さが全く違うことは確かだ。


 やがて車が大きな川沿いにさしかかると、木原は車を停め、あれを見て、と川べりに立っている老人を指差した。その老人はとても長い釣竿を持っていた。あれが名人なんだ、見ていて、と言われるまま見ていると、やがて老人は長い釣竿を大きくしならせ、釣り針を川に飛び込ませた。釣り針が川面に落ちる瞬間、音はまったくしなかった。あれが名人の技というものなんだろうか、と思いながら見ていると、なぜかどんどん気分が悪くなっていった。やがて吐き気を覚えるに至り、私は車のドアを開けて道端に吐いた。釣り針が何十個も路上にばら撒かれた。木原が心配そうに背中をさすりながら、本当に悪かった、今日は魚だということを忘れていた、と心からすまなそうに言った。いや、自分でも忘れていたから、こちらこそごめん、と私は謝り返した。


 それからは木原も私もお互い何だか言葉少なになってしまい、私は回復する目的もあって目的地に着くまでの時間のほとんどをバケツの中で過ごした。だから外の景色も見ていない。1時間ほど経ったろうか、着いたよ、という木原の声で私はバケツから出た。そこは外観は何の変哲もない民家だったが、玄関に「ご自由にご覧ください」と張り紙があった。私は念のためバケツを持って家に上がった。二階の一番奥の部屋に人形はあった。それはたしかにいい人形だった。瞳の色がとても綺麗な臙脂だった。臙脂という色はこういう色なんだと初めて知った感じがした。私はなんだか元気が出てきた。木原は、話に聞いていたより断然いいな、特にこの瞳、臙脂ってこういう色のことを言うのかという感じがすると言った。私は、そうだね、と言って笑った。

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いい人形 葉野赤 @hanoaka

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