ネオマヤン5 アンベイルドビックバン編

@jealoussica16

第1話


第5部 第11編  アンベイルド




















 クリスタルガーデンは、遠目からは黄色い照明と青の照明が中心となって、夜の街にその存在を浮き上がらせ、高級保養地のような様相を世界に表現している。

 水面の下からライトアップされているプールの中に、シカンはいた。

 温水のプールはぬるめの温泉のように心地よく、彼は仰向けになって、夜空を見ながら浮かんでいた。寒さの緩んだ夜だったが、水から出れば、数分とその場にはいられないほどであった。

 プールサイドには女の姿があった。女はビキニを着ている。ゆっくりとシカンのいる場所へと近づいてくる。シカンは女の存在に気づく。手を差し伸べ、彼女を水の中へと招く。そのまま女の身体を抱いて、彼らは長いキスをする。シカンの手は女の背中に伸び、そのあとは首へと移動する。背中に戻り、さらに下へと移っていく。

 シカンは感情を抑えるように、その後、女からは離れ、再び仰向けになって、空を見つめる。女の長い髪はすでに半分以上濡れていた。青いビキニが白い肌にぴったりと吸い付いている。

「夜のプールは、最高だな」とシカンは女に言った。「闇の中で、照明を照らして、水の中に身体を浸す。こんな贅沢はない。海だとこうはいかない」

 女は両腕を上げて、ビキニの上を外した。シカンに近づき、彼の首に抱きついた。

「明日の昼、送っていくよ」シカンは女の耳元で囁いた。


 女はシカンの首にキスを繰り返した。再び唇へと移り、そのあとで耳を噛んだり舐めたりを繰り返した。二人はその後もくっついては艶めかしく抱いたり、キスしたりを繰り返した。また離れ、お互い水に浮きながら、空を見上げるということを繰り返す。

「そろそろ、出よう」

 シカンの問いかけに、女も同意する。

 シカンはプールサイドに上がり、女に手を差し伸べる。夜風が身体を一気に冷やした。

 二人は小走りで建物の中へと向かった。温水のシャワー室に入り、再び抱き合う。

 シカンは女のビキニの下を脱がせた。女の身体を覆うものはなくなった。シカンは下着を脱ぐことはなかった。女と抱き合い、それでもシカンの手は、女の胸や局部に触れることはなかった。背中から尻にかけて、何度も丁寧に触っているだけだった。女もシカンの局部に触れることはなかった。ずいぶんと長い時間、二人はシャワーを浴びていた。二人の息は同じくらい荒くなっていた。

 シャワールームを出た二人は、タオルで自らの身体を拭く。下着を身に着け、服を着ていく。二人は庭を歩き、さらに奥の宮殿のような建物を目指していく。噴水の脇を通る。冬なのに草木が瑞々しく生い茂っている。手を繋ぎ、ときには腰に手を回し、キスをし、二人は黄色の照明に照らされた住居の中へと入っていく。

 正面玄関に到着する。靴を脱ぐことなく、直進をする。左右には獅子の像が立っている。真ん中には幅の広い階段がある。天井にはシャンデリア。二人は手を繋ぎながら、まるで舞踏会にこれから出るかのような雰囲気で階段を登っていく。廊下も広い。木で出来た壁は木目が綺麗に見え、艶が生き生きと出ている。長い廊下の一番奥の部屋の扉を開け、シカンは、女を先に中へと入れる。シカンは後ろを振り返る。そして、中へと入る。

 電気をつけると、そこには大きな木製のダブルベッドがある。アンティークの家具が設えている。部屋中が丁寧に加工された艶やかな木の世界だ。高価な照明が、その空間に演出を加えている。女はすっかりと世界に魅了されていた。目の前のシカンを求める、目が、さらに濡れていった。

 シカンはゆっくりと、彼女の身体に触れ、着ているものを脱がせていく。

 女もシカンの衣服を脱がせていった。シカンは、女の肌を堪能し、女にも自分の肌を堪能させた。二人はさまざまな形で、お互いの肌を重ねていった。味わいつくし、快感が限界に達する寸前で、巧みに回避することで、最後の一線を超えることに耐えた。

 二人の忍耐力は、そろそろ限界に達しようとしていた。

 二人は、お互いの欲望を、相手の身体に向けて、激しく解き放っていた。

 痙攣した二人は、そのままお互いの身体を抱き締め、そのあとで今度は、ベッドの上で仰向けになり、見えない夜空を思い浮かべて、プールサイドでの続きの世界に浸っていった。



 シカンは目が覚める。性行為の後で、ぐっすりと寝込んでしまっていた。隣には裸の美しい女が横たわっている。シカンは布団を捲り、眠っている女の乳房にキスをする。女が起きる様子はない。顔にかかった黒く長い髪を、シカンは指で優しくどける。

「起こしちゃったか」

 女は、ゆっくりと瞼を開けたが、その大きな瞳は、一瞬で見開いていた。

「その眼に、吸い込まれそうだ」とシカンは言った。

 女は、軽く微笑んだ。

 女はうつ伏せになる。シカンは、女の背中に舌を這わせる。女は敏感に反応する。あまりに弾力のある肌に、シカンは、この上ない至福を感じる。女の締まった尻を、両手で柔らかく掴む。

 女は、尻をほんの少しだけ浮かした。そして左右に軽く振った。シカンは、尻の割れ目に指を這わせた。女を四つん這いにさせた。女の局部を後ろから眺めた。いろんな男に弄ばれたことはないと、そう信じるその秘部に、シカンは、尖らせた舌で接触を試みた。過去に受け入れた男のことを、訊くことはできなかった。慈愛に満ちた眼を持ち、抜群のスタイルを持つ女を放っておく男などいない。主導権はすべてこの女にあった。どれだけ寄って来た男を拒否したのかと、そう質問するのが、最も適当であった。

 二度目の性行為は、すべて女が後ろ向きのスタイルで貫いた。女がシカンの局部を愛することはなかった。一度目は、すべて表向きでフィニッシュを迎える。シカンは数時間前に、激しく射精したにもかかわらず、女の中に入ると、一度目よりも自身が固くなっていることがわかった。奥まで挿入し、また抜けてしまう寸前まで戻す。

 何度か繰り返しただけで、シカンは全身の熱が、女との接続部分に、集中していることがわかった。そのままシカンは動くことをやめた。女は四つん這いの体制のまま、後ろを振り返った。大きな左目が、シカンの両目を射抜いていた。女は、快楽のほとんど入り口にいるようだった。早く私も、気持ち良くしてくれと直訴しているような目だった。シカンはその目に耐え切れず、腰を動かさざるをえなかった。

 女は再び下を向き、ときに背筋を反らせ、前を向いたり、下を見たりを繰り返した。それからは、シカンの方を振り向くことはなかった。お互い顔を見なくとも、すでに二人の肉体は完全に一つになっていた。シカンは、彼女の中に発生した快楽の渦を、まともに自身の性器に受け取った。そして激しく脈を打ち出したことを知る。さらには、その脈を打つ震動が、今度は、彼女の性器の中に伝道されていき、その瞬間、女は大きな声で快感を表現した。シカンは、闇に浮かび上がるクリスタルガーデン全体に、精液を放出するかのように、二度目の交わりを、最終ステージへと到達させた。


 しばらく、四つん這いの状態は続いた。そのあと、シカンが女の外に出ると、女はすぐにベッドから出て、床に散らばった下着を集め、身体に戻していった。シカンも、無言で自分の服を着ていった。すべての服が着終わったとき、女はシカンの頬にキスをした。

「あなたの家は、最高ね」

 女はそう言って、今度は、唇同士を重ね合わせた。

「また、呼んでね」

 女は、シカンの耳に、キスをしながら言った。

「私は、いつでも、オーケーだから。素敵な場所に、また招待して」

 シカンと女は、共に一晩をすごさないと事前に合意していた。シカンは朝早くに家で仕事をする必要があり、女のほうも、明日は早く家を出ないといけない用事があった。今は午後11時を回ったところだった。12時までには、一人きりになるという予定だ。まだ一時間近くある。シカンは、女を引き留めたかった。叶うなら、もう一度抱きたかった。だが、ここで別れるのが、最も自然な流れだった。

「送っていくよ」シカンは女に言う。女はすでに、黒のコートを着ていた。

 午後三時過ぎに、カフェで待ち合わせをし、お茶をしたあとで早めの夕食をとった。ゆっくりと話したあとで、七時に家に入った。それからプールで遊び、一度目のセックス。少し眠ったあとで、二度目のセックス。丸々半日、一緒にいたことになる。

 シカンは、最大の満足を得た一夜の行為を終えようとしていた。クリスタルガーデンを購入して以来、誘いに応じる女の数は、飛躍的に増えていた。人生の中で、これほど女に不自由しない時期はなかった。デートのほとんどは、この家の中だった。待ち合わせをして軽く食事をする以外は、すべてがこの家の中で行われた。女を送り届けたあと、女の匂いと一つになった、二人の痕跡が残ったベッドの中で、シカンは休息をとる。朝になると、ハウスキーパーがやってきて、一夜の行為の痕跡を完全に消してくれる。ベッドメーキングと掃除が完璧に行われる。また数日をおいて、部屋には別の女がやってくる。

 女を送り届けたシカンは、クリスタルガーデンを再び外から眺めていた。

 我ながら豪奢な家だった。中世のヨーロッパの貴族と勘違いしそうになる。こんな家をよく手にいれることができたものだ。金の力は絶大だった。ライトアップされた宮殿のような佇まいの建物は、外側から見たほうが遥かに美しい。もちろん部屋そのものも素晴らしかったが、女といるときは、そんな周りの様子など、まったく目に入ってくることはない。女が帰り、一人部屋に帰っても、その内装に心が躍ることはない。むしろ、より心細さが増していく。女が帰ったあと、朝まで一人きりで過ごすこの時間は、熟睡することで、別の世界に意識を飛ばした。正気に戻ったときには、すでにハウスキーパーが来ていて、朝食の準備をしてくれている。


 家は完全に自分のものになっていたが、維持費にはかなりの額を擁することになる。

 シカンは手放すときのことを考えた。半永久的に所有することなど、不可能だった。

 いや、しかし、以前と同じように、わき目も振らずに働き続ければ、所有し続けることは可能だった。しかしそうなれば、このように気が向いたときに、丸々半日にわたって女と過ごすことなどできなくなる。

 やはり、いずれは、終わる。そう考えると、シカンは毎日、女をここに呼ばなければ、もったいないように思えてきて焦燥感が沸いていった。時間は刻々と過ぎていく。一週間に一度か二度、女と過ごしたかったが、それ以上となると、逆に煩わしくなってくる。やはり今のペースがベストだ。しかし、終わりの刻を無視することは、不可能だった。

 翌日から二日。シカンは自分のパソコンで映像の編集作業をした。その合間に映画の脚本をかき、洗練させていった。この貴族のような生活が終わるときには、映画の構想が、複数存在している。それだけが唯一の救いだった。


 三日目、シカンは何故か編集作業に没頭することができなかった。気持ちを一か所に集中させることができなかった。というよりは、この家の地下へ地下へと、意識がいってしまったのだ。放っておけば、このまま地面の下にまで潜っていってしまう。そのときは地下室があるなどとは、これっぽっちも思わなかった。何かに突き動かされるように立ち上がり、編集室の外に出た。螺旋階段を下る。吹き抜けの階段の頭上に吊るされたシャンデリアが、いつもより暗く見える。いつもと何かが違った。

 シカンは、自分が編集作業に没頭しすぎていたために、まだ意識が目の前の現実に戻っていないことが、原因だと思った。しかしそんなはずもなかった。今日はまったく作業に集中できなかったのだ。螺旋階段は終了する。一階へとシカンは降り立つ。

 だがここで終わりなはずがない。そう思った。シカンは広間に行き、廊下を通じて、玄関へと行った。数分のあいだ、行ったり来たりを繰り返した。地下へと繋がる空間は、いったいどこにあるのか。床の固さに敏感になった。構造上、住人には隠す設計になっているのだろう。シカンはそう考えた。

 この豪邸を構想した設計者は、いったい何者なのか。自分の意志でこの物件を選び、購入したはずだったが、なぜかこの時は、違う想いが湧いてきた。俺は、選ばされたのではないだろうか。この物件の設計者に。この建物を、この場所へと、存在させようとしたその人間に。

 シカンは、それ以上、下へと伸びる階段を探すのをやめた。そんな行動は、無駄だった。

 俺を誘導するその力に任せれば、時が来たときに、地下へと吸い込まれていく。それだけだ。

 宮殿の、別の姿が見えることへの好奇心が、急激に高まってきた。その光景を見た瞬間、俺は、この宮殿を失うんだろうな。そんな気がした。こんな絢爛な生活が、このあとも続くはずがない。経済的な理由からだけではなかった。心がもたなかった。本来のいるべき場所ではないと思った。



「誰かが、引き継がないと」

 Gは井崎に向かって強い口調で言った。

「万理さんが、まだ、行方不明のままなら、この僕が、彼女の映画が担ってきた役割を、引き継がないといけない」

「どういうことなんだ?」

 井崎には、Gの真意がわからなかった。「お前、映画でも撮るの?」

「そうじゃないです。そういう形の問題じゃない。何でもいい。映像であろうが、舞台であろうが、書籍であろうが。僕を、舞台俳優にしてもらえませんかね。そんな、他人任せの発言はよくないか・・・。俺を主演に据えた舞台がやりたい。そのために動いてくれないか」

 井崎は、Gの熱意に面食らった。

「どうしたんだよ、急に・・・」

「どうしたも何も、万理さんはいなくなったんでしょ!最近の週刊誌に出てましたけどね。あの記事の内容が本当なのかどうかは、もちろんわかりませんが、しかし、万理さんは、もう二度と、この芸能界には戻ってこないと思います。彼女がどんな活動にのめり込もうとしているのかは興味ありません。しかし、誰かに連れ去られたとか、事件に巻き込まれたとか、そういうことではなさそうです。彼女は、自らの意志で、この世界から退場した」

「俺は、どうしていいのか、わからん」

「だからこそ、です」Gは言った。「この僕に、役割が生まれ出てきたんです。だいぶん前に、たしか、二年くらい前でしたか。あなたが、僕を見つけたことの意味が、今初めて、明確になってきたんですよ。あなたの直観は、だいぶん、未来にまで伸びていた。今、つじつまが合った。何ですか。あなたって人は。辻褄が合うと、逆に、面食らってしまうんですか?反応が極端に鈍いです。素直に受け取ればいいでしょ。元々は、自分が蒔いた種なんだから」

 井崎は、Gに責められっぱなしだった。「蒔いた種か・・・」

「いいですか。三日間の公演にしてください。三日間、大き目な劇場を押さえておいてください。いいですね。日時は任せますから。あなたの好きな場所で、好きな時間で組んでください。僕からの条件は、三日間の連続公演にしたいという、ただの、それだけです。内容に関しては、あなたが考える必要はないです。脚本家を招く必要もない。原作は、この僕が、担当するんだから」

「なるほど!」

 井崎は突然、眠りから覚めたかのように大きな声を出した。

 身体を起こし、前のめりになって立ち上がった。

「そういうことか!原作をね。それを、万理から引き継いだってわけか。つまりは、万理が、ずっと起こしてきた物語のその先を、君が引き継ぐってことだ。それなら、理解できるぞ。そういうことか。なるほど。形はどうだっていい。どんな表現手段に、なろうとも。そうだ。そのとおりだ。人それぞれに資質ってものがあるからな。それは、そうだ。君は、映画監督ではかった。舞台俳優か。いいだろう。モデルではまったく売れない。そうか。そういう運命にあったんだ。お前は、今、そのことに、気がついた。俺もね、君の扱いには、ほとほと参っていたんだよ。どうして、こんな男に声をかけて、連れてきてしまったのだろう。少し顔が整っているから、モデルをやらしてみたんだが、どうにも違う。でも、切ってしまうわけにもいかない。何かがひっかかる。やっと見つけたか!そうか。万理がいなくなったのも、そう悪いことばかりではなかったんだ」

 井崎は、急に息を吹き返した。逆に、Gがしり込みしてしまった。

「その話、引き受けたよ。すべてを、任せると、言ったな」

「ええ、原作以外は」

「演出は?」

「それも、井崎さんに、任せます」

「俺には、そんな才能はないから。まあ、誰かに任せることにはなるけど」

「構いません」

「わかった」

 Gは、宜しくお願いしますと頭を下げた。



 地下へと伸びる階段が現れることはなかった。異変は別のところに出た。

 廊下の突き当たりであった場所が、さらに奥行を増していた。そこは、確実に壁で覆われていた場所だった。マジックミラーが張られたかのように、その奥もまた、視界で確認できていた。そのまま、廊下が延長されていたのだ。見間違いではないことを、近づいていくうちに確信する。大丈夫だ。肉体が侵入を阻まれることはない。シカンはまっすぐに進んだ。

 絨毯は同じ柄のままだった。十字路が現れる。右に進む。ホテルの廊下のように、各部屋の扉が壁に沿って現れる。どの扉も開いてはいない。彼は扉が偽物ではないことを確認するために、素手で触れる。ドアノブは立体感があった。本物だ。次第に、十字路が現れる頻度が増していった。シカンは構わず右を選ぶ。いつのまにかT字路に変わっていた。

 右へと行く道はなくなった。シカンは右と左を気まぐれに選び、ジグザグに廊下を進んでいった。気づいたときには、彼はホールのような場所に出ていた。天井は吹き抜けで丸い窓が付いている。だが、太陽の淡い光は入ってきていない。代わりに、青いライトが薄らと照らされている。ホールの真ん中には、白亜の階段が用意されている。まるで井戸のように、ぱっくりと地底への穴が開いている。シカンは迷わずに近づいた。だが、一歩目は、恐る恐る踏み出した。構造上は、特に問題はないらしい。シカンは全体重をおもいきって右足にかけた。シカンは、リズムよく一歩一歩、階段を降りていった。暗闇が広がっているわけではなかった。そこでも、青い照明がずっと続いていた。十字架のデザインをあしらったマークのようなものが、それぞれの段に彫られている。

 シカンはあっというまに、階段を降りきった。そこには、またもやホールがある。さっきとほとんど、変わらないように見えた。しかし、空間はさっきよりも確実に、拡がっていた。そして、真ん中には階段が存在してなかった。



「わたし、脱ぎたいんです」

 セトは、耳を疑った。目の前には、長谷川セレーネが立っている。

「一糸纏わぬ姿を写真に収めて、本にするのもいいですけど、ちょっと違う。やっぱり、あの最初のファッションショーの時のように、舞台ですべてを脱ぎ捨てたい。生のライブで、私の本当の姿を見てほしい。もちろん、あの時は、セミヌードのレベルだったけれど。今度は違う。何も細工はしたくない」

 セトは呆然としたままで、ただ、長谷川セレーネを見つめているだけだった。見つめているというよりは、彼女の輪郭を眺めているだけのようであった。

「社長が、そんな反応を示すのは、わかっていた。でも、私の心はもう決まっているんです。想いは、抑えきれない。この溢れ出てくる想いに、形を与えたいんです。そうしないと、私は駄目になってしまう。壊れてしまう。永久に塞ぎこんでしまう。すぐに理解してくれとは言わない。でも」

 誰かが部屋に入ってくる気配はなかった。

「ちょっと、待て」

 セトが第一声を上げた。

「ええ。いくらでも、待つわ」

「そういうことじゃない。君の問題じゃない。俺の問題だ。ここのところ、俺は、抜け殻のように存在していた。実体のない浮遊霊のように。VAの社長という肩書だけが、ふわりと浮いているだけの。俺はそこにはいない。そのあいだは、君とも、話した記憶はない。誰とも関わった記憶がない。でも、現実は、そうではないはずさ。俺はいつもと変わらずに、業務をこなしていた」

 セトは突然、眠りから目覚めたようにしゃべり出した。

「君には感謝するよ。君の言葉で、完全に心を取り戻した。俺は、今、ここに確実に存在している。そうだろ?」

「ええ。あなたは、確かに、ここにいる」

「それで、話は、それだけか?」

「そうよ。すぐに、了承してくれとは言わない」

「それを見越しての、今このときの告白か?」

「そうじゃないわ。そういう計算は何も。ただ、今しかないと思った。想いは言葉にして、この空間の中に作りださないと。それだったら、相手は、あなたが適任だと。いずれは、あなたに話を通さなければならないわけだから。だとしたら、噂で耳に入ったり、誰か別の人間から、間接的に訊くよりは、このほうが手っ取り早くていい。そもそも、これは、本心なんだから。それに、他の人に漏れる心配もない」

「わかったよ。一応、俺の胸にはとどめておくよ。だが、返事は、しばらく待ってくれ。といっても、間違いなく、許可するわけがない。どうして、このタイミングで、裸を晒さないといけない?脱ぎ損になるぞ。君は、裸になる必要がない。そもそも、誰が、それを望んでいる?そういうファンも、多少はいるだろうが、だが、ほとんどの人間は、君にそんなことはしてもらいたくないはずだ。裸体というのは、簡単に晒すものじゃない。それが唯一の売り物にしかならなくなったタレントだけが、やるものだ」

「偏見の塊ね!」

「そうじゃない。俺は、事務所の代表だ。タレントの不利益になる行為を、どうして承認する?」

「わかってる。わかってるわよ。とにかく、私は、自分の想いをはっきりと口にした。その想いは、今、現実の空間に存在するようになった。そのことが大事なの。まずは、そこから。悪かったわね。いきなりショックを与えてしまって」

 長谷川セレーネに見つめられたセトの心は熱くなった。もしこの場面が、ただの男と女の邂逅という空間であったのなら、と考えてしまった。

「いや、そのことなら、逆に感謝してるくらいだ」

 長谷川セレーネは、短い面会時間を、自らの手で終了させた。扉を開いて、事務所をあとにした。

 セトの周りには、彼女の艶やかな香りだけが、残った。



 クリスタルガーデンの地下にある、この円形のホールには、湾曲している壁にいくつもの扉がついていた。その扉の一つが、白く輝いているように、シカンには見えた。彼はその扉に、自然に引き寄せられていった。しばらく、ホールで心を落ち着け、この光景をしっかりと見尽くしてから、できればその扉に向かいたかった。しかし心はすでに、別の空間へと引き寄せられている。シカンはその衝動に従った。ほとんど力を入れなくとも、手をほんのわずかに触れただけで、その扉は前へと開いた。シカンは吸い込まれるように、その奥へと入っていく。一瞬、暗闇に包まれた。だが視界は徐々に晴れていった。すぐに白い霧のかかった情景へと移り、だんだんとその霧も取り除かれていった。手入れの行き届いた家具が並んだ部屋が、輪郭を整え始める。出窓は勢いよく開き、澄んだ気持ちのよい風が、室内へと入ってきている。カーテンは揺らめいていた。

 男がソファーに座り、窓の外に見える庭園のような場所を眺めている。ドアをノックする音が聞こえてくる。ゆっくりと男は振り返った。中世ヨーロッパ風の装いをした女性が入ってくる。その後ろからは、メイド姿の女性が・・・。まだ幼くみえた。

「お食事は、こちらになります」

 メイドの女は言った。

「ありがとう」豪華な衣装を着た女は答えた。「あなた、ご気分は、いかが?」

「それでは、お邪魔になるので、私はこれで」

 メイド姿の女は言った。「食事の終わる頃に、また伺います」

 メイドは去っていった。

「あなた、昨晩はよく眠れました?わたしは全然駄目でした。興奮してきてしまって。だって、聞きました?ついに始まったんですって。革命の火ぶたが、切って落とされたんですって。首都にいる若者、つまりは、大学生の男たちが、革命の狼煙を上げたんですって」

「そうか」

 男は答えた。中年の域に入りかけた年齢に見えた。

「あなた、どうして、そんなに平然としてられるの?首都は大混乱してるのよ」

「騒いだって仕方がない。ここは、首都ではないぞ」

「まあ、なんて、悠長な」

「だってそうだろう。そんな若い奴らが暴れたって、それでいったい何になる?しばらくすれば、そんなものは押さえつけられる。おとなしくなる。首都のほんの片隅で、起こっていることだ。私たちのところに飛び火するのには、まだ、時間がかかる」

「いつ、この生活が消えてなくなってしまうのか。私は気が気でなりません。あの若い男たちは、貴族や王族たちを、目の敵にしてます。民衆に自由を。その合言葉をもとに、市民から、多くの支持も得ています。私はこう思います。いずれは、この地方の小さな村においても、土地を持ち、その一体を支配している領主は殺され、その権益は、彼らのもとに没収されるはずです。私にはそういう未来が見えます。これは子供の遊びではない。社会全体を一変する革命に、必ず発展します」

「ずいぶんと、若いものに肩入れしてるね」

 男は話半分に聞いていた。「それにね、もし、社会の秩序が、本当に根底からひっくり返るのだとしたら、我々は何をすればいいんだ?今、この時点で、民衆の側につけと?未来の権力者になる側を、はやく支援しろと?」

「そうは、言っていません」

「じゃあ、どうしろと」

 女は言葉に詰まった。

「ほら、みろ。今は、静観しているときなんだ。時代がどう転ぶのか、見極める時期なんだ。はやまってはいけない。こうだと決めつけてはいけない。あらゆる可能性の中で、自分たちの立ち位置を、決めなければいけない。俺が、ただ呑気に、傍観してるだけに見えるか?まあ、見えるか。はははは。そうだな。だがな、今、君のように、あたふたしていても何も始まらない。具体的に、こうだっていう方向性が見えたときに、一気に動く。いや、でも、君はそんな感じでいいんだよ。それだって、一つのあるべき反応なんだから」

 そのあと、二人は、会話をすることなく、淡々と食事をとった。


 突然、停電になったかのごとく、シカンの視界は暗くなった。だが次の瞬間には、すぐに光は蘇っていた。同じ部屋であったが、どこか数秒前とは違うように思えた。家具に変りはないか、確認した。ほんの少しだけ、位置がズレているような気がする。部屋には誰もいなくなっていた。食事をとる夫妻の姿もなく、しかも、食器類はどこにもなくなっている。

 メイドが配膳に来た様子もない。あっというまに片付けが終わっていた。

 だが、何かが変わったのだと感じるその直観は、間違ってなかった。季節が変わっていたのだ。出窓は締まり、カーテンを揺らす風の存在もない。窓が開いていなくとも、空気は、凍てつく強張りを見せている。暖房が入れられている様子はない。そんな寒々しい空間になっていた。

 シカンは誰かが部屋に入ってきて、この膠着した状況を変えてくれることを望んだ。しかし、状況はいつになっても変化はしない。もしかすると、この建物には、誰の存在もなくなっているのではないか。出ていってしまったか、捕らえられてしまったか。本当に政変が起こり、彼らの平穏な生活は脅かされた。

 シカンは、この建物の外観を、確認したわけではなかったが、もしかすると城なのではないかと思った。あの夫婦は、城を所有している領主なのだ。この辺り一帯の。

 静寂は打ち破られた。ドアが勢いよく開かれ、領主であるその男が入ってきた。ソファーに座り、また勢いよく立ち上がり、窓の外を見る。再びソファーへと身体を預け、しばらくは、ぴくりとも動かなくなる。かとおもったら、立ち上がり、壁に自分の頭をぶつけ、そして俯いてしまう。何度も繰り返した。彼の歳の半分ほどの、若い男が、部屋に入ってきたことに、彼はまったく気がつかなかった。そのあらたに現れた若い男が、取り乱した男の身体を受け止めた。

「落ち着いて!何があったんですか」

 若い男は、状況が飲みこめてはいないようだった。

「奥様から、様子を見て来いと」

 領主の男は、抵抗するのをやめた。

「お前たち、もういいから、早く逃げろ」

「えっ」

「逃げろといったんだ。この城から遠くに、離れろ!ここは、奴らの目印になっている。ここを攻め込んでくる。お前はまだ若い。命を大事にするんだ。無意味に殺されてはいかん。俺はやることが残っている。この城の中にある美術品の数々を、別の場所へと移動させなければならない。奴らには絶対に見つからないところに。なに、大丈夫さ。地下に通じる道から別の場所へと、ちゃんと移動できるようになっている」

「そんな無茶な」

「いいから、早く行くんだ!それと、村の人たちにも、伝言を頼む。そういうわけで、城を目指して、群衆がやってくる。彼らは、この城を破壊しつくしたあとに、周りの住居を標的にする。だから、避難するなら、今しかない」

「待ってください。あなたを置いて、先に逃げるなんて、この僕にできるわけが・・・」

「そうじゃない。あいつと一緒に、行ってくれ」

「奥さんですか?」

「あいつを守りながら、行ってくれ」

「そういうことですか。でも、あなたは」

「大丈夫だ。やることが終わったら、俺も必ず、その秘密の抜け道から別の場所へと脱出する。ちゃんと合流できる」

「けれど、我々の行先は、いったいどこに」

「首都だよ。まさに、戦禍になってしまった場所に、飛び込んでいくんだよ。一般の市民に成りすまして。着替えて、それらしく振る舞うんだ。いいか。必ず合流を果たすから、それまでは、何とか辛抱してくれ。俺は、この城と城に纏わる美の象徴の品を、守らなければならない。これは俺だけのものではない。歴史が繋いできた人間の宝なんだ。俺の代で、途絶えさせてしまうわけにはいかない。わかったな」

 若い召使であろう男は、何も言えなかった。

「緊急事態なんだ。考えている暇などない。さあ、行け!しばらくのあいだ、あいつを頼んだぞ」

 男の声には、威厳の中にもほんの少しだけ、震えが含んでいた。


 場面は次へと移った。

 シカンは黙って、部屋の様子を見守った。領主の奥さんも召使も、すでに城の中にはいなかった。場面は応接間ではなく、地下室になっていた。酒蔵のような場所で、樽をどかしている領主の男の姿がある。すでに、煌びやかな衣装は脱ぎ捨てている。農民から服を借りたのだろう。襲撃者に出くわしたとしても、言い逃れの出来る恰好に、すでに変わっていた。彼は骨董品や絵画を、何十点と、地下へと運び込んでいた。そして、樽をどけた場所にある、木のドアを開ける。中は六畳ほどの広さの空間があった。彼はそこに品物をどんどんと詰めこんでいった。その作業を終えると、彼は再び樽を元の位置へと戻した。

 ほとんど、それと同時に、上の階が騒がしくなる。人が入ってきた模様だった。男は耳を澄ませ、様子を伺った。部屋の中をうろついている、複数の人間の足音が聞こえてきた。領主の男は梯子を登り、ゆっくりと地上へと戻っていく。足音は二階へと続いていた。すでに部屋を破壊する音が聞こえていた。窓が割れる音、家具類が倒される音。なんということだ。男は頭を抱えた。家具調度類を、安全な場所に移す時間はなかった。城そのものを壊すことはしないだろう。男は侵入者に気づかれないように、建物の外へと出た。だが、さらなる侵入者に出くわしてしまった。馬に乗った若い男たちが、無数に入場してこようとしていた。男は彼らに囲まれてしまう。

「おい、お前は、誰だ。ここで何をしている?」

「ええ、わたくしは、ここの近くで、農作物を作っている男でありまして・・・。その、いったい何があったのですか。こんなに物々しいときも、珍しい。わたしは、城に、農作物を届けに来た者です」

「なんだ、農民か。はやく行け。お前に用はない」

「いったい、何でございましょう。領主はいませんでした。城の人間は、みな、いなくなってしまいまして」

「ちっ。逃げちまった後か。まあいい。畏れをなしたという証拠だ。悪い兆候ではない。この調子で貴族ども。さっさと、我々に、それまで溜めこんだものを、素直に渡していけばいいんだ。お前らの時代は終わった。この城も頂いた。だが住むことはないだろう。こんなにも、のどかな田園風景を見て暮らすのは、退屈だ。売りとばす。いい金になる。他にもいろいろと、金になるものはある。全部、売りとばす。さっさと逃げてしまって、こっちとしても、都合がよかった。彼らがいて抵抗でもされたら、激しい戦闘になった。そうしたら、金目のものだって、みな灰と化してしまった。さあ、お前は、早く行んだ!お前なぞ、何の値打もない!」

 農民に扮した領主の男は、こうして、襲撃者から逃れることができた。

 だが、男はこのまま、首都に向かうことはしなかった。城の様子を、壁の背後から見ていた。男は思った。俺は領主なのだ。このまま大人しく引き下がるわけにはいかなかった。時代は変わった。けれども、あいつらに、この城の価値などわからないのだ。美的感性のまったく欠如した、新時代の若者よ。お前らの作る新しい世界には、おそらく何かが、著しく欠けることになるだろう。


 どれほど、時間が経ったのか。城の中では宴会が始まってしまった。今となっては、平穏で優雅な世界はどこにもなく、あれくれ者だけが下品に滞在する、酒場のような場所に変貌してしまっていた。男は城へと入場して広場に立った。突然、大声を上げた。彼は自分がここの領主であることを告白する。農民の恰好で、一度は脱出を図ったが、戻ってきたことを告げる。彼は首都に逃れようとしていたことを告白する。すでに、妻や子供は移動した。自分も後を追うつもりだったと。ところが、気持ちが変わった。いや、変わったというよりは、初めから決めていたのかもしれない。最期、俺は、この城を見届ける義務があるのだと。俺が最期の領主なのだ。逃げるわけにはいかない。好きにしろ、と男は言った。やるなら早くやれ。ここが俺の墓場だ。酔っぱらった若い男たちが、顔を覗かせ、眼下にいた男の姿を目にする。男たちは笑った。お前が領主だって?そんなわけがないだろ。さっさと行け!お前には用はないと、さっき言ったはずだ。価値はない。すでに、お前は金になりそうなものは何も身につけてはいない。さっさと行け。行くんだ!お前が本当に領主だったのかどうか。そんなことは何の関係もない。さあ、行け。俺たちの酒をまずくさせるな。この、こ汚いオヤジよ。男たちは笑った。まだ、青年から中年の域に入りかけた男のように、シカンには見えた。

 領主だった男は、屈辱に満ちた顔になった。全身からは力が抜け落ちてしまっていた。

 その場にへたり込んでしまった。だが次の瞬間、彼は背中に担いだ猟銃を乱射させた。若い男たちは、その銃声を聞いて、一気に酔いが醒めてしまった。慌てて戦闘態勢に入った。領主の男は、彼らのいる部屋を目掛けて銃を打った。だが、それが、自らの身体の一部であった城を傷つける行為であることに気づき、その矛先を地面へと変える。男は、決意に満ちた表情を浮かべ、自らに向かって、最期の弾を解き放った。


 しばらく、何が起こったのか、シカンにはわからなかった。目の前の情景が、今本当にあった出来事なのか。シカンはいつの間にか、地下の円形のホールにいた。青い光が彼を照らしていた。頭の中には、銃声が色濃く鳴り響いていた。薬莢の匂いがしてくるような気さえする。生々しいシーンは、たったの数秒前に起こったのだった。それが、今はこうして静寂の中にいる。静寂の中にいるからこそ、あの銃声が、ますます、真実味を増すように、脳裏を鋭く突き刺してくる。

 シカンは、周りをぐるりと見渡した。あの扉の、どこかを開けたことで、始まった世界だった。しかし、今は、二度とその扉に近づきたくはない。あんな生々しいシーンなど、もう見たくはない。シカンは、いまだに心の整理をつけることができず、立ち尽くしているだけだった。けれど、このまま階段を登り、地上へと帰っていく気にもなれなかった。せめて、この胸のざわめきが正常に戻るまではと、彼は深呼吸を繰り返した。次第に、銃声は遠くから、鳴り響いてくるようになる。その銃声と共に、蘇ってくる風景も、次第に薄くなっていく。間違いなく、ここはホールの中だった。別の扉には、もう興味はなかった。同じ扉を開けたら、再び、同じ場面に遭遇するのだろうか。まさか、このクリスタルガーデンは、あの領主の持ち物だったのではないか。突然、そんな想いにもかられた。彼が死んだ後、いったい誰が所有したのだろう。どんな変遷を辿り、今こうして、俺のものになったのだろう。

 それにしても、あの光景の中では、城の姿を、はっきりと見ることができなかった。外観に、面影があるかのどうか、それも、不明だった。部屋の中の方は、明瞭に覚えていたが、家具調度類は、そもそもあの時代とは異なっている。しかし、備え付けられた物の質感というか、美意識は共通しているように思われた。

 やはり、何らかの、繋がりはある。銃声は止んだ。夢を見ているようだった。もうしばらく、心を落ち着けていよう。そのあとで、階段を上に登っていく必要がある。いつまでも、ここに留まってるわけにはいかなかった。またこのホールに来ることは、できるのだろうか。

 シカンは再び、クリスタルガーデンを手放すことを躊躇するようになる。近い将来、手放すことは間違いなかったが、行動を起こすのは、今ではなかった。まだ続きを見る必要があった。それからでも、遅くはなかった。それほど仕事を受けなくても、半年はここを所有していられるだろう。そのあいだに、この城が持っている記憶、自分に必要だと思われる記憶は、すべて、この手の中に引き寄せよう。シカンは自然とそう感じていた。



「こちらが、Kくん」

 井崎の事務所には、彼と、Gと、Kの三人が、顔を合わせた。

「彼は、物書きの、見習いみたいなものだ。文章を書く能力は、生まれつき優れている。ただ、中身がね」

「中身が?」Gが訊いた。

「ないんだ」と井崎は笑った。

「特に、書きたいものもありません。でも、毎日、文章が書きたく書きたくて、仕方がないんです」

「そういう病気なんだよ」と井崎は言った。

「そのとおりです」Kも認めた。

「ちょうどいいと思ってさ。君の、今度の、舞台の脚本を担当してもらおうと思っている。なあ、G。好きなように、彼にしゃべれよ。彼の脳に、その物語をぶちこんでやったらいい。そうしたら、何日後には、製本されて出てくるぞ。この男はな、執筆に関しては、超人的なんだ」

「ええ、そのことに関しては、自信が」

「問題は、さっきも言ったとおり!」と井崎は笑った。「書く材料があれば、の話だ。お前にはもう、湧き出してきてるんだろ?」

 Gは、Kのことを、ずっと見ていた。

「おい、聞いてるのか?」

「シカンさんは?」

「えっ?シカン?なんで、シカンが出てくる?」

「いや、だって、あなたたちは、けっこう仲がよかったような気がするから。それに、いつもではないけど、仕事も一緒に、してきたでしょう?今度の件では?」

「今回、あいつの参加はないよ。彼は、別の仕事で、手一杯なんだ。いや、正確に言うと、今はあまり働いていない。仕事の量をセーブして、自分の人生の方を立て直している。半休暇中ってところだ。豪邸を買って、そこでゆっくりと静養している。あいつは働き過ぎた。しばらくは、好き勝手にやったほうがいいんだ。結婚もしてないし、子供もいない。完全に自由な身だしな」

「まさか、万理さんは、あの人のところに?」

「万理?なんで、今度は、万理が出てくるんだよ!お前ってやつは」

「急に、思いついたんです」

「なんで、万理がシカンの家に?」

「あの二人、親密な関係に見えたもので」

「そんなことはない!正直に言えば、シカンの方は、万理に特別な想いを抱いていたようだが、万理の方はこれっぽっちも。別に好きな男がいた。その男とは結ばれることはなかった。別の男と、何人も付き合っていたこともあったが、結局は、その一人の男のことを想っていた」

「詳しいんですね」

 その言葉に、井崎はすこしむっとした。

「あの・・・僕は」Kが、か細い声を出した。

「話を元に戻すぞ」井崎は言った。「悪かった。こいつが、おかしな話を持ち出してきたから」

「いいんです。続けてください」

「もういい。本当に」井崎はKの方を向いた。「ということだから、G。このKくんと、しばらく、一緒にいて話をしてくれ。お前のその脈絡のない、筋の通ってない話し方で、全然かまわないから。Kくんは、とにかく、文章を書くことに常に飢えている。材料さえあれば、頭の中で筋が出来てくる。G、お前が、心配する必要は何もない。すべてを、任せろ。そしたら、その脚本を元に、今度は、舞台のスタッフが演劇に構築していく。お前も、そのプロセスに参加しろ。そして、最終的に演じるのは、お前だ。手筈はすべて整えた。あとは、お前次第だ」

「井崎さん、感謝します」とGは言った。「あいかわらず、仕事が早い」

「お前に、褒められる筋合いはない。俺には、万理のように、物事を生み出すことは、できないんだ」

 そう自嘲気味に言った井崎は、用事があるからと、事務所に二人を残して、去っていった。


 井崎は、VAの事務所が入ったビルへと、タクシーで向かった。セトから話したいことがあると呼ばれていた。

 セトとは、一度だけ会ったことがあるだけで、それも、ずいぶんと前のことのように思えた。

「ご無沙汰してます。長谷川セレーネのことでは、大変、お世話になりました」

「そうでした。こっちは、Gが世話になった」

「あれから、いかがですか?Gくんの近況。または、他のことでも」

「僕は、結婚しましたよ」

「そうですか!それは、結構なことです」

「Lムワの出版の件も、順調にいっています。僕の過剰な期待が、だんだんと減少していくにつれて、不思議なもので売れてきたんです。僕がこの出版に関わっていながら、僕という存在を、どんどんと希薄にしていく。そうすることで、物事は滞りなく動き始めていく」

「なるほど。感慨深い言葉です」セトは深く息を吐いた。「自分という存在を、どんどんと消していく。物事に関われば関わるほどに」

「そう、ありたいものです」

「特に、我々は」とセトは言った。「で、さっそくですが、要件をお伝えします」

「どうぞ」

「長谷川セレーネのことで」

「はい」

「彼女が、突然、昨日、事務所に来ましてね。いきなり脱ぎたいと言ってきたんです。その、脱ぐっていうのは・・・、人前でってことですよ。そういう仕事がしたいと。そんなこと、僕が許すわけがないのに。彼女にとっては、一利もない仕事だ。そうでしょ?即刻、断った。いや、正確に言うと、保留という形で、彼女をなだめた」

 井崎は黙って聞いていた。ときおり目を閉じ、眠ってしまったかのように見えるときもあった。だが、その度に瞼を見開いた。

「何が言いたいのか、わからないでしょう」

 セトは少し声を上ずらせた。

「僕みたいな者に、胸の内を打ち明けてもらって、光栄ですよ。皮肉でも何でもなくて」

「あなたは、僕と、似たような立場だ」

「ええ、そうですね」

「なあ」とセトは、一瞬親しげな声を出した。「そんな裸などは、絶対に許さないに決まっているが、それでも、なぜ、彼女がそんなことを言い出しのか。それは非常に気になるじゃないか。彼女の言葉に寄り添って、なだめないと、彼女はどんな無謀な行動に走るのかわからない。最悪、VAを出ていってしまうことにもなりかねない。けれど、彼女はそんなことはしないだろう。今、VAは、正直、彼女頼みなところがある。君も知っての通り、万理は失踪してしまった。舞の音楽活動も、最初の華々しいデビューアルバムのあとは、ちっともいい曲が出きてこない。セレーネも、その状況はちゃんとわかった上で、この俺に、想いを主張してきている。俺が一番気がかりなのは、その彼女の心は、一体、何かということだ。本気で裸になりたいのか。それとも、その発言は、何か別のことを表すための言い替えなのか?それとも、誰かに何かを吹き込まれていて、洗脳され始めているのか。出所がまったくわからない」

「意図が分からないってことですね」

「そう」

「それは、誰にもわからないことでしょ。もしかしたら、彼女自身にも、まだよくわかってないのかもしれないですよ。けれど、彼女は、何かの雰囲気を感じとった。それで、何の計算もなく、まずは行動を起こした。言葉を解き放った。けれど、言葉を放てば、それはいずれ、現実のこととなる」

「なんということだ」

「そして、あなたは、さらに、この僕に対しても、言葉を解き放った。よって、増幅してしまった。いいですよ。もし、彼女が本当に、その仕事をやるのなら、僕がプロデュースしましょう」

 セトは頭を抱えた。「話がおかしな方に、進み始めている」

「あなたは、自分の胸にとどめておくことができなかった。真実はそこにあるんです。けれど、僕は、他の誰かに、この情報を漏らすつもりはありません。あなたが僕に対して見せてくれた信頼を、裏切るわけにはいかないから。僕は、これからも、あなたとの関係を大切にしていきたいと思ってるんです。もっと大きなところで、同じ意図のもとで動いていきたいからです。同じ意図における、別の側面として、お互いの事務所が、存在していると思ってますからね。だから、相互に、この芸能界を盛り上げていきたい。本当ですよ。ばらばらに行動するときは、もう過ぎたのですから」

 セトは、首を大きく縦に振った。

「したがって、この話は、これ以上に大きくなりようがない。あ、そうそう。Gの話ですけど」井崎は話題を変えた。「彼ね、今度、舞台をやるんです。かなり大がかりなね。彼自らがやらせてほしいと、僕に訴えてきたんです。これまで、こっちが与えたモデルの仕事をこなしているだけだった男がね・・・、突然、目が覚めたんですね。ははっ。つい、昨日のことですよ。偶然」

 井崎はそう言って、セトの顔を覗き込んだ。

「まあ、そういう裸のことは、抜きにしても、長谷川さんには、オファーをかけてかまいませんよね?非常に忙しいことは、百も承知ですが」



 長谷川セレーネはほ、んのつかのまの半日の休みを、カフェと家のテラスで過ごした。正月の休みはサイパンに行った。女のモデルと一緒に、出国したのは見せかけで、現地で一人の男と合流した。男は妻子持ちだったが、すでに別居をしていて、離婚も時間の問題だった。長谷川セレーネはこの男のことが好きだった。まだ愛しているのかわからなかったが、この男の側にいると、自然に笑みが漏れた。きっと魂の波長が合うのだろうと、彼女は思った。だが、正式に離婚していない男と、体の関係になることは避けた。彼女は自分が古風な人間であることを知っていた。男は納得し、ただビーチで一緒に寝転んだり、海で泳いだりして、二人の時間を過ごした。食事をし、お酒を飲み、別々の部屋へと帰っていった。

 だんだんと胸が張り裂けそうになっていった。彼への想いが溢れ、このまま、彼の胸で抱かれて眠ってしまいたい。けれど今、そうしてしまえば、彼は束の間の満足を得て、心は離れて行ってしまうかもしれない。都合のいい女にはなりたくなかった。彼と二人で人生を歩いていきたかったのだ。彼女はそう真剣に考えていた。ただの恋でもあったし、全生涯を貫く愛でもありたかった。それに、心の奥底では、今彼に抱かれることを望んではいなかった。おそらく、半年後。はやくて、三、四か月経ってから、この関係は急激な展開を見せる。大きく進展する。そういう気がした。今はこれでいい。あせってはいけない。それでも、もし、私か彼のどちらかが、何か大きな事故にすぐにあってしまったらと、考えると、今この瞬間を無駄に過ごしているような気がして、焦燥感で胸が熱くなってしまう。

 いったい、どうしたらいいのか。

 長谷川セレーネは、モデルとして、一年前に華々しくデビューした。華々しくといっても、花火のように、派手に宣伝したわけではなかった。自分としては、ひっそりと世に出たつもりだった。しかし、自然と自分に注目してくれる人が現れ、仕事のオファーが殺到した。その一つ一つを受け入れ、私は着実に仕事を重ねてきた。この姿を母に見せたかった。母は私が大学に入学するときに病気で亡くなった。もともと体の強くなかった母は、私を産んだ後で、ますます衰弱していったようだ。母と病室で話すことが多かった、少女時代。一年の、半分以上を、病院の中で過ごす母。私は学校が終わると、友達と遊ぶことなく、すぐに病院へと直行した。母は本当に優しい人だった。あんなに大きな愛を持っていた母が、どうして、自由に人生を謳歌できないのだろう・・・。私はいつも不憫に思った。

 母は、私なんかよりも、遥かに綺麗だった。彩色の冴えないあの病棟の中にあっても、母の部屋は、いつも光に満ちていた。私が行くときはいつも、窓から大量の光が入ってきて、母を輝きで満たしていた。私が思い出す母の姿は、そんな後光に満ちていた。

 母は、私の頭を、いつも撫でてくれた。あなたは、きっと、みんなにかわいがってもらえる。そう言い続けていた。私はあのときから、母のようになりたい。母がこの世でできなかったことを、私がやるんだ。私が母に代わって、この世界を生きるのだ。そう決意していた。

 母が亡くなる前の半年間は、今でも、思いだしたくないほどに、やつれ切り、疲れきっていた。急速に老化が始まったかのように、彼女はほとんどしゃべることもなくなっていた。私はいつも、母の背中をさすり、大丈夫だから、私がついてるからと、言い続けていた。その頃には、あの後光に満ちた母の姿はなかった。私は不謹慎ながらも、カウントダウンをしていたのだ。おそらく、そうすることで、心の準備をしていたのだろう。来たるべきショックから、最大限に身を守るために。けれど、母の死は、受け入れられなかった。半年のあいだ、まさに、母が最期にもっとも苦しんだ時期と、同じ期間、私も物がほとんど食べられなかった。拒食症の患者のように衰弱してしまった。点滴で何とか乗り切ったのだった。大きな愛を失った私は、どうやって、生きていけばいいのかわからなくなっていた。

 そういえば、入学前の大学入試の時期が、母が急速に衰弱していった時期と重なっていてよかった。私は、受験勉強に逃げ込むことができた。無事合格し、入学を果たしたと同時に、母を失ったわけだから、その大きな欠落感は、言いようもないほどに増大してしまった。けれど、私は、母の墓前に、毎日祈りを捧げにいくにつれて、だんだんと、母の光に満ちた病室を思い出していった。確かに最期の半年は辛かった。

 けれども、それまでの長い入院生活においては、もしかして、それほど私が考えているほどには、苦痛ではなかったのかもしれなかった。身体の自由はきかなかったかもしれない。行きたい場所には行けなかったかもしれない。やりたかったことも、できなかった。でも、悲壮感はまったくなかった。母はいつも穏やかだった。静けさに満ちていた。そして、私を愛してくれた。母は何よりも私を大切に思ってくれていた。母は不幸ではなかった。その想いが、どんどんと増していくにつれて、私は、母と、今、ひとつになっていることに気がついた。母は、今、私という乗り物に、乗っている。ならどうして、塞ぎ込んでいる必要があるのか。母に申し訳ない。これからの母は自由にどこにでもいける。私と一緒に。あの母の光に満ちた姿を、私は毎日思いだした。そして、その光と一つになることを、繰り返した。

 私は、大学生活を半年遅れで、本格的にスタートさせた。さらには、その光源ともっとも深く、大きく一体化したとき、今の事務所の人間にスカウトされ、新しい世界へと脱皮していったのだった。


 あの、頭をさすってくれた母の手と、彼の手は驚くほど似ていた。頭を触られたのは、一体何がきっかけだったのか、忘れた。髪の毛に何かついていて、それを払ってくれるために触ったのかもしれない。その瞬間、私の意識は飛んでしまっていた。視界は真っ白になり、母のいた病室へとトリップしてしまっていた。時間の感覚を失ったまま、私は長い旅のような一瞬の中を彷徨い、目の前の男の元に再び帰ってきた。その男性の表情を見た。彼は特に不可思議そうな顔はしてなかった。私が、どこか、別の世界に行ってしまったとは、夢にも思わなかったらしい。ましてや、自分の手がそうさせたとは。

 私は入学して以来、大学の中で彼氏を作ることはなかった。芸能界入りしてからも、業界の中で恋愛をすることはなかった。それなりに、デートをする機会はあった。しかし、私は本気で好きになる人が全く出来なかった。最後に熱烈な恋をしたのは、一体、いつだっただろう。あまりに遠い日々を、遡らなくてはならなかった。そのときも、私は母のことばかりを思い出してしまった。あるいは、母が私の恋人だったのかもしれない。学校に通い、友達に囲まれていても、私はいつも母のことを考えていた。

 私は本当のところバージンだった。周りにそう思われるのも嫌だったし、別に自分の恋愛暦などを語ることも、特になかったため、私の性体験に関しても、他人が自分の解釈で想像したりする以外にはなかった。私という人間は、他人の想像が、幾層にも重なって存在していた。あまりにモテすぎて、複数の彼氏がいるという説もあったし、逆にガードが固くて、誰もその奥まで入ってはいけなく、門前払いを食っている。その奥には、私の彼氏という一人の理想の男性がいるのだという噂も出回った。どれをとっても、私が一人身であり、バージンであるという憶測は皆無であり、私は恋愛を自由に謳歌している稀有な女の一人という触れ込みで、認識されてしまった。私は否定も肯定もしなかった。

 一変、芸能界へと進んだ私だったが、そういうものだから、スキャンダルの影すらない。週刊誌の記者は、さぞかしつまらなかったことだろう。見の周りを詮索しても、誰の存在も現れてはこない。事務所は大歓迎だった。社長も、特に、私の交友関係を訊いてくることはなかった。薄々勘付いてはいるのかもしれない。こんな楽な社長業もなかった。私を守るどんな手段をも、講じなくていいのだから。

 ところが、今、こうして好きな男ができ、しかも同じ業界の人であり、それなりに向こうも世間に名の知れた存在であった。けれども、初めがノンスキャンダラスな稀有な存在だったために、セトは今でも、私を詮索する気などないのだろう。いずれ、どこかに、情報が漏れるに違いなかった。どんなに注意を払っていようとも、私の交際は、いつか明るみに出る。永遠に内に秘めていられる物事など、存在しない。そのときまでに私は、いろいろな事にケリをつけておく必要がある。明るみに出ることで、この交際は、急速にしぼんでいくのだろうか。たいして、何も変化しないのだろうか。それとも、劇的に進展していくのか。何もわからなかった。どうなってほしいのか。自分的には、どういった結末が、望みなのか。そもそも、決着をつけたいのだろうか。

 ただ一つ言えることは、私は彼という大きな存在が、再び失われることが怖かった。

 私はもう母を失うように、誰かを失いたくはなかった。今なら、まだ引き返せた。彼に私のすべてを許していない、この段階においては。私は彼に抱かれたい。彼にこの身体のすべてを見せたい。見てもらいたい。私のすべてを愛してほしい。でも、そう望めば望むほど、そのあと待っている展開が受け入れられなかった。いずれ訪れる破局を、想像することも、この恋が成就してしまうことも、どちらも同じくらい怖かった。崩壊しない物事などない。私の世界の認識の仕方は、一貫していた。最終的に、物事が成就するなんてことはないのだから。その手は、私の魂をあたたかく包んでくれる、性別を超えた、魔物の誘惑だった。



 Kは、Gとの打ち合わせの最中だった。二人が顔を合わせたのは、たったの一日であった。Gは十時間以上かけて、Kに思いの丈を語り尽くした。

 そのあいだ、Kはじっと耳を澄ませた。あまり相槌もせず、瞬きもせずに、GとGの背後を、同時に見ているようだった。

「舞台セットのイメージは、エジプトなんだよ。かつて、ピラミッドが中心となっていた、古代の都市国家を背景にしてほしいんだ。僕は、神官の一人。まだ下っ端の若者だ。そのとき、エジプトは時代の変遷の、ちょうど中心のポイントに位置していた。それは、十年前に、エジプトから、船で海を渡り、別の大陸に移住して、そこに新しい文明を開いたマヤ人と呼ばれる人間の一団が、エジプトに帰国したことが始まりだった。彼らは、最初に王に報告した。盛大な宴が開かれ、再会の儀が華やかに彩られた。それが、異変の最初の合図だった」

 神官であった俺は。Gはそう自らを呼んだ。

「まさに、政変が起こるタイミングを、事前に嗅ぎ取った。なぜ、そう感じたのかはわからない。おそらく、俺は、ずっと、一人の女性に恋をしていた。日々、そのことだけを考えて生きていたと言っても、過言ではない。けれど、その女性は、自分とはまったく身分が異なっていた。彼女はマッサージ師であった。高級のヒーラーということで、王やその取り巻きの男たちに貢献していた。その内容はわからない。でも、娼婦のようには見えなかった。やはり、彼女は特殊な能力を持っていて、それで、男たちの中に溜まった疲労や苦痛を癒していたのだろう。彼女は重宝がられていた。それこそ、待遇もよかった。その再会の儀にも、彼女は王妃と間違われるほどの装いで、登場した。俺の目には、王妃なんかよりも、はるかに美しかった。俺は、彼女が大好きだった。ただ距離を置いて、眺めているだけだった。彼女がこっちを見たことは、一度もなかった。彼女は、周りの誰をも見てなかった。少なくとも、見た目にはそう見えた。しかし、彼女は、別の目で、その場のすべてをおそらく見ていた。読み取っていたのだろう。それは、彼女のヒーラーとしての才能に、直結している。俺のことも知っているはずだった。だが、ただの匿名の一人の男に、すぎなかった。

 彼女が、誰と親密に交際しているのか。王の愛人なのか。彼女のことを考えると、脳は異常に興奮し、よからぬ可能性を頭の中に巡らせては、自分の胸を苦しめた。こんな状態はもう終わりにしたい。ケジメがつけたかった。どうせ報われぬ恋なのだ。あっさりと、激しく、決定的に壊滅させてしまいたかった。俺は、彼女に想いを告げることを決意した。

 彼女と二人きりになっている様子を想像した。来る日も来る日も想像した。そんなことが現実になることは、ほとんど不可能だったが、とにかく想像した。何かの気の流れで、一瞬、二人以外のすべての人が、どこかにいなくなってしまう。何かの巡り合わせで、ほんの短いあいだではあるが、二人きりになってしまう・・・。世界から取り残されてしまう。そんな状況を思い描いた。

 すると、そのうちに、あるかもしれないなと想い始めた。それでも、淡い期待は、固い現実の前に、あっさりとその姿を消してしまったが、俺は辛抱強く、毎日繰り返した。もしそうしなかったら、本当に、別のよからぬ可能性を、思い浮かべたり、例えば、別の男の愛人であるとか、不特定多数の男と交際しているとか。もしくは、自分と関係を持つなどという、妄想を巡らしてしまう。それを避ける意味でも、俺は、二人きになるその状況を、繰り返し思い描いた。そして、それが、現実に現れたのが、再会の儀のあとに起こった政変の時代だった」

 Gの目もKに負けず劣らず、目の前にいながら、かなり遠くの景色を見ているようだった。Kはぴくりとも動かない。

 GとKは、意思疎通という次元からは、著しく逸脱していた。

「それまで、ずっと、栄華を誇った政権の影で、不遇な環境を強いられてきた民衆が、蜂起した。彼らは長いあいだ、諦めの中、いかにその強制された生活と折り合いをつけるかに、焦点を合わせて生きてきた。だが、ちょうど、十年くらい前から、彼らに対して、別の人生の可能性を示唆する、牧師のような存在が、地下に現れた。その老人のもとに、教えを得るために、若者たちが殺到した。その老人は、エジプトで生まれ育った人間なのか。別の大陸から迷い込んできた人間なのか。彼の出生はまったくの不明だった。だが、その老人は、確かに肉体を持った実在の人間だった。俺もその噂は幼い頃から聞いていた。しかし実際に会ったことなどない。実際に会ったことのある人は、どれくらいいたのか。・・・わからない。

 だが、十年という月日は、老人に教えを得た人間が、また別の人間に伝えていくには、十分すぎる時間だった。

 俺は、神官という職を得て、政治の内部に入ったものの、その民衆の沈黙には、それまでとは違う気配を、ずっと感じていた。だからこそ、そのマヤと呼ばれる人間が、エジプトに帰還したタイミングで、何か大きな事件が必ず起こると直観した。すべてはタイミングだった。いくつもの次元の異なる事象が、ある一つの時空で重なりあう。現実とはそういうものだと思う。俺はここが勝負だと思った。これを逃せば、あの女性は、二度と俺の手に入る存在ではなくなってしまう。俺はその一心で、行動を起こした。

 その突然の民衆蜂起に、王は慌てふためいた。

 しかし、次の瞬間、彼は冷静になった。軍隊に適格な指令を出した。さすがは、長年、思いのままに統治してきた男だ。俺は彼を尊敬した。

 しかし、軍隊の人間にも、民衆につく人間がでてきた。まさに政権は転覆される。俺は他の神官からは、すっと距離を置いた。彼らは、王を守るために、共に闘う道を選んだ。それはそうだ。俺はそっと抜け出した。そして、民衆の側についた。彼らが政治の実権を握ることは、間違いないと感じた。だが、そうなってしまえば、政治を何もしらない素人たちが、実権を握ることになる。国はカオス状態に陥るだろう。その暫定政権を、また倒そうとする人間たちで溢れかえってしまう。内戦の勃発だ。軸を失った国は、お互いを傷つけ、崩壊の道を加速させていく。俺はそうなってはいけないのだと、彼らに主張した。この自分が王の代理となることで、その外観は維持しながらも、一つの国として、内政を民衆のもとに、幅広く解放していく。

 それが、最も現実的な道だと諭した。

 一気に、極端な二者択一をしてはいけないのだと。平行して、二つのことを段階的に進めていくのがベストだ。

 そのときだった。

 宮殿の中で、ヒーラーの女と、ばったりと鉢合わせしたんだ。まさに願っていた状況がやって来たのだ。俺は、彼女の目を見つめた。彼女もまた、目を俺に合わせてきた。そのときすべてはわかったよ。彼女と俺は、結婚するということが。この国の新しい王と、王妃になるということがね。彼女も、そのことを望んでいる目だった。どういうことなのか。俺は、一瞬、混乱してしまった。でも、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。『俺についてきてほしい』と彼女に言った。『新しい国を、二人でつくっていこう』と。彼女は返事をしなかった。ずっと、瞳は俺を見ていた。彼女は承諾していた。

『前から、君のことが好きだった』と俺は続けて告白した。恋を伝え、未来の情況を宣言した。ほとんど婚約のようなものだった。そのあまりに短い時間のなかで、俺の、俺たちの人生は、一変していたんだ」



 彼と二人だけの姿を想像すればするほど、長谷川セレーネは、彼の奥さんに対するジェラシーが募っていった。

 彼と、その女性は、共に裸になっていた。女性を四つん這いにして、男は後ろから女性と性器を合体させていた。ゆっくりと優しく、彼は女性を突いた。

 私の心は耐え切れなくなっていった。私も誰かに突かれたい。そして、その様子を、彼に見せつけたい。そう思うようになっていった。異常な精神が湧き起こってきていることはわかっていたが、それでも、押さえることができなかった。なんとか、その激情の奔流に巻き込まれないようにと、必死で耐えていたが、それも、最終的には、無駄な抵抗へと終わる。

 私は、VAの事務所の社長の元へと走っていた。

 社長に会うなり、私は裸の仕事がしたいのだと訴えていた。社長はショックを受けた。

 何が起こったのか。少しのあいだ、現実をうまく把握できないようだった。しかし、さすがに、冷静さをすぐに装う術は、身に着けていた。私の訴えを、やんわりと受け止めた。彼はその場をうまく繕った。けれど、そう訴え出た私の方が、実のところはほっとしたのだのだ。溜めてきた想いを、その一言に乗せて、吐き出せたのだから。むしろ、私は、満足していた。この身体を支配していた不安定な想いから、解放されていた。体はとても軽くなった。気分は、清々しさを取り戻していた。

 私は、現実的に、彼とどういうふうになろうか。どうあるべきかなどと考えることは、もうやめにした。

 奥さんの姿も消えた。彼の家族のことも。そして、私の事務所、彼の事務所、芸能界、芸能レポーター、ファンの人。取り巻くすべての環境に加えて、彼と私、という恋人関係の妄想の映像も、ここで勢いをなくしていった。それよりも、今、彼に恋をしている自分を率直に見かえしたのだった。私が恋をしている。なんと素晴らしいことなのだろう。人を本気で好きになれたのだ。気づけば、そのことを、何よりも感謝していた。人として女として生まれてきてよかったのだと。私はちゃんと人を愛せる。そういう気持ちを持たせてくれた彼に、心から感謝した。そして、欲張る私も、許してほしいと思った。彼と二人、もっと親しくなりたかった。ただ、それだけを望んだ。他のことは、なるようにしかならない。うまくいかないことのほうが、多いかもしれない。いろんな可能性を考えるのはやめた。期待することも、失望することもやめた。私は彼が好きなのだ。彼に恋をしているのだ。仲良くなりたい、もっと親しくなりたい、彼への好意を率直に言い表して、伝えたい。ただ、それだけを願った。

 すると、私の心は、急速に軽やかになっていった。胸の閊えが溶け、大きく広がっていくのがわかった。あなたのことが好きです。私の細胞は、強い光を放ち始めていた。



 長谷川セレーネは、芸能界に入る前、一度大きな恋をしたことがあった。ずっと記憶の中に封印していたが、それまでも彼女はたびたび恋をしてきた。しかし、そのすべてに敗れさった。これだけの美貌と、人を魅了する性格を持っていながら、彼女は自分が好きになる男には、ことごとく振り向いてもらえなかった。むしろ、それ以外の男は、すべてOKだといっても言い過ぎではなかった。彼女はとにかくモテた。その気になれば、ちょっと気になる男とは、簡単に付き合えた。

 だが、彼女は本気で好きになった男としか、付き合いたくなかった。そして、その一人の男を、遠くから見ているだけではなく、自ら心を奮い立たせ、積極的にアプローチまでしたのだ。

 長谷川セレーネは、もともと恥ずかしがり屋で、しかも、プライドがかなり高かったために、自らが動いて好意を伝えるなどということは、なかなかできない性格であった。しかし、絶対に逃したくない。言わずに後で後悔したくないという想いの中、どうしても伝えたいという、湧き出てくる気持ちを抑えきれず、彼女は男に近づいた。だんだんと、親密になっていった。

 間接的ながらも、十分に、その気持ちは伝えたつもりだった。

 そして満を持して、告白をする。しかし、答えはいつもノーだった。その度に、彼女は落ち込んだ。自分の中の、一体、何が悪いのか。何が、このような結末を招いてしまうのか。その男が選んだ女性を眺めた。私とは何が違うのか。私になくて、彼女にあるものとはいったい何なのか。長谷川セレーネは悩んだ。男本人に訊くことはできず、彼女はただ一人で落ち込んだ。女友達に話すことはあったが、その度に、早く別の人を探した方がいいと言われた。あんな男よりも、もっといい男が、言い寄ってきてるじゃないの。そっちにしなさいよ。私だったら迷うことなくそうする。

 どうして、私は死ぬほど好きな人と、結ばれることがないのだろう。それ以外の男とは、簡単に結びつくことができるのに。そこで手を打てば、それでいいのだろうか。そうしているうちに、また次に恋が生まれてくるのだろうか。あるいは、そうやって、付き合いを重ねていくうちに、本気で恋に落ちていくものなのだろうか。だが、長谷川セレーネは、自分が本当に好きな男と付き合うまでは、全然納得がいかなかった。女としての魅力が、私にはないんだ。人間的にも魅力が薄い。魅力、魅力という言葉が、私の中でカラ回っていった。もしくは性格的な問題なのか。あまりに、身勝手なのだろうか。目に見えないそういう空気を、私の好きな男たちは嗅ぎ取って、親密になろうとするのを避けるのだろうか。とにかく、私の中の何かが問題だった。

 芸能界のデビューが決まる、ほんの三か月前に好きになった男が、それまでの生涯で、最も魂を揺さぶられた人だった。

 彼に接近して、顔見知りになり、何度も会話を交わしていくうちに、仲良くなった。番号を交換し、食事にも行った。けれど、それっきり、彼からの連絡は鈍くなっていった。またもや、悪夢が繰り返されることを、私は予感した。彼の友達からの情報では、私の他に気になっている人がいるのだという。私はすぐに彼をあきらめようとした。しかし、それまでの本気の恋よりも、遥かに彼への想いは強かった。彼とは結婚してもいいとさえ思った。私は、彼に、ときたまメールをした。返信はきた。しかし、恋人関係に発展させることを回避する雰囲気が、そこには如実に出ていた。それ以上、私は踏み込んでいくことができなかった。そして、芸能界への道が切り開かれた。

 私はチャンスだと思った。

 私が、世間にその存在をあらわにすることで、それが、彼への最大のアピールになるのではないかと思ったのだ。

 そうすれば、一気に、彼は私のことを気にとめてくれる。私への想いに、日々心をいっぱいにしてくれるに違いない。彼の生活の中に、私という存在を、常に意識させられる。

 私の心は、彼に対して開いていった。

 この道を歩んでいくことで、彼に、私という存在を刻み込ませるのだ。私は彼と二人でドレスアップし、パーティーに参加している映像を思い浮かべた。なんと、絵になる二人だろう。その様子は、カメラで撮られている。私は有名芸能人だ。彼は一般人だったが、顔は公開している。二人は恋人同士で、いずれ、結婚するであろうと言われている。婚約を済ましたという話もある。黒いスーツを着た彼。黒のワンピースを着ている私。私は彼の手を握っている。ときたま、腕を組む。彼も、人前に出るのは、満更嫌いではないらしかった。



 シカンは、ぼんやりした頭を抱えながら、気づけばクリスタルガーデンのロビーに佇んでいた。

 吹き抜けの階段が目の前にはある。太陽の光が建物の中に入ってきていた。

 シカンは眩しさに思わず目を塞いだ。ロビーを抜け、応接間の横を通り、再び廊下を進んでいく。一周する。だが、地下へと行くための階段は、どこにも現れはしなかった。

 さっきまで見ていた光景は、シカンの中には明晰に残っていたが、その証拠となる物理的な現象が、全く見当たらない。

 シカンはうろうろとロビーの辺りを徘徊していた。ほんの少しだけ、頭部の横側に痛みが走っていた。偏頭痛が始まったのだろうか。シカンの頭痛は、一か月に一回か、二か月に一回くらいの頻度で、起こっていた。少し横になろうと、寝室へと向かった。ドアを開ける前に、部屋の中に誰かがいるような気がした。昨夜は、誰か、女を呼んだのだろうか。だが、たとえクリスタルガーデンへと誘っていたとしても、朝まで一緒に過ごすことはなかった。真夜中のうちに車で送って帰す。

 シカンは、寝室のドアを開けた。女の影は気のせいだった。天井を見上げながら、ベッドに身を放り投げた。そういえば、ハウスキーパーはまだやってきていない。布団は乱れたままだった。しかも冷えてはいない。シカンは体を素早く起こした。誰かがいる。顔をシーツに近づけてみる。やはり女の匂いだ。シカンはその匂いの記憶を鼻にとどめ、部屋の中でその匂いの行先を探った。ドアを通り過ぎ、廊下へと出ていき、その匂いはバスルームへと繋がっていった。バスルームにも人影はなかった。そこで匂いは途切れた。

 やはり、昨夜は誰かを連れこんでいたのだ。夜中のあいだに送ってはいったが、朝になってもまだ匂いが残っていた。ハウスキーパーはまだ到着していない。シカンは寝室に戻り、時計を見た。八時五分だった。再びベッドに横になる。

 あの地下室で見た中世の情景が蘇ってきた。

 地方の領主の夫妻の様子。都市で革命の狼煙が上がり、だんだんと地方にまで、飛び火をしてくる時代。「どうせ、民衆のやつらは、この美術品、装飾品の数々の真価など、何もわからない」それが、あの城を所有していた男の最期の言葉、想いだった。あの男の気持ち。わかるような気がすると、シカンは思った。自分にも思いあたることがある。俺は、今、映像作家として仕事をしている。それはある意味、自分の中の本当の想いのようなものを、封印するためだった。思い起したくはない何かを、隠し続けるために、俺は意識を外へ外へと向けていた。そして、オファーされるものを、何の分析もすることなく、何の判断もすることなく、無心でただ受け入れ続けた。それに没頭することで、自分を消していた。そして一心不乱に働き、稼いだ金でクリスタルガーデンを購入した。だが、そのクリスタルガーデンは、次第に別の顔を覗かせ始める。俺に、心の奥の光景を見せつけてくる。俺はずっと封印してきた自分の想いが、ある意味、中世の情景となって、別のたとえ話として、目の前に現れたのだと、そう思った。夢と同じ現象なのだ。これは本当にあった出来事ではない。ただの象徴なのだ。すると、俺は夢を見ていたのかもしれない。ちょうど今は朝だった。夢遊病のように、ふらふらと屋敷の中を彷徨っていたのだ。

 俺の封印したもの。それはまさに、あの貴族が、最期に強く思った言葉そのものだった。

「どうせ、民衆のやつらは、この美術品、装飾品の数々の真価など、何もわからない」

 そうなのだ。俺は、ずっと、人や物、作品すべてに、優劣をつけていたのだ。

 常に意識の中では、反射的に、ランク付けをしていた。その度に、俺は苦しくなった。こんなくだらないものが、なぜ、この世に存在するのだ・・・?もしくは、こんなに素晴らしいものが、いったい、なぜ、人々のあいだでは、重宝がられないのだ?まるでゴミのように見捨てられている・・・。それに引き替え、あのゴミのようなものが、丁重に扱われている。理不尽極まりない世の仕組み、やりとりに、俺の頭は、発狂しそうになった。そして、その想いが、究極的に強くなっていったとき、俺は倒れた。原因不明の病気を患った。長期にわたる入院のあいだ、差し入れされた一冊の写真集が、俺をフォトグラファーになる決心をさせた。もう何も考えず、分析もせず、評価もせず、ただ目の前の情景を撮影することに、集中しようと決意したのだ。

 シカンは、クリスタルガーデンの地下で見た幻想も、そのまま映像作家として、完全に受けとめ、何の分析も評価も加えることなく、ただ、その貴族の男の最期の言葉を反芻することにした。

 男の気持ちはわかった。それだけを受け入れていた。あなたの気持ちはよくわかると。あなたの想いは、ちゃんと僕が撮影し、残しておくからと。

 時計の針は、十時を超えていた。そろそろハウスキーパーが来る頃だ。

 シカンは着替えて階段を下り、応接室へと移動した。テレビはつけなかった。ソファーに座り、窓から入ってくる大量の光と、身体を同化させた。隣の編集ルームでのやりかけの仕事を思い出した。昨夜の夢のシーンも、入れるべきだったなと感じ、ソファーに座りながら紙を手にした。再び目を閉じ、あの情景と一つになった。シカンは目を開けた。スケッチした紙を持って、隣の編集ルームへと、移動した。



 長谷川セレーネのスキャンダルは、ひょんなことから、意外なところから噴き出ていた。

 長谷川セレーネ本人のことではなく、母親のことだった。彼女が生前、長谷川セレーネを出産する前の出来事に関する記事だった。彼女の母、長谷川ゆり子は、なんと遊郭の売れっ子娼婦であったというのだ。そして、その当時の彼女の手記が、ここにきて陽の目があたってしまったのだ。長谷川ゆり子が当時働いていた遊郭は、今は存在していないが、それでもその一帯は、今でも変わらず性の街であり、店そのものは変遷したものの、経営者の家系は変わっていなく、偶然、長谷川ゆり子の書き残していた日記のようなものが、いまだにあったのだった。

 長谷川セレーネのプライベートを嗅ぎまわっていた芸能記者は、彼女から何も出てこないことにやきもきさせられていた。あれだけ派手に出てきた女なのだから、叩けばすぐに埃まみれになるのは間違いないと思ったからだ。だが、彼女の学生生活からは、男の影が少しも立ち上がってはこない。これは彼女がらみの親類しかないなと、ふと、長谷川セレーネの死んだ母のことが、記者は気になった。記者はここで記事の方向性を一変させようと思った。スキャンダルは出てこない。ならば、長谷川セレーネの評判をさらに良くする事実を発見して公表しよう。長谷川セレーネ側を、味方にとり込んでおく作戦へと変えた。病弱な母と気丈に看病をする娘、という構図で、取材を進めていくことに決めた。その矢先だったのだ。まさか、長谷川ゆり子が、性に纏わる仕事をしていたとは・・・。卒倒するほどの驚きだった。

 長谷川ゆり子は、生涯、結婚することはなかった。

 遊郭に通ってきた数多くの男達に、求婚はされていた。仕事をやめ、家庭に入ってほしいという要請も、数多く受けていた。しかし、ゆり子はそのすべてを断った。というのは、彼女には、意中の男性がすでにいたのだ。客の一人であった。だが、その男は彼女に求婚することはなかった。恋愛感情さえ、あまり抱いていなかった。ゆり子の日記には、そう書いてある。あの人が言い寄ってきてくれたら、どんなに素敵なことだろうと。こんな仕事はすぐにやめて、あなたの元に走るのだと。けれども、その男は、他の女を指名することはなく、どこか別の遊郭に通っている様子もなかった。家庭を持っているわけでも、子供がいるわけでもなかった。元軍人であって、今は大工のようなことをしているということだった。酒癖が悪いという話もなかった。何故家庭を持とうとしないのか、長谷川ゆり子は、男に何度も訊いたが、答えてはくれなかった。ほとんど秘密主義を通す彼を、それ以上、問いただすせば指名をされなくなるのではないかいう恐怖が、長谷川ゆり子を襲った。なので、口を閉ざした。だが、五年後、その男の子供を身ごもることになった。長谷川セレーネは、完全な私生児だったのだ。長谷川ゆり子の日記は、この身ごもったときから、心情の吐露も、事実関係も激しく乱れていった。そして、出産を機に、その筆は見事に途絶える。宿の女主人に寄れば、出産後も彼女は働き続けたそうだが、その男性は二度と現れることはなかった。そして、一年後、長谷川ゆり子は病気を発症し、仕事に復帰することは二度となくなった。それまでに貯めていたお金で治療代を払い、娘を育てたらしかった。あるいは、男からの養育費は、出ていたのかもしれない。男がこの親子に接触している様子は、誰からも目撃されなかった。長谷川セレーネは、母子家庭で育ったのだ。

 芸能記者は、長谷川ゆり子の手記を、過去へと遡って読んでいった。私は人を好きになると、いや、他のことすべてにおいても、堪え性というものが、著しく欠如しているのだと自己分析していた。それまでも、自分から想いを告げ、相手からの返答を待てず、いつもはやく、白黒を付けたがった。相思相愛という結果が早く欲しい。焦燥感に駆られた。その焦燥感は、たとえ相手の気持ちがオーケーであり、段階を置いてじょじょに伝えていこうというふうに、彼が思っていたとしても、そんな心の準備などはお構いなしに、はやく事を進めたかった。そんな宙ぶらりんな状態に、耐え切れなかった。耐え切れないものだから、自ら壊していくような行為に走る。結果が欲しいのだ。白でも・・・、たとえ、黒であっても。白になりそうな場所まで、機が熟すのを待っているくらいなら、自ら黒い筆を持ち出して、空白を塗りつぶしていったほうがましだ。一瞬のカタルシスは得た。しかし、そのあとで、巨大な後悔の念に覆われることになる。

 長谷川ゆり子は、そのような恋愛パターンを何度も重ねていくうちに、視界そのものが黒い雲がかかってしまっているかのようになった。そのパターンから、逃れたいと強く思えば思うほど、また同じ過程を踏んでいく自分を、止めることができなかった。一種の快楽と化していたのだ。

 そして、大本命の男が現れる。

 今度こそは、自分は変わるのだ。そう決意する。命がけで愛するのだ。愛とは耐えることなのだ。自分の想いを一方的に撒き散らす事は、もう二度とやめよう。相手の気持ちが自分に向き、そして成熟してくるのを待つのだ。すべてはタイミングだ。二人の人間が一つになるのが愛だとすれば、身体も心もじょじょに溶け合っていく過程が必要だ。即物的なセックスが日常化していた長谷川ゆり子には、それは非常に苦痛を伴う行為だった。だが彼女は実行した。男に想いを告げると同時に、ひたすら彼が自分を愛する日を待った。



「それにしても、お二人を見ていると、いつも、羨ましく思いますね」

 シカンは、井崎の新しい事務所を訪れていた。常盤静香もそこにはいた。お茶を入れてくれた。

「お前も、結婚すればいいじゃないか。相手はいないのか?」

「本当に、仲がいいですね、お二人は」

 シカンは、あらためて二人を交互に見た。

「仲がいいというよりは、お似合いです。一緒の空間にいると、空気が、ものすごく、噛み合ってる感じを受ける。申し訳ないですね。僕が乱してしまって」

「ゆっくりとしていってください。私はちょっと外にいくので」

「すいません」シカンはお茶の礼を言った。

「さてと、どうしたんだ?お前から話があるって、ずいぶんと珍しいじゃないか。仕事の話か?半分、活動休止、してたんじゃなかったのか?ものすごい家を買ったっていう噂は、聞いてるよ」

「買いましたね」とシカンは笑った。

「井崎さん、こんなことを言って、気分を悪くしないでください」

 シカンは大きく息を吸った。「常盤さんとは、うまくいってますか?」

 井崎は表情一つ変えなかった。一瞬、鋭い眼光が、シカンの目をとらえた。

「どう、見える?」

「確かに、あなたたちは、お似合いのカップルです。だけど、何かがズレている。不思議なものですね。これほど完璧な組み合わせに見え、しかも半端なく、仲が良いように見える。なのに、二人はどこか、この場にいないような感じがする。気のせいですかね」

「気のせいだよ」井崎は即答した。

「絵になるって、大事なことですよね」シカンは言った。「二人が並んだときに、絵になる。僕はあれですよ。例えば、付き合ってる女性がいるでしょ、その人と僕が、二人で並んでいる絵を、このまた僕が遠くから見ている。そのときに、ああ、これは絵になるな。そう思えることがないんですよ」

「俺たちは、どうなんだ?」

「わかりません。絵的にはどうだろう。ただ、同じ空間にいることによる、自然な空気みたいなものは感じますけど。常盤さんにさっき言ったことは、すべて僕の本音ですから。あなたにだけ言ったことも、また本音です。どちらもね」

 井崎はだんだんと、苛立ちを示し始めた。

「話ってなんだ?」

「すいません。そうでした。僕の話なんですけど。井崎さんに、どうしても聞いてもらいたいことがあって。あなたにしか話せそうにないんです。僕は勝手にあなたのことを慕っているだけで、あなたにとっては迷惑なことかもしれないけど」

「そんなこと、あるわけないだろ。俺だって、お前とは特別な関係にあると思ってるよ」

「そうなんですか?」

 シカンは大げさに驚いて見せた。

「ああ。だから、何でも話せよ」

 シカンは、クリスタルガーデンでの出来事と物件について、語った。

「もう不動産的には、手放そうかと思って。短い間だったけど、僕に必要な現象は、すべて起こったような気がするから」

「ずいぶんと早いな。本当にいいのか?その出来事については、確かに気味が悪いな。だから逃げようとしてるんじゃないのか?それなら、そうでいいが。いや、でもまだ、何かがありそうだよ。今度、俺も行ってみようかな。静香と一緒に泊まらせてくれよ」

 井崎は半分、真剣な表情を浮かべて言った。

「いいですけど・・・」

「いいから早まるなって。お前は今は休んでいろよ。がむしゃらになって、働く時期じゃないだろ。自分の中の法則のようなものを、ちゃんと把握してさ、会得する時期だと思うぜ」

 シカンは首を横に振り、不可思議な表情を見せた。

「時々、言ってる意味が、わかりませんよね」

「今はお前の出番じゃない。そうそう、今度ね、Gが舞台をやるんだよ」

「聞きました」

「今はね、そのことで、俺も頭が一杯なんだ。あいつがやらせてほしいと、自らそう訴えてきたんだ」

「自らですか?」

「そうなんだよ」

「僕も、そうならないと、駄目ですね」

「お前は、お前だよ」

「だとしても、そろそろ、自ら手を挙げないと」

「Gだって、たいぶん、冬眠してたんだ。焦ることはない」

「万理さんは、ずいぶん早くに、目覚めましたよね」

「そう。だからだよ。今はもう、いなくなった。早く出れば早く消える。宿命だよ。お前は一番あとから出ろ。そして、一番最後に、消えろ。俺のあと、ずっと経ってからだ。俺も、これからの人生、とてもいい感じになるような気がするよ。Lムワの著書は、まだまだ、たくさんあるしな。それをもっと同時にね、多角的に世に放っていきたいんだ。要するに、例えば、俺っていう人間の生涯があるだろ?それは、全部で一つの全集だとすると、最終的に、その全集が出そろうってわけさ。つまりは、人生の過程においては、ばらばらのピースを解き放つわけだ。その段階、その度、その時期によってね。そして、その片鱗は、時間を経ていくにつれて、全集の完成というパズルに向けて突き進んでいく。俺が何を言いたいのかわかるか?Lムワの著書が全部出たとしても、俺の人生のパズルは完成しないということだ。Lムワの人生は、それですべてさ。彼の人生は完結する。だが、俺にとっては、全生涯の中のほんの一部だ。俺がどれだけ生きるのかはわからないよ。でも、それは一部だ。人生はまだ続いていく。そんな気がする。俺には、Lムワ以外にも、楽しみな人材との接触が、たくさんある。Gもそうだし、君もそうだ。それも、俺の人生の一部だ。俺にとってのピースの数々だ。Kっていう作家とも知り合った。今度、Gの舞台の脚本を、担当することになった奴だ。これをきっかけに、いろんな戯曲を書くようになるかもしれない。とにかく、お前は、おとなしくしてるんだ。まだ、家を手放すべきじゃない。静養して、力を十分に溜めこんで、それを漲らせて、そのあいだに、色々と自分の中で確立をしておくんだ。起こってくるあらゆる事態も、お前の法則を会得するために、必要なことなんだ。丁寧に受け止めて、そして、昇華しろよ。お前の心の中にあるさ、ずっと眠ったままになっている本当の願いを、表に出すためのやり方を、現実化するやり方を、ちゃんと見極めるんだよ。あの家は、その機会を、お前に与えているんだ。俺にはそう思えるね。いいか?だから、もし、お前が売りに出したとしたら、俺がすぐに買い取って、お前に突き返してやる。Gの公演が終わるまでは、静かに自分自身を見つめてろ。いいな」

「あなたも、そうですよ」

「俺が、どうかしたのか?」

「常盤さんとのことを、ちゃんと整理した方がいいです」

「ちゃんと、整理はついてるよ。あいつとは、これからもずっと一緒だ。お前は、何か、俺の中の別の面を、読み取っているようだが、実はそれは正しい。ただ、静香とは、切っても切れない縁なんだ。これはもう決まっているものなんだ。運命といったら、安っぽい表現になるけど、実際のところ、そうなんだ。これは、誰にも変えられやしない。受け入れるしかない。受け入れた上で、先に進むしかない。運命に操られるだけの人生は嫌だからな。それを乗り超え、自ら創造していきたい。そうだろ?シカン」

 シカンは、首を小刻みに縦に動かした。

「誰だってそうだ。運命を超えて自ら創造したい」

 井崎は繰り返した。「お前が、俺に対して、別の影を読み取ったのだとしたらな、それも、ある意味、お前自身の別の側面を、俺に投影しているってことだぞ。そういうふうに、解釈することもできる。俺の影、つまりは、お前にとっての、自らの創造のことだ。お前は今、次の段階に進もうとしている。お前だけじゃない。俺もだ。そして、Gも、静香も、・・・万理も。みな。世界全体がそうだ。すべては連動しているし、お互いに、影響し合っている。お前が、今日、ここに来たのだって、あらかじめ予定されていたことかもしれないぜ。お前は、俺の口から、クリスタルガーデンをまだ手放すべきではないと言われるために、今日ここにやって来た。来ることになっていた。けれどな、そう言われたお前が、どう感じ、どう行動をとるのかは、それはお前次第だ。あらかじめ決められていることではない。そうだろ?そして、今日、俺もまた、お前から静香との仲を言及されることになっていた。そう決まっていた。俺がどう受けとめ、どう行動するのか。それは俺次第だ。互いに、しばらく経ってから、また会おうぜ。どう変わっているのかが楽しみだ。Gの公演の後にな。お前は見にこなくていいぞ。そもそも、俺の勝手な予想だが、お前は、Gの公演のことなど、すっかりと忘れているはずだからな。そのとき、お前は、自分のやることを、明晰に把握できている。だから、そのことに専念したらいい」

 シカンの意識は、井崎を見ながらも、すでに、クリスタルガーデンへと無言の帰宅を果たしていた。



「ヒーラーとしての彼女のパワーは、本当にすごかったよ」とGは言った。

 Kはあいかわらず辛抱強く訊いていた。

「その神官が、王国の頂に君臨できたのは、彼女のおかげだった。しかし彼女は彼女で、その神官に、自分の力のすべてを与えた。二人は愛し合っていたんだ。女ヒーラーも、ずっと、神官のことを意識していたんだ。もちろん、そんな素振りは見せなかったし、見せれば大きな問題にもなった。二人を隔てる壁は、ずっと厚いままだった。ところが、政変が起こり、それによって、二人の距離は、劇的に縮まった。時代が二人を急速に結びつけた。二人はあっという間に、お互いを不可欠な存在として見なすようになった。二人は協力して、一つの時代を築いていく決意を固めた。二人の愛は、そのまま国家を持つことになった。民衆を支配することになった。彼女は、人の意識に簡単に働きかける術を、持っていた。彼女が言うには、人の意識に働きかけるときは、まず自分の意識に働きかけるのだという。そして、個人的な相手だったり、集合意識だったりに、念を飛ばす。すると、次第に相手は、その飛ばした念のとおりに、動いていくことになる。念を飛ばすというのは、つまりは、相手の目線に自らが同化して、こっちを見るということだ。神官が意図した想いなり考えを、彼女のそのような力を通じて、他者や社会に働きかけていくことを、繰り返した。

 一年後、エジプトは、新しい王国へと生まれ変わった。

 奴隷制度は廃止され、市民権の先駆けのようなものまで成立した。

 家族を持つことを許され、子供を持つことが許された。だが、この神官とヒーラーの女は、いつになっても自らの子供を作ることはなかった。家族とは、個人的なことではなく、国家そのものだという想いを、二人は共有していた」

 Gはここまで、一気にまくしたてるようにしゃべった。

「悪かったね。好き勝手に吐き出してしまって。メモをとることも、ままならなかっただろう?」

「いえ、いちおうとりました。でも僕は、意外に、そんなものをとらなくても、脳の中に入った音声を、あとで再生できるんです。大丈夫です。速記も得意ですし」



 セトに呼び出された長谷川セレーネだったが、事務所に着くと、そこには、彼以外の男性二人が椅子に座って待っていた。

 三人の男は、同時に、長谷川セレーネを見上げた。

 長谷川セレーネは軽く会釈をし、セトの言葉を待った。セトの顔色は、著しく悪く、他の二人の方は、それとは対照的に、余裕の笑みを浮かべていた。

 一瞬で、起ころうとしている事態を、彼女は感じ取った。

「こちらは、某芸能雑誌の方。となりは、取材記者」

「長良です」

 体格のいい、薄いサングラスをかけた男が、席を立ち、お辞儀をした。

「寺田です」

 髭の生やした記者の男も、続いて立った。

「今日は、来週掲載予定の記事について、お伺いをたてに上がりました」

 長良が言った。「セトさん、あなたから、長谷川さんに話してくれませんか?」

 話を振られたセトの顔色は、ますます悪くなった。セトはしばらく黙ったままだった。

「困りますよ。あなたが話してくれなくては」

 セトは意を決し、長谷川セレーネの顔を覗き込んだ。

「君のお母さんの話なんだ」と彼は言った。「その記事が、来週、掲載されることになった。君にとっては、辛いことになる。君は、おそらく、その事実は知らないで育ったと思う。これを見てみなさい。ほとんど、でたらめを書いているとしか、僕には思えないのだが、それでも、君にとってはショックなことであろう」

「待ってください、セトさん!」

 寺田が話に割り込んできた。「でたらめとは、人聞きが悪いですね。今や、芸能雑誌も、ただ、面白おかしく書けばいい時代ではなくなった。信ぴょう性というのが、非常に大事な要素になっている。あなただって、ご存知でしょう?」

 長谷川セレーネは、この前の、裸になりたいという発言の答えを、今日もらうのではないかと、思っていたので、全然違う話題であったことに、逆にほっとしていた。あんなふうに、オールヌードの願望を伝えたものの、そのあとで急速に、その想いは萎んでいってしまった。それなのに、セトは早くも、裸になる仕事を決めてきて、その関係者がこうして集まったのかと勘違いした。

「ぜひ、あなたに読んでもらいたい」

 長良は、セトを無視し、長谷川セレーネ一人に向かい、声をかけた。長谷川セレーネは雑誌を手にとり、黙って読んでいった。セトは、頭をうな垂れた。

 寺田は、無表情で、正面の壁を見続けていた。長良だけが、長谷川セレーネの横顔を楽しんでいた。

 長谷川セレーネは、あっという間に読み終えた。顔を上げ、何度か首を縦に振って、何か納得したような表情を、口元に示した。

「どうですか?」

 長良が声をかけた。

「大変、よく書けています」と長谷川セレーネは言った。

「えっ」

 長良は、たった今、目が覚めたかのような、素っ頓狂な声を上げた。

「よく書けています。それで、この記事は、いつ発売なのですか」

「来週です。来週の、25日」

「これ、一部、私にいただけませんか。これは、もう完成版なのですか?」

「いや、今日、あなた方の事務所にお伺いを立てて、それで、削るところは削って、交渉をかさねて、お互いに納得できるところで、手を打とうかと」

「その必要はないですよ」

 長谷川セレーネは、何の迷いもない透徹した声で答えた。

「おい、ちょっと」セトはたまらず、彼女と長良のあいだに乗り出した。

「それは、驚いたな」長良は、寺田の方を見た。

「それでは、予定通り、しかも、このままの形の掲載、ということで、よろしいんですね」

「私はオーケーです」

「セトさん、あなたは、どうなのでしょう」

 いつのまにか、長谷川セレーネが、長良と寺田の事務所の人間のように、セトには見えてきた。

「そんなこと、許すわけがないだろっ、こんな記事。セレーネにとっては、百害だ。お断りです」

「ならば、それ相当の、差し止めのお金を出していただかないと」

「それも、お断りです」

「言論の自由をなめるなよ」

「いいから、社長」

 長谷川セレーネがあいだに入った。「私は構いませんから。それに、とても興味深い内容です。私自身がもっと詳しく訊きたいくらいです。寺田さん。今後も取材を続けてくれると約束してください。そして、続きの記事を、必ず掲載してください。どうでしょう」

 そう言われた寺田の眼は、輝き始めた。

「ほんとうに?」

「ええ。あなたの取材力、文章力には、目を見張るものがあります。あなたを信用することにしました。これは、でたらめなんかではない。私も知りたいことなんです。今までずっと、見ないようにしてきた事でしたから。しかし、私は、私に関するすべてのベールを剥ぎ取りたい。そう思うようになりました。きっと、このことだったんです。社長、ですから、この前のあの話は、なかったことにしてください。お願いします。話を進めてないですよね?」

「当たり前じゃないか」

「その代わりに、こっちのことは、許可してください。私のイメージも、悪くはならないように、私も最善をつくします。これをきっかけに、私も自分の在り方を考えなおしたい。ただの綺麗なモデルからの、脱皮。逸脱を図りたい。そう考えれば、あなたにとっても、不都合なことは何もない。一緒に協力してください。長良さん。あなたもです」

 最初に、主導権という鎧を纏い、この部屋に現れた人物は、一体誰だったのか。

 その場にいた三人の男は、いつのまにか、長谷川セレーネのペースに巻き込まれていた。



「友達になってくれませんか」

 井崎は、馴染みのレストランのウエイトレスに、そう切り出していた。

 顔見知りであったその女性は、井崎の突然の提案に、一瞬驚き、数秒後に笑った。

「やだ、井崎さん、どうしちゃったの、突然」

「気を悪くしないでくれ」

 井崎は、自らの頭頂部を触った。

「どうも、こういうのは苦手だな。うまく伝えられそうにない。その、付き合ってくれとかそういうことじゃなくて、友達でいいんだ。でも、その、つまり、だからといって、あなたのことを、女性として見ていないってことじゃなくて。でも、そういうつもりはない」

 女性は本当におかしそうに、無邪気に笑った。

「ずいぶんと、友達っていうところを、強調するのね」

「本心なんだよ」と井崎は言った。「本心をストレートに表現すると、友達になってほしい。そういうことなんだ。ずいぶんと考えたよ。自分の想いが、いったいどこにあるのか。何を感じ、何を考えているのか。違った言い方を、けっこう考えたんだけど、どれも、実際には、実行には移さなかった。変な男だろ。これは口説いているのか?」

「わからないわね」

「大学生でしょ?」

「ええ。来月には、卒業よ」

「ここも、やめるの?」

「就職が決まっているし」

「だろうな」

「ちょっと、御免なさい」

 女性は、厨房へと急いで戻っていった。井崎は食事を続けた。十分が経過して、彼女が再び来た。

「なんか、込んできちゃった」

「ああ、悪かった。呼びとめちゃって。変に意識させちゃって、申し訳ない。不器用なんだ。うまく立ち回れない。けれど、口に出したことは、本心だよ。今精一杯の」

「それ以上、何も言わなくていいから」

「誤解しないでくれよ」再び井崎は、頭頂部に手を置いた。

「いつまで、ここで働いているの?」

「それが、今日までなのよ」

「マジで?」

「そう」

「すごいタイミングだな。それじゃあ、このことで、お互いに顔を合わせるのが、気まずくなることもないね」

「正確に言うと、明日までなんだけど。たぶん、井崎さんが来る時間帯よりも、だいぶん早くに退いてしまうから、実質的には、これが最後ね」

「今日は、何時まで?」

「まだまだよ。あと、三時間くらい」

 井崎は手元にあったメモ用紙に、自分の名前と携帯の番号とアドレスを、素早く書いた。

「あなたの連絡先も知りたい」と井崎は言った。

「そこに、メールすればいいかしら」

 井崎は頷いた。

「友達になってください、か」

 彼女はもう一度呟いた。顔には笑みがこぼれていた。

「そんなふうに、言われたことはないな」

「本心だよ」

「ええ、そう思うわ」

 彼女はメモ用紙を手に取り、再び厨房へと下がっていった。

 井崎は彼女がいなくなったあとも、彼女の残像を頭に思い描き、同じ場所で、お互いの顔を見合い、笑いあう二人の姿を、懐かしく思った。

 この雰囲気を、疎遠にさせたくはなかった。井崎は、初め、これは完全に恋愛感情だと思った。彼女にすぐに告白して付き合いたいと考えた。あわよくば体の関係を持ちたい。それが本心だと思った。だが、それを彼女に伝えようとしたときに、何か強烈な違和感を持った。そして、その想いがどんどんと強くなっていくにつれて、何故か、レストランに行っても、彼女と遭遇する機会が著しく減っていった。まるで、彼女がこっちの想いを感じ取り、避けているかのようだった。

 そんなことが続いていくうちに、この自分の想いは、本心なのだろうか。本当に望んでいることなのか、疑わしくなっていった。常盤静香という存在がありながら、別の女性を恋人にしようとしている。何か濁った願望なのではないか。もちろん自分に伴侶がいても、他の女性に恋して、何が悪いというのか。後ろめたいことはない。だから何の問題もない。そのことで、井崎は躊躇したのではなかった。ウエイターの女子大生が気になって、仕方がなくなっているのは本当だったが、付き合って恋人にするという想いに、飛躍するのは、著しく自然な空気を乱す、歪んだ毒物になった。

 もっと、適切な言葉があるはずだった。あなたが好きだ、付き合ってほしい。そういう言葉とは違うフレーズが。結果、出てきた言葉が友達だった。井崎にとっても、まだあまり知らない女性に対して、友達になってほしいと言ったのは、初めてのことだった。


 それでも、井崎は、友達になってほしいと思う気持ちの反面、男女の関係になって、一緒に人生を歩んでいきたいという想いも、消すことができなかった。

 その両極で揺れながら、しかも、常盤静香との関係も、また、存在していた。

 すべての枝は、その先で二つに分かれてしまっていた。彼女からの連絡は、そのあとどれだけ経っても、来ることはなかった。数日後にレストランに行ったが、彼女が働いている気配はなく、何度どなく通ってみたものの、やはり彼女は辞めてしまったようだ。

 学校を卒業し、就職し、遠くに引っ越してしまったのだ。新しい生活は刺激的で多忙で、連絡先を渡した俺のことなんて、もうすっかりと忘れている。

 異性を本気で好きになったのは、いったい、いつ以来だろう。井崎は、彼女のことが気になって仕方なくなった。声をかけて親しくなるのが、あまりに遅すぎたのだろう。声をかけた瞬間に、いなくなってしまった。せめて、あと一か月早く切り出していれば・・・。井崎はずっと、彼女に対する想いを打ち明けられずにいた。それは、結婚していたこととは、何ひとつ関係がなかった。意気地がなかっただけだった。

 ひっそりと静まり返ったレストランで、一人食事をする井崎。

 常盤静香は、今日も帰りが遅いため、一人で外食をした。そういえば、あのウエイトレスの名前も知らなかった。こうやって、毎日のように顔を合わせるだけでも幸せだった。いなくなって、初めて、彼女が日常の一部になっていたその偉大さに気づいた。あと一日、あと一度の再会さえ叶えば。井崎は幾度もそう心の中で呟いた。

 あと、一回でいい。話す機会が欲しい。

 彼女に自分の想いを伝えきれてなかった。後悔を抱えたまま、俺は死んで行きたくたくはなかった。井崎は、死という言葉が、自らの中に浮かんだことに驚いた。このままで、いいのか。もう本当に、彼女は手の届かないところに行ってしまう。あと三日前に戻れたら。一週間前に戻れたら・・・、一か月前に戻れたら。一年前に戻れたら。いや、連絡が来るかもしれない。番号は渡した。彼女は少し経ってから、掛けてくるのかもしれない。

 待っていればいい。連絡は必ず来る。

 井崎の胸は、張り裂けそうになった。あまりに切なく、心は常に不安定な螺旋を描き、そわそわと落ち着きをなくしていった。すぐに落ち込み、かと思えば、急に彼女の笑顔が戻ってきて、幸福感に包まれる。井崎は荒れ狂う心に、平穏を見い出せないでいた。いったい、どうすればいいのだ?どうしろというのか・・・。選択肢が存在しなかった。

 彼女を追っていけばいいのか。どんな手段を使っても、居場所を突き止め、押し入っていけばいいのか。押し入って思いを遂げればいいのか。黙って、荒れ狂う自分を見守ればいいのか。もうすでに、彼女は、この街にはいないのかもしれない。この国にはいないのかもしれない。この時代にはいないのかもしれない。

 焦る心は、Gの舞台や、Lムワの著書のことなどを、簡単に吹き飛ばしてしまっていた。

 彼らがある意味、羨ましくなった。こんなことは初めてのことだった。

 彼らのような表舞台に出ていく人間ならば、失ってしまった彼女、行方の分からなくなってしまった彼女に対して、俺はここにいるよと、その存在を宣言することができる。

 そうすれば、彼女は気がつくことができる。そして、光に導かれ、この俺の元へと、再び自ら動いてくることができる。そんなことも可能だ。無名な存在でないことが、いかに、今の自分にとっては、救いになるか・・・。井崎は、そんなふうに自分のことを呪った。

 万理も、舞も、ある意味、その長さは違ったものの、表舞台に、確かに存在を刻みつけた。俺だって、そう長くなくていい。彼女が気づき、動いて来てくれるだけの長さでいい。それだけでいいから、世の中に自分の存在が出て、ひと騒動起こしたかった。

 井崎の心は、さらに乱れていった。

 混沌としてきたことを、本人は完全に把握していて、それを遠くから見ていることもあったが、それでも、荒れ狂う心の奔流に巻き込まれ、完全に自分を失っていってしまうことも、頻発した。こんなことは今までなかった。常盤静香に対しても、もちろんなかった。誰に対してもなかった。

「おい、G、調子は、どうだ?」気づけば、井崎は電話を手にしていた。「Kとは、うまくいってるか?」

「井崎さん。大丈夫です。Kさんは、本当に優秀な書き手ですね。僕が言ったことを、まったく漏らさず、記憶していて、しかも、彼の中でうまく整合できているみたいで、まるで、僕の頭の中が整理されて、発言しているみたいに、なっているんです。驚くべき才能です」

「それは、よかったな」

「井崎さん、声が少し暗いですね。沈んでるんですか?」

 Gは敏感に察した。

「そんなことはないよ。しかし、お前も、だんだんと、勘が鋭くなってきているな」

「勘なんかじゃないですよ。ただ、そう聞こえただけですよ」

「予定通りに、3月28日から、三日間でいいか?」

「いいですよ。それよりも、早く出来そうなくらいの、勢いです」

「頼もしいな」

「初めての舞台ですから。気合が入ってるんですよ。まあ、見ていてください。必ず成功させますから。今まで誰も見たことのない作品に、必ず仕上げますから。ほんとに井崎さん、あなたのおかげです。Kくんと出会わせてくれて、感謝してます。あの人がいるおかげで、今まで、ずっと浮かんでは、浮かびそうになっては消えていった、押し殺していったストーリーが、惜しげもなく、吐きだせているんです。僕は、ただ、断片的なシーンを無造作に放り投げればいい。僕だけだったら、そんな吐きだしからは、どこにも世界を創造することができなかった。すぐに忘れてしまうし、出てきたものを並べたって、わけがわからなくなって、頭が痛くなるだけです。それを、Kくんは、すべてを受け止めてくれて、形にしてくれる。そんなふうだから、僕はますます彼を信頼して、好き勝手なイメージを、ベラベラとしゃべってしまう。こんなふうに、普段会話しているときだって、前よりも、ずいぶんとおしゃべりになってるでしょ」

「ああ、なった。すっかりと俺の方が圧されてしまってる・・・」

「変わったんですよ」

 Gはきっぱりと言い切った。

「そうか、俺の声は、そんなに沈んでいるのか・・・」

「井崎さん、元気を出しましょうよ。何か、悩みでもあるんですか?井崎さんらしくもない」

「まったくな。でも、お前が、順調に行っていているようで、よかったよ」

「そんなふうには、言わないでください」とGは笑った。「まるで、僕だけしか、うまく行ってないかのように言うのは」

 そのあとも、Gは冗談を言っては、笑い続けていた。その様子に、井崎も次第に影響を受け始め、だんだんと、心の底からおかしさが込み上げてきて、いつのまにか、二人で大笑いしていた。



 シカンの心の中には、時折、不定期に激しい復讐心が擡げてくるようになった。

 これまで経験をしたことのない激情が、意識にのぼってきていた。それは、無差別な怒り、そのものだった。そして、シカンは思った。この理不尽な暴力こそが、自分にとっては、無差別テロを引き起すことにもなりえる。そう感じたシカンは、自らの存在に震え上がった。まさか、テロリストとして、この世に生を受けたのではないか。その錯覚も、やがては波を引いくように治まる。穏やかになっていった。けれども、その発作のような不定期な激情は、時間が経つにつれて、頻発するようになった。クリスタルガーデンの地下で見た光景が、このような現象を誘発しているのは、間違いなかった。もう一度、あの場面を見て、心を治めなければ、この激情は次第に膨れ上がり、取り返しのつかない行動を、自分にもたらすのではないだろうか。

 シカンは、寝室から飛び出し、応接間をうろうろとした。そのあとで、廊下をぐるぐると周りだした。

 だが、地下へと通じる階段は、現れない。あのときはどうして、出てきたのか。どんな意識の周波数になると、目の前に現れるのか。シカンは、毎日毎日、その手掛かりばかりを考え続けた。あのときは、一体、どんな状態になっていたのか。どうして扉は開いたのか。

 クリスタルガーデンを手放すのは、まだ時期尚早だと言った、井崎の言葉が蘇ってきた。あんたは親友だよ。俺にとっての特別な存在だよ。また、井崎に会いたくなった。もうすっかりと、今では万理が愛した男であるという認識はなくなった。万理としばらく会ってないからだろう。次第に、彼女の存在が、自分の中では色あせてきていた。井崎と会っても、万理の幻影が立ち上がってくることはなくなった。万理が今どこでどうしているのか、だんだんと興味が薄れていった。それもクリスタルガーデンがもたらした、効用の一つだった。いいのか悪いのか、全然わからない。

 地下への通路が見いだせない、今、シカンは外出したいと思うようになっていった。行くなと言われていたGの公演に、興味が湧いてきた。あの男は、出会ったときから、特別な感覚の持ち主だったなとシカンは感じていた。俺を一目見るやいなや、エリア151の話をした。俺の中の無意識の世界を、完全に、自然に、読み取っていた。それを目の前に何の造作もなく突きだしてきた。それだけで十分だった。その男が、今、舞台をやるのだ。注目しない理由は何もない。シカンはこっそりと見にいくことにした。当日券を買えばいいと思った。



 3月28日の15時。

 シカンはクリスタルガーデンをあとにする。

 公演の開場は18時だった。


 当日券を求める列に並ぶために早く家を出た。

 自分で手に入らなければ仕方がない。井崎や関係者に直接に交渉して、特別に入れてもらうわけには、今回はいかない。誰にも気づかれないように公演を見て、家に帰ることを望んでいた。

 シカンはクリスタルガーデンにタクシーを呼んだ。舞台の開場である『新宿ブレード』へと向かう。ライブハウスが会場だった。観客はみな立ち見だ。舞台としては珍しいなと思った。Gにどんな意図があるのかはわからない。当日券を求め、並ぶ人の姿はなかった。前売りも、ソールドアウトからは、ほど遠かったようだ。それはそうだ。Gはほとんど無名なモデルの一人だった。

 シカンは券を買い、そのあと、二時間以上ものあいだ、時間を潰さなければならなくなった。気温はすでに春の暖かさだった。街をゆっくりと散策することにした。しばらく、都心には出てきてなかった。郊外に立った自然に囲まれた大邸宅で、束の間ではあったが、貴族のような生活をしていた。あの中世の領主の姿と重なっていた。こうして都会に出てきている。まさに、あの場面であるなら、これからこの都市では戦闘が始まる。若者を中心とした、革命の火ぶたが切って落とされる。

 急にシカンは、自分が戦場に足を踏み入れているような気がしてきて仕方がなくなる。なんということだ。シカンはその思いつきを笑った。ここが、戦場と化すだって?いつから、中世ヨーロッパになったのだ?

 ここは、パリか?馬鹿らしい。ふふふ。ほら、よく見てみろ。ここは、典型的な21世紀の都市なんだよ。だいたい、今、地下鉄に乗ってきたじゃないか。ライブハウスだって存在している。

 そのとき、頭上に、何かがすごいスピードで通り過ぎたような気がした。鳥か何かだと思った。何度も何度も通りすぎた。それぞれが違う方向からやってきては、シカンにぶつかることなく通過していった。けれども肉眼ではまったく確認できない。風圧だけが感じられる。ここは戦場にはならない。中世でもない。けれど何かがおかしい。風圧を感じるだけで、音も何も聞こえはしない。

 すると、空が真っ二つに切れたかのように、ガラスに亀裂が入ったかのような現象が起こる。それが、何度も繰り替えされる。巨大な石で、氷の湖に何度も叩きつけたみたいに。

 外にいるのは、何故か危険だと思うようになった。


 シカンはカフェへと逃げ込んだ。サラリーマンらしき男たちが、パソコンを広げて、仕事をしている。商談のようなことをしている二人組みもいる。カップルもいる。家族連れもいる。変わった様子は何もない。

 そのとき、座席の横にいた女性が広げた新聞に掲載された写真に、目がとまった。シカンは背筋に悪寒が走った。それは、武装をしていない人々が猟銃を引いて、まさに打とうとしている写真だった。

『ついに、火ぶたが切られる』そんな見出しだった。

 場所はどこだろう。細かい文字までは見えない。シカンはカフェラテを買った。自分の席に置き、そのあとで、外に新聞を買いに出た。

 携帯電話の契約は、クリスタルガーデンを購入したのと同時に、停止状態にしていた。コンビニはなく、駅の前のクヨスクまで戻らなくてはならなかった。やっと目当ての新聞を購入する。すると、戦地は隣の街だった。すぐそこで、起こっている出来事だった。けれど、どうして人々は、ああも落ち着きを払っているのか。戦闘は非常に狭い地域で起こっていて、そこに近づきさえしなければ、安全は保障されているのか。新聞を丹念に読みこんだ。しかし、よく見ると、日付が違う。3月30日になっている。二日後だった。勘違いかと思い、劇場のチケットを見る。3月28日だった。

 間違っているのは、新聞の方だった。カフェラテを飲みながら、隣の女性に話しかけてみた。

「これ、なんですけど」シカンは新聞の写真を指差した。

 二十代の半ばくらいの、色白で肌の綺麗な女性だった。

 女性は軽く会釈をし、大きな眼を光らせた。警戒心のある感じではなかった。

「これ」とシカンは日付の方に指を移した。

 女性は微笑んだ。シカンは急に不安になってきた。

 俺は今から何を訊こうとしているのか。日付がおかしいじゃないかと。あるいは、戦闘の写真は、いったい何を意味しているのか。

 その、日付の横に印刷された新聞社の名前が目に入ったが、聞いたこともない名前だった。


 《未来系015型》と記されたその言葉を見ていると、横の女性はシカンに言った。

「あなた、外国の方なのかしら?文字が読めないんでしょう」

「いや、違いますよ。日本人です。ちゃんと読めます」

 女性は疑いの目でシカンを見た。

「クォンタム新聞社っていうのが、本当の名前なんだけど。いくつかの、傾向の違う新聞を刷っていてね、あなたが読んでいるのは、015型よ。私のも。今日、売店にあるのは、みんな、015型。あなた、本当に外国の方じゃないの?もしくは、日本人なんだけど、外国にずっと居て、帰ってきたばかりとか。きっと、そうなんでしょう。だって、活字を追う表情が、ずいぶんと不安げで、固かったわ。見知らぬ国の、見知らぬ情報を、眺めるときの顔よ。絶対に」

「日付が違うんです」とシカンは言った。

「当たり前じゃないの」

 彼女はまったく表情を変えずに答えた。

「やっぱり。やっぱりね。あなたは海外暮らしが長かったんだ。いいわ。説明してあげるわ。言葉はちゃんと通じるみたいだし」

「文字も読めます」

「わかった」

「名前を、訊いてなかった」

 シカンは、自らの名前を伝えた。

「日本人の名前では、あまり聞かないわね。やっぱり、変わった人」

「私は、タロー。男みたいでしょ。でも、仕方がないわ。本名なんだから。ゲルダ・タロー」

「それ、キャパの彼女の名前です」

「ふふふ。よく知ってるのね。冗談よ。聖塚タローって言うのよ。ゲルダと同じ名前だから、勝手に親近感を持ってるだけ。あなたは、写真に興味はある?さっきから、この紙面の、写真ばっかり見ているから。ちょうど戦場の写真よね。キャパは好き?」

「好きかどうかと言われたら、好きですよ。やっぱり、彼の撮る写真は、見る者に訴えかけてくるものが違うから。ずっと見てしまう。何回も見てしまう。その度に、語りかけてくることが違う。僕は不謹慎ですけど、普通にエンターテイメントとして見てしまう。要するに、おもしろい写真だってことです。あまり、戦場であるかどうかは関係ない。ただ、おもしろいかつまらないかで判断してる。だから、ジャーナリズムがどうだとか、そういう話は御免ですね。ゲルダさん」

「タローでいいわ」

「ゲルダ・タローさん」

「新聞はね」キャパの話はそこで終わった。「過去のことは書かなくなったの。知ってた?その様子だと知らないようね。それほど前からではないわ。私も、よくは覚えてないけど、一か月も経ってないんじゃないかしら。最近、何か時間の感覚がわからなくなってきていて。うまく私の中で繋がっていかないの。ちゃんと筋道を立てて、ある程度、予測できるスピードで進むことがなくなってきた。飛んでるような気もするし、もっと変なことを言うと、違う時間の中で、本来起こっていることが、同時に起きているように錯覚するときがある。例えばさ、トイレットペーパーがあるじゃない?あれ巻かれているでしょ。ああいう状態にたまになってるの。それまでは、ずっと伸ばした状態、だったんだけど、あるとき気づけば、トイレットペーパーは、くるくるっと巻かれてしまっている。そうすると、全然、遠い同士の地点が、ほら、近くにきたり、時には重なってしまっているじゃない。ねっ、ねっ、ほらほら。わたし、何をしゃべってるのかしら。ええと、何の話だっけ?」

「新聞は、過去を書かなくなったって話です」

「ああ、そうだった。新聞っていう紙の媒体は、わたしは消滅してしまうと、思ってたのね。電子版にすべて、移行すると思って。でも、現実は、そうはならなかった。紙の媒体は残った。ただし、それまでとは、まったく世界観が変わった。新聞は未来を書くようになった。ほんとうよ。それまでも、唯一、天気予報欄だけが、未来を予測してたわね。今は、新聞の一面のニュースそのものが、未来になってしまった。新聞だから、そう遠い未来についてではない。これまでの新聞が、近い過去を主に書いていたように、それは、近い未来の話で、紙は埋まるようになった。だから、二日後、街は戦闘状態になる。もう明日くらいには、こんな穏やかな午後のカフェテラスなど、見ることはできなくなるわ」

「みんな、街を出ていってしまっているんですか?」

「でもね、よく考えてみなさい。こうやって、新聞で大々的に報道されているのよ。どうかしら。それでも、予定通りに、戦闘行為に走るのかしら。予定は変更される可能性がある」

「ということは、未来を予知した記事であっても、実際には起こらない可能性があるってことか。この記事は、いったい誰が書いているんですか?」

「それよね。新聞社に勤める人間の資質が、著しく変わってしまったってことよね。記者はいらなくなった。編集者はいる。記者の代わりに、別の能力を持った者。つまりはサイキックね。彼らが新聞社に集められた。そして、未来を見て、その摺合せを何人かのサイキックで綿密に行い、編集者に提出する。編集者が校正をかけ、印刷所にまわす。ただし、ネットの報道は未来予知に規制がかけられた。ネットは、過去の情報だけが掲載できることになった。住み分けは行われた」

「そうなんですか。全然、知らなかった・・・。あなたに訊いてよかったです。この写真の戦闘も、実際に起こるかどうかはわからないけれど、起こる可能性が極めて高いってことですね。僕も、都心には近づかない方が、よさそうだな」

「それが、いいわ。もう若い人たちは、戦闘行為の準備段階に入っているから。こうやって、多くの人に、知られてしまったからといって、それを取りやめるというのは、非常に難しいことなのよ。もう発射台にセットされてしまっている。あとは、ボタンを押すだけという状態。それが、たとえ、ばらされたとしても、発射をとりやめるよりは、そのまま実行してしまった方が、リスクが少ない。当初、予定していた効果は、期待できなくなるけど、それでも、目的は、ある程度は果たせるからね。逃げた方がいいわね」

 二日後といえば、ちょうど、Gの舞台の三日目、最終日と重なっていた。そのことに、シカンは思い当った。


 ゲルダ・タローがいなくなった後で、隣に来たのは、スーツ姿の二人の男だった。車のセールスマントと、その顧客だったようで、GIAという新型の車について、ずっと話していた。

 シカンは、新聞の記事を読みながら、その話に耳を傾けた。

「実は、もう、極秘に、GIAは出回っているんですよ。市場には出るのは、いつになるのか。ちょっと未定なんですけど。近いうちには、必ずね。もうこうやって、顧客のみなさんには、小さい声で宣伝してるんですから」

 と言ったセールスマンの声は、それほど小声だとは思えなかったが、シカンの意識は、だんだんと、新聞からは乖離していった。

「この車の凄いところは、宙を走るということです。地面からは浮いています」

「リニアモーターカーのようです。磁力でですか?」

「違います。浮力です」セールスマンは、自信たっぷりに答えた。

「飛行物体じゃないですか」

 顧客の男は笑った。

「その通りです。沢崎さん。実は、これ、空を飛ぶ車なんです・・・」

「あのな、まだ、酒は入ってないだろう?」

「沢崎さん、声が大きいですって。今日は、契約の書類を持ってきました。ご覧ください。僕は冗談を言ってるんじゃありません。ちゃんと精査してください。本当に、GIAという車体を、あなたに売ろうとしているんです。まだ仮押さえということですが。でも、必ず、納品されます。おそらく、お得意様で、予約はあっという間に、埋まってしまいます。一般発売には、こぎつけられないはずです。まだ台数も少ないです。今、試験的に、街に飛ばしていますが、安全性には、全く問題がありません。法律にも引っ掛からない。国からは走行許可も取ってあります。技術的に大量生産できないものですから、ちょっと値段は張りますが、でも、沢崎さん。もう道路を走る必要は、なくなるんです。すごいことでしょ?渋滞に遭遇することはなくなるんですよ」

 沢崎という客は、言葉を失っていた。まったく話しについていけなかった。

 シカンもまた同じだった。悪い夢を見ているかのようだった。

 朝からずっと、以前と感覚がズレまくってしまっている。

「沢崎さんが戸惑うのも、無理はありません。他の顧客の方も、みな、同じ反応でしたから。今日は、僕、これで、四件目なんですけど、これまでの三人の方は、共に契約なさりました。ずばり、五百万円です。言ってるわりには、意外に安いでしょ。でも、これは、頭金ですから。実際の価格は五千万円です。しかし、今回の初期発売に関しては、この五百万円以外には、お金を取らないことになりました。最初で最後の大サービスです。空中がそのまま、道路になるわけです。しかも思い通りに走る、その空間こそが、そのドライバーにとっての唯一の道となる。GIA同士がぶつかることはありません。車体同士を避ける装置がついているので。ビルや鉄塔などと、接触することもありません。雷が落ちることもありません。しかも、火の侵入も防ぐし、電波の侵入も、許しません。現代人にとって、不便といえば、携帯電話や電子機器が、車内では使えなくなるということです。でも、それも、走行をやめてしまえば、使用が可能になります。あくまで、走行中における、不便です。でも、沢崎さん。案外、この不便さも、時代を先取りしてると思いませんか?GIAを運転しているときにだけ、他の雑音からは、無害でいられる。瞑想して心を落ち着けているのと、同じ効果がある。空間を移動していながら、それは、じっと静止していて、α波か何かを出しているのと、まったく同じ体感を得ることになる。このGIAへの乗車が、最大の癒しになるんです。一人乗りです。誰も同乗できないところも、また不便なところですが、それも、先ほどと同じ理由で、最大の長所になります」

 シカンは新聞を畳んだ。店内の時計を見た。開場時間まで、一時間を切っていた。

「今も、試験的に飛んでるって、いったい、どこを、どんな場所を、テスト飛行しているんですか?」

「ここですよ。ほら」

「ほらって?」

「この頭上にも、ビュンビュンとね。都会のど真ん中を」

「見たことないよ」

「そりゃあ、そうですよ、沢崎さん。肉眼では、確認できませんから」

「そうなの?」

「ええ。マッハ、いくつという世界ですよ」

「恐ろしいな。それで、本当に、安全性が確保できてるの?」

「絶対に、ぶつかることはありません」

「怪しいな。絶対だなんて。テスト走行では、っていう言い方をされた方が、信用できるよ」

「物理学については、詳しいことはわかりません」とセールスマンは言った。「でも、科学的にも、それは、証明されていましてね。みなさん、安全性のことを訊かれるんですね。ということは、すでに、かなりの確率で、購入に向かっているということですよね。そして、あなたの前の三人の方は、全員契約なさりました。一時間後には」

 沢崎は、渡されたパンフレットを、無言で読み込んでいた。

 そのあと、パソコンを広げ、ネットを見始めた。

「まだ、情報は洩れていません。漏れる頃には、初回の販売予約は、埋まってしまっています。契約された方が、うれしくて、人にしゃべってしまうことがあるようです」

「それが、本当の話なら、まったく違う世界に、俺たちは生きることになるぞ」

「そうですね」

「ああ・・・」

「技術的にも、ものすごい変わり目に、時代は入っているんです。驚くべき飛躍を、今達成しようとしています。我々は、クォンタムジャンプって、そう呼んでいます。これは、何も、テクノロジーの世界だけの話じゃないです。人間に関する事柄すべてに、通じることです」

 セールスマンはそう断言する。

 顧客の男は、とりあえず、納得した表情を示していた。

「まあ、いいさ。時が来れば、わかるんだろう。俺みたいな馬鹿にもね。ところで、発売日は、本当に決まってないの?裏では、確定してるんじゃないの?」

「正確に、この日っていうのは、申し上げられないんです」

「やっぱり、あるんだな。確定に近い日が」

「なんとも申し上げられません。それ以上は、ご勘弁を」

「ああ、勘弁するよ」

 沢崎は、契約書にサインをした。

 鞄から判子を取り出して、力強く書類に押していった。

「相当、近いんだろうな」

 二人が席を立ったとき、Gの公演の開場時間は、三十分を切っていた。

 それでもまだ、ギリギリに開場入りするつもりだったので、静かに目を閉じ、いろいろな雑念を消して、Gの公演へと神経を集中させていった。



 シカンは、道を歩いているときに何度か、高層ビルのあいだから空を見上げた。

 本当にそのGIAなるものが、テスト飛行しているのか。今は感じなかったが、確かにさっきは、何度かおかしな風圧を受けた。鳥だと思ったが、どこにもその姿、は見つからなかった。しかし、GIAのことは、とりあえずはどうでもよかった。

 新宿ブレードに着くと、シカンは入り口でパンフレットを貰った。中へと入った。開演まで三十分を切っていた。ライブハウスの中は、すでに客が入っている。予想していたよりも人がいた。フロアのほとんどに観客が広がっていた。密度は濃くなかったが、それなりにいた。シカンは少しほっとしていた。ガラガラのような気がしていたから。照明の光を頼りに、パンフレットを見る。他の客も、みな、パンフレットに釘付けのようだ。

 『一日目・第一の儀』と名づけられた、今日の公演の解説が、書かれている。

【前日のことだった。外部からは、ある訪問者がやってきた。ずいぶんと前に、我がエジプトから出て、別の大陸に渡り、そこに文明を築いた種族だ。我々とは、まったく異なる価値観の国を、そこに創造した。何世代かに渡って、繁栄を築いた。その役目を終え、文明を閉じ、我がエジプトへと帰還した。盛大な祭りが開かれ、再会に歓喜する催しが、一晩中、繰り広げられた。そして、その儀を合図に、国家を転覆させ、新しい政府を樹立することを目論んでいる人間が・・・、蠢いた】

 大きなドラム音と共に、突然、照明が消える。

 バンドのサウンドに、会場は一気に包まれた。

 何事かとシカンは思った。歌声が聞こえてくる。

 すると、正面には、文字が浮かび上がってきた。

《Gフェスタ》

 文字は消え、黄色い光の束が現れ、一気にライブハウス中を満たした。


 黄金の世界の中で男の歌声は響き渡った。目が眩む。シカンは耐え切れずに、手で視界を覆う。それでも容赦なしに、光の攻撃はやまない。いい加減にしてくれと、強く心に思った瞬間だ。やっと光はおさまる。次第に、暗闇へと戻っていく。歌声はやみ、ベースの音と、ドラムのリズムだけが刻まれていく。舞台には、黄金に輝くピラミッドの姿がある。その後ろには、デジタル画面が設置されている。別の背景が登場している。そして、なんと地面が盛り上がった。そう思った瞬間だった。今度は床が横に傾き、身体が横に倒れ、そのまま半回転してしまった。シカンは何が起こったのかわからなかった。身体がぐるぐると周り始めた。体は左に傾いていくのに、目の前の風景は右へと傾いていく。空間は一様な動きではなかった。一瞬気分が悪くなったが、すぐにおさまった。目の前には、別の動きをしていく空間が折り重なるようにして、存在している。ピラミッドだけが、上下左右を少しも変えず、無言で佇んでいる。回転はずっとやむことなく続いた。

 数分後、ぴたりと再び同じ空間に合わさる時がきた。

 別の動きをしていた空間同士の繋ぎ目が、黄金に光り、次の瞬間に消えた。

 また一つのライブハウスそのものへと戻っていた。悪い夢の中にいるようだった。

 しかし、目の前には、会場入りしたときと同じ光景が、戻っている。

 ピラミッドは消え、まっすぐに続く道が、現れる。真横から伸びる道と交差し、十字路ができ始める。シカンには、十字架のように見えた。そして、その十字架の真ん中に、人影が現れた。一人の男が地下から上がってきた。それが、Gだった。この当たり前の事実にも、シカンはひどく驚いた。

 Gフェスタという文字が、現れていたにもかかわらず、それまでの数分間、Gの舞台に来ていることを、完全に忘れてしまった。こんなにも、ハイテクなセットを駆使してのオープニングに、ちょっと度肝を抜かれていた。本格的だったのだ。本気だった。

 この、オープニングの、グラウンドクロスのシーンの残像は、シカンの中に色濃く残り続けた。

 そして、Gが現れ、彼一人に、スポットライトが集中していた。

 周りの背景は、消えてなくなった。

 コンサートが始まるのか、演劇が始まるのか。シカンは期待に胸を高まらせていた。



「私は、新宿の辺りを、担当します」

 万理は、最後の集会で、そう発言した。

「本当に、君は、実行犯の、一人になるつもりなのか。一般人ではないのだぞ。顔が割れているのだぞ」

「芸能界に戻るつもりは、ありません」

「だとしても、何故。なぜ君のような優秀な女優が、こんな行為に手を染める?」

「自己否定なさっているんですか?」

 黒い巨大な鳥が飾られた祭壇には、誰の姿もなかった。万理を初め、多くの人が、その無人の祭壇に向かって、立っている。

「私は、これまで、女優として活動してきました。あるとき、ある出会いがきっかけで、自分で映画の脚本を書いて、監督をするようにもなりました。最終的には、私の意志で行動しました。けれど、始まりは違った。常に外から、やってきた。目に見える形としては。今度のこともそうです。私は、この集会に、もうずいぶんと参加した。導かれるように。私という存在そのものの中に、深く根ざしていった。映画監督として、活動するのと並行して、この鳥の存在は、私の中で大きくなっていった。これは、宗教ではありません。カルトの集団でもありません。教義もなければ、規則もない。象徴としての黒い大きな鳥がいるだけです。黒い鳥の意志と、わたしの意志が、完全に今一致し始めている。わたしにはわかるのです。それは、不可避な現実なのです。私は、自分が、テロリストであるという自覚は、ありません。人々を傷つけるつもりもありません。世界を壊すつもりもない。ただ、私は、次の私になるために、この境界線を越えていくだけです。万理という人間は、今日ここで、消滅します」

「だが、結果として、世界には、亀裂が入る」

「わかってます」

「それでも、構わないのか?」

「誰も傷つけはしません。私はそう強く心に決めています。ですから、力を貸してください。私とあなたの身体を、完全に一体にさせてください」

「君は、好きな人がいるのか?」

「いました。しかし彼は結婚しました。奥さんは、とても素敵な人です。私は、彼らの家庭を壊すつもりはありません。思い残すことは何もありません。自分の撮りたい映画は、すべて完成させました。どうか、世界を大きく変えるために、この私を、お役立てください。ただし、誰も、傷つけはしないことが、条件です」

「いいだろう。新宿を担当したまえ」

 集会に来た人間すべてに、担当の場所が与えられた。解散と同時に、散らばっていくことになった。

 集会は解党が決まり、痕跡はすべて消滅することになる。

 鳥の祭壇は焼かれ、空間は土の中へと、埋められることになる。



 二人の芸能雑誌社の男が帰ったあと、事務所には、長谷川セレーネとセトだけが残った。

 しばらくは、どちらからも話そうとしなかった。事務所を後にする様子もなかった。

 最初に沈黙を破ったのは、セトの方だった。

「舞台の出演オファーが来ている」セトは小さな声で呟いた。「さっきの話は、もういい。仕事の話をしよう。ああ、俺は、あらゆる事柄の板挟みだ。なんということだ。この話も、するはずじゃなかった。でも、もう遅い」

 セトは、長谷川セレーネの話から、別のことに視点を移したいために、無理やり話題を持ってきた。

 そのため、まだ彼女に話すべきではない事にまで、踏み込んでしまった。

「まあ、いい。いずれは、言うことだ。Gという男が主演の舞台に、君のキャスティングも、考えていると言われた。井崎の事務所からだ。君のデビューイベントを、プロデュースした男だ。そして、共演者もまた、そのときの男性モデルだ。ただし、この出演には、条件があって、君がヌードになることもあるという。それが了解ならば・・・。なんと言ったらいいか・・・。偶然、君が望んだとおりの仕事が来た。そして俺は君に話すことなく、断ろうと考えていた。それが、こんなスキャンダルを持ってこられたものだから・・・、気が動転してしまって・・・。馬鹿なことだ」

 長谷川セレーネは、立ったまま天井を見上げ、大きく息を吐いたかと思えば、身体を腰から曲げ、元に戻すことを繰り返した。

「何を、考えている?」

 長谷川セレーネは、ソファーに座った。

「いえ、別に」

「何か、言えよ」

「イエスか、ノーってことですか?」

「何でもいい」

「それなら、答えはイエスです。あれも、これも、すべてはイエス」

 セトは黙ってしまった。

「私は、すべて、オーケーなんです。受け入れます。進めてください」

「そう言われてみると、セレーネ。君は、今までも、ずっと、断る、拒絶する、ということがなかったように思う」

「そうでしょうか」

「途中で、迷ったり渋ったりすることはあるのかもしれない。ないのかもしれない。君の心の中までは、伺いしれない。でも、出てくる答えは、いつもオーケーだった」

「たまたまですよ」

「そうだろうか」

「ヌードなんですね」

「そういう場面も、あるということだ。ないのかもしれない。もし、そういう流れになったとしても、という条件だ。絶対ではない」

「そうですか。出演します。非常に縁を感じますから。じゃあ、そうなると、あのデビューイベントに関わった人たちが、また、参加するんですね?」

「わからんな。万理は、行方がわからなくなっているようだし」

「知ってます」

「他の人たちのことは、全然、知らない」

「そうですか」長谷川セレーネはそっけなく答えた。

「私の父の話。母の話を掘り下げて、いろいろと、みなさん、調べてるみたいですけど、わたしね、何も初めて聞かされたわけじゃないんですよ。あらかじめ、知っていたわけではないけれど。薄々は、感じてはいた。母から何か言われたことはないし、自分で母に内緒で、調べていたわけではないけど、何かね、そういう事実があったんじゃないかと、勘付いてはいた。私は、父のことが知りたい!だから、あの記者にも、調査の続行をお願いした。私の目的は、父なんですよ。彼の正体が知りたい。私はまだ、私の半分しか生きていないから。その残りの半分と、父の存在は、とても深く繋がっていると思うんです。私の中の男の部分が、その父から受け継がれている。娘はいる?」

「いや、俺に、子供はいない」

「結婚してませんでした?」

「してる。子供はいない」

「これから、ですか?」

「今後も、ないと思う」

「できないんですか?」

「試したことがない」

「セックスを?」

「馬鹿なことを言うなよ」

「パイプカットでも、したんですか?」

「それも、ない」

「じゃあ、何故」

「うちの奥さんからは全くせがまれない。子供が欲しいとも言われない」

「それで?」

「だから、だよ。俺には、特に、子供を持とうという、願望はないから。だから、妻次第だ」

「どうして、奥さんは、欲しがらないの?」

「じゃあ、君は、どうなんだ?欲しいのか?」

「ええ、そうですね。すぐにでも、欲しいですよ。旦那はいりませんけど」

「また、繰り返すのか?」

「何を、ですか?」

「母子家庭を、だよ」

「そうなんですかね?」

「子供なんてできたら、許さないからな」

「彼氏だって、いないんですよ」

「だから、どうした?彼氏がいなくたって、子供はできる」

「まだまだ、先の話ですよ。社長が私で、たくさん儲けた後の話です」

 セトは大きく息を吸った。「君のその、何でもオーケーっていう、すべてを受け入れる体質を心配してるんだ」

「そうやって、男も、吸い寄せてしまうと、思ってるんですね」

「俺は、君を、信用している。だから、口出しは何もしない」

「それじゃあ、舞台の詳しい話を、聞かせてください」

 セトは、応接室から仕事部屋へと、長谷川セレーネを移動させた。

































   第5部 第12編  3-Daysビッグバン





















 万理は新宿に着いた。駅から外に出たときに、ふと雲の形が気になってしまった。

 空に意識が向くことなど、久しくなかった。雲の模様、雲の位置が、何故かおかしいような気がした。今まで生きてきた中で、あんなに切り刻まれたように、バラバラになった形状など見たことがなかった。本当に、包丁か何かで、切り裂いたようだった。

 万理は鞄を開け、中に入っていた小型の起爆装置を触る。彼女はこの不穏な空に、計画の中止を見てとった。私は早まろうとしている。生き急ぎ、人生を台無しにしようとしている。突然、進む足が止まった。けれど、一応、起爆装置を設置する場所の下見は、しておこうと思った。

 新宿ブレードというライブハウスだった。ライブハウスの建物には、『Gフェスタ』という張り紙がしてある。出演者の覧には《G》の名前がある。忘れもしない。自分のキャリアの中で、唯一の失敗作であった、映画に出演した男だった。井崎の事務所のモデルだった。その彼がこうして、舞台で主役を演じる。血の毛が一気に引いていった。意識は芸能界へと急速に引き戻される。これかと、万理は思った。これが、空を不穏な形態にしている。万理はしばらく、ポスターを見つめていた。あまりに長い時間見ていたために、ライブハウスのスタッフに声をかけられた。長髪の中年男性だった。

「当日券、ありますよ」と男は言った。

 万理は、即刻、購入した。八千八百円もした。

「開場まで、あと一時間ですね。しばし、お待ちを」

「ねえ、あなた」

 万理はすでに、ライブハウスの階段を降りようとしている男を、引き留めた。

「この舞台って、どんな内容なの?」

 男は、雲中万理だとはまったく気づかなかった。メイクはしてなかったし、恰好は黒づくめで、地味な事務員が、出勤するときのようなスタイルだった。

「見ての、お楽しみですよ」

「なんで、演劇を、ライブハウスなんかでやるの?」

「何ででしょう。僕にもわかりません」

「バンドスタイルの演奏でもあるのかしら」

 男は去っていった。万理はチケットを片手に、あと一時間、どう時間を潰そうか、考えた。それよりも、この鞄の中の起爆装置が問題だった。きっかりと三時間後に爆発する。こんな場所で、大爆発させてはいけなかった。雲が中止を伝えている。

 Gの舞台が、私をぎりぎりの所で、正気に返らせてくれた。三時間後までに、人のまったくいない場所に、運んでおかなければならない。新宿区が、丸ごと吹っ飛ぶほどの、力があると聞かされていた。Gの演劇など、見ている場合では、なかった。できるだけ都心からは離れないといけない。山の中に持っていくか、太平洋のど真ん中に捨てるか。万理の心は乱れ始めた。いや、起爆装置を解除したらどうか。自分で?誰かに頼んで?製作者を呼んで?そんなことは、できない!今から人のいない場所に持っていかなければ。けれど、Gの舞台は、絶対に見たいと思った。片道三十分で行けるところまで行こうか。ふと、そんなとき、万理はあまりに、不謹慎な事が頭をよぎりってしまった。自分でも神経を疑いたくなった。

 そのままで、いいんじゃないのか・・・。

 思いついた言葉は、そのまま、身体の奥へと染みわたった。

 このままでいい。起爆装置をどこか遠くに、運ぶ必要もなければ、新宿ブレードのトイレに、置き去りにしていくこともしない。鞄に入れたまま、そのまま、放置しておけばいい。さらに別の声が聞こえた。解除できる、と万理は思った。起爆装置は解除できる。作動させないことが、可能だ。どうやって?答えは明白だった。起爆装置を持っているという概念を、自分の中から取り除くことだった。その思いつきは、自分自身を震わせた。


 私は、起爆装置など持っていない。完全に忘れるのだ。

 心を鎮め、静寂のなか、起爆装置の存在を、意識の中から外す。それでいい。

 Gの舞台が始まるまでに、それを行う。万理は、ライブハウスの近くにあるコーヒーショップに入る。周りはすでに目に入らなかった。深い瞑想状態の中、すべての持ち物についての記憶を消す。私という存在も消す。名もない匿名の人間、女でもないその一人の塊が、Gの舞台を見にいく。

 Gの舞台という概念も、次第に薄れていった。

 ただ一つの塊が、コーヒーを飲み、ある場所へと導かれていく。

 万理は、自分が映画監督をしながらも、深夜、秘密の会合に参加するため、家を抜け出していた過去を思い出す。あのときと似ていた。目的は何もない。ただそこに存在するだけ。場と時間と一体化し、ただそこにいるだけ。

 万理は自分がカフェラテを頼み、窓際の席に座ったことも、だんだんと意識の彼方へと薄れていっていることを知る。まだ始まりだった。一時間後には、完全に意識はなくなっている。夜の会合に参加するときもそうだった。仕事を終え、家に帰り、一度風呂に入る。そのあとで、だんだんと、意識は遠のき、家を出て、車を運転している場面は、何となく覚えているが、道をどのように走っているのか、ほとんどわからなくなる。どうやって集会の場所に辿りつき、駐車スペースに入れ、建物の扉を開き、中に入っていっているのか。誰と言葉を交わしているのか。どんな儀式を行っているのか。記憶はぶっ飛んでしまっていた。気づけば、黒い巨大な鳥のようなものが現れていた。視界のほとんどを占めていた。他には何も見えてなかった。鳥は宙を上昇していった。ふと、空には、一人の女性が浮いている。誰だろうと思う間もなく、鳥は勢いよくその女体を刺し、そして、下から肉体を突き破る。貫通した女性と、鳥は、クロスになったまま、そのまま静止している。その光景だけが脳裏に刻まれ、意識は再び遠のいていく。目が覚めると、そこは、自分の部屋であり、朝であった。仕事を終え、男の部屋に、遊びに行くこともあった。けれど、万理はその後、男の家からは出ていき、同じような深夜の行動を経たあとで、自宅へと戻っていたようだ。そんな日々の繰り返しだった。映画の制作は軌道に乗り、人々からは、大きな評価を得た。多くの人に楽しんでもらえる、作品が出来た。

 万理は、映画監督としての仕事が、終わりに近づいていることを自覚していった。

 それに連動するように、習慣になっていた集会への参加も、打ち切りになることを予感した。

 私の人生にまた、大きな変化が訪れようとしている。気持ちは前のめりになっていた。しかし、私は少し先走り過ぎたのかもしれなかった。あまりに急激な、それまでよりも遥かに、劇的な未来の変化を、感じとってしまったために、焦燥感に駆られ始めていたのだ。もしかすると、勇み足だったのかもしれない・・・。その、後悔の想いも含め、万理は雑念のすべてを浄化するべく、深い白い闇の中へと、この身を堕としていった。



第一の儀



仮面をつけた裸の女性たち

マント姿の男たち。

彼らに取り囲まれたG。

背景のピラミッド。


背後の巨大スクリーンには、森の中にたたずむ複数の塔。

マヤとテオティワカンの大都市の遺跡。海を超えたエジプト。

絢爛な鳥の衣装を、Gは身に纏っている。

荒廃した土地からの再生の儀式。

フランス革命期の映像が流れる。

マヤとファラオの王の再会。握手。融合した瞬間。

その、接続の儀式を、見届ける、女の姿。

黒い鳥がたくさん現れ、ライブハウス内を、所狭しと飛んでいる。



 シカンはその鳥に何度もぶつかった。

 あれは、長谷川セレーネだろうか?

 唯一、仮面をつけていない女性。

 唯一、肌を晒していない女性。

 その、あまりに短い登場に、シカンは目を奪われる。

 確かに、彼女のような気がする。

 だが、彼女は、その日、二度と、舞台に現れることはなかった。


鳥に扮したGは

その後は

音楽に合わせ


雄たけびのような歌声を披露する。



 そのリズムに観客席にいたシカンもまた、次第に陶酔していった。

 身体を揺らせ、頭をゆっくりと振り、Gの背後の映像と共に、カオスの中へと、自分自身も消えていった。


 気づいたときには、舞台は暗転している。音はすべて消えている。



 ステージには黒い人影が映っている。

 やがて、淡い蝋燭の光が灯される。

 老人が、一人、机の前に肘をついて座っている。

 白い顎鬚を生やした男だ。

 カードを引き、机の上に並べている。

 彼の背後には、巨大な水槽があった。その中には人間が浮いている。

 若い男女、ときには動物までもが入っている。

 目を閉じ、口からは、わずかな泡を出している。

 老人はおもむろに席を立つ。

 扉を開ける。

 そこには、人が佇んでいる。

 彼は部屋の中に入れる。

 彼らは向かい合って座った。

 なにやら、話をしているようだが、声は聞こえない。

 そして、老人はカードを切り、目の前の男に渡す。

 男はカードを引く。

 背後の水槽に異変が起こる。

 一体の人間が、泡をさらに拭きながら、目を開ける。

 カードを引いた男は、その異変に目を移す。

 自分の引いたカードと見比べている。


 カードを元に戻す。


 目を開けた水槽の中の人体は、再び、目を閉じる。

 男は、老人とさらに、話をし始める。

 納得したかのような、表情を浮かべ、彼は扉を開け、帰っていく。

 そんな光景が、何度となく、繰り返される。



 そのときだった。

 いきなりサイレンのような音が鳴る。館内放送が入る。

『ただいま、この建物には、爆発物が仕掛けられたとの情報が、入りました。ただちに避難してください。お知らせします。当スタジオに、爆発物がしかけられた模様です。すみやかに、係のものの指示に従って、退去してください』

 シカンはそれもまた、Gの舞台の演出の中の、出来事だと思った。だが、舞台は、完全に暗転してしまう。幕が下りてしまう。本当にスタッフと呼ばれる人たちが現れ、避難経路の指示を始める。シカンは慌てて、その指示に従う。すぐにライブハウスを出ていった。

 観客はみな、言うとおりに行動した。けれどシカンには、それがまだ、演出のような気がしてならなかった。何度も振り返った。舞台の方を見た。地上に出たシカンは、他の観客と共に、その場に立ち止まった。しかし道ゆく人たちは、みな、猛烈と走り出している。新宿ブレードのスタッフたちは、外に出た観客たちに、さらに遠くに逃げろと、指示を出している。消防や救急車のサイレンが、街には響き渡る。

 ここでようやく、これは、舞台の一部ではないことを悟る。シカンもまた、新宿ブレードから遠ざかるべく、全速力で走っていた。何度も転びかけた。しかし、その度に、後ろを振り返った。心のどこかで、まだフィクションの中のような気がしていた。危ないから早く逃げて。悲鳴にも似た声が上がった。警察車両と思われるサイレンが聞こえた。彼らもまた近づかないようにと、懸命に指示を出していた。いったい、どこまで離れれば、安全なのだろう。いくら逃げても、すでに、爆発物の射程圏内のような気がする・・・。Gの公演は、これで中止になってしまうのか。今日も途中で、終ってしまったのだろうか。明日のチケットが欲しい。シカンは、この場に及んでもまだ、そんなことを考えていた。



「これが、台本だ」

 セトは、事務所に送られてきた本を、長谷川セレーネに渡した。

 長谷川セレーネは、黙って、ページを捲る。

「まだ、完成形では、ないそうだが」

「ちょっと、静かに」

 セトは長、谷川セレーネに窘められる。

 そのあいだ、セトは心が落ち着かず、応接室と仕事部屋を、何度も行き来する。

「これさ、ストーリーはないの?」

 長谷川セレーネは、突然、セトに声をかける。視線はずっと、文字を追ったままだ。

「俺は読んでないから、わからん」

「あ、そう」

 長谷川セレーネは、仕方なく、最後まで読み通した。

「わかった。了解」

 長谷川セレーネは、本をそっと静かに閉じた。

 目を瞑り、しばらく瞑想したかと思った、その瞬間、目を一気に見開かせ、セトを驚かせる。

 何度か納得するように、自分で頷いた後、「これ、本当に、Gくんが書いたの?」

「違うらしいよ」

「誰か、作家さんが、いるのかしら?」

「ああ。井崎が、見つけてきたらしい。Gとの共同作業だ」

「納得。なかなか、よくできてる。でも、ストーリーは、ないの?ずいぶんと変わってるわよ。問題提起から始まって事件が起こって、それで結末ってものがあるでしょ、普通。そうじゃないのよ。特に、三日間の公演なのに・・・、三日目が白紙って、これはどういうことなの?」

「まだ、未完成なんじゃないの?」

「何か、違うのよね」

「違うって?」

「だからさ、まだ、物語の書き途中で、そのうちに埋めるっていうさ、そういった雰囲気が全然ないのよ。もう、二日目の話で、すべては、完結してるような気がするの。何故、三日目が、必要なのだろう・・・」

 そう言われても、セトには、答えようがなかった。

「ストーリーがないんだもの。あなたにあらすじを、話することすらできない。そうだ、そうよ」

 長谷川セレーネは突然、何かを思いついたらしかった。鞄からメモ帳を取り出して、すごい勢いで、文字を記していった。セトには、まったく暗合にしか見えなかった。

「何て、書いたの?」

 長谷川セレーネの筆は、まだ、完全には止まってなかった。

 文字を書いている彼女を、初めて見たセトは、不思議な気持ちになった。

「アイデア」

 長谷川セレーネは、確信に満ちた声で言う。

「私の役どころに関する。一日目の出番は、驚くほど少ないの。ほんの何十秒ってところじゃないかしら。誰にも気づかれないかもしれない。私の登場は、主に、二日目。Gくんと、私って、ほとんど、すれ違うように、一日目と二日目に振り分けられているのよ。ちょっと、井崎さんに、電話をかけて?アイデアを伝えておきたい。必要ならば、彼からGくんに、伝言してもらえれば」

 セトは言われた通りに、井崎の事務所に電話をした。電話の子機を、長谷川セレーネに渡した。彼女は受話器を持ったまま、応接室を出て、廊下で話はじめた。

 セトにはよく聞き取れなかったが、ヌードという言葉が、何度か聞こえたような気がして、ぞっとした。

 電話を終えると、長谷川セレーネは、用事を思い出したと言って、足早に帰っていった。


 長谷川セレーネは、レンタカーを借り、河川敷に直行した。車を止め、周りに誰もいないなかで、息を大きく吐いた。彼氏と別れようと決心していた。

 今度の舞台に出演するにあたり、これがいいキッカケになる。

 それまで別れるなんてことは、一度も脳裏をかすめることはなかった。まったくの、衝動的な感情だったが、それでもずっと、そもそもの恋の始まりから、いつかは別れる運命であることを自覚していた。その衝動が今起こったのであり、どっちにしろ、一年後、二年後、五年後、いつかはこのような事態になった。

 今の彼氏、有名な人妻付きの俳優は、見たこともない自分の父親と、どこか似ている。ずっとそう思っていたことに、気づいた。そう自覚したとき、未練など、これっぽっちも残らないことを確信した。それよりも、芸能界に入る直前に、好きになった男の存在。彼の方が、ここに来て、極端に色濃くなっていった。私は有名になることで、彼に自分の存在をアピールしたかった。さらには、彼に対して、復讐心にも似た気持ちをも、有していた。女として、私を自分のものにしなかった、男に対して、後悔させてやろうという・・・。

 私はバージンでありながら、過去に関わった男達を、脳のスクリーンに次々と映し出していった。具体的に輪郭をとっていくその現実の男たちは、私を混乱させ、私という人間と、その男という個別的な存在に、どんどんとはめ込んでいくようだった。そのことがたまらず不快になった。私という存在が、どんどんと色濃くなっていき、それは、他人との明確な区別をも、余儀なくさせていった。

 苦しい。一人の女と、一人の男という、枠に嵌められていくのは。恋愛なぞ、もしかすると、私はこれっぽっちも、望んではいないのかもしれないと思った。私という個人をなくしてしまいたい。殺してしまいたい。私は、誰でもない、女性性の象徴。女性ですらない。人間であることは、かろうじて、保っている。そんな、ぎりぎりの究極的な存在に、なりたかったのかもしれない。ずっと心の奥底で、抱え持っていた感情が、舞台の出演オファーを受けた瞬間に、炸裂したのだ。

 私は成り行きのままに芸能界デビューを果たした。それも、奥底にある、目には見えない願望がもたらした、必然の贈り物のような気がして、身震いが起こる。個体化した男など、雑念に過ぎないのだと、長谷川セレーネは心の中で呟いていた。そして、そのように、男を見た時点で、私そのものも、個体の女と化してしまっていた。普通はそれでいいのかもしれない。私はどこか、不自然な女なのだろう。でもこうして、過去と今の男達をすべて、払拭させてしまった瞬間、あまりの開放感に、心は躍っていた。収縮していた意識が、拡大していくことのを感じた。こんなにも、清々しい気持ちになるのは、一体いつ以来だろう。初めてかもしれない。

 長谷川セレーネは、井崎との電話の中で、二日目に登場する自分の全シーンに渡り、服をまったく着けないことを提案していた。井崎は、言葉を詰まらせた。かなり動揺していた。セトに了解はとったのか。彼はなんと言っていると、そのことばかりを、しつこく訊いてきた。なので、彼からの了解はとったから、そんな心配は、無用なのだと、長谷川セレーネは力強く断言し、電話を切った。



 どこをどう帰っていったのか。シカンは、クリスタルガーデンの中にすでにいた。

 テレビをつける。ネットにも繋いだ。情報を得たかった。新宿で何が起こっているのか。どのチャンネルを回しても、やはり、その報道が、画面いっぱいに映し出される。

 Gの公演は、こんな大惨事の中では、おそらく中止だろう。そもそも、新宿に近づくことさえできない。しかし、ソファーに横になり、頭をからっぽにしていると、ふと爆破が起こったわけではないことが思い出される。それに、設置されたという事実も曖昧だった。まだ、公演続行の可能性はある。新宿ブレードに電話をかけた。繋がるはずもないと思っていた。

 しかし、スタッフが出た。

「今日の公演ですが」とシカンは言った。「途中で、警報が出されて」

 スタッフは、シカンの言葉の途中で、「その件につきましては」と切り返してきた。

「今日の公演は、ほとんど、舞台の終了と同時に、あのような騒ぎになりましたので、チケットの払い戻しはありません。予定通りに、公演は敢行されました。ありがとうございました」

「いや、違うんです」

 シカンは、受話器を置こうとしているスタッフを、呼び止めた。

「明日の公演のことです」

 とりあえず、受話器を置く、その手は留めた。

「明日のチケットのことを、お伺いしたいんです。前売りを手にいれることが、できなかったもので。当日券はありますか?あす、発売されるんですか?」

「明日の公演ですか?」

「スリーデイズって聞いてます」

「少々、お待ちください」

 スタッフは、受話器の側からは消えた。

「お待たせして申し訳ありません。明日の公演ですが、新宿ブレードでは行われません。場所が違うのです。Gのプロモーションスタッフに電話しましたが、明日は、有楽町の国際フォーラムという場所が、会場のようです。ですので、そちらに、お問い合わせ願えれば」

「そうなんだ」

 シカンはてっきり、新宿ブレードで三日間行われるものだと、思い込んでいた。会場が違うのか。それなら、爆破騒動の影響はないかもしれない。国際フォーラムに電話をかけると、若い女性のスタッフが出た。

「ええ、その公演の当日券は、午前10時から発売になります。二千枚ほど、出る予定です」

「そんなに?」

「失礼ながら、前売りが、あまり売れていないようでして」

 シカンは礼を言い、電話を切ろうした。がしかし、その瞬間、三日目の公演のことが、頭を過った。

「次の日の公演も、国際フォーラムなのでしょうか?」

「Gフェスタですか。お待ちください。ええと、違いますね。ここではありません。どこでしょうか。ちょっと調べてみます。ああ、ここですね。ああ、でも、これは、会場ではないか。変だなぁ。住所が書いてありますよ。問い合わせ先の記載もありません」

 シカンは、電話を切った。とりあえず、明日の公演に行けば、翌日のこともわかる。

 消していたテレビの音声を、復活させる。まだ爆破予告の騒動が、ニュースで流れていた。

 一人の女が、任意の事情を訊かれているのだという。女なのか。女が実行犯だったのか。

 その女が、犯人であると、まだ確定したわけではなかったが、深く事情を知っている人間として、確保されたのだった。

 新宿ブレードの近くにいた、不審者だったらしい。


『再び、緊急ニュースです。任意の事情を訊かれていた女性、彼女が容疑者として、逮捕されました。ニュース速報です。その女は、27歳の女優で、映画監督の、雲中万理容疑者です。雲中容疑者は、新宿警察署に身柄を確保され、ただいま取調べを受けています。女優で、映画監督の、雲中万理容疑者が、爆発騒動に関連する事件で、逮捕されました。以上です。詳しい情報は、また入り次第、お伝えします』


 シカンはしばらく、硬直したまま身動きが取れなかった。思考も停止してしまっていた。そのあいだも、テレビは雲中容疑、雲中容疑者と、彼女の苗字を、ずっと連呼していた。

 これまで、彼女の名前で呼んでいたために苗字にあまり馴染みがなかった。聞き慣れない雲中という言葉が、容疑者という言葉と、くっつき、雲中容疑者という、新たな固有名詞として、シカンの頭の中で繰り返されることになった。

 シカンは、井崎に電話をかけた。彼はすぐに出た。

「見たか?」

 シカンの第一声に、井崎は「ああ、どういうことなんだ」と、かなり動揺した声を、返してきた。

「お前、何か、彼女から聞いていたか?」

「いえ、何も。行方不明だったじゃないですか」

「そうだよ」

「そのあいだに、一体、何があった?爆発物に関連した、容疑だって?その騒ぎがあった近くで、逮捕された。彼女が、爆発物をどこかに置いたのか?置こうとしていたのか?そんな馬鹿な」

「信じられませんね」

「ああ。どうしていいのか、わからない」

「Gのことですけど」

 気づけば、シカンは、別の話題を口にしていた。

「昨日、僕は見ました。いい舞台でした」

「なあ、何故なんだ。どうして、Gの公演会場が、標的になったんだ?万理はテロリストなのか?それとも、テロリストの組織に、いいように利用されたのか?なあ、そうだよな。騙されたんだよな。彼女の意志ではないんだよな。でも、どうして、あそこが狙われたんだ?Gの公演の日時における、その公演会場が・・・。どうしてなんだ?誰の思惑なんだ?Gが狙われたのか?どういうことなんだ?長谷川セレーネか?狙いは。誰なんだ?いったい誰なんだ?知っていたら、教えてほしい。なあ、シカン。親友の頼みを聞いてくれ。な、頼む」

「井崎さん。明日の公演は、中止には、なりませんよね」

「明日?」

「国際フォーラムでやる」

「どうして、明日の話など」

「決行するんでしょ?Gの公演が、狙われたわけではないですから。大丈夫です。たまたまです。それに、万理さんが、犯人なはずもない。誰かに嵌められたんです。そもそも爆発など、起こっていないじゃないですか。でっちあげです。狂言です。万理さんは爆発物を持って、どこかをウロウロしていたわけでもない。すべては陰謀です。その陰謀も、誰かのほんの気まぐれです。陰湿なファンというか、ストーカーの仕業じゃないですか?すぐに釈放されますよ。それに、騒ぎも収拾されます。一時的な混乱です。誰も何も悪くはない。狙われてもいない。悪戯のレベルですから、井崎さん。浮き足立たないで。あなたが動揺して、どうするんですか?」

「すまない。悪かった」

「明日は、ちゃんと、決行しますよね。不必要なチョッカイを、あなたが出すべきではありません。Gも、それを、望んではいないだろうし。しっかりと、三日間、やらせるべきです。いいですね」

 シカンは念を押した。井崎の心の乱れを、あらかじめ察知していたのかもしれなかった。それを正すために、電話をしたような気がした。

 井崎からは、何とか、了解を取り付けた。テレビ画面からは、いつのまにか、爆破騒動のニュースが消えていた。



 井崎が、万理の逮捕に動揺しているとき、元ウエイトレスの女性から、メールが来た。

 万理の情況を、警察関係者に訊いている最中だった。万理はいまだに釈放されず、取調べがどのようになされているのか、進捗状況はまったくわかなかった。セトも同様、たいした情報の持ち合わせはなかった。

 元大学生は、聖塚という名前だった。今度、一緒にご飯でもどうかと、提案してきたのだ。普段だったら、この上なく、至福を感じる瞬間だっただろうが、状況が状況だった。

 けれど、彼女からのメールを放っておくわけにはいかない。もちろん行きましょうと、数分後に井崎は返信する。

 すると、彼女からは、今晩はどうだろうと。井崎は迷った。別の日にする必要があったが、何故かこのときは、この誘いを受けなければ、彼女は永久に去ってしまうような気がした。

 直観に従い、後日に伸ばすことは、やめるべきだろうか。

 しかし、今晩は、まだまだ、万理を中心とした混乱が収まりそうにない。

 明日は、Gフェスタの二日目の公演も控えている。ばたばたとした状態が、続いていくことが予想される。

 だが、井崎は、今晩でオーケーだと返信した


 井崎は呼び出されたレストランへと向かった。

 そのあいだも、街の至るところでは、新聞の見出しの、雲中万理の文字を目にしてしまう。心は浮つき、とてもデートどころではなくなる。それでも井崎は、できるだけ平静を保ち、雑念を取り除こうとするのだが、聖塚一人に、集中させることができない。こんなデートがうまくいくはずもなかった。やはり、日を改めようか。

 だが、井崎は、過去の苦い体験を思い出した。高校時代、ずっと好きだった女の子がいた。彼女とはあまり親しくはならなかった。同じクラスにもなったことがなかったが、部活の活動場所であるグラウンドが隣同士だったために、よく顔を合わせる機会があった。グラウンドの使用時間などについて、話をすることもあり、まったく知らない仲ではなかった。

 それ以上、親しくなる手段が見つからなく、そのまま卒業となってしまった。

 彼女に好きな人がいたのか、付き合っている人がいたのか、何もわからないままだった。

 そんな彼女と、卒業後の大学一年生の時にばったりと、駅ビルの中で会った。すれ違うといった感じではなく、文字通り、ばったりと、双方から真正面に出くわした。あっと、思わず、井崎は声を上げてしまった。彼女の方も驚いた。二人はその偶然に浮足立った。井崎の心は、一気に、一年前の恋愛モードへと急上昇してしまった。だが、一言二言話すだけが精一杯だった。どうして、あのとき、連絡先を交換しなかったのか。二度とそんなチャンスは訪れなかった。あのとき、コーヒーくらい、どこかで飲んでいたらよかった。二人きりになる唯一の機会を、みすみす逃してしまったのだ。

 井崎は、そのあと、彼女に関する情報を探したが、つかむことはできなかった。

 その苦い経験が、今の井崎を作り上げていた。たとえ、カオスの中であったとしても、チャンスは即刻、掴まなければならなかった。


 結局、二人での会食は実現した。けれど、話が盛り上がろうとする度に、携帯電話がけたたましく鳴って遮られた。万理の情報が、主な内容だった。次第に、聖塚綾子も、トイレに行く回数が増え、自身のスマートホンをいじる場面が多くなっていった。それでも、井崎は電話を終えると、すぐに目の前の聖塚綾子に集中し、二人の気を調和させるべく、自然体な自分へと戻っていった。だが、そんな努力も、あっけなく打ち破られる。

 そんな中、次第に聖塚は、井崎の電話の内容に耳を傾け始める。そしてついに、彼女は電話の内容に触れるような事を訊いてくる。

「万理さんて、まさか、あの」

 井崎はどう答えていいものか迷った。仕事の話を、こんな場面に持ち込みたくはなかった。それに、万理の情報を、世間一般の人に開陳するわけにもいかない。彼女からの質問は容赦なかった。

「今朝から、ずっと、報道は続いてる、あの万理さんのことじゃないの?万理さんと、何か、関係があるんじゃないの。井崎さん。あなたって、芸能関係の仕事をしてたんですか?」

「いや、まあ」

 井崎は、口ごもった。

「わたし、誰にも、言いません」

 まったく、ペースの掴めない食事が続いていた不穏さから、解放され始めていた。

 井崎は、躊躇を取っ払う決意した。

「そう、その、万理のことだよ」と彼は言った。

「本当に、逮捕されたの?」

「ああ、信じられないことだけど。それで、今、警察関係の人間に、状況を報告してもらってるんだ。うまくいけば、明日の朝には、釈放してもらうことができる。でも、逆に、このまま、本当に、マズイ状況になってしまう可能性もある。まだ、事実関係が掴めていない。なぜ、彼女は捕まったのか。何をしようとしていたのか・・・」

「あまり、よくない噂は、あったわよね」

 聖塚の黒目が光った。

「あんなのは、ガセネタだ。鵜呑みにしない方がいい。でも、彼女が、最近、消息がわからなくなっていたのは事実だよ。まったく行動が掴めなかった。だからみんな、好き勝手に言うわけだ。どれも事実じゃない。けれど、何か、問題を起こすのは、時間の問題だったのかもしれない。彼女の中で、何か大きな変化が起きていたことは、事前にはつかめなかった。映画を撮り終え、新作を発表した直後だったから。あまりに劇的な変化に、誰もついていけなかった。心の奥のことまでは、わからない。ずっと前から、計画していたのかもしれないし。まあ、彼女と付き合ってる男は、そのときは、いなかったようだよ」

「本当に?そんなこと、わからないわ」

「俺の見聞きする範囲ではな」そのとき、再び、携帯電話が鳴った。

「わるいな」井崎は席を外した。

 数分後に帰ってきた井崎は、聖塚に、今日の釈放はなくなったことを、伝えた。

「どうも、一筋縄では、いかなくなりそうだ。もしかすると、本当に彼女は、トラブルを起こしたのかもしれない」

 聖塚も、黙ってしまった。

 初めての、二人きりの会食なのに、話題は、万理のことばかりだった。

 しかも、二人とも、お互いのことより、万理のことを考えてしまっていた。

 けれども逆に、そのことが、二人の大いなる共通点となり、妙な連帯感すら出てきていた。なるようになれと、井崎はここでも、開き直るしかなかった。

 万理の釈放が、今夜は、なくなったことで、今度は携帯電話の方は、ぴたりと鳴りやんでしまった。これでは、どうにもペースが掴めないと、井崎は思ったが、やっと落ち着いて、目の前の女性を見つめることはできた。



 翌日、シカンは、午前八時に起きた。前売り券は大量に余っていたため、十時の当日券販売開始に、わざわざ行く必要もなさそうだった。街の様子がどうなっているのか、早めにニュースで確認したかった。いつものように、テレビをつけ、ネットに繋ぎ、東京の様子を確認する。テレビは爆破騒動に関して、どこのワイドショーも報道してはいない。エジプトで観光客が、熱気球の炎上事故で死んだという話や、グアムで、観光客が精神に異常をきたした現地の若者に、刺されたという話。

 ネットで、万理を検索してみたが、昨晩の情報からは、まったく更新されてはいない。

 警察関係者に電話をする。繋がらない。井崎にかける。ここは繋がった。

「一夜明けたけど、どうなってます?すいません。寝てましたか?」

「ああ、どうした?こんなに早くから」

「いや、万理さんのことで、進展があったのかなと」

「万理のこと?そうか、万理か。あれから、どうなったっけ?」

 井崎はまだ、寝ぼけたような声を出した。君に任せるよと、彼は言ってきた。

「万理さんは、まだ、釈放されてないんですね」

 シカンは、井崎の気の抜けた様子に、だんだんと腹立たしくなってきた。

「ああ、そうなんだろう」

 井崎は、まったくの他人事のような話し方を繰り返した。

「どうだ?報道の方は」

「ですから、どこも、扱ってないんですって」

「そうか」井崎の無関心ぶりは、ますますひどくなっていった。もう切ってもいいかと、今にも、言われそうな気がした。

 そのときだ。受話器の奥から、女の声が聞こえたような気がした。

「井崎さん、誰からの電話?奥さんから?」

 確かに、そう聞こえた。シカンもまだ、完全な目覚めからは、ほど遠かったが、この微かな声で、完全に我に返った。シカンは電話を切った。

 井崎の背後にいた女性は、いったい誰なのか。常盤静香の声ではなかった。

 シカンは再び、井崎に電話をかけた。彼は出なかった。


 ワイドショーはいつになっても、爆破未遂事件に関する報道はやらない。爆発事件は起こってはいない。それだけは確実なことだった。新宿ブレードに電話をかける。

 今日のライブは、何の問題もなく、予定通りに上演されますよね?

 答えはイエスだった。いつも通りの日常が、回り始めていた。



 シカンは、十時を待たずに家を出る。タクシーで駅まで行った。そこから、地下鉄で有楽町まで行く。国際フォーラムの受付にいくと、Gフェスタのポスターが貼ってあった。ポスターというよりは、完全な垂れ幕である。派手に宣伝していた。宝塚のスターか、来日した、大物ミュージシャンのような、そんな存在感を解き放っている。

 昨日のライブハウスからは、会場の規模が、極端に拡大している。

 シカンは、受付の女性にチケットを求めた。

「チケットは、けっこう、余ってるんですか?」

 何気なく訊いてみたのだが、かえってきた答えは、意外なものだった。

 ほとんど、最後の一枚だったのだ。昨日聞いた話だと、前売りは全然さばけず、大量の当日券があるという話だった。女性はその事実を認めた上で、今日になって一気に、売れたというようなことを言った。詳しく訊こうと思ったが、彼女はあまり事情に通じてなかった。とにかくシカンは、それ以上追及することはやめた。国際フォーラムからは離れた。

 突然、今日になって、さばけた?本当に?誰かがまとめて、購入したのか?それとも、昨日、ライブハウスに来ていた人が、つまりは俺のような奴が、また明日も見たいと思い、今日こうして、俺の前に買いに来たのだろうか。とにかく、昨日から、劇的な展開が多すぎる。突然に起こり、突然に消え、突然に変わって、突然に収束する。新聞を購入してみた。今日は3月29日だったが、印刷された日付も、また、3月29日だった。全然話が違うじゃないか。

 シカンは昨日、カフェで会った女性の話を思い出す。新聞は、過去の事象を書くことをやめた。近い未来に起こることが、掲載されるようになった。そんなはずはなかった。一時でも信じた俺が、馬鹿だった。昨日は、何かが変だった。おかしなセールスマンが、GIAという、得体の知れない乗り物の話をしていたが、あんなのだって、現実的にあるはずがなかった。どうして昨日は、どの話も信じてしまったのだろう。

 とすると、まさか、万理の話も?万理も捕まっていないんじゃないのか?

 爆破騒動なんてものも、やっぱり、俺の勘違いであって、あのマスコミの大騒ぎも、何かの勘違いではないか。昨日の出来事は、すべて信用に値しない。じゃあ、今日は、どうなんだ?今日は、大丈夫なのか?新聞は、まともな日付になっているし、チケットのことは、多少大目に見ることはできる。今日になって、当日券の売れ行きが増えたとしても、自分の思い込みを外せば、別に自然な事柄のようにも思える。

 日本経済新聞と、朝日新聞、サンケイスポーツの三紙を買い、スターバックスに入った。

 どれを見ても、万理のニュースは載っていない。俺自身も忘れたほうがいいのか。井崎に電話をしたとき、彼の背後からは、常盤ではない別の女性の声が聞こえた。あれはどうなのか。昨日の喧噪とは、うって変わり、今日は平常なのだとしたら、あの声は現実だった。井崎は常盤とは、別の女性と共に朝を迎えていた。その事実を受け止めると、何故かシカンは、自分も女を欲していたことに気づき、行き場のない欲情を感じてしまった。



 Kは、一日中、カフェを何軒も渡り歩いていた。脚本の完成を急いだ。Gの話を聞いた直後から、もうGとは一緒に、作業はすることなく、Kは一人の時間をずっと保っていた。朝から晩まで、およそ四件ものカフェを、梯子する。完成までには、二週間を要する。Gと会った後の一晩は、Gの話は、まったく忘れ、さらには、数日に渡って、わざと別のことをしていた。この身体から、外へと出したくてたまらなくなる状態を、彼は待った。そして、それは、五日後にやってくる。ほとんど開店と同時に、あまり人通りのない奥まった角の席を確保して、パソコンを開き、次々と言葉を並べていった。誰とも話さなかった。それでも、周りが、まったく目に入ってなかったわけではない。店内がどんな状況になっていて、誰がどんな話をしているのか、何となく、把握できるくらいの半分朦朧とした状態は、維持していた。

 二週間が過ぎた。ほとんど吐きだし終えたと思うようになった。

 Kは初めて話しかけられた。最初はテーブルを拭きに来た店員だと思った。

「ずいぶんと、熱心に仕事をなさっているんですね」

 Kは我に返る。その声の方向ではなく、時計を見た。午後九時を回っていた。

「素敵ですね」女は言った。

 今度は、その声の方向を、忠実に辿っていった。二十代と思われる細見の女性だった。

「相当な、没頭具合だったから、うっかり、声もかけられなかった」

 彼女は店員ではなかった。黒いコートを脱ぎ、白いレースのついたブラウスが現れた。

「もう、何日も前から、気になってたの。声をかける機会を、ずっとうかがっていた。けど、やっと、気の緩む時が、きたみたいね。そうでしょ?一区切りついたのよね?」

 Kは全く手をつけてなかった飲み物のカップを手に持ち、口へと近づけていった。

 いつも、席に着くと同時に、作業へと入るため、疲れを感じ、そろそろ店を出ようと我に返ったときには、ほとんど手の付けらていない飲み物が、目の前にはあった。

 女は、Kの目元を、ずっと眺めていた。やっと作業中の意識から、目の前の世界へと、焦点が合うようになってきた。

「常盤静香よ。よろしく」左手を差し伸べてきた、彼女の薬指には、指輪が光っていた。

 Kも手を差し出し、二人は握手を交わした。

「文章を、書いていたのね」

 常盤静香は、Kの瞳から、目線を逸らすことはなかった。

「素敵よ」彼女はまたその言葉を連呼した。「創作する男性って、素敵」

 目を初めて逸らし、自分の左手を、ちらりと見た。

「明日も、ここに?」

 常盤静香は、指輪に触れた。

 それを外そうとしているのか、もっと深く嵌めこもうとしているのか、ずっといじることをやめなかった。

「明日は、来ません」

 Kは答えた。「これで、終わりです」

「そうなんだ。そのような気がした」

「また、しばらくしたら、入りびたりになるとは思うけど。それより、常盤さん。失礼ですが、僕に、何の用ですか?」

「私、結婚してるの」

「でしょうね」

「こんな、ナンパのようなことをしてしまって」

「ナンパには見えませんよ」

「あなたを誘っているわけではないの」

「わかりますよ」

「わかってないわよ!」突然、常盤静香の気性が乱れた。

「ごめんなさい。違うの。誘ってるの」

「えっ?」

 今度は、Kの方が、常盤静香の目をよく見た。

「今の私は、あなたのような人を求めているの。わかって。わかってちょうだい!今の私は、そうなの。少し前までは、そうじゃなかった。突然、あなたのような人を、求めている自分を感じてしまった。今から何週間も前に。どんどんと。想いは抑えきれなくなった。あなたが、現実に形をとって、目の前に現れたの。声をかけるしかないじゃないの」

 自分の願っていた人物が、こうして目の前に現れていることに、彼女は逆に戸惑っているようだった。Kは、簡単に彼女をあしらい、その場を去っていくわけにもいかず、飲み物を、いつものように一気飲むのではなく、時間をかけて減らしていくことにした。

 Kの携帯電話に、ニュース速報が入った。常盤静香の携帯にも、同じ情報が入った。

 その瞬間、彼女の顔色は、一気に悪くなった。そして、その画面を、指差した。

 Kに向かって、この女は、旦那の恋人なのだと言った。雲中万理とは知り合いなんですか?

「旦那が、ね」

 彼女の表情は、こわばっていく一方だった。「いい気味よ!」

 雲中万理は、爆発物の不法処女により、警察に現行犯逮捕されたようだった。

 どうして、女優で、映画監督である彼女が、そんな爆発物を持って街にいたのか。

 ニュース速報は、彼女が今、取調べを受けていることを伝えていた。

「罰が当たったんだ」常盤静香は繰り返した。「このまま、一生、出てこられなくなればいい!芸能のキャリアも、これで潰えてしまえばいい!一生、陽の目を、見られないようにしてやる!終わりよ。終わり!破滅よ!うちの旦那に、これ以上、ちょっかいを出さないでちょうだい!」

 その最後のセリフは、静まり返った夜のカフェの中に、木霊した。

「ごめんなさい」

 彼女はすぐに気を取り直した。「こんな女でごめんなさい。でも、この女は、私たちが結婚する前から、旦那にちょっかいを出していた。彼はまったく相手にしてなかったんだけど。彼はまったく、彼女のことは女として見てなかったのに。彼だって、はっきりとそう言ってたし。何の問題もなかった。向こうの一方的な想いだった。軽いストーカー行為に、旦那もうんざりしていた。でも、結婚が決まり、彼女もまた、そのことを知ると、すっかりと旦那に対する求愛も、身を潜めていくようになった。私にむかって、何か陰湿な行為があったわけでもない。そして予定通りの入籍。式もあげ、すべては丸く収まるはずだった。ところが、よ。結婚して、何か月か経ったときに、不穏な女の影を旦那の側に感じた。まさかとは思った。万理じゃないわよね、万理じゃないわよね。そう思えば思うほどに、万理の匂いがするようになっていった。万理の股間から放たれる悪臭が、私の鼻をつくようになった。間違いない!それも、彼女の一方的なストーカー行為では、今回はない!旦那も万理に心を許している。二人は密会してる。旦那の携帯を見ることはなかったけど、それでも、私といるときも、おそらく、万理から電話がかかってきていた。仕事の電話のフリをしていたけど、絶対に違った!万理の股間の匂いがしてきたんだから」

 Kは黙って聞いていた。

 いつから、俺はこうやって、見知らぬ人から、見の上話をべらべらとされるようになったのか。Gの話を聞き、Gの話をまとめたと思った、そのとき、今度はさらに、知らない女からわけのわからない話を聞かされている。これも、何かの縁だと思うべきか。しかし、今日は疲れていた。ぶっ続けで、パソコンに打ち込み続けていた。これ以上は、限界だった。一人でぼおっとしたかった。彼女に正直に伝えた。申し訳ないけど、今日は、もう勘弁してくれませんかと。そのかわり、後日、あなたの話をちゃんと聞く機会を、設けるので。

 その意外な返答に、彼女は喜んだ。連絡先を交換し、彼女は速やかに帰っていった。すでに閉店時間に差し掛かろうとしていた。

 Kは、番号とアドレスを、自分の携帯に登録し、繰り返される雲中万理のニュースを見ながら、帰り支度を始めた。



 一日目の公演を終えると、Gは、スタッフたちと談笑することなく、二日目の打ち合わせをすることもなく、すぐに家に帰って、一人になった。誰とも関わりあいたくなかった。公演中、おかしなことがあった。その異変を、誰にも悟られたくはなかった。公演後も、心はずっと、掻き乱れたままだった。

 Gはピラミッドを背後にして、ステージの階段を登っていくにつれて、その光景が、過去にもあったことを自覚した。ピラミッドに登っていく一人の男の姿、それが、自分と重なったのだ。これが初めてのことではない。そう思った。そして、そのときの男は、取り巻きの男達に囲まれ、ピラミッドの頂上に立つと、台の上に横にされ、堅く押さえつけられる。金属の金具を、両手両足につけられ、鳴りやまぬ歓声の中、刃物が顔の側へとやってくる。

 Gは公演中、横になることも、そのような男の取り巻きに囲まれることもなかったが、その記憶がぴったりと張りついて、離れなかった。その記憶の中でのピラミッドは、本物だった。Gは深い呼吸を繰り返し、心を落ち着ける。大丈夫だ。今は舞台中なのだ。観客はショーを見に来ているのだし、出演者は皆、ダンサーか俳優のプロだ。長谷川セレーネだっている。これは、井崎が、プロデュースを担当した、ただの演劇なのだ。首が切り取られることもない。首?突然、浮かんできた言葉に耳を疑った。しかし、ピラミッドの頂上の台の上に、寝かされた男の視界に入ってきた刃物は、やがて、首へと当てられ、無慈悲にも、深く切り込まれる。肉から大量の血が流れ出るところを、男はこの目で見てしまった。

 刃物は、さらに深く、首の骨に強くぶつかる。強烈な力が加わり、刃物そのものが音を立てて、骨の中を侵食してくる。その痛みに、男はもがき苦しんだ。頭部は切り取られた。

 取り巻きの男たちは、次に首のなくなった胴体を弄んだ。心臓に突き刺し、丁寧に開いていった。まだ動いている心臓を取り出し、天に高く掲げた。

 Gは再び我に返った。

 Gは横たえてもいなかったし、予定どおりに歌を披露していた。

 黒い鳥たちが演出のためにステージ上を飛び交っている。悪い夢を見ているようだった。

 そのとき、目の前には長谷川セレーネが現れる。Gの心は落ち着きを取り戻した。長谷川セレーネに声をかけたかった。彼女にセリフはなかった。じっと佇み、Gを見つめているだけだった。今日の彼女の出番は、これで終わりだった。なんと美しいのだろう。黄金のドレスに身を纏った彼女に、Gは心底惚れてしまった。光に包まれた彼女に、Gはこれまで感じたことのない恋慕を感じた。彼女こそが、自分の結婚する相手だ。公演が終わったらプロポーズしよう。

 Gの意識は、だんだんと混濁し始めていった。再びあの忌まわしい残虐な場面に変わる。血だらけで分断された男の肉体を、彼は宙に浮いた状態で、見下ろしていた。ほんの少し前まで、自分そのものだった肉体が、今はまったく誰のものでもなく、その場に転がっている。太陽が力強い光を地上に注いでいる。地面から突き上げる震動は観衆の声だった。その声を、ピラミッドは天へと届け、太陽はその期待に応える。照らされた凄惨な現場の血が、今度は、生き物のようにピラミッドの側面を流れ落ちる。ピラミッドは赤く染まる。血の量がそんなにあったはずもないのに、ピラミッドは、赤く染まっていった。

 Gは、現実がわからなくなっていった。

 自分は、今、いったいどこにいるのか。意識を失う寸前だった。

 長谷川セレーネが、そのことに気づき、手を差し伸べてきた。Gは、彼女に体を支えられながら、ステージの袖へと移動していった。

「危険な状態です」

 長谷川セレーネは、スタッフに声をかけていた。

「そうか。わかった。今日は、これで閉幕にしよう。何かいい方法はないだろうか」

 続行は不可能です。スタッフは、舞台裏にいた人間、全員に聞こえるくらいの大きな声を出した。

「終了します。終了です。Gくんを、楽屋に運んでください。救急車も、すぐに呼んで!」

 Gは、机の上に、横たえさせられた。その状況が、再び、首を切られる記憶を呼び戻した。

「やめてくれ」

 Gは、スタッフを、突き飛ばしていた。

「触るな!」

 Gの側には、誰も近づかなかった。

「長谷川さん、長谷川さん」

 スタッフの声が木霊した。Gの意識は、再び混濁していった。

 長谷川セレーネらしき、人影が見える。

「私よ。大丈夫だから。すぐに、救急車が来るから。一時的なショック状態だから。点滴をして、安静にしていれば、すぐによくなるから。明日には、何の問題もないから。明日は、私の出演が多いから。ちゃんと引き継ぐから。だから・・・安心して」

 その優しさに、Gはまた胸を打たれた。

 やはり、彼女に想いを伝えたい。彼女にプロポーズをしたい。彼女と一緒に生きていきたい。あの場面では、女の姿は見当たらなかった。けれど、捕虜として、あのピラミッドに登場する前に、男には何人もの若い女が、当てがわれていた。Gの意識は、その場面を探していた。

 この世の最期を迎える前の時間に、別れをつげるその肉体の世界を、思う存分に堪能することが許された。男は思い残すことなく、その肉体を天と地を結ぶための、そして、太陽と観衆を繋ぐためのピラミッドに捧げる覚悟をする。だが、ピラミッドに連れていかれる前の場面が、復活してくることはなかった。

「あなたの役目は、終わった。だから、今は目を静かに閉じて、さあ」

 Gは、長谷川セレーネの手を握り、一日目の公演が終わる。


 二日目の演出では、長谷川セレーネは、ステージ上で裸になることになっていた。

 彼女自らが、そう申しでてきたことは知っていた。リハーサルの時に彼女に会ったが、そのときはもちろん、服を着ているわけであって、なかなか本番の姿を想像することができなかった。

 舞台装置ばかりに、気がいってしまっていた。

 だが、ここに来て、急に、彼女に舞台で裸体を晒してほしくない気持ちになっていた。

 Gは点滴を受けていた。その晩は、眠りにつくことができなかった。長谷川セレーネのことばかりを考えていた。彼女が好きだということ。彼女を失いたくないということ。彼女を、自分のものだけにしたいということ。

 Gは、これまで、本気で女性を好きになったことはなかった。長谷川セレーネに対しても、それまでは特別な感情を抱いたことはない。舞台上での、エジプトにおける、王と王妃という役割が、そんな気にさせているのだろうか。きっとそうなのだろう。これは、彼女に対する個人的な好意ではなく、ただの役所だと思った。舞台が始まる前は、そう思っていた。しかし、昨日のあの、蘇ってきた得体の知れない記憶が、事態を一変させていた。

 忌まわしい記憶と、現実の目の前で、繰り広げられる舞台。

 それが、強烈に結びついた。そして、その結びつきを超えたときに、彼女との絆が、瞬間的に取り戻された。

 Gは、一晩中、そのことを考え続けていた。明日の舞台までに、この身体は、元に戻っているのだろうか。なぜ、倒れてしまったのだろう。過労でもない、極度の緊張からでもない、原因は、別の次元の意識同士が連鎖したことによる、ショートだった。































   第二の儀




 ブラッドストーンの広告が暗転した舞台上のスクリーンに映し出される。

 映画館のような錯覚を、シカンは起こす。顔には、はっきりとした光は与えず、匿名の雰囲気を醸し出す女性。おそらくは、女性だ。髪の長い女性。その女性が仰向けになり、両腕と両足からは、だらりと力が抜け、腰の部分だけが、目には映らぬ何かに支えられているかのようだ。

 女性の身体の、何十倍もの大きな黒い鳥が、両翼を広げて現れ、浮いた女性の下から勢いよく突き上げる。その瞬間、白い文字でブラッドストーンのアルファベットが、画面の真ん中に現れる。ブランドのイメージ広告であり、特定の商品の広告ではない。

 しかし、その鳥のイメージは、シカンの中で消えようとしなかった。ステージには白い光が照らされ、バックライトで、ピラミッドの輪郭が黒く浮き上がる。

 長谷川セレーネだった。彼女がいつのまにか舞台の中心にいた。

 彼女は、黄金のガウンのようなものを羽織っていた。長い生足がそこからすらりと伸びている。胸元は開いていて、谷間はできていないものの、豊かな胸の存在を想像させる。頭にも、ゴールドの冠。首にはゴールドのネックレスが付けられている。シカンは前から二列目にいたので、彼女の透き通る肌を、目の当たりにしていた。彼女の肌は、光の具合によって、真っ白にも見えたし、褐色にも見えた。

 その瞬間、これが、Gの舞台であることを忘れた。昨日の舞台のことも忘れた。

 すべては吹き飛んでしまっていた。長谷川セレーネ。彼女の存在だけが、唯一、意味をなしていた。昨夜のトラブルから、今朝の不自然な静寂。すべてが消えてしまった。それほど、長谷川セレーネの威力はすごかった。完全に魅了されてしまったシカンは、この舞台の背景の装置も、吹き飛んでしまっていることに気づいた。ただ、彼女だけが輝いていた。

 何と、彼女は、そこでゴールドのガウンを外した。下には何も着けてなかった。彼女は完全にヌードだった。そのあまりに意外な展開に、シカンは、目の前の現実を信じることができなかった。それは、あるいは、二人きりの空間であるかのようでさえあった。彼女と自分の二人しか、この場所にはいない。客観的な視点は、それでもシカンの中には、微かに残っていた。おそらく、自分以外のすべての人間は、みな、そう思っていることだろう。自分と彼女しかいない、今この世界、この至福、・・・永遠に続いてほしい。これが舞台であるのなら、展開しないでほしい。この時間を、最後まで保っていってほしい。ストーリーなど、いらなかった。別の演者などいらなかった。彼女は、何か特別なことをしなくていい、このまま、この静寂のままを、いつまでも続けていってほしい。シカンはそう願った。祈りにも似た切望だった。その祈りが届いたのか。時間はいつまでも、同じ場所を示し続けた。あまりに静かだった。何も聞こえてはこなかった。

 長谷川セレーネは、ゴールドの冠とネックレス、さらには、足首にもゴールドの輪がはめられていた。彼女は彫刻のようにずっと動かなかった。

 シカンは自分が呼吸をどこかに置いて来てしまったのだと思った。自分が死んでしまったのではないか。生から死へと移行しているのではないか。快楽の淵に身を置きつつも、身体は次第に酸欠状態になっていった。

 長谷川セレーネが動いた。両手を広げた。シカンはふうっと息を吐いた。ずっと金縛りにあっていた。彼女は両腕を平行に掲げ、前方へと突き出していった。両手を伸ばし、天へとまっすぐに上げていった。両手を握り、さらには天へとのばしていく。

 彼女は脇の下を客席に全開に晒していた。シカンはその様子に再び息を飲んだ。彼女の動きそのものに自分の呼吸も呼応してしまっていた。もし彼女が動くことをやめたら、自分の呼吸もまた、その場に止まってしまう。動き出すと、再び空気が身体に入ってくる。その繰り返しだった。

 快楽と苦痛とが、交互にやってくることで、高揚感は爆発的に増していった。彼女は後ろを向き、今度は、裸体の背後を見せた。今すぐにも、手を伸ばして、彼女に触れたい。抱きしめたい。抱き合いたい。だが身体は、その場に膠着してしまっている。長谷川セレーネはそのあと、客席に振り返ることなく、ステージを奥へと進んでいった。彼女は退場していった。

 シカンは動かない手を必死で前に伸ばし、彼女を舞台に引き留めようとした。

 だがその想いに反し、彼女は静かに階段を降りていく。足が消え、尻が消え、背中が消え、そして頭部が消えていく。光は消え、そして祈りは消える。


 舞台は暗転する。そのまま静寂のときが続いていく。やがて観客席の方の照明がついた。席についたまま、公演は始まっていたが、いつのまにか皆立っていた。

 客席の光が、ついたことで、立っていた人たちは座席についた。

 ステージに黄色いライトが当てられる。下からゆっくりと上昇していく両翼のついた鳥の存在があった。ブラッドストーンのイメージ広告を、立体化させたような。宣伝だと、シカンは思った。だが、ブラッドストーンの文字は出てこない。第二幕が始まった。

 鳥は舞台の上部で止まり、それ以上、上昇することはなかった。

 松明を持った、マント姿の複数の人間が現れる。

 鳥にその松明をかざしていく。

 鳥は一気に燃え上がり、真っ赤な炎で包まれる。

 炎の音だけが、ホールに響きわたる。何かの儀式なのだろうか。

 シカンは息を飲んだ。鳥は燃え、次第に両翼が焼かれ、爛れていってしまう。崩れ落ち、胴体だけになる。次第に首もしなだれ、取れ、地面へと落ちていってしまう。


 そのとき、客席から悲鳴が上がった。

 客席からも小さな火が発生していた。

 舞台に目を戻すと、すでに鳥の原型はなく、ステージ上が燃え盛っていた。

 客席の何箇所かに渡って、小さな炎の姿が見える。客席は大パニックになった。ステージに現れる演者の姿はない。だんだんと客席の炎は燃え広がっていく。

 シカンの近くに発火場所はなかったが、それでもすでに、三列後ろにまで迫ってきていた。そのとき、ステージ上で爆発が起こった。


 客の女性たちの悲鳴が最高潮に達する。みな席を立ち、逃げ始めている。館内放送は何もない。これも、演出なのだろうか。しかし炎は本物だ。火事だ!火事だ!という逃げ惑う女性の声しか聞こえない。ステージ上は火の海だ。さらに、大きな爆発が起こった。ホールそのものが大きく揺れた。パニック状態の女性たちのあいだで、シカンも出口へと向かった。

 非常出口から外に逃げようとしたが、人と何度もぶつかり、火はすぐそこにまで迫ってきていた。どうして何の放送もないのだ?劇場スタッフは何をしているのだ?演者は?Gは?長谷川セレーネは?大丈夫なのか?これは、本物の火事なのではないのか?計算通りなのか?その疑いは晴れない。外へと逃げていく人々を見ながら、まだ、これは、ショーの一部なのではないかと、そう思う自分がいた。女性をすべて外に逃がし、それから自分も外に出ていこうとする。

 シカンは、ステージに目を移す。

 すると、あの大爆発によって、火の海と化していた舞台には、今は炎の姿はなかった。

「ちょっと、あれを、見てください!」

 シカンは思わず大きな声で叫んだ。何人かの女性が反応した。

 そして、呆然として、その指差された場所を眺めていた。けれども、客席は、完全に煙に包まれている。口にハンカチを当て、低い姿勢を取らざるをえなくなる。まったく状況が掴めなかった。もしかしたらと、脳裏にある事情が閃いた。やはりこれは火事なのだ。

 そう断定した。ステージ上の火は事故ではない。けれど、こっちの火は違った。予期せぬ、発火だったのだ。これは、誰かの仕業だ。館内放送の電源を切り、スタッフを脅して、どこかに縛りあげているのだ。その上で、火を放った。この小規模な始まりが、いかにもたった、今、ライターか何かで、座席を燃やしたように思えてくる。

 シカンは、観客の女性たちの心を鎮め、適切に、数か所の避難経路に誘導し始めた。

 一か所に集中しないよう、バランスよく、交通整理をした。慌てなければ、すべての人は外に出ることはできるということを、繰り返し説いた。最後に、自分が会場を後にした。

 廊下も煙が充満していたために、身を低く、素早く経路を進んだ。

 ようやく、外に出られた。

 だが、まだ気がかりなことがあった。出演者は無事なのか?

 もうちゃんと避難できたのだろうか。劇場スタッフはどこにもいない。

 チケットの販売所の中にも従業員はいない。

 二日目の公演は、こうして一日目よりも、さらななる混乱状態の中で終ってしまう。


 消防車のサイレンが鳴り響いていた。すでに消火活動に入っている。救急車も続々と到着している。煙を大量に吸ってしまい、意識が朦朧としている女性たちが、次々と乗せられていく。

 シカンは特に体調には問題を感じなかった。

 なので、救急車に乗せられることなく、後回しにされる。続々と運びだされていく人たち。

 大勢の野次馬が、すでに国際フォーラムには集まってきている。報道陣の姿もある。Gの公演が、ワイドショーで放映される絶好のチャンスだった。けれど本当に、彼ら出演者たちは無事なのだろうか。

 シカンは、消火活動から戻っていく消防士たちに話しかけていた。

 だが彼らが口を開くことはない。すぐに運転席に乗り込み、消化機能を確認して、再びホールの中へと突き進んでいく。その様子を見て、やはり劇場内にはまだ人がいることがわかった。シカンは戻りたい気持ちだった。

「危ないから下がって。みなさん、この近くに集まってはこないで。これから、爆発が起こる可能性があります。これはまだ、始まりです。大変、危険な状態です。ただちに避難してください。爆発が起こります。我々に任せて」

 その言葉のとおりに、小さな爆発音がホールから聞こえた。

 防音機能の強いホールにして、この音だった。相当なものだった。


 シカンは走った。

 消防士の言っているよりも、遥かに大きな爆発が起こる。

 シカンは時計を見た。方位磁針が西を指す方向へと、全速力で逃げていった。

 まだ、この辺りにいる人は、たいして危機感を持ってなかった。ただの火事だと思っていた。だが、違う。

 シカンは、これが仕掛けられた爆発物のせいだということを直観した。

 これは大惨事になる。もう間に合わないかもしれない。だが、西の方に、何かしら生存の可能性を感じる。まだ間に合うはずだ。仕掛けられた爆発物の存在を感じ、そのエネルギーの炸裂から逆算して、もっとも爆風の弱いであろう方向へと逃げる。

 周りはもうすでに火事が起こっていることを知らない人たちばかりになっていた。

 それでも、シカンは全速力で逃げた。駅を横目に、さらにさらに遠くへと離れていった。

 そして爆音が聞こえてくる。その風もわずかに感じた。後ろを振り返ると、街は陥没している。もう、ほんの数メートルの場所までが、完全に吹き飛んでしまっていた。

 シカンは、足を緩めることなくさらに逃げた。

 国際フォーラムだけでなく、その半径一キロ近くは、跡形もなくなくなっていた。黒い煙が迫ってきた。シカンはさらに西へと走る。

 街は悲鳴の嵐であった。爆発は一度だけではなく、何度も起こった。



 井崎と常盤静香は、久ぶりに自宅で夕食を共にしていた。和食のデリバリーをとってささやかなホームパーティーのようなことをした。特に会話も弾まなかった。

 それでも、テレビをつけることはしなかった。二人ともニュースを見るのが大嫌いだった。もしテレビをつけるときがあっても、音声は必ず消していた。

 食事を終えるときになって、常盤静香は井崎に向かい、食事を開始してから初めて口を開いた。

「私も、創作したいの」

 井崎は箸を止め、しばらく虚ろな目で、宙を見ながら、考えを巡らせた。

「したら、いいじゃないか」

 そう言って、井崎は、食事を続けた。

「ええ、するわよ」

 気まずい雰囲気が漂った。

「あなた、結婚してから、変わったわよね」

 井崎は元々こうだよと言わんばかりの表情をした。

「俺に対する、当てつけか?そうだろ?俺に創作することを、求めているんじゃないのか?本当は。君は自分で、何かを創作したいんじゃない。俺にやらせたいんだ」

「解釈はどうぞ、ご勝手に。あなたの自由よ」

「気にくわない女だ」

 井崎は、どうしてこんなにも口汚い言葉を吐くのか、自らに問うた。

 二人のあいだには、愛の欠片さえ存在してなかった。結婚するまでは、ずっと遠距離だった。近くに住むことさえなかった。それがいきなり急接近し、共に生活するようになった。あまりに急激な変化だったので、初めは二人とも戸惑った。

 しかしだんだんと、対処法のようなものを見い出していった。それが一緒に暮らしながらも、それぞれの生活を保つことだった。二人が共有する生活は、そこにはなかった。あえて避けていた。なるべく一緒にいる時間を減らすために、努力しているかのごとく、二人の生活ペースはことごとくズレていった。

 時間は、お互いの望んだように、深い溝が構築され、その裂け目は、次第に広がっていった。それが、今日という日だった。井崎はそう思った。

「創作の話だったな」

 井崎は、常盤静香の言葉に話を戻した。

「それで、君は、何を創作するんだ?」

「まだ、わからない」

 常盤静香は即答した。

「でも、私は、作品をつくるとか、そういう狭い意味での、創作のことを言ってるんじゃない。生活を創造していきたい。私の思うように。私が思い描いたものを、そのままに」

「したらいいじゃないか。俺は何も止めやしない」

「ええ、そうさせてもらう」

「ただし」

 井崎の口調は、何かを予知したように急に変わった。

「今後、離婚の話をするとき、離婚の話を切り出すときには、覚悟を持ってしてくれよな。一発で確実にしとめる気でな。俺も、そうだ。その話を出すときには、完全にそのつもりでいてくれ。これは俺にも言える」

「半年後に、こんな話をするとは思わなかったわね。結婚は間違っていたのかしら」

「間違ってはいない」

 井崎は言った。「してみないことには、何もわからない。俺は結婚できたことは、素直に喜んでいる。君と生活することだって、もっといい方法が見つかるような気がする。ただ、一時的に噛み合ってないだけだと思う。君も、僕も、お互いずっと離れて生活をしていれば、問題は起こることはなかった。これは前向きなトラブルだ」

「そうね。まだ、不慣れな生活に、自分自身が戸惑っているのかも。あなたの側にいて、それでも、自分らしく生きていく。駄目ね、私たち」

「だから、何度も言っている。駄目なんかじゃない。先に進んでいるんだ。君の言う、創作したいという気持ちはわかる。俺たちは何だかんだ言っても、似たもの同士だ。君の考えていることは呼応するように俺も考えている。君は、あれか。何か事業でも起こしたいのか?きっとそうだろう。俺は作品をつくりたい。きっと、そうだ。俺は万理やGやLムワに刺激を受けて、自分もそうなりたいと、思い始めているんだ。君は俺を見て、俺のようなことをしたいと思ったんじゃないのか?」

 ここのところ、静香とはまったく性交渉してなかったことを、井崎は思いだした。

 彼女を目の前にしても、そういった気は、まったく起こらなかった。結婚する前、お互いが離れて住んでいたときには考えられないことだった。会うなり、常盤の身体の曲線ばかりを眺め、そのあとにやってくる劇的な行為を想像して、心が躍った。

「けれど、離婚って言葉は、聞きたくなかったわね。たとえ本気じゃないにしろ、口にはしてもらいたくなかった。私はあなたの言葉を打ち消すほどに、強い言葉の持ち合わせはないから。あなたがきっかけを、作ったのよ。それを忘れないで」

 そう言った常盤静香も、自分の心の中の何かが、井崎にそう言わせてしまっているようで、落ち着かなくなっていった。

 二人は食事を終えると、料理の入ったケースをゴミ箱に捨て、別々の部屋へと別れていった。

 翌日の朝も、また一緒に食事をとった。常盤静香は、玉子とベーコンをフライパンで焼き、買ってきたパンを添え、お湯を沸かしてコーヒーを入れた。熱い抱擁を交わした夜を超えての、朝の再会ではない状況は、初めてのことだった。

 井崎は、急に性欲が湧きあがってきたことに気づいた。

 食事に手をつける前に、常盤に近づき、口づけをした。いつまでも唇を離すことなく、手は胸をまさぐっていた。ズボンを脱がし、下着の割れ目に指を重ねていた。下着をずらして中へと指をすべりこませた。そこは、今までのどんな時よりも濡れていた。

 井崎はその事実に、さらに気持ちを高ぶらせた。気づけば、台所で性行為に臨んでいた。不思議な状況だった。ご飯は、いつまでも口にされない状態に、熱気をあっさりと手放していた。そんなことには構わず、二人はまた熱い抱擁を重ね始めた。ベッドではない、別の場所でしたのは、実に初めてのことだったかもしれない。

「私たち、やっぱり、結婚したのは、間違いだったのかしら。あなたとは、ずっと、恋人のままの方がよかった。誰か、別の人と結婚しても、あなたとの関係は続いている。お互いに、別の人と結婚した方がうまくいったのかも。そうする中で、こうやって、二人でたまに会って。いろんな話がしたかった・・・。こんなこともして・・・。そうやって、歳をとっていく。今、そんな風に思った・・・。ごめんね」

 常盤静香は、机に両肘を付け、尻を背後に突きだした状態から、上半身を起こした。

 井崎が背中に放った液体がまだ拭き取られてなかったため、床に向かって勢いよく、垂れ落ちてしまった。彼女は目に涙を浮かべていた。



 交通機関はすべてストップしてしまっていた。有楽町の辺りが、数キロに渡って陥没してなくなってしまっていた。何とかして、シカンは、クリスタルガーデンに帰りたかった。

 しかしすでに、家もなくなっているのかもしれない。奴らはすでに、郊外にまでその手を伸ばしている。革命のために、蜂起している若者たちは、無謀な行為にすでに出ている。

 シカンはついに、始まったのだと思った。あのカフェで読んだ新聞に書いてあったことは、確かに現実化した。けれど、あの女が言ったことは当たってなかった。二日後にはすでに街には人がいなくなっている。みな避難してしまっていると。いや、違う。今日は、3月29日だ。あの新聞で予告していた首都での武装蜂起は、確か30日だ。一日早かった。ということは、あの記事が、もし本当だとしたら、今日のコレは、武装蜂起とは何の関係もない。一体なんなのだ?

 人々は混乱していた。まさに、戦禍の中にあった。煙はだんだんと薄くなっていく。

 中心現場からは少しでも離れるべく、シカンは移動を続けていた。鉄道が運転を再開する予定はない。有楽町一体を通る路線以外は、どうなのだろう。駅員に訊いた。すると、そっちの方も、運転は見合わせているということだった。非常事態宣言が出され、車両はすべて動かすことができなくなっている。ただし、安全の確認がとれたときには、動き出すということだった。この交通機関の麻痺状態は、一刻も早く解消しなければ、人々はどこにも動けなくなる。道路は大渋滞をしている。バスは動いていた。しかし、到底、乗れる気配はない。

 シカンは線路を歩き始めた。

 そのとき、エリア151の存在が急に脳裏に蘇ってくる。

 あの謎の地域についての、ドキュメンタリー番組の依頼を受けたのが、ちょうど一年前のことだった。番組の制作は終了したものの、自分の中では、何も解決することはなかった。軍事施設だと、表向きは言われていたが、実体は何もわからなかった。どのような経緯を辿り、解体、消滅してしまったのか。今、現在、国の公式記録に、エリア151の存在はない。

 取材の中では、そのエリア151は、民間に払い下げられ、今も極秘に存続しているのではないかということだった。もちろん放送ではカットだった。

 その、エリア151が、今、シカンの中で鮮やかに蘇ってきていた。

 関係があると彼は思った。今回の騒動と密接な繋がりがある。あそこを手にいれた誰かが、今回の爆破の一連の指揮をとったか。その関連施設の人間が、複数で企んだ、テロ行為か。それともエリアとは別の人間が指揮をして、エリアの素材を使って、事件を引き起こしたか。

 はっと我に返ると、線路には、タクシーが一台いた。

 喧噪を避けて、やってきたその車体は、線路の中をゆっくりと走っていた。

 シカンは車に近づいた。しかし、タクシーは見えなくなってしまった。するとまた一台現れた。今度は追いついた。シカンは乗せてもらえるよう頼んだ。

 客は誰も乗ってなかった。運転手の男はドアを開けた。

「うまい具合に、線路を使えそうで」

 運転手は言った。「道路は大渋滞です。お客さんはどちらまで?」

 クリスタルガーデンの場所を伝えると、運転手は自宅と非常に近いと言った。

「あれ、お客さん。その場所は、知ってますよ。ああ、やっぱりそうだ。どこかで見たことがある顔だと思った。あなた、以前にも、このタクシーに乗りました。覚えてますよ。あのお屋敷のような家ですね。行きました。あなたを乗せて。あのときは、女の方もいっしょでしたけど。そう。あの家の人でしたか。奇遇だな。そうですか。また、あそこに行けるわけですね。光栄です。お客さん、お若いのに、すいぶんと、すごい所に住んでるんですね。どんな仕事をしてるんですか?」

 運転手は名刺を渡してきた。シカンは受け取った。

「ええ。今日は、助かりました。今後は、できるかぎり、あなたに送迎をお願いしたいです」

「そうですか!よかった。なんて、運のいい日なのだろう。こうやって、抜け道は見つかるし、あのお屋敷の、プリンスを見つけてしまうし。それに、家が近くだなんて」

 シカンは、運転手の顔写真を眺めていた。薄い髭を生やした、四十歳くらいの感じのよい人だった。

 運転手は、ラジオを付けた。

「いったい、何が、起こってしまったんですかね。こんなことは初めてですよ。お客さんは、どちらにいらっしゃったんですか?」

 発火元にいたと、は言わなかった。「すぐ、近くを歩いてまして。普通の火事だなと思っていたら、そのあと爆発が起こって。それで誰よりも速く、その場を去ったんです」

「そうでしたか。近くを」

「ええ。危ういところでした」

 ラジオでは、死者はすでに、五千人を超えているということだった。

「この時点で、五千とは・・・」運転手は、独り言のように呟いた。「これ、あの場所だけのことで、終わるんですかね。何が原因なんですか?何かの陰謀なんですか?とりああえず、急ぎましょう」

 シカンは、ここでも、Gフェスタのことを考えていた。

 Gや、長谷川セレーネの生存している確率は、極めて低かったにもかかわらず、三日目の公演が、何時にどこで始まるのか。

 シカンは、手元のアイフォンで検索を始めていた。



「実は、四人いたんですよ」

 芸能雑誌記者の寺田は、長谷川セレーネに言った。

 外で会うの、はあまりに目立つため、今回も、VAの事務所での面会になった。

 当然、セトも同席する。今日は、長良の姿はなかった。

「まあ、でも、四人に絞られてよかった」

 セトは、長谷川セレーネの様子を伺った。

「四人の候補じゃありません」長良は答えた。「候補は無数にいます。今でも。ただ、DNAによる鑑定で、四人が照合したんです」

「ですから、最終候補って、ことですね」

「違うと、言ってるでしょう」

 長良の声は、少し大きくなった。

「続けてください」

 長谷川セレーネだけが、まったく表情も声音も変えることがなかった。

 長良は水を飲んで、喉を潤わせた。

「実は、長谷川ゆり子の、あなたのお母さんが、働いていた宿では、すべての客の精子を採取してですね、冷凍保存していたようなんです。実に不思議な話です。そのことについては、女将は何も話してくれません。どんな意図が、あってのことか。推測するしかありません。しつこく突っつけばいいのでしょうけど、とりあえず、今回は、あなたのことがメインなので。また別の機会にします。おもしろい話が、ぽろぽろと出てきそうですけど。今はちょっと抑えて。長谷川さん。あなたの父親は、四人のうちの一人ではない。四人全員が、あなたの父親であることが断定されたんです。ほら、これが、証明書。医学のお墨付きだ。驚いたなあ。こんなことは本来ないです。精子に、何か問題があったんじゃないかと、思いましたよ。細工がされていたんじゃないかと。けれど、それらは、本当に、きちんとした手順によって、冷凍保存されていたそうです。あれですかね。女将は、将来、人の精子が、売り物になることを知っていて、それで有無も言わさずに、採取していたんじゃないですかね。宿とは何か別の目的で」

「手短に、先を話してください」

 セトは、時間を気にした。

「ねえ、セトさん。正直、僕にとってみれば、どうでもいい話なんですよ。父親が誰か。一人に決まってくれたら、それはそれで、興味深かったのかもしれない。長谷川セレーネのルーツをどこまでも辿っていって、連載ものにでも、なったのかもしれない。しかし、セトさん。僕は、気味の悪い話が好きではなくて。スキャンダルは好きですがね。こんな話は御免です。ですから、宿の話は、これからも追っていくつもりです。何を企んでいるのか、きっと、恐るべき事実が出てくると思うんです」

 長良は、煙草が吸いたいのですがと、セトに言った。

「我慢してください」部屋は禁煙であることを、セトは伝えた。

「ええ。もう帰る時間は、近づいていますからね。したがって、話をまとめると、今度の長谷川さんの父親の話は、雑誌には掲載しない予定です」

「なるほど。どうりで、寺田が来てないわけだ」

「長谷川さん」

 長良はこれ以上、長話を続ける気がないようだった。半分腰を浮かせ、彼女の方を見た。

「報告は、確かにしましたからね。僕の義務は、これで終了だ。解放してください。あとは、自由に、宿のことを調べたい」

 長谷川セレーネは、目を閉じ、ぴくりとも動かなかった。短いスカートからは、無駄な肉のまったくついていない健康的な足が伸びている。長良は唾を飲みこんだ。

 彼女は寝てしまっているかのように見えた。すると、いつものことながら、突然大きな眼を見開く。

「お話は、わかりました。あなたが、嘘をついていないことも、わかりました。私の頼みを聞いてくれて、本当に感謝しています。これ以上、あなたを煩わせることはしません」

「ありがとう」長良は、ほっと肩を撫で下ろした。また、長谷川セレーネから、とんでもない要求が突きつけられるのを、恐れていたかのようだった。

「私の父は四人いた。結構なことです。なぜだかわかりますか?」

 長谷川セレーネは、さらに瞳を輝かせ、長良を見た。

「母が妊娠したとき、その日は、四人の客をとったということです。そして次々に、子宮に向かって、彼らは精子を放出した。四人と同時に、セックスしていたのかもしれない。五人で。そして、その日に限って、彼らは避妊することなく、母を犯した。そうだ。これは、客との、正式な商売上での、交渉ではないのかもしれない。絶対に違う。母は無理やりやられたのか。その宿の中での行為だったのか。それもわからない。どこか、別の場所で?ねえ、長良さん。どう思います?そもそも、母は、四人の男に犯されたのでしょうか。それとも、母も、了承の上で?正式な交渉?裏で?宿の中で?母の自宅で?野外で?男の中の、誰かの自宅で?とにかく、わかることは、一つ。それは、ほとんど時間の差を置くことなく、母は、四人の体液を受け入れたということです。その混ざり合った液体が、私という肉体を形作った。長良さん。そのことを、よく考えてみてください。もう一度、考えなおしてください」

「僕はこれで、失礼します」

「あなたは」長谷川セレーネは、席を立った。長良は振り返った。その美しすぎるスタイルに、長良は一瞬、引き返した。

「長良さん。決して悪いようにはしません。あなたの望む行為と、交換しましょう。私には、その覚悟があります」

 どういう意味なのか。長良は戸惑ったが、彼女のシルエットが脳裏に完全に焼き付いて離れなかった。この俺を誘っているのだろうか。長谷川セレーネ。女郎宿の帝王であった長谷川ゆり子の娘。彼女が、今の仕事ではなく、もし違う仕事を選んでいたとしたら。導かれていたとしたら・・・。

 そう考えると、彼女にも、長谷川ゆり子の血が確実に流れていることが、実感できて、このとき初めて、二人の姿が強烈に結びついた。



 シカンは、タクシーから降りた後、クリスタルガーデンが何の損傷もなく、夜の帳に佇んでいることを、確認した所までは覚えていた。

 けれども、運転手と、どのような言葉を交わして別れたのか。いくら払ったのか。記憶が抜け落ちてしまっていた。タクシーで、どれだけの時間かかかったのか。線路からはいつ抜け出て、一般道へ移動したのか。自宅に着くと、いつもの習慣を無意識にこなしていたようだ。

 昨晩は確かに、風呂に入っていたようだし、夕食はとらなかったものの、二リットル入りの水が、半分以上減っている。チョコレートの食べかけもある。

 シカンは、ネットに繋いだ。昨晩の出来事を回想した。《ゼロ湖》の出現、という見出しで、いくつもの記事が載っていた。有楽町一体に、《ゼロ湖》があらわれる。爆発のあった場所だった。死者は、確認されていないということだった。数万人の行方不明者が出た、と書かれている。テレビをつける。ワイドショーは、現場近くまで、リポートに入っていた。白い煙のような、霧のような状態の中、リポーターの背後には、クレーターのような、巨大な陥没した土地が見える。

『みなさん、ご覧ください』

 男性リポーターは、後ろを振り返った。『ここが、おそらくは、国際フォーラムのあった場所です。この辺り一帯、数キロメートルに渡って、突然、陥没が起きました。昨日の午後七時過ぎのことです。証言者はたくさんいます。一夜経った、今も、誰がどのような対応をするのか、人々は戸惑ったままです。消防車両も多数到着しましたが、彼らも、今、何をしたらいいのか、その対応を協議しています。政府も、緊急対策本部を、設置しました』

『それは、あれですか?災害対策本部、のようなものですか?』

 司会の男性が、リポーターに質問した。

『とりあえずは、そのようです。他に、やりようがないということかもしれません』

『行方不明になってしまった人が、数万人は、いるようですけど』

『ええ。事件時に、この辺りにいたことが、確認されている人たちの中で、知人や家族で、連絡の取れていない人が、まだ大勢います』

『忽然と、消えてしまったようですけど』

『ええ。まだ、はっきりとしたことはわかりません。生存も確認されていません。強烈な地殻変動が起こったということで、あるいは、少し離れた、別のところに運ばれてしまったのかもしれません』

 リポーターは、苦しいコメントをした。

 そのまま、地中に埋まっていってしまったと、そう彼が言うことはなかった。

『状況は、大変、厳しいんじゃないですか』

 司会の男性は、言った。

『我々は、まだ、何とも言えません』

『それは、本当に、地殻変動なんですか?自然災害なんですか?』

『実は、それも、まだわかっていません』

『ということは、誰かが、意図的に、手を加えたという可能性も、あるんですね』

 リポーターからの映像は、途切れた。消えてしまった。

 映像は、スタジオへと完全に切り替わった。司会の男性は、話を続けた。

『先日、新宿区で、爆破未遂騒動がありましたよね。タイミング的にはどうなんですか。何か関係があるように思うんですが。そうでしょ。女優で映画監督である人が、逮捕されたようですけど、あれもどうなんでしょう。何かの間違いでは。誰かが嵌めようとしたように、僕には見えるんですけどね。彼女とは面識があって、インタビューもしたことあるんですけど、とても、そういうテロ行為のようなものに、加担する人ではない。今回の有楽町のことも合わせて、何か大きな組織というか、多くの人間が、今度の一連の事件に関わっているような気がするんです。もちろん、これ以上、公共の電波で、迂闊なことは言えませんが、放送に携わる人間の責任として、やはり、伝えておかないといけないことがあります。僕のところにも、個人的なネットワークを通じて、いろいろと、情報が入ってきています。なので、ここでは言えないことも、いっぱいあります。後日、どこかで、発表の機会があればいいなと思っています。それでは、次のニュースに』

 この二つの事件の共通点は、あきらかに、Gの公演だった。Gフェスタだった。

 司会者は、そのことを言おうとしていたのだろうと、シカンは思った。そして、Gも間接的に、雲中万理と繋がっていた。そのことを言おうとしたのだ。こんなときも、井崎を頼るしかなかった。彼に電話をした。しかし何度かけても、彼は出なかった。電波は通じているようだったが、留守電にも繋がらなかった。万理のことを訊こうと、警察関係の人間に電話をかけたが、こちらも繋がらなかった。仕方がないので、Gフェスタの三日目の情報を、ネットで検索した。なんと、今日もやるではないか・・・。ということは、出演者はみな無事だったのか?

 セトに電話をかけた。セトは出た。

「無事なんですか?長谷川さんは」

 シカンの第一声に、セトは、面食らってしまったようだ。

「どうしたんだよ。ああ、シカンくんか。どうしたんだよ、朝から大きな声で」

「無事なんですか?長谷川さんは。Gくんは?」

「無事って?」

「昨日の、有楽町での公演の最中に、事故が起こったじゃないですか。国際フォーラムは、今はなくなってしまった」

「ああ、そのことね。みんな、無事だよ」

「よく、あの状況で、助かりましたね」

 シカンは、三日目の公演の場所と、当日券の有無を、セトに訊いた。

 その場所に、シカンは驚いた。この近くだったのだ。



「はやく、逃げて」

 長谷川セレーネは、まさに出演の出番を終え、裸体にガウンを、羽織らされた状態だった。

「いいから、そのまま逃げて」

 長谷川セレーネは、着替える暇もない中、スタッフの怒号が響く中、真っ先に誘導された非常通路へと走り出した。

 彼女の前には、先導役の、髭モジャの男がいた。長谷川セレーネは後ろを振り返った。しかしすでに天井が崩れ落ちてしまっている。床にも亀裂が入った。あと数秒遅かったら、コンクリートの餌食になっていた。

「後ろを振り向かないで。さあ、早く」

 長谷川セレーネは逃げる中でも、何とか、冷静さを保とうとした。

「Gくんは?Gくんは、どこ?あ、いた。こっち、こっちよ!」

 崩れゆく天井と、廊下のあいだに、Gの顔がほんの少しだけ見えた。

 彼は間一髪で、抜け出していた。だが彼は肩を押さえ、足を引きずりながらの登場だった。

「俺に構わないで」

 Gは、崩落の音に負けずに、大声を張り上げた。

 スタッフの男は、長谷川セレーネの手を引っ張った。

「さあ、いきましょう」

 だが長谷川セレーネは、その手を振り切り、Gの元へと駆け寄った。

「何やってんだ!」Gは叫んだ。「俺に構うんじゃない!お前まで助からなくなる」

「早く、肩を貸すのよ」彼女はスタッフに怒鳴りつけた。

「そ、そんな。共倒れだ!」

 Gは、長谷川セレーネを睨んだ。

「いいから、やめるんだ。俺は死なない。君のあとで、ゆっくりと行くから。だから、先に行って、待っていてくれ。俺は大丈夫だから。怪我はするが、命までは取られない。けれど、君は、傷一つ負っては駄目だ」

 床の亀裂は大きくなっていった。すでに、自分たちが逃げることも、不可能かもしれないと、長谷川セレーネは思った。

「大丈夫だ。今から全速力で行けば、必ず無傷で助かる。なあ、本当に、この舞台に出てくれて・・・ありがとう。君とは、もっと共演がしたかった。でも、俺には十分すぎる」

 スタッフの手が、長谷川セレーネを、生の側へとぐっと引き寄せた。この廊下が生と死の境目になった。長谷川セレーネは苦渋の決断をした。一緒にここで、終ってしまうわけにはいかない。せめて私だけでも、私だけでも逃げ出さなければ。

 長谷川セレーネは、Gの目を見つめ、そして頷いた。それからは、二度と振り返らなかった。スタッフの男よりも先に、自ら走り出していた。崩落は勢いを増していった。スタッフの一人も、ついに追ってくる気配が途絶えた。駄目かと彼女は顔をしかめた。まだ廊下は先がある。長谷川セレーネは傷を負うことのない、その綺麗なままの肉体を、頭に思い描きながら走った。

 ガウンははだけた。ほとんど全裸に近い状態で走っていた。やっと光が射しこんできた。外に出ることができた。だがそこで見た光景に驚いてしまった。

 崩落はホールの中だけではなかったのだ。道路にはあまりに大きく、深い穴が開いてしまっている。そこに堕ちていく人の姿を見てしまった。長谷川セレーネは、口を右手で塞ぐ。

 彼らは次々と落ちていた。穴は拡大し、街の至る所に出現し、その亀裂同士が結びつき、さらなる崩落を助長していた。

 ほとんど全裸姿になっている彼女に、目をやる人も中にはいた。

 だが、みな、それどころではなかった。長谷川セレーネはその亀裂の様子を眺めた。

 そしてビルが崩落してくる場所を想像し、そのどちらからも無傷である地帯を、鮮明にイメージし、他の人の存在は、まったく無視して、彼女は理性と本能の赴くままに駆け出していた。夢中で走っていった。

 気づけば、白い煙に覆われた中、崩落の目からは抜け出していた。腰からは、力が抜け落ちていった。その場にへたりこんでしまった。

 ほとんど裸の彼女に、気づく人間も出てくる。幸い、側にあった中華料理店の主人が、気づいてくれた。彼女を中に入れてくれる。娘の服だといって、衣類を持ってきてくれた。

 そのあと、次第に落ち着きを取り戻していった彼女に、主人の奥さんらしき人が、お茶を持ってきてくれる。

「えらい目にあったね。あの崩落の現場から逃げてきたんだろうな。着替えている暇もなかったんだろう」

 主人は、奥さんらしき女性に、そう説明した。

「ここだって、安全とは言い難いわよ。避難する準備に入らなくちゃ」

 奥さんはテレビをつけた。有楽町辺りの映像が流れる。まさに今、見てきたとおりの情況であった。

「ああ、・・・」

 長谷川セレーネは、Gの最後の姿を思い出す。私は助かった。でもそれは、あの人を見捨ててきたから。彼の眼差しが忘れられなかった。長谷川セレーネは顔を伏せ、そして泣いた。



 二日目の公演。舞台に出る前に、長谷川セレーネは、Gと二人きりで楽屋にいた。

「もうすぐね」

 長谷川セレーネは、まだ服を着たままだった。Gには彼女がまだヌードになることを躊躇しているように見えた。無理して脱がないでいいんだと、Gは心の中で呟いた。

 長谷川セレーネはGに抱きついた。Gは何も言わずに彼女を抱いた。

 このときすでに、Gは長谷川セレーネに恋をしていた。長谷川セレーネと何か深い共通点があるような気がして、とても他人だとは思えなくなっていた。彼女は、自分の中の、一部でさえあると思った。彼女の気持ちが痛いほどに伝わってきた。彼女は何かを決意している。この舞台で、その葛藤だか、わだかまりだか、何だかはわらなかったが、それと、訣別しようとしている。手放そうとしている。Gにはそう感じられた。

 それは、彼女自身の問題だった。Gフェスタは、自分が考え出したストーリーを、Kにまとめてもらい、舞台化した。長谷川セレーネをキャスティングした。それは俺の、俺自身の話であり、彼女は彼女でまた、思惑はまったく違っている。抱えている問題も違った。

 彼女は脱ぐ必要があるのだ。俺がどうこう言う問題ではなかった。

 Gは、自分の中に湧き出てくる、彼女を脱がせたくはない、そんな姿で、舞台に上がらせたくない、ひとに見せたくないと思う葛藤を、鎮めることに集中した。

「私ね、父親が、四人いるの」長谷川セレーネは言った。「自分の胸に、留めておこうと思ったんだけど、駄目ね、わたし」

 Gは、黙って頷いた。

「母が再婚とかして、それで四人いたわけじゃない。戸籍上じゃなくて、遺伝子的に。その四人の男とも、DNAが一致する。彼らはみな別人。彼ら同士では、まったく照合しないのに、私と彼ら一人一人を、照合すると、そこに親子であるという共通のラインを、見つけてしまう。考えられる可能性は、一つしかなかった。私は、その一つが、自分の身体の中に、強烈に根付いていることを知った」

 長谷川セレーネが、何の話をしているのか、Gにはわからなかったが、彼女が、この舞台でそれを受け止め、その上で、手放す決意をしていることは感じられた。

 言葉は悪いが、彼女は、この舞台を、自分のために利用しようとしている。おおいに使ってくれと、Gは思った。あなたの力に僕はなりたい。今もこれからも、僕はあなたを、葛藤のない、純粋な綺麗な存在にしてあげたい。そう思った。

「ありがとう」

 長谷川セレーネは、Gから身体を離した。「ありがとうね」

 彼女は、Gに言った。部屋の端に行き、長谷川セレーネは、衣類をすべて身体から外していった。ゴールドのガウンを羽織り、ゴールドのネックレス、そのほかの装飾品を、肌の上に、直接つけていった。

 Gはその様子を見ていた。彼女は、銃弾の飛び交う戦場に向かう、戦士のようだった。

 長谷川セレーネは、振り返ることなく、楽屋を出ていった。

 Gは、舞台の袖に移動した。モニターで、彼女が舞台に立つ様子を見守った。



 シカンは、三日目の朝を迎えた。今日が、Gフェスタの最終公演の日だった。

 二日とも、事故のような事件のようなおかしな終わりかたをしていたため、今日も何かが起こるような気がして、仕方がなかった。

 三日目の開場は、自宅からは、五分もかからない場所だった。アイフォンで場所を確認しながら、家を出て、徒歩で探す。それは住宅街に佇む、ドーム型のホールだった。実に不自然な場所にあった。閑静な住宅街のど真ん中にあった。ドームは塀に囲まれていた。門をくぐり、敷地の中へと入る。人の気配はない。ドームに近づいていく。どこにも受付が見当たらない。どこでチケットを買えばいいのか。住所は合っている。確かにホールのようであり、中では舞台公演が敢行できそうだ。けれど、Gフェスタのポスターは、どこにも張られてはいない。

 シカンはふと、嫌な予感に襲われた。

 何故こんな場所を、選んだのだろう。

 都会から郊外へと、移動した。

 革命期の、郊外の城のことを思いだした。あの領主の夫妻のことを。

 ついに、戦禍は拡大したのだ。この場所までもが、彼らの手に落ちることになる。



 大勢の前で全裸を晒した、長谷川セレーネは、この場で死んでしまいそうなくらいの恥ずかしさで一杯になった。たまらなくなった。何故こんな提案を自らしてしまったのか。両腕を横に平行に伸ばし、すべての観客に見えるように、全身を舞台へと捧げた。セレーネはだんだんと自分が解放されていく気持ちを味わった。父親が四人いたって構わない。その複数の男と、今まで好きになった男の存在が、重なった。直前まで付き合っていた男の姿も蘇った。すべての男は、ここで、セレーネにとって、一つに集約されていった。一つの大きな男性性へと、統合されていった。

 すると、私という存在までもが、一人の女性ではないような、感覚になっていった。

 本当は、私は、長谷川セレーネではないのだ。たまたま長谷川セレーネなだけで、本当は違う。あの男達と同じだった。本当は、個別の存在ではないのだ。私は女性性の象徴なのだ。女性全体の性と、今は一体となっている。広げた両手が翼となって、今羽ばたいていこうとしている肉体を感じる。

 私は、女性性の象徴でありながら、それでもない。私は鳥なのだ。鳥と一体化している。女性性の象徴でもない、男性性の象徴でもない鳥なのだ。ほんの少しだけ、両足が地面から離れ始めているのがわかった。ふっと、体が浮き上がっていた。長谷川セレーネは目を瞑った。身体はさらに浮力を増していった。完全に地面からは足が浮きあがっている。

 長谷川セレーネはさらに羽を広げ、今この場所から、大空へと飛び立っていく姿を、夢想した。ホールの天井は開き、大空が現れる。空の方が、私を引っ張り、引き寄せているかのようだった。

 私は、ホールの遥か上空から、地上を見下ろしていた。煌びやかな装飾性に満ちた、舞台の上には、たしかに長谷川セレーネがいた。それも、また、一つの姿なのだと彼女は思った。長谷川セレーネは、さらに目を閉じ、鳥からさらに拡大していく、何ものかに、この身を任せた。肉体は消滅し、意識は、この遥かなる大地と同化し、天空へと上昇し始めていた。



 若者たちによる、都市での戦禍は続いた。彼らに協力する市民たちの姿も、次第に増えていった。このままでは、国が壊滅状態になるのは目に見えている。しかし、軍隊が大規模に攻めるのも、自らの身体に爆撃するようなものだった。かといって、このまま見ているわけにもいかない。誰かが決着をつけなくてはならないのだ。一人の若き大尉が立ち上がる。

「僕にやらせてください」彼は力強く言い放った。「僕が、彼らの中に入っていきます。そして、リーダーのいない無秩序の中で、僕が主導権を取ります。元軍人で、彼らに寝返ったということにします。僕にお任せを」

 そう言って、大尉は、軍の本部をたった一人で立ち去った。

 大尉は、都市の砲撃の現場に、降り立つ。みすぼらしい旧式の武器を持った、一人の威勢のいい若者に、声をかけた。

「なあ、俺に、一つの役割を与えてほしい。俺は、軍部の人間だ。だがな、君らの志に共鳴して、寝返ろうと思っている。そうするにあたって、武器をこっちに流したいと考えている。どうだろう」

「本当か?」

「顔つきをよく見ろ。なあ、いずれは、この旧式の武器も、ネタ切れになる。軍は、消耗戦にもっていきたい。それまで、君らに、好き放題やらせるつもりだ。いいか。君たちは、けっして、優勢な勝負をしているわけではない。勘違いするな。必ず、形勢は逆転される」

 大尉は、自信たっぷりに、張ったりをかました。

 若者は、その勢いに、顔色を変える。

「いますぐ、他の仲間にも伝えろ」

 若者は言うとおりに行動した。その言葉は、あっというまに、若者たちに伝播する。

「いいか。武器を流すといったのは、本当だ。だが、よく聞け。もっと効率のいい方法がある。それを聞きたくはないだろうか。聞く耳をもっているものは、今日の午後九時に、○○広場の□□寺院にある、地下に来てくれ。革命軍の拠点を、俺はそこに構えようとし

ている」

 午後九時になると、そこには百人を超える若者がやってきた。

「よく来たな」一人だけ軍服を着た大尉は、ひときわ存在感があった。

 照明の具合も、まさに、演出のためにあらかじめ演出された配置のようだった。

「今から、戦略会議を始めようと思う。いいか、君たち。革命というのは、本来、十分な計画と、準備、演習を重ねることなしに、成功することはないのだ。このままでは、君たちは遅かれ早かれ、壊滅させられる。だから、そうはならないように、俺が指揮をとる。何か、異論はあるだろうか。ないだろう。さて、武器を流すといったが、肝心なことは実は武器ではない。確かに武装は大事だ。だが、その意味は、武力を使わないということにある。よって、今度の作戦では、すべて、武装は解除してもらう。それが条件だ。ポイントはこうだ。都市の数十か所の拠点に、時限爆弾をしかける。誰にもわからないように。それこそが、君たちの今の攻撃性が、本来の目的にとっては、うまいカモフラージュになる。あくまで、君たちの蜂起は見せかけのものだ。肝心なことは、俺が指示した場所に、爆弾を置くことなのだ。そして、その後、声明を出す。住民や政府に、首都をただちに放棄しろと、そう声高に叫ぶ。時限爆弾は三種類あって、三段階の時間の差を、創出している。第一の爆発。第二の爆発。そして、第三の爆発と。もちろん、第一の爆発は、警告だ。我々の主張の真意を証明するための。第二の爆発は、それでもまだ、残っている人間の生命を、脅かす。だが、彼らは、自分の意志で残ったのだから、君たちが心の葛藤を感じる必要は、まるでない。第三の爆発で、首都は吹き飛ぶ」

 大尉の言葉に、若者たちは、声を失っていた。

 すでに、奴らは、術中に嵌っていると大尉は思った。

「《クォンタム作戦》だ」と大尉は宣言した。

 とりあえず、その日は、そこまでだった。大尉はその場を去った。次の集まりは、明日の同じ午後九時だと告げた。

 大尉は自宅に帰った。今日のところは成功だった。自分の想い通りに、彼らの心を動かしている。これで奴らは、武力を放棄する可能性が出てきた。あとは、偽の爆弾を用意し、彼らにセットさせ、住人を逃がし、そのあと、都市が爆発するといった段階になって、奴らを一人残らずに、捕まえる。そこまでが、俺の仕事だ。

 《クォンタム作戦》だって?馬鹿馬鹿しい。これがうまくいけば、軍部での俺の地位こそが、大爆発する。



 天高く舞っていた意識は、次第にぼんやりしていき、それにつれて、人々の歓声が耳のすぐ側まで聞こえてきた。長谷川セレーネは我に返った。すぐに自分の乳房が目に入る。

 下を向いた。自分が、今、何も身に纏っていないことを受け止める。

 白いライトが当てられ、肌のきめ細かな構造までもが、明瞭に見えてしまいそうだった。その場から逃げたかった。身を隠したかった。ガウンは、どこにいったのだろう。視界の中にその存在はない。上空に昇っていってしまったときから、どれほどの時間が過ぎたことだろう。そのあいだ、自分は、ステージ上でいったい何をしていたのか。パフォーマンスをしていたのか。ただ、立っていただけなのか。舞台裏を、横目でちらりと見る。スタッフの一人が、後ろに掃けるよう、指示を出している。その様子を見て、事前に予定している役目を、自分は果たしたことを知る。

 長谷川セレーネは、くるりと後ろを向いて、舞台を後にする。

 舞台を降り、セトにガウンをかけられ、楽屋へと退去した。そこにGはいなかった。

 セトは、舞台のことには触れず、次の仕事に関して、長谷川セレーネに話はじめた。

「今、君に、ヌードの仕事が殺到しているよ」と彼は、喜々として言った。

 あれほどヌードになることに反対していた彼の姿は、そこにはなかった。

「考えてくれるかい?」

 セトは、長谷川セレーネに迫った。今まさに、このときを逃せば、彼女はうんとはいわないだろうという魂胆が見え見えだった。

「すごく良い条件での提案が殺到している。それならと、僕は、ゴーサインを出そうと思っている」

 どの言葉も、薄ら寒く、通過していった。事務所を移籍するタイミングだと、セレーネは直観した。

「考えておきます」

 すぐに、拒絶を示すことはやめた。セトは何としても、即刻とりつけてしまいたいようだった。

「別の仕事の依頼は、ないんですか?」

「それだけではなくてね、いろいろと殺到してるんだ。これまでも、そうだったけど」

「そのすべてを見せてくれませんかね。その中から、自分で選択してみたい。意味のある全体像を、自分でつくってみたいから」

「ああ、いいよ」セトは簡単に了承した。



 万理の釈放が叶わなかったその翌日のことだった。Gの公演は二日目に入っていた。

 井崎は公演会場に足を運ぶことはなかった。Gの舞台を客席から見ることもなかった。そもそも、あまり芸術鑑賞だったり、映画鑑賞だったりが好きではなかった。文化やアートに関わる仕事は好きだった。作品を発表にまでこぎつけたり、才能ある人間の活動をサポートしていくことには積極的だった。

 だが、出来あがってくる作品には、まるで興味が湧かなかった。

 Gフェスタの二日目も、もう終わる頃だった。

 そのとき、また、緊急のニュース速報が入ってくる。

 有楽町で爆発が起こったということだった。昨日は爆破未遂事件が起きていたが、今日は、本当にそれが起こった。万理は拘束されている。何か関係があるのだろうか。

 芸能の事件担当記者に連絡をする。しかし、万理と関係があるのかどうかは、わからない。

 井崎は自宅にいたため、有楽町界隈の喧噪を、この目でみることはなかった。テレビを通じて、その事実を知るだけだった。

 こんなときでも、テレビは、音声を消して見る。それが習慣になってしまっていた。

 有楽町?そこには、Gがいるじゃないか。国際フォーラムに電話をかけるが、繋がらない。ニュースをよく見ると、その国際フォーラムの辺りで、事件は起こっている。

 昨日のことといい、今日のことといい・・・。携帯電話にはメールが来ていた。

―昨夜は、ごちそうさまでした。とっても楽しかったです。また誘ってくださいー

 井崎は、電話をかけた。

「井崎さんって、彼女はいるんすか」

 ニュース画面は、爆発事件と関連して、雲中万理のことを、報道し始めた。

「彼女?」

「気になったもので」

「ああ、いるけど。でも、あまり会ってないな」

「いるんですね。じゃあ、わたし・・・」

「いや、あのさ、今度、また、食事に行きませんか?こないだみたいに、ばたばたとした状況じゃなくて、もっとゆっくりと静かな時間を、二人で過ごしたい。この前は、中途半端な感じで終わってしまったから。聖塚さんのこと、ずっと気になっていて、声をかけて、その、俺、緊張しているんです。あなたが素敵だから。魅力的だから。いろいろと余計なことを考えてしまって。きっと、たくさんの男が言い寄ってくるんだろうな。でも、聖塚さんはガードが固くて、なぜなら、付き合ってる男性がいるから。その彼は、とても優しくて仕事もできて、お金も持っている。才能もある。そういうことばかりを考えてしまう。本当です。あなたのことを考えると、気がおかしくなってしまいそうです。気味が悪いでしょう。あの店に通いながら、あなたのことをずっと見ていたんです。声をかけよう。仲よくなろう。あわよくば付き合いたい。きっと意気投合するはずだ。いろいろな相性も、きっといいはずだ。そんなふうに、ずっと思っていたんです」

 何かに急き立てられるように、井崎は言葉を生んでいった。

 少しの沈黙のあと、彼女はうれしいと、一言漏らした。

「そんなふうに、思ってくれていたなんて」

「今だって、そうです。あなたに会えるとなったら、他のことは、どうでもよくなっている自分がいる。でも、それでは、いけない。抑えているんです。何とかバランスをとろうと努力している。あなたは僕の心を狂わせます。だから、できるだけ狂わない自分になってから、あなたと深く関わりたい。そう思っていたんです。身勝手な考えです。自分ばかりが、一人歩きしてしまっている。あなたの気持ちのことは何も考えていない。おまけに昨日は、あなたに関係のない事で、混乱させてしまって」

「雲中万理さん」

「そう。万理のことで。いまだに、警察に拘留されたままで」

 テレビ画面の万理の文字は、次第に脱走という言葉が、付け加えられていく。

「えっ?」

 井崎は、テレビの音量を復活させた。有楽町の爆発事件と、ほぼ同時刻。拘留中の、元映画監督、雲中万理容疑者が、拘留中の警察署から、脱走、逃走したとのことだった。

 聖塚の声は遠く、ほとんど脳には届いてこなかった。

「ちょっと、ニュースを見て」井崎は、受話器に向かって言った。

「万理が逃げた」

 井崎はそう言うと、聖塚からの電話を切り、セトにかけた。

「どういうことですか」セトも焦っていた。「Gと長谷川セレーネが」

 そうだったと、井崎は思い出した。

 万理の脱走だけではなかった。Gフェスタの公演会場の付近が、吹っ飛んでしまったのだ。

「それで、Gは、大丈夫なんですか?長谷川さんの安全も?」

 セトは、呂律がうまく回ってなかった。

「い、いざき。い、いや。だめだ。駄目だった」

「駄目って、どういうことですか?セトさん。しっかりしてください」

「無理だ。無理だよ。あんな状況を画像で見た。無理だ。助かるなんて、無理だ。あの辺にいた、大勢の人間が行方不明だ。そのなかに、Gくんたちも入っている。全滅だ。なんということだ」

「何を言ってるんだ!」井崎は怒鳴った。「まだ、わからないじゃないか!あなたがそんなことを言ってどうする?公演は、明日も続くんだぞ!死んでしまったら、いったい、誰が続きをやるんだよ!そうだろ?」

 井崎は、受話器に向かって大声を上げた。

「聞いてるのか!俺は信じてるぞ。Gフェスタは、必ず完結する。まだ、途中じゃないか。二日目が、終わっただけじゃないか。何も始まってないのと一緒だ。今は行方不明かもしれない。けれど、明日には、必ずや、彼らは、舞台に立っている。そういうものなんだよ!お前は、何もわかっていない。万理のニュースも聞いたか?彼女は今、どこにいる?お前のところに、連絡がきているんだろ?俺に話せ。力になれる」

 再びメールが入った。聖塚からだった。



 途中までは、というよりは、ほとんど最後まで思惑通りに進んでいったのに、一体なぜ偽りの爆発物が点火してしまったのか。大尉には、理解不能なことであった。だがどのみち、革命に走った若者たちは逮捕され、即刻処刑された。革命は終わったのだ。しかし代償は大きかった。首都は吹き飛んでしまい、周りの郊外にも被害が拡大した。これは首都で攻防戦が起こり、泥沼化した結果、たくさんの死傷者が出る結末よりは、はるかにましだったが、避難した人々は、帰る場所を失ってしまっていた。

「大尉。これは、どういうことなんだね。爆発物は、ただの恰好だけではなかったのかね」

 大尉は答えようがなかった。そのつもりでしたと、言うしかなかった。誰も爆発物の持ち合わせはありませんでした。「すべては、奴らを、嵌めるための罠でした。あれは、間違いなく、爆発物ではありません」

「そう、言い切れるかね?」

 市長の男は言った。

「いいきれます」大尉は答える。

「結果が、すべてだよ」市議会議員から、声が上がる。

「これは、君の責任問題だ」

「ええ、それは、わかってます」

「すべてを、自分に任せてくれ。君はそう言ったよな」

「その通りです」大尉は認めるしかなかった。

「それが、この惨状だ。あるいは、首都の攻防で、派手にどんぱちやってくれたほうが、被害は遥かに少なかったかもしれない。これでは、奴らの成功といっても過言ではない。我々はね、こうも思っているのだよ。君は、実は、スパイなのではないかとね。革命に関わる若者の一人なのではないかとね。うまく考えたものだ。我々を騙したな。見事なものだよ。そして、革命の第一段階は成功を収めた。そうなんだろ?これはまだ第一段階なんだろ?ここで、奴らの命は潰える。爆発物を設置した罪で、彼らはみな処刑だ。公開処刑となる。だが、ここで生き延びる男がいる。君だよ。君は何の罪にも問われることはない。何かの手違いがあったと、そう主張するわけだ。仲間を裏切り、いや、その仲間も、このことをすでに承知だったのだろう。立派なものだ。彼らは命をかけてやり遂げた。次なる段階を君に任せてね。おそらく、革命分子は、まだ、多数蠢いていることだろう。君は再び、その人間を率いて、第二、第三のテロ事件を起こしていく。だが現実は甘くない。君は裁判に連れ出される。君に嫌疑がかけられる」

「俺を、どうするんですか?」

「裁判が、答えを出してくれるさ。今は何も、手は出せないが」

「そうですか」大尉は肩を落とした。「本当に、俺は、何も知らないんです。爆発物では、なかったんだから・・・」

 その主張は、市議会の中においては、誰にも相手にされなかった。

 大尉は自宅へと戻る。自分に嫌疑がかけられて、おそらく明日には出廷を命じられることだろう。自分が二重スパイだという、疑いを晴らす証拠は何もない。何も提出はできない。

 どこで道は狂ってしまったのだろう。誰が狂わせたのだろう。俺を嵌めた奴がいる。誰なのだ?あいつらか。革命分子たちは、俺が政府側の人間だということを最初からわかっていて、それであっさりと騙されたフリをしていたのか?当初の目的を果たすべく、爆発物を、何の抵抗受けずに設置でき、そして炸裂させた。

 だが彼らは、あっさりと捕まってしまった。これも、計算のうちなのだろうか。あるいは、政府側の人間の中に、俺を嵌めた人間がいるのか?いったい何のために?わざわざ自国の首都を吹っ飛ばすのか?現政府の転覆を目指す分子が、政府の中に育っていたということなのか。それを、革命分子を通じて、達成したかったのか。その橋渡しとして、この俺も、利用されたのか?

 もう、何がなんだか、わからなかった。

 ただ、誰かが、爆弾物をすり替えたのだ。それだけは確かだった。



 また、万理さんのことですか。あなたたちは、恋人同士なんでしょう?

 聖塚は自分に、女の影を感じているようだったが、それは常盤静香ではなく、雲中万理であるという、倒錯具合だった。電話がかかってきた。

「私と話しているときに、必ず、雲中万理という存在が現れてくる。これは、当てつけなのかしら。もう、捕まってるんでしょ?何かの間違いじゃないわよ。おそらく、彼女は、その容疑どおりの行為をした。釈放されることは絶対にない!だから、井崎さん。もう、雲中万理のことは忘れてください」

 その声は切実だった。

「私のことが、欲しいのなら、言うことをきいてください。あなたにとって、雲中万理がどれだけ重荷になっているのか。あなたを見ていればわかる。あなたを常に平穏状態から遠ざけていくもの。それが雲中万理、よ。私が欲しければ、私を抱きたければ、彼女を捨てなさい。そういう激しい決断が、今、必要とされている」

「彼女、脱走したんだ」井崎は小さな声で呟いた。

「脱走。脱走したのね」

「ああ」

「あの、女。たいした玉だわ。井崎さん。これが最後のチャンスよ」

「チャンス?」

「あの女が、助けを求めにきたときが、最大のチャンスよ」

「どういうこと?」

 まさか、と井崎は言葉を詰まらせた。あなた、わかるわよねと、聖塚の沈黙は物語っていた。

 その意味を、井崎は察した。

「そんなこと、できるわけないだろ」

「よく考えてみなさい。彼女は容疑者なのよ。そんな彼女を、あなたは匿うの?」

「どうしろっていうんだ」

 井崎は突然Gのことを思いだした。あいつはもう、死んでしまったんだ。初めて会った時の彼の姿が蘇ってきた。あいつは、いい奴だった。行動力と自立性の極端に薄い奴だったが、最後にはあいつも立ち上がった。これからって時に・・・。

 長谷川セレーネも亡くなった。あれほどの美貌も瓦礫の下に沈んでしまった。知り合いが、次々と自分の傍から永久に去っていった。これ以上は奪われたくない。

「いいから、切りなさい」

 聖塚の言葉が追い打ちをかけてきた。

「私のことが欲しくないのなら、別に構わないけど」

「君は勘違いしてるんだ!」精一杯の反論だった。

「彼女とは、仕事以外に、何の関係もない。単なる友人同士でもない」

「私は信じないわ。それに、どの道、あなたを混乱させる元凶であることには、変わりはない。いつかは、後悔することになる。私の言っていたことが当たっていたことに気づく」

 無情にも、電話はそこで切れた。

 むしろ、すぱっと切りたいのは、常盤静香の方だと井崎は思った。



 シカンは、チケット売り場を、なかなか見つけられなかった。この静けさはいったい何なのか。気づいたときには、閑静な住宅街の中にあったドームは消えていた。

 シカンはクリスタルガーデンに一度帰った。道を何度も間違え、やっとのことで、着いた。中に入り、ロビーをぐるぐると、落ち着きなく歩いていた。ふと、そのとき、地下へと通じる道が出現していることに気づく。いつ以来だろう。

 シカンは、何かに導かれるように、その現れた階段を下った。ほとんど明かりのない中で螺旋階段は続いていく。シカンは一番下まで歩いていく。そこはいつのまにか、シアタールームになっていた。人は誰もいない。とりあえず座る。スクリーンは起動する。映画の宣伝が始まる。《ゼロ湖の出現》3月31日公開!

 いったい、何者による陰謀なのか。都市の真ん中に出現した湖の存在。

 その名は、ゼロ湖。

 その湖が、存在している間、都市の機能は、完全に麻痺状態に陥る。

 その場所に存在していた人間を含めた物質は、消える。

 湖は水が含まれているわけではなかった。その内側では、何者も、存在はできない、そんな空間だった。軍隊は特殊部隊を編成して、ゼロ湖へと近づく。しかし、簡単に弾き飛ばされる。強烈な風が吹き荒れているかのように、まるで近づくことは許されない。

 朝の九時と夕方の四時に出現するゼロ湖。人々はそう呼ぶようになる。

 それは一時間ほどで消滅する。消えていた物質は再び現れ、人々はそのゼロ湖が出現した場所へと再び足を踏み入れることができる、次第に人々はこのゼロ湖を受け入れるようになっていく。出現する時間はほぼ決まっているため、あらかじめ準備をしておくことができる。一時間が過ぎたら再開したらいい。だんだんとみな、そのリズムに対応していった。いつまでも、不可抗力に敵対していても、仕方がない。だが、それは、異変の始まりに過ぎなかった。



ゼロ湖は拡大し、移動し始める。科学者たちは立ち上がる。このゼロ湖に飲みこまれても、その中で縦横無尽に動けることはできないかと。乗り物しかない。彼らは、そのゼロ湖の中にあっても、移動することのできる車の開発に、着手するようになる。

 ゼロ湖はそのあいだも威力を増していっている。ゼロ湖の出現、拡大、移動、消失。当然のごとく、動きは不規則になり、時間の観念もなくなる。そして、そんなゼロ湖の動きと連動して、街そのものの構造が、変化していくのだった。なかったはずの道が出現し、思いもやらぬ場所に接続している。高層ビルが突然消え、別の場所に移動している。配置がことごとく、組み変わっていることが頻発する。

 雲中万理監督の最新作!《ゼロ湖の出現》3月31日公開!


 彼女が最後に撮った、映画だった。



 彼女が、あんな状況になっても、劇場公開が中止になることはなかった。

 激しい首都攻防戦の果てに、繰り広げられる革命の嵐。フランス市民革命から三百年の時を経て。今。失脚した貴族たちの亡霊が、あのときの復讐を、今果たす。城や土地、美術品を、永遠に奪われた彼らは、自らの命だけは、地下の秘密迷路を通じて、助けることに成功する。シカンは、そのあとも、何本もの映画の宣伝を見続けた。

《バルボワ・クォンタム・DCへの、完全なる移行》

《Gフェスタ》

~その公演を前後に、移行は、完全に実行される~

「我々は、段階を経て行う」

 リュン・ベック監督最新作。

《バルボワ・クォンタム・DC》

 世界の都市のクォンタム化に向け、その先駆けとして、ある一つの都市が、モデルケースとして指定される。

 街は、Gフェスタのときを迎える。

 Gフェスタを通過した、そのとき、クォンタム化は終了する。

 アップグレードがなされる。五秒後に、違う風景に変化することもある。何度も何度も、風景は変化していく。

 そう、まるで映画を見ているように。

 制御することはできない。街は、幾重もの世界観を、折り重ねている。さらには、街の構造が変化をして、繋ぎ目がたくさん現れる。まっすぐに歩くことができない。別の場所へと無情にも繋がってしまう。するとまた、違う風景に変わっている。クォンタム化を経た直後のことだ。

 いまだ、不安定な時は、続いていく中、しかし、それもだんだんと、落ち着きを取り戻していく・・・。喧噪は消えてなくなっていく。

 取り戻した静寂。平和の世界。生まれ変わったバルボワ・クォンタム・DC。

 その姿とは。

 人々は何を失い、何を得たのか。

《バルボワ・クォンタム・DC》4月1日全国公開!



「長谷川です」

 電話の主はそう言った。

 女性で長谷川という知り合いを、井崎はすぐに思いだすことができなかった。

「長谷川、セレーネと申します」

 まさかとは思った。訊きかえしてしまった。

「長谷川セレーネなの?」

「はい」

「生きてたのか」

 Gと共に、すでに、彼女は、地底に沈み込んでしまったと思い込んでいた。

「無事だったんだ。ということは、Gも」

「すみません。駄目でした」

「そうか」

「申し訳ありません」

「・・・、いや、生き延びたことのほうが、奇跡だ。どうして、無事だった?他のスタッフたちは?」

「駄目でした。おそらく私だけです。本当に信じられない。あの惨状を思いだしたくない。今は詳しく話せません」

「ああ、悪い。つい。それにしても、本当に驚きだ。これが、君の生命力の強さなのか。怪我の具合は?病院なんだろう?」

「いえ、それも、無傷でして・・・」

「信じられないよ。俺もニュースで映像を見たるけど。まさに、あの惨劇の中心にいながら、無傷で脱出できたなんて。いったい、どういうことなんだ」

「申し訳ありません」

 長谷川セレーネは、しきりに謝った。

「どうして、謝る?」

「Gくんと、ずっと一緒にいたんですよ、わたし。彼は・・・、彼は、・・・目の前にいたんです。ほんの数秒前までは。彼は沈んでいってしまった。他のスタッフも、みな。最後まで、私と共に逃げていた男性も。最後には、天井の崩壊に巻き込まれて。全部、見てしまった」

「そうか。それは、辛かったな。けれど、Gも、まだ、本当に死んだと決まったわけではない。遺体は出てきてはいない。もしかすると、見つからないままかもしれないけど」

「ええ。私だって、まだ決めつけてはいません。僅かな希望は持っています」

「ありがとう」

 長谷川セレーネと二人きりで話したのは、これが初めてかもしれないなと、井崎は思った。

「どうしたの?何か用事があったのか?」

「ええ、そうなんです。実は、Gフェスタの前にですね、うちのセトと話しをしていたんですけど。いえ、まだ、彼には、報告してないんですけど。会社をやめるんです」

「やめる?どういうこと?事務所を移籍するの?」

「そうです。移籍というよりは、まずは退社です。そのあとで、個人事務所を作りたい。もしそれが叶わなければ、個人事務所の設立に協力するという前提で、どこか別の事務所に所属します」

「俺のところか?」

「はい。Gくんのこともありますし」

 井崎は、突然の申し出に戸惑った。

「でも、契約があるだろ?いきなり、やめるっていっても」

「それが、ちょうど、来月に切れるんです。一年契約でした。一年契約を条件に、所属したんです。そのあと、更新するという口約束でしたが、それは実現しません」

「どうして、また・・・。VAに何か問題でも?」

「問題は、私の方です。ですが、間接的には、VAにも問題はあるとおもいます。セトさん、何かを隠していると思います。私たちには言えないことがある。その中身はわからないけど。ある時を境に、彼は急によそよそしくなった。目を見て、話してくれなくなった。あれは、いつだったでしょうか。舞さんのCDが、売れたときですから、半年くらい前ですかね。それからですよ。私は、彼に対する違和感を、ずっと、持っています。まだ、表立っては出てきてないけど、問題は必ず、勃発すると思います」

「そうなんだ」

 井崎は、久しぶりに仕事の話になりそうだったので、急に頭が澄みはじめ、心が躍り始めた。ここのところ、聖塚のことで、頭が一杯だった。万理のこともあった。常盤静香とのこともあった。Gフェスタもあり、爆破未遂、爆破事件も起こった。

「個人事務所って、いったい、誰がマネージメントをやるの?」

「私です」

 彼女は即答した。

「無理だよ」

「どうして、です?」

「何も、わかってないだろう?しかも、時間的にも無理だな」

「あなたがいるじゃないですか。あなたが、私に教えてくれればいいじゃないですか。それに私は、これから仕事を減らしていこうと思ってるんです。自分で精査して選ぶ。そこなの。私がやりたいのは。その裁量権のすべてを、自分が握りたい。握っていたいの。だからあなたの力が必要なんです。Gくんのこともあったし。より、あなたに、縁を感じて」

 そう言われた井崎は、悪い気分ではなかった。

「じゃあ、事務所を、そっくりとあげる」そんなことまで言ってしまった。

「表面上は、君は移籍したことにして、ここに所属したらいい。いずれ、じょじょに君が実質上のオーナになっていけばいいから。僕は、わからないように退任していく」

「いいんですか!」

「ああ、いいよ。一度、言ってしまった。俺も前から望んでいたことかもしれない」

「どういうことですか?」

「もし、Gがいなくなってしまったとしたら、なおさらな。Lムワの著書を定期的に出版していくことに専念して、あとは、君に譲るよ。それに、VAのこともあるから。いったい、どんな問題を、セトが抱えているのかはわからないが、そうだな。俺も、そうは長くないと思う。万理の問題もあるし、舞だって、あの一枚のアルバムの発売以来、まるで活動をしていない。これで君も出ていってしまうとなると、なあ。我々は、潮時なのかもしれない」

「それで、わたし、今、セトから、オファーされている案件を、すべてチェックして、それでとりあえずは、五つか六つを選び出したんです。それを持って、移籍します」

「わかったよ。オーケーだよ。じゃあ、俺が、セトに連絡しておくから。一度、腹を割って、話し合いたいこともあったし。ちょうどいい機会だ」



「お前、本気で、言ってるのか?」

 セトは、長谷川セレーネの突然の申し出に、逆上しそうになった。

「確かに、契約は切れる。だが、それは、更新するという前提で・・・。君は、大学に戻るのか?大学との兼ね合いで、とりあえずは、一年ずつで、契約をしてほしいということだった。それを、今さら、事務所を変えるだって?」

「個人事務所です」

「何でもいい」

「井崎のところか。お前ら、俺を嵌めたな。いったい、いつから、あいつと。あいつの企みなのか?くそっ。何ということだ。VAは解散じゃないか。くそっ。そういう予感はずっとしていた・・・」

「セトさん。今まで本当に、ありがとうございます。あなたには感謝してます」

「いや、礼を言うのは、こっちのほうだよ」

 セトは少し涙目になっていた。

「これほど、スキャンダルのない子は初めてだった。まあ、お母さんのことは、少しあったにせよ。でもあれも、公にはならない。一年間、無謀なスケージュルにも、君は文句ひとつ言わなかった。どういうつもりで、事務所を出ていくのかはわからないかが、きっと君なりの考えがあるんだろう。尊重するよ。それと一つだけ、お願いがある。VAがなくなっても、君のプロフィールからは、VAの名前を削除しないでほしい」

「わかりました。それと、社長。井崎さんのこと」

「どうした?」

「井崎さんに、強引に誘われたとか、彼に何かをもちかけられたとか、そういうことはまったくないですから。あくまで、私の独断ですから。私が独立したいだけですから。彼には少しのあいだ、手伝ってもらうだけです。そのあとは、完全に、私一人です。誤解されたくないので、それだけは」

「好きにしたらいいって。皮肉でも、何でもなく。俺は、ある意味、すっきりしてるんだ。ずっと恐れていたことが現実になったわけだが、もしかすると、恐れなんかではなくて、心のどこかでは望んでいたことなのかもしれない。俺は、所詮、君たちのようなスケールを持った女性を、たくさん抱えていることができそうにないから・・・」

「万理さんが、あのような状態になっている今・・・、申し訳なく思っています」

 長谷川セレーネは、言った。

「それは、気にするな。君とは、何の関係もないことだ。はっきりとした事は何もわからない」

「井崎さんから、あなたに話がある前に、一応、わたしから、切り出しておきたかったので」

「そうか」

 セトは、部屋の壁に貼ってある長谷川セレーネの写真を眺めた。

「ありがとう」その一言を、セトは絞り出した。


 長谷川セレーネがいなくなった後で、セトは、応接室の椅子に座り、井崎からの電話を待った。一時間後に、その電話はあった。

「話は伺いました」とセトは言った。

「万理のですか?」

「違うよ。長谷川セレーネだよ」

「ほんとですか?彼女、自分から、話したんですか?俺が話すから、いいと言ったのに」

「ですので、あなたから、また同じ話を聞く必要はない。了承した。すべてオーケーだよ。彼女の意志を尊重する。彼女があなたを必要とするというのなら、それでいい。よろしく頼む、井崎くん。君とは、最近、万理の話で、ずいぶんとやりとりをしたね。こっちの方は、まだ何の進展もないけど。俺は最後まで、彼女の味方でいるつもりだ。たとえ、VAは解散しても、彼女の身元は、俺が引き受ける」

「わかりました。でも、長谷川セレーネのことは、本当にいいんですか?一度、そちらにお伺いしたいと思っているのですが」

「気にしないでくれ。本当にいいんだ」

「そうですか。そうおっしゃるのなら。でも、万理のことは、また変化があり次第、教えてください」

 電話を終えたあと、セトは、ソファーに再び身体を投げ込んだ。

 脱力感が一気に炸裂した。

 これでよかったんだと、彼は思った。すべての重荷から解放されるのだ。



 セトへの電話を切ったあとも、井崎はずっと立ったままだった。

 セトがまるで義父のように思えてきた。娘さんをくださいと言った、あとの心境にも似ている。セトの脱力感が想像できた。彼の気持ちが伝わってきた。


 聖塚からの連絡はまったく途絶えていた。井崎は、自分からも彼女に連絡することを控えた。自分自身が混乱したままで、彼女と接するべきではなかった。

 セトは、長谷川セレーネを手放すことを、決意していた。俺もある種の、決断が迫られている。そのときだ。事務所の呼び鈴が鳴った。インターホン越しに現れたのは、雲中万理だった。井崎は彼女を中に入れた。

「報道は、見たでしょ?わたしよ。迷惑かけて、ごめん。でも、ここにしか、来れなくて」

 はやく入れよと、井崎は言った。

「どうしたんだ、いったい」

 万理は、作業着のようなものを着ていた。

 そのことについては、特に何も訊かなかった。

「逃げてきたのか?」

 万理の頬は、以前よりもだいぶん削れていた。

「ちゃんと、食べているのか?」

 万理は、首を横に振った。

「食べ物は、何も、出てこなかったのか?」

 井崎は、拘留中のことを訊いた。

「食欲はないの」

 まだ何も話せる状況にはないことは、見て取れた。しかし、いつまで、彼女をここに置いておけばいいのか。彼女はどういうつもりなのか。ちゃんと今、話しておかなければならなかった。

「これから、どうする?」

 井崎は、話を過去に戻したくなかった。

「逃げ切れると思うのか?」

 雲中万理は、俯いたままだった。寒いのだろうか。少し震えていた。

 井崎は、暖かいコーヒーを入れた。万理は一口も飲まなかった。

「まあ、いい。とにかく今日はここに泊まれ」

「いいの?」

 万理は、井崎を上目づかいで見た。

「仕方がないだろう。あとのことは、後で考える」

「ほんとに?」

「だから、ちゃんと、正直に話してほしい。何があったのか」

 万理は、コーヒーに手をつけた。すると、気のせいだったのかもしれないが、顔に血が通いだした。こけた頬は、だんだんと、肉感を取り戻していった。

「嵌められたのよ」と彼女は言った。

「そうに決まってるじゃない。わたしが何をしたって言うのよ」

「爆弾未遂事件の容疑者だと、報道されていた」

「爆弾魔?冗談じゃない。そんなものは、持っていない。それに、何のために?」

「君が、設置未遂容疑で逮捕された、その翌日。有楽町界隈で、大規模な爆発があった」

「知ってる」

「それには、関係がないんだよな?」

「ちょっと、待ってよ」

 雲中万理は、コーヒーカップを、テーブルに勢いよく置いた。

「何なのよ。だから、私は何の関係もないって。新宿のことと、有楽町のことが、たとえ関連があったとしても、その二つの出来事と、私のあいだには、何の繋がりもない。話しはそれだけ」

「警察にも、そう主張してる?」

「当たり前じゃない」

「あの週刊誌に出た話はどうなんだ?」

「どの話?」

「怪しげな集会に通っているという、スクープだよ」

 彼女はそれには答えなかった。

「どうなんだ?あれは、事実だったんだな。そうか。だから、余計な疑惑がまとわりついたんだ。わかったよ。原因は君だ。けれども、直接関連があるわけじゃない」

「悪いのは、わたし?」

「いいとか悪いとか、そういう話をしてるわけじゃない」

「身から出た錆だって言うのね」

「まったくの、無ではないね」

「帰るわ!」

 万理はそう言って、席を立ったが、彼女が本気で出ていくようには思えなかった。

「ずいぶんと、変わったな、万理」

 彼女は身体をびくっとさせて、振り返った。

「映画監督になりたての頃・・・、あのときとは、だいぶん違う。その集会には、どれだけ通っていたんだ?どこで何が行われていたんだ?おそらく、週刊誌の話はまるででたらめだろう。その集会に潜入できたとは到底思えないから。まったくの想像で描かれている。けれど、その前後の話は、おそらく本当だ。君をずっと尾行していた。ある時期、君は毎晩のように出かけていった。映画の撮影で、あれだけ忙しかったのに。いや、時間がなければないほどに、君は、夜の徘徊に、睡眠時間を当てていた。そうだろ?ほとんど家にはいなかったという話だ。これは、舞の証言にもある。舞はどういうわけか、君のことが気になって、毎晩のように後をつけていた。君が映画を撮る前からの話だ。女優だった時代、舞と、CМで共演したことをきかっけに、君とは仲良くなった。舞は、君のことを、ただの友達以上の存在として見ていた。恋をしていたんだろうな」

「あなたと、話すことは、何もない」

「逃げるのか?逃げ切れると思うなよ」

「あなたのところに来ても、無駄だったようね」

「ちゃんと、警察で話せ。不服なら、裁判で正当性を証明しろ。それが一番の近道だ。そうだ。君の所属していたVA。解散するそうだよ。長谷川セレーネも移籍する。舞は解雇だだ。他のタレントも、同じように、移籍か解雇で話はついている。君も気持ちを固めろ。どの方向にむかうのか。もちろん今、抱えている問題をクリアにしてから」

 万理はそれ以上、何も語らず、井崎の事務所からは去った。

 井崎は後を追った。エレベーターの前で、彼女の腕を掴んだ。

「やめて、離してよ」

 万理は抵抗した。井崎は、彼女の手に鍵を握らせた。

「これは、俺の家の鍵だ。先に行ってろよ」

 万理の表情が、一瞬、明るみを取り戻した。

「いいから、行け。今のままで逃げても、君の混乱は、ますますひどくなる。見ちゃいられない。いったい、どうしたって言うんだ?いつから、おかしくなった?あれほど、素晴らしい統制のきいた作品を、何本も生み出していたのに」

「あなたは、何にも、わかっていないのね」

 彼女の視線は、冷たかった。

「あなたには、何もわからない」彼女は繰り返した。

「とにかく、俺の家に行け。いいな。一晩ゆっくりと休んでから、考えをまとめろ」

 雲中万理は鍵を受け取り、エレベーターを降りていった。

 井崎はすぐに、知り合いの警察に電話をかけた。自分の自宅を告げ、一時間後には、雲中万理が現れると思うから、と伝えた。



 シカンは、応接間でアイフォンをいじっていた。Gフェスタの公演場所を、再度確認していた。公式ホームページからは、三日目の公演情報が削除されていた。やはり、今日の公演は中止が決まったのか。本当にあんな爆発が起こった中で、Gや長谷川セレーネは無事だったのだろうか。もう一度だけ、セトに電話をかけてみた。だが彼ではなく、別の男が出た。

「どちら様でしょうか」男は言った。

「シカンです」

「シカン?」

「セトさんじゃないですね」

「警察の者です」と男は答えた。

「セトさんに、繋いでもらえますか?」

「それは、無理です。彼は、今、我々警察が、身柄を確保したところなので」

「逮捕ですか?」

「そうですよ、シカンさん」

「どうして、また」

 シカンにはわけがわからなかった。「まさか、万理さんのことで?」

「万理さん?ああ、雲中さんですね。雲中さんは、脱走したんですよ」

 そんな事実は、初耳だった。

「それで?」

「逃走してますよ。でも、まあ、捕まるのも、時間の問題でしょう」

「それで、セトさんは、どうして?」

「あなたも、知ってるでしょう。今度の爆発騒ぎです。その関連で、彼に逮捕状が出ました」

「えっ?どういうこと?」

「ですから、爆破事件の関連で、逮捕したんです」

「万理との共犯ですか?」

「雲中さんは、その前日です。新宿で爆発物を仕掛けようとしていたところを、現行犯で。セトさんは、まさに昨日の爆発の件です。二つは違います。関連があるのかどうか。それはこれからの捜査次第です。今のところは無関係です」

「無関係だって?」

「はい」

「あの二人の関係は、知ってるでしょ?」

「もちろん。けれど、だからといって共謀していたとは限りません。性急な憶測をするのはよしましょう。何でしたっけ?、シカ・・・」

「シカンです」

「ああ、シカンさん」

「で、万理は、まだ、捕まってないんですか?」

「いえ、時間の問題でしょう。タレこみもあったようですし。これから張り込んで、捕獲するでしょう」

 シカンは電話を切った。Gフェスタどころではなかった。知り合いに逮捕者が続出している。セトが関わった?セトが今回の爆発を起こしただって?そんな馬鹿な。

 シカンは再び、セトの携帯に電話をかけた。

「何でしょう。また、あなたでしたか、シカンさん。名前を憶えてしまいました。困りました」

「セトが、爆発物を?主犯なんですか」

「ですから、何とも申し上げられません。ですが、おそらく主犯は別にいるのかと思います。もしかしたら、雲中さんも、セトさんも、その主犯の人間と、それぞれ別々に、繋がっていたのかもしれません。仕事では同じ事務所にいたものの、お互い、そのことは知らなかった。僕はそう見ています。ですから、昨日と、一昨日にあった事件は、別々のものです。しかし根本は同じ。でも共犯じゃない。むしろ、昨日の爆発はですね。あ、でも、こんなことをベラベラと話してしまっていいのかな。まあでも、シカンさんでしたっけ?他言はダメですからね。昨日の爆発ですが、その爆発物が仕掛けられたのは、おそらく、その日ではなかった。前の日でもない。何日か前でもない。ずっと前のことなんですよ。半年前か、あるいは、一年も前。誰が?セトさんが。そういうことなんですよ。現行犯ではない。セトは、時限爆弾を、だいぶ前にセットした。本人も、すでに、そのことを忘れていたんじゃないでしょうか。可能性は低いけれど、もしかしたら、爆発物を設置しているという自覚も、なかったんじゃないでしょうか。別の目的で、別の物を運んでいると、彼は言われていたのかもしれない。少しくらいは、不審に思っていたのかもしれないけど。

 ですからね、シカンさん。私が言いたいことは、万理さんのことなんです。万理さんの今回の設置未遂事件を深く追及することで、昨日の爆発についての経緯を、知ることができると考えているんです。原理は同じですからね。ただ、時間の差があっただけで。もし、万理さんが、設置に成功したとすれば、おそらく、爆発は、何か月後か、一年後とかでしょう。その芽を摘んだということもそうですけど、別の爆発事件が、どういった経緯で起きたのかを知る、最大の手掛かりに、なるわけです。だから万理さんを逮捕し、厳重に追及しているんです」

「厳重って・・・、逃げられているじゃないですか」

「面目ない」と男は言った。「何せ、その爆発というのが、有楽町で起きてしまったもので。万理さんは、銀座の警察署で拘留されていたんです。不可抗力でした」

「話は、全然、理解できませんでしたが、とにかく、セトへの電話は通じないんですね」

「そういうことです。しばらくは。いや、だいぶん長いかもしれない」

 シカンは、アイフォンでインターネットを再び検索した。セトの話は、どこにもでてなかった。万理が脱走しているというニュースもなかった。Gフェスタを検索すると、昨日までの二日間の公演を見た人が、自身のブログで感想を書いているのを見るくらいだった。

 窓から真っ赤な光が入ってきた。シカンは、カーテンに近づいていった。夕日にしては強烈すぎたので、火事が起きたのかと思った。



「やっと、繋がった」

「井崎さんですか」シカンは、アイフォンでネット検索をしている最中だった。

「お前だけだったよ。ずっと、繋がらなかったのは。大丈夫なのか?お前まで、お陀仏かと思った」

「駄目だったんですね、Gくんも、長谷川さんも」

「長谷川セレーネだけが、助かった」

「マジですか?」

「ああ。しかも、無傷だそうだ」

「そうなんだ。じゃあ、というか、当たり前だけど、Gフェスタは終わりですね。二日目で」

「そういうことだ」井崎は答えた。

「でも、そういえば、Gフェスタのパンフレット。三日目が書かれていなかったような。ちょっと待ってください」

 シカンはパンフレットを探した。だが応接室にはなかった。あるはずもなかった。

 家にまでは、持って帰ってきてなかった。一日目の混乱の始まりのときに、すでにどこかにいってしまっていた。

「ところでさ。お前の家に、今度行こうと思ってるんだけど。いい?ほら、クリスタルガーデンだっけ?あれ、少し、都心から離れてるだろ。今は、こんな状況だから、近いうちにまた、何か事件が起こるかもしれない。だから、お前の家に、少しのあいだ、滞在していてもいいかなと思って。静香と一緒に遊びにいってもいいだろ?」

「常盤さんも、無事なんですよね?」

「ああ、彼女も、有楽町の界隈にはいなかった。でも、すっかりと怯えてしまって。自分がテロリストに狙われているんじゃないかって、強迫観念にとりつかれてしまって。あれから、彼女とは、よく話すようになった。あれからといっても、まだ一日しか経ってないけど。二人が自宅で長時間過ごすなんて、こんなときでもなければなかった。そういうことだから、行ってもいいかな?」

「もちろんですよ」井崎の提案に、拒む理由は何もなかった。

「二人で来るんですね。わかりました」

「頼むよ」

「嬉しいですよ。あなたたち二人は、本当に、お似合いだから」

「お前は、いつも、そればっかりだな」

「本当なんですよ。見ていてしっくりとくるんです。僕の中では。絵になるというか。そういう人がいたら、僕だってすぐにでも、結婚しますよ。そしたら、こんなバカでかい家なんて、すぐにでも手放してしまうのに」

 井崎はさっそく明日には来るらしかった。


 翌日、井崎と常盤は、駅からタクシーでやってきた。

 ちょうど、正午を回った頃だった。

 二階のテラスで、一緒にランチをとることになった。

「初めてですよ。ここを使うのは。昼間は、もっぱら寝てるか、仕事の作業をしてるか、どっちかですから」

「夜だもんな。ここでのメインは」

 井崎は、すっかりとくつろいだ様子で、春めいてきた気候に見事に呼応していた。

 常盤静香も口数は少なかったが、肌艶がよく、二人は昨夜も、裸で抱き合ったんだろうなと、シカンには容易に想像がついた。

 インタリアンなランチも終わり、ハーブティーを飲んでいたとき、井崎は長谷川セレーネの話題を出してきた。

「彼女ね、うちに移籍するんだよ」井崎は、何の抑揚もない声で言った。「彼女の方が申し出てきてね。もう、セトとも、話はついている。VAはどうも、事業をたたむらしい。それで彼女は独立したいらしいんだが、いきなりは無理だろ?だから、とりあえずは、形だけ、俺が預かることになった。Gもいなくなってしまったし。ちょうどいいかなと」

「いつ、決まったんです?」

「一昨日から、昨日にかけて」

「そうですか。何も知らなかったな」

 シカンは、そのときの自分を回想していた。

 何とか家に辿りつき、爆発事件のニュースを見ながら、翌日のGフェスタの公演情報を探しまくっていた。

 ふと、常盤静香のことを忘れていた。確かにそれまでも、一緒に食事をしていたのだが、彼女の存在感は驚くほど希薄だった。そういえば、出迎えたときから、井崎しか見えてなかったのかもしれない。以前と何かが変わっていた。

 常盤静香を見ていると、薄らと影のようなものを感じた。彼女は別の誰かを連れてきているような。初めはGかと思った。Gがまだこの辺りをうろついていて、それがたまたま常盤静香の横にいるのかと思った。だが、Gのような感じではなかった。もっと別の人間だった。

「本当に、泊まっていっていいんだよな」

「いくらでも。部屋があるのは、知ってるでしょう?」

「また、誰か、女を連れ込んでくるのか?」

「そんなわけないでしょ。まだ周りは、喧噪と混乱に満ちているし」

「いや、でも、俺らのように、ここに来たほうが都心にいるよりも、全然安全だと思うぜ」

「最近、誰とも寝てないんだよ」

「もったいないな。そうだ。あとでプールに入らせてくれよ」

「いいですよ。夜の方がいい」

「幻想的だな」

「ライトアップは、凝ってる」

「お前も入る?」

「いや、二人で入ってください。俺は、遠慮しておきます。今まで散々入ったから。好きに使ってください」

「悪いな。何から、何まで」



 本来なら、今日が、Gフェスタの三日目だった。井崎の話だと、Gは死んで長谷川セレーネだけが唯一生き残った。長谷川セレーネ一人で、公演を続行することはできないのかと、思った。

 井崎と常盤静香とは、そのあと夜まで、顔を合わせることはなかった。二人がプールに入っているところは、ベランダからちらっと見た。ライトアップされたプールには確かに二つの影があった。

 シカンは、ゲストルームには近づかなかった。ハウスキーパーはすでに帰宅した。

 翌日の朝、再び来ることになっている。夜食を用意してくれていたが、応接室ではなく、ゲストルームに直接運んでもらった。シカンも自室で、BLTサンドを食べた。何度か新聞を見た。そこには雲中万理の再逮捕の記事が載っていた。脱走した彼女は都内のマンションに入るところを、張り込んでいた警察官に取り押さえられたのだという。一般紙の一面に載っていた。偶然、芸能欄には、Gのインタビュー記事も出ていた。生前最後の姿だった。Gフェスタの前にして、舞台への意気込みを語ったものだった。

―舞台の脚本を、ご自身で、書かれたそうでー

G ええ、そうなんですよ。正確には、全体のストーリーと、場面の制作を担当しました。文字に起こしたのは別の人です。

―内容については、まだ詳しくは言えないですよね?―

G そうですね。劇場に来てほしいとしか言えませんね。

―どんなところから、発想が出てきたんですか?―

G 好きな人との、別離からです。

―ご自身の?―

G いえ、そういうわけではないです。もっと抽象的だな。

―といいますとー

G うまくは言えないけど、そのようなことがあったんです。あったといっても、具体的に、自分がそういう場面に出くわしたわけではなくて、でも確かに実感があるんです。僕が、何を言ってるのかわかりませんよね。でも確実に、その現実はあるんです。今、ここに。僕は、その別離の意味を探している。そして、それを乗り越えようとしている。乗り越えるためには、新しい現実が必要だ。その現実を僕は創造したいんです。舞台にしたいんです。それがきっかけです。すいません。非常にわかりずらくて。

 例えるなら、ずっと好きな人がいたわけではありません。ほんの数日前から数週間前からでしょうか、好きな人が現れたんです。突然ではありません。もう一年も前からの顔見知りでした。ずっと気になっていましたが、ごく最近になって、強烈に彼女の存在感が増していった。考えられないくらいに好きになっていった。そして、その想いを伝える努力を僕は始めた。好きだという気持ちは、どんどんと高まっていった。そして、彼女との距離も、みるみる間に縮まっていく。だが、その想いがピークに達し、距離が最高に縮まったときに、彼女は突然姿を消すんです。どういうことなのかわからない。彼女の行方はわからなくなってしまった。何が起こったのか、僕にはわかりません。すべてのタイミングが理解不能だった。どうして、突然、彼女の事が、好きになっていったのか。どうして接近したときにいなくなってしまったのか。それとも、いなくなる方が先に決まっていたことで、それを無意識に察知していた僕が、彼女に近づいていったのか。それはわかりません。

 とにかく、現実に何かが起こった。その感覚です。その感覚が、僕の中に湧き起こった。だから形にしたかった。これは一体なんなのか。舞台にして、表現して、僕はその何かを掴もうとした。そういうことです。ぜひ、見に来てください。見に来ればわかります。僕もその公演の最中に、いろいろなことが理解できてくると思います。もちろん公演の準備をしていく段階でも、だいぶんわかってきました。でも、所詮はリハーサルですから。本番を通過することなしには、何も理解することはできません。この身体で、すべてを掴みとりたい。

―相当な意気込みですね。この舞台には、人気モデルの長谷川セレーネさんも、出演しますよね。どういった経緯で?―

G ご存知ない方がほとんどだと思いますけど、僕のデビューと彼女のデビューは、実は一緒の日なんです。しかも、一緒の仕事なんですー

―そうなんですか?―

G 彼女ばかりが、クローズアップされていましたが、実はその舞台に、僕も出ているんです。ただの相手役だと思われていたみたいで、匿名の存在みたいに扱われていましたけど。僕のデビューでもあったわけです。そんな地味な始まりでしたが、こうやって長谷川さんと共演できてうれしいですし、縁もまた感じます。もっとも、彼女と僕の今のキャリアの違いは、まざまざと見せつけられていますけど。

―しかし、今回は、あなたが主役で、彼女は脇役だー

 だんだんと、シカンは読んでいるのが辛くなっていった。まるでその別離というテーマが、その後に起こった爆発事件を予感しているようで、シカンは胸がつまった。長谷川セレーネとの別離のことであり、俺たちとの別離のことであり、この世界との別離を予感しているような発言だった。本番を通過しないことにはわからないと、Gは言った。そして、本番は通過した。

 Gのことを考えていたら、いつのまにか、夜になっていた。ベランダに出ると、プールサイドの照明は消えていた。時計を見る。九時を回っている。シカンはシャワーを浴びた。そのあとで、ベッドに軽く横になり、ブランデーを飲んだ。ドアがノックされる音が聞こえたような気がしたが、気のせいだと思い、無視した。だが何度も繰り返される。クリスタルガーデンには、自分の他には井崎夫妻しかいない。シカンはドアへと近づいた。ドアを静かに開けた。そこには、ガウンを羽織っただけの常盤静香が、グラスを片手に立っていた。

「どうしたの?」

「眠れなくて」

 シカンは、彼女を部屋に入れた。

「井崎は?」

「ぐっすりと寝てる」

「まあ、座って」シカンは、アンティークのソファーを指差した。

「これ、Gさんの記事ですか?」

 常盤静香は、テーブルに広げっぱなしの新聞を見た。

「そうなんです。彼、残念でした」

「私も面識があったんです。彼が、まだ、井崎と出会ったばかりの頃から」

「そうなんですか」

「私も、ショックを受けていて。こんなことになるのなら、舞台をちゃんと見ておけばよかった」

「でも、常盤さん。見なくてよかったんですよ。だから今、こうしてここにいる」

「あなたは?あなたは、見たんでしょ?」

「え、ええ・・・。そうですね。見ましたね」

「どうして、ここに居るのよ」

 シカンは一瞬、固まってしまった。

「どうしてここに居るのよ!」

 彼女の言っている意味が、しばらくわからなかったが、あの公演会場の界隈で、爆発があった。俺は奇跡的に脱出に成功していた。長谷川セレーネと、同様、その事実をあまり思い返すことはなかった。

「どうして、ここに、居るのよ!」

 常盤静香の口調は、まるでここに自分が居てほしくないかのように、上ずっていった。

「私たちの平穏な結婚生活を乱すのは、いったい誰なのか。よく考えてみることね。井崎には私だけを見ていてほしいの。他の誰かを愛してほしくはないの」

 シカンはますます、意味がわからなくなっていった。

「あなたを責めているわけではないの。ただ、話を聞いてもらいたかったの。お邪魔したわね。また明日、会いましょう」

 常盤静香は再び、グラスを片手に部屋を出ていった。

 シカンは夢を見ているようだった。会話の内容を、うまく整合させることができなかった。

 彼女が何をしにきたのか。何が言いたかったのか、少しもわからなかった。

 テーブルの上に広げられた新聞記事は、別のページに変わっていて、今はGの最後のコメントを目にすることはなかった。



 翌日の朝刊には、セトの記事も出ていた。新宿の爆破未遂での雲中万理の逮捕に続き、有楽町での爆破事件で、雲中万理の所属事務所の社長、瀬戸明を逮捕。二つの事件についての関連性は、今のところはわかっていないということだった。

 シカンはゲストルームへと向かった。廊下には井崎の声が鳴り響いていた。電話をしているようだ。シカンは耳を澄ました。井崎は万理の話をしていた。「ああ、万理は俺のマンションに行ったんだ。そこで捕まった」計算通りだという声を、確かに聴いた。「あいつはもう終わりだよ。ちょうどいい。VAは終わった。長谷川セレーネは、すごいタイミングで出たよ。何か事情を知っていたのかな。ああ、とにかく、これで、言われたとおりのことはした。精一杯のことはした。あとは、君が来てくれたら、それでいい。もう俺の側には。どんな女もいないから。これで影は全部消去しただろう?」

 シカンは、井崎に気づかれないように話の最後まで聞いた。そして、電話が終わると、そのままそっと自室へと戻った。五分以上待ってから、再び、ゲストルームへと向かった。

 廊下には誰もいなくなっていた。ゲストルームの戸を叩いた。井崎が出てきた。

 いきなり、扉を大きく開いたものだから、ベッドで横になっている常盤静香の姿が見えてしまった。掛布団は胸のあたりまでズレ落ちていた。彼女は裸でシーツに包まれていた。井崎はすでに服を着ている。

「入れよ」井崎は、朝から高圧的な態度だった。シカンも遠慮することなく入った。

「セトさんのこと、新聞に載ってましたよ」

「そうか。セトも捕まったか」

「前から知ってたんですか?」

「どうかな。セトのことはよくわからない。けれども、ずっと元気がなかった。何かを抱え込んでいるようだった」

「すいませんね。いきなり、お邪魔してしまって」

「いいよ。俺は、だいぶん前から、起きてる」

「常盤さんのことですよ」

 二人は、ベッドの方を見た。彼女はまだ目を閉じていた。

「出ましょうか?」

 しかし、井崎は、ここでいいと言った。「そう簡単には起きやしないよ」

 それでも、シカンは、外に出ましょうと言った。

「どうしたんだよ」

「さっきの電話、誰だったんですか?」

「さっき?」

「廊下で話してたでしょ。聞こえましたよ。大きな声でしたから。一度、来たんですけど、引き返したんですよ。女ですか。やっぱり。どうして?あなたって人は」

「その話か」

 シカンの頭の中には、再び、万理のことが立ち上ってきていた。万理は井崎のことが好きだった。その報われない想いを抱えながら、彼女は映画を撮っていた。シカンはずっと万理のことが好きだった。井崎を恨んだこともあった。だが彼は、万理を弄ぶようなことはせず、常盤静香と結婚した。男気のある奴だと思っていた。そう認めたときから、万理に対する想いは鎮まっていった。今は彼女に対する想いで、胸が掻き乱されこともなくなった。それなのに、とシカンは思った。

「万理を嵌めたんですか」シカンの声は、激高するほんの寸前だった。

「嵌めただと?人聞きが悪いな。俺は、ただ、万理の居場所を警察に伝えただけだ。一市民として、当たり前の行為をしたまでだ。あいつは脱走犯だぞ。俺のところに訪ねてきた。だから受け入れるふりをして、警察に電話をした。嵌めただと?もう一度、言ってみろ。叩きのめすぞ!」

 井崎の方が、先に怒鳴り散らした。

「さっきの女は、誰ですか」

 井崎はいらいらして、廊下の壁を蹴り始めた。

「うるせぇんだよ、いちいち。何でお前に言わなくちゃいけないんだよ。お前の女癖の悪さとは、比べものにならないくらい、こっちは、純情なんだよ!」

「ちょっと、大きな声を出さないで。常盤さんが起きてしまいますよ」

「常盤?関係ないね。どうして、俺の女のことで、彼女に関係があるんだ?ふぜけんなよ。お前は万理のことが好きだった。その万理は、俺のことが好きだった。そのことを今だに根にもっているんだよ!それ以外に、何の理由もない。お前だって、俺の女関係のことは、本当はどうだっていいことだ。そうだろ?」

 シカンは黙った。ゲストルームまで、いったい何をしに来たのか。自分でもよくわからなかった。セトのことを言いにきたのを、思いだした。

「セトさんのことですよ。話したいのは」

「俺には何の関係もない」井崎は、素っ気ない顔をして、シカンの顔を睨んだ。

 俺はもう、終わった奴には興味はないといった、冷淡な顔をして言い放った。

「そうでもしないと、俺はGのことで、胸がいっぱいになってしまう。すべて、あいつのことに繋がってしまう。だから、終わった奴に構ってる暇はない!」

「常盤さんも、そうなんですか?」

 井崎は、テラスの方に移動しようと言った。煙草を吸いたかったらしい。

「俺はあいつと別れるつもりはないぞ」

「当たり前じゃないですか」

「結婚したのだって、全然、間違いじゃない」

「そうですよ」

「それでいいじゃないか」

 井崎は、シカンに煙草を上げる仕草をする。シカンは一本もらった。

「誰なんですか?」

「お前な、静香が、誰とも付き合っていないと思ってるのか?その顔だと、まさに図星か。あいつには男がいるぞ。間違いなくな。俺の知ってる奴かどうかは、わからない」

 そう言って、シカンの顔を覗き込むように、見た。

「あるいは、お前の可能性だってあるんだぞ」

「ばかなことを」

「昨日の様子だと、君らが、恋仲であるようには見えなかった。しかし、今日を機に、ってことは十分にありえる」

「どういうつもりで、うちに来たんですか?」

「お前な、いくらなんでも、お前と静香を、くっつけようだなんて、そんなことじゃないぞ。俺は、ただ、こんな事件が頻発した都心の喧噪から、離れたかっただけだ。ただ、それだけだ。それ以外に、何の思惑もない。もう一つ、あるとしたら、今は知ってる者同士、気の交流がある物同士。近くにいたほうがいいってことだ」

「それなら、他にも、人を呼びましょうよ」

 シカンと井崎が振り返った。現れたのは、常盤静香だった。

「私は、わたしで、呼びたい人を、呼ぶから。あなたは、あなたで。シカンさんは、シカンさんで」

「今日の夜?」

「今から、呼ぼう」

 井崎はそう言って、電話をかけ始めた。シカンに耳打ちをした。「さっきの女だよ」

 シカンは、長谷川セレーネに電話をかけた。常盤静香もまた、電話をかけるために部屋へと戻っていった。お互い、誰にかけたのか。朝食の席でも、話題にはならなかった。誘った彼らが、いつやって来るのか。それもわからなかった。



 一時間後に、クリスタルガーデンにやってきたのはKだった。

 シカンは面識がなかったので、井崎の紹介で初めて認識できた。

「お前の知り合いだったのか」シカンは井崎に言った。

「そうだよ。彼は、Gフェスタの脚本を担当した。Gとは、ずっと、一緒に舞台の制作をしていた」

「初めまして」

「まだ、若そうだね」

「25です」Kは答えた。

「そうか。井崎は、このKくんを、呼んだのか」

「違うぞ」と井崎は言った。

「俺が呼んだのは、女だ。君だろ?」

「今、初めて会ったって、言ったはずだぞ」

「ということは」井崎は何度か頷いた。「静香か。常盤静香に呼ばれたのか?」

 井崎はKに訊いた。Kはそうだと答えた。

「お前、静香のことを知ってたのか。いったい、どこで知り合った?」

「ええ、ちょっと」

 Kは言葉を濁した。

 井崎は不可思議な顔をして、シカンの方を見た。

 シカンは応接間にKを通した。常盤静香が出迎えた。

「お久しぶりです」とKは常盤静香に言った。

「来てくれてありがとう」

「ご迷惑ではなかったですか?」

「ええ、こちらは、シカンさん。この家の持ち主で、映像作家の方です。そして、こちらが井崎さん。私の旦那です」

「旦那?静香さん、結婚してたんですか?」

「ええ。半年くらい前に」

 Kは戸惑いを見せた。「そうなんですか」

 四人はお茶を飲んで、この二日間の出来事について語り合った。

 さらに、一時間が過ぎると、再び玄関のベルが鳴った。シカンは席を外した。

 戻ってきたときには、女性を連れていた。

「おう、来たな」井崎は立ち上がり、彼女の元に近づいていった。

「こちらは、聖塚さん」そのときシカンは気づいた。玄関で見たときにはまるでわからなかった。しかし、その名前を聞いた瞬間に、あのカフェでの情景が蘇ってきた。あれは、Gフェスタの初日だった。当日券を買ってから、近くのカフェに入ったときのことだった。その隣で新聞を読んでいたのが彼女だった。そういえばそうだ。顔もそのときの彼女だ。

「僕たち、以前にも、お逢いしましたよね。ほら、カフェで。僕はあなたに新聞のことを教わりました。最近では新聞というのは、未来の出来事を掲載するようになったって」

 聖塚は、理解不能だという表情を、示していた。

「ほら、やっぱり、あの時の人だ。三日前のことですよ。覚えてないんですか?新宿のカフェで」

 聖塚の反応は鈍かった。だんだんと、シカンは、人違いをしているような気がしてきた。

 だいたい、玄関で見たときには、あのカフェで会った女性とはまるで結びつかなかった

のだ。

 単に名前に反応しただけかと思い、少し冷静になろうと試みた。数秒経つと、やはり

彼女とは初対面であるような気がしてきた。単に名前が同じなだけだ。いや、名前も同じ

ではなかったかもしれない。

「聖塚です」彼女はあらためて自己紹介する。

「彼女は、大学の四年で、ついこの前に卒業した。ええと、四月一日から、働くんだよな?僕は彼女がアルバイトをしていたレストランによく行っていて、それで、仲良くなった」

「初めまして。井崎の妻の静香です」

「奥さん?ああ、そうなんだ。井崎さんの奥さんか」

「常盤静香って、言います」

「苗字が違うんですね」

 よろしくと、二人の女は握手を交わした。

 よく見ていると、二人は、まったく目を合わせてなかった。

 シカンはただならぬ雰囲気を感じとった。

 五人は一通り、互いに自己紹介をし合い、ソファーに座り、お茶を飲み直した。

 そのあとは、共通の話題も特にないことから、気まずい空気が流れ始めた。

 そのとき、井崎が口を開いた。

「これで、全員そろったの?」

 シカンが立ち上がった。

「いや、まだ、あと一人。長谷川セレーネを呼んだんだけど」

「長谷川セレーネって!」

 聖塚が大きな声を上げた。「あの、セレーネ?すごい!」

「来れるって、言ってたけど」とシカンは言った。

「じゃあ、気長に待つか」井崎は、時計を見た。

「あ、そうだ。一つ訊いてもいいかな」

 シカンは、Kに声をかけた。

「Gフェスタの初日に、パンフレットを買ったんだけど、あれさ、どうして、三日目のプログラムが書かれてなかったの?三日間の公演だったはずでしょ?」

「ええ、そうですけど。載ってませんでしたか?・・・おかしいな。僕は、確かに、三日間の脚本を書いたはずなんだけど」

「三日目も、プログラムを、組んでいたの?」

「ええ、もちろんです」

「どうして、パンフレットには、載ってなかったんだろう」

「ほんとですか?でも、三日目の内容は、すでに決まっていましたよ。中止にはなってしまったけど」

 しばらくの沈黙のあと、Kは再びしゃべり始めた。

「え、いや、まさか、そんなことはないですよね。その運営側の誰かが、すでに、三日目の公演は流れることがわかっていた。誰ですか。誰が知っていたんですか?・・・そうか。そういうことだ。セトさんですか。僕は面識ありませんけど、今朝逮捕されたのは、知っています。雲中万理さん、共々。そうか、あの人たちは、爆破事件を起こした。ということは、運営サイドで、セトと繋がっている奴だ。彼があらかじめ、セトの行動を知っていて、だから、プログラムには三日目は載せなかった。二日目が、途中で終ってしまうことを知っていたから」

 Kは井崎の方を見て話していた。それにつられて、全員が井崎の方を見ていた。

「おいおい、どうしたんだよ。俺か?俺が何かをしたのか?」

「知ってたんですか?井崎さん」とシカンが問い詰めた。

「万理を売ったのも、あなただ。やっぱり、何かを知っているんですね」

「何だよ、おい、急に。K。どういうことだよ」

「どういうつもりなのよ。あなたは」

 ここで、常盤静香は、矛先を聖塚へと変えた。

「こんなに若い子。どう見ても、私よりは、五個以上、歳下じゃない。彼女面しちゃって。井崎の何なの?」

「お言葉ですけど」と聖塚は言った。「万理さんは、いらっしゃらないんですか?ここには」

「あなた、知らないのか」

 シカンは、万理が逮捕されたことを、聖塚に伝えた。

「そうですよね、井崎さん」

 シカンは、井崎に同意を求めた。井崎は頷いた。

「お前だって、どういうつもりなんだ?どうして、Kを知ってるんだ?」

 井崎は、常盤静香に訊いた。

「たまたま、カフェで知り合ったんですよ」Kが答えた。「僕が、Gフェスタの脚本を書いているときに、横に座ったのが彼女でした。それで」

「それが、きっかけで?それで仲良くなったのか?そんなことで、仲良くなれるのか?」

 五人は再び沈黙した。話しの焦点はまったくのバラバラだった。しかし、バラバラに分散してしまって、よかったのかもしれないなと、シカンは内心思った。

 そのどれか、一つに焦点が絞られていったら、それこそ、大問題へと発展してしまいそうな、そんな波乱含みの話題ばかりだった。

「けれど、みなさん、こいつは、万理を、警察に突き出したんだ!」

 シカンは、我慢しきれずに言った。話題をその一点に絞るかのごとく、シカンは、そう叫んだ。

「どうしたんだよ、お前も!みんな、ちょっとおかしいぞ!」

「これは、どんな集まりなんですか」聖塚が口を開いた。

「何かの縁だろう」

「何を企んでいるんだ、井崎」シカンは言った。

「お前はすべてのことに企みを加えている。よく考えてみると、必ずお前が一枚噛んでいる。お前が起点になっているか、あるいは、最後にお前が現れるか、そのどちらかだ。いつだってそうだ。お前を中心に、回っていると考えても不思議ではない。お前は恍けている。この場に及んでも。だがこの集まりが、お前の意図のもとで動いていることは明白じゃないか。俺はさっきから、必死でその意図を考えているよ、井崎。奥さんと恋人を鉢合わせて、何を起こしたい?しかも、そこに、Kくんまで加えて。俺だって万理を通じて、お前と深い繋がりがある。これは、お前のプライベートの暴露会なのか?いいかげんにしろよ。俺らを私物化するな。初めからこれが狙いだったんだろう?俺の家に来た目的だよ。常盤さんと二人で来るなんて、ずいぶんと、おかしな話だと思った。それは見せかけだったんだ。ここにお前の現在関わりのある人間を集めたかった。ただ、それだけだ!俺の家なら広いからな。それに、都心からは離れている。

 結局、お前は、いつだって、人を利用するだけなんだ!影でばかり動いている。そして、全体を操作しようとする。だがな、井崎。そんなことも、長谷川セレーネだけには通用しないぞ。俺らや、他の奴らには、通用してもな。それも、ほんの一時だ。それでも、その一事が、お前にとっては、大事なんだろ?井崎。答えろよ。何が終わった人間には興味がないだ?よくそんなことが言えるな、そんなことが。それとお前と関わった人間は、よく死ぬよな。Lムワがそうだった!そして、Gまでもが死んでしまった。長谷川セレーネも本当は殺したかったんじゃないのか?だが、予想外にも生き残ってしまった。お前は長谷川セレーネを恐れているはずだ。お前の支配する世界では、彼女は思い通りには動いてくれない。そうだろ?だから、俺は、今日、彼女を呼んだ!」

 シカンはずっと、溜めこんでいた想いを吐きだした。

「お前、そんなことを思っていたのか?俺のことを、そんなふうに?馬鹿じゃないのか。なんて、ユーモアのない妄想なんだ!俺はGを失ったんだぞ。あいつと俺は、ずっと特別な関係だったんだ。深い友情で結ばれていたんだ。お前に何がわかる?Gをこの世で羽ばたかせるのが、ほとんど唯一の目的だといって、過言ではなかったのに。お前に、何がわかるんだ!」

「常盤さん!こんな男とは、早く別れるべきです!」

「あなたは、前に、こんなことを言いました。あなたがたは、お似合いだと」

 常盤静香が、口を開いた。

「言いました。確かに、言いました」シカンは言った。

「俺も、何度も聞いている」と井崎が言った。

「それは事実です。今でもそう思っている。でも、それは、井崎。お前が何の企みも持たずに、自然体でいるときの話だ!お前の人間性は、それこそコロコロと変わるよな。本当はいい奴なんだろう。でも、何かがあると、お前には黒い雲がかかり始める。考え事をしているときだ。お前は真っ黒な腐臭を放っている。確かにな、クリスタルガーデンに来た昨日の時点では、お前は普通だった。常盤さんとも仲がよかった。だが、夜も更け、そう、二人がプールに入っていた時くらいからだ。だんだんと暗雲が立ち込めてきた。案の定、日を跨ぐと、俺の予測は当たった。胸騒ぎを感じて、ゲストルームへ向かうと、お前はさっそく他の女に電話をかけていた。常盤さんを放置して」

「誘ってきたのは、常盤さんからです」

 そのとき、Kが僅かな沈黙の隙間に発言した。そのタイミングに、皆は同時に、Kを見てしまった。

「僕が声をかけて親しくなったんじゃない!」Kは自分には非がないことを説明しようとしていた。

「お前からなのか?」井崎は常盤静香に訊いた。

「別にいいじゃないの」

「誰が悪いって言った?構わないよ。お前が誰と親しくなろうが。こうしてみんなの前に公然と連れてこようが」

 常盤静香と井崎は、今にも戦闘状態になろうとしていた。

 Kは聖塚の方を見た。二人は見つめあっていた。シカンだけが仲間外れになっているかのように、一人だけ浮いてしまっていた。

 男女のペアで、一人だけ当てはまらない自分を持て余していた。

 長谷川セレーネはいつ来るのか。けれど、この中に彼女がやってきたら、一体どんな事態になるのか。それでも早く来てほしかった。

「私、帰ります」

 口を開いたのは聖塚だった。

「どうも、私は、この場には最もふさわしくないようですから。あなたたちの誰一人として、よく知らない」

「ちょっと、待てよ」井崎が言った。「君は、重要な人だ。君自身もそうだし、この、集まった人たちの中でも」

 聖塚は立ちかけていたが、その言葉に、何故か再び腰を落ち着けた。

 そして、誰かがこの気まずい空気を払拭させるため、テレビをつけた。ニュースに繋がった。取材のカメラは裁判所の前にいる。雲中万理の裁判が、すでに始まったということだった。

「もう、始まったの?」

 常盤静香が立ち上がった。

「だって、まだ、二日前の出来事・・・」

 早くも、容疑が確定したということだった。

 しかし、反対に、セトの方は今だに容疑は確定しておらず、裁判にかけられる様子もないという。明らかにセトと警察とが、何らかの司法取引をしている。シカンはそう思った。

 万理にすべてを押し付けたのか?井崎の方を見た。彼は食い入るようにテレビ画面を見ていた。他のみんなもそうだった。

 万理の刑は、裁判の進み具合にもよるが、早ければ数日後に行われるということだった。これだけの死者を出したのは前代未聞であり、行方不明も含めると、数万人単位にも上っている。一人の人間がこれほど多くの人間の存在を消すというケースはなかった。即刻、死刑であり、都心の一番目立つ場所、広場で、公開で行われるということだった。

 シカンは思わず、右手で口を塞いでしまった。

「おい、井崎。どういうことなんだよ。なあ」

 シカンは、井崎の肩をつかみ、激しく揺らした。

「何が起こっている?グルだ。お前も、そこに、一枚噛んでいるのか?首謀者なのか?誰がどう見ても、彼女は嵌められているじゃないか!」

「なあ、シカン」井崎の口調は急に、気味悪くも落ち着きを放っていた。

「シカンよ。誰かが、引き受けなければいけないことなんだ」

 言ってる意味が、シカンにはわからなかった。

「別に、俺でもいい。君でもいい。誰でもいい。だが、俺や君が捕まったとして、それで説得力があるか?」

「説得力?」

「すべては、説得力の問題なんだよ!誰かが引き受けなければいけないとき、それを引き受け、清算されるときに、皆がその事実を受け止められる、そんな人物がその時引き受けるべきものを身に纏う必要がある。万理はその役目を担った。あいつは十分に活躍した。その活躍が、彼女のどんな行為にも、説得力を生みだすことになった。俺や君じゃ、駄目なんだよ!」

「井崎、何の話をしているのか、全然わからない」

 シカンの訴えに、井崎は答えなかった。

「井崎、お前の企みの意図がまったく理解できていない、今、お前が言う話も、まるで俺の中では、意味をなしていかない」

「いいから、聞いてろ!今はわからなくても、いずれは、お前の中で俺の言葉が蘇ってくる。俺は何も企んではいない。いいか。今日の集まりだって、自然とこういう形になった。俺を介して、こんな状況にはなったかもしれない。でも、俺は、主導権を握ったことはない。主導権はいつだって俺の外にある」

「淋しい話だな。お前は、操り人形にでもなったつもりか?」

「そうだよ、その通りだよ、シカン。俺はずっと、そうなんだ。もうたくさんなんだ。そんな現実には。俺はな、そう、お前の言うとおり、企みの連続の人生だった。人の心を操作していたこともある。君に対しても。静香に対しても。だが、結局、その企みさえもが俺の中から生まれたものなのかどうか。今となっては、すべてが怪しい。俺はすべてを清算したい。わかってくれ」

「それで、万理を売ったのか?」

「万理の話は、もういい。万理は本当にあの容疑通りなんだ。あいつは爆発物を設置しようとして、現行犯で捕まった。これはよかったんだよ。もし成功していたら、あいつはさらなる爆発物の製造、設置に邁進していってしまっただろうから。出鼻がくじかれてよかった」

「セトさんだって、同じでしょう。むしろ、セトの方が、たちが悪い。彼は本当に設置したんでしょ?だいぶん、前に・・・」

「そうらしいな。だが、決定的な物的証拠が残ってないのかもしれない。彼は釈放されるかもしれない。爆発物に関連する、あらゆる証言をすることで、彼は一つの罪が免除されるかもしれない」

「そんな」

「万理は確かに法を犯したんだ。その前から、黒い噂は絶えなかったが、彼女は確かにそういう部分があった。映画監督として。華々しく作品を制作する過程で、その黒い部分は別の何かに繋がっていった。その結果が、これだ。彼女の制作が途切れてしまったことで、その黒い繋がりも、水面下に収まってはいられなくなったのだろう。噴出していった。一気にね。大爆発だよ。そっちの方もね。被害を受けるのは、我々だ。ここで食い止めなくてはいけない」

 みんなは、黙って聞いていた。

 まったく事情の知らないKや聖塚までもが、真剣に聞いていた。

「俺はまだ、収まったと思っていない」追い打ちをかけるように、井崎は言った。

「これはまだ、前哨戦に過ぎない。本当の爆発が来る、その誘い水にすぎない気がする。都心からは離れたほうがいいという危機感。これは、本当だ。君の家が、ここ数日においては、最大の避難所になるような気がした。だから、俺は、ここに自分に関わりのある人間を集めたかった。生き延びたかった。それだけは本当だ」

 彼以外の人間の沈黙は、著しく濃くなっていった。



 長谷川セレーネは、シカンからの電話を受け、クリスタルガーデンへと向かっていた。

 三日目のGフェスタが中止になったことで、時間を持て余していた。

 長谷川セレーネは、デビューしてからほとんど休暇をとってこなかった。この日は久しぶりだった。しかし、昨夜の爆発による心の高ぶりはまだ続いていた。こんなときこそ、仕事で気持ちを紛らわせたかった。シカンという男の名前は知っていたが、面識は一度もなかった。いきなり電話が来て、自宅に来てほしいと言われても、普段なら断っていた。だが、井崎の名前が出てきたことで、幾分警戒心は薄れ、しかも何より一人でいたくはないという想いが、増していった。それでも、長谷川セレーネの足は、なかなか向かってはいかなかった。なるべくなら時間をかけて、遠回りをし、ときにクリスタルガーデンとは逆の方向にタクシーを走らせたりもした。けれど妙な引力が発生しているのか。通行止めで、車は迂回を繰り返した。気づけば、クリスタルガーデンの近くまで来てしまっている。

 長谷川セレーネは、自分が、この爆発に間接的に関わったのではないかと思っていた。

 私の公演の日に、その最中に、その場所で、起こっているのだ。関係がないわけがない。雲中万理という映画監督が逮捕され、その彼女の所属事務所、つまりは、私と同じであったが、その代表であるセト社長までもが、逮捕された。ここにも、事件の関係者が非常に近いところにいる。私は、そのVAを、セトが逮捕される寸前にやめていた。あまりに出来すぎたタイミングだった。しかし、長谷川セレーネは、何の計算もしてなかった。セトの事情は、何も知らなかった。自分の周りで次々と起こる出来事を、気味悪く思った。その原因は、一体、どこにあるのだろう。誰かの陰謀が渦巻いているのか。それとも、単なる偶然なのか。あるいは、私自身が知らないところで、この自分が加担していることなのか。

 クリスタルガーデンに招待されたのは、私だけではないという。

 長谷川セレーネは、妙な胸騒ぎを感じていた。一体、誰が集まっているのだろう。シカンと井崎は知っている。他には、いったい、誰が。今度の爆発未遂と、爆発事件に何か関係のある人たちなのでは。本当は、その彼らが実行したのであって、万理やセトは無関係なんじゃないのか。そういう気さえした。

 これが、もし、私とGを狙ったものだとすると・・・、長谷川セレーネは考えた。

 背筋が冷たくなった。私が生き残ったことを、彼らは知っている。しくじったのだと。それで、今度は、あらためて私一人を呼ぶ。そして、殺害する。長谷川セレーネはGフェスタの公演中に、爆破事件に巻き込まれて死亡した。そういうことにしてしまう。何の問題もない。私は二日前から今日にかけて、ほとんど誰にも会っていない。セトと井崎、それくらいにしか。そして、セトは逮捕された。私は、この数日間、ほとんど街のどこにも、明確な痕跡を残していない。都心から離れた郊外で、人知れず殺されたとしても、誰も特には気にとめない。

 長谷川セレーネは、タクシーを降りてからも、そんなバカげた想像を繰り返していた。

 クリスタルガーデンに着いてしまった。

 見上げたその豪邸に、長谷川セレーネの心は躍っていた。さっきまでの不安な気持ちは吹き飛んでしまっていた。自分がずっと求めていた家だった。夢でも見たことのある、まさにその家とそっくりの外観だった。驚きと共に、この家が自分のものになるのは、時間の問題だと、長谷川セレーネは確信したのだった。門の前で、呼び鈴を鳴らした。

 何の反応もない。もう一度呼ぶ。インターホンは鳴るのだが、そのあとで人の声はしない。門が開く様子もない。長谷川セレーネはずっとその場で待っていた。すると、正門ではない横の勝手口のようなところから、一人の中年の女性が出てくる。

「どなたかな?何か、用ですかいな」

 今は私しかいないと、中年の女は言った。

 ちょうど、帰るところなのだと言う。この家のお手伝いをしていて、今日は、仕事を終えて帰るのだという。さっきまでは、たくさんの人がいたのだけどと、彼女は言った。ちょっと前に、皆、外に出かけていった。そう言って、中年の女性は長谷川セレーネの前から去っていった。

 その後、何度か呼び鈴を鳴らしたが、何の反応もない。

 やはり、家には誰もいないようだった。

 シカンや井崎たち一行は、ほんの少し前に、外に出て行ってしまった。中年の女性の言葉を、そのまま取ればそういうことだった。私を呼んでおいて出ていってしまった?来るのが遅かったからだろうか。

 長谷川セレーネは帰りかけた。だがやはり、この豪邸の中が気になって仕方がない。

 どんな内観なのだろう。部屋はいくつあり、どんな造りになっているのか。

 シカンさんの自宅だと聞いていた。ローンを組んで買ったのだろうか。それとも現金で?ずっとここに住むつもりなのだろうか。しまったと、彼女は思った。

 さっきのお手伝いさんに、事情をちゃんと説明しておけばよかった。家の敷地の中に入れてもらえたかもしれない。彼女はすぐにシカンと連絡をとり、中へと入れてくれたかもしれない。

 長谷川セレーネは、シカンにメールしてみる。だが、返ってはこない。

 井崎に電話をしてみたが、彼は電波の届かない場に所にいた。

 陽は沈み、だんだんと、空気は冷えてきている。このままずっとここにいるわけはいかない。

 ここを出ていった一行は、一体どこに向かったのか。都心に何か用事でもあったのか。いつ戻ってくるのか。私は待つべきなのだろうか。井崎と、今後の芸能活動を話あう必要もあった。



「遅いな、セレーネ」

 シカンは、何度も時計を見ていた。

 すでに誰も口を開かなくなってから、数十分も経っている。

 シカンは、長谷川セレーネの到着、ただそれだけに、神経を集中させていた。

 その焦燥感に耐えられなくなっていった。彼女は来ない。早々と結論付けてしまった。彼女の到着を見切った。みんなに外に行かないかと、提案しようとしていた。

 そのとき、ふと、地下室のことを思いだした。ここを購入してから、その地下室を見つける経緯を、いつのまにか人前で話していた。その地下室は、現れてはまた消える、不思議な空間であると。

「おもしろそうじゃない!」

 常盤静香が乗ってきた。

「今日は、どうなの?」

 聖塚も、姿勢を前のめりになっていた。

「これから行きましょうよ」

 常盤静香は立ち上がった。

「どこなんですか」

 Kは先頭をきって、移動をし始めた。

 井崎はずっと黙ったままだったが、彼もしぶしぶ、皆の後からついていった。

 シカンとKは廊下を進み、木でつくられた重厚な螺旋階段を、降りていく。

 その後から、女性二人が続き、最後尾に井崎が付く。

 円形のホールが現れた。それに続く地下への道は、どこにも存在しない。

「ここからどうすんだ?」井崎がシカンに訊く。

「ないな」とシカンは呟いた。「現れるときと、現れないときが」

 誰からも返事はかえってこなかった。仕方なく、シカンが後を続けた。

「今まで、二回か三回。さらなる、階段が現れた。どういう仕組みなのかは、わからない。でも、現れる。確実に。地下には、別の住人がいた。国も時代も、こことは異なっていた」

 誰も何も、答えようとしなかった。

 井崎が沈黙を見かねて、口を開いた。

「続けろよ」

「おそらく、近代に入る頃の、フランスだと思う。ここは郊外にある城だった。田園風景が拡がっている。領主の男が居て妻がいた。お手伝いさんも、何人かいたと思う。二人は首都で始まった大学生の若者の暴動の話をしていた。これが革命に繋がる狼煙として、いつかは、その戦禍がこの城にまで及ぶことを危惧していた。本当に俺は、その場面を見た。彼らは、夕食を取っていた」

「それで、二度目は?」

「映画館のようなスクリーンのある部屋になっていた」

 井崎は呆れた顔して、シカン以外の人の顔を見た。

「戻るぞ」井崎が皆を、居間へと誘導しかけた、そのときだった。

「おい、あれは、何だよ」

 井崎は、円形のホールの異変に気づいた。

「ほら、あの角のところ。ほら。もっと、奥行があるように見える。そう、それだ」

 そう言って、彼は、一人で、廊下の突き当たりをさらに奥へと行った。

「おい」彼の声が、ずいぶんと遠くから聞こえた。「いつのまにか、その先があるぞ」

 そして、階段が現れた。

 シカンは走って、井崎のもとに向かった。

「そうだろ?」

「さっきは、確かに、なかったのに」

 二人の男は、二人の女性とKを残して、先を急いだ。階段を降りきった。

 シカンは、何かが現れるのを期待した。

 これまでとは違う場面か。それとも、前に見た場面の一つか。

 現れたのは、劇場だった。

「お前の言うとおりだ!」井崎は言った。

 シカンは少し失望した。もう、あの時代錯誤な光景には出くわさないのかもしれない。

 井崎は階段を駆け上がり、三人に報告しに行った。四人は慌ただしく、現れた劇場の中へと戻ってきた。

「見ろよ」

 井崎は、大きく両腕を広げた。

「すごいわね、シカンさん」

 常盤静香は、感激していた。

「こんなものまで、併設されていたなんて。自宅のシアターとは、全然レベルが違う。劇場並みじゃないの。席も二百以上はある」

 聖塚も唖然としていた。「ねえ、何か、見ましょうよ」

「何かって」

 シカンは、フイルムの回し方も知らなかったし、そんな装置がいったいどこにあるのかもわかってなかった。

「あそこね」常盤静香が、客席の上部を指差した。

「あそこに部屋がある。きっと、映写機か何かがあるのよ」

 シカンは、そこに向かわされた。ドアを開けると、確かに、個室のビデオルームになっている。

 ビデオデッキが、複数置かれていた。その一つの電源を入れてみた。作動した。

 そのとき部屋の外から再び常盤静香が声を上げた。

「シカンさん、こっちには、ビデオが何本も置いてあるわよ。ここから選んだらどうかしら?これ、あなたが、今までやった仕事の記録じゃない?NHKのドキュメンタリー番組もある。これが何本もある。これにしましょう。今、持っていくから、はい」

 常盤静香は、有無も言わさずに、ビデオデッキに突っ込んでしまった。すると、スクリーンには映像が映し出される。裁判所の光景が映し出された。井崎とKはだいぶん離れて、すでに席に座っていた。聖塚は前の方にいた。裁判所の法廷の様子が映し出されている。

 こんな映像の仕事など、したことはあっただろうか。

 一人の女が、被告人席に俯いて座っている。罪状が読み上げられる。

『被告は、エリア151との間接的な関係を、長年に渡って続け、エリアからずっと指示を受け、時限爆弾の設置に長い期間に渡って、関わり続けた。被告は自分が何をしているのかの認識を、ずっと持っていたものの、積極的に解除するようなことはなく、積極的な加担ではなかったにしろ、エリアの思惑に貢献し続けた。そして、長い期間の積み重ねによって、ついに、爆発は起こった。現在、他の実行犯についても、追跡中ではあるが、その一人目の人間として、罪は非常に重いものと考えられる。参考人として事情聴取を続けたいところだが、あまりにも被害者の数が大きいため、即刻、刑を下さねば、世の中の混乱は収まりそうにない』

 被告人が顔を上げた。

 その顔に、劇場内にいた五人の誰もが、目を疑った。雲中万理その人だった。

 シカンはビデオテープのケースを見た。NHKのドキュメンタリー『エリア151』と書かれたタグは貼られていたが、これは俺がつくった番組では全然ない。

 そのあとも続いた罪状認否の中では、この爆破の罪にあたる、都市の崩壊が、何と、二日前の出来事とそっくりであることに、誰もが気づいた。

 この裁判が、まさに今、どこかで行われているかのような錯覚がした。

 しかし、映像の端には、撮影された日時が刻印されていて、それはもちろん、今日ではない。一年も前のことであった。これは、万理が、監督と主演を務めた作品なのだろうか?

 過去に劇場公開された作品を思いだしてみる。だが、これは見たことがない。未発表の作品なのだろうか。

 そう考えたとき、万理はまだ無数の作品を公開することなく、どこかに溜めこんでいるような気がして仕方なくなった。そうだ、そうに違いなかった。もしかして、誰かが、その作品を狙っているんじゃないのか。彼女の作品を公開し、その利益を横取りしようとしている人間がいるのではないか。万理が逮捕されたことをいいことに。そのあいだに。

 もしくは、その作品が公開されるのを嫌っている、誰かが。発表される前に潰しておく必要があった。井崎は、このことは知っているのか?シカンはそんなことを考えた。

 万理は裁判で死刑の判決を受け、裁判長に誘導され、法廷を後にしようとしていた。

 万理の周りには、他に五人の男達が取り囲んでいた。六人が万理の周りに菱形状に配置されていた。万理は法廷を後にする。カメラの映像には続きがあった。廊下には別のカメラが待機している。万理は廊下をまっすぐに進んでいく。長い長い廊下だった。

 この映像はまだ編集作業がなされていない。こんなにも無駄に長い、ただ歩いているだけの映像が続いていった。

 そういえば、音声がいつのまにか、消えていた。ビデオデッキをチェックしてみたが、機材の問題ではないらしい。映像そのものから、音が抜け落ちていたのだ。

 シカンも、最後部の座席に腰掛ける。



「長谷川さんじゃない?」

 クリスタルガーデンから少し離れた場所に移動したときだった。

「そうでしょ。長谷川さんよね」

 長谷川セレーネはぎくりとし、その透き通る声の主の方に振り向いた。初めは無視しようと思ったが、その声の持つ響きは、ただ者ではないような気がした。そこには美しい女性が立っていた。歳は自分よりも少し上のような気がする。こんな綺麗な女性は久しぶりに見た。長谷川セレーネは自意識過剰ではなかったが、客観的に見て、自分より美しいと思う女性に出会うことはほとんどなかった。だが、目の前の彼女は違った。

「やっぱり、そうね。実物はさらに素敵なのね」

 あなたの方がと長谷川セレーネは心の中で思った。けれど、どこかで会ったことのある女性だった。しばらく考えていたが、どうにも思いだすことができない。

「失礼ですけど、どなたですか?」

「私は、以前、といっても、だいぶん昔の話ですけど、女優をしていたんです。北川裕美と言います」

 その名前に、長谷川セレーネは衝撃を受けた。自分がまだ十代の頃、憧れていた芸能人の一人だった。彼女のドラマを見て育った。あんなふうになりたいとずっと思っていた。

応援していましたと、長谷川セレーネは言おうとするのだが、全然声にならない。

 長谷川セレーネは会釈をし、右手を差し出した。

 北川裕美は、その手を両手で包み込むように、握った。

「どうしてこんなところに?大変だったわね。聞いたわよ。爆発事件のこと。あなた、公演をなさっていたって。よく助かった。強運よ」

「北川裕美さん」

 やっと、声に出すことができた。

「北川さん、わたし、ずっと小さい時から・・・」

 そこでまた、声が詰まった。

「ごめんなさいね。今は女優をしてなくて。していれば、あなたとも、会う機会があったでしょうに。引退して、だいぶん経つの」

「あ、でも、この前、テレビであなたのことを・・・」

「画家になってね」

 そうだった。彼女の記者会見を見たことがあった。

 長谷川セレーネは思いだした。

「どうしてこんな所に」長谷川セレーネは呟いた。「まさか、あなたも?あなたも、クリスタルガーデンに?」

「クリスタルガーデン?」

「ええ。すぐそこにある、豪邸のことです。私はそこに呼ばれてまして。今から行くところなんです。あなたもどうですか?」

 思いもよらない提案をしていた。

「その、お忙しくなかったら」

「私ね、今から、アトリエに行くところなのよ。今日中に描かなきゃいけない絵が、たくさんあって。お誘いはうれしいんだけど」

「ごめんなさい、いきなり。そ、そうですよね。失礼ですよね。でも、わたし、舞い上がってしまって。ずっと憧れていたんです。この世界に興味を持つきっかけが、あなたでしたから。こんなところで会うなんて。ほんとうに信じられない」

 長谷川セレーネの声は上ずっていた。

「ありがとう。うれしいわ」

 北川裕美は、穏やかな表情で微笑んだ。

「本当に綺麗よ、あなた。私とは、比べ物にならないくらいに。あなたはきっとすごい女優になる。私はなれなかったけど」

「そんな」

「あなたなら、きっとなれる。今日、実際に、あなたの顔を見て確信した。あなたは、大丈夫。このまま真っ直ぐに突き進みなさい。わたしのように途中でリタイヤすることもない。あなたはこの世界で、今のままのあなたを貫きなさい。最近、あなたは自分の中で、何かとても大事なものを掴んだんじゃないかしら?そういう顔つきをしてる。もう大丈夫よ。わたしね、デビューしたときから、あなたのことをずっと見てるんだけど、最初はずいぶんと心配していた。この子、やっていけるかしらって。何がしたいのだろう。ただ、いいように扱われて、ちやほやされて、爆発的な人気が出て、それでそのあと、どうなっちゃうんだろうって。ずっと見守っていたの。でも、実際のあなたを見て安心した」

 北川裕美は、自身のキャリアを道端で話始めていた。ティーンネイジャーの女優として、活動していた時期、結婚して、作家の妻となり、専業主婦をしていた二十代の半から後半にかけてのこと。三十代になり、画家となり、世の中に復帰したこと。夫の死。これからの展望など。彼女は包み隠さず、すべてを長谷川セレーネに話していた。

「立ち話でごめんなさい」

 北川裕美は言った。

「あなたを見ていると、とても他人事のようには思えなくて。あなたの舞台、見に行けなくてごめんなさい。でも、今のあなたの表情からは、何をしてきたのかがわかる。だから、何度でも言うわ。あなたは、大丈夫。このまま進んでいきなさい。いいから。何も言わなくていいから。何があったのか。私に説明する必要なんてないから。きっと辛いこともあったのでしょう。悲劇的な事故、事件だったんですもの。私もテレビで見ていた。あなたをはじめ、わたしたちは、今、非常に不安定な時を過ごしている。そわそわとしていていて、落ち着きがない。またすぐにでも、非常事態を有する何かが起こってしまうかもしれない。警戒心が緊張感を生んでいる。その目に見えない雰囲気のようなものがね、私をまたさらに制作へと向かわせるの。だから、ごめんなさい。あなたに付き合えなくて」

「北川さん」長谷川セレーネは、彼女を呼び止めた。

「今後も、会えますか?私たち」

 北川裕美は振り返った。離れ始めていた彼女は、長谷川セレーネのいる場所まで戻ってきた。

「大丈夫。またきっと、会えるわ」

 そう言って、北川裕美は連絡先を教えることなく、長谷川セレーネの頭を何度か触り、そして去っていった。

「シカンという名前の、映像作家をやっている男性の家なんです。井崎さんという方も、来ていて。あとは誰が来るのかわかりません」

 北川裕美に声は届いているはずだったが、彼女は再び振り返ることなく、戻ってくることもなかった。



 長い廊下を抜け、万理は外へと出た。そこは、四方を建物に囲まれた広場だった。中央には、太くて高い柱が一本聳え立っている。何かの記念碑なのだろうか。あっと、シカンは、この光景に思いあたる節があったことに気づく。まさに、このクリスタルガーデンの地下で見た、城の時代に違いなかった。郊外ではない、革命の狼煙が上がった都会のど真ん中であった。

 確かにこの女性は雲中万理だ。だがどう考えたらいいのだろう。今まさにこの映像が生中継だという概念は、完全に崩れ落ちた。背景がまったく違う。だとすれば、これはやはり、万理がこれまでに撮っていた未発表の映画だ。未発表というよりは、未完成なのかもしれない。お蔵入りしたのか。いつか世に出すつもりであったものなのか。どうしてこんな場所に紛れてしまっているのだろうか。そもそもこれは、作品なのか。何なのか。そしてその映像をこうして、何の繋がりだかわからない五人が見ている。あまりに不思議な光景だった。

 シカンはそうして俯瞰しながらも、映像を食い入るように見ていた。この広場はいったいどこなのだろう。万理はロケに行ったのか。この映像がどのくらい続くのか。全然わからなかった。

 シカンはこの場面が、以前どこかで見たことのあるような気がして、悪寒が走った。俺は結末を知っている。シカンは強くそう思った。駄目だ。この先を続けては駄目だ。急にそんな気持ちになっていった。止めなくては。今すぐに止めなくては。どこかに走り出したい気持ちを抑え、これはただの映画なんだ、フィクションなんだと心を落ち着けた。

 万理は、群衆の前で首を切り落とされる・・・。

 そう思った瞬間、シカンは、自分の首に激痛が走ったことを知る。まるで、映像の中の万理の恐怖を、自分が代わりに受け取っているみたいだった。すると、万理の側に軍服姿の男が一人、万理と同じように手足を鎖に繋がれながら、数人の男に連れてこられる。軍服の男は万理を差し置き、最初に断頭台へと上がらされた。そして男の首は吹っ飛んだ。万理の近くに首は落ちた。万理はうな垂れた頭を、少しも動かそうとしなかった。血が噴出し、万理の衣服の裾を汚した。

 ここで、映像の音声は、少しのあいだ復活する。群衆の歓喜の声が上がった。

 その光景が、しばらく続く。万理はあいかわら俯いたままだ。音声は再び途切れる。すると群衆は、その軍服の男の処刑を見届けると、次々と広場から離れ始めた。万理を連れてきた男達の姿も、すでになくなっている。万理は完全に広場に置き去りにされていた。

 シカンは、自分が思い描いた場面が訪れなかったことに、ほっとした。逆に、不条理な憤りをも感じた。万理は、完全に一人ぼっちで広場にいる。首のない男の遺体は、片付けられ、万理の前には血だらけの頭部だけが転がっている。

 万理は立ち上がった。男の頭部を見下ろし、両手で持ち上げた。

 万理はそのまま当てもなく歩き始めた。映像はここで途切れる・・・。

 やはりどう見ても、未完成な、ただのシーンを撮ったものだった。

 いったいどんな映画に使おうとしたのか。構想はすでにあり、撮影は始まり、その中の一つのシーンだったのか。もしかして新作だったのだろうか。

 この次に発表するための作品を、すでに、行方不明と報道されながらも地道に制作していたのだろうか。


 フイルムは完全に終了し、画面は黒い状態のままが続いていく。

 常盤静香は席を立ち、最後部にいたシカンの元にやってくる。

 シカンは個室のビデオルームへと向かい、場内の電気をつける。ビデオテープをデッキから外に出した。

 常盤静香を含め、他の三人もすでに集まってきていた。

「お前が撮ったのか?」井崎が訊いてきた。

「いや、違う。自分で撮ったんじゃないのか、彼女が」

「そうか、お前じゃなかったのか。だとしたら、俺の中では、すべての辻褄があったのにな。お前は、休業宣言をしてこの豪邸を買った。だが表向きは女と遊んでばかりいるように見せかけて、実は映像の制作を始めていた。それが映画に繋がるのかどうかはわからない。でも、とにかく制作を始めた。雲中万理も、表向きは、行方不明ということにしておいて、実は君の映像作品に協力していた。二人は極秘に会っていた。撮影もしていた。それが、この映像だ」

「残念ながら、そんな事実はない」とシカンは答えた。

「そうだよな」井崎は納得した。「じゃあ、これは、万理が自分で撮ったものだ」

「普通は、そう考える」

「お前は、別の可能性を見ている」

「わからない。でも、二日前の出来事に、実にそっくりだと思わないか?爆破未遂で、彼女は逮捕拘留させられた。そして、裁判。それに続く、刑の執行。俺はてっきり、今の万理を生中継した、そんな映像だと勘違いした。勘違いしそうになった。それを押しとどめてくれたのは、もちろん、この映像の背景だ。これは、現代の風景ではない。俺たちがさっきまでいた都会の中心部ではない」

「他に何か映像はないの?」聖塚が訊いてきた。

 シカンは、他のビデオテープのラベルを見た。そして、ビデオデッキに入れた。だが、どれも再生することはなかった。スクリーンは黒いままだった。そのうち、照明も落ちなくなり、そろそろここは出ようぜと井崎は言った。

「気味が悪い。気分も悪くなってきた。この地下は酸素が足りないな。出るぞ」

 それに同意したKと二人で、さっさと席を立ち、出て行ってしまった。

 女性二人もその後に続いた。シカンもまた仕方なく、階段を登り、上階のホールへと戻った。五人は応接間へと入った。

「あの男」と井崎が言った。「首が吹っ飛んでたな。セトに似てなかったか?」

 その言葉に、シカンは、再び衝撃を受けた。

 あまりに軍服ばかりに目がいってしまったために、顔をよく見てなかった。

 そう言われてみると、確かに、あの顔は、セトのような気がしてくる。

「どうだ?静香」

「わたしには、よくわかりません」

「他にセトのことを知ってる奴は、いないのか」

 長谷川セレーネはまだ来ないのかと、シカンは思った。

 セトもあの映像に協力していたのか・・・。ということは、事情を知っていた。

「もしあれが、セトだったとすると、罪をかぶるのは、セトだ。万理じゃない。万理は解放される。そうだろ?」

 井崎の言葉に反応する者はいなかった。

 聖塚はテレビの電源を入れた。

 ニュースに救いを求めるように、チャンネルを変えている。

 その願いは叶えられる。まさに、雲中万理の裁判速報だった。

 映像は放送できないですがと、キャスターは前置きを言い、彼女が処刑されたことを伝えた。今だに立ち入り禁止になっている有楽町界隈だったが、その近くの大きな交差点の一つで執り行われたという。数多くの爆発事件の被害者家族が集まり、また事件に関係のない人々も多数集まったという。雲中万理被告の頭部が地面に転がった瞬間、大地は揺れんばかりに興奮した人々で沸き返ったという。意気消沈していた人々の心は躍り、生命力が再び動き出したのを。取材陣は目の当りにしたらしかった。

「どう思う?」

 井崎はシカンの顔を見た。

「狂ってる」とシカンは言った。「世界は狂ってる。こんなことが、許されるわけがない。起こるわけがない。何から何まで、すべてが、出鱈目だ!出鱈目の世界に俺らは今迷い込んでしまった。早く抜け出そう。こんな場所からは」

「仮にそうだとしても、どこにいく?どこからが、出鱈目の世界になっている?」

「そうよ。どこからよ?」常盤静香も、追い打ちをかける。

 シカンは、長谷川セレーネのことを想った。

 まるで、彼女さえ来てくれれば、出鱈目な世界からは抜け出せるとでも、いうかのように。

「もう一度、ちゃんと考えましょ。どこからが、狂ってしまったのか」

 常盤静香は、聖塚とKに向かって、そう言った。

 シカンは居てもたってもいられず、応接室を出ていった。

 再びエントランスホールを経由し、地下へ繋がる階段を探した。だが今はもどこにもなかった。あのビデオルームのテープに手掛かりがあるとしか思えなかった。シカンはホールでうろうろとしていた。階段は現れようとしない。シカンは耐え切れずに、応接室へと戻る。

 四人は妙に落ち着いていた。

 どっしりとソファーに体をもたげ、Kにいたっては、目を閉じて寝ているように見えた。

 女性二人も、食事の後のデザートを待っているような表情を浮かべている。

 井崎も、不合理なことは何も起こっていないという、余裕にも似た雰囲気を醸し出している。

 浮ついた心になっているのは、自分だけのような気がした。

 シカンは努めて、長谷川セレーネのことは考えないようにした。

 彼女が来ることはない。彼女に救いを求めても無意味だ。とりあえず今は、この五人で事態を受け止め、状況の変化に対応するしかない。シカンは諦めの境地で、自分もソファーへと身を投げる。ゆっくりと深い呼吸を繰り返し、だんだんと意識はまどろんでいった。そしてまさかとは思ったが、そのまま首は、何度もコクリと脱力してしまい、今にも記憶を失ってしまいそうになった。



 北川裕美との邂逅からはまだ数分しか経ってなかった。長谷川セレーネは呆然として、道端に立っていた。蜃気楼のように消えてしまった彼女の姿を、いつまでも思い返していた。自分よりも、10歳以上は、年上だった彼女だったが、十代の頃にテレビで見た彼女と、ほとんど変わりがないように見えた。また会えると言った彼女の言葉は、力強かった。長谷川セレーネはその言葉を信じた。

 いつのまにか、自分は、長谷川セレーネと同じ世界に生きていた。芸能界デビューしてからは一年が経っていたが、そのあいだに、北川裕美は長い沈黙の世界から復帰を果たした。彼女と直接会ったわけではなかったが、彼女の記者会見を見た。二科展で賞をとったことがきっかけで、展覧会を開いたときだった。そして私のデビューイベントでも、彼女の絵画が華を添えたらしかった。間接的にではあったが、彼女の影はずっと感じていた。まさか、こんな時に、こんな場所で、初対面を果たすとは、思ってもみなかった。都心から離れるという共通の行動によって、ばったりと出くわした。あまりに突然の出来事で、心の準備が整ってなかった。せめて連絡先だけでも、訊いておけばよかった。

 長谷川セレーネは意を決し、再びクリスタルガーデンの前まで徒歩で戻り、インターホンを鳴らした。

 どうせ無反応だろうなと思いながら。だが、今度は男の声で返答があった。長谷川ですと言うと相手はシカン本人であることがわかった。扉は開いた。長谷川セレーネは周囲を警戒しながら中へと入った。記者や一般人などの誰かが、後ろを付けてきている気配はなかった。

 彼女はプールを横目に、屋敷の玄関へと向かった。シカンが出迎えた。

「みんな、もう、待ってるよ」と彼は言った。

「井崎さんも、来てる?」

「ああ。もちろん」

 彼女は応接室へと案内された。二人は廊下を歩いているときも、無言だった。

「どうぞ」

 部屋の中には四人の男女がいた。井崎はすぐにわかった。あとの三人は初めて見る顔だった。

「はじめまして。長谷川セレーネです」

「すごい!本物よ」

 聖塚はすぐに飛び跳ねるように立って、長谷川セレーネに近づいた。

「こちらは?」長谷川セレーネはシカンに訊いた。

「井崎さんの知り合いだ。俺も、初めて会った」

「聖塚です。まだ大学を卒業したばかりで、四月から社会人です」

「よろしく」

 長谷川セレーネはお辞儀した。

「握手してもいいですか?」

「ええ、もちろん」

 長谷川セレーは両手で差し出された聖塚の右手を包んだ。

「井崎の妻で、常盤静香と申します」

「井崎さんの?」

 長谷川セレーネは常盤静香の顔を見た。

「そうだったの。井崎さんは既婚者だったのね。そういう話はしたことがなかったから、今日はお目にかかれて光栄です。結婚して、どのくらいなのですか?」

「半年です」

 常盤静香は握手を求めはしなかった。

「僕はKと言います。Gフェスタではお世話になりました。脚本を担当したんです」

「ええ。お話は聞いています。でもお会いしたのは初めてですね。あなただったんですか。とてもいい舞台を書いてくださって、ありがとうございます」

「Gの話を彼はすべて聞いて、それで物語に起こしたんだ。彼なしには、Gフェスタの敢行は、なかった」井崎が付け加えた。

「ありがとうございます」

 長谷川セレーネは言った。「三日目の公演が中止になってしまって、残念でした。それに、Gくんのことも。でも、また、再開することを願っています。それも早い時期に。また、お世話になると思います」

「ええ。是非、再開させたいものです。三日目の公演を行い、さらに、別の物語に発展させていけたらと、そう思っています」

「ほんとうですか?」

「意欲があります」とKは言った。

「ただ、このKくん。自分で、ゼロから立ち上げるのは、苦手なんだよ。な?」

 井崎が、長谷川セレーネに説明した。

「だから、また、Gのような話し手が現れないと」

 一通りの自己紹介が終わり、五人はソファーへと腰を下ろした。

「さっき北川さんに会いました」と長谷川セレーネは言った。「北川さん。北川裕美さん」

「えっ、どこ?」

 井崎が、体を乗り出して訊いた。

「だから、そこで。その前の大通りで。いきなり話しかけてきたので吃驚しました。まさか、あの北川さんとすれ違うなんて。彼女、アトリエに、絵を描きに行くところだったみたいで。私のことはテレビや広告で見たことがあったらしく、長谷川さんですかって。本当に吃驚した。ずっと憧れの人だったから。まさかあんな形で」

「なんですって!」

 常盤静香が、大きな声を上げた。

「どこにいたの?ちょっと失礼。彼女に話があるの」

「おいおい、座れよ」

 井崎は、常盤静香の身体を押さえつけた。

「今、出ていったって、もう、そこにはいないんだから。アトリエに行ったって言ったろ?絵に専念させろよ。邪魔をするなよ」

「わたし、もうずっと会ってないのよ。二人きりで話したいことがあるのよ」

「こいつね」と井崎は言った。「北川裕美とは、高校の同級生なんだ」

「そうなんですか?」

 長谷川セレーネは、興味深げに常盤静香を見た。

「ええ、そう。仲がよくて。大学に行ってからも、ずっと、彼女とは連絡を取り合っていて。よく食事に行っていた。彼女は、芸能界に。私は、アメリカに留学した。交流は続いていたの。あの子が結婚して芸能界を引退するまでは。けれど、それからは、まったく滞ってしまった。ずっと関係は疎遠で、ぎくしゃくしたままで。もう一度、二人きりで話し合いたいの。あなたが羨ましい。ほんの短い時間でいいから。二人きりで」


 話題はいつのまにか、北川裕美から万理のことに移っていた。

「おい、寝ちゃったぞ、コイツ」

 井崎の呼びかけに、シカンの反応は、急速に鈍くなっていった。ほとんど腕には力が入っていないようだった。

「よく、そんな心境になれるな。万理の映像を見た後で」

「でも、あれは、映画のシーンでしょ。実際に起きたことではないわ」

 常盤静香は言った。

「そうだけど。じゃあ、あのニュースは、何なんだ?万理が死んだっていう。処刑されたんだって?どういうことだよ。タイミングが良すぎるぞ。俺たちは、どうして、この状況で、万理が残していった未発表の映像を見たんだ?おい、シカン。どうして、お前の家にそのテープが置いてあるんだよ。万理とは、どんな関わりがあったんだよ。内緒で会っていたんだろ?くそっ。コイツは、まだまだ、俺に隠していることがあるに違いない。おい、起きろよ!」

 シカンの反応は完全になくなった。薬を飲まされたかのように、グッタリとしてしまった。

「万理さんが、どうかしたの?」

 何の事情も知らない長谷川セレーネが、言った。

「ここの地下のシアターでね、万理の未発表、未完成の映画の一部を見たのさ。万理、自らが出ていたんだ。状況はよくわからないが、ストーリーは不鮮明。とにかく処刑されるという場面だった。万理はね、というか、その女性は、その寸前で別の軍人のような人間が処刑されてしまい、彼女は間一髪で逃れたっていう、そんな感じの場面だった。そして、その軍人はセトだった。おそらく。ところが、今入ったニュースでは、セトと万理がまったくの逆だ。この映像は、そもそも、一年も前に撮ったものだ。どう解釈したらいい?」

 井崎は、何の事情も知らない長谷川セレーネに向かって、問いかけていた。

 彼女は即答した。「一年前なのよね?それは、確かなのよね?ということは、万理さんが、映画を撮り始めた頃よ。正確な日にちは、わかるかしら?」

「いや、覚えていない」

「とにかく、一年前。最初の映画が公開される前か、後かはわからない。その辺りのこと。どっちでもいいけど。でもかなりの初期の作品であるわけよね。社長も出演していた。なるほど。わからないけど、まだ、実験段階のときだったのかもしれないわね。セトさんは試し撮りのために協力した」

「ああ、なるほど」

「だから、作品ではない。でも、何の意味もなく、そんなシーンをとるわけがない」

「かなり、エキストラもいたし。それなりにお金もかけて、しかも広場だぜ。大がかりなことをしている。時代背景も、今とだいぶん違っていた。いったいどこで撮ったんだろう。謎だな」

「とにかく、細かいことを、議論するのはやめましょう」

 長谷川セレーネは言った。「重要なポイントは、このシーンは何を意味していて、なぜ一年も前に撮られたのか。彼女が大切に保存していたのかどうか。それは今は問題にしない。このシーンをいずれ使おうとしていたのか。それとも、ただの試し撮りであったのか。それを考えるのは、やめましょう」

「そうだな」井崎は同意した。

「一年前か。私はこう思うんだけど。つまりは、一年前に、今日起きることをすでに予期していた。自分が現実的にこういう状況になることを、彼女は知っていた。そのシーンがきっと見えていた。だからそれを題材にシーンを構成した。そう考えるとシーンなんて何でもよくて、そのときはただ映画を撮るという、その最初の一歩のために利用しただけなのかも。けれど、彼女の頭に浮かんできた映像は、確かに未来からやってきたものだった。彼女がそれを意識したかどうかは、やっぱりここでは、問題にしない。一年後、その映像と似たような事態に自分が遭遇する。けれど、微妙に話は異なっていた。ズレていた。処刑されるのは、別の誰かではなく、彼女本人になってしまった」

「ちょっと待てよ。テレビの報道を、鵜呑みにするのか?」

「報道が正しいと、仮定した場合よ」

 長谷川セレーネは、そう付け加えた。

「まあいい。続けろよ」

「じゃあ、今度は、その場面が、いったい何を象徴していたのか。そこにこそ、現在、実際に、起こった事件との関係性が色濃くあると思うの。なぜ公で処刑なんて、ひどいことが行われるのか。これは、誰がとか、そういう問題ではないの。誰でもいいのよ!とにかく誰かが、その場所でその時間に殺されなくてはならなかった。わたしにはわかる。誰でもいいの。たまたま軍人だった。たまたま彼女だった。選ばれたとか、そんな大層な問題じゃない。たまたまそこに通りかかったから。これは生贄なのよ。わたしにはわかる。わたしも似たような存在だから」

 井崎だけでなく、他の皆も、鎮まりかえってしまった。

「私の、今の芸能活動そのものが、生贄への道を突き進んでいる」

「君は何かを恐れているのか?」

「いいえ。何も。私は、自分の結末がだいたいわかっている。でもそれは決してダークなものではない。でも万理さんはおそらく、ダークなものを思い描いてしまった。それが、あなたたちが見た映像によく現れていると思う。そういう場面を、彼女は創作の最初の段階で見てしまっていた。彼女は自分が、映画監督として成功することを知っていた。そして、その影響力のある自分が、最期にどんな目に合うのかも知っていた。少し事態は映像とズレてしまったけど、いや、もしかすると、バッチリと噛み合っていたのかもしれない。彼女は映像に起こすときに、あるいはわざとズラしたのかもしれない。自分が処刑されるという場面を撮ってしまえば、本当にそんなことが起こってしまうかもしれない。ちょっとした希望というか、救いというか、そんなものを映像に込めていたのかもしれない。そうやってズラして撮っていれば、現実も同じようにズレて起こってくれるって」

「イケニエって、しかし」井崎は言葉に詰まった。「それじゃあ、原始社会だぞ。現代ではまったく通用しない概念だ」

「そうかしら」長谷川セレーネはまったく表情を変えずに答えた。「姿かたちをかえて、この現代にも、強烈にその刻印はなされている。私はそう思う。それは、ある時期、その場所で確実に起こる。本当に誰でもいいの。ただし、その人物が当事者になることで、より多くの人間が熱狂するというのが、唯一の条件」

「ということは、何だ?つまりは、君も、いずれはそうなるのか?」

「私?だから、ダークなことを思い描いたことは、一度もない。それにね、たぶん、その当事者になる人間は、一年くらい前に、何かそういう予感というか、啓示を受けるものなのかもしれない。これはね、原始社会だとか、宗教だとか、そういうものとは関係ないのよ。人間の生命力の問題なのよ。その生命力が発するエネルギーの総量なのよ。エネルギーは循環しなければ、次第に空間に歪みが生じる。その歪みが不必要に増していった結果、そのピークでは破壊が起こる。歪みを元に戻すための破滅が起こる。それが自然な宇宙の摂理なの。エネルギー自体には問題はないの。生命力そのものには問題はない。問題なのは、そのエネルギーが正常に流れなくなることだけ。これまで人間は、ずっと不自然な活動を延々と続けてきたとも言える。そして、積み重なり、それがいつか綻びを見せ、ある種、全体で責任を取らなければならないことになる。その全体性の中の象徴というか、代表的な個、それがイケニエ。だから、文明がどうだとか、古代だとか、現代だとか、そういうこととは、まったく関係なく発生する。けれどね、そうやって、ある意味、歪みを一気に解決するなんて、間違ったことよ。そうやってまた、正常に戻ることを何度も繰り返すことで、人間は成長するのかしら?進化するのかしら?同じことを、状況を変えて繰り返しているだけじゃない。そうでしょ?」

 一同は黙って聞いていた。

 深く頷く者もいれば、所在無げに空中を見つめている者まで、様々だった。

 長谷川セレーネは構わず続けた。

「文明は劇的に変化を遂げる時期がある。時代と呼んでもいい。世界観がまるで変わる。それは衣装よ。あくまで服が変わっただけ。私の話は、それとは無関係なの。脈々と続くイケニエの連鎖。そして。それと連動して起こる、歪みを是正する世界の破壊、破滅。私が言おうとしていることは、そのような生贄を処刑する行為と、世界が引き受ける崩壊。その両方の話。生贄の処刑は、心の問題。そうすることで、歪んだまま進んできた人々の心が、発狂寸前で救われる。でもそれは本当の救いではない。一時的に持ち直すためだけの行為。けれど、その効力は続く。次なる時期までは。だけど、それで、世界の崩壊が回避されるわけではない。本当の意味で、心はまったく救われていないのだから」

「何が言いたい?この、何日かのあいだに、起こった爆発事件のことを、言ってるのか?」

「どう、とってもらっても、結構よ。けれど、私は、この爆発が、世界の崩壊と同列に扱われることには笑ってしまう」

「わかった。よくわかったよ」

 井崎はそれ以上、先を話すのはやめろと言わんばかりに、彼女の話を遮ることに必死だった。

「文明が未来に、もしかすると、そう遠くない日に、劇的に変わったとしても」と長谷川セレーネは言った。「根本的な構造を変えなければ、生贄は繰り返し、選ばれ続ける」

「君には、いったい、どんな未来が見えてるんだ?」

「実際に、都会の中心地に戻ってみて、この目で確認したほうがいいんじゃない?」

 ずっと沈黙したままの聖塚が、口を開く。

「そうよ。そうした方がいい」

 聖塚に続いて、常盤静香も言った。Kも同意した。

 井崎はシカンの肩を揺すった。しかし、彼は本当に深い睡眠状態に陥っていた。


 シカンを除く五人は立ち上がり、部屋を出ていく準備に入った。

「車はないの?」

 聖塚が井崎に訊いた。

「そうだな。こんな屋敷だ。車の一台や二台はあるかもしれない。おい、シカン。駄目だ。完全に意識がない」

 井崎は、シカンの口元に近づき、彼が息をしていることを確認した。

 五人は、手分けをして車を探す。長谷川セレーネが最初に見つけた。井崎の携帯電話に彼女からかかってきた。プールサイドのさらに後ろ側に、一台の車が止まっていた。

 ドアに手をかけると、ロックはかかってなかった。不用心にも、キーがささったままだ。

「シカンの私用車か?」

 井崎はキーを回して、エンジンをかけた。「みんなを呼んでくれ」

 長谷川セレーネは、応接室に戻っていった。

 井崎は、ガソリンの有無を確認し、少し庭の中で試しに走行してみた。特に問題はなさそうだ。そのときだった。それまであったはずの陽が急に沈み、空が一面真っ赤に染まった。何度か点滅した。鳥たちが騒ぎ出した。一斉に空に向かって飛び出していった。空は黄色に染まり、そのあとで、雷の音が何度かした。白く輝く玉のようなものが、空から次々と落ちてきた。その数秒間の出来事に、井崎は息を飲んだ。

 井崎は、一人車の中で身を落ち着けた。雨が降ってきていた。車をプールサイドに戻す。長谷川セレーネはそこにいた。常盤静香も聖塚もKもいた。

 四人が車に乗り込んでくる。助手席には常盤静香が座る。三人は後部座席に乗り込んだ。井崎はラジオをつけた。ニュース速報は、相変わらず流れっぱなしだ。有楽町界隈に出現したゼロ湖は、今も消えることなく存在しているということだ。自衛隊も近づけなかった。それ以上、生物の侵入を防ぐバリアのように、ゼロ湖は存在していた。

「それも、この眼でみる必要があるわね」

 常盤静香は言った。

「シカンは、置いてきたのか?」

「もちろん」

 常盤静香は答えた。

「あれは、普通の眠りじゃないな」と井崎は言った。

「それと、ずいぶんと、不安定な天気だ」

 外では、再び、太陽が上がりかけていた。

 黒い鳥たちが、フロントドアの視界を遮ってきた。その黒い鳥の何羽かが、突然赤く燃えて、不規則な動きを取り始めた。井崎は鳥を避けるように、ハンドルを左右に小刻みに動かしながら突き進んでいった。赤く燃え上がった鳥たちは、フロントドアにぶつかると、再び黒い鳥へと戻っていった。

 井崎は、カーナビを機能させて、目的地を入力する。東京国際フォーラムにしたが、コンピュータはなかなか反応してくれなかった。

「もう削除されているんじゃない?」

 常盤静香に言われて、井崎は試しに、『ゼロ湖』と入れてみる。

 すると、目的地を認証しましたと、車は二十分後に到着すると、表示される。

 井崎をはじめ、五人は、どんな小さな手がかりも見逃さないといった眼差しで、窓から見える街の様子を、じっと無言で見つめていた。

 だが今のところ、特別な変化はなかった。


「ごめんなさい、私、用事を思い出してしまって。ここで降りるわ」

 最初にそう言いだしたのは、常盤静香だった。

「なんだよ、急に」

「ちょっと。気になるの。降ろしてちょうだい」

「こんなところで?」

「大丈夫。電車もバスも平常通りに動いているみたいだし」

「北川裕美だな」と井崎は言った。「やめとけよ。誰も、あいつのアトリエの住所は知らないんだ。お前、長谷川セレーネが話したことが、ずっと気になっているんだろ?ずっとそうだ。そわそわしている。わかったよ。行けよ!行ってしまえ」

 井崎は、道路の脇に車を止めて常盤静香を下ろした。

 それから五分もしないうちに、今度は長谷川セレーネが、降りると言い出した。

「今日は、仕事を抜け出してきていたの。ごめんなさい。やはり戻らないと。もう大丈夫。あんなことは起こらないから」

 井崎は彼女が嘘を言っていると思った。

 世界の本質がまったく変わらないままに、文明だけが激しく進化していったとしても、生贄の選出は終わらない。そう言った、彼女の言葉が、何度も蘇ってきた。


 しかし、井崎は彼女を止める手段の持ち合わせはなかった。

 井崎は再び路肩に車をとめた。

 長谷川セレーネを降ろすしかなかった。彼女はあっさりと無言で去っていった。

「誰か助手席に移動しろよ」

 井崎は後部座席に向かって声をかけた。Kが車を降りて、前にやってきた。

「じゃあ、行くか」

「結局、この三人になってしまいましたね」

 どの三人だよと、井崎は思ったが、よくよく考えてみると、この自分以外のこの二人は、ずいぶんと最近になって知り合ったことを思い出した。

「まだ、二週間か、三週間だよな」

「何が、ですか」

「俺たちが知り合ってからだよ。ちょうど、Kも、聖塚さんも、同じくらいの時期だ。Gフェスタの脚本を、書くときだから」

「一か月前、ですね」とKが答えた。

「君も、そうだな」

「ええ」

 井崎は自分の元から、かつての知り合いがどんどんと離れていってしまうことを、懸念し始めた。俺の周りには、かつての知り合いなど、誰もいなくなってしまうような気がした。そんな恐怖に襲われ始めた。いずれはこの二人も、俺の元からは去っていく。何故かシカンとも、これが、最後の再会だったような気がしてきた。もう二度と、彼に会うことはなくなるのではないか。

 雨が、再び強くなってくる。前方がほとんど見えなくなってきた。ワイパーを、どれだけ早く動かしても、視界は取り戻せない。かといって、極端に減速させることも危険だった。

「ねえ、井崎さん。何か、おかしくないですか?」

 Kはずっと、カーナビの画像を見ていた。

「やっぱり、変ですよね。井崎さん。聞いてますか?」

「それどころじゃないんだよ。あ、危ない」

 隣を並走する車と接触しかけた。「声をかけるな」

 飛行機の機体が、気流の極端に悪い空間に突入したときのように、井崎には感じられた。

「ねえ、やだっ、井崎さん。何か車体が浮いてない?ほら、ふわっと。地面から離れ始めているような・・・」

 後部座席から聖塚の声が聞こえてくる。その言葉を聞いて、井崎は思わずアクセルを踏んでしまった。自分の身体は後ろに逸れた。確かに機体は上昇していた。

「何よ、このカーナビは。空から下を見たときの、映像みたいよ」

 聖塚は、後ろの座席から身を乗り出していた。窓から外を見ていた。そしてナビに映ったものと見比べていた。井崎はさらにアクセルを踏み込むしかなかった。ハンドルを右にきると、車体も右に傾いた。左にもっていけば左に傾く。前方には、すでに道路の存在はなかった。完全に宙に浮いていた。

 井崎は、車体をどう操作していいものか戸惑った。けれども、墜落する気配はない。

 車体そのものが、自動操縦モードに入っているかのようだった。手は添え物のようにハンドルに置いているだけであった。

 Kは助手席で絶句していた。あまりに口数がなかったために、失神しているのかと思った。かろうじて目は開いていたが、意識はどこかに飛んでしまっているように見える。

 この車体の中には、自分と聖塚の二人しかいない感じになっていた。

「ねえ、見て。視界が開けてきた」

 聖塚の声が、急激に明るさを取り戻した。それを合図に、ガラス窓の外からは強烈な光が入ってきた。四方八方から、太陽の光が入ってきていた。井崎は顔を伏せた。

「見てよ」聖塚はしきりに井崎に外を見るように促した。「下を見て」

 井崎は恐る恐る目を開けた。本当に飛行機に乗っているときのようだった。

 それほど高くは飛んでいないにしろ、高層ビルより遥かに上にいる。

 建物の配置や人々の位置関係は、はっきりとわかった。すると、その中に、ぽっかりと大きな円形の空間が現れる。そこだけが、周りとは明らかに様子が違っていた。球体の半分のように土地が抉れ、まるで氷張りのような美しい陥没が、そこには出来ていた。

 そこだけが、氷河期の遺物のような場所になっていた。

「これが、有楽町なのね」

 ナビには『ゼロ湖』が入力されていて、到着の表示へと変わっていた。

「なるほど。それで、車体が、浮いていったのね。ゼロ湖には、地上に沿って行くことはできないから」

 聖塚一人が納得していた。井崎は横にいたKの存在を忘れていた。

 Kは完全に目を閉じていて、肩をさすってみたが、反応はなかった。瞼にも力がまったく入ってなかった。

 井崎は彼の脈を確認する。死んではいないようだ。シカンにしろ、Kにしろ、何で急に意識をなくしてしまうのだ?

 聖塚はKのことはまったく気になっていないようだ。

 ただ、ゼロ湖を見下ろし、感嘆の表情を浮かべ、そして激しく沈黙した。

 井崎も次第に、ゼロ湖の光景に魅かれていった。意識は吸い込まれるように落ちていった。

 ナイアガラの滝をかつて上空から見たことがあったが、感覚はどこかそれに似ていた。滝のように水が激しく集まり、轟音で流れていっている様子とは、あまりに異なっていたが、どこか懐かしい風景であった。そこには、水もなければ、何の流れも存在していない。それでも、井崎には、確かに何かが流れているように感じられた。街中の空気が、そこに集まってきているような気がした。球体の陥没した半分に、流れ落ちていく。吸い込まれていっている。

 数日前までは、何万人もの人々と、そこに立っていた建物が、一瞬にして今は消えてなくなってしまった。その理由が、感覚的にわかるような気がした。この半分の球体の陥没は、半永久的に残るのだろうか。この光景は、次にどんな変化をもたらすのだろうか。

 井崎は、ゼロ湖に到着したこの車体のことを思った。

 いつまで浮いていられるのだろう。この現象は、車に浮かぶ能力があったからではなかった。ゼロ湖が放つ、目には見えない力を利用していたからだ。だから、このゼロ湖が今の状態から変化しない限り、墜落することはないのかもしれない。おそらく、望めばいつまでもこの状態を保っていられる。けれど、湖は、いつまでこの状態を維持しているのか。

 一度、地上に戻るべきなのだろうか。

「これから、どうする?」

 まるでドライブデート中の彼女に声をかけるように、井崎は聖塚に訊いた。

「もう少し、このままで」彼女は答えた。

 やはりそうかと、井崎は思う。

「私たちが思っているほど、この光景は、長続きしないわ。きっと」

「だとしたら、形態が変わる前に、早く地上に戻った方がいいじゃないか」

 しかし二人は、絶景を眺めるカップルのように、そのままの状態を続けた。

「なあ、結婚しよう。なんてな、こんなところで、プロポーズしたら、どんなに素晴らしいことか。でも、これは人間にとっては、まったくの悲劇的な事なんだよな。これを見たら、万理のことは、まったくの誤報なことがわかる。万理か、まあ、誰でもいいが、人間個人が、爆発物を都市にしかけて、爆破させて、それでこんな情景など、作れるはずがない!これで、はっきりとしたな。万理は、まったくの無関係。無実だって。セトもそう。人間によるテロ行為では、まったくないことが証明された。これは、まったくの自然現象だ。どう見てもな。地殻変動だと断言していい。地上にいるときは、まったく、わからなかった。ここに来て、初めてわかった。俺は、欲張りだろうか?もっと見てみたい。なあ、このまま、俺は、地上には降りたくない。今しか、ないかもしれないんだ。こんなチャンス」

「ずっと、小さい時から、私は思い続けていた。いつか、男の人が、私を鳥のように羽ばたかせてくれる日が来るって」

「なんだ、それは」

「それは、あなただったのかもしれない。賛成よ。このまま居続けましょう」

 彼女は何かを覚悟しているようだった。

 その様子に、井崎も覚悟を決めた。

 こんな光景は確かに二度と見ることができない。

 それでも、いつかは必ず終わりがくる。

 もしタイミングが遅れれば、車体は見事には浮力を失い、地面へと急降下していく。

 井崎はふと、Lムワが生前に火災で亡くなる前に書いて送ってきた、手紙の存在を思い出した。


 その手紙のことは、誰にも言ってなかった。自分も、一度、読んだままであった。

 彼が死んだと聞いたときにも、思いだすことはなかった。その手紙が、脳裏に蘇ってきた。どうしてあの時、あのタイミングで、あんな手紙を彼がよこしてきたのか。あのときは、深く考えはしなかった。Lムワはこの自分に、著作物を預けることを決めたと同時に、その手紙をしたためたのだった。その手紙は、奥さんである北川裕美への罪悪感から始まっていた。俺のせいで彼女をこの家に引きこもらせてしまっている。彼女には常に仕事に復帰したらどうかと話しているのだが、彼女は首を縦には振らない。俺の仕事はまだまだ完成しそうにない。だから、君は君で自由にやりたいことをやったらいい。俺は常にそう言っていた。だが彼女は表舞台にはもう二度と復帰するつもりはないと言った。俺のサポートに徹したいと。それは妻としては、とてもありがたい言葉だったのだが、俺の心は苦しくなっていった。なぜなら、著作物は完成しない。世の中にも発表はできていない。結婚前に、いくつか発表したが、ご存知のように、今では絶版になっていて、ほとんどが誰にも知られてはいない。実質上、結婚をしてからの刊行物はゼロだ。それなのに、俺はいっこうに書くことはやめられないのだ。

 そこに、ジレンマがあった。

 俺はいったい何のために書いているのか。それがわからず、さらには一行たりとも書けなくなっているのであれば、話は早かった。すぐにでもやめればいい。廃業だ。それで万事はうまくいく。俺は別の仕事を探し、彼女は女優へと復帰する。二人の人生は、そこでまた動き出す。だが俺には書くことがあった。まだまだそれは根深く存在していた。俺はそこに取り組むしかなかった。そして彼女は、サポートを続ける。著作物は完成しない。世の中にも出ない。売れない。評価もされない。そして、たとえ出版されたとしても、すぐにまた、それは絶版の烙印を押されて返ってくる。

 俺はもうわからくなっていった。自分を見失っていった。そしてまた、春がやってくる。卒業のシーズンだ。みんな、次の世界へと羽ばたいていっている。あの忌まわしい季節だ。だが俺だけはまた、同じ輪廻の中に放りこまれる。結婚してからはずっとそうだ。毎年、変わらないサイクルをずっと繰り返しているだけで、俺はどこにも行けなかった。それは俺だけではない。すべてをその場に縛りつけさせていた。家を見たらいい。ここにあるすべてのものが、生命エネルギーを循環できずに、じょじょに朽ち果てていっている。植物も、家具も、家そのものも。そして、この書きかけのものも。北川裕美も。俺も。すべては俺のせいだ。だが、俺の何がいけなくて、このようなことに、なっているのか。それが皆目、わからない。それがわからないからこそ、誰にも相談することができない。

 井崎さん。こんなことを誰かに言うのは初めてのことだよ。あなたが唯一の救いなんだ。どうして俺になど、目をつけたんですか?あなたは大馬鹿か。あるいは、未来の一端が何か見えているのですか?何かを知っているのなら、教えてほしいんです。藁にも掴む思いです。僕はあなたを信頼しているんですから。著作物はすべて、あなたに託します。あなたの好きにしてください。ですから、知ってることはすべて教えてください。このことは北川裕美には内緒です。僕とあなただけの秘密です。ただ僕は創作してしまう。何の理由もなしに。僕の中に、深い葛藤があるのでしょう。深い傷が刻まれているのでしょう。それはわかります。それが、創作への原動力になっていることも。ですが、僕は、このまま続けていっていいのでしょうか。妻のこともあります。家のこともあります。社会的責任のこともあります。僕はすべての存在を傷つけています。そして、この自分自身も。混乱の極みです。あるいは僕は、死んだ方がいいのかもしれません。もしここで、自殺できたのならと思うことがあります。僕は深いジレンマを抱えています。なぜ書くのかがわからない。書かざるをえないんです。完成はみない。世界との繋がりを失っている。北川裕美の自由をも、奪っている。そして、毎年、変わり映えのない春を迎えている。

 僕は何かに恋をすることさえなくなっている。その理由も何となくわかります。もし恋をしてしまえば、その恋をしたものが春に旅立ってしまうのが、わかるからです。僕だけが、飛べない鳥であることを知っているから。華々しく飛び立っていく鳥を見送るためだけに、僕は恋などしたくはない。

 井崎さん。僕を裁いてください。僕という存在をどんな意味でもいいです。決定してください。僕はその判決を素直に受け止めます。でも井崎さん。こうも思うんです。あるいは、このままでいいんじゃないだろうかと。このままの状態でも、僕に必要なものはすべて手にしているんじゃないか。北川裕美は側にいる。執筆活動は旺盛だ。友達はいないけれど、井崎さん。あなたのような人が現れる。家もある。あと短いあいだかもしれないけど、とにかく生活していくことに支障はない。すべてを手にしている。この瞬間は。このまま何の葛藤も感じることなく、行けるところまで行けば、あとは何とかなるんじゃないか。それもまたジレンマです。いろんな想いがせめぎ合っていて、僕は本当にやりきれない。知り合ったばかりのあなたに、こんなことを言える義理ではないけれど、でも、あなたとはこれからも、長く付き合っていきたいと、そう願っているんです。うざいですね。重いですね。あなたには迷惑なことですよね。でも、こう言っては何ですけど、あなたが僕を見つけてくれたんです。僕はあなたのためなら何でもします。北川裕美のこと以外なら、僕はあなたの要求は聞くつもりです。でもそのかわりに僕を見捨てないで。僕の話し相手になって。この手紙は読んだら、すぐに消去してください。これが手元に残っていては大変だ。言われるまでもないでしょうけど、一度読んだら必ずシュレッターにかけてください。いいですね。他の誰にも、読まれてはいけません。僕とあなたとの秘密事です。そんな僕でも、一つだけ信じていることがあります。本は、僕よりも誰よりも長生きすると。

 まさに、彼の声そのものが今、脳裏に蘇ってきているかのように、井崎には感じられた。

 彼のことが懐かしかった。ずいぶんと短い付き合いだったが、彼はずっと、今も心の中にいた。そして、自分を鼓舞してくれていた。俺は創作はしないし、しようとも思わない。できるとも思えないから、彼の気持ち、彼の行動、置かれた立場について、感情移入をすることができない。今の今まで、彼の手紙のことすら忘れていた。今となっては、その手紙が遺書のようなものだった。そのあとすぐに、彼は火災に巻き込まれて死んでしまった。


 そして、大きな爆発音がする。車体が大きく揺れた。井崎は反射的に、ハンドルを強く握った。地上を見下ろすと、有楽町界隈とはまた別の場所に、同じような深く大きな穴が開いていた。車体はすぐに平行に戻った。深く大きな穴は、二か所になっていた。爆発はさらに続いた。

 車体はもう、平行感覚を完全には保てなくなっていた。下降と上昇を繰り返した。聖塚は悲鳴を上げていた。Kも目を開け、大きな声を出していた。再び、車体が落ち着きを取り戻したときには、地上には穴がいくつか空いていた。その穴同士がくっつき、より大きなゼロ湖を作り出していた。それに伴い、気流が大きく変化していた。その波に、車体も巻きこまれてしまっていた。

 ゼロ湖は増え、統合し、再び分裂、増殖を繰り返している。上空の気流は、だんだんと定まってきた。

「井崎さん、これは、いったい・・・」Kの声は震えていた。井崎は何も答えなかった。答えようがなかった。ただ、この上空から見る景色は、壮麗だった。自然の世界遺産を見るように感動的だった。太陽の光が、水のないゼロ湖を照らし出している。地上はこの上なく煌めいている。昼間に見る夜景のようだった。その不思議な感覚は、ずっと続いていた。ゼロ湖は、その枠組みを壊し始める。ゼロ湖同士が、すでに拡大し、統合していく連鎖を、自律的に始めているようだった。それは、もう留まることを知らない。東京そのものが、ゼロ湖にとってかわってしまうのも、時間の問題のように思えてきた。そして、その増殖、拡大、統合は、さらに地域を超えて、同時に起こり、近くのゼロ湖同士がくっつき、巨大になっていく。海とも繋がり、いずれは、氷河とも一体化する。その連鎖は、どこまでも続いていく。井崎にはそう思えた。

 その始まりが、今、起こったのだ。Gフェスタから。Gフェスタが行われた会場から。今、その始まりは、確実に起こった。なあ、G。お前の望みは、一体どういうものなのか、俺には分からない。けれど、きっと叶えられるよ。Kも聖塚も、さっきまでの恐怖の叫びは鳴りを潜めた。今や、井崎と同じように、眼下の景色に心を奪われていた。

 地上がすべて、海へと変化していったように見えていることだろう。水のない巨大な海に。



「井崎さん」

 Lムワが再び声をかけてくる。僕には運命というものがわからないんです。いつも僕は運命に逆らって生きてきたような気がします。僕には運命の流れが見えてしまうときがある。そしてそれに、身を任すことができないのもまた、僕なんです。けれど、どうあがいても、僕は結局のところ、その初めに見えた流れに巻き込まれていってしまう。僕は自分の意志で生きたかった。運命が本当に存在しているのであれば、それをもっと短縮して、激しく行ってしまいたい。僕はいつでもそう思っていた。

 時間を凝縮すること。それこそが、僕にできる唯一の意思の力だと思った。どうせ起こることはわかっている。ならばできるだけ、時間を縮め、さっさと終わらせてしまいたい。そうすれば、あとは自由になる。その、空いた時空間に、あたらしい建物をたてることができる。僕はそう信じた。そういうふうに、僕は運命に逆らうことを決意した。僕なりの抵抗を示したかった。ところが、抵抗を示せば示すほど、事態はさらに運命の波に乗っていってしまい、結果として、僕の試みはただの徒労に終わる。誰かを傷つけ、自分をも傷つけていく。

 おそらく、あと少しのあいだに、僕は君とは会わなくなると思う。僕がどんな去り方をするのか、それはわからない。けれど、退場の時間は近づいている。君に、僕という存在のすべてを託したいと思う。これまでの僕という存在を。君なら、その受け継いだものの活用方法を、知っていると思うから。僕は、唯一、君を信頼しているから。その退場のときは、確実にやってくる。だから僕は逆に、その退場の時期を、うんと近づけたかった。まさに生き急ぎたかった。生き急ぐことこそが、僕の意志だった。でもそれは間違っていた。終わりがわかっているからこそ、そこまでゆっくりと、静かに時を受け止め、愉しんでいけばよかった・・・。

 どうせ結末は同じなのなら・・・。それまでの過程、流れに、恐れずに、逆らわずに、君たちとも交流して、楽しんでいけばよかった。今はそう思う。本当に。そうすれば妻にも、不自由な想いをさせずにすんだ。彼女に対する罪悪感など、感じることもなかった。すべては間違っていた。認めなくはないが、今は認めることで、これまでの自分のすべてを清算できるような気がする。

 それでも、君に出会い、君にこれまでのすべてを託していけるということは、唯一の救いであって、光だ。ありがとう。僕を受け止めてくれて。僕を見つけてくれて。もっとみんなといたかった。もっと、時そのものを味わいたかった。


 ゼロ湖は、再び、その一つの殻、枠を保っていくことができずに、決壊した。

 別のゼロ湖に流れ出し、そして統合した。今は爆発によるゼロ湖の出現はなく、地上にはすでに無数のゼロ湖が出現していた。そのゼロ湖同士の動きに連動して、空中の空気が一気にうねりを始めた。まるで、生き物が身を捩るように、龍が空を飛んでいるかのように、激しく空間が、捻じれ始めていた。

 そう感じたときには、すでに車体は巻き込まれていた。井崎たちは車の中に投げ出された。何度も体をぶつけ、だんだんと車は、地上へと落ちていっていることがわかった。まるで、車体が海に静かに沈んでいっているかのようだった。奇妙な静寂に包まれた。さらには、車体そのものが誰かに支えられ、優しく運ばれているかのようにも、感じられた。



 その光景が、常盤静香には信じられなった。大通りの十字路付近で立ち話をしている、その二人の女性は、長谷川セレーネと北川裕美だった。

 長谷川セレーネとはさっき、シカンの家で会ったばかりだから、見間違えようがなかったし、北川裕美とは、ずっと親友であり、その容姿は高校生のときと、ほとんど変わってなかった。その二人が、こんな道端で話をしている。

 常盤静香は、傍にあった街路樹の影に隠れた。二人の会話が聞こえるくらいの場所へと移動した。彼女たちもまだ、会ったばかりのようだった。二人はそれまで面識はまったくなかったらしく、北川裕美が長谷川セレーネの最近の活躍を、延々と褒めていた。長谷川セレーネもまた、その好意のお返しとばかりに、自分が高校生の時、どれほどあなたに魅了されたのかを、挨拶代りに語っていた。

「そろそろ、本題に入らない?」と北川裕美に静止されるまでずっと。

 常盤静香は、この目の前の二人が、偶然ここで出会ったわけではないことを知る。

 その言葉は、ある意味ショックだった。まったくの見当違いな感じ方なのだろうが、仲間外れにされたような気持ちを抱いた。かつての北川裕美なら、相談事は、親友であるこの私を指名したはずだった。この二人の邂逅は、長谷川セレーネから提案したものではないだろうと、常盤静香は思った。

 ずっと、お会いしたかったと、長谷川セレーネは表情ひとつ変えずに、平然と言い放った。二人はすでに、十歳も歳の離れた先輩後輩というような雰囲気ではなかった。全くの対等だった。その様子にも、常盤静香はショックを受けた。

「あなたとは、一度、ちゃんと、意思疎通をしておきたかった」

 北川裕美は言った。「一度でいいから。一度で、わかり合えると思うから」

「私も、その・・・、同じです」

「なかなか、連絡ができなくて、御免なさい」

「わかっています。今日で、いいんです。そんな気がしてました」

「画家として、芸能界にちょっとばかり、派手に復帰したじゃない、わたし。あなたがデビューする少し前の話よ」

「はい。もちろん、知っています。私は、あれを見て、あの会見を見て、思ったのですから。私も、あなたの傍に、なるべく近づいていたいって。それまでも、スカウトはされていたんですけど、なかなか踏ん切りがつかなくて。普通の大学生として生きていく選択肢もあったから。でも、あなたが再び出てきたことで、私の意志は固まった。すべては、あなたに会うためだったんです。ずっとそうでした。デビューしてからも、ずっと。私は男の人を悩殺しようとしているわけではなかった。意識していたのは、いつもあなただった。あなただけだった。あなたに対して、ずっと、メッセージを放っていたような気がします」

「そうよ。ずっと、前から・・・、私たちが、お互いを意識する、だいぶん前から。今日、ここで会うことは決まっていたの。私が、あのタイミングで芸能界に復帰したのも、その姿をあなたのような人の目に、焼き付けるためだった」

 その二人の会話を聞けばきくほど、常盤静香の心は切なくなっていった。

 自分はまったく相手にされていない。除け者にされているというよりは、完全に彼女たちの会話についていけなかった。もしこの場に招かれたとしても、私は途中で逃げ出してしまったことだろう。そこがまた辛かった。こうして木の影にいるからこそ、この場に留まっていられるのだ。

「二科展で賞をとってデビューして、記者会見を開いて、そのあと個展を開いたのは、知ってるわよね?でも、そのあとで、ぱったりと活動は見えなくなった。作品を制作しているというニュースだけが流れた。私は、次なるプロジェクトのために、制作を繰り返していたの。もう美術展のような展覧会を開くことはないの」

「そう、思います」

「えっ」常盤静香は、物陰から思わず声を出してしまう。

「私は、もう、そんな閉ざされた空間での、限定的な力を行使することには、興味がもてなくなった」北川裕美は言う。「あれは、ほんの試し書きのようなものだった。そのあいだ、あなたは本当によくやってくれた」

「それで、その作品は、完成したんですね」

「もう、デモンストレーションは、起きている」

「やっぱり」

 長谷川セレーネの声のトーンは、著しく低くなった。

「そうですよね。あなたなんですよね?」

 北川裕美は、一度だけ頷いた。

「私だけの力じゃない。私は確かに絵画をまた制作した。立体物の制作も並行して行った。そして、それらをしかるべき場所に埋め込んだ。この広い大地をキャンバスに見立てて。アトリエで作ったものを移動させて、設置しただけではなく、置いたその場所で、制作したこともあった。でも、わかるわよね?長谷川さんには。別に、私の制作物が特別な力を持っているわけじゃないってこと」

 長谷川セレーネは、大きなサングラスを外した。

「それは、はい。その通りだと思います。私だって、そうですから。私もこうしてモデルとして、このポジションにいることも、私そのものに力があるわけじゃないですから。わかります。媒介しているだけだから。あるものと、あるものとの間を、繋いでいるだけだから。きっと、北川さんは昔からそうなんですよね。今は、その出所というか、手段が、方法が、違うだけであって。十年前は、私のような存在だった」

「結婚して、引退したのも、もう影響力が低下している、未来の自分が、見えてしまったからよ。だから私は、次の手段を見つけなくてはならなかった。引退して、専業主婦のような装いをしていたけど、本当はずっと、次なる道を模索していた。誰も知らないことだけど」

「それも、私にとっては貴重な話です。未来の私を、あなたは先取りしていると思うから。私はあなたの跡を辿っていけばいい。感覚としては。そう」

 話の流れがどこに辿りつこうとしているのか。常盤静香には全くわからなかった。

 ただ、相槌を打つことなく聞いていられることに、今は感謝していた。

「ある意味、私たちは、霊媒なのよ」

 常盤静香はその言葉に、卒倒してしまいそうになった。ここで話の筋は、大きく変動したことを悟った。

「わかります」長谷川セレーネは平然と答えた。その回答もまた、常盤静香の背筋を凍らせた。

 この二人は、いったい何をわかり合っているのか。これが、初対面だとは、とても思えなかった。年齢に差のある女同士には、とても、思えなかった。

「復讐心を、煽っているわけではないわ」

「でも、原動力の根源は、まさに、復讐そのものね」

「ええ、そうです」

「私たちが、女性たちの復讐心を吐きだす場所を示す、その役割を果たしている。私たち次第で、その出所は、大きく変わってしまう。私は、私たちは、この世界を破滅させたいわけではないの」

「同じです」

「でも、一歩間違えば、きっとそういう事態にもなりえる」

「ですけど、そんなふうには、決してなりません」

「その通りよ。そう言い切れるあなただからこそ、今のあなたがある」

「はい」

「あなたは、とっても素直なのね。私よりも、ずっと。私は一歩間違えれば、どうなんだろうっていう、危うい状態で、ずっと生きてきた。今でも、おそらく、そう。危ない女なのよ。私の夫は被害者でね。彼は私の負のパワーの撒き散らしを、大量に浴びていた。七年ものあいだ、ずっと。八年だったかしら。結婚する前も、ずっと。付き合う男性は、みな、破滅へと追いやってしまったわ。そう、私は何もしてはいないけど。無意識に目に見えないところで、彼らを攻撃してしまっていた。女性同士では、そういうことはなかったみたいだけど。むしろ、他の女性の、心の奥に潜んだ復讐心にも似た力を、呼び起こすことに、一役買っているのかもしれない。私は、自分の影響力を、また別の手段に移し替えることができた。ほんの偶然からね。そして、あなたという女性も、世の中に出てきてくれた。本当に、私は思い残すことなく、芸能界から去っていくことができる」

「そ、そう、なんですか?」

「私は、完全に、女優ではなくなり、元女優でもなくなる。あと十年以上、あなたは、今の勢いを絶やすことはないと思う」

「え、ええ。あなたがそうおっしゃることが、私の力になります。そ、その、いいですか。私は、あなたの、新しい制作物のことが、実は訊きたいんです」

「どうぞ」

「その話が、今日ここで会った目的なんですよね?その制作物が、今は、女性たちの意識全体と、この地上を結ぶ、とても大きな回路になっているんですよね。この、何日か前から始まった、いろんな現象の、大きな要因となっている。そうなんですよね?あなたが大きく関与しているんですよね?」

「レイラインと言ってね。置き場所に、ポイントがあるのよ。それをあなたに伝えておきたくて。それだけを知っていれば、私は、あなたといつも繋がっているようなものでしょ。これは私が発見した地点ではないの。私も過去に別の女性から教わったものなの。今度はあなたに伝える番よ。そのポイントを押さえていれば、非常に大きな現象を大地に伝えることができる。今後、世界を組み替えるときに、その地点が、非常に重要な場所になる。その場所を知っている人、その女性だけが、自分だけの手段と合わせて、そして引き起こすことができる。次は、あなたの番」

 常盤は、そのレイラインのポイント地点を、すべて聞いてしまった。

 話の内容は、さっぱりわからなかったのに、レイラインだけを知ってしまった・・・。

 北川裕美と長谷川セレーネは軽く握手をし、気づいたときには、二人とも別の道に歩き始めていた。本当に絶妙のタイミングで、その場に自分も居合わせたのだった。彼女たちは、すべての女性の心の奥底に眠っている、感情を呼び起こし、その力の集合体を、ある場所に向かって、解き放つ方法を知っているようだった。



 その老齢の錬金術師は、今日もまた、ガラスの容器に入れられた男の精液を受け取り、満足げに笑みを浮かべた。一人の若い女性が家族の未来を訊きに、この男の元を訪れていた。

 男は占星術にも長け、男に相談に来る人々は、絶えなかった。貧しいその若い女性はお金を払うことができず、旦那の精子をもってくることで、その代金に当てた。老齢の錬金術師は金ではないことに不服な様子を見せたが、それはあくまで見せかけにすぎなかった。むしろ、精液の方が好ましかった。あらゆる男の精子を集め、保管し、少しずつ使っては、調合を繰り返した。精液の調合という怪しげな行為を、彼は喜々として、夜な夜な行っていた。占いにやってくる女たちは、どうして男の精液を要求するのかを深く考えようとはしなかった。気味悪くは思ったが、それ以上追及すれば、彼の機嫌を損ね、未来を見せてくれることを拒まれるからだ。それを恐れた。彼に拒まれてしまえば、もう二度と見てはもらえなる。それは死活問題にもなりかねない。だが不思議なことに彼に見てもらい、未来に富が流入するようになっても、男は金だけではなく、あいからわず精液を要求し続けたのだ。女たちはそのとき心底気味悪がり、もう二度とこの占星術師に近づくことはなくなった。別の占星術師を探した。いや、そのときには、もう、未来に対する不安を抱くことがなくなっていた。老齢の占星術師は、その精液を人知れず、自分の体内に注入しているのではないか。そんな噂も立ち始めていた。飲んでいるのではないか。理由はわからなかったが、きっとそうに違いないと人々は噂し合った。それでも彼の占星術の精度は、凄まじく正確だったため、他の事を気にしている場合ではなかった。数回通えば、だいたい、自分の生涯に渡る運命が見通せるため、最適な時期と方法を、選ぶことができるようになる。人生は著しく好転し始める。だんだんと、この老齢の男のことは、忘れていくようになる。

 老齢の錬金術師は、いつまでも、同じ客ばかりを相手にしている必要はなかった。人々は次から次へとやってくる。それにいつまでも同じ精子ばかりを集めていても、何の意味もなかった。様々なサンプルを、つまりは、他に一つとして存在しない精子を、したためておくことこそが、最高の贅沢である。彼はそう考えていた。もちろん、皆が噂をするような行為は何もしていなかった。飲んだり、体内に注入したり、するはずもない。彼は精子同士を調合することにしか興味がなかった。どのタイプを、どう配合させて組み合わせれば、どんな現象が起こるのか。その反応に最大の興味があっただけだ。精子と卵子を受精させるのではなく、精子と精子同士では、何が起こるのか。もちろん、百パーセント何も起こらない。だが事実はそうではない。ほんのわずかではあったが、そこにはエネルギーが発生している。老齢の男は、その反応を見逃すことはなかった。その反応は、精子の組み合わせによって、千差万別であることを知った。そのことに、男は夢中になっていた。未来の可能性を感じた。

 人の運命、つまりは、その人個人の運命などは、たいして真剣に観察しなくても、完全にわかった。一目みただけで、その人間がどのような運命を辿り、どういった結末を迎えるのか。はっきりと示しながら、こっちに歩いてきている。それを読み解くことほど、容易いことはない。どうしてみんなわからないのだろう。こんなにも簡単なことはないのに。それを言ってあげるだけで、自分は多大な感謝をされる。彼らはなけなしのお金までを置いていく。不思議なことだった。だがわからないでもなかった。わしは、そう、わし自身のことに関しては、それほどよくはわかっていないのだ。他人に現れている運命の地図のように、この自分自身の地図を見ることができないのだ。はっきりとこの目で、確認することができなかった。鏡を見ながらやっても、うまくはいかない。やはり、この肉眼に宿るものなのだ。よって、自分のことに関しては、誰か自分のような人間のもとに行かない限り、正確に把握することはできなかった。なので、だいたいの事を、直観で感じとるだけだった。

 それでも、わしは、他の人よりも遥かに、自分の運命を理解できているといえた。

 そんな簡単なことよりも、おもしろいのは、こっちの方だった。

 精子と精子をかけあわせることによる、微々たる熱量の発生。いずれは、すごい事態になることが見えていた。ある精子とある精子を掛け合わせたことで、とんでもない融合が達成される。とんでもない規模のエネルギーの発生がなされる。そういう未来が見えていた。

 いつ起こるのかはわからないが、自分が生きているあいだに確実に起こる。その組み合わせに出会う。しかしそんな大融合ではなく、今日のようにほんの微々たる反応であっても、それはそれで、本当に興味深かった。どれ一つとして同じ反応はない。この微々たる違いがわからない奴は、人生を損しておる。彼はそんなふうにも思った。


 シカンは目が覚めた後も、ずっとその光景がいつまでも脳裏から離れなかった。

 錬金術師は俺だったのか。それとも、錬金術師を傍で見ていたのが俺だったのか。

 いまだに、ぼんやりとしたままの虚ろな視界の中で考えた。応接室で寝てしまっていたのだ。いったい今は何時なのか。夕方の六時に迫っていた。陽はまだかろうじてあった。シカンは電気をつけた。こんなところで一体何をしているのか。応接室を一回り見るが、誰の姿もない。そうだった。ここに人が集まっていた。そのメンバーを思いだしていった。最後に長谷川セレーネも来た。みんなで何かを話し合っていた。しかし思いだせるのはそこまでで、そこからの記憶は急速に萎んでいった。その光景こそが、夢の中の世界のようだった。俺は夢を見ていたのか?ここには誰も来てはいない。いや、昨日は、井崎夫妻が泊まりにきた。あれも夢だったのだろうか?もし今日の集まりがなかったとしたら、井崎夫妻との再会も、きっと現実のことではないのだろう。その続きで、他の人たちも、呼んだのだから。

 記憶がこんがらかっていて、うまく整理がつかなかった。

 Gフェスタの三日目は、どうなったんだっけか。

 中止だよな。そう、やるわけがない。爆発事件が起こったのだから。

 シカンはテレビをつけた。有楽町界隈に起きた、爆発事件の続報だった。なんと、有楽町だけではなく、渋谷でも同様の事件が起きていた。そのパニックの様子が画面には映し出された。地面が盛り上がり、まるで津波のように何十メートルの高さにまで盛り上がり、そして倒れてきていた。地面そのものが波を打っていた。生き物のように蠢いていた。爆発による余波であった。地面を隆起させ、沈降させたりしているらしかった。渋谷駅から半径数キロに渡り、この現象が起きたのだという。有楽町の爆破事件とそっくりだった。

 政府は専門家を集め、緊急の対策本部を設置して、今後の対応についての協議を始めた。このあいだの有楽町の事件だけでは終わらなかった。容疑者を逮捕し、鎮静化は時間の問題だと思われていた状況は、完全に覆されていた。これはほんの始まりにすぎなかった。

 シカンは郊外に家を構えていたので、幸い被害地域からは外れていた。第三、第四の事件が起こったとしても、時間的にはまだ余裕があった。

 いいかげん、テレビを消そうと思ったその瞬間だった。画像は、スタジオのキャスターへと戻っていた。緊急速報が入った。渋谷に続き、吉祥寺周辺でも大きな爆発があったことが判明した。その波は徐々に広がりを見せているということだった。有楽町界隈にできた大きな穴と渋谷周辺の穴が、今度は統合するべく、動きを見せているらしかった。東京のどの地域でも、いずれはその地面の変動の影響から、免れることはできない。すでに多くの人々が、東京を脱出しているという情報も入ってくる。さらに被害は、東京から拡がる。時間的にどのくらいかはわからないが、かなりの広範囲に拡がる見通しだということを、政府は見解として発表していた。



 錬金術師は、自分の未来を見ていた。そろそろ使者がやってくるはずだった。おそらく、精液の採取のことだけではないのだろう。占星術そのものが違法だと認定される。悪魔の化身のような扱いをされ、為政者に処刑される。その使者たちの足音は、すでに聞こえ始めている。逃げることなどできない。逃げる必要すら自分には感じられない。

 結末がだいぶん前に見えていたからこそ、それまでのあいだに、何をするべきなのかを常に考え、見極めてきた。何の後悔もなかった。

 ただ、ここまで集めた精液のサンプルだけは、手放すのが惜しかった。自分の他には、誰も大切な資料として保管する意志はない。ならば、この残された時間の中で、自分のやれることといえば、このサンプルをデータ化することだった。どこかに残しておく必要があった。自分が死んだあと、誰かがそのデータを発見し、復元しようとする意思を持たせることだった。そのことに集中する時が来ていた。

 前から、考えておくべきだとは思っていたが、いざ最期のときが近づいてくるまでは、

この肉体が実感を伴えなかった。実感が伴えなければ、保存の方法もまるで思いつきはしない。足音が聞こえてきた。自分は生きたまま、為政者のもとに連れていかれ、裁判にかけられ、処刑されることはない。ここで、この場所で、あっというまに首を切り落とされる。その時刻はあと一時間を切っている。この場所、この部屋に、今すぐデータ化して、移し替えなければいけないのだ。建物では駄目だ。時代を超え、環境を超えて残らなければ、意味はないのだ。



 Gの言葉は消える。代わりに、Kの大きな声が聞こえてきた。車体は緩やかに下降している。

「どうして、浮いているんですか!」Kは叫んでいた。

「下を見てみろよ」Kは、その光景に絶句してしまった。

「井崎さん、大きな穴が。あっちにもこっちにも」

「クレーターみたいだろ」

「そんな・・・」

「水のない湖だよ」井崎は言った。「増え続けているんだ。そして統合している。また別のところに現れ、統合、分裂を繰り返すんだ。その影響で、地殻のすべてが連動して、うねり始めている。まるで、地面そのものが、津波であるかのように」

「しかし、井崎さん。美しいです」

「そうだな」

「青々としている。そして、陽の光を浴びて煌めいている。本当に水面のようだ。水しぶきが上がっているみたいだ」

「光を反射させた宝石のようです」

「上からみたら、そんなところだな」

 車体はなめらかに半回転をしてしまった。またしばらくして、元へと戻った。次第に、激しく横に揺れるようになり、Kは体を支えきれず、車内の側面におもいきりぶつけてしまった。聖塚もまた同じくドアに叩きつけられた。

「井崎さん、これは、どうなるんですか?我々の車は、地面に叩きつけられるんですか?そもそもどうして、浮いているんですか?それとも目の錯覚なんですか?」

「この現象がすべてだ。ゼロ湖の出現が、こうして、車体の重力に多大な影響を与えている。すべてはゼロ湖次第だ。俺らの力ではどうすることもできない」

「けれど、井崎さん」

「黙ってろ。俺にできることは、精一杯やっている。こうしてハンドルとアクセルを、自分の意志で動かそうとしている。コントロールが効かないんだよ!何とか、抵抗している。わからないのか?」

 眼下の光景が、さらに、鮮明になっていった。

 一面が海になってしまったかのように、海面の上を移動する飛行機を、操縦しているようだった。

 一瞬の静寂が訪れ、ゼロ湖は固定される。穏やかな世界が広がっている。再び別の場所に巨大な陥没が出来る。大地のうねりが始まる。地上にいる人間は、今どんな状況になっているのだろう。考えたくもなかった。そこにいたら、自分たちもすでに、巻きこまれていた。幸いにして上空にいる。墜落するのは時間の問題だが、最期にこんなにも美しい光景が見ることができてよかった。井崎はそのことに感謝した。そして、一人ぼっちではなく、こうして聖塚とKが、一緒にいてくれたことにも感謝する。

 まだ諦めるのは早いと、井崎は思った。

 このままゼロ湖に墜落するのではなく、どこか別の大陸に不時着できる可能性はないものか。何とかこの高度を保ちながらも、長距離を移動できる手段はないものか。このゼロ湖の現象が、いったいどこまで拡がっているのはわからなかったが、影響がまったくない島に、緊急着陸できないものだろうか。

 井崎は、その方法を、自分自身に問い続けた。ゼロ湖にも、問いかけ続けた。俺らはこのまま、あなたに向かって落ちていくことが、ふさわしいのでしょうか。何が一番、ふさわしい姿なのか。一番ふさわしい状態に、すべてをしてくださいと、井崎はゼロ湖に祈り続けた。

 俺も、聖塚も、Kも、地上も、上空も、すべてを、あるべき本来の姿に戻してほしいと。本来の姿に戻してほしいと。

 だんだんと、周りの風景がぼやけ始めていった。聖塚の存在は消えた。Kの存在も消えた。車体の存在も消えた。拡大と分裂、統合を繰り替えしていたゼロ湖も、また消えた。

 すべては幻のようだった。この手の感触だけが本物だった。ハンドルを握っている。足は、アクセルとブレーキのどちらかの上にある。

 井崎は、目を見開こうとした。視界はまったくなくなっている。すべての存在は消えたままだった。誰の声も聞こえない。Gの声も、Kの声も、聖塚の声も、常盤静香の声も。

「聖塚さん!」

 井崎は声を振り絞って彼女の名を呼んだ。「僕はあなたと生きていきたい」

 彼は繰り返した。「たとえ、このあとで、あなたと離れてしまったとしても。それでも、きっとまた、どこかで会える。そう信じている。僕はあなたのことを忘れはしません。僕は続きを信じているんです。あなたとは、またどこかで会えるはずです。僕はあなたを忘れません。姿かたちがたとえ変わってしまったとしても、僕はあなたを一目見ればわかる。あなたが誰であるのかがわかるんです。ずっと探していたものだから。今度は掴みとりたい。今度こそは・・・」

 車体はさらに急下降していった。

 いよいよ、ゼロ湖が、支配する地上への突入が、真近になったことを、井崎は悟る。

「K。お前も、元気でな。お前には、才能がある。お前の本来の才能は、これからだ。G公演をきっかけに、きっと開花していく」

 そう、心の中で言い終えると、井崎は、GやLムワの存在を、かつてないほど強く感じ始めた。



 ものではない何かに、残しておかなければならない。しかも自分には、頼れる知人が誰もいない。いつだって、自分の感覚だけを頼りに生きてきた。それが最大の長所であり、今は弱点となっていた。そもそも誰かに、伝承できるものでもなかった。やはり、残すことは不可能か。いや、何かあるはずだ。錬金術師はいつものように、心を落ち着け、意識を深く沈潜させていった。

 敵の姿は、すでに、心の中には映っている。馬を疾駆させ、山を越え、もうすぐこの大聖堂の前へとやってくるだろう。大聖堂は今では朽ち果てている。祈りに来る人が途絶えてから、すでに長い期間が経過していた。だが、少なくない人々は、この礼拝堂ではなく、横の入り口から地下へと通じる、階段を下り、そしてこの部屋へとやってきていた。冬でも冷たいこの地下の部屋に、火を灯しながらやってくる。人の出入りは、途絶えることがなかった。

 今は真夜中だった。すでに、占星術を求めてやってくる人の姿はない。一週間くらい前から兆候は出ていた。やってくる人々が極端に少なくなっていった。その中でも、やって来る人は、何かに追われているような恐怖心を、顔に浮かべていた。

 錬金術師は、その僅かな変調を見逃さすことはなかった。

 ずっとわかっていた、最期の瞬間へのカウントダウンが、このとき始まったのだと思った。建物でも書物でもないとしたら・・・、そう、この大地しか、なかった。

 錬金術師は、この大地こそが、自分の集めたデータを保存する唯一の場所であることを自覚した。ここに埋め込んでおくのだ。大地の、意識の層。それとの交流を通じて、この広い空間に暗合を埋めこんでいく。時が変わり、環境が変わり、状況が変わっても、この大地だけは、いつまでも在り続ける。そして、誰かが、いや、この私かもしれないが、ある人物が、その暗合をこの大地から引き出す。それだ!と、錬金術師は確信した。もう、時間がなかった。錬金術師はさらに、意識の領域を下げていった。ここまで下げていったことは、かつてなかった。それは、危険な領域だった。自分がもうこの世界で生きていくことはないと、そう確信したときにしか、踏み入れてはいけない、領域だった。これまでの生活に、戻るつもりはなかった。自分の命を狙う人間たちの使者によって、無残にも、首を切り落とされる自分がいる世界へと、すでに変わっている。

 錬金術師は、何も思い残すことがなかった。最後に、このデータを入力する場所を見つけたのだ。それは大地に染みこみ、誰にも気づかれることなく、眠り続ける。いつか、それを取り出そうとする人間が現れるまで。もしくは、大地が何らかの作用をきたして、勝手に情報が統合してしまい、一つの生き物のように、うねり始めるまでは。

 錬金術師は、ガラスの容器に入った精子の数々から、データをすべて引き出していた。

 意識の深い沈潜したその場所へと持ってきた。その状態を、しばらく保持した。

 浸透するまでに、それなりの時間が必要だった。十分に染みとおったと感じたそのときに、彼は大地全体に対して、それを引き渡す作用を行い始めた。自分はあるものからあるものへと、データを移動させるために存在する媒介者である。そうして、彼は、自分が一個の人間であることを次第に放棄していった。

 もう、どの道、自分は生に戻ることはない。恐れるものは何もなかった。もうすぐ、いや、もう今頃は、あの地下室に複数の使者たちが現れ、太い刃をしならせ、錬金術師である自分の背後にいる頃かもしれなかった。

 無抵抗の錬金術師は、そのまま素直に、自らの首を彼らに差し出す。彼らは労せず、一人の人間を消すことに成功する。その事実を知った人々は、もう二度と、大聖堂の地下へは足を踏み入れなくなる。階段は封鎖され、厚い扉が設置され、錠がかけられる。大聖堂の劣化具合は、さらに激しく加速していく。いずれ建物は、取り壊されることだろう。別の場所に、あらたな権力者が、立派な教会をたてることになる。人々は週末になると、そこに礼拝をしにいく。地下室に転がった亡骸は、骨だけの姿となり、かつてそこに長い人の列ができていたことを思い出せる人間は、誰一人としていなくなる。



 シカンは、窓ガラスがガタガタと揺れ始めていることに気づいた。単なる風かと思ったが、だんだんと、家そのものが揺れ始めていた。地震だと思い、ドアを開け、逃げ道を確保する。だが玄関を開けた瞬間、突風に煽られる。とても、外に出ていける状態ではなかった。ドアを完全に締めた。揺れが治まる気配はない。地面が揺れているのか、風で空気が煽られているかはわからない。これは、そのどちらでもないと思った。あのニュースの通りなのだ。これはゼロ湖の出現なのだ。ついに、この辺りに現れたのだ。シカンは覚悟はしていたものの、はやくも身近に迫ったことに、驚きと落胆を感じた。俺だけが、この家に一人で残っている。井崎たちはここを離れたのだろう。どうして俺を起こしてはくれなかったのか。みんな俺を置いてどこに行ってしまったのか。ここにゼロ湖が出現することは、あらかじめわかっていたのだろうか。それでみんなは避難していったのか。それとも彼らは、それぞれに事情があって、予定通りに解散したのかもしれなかった。俺は、この家の主だった。置いていって当然であった。

 おかしな夢は、起きた今も続いていた。

 あの老人。そうだ。あの老人は、確か、Gフェスタの初日の公演の、一番初めのシーンに出てきた男だった。Gフェスタの始まりは、その老人からだった。今になって思いだした。あの場面はいったい何だったのか。Gと長谷川セレーネばかりに注目していたので、あの場面がすっかりと消え失せてしまっていた。あれは何の意味があったのだろう。今になって、その不可思議さが蘇ってくる。あの場面だけが奇妙なテイストで、しかも完全に浮いてしまっていた。その老人が今、俺の夢の中に復活してきていた。不思議な巡り合わせだった。

 シカンは、窓越しに空を見上げた。黒ずんだ雲ばかりだったが、次第に青々としてきた。

 それは、波だった。大量の水が畝って、クリスタルガーデンを襲ってきた。シカンは強風のために、家の外にも出ることができなかった。しかも、どういうわけか、ここは海でもないのに、すごい高さの水が迫ってきていた。万事休すだった。すでにテレビは消し、ネットも切っていたので、情報は何も入ってはこなかった。シカンは窓から背を向けた。頭を抱えて何の防備もできないままに、仕方なく、両腕を思い切り横に広げた。ここはしばらくすれば、あの有楽町界隈のように巨大な陥没が起こり、巨大な穴だけが残るだろう。俺もクリスタルガーデンも、すべては埋没する。ここが俺の墓場だった。井崎たちも、おそらく、どこにいても、この地殻変動の波からは逃れることはできまい。ここにきて、シカンは、この現象が加速度的に連鎖していくことを、確信した。そして、これは、人が引き起こしたものではないことも、同時に確信した。けれど、それはわからなかった。人が最初の引き金を引いたことは十分に考えられた。

 みんなは、どこに行ったのだろう。ここに居たらよかったのにと、シカンは思う。

 しかし、今、この最期のときを一人で迎えることに、シカンは奇妙な満足感を得ていた。

 それぞれが別々にこのときを迎える。それでいいのだ。その瞬間が来る。ものすごい衝撃が身体に走った。大量の水がガラスを割って入ってくるのだろう。その水で、俺は溺れ死ぬ。暴風で家が壊滅し、その下敷きになるよりも、きっと水の流入の方がはるかに大きい。あの波の高さを見た。しかし、皮膚に感じる水の存在は、いつになっても来なかった。シカンは閉じていた目を恐る恐る開けた。ガラスはすべて割れ、飛び散っている。その欠片を踏まないように彼は窓に近づいた。外に出る。風はすでに収まっている。そこに、水はない。波のように見えたあれは、一体、何だったのか。一瞬、混乱した。状況が飲みこめなかった。けれども、地面が突然盛り上がってきた。クリスタルガーデンの庭は、すでに自分が今いる場所よりも、高くなっている。もしや、さっき波のように見えたアレは、地面だったのでは?高低差のなかったはずの地面が、今ではまったく別ものになっている。クリスタルガーデンが丘のようになっていたのだ。難解なゴルフのコースよりも、はるかに、険しい秩序のない高低差のある・・・。

 その形状のままに、時間は止まっていた。

 シカンだけが、唯一、生き残った動く物体であるかのように、静寂が辺り一帯を包み込んだ。シカンはどうしていいのかわからなかった。家の中に戻る気にもならなかった。このままここに居続ける気にもならなかった。ここからまずは、逃げるべきなのか。遠くに離れるべきなのか。反射的に車を探した。しかし、あるはずの車の姿がなかった。ずっと乗らずに置いておいた車が、影も形もなくなっている。すでに飲みこまれてしまったのか。

 彼は、クリスタルガーデンの敷地の外へ走って出ていった。そして、道路の様子を見た。

 車の有無に、神経が行っていた自分をあざ笑った。まったく走れる状況にはなかった。道端には、横転した車の姿がある。それほど交通量がなかったことが幸いしていた。横転した車の中からは、人が這いだしてくる様子はなかった。本当に、時間は止まってしまったかのようだった。時間は景色に依存しているのかもしれないと思った。

 ほんの少しだけ、足の裏に何かが蠢く鼓動を感じた。予感は的中し、再び地面が捲れあがってきた。シカンは後ろにひっくり返った。後頭部を打った。巨大な高さの何かが再び迫ってきていた。それは波ではなかった。道路でもなかった。何なのかわからなかった。

 とにかく生き物だとしかいえなかった。自分を超えた生き物。人間を超えた生き物だった。それが、今、俺を飲みこもうとしていた。水のない波。水のない湖。ついに、俺の所にそれは到達した。後ろを振り返った。クリスタルガーデンの最期の姿を見ようとした。

 自分の全財産を投入し、買った大豪邸。クリスタルガーデンは、すでに半分以上も沈みこんでいた。応接間はすでに地上には存在してなかった。プールもおそらくは地面よりも遥か低い場所に行ってしまっている。屋根の先頭部分は、かろうじて、最後に肉眼で確認した。終わった、すべては終わってしまった。街は消えてなくなる。大陸は消えてなくなる。水ではない何かの下に沈み込んでいく。上空にしか助かる道はない。空にいて、空から地上を眺めている人間を、このときシカンは心底羨ましく思った。錬金術師は言う。俺は死ぬ瞬間、大地と、一緒になっていたと。大地の意識の中にいた。たとえ誰かに首を切り落とされていたとしても、その場面は、自分からは遥かに遠く、それは違う時代の、違う時間の中で起きた、誰か別の人間の出来事のようであるだろう。



 Kは、意識を取り戻した。傍には二人の人間がうつ伏せになって転がっている。

「聖塚さん」と女性の身体に触れた。彼女は意識を失っていた。井崎の身体も揺すぶったが、彼も反応を示さなかった。二人とも、頭からは血が流れていた。特に井崎の頭部からは、大量の液体が流れ出ていた。血の他にも、透明な液体の存在があった。脈を確認したが、すでに止まっていた。心臓マッサージをしても、人工呼吸を繰り返しても、反応はまるでない。聖塚に対しても同じだった。二人はすでに死んでいたのだ。Kは身体に触れることをやめた。傍に車はなかった。残骸すらなくなっていた。墜落していった車はどこにいってしまったのか。Kは自分の頭部に触れた。頭は打っていないようだ。身体のすべての部分に、何か不具合がないかを確認する。かすり傷ひとつ負っていない。ここがどこなのか。Kは周囲を見渡したが、白い霧に覆われていて、よくわからない。しかし、その霧は明るかった。太陽が存在している。

 Kは立ち上がり、二つの遺体から離れる。周囲を歩き始めた。車両が行きかう様子はない。人とすれ違うこともない。何か音が聞こえてくることもない。あのときどこに落ちていったのか。上空から見た景色を思い出そうとする。あの、青々としたナイアガラの滝のような場所が、ぱっくりと口を開け、穴が拡大していく様子を思い浮かべる。また、別の穴と合流し、拡大し、大きな陥没を作っていく様子を、思い出す。あの中に突っ込んでいってしまったとしたら、こんな場所に辿りついたのだろうか。そうか。中心地にうまく入りこんだのかもしれない。安全で、平穏な空間に、今はいるのかもしれなかった。あの二人は不幸にも頭から落ちてしまったが、自分はうまく着地したのだ。臀部に強烈な痛みが走る。さらに右足からは力が抜け落ちていった。

 ここにきて、身体の痛みがあちこちで発生してきていた。無傷ではなかった。彼はその場にしゃがみこみ、動けなくなった。痛みは上半身にも移行し、もしや頭部にまで移行するのではないかと恐れたが、幸い痛みは両肩で止まった。

 三人の中で、自分が唯一生き残ったことを、Kはあらためて思い知らされた。







































   第5部 第13編  ネオマヤン





















 常盤静香とKは、同じ事務所で働くようになった。Kが代表を務め、常盤静香が秘書として入っていた。井崎の以前の事務所は、約束通り、長谷川セレーネに譲渡されていた。彼女が代表を務め、強力なマネージメントスタッフで、業務を固めていた。しかし彼女は、ここのところすっかりと、表舞台に出てこなくなった。彼女が出演する広告は、複数存在していたため、彼女を見ない日はなかったが、本人に限ってみれば、イベントや、ショー、舞台など、いっさい出演してなかった。

 長谷川セレーネと、北川裕美の二人の姿が消えたあと、常盤静香はいったいどうやって家に戻ってきたのかわからなかった。カレンダーを見てみるが、今日が何日なのか、全然わからない。誰かに今日という日の数字を言われたとしても、まったくの実感がわかなかった。あの二人の姿を見てから、まだ数時間しか経っていないのか。それとも、何日か経っているのか。何十年も経ってしまったような気もする。

 常盤静香の心の中を支配していたのは、レイラインの場所だった。

 北川裕美が長谷川セレーネに伝えたその場所の存在を、この自分も知ってしまっていた。そのことがずっと頭から離れず、だんだんと、自分という存在を苦しくさせていった。なぜ、あんな場面に出くわしてしまったのか。すぐに退散すればよかった。どうしてすぐに離れなかったのか。場所だけを知っていて、それで何ができるというのか。私は彼女たちとは違った。とても抱えきれない。私一人で、このことを抱え、生きていくのはあまりに酷だった。北川裕美と会うことは、もう二度とないだろう。彼女とはまったく違う世界に生きていた。道はどこかで決定的に交わらなくなった。私は彼女たちの前からは姿を消す。それでもレイラインの場所、配置だけは残り続ける。忘れようとすればするほどに、脳裏には、地図のようにくっきりと現れ出てくる。世界中に張り巡らされたその地点が、光って浮き出てくる。完全に、この身体に埋め込まれてしまっていた。傷痕のように明確に刻まれてしまっていた。こんなものを抱えたまま生きていくことなどできない。

 このときから、常盤静香は自殺を考えるようになった。

 これまで生きてきた中で、自分の死について考えることなど、ほとんどなかった。

 ましてや、自死などという選択肢は、絶対にないものだと思っていた。時間の感覚が不鮮明になってきたのも、これからの人生を考えられなくなってしまったからだった。もう、心は決まっていた。あとはどこでどんな方法で、死ぬかだけだった。

 だがそのときだった。Kと名乗る男から、連絡があったのだ。すぐにピンとはこなかったが、自分がかつていつだったか忘れたが、カフェで声を掛けたことのある男の名だった。

 そのとき急に時間の感覚が蘇ってきた。自分が井崎という男の妻であり、今は別居中であることも思い出した。

「旦那さんのことは、大変、残念です」と彼は言った。

 常盤静香は、彼の言ってることが理解できなかった。

「旦那さんと僕は、一緒にいたじゃないですか。シカンさんの家ですよ。あなたも、いた」

 だんだんと時系列が脳細胞上に復活してきた。

 北川裕美と長谷川セレーネの二人に路上で出くわす、少し前の話だった。

「あなたも、無事だったんですね。僕だけが助かりました。まさか知らなかったんじゃないでしょうね。ごめんなさい。つい、もう、連絡はいっていると思って」

「井崎が死んだの?」

「もう、この際だから、全部言いますけど。聖塚さんも即死です。二人は死にました」

 聖塚と井崎が、道路に叩きつけられたときに、手を繋いでいたことは言わなかった。

「あなたは、途中で、車を降りましたけど。地上は大丈夫だったんですか?」

 常盤静香は、黙ったままだった。

「ごめんなさい」とKは続けた。

「衝撃の事実ですよね。最愛の夫が。でも、あなたは無事だった」


 Lムワの著書はペースを早めることもなく、遅くなることもなく、リリースされ続けた。すでに著作者は死んでいて、原稿はすべて出そろっている。十冊すべての刊行までは、あと一年を切っていた。Kはずっと、Lムワの本との連動性を、意識せざるをえなかった。常盤静香は、井崎が残していった仕事をこなしていった。Kの隣にはいつだって、井崎が並走している。Lムワの影が、色濃く染みわたっている。さらには、自分の描く脚本は、シカンと共にあった。さらに、あらたなる出会いも重なっていた。Kの生活は、違う局面が同時に、重層的に織りなされていた。


 常盤静香の訃報が入ったのは、ちょうど新しい脚本の、打ち合わせの最中だった。

 常盤静香は、ある温泉地の旅館の一室で、息絶えていた。外傷はなく、自害した様子もなかった。そのため、警察の現場検証はあったものの、自然死、突然死ということで、早々に決着がついてしまった。

 しかし、部屋には遺書のような走り書きが残されていたため、自殺だという疑いは、最後まで残った。それは、誰に宛てたものなのかわからなかった。


 井崎が死んでからというもの、Lムワの著書は売れまくった。井崎は死ぬまでにLムワの著書の編集をすべて終えていた。あとは装丁を決め、発売日をきめ、順にリリースしていくだけになっていた。常盤静香が、その業務を担っていたが、彼女がリリースをすべて終えていなくなってからは、爆発的にLムワの本は売れていった。彼らがいなくなったこととの因果関係は全くなかったが、それでもその現象は顕著だった。


 それとは、対照的に、Kが脚本を担当した映画や舞台は、ことごとくコケた。客はまったく入らず、途中で打ち切りになることが頻発した。興行収入はかなりの赤字で、出だしからKは大きく躓くことになった。彼には相談する相手が誰もいなかった。彼をデビューへと導いた人たちが、今では揃って、いなくなっていた。

 Kは、Lムワの著書を読んだりして、心を慰めていた。Lムワもまた初期に出した本はまったく売れず、次々と絶版になっていった。井崎が見つけ、復刻することを手伝うまでは。それでも、不思議だったのは、Lムワとは違い、自分には仕事のオファーが、途絶えなかったことだ。何故、こんなにも、興行的にはうまくいかない自分に、脚本の依頼は来るのだろう。全然わからなかった。Kは何とか一本当てたいと願うようになった。大それたことは言わない。一本だけでいい。まずは成功させようと。


 Kは集中して、一つの作品に取り組むことにした。それまで何本も、同時並行的に作業を続けていたものを、一つの世界に集約させることにした。それでは異なる世界がぶつかりあってしまうと思いながらも、今必要なことは、凝縮力だと思ったのだ。自分にはまだ分散させる力がない。拡散して、マーケットを拡大しているLムワの作品群を見て、Kはそう思うようになった。俺にはあんな力はない。彼とは逆のことをするべきだと。彼が拡散に走っているのなら、自分は今、凝縮に走るべきだと思ったのだ。

 Kは暇さえあれば、出来あがりつつある脚本を圧縮していった。その度に、別のアイデアが生まれていった。それをまた別の作品に転化したりすることなく、同じ作品内に呼び戻し、埋め込んでいった。

 そうしていくうちに、またあらたなイメージが、湧いてきた。彼は、海の本を書こうと思った。Kは脚本を書きながら、さらには浮かんでくる海のイメージを、まとめながら、あいからわずたくさんのミーティングに参加した。

 一度、編集の人間やメディアの人間に訊いてみた。なぜ自分の元には、仕事が殺到しているのか。彼らは皆、首を傾げた。

「みんな、あなたに、期待してるからじゃないですか?」

「あなたは必ず大物の脚本家になりますから」

「最初は仕方のないことです。これも経験ですから。次ですよ、Kさん。次です。肝心なのは」

「Lムワの本は読みましたか?」Kは彼らに訊いてみた。彼らは誰も読んでなかった。

「そんな・・・。今、めちゃくちゃ売れてるじゃないですか」

「そうですね。でも、自分にはちょっと、向いてないなぁ」

 ある編集者は答えた。

「正直、苦手です。それよりも、あなたの作品の方に、僕は興味があります。可能性を感じます」

「そう言われても、僕は、Lムワさんには、到底かないません」Kは言った。

「そんなことを言っては駄目です。あなたはLムワさんじゃない。それに自分にはいまだに、Lムワさんの才能がわからないんです。理解できないんです。なぜこれほどまでに、多くの人に受け入れられているのか。誰もわからないんじゃないですか。だってそうでしょう。少し前までは、誰からも見向きをされなかった本ですよ。絶版作家ですよ。なぜ、いきなり爆発的に売れたのですか?不思議です。まったく不自然です。僕は認めません。これは何かの間違いです。世界が何かおかしくなってしまった。そうに違いありません。これは誰かが仕掛けた、陰謀なのかもしれない。だって、そうじゃないですか。理屈に合わないじゃないですか。この何週間かで、突然。何かが起こったんです。何かが変わってしまったのです。悪い方に。おかしな方向に。自分は、そんな世界に汲みすることありません。あなたを支持します。あなたこそが、未来のアーティストなんです。私だけじゃありません。そう思ってるのは。その証拠じゃないですか。この依頼の数は」

 そう言われて、悪い気はしなかった。

 けれども、Lムワの著書群は、あきらかに目の上のたんこぶだった。意識するなと言われるほどに、目立って見えてくる。それに、Lムワと関わりのあった井崎や、北川裕美。彼らが、別の他の知り合いへと繋がっていき、そして自分の側にまで、再び蠢いてきた。



 クリスタルガーデンに置いてきたシカンは、その後、行方がわからなくなった。今だに、その失踪の謎が、解明されることはなかった。生きているのか死んでいるのかもわからなかった。

 クリスタルガーデンは、すでに競売にかけられ、新しい所有者を探していた。

 過去にもクリスタルガーデンを購入した者が、行方不明になるということは複数あったらしく、その事実も、シカンがこのような状態になったことにより、明るみに出てきた。そんな不吉な豪邸だったが、家の宣伝広告には、長谷川セレーネが出ていた。彼女を起用したCFが時々流れていた。彼女はその他にブラッドストーンというブランドの広告塔にもなっていた。ブラッドストーンは今では知る人ぞ知る、雲中万理がモデルを務めていた唯一のブランドだった。黒い鳥が宙に浮いた女性を貫いて、クロスしているロゴが有名だった。エネルギー産業と、女性のファッション、化粧品、それに自宅の庭用に販売している魔除けの大きな石などを、提供している会社だった。Gフェスタ公演の、広告塔にもなっていた。Kがあらたに脚本を書きなおして、上演する新しい舞台だった。Gや長谷川セレーネが出演することはなかったが、新しい配役によって、上演が決まっていた。

 長谷川セレーネは、他に精子バンクのCFにも出ていた。未来のためにとっておくという、預貯金のようなものとして、精子をバンクに置いておくという主張を、彼女は繰り返していた。男の精液は、たとえ同じ人のものであったとしても、その瞬間瞬間で、劇的な変化を遂げていて、それはその時によって、漲っている気が違うからなのだ。なので、ある『気』が究極的に高まっていることを感じたときには、是非、そのときの精子を採取し、残しておくことが望ましい。それはきっと、いずれは、あなたの役に立つときが来る。一つの財産の形になると、彼女は主張していた。その採取したものを、未来にどう生かしていくのかまでは、彼女は何も言うことはなかった。

 こう見ていくと、彼女はずいぶんといろんな広告に起用されていた。

 Kはあらためて、その増加ぶりに目を見張った。

 都市開発の不動産業者のCFにも出ていた。KNAという新しい会社の広告塔にもなっていた。

































 文明が最初に築かれたときの意図に、自分は何も関わり合ってはいなかったと、神官は思う。

 どんな動機があって、あのような都を作ったのか。その部分に、自分はまったくもって興味をもってこなかった。深く重なりあうことを避けていた。そこに重なっていなかったからこそ、都の中心から追い出されたのだ。

 結局のところ、自分は、あの世界に同調してなかったのだろう。

 今にしてみれば、幸いなことだった。同調していれば、今頃、あの都と共に朽ち果てていたのだ。この命は潰えていただろう。つまりは、両方の都とも、建造した意図と同じ原理が、崩壊へと導いていた。どこか不自然で、無理のあった意図だったのだ。それでも、何百年に渡り、栄華を誇った。存在意味があった。それは否定できなかった。しかし、この自分とは、まったくもって深く関係をもつことができなかった。


 最初の動機が、肝心なのだと、神官はあらためて思った。

 もし、と彼は思った。もし、自分が、今、廃墟と化したテオティワカンに戻ったとしたら。あの場所を自分のものとして、再構築しようとしたら。いや、やめよう。そんなことなど、できるはずもなかった。そんなことをする、必要すらなかった。もう、あの場所のことは、忘れたほうがいい。自分には、すでに、この場所があるじゃないか。ここでなら生きていける。今さら、テオティワカンのことが、何だというのだ?そもそも、同調しない世界だったじゃないか。

 それでも、神官は、自分の最期の場所のことを考えた。


 命の潰える最後の地のことを考えた。ここだろうか。ここで死ぬのだろうか。テオティワカンなんじゃないのか。心の声は消えることなく、静かに反復していた。もう一度、戻るべきなんじゃないだろうか。心の奥底では、すでに意志を固めているように思えた。じゃあ、いつなのか。今なのか。それだけは確実に言えた。まだだった。準備ができてなかった。最初の意図、それが最も肝心なのだと、神官は呟いた。テオティワカンも、マヤも、結局のところ、自分が意図して建てたものではなかった。建造者はそこに強い意図を込めていた。その芽は育ち、やがては繁栄を極めていった。その後は、なだらかに朽ちていく。最期の瞬間を迎える。その、最期の瞬間こそが、最初に込めた意図と同調している。

 建造者にとっては、それが、最もあるべきフィナーレであり、この世との別れの時でもあった。その意図を、もし、テオティワカンの地に持っていき、新しく世界を築くのであれば、この自分が持ち込んでいく必要があった。その意図が、まだ自分には、明確に浮かんできてはいなかった。それが鮮明になったとき、それがおそらくここを出ていくときだと思う。テオティワカンに、また、別の文明を勃興させるときだ。


 今、住んでいる都の様子を、やはり詳しく体感していくことにした。

 この、まるで統一感のない無秩序な街には、そういった世界を望んだ、誰かの意図が反映しているからこその、勃興した空間だった。作ったものは、必ず崩壊する。崩壊するときに後悔したくはない。最初に決める意図というのは、ただそのことだけを願えばよかった。結局のところ、これまでの私は、誰か別の人間が望み、意図した世界に対してだけ、祈りを捧げる存在だったのだろう。

 神官という職業がまさにそのことを象徴していた。

 借り物の人工物に対してのみ、忠誠を誓う。その世界の維持のために、自分の身を没入させて生きていく。恩恵は受ける。生命は維持される。崩壊のときまでは。

 崩壊は自分自身の死という形を伴う。しかし、それよりも先に、文明そのものが壊れることの方が、先の場合もあるだろう。

 けれどもいずれは、自分自身の死という形で、ピリオドは下される。

 最初の意図が、間違っていたとしたら、それは途中においてはうまく結果が出るものの、最後には、この自分を、人を、自然を、深く傷つけた結末を招いてしまうだろう。


 生き残った神官は、だんだんと憤りにも似た、やりきれなさが募ってきた。

 まだ、爆発的な感情にまでは、発展しそうになかった。しかし、もっと放っておいてくれと、神官は思った。何か、完全に満たされることのない隙間が、ますます増大するようになっていった。これは何も、今に始まったことではない。この二年もの間、テオティワカンを捨て、ここへと来てから、ずっと溜まってきた想いの集積だった。何かが足りない。すべてが満たされている世界において、明らかに欠如している何かがある。神官は、それをテオティワカンに求めていた。その感情は、一気に、吹き出し始めていた。もしかすると、私は、廃墟と化した陰鬱な都そのものを、望んでいたのかもしれなかった。かつてあったはずの世界。生活の豊かさという意味では、まったく欠けたものだらけであり、それでもアンバランスにも突出した何かが、あの場所にはあった。それを求めていた。その片鱗が感じられるのなら、たとえ残骸でも何でもよかった。廃墟から想像することはできた。


 神官はだんだんと疲れ果てていった。哀しくなっていった。こんな世界になんて、住んではいられない。自分は神官なのだ。神の秩序を司るものなのだ。もう一度、復活させたい。朽ち果てていってしまったテオティワカンが、本来持っていたはずの機能を、再構築させてみたい。テオティワカンだけが、その機能を持ちえるのだ。

 そんなことを、一晩中考えていた。心はさらに切なくなっていった。かつて失った女を、今でも求めているような、今はなき女神を求め・・・。そうだ。そこにあるのかどうかは関係なかった。求める心が大切だった。求めているという世界が、自分そのものに欲しかったのだ。求めているという構造が、この空間に欲しかった。

 テオティワカンにはそれがあった。

 ピラミッドにもその意志が感じられた。

 その想いは届かず、光は失われた。

 でも、そこには、闇の中であっても、心の救いがあった。心の中には光が満ち溢れていた。今とはまったくの逆だった。これほど、光に満たされている世界にもかかわらず、心の中は真っ暗闇だった。この二年のあいだ、ずっとそうだった。激しい気持ちが蘇ってきていた。ぶっ壊してやりたい。爆発物でぶっぱなしてやりたい。こんなものは俺にはいらないのだから。消えてなくなってしまえばいい。誰にとっても有害だ。最終的に心は救われない。喰いつぶされていく。これは怪物だ。邪悪な生き物だ。装いだけを綺麗にした・・・怪物だ。

 こんなのは嘘だ。何かの間違いだ。この世界で俺は飼いならされている。二年ものあいだ。意識は書き換えられていく。この肉眼で見える世界には、自分ではない誰かの想い、それが反映したフィルターがかけられていた。テオティワカンのあるがままの姿が、自分には見ることができていない。

 一晩中、神官は、街を歩き続ける。

 こんな街であっても、何か綻びはあるはずだった。テオティワカンに通じる片鱗が残されているはずだった。完全に隠すことはできない。どこかに痕跡があるはずだった。だが一晩で、その痕跡を発見することはできなかった。



 神官は夜更かしをしたままの意識で空港へと向かう。チェックインを済ませ、予定通りの便に乗る。神官は離陸する前に、すでに寝てしまった。目が覚めたときには、すでに機体は着陸態勢に入っているところだった。窓から外を眺める。

 神官は、この偽りの光景に、じっと見いっていた。心を落ち着け、かかってしまっているフィルターを、取り除いていくべく、意志する。すると、水はだんだんと濁り始めていった。黒く変色していった。そのあとだんだんと、赤みが帯びてきた。あたりはすっかり、血液の奔流そのもののように見えていた。何かが剥がれ、落ち始めていた。

 機体は大きく上昇を始める。着陸態勢に入っていた機体は、矛先を、一気に変える。

 その血の海と化した場所に下降するのを、回避するかのように。そして、機体は、旋回し始める。すぐに館内放送が流れる。機長の男の声だった。


『機体トラブルが発生しました。ベルトをきつく締めてください。ただいま、機体のバランスを取り戻す作業をしています。大丈夫です。墜落はしません。ただいま、残った燃料を破棄しています。落ち着いて、乗務員の指示に従ってください。ただいま、機体はバランスを失っています。復旧作業につとめています。原因はわかりません。機体トラブルでもありません。コンピュータは正常に機能しています。原因はわかりません。しかし、機体の内部に、なんらかの問題が発生している模様です。もうすぐ、原因は突き止めることができるはずです。それまでに何とかバランスを立て直します』


 バランスをすっかりと失った機体の中でも、CAは、機内を素早い動きで移動していた。

 そういった訓練も受けているのだ。彼らは行き来していた。

 だが彼らは急に、一つの方向へと、一気に動き始める。彼らはいっせいに、神官の方へと向かってきた。

「原因は、突き止めました」

 機長からのアナウンスが入る。機体はバランスを取り戻した。

「お客様」CAの一人が声をかけてきた。「おわかりですね」

 すでに、全員のCAが集まってきていた。神官は、彼らに囲まれていた。

「ご降車ください」

 神官の横の壁が、扉になって開いた。

 神官は、空に吸い込まれるように、機体の外へと放り出された。


 目の前には血の海が広がっていた。かつて、イケニエたちが流し続けた血の総量が、今、まとまった奔流となって、今、目の目に押し寄せてきているかのようだった。

 神官は、自分がイケニエとして、テオティワカンに存在できていないことが、ずっと不満であったことに気づいた。イケニエの横に存在し、儀式を司るだけの、自分が、嫌でたまらなかったのだ。

 眼下には、海が広がっている。そして神官は、自ら、イケニエとして立候補する決意を、大海に向かって誓っている自分を発見する。

 その瞬間、血の海は消えた。そして、海底から、海面に向かって、うっすらと浮かび、突き上がってくるピラミッドの姿を目撃する。神官はその身を投げた。


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