ネオマヤン4 フォーティーンシークレット編

@jealoussica16

第1話


第四部 第九編  第一天界





















  第一夜


 Lムワは、【GIA】に乗って街を走っていた。すれ違う車もない無人の空間だった。

 GIAは時速200キロ以上は簡単に出せた。設定を変えることで、通常の車のようにもなった。GIAモードにすると、その走行中に、自分の機体以外の物質的なものが一気に消えてなくなってしまう。何ともぶつからなくなる。舗装された無人の道路を疾走していく。

 だが車体を走らせてからすぐに、GIAに変えることはできなかった。そして止まるときすぐにGIAを解除することもできなかった。飛行機でいうと、離陸と着陸の役割そのものだた。通常走行をし、百キロを超える速度に到達したときに、GIAへの準備が万全に整うことになる。そして解除するときも速度を落としていき、百キロを切ることで通常モードへの変換の準備が整うことになる。

 Lムワは200キロを超えるスピードで街を疾走した。GIAモードのときに車窓から見える外の様子は、商業広告が立ち並んだ国道とは激変している。木々や草の生えそろった自然の風景も、消えてなくなっている。アルミと鉄筋のみで作られた、真新しい近未来都市が現れる。生臭い匂いがまったくないこの世界に、Lムワ、本当に世界が別の次元に変わってしまい、もう二度と元に戻らなくなるのではないかと、一瞬恐怖に陥る。

 だがそれも、目的地に着くまでのことだった。まだGIAモードを搭載した車は、ほとんど出回っていなかったので、今この瞬間にすれ違う車の姿はなかった。つまりは、今後GIAが一般に普及したときには、すれ違うGIAが複数存在することになる。そんなことには当分ならないかもしれないが、GIAで道路が埋め尽くされてしまう時が、くるかもしれない。そうなれば、案外、通常のモードで走っていた方が、いいなんていう事態にもなるかもしれない。

 本当に短時間で、何の混雑を経験することなく、目的地へと到達できるので、ストレスからは解放された。しかしほんの少しだけ、身体に違和感は残った。特に、乗ってすぐの頃はそうだった。身体が妙に重くなったような状態が、降りたあとも続くようになる。けれどもそれも、回数を重ねていくうちに、ほとんど感じないレベルにまで下がっていく。GIAモードのときは、ほとんどハンドルの操作の必要もなくなる。それでも、ほんの少しだけ、車体はブレるため、手を添えておく必要はあった。修正とは到底呼べない、ただ人間が乗っていることを、信号として送るための行為だった。

 Lムワは、運転中、いつも目的地を突然拒否して、急に曲がりたくなる衝動に駆られた。車窓から見える、風景そのものが動いていて、車は少しも移動していないのではないかと感じることがあった。そのたびに、Lムワは、細い路地へと無理やり入りこみたくなる。自分の意志と自分の運転技術だけで、その狭い路地を抜け出たいと。だが、Lムワはその衝動を実行に移すことはなかった。


 Lムワは病院に入院中だった。医師からは、まだ退院の許可が出てなかった。こうして仮の外出が許されているだけだった。今日は、知り合いの結婚式だった。車を降りてから二時間だけという、限定付きの外出許可を、Lムワは得ていた。Lムワは全身ひどい火傷を負っていた。病院に運び込まれたときは、瀕死の重体だったという。Lムワには記憶がなかった。どこでどのように、火事に巻き込まれたのか。気づいたときには、病院のベッドの上であった。医師による大手術を終え、麻酔が切れた直後のことだった。

「目が醒めたようだな」

 医師はLムワに話かけた。

 Lムワは声を出すことができなかった。何故、言葉が音声にならないのか。彼にはまったく理解ができなかった。身体を動かすこともできなかった。

「これから、長いリハビリが続くよ」

 医師は、Lムワに語りかけた。側には複数の看護婦の姿があった。

「君には負債がある。返礼の義務がある。ここで死なせるわけにはいかない。もし負債がなかったのなら、我々はこんなにも躍起になって、君を救おうとは思わなかった。そのほうが君にとっては楽だし、我々にとっても労力が省ける。しかし、そういうわけにはいかない。君は、返礼の義務があるのだから。天は君にあるものを与えた。したがって、いずれは、その与えたものを駆使して、今度は君のほうが天へと、捧げるものがあるということになる。そうしないと、君は死ぬことすらできない。これは宇宙の法則だ、Lムワさん。あなたは、まだ途中なんだ。その返礼の儀は、始まってすらいない。半分くらいは返し終わった。せめて、そういう状態であったのなら、このまま楽に死なせてあげることもないわけではない。あなたの意思次第だ。しかし、まだ、何も返してはいない君には、生き延びさせる以外に、選択肢の存在はない。それに、今回のことは、あなたの落ち度ではないのだから」

 Lムワは、医師の言葉をずっと聞いていたが、本当にこの男が医師なのかどうか、疑いは晴れなかった。医師に成りすました、誰か別の人間ではないのか。看護婦の行動はごく自然であって、何の不審な点もなかったが、それでも、彼女たちが一言も話していないのは、逆に不自然さを感じた。ただ看護婦役を演じているだけなんじゃないか。看護婦のような置物として、ただ、このシチュエーションに添えられているだけではないのか。

「とにかく、一週間もすれば、包帯はとれる。ゆっくりであれば、自分の足で立ち上がり、歩くこともできる。話しは、それからだ」

 Lムワは、それから一週間、朦朧とする意識と共に食事を与えられ、排せつをしてもらい、そしていよいよ、包帯が外され、トイレまで自分の足で歩くことができるようになった。医師の姿はなかった。看護婦の姿もなかった。部屋の壁には、デジタル画面がはめ込まれている。そこには医師からのメッセージがあった。車の存在があることも知らされた。それを使い、時間の制限はあるものの、外出の許可が与えられていた。ただし、朝と夕方の二回に渡って、一時間ずつ、リハビリを続けなくてはならない。病室から出て、廊下を歩いていった先にある、別の部屋へと移動する。青い光線の出ている部屋に入り、そのままその光線を全身で浴び続けるのだという。皮膚の再生を目的とした医療行為で、その部屋で身体をゆっくりと動かし、筋肉を伸ばしていくことが必須であった。一か月で、君の筋肉は元の力を取戻す。さらには、潜在的な筋力も開発される。皮膚へのコーティング作業は、そこで終了する。

 Lムワは、自分がロボットにでもなったかのように感じた。すでに臓器のすべては、作りものであって、この脳だけが、Lムワとしての継続性を、唯一保障しているような気がした。しかし、その脳でさえ、火事の前後のことは少しも覚えてなかった。

 そんなときだ。結婚式の招待状が届いたことを、デジタル画面から、医師によって通達される。招待状を直接手にしたり、目にしたりすることはなかったが、デジタル画面から、Lムワはその情報を得た。そして、医師は外出許可をだした。

「ただし、式に行く前には、何度か外出を重ねて、その時間を延ばしていって、心身共に、慣らしていくことが必須条件だ」と彼は言った。


 初めの段階では、【GIA】が搭載されているとは、知らなかった。単に、車による移動を許可されたのだとLムワは思っていた。一時間にも満たない外出を、毎日繰り返した。

 その頃、ネットのニュースにおいて、街には、時間のズレが激しく起こっているということを知った。狭い範囲においては、場所によって、数時間ものズレが出てしまっている。どういうことなのかと、Lムワは思った。方位磁針のように、時計を置くと、時間の表示が変わってしまうということだった。おそらく、太陽とその場所との位置関係が、変わるということだ。角度も変わる。関係性が変わる。太陽の位置は、変わらないのだから、その光を受けとる位置が、通常予測できるものとズレてしまっている。無数のガラスの破片が、飛び散った場所に光を当てているというようなものだ。

 本当に、空間がそんなふうに破壊されてしまったのだろうか。本当だとして、それはまだ、修復が可能な領域なのか。局地的に起こっていることなのか。広範囲に拡がるものなのか。

 Lムワは、デジタル画面を通じて、医師にそのことを訊ねた。彼は答えてくれた。

「時間がズレている。君のおっしゃる通りだ。けれど、テレビで報道していることは、事実ではない。数時間、ズレてしまっているとか、昼が夜になりかけてしまっているとか、その程度のズレで、大騒ぎをしている。じゃあ、あれかい?ちょうど、丸二日ズレてしまっていたとしたら、気づきにくいってことかい?そのズレは、ある場所では、何百年と離れてしまっていることもあるんだぞ。そうだろ?Lムワさん」

 Lムワは、背筋に悪寒が走った。

「感性の問題だよ、Lムワさん。そうでしょ?機械に表示される数字を見て、現実を、ああだこうだと、言うわけではないでしょ?ズレていると感じるのなら、ズレている。そう感じないのであれば、ズレてはいない。見えているのか見えていないか、そういう問題じゃない。見えていなくても、感じるのであれば、それは実在する。なあ、Lムワさん。あなたはそういうことに敏感なんでしょ?だって、そうじゃないですか。あなたの、“書く”という行為は、そういうことの具現化なんだから。異なる時間の同時性とでもいうか。場所も、時間も、まるで異なるものが、ある一か所において、同時に存在する。あなたはそれを書きたかったんでしょ?書けると信じた。あなたの歴史観は、他の人とは著しく違う。昔があって、今があって、未来がある、という流れにはなっていない。順番はめちゃくちゃ。整合性がない。ストーリーというのはだよ、普通は、過去から未来へと流れていくものだよ。肝心な軸は。脇役としての、過去に遡るとか、そういうことはあるよ。でも、大元は違う。ちゃんと左から右へと流れていく。あなたはストーリー性を別の要素に求めている。あなたの書いている著作群と、今のこの世界とは、妙にシンクロしていると思わないか?」

 Lムワは何も答えられなかった。

 そうだ。俺はかつてものを書いていたのだ。

 そのことに今思い当った。事故か何かは知らなかったが、火事に遭遇し、心身を喪失してしまった。手術を重ね、肉体的にはどうにか復活しつつある。けれどそれにつれて、心の方がひどく、傷み始めていた。鬱に襲われることが多くなっていた。気分転換にドライブをしても、それは到底解消されはしなかった。

「抑圧、圧迫、負荷」

 医師は、冷たい声で言う。

「内圧を高める。力を溜める。わかるだろ?Lムワさん。あなたは、何故生きているのか。生かされているからだよ。何に?それは、あなたのとる行為によってだ。愚問だよ。決まっているじゃないか。行為とは何か。あなたにとって行為など一つしかない。そうだよ。俺が言うまでもない。それが、生命維持装置だ。それ以外にはない。ふらふらと探してみたって、見つからないんだ。そして、あなたは、結局のところ、一つの場所へと戻ってくることになる。わかりきったことだ。観念するんだ。君さえ運命を受け入れればいい。それを逆手にとりさえすれば、自ずと人生は開けてくる。君には、君にふさわしい道が現れてくる。また、あらためて進んでいける。

 君は生かされている。おそらく、すべての人間も。何によって生かされているのか。それを見極めることが、極めて重要なことだ。それさえつかめれば、生命は再び激しく燃え上がってくる。燃え上がれば、あとは何をしたっていい。それ以外のことは、余興にすぎないんだから。余興はどこにいっても、余興にすぎない。取りすぎたり、足らなすぎたりしたときに、それなりにトラブルは発生するかもしれないけど、そんなもの、たいした致命傷にはならない。余興で、今度のような事故に巻き込まれることはない。今回の火事は、余興の中で起こったことではない。君の大元に関わることだ。君は仕事を真剣にこなした。それをやりきった。その時点では、ほとんど完璧に。

 でも、それは、今の君の持つ能力に変換したときだ。実際、君がやろうとしたことに対して、君は力が足りなかった。わかるだろ?でも、それは非常にいいことだ。君が高望みしたわけではない。望みはまっとうだった。そして君は自分の存在をかけてトライした。いいじゃないか。しかし、ほんの少しだけ力が足らなかった。そこで世界は完璧に生み出されることにはならずに、歪みが生じた。亀裂が生じた。原因はすべて君にある。世界には『時震』が起こり、そして君は、その肉体を火で覆われることになってしまった。君の周りの人間たちも、また、どんどんとその構造が変わっていってしまった。その、人格的な変貌は著しい」



 Lムワは、十日間ぶっ続けで、車の運転を繰り返した。街を闊歩する人々を眺め、車が混在する道路をすり抜け、一時間を超える乗車にも、次第に耐えられるようになっていった。

 この十日の間、空は日に日に、光の量を増していった。眩しいと感じる度合が、急激に上昇していった。だが、かと思えば、突然黒い雲に覆われ、雷鳴がとどろき、豪雨に変わることもあった。しかし、それもしばらくすると、空は綺麗に晴れ渡った。雨を降らせる雲が、局地的に点在しているのかもしれなかった。変だなと思ったのは、眩しいと感じた光の差し込む角度が、一つではなく複数存在していたことだった。あらゆる方向からライトを照らされているような感じがした。光が乱反射しているのだろうか。

 Lムワは、ファッションショーの舞台に立ったモデルのように、スポットライトが凝縮された場所へと、出てしまう感じを覚えた。

 一日の中で、二回、言われたとおりに青いライトに練らされた部屋へと、一時間ずつ入り、ストレッチをする。軽い筋トレをしたり、座禅を組み瞑想したりして、一時間のときを過ごす。確かに医師に言われたとおりに、体にはパワーが蓄積されていった。疲弊しきった状態からは脱出していた。充実感に満ちていっているようだ。だが心は、それとは反比例するように、閉塞感が増していった。そのとき、医師はLムワに伝えた。車にはGIAの機能が搭載されていることを。

 【GIAモード】で車を走らせていると、自分が鳥になっているように感じた。鳥が何にも遮られることなく、低空飛行を続けているような爽快感を覚えた。周りの風景は一変し、スペースサイバー的な無人の宇宙空間、宇宙都市へと侵入して、自由を謳歌していた。羽ばたいた鳥は、急上昇することなく、抑制をきかせたその高さを維持して、ただただ、空間を直線的に移動することに機能を集中させている。アクロバティックな動きをみせることはなく、ただ移動することそのものに、意識を集中させているようであった。

 この乗り物が、そのまま、住居にでもなってくれないだろうかと思った。さらには、それだけでなく、仕事をする書斎としての機能も兼ねそえ、移動式の住居、兼アトリエであったらよいのにと思った。

 朝起きて、仕事をし、そのあと人と会う用事も、外で行う仕事についても、このGIAで移動をする。そしてまた書斎に戻って仕事をする。再び外へと出ていく。移動する。一日が終わり、GIAで就寝する。なんとすばらしい機能だろう。鳥そのものになっているようだ。活動的でありながら、深く意識を集中するための機能をも、兼ねそえている。出入りは頻繁で、しかもリズミカルだった。そこには自分ならではの時間が発生している。夜は木にでもとまり、夜明けの光が訪れるまで意識のスイッチを切る。そして、新しい光の世界がやってきたときに、GIAと共に、この混乱してしまったままの時間の世界が支配する黒い街を突き抜ける。移動し続け、時間は自分のものとなる。



 井崎という人間から、結婚式の招待状が届いたことを、Lムワは医師から伝えられた。

 モニター越しに魅せられた文面に、Lムワは首をかしげた。これのどこが、結婚式の招待状なのだろう。しかし、文章の最後には、井崎と常盤という二つの名前が記されていた。「この二人が、結婚するんですか?」Lムワは医師に問いかけた。


 汝がKNA王国を前にするとき

 入り口に立った守護天使たちは

 しだいに濃くなっていく光の中

 冬至の儀を汝にかけたまわる。


 書き留められた教義は

 新たなる生命が宿った種へと埋め込まれ

 KNAの内部でその身体は蘇る。


 汝は言葉をかけたもう。

 そのとき種子は発芽を促し

 汝を生んだ真理が

 冥界でいざ目覚めなん。


 そして名前のあとに、日時と場所が記されている。

「8月1日は、真夏ですよ。どうして、真夏に冬至なんでしょうか。しかも、冬至の儀って。どういう意味なんですか」

「とにかく、外出許可は出したから。心配するな。Lムワさん。親しい知り合いなんだろ?」

「井崎って男は、確かに知っている。その横の、常盤静香って女のことは、知らないけど」

「井崎が、長いあいだ交際していた女性のことだよ。これは、結婚式を暗に意味していて、つまりは、婚姻についての、ある種の詩なんだ」

「生命だの、種子だのって、子供でもできたんですか?だから結婚を?」

 そんなことは、自分で行って確かめてくれと医師は言った。

「それまでに、体調を戻しておくんだな」

 Lムワは、この招待状だと医師が主張する文面を、何度も繰り返し読んだ。

 井崎とはもうだいぶん顔を合わせてなかった。自分の書いた作品のほとんどを、彼に渡してしまっていた。あれは、一体どうなっているのか。進展はあったのだろうか。何の報告もない。その報告も兼ねての招待状なのだろうか。

 Lムワはまだ、今の自分の情況がうまく把握できずにいた。過去の作品についても、その全貌がおぼろげながら輪郭をとっているだけで、どんな内容のものを、どんな手法で描いたのか、ほとんど覚えてなかった。これから再び、作品を増やしていこうという意欲だけが、徐々に湧き上がってきていた。一日二回。そうだ!今、青い光を浴びているあのリハビリの部屋で過ごす、一時間ずつの時空間。あれは、そっくりとそのまま、自分の創作に当てることになる。リハビリの期間を終えたとき、それは、仕事をする時間へと変わる。

 Lムワは、医師に、GIAを譲ってくれないだろうかと申し立てた。

「そう遠くはない時期に、私は、この医療施設を出ていくことになるでしょう。そのとき、この車も一緒に持っていっていいだろうか。もちろん、お金は払います。今はないけれど。ちゃんと、生計を立て直すつもりだから、あとで支払能力が備わったときに、倍で返すことを約束します。それまで、そっくりと譲っていただけないだろうか」

 医師からの答えは、イエスだった。

 ただし、値段で測ることは、実はできないのだと彼は言った。まだ開発途上の車であるので、価格はついていない。研究開発費としては、膨大な金額がかけられている。将来商品化し、大量に生産できたとしても、それで、それまで注ぎ込んできたお金が回収できるかどうかはわからない。まだ実用化の目途すら立っていない。なので形としては、君に譲ることにする。ただし、他の人に貸してはならない。そのことさえ守ってくれれば、何の問題もない。ある種、この車は、オーダーメイドでもある。君仕様に今は作られている。なので、他人が乗ると、良からぬ現象が起きてしまう。あっというまに、搭乗者は炎上してしまうかもしれない。これは脅しじゃないよ。ということは、同乗する人間も、禁止ということですか。Lムワは訊いた。そういうことだね。医師は答えた。

「いったい、この施設は、どんなものを製造しているんですか?研究しているんですか?あらゆるテクノロジーを、人間や、機械や、都市のシステムに、応用しているんですね。その発信元のような、そんな気がしてきた」

「医療も、工業も、すべては一つの機関から発信される。そして、一つの機関へと集約されていく。いずれは、一つの場所へと回収される。ゼロから生み出すこと。生んだものを無へと返すこと。その始まりと終わりを担当するのが、化学だ。テクノロジーだ。我々はその重要な機関に属している。君の人体における再生医療もそうだ。GIAもそう。すべては同じことだ。連動している」


 Lムワは、リハビリルームへと移動するために廊下を歩いていた。ふと、そのとき、いつもは右に曲がるはずの道を逆に行った。廊下に隣接する部屋がいくつも連なっていた。そこの窓には、何の覆いもかかってなかった。中が見えた。緑色の照明が照らされた部屋には、白い医療用のベッドがあり、別の人間が横たわっている。

 Lムワは驚いた。同じ階のほとんど同じエリアに、別の人間がいたのだ。その隣の部屋も覗いた。同じようなベッドの上に、やはり別の人間がいた。顔に包帯を巻かれた人間もいれば、ほとんど顔を晒したままの人間もいる。男もいれば女もいた。痩せこけ、末期の重病人のような人もいれば、まだ若くて肉付きのいい、血色のいい人間もいた。様々だった。そして、まだ彼らの誰もが、自分のように自由に動き回れる身体には復活してなかった。

 つい、この前までは、自分も彼らと同じような状態だったのだ。瀕死の傷を負った人間たちが、おそらくここには運び込まれている。必要な処置が施され、再起のときを待っている。一種の仮死状態なのだ。意識不明の重体なのだろうが、顔の表情は、どの人間も穏やかに見える。部屋の扉には、ABCDEFGというプレートが埋め込まれている。そして、廊下は突き当りになる。Gまでしかなかった。Lムワは引き返した。リハビリルームに入った。

 いずれ、このリハビリルームでも、あのベッドに横たえた人間の誰かと、遭遇するのだろう。そんな気がした。それとも、この自分が、退院するのと入れ替わるように、あの中の誰かが生命を完全に取り戻し、リハビリルームへと自力で移動できるまでになるのか。

 もしかすると、俺の前にも、誰かそんな人間がいたのかもしれない。

 ふと、Lムワは思った。ちょうど、自分がベッドで目覚めたときに、その誰かは、リハビリを終えて退院した。入れ違うように。顔を合わせることなく。誰かが俺の前にいた。誰かが、俺の前に手術を受けた。

 Lムワは、その誰かが気になった。



  第一昼


 式は16時から始まる。その15分前に、出席者は集合することになっている。

 Lムワは、近未来式建築の病棟を15時に出る。GIAモードにする前に、加速をしけなければならなかった。けれど、今日にかぎって、高速道路は渋滞であった。その渋滞はいつになっても解消はしなかった。その原因が工事中であることを知った。

 警備の男の後ろには、白い壁に覆われた、巨大な箱のようなものがあった。その中で、工事は行われているらしい。やっと抜け出せたが、すぐに別の渋滞が始まった。また同じような白い箱が現れる。

 警備員の男に、いったい何の作業が行われているのかを訊いた。彼は何も知らなかった。白い壁の繋ぎ目からは、ほんの少しだけ、漏れ出ている紫の光の存在があった。その光に、Lムワの神経は引っ掛かった。脳の中の何かが、焼き切られるような感覚をおぼえた。隙間から見えた光で、これほどのショックを受けるのだから、もし裸眼で、あの中で起こっていることを見たら・・・そう思うとぞっとした。

 あとで、医師にこのことを訊ねてみようと思った。求めている答えが、返ってくるかもしれない。偶然、その箱の側にある広告看板から、『エネルギー革命』という文字が目に入ってきた。そういえば、何度か見たことがある。意識の奥が疼いた。

 二度目の渋滞を抜け、三度目に差し掛かったとき、その広告を、偶然目にしたわけではないことを知った。看板のあるところに、工事中を示す白い箱がある。『エネルギー革命は、紫の光から始まる』とペイントされている。そう書かれていると思ったのは一瞬で、実際は、デジタル画面に表示されていた。よく見れば、看板ではなかった。それに、広告でもないのかもしれない。本来なら、工事中と、表示されるところに、別の言葉が並んでいる。

 Lムワは、GIAモードに移行することをあきらめた。高速を降りることに決めた。

 一般道を使っても、ぎりぎり着くらいの時間を見越して、出てきていた。朝から良からぬ予感を抱いていた。早くもそれが的中した。この際だから、街をしっかりと目に焼き付けながら、ドライブをしていこうと思い直す。

 最近は、GIAモードを多用していた。医師もGIAモードを推奨していた。一般道ではなかなか百キロを超スピードで走ることはできない。だが、この日はやはり、いつもと違った。一般道に入り、急に天候が変化した。晴れであったのに、その光がさらに強くなっていった。もう夕方に入りかけているのに。あまりに光が強くなりすぎて、目が痛くなった。だんだんと運転に支障が出てきた。サングラスを持っていなかったために、顔を伏せる以外に、光を防ぐ方法はない。幸い、前後に車の存在はなかった。対向車はわずかにあった。センターラインを越えないことだけに、注意していればよかった。このまま続けば、ハザードをつけ、路肩に停車することになる。そして、その通りになった。車を動かすことができなくなった。光は容赦なく強まっていった。これなら、豪雨の方が遥かにマシだ。視界は完全に潰された。顔をハンドルに伏せていても、光は容赦なく網膜を刺激してくる。嫌な予感は思ったよりも強烈だった。尋常な光ではない。これは太陽だけじゃない。すぐに思いついたのは、放射能だった。核爆発が起こったのだ。さっきの工事中の白い箱と、何か関係があるのだろうか。あのときに感じた、目の奥の疼きは、来たるべき光の爆発を、警告していたのだろうか。

 しかし、もう遅すぎた。

 どこにも避難することはできなかったし、光を警戒する方向には思考が向かなかった。外に出たタイミングが悪かったのか。だが招待状の通りに着くためには、最適な時間を選んだ。仕方がなかった。一時間ズレていたらどうなったか。医療棟にまだ居たら、医師から何か、警告を受け取ることができたかもしれないし、緊急非常事態に関する情報を、受け取れたかもしれない。もっと早く出ていれば、結婚式場の中に、すでに居たかもしれない。タイミングが悪すぎた。

 車そのものも、熱を持ってきていた。車内にも熱がこもってきた。外に脱出するべきか。しかし、外はさらに、危険な状態かもしれなかった。放射能であるのなら、絶対に車内に居た方がましだった。車内の高温に、どう対処したらいいものか。Lムワは、パニック状態になった。目は開けられない。皮膚は、溶けていくくらいに、熱い。いや、ここは何としても移動しないといけない。そうだ。この熱は、局地的な現象かもしれない。時震によるズレが、頻繁に起こっているというニュースを見た。おもいきりアクセルを踏んだ。多少、他の車と接触したって構わない。とにかく、光の弱い場所へ、早く行くべきだ。それでも必死で、目は開けないようにする。道路をイメージし、勘だけで車を走らせていく。目は何としても守らなければならなかった。

 しかし、光は、よけいに強くなっていく。移動させたのが、間違えだったのかもしれない。いや、Lムワは、その考えを否定するかのごとく、さらにアクセルを踏み込んでいった。抜けないといけない。その一心だった。時震のニュースを偶然見て、今思いだしたことが、インスピレーションのすべてだった。朝に覚えた違和感に従っていたら、今日は、外出を取りやめたはずだった。今度は、迅速に行動に移さなければならない。Lムワは、無我夢中で、全神経を道路のイメージへと繋げた。先を急いだ。それが今自分にできるすべてだった。もしそれで抜け出せなかったら、あとは何をやっても同じだった。街そのものが異常な光の中で、今という時を迎えている。自分だけではない。世界そのものが、人間の限度を超えた熱を持ってしまっているのだ。誰のせいでもなかった。光は人間をすべて焼き切ってしまおうとしているのか。あのエネルギー革命という言葉が、脳裏によみがえってきくる。エネルギー革命は、紫の光から始まる。確かに俺は、紫の光を、壁の隙間から垣間見てしまった。はやく終わってくれと、Lムワは心の中で念じた。

 本当に、身体をなきものにしようとしているようだった。まだ、別の車や人体との接触はない。けれど、それも時間の問題だった。そう遠くはない未来に、大事故は起こる。なんとか回避できないものか。また路肩に止めるべきか。いや、違うぞ。Lムワは、できるかぎりの力を足にこめて、アクセルを踏んだ。力学的にというよりは、気力のすべてを込めて。車体のエネルギーをフルパワーにもっていった。GIAモードにするのだ。

 どうせ大事故を起こすことになるのなら、中途半端にスピードを上げたって駄目だ。

 一気に、一瞬でもはやく、百を振り切り、GIAへと変えてしまうことが必須だ。そうすれば、無人のサイバースペースが、出現する。光とも熱とも無縁な街へと変わる。GIAはシェルターの役目を果たす。この肉体も焼かれることなく、生き延びることができる。

 そして車体は、GIAへと変身する。目的地を入力する。それからほどなくして、結婚式が行われる建物の前に着いた。



 GIAは解除される。目の前に現れた建物に、Lムワは驚愕した。

 見上げれば空へと吸い込まれていくほどの高さの、銀色の高層ビルが建っている。本当に雲に突き刺さっているように見えた。見上げるしかない。そして誰でもその淵を確認しようとする。さらに頭を後ろに逸らせていく。何なんだ、これは。本当に、この中に式場があるのか?駐車スペースは、いったいどこにあるのか。車体は、銀色に聳え立つ建物へと、勝手に近づいていく。Lムワは、アクセルを踏むことさえなかった。ハンドルには、すでに手も置いてなかった。

 建物の外壁にぶつかると思った、その瞬間、いきなり黒い空間に変わった。

 そこが、扉であったのかどうかさえわからない。ただ、巨大な穴が開いたかのようだった。そこだけ外壁が取り除かれている。その闇の中に、車は吸い込まれていく。車は加速していく。そして、斜めに坂を上り始めている。非常灯さえついていない内部には、道路が整備されているのだろうか。何もわからない。

 ただ成り行きに任せている。さっきまでの一般道で強烈な光を浴びたことが、遥か昔のことのように思えてくる。この光の濃度の落差に、網膜は適切に対応しているのだろうか。

 車のエンジンは、すでに停止していた。なので、体に振動を感じることはない。車は地面から浮いているようにさえ思えてくる。この身体がGIAによって悪い影響を受けているのかどうかもわからない。どんな負担を強いられているのか。医師は何も言ってはいなかった。

 GIAはまだ実験段階であり、これが実用化する予定もなければ、されたとしても、採算が合わない可能性が高いと、医師は言った。

 しかしGIAは実現しなくとも、こうして都市のビルは、おそろしくサイバースペースと化してしまっている。身体に負担をかけ続けている。

 暗闇は終わっていた。


 いつのまにか駐車スペースに出ていた。エンジンはすでにかかっていた。アクセルを踏む。まだスペースには空きがある。Lムワは、最初に目についたスペースへと車体を入れる。車を降りて、入り口を探す。

 井崎と常盤の披露宴会場と、記された丸い看板が見えた。そこには、蔦の葉に覆われた大きなアーチがあった。Lムワはそこをくぐる。するとその奥には、天井が異様に高いロビーがあった。空港かと思うほどの空間が広がっていた。チケットカウンターのような、場所が並んでいる。

 Lムワは、一番近くのカウンターに行って、電子招待状を提示する。若い男性は、その電子招待状を受け取り、コンピュータに読み込ませる。Lムワに対して微笑みを返す。そして左手を前方に大きく広げ、行き先を無言で示す。その先を見ると、人がたくさん集まっているのが見える。空港に集まった、旅行ツアーの団体客のように見える。おそらく、あれが、井崎と常盤の結婚式に参列する人たちなのだ。他にも、人が集まっている場所が複数ある。

 ここは、ホテルの中の結婚式場なのだろうか。人々の会話はまるで聞こえてはこない。人と人の距離が圧倒的に離れている。これだけの空間だ。わざわざ身を寄せ合って、ひそひそと、会話をすることもない。Lムワは、示された人の集団へとゆっくりと近づいていった。まだ予定の時間までは10分ある。人の集団にさりげなく近づいていき、合流する。誰にも気づかれることはなかった。知っている顔は、とりあえずは見当たらない。目の前の男性に声をかけた。

 ここに来るまでに、あの強烈な光を浴びなかっただろうかと、単刀直入に訊きたかった。

 けれど、とりあえずは違う訊き方をした。

「今日は、ずいぶんと、天気がよかったですね」とLムワは言った。

 男性は笑顔で答えた。「ええ。結婚式に実にふさわしい、さわやかで、清々しい空気です」

「そうですね。でも、少し、良すぎたかもしれません。光が強かった」

 男性の表情が曇った。

「こんなに晴れたのも、珍しい」

 男性は何も答えなかった。

 首をほんの少しだけ傾げ、腕時計を見て、時間を確認し始めた。

 男性は急に、目の前のLムワのことを警戒し始めた。仕方なく、それ以上は話すことをやめた。他の来客にも同じことを訊きたかったが、同じような対応をされることが怖く、じっとしていることにした。

 違和感は、すでに始まっていた。耳を澄ましても、誰も、天候のことに触れている人は、いない。あれほどの強烈な光を浴びても、誰も何の話題にも、していないのはおかしい。もしかして、これは自分だけのことではないのか。病棟にずっといたものだから、通常の太陽の光であっても、まだこの肉体が過剰に反応してしまっているだけかもしれない。自分がまだ、外の世界に慣れていないだけだ。きっと、そうに違いない。

 時間が来た。彼は他の人に続いて、会場へと入る。なんと披露宴からだった。Lムワの名札が置かれたテーブルへと、無意識に導かれ、座る。同じテーブルに、顔見知りはいない。しかし、隣のテーブルは違った。シカンがいた。映像ディレクターの彼とは、以前に一度だけ仕事をしたことがある。思いだした。自分の自宅に彼を招待までしていた。自分の奥さんにも彼を紹介した。自分に奥さんがいたことを、今さらながら気づいた。記憶を司る神経がだいぶんやられている。けれど、消えてしまった記憶であっても、それに関わる誰かが現れれば、そこに纏わる記憶が、一気に戻ってくる。生き生きと蘇ってくる。奥さんとは、誰か。そうだ。確かに同じ家に住んでいた。ずいぶんと大きな家だ。屋敷のようだ。プールもある。風貌はおぼろげながら蘇ってくる。名前が思いだせない。シカンの横には女がいた。知っている。あの女は知っている。誰だったか。女優だ。テレビで見たことがある。テレビで見ただけじゃない。関わったことがある。仕事でか?いや、違う。誰かの紹介で会ったのだろうか?あれ、そういえば、うちの近所にいた女だ。万理だ。雲中万理。映画監督にもなった女優だ。いつ関わった?その隣の女を見たときに、すべてを思いだした。沙羅舞だった。三人で性行為をしたことがある・・・。何故だ。何故そのようなことになった?大勢で飲んでいて、その流れで、そうなったのか?自宅で?雲中万理の家で?違う。あの夜は確か、そうだ。地震だ。でかい地震があった。それで慌てて家の外へと飛び出した。思いだした。裕美だ。俺の女は裕美だ。北川裕美。元女優の女だ。そうだ。あいつの絶頂期に、俺は売れない作家のまま、彼女と結婚した。それから八年のあいだ、二人で暮らした。それが、あの地震を境に。そうか。そこからがうまく繋がらないんだ。そこでいきなり、病棟へと意識は直行してしまっている。シカンの逆隣には、男がいた。その向こうには女がいる。この女が半端なく美しかった。今まで実際に見たことのあるモデルや女優などを、遥かに凌駕してしまっている。何をやっている女なのか。芸能界にいるのを見たことがない。別の仕事をしているのか。こんな女を放っておく芸能界ではない。ということは、度重なるオファーを、断り続けているのか。頑なに、一般人であり続けているのか。何をしているのだろう。それほど打ちんでいる仕事が、別にあるというのか。この女は恐ろしい。昔、北川裕美を見たときに感じた恐怖と重なった。けれど、彼女とは少し違った。北川裕美も確かに圧倒的に美しかったが、そこに加えて、彼女はいつか、自分を殺すことになるだろうという予感めいたものが、ものすごいスピードで走った。一目惚れだった。いつか、自分に対する殺意に、目覚めるはずだと思った。意味のない感覚だったが、それが結局、自分ら二人を決定的に結びつけることになった。ありきたりのプロポーズをしたが、その裏にあった意味は、「俺をいつか、正しいタイミングで殺してくれ」ということだった。

 余計なことまで、思いだしてしまっていた。めでたい席であるのに。Lムワは心臓が止まりそうになった。ずっと見ていたので、眼の前に、料理が運ばれてきているのにも、気付かなかった。

 シカンとも、北川裕美とも、雲中万理とも、目があったが、彼らは一様に反応しなかった。自分がLムワであることに気づく人間は、誰もいなかった。彼らは近眼なのだろうか。こっちからは、はっきりと彼らのことが見える。どんなメイクをしているのか。ホクロまでが見えてしまいそうだ。目が少し充血をしている。唇の色があまりよくない。体調まで見抜けてしまう。それなのに、彼らは、一体何を見ているのか。向こうのテーブルでは、誰も、自分のことを話題にしてはいない。

 それに、どうして、自分は、こうして知らない人たちのテーブルにいるのだろうか。むしろ、自分もあっちの側だった。彼らと同じ、テーブルにいるべき人間だった。披露宴は始まった。新郎新婦が、Lムワのテーブルにやってきた。だが、井崎も、Lムワを特別な目線で見ることはなかった。他の列席者と同じように、儀礼的な挨拶をしただけだった。Lムワは驚いた。今度は、至近距離だった。それでも、彼は確実に気づかなかった。信じられなかった。Lムワは、状況がよくつかめなかった。いったい自分は誰として、この式に列席しているのか。

 Lムワは、新婦を見た。

 常盤静香という女を初めてみた。普段の彼女を見たことはなかったが、それほど派手な顔のつくりはしてなかった。井崎がこんなにも、地味な女性を選ぶとは意外だった。しかし、彼女は気立てのよさそうな人に見えた。それでいながら、芯はしっかりとしている。井崎の人生を支えていくには最適な人のように思えた。

 華やかさを極限にまできわめたような北川裕美とは、確かに全然違う。北川裕美の方に目を移す。彼女はやはり、出会った時とほとんど変わりがなかった。八年以上も歳を重ねていたが、肉体的な劣化は、少しも表面には浮き出てなかった。違った魅力を、また生み出しているわけではなかったが、彼女は他の同年代の人とは明らかに違った時間の経過を踏んでいる。

 急に自分の風貌が、短時間で急速に老化してしまったのではないかと、Lムワは思った。誰も気づかないのは、そのせいではないか。それとも火災が、顔の皮膚まで及び、形態が以前と変わってしまったのかもしれない。しかし異様な風体にはなっていないようだ。奇怪なものを見るような目つきでは、誰も見ていない。Lムワは、入院中から一度も鏡を見てなかった。自分がどんな風貌なのか、一度も確認したことがなかった。

 新郎新婦が、目の前を通り過ぎていく。常盤静香と目があった。彼女はにっこりと微笑んだ。井崎は間違いのない選択をした。Lムワはそう思った。新郎新婦が元の席へと戻る。Lムワは隣のテーブルに再び目を移した。シカンと北川裕美は、楽しそうにしゃべっている。そこに万理や舞も加わり、また別の男性の姿もある。そのテーブルは、実に楽しそうだった。それに比べて、Lムワのテーブルでは誰もしゃべらない。全員知り合いではないみたいだった。どのテーブルにも分類されない寄せ集めの人間のようだった。簡単に会釈をするが、話題は見つからない。気をつかって、会話を主導していくような人材も見当たらない。

 Lムワは、食事をすることに専念した。隣のテーブルにも、出来るだけ気をとられないようにした。だが、嬉しそうな声をあげ、盛り上がりを見せるそのテーブルは、新郎新婦よりもむしろ、会場内では目立ってしまっていた。今は食事に専念する時間帯であったので、新郎新婦に目を向けている列席者は、ほとんどいなかった。その後、二人の出会いを紹介するビデオが流されたり、親族や職場の同僚が何人かスピーチをしたが、その間も、隣のテーブルは異様な盛り上がりを見せていた。井崎もその様子ばかりを見ていた。そして、満面の笑みで彼らの問いかけに答えていた。おかげでスピーチもビデオの存在も、掻き消されてしまっていた。常盤静香でさえ、会場の進行にはまったく気にとめず、井崎と共に会話をしていた。まったくおかしなものだった。

 披露宴も終盤に入った。井崎の父親がスピーチを始める。花束の贈呈があった。新婦が、両親に手紙を読む場面があった。その様子に、Lムワは胸が熱くなってしまった。最後に新郎の挨拶が行われる。井崎は今後の自分の仕事のことを話した。若い夫婦二人で、一緒に築いていくことを誓った。仕事は、自分の人生そのものであり、生活そのものであり、二人の作品でもあると彼は言った。今は亡き、Lムワ氏の作品を、まずは世の中に打ち出すこと。その世界を、この世にきちんと建造することから、二人の生活は始まるのだと、彼は言った。

 なんだって?故、Lムワ氏だとか、彼の遺志を継ぐとか、まるで俺がもう、この世にはいないかのような話し方を彼はした。Lムワは呆然としてしまった。今すぐに手を挙げて、自分がここにいることをアピールしようという気持ちが高ぶってくる。しかし立ち上がることはできない。声を出すこともできない。そんなことはできない。Lムワは黙って最後まで井崎のスピーチを聞いた。

「いろんなことが今繋がり始めています。そのおおきな一つが、僕たちの結婚です。僕ら二人が結びついた。奇跡です。僕らは、短くはない期間、付き合ってきましたが、結婚ということに関しては、まったくその可能性すら、考えたことがなかった。お互いに結婚願望はなかったし、結婚という行為が、そもそも個人的にどのような事であるのか、うまく把握できてなかった。そして、こんなことを、この場所で言うことではないけれども、本当に、一か月前までは、まったく考えてなかったのです。むしろ、二人は別れるのではないかという所まで、いってしまっていた。それが、僕らでも、想像できないほどの反動があって、一気に今日という日に向かって、突き進んでしまった。何が起こったのか。僕らにもまだ、うまく理解ができません。こんなこと、本当にこの場で言うことではないでしょう。けれども、どうしてもみなさんには、伝えておきたかった。これは僕ら二人の結婚ではあります。しかし、それは、本当の意味では違うのです。これはただのシンボルなのです。こんなことを言ったら、きっと誤解されますね。でも、これは本当にただのきっかけであって、本当の婚姻はもっと、別のところにある。いろんなことが今繋がり始めているんです。それは事実なんです。ここに集まってくれた方全員においても、繋がり始めているんです。僕らは、その最初の、きっかけとなっているにすぎない。しかし、これは大事な役目です」

 そこで、井崎は話すのをやめ、常盤静香の方を向いた。

 そして再び、会場の全員を見渡した。

「僕らの結婚が、ここにいるすべての人の結婚でもありますように。そしてここの場が、世界の中の、ほんの一部ではなく、すべてでありますように。乾杯!」

 会場にいる全員が、反射的にグラスを持った。隣合った人や同じテーブルの人と杯を重ねていった。Lムワのテーブルにいた人たちも同じように杯を重ねていった。

 会場が一瞬暗くなった。二人がいた場所の後ろが、猛烈に光った。VAという光の文字が現れ、そして消えた。会場は明るくなった。井崎と常盤静香は、深々と一礼をしていた。



 披露宴の後に、式は行われなかった。思えば、すでに、式は披露宴の前に終えてしまっていたのかもしれない。この自分は式には呼ばれなかった。あのテーブルの彼らは、式にも参列したのだろうか。Lムワは披露宴が終了すると、誰と会話をすることもなく、駐車場のある場所まで移動しなければならなかった。

 すでにシカンたちはいない。先に出てしまったらしい。Lムワは車のエンジンをかけた。出口へと誘導する光があった。地面のアスファルトにも壁にも照明が灯っている。Lムワは指示どおりに進んだ。坂が始まった。下りのまま曲がることなく進んでいった。加速しすぎないようにブレーキを踏んだ。地上に達した。野外に出た。そこには緑が一面に広がっていた。公園のような草原のような障害物が何もない場所に出た。空とのコントラストが鮮明だった。Lムワは運転をやめて見とれてしまった。後続の車はなかった。クラクションを鳴らされることもなかった。間違った場所に出てしまっていた。国道の存在はなかった。指示通りに進んできたつもりだったが、どこかで間違えてしまった。ふと振り返ってみたが、空に突き刺さった銀色の建物は、そこにはない。自分がどこから今出てきたのか、まるでわからなくなっている。森の闇から、急に草原へと出てきてしまった小動物のようだ。Lムワは車を降りた。草原は本物だった。草があまりに揃っていたので、人工芝か何かだと思った。しかしそれは天然だった。きっちりと切り揃えられていた。Lムワは大地に横になった。こんなにも気持ちのいい気分になったのは、いったいいつ以来だろう。久しぶりだ。

 そのまま彼は、眠ってしまった。次に起きた時には、彼は運転していた。国道を走っていた。どこに向かっているのか、わからなかったが、とにかく走っていた。超高層ビルがバックミラーには僅かに映っていた。すでにだいぶん走り続けていた。しかも、GIAモードに入っていた。

 人の姿も車の姿もない。もう一度、超高層ビルに戻ってみたらどうか。芝生はどこにいってしまったのか。Lムワは無意識に車を運転していた。そして加速をし、GIAと同化している。

 そのとき、あるはずのない事が起こる。交差点に差し掛かったときに、人影が見えた。Lムワは慌ててブレーキを踏んだ。人をひいてしまいそうになる。だが、GIAモードは基本的に手動では反応しない。行き先は、いったいどこに設定されているのか。とにかく交差点を猛スピードで通過していった。するとまた、人の影のようなものが目に入る。何度も繰り返される。Lムワの目も慣れてくる。だんだんと、その影は女の実体を伴ってきていた。どう見ても人間の女だった。女が街に増殖しているのだ。どういうことなのか。GIAモードにシステム障害が生じているのか。通常モードとGIAモードとが混線をきたして、二つの世界が、部分的に割り込んできてしまっている。そうとしか考えられなかった。

 けれど、この車には、何の問題もない可能性もある。

 披露宴の後半から、Lムワの意識は異常をきたし始めていた。

 まだ外の世界とうまく適合していないのだろう。度重なるリハビリもまだ完全ではなかった。意識の一角が崩れ落ちてしまっていた。いや、復調が完全ではなかったということが問題ではないかもしれない。あの披露宴で、知り合いのテーブルをずっと見ていたことが原因だった。過去の記憶が、断片的にではあったが、蘇ってきたことが問題なのかもしれない。今となっては、その記憶も、再び地下へと潜りこんでしまっている。少しも思いだすことができない。やはり、過去の何かに繋がってしまったことで、この神経系は崩壊しかけてしまったのだ。

 だが、今はとりあえず、車の運転はできている。

 目的地はおそらく、病棟である。もうすぐ、医師との再会も果たせる。GIAの中に、女性の影が見え隠れしているが、それもたいして致命傷にはならないだろう。このまま何事もなく過ぎていけばよかった。披露宴のことは何も思いだすまい。自分はまだ病人だった。完全に治癒してから、いろいろと考え始めればいい。

 とにかく、今は、無事に戻ることだけを願う。しかし、あのテーブルにいたメンバーの顔が蘇ってくる。Lムワは激しい頭痛を覚える。体全体の筋肉が軋んでくる様子がわかる。そして道の端には、女性の姿がはっきりと見えるようになった。GIAの速度はおそろしく緩んでいるように感じられた。Lムワの意識が変化したのか、実際に遅くなっているのかは確認のしようがない。女性はそれからも増え続けた。白いワンピースや、ノースリーブのシャツに、長いドレスのようなスカート、短パンのようなもの、様々な服を着た女たちが、現れては消えていった。

 Lムワは、絵画の世界の中に入り込んでしまったかのようだった。

 手の施しようがなかった。車体は止められないし、ドアにはロックがかかってしまっている。脱出することもできない。だがそれよりも、車の速度が緩んでいることが、何よりも問題だった。もしこんなところで止まってしまえば、何が起こるのかわからない。GIAモードのままに、停止してしまったことは過去にはない。

 そもそも百キロを切れば、GIAモードは、自然と解かれるはずなのだ。

 車窓の様子からは、どう見ても五十キロにも達していないように思える。ということは、完全に解除されている。でも風景には、車や人の行き来は映りこんではいない。通常モードには、ダウンしていない。

 恐ろしいことが起こった。

 GIAのモードのままに、車は停止の方向へむかっている。

 だが、完全に誰もいない世界ではない。女性の断片だけが、何人も現れては消えている。あきらかに増殖している。それは増殖という言葉が適切だった。体温をまったく感じない女たちだった。かといって幽霊のようでもない。綺麗な装いで、その中には美しい女性もいた。顔をまだ、見ていないからかもしれない。表情を、目撃していないからかもしれない。

 車は、街の中で目的地につくことなく、予想通りに止まってしまった。

 フランス人のモデルのような風貌だった。フロントガラスの前を通った。女たちの増殖は止まることがなかった。すでに、車体の周りには背が高く、細見の白人の女性たちが行きかっていた。誰も車には見向きもしない。かといって邪魔なようにも見えない。意識的に避けているようにも見えない。その女性たち以外に人の姿はない。車の姿もない。増殖していく女たちは、同じ世界観に属していた。それぞれが、体の特徴や服装こそ違っていたが、同じ目的を持ち、同じ意志のもとで行動しているようだった。大元の意思が、同じところにある。

 それなら、どれほど増殖していったとしても、原理が一緒である以上、増えていく世界は、目の錯覚だといってもよかった。

 GIAという一つの通常から、ズラした時間の中に、また別のズラした時間が、侵入してきたのだ。そう考えれば、何の問題もない。

 さっきの芝生の世界も、そうだった。まだ自分の身体の傷口が塞がれてはいないのだ。その穴から、別の周波数が入り込んできているのだ。そこを塞げば問題は何もない。レーザー治療を一日に二回、また重ねていけば、身体はまた、元の状態へと近づいていく。とにかく、病棟に戻れば、すべては好転していく。

 エンジンをかけようとキーを回すが、エンジンはそもそも、切れてなどいなかった。

 だが、アクセルを踏んでも車は動かない。ドアは開かない。窓ガラスを叩いていく女性に声をかける。反応を示す女性は誰もいない。なんてことだ。こんな車、譲ってもらっても、何の役にも立たない!不良品だった。閉じ込められたまま、どこにも動けなくなってしまった。

 しかし、自分には何の落ち度もなかった。医師はリハビリを重ねたことで、外出の許可を出した。特に何かに注意をするように、言われたわけでもなかった。予定通りに披露宴に参加した。そして終了して外に出てきた。

 もうそのへんからは、意識はめちゃくちゃだった。

 何がまずかったのだろう。そう考えるまでもなく、すべてが狂っていた。

 最初から正常ではなかったのだ。そうだ。放射能?あれが最大の異変だ。あそこで引き返すべきだったのか。もっというと、首都高を走っているときに工事中が続いていた。

 あれを見たときに、何かを感じるべきだったのか。あそこで引き返していれば、こんな事態にはなってなかったのだろうか。披露宴には参加できなくなっただろうが、病棟でリハビリを続けていくことはできた。そうすれば、また過去の完全な自分へと、戻ることができた。スタート地点に、着くことはできた。医師を恨むのは、見当違いなのかもしれなかった。








































 目覚めたとき、そこには医師がいた。

「披露宴はどうだった?」

「披露宴?」

「君は、結婚式に行ってきたんだろ?」

 頭が痛んだ。

「あの・・・僕は、何故、ここに」

「君は道路で倒れていたんだ。車を降りて、歩き始めていた」

「どういうことですか。僕に何があったんですか。またもや、よく思いだせない」

「君は、友人の披露宴に出席して、そのあとで、ここに帰ってくる途中、力尽きたんだ。僕の予測の範疇だ。帰ってくるエネルギーは、残ってないんじゃないかと思った。披露宴の最中に倒れてしまうことはないと思ったけど。予感は的中したというわけだ。車にはGPS機能が付いてるから。君がどこにいるのかは、一目瞭然だ。君の車の動きが鈍り、そして止まってしまった。僕は、すぐに君の元へと駆け付けた。そして、僕の車に乗せて、ここまで運んできた。車はそのまま廃車にした」

「そんな」

「いいさ。どうせ、まだ試験中の車だったんだ。かまわん。結構な値段だが、どうも不具合があったようだ」

「だからって、捨ててしまうことはないでしょ」

「いいんだ」

「僕がよくない」

「車の不具合が、君にも、悪い影響をもたらしただろ?」

「どういうことですか」

「いや、その話はいい。今度にしよう」

「確かに、いろいろなことが起こった。でも、それは車のせいじゃないでしょ。僕がまだ、回復しきれてないからでしょう」

「どっちでもかまわんよ。同じことだよ。いずれまた君が乗れる車をちゃんと作っておくさ。それよりも、披露宴はどうだった?」

「それなりに楽しかったですよ。ただ、おかしなことがあって。僕の知り合いの人たちがいたんですけど、彼らは、僕のことを見ても誰も気がつかないんですね。あ、そうだ。鏡を見せてください。早く」

 医師は、鏡をLムワに渡した。Lムワは無言で覗き込んだ。しばらく経ったあとで、Lムワはため息を漏らした。

「何も変わったところはない。いやね、みんな僕のことを見ても、誰も気が付かないものだから、きっと顔が、以前と変わってしまったのだろうと思った。そう。火災でしたっけ?火傷のせいで、僕の顔は変形してしまったか、整形を施されたか。とにかく、風貌は一変してしまったのだと思った。でも、そうじゃなかった。じゃあ、何故、なんだ?どうして、誰も気づかなかったんだ?そうなんですよ。あれ、そういえば、あなたの名前もまだ伺ってなかった」

「ディバックだ」と医師は言った。

「ディバック」

「そうだ」

「日本人ですよね」

「どうだろう」

「ほんとに、医師なんですよね」

「見ての通りだ」

「ねえ、ディバックさん。どういうことなんですか?彼らは、とても楽しそうに話してたんですよ。その輪の中に、僕は入っていけなかった。そもそも、最初からテーブルが違ったんです。おかしいじゃないですか。それに、さらに変なことがあった。新郎の井崎のスピーチの中で、僕の名前が出てきたんだけど、すでに故人扱いなんです。僕の過去の作品である小説の話をしてました。それをまとめて発表することが、新婚となった二人の初めての仕事だと。確かに、僕はずっと前に、彼と会って、そういう約束をしていた。でも彼の言葉からは、もうすでに僕は死んでいることになっていた。それはどういうことなんですか。その火災で、僕は亡くなったことになってるんですか?あの知り合いの中でも、すでに、そういうことになってるんですか?」

 ディバックは、沈黙してしまった。Lムワは続けた。

「あなたは知っているんでしょ?一体何があったのか。僕はどうして火災に巻き込まれたんですか?そして致命傷を負いながら、一命は取り留めた。死の淵から、生の世界へと復帰しようとしている。あなたがその手術を担当した。僕はリハビリの最中だ。そんな中、井崎からの招待状が届いた。そして会場へと向かった。その向かう途中でした。首都高では工事が行われていました。白い箱のような覆いがいくつも建てられていた。その壁の隙間からは、紫色の光が漏れていた。僕は進まない首都高の車の流れを嫌い、一般道へと降りた。するといつのまにか、道路はものすごい光に覆われ始めた。いったい何が起こっているんですか?僕の体はいったいどうなっているんですか?再起不能なんですか?それならどうしてそのまま死なせてくれなかったんですか?こんなことなら、いっそうのこと、目覚めなければよかった。あなたに助けてもらわなければよかった」

「その話。その光がどうだとか、工事中がどうだとか。それは、君の火災によるダメージとはまったく関係がない。残念ながら」

「関係がない?」

「そうだ。あれは、まぎれもなく、この街に住むすべての人間に対して起こったことだ」

「そんな馬鹿な。披露宴の席でも、誰も話題にはしてませんでした」

「当たり前だ。めでたい席に、そんな不吉な話題を持ってくる奴がいるか?」

「そうですけど。それでも・・・じゃあ、みんな披露宴を離れたら、その話をし始めたんですか?」

「そうだよ。そのとおりだよ。その話題で、もちきりなはずだよ」

「ニュースでも流れているんですか?報道されているんですか?」

「それは、ない」

「ない?どうして」

「まだ公表していない。規制がかけられている。おそらく放射能だろう。その君が見た光は。核のようなものが炸裂してしまった影響だ。そして、その工事中というのは、その炸裂と連動している。紫の光を見たんだろ?それが元凶さ。おそらく、それは工事中ではなかった。ある種の、危険な物質を設置していた、場所だったんだ」

「これは、テロですか?」

「自然に起こった現象ではないね。ただし、そういう行為に、駆り立てたという意味では、自然が成した業かもしれない」

 Lムワには、全然意味がわからなかった。

「起こるべくして起こった。誰かが意図したというよりは、自然と、そうなる結果に導かれた。その筋道に携わる人間が集まってきた。そして、何かの物質を、この世界で炸裂させた」

「何なんですか?その物質とは」

「わからない。それを自衛隊が今処置している。専門分析にかけている。まだ何も確定的なことは言えないから、それで報道は規制されている」

「どうしてあなたは、そんなことまで知っているんですか?」

 Lムワは不信に思った。

「まだ、訊きたいことがあります。この建物の中には、別の病室が複数あります。そこには、別の患者がいた。まだ眠ったままの人間が、たくさん横たわっている。そうですよね?」

「廊下を逆側に曲がったな」

「一度だけ。見てしまった」

「それなら仕方がない。そうだ。君以外にも、瀕死の重体に陥ってしまっている人間が、複数運びこまれている。それは事実だ。そして今、この病棟の中で意識を取り戻しているのは、君一人だ。何故かはわからないが、いつも、それは一人なのだ。そして、その一人が退院するときに、また別の一人が意識を取り戻す。不思議なことだ。そして、それと同時に、また別の人間が、瀕死の状態でこの病棟へと運び込まれてくる。いつだって、患者の比率は一緒だ。復調するサイクルにも法則がある。ある種の循環が起きている。何故だかは、僕にもわからない。そして君が運び込まれたときには、当然、退院する人間がいた。同時に、目覚める入院患者もいた。君がまだ、意識を取り戻せていない中で、その男はリハビリを始め出した。Gという男だ」

「G?」

「君は知らないだろう。しかし、井崎という男の披露宴に、彼も出席していたはずだ」

「なんだって」

「そうなんだよ、Lムワさん。披露宴に参加していたんだよ。Gという男は、井崎と大変懇意な仲でね。深い結びつきがあるという」

 Lムワには、思いあたる顔が一つだけあった。

 あのテーブルには、一人だけLムワの知らない男がいた。おそらくあれがGだ。

「Gと井崎は、どんな関係なのでしょう。そもそも、あなたと彼らとは、どんなご関係なんですか?井崎とも?」

「いや、井崎とは、会ったことはない。もし親交があれば、僕だって、披露宴に呼ばれてるはずじゃないか。常盤静香という女のことも、知らない。よくよく考えてみると、彼ら二人とは、まったく関わりがない」

「二人とはって、あのテーブルの他の人とは、もしかして・・・」

「そうなんだよ。そのもしかして。いや、言うほどのことでもない。万理と舞のことは知っている。Gのこともよく。けれど、北川裕美やシカンのことは、あまりよくはわからない。そのテーブルのね、たぶん近くに、セトという芸能事務所の社長を中心としたグループがあったと思うが、その男とも親交はある。ちょうど、半々くらいだ。そこに、今度はあなたも加わった。Lムワさん。ほんの少しだけ、関わりのある人間の割合のほうが、上回った。そんな気がする。

 君が目覚めると同時に、そう、Gくんは、ここを出ていった。ただし、Gという男はだね、瀕死の重傷を負って、ここに運ばれてきたわけではなかった。彼は、健康体そのものだった。特別な例だ。彼は、どこも悪くはなかった。それじゃあ、いったいここで何をしていたのか。健康体ではあったが、特に強い肉体は、持ってなかった。補強だよ、Lムワさん。彼は肉体的に武装する必要があった。これから生き延びるために。例えば、そう、ほら、密度の濃い光線に耐えられるだけの皮膚を持つとか、筋肉をもつとか、耐性を上げるための補強を、ここで行ったんだ。施術したんだ。これから彼は、戦場のような場所に出向くことになるからね。君とは違う。君はすでに火に焼かれて、ぼろぼろになってしまった。再生治療のためだが、Gという男は違う。唯一の例外だ。君は一度、肉体の限界まで自分を追い詰めたことがある。その代償を十分に受けた。しかし、君の返済義務は、まったく終了していない。まだ死ぬ準備はできていない。

 なあ、Lムワさん。我々、いや、その、人間というのはだね、死ぬ準備をするために生きているとは思わないか?生きたいと本気で願っている人間など、実際にいるのだろうか。そう勘違いしている人間はいる。しかし、たいていの人間は、心の奥底では死にたいと思っている。今すぐにでも。楽になりたい。それが自然な心の在り方だと思わないか。でもね、死というのはそう簡単には許可が下りない。本当の意味で死を迎えるためには、つまり、自分という存在を完全に無へと返すことができるには、この自分という存在を最後まで使いつくすことで、この天から与えられた命を、地上ですべて消費しないことには、許されるべきことではない。わかるよね、Lムワさん。与えられたものを返済するという意味が。この地上で、あなたという人間を丸ごと焼き尽くさないといけない。それは、死んで、別の世界には持ってはいけない。死への準備ができたというのは、この地上で焼き尽くすために、天から与えた燃料を、すべて使い切った状態のことだ。

 では、この地上においては、何のためにその燃料を使い尽くすのか。そこだよ、Lムワさん。私に皆目わからないのは。それがおそらく、生きる意味というものなんだよ。その人間にとっての。誰一人として、目的は同じではない。君はエネルギーを持って生まれた。その与えられたエネルギーは、成長と共に増殖していく。それをどこで、何に向かって、消費していくのか。

 Lムワさん、君には自由が与えられている。ただし、死ぬためには、使い尽くさないといけない。死ぬ準備をしようじゃないか。生き急ぐ、という言葉があるだろう。あれは、たいていの人間の無意識の願望なんじゃないのか。この世に長くとどまっていたいという人間は、いるのだろうか。私には疑問だな。それよりも、存在する期間を縮め、はやく、この世を去る人間ほど、幸福なんじゃないのか?それができる人間は、一握りなのだから、みな苦悩をする。不満がたまっていく。与えられた能力を、この地上で完全に消費し尽くすという意識を、できるだけ早く持ったほうがいい。そうすれば、寿命は縮めることができる。先手をとること。逆手にとることが、人間にとって、いかに大事なことか。この、医療施設の存在意味だよ、Lムワさん。

 何故、損傷してしまった身体を、元に戻そうとするのか。いや、あわよくば、より強力な心と体を作り上げようとしているのか。それは、エネルギーを、より短期的に爆発的に消費できるという状況を作るためだ。この地上での命を、できるかぎり伸ばしたいからではない。よりピンポイントに、局地的に消費できるようにするためだ。そこのところを、勘違いしてもらっては困る。しかし、現代の医療は、ずいぶんと逆の方向へと進化していってるようじゃないか。細く長く生きるという信念が、唯一無二のように、聳え立っているじゃないか。街中に出現している超高層ビルのように。にょきにょきと。これは新しい信仰か?さっきから何度も言ってるじゃないか。人間の心の奥底には、できるかぎり早く、この世を去りたい。死を迎えたいという願望があるのだと。それを、ないものと考え、さらには、それとは真逆な価値観を強要してくるこの現代医療とは、一体なんなのか。科学もみなそうだ。基本的に細く長くというのが信仰に成り果てている。違うだろ。そうじゃないだろ。そんなことをすれば、人間の表面意識と奥底の意識は、ますます乖離していってしまう。危ういね。実に危うい精神状態だ。そんな人間を、大量に製造でもしてみろ。どんな結末を迎えるだろうか。決まってるじゃないか。みな、その乖離が限度を超えたときに、そう、発狂するよ。心の中に押し込めていた自殺願望が、一気に、この世界で炸裂するよ。一斉にね。集合的にね。そして、極端にその方向を推し進めていく。どうすると思う?大量殺戮を、互いに仕掛けるんだよ、Lムワさん。つまりは、戦争だよ。戦争を信望するようになる。あれは、自殺願望を抑圧しすぎたために起こる、ある種の最終的な解決の仕方だ。そう、Lムワさん。正解だ。消費だよ」

 Lムワは何も答えてなかった。ディバックは勝手に、Lムワの心の中を決めつけていた。しかし、Lムワは、不思議と、彼の言葉を受け入れていた。確かに、一理あるかもしれない。

「私はね、そういう主流の医学的な世界観を、素直に受け取ることができないんだ。別にひねくれるわけではない。いつかその世界は、自分たちに対して復讐をしてくる。自業自得というものだ。人間の文明は、自分たちの心に対して、嘘をついたのだから。いいかい、Lムワさん。たとえ疾しいことを考えていたとしても、非道徳な想いが頭をよぎったとしても、それを否定して、害虫を扱うように捨ててしまうことは間違いなんだ。それをなきものとして、無視をすればするほど、本人の自覚のないところで生き延び、時間と共に、巨大な生き物となってしまう。きっかけさえあれば、それは結局、自分に向かって牙をむいてくることになる。モンスターになってしまった塊に対しては、我々人間は、まったくの無力だ。我々と言ってしまって、すまない。私まで、あたかも含まれているかのように。気にしないでくれ。忘れてしまってくれ」

 Lムワは、呆然としていた。思考能力がぴったりと停止してしまっていた。首を動かしてみようと思った。しかし、身体の自由は著しく阻害されていた。目だけが覚めた状態だった。体に力が入らない。そもそも、何の話をしていたのか。どこで脱線してしまったのか。会話の中心を失っていた。

「それで、僕のリハビリはいつまで続くんですか。今回、披露宴のために外出したことで、かなり悪化してしまったのでは。余計に長引いてしまうのでは」

 そこで、Lムワは、はっと我にかえった。早く退院することと、死の準備を早めることとが、酷似していることに思い当った。

 ふと、あの披露宴が、Lムワには葬式のように思えてきた。

「ひょっとすると、僕はもう、死んでるんじゃないですか」

 思わず、そんな言葉が出てくる。

「そんなことはない」医師は答えた。

「すでに、全身の火傷がひどすぎて、生きてはいないんじゃ・・・。これは、何か化学の力で無理やり生かされているんじゃ・・・。全身の感覚も、何だか不自然だ。ディバックさん。ここは正直になりましょう。もういいじゃないですか。全部を話してもらいましょう。そうなんでしょ?僕の体はもう、ほとんどが死の領域に入っているんでしょ?故Lムワ氏という発言も、事実なんですよね?あなたは、この僕の体を人工的に製造した。しかし生きている人間には、それが感知できない。あるいは、別の人間として感知されているのかもしれない。僕と話しをしてくれる人は、あの会場には何人もいましたから。けれど、『Lムワ』では、すでになくなっている。別人だ。中身だって、半分以上の記憶が失われている。何故なんですか。何故そこまでして生きなければ・・・。返済の義務だとか、何だとか、僕にはよくわかりません。死ぬべき運命にあった人間は、その流れに逆らわずに、死ぬべきです。それがもっとも望ましい。あなたは不自然なことをしている。あなたの行動は矛盾している。これは、延命治療以外の何ものでもない。命を縮めて、濃密な時間を生きることとは、逆行している。あなたのやるべきことは、今すぐに、僕につけられている装置を取り除くことです。披露宴に出て帰ってくる。たったのそれだけでも、僕のこの新しい身体は、耐えることができなかった。欠陥もいいところだ。これ以上、僕を苦しめないでほしい。この病棟に長いあいだ、閉じ込められるのは御免だ。あなたのテクノロジーは不完全だ。そんなものを、僕で、試してほしくはない!」

「言いたいことは、それだけか?」

 ディバックは、冷たい声で反応した。

「それだけです」

 Lムワは、身動きの取れない身体を、何とか動かそうと力を振り絞る。

「何日かはまだ、指一本動かすことはできない」

「いいかげんにしろ」Lムワは怒鳴った。

「君が何を望もうとも、今、君の体の主導権を握っているのは、この僕だ」ほんのすこしだけ、ディバックの声が感情的になった。「君を生かすも殺すも、この僕の腕にかかっている。全権を握っているのは、こっちだ。だが、これは実験ではない。実験はすでに別の人間で終えている。Gだ。君を手術する直前に、体に手を入れた男だ。彼は健康体でありながら、さらなる補強をおこなった。そして、それは成功した。その技術を、君に転用した。

 そうだよ。君の言うとおりだ。君は、本来、死ぬべき運命にあった。それを僕が半ば無理やりに再生しようと心に決めた。ちょうど、Gの施術の後という絶好のタイミングでもあった。これこそが、君の生命力そのものなのだ。これは、君に施術をするべきだと、運命が告げているのと同じだ。君は、一度、古い肉体を焼き切り、新しい体を手に入れる過程で、ここへと運び込まれた。要するに、表面的には、死に突き進んでいったが、そうではない存在の奥底では、生まれ変わることになっていた。すべてのタイミングが、そう告げている」

「それは、あなたの偏見だ。あなたの解釈だ」

「どう思われても構わない。まだ、これは、施術の過程なのだから。結果は、もうすぐ歴然と現れてくる。そのとき、君は果たして、今と同じことを言うだろうか。楽しみだ。今とは逆のことを、平然と言っているかもしれない。そもそも、僕という存在と直接関わることはなくなるがね。これが、最後の機会かもしれない。君はもしかすると、僕とここで言い合ったことさえ、その新しい肉体の中では、記憶していないだろう。結果が出た時、君のあたらしい生命が、この世界で再び顕現する。その時には、それまでの過程などに煩わされることは、一切なくなる。すべての過程は、君の新しい肉体においては、血となっているのだから。自覚をしていなくても、骨にはなっている。その中に、この僕という存在も、埋め込まれてしまっている。君とは、直接、コンタクトを取ることはなくなる。その必要はなくなる」

「どうして真夏なのに、あの披露宴を、冬至の儀と井崎は呼んだのですか?」

 Lムワは訊いた。「どうして、冬至なんですか。四か月も早い。そして、その冬至と称した披露宴と同じ日に、この世界では何かが炸裂して、激しい光が解き放たれた。この二つには、何か関係があるんですか。すると、僕には、物事は、これだけではすまないような気がしてくる。また別のことも、同時に起こっているのではないか。シンクロとはそういうものだ。生と死の狭間で、僕はまだ彷徨っている。その状態のままに、知り合いの結婚式に参加した。それだけでも、異常なことだ」

「リハビリのプログラムは、すでにできている」

「やめろ」

「すべては、予定通りなんだ。わかってくれ、Lムワさん。披露宴への参加と、その後の一時的な肉体の崩壊。これも、想定の範囲なんだ。これからが、復活のための、本格的な訓練なんだ。しかし、特別な苦痛を、強いるわけではない。むしろ、今までやってきたことを、そのまま継続していくだけでいいんだ。一日二回、朝と夕方に、一時間のトレーニングを続けていけばいいんだ。ただ、それだけで、君の肉体は復活する。それも、以前、Lムワとして生きていた以上に、強力なものを手にすることさえできる。本当なんだ。信じてくれ。それを体感してからでも、遅くはないだろ?考え直してくれ。そこまでの猶予をくれ。僕を憎むのなら、その後にしてくれ」

 Lムワは、横たえたベッドの上で考えた。いや、考えるまでもなかった。確かに、自分に主導権はなかった。まったく身動きもとれないこの肉体で、いったいどんな反抗ができるというのか。命を断ち切ることさえできない。君は死ぬ準備がまだできていない。医師の言葉が蘇ってくる。

「一日二回、また青いレーザーを、受け続けるんですか?」

 Lムワは、ディバックに訊いた。

「青のレーザーは、もう終わりだ。皮膚は完治した。次の工程へと入る。僕が言ったのは、その一日二回の儀式が、継続するということだけだ。中身は変わる。外堀は、これまで通りだ。君の一日のサイクルの中に、完全に組み込んで欲しいということだ。それが、君にとっては、唯一、自分をとり戻していくという最大の行為になる」

「どういうことですか」


 どういうこと、ですか。

 どういうこと、ですか。

 どういうこと、ですか。


 自分の声が、部屋の中で響きわたった。

「昔ね。昔といっても、ほんの千何百年か、二千年ほど前のことだ。まだ人類は、天界との回路を共同体として確保していた。集合的な意識を結集させて、そしてその塊を、天との交流する素材として、溜めておくことさえできた。統治者は、その二つの世界を繋ぐ重要な役割を担った。それはとても大事な仕事だった。一年に二回、《夏至の儀式》と『祭り』という形で、それは、大規模な行事として存在していた。王が『祭り』を司り、アルレッキーノという暫定の王が《夏至の儀式》を司った。《夏至の儀式》の時に、王は国外へと極秘に出ていった。主に俗界を司る王は、《夏至の儀式》への参加は、許されなかった。そうすることにより、彼は、俗世界の頂点へと、君臨し続けられると信じた。血生臭い戦闘を司る王がいて、神聖な儀式を司る、別の人間の存在がある。アルレッキーノは、王の影の役割を果たす。王の負の部分を司る、シャドウとして。しかし、神聖な儀式と呼ばれている方が、現実には血なま臭さかった。一年に二回ある、この大きなイベントによって、世界は正常に回っていると信じられた。もちろん、僕ら後世の人間にとっては、そんな野蛮な行為が、神聖な行為であるはずもない。そしてその行為によって、天との回路が途切れないのだということも、信じることはできない。何の根拠もない、ただの思い込みだと、古代人を笑い飛ばすことだろう。

 しかしだ。天との回路が、完全に断絶してしまっている我々がだ、彼らを笑い飛ばすことなど、できるだろうか。たとえ思い込みであったとしても、そうやって、細く弱い糸を、彼らは必至で掴もうとしていた、その気持ち。そのことまで、馬鹿にすることなど、できるだろうか。そもそも、そんなことで繋がるはずはないと、我々が思うその心とは、いったい何なのか。彼らが回路を繋げていたということは、誰にも断定することはできない。

 しかし、回路は取り戻せていないにしても、彼らはその行事があることで、日々の生活に、ものすごい生命力が与えていたのかもしれない。天との回路を取り戻そう、あるいは、短い時間であっても、取り戻せていると信じることで、その後の一年、心は昂ぶり、燃えたぎるような情熱の中で、生きることができた。とすると、それこそが生きがいではなかっただろうか。それが、最も重要なことではなかっただろうか。彼らの一年の二回の儀式が、いったい、いつから始まり、どれほど続いたのか、史実は正確にはわからない。儀式が始まる以前の時代には、もしかすると、本当に、天との回路が繋がりっぱなしであったという、そんなときさえ、あったのかもしれない。なかったのかもしれない。そして、儀式は、どこかで姿を消してしまった。途絶えてしまった。後世に受け継がれることはなかった。それから、何百年、何千年と時は経ってしまった。それが我々の時代だ」

 話の流れについていくことで、Lムワは必至だった。

「天との回路を繋ぐ共同体としての装置は、なくなったということだよ。そして、今後、それが復活することはない。復活するとは、とても思えない。そんな兆しなどは、どこにもない。では、君にとってはどうだろう。君がその復活を担う人間であると考えたならば、話はどう展開していくだろう。それが、今、問われていることだ。我々、一人一人にね。だから、僕は訊いた。君にとってはどうなのかと。そして、その問いに対する答えは、これから君が行うであろう、リハビリのプログラムと、密接な関わりを持っている。それそのものだと言っていい。君はすでに気づいているかもしれない。一日二回の儀式。そう。君は共同体においては、すでに消滅してしまった、天と繋がるための装置を、たったの一人で、つくるべきなのだ。たったの一人で。孤独に。共同体においては、一年に二度の大がかりなものだった。人間たちは、その二回の儀式に、一年のあいだ、絶えず関わりをもつことになった。もちろん、心構えのこともある。終わったあとの余韻のこともある。現実的な準備のこともある。後片付けのこともある。とにかく、精神的にも肉体的にも、その儀式の存在を無視した生活など、どこにもなかった。常に関わりがあったということが、大事な点だ。見落としてはいけない一番の肝の部分だ。大がかりな装置はなくなった。人間一人が、取り戻さなくてはならない時代になった。一年に二度、というわけには、当然いかなくなった。一日に二度、というのが必要になってくる。朝と夕方の刻に。時計のネジを回すように。朝の一度だけだと、夜までは到底もたない。開いていた回路は、あっけなく、閉じ始めてしまう。そして、一度閉じてしまえば、再び開けるまでに、どれほどの労力をつぎ込まなくてはならないか。とにかく、閉ざさずにしておくということが、最低限、そして何よりも必要なことになってくる。その上で、天との回路を、太く安定的なものへと、長い時間をかけて、強化していかなければならない。これは、長期的な命題だ。短期的には、その一日だ。その一日を、生き抜くための行為だ。本当の意味で、生き抜くための。君なら、理解してくれるはずだ。おぼろげながらも、君は、ずっとそれを求めていたのだから。そのような生活を望んでいたのだから。君が、なぜ、著作物を制作し続けていたのか。なぜ、ある女と結婚したのか。別れたのか。火災に遭って、死にかけたのか。すべては、その天との繋がりを示す、炎の存在に気付いていたからだ。そして、その炎の存在を絶やさないことを、心の中で決意していたからだ。

 君の行動力というのは、その炎が絶えてしまうという、その危機感を覚えたとき、本能的に絶やさないための動きを見せる。そういう人生だったはずだ。だから、君には僕の言っていることが、理解できるんだ。そして今までのこと、そう、これまでの君の過去の無軌道な出来事が、深い統一した意図のもとで、成り立っていたということにも、気づくはずだ。それは、君にとっては、最大の癒しになるよ。だが、それは、もうこれからの人生では通用しない。失う危険性を感じたときに限って、行動するといった、防御本能からではない、新しい行動の規範を、君は君なりに築いていかないといけない。そのためにも、君は一日の中に、その太古の二回の儀式を、何としても組み込まなくてはならない。この病棟にいるあいだに、実現する方向で、考えていかないといけない」

 君の問題なんだよ!ディバックは、Lムワを励ますように言った。

「チャンスは、今このときにしか、もうない!君は、一度、死んだ身だ」

「今も、死んだままだ」

「だとしても、いや、だからこそ君には再生する条件が揃っている。一度、死んだ身でないかぎり、復活の儀を執り行える人間などいない。死の淵から這い上がるんだよ!Lムワさん。僕はそのためなら、あらゆる努力を惜しまない。しかし、僕には、その二回の儀に直接かかわりあうことができない。場所と時間の提供をすることくらいしか。君の安全が確保されているという、そんな環境を用意してやることくらいしか、できない。その中で作り上げるのは、君以外には誰もいない。僕が、アドバイスをしてやれることは何もない」

 Lムワは、なぜか特別な感慨に一瞬浸った。この男は、本当に、自分のことを親身に考えているのだろうか。その言動は、本気のようにも感じられた。心の膜を震わせる何かが、含まれていた。Lムワは、これまで誰ともわかりあえなかった事を、彼となら理解しあえるのかもしれないと、一瞬錯覚しそうになった。だが、おそらくここまでだった。ここから先の世界を、共有し合おうとした瞬間に、すべては崩れ落ちてしまうことだろう。

 今この瞬間に感じた、わずかな繋がりも、溶解し、消滅してしまうことになるだろう。



 翌日から、朝の九時と、夕方の四時の、二回、Lムワはリハビリルームに入り、コンピュータの画面へと向かった。画面は白いままだった。彼は目を閉じ、心を鎮め、この手の中にある現実に対して、静かに直面していった。そこに浮かび上がってきたのは、13という数字だった。13の紋章、13の扉、13歳の少年、・・・。井崎に渡した、すべての著作。故Lムワ氏。どうすれば、この病棟を抜け出すことができるのか。どうすれば死んでいるこの自分に、生を取り戻すことができるのか。

 一日二回の儀式は、まだ立ち上がってはいない。共同体において行われていた、一年に二回の夏至の刻と、祭りの存在。それは解体され、個人が引き継ぐことになった。ディバックはそう言った。Lムワは、この時間をどう過ごせばいいのか、まだわかってなかった。その二つの時間が、一日の中のリズムにしっかりと刻み込まれれば、彼の一日のすべての意識は、ある種、覚醒したままに天との回路を取り戻して、生きていくことができるようになる。ディバックの話を要約すれば、そういうことだった。



 ディバックはLムワが一日二回、その部屋に入っていくことが習慣になったのを見届けると、一人病棟をあとにした。ディバックはしばらくのあいだ、Lムワとは顔を合わせる気はなかった。

 これを最期に、再会することは二度となくなるかもしれない。そんな予感さえした。彼はおそらく、一日二回の儀を、完全に自分のものとするだろう。もうこの自分の存在は必要なくなる。いいことをしたのか。ディバックは、これで自分が今関わりを持たなければならないと感じた人間には、一通り出会えたと思った。伝えなくてはならないことは、すべて伝えたことを実感した。あとは、彼らが、それらの種で、芽を咲かせていったらいい。彼らの意志で、そのあとのことは繋げていったらいい。彼ら個人の善悪の感性、価値観に従っていったら、それでいい。

 最初はずいぶんと、邪悪な思惑が自分を支配していたものの、時間が経つにつれて、自分はそれほど悪いことを植え付けようとしているわけではないことに気づいた。この世界を破壊しつくそうという意図は、次第に薄れていき、彼らに新しい世界を切り開いてもらいたい。新しい人種を生んでほしい。そう願う自分がいることを発見した。だがそれも彼ら次第だった。一人一人の感性は違った。バックボーンもまるで違った。一人の中にも、さまざまな人格が同居していた。そのどの部分が強い力を持ち、肥大していくのかは、まったく予測がつかなかった。そっと彼らを見守る以外にはなかった。

 Lムワは、必ず命を取り戻すはずだ。確かに、今は生と死の境にいる。危うい状態は続いたままだ。しかし、最悪の情況は過ぎ去った。

 あとは時間が解決してくれる。彼は、一日二回の儀を、完全に自分のものとすることで、新しい時間の世界の中で生きていくことになる。そのとき彼は、新しい意識を獲得し、新しい肉体を顕現し、新しい名前で、新しい人種を生きていくになる。そして、このディバックという存在は、少しも記憶の中では再現されることなく、遠い忘却の彼方へと消えてなくなってしまう。それでいい。

 このディバックが、世界において全面的に現れるということは、本来の人間の姿からは、逸脱しているのだから。

 それでも、必要とあらば、いつだって彼らの力にはなることはできた。たとえ、それが良い発想からの要請であろうと、何かから陥れようという邪な考えからだったとしても。Lムワの新しい時間の世界が発動することで、井崎をはじめ、他の人間の生活にも、変化が現れてくることだろう。

 Lムワという人間が、現実的に復活することで、そこにはあらたな流れが生まれてくることだろう。ディバックは、自分に要請された仕事が、すべて終了したことを、ここに自覚した。














 シカンはあらたな広告の映像の制作を終え、自宅で一息ついていた。仕上げは必ず一人きりでスタジオに籠って行う。複数の仕事を同時にこなすことがほとんどだったが、この最後の数日は誰とも会うことなく、その仕事だけに集中した。仮眠をとることはあったが、布団で寝ることはなかった。その作業を終えると、シカンは数日のあいだ、死んだように寝た。一度目が覚めても、起き上がることができなかった。全身に力を入れることができなかった。そのうちにまた眠ってしまった。シカンはあらかじめ、そのことを見越して、スケージュルを組んでいた。近未来を背景に据えた新型車の広告だった。

 都会の真ん中を大胆に封鎖して撮影が行われた。人気俳優を起用しただけあって、連日撮影には多くの観客が集まってしまった。一度中止になりかけたが、とりあえず急いで、撮影が行われた。あとは、CG加工に力を入れるということになった。その撮影中に、シカンは俳優に声をかけられた。休憩中のことだった。

「なあ、シカンくん」と四十代半ばであろう俳優が声をかけてきた。シカンは三十四だった。

「シカンくん。俺は、ずいぶんと思い違いをしていたよ。ずっと自分の人生は四年の周期で動いていっているって思っていた。その四年ごとの螺旋が、忠実に描かれていて、こう上昇していくというふうに。そして、その四年に、一度、別の螺旋へと移っていく決定的な出来事が起こる。そう信じていたよ。今年の夏に起これば、次は四年後の夏、という具合にね」

 俳優は、シカンに反応など求めてなかった。

 シカンは年上の芸能人や文化人に、個人的に話しかけられることがよくあった。

 シカンは特に相槌を打つこともなく、俳優の横顔を見た。俳優は斜め下の地面を見ていた。まだシカンの眼を見つめてくる刻ではなかった。

「いやね、実質的には、四年だよ。それは間違いない。けれど、言ってみれば、正確なところは、五年の周期だったんだ」

 俳優は、その一年の違いが、大発見であるかのように語気を強めた。

「俺らのような仕事は、とても安定しているときなんてない。そうだよな。浮き沈みは激しい。けれどもそれは別に、この業界で働いているからじゃない。それはそうだよな。むしろ、これは人が生きていくことにおける、誰もが内包している周期性だといってもいい。ということは、その法則を自分が掴んでいるのかどうか。それが最も大事なことだ。そうは思わないか?波に溺れることなく、あらかじめその波形を掴んでおく。それをどんどんと、次の時間の波、次の時間の波へと、重ねていけばいいのだから。恐れることは何もなくなる。

 人生にはテーマというのが誰にでもある。大きなものが。

 五年の周期には、もっと具体的なテーマが降りてくる。その大元のテーマから抽出したような。月をイメージしてみようよ、シカンくん。五年の周期の、その五の年には、その月はちょうど真っ二つになる。右半分が黄色であるのなら、左半分はオレンジ色という具合に。その五の年の翌年から、その半々だった色の割合が、次第に変化していく。一年目には、緑色の割合が少しだけ減り、二年目にはさらに減り、四年目にはほとんどなくなる。完全にオレンジ色の満月へと近づいていく。そして、五の周期の年へと突入していく。そこで、月がまた、再び、真っ二つになる出来事が勃発する。今度は、左半分はブルーに覆われる。半々だったその状態が、翌年、一年目には、当然のことながら、オレンジ色は減少している。また繰り返される。青色のテーマの存在がどんどんと肥大化していく。四年目には、ほぼ満月に近い状態にまで膨張していく。つまりは、僕が四年の周期だと勘違いしていた大きな理由は、あいだにある、その一年のときを、抜いて考えてしまったことが原因だ。それを僕は微調整した。昨晩ね。ちょうどこの撮影に入る前に。だから、僕は、今、とっても気分がいいんだ。それを、誰かに伝えたくてね。見回したら、ちょうど君がいた」

 俳優は顔を上げ、シカンの眼を覗きこむ。シカンはそこで相槌を打った。

「四年目には、ほぼ満月だといったが、五の年には、それが完成する。満月の状態そのものだ。だが、その満月という状態は、非常に不安定な時期でもある。別の色がもうすでに内包されていると考えていい。知らぬうちに宿っているのかもしれない。まだ発芽していないだけで。その機会を伺っている。発病しないだけで」

 シカンは何度も小刻みに頭を縦に振る。

「あるきっかけとなる出来事が起こる」

「それって何ですか?」

 ここでシカンは初めて言葉を発した。

「それは言えないな。あまりに個別的事例であって」

「でも、それは確実にやってくるんですね」

「やってくる」

 俳優はその一言を発するときだけ、表情は追い詰められた動物のように、真剣そのものに変った。すぐに柔和な笑顔へと戻った。

「ほんとうに、真っ二つに割れるんだから」

 休憩は終わり、あらたなシーンの撮影に入る。俳優とはそのあと話す機会はなかった。もう少し仲良くなりたかったが、彼は自分の仕事を終えると、全員に向かって挨拶をし、そのまますぐに去っていってしまった。ドラマの撮影が控えているのだという。多忙な男だった。

 そんなシカンも複数の仕事を抱えていて、遊ぶ時間も旅行に行く時間もなかったが、一度だけ知り合いの結婚式に参加した。いい気分転換になるかもしれないなと、出席することにした。たいして関わりのあった人間ではないが、その井崎という男は、雲中万理が想いを寄せている対象だった。シカンは万理に対し、熱い感情を有していたので、彼女が井崎を意識していることを知ったときには、尋常ならぬ嫉妬を覚えた。万理とは数回、一緒に寝たが、そのあとはまったく会ってなかった。お互い仕事が忙しかったし、そもそも彼女から連絡が途絶えてしまった。一度かけてみたが、留守番電話に繋がったまま、メッセージは残したものの、返事は来なかった。その万理に久しぶりにあえるかもしれない。そんな気持ちで、結婚式に参加する気になった。井崎の結婚式なのだから、万理も確実に呼ばれる。

 超高層ビルの、最上階と屋上で行われた。式が屋上で、披露宴が最上階だった。屋上は本物の植物が繁茂する大きな庭園だった。噴水があり、色とりどりの花が咲き乱れていた。その日は天気もよく、気温も穏やかで、どこかの天国に紛れ込んでしまったみたいだった。新婦のほうは初めて見た。派手さのない控えめな、それでいて気のきく、才女のように見えた。

 列席者も含め、シカンは、ほとんどの女性に、興味を示すことはなかった。結婚する気もなかったし、そもそも付き合う相手を探すつもりもなかった。とにかく命ある限りは、今のところ仕事に没頭したい。ただそれだけだった。

 来るオファーはすべて引き受ける心づもりだった。そのうえで自分がやってみたいと思う仕事を目にしたときは、迷いなく、自分から積極的に手を挙げた。さらには知り合いには思いついた企画を、プレゼンテーションすることもあった。女性と遊んでいる暇もなければ、そっちの方に楽しみを見いだせない時期であった。

 それに万理に対する想いもあった。その成就しない恋愛の捌け口として、別の女性に手を出したくはない。別に純粋な気持ちから、あえてそうしているわけでもなかったが、一人に手を出してしまえば、あとは際限なく、病的に拡がっていってしまうという、そんな恐怖を感じたからだ。それなら、満たされないエネルギーを、もっと生産的な方向へと焦点を当てていったらいい。

 シカンは創造へとエネルギーを向けた。仕事で病的に時間を埋め尽くすのも万理という女の存在があったからだ。シカンは自覚していた。ただ普段は、それを自覚しないように生きていた。今日だけは特別だと、シカンは自分に言った。今日は思う存分、万理を堪能することができる。披露宴は同じテーブルだろう。うまくいけば、隣同士になっているかもしれない。束の間ではあるが、万理と並んで、同じ時間を過ごすことができる。次に会う約束を、取り付けることもできるかもしれない。

 シカンは式の最中も、ずっとそのことを考えていた。


 目の前の庭園で繰り広げられる結婚の儀を、万理の姿を通じて見ていたため、シカンは自分と万理の存在を、井崎と常盤の姿に重ねていた。結婚する相手は万理しかいないと、そんなふうにも思えてきた。

 今すぐにというわけにはいかないが、遠い将来、自分と彼女の人生が強烈に混じり合うことがあるのではないか。同じ場所で創作をするという直観が、そのとき実現するのではないか。ものをつくるというその一点で、二人は結びついているような気がした。同じマンションの違う階に住む。同じ場所で違った創作をする。その生活を通じて、二人には愛情が存在する。仕事を超えたところにある、ほんの束の間の私生活、休息。シカンは、そんな未来のことを勝手に思い描いていた。だがそれはずっと先のことだった。

 覚醒なき日常という言葉がシカンの頭の中を駆け巡った。今がそうだった。これまでもずっとそうだった。盲目なダンスをずっと踊っていた。その事実から、焦点を散らすためだけに、シカンは今後もさらなる仕事に手をつけていく。それは本命が現れないことで、それまでの繋ぎを、別のものに求めてしまうことと同じだった。けれど、恋愛に限っては、シカンにその兆候はなかった。万理が手に入らないから別の誰かで紛らわそうとは全然思わなかった。それでも、覚醒なき日常を埋めるべく、「繋ぎの活動」のようなものに没頭していることには違いなかった。いつかは破綻する。それなら逆に、その破綻を逆手にとってしまえばいい。

 シカンは、戦略的な準備を進めていく必要性を感じていた。もしかすると自分は、破滅に向かっているのかもしれない。そして、そのことを自ら助長しているのかもしれない。

 これほどまでにストイックな生活をしていること自体が、その先にある崩壊を促進させている。案外、これまでも自覚していたのかもしれない。こうして万理を見ていて、わずかな幸せを感じるのも、その裏では手に入らないことへの不満を、わざと増大させているのかもしれなかった。

 井崎と常盤の結婚に対してはまったく興味はもてなかったものの、二人の男女が結婚するというその事実に対しては、強烈な嫉妬を覚えた。

 万理との、叶わぬ結婚に繋がり、心は張り裂けそうになる。その二人の姿を、万理も叶わぬ想いと共に、井崎を見つめている。その井崎は常盤を見つめている。完結している世界と、どこにも辿りつけない世界が混在している。

 結婚の儀は、さまざまな想いが錯綜する、演劇の舞台のような場所になっていた。

 様々な植物に囲まれた木の長椅子に、列席者は腰をおろした。教会ではなかった。天井のない青空が広がっている。太陽の光はそれほど照りつけてはいない。かといって、曇り空でもない。風もほとんどない。小鳥の鳴き声が聞こえてくる。本当に森の中にいるみたいだった。噴水の音が聞こえてくる。牧師が現れる。結婚の誓いが交わされる。二人はキスをする。そして退場する。あっというまの出来事だった。二人が手を繋いで現れ、そしてまた二人で場を後にした。列席者の拍手は鳴りやまない。披露宴会場へと移る時間だった。


 予想通り、披露宴のテーブルは万理と同じだった。Gもいたし、沙羅舞もいた。そして隣には万理がいた。シカンは万理と話をした。やはり仕事の話だった。最後に二人で会って寝たときからは三か月が経っている。それからの二人の情況を、交換し合った。

 二人にとっては、そのやり取りが最も自然な状態だった。彼女は最後の映画を撮り終えたと言った。どういうことなのか詳しい説明を求めた。彼女は今後しばらくは映画を撮る予定はないと言った。それは本当なのかと、シカンは訊ねた。本当だと彼女は答えた。もしかすると、今後はいっさい脚本を書くことはないかもしれない。そうなると必然的に映画を製作することもない。まだ誰にも言ってはいないんだと、彼女はシカンに打ち明けた。

「ずっと前から、これが最後だと思っていた。別に引退でもないし、休業というわけではないから」

「ということは、女優業のほうは、ずっと続いていくんだね」

「わからないけど」万理は言葉を濁した。

「とにかく、仕事をやめることはないってことだ」

「先のことはわからないわ」

 そういえば、常盤静香という女は、結婚を機に退職したらしい。

 そのことを万理に言った。

「そうみたいね」と彼女は俯き加減で言った。私もそうありたいと言っているようだった。

「君も結婚する?」

 彼女は首を振った。井崎のことを考えているのだろう。

「今すぐにではなくとも、いつかはするでしょ?」

「そうね」彼女はそっけなかった。

「俺だって、いつかはしようと思っている」

「そうなの?」

 たいして興味のない表情を彼女は浮かべた。

「俺でもいいんだぜ」

「なに?」

「俺と結婚してもいいんだぜ」

「そうね。考えておくわ」

 彼女の心はすでにどこかに行ってしまっていた。

 井崎が二度と手の届かない場所へと行ってしまったことを、嘆いているようにも見えた。

 それは、そっくりそのまま、シカンへと返ってきた。

 井崎のことはもう忘れろよとは言えなかった。

「心の中に溜まっていたイメージを、すべて吐き出すことができたんだね」

 シカンは話題を映画に変えた。「からっぽになったんだ」

「そう。空っぽ。もう、何の意欲もない」

 万理は、常盤静香を見つめていた。

「そうか。わかったよ。俺は、仕事がまだけっこう残っている。ずっと先まで、休暇はとれそうにない。でも、万理が会ってくれるのなら、いつだって、その時間は取るよ。融通はきくんだ」

 万理にシカンの声は、届いてなかった。

 その披露宴のあいだ、万理はどんどんと、気力が萎えていってるようだった。

 沙羅舞も、何度か万理に声をかけたが、彼女はずっと、虚ろに相槌を打っているだけだった。そのうち舞も、話しかけるのをやめた。Gや他の列席者と関わるようになっていった。

 万理は完全にフリーだったので、シカンはほとんど、一人占め状態だった。けれども、あの情熱に満ちた、時にエキセントリックな言動や行動に走る彼女の面影は、そこにはもうなかった。

 万理は、誰かの葬儀に出ているような雰囲気に、いつのまにかなっていた。



 できあがったCМが電波に乗って放送されたとき、その映像に対する苦情がテレビ局には殺到していた。その映像を見た幼児たちが、意識を失ってしまったという報告がたくさん来た。けれど数日経つとそんな報告はなくなり、代わりに若い女性が夜眠れなくなるというコメントが目立っていった。だがそれも次第に薄れてなくなっていった。

 テレビ局はすぐに、放送を打ち切ることはなく、しばらく様子をみようということで意見を一致させた。シカンにも連絡が入った。その映像に関して、すでに精神科医などの専門家に分析を依頼したのだという。CМの最後の映像に問題があるのだという。新型車両が無人で無機質な街を疾走し、次第に速度をあげていくにつれて、路面全体を照らした光が強烈になっていく。そして、その光の強度が、最高レベルにまで達したとき(何か原子が炸裂したような、太陽が爆発したような)そのときに新型車両は、その光を背景に黒い姿に一瞬なる。車両は宙に浮き、黒い鳥が両翼を目一杯に、高く吊り上げたような状態で、空を飛んでいる姿を披露する。その光と闇のコントラストが、神経系に、何らかの作用を与えたのではないかという推論だった。視聴者の脳の中には残像が残り、それは最後の映像の瞬間とは、ほぼ真逆の、漆黒の暗闇の世界の中における、強烈な光を放つ車体の姿、という形で浮かびあがった。女性が不眠症になるのは、その映像が寝るときになって、再現されるからだと考えられた。

 シカンは、特に気にすることなく報告を受けいれた。シカンさんは、あの映像を見て、何らかの症状が出ましたか?もっとも、まだ、若い男性に影響が出たということは、言われていませんが。何ともないとシカンは答えた。そのときはすでに、別の仕事の作業に入っていた。VAからの依頼だった。VAのセトから、〝復活、再生、再開〟を意味する広告を制作してほしいと言われた。VAが新しく蘇ったという内容のブランドイメージを象徴する、そんなプロモーションの映像を、制作してほしいと言われた。

 シカンはもちろん引き受けた。シカンは、ちょうど、その新型車両のCМに関する報告を受けていたので、セトにそのことを訊いてみた。特に何の影響もないと、セトも予想通りの答えを返してくる。若いタレントさんたちは、どうですか。何か言ってませんでしたか?しかしセトは答えてくれなかった。できたら、あの新型車両のCМの、延長線上にあるようなイメージで、制作してくれないだろうか。こう、見ている人に、覚醒を促すような。

「覚醒ですか?」

 シカンは、その妙な言葉に、飛び上がりそうになった。

「どうしたんだよ」

「覚醒って。何か耳慣れない言葉でして。その、何か、怪しいような、それでも、ずっと求めていたような、自分が。不思議な感覚を呼び起こします」

「そうか?別に、普通さ」

「覚醒ですか。VAが、覚醒するというようなニュアンスなんですか」

「VA?」

「VAのプロモーションでしょ?」

「まあ、そうなんだが、本音を言うと、そういうことばかりではないな。言ってみれば、何だっていいんだよ」

「へっ?」

「素材としては、何だっていいんだよ。そう、素材としては。たまたま僕はさ、今VAの代表という役割を担っているから、それが、最も効果的だろうと思って。しかし結果的に、VAも覚醒するんだ。それはそうだろう。VAはもうすでに、この世の中の仕組みの中に、かっちりと組み込まれているんだから。これから新しく立ち上げて、俗世の中に出没させるという段階ではないんだから」

 彼が何を言おうとしているのか、シカンには皆目わからなかった。

「僕はね、VAとは違う別の事業を立ち上げようとしている。そう仮定してみようよ。まだ、世の流れとはリンクしていなくて、軌道にも乗っていない。でも今後、軌道にのせてみたい。そういうプロジェクトがあると仮定してみようよ。そのためには、すでに、強固に確立しているVAのラインを通じて、世界に働きかけるということが、どれほど効果的なことであるか。要するに、VAが、別に覚醒する必要もないし、そのことを宣伝することもないってことだ。

 それでも、結果的には覚醒する。この君が自覚している世界そのものが、世界全体が覚醒するということを、ぜひ訴えかけたいんだ。別に、誰に理解を求めているわけでもないし、賛同を求めているわけでもない。ただ、自分に対する確認を意味しているだけだ。刻印といってもいいかもしれない。僕が今この瞬間に強く感じることを、何等かの形で記録として、どこかに書き残しておきたい。人生のある時期から、僕は常にそういうふうにしてきた。そういうことを意識的にやってきた。現実的に目に見える形にして、文字通り、物質的な意味で存在させてきた。いつか消えゆく運命であっても、一度物質化したものは、別の物質に影響を与える。その影響を与えられた方が、また今後も残っていくことになる。いつかは消える運命にあっても、また別のものへと連鎖していく。もしその瞬間、物質化しておかなかったら、すぐにでも風化してしまう。風化してしまえば、他の誰に対しても、きっかけを与える機会を逸してしまう。逸してしまうということは、孤立してしまうということだ。この宇宙において。僕らは孤立してしまうために、生まれてきたんじゃないだろ?」

「そうですね」

「話しは、それだけだ。僕はすでに、やることをやった。あとは君にお願いしたい。バトンはすでに、僕の手元を離れた」

「断る理由はまったくありません」

「自由に作ったらいいが、一つだけ、あの新型車両のCМのイメージの延長線という、それだけは意識してほしい。物質同士の影響であるとか、繋がりであるとか。それは、何かから受け取った。その先に行くということだ。先を広げていくということだ。それを土台にするということだ。ベースにすることで、どれだけ高みに飛躍できるかということだ。それ以外は、偽物だ」

「わかります」

「当然、君の事でもある」

「ええ。僕も覚醒するわけだから」

 万理が言っていた最後の映画の話が、何故か蘇ってきた。まさかこの自分も、この仕事が映像作家として最後になるのではないか。共時性が震えだしていた。何かが強く変わり始めている。今度は、披露宴の会場が脳裏に蘇ってくる。

 同じテーブルには見知った顔があった。けれど、顔や、ある程度の経歴は、知っていたものの、彼らがどんな人間なのかはほとんど知らなかった。特に深く知ろうともしてなかった。他のテーブルのことは全く覚えていない。おぼろげに配置くらいしか覚えていない。そのテーブルの人間たちが、何故かシカンの今後において、とても重要な役割を担った人物たちなのではないかと感じてきた。もっとよく見ておくべきだった。万理に意識を奪われている場合ではなかった。俳優の言葉も、頭の中で錯綜してきた。五年周期の、その五の年について。彼はもっと、詳しいことを話していた。それを思いだした。

 五の年には、大小さまざまな印象深い出来事が、数か月おきに、時には月に一度くらいは起こるのだと彼は言った。

 大きなものは、序盤と後半に設定されている。一年は、旧暦で考えるから、二月の序盤から中盤にかけてが、その始まりとなる。彼はそうはっきりと断言した。

 シカンは、自分の今まで生きてきた人生を振り返った。どこが、その五の年であるのか。それを、最初に見極める必要があった。

 万理は、五の年の話をしていたのだろうか。彼女はすでに五の年を生きている。今は満月であるが、その裏にある新月が、すでに別の色に染まった半月になる機会を伺っている。

 充実と同時に、別の種子の芽生えの予感が、彼女に向かって突き上げている。


 その『月』の話を使おうと、シカンは、俳優に連絡をとろうと思った。

 彼の事務所を調べて電話した。しかし彼は今海外に行っていて、帰国は一か月以上も先だと言われた。俳優に無断で月の話を借用するわけにはいかなかったので、月を主題に使うのはやめた。代わりに、王を使うことにした。王の国をテーマにすることにした。

 五の年の終わりには、王は二人になっている。

 国は真っ二つに別れてしまう。翌年からは、だんだんと新たに現れた王の領域のほうが広がっていく。旧王は、次第にその存在を薄めていく。四年をかけて、彼は静かに消えていく。再び、五の年に入るときには、完全に彼の面影はない。新しい王が完全に世界を支配している。その絶頂期には、不穏な五の年の最初の予兆が起こる。

 そして小刻みに、その予兆に関連する出来事が起こっていく。そして後半には、二人目の王が突如姿を現す。勢力を二分する。

 月の代わりに、この世を支配する王を、描くことにした。

 すでに、王国は現代社会の中には存在してなかったが、その後ろの側面では、確実に機能しているのだという世界観で、描いていこうと思った。その王が現れたり、消えたり、複数存在したりすることで、世界に微妙な、そして、激しい変化をもたらしている。そういう映像にしてみたらどうか。

 シカンは、映像の中で、〝王を復活させる〟と言うアイデアを思いつき、心が躍り始めた。ファラオは二人になる。そして一人になる。ゼロにはならない。

 そう考えてみると、二人の時代というのがいかに長いことか。ほとんど、二人がいる時間で、この世は占められている。

 満月の時期というのは、半年にも満たない。そのあいだも、表面には現れていないだけで、すでに次の王の準備は完全に整っている。むしろ、完全な姿として待機している。やはり、二人いる。常に二人いる。一人の王が支配する世界などない。陰陽のようなものだろうか。その割合が、少しずつ変わっていくだけで、二人の存在が消えたり濃くなったりするのは、単なる見え方に過ぎないのかもしれない。新しく出現して死んでいくわけではなく、最初から二人いて、その二人が、ぐるぐると車輪のように回っているだけなのかもしれない。とすると、五のサイクルというのは、本当は十年のサイクルであって、十の年というのが存在し、そこで一回りすることで、同じ王が、同じ状況の元で復活してくる。そんなふうにも言えた。二人いるのだから、それは、五のサイクルとして分けてしまえる。実体は十のサイクルだった。

 二人の王というアイデアを、シカンは、実際に二人の人間を撮影することと、さらには、一人の人間の左右を、別の色の皮膚にして表すという、二つのヴァージョンで撮影することに決めた。

 五の年の、後半の年月日を表示し、その瞬間、二人目の王が、一人目の王の前に突然現れるというシーン。そこに、左右が別の王の姿を挿入する。それがファーストシーンで、そこから時間は、遡りしていく。

 一人の王の絶頂の時代を描き、真っ赤で、巨大な太陽を背景として、王の権威を世界に示す。

 さらに、時間は遡っていき、王の横には、うっすらと別の王の面影が現れてくる。

 そして、時間は遡っているのか、先に進んでいるのかわからなくなっていく。

 二人の王、一人の王、顔や体を二分する王。その一方の割合が、全体を侵食していく様子。アナログ時計が、ものすごい勢いで巻かれていく様子。複数の映像が、半透明に重なりあっていくこと繰り返す。VAという大きなロゴを、最後に打つ。

 シカンのイメージは固まった。


 シカンは、CМとは別のアイデアが、浮かんできていることにも気づいた。

 王のいなくなった世界だった。その世界では、一体何が起こっているのか。一方では、二人の王が支配する世界があり、もう一方では、王が消失してしまった世界がある。その世界を彼は映像にしたかった。人々はどんな生活を営んでいるのか。大地はどんな様子であるのか。その生活に、心底嫌気がさしている人間は、そこからどんな行動を起こしていくのか。

 そのときのシカンは、二つの世界を、完全にイメージすることができていた。

 その二つを、同時に制作していた。一方は、VAからの依頼であり、もう一方は、誰のためでもなく、ただ自分のための記録として。

 シカンは、今まで、そんな目的のない仕事をしたことがなかった。

 誰のためでもない制作をしたことはなかった。

 なので、この初めての衝動に、彼は驚いた。自分から、この企画を売り込んでみたら、どうだろう。いや、どこからか依頼された仕事に、一つのアイデアとして、提案するという形で提示するのが、現実的なのかもしれない。


 たまに、万理のことも思い出した。

 しかし、万理のことを思うと、必ず井崎に繋がってしまった。

 井崎からの、披露宴の招待状に記されていた、《冬至の儀》という言葉を思い出した。

 あれが、してしまった世界と重なった。井崎と妙な形で結びついたことを不吉に思ったが、それでもイメージは、留まることをしらなかった。《冬至の儀》は、本当に、あの披露宴を例えた言葉だったのだろうか。王のいなくなった王国が、統治能力を失い、祭りの刻を消失した夏の世界を、蘇らせていた。

 かつては、祭の会場であった、その広大な土地に、集まってくる人の姿はない。

 日差しが最も強く、長くなったその季節においては、寒々しい姿だった。太くて高い棒が、広場の真ん中に、日時計のように、男性器ように聳え立っている。だが、誰にも見向きもされず、その光景は実に痛々しい。例年よりも、いやにそそり立って屹立していた。異変はすぐに起きた。まるで人が集まるべきときに集まらなかったことで、その影響が天候にすぐに、直結してしまったかのようだった。いつになっても、陽が落ちなかったのだ。だが、気温は急激に下がっていく。すでに、本来なら夜中になっている。温度の下降は、冬の季節に匹敵するくらいにまで落ちている。陽の光は、その気温に逆らうように、強くなっていった。まったく違う世界が、重なり合ってしまったようだった。一つの時間の中に、二つの世界を無理やりに詰めこまれてしまったかのような・・・。

 王が政治を統治し、天候を支配していると信じていた人々は、王の不在がもたらした、災いだと囁き合った。

 その、強烈な光と、それとは相反した低い気温の世界に対し、屋外に出ていくことを、躊躇う人々の数が増えていった。

 妊婦にも、異変は出た。それまで、男の子が宿っていることを確認していたのに、突如、双子になっているという状況が、一つや二つの事例では、すまなくなっていく。妊娠四か月にもなる胎児の数が、増えることなどあるのだろうか。それも、別性の。女の子を宿していた妊婦は、男の子を加えた双子になっていた。その連動性は、気候の変化と著しく因果関係を結んでいた。当然、医師としてみれば、様子を見るといった処置以外に、するべき方策も見つからない。気味が悪いから、脱胎してくれと訴える夫婦の数もかなりいた。それほど気になっていない夫婦も、いることはいた。妙に達観していて、この気候の変化の方が、むしろ驚くべきことだと言った、そんな夫婦もいた。

 本来、あるはずだった、祭りの時期が、通過していく。

 二週間にも満たない期間であったが、とにかく、何年続いたのかわからないほどの、長期に渡り、行い続けた大規模な人間の行事が、こうして急に行われなくなるというのは、それほどまでに、重大なことだった。たとえ、どんなことであろうと、続けることで流れが生まれる。気流が発生する。それは、次第に、周りの環境の方が、影響を受け、ものや行事に合わせるようになってくる。

 毎年、その「つもり」になっている。それが急に、梯子を外された。

 周りは戸惑い、バランスを急激に崩すことになる。その状況を、誰かが、《冬至の儀》と呼んだのではないか。《真夏の、冬至の儀》と。そして、真夏の冬至の儀は、確かに設定された。毎年、繰り返すようになった。繰り返すというよりは、かつてあった祭りが、消失し、その状況が続いたというだけに過ぎなかったが、その《冬至の儀》が、五の年と融合する・・・。

 シカンは、その二つが、ぶつかり合う瞬間のことを思った。

 今年が、誰の五の年なのかは分からなかった。しかし、この二つが衝突し、そして融合する。融合というよりは、交わらない状態のままに同居する。それでも、世界には、何らかのエネルギーが発生する。それは、虚無の世界と二重の世界とが、同じ時間性の中で出会うことなのだ。

 《冬至の儀》は、人間一人の問題ではなかった。すべての人にとって、切実で、直接的な事柄だった。それに対して、五の年は、完全に個人の世界だった。

 何となく、セトが初めから、仄めかしているような事だった。

 彼は何かを、知っているのだろうか。セトに導かれているように感じてしまった。セトに電話をした。井崎の結婚披露宴の招待状について、シカンは訊いた。

「今は、手元にはないんですけど。セトさんは、持ってますか?」

「井崎の?あるとは思うけど。それが、どうしたんだ?」

「裏表紙に書いてあった、詩のような文言が、確かあったと思うんですけど」

「ちょっと、待って」

 そのあと、十数分ものあいだ、彼は通話モードのままに、受話器の前からは消えてしまっていた。

「あったぞ。いいか。汝が、KNA王国を前にするとき、入り口に立った守護天使たちは、次第に濃くなっていく光の中、冬至の儀を汝にかけたまわる」

「そこです!」

「どこだよ」

「冬至の儀。ほら、やっぱり、あった。その文言が」

「書き留められた教義は、新たなる生命が宿った、種へと埋め込まれ、KNAの内部でその身体は蘇る」

「やっぱり、あった」

「汝は言葉をかけたもう。おい、ちゃんと聞いてるか?」

「え、ええ。すいません。どうぞ」

「そのとき、種子は、発芽を促し、汝を生んだ真理が、冥界でいざ目覚めなん」

「後半は、よくわからないですね」

「すべてが、わからんよ」

「いやいや、セトさんは、わかってるでしょ。あなたはすでに、わかってますよ」

「俺は、冬至の儀という文言よりも、KNA王国って方が、気になる」

「王国ですか。そうですか。次第に、濃くなっていくという、言葉もありましたよね」

「あるよ」

「そうですか」シカンは一呼吸間を置いた。「次第に下がっていく温度、とか、そういうのはありませんかね」

「ないね」

「ないですか」

「なあ、何なんだよ、いったい。君もそうだが、この招待状も、一体何なんだ?今までぜんぜん気づかなかった。こんな裏表紙に印刷してあったんだ。それにしても、何で来たときに気づかなかったんだろう。いくら、裏でもなあ、普通目に入るよな・・・。14SEcret」

「えっ?」

「え、じゃないよ。最後にそう書かれている。署名のように」

「14何ですか?」

「シークレット。この文言を記した主体のようだね」

 シカンとセトは、そこで黙り込んでしまう。

「どうして、あなたは覚醒だとか、そういうことを言い出したんですか?」

「何となく、だよ」セトは答えた。

「あなたが、変なことを言うものだから、僕も妙な影響を受けてしまった。五の年と、冬至の儀の融合だなんて。まるで自分が、五の年を生きているようだ。冬至の儀は、すべての人間に訪れることだ。僕には、いろんな世界が見え始めている。気が狂っていかないことを、祈るだけですよ」

「冬至の儀の、向こう側に」

「はい?」

「KNA王国だよ。それは、冬至の儀を通過することで、その向こう側にある、世界のことなんだろう。俺は、そっちの方が気になるって、さっきから言ってる。君は、井崎と親しいんだろ?あの文言の意味と、なぜ自分の結婚に合わせて、書き記したのか。それを教えてもらえよ。君だって気になるんだろ?本人に、直接訊いてみたらいいじゃないか」








































  第四部 第十偏  Lサスペンス





















 結婚式を挙げた翌日だった。井崎は、朝のワイドショーで、北川裕美のニュースを見て

いた。

 ちょうど、新聞の週刊誌の広告の見出しにも、北川裕美の名前があった。

 世の中じゅうが、北川裕美だらけになっているかのようだった。北川裕美の最初の個展

である【ホワイト・エグゼビッション】は、ちょうど、二週間の会期を満了した。延長の

提案も出たようだが、北川裕美側が断ったのだという。

 彼女に関する話題は、夫の殺害疑惑という形で、恰好のネタを世間に提供していた。

 だがここにきて、事態は北川裕美の他にも、疑わしい人間が出てきたことを伝えていた。まだ実名は出てなかったが、某有名女優と、さらに別のタレント。かつて、この二人とLムワは、ホテルの一室で一夜を過ごしたというものだった。その際、この二人の女優は、Lムワからパソコンの情報を、何か盗んだのではないかということだった。この三人が、どんな親密な夜を送ったのかはわからなかったが、二人の女の外には、これもまた別の男の存在があったのだろう。

 さらには、別の週刊誌では、他の疑惑が掲載されていた。

 Lムワの、最後の目撃談であった。彼は、妻の北川裕美とはまた別の女性といたのだという話だ。Lムワの母親はその女性の存在を知っていた。何度かLムワ本人から紹介されたらしいのだ。その母親が言うには、息子と北川さんは別居していて、離婚の手続きはほとんど完了しているらしかった。息子はすでに新しい恋愛をしていて、その女性ともすでに結婚を意識している。新恋人であり、婚約者であるこの女の正体は、まだ分かってなかった。今、編集部は、懸命にその彼女の実体を追跡しているのだという。

「やっぱり、あの子は、いいのか悪いのかはわからないけど、表舞台に出ると、すぐにこれだもの。スキャンダラスな存在になる」

 常盤静香は、ミネラルウォーターを入れたグラスを二つ、テーブルに運んできた。

「でも、今日はまた、ずいぶんと、Lムワ事件は別の展開を見せてるな。俺たちが、結婚をした翌日に、こうだもんな」

「あの子が、状況的に疑われるのはわかるけどさ。でも、あの子が夫を殺すなんて、そんなことはありえない」

「でも、公で、あの発言はまずいだろ」

「そうね。家が勝手に発火したって、あれでしょ?」

「完全に、イカレてる」

「でも、どうして、北川裕美とは、別の容疑者が指摘されたんだろ?」

 二人は、ワイドショーを集中することなく聞いていた。

「気味が悪い」と井崎は言った。「どうして、パソコンの情報を盗んだと、そう断言してるんだ?この記事は」

「パソコン?」

「ほら」と井崎は新聞の広告欄を指差した。「これは、いつ発売なんだ?」

「明日よ」

「そうか。・・・気になるな」

「Lムワさんのパソコンですものね。もしかしたら、別の小説か何かが入っていたのかもしれない。誰かにそれを盗まれていたのだとしたら、あなたにも影響が出るものね。あなたは、Lムワさんの著書のすべてを持ってるんでしょ?それをすべて、発表するのよね。あなたが全権を握ってる。それなのに、また別に作品があるのなら、あなたにとっては、大問題。それも、盗まれたという話なら、なおさら」

「そういうことじゃないんだ・・・」

 井崎は、常盤静香の眼を見ることなく、グラスを片手にもち、水を一気に飲んだ。言っていいものか井崎は躊躇した。盗むというのではなく、持ってきてほしいと、万理に催促したのは、確かにこの自分だった。

 記事の内容は、明らかにこの自分と万理と、他の誰かのことを、指摘していた。けれど、その情報はどこから漏れたのか。万理が言うはずもない。もう一人の女の存在が、鍵なのか。万理は一体誰を誘ったのか。

「君だって、気になるだろ?北川裕美のことは。前からずっと。異常に関心を寄せていたじゃないか。彼女の活躍には、強烈な嫉妬を感じるんだろ?でも、それと同時に、彼女はずっと、日陰にいるべき女性ではないって。複雑な想いを抱いているんだろ?どうなんだ?」

「まあ、そうなんだけど、それも過去の話よ。何故かはわからないけど、もう彼女のことには、興味が湧かないの。不思議なものね。つい、この間までは、そうだったんだけど。こうやって、あっさりとまた有名になってしまうと、なんだか拍子抜けしてしまって。落胆してしまった。どう表現していいのかわからないんだけど。何だか、がっかりした」

「復帰してほしいと願っていたのと、同時に、うまくいかない姿を想像していたんだな。要するに、あれだ。彼女が挫折し続ける姿を、目にしたかった。それが結果的に、こうしてまた、世間の注目を浴びてしまった。彼女も、画家として成功することは難しいだろうと思っていた。けれど、結果は大勝利だ。でもそれは、絵で成功したわけじゃない。やっぱり、彼女本人のオーラだ。作品なんて、誰も見ちゃいない。そういう君は、個展に行った?行ってないよな。ここのところ、結婚式の準備で大変だった。ちょうど、重なってしまっていた」

「連絡もとってないわ」と常盤静香は言った。

「しかし、Lムワに新恋人がいたっていうのは、どうなんだろうな」

 このネタも、満更、ガセネタではないような気がした。

 もう一方の記事の方が、ほぼ自分のことにハマっていたので、もう一方のほうも、正鵠を射ているように思えた。

「Lムワには、婚約者がもう存在していた。それで、その女が犯人なのか?」

「見出しだけではわからないわ。けれど、新婚の初日に、こんな話で盛り上がりたくはなかったわね」

 常盤静香は苦笑いをした。

「それより、私、常盤のままでいいのかしら」

「いいよ、別に。俺は気にしないから」

「わがまま言って、ごめんね」

「いいって」

 そのときは、夫婦別性でいようと言った彼女の意図を、井崎はたいして気にもしてなかった。



 北川裕美のことで、井崎にコメントを求めてくるマスコミの数は、日に日に増えていった。すでに、Lムワの著書をまとめる最終段階に入っていたが、それを邪魔するかのようでさえあった。常盤静香が、その対応に追われた。しかし彼女では、収集が付かず、結局、井崎が矢面に立たされることになる。しかし、井崎にしても、北川裕美の疑惑については、どう答えていいのかわからない。北川さんは、何とおっしゃってるんですか、とか、北川さんの記者会見は、今後はおこなわれることはないんですか、といった事を言われても、今、北川裕美とは連絡がとれていないんですと、正直に言うしかなかった。

 常盤静香に、北川裕美との連絡をとってもらうよう頼んだが、二人のあいだのラインは完全に切れてしまっていた。北川裕美は、常盤静香からの連絡に応じようとはしなかった。これもまた仕方なく、井崎が直接出向くことになる。常盤静香は、自分という存在が彼に対して、何の役にも立っていないことを嘆いた。彼の力になることが、全くできてなかった。井崎は、北川裕美のアトリエに向かった。

 彼女はすぐに応対した。彼をアトリエの中に入れた。周りに週刊誌の記者がいないことを確かめてから、彼は素早く部屋の中に入った。井崎の他には、この場所は誰にも教えていないと北川は言った。部屋にはテレビがあった。そしてワイドショーが流れていた。北川は自分の話題を確認していたのだ。部屋には週刊誌も数冊ある。これは意外な光景だった。そしてアトリエだと称するその部屋だったが、実際は画材などはどこにもなく、普通に生活しているだけのように見えたことにも驚いた。観葉植物がたくさんあり、日当たりのいい、さっぱりとした部屋だった。

「アトリエって、聞いたんだけど」

「そうだったかしら」

 北川裕美は、井崎をソファーに座らせた。

「よく引っ越しするんだね」

「そうよ。展覧会が終わったから。もう、それに関するものは、すべて破棄したいの。家だってそうよ。アトリエには、そのときの創作の匂いが、しみ込んでしまっているの。だから、もう二度とそこには居たくない」

「今度は、ずいぶんと綺麗じゃないか」

「そうね。家で描くことは、もうないから。次に関しては、その可能性は、ゼロね」

「どこで描くの?もしかして、しばらくは描くのをやめた?」

「そんなわけないでしょ。確かに、展覧会が終わって、二日くらいは何もする気も起きなかったけど。でも、そんなのは長続きしない。すぐに何かを作りたくなってくる。やめるわけがない。ただ、今度は、自分の部屋で作らないだけ。ここでは、構想をまとめるだけで。だから、普通の女の子の部屋みたいになってしまった」

「そうか。しかし、君もテレビを見るんだな。雑誌も読むんだな。自分の記事をチェックするんだな。今日は、意外なことばっかりだ」

「そう?」

「あんな豪邸に住んでいて、そのあと、倉庫のようなアトリエに住んでいて、それで今度は、普通のマンションだ」

「だって、あなたが今日来た目的は、コレでしょ?」

 北川裕美は、テレビ画面を差し示した。

「なんか、最初は、私が容疑をかけられているって報道だったけど、ここのところ、そうじゃない説が出てきたみたいね。どういう風の吹き回しなのかしら。あなたのところに取材が殺到してるんでしょ?私が表に出ていかないから。事情を訊きにきたんでしょうけど、でも、あなたに対しても、答えられることは何もない。家が自ら発火して、夫のLムワは逃げ遅れて、・・・それで、焼失してしまった。それが真実なのよ。私が火をつけたわけじゃない。ちゃんと、アリバイもある。証明してくれる人がいないだけで。それに警察は、私のことは疑っていない。事情聴取を受けたこともない。私ね、自ら警察に電話をかけたのよ。何か、お話しを聞きたいことがありますかって、自分から近づいていった。でも彼らは言った。あなたに対して訊きたいことは何もないと。Lムワさんのことは、もう事故ということで、片付いていますと。そう断言した。だから警察が動いているっていう記事の内容は、まったくの嘘よ。おもしろおかしく。私の記者会見での発言を、弄んでいるだけ」

「君は、わざと、そうやって転がしているのか。君はそれでいいさ。しかし僕のほうは迷惑だ。あの発言を修正しろとは言わないよ。でも、もう一度、公の場に出ていって、この騒ぎを収束させるようなことをしてほしいね」

「馬鹿ね、あなたは。収まるわけがないじゃないの。私が出ていけば、余計に盛り上がってしまう。そういう女なのよ。よくも悪くも私が動けば、騒動が起こるの。もう今はこれで十分。個展には、あれほど人が入ったし。これ以上、盛り上げる必要もない。あなたには、迷惑をかけているわね。でも、適当に受け流してほしいのよ。あなたのほうこそ、公の前で、一度ちゃんと説明をしたほうがいいんじゃないの?もう次のプロジェクトの構想を、私はスタートさせているから。そのことで忙しいの」

「それが、まとまったときには、また俺が必要なんだろ?」

「どうかしらね。あなたの事務所に所属しているわけじゃないから」

「好きにしたらいい」

「あなたは、あなたの仕事に、今は専念するべきよ。結婚したんだし。披露宴は素敵だったわね。あなたのスピーチにも、少しうるっときてしまったし。あなた、わりに人前で話をするのが得意なのね。その才能を生かしたらどう?今度のことでもさ」

「そうか。君は、警察に電話をしたのか。警察はすでに、捜査を打ち切っているのか。本当なんだろうな」

「確認してみれば?」

 井崎は、この万理と舞と思われる女性と、自分だと思われる男の影を報道した記事を、聞き流すことはできなかった。だからこうして、北川裕美の部屋にまで訪れている。

 そうなのだ。Lムワの死に関して、北川裕美はすでに関係がないのだ。これは、自分の問題だった。自分と万理、そしてLムワとの関係だった。その事実をいったい誰が掴んだのか。そのことが気味悪かったのだ。

 自分は、どこか、北川裕美が犯人であったらいいのになと、そう思っていたことに気づいた。そうであるのなら、あの記事は嘘になる。二人の女が、Lムワの著書の残りを盗みだすために、彼を殺害することまではしなかったが、何らかの事が起こってしまい、火が発生してしまった。二人はコンピュータの情報を持って、その場を去った。彼は焼死した。そんな状況があった可能性はある。そうだとしたら、この自分にも、Lムワの死の責任があった。北川裕美の犯行の可能性はなくなった。自分の犯行の可能性が、ここにきて浮上してきた。

 けれど、北川裕美は警察に自ら電話をかけていた。彼女の言葉を信じれば、Lムワ邸の火災には事件性はなく、事故ということで、最終的に捜査は打ち切られた。ならばやはり、あの記事はどこにも結末を招くことにはならない。出だしは事実に近接しているものの、結論はまったくの誤認だった。

 井崎は、北川裕美のマンションを後にした。すでに、彼女は次のプロジェクトに入っている。そう言った。それ以上、踏み込むことはできない。彼女が再び、自分を必要とするときまで、接触をすることはなくなる。


 井崎は、警察関係者に連絡をとった。

 彼は守秘義務を超えて、Lムワの事件のことを話してくれた。

 DNA鑑定では、確かにLムワと一致したと、彼は言った。

「そう、確かに、一致はしたのだけど」言葉を濁した。井崎はそのあとを待った。数分のためらいの後で、彼はいわくつきなんだと言った。「そう、間違いなく、その配列はLムワだった。しかし、我々が鑑定をするそのときに限って、その配列が微妙に変わる。本当に、ちょっとしたことなんだが、もしこれが初めから一致していないとなると、大問題だ。まったくの別人の可能性すらある。でも、鑑定の初動においては、間違いなく、彼だ。だんだんと、その過程を踏んでいくにつれて、その配置はまったくズレてくる。配列は非常に不安定になっていく。ややこしいことになったと、誰もが思った。しかし、何故か、この事件に関しては、変に長引かせてはいけないというような雰囲気が、初めからあった。特定の団体や組織からの圧力は、まったくなかった。ただ、そういう雰囲気が漂っていたのは確かだ。そうこうしているうちに、鑑定の結果が早々と出てしまった。そして、Lムワの死亡は確定された。死因も明らかになった。それ以上、誰も口を挟める状況ではなかった。俺もすっかりと忘れていたよ。今、あなたにそのことを言われるまでは。死体は本当にLムワだったのかと、あなたは訊いてきた。俺は卒倒しそうになったよ。確かに、俺個人の見解としては、Lムワだと断定することは到底できない。しかし、科学的には、Lムワだとほぼ断言できる。人間の感覚を入れれば、違和感を覚えるという程度だ。ただ、別に、状況的にはLムワだと断定して、それで事故を処理してしまっても、誰も何も困らないということだ。自然な流れだ。

 ところが、北川裕美だ。彼女のおかげで、すっかりと静寂が掻き乱されてしまった。事故死だという結果に、疑問符が投げかけられた。殺害されたのではないかとも、言われ始めるようになった。まあ、検死の結果を知っている以上、あれが事故死以外の何かだとは、思わないよ。けれど、そんなふうに、いろいろと騒ぎ立てられたということ自体が問題だ。

 あの事象が、また掘り起こされてしまったことに、警察組織は浮足立っていた。

 俺はね、いまだにわからない。警察側に、何か疾しいことでもあるのか。そもそも、最初から、簡単に検死を打ち切ってしまうべきではなかった。筋の通らないことがあったのだから、もっと、きめ細かな専門的な調査を、するべきだった。もし、現在の科学で、解明ができないことであるのなら、もう少し時間をおいたり、時間をかけたりして、総力を挙げて立ち向かうべきだった」

「でも、刑事の方は、違うでしょ。事故死に見せかけた、放火かもしれないと考えたでしょ」

「放火ね。確かに。でも、そう言われてみても、やっぱり、最初の捜査から普通の雰囲気ではなかった。何らかの圧迫を感じていた。違和感はあったものの、あれだよ、ほら。霊がいるって、感じることってあるじゃないか。くれぐれも、口外しちゃ駄目だよ、井崎くん。君だって元々、警察にいた人間だよ。漏らしてしまえば、どんなことになるのか」

「わかってますよ。部長」

「ところで、結婚したそうだな。おめでとう」

「ええ、よく、ご存知で」

 井崎は背筋をぞっとさせた。どうしてこんなに早く、彼が知っているのだろう。

「風の便りだよ、井崎くん」

「そうですか」

「もう、Lムワさんの事件に関しては、これっきりにしてくれよ。もうたくさんだ。君だって忘れてしまった方がいい。本当のところはそうなんだろ?」

「実はそうなんですよ、部長。僕にとっても、あの事件が報道され続けることは、苦痛なんですよね。僕本人にとっても、非常に都合が悪い」

「誰にとっても、そうなんだ。何故か、そういう気にさせられる案件なんだ」

「僕は、科学者ではないですけど、さっきのDNAの配列の話。あれは、非常に興味深かった。配列が変わるって、すごいことですよね」

「それだけじゃない」

「何ですか?」

「配列が変わったときにね、・・・。いや、もうよそう。本当に、やめた方がいい。不吉なことが起こってしまうよ」

「口外しませんから」

 何故か、警察の男が、話したそうな雰囲気が井崎には伝わってきた。

 今まで心の中にしまっておいたのだろう。ここにきてすっかりと吐き出して、空っぽにしたくなったようだ。

「DNAの配列が、瞬間的に変わったとき、偶然ね、天候の方も変化したんだ。おそらく、化学班は、その状況を繰り返したことで、この案件からは去ることを、決意したんだと思う。人間の理解を超えたことが、起こってしまった。触れてはいけないものに触れてしまったと。だから、科学的な探究心などは、その時点で極度に萎えてしまったんだ。人間としての身の丈を知ったんだ。畏れを感じたんだ。正しい選択だといっていい」

「ますます、興味深いな」

 井崎は、臆することなく答えた。

「君は、あの状況を見ていないから、そんなことが言えるんだ」

「ええ」

「いいか。それ以上、君の頭の中で、何かを感じたりするのは勝手だ。しかし、行動を起こすんじゃないぞ。まあ、そんなことは、ないとは思うが。君にとっても、何か都合の悪い、案件であったみたいだから」

 最後は、井崎に暗示をかけるような言葉で、彼はこの会話を締めくくった。


 警察がこれ以上、捜査をすることはないことを知り、ほんのつかぬ間の安堵を感じたが、やはり週刊誌のネタのことが気になり続けた。

 北川裕美には放っておけと言われたが、彼女のようにいろいろと、外部からちょっかいを出されることに、全然慣れてなかった。まだ、実名を挙げられたわけでもなく、誰かに強く追及されたわけでもないのに、すでに浮き足だっている。すぐに、万理に電話をしていた。彼女の携帯電話には、直接繋がらなかった。VAにも連絡をした。けれど、VAが外部の人間に取次いでくれるはずもない。セトに頼みたかったが、不在だった。それでも、井崎という名前を出して、以前に万理と共に仕事をしたことがあるのだという事実を話すと、広報の女性は万理の近況を教えてくれた。

「まだ、正式に休業ということには、なってませんが・・・」と彼女は言った。

「もうすぐ、その事実は公表されます。しばらく、芸能活動を、停止することになります。映画を撮ることは、もちろんのこと、一切のタレント活動を」

 そのタイミングには、本当に驚いた。ちょうど、この記事がでたときに彼女は姿を消した。芸能活動を休止した。あいつ、本当に何かをしたんじゃないのか。Lムワを殺したんじゃないのか。もう一人の女がひらめいた。舞だよ。もう一度、VAに電話をかけた。「舞につないでもらえないだろうか」・・・やっぱり、そうだった。舞も一時的に、芸能活動を休止していた。



 勤めていた会社を退社する日が、近づいていた。結婚したことは、すでに報告していたし、披露宴にも、何人かの同僚が出席してくれた。ちょうど、結婚式の二週間後に、常盤静香は仕事をやめることになっていた。その日が近づくにつれて、常盤静香は不安になっていった。

 結婚して、一緒に住むようになってからも、井崎の仕事の件で自分が電話を受けることがあったが、どの案件にも、自分が関わる余地など、少しもないことに気づいた。

 彼に仕事をやめてほしいと言われたことはなかった。家庭に入ってくれとか、そういう事を特に言われたこともなかった。彼女は、自分の意志だけで決めた。結婚したら一緒に住むものだと、彼女は思っていた。井崎も特に反対はしなかった。いったい私は、井崎の傍で、何をしたらいいのだろう。何かをしろと言われれば、素早く、行動をとることができる。それが、自分の特徴だと思っていた。しかし、何も与えられなければ、脳と身体は完全にフリーズしてしまう。そうなる恐怖を、常盤静香はだんだんと感じてきていた。こんなにも仕事をする気は満々なのに、彼は何も与えてくれないのではないか。まったく役に立ってはいない自分を想像してしまうことが増えた。

 彼の事務所に、ただ人形のように座っているだけの私。

 彼の邪魔をするだけの存在価値しかない私。けれど、彼の仕事が終わり、疲れた彼を和ませてあげることはできそうだ。別に事務所で一緒に働く必要もなかった。家で待っていればそれでいい。彼の仕事には、何も口出しをしない方がいいのかもしれない。彼は何でも一人でこなせる人だ。誰かが手を出してくることには、耐えられないのかもしれない。

 以前、彼と喧嘩したときに、常盤は自分の言った事を思い出した。

「あなたは、自分のことを信用しすぎている」

 そう言われた彼の神経は、一瞬で切れた。

「どういうことだ」

「もっと、いろんな人の意見を聞いたほうがいいと思う。いろんな感覚を取り入れたほうがいいと思う」

「俺は、別に拒んでいるつもりは、ないけどな。喰わず嫌いっていう、それが、嫌いでね」

「そうには、見えないけど・・・」

「君の知らないところで、ちゃんと食ってるんだ」

 その冷たい物言いに、常盤静香は憤った。

「どうして、そうやって、馬鹿にするのよ。完全に、あなたは、他人の感覚を見下している。こういう考え方や、感じ方もあるんだって、そうやって、受け入れてみなさいよ。広げてみなさいよ」

 井崎は、軽く何度か頷いた。

「まあ、そうだな」彼はわざとらしく、含みを込めて言った。

「こっちのこんな所がいい。あっちのあんな所がいい。そうだよな。あの子のこんなところがかわいい。この子のそういうところが、カッコいい。確かに、幅を広げた方がいいね。君の言うとおりだ。それは俺も反省している。でも一方でね、ものを作るとか生み出すといったときには、いいか悪いか、すごいか駄目かなんてものは、歴然としている。これは何も、俺個人の感覚ばかりのことじゃない。自分の感覚なんてものは、むしろ信じてはいない。自分を超えた、もっと普遍的なレベルで、どうなんだろうと見る。例えば、一流の料理人がいたとするだろ?その彼も、他の料理人の料理を、やっぱり厳然と評価してしまうに違いない。絶対的な基準がある。駄目なものは駄目なんだ。彼は作る側の人間だ。本当にうまいと感じるものなんて、そんなにはないだろう。ほとんどないかもしれない。ただし、一人の鑑賞者というか、そういう存在で、自分を個として捉えたときには、確かにあれもこれもなかなかアリだよねと、そんなふうに変貌する。作り手としての彼はそうじゃない。心から感動するものを求めているし、なかなか出会えないから、むしろ自分で作ろうとする。出会えたら出会えたで、ものすごく屈辱を感じる。嫉妬心に火がつくというか、それを倒すつもりで、自分の料理にさらに集中していくことになるだろう。そういう普通の人間と、極めようとする芸術的人間が、同居しているものなんだ。鑑賞者なのか、作り手なのかという問題でもある。作り手としては、何か他者から盗むものはないかと、絶えず狙っているものだ。こっそりと盗み、自分流にアレンジしていって、自分のものにしてしまう。そういうことを常に考えている。それは、俺だってそうだ。

 君の話はよくわからないね。人の意見をとりいれるとか、感覚をとりいれるとか。馬鹿じゃないのか。取り入れるものは、もっと別のものだ。三流の感覚を取り入れて、それでどうするんだ?アホらしい。ただし、三流であったとしても、手法だったり、そういうものが目を見張ることはある。それは素直に取り入れるさ。そして、自分独自のものに変えて、それで中身を加えて、一流のものを生みだしたらいい。いったい、何の話をしていたんだっけ?そうだ。女の話だった。そう。幅を広げていったらいい。その通りだ。世の中にはいろんなタイプのいい女が存在する。確かに一つでも多くのタイプを知っているということは、大事なことかもしれない。さっきの話と重複するけど、そう、取り入れる要素を、いろんな女に求めていくというのは、君の言うとおりだ」

 普段は、穏やかに過ごせる二人だったが、少し話が込み入ったときには、険悪な雰囲気になることがよくあった。ここのところ、ずっと影を潜めていたが、その兆候は私が退社したあとで、再び頭をもたげ、今度は以前とは比べ物にならないほどに、爆発的に、その姿を現してくるような気がしてくる。そのことを不安に感じ始めていたのだと、その核となる原因に、常盤静香はだんだんと気づいていった。

「結局ね、だから何なんだってものを、積み重ねていったとしても、どこにも辿りつけはしない。自分が当事者になって、プレイヤーになってやる以上に、刺激的なことなんて、何もない。そういう、自ら、やるっていう意欲を掻き立てさせてくれるもの、同じプレイヤーとしては負けていられないと感じさせてくれるもの、そういうものでない限りは、もしくは、取り入れて自分の中で発展させてやろうというふうに、思うものでなければ、まったく意味のないものだ。鑑賞者として、ただ楽しんで終わってしまうのか、それとも、創作本能に繋げていくのか。それは、俺にとって、非常に大事なことなんだ。しかし、そう言っている俺だって・・・。Lムワや北川裕美とは違う。雲中万理とも・・・」


 こうも肝の据わっていない男だとは、自分でも思ってなかった。

 自分の嫁にしても、自分と似たりよったりのような気がした。よくこんな未成熟な精神状態のままに、婚姻など結んでしまったのだろう。

 それに比べて、万理や北川裕美といった、あの女たちはどうだ?

 彼女たちの仕事に対する迫力といったら、半端なかった。それこそ、近くにいたら殺されるんじゃないだろうかというくらいの気迫と、圧倒的な何かがあった。極度の集中力がそのような殺気を生んでいるのだろうか。もしそうだとしたら、その集中力は、彼女たちの心の奥底にある核に、源流があるに違いなかった。そこと、繋がっているときの彼女たちときたら、本人はそうは思ってないかもしれないが、敵など、どこにもいないかのようなオーラが出ていた。その状態の彼女たちと、直接同じ空間を過ごしたことはなかったが、想像することはできた。出来上がった作品から、その片鱗は、感じ取れた。特に、北川裕美の絵を観たときのことは忘れられない。画家という手段のほうが、映画という映像を使ったものよりも、さらに生々しく、直接的に、マグマのような源流に触れているのかもしれない。源流から作品までの工程を、いくつも経ていないから。そこに介在する人間も、それほどいないから。全然、薄まってなどいなかった。だから余計に怖かった。時に、見る側としては、原液をそのまま飲まされることになる。しかし、手段こそは違うものの、裕美と万理には、似たような血が流れていた。それが、彼女たちに肝を座らせていた。あの人たちと自分を比べていけないことは、もちろん分かっている。常盤静香をその世界に巻き込んでいっても、仕方のないことはわかっている。Lムワにも似たような血を感じた。だから近づいていった。同性だったこともあり、多少は触れやすかった。そして彼は、不慮の事故で死んでしまった。これはチャンスだと思った。原作者が消えたことで、原液を直接飲まずに、しかもそこに最も近づけるという、絶好の機会が巡ってきたのだと、そう思った。その気持ちこそが、こうして今、肝を座らせていない最大の原因だったのだ。北川裕美の記事には、狼狽え、万理や舞と連絡がとれないことには、やきもきし、かといって、奥さんに、何かを相談できるわけでもなく。それでも、Lムワの著書の出版や、北川裕美や、Gのプロデュースなどに関しては、怯えは何も感じなかった。

 そのあいだにも、北川裕美は一度だけ、各週刊誌のデスクに自ら出向いていったらしかった。そこでどんなやり取りが交わされたのかはわからなかったが、その影響力は絶大だった。記事を掲載する雑誌が、突然なくなったのだ。井崎と思われる男が登場する記事も、あれっきり、続編が載ることはなかった。井崎はほっとした。これで頭を悩ませることが消失した。北川裕美の魔力に、すっかりと感心した。だが安心したのも、短い間だった。

 彼女が次にメディアのスキャンダルに登場したのは、それから、半年以上が経った後だった。その内容の規模とレベルは、それまでとはまったく比べ物にならないほどに、圧巻で、致命的で、美しく、残酷だった。



シカンが、井崎と待ち合わせをした場所は病院だった。病棟の一階の待合室の裏側で、人の出入りはほとんどなかった。井崎は時間通りに来た。シカンはその十分前にはいた。

「二人で話すのは、いつ、以来でしょうか。Lさんの葬儀以来かな」

 井崎は夏なのに冷たい空気が漂うこの場所に、早くも落ち着かない様子を見せた。

「いい結婚式でしたね」

 シカンはまったく動じることなく話し続けた。

「なあ、どこかで、お茶を飲もうよ」

「井崎さん、ここは、半年前、Lさんの死体が安置されていた場所ですよ」

「知ってる」

「どうして、今日、ここにあなたを連れてきたと思います?」

 井崎は答えなかった。

「Lさんの著作は、もうすぐ出版されるんですよね。あ、そうだ。北川さん。Lムワさんの元奥さんの。最近は、ぴたりと、スキャンダラスな記事も消えてしまいましたね。井崎さんでしょ。あなたが、消したんでしょ。さすがですね」

 シカンは一人でぺらぺらと、しゃべり続けた。

 井崎はだんだんと、苛立ちが隠しきれなくなった様子で、靴の先を床に押し付けていた。

「ねえ、僕がどうして、ここにいると思います?実は、ここの医者のところに通っているんですよ。誰にも言ってませんが。その、体に問題があるんですよ、僕。井崎さんにも、その中身までは教えられませんが、結構ひどくて。やばいんです。致命傷ではないと思うんだけど。外傷じゃないですよ。いろいろと、ストレスを抱え込んでいるみたいなんですよ。こう見えて、繊細なのかな。医者は過労だって、言ってましたけど、過労なはずがないじゃないですか!あの野暮医者。薬ばっかりだしやがって。その、つまりは、僕はここの患者なんです。今さっきまで、診察してもらっていたんですよ。また、今朝に、悪い症状が出てしまいまして。でも、どうして、こうやってあなたを呼び出したのか。そうです、それを言わなければならないです。あなたは、もうすでに、苛立ちは限界にきているようだから。すみません。僕の通院に合わせて、こんな場所まで来てもらって。でも、ここは、Lさんの、元安置所ですよ。そこのところは、お忘れなく。僕らはいろんな意味で、繋がっているんです。そういえば、僕がだんだんと、体調に問題を抱えるようになったのは、Lムワさんが死んでしまったときからなんですよ。それまでももちろん、潜在的にはいろいろと抱え込んでいたのだろうけど、Lムワさんが焼死したって、そのときから、どんどんと僕の身体の表面上には、いろいろな現象として、まとわりつくことになった。それは確かなことです。

 あなたも、Lムワさんのこと以来、何か変わったことはありませんか?

 僕はあの出来事が、すべての象徴だと思うんですよ。今までベールに覆われていた事実が、どんどんと明るみになってきていると思う。どうです?どうして、そんなに無口なんですか?僕はしゃべりすぎですか?それなら、止めてくださいよ。僕は病気ですか?止めてください。あなたしかいないんです。僕の暴走を止められるのは。医者でもない。薬でもない。そう、あなたなんです。そういえば、万理さんは、最近はお元気ですか?すっかりと、連絡がとれなくなってしまって。その、僕、たまに、万理さんと会って話がしたいんですよ。でも、最近は、全然電話に出てくれなくなって。彼女の仕事のスケージュルを、確認したいんですけど、どうも、公式ホームページを見ても、何だか、いまひとつ最近の活動状況がわからない。いつからだろう。S・Gって映画の公開は、もうしたんでしたっけ?その前後から、どうも、活動が鮮明ではなくなってしまった。井崎さんってば!こんなところで話すのは、申し訳ないって、さっきから言ってるじゃないですか!その、今は、外には出ていけないんです。あと、十分くらいで、薬が処方されるんです。会計もすませないと」

 どうして、こんな所に、のこのこと来てしまったのか。井崎は心の中で呟いた。

 誰かと話したかったのは確かだった。相手は誰でもよかったが、できることなら知り合いの男がよかった。気兼ねなく、しゃべれる男がよかった。たまたまそのタイミングで、電話がかかってきたのがシカンだった。即答した。場所も、時間も、すべてシカンに任せた。まさかこんなところに呼び出されるとは、思ってもみなかった。

「お前、働きすぎじゃないのか?」

 井崎は、シカンの顔を初めて凝視した。

「ずいぶんと、白い顔だぞ。艶が悪い」

「働き過ぎ?」

 シカンはきょとんとした表情になった。「そんなはずはないですよ。むしろ、働き足らないくらいです。というかね、井崎さん。僕、先週から、休暇をとってるんですよ。井崎さんの言うとおり、そうです。過労気味だと思ったんです。だから、少し抜こうと思って。そしたら、この様ですよ。あははは。これはね、休暇をとったことで起こった、体のアンバランス状態なんです。魔が差したんです。これは。あなたの認識は間違っている。仕事に復帰すれば、そこでまたこの症状は治まる。病院に来るのも、薬を処方されるのも、全然、筋違いなんですよ!僕もね、他の人の意見というものに、多少、耳を傾けてみたんです。確かにやりすぎてるなって。だから少し緩やかにしようかなって。あなたも同じことを言う。それで実践してみたんです。それが、この様ですよ。なんだか、気持ちも落ちてきてしまって。これなら、いくつもの仕事をかけもちして、同時にいろんなことを作業しているほうが、全然よかった。僕に休暇は向かない。一般的な意味での。それがはっきりとわかった。それだけは今回の収穫です。でも休暇が明けるまでは、僕も何とか持ち直さないといけない。だからこうやって、来たくもない病院通いなんて続けているんです。それでもやっぱり、束の間の気分転換は必要だ。で、万理を呼び出そうとしたのだけど、まったく反応がない。万理さんがいないから、僕はうまく気分転換することが、困難になり始めた。そこに隙が生まれたんです。他のいろんな人の意見に耳を傾けてしまった。働き過ぎだ。過労だっていう一般的な見解に、与してしまった。違うんですよ」

「それで、俺に、万理のことを?一体、どうしろと?」

「僕、知ってるんですよ」シカンの声のトーンが少し落ちた。「あなたと万理がデキていることを。別の女性と結婚したものの、万理とは切れてはいない。ねえ、万理は、今、何をやってるんですか?どうして僕と、連絡がとれなくなってしまったんですか?」

 シカンは、井崎に縋り付くような声を一瞬出した。

「いや、申し訳ない。取り乱してしまった。いや、何も、あなたを否定しているわけじゃない。結婚したって、別の女性と付き合っていて、全然構わない。それが万理さんだったとしても、全然・・・。けれど、だからといって、万理さんを束縛してもらいたくはないですね。あなたが結婚したように、万理さんだって、誰かと結婚することはありえる。あなたはそれを止めるべきではない。そうでしょ?」

 井崎は、靴の先を床に擦りつけるのをやめた。

「万理のことは知らん。行方不明だそうだよ。一度、事務所に確認した。それで、後日わかったのは、事務所の社長であるセトという男も、どうもスタッフと連絡がとれなくなっているみたいだ。これは、誰も、知らないことだ」

「あなたも、万理に連絡を?」

「一度だけだ。そういえば、ふと思ったんだが、お前、さっき、Lの話をしてただろ。それで、北川裕美、万理・・・と続いたら、・・驚きだな。俺とお前は、ほとんど繋がってるじゃないか!全部、お前が関わってきた人間たちだよ。お前がきっかけとなって、こっちに流れてきたやつばかりだ。お前が発見して、見い出して、そして覚醒させて、それで俺のところに流れついてきている。うんっ、待てよ。俺の役割・・・そうだ。見い出すのは、俺じゃない。しかしある意味、羽ばたかせたのは俺だ。そうだよな。万理のことも、北川裕美のことも、今度はLじゃないか。もっとも、L本人は、存在しないし、この著書たちは膨大で、これを羽ばたかせるのは、ちょっとばかし、難儀だ。でも、全部、お前から流れてきた、流れてきたって言葉はよくないか。お前がきっかけで、そのあとで、俺が引き継いだみたいな形になっている。今、気がついた」

「僕は、ちょっと前から知ってましたよ。だから僕は万理も、すでにあなたの手に渡ってしまったと、何度も諦めようとした。でも、彼女に対する想いは消えるどころか、どんどんと増していくばかりです。あなたを憎んだこともありました。すいません。ただ、どうして、今度は、Lさんのことはスムーズにいかないんですか?はやく、リリースしてくださいよ。井崎さん!あなたは何を待っているんですか。それとも、止められてるんですか?脅されてるんですか?障害物が何かある。それとも怯えてるんですか?あなたの所が滞っているから、こうして僕にも、悪い症状が出てきているんだ。すいません、あなたのせいにするつもりはないけれど、それでも、僕らは繋がりがあるんですから。さっきの話のとおりに」

「なあ、シカン。それに関しては、本当にすまないと思っている」

「えっ?」

 井崎は、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべた。そして、白い長椅子に腰かけた。しかし埃まみれであることに気づいて、すぐに立ちあがる。

「あなたの所で、滞っているんですよ!」

「どうすることも、できないんだよ」小さな声で井崎は言った。「お前の方が、先に、突破しないといけないことがあるんじゃないのか?それが俺の方にも影響してる。それはわからない。だから、そんなことで、罵り合うのはやめよう。それぞれ自分のせいなんだ」

「そうですけど」シカンは口ごもった。しかし、仕切り直すかのように唾を飲んでから、しゃべり始めた。「これだけ、関係性が深いんです。無視はできない」

 井崎は俯いた。それから天を仰いだ。

 シカンはその様子を、ずっと静かに見ていた。数分が過ぎた頃、ようやく井崎は何かを思いついたように口を開く。

「お前の所が、第一弾で、俺の所が、第二弾と考えると」

 シカンは相槌を打った。「ええ」

「もうすでに、万理と北川裕美は、第三段階に入っている」

「どういう意味ですか?」

「もうすでに、俺の手からは、離れてしまったということだ。万理の行方は分からず、北川裕美は、まあ、もともとそうだったが、ほとんど俺の存在とは関係のない所で、俺の影響力なんて及ばないところで生きている。もっと言ってしまえば、Lムワ。あいつもそうだ。次の段階に、旅立ってしまった。俺はふと思う。俺は誰か生きている人間、その本人を、世の中に力強く羽ばたかせる能力があるんじゃないか。死んだ人間の、遺していった著書に、羽をくっつけ、それで、ほいって空に放り投げたとしても、あっというまに墜落してしまうんじゃないのか」

「恐れているんですね」

「ああ、正直に言うと」

「誰かに、脅されているわけではないんですね」

「ああ、そうだ」

「安心しました。いや、たとえ、誰かに圧力をかけたれていたとしても、全然構わないですけど。結局は、あなた自身の問題だから。それをさらに辿れば、僕の問題にもなる。あなたの言ったとおりだ。Lムワの著書が次の段階に行かないのは、僕のせいだ。僕が何かを恐れているからだ。今、はっきりとわかりました。確かにそうだ。僕が恐れていること・・・。ありすぎる!エリア151のことが筆頭かもしれない。あとは万理に対する恐れもあるし。仕事に対する恐れは・・・、それだけは、ないか。でも、いつオファーがなくなるのか、こればっかりはわからない。そう考えれば、すべてのことに臆病になる。あとは・・・。あの、その、Lさんは、まだ死んでないと思ってるんですよ。たぶん僕だけでしょうけど。最初はそうは思わなかったですけど。だってそうでしょ。あなたと一緒に葬儀にも参列したし、埋葬された墓地にも行った。Lさんが生きていたとしても、どこでどんな生活をしているのか。想像すらできません」

「お前、ずいぶんと怖いことを言うな」

「僕はね、Lさんを助けようとしていたんです。奥さんの北川裕美に、絵を描いたらどうかと、提案したのは僕です。それは、Lさんを助けたかったからだと、僕は最近になって認識したんです。北川裕美を思ってのことじゃない。Lさんのことを思ってのことです。Lさんから、彼女を引き離したかったからなんです。もうこれ以上、あの二人が一緒にいれば、Lさんは完全に駄目にされてしまう。Lさんは、北川裕美の内部の深淵に、最も近づいた人です。彼は自ら入っていったんです。彼女のマグマに。そのマグマを愛していた。八年ものあいだ、彼は北川裕美を見つめ続けた。しかしついに、本当に生存が危ないところまで行ってしまった。彼は助けがほしかったんです。その助けを求める声に、僕がまず引き寄せられた。次はあなたでした。あなたと僕は、Lさんを助けるために繋がった、相似形みたいなものです。僕が、Lさん本人を、そしてあなたが、Lさんの作品群を、それぞれ受け持つことになった。ところが寸でのところで、破滅への火事が立ち上がってしまった。Lさんは煙に巻かれたことになっている。でも、僕は間一髪で、逃げ延びたんじゃないかと。僕の感性は、そう捉え始めました。その想いは今も膨張している。それは悦びでもあると同時に、一種の恐怖にもなっている。あなたもそうなんでしょう。Lさんが生きているなんて、これっぽっちも、思ってないでしょうけど、それでも、心の奥底では違う。Lムワは、まだ生きている。それを遺作として、自分が打ち出していいものかどうか、迷いがあるんです。次の段階に、すべてを託すことができないでいる。さっきも言ったように、これは僕の責任だ。僕の恐怖心が、あなたにも伝染してしまっている。あなたをこうして呼び出すのは、お門違いだった。僕は、最近、こう思っていたんですよ。その、誰かのために何かがしたいとか、誰かと一緒にみんなで楽しいことがしたいとか。そういう愛を求めていたんです。でも、それは間違っていた。それは甘えだった。一種の逃避だった。自分ひとりでやることから、逃げるためのね。自分に負けることを暗に意味していた。その負けを認めないために、誰かのためだとか、みんなでとか、そういった発想で誤魔化そうとしていた。・・・挙句の果てに、あなたにまで、責任を転化させようとした。最低の男だ」

 井崎の顔は、穏やかになっていった。一度も頷くことはなかったが、深く何かを納得しているような表情に、シカンには思えてきた。その様子を見ていると、こうして自分の我儘で呼び出した身勝手さではあったが、結果的には功を奏したようだった。

「ところでさ、今日、俺がここに来たのは、何も、こんな古めかしい病棟だと知っていたからじゃない。不思議なこともあるもんだ。ここの表、そう、向こう側。表と裏が合わさって、このビルは一つの存在になっている。ここが裏だとすると、あっちが、表。あとで行ってみろよ。俺は、そこに呼び出されたものだと思ってたんだ。前から気になっている建物だった。だから、こうやって、ノコノコ出てきた。ところが、案内された場所は、全くの逆だった。裏にこんな病棟があったとは。もちろん、こっちが、先に建っていたのだろうが、何もあんなに近代的で、豪華な建物を、こうしてぴったりと背中合わせに建てることもないだろう、なあ、そうだろ。どうして、ここまで寄り添うように、いや、ほとんど、くっついてるじゃないか!何もわざわざ、なあ、そうだよな、シカン。本当に後で見にいけよ。あれ、もう知ってた?」

 シカンは、首を横に振った。

「そうだよな。確かに、内部で繋がっているわけじゃない。外に出てすぐに覗くこともできない。でも、確かに、住所は一緒だ。同じ敷地の中に建てられている。まあ、ぐるりと回れば辿りつける。何か噂では細菌の研究所だとか。重傷を負った人間のリハビリ施設だとか言う人もいて、実体はよく分からない。中に入ることはできないだろうが、外観は見られるから。な。それじゃあ」

 井崎は去っていった。


 シカンは取り残された待合室から、病院内の薬局のある場所へと移動した。他に患者の姿はなかった。しかしシカンは、薬局には寄ることなく、そのまま通過した。会計を済ませると、建物の外に出て、ぐるりと逆側へと周るために歩きだした。

 雪が降り始めているかのように、街は真っ白に染まっていた。だが、体は少しも寒さを感じなかった。半袖を着ている。季節は夏だった。しかし空からは、舞い落ちてくるものがあった。あっというまに、豪雪地帯のような雰囲気に変った。ユトリロの絵の中に入り込んでしまったかのように、建物は白く、空も白かった。建物も乗り物も、すべて白い。視界だけが、冬に染まってしまい、皮膚の感覚は夏そのものだった。じとじとと湿気のある空気が皮膚の表面を覆い、ほんの少し汗ばんでいた。だがふと井崎の言っていた建物の存在を感じた。そのビルだけが白く染まってなかった。黒い外観には大きな窓が無数に付いていて、中からは淡い電灯とは違う明かりがともされている。

 一階に目を移したが、エントランスらしきものは見当たらない。オフィスなのか住居なのか見当がつかない。看板も表札も出ていない。井崎の言うとおり、研究所のような感じもすれば、リハビリ施設のように見えなくもなかった。映画館や美術館のようにも見えるし、役所のようにも見える。

 ふと、入り口は屋上にあるとか、そんな特異な位置にあるのではないかとシカンは思った。この建物が発する雰囲気は只ならなかった。一階に入口があるという発想を完全にあざ笑うかのような佇まいだった。ここは普通に車や徒歩で入場できる場所じゃない。上から入るに違いない。何か、飛行できる乗り物で近づき、そしてヘリポートのようになっている屋上へと着陸して、そこから中に入る。そういう建物のような気がした。上空からこの建物を見てみたいと、シカンは思った。そうすれば、ここの敷地にどんな形の建物が立っているのかがわかる。おかしな図形を描いているのかもしれない。仕掛けはすべて、上から見ることなしには解明することはない。

 こうして地上から見上げているだけでは、この建物は何も答えてはくれない。

 シカンは、建物の外観を目に焼き付けながら、踵を返した。

 その外観は鉄筋のようではあったが、もしかすると、すべて木造ではないかとも思った。


 病院に通うのも今日でやめだとシカンは思った。薬は飲まない。仕事に復帰する。人から過労だと言われようが、そんなことは関係ない。暇をとれだとか、休みを設けろだとか、そういう言葉の嵐を、俺は真に受けてしまった。自分の感じ方はそうではなかった。それを信じ続ければよかった。自分には自分のやり方があった。今までと同じように複数の仕事を引き受け、同時進行させることで、すべてを終結へと持っていく。一つ一つ集中してやるとか、休暇をとるとか、時間に余裕をもたすとか、そういうことはせずに。

 エリアが、今も存在しているという恐怖。そのエリアの職員から、自分が狙われているのではないかという不安。さらにはLムワはまだ生きているのではないかという奇妙な感覚。すべてを受け入れ、同時にオファーされる仕事を引き受け、その、ある種のカオス状態の中に生きること。それが俺にとって、今を生きるということだった。誰が否定してもそれが自分そのものだった。そして、そうすることで、日々にリズムも生まれていた。その刻まれるリズムに合わせることで、俺はそのカオスの先にある世界を目指し、走りだすことができる。それこそが、俺にとっての、最大の癒しだった。

 新月と満月の解釈は少しだけ曲解してしまっていた。

 古い世界が満ちる時、それは形やシステムを維持することではなく、それに固執することではなく、それまでの仕事の軸を貫くことなのだということを。そして、それ以外のことは、すべて解放し、あたらしい流れに身を任す。それが新月の到来のことだった。

 少し誤解し始めていたことが、井崎に会ったことで修正された。











































































 GIAは雲間から地上へと下降していた。

 しかし視界はいっこうに晴れてはこない。

 いつまでも白いままだ。

 地上は霧が出ているようだった。

 湿気が高かった。

 GIAは今世界が「冬至の儀」を通過していることを知っていた。

 その時間帯を狙って地上に下降していた。

 その間、世界に、地面の存在はなくなった。



 建物はすべて宙に浮いている。

 車の存在はなく、GIAは濃い霧の中、

 ヘリコプターのようなものとすれ違うことがあった。

 プロペラの音は煩かった。

 GIAは無音であった。

 相手から気づかれることはほとんどなかったため、

 自らが寸前で避けなければならなかった。

 へリコプターが発着する停留所のようなものが、無数に存在していた。

 そこも宙に浮いていた。

 すれ違うヘリコプターは、その停留所に漏れなく入っていった。



 GIAは、その様子を横目に、さらに今はなき、地上へと、下降を続けた。

 もうすぐ、「ゼロ湖」に近づくはずだった。

 「ゼロ湖」は、この「冬至の儀」と共に出現する、いわば、「冬至の儀」の象徴的なものだった。

 「ゼロ湖」は縦に長く太い、柱のような大木のような円柱の空間であって、(正確に言うと、直方体なのだが、肉眼ではそうには見えない)その空間が現れるのだった。

 人々は、(地上をなくした世界にあっては、宙に浮く乗り物でなければ、移動できなかったが)、その「ゼロ空間」に近づくことはなかった。



 近づけないこともなかったが、人々はこぞって、その空間を避けた。

 むしろ、人が避けたからこそ、何も存在しない空間が、出現したといったほうが、正確かもしれなかった。

 どちらが卵で、鶏なのかは、わからなかった。

 とにかく、「ゼロ湖」は、出現した。

 一日に、二度。朝と夕方だったが、

 そのあいだも、白い闇に包まれているため、

 時間の感覚を視界で、判断することはできそうにない。


 太陽の存在はなく、かといって、漆黒の闇が訪れるわけでもない。


 「冬至の儀」が、どれほど続くものなのかもわからない。


 GIAは、その空間が確実に現れたことを、確認する目的で、やってきた。



 「ゼロ湖」に近づいたヘリコプターのプロペラが、異常に加速していく様子を見ると、やはり、現実的には近づけないのだろうか。

 しかし、GIAは、そのような情報の持ち合わせはなかった。

 そのような警告も出てなかった。

 むしろ、「ゼロ湖」の中に入ることは、重要なことであるという認識だった。

 一日に二度現れるその空間の中に入り、その喪失と共に世界に戻ることで、特別な意識を獲得し、その世界を生きることができるようになるという。

 それに、こうして、太陽の存在を失っている時間帯だった。

 湖を時間のサイクルとして、あらたなに体感する以外には、世界の規律は失われたままになる。



 「湖」と呼んだが、水が入っているわけでもなく、特別目に見えて、物質があるわけではなかった。

 ただ、ヘリコプターのプロペラが加速することから、気圧の変化はかなりある。

 台風の眼と一緒で、中央に入ってしまえば、特に問題はなくなる。



 GIAは、その内部に入る試みを開始した。

 確かに圧力は強かった。

 押し戻される感覚があった。

 それでも、強引に入ることをやめ、しばらくその淵でじっとしていると、次第にその気圧の差に対する違和感は消える。

 そう思った瞬間、機体は、中央にぐっと引き寄せられる。

 まるで、磁力が発生しているように。

 しかしこれが、プロペラ機となると、現実的に内部に入ることは可能なのだろうか。

 おそらく、可能だろう。

 プロペラを止めるタイミングさえ、間違えなければ。

 あとは、この「湖」そのものが、誘導してくれる。

 GIAは、内部に留まり、「ゼロ湖」が消滅するのを待つ。



 出現する前、あらかじめこの場所にいて、「ゼロ湖」に変化するのを、静かに待っているほうが、合理的かもしれなかった。

 「ゼロ湖」が現れ、「ゼロ湖」が消滅するまで、少しも動かないようにする。


 出現した後に、やってきた場合には、プロペラを止め、中へと吸い込まれてしまえばいい。

 何度か繰り返せば、慣れる。



 GIAの偵察は、はやくも、終盤に差し掛かっていた。

 その存在が、最も濃くなる瞬間は、通過した。

 GIAにも、そのことがわかった。


 機体そのものの粒子が、とても細かく認識することができた。

 無数の粒子が静かに蠢きあっているのがわかる。

 普段なら、大雑把に、自らの機体を確認できる程度だったが、このときは違った。

 その細胞が、それぞれ自らの意志を持ち、分断して、GIAからは離れてしまうような感覚もおぼえた。

 分解されると思った、その瞬間、同時に何か自分を超えた大きな存在が、機体全体を包みこんでいる気がして、安心感も同時に抱く。

 その、同時に感じた異方向性が、「ゼロ湖」体感のピークだった。



 次第に細胞はまた粗くなっていった。全体として、のっぺりとした感覚を蘇らせていた。

 包まれている感覚も、低下していった。それでも、その、ピークの感触は残り続けた。


 「ゼロ湖」は消滅する。



 霧と停留所と、それぞれが浮かんだ、高層の建物が、現れる。

 そこだけが、周りと著しく異なる。

 円柱型の透明な空間は、拡散して消える。

 二度目の刻を待たねばならない。

 だいたい、この場所にいつも出現するのだろうか。

 それを確認しないといけない。


 GIAは、それまで時間を潰すことになった。

 少し、「冬至の儀」の帯に入っている世界を、観察しておくのも、悪くはなさそうだと

思った。



 誰も、人間を乗せてはいないGIAは、

 空車のまま、しばらく、遊泳することになる。





















 その女性に会ったとき、私はかつて、何度か、彼女を見たことがあり、特別の想いを抱

いていたことを自覚しました。

 インドの修行僧時代のことです。

 私は若い時分から、世俗とは距離を保ち、意識の覚醒を目指して、仲間と共に街の寺院

と山奥とを、行ったり来たりする生活をしていました。

 その女性は、大学生でした。

 彼女は、その年で卒業する予定のようでした。

 卒業後の仕事も決まっているようでした。

 付き合ってる男性も、いたようです。

 私は何度か見たことがあった。

 彼女はとても眩しく見えましたが、その一見華やかな外見の中には、いつもほんの少し

だけ、寂しさが映りこんでいるときがありました。

 彼女は何不自由のない生活を送っているようでしたが、心のどこかには、今とは違う自

分の姿に想いを馳せているようでした。

 彼女自身も、その湧き上がってくる気持ちの根源が、まったくわからなく、困っている

ようでした。


 彼女は、寺院の傍のレストランで、ウエイターのアルバイトをしていました。

 私はレストランの前を通るときに、彼女の姿を見ました。

 彼女が出勤してくる日も知っていました。

 私はレストランに入ることはありませんでしたが、彼女とは何度も、すれ違う機会があ

ったため、目と目が合うことがありました。

 軽く会釈をする仲にはなっていました。

 会話をすることはありませんでしたが、彼女もまた、私のことが少しだけ気になってい

たに違いありません。

 若い身でありながら、汚らしい恰好で、働きもせず、怪しい修行を繰り返している自分

に、少し興味を抱いているようでもありました。

 この人には、あまり関わらないほうがいい。

 そういった態度は、感じられませんでした。

 むしろ、私と、話がしたい。

 何か、話をする必要が、あるんじゃないか。

 今後、怒涛のごとく、人生が進んでいく前に、私という人間に興味があったのか、修行僧という抽象的なものに、興味があったのかはわかりません。

 しかし、他にも、たくさんの修行僧が、この界隈にはいたので、その両方の気持ちが、彼女にはあったのだと推測します。

 私は、私で、この自分の中途半端な身を案じ、彼女に気安く声をかけられるはずもありませんでした。

 そのようにして、我々は、ずっと、目を合わせてはすぐに逸らし、そそくさとすれ

違うという生活を繰り返しました。

 しかし、私の胸の中は、締め付けられる想いでいっぱいでした。


 何故、彼女に、惹きつけられるのか。

 私は、修行僧の身ではありましたが、結婚を考えている女性がいました。

 彼女とは、寺院に入る前に知り合いました。

 私が身勝手に寺院に入ったあとも、数か月おきに、彼女の家に泊まり、愛を育むということを繰り返してきました。

 しかし、彼女のほうも、私との将来を不安に思い、何度も別れようと言ってきました。

 けれど、何度、そういう事態に陥っても、再び私たちは、恋人の関係へと戻っているのです。

 私の修行は、いったい、どこに、辿りつくことになるのでしょう。

 彼女との生活は、これから成立していくのでしょうか。

 すべてが不確定なままに、さらには、別の女性に、新たな恋心にも似た、気持ちを抱いている。

 絶望的な状況でした。

 事態は何も動きはしない。

 動かせない。


 レストランで働く大学生の彼女の風貌は、とてもエキゾチックでセクシーでした。

 眼はとても大きかったのですが、それに比べて、眼光はいまいち、強くはなかった。

 それでもそれは、本来の彼女のエネルギーが何かに遮られているために、そうなっているのであり、きっかけさえあれば、開ききるのだと、私は何故か確信していました。

 かつては、華々しく開いていたのであって、今世に限っては、生まれたときから、ずっと閉じてしまっている。

 その開く機会を、彼女は、待っているのだと、私にはそう思えました。

 それがあの、ふとした時の、淋しい表情に繋がっている。

 私は、強烈な葛藤に襲われました。

 修行僧としてのレベルを体得し、寺院を出て、社会的な存在とし生き、生計を立てていく。

 結婚をする。

 しかし、そういった状況には、今はなっていない。

 あの女性と話すきっかけがない。

 何と、無為に時間は過ぎていくことでしょう。

 私は何か行動を起こさないといけない。

 どうしたよいのか。


 一年は、すでに、後半戦に入りかけている。

 あと半年で、エキゾチックな風貌の彼女は、卒業していなくなってしまう。

 レストランはやめ、新しい仕事の地へと、旅立っていってしまう。

 その行き先は、当然、私にはわからない。

 それ以降、会わなくなる。

 私は、その頃までに、自分が目指していたステージへと到達し、寺院を出て、社会人としての仕事を、持つことができるようになるのでしょうか。





 あの女性。

 そう、彼女は、エジプト時代においては、有名なマッサージ師でありました。

 魅力的な風貌は、男性の人気を、独り占めにしていました。

 時の王、ファラオも、彼女を、大変気にいっていました。

 そのおかげで、彼女は邪な心を持って、近づいてくる男に、煩わされることはなかった。

 彼女は、マッサージの技術においては、高度なものを持っていながら、その風貌を生かし、あらゆる祭りや宗教行事においては、人前で踊ったり、歌をうたったりしていました

 芸能の女神のように振舞い、世の男たちは皆、彼女に憧れていました。

 そのとき、私は神官として、宮殿に仕えていたので、彼女が踊る姿。彼女が、舞台に立つ姿を、この目ではっきりと見ていました。

 淋しげな表情など、少しもしてなかった。

 しかし、彼女は結婚することなく、年齢を重ねていくことになった。

 ファラオという存在が、無言の鉄壁となり、彼女を外界から保護をしていた。

 誰も、彼女に近づくことができなかった。

 王の愛人であるという噂もあった。

 真実はわからない。

 私も彼女に憧れていました。

 その時代は、物質的な豊かさ、華やかさが、最高潮の時期を迎え、誰もが、その優雅さの中で、美の祝福を讃えたものでした。

 彼女は、その象徴的な存在だった。

 権力者が、主に彼女のマッサージを受ける恩恵に預かっていました。

 しかし、こうして芸能の女神として、表舞台に現れるときは、多くの男に対して開かれているわけであり、その美しい光を、私も享受していました。

 もちろん、彼女と言葉を交わす機会もなければ、彼女が誰かと会話をしている姿も、見ることはなかった。

 その謎めいた部分が、見るものをさらに惹きつける効果を、助長させていた。

 私は、彼女の夜の姿を想像し、深く嫉妬もしていました。


 あの彼女だって、夜は、普通の女になる。

 ファラオの愛人なのか、上級神官の中の誰かが、特定のパートナ―なのかはわからない。

 しかし、彼女は、女になっている。

 そう思うと、私は、夜も眠れなくなるほど、愛おしい気持ちになりました。

 もう、だいぶん以前に、私は去勢をしていました。





 冬至の儀に入ったことが伝えられる。

 それと、同時に、私は一人の女性と出会う。

 出会ったというよりは、その女性はニュースキャスターだった。

 冬至の儀の臨時ニュースが流れたとき、そこには、今まで見たことのない新しい女性のアナウンサーの姿があった。

 その女性を見たとき、私の心は、強烈に反応を示した。

 この女性は、知っているかもしれない。

 そして、そんなことはありえなかったが、画面越しに、彼女と目が完全に会ったような気がした。

 冬至の儀の報告は、すぐに終わった。


 それが、どんな現象をもたらすのか。

 何か気をつけなければならない警告のようなことも、全く出なかった。

 ニュース速報は、別の話題に、移っていた。

 軍用機のGIAが、民間用の飛行体として、払い下げられてから約二年。

 一般市民向けに、このたび、発売することになったというのだ。

 GIAは、ヘリコプターと、飛行機を合体させたものに、さらには、海上においても、船として機能し、深くて、長時間の使用は無理だったが、潜水艦の機能も備えている飛行体だった。

 さらなる、開発の進化は、地上を走る車としての機能も備え、ミサイルなどを搭載した防水仕様の総合軍用機としての、最終形を目指していた。

 すべての任務を、一台の車で網羅するというのが、コンセプトだった。

 そうなれば、空母も補給艦も存在する必要がなく、機体別に、乗組員を要請する必要もなくなる。

 一人で、任務のすべてをこなせるようになる。

 だが、その計画は、頓挫する。

 軍は、何故か、その最終形としての軍用機の計画を嫌い、それ以上の進化を許すことがなかった。

 政府も、同じ見解だった。

 そこで、技術が停滞することを嫌った軍の上層部が、民間の自動車会社を立ち上げ、そこで民間用の車として、GIAの技術を継承させることになった。

 そのことに関して、反対や抵抗はなかった。

 あっけなく、法律も、国会を通る。

 あれから、二年が経ち、半ば、市民はGIAのことを、忘れていた。

 あの華々しく駆け巡った宣伝は、打ち上げ花火のように、完全に一瞬で、姿を消していた。


 だが、ここに、GIAは、民間における、普通の自動車として、蘇ることになった。

 今、この瞬間、地面が不安定になり、地上が一時的に喪失してしまうという、このタイミングで、空中も走ることのできる、車の発売が決まった。

 これほど、宣伝効果のあるタイミングもなかった。

 価格は一千万円を超えていたが、五百万を切るのは、時間の問題だという。

 一年が過ぎれば、五百万を切り、さらに一年が過ぎれば、二百万を切るのではないかという試算も出ている。

 安全性に関する話は、まだそれほど詳細には、検証されていない。


 さらに、ニュースは続く。

 乗り物の次は、建築の話題だった。


 ゼロ建築という新しい技法が開発され、実用化への、カウントダウンに入っているというニュースだった。

 時限建築であり、耐用年数が過ぎると、自動的に、自然消滅するという。

 解体する手間が省け、使用中はかなりの強度で、建造物はその場所に保たれている。

 国の許可が降り、着工への算段がついたということだ。

 すでに、注文が入っているという。

 立て続きに、三本のニュースが耳に入ってきた。


 私はずっと、その内容よりも、キャスターの若い女性から、目が離せなかった。

 すぐに、ネットで検索する。

 当たりさわりのない個人情報が出てくる。

 だが、そんな情報は、どうでもよかった。

 個人的な繋がりを示す情報が、私は欲しかったのだ。

 そんなものは、どこにも、載ってはいない。

 その後、定時のニュースに、その女性が現れることはなかった。


 臨時ニュースも、あれから流れることはなかった。

 冬至の儀の影響なのかは、わからなかったが、霧が出ていた。

 うっすらと、街は灰色懸かった白い世界に、なっていた。

 ふと、私は、あの臨時ニュースの最後に、四本目の話題が、紛れていたことを思い出す。

 あのときは、全然、気に止まらなかった。

 だが、ある若手の(名前も、年齢も、経歴も忘れた)その女性画家が、新作を披露することになり、そのタイトルだけが、発表されたということだった。

 都市を妊娠した、初めての女性。

 確か、そんな名前だ。

 風変りなタイトルだったので、潜在意識に、くっきりと、刻まれてしまっていたのだろう。

 その女性作家の姿は、ニュースの画面で、紹介されたのだろうか。

 記憶には、なかった。

 たとえ、されていたとしても、あの女性キャスターの姿に、すべては掻き消されてし

まっていた。


 その四つは、すべて、何かしら、関係のあることなのだろうか。

 深く考える気にはならなかった。

 どれも、実現不可能なもののように思える。

 しかし、これも、冬至の儀が成せる技なのかもしれなかった。

 この帯に、世界が包まれているときには、実に可能なことなのかもしれない。

 それが過ぎてしまえば、また不可能な技へと、失墜してしまう。

 文字通り、GIAも、地上に墜落してしまう。





 エジプトでは、そのとき、「再会の儀」が執り行われていた。

 何千年というときを経て、ファラオは、マヤ人たちの入場を許可した。

 そして、長い断絶の時代を、労わった。

 マヤ人は、八人という小数でやってきた。

 リーダーの男とファラオは、大衆の前で、力強く握手を交わした。

 さらに、マヤ人は、テオティワカンの要人をも、引き連れていた。

 そっちの方が、数は多かった。

 テオティワカンとは、だんだんと、巨大になっていった、マヤ国の住人の一部を、移動させて、あらたなる都市の創造建築へと、あてた、その土地のことを、そう呼んだのだった。

 テオティワカンは、事実上、マヤの属国だった。

 だが、世代が代わり、テオティワカンの人口が、エジプトを悠に超えるようになったとき、すでに、テオティワカンに生きる人間は、マヤとの関係を知るものは、ほとんどいなかった。

 マヤという小ぶりな国の存在自体、誰も聞かなくなっていた。

 マヤ人の一部だけが、その事実を継承していた。

 マヤ人は、最初、エジプト人そのものだった。

 エジプトが、物質的な栄華のピ―クを迎えると同時に、エジプトを出ていった、人間の集団がいたのだ。

 彼らは、その当時のエジプトの政府を、非難しているわけではなかった。

 反抗でもなく、転覆を図っていたわけでもなく、ましてや、国を追い出されたわけでもなかった。

 自ら、出るべきタイミングを見計らい、同じ価値観を共有す、る小数の集団で、脱出を図った。

 初めから、“その地”に、国を作ろうなどという意図はなかった。

 メンバ―の中には、思想はまったく、共有していなかったものの、一人だけ女性を加えていた。





 再会の儀は、盛大に、執り行われる。

 かつての母国の地を踏んだ、マヤ人。

 そして、テオティワカン人は、喜びを隠せないといった表情を浮かべていた。

 私たちは、いつでも、あなたたちの帰還を、お待ちしていたんですよと、ファラオは言

った。

 あなたたちは、あらたに、国をお造りになったそうで。

 それなのに、どうしてまた、戻ってきたのでしょう。

 マヤの人間の顔色が、一瞬、険しくなった。

 だが、リーダーが、他のマヤ人を制止するように、前に進み出て、穏やかに答えた。

 私たちは、本来の自分の国に、戻ってきただけですと。

 故郷に戻って、一体、何がいけないのでしょうか。

 もちろん、悪いことなんて何もないです。

 さっきも言ったでしょう。

 心から、お待ち申し上げていたのです。

 しかし、参考までに、お聞きしたいのです。

 いったい、何故、戻ってきたのか。

 建国した国は、いったい、どうなさったのですか。

 そのまま、放置してきたのですか。

 マヤのリ―ダーは答えた。

 放棄というよりは、その役目は、終えたんです。

 ファラオは、その後に続く言葉を、静かに待った。

 我々は、新しい土地で、新しい試みをする必要があった。

 だから出ていった。

 そして、その試みは、その新しい土地で、やりつくしたということです。

 なので、こうして、戻ってきた次第です。

 その新しい試みというのは、失敗に終わったのですね。

 ファラオは、皮肉たっぷりに言った。

 マヤ人のリーダーは、反応しなかった。

 私は、あなたたちに、警告をしに来たのです。

 再会の儀は、次第に、険悪な雲が立ち込めていた。

 接待に当たった、エキゾチックな女の表情に、変化はなかった。

 その様子を、静かに見守っていた。

 私たちが出ていったときの、エジプト王国は、また一段と、レベルが低下しましたね

と、マヤのリーダーは言った。

 予想通りですよ。

 しかし、何も、あなたが悪いわけではない。

 これは、世の、必然的な流れなのだから。

 どこに行ってもそう。

 逃れることなどできない。

 海を渡り、別の大陸に辿りついて、別の王朝を築き上げたとしても。

 堕落は、もう留まることを知らない。

 あなたも、お気づきの通り、私たちは新しい土地で、精神世界に特化した、文明を、築こうとしました。

 何故だか、お分かりですね。

 かつてのエジプトの黄金時代には、肉体的な、物質的な華やかさと、精神的な深みのある、美の世が高度に融合していた。

 だが、次第に、人々は、肉体的な魅力物質的な、豊かさに、次第に酔うようになってい

った。

 その一方に、急激に傾き始めていった。

 人間の欲望は、剥き出しになっていった。

 その傾倒は、留まることを知らなかった。

 我々は、そんな世界の変化に、たえられなくなった。

 同志は、別の地への移住を考え始めた。

 消えてなくなってしまった精神的な世界を、途絶えさせないために、別の、何のしがらみもない場所で、華やかではないが、心の影の世界に特化した、宗教国家の勃興を、決意したのです。

 それは、常に、表面的で、華やかさに著しく傾倒していった、エジプトの世界との、バランスを取るためです。

 何を隠そう、二つで、一つの世界なのです。

 しかし、そうして、始まったマヤの世界でしたが、物質世界の波が来るのは、避けられなかった。

 増えていった人間の多くは、おそらく、エジプト王国への郷愁を、抱えていたのでしょ

う。

 無意識に、エジプトの世界を、求めるようになっていった。

 そして、自ら、マヤの都市国家を破壊するという行為に出てしまう。

 しかし、そんな末路を辿ったマヤでしたが、それは長い年月にわたり、平穏で激しい

生きがいのある、そういった世界が、実現できてもいた。

 エジプトとは、また違った、深みのある時間の感覚を伴う、日々を、送ることができた。

 歴史の中においては、実に短い期間ではあったかもしれないが、それでも、確実に、私

たちは記憶の彼方に、その存在を、刻みつけることに成功した。

 もう、これ以上、あの地に残る必要はなくなった。

 終わってしまった世界に、存在する意義は、ない。

 私たちが戻る、場所。

 それは、ここしかない。

 しかし、王。

 私は、一つの警告を、あなたにするために、帰ってきたのです。

 あなたも、おそらく、把握しているかもしれないが、エジプトはもう間もなく、真っ二

つに割れます。

 王を支持する勢力と、支持しない勢力に。

 そして、それらは、次第に、距離を持ち、お互いの交流を閉ざし、憎しみあいます。

 覇権を争うようになる。

 分裂は激しくなり、小さな勢力が、そこらじゅうで、対立するようになる。

 しかし、政治に力を持つという意味では、二つの勢力の対立という、大きな構図が、主軸になる。

 実情は、さらに細かく、いろんな勢力が入り交じり、つぶし合う。

 そういう世界になる。

 エジプトは、自滅への序章を開始する。

 ついには、追放の時代が、幕を開ける。

 淘汰された巨大勢力は、海を渡り、広大な土地に、活路を見い出すことになる。

 別の土地で、そう、我々のように。

 都市国家を、次々と、作りだすことになる。

 その頃には、もう、エジプトへの想いは、消えてなくなっていることだろう。

 新たなる覇権国家は、エジプト以上に、繁栄を極めるのだから。

 忘れさられてしまって、当然だ。

 それでも、かつての故郷を、懐かしむ連中も出てくる。

 再び、命がけで、海を渡る者もでてくる。

 だが、そうして、やっとたどり着いた、かつての地は、すでに、没落した荒野に近い、不毛な土地へと、変わってしまっていた。

 すでに、栄華の中心地は、移動してしまったのだ。

 そして、さらに新しい地では、分裂が起こる。

 二つの、巨大な勢力同士の、争いとなる。

 追放の歴史は、繰り返される。

 さらなる地、さらなる地へと、人々は移り、広がっていくことになる。

 人間の数は、増えていく。

 地球上に、広がっていく。

 さまざまな国が建てられていく。

 物質的な技術も進化していく。

 国家同士の繋がりも生まれ、そこでも争いが起こる。

 まれに、手を組んだり、親密な交流が始まることもあったが、それが、さらに、別の国との関係にも、繋がっていき、そこでも、融和か対立といった、二つの概念を軸に、闘争が繰り広げられる。

 私は、すでに、過去形で話をしているね。

 おわかりですね。

 あなたに、警告するまでもない。





 枝分かれした、あなたの子孫をお見せしましょう。

 これです。


 そう言ったマヤのリーダーの体の周りには、人の姿の映像が、あらわれていた。

 初めは、別の人間が姿を、見せたのかと思った。

 けれど、人の姿の色素は、薄かった。

 人の周りには、また、別の世界の背景が、薄らと映りこんでいた。

 複数の映像が並んだ、テレビ画面のように、存在している。

 マヤのリーダーは、その一つ一つに、説明を加えていった。

 エジプトはまず、二つに分裂し、その最初に反逆した側を、ユダヤと呼んだ。

 もちろん、呼んだのは、エジプト側の人間であって、呼ばれた彼らは、もちろん自分たちが正当なエジプト人であるといった、主張を変えはしない。

 そして、何と、そのユダヤが、勝利を収めてしまった。

 流浪の民となったのは、エジプト人を称する、側だった。

 彼らは二度と、エジプトの地を踏むことはなく、別の大陸へと移り、そこで、数を増やしていった。

 別の小数民族との交配を、することもあった。

 エジプトを支配したユダヤも、次第に、その内部では内乱を起こし、さらに分裂していくことになった。

 国を追われた人たちは、先に出ていたユダヤの民と、合流するものも多数いた。

 そこではもう、ユダヤと呼ばれることを、恥辱に感じることはなく、ユダヤの民は、世界中に広がっていった。

 それから、時代は進行していったが、すでに、ユダヤとエジプトという国家が、対立しているという構図はなく、それでも、血統を正確に辿れ、ば間違いなく、最初の分裂した二つの源流へと、流れつくのだった。

 最初に敵対したという、血の起源による区別が、その後、どこまでも続くことになる。

 分裂し、憎みあう世界の原風景として、いつまでも、エデンの園のよう、に奉られていたのである。

 宗教においても、二つの流派があった。

 しかし、それも、元を辿れば、エジプトを神とする派と、ユダヤを神とする派による、構成が大元だった。

 それから、さらに、宗派はできては、消えていったが、その原風景は、いつまでも消えることはなかった。

 エジプトの宗派が、世界の精神世界を、統一した時代においても、ユダヤの宗派の隆盛は、勢いを止めることなく拮抗していった。

 戦争にまで発展することが、頻発したが、それでも、一方が、極端に力を失うということはなかった。


 まるで負けて、弱体化していくことが、予想される側に、いつも誰かが、そっと援軍を送っているかのごとく、力はほぼ、均一の域を保っていた。

 その時代の、その場所では、こっち側が、支配階級についていたほうが、都合がいい。

 別のまた、違った状況のもとでは、こっちが、権力を握っていたほうが都合がいい。

 そういった具合に。


 ただし、小国が、無数に存在していた中世の少し前では、同じ宗教の中でも、土地を争う闘いが、常に小国同士で行われていた。

 その領主である、男の姿が見える。

 それから、中世へと移ると、ほら、修道院が見えるだろう。

 そこに、宗教家として修行する男の姿も見える。

 彼は、真面目に教義を学習して記憶しようとしている。

 けれども、常に疑問をもっている。

 彼は、宗教家を極めようとしていながら、実は、別のものを求めている。

 彼は異端だ。

 生まれながらにしての、異端の宗教家。

 彼は、密かに密教の類に興味を抱き、その関係者に近づこうとしている。

 彼は、より頭で理解する教えではなく、自ら体感する宗教というものを、目指している。

 いわば、神秘主義だ。

 肉体と精神が、深く統一されることで出現する、神聖なる世界を求めている。

 それは、この世で、しかも、この自分という存在を通して、実現できると、生まれながらにして、直観している。

 字句通りの教えを、そのままただ受け入れ、素直に言われるがままに、生きていくことに、彼は疑問を感じる。

 激しい怒りさえ抱く。

 彼は、結局、密教系の指導者と出会うことは、叶わなかった。

 表向きは、一人の聖職者として、過ごす一方、ひとりで、いろんな文献(禁書のようなたぐい)を掻き集め、独学で天井なる世界を、この世で体感しようと努力した。

 書記官として、年中行事の様子を、書き記す仕事もこなした。

 速記官としての任務も、滞りなくこなした。

 彼は、それ以上は、何も掴めない人生に苛立った。


 しかし、決して、自堕落で、自暴自棄な生活を送ることはなく、生涯を、品行方正で、模範の宗教家としての生を、まっとうすることとなった。

 彼は、非常に、裕福な生活を送り、人々の尊敬を集めた。

 無名ながらも、平穏で、幸福な人生を送った。

 この中では、彼は、非常に恵まれた人生だった、とマヤのリーダーは言った。

 その前の、あの領主は、ひどい暴君で、無数の人間を、国内外問わずに殺していった。

 戦国の世だ。

 当然だ。

 さらには、こういうのもある。


 これは、もうすでに、終えた世界だ。

 我がマヤと、密接に関わりのあった、テオティワカンの話。

 一人の男の姿が、見えるだろう。

 ほら。

 背景には、ピラミッドの姿が見える。

 彼は生贄だ。

 見てごらん。

 いや、話すのは、やめよう。

 これは、実に、非常に近い過去だ。

 まだ、詳細に分析したり、報告したりする、時期ではない。

 そっとしておこう。


 マヤのリーダーはそう言って、率いてきた男たちの方を見た。

 そして、こちらには、女性の姿もある。

 はっきりとは見えないが、これは、女性性の時代だ。

 すでに、二千年後、だろうか。

 人間の知能の代わりをなす、機械というものが、大量に物を作っていく時代になる。

 ちょうど、その先駆けだ。

 これは、労働者という、分かりやすく言えば、自由の多少はある、言葉は悪いが、奴隷たちが酒を飲んだり、女と遊んだり買ったりする場所だ。

 キャバレーと呼ばれている。

 歌を謳う女もいる。

 ちょっとした余興を、こなす芸人の姿もある。

 その客の中には、労働者に混じって、人生の悲哀を絵にする、画家という人間たちもい

る。

 ずいぶんと、美しい女だろう。

 彼女は、このキャバレーという場所で、健気に歌をうたい、踊って日銭を稼いでいる。

 これだけの美しさを持っていながら、彼女はどこか遠慮がちだ。

 自信を持つことができないでいる。

 まだ、自分が何者であるのかを、掴んではいない。

 この店に集まる人間たちは、みな、彼女の本質をしっていた。

 こんな場所に、いつまでも存在している人間ではないことを。

 もっと広くて華やかな場所が、似つかわしく、そこでたくさんの人たちに向かって、心

を開くことができることを。

 それが、彼女の心の、本望だということを。

 しかし、キャバレーに集まる男たちは、彼女がいつまでも、ここに居ることを望んだ。

 誰も、彼女を羽ばたかせようとはしなかった。

 そして、彼女は、そのキャバレーで年老いていくことになる。

 若くて綺麗な女性が、その後、あらわれるに伴い、彼女はどんどんと、身の置き場を、

なくしていった。

 晩年は、店の支配人や、その知り合いに、体を売るような。それに近いようなことをして、生き延びていくことになる。

 貧しい結末だった。

 非常にゆるい、飼い殺しでもあった。





 また、その隣には、別の女性の姿が見えると、マヤ人のリーダーは言う。

 彼女はもっと時代を新しくしている。

 彼女は、女性性を、完全に、社会に対して開き、剥き出しにしている。

 それを売り物にして、商売にまでしている。

 男性の視線だけでない。

 女性の注目をも浴びている。

 モデルとか女優とか、そんな風にも見える。

 どっちの性に対しても、性欲というものを掻き立てる、そんな役割を果たしている。

 彼女は、ずいぶんと若くして、亡くなってしまったようだ。

 25歳くらいだろうか。

 短い生涯の中で、その凝縮した魅力を、最大限に発揮した。

 しかし、彼女もまた、幸福そうには見えない。

 何か、運命に対する復讐をしているかのようだ。

 しかし、その性の魅力を売り物にしている反面、貞操観念は、非常に硬かったようだ。

 誰にも体は許していない。

 男性にも。

 そして、同性にも。

 その肉体と精神が、最も美しく融合している、その瞬間、彼女は命を絶ってしまった。

 自殺ではなかったが、彼女の生きる意志は、そこで途切れた。


 その生における彼女は、目的を果たしたのだろう。

 さらに、別の女性が見える。

 彼女は、今の彼女とは、正反対のようだ。

 表舞台には一切出ず、太陽の光には、もうずいぶんと当たってなくて、彼女は、そう、娼婦だ。

 ほとんど薄暗い世界の中で生きている。

 誰も、その素顔を知らないくらいに。

 男たちは、夜になると、彼女の体を買いにくる。

 皮肉なものだ。

 彼女はとても長く生きたようだ。

 風貌の老化による劣化も、陽の光が届かないという一点で、克服していた。

 老婆に近い年齢になっても、彼女は仕事をし続けた。

 宿の女将は、もう何人も変わってしまったあとでも、彼女は生き続けた。

 いったいどんな病気に侵されているのか、誰も知ることはなかった。

 彼女はほとんど、その部屋から、一歩も出ることなく生涯を終えた。

 死んだとき、彼女の姿は、太陽の光に、ほんの少しだけ晒された。


 マヤ人のリーダーは、一息ついた。

 これが、君たちの子孫が辿る、運命の一部だ。

 エジプトが、これから、真っ二つに分裂する、そのことで始まる、新しい時代の結果たちだ。

 よく見ていったらいい。

 そして、複数の映像たちは、消えていた。



 重苦しい空気に包まれていた。

 エキゾチックな風貌の女性が、ファラオと、テオティワカンからの、集団の後ろに、そっ

と立っていた。

 ここで、あなたに提案をしますと、マヤのリーダーは言った。

 我々だけでも、時代を、遡っていったらいい。

 我々ならできると、彼は言った。

 時間は確かに、前へと進んでいく。

 今みた、映像のような生は、繰りかえされることになる。

 それは、避けられない。

 逃れることはできない。

 体験せねばならないことだ。

 しかし、それとは別で、我々は、密かに力を合わせて、違う気流を生みだしたら、どうだろう。

 エジプトが、最も繁栄を極めた時代に、遡ることを目指して、お互いの力をすべて、結集させていく。

 そういったビジョンを、立ち上げるよう。


 私たちは、エジプトを脱出し、精神と宗教に特化した、非物質的な世界を極めるべく、立ち上げたが、これもやはり、分裂の一部にすぎなかった。

 エジプトの物質性の中で、表現してこその、宗教性だった。

 そのことが、よくわかった。

 私たちからして、すでに、分離してしまった世界が、さらに、あなたたちの中で、大きな二つの流れが生まれ、それを合図に、解体する方向へと向かっていくのです。

 そうなってしまえば、もう誰も、解体の大元の起源を、特定することは、不可能になってしまう。

 ここ、なんですよ。

 元々の、分裂の核たる、部分は。

 わかりますか?

 これから、あなたたちの、物質を主にする世界では、解体の連鎖が、何千年に渡ってくり広げられる。

 その流れは、食い止められない。

 じっと、見ていたらいい。

 けれど、その、些末な解体の流れとは別に、我々は、その大元の分離を、修復していくのです。

 世界が、些末なところで、カオス状態をきわめていくのと、逆行して。

 世界が解体しているように見えるのは、表面上の、浅い世界であって、深い部分では、まったく乖離などしていない。

 エジプトの黄金時代の復活に向けて、着実に、進化接近している。

 今やらなければ、もう手遅れです。

 何千年後のために、今やらねばならない。

 我々は、手を組むんです。

 もっと、大きな目で世界を眺めてください。

 私は、そのことを伝えるために、こうして戻ってきた。

 あなたがただけでは、決してうまくはいかない。

 私たちだけでも、破滅してしまう。

 お互いを、必要としているんです。

 もう一度、今、同じ土地で、一心同体となって、理想の国の姿を、目指すべきなのです。

 あなたの一声に、かかっています。

 我々は、協力を惜しみません。

 この二人の会話の密約を、エキゾチックな女性は、一番近い距離で、そのすべてを聞い

ていた。





 インドの修行僧時代の私は、その年が終わる頃になっても、寺院の中で、毎日、食事の準備から掃除、読書、そのあとに残った時間で、瞑想に費やしていました。

 私たち若い修行僧たちは、ほとんど自分一人で、過ごす時間が多かった。

 集団で同じカリキュラムをこなすようなこともなかった。

 食事や団らんのときには、共に過ごしたが、肝心の修行に関しては、長老が指導にあたってくれるわけでもなかった。

 寺院の中にも、女性の姿はあった。

 しかし、完全に隔離されていて、食事の時にも、すれ違うことすらなかった。

 外との行き来は自由であったため、奥さんを持っている修行僧もいれば、彼女や遊ぶ相手を、外に持っていることもあった。

 中に連れて来れないだけであり、彼らは自ら、外の女たちに会いにいった。


 前にも話したとおり、私にはすでに、何年も付き合っている彼女がいて、それでいながら、近くのレストランで働く大学生の女性にも、恋心を抱きながら、悶々とした気持ちを抱えていた。

 寺院での修行の成果に、自分自身が納得でき、そしてそれを、この社会に役立てて、繋げていくことができるのか。

 それが、最も大事なことであり、不安な要素でもあった。

 彼女と結婚し、家庭を持つことは、できるのであろうか。

 さらには、大学生の女の子が卒業するまでに、私たちは、何か話をする機会が、持てるのだろうか。

 何かを感じるのだ。

 我々は会って、何かを伝え合わなければいけない。

 複数の想いが錯綜し、私を、苦しめていました。

 私は、そのとき、何故こうして寺院になどに入り、修行の身であることを続けているのだろうか。

 心を、魂を、本当の意味で、私は救いたいと願っていたのだ。

 深く深く傷つき、そして、最も救われない魂たちを、光の世界へと導きたい。

 あるとき、私は、何かの啓示を受けたような恍惚感に、突如、襲われた。

 私は、自分の魂の中に、もっとも根深く傷ついた魂をもち、この世に生まれてきたことを、はっきりと自覚した。

 私は、すべての人の魂を救いたい。

 しかし、この自分の魂を救うことも、他人の魂の一部を救うことも、それは同じ行為なのだということに、気づいていた。

 魂に人格などはない。

 すべては、繋がっている。

 しかし、私という人間が、他人とは違う、一つの固体として生まれている以上、それは受け入れて生きていかざるをえない。

 私は、ある特定の短い時期に、ある種の音楽や、絵画、彫刻によって、つまりは、誰か別の人間が制作したその作品に、強く心を打たれ、自分の中の最も救われない魂の一部が、ほんの少しだけ浄化されたような、そんな疑似体験をしたのだった。

 私の意識は、確信を持った。

 これなのだと。

 これこそが、私の求めていたものなのだと。

 しかし、私のとった行動は、物を制作するという方面ではなかった。

 寺院だった。

 私は、自分の魂の在り処をちゃんとした形で、しかも、自力で突き止めたかった。

 私が、レストランに勤める大学生を初めて見た時も、いまだに、制作物はゼロであり、果たして、私はこのまま何も生産することなく、この場所で朽ちていくんじゃないだろうかと、絶望的な気持ちになることもあった。

 芸術作品を作り上げたいという欲求が、すべての上位に、あるわけではなかった。

 ただ、最も救われない魂に光を当てたいという、想いがあっただけだ。


 私は、あの大学生の女性の、救われない魂のことを考えていた。

 彼女はおそらく、中流以上の、わりと、裕福な家庭で育っている。

 大学に行き、学問に励み、そして、その延長にある社会へと、これから羽ばたこうとしている。

 働き、出会った男性と結婚し、家庭を持つ。

 子供をもうける。

 しかし、彼女の淋しげな表情は、消えることはない。

 ふとしたときに現れる、その表情。

 それは、心の深淵が映る唯一の瞬間だ。

 もっとも救われない魂は、彼女をひどく悩ませるわけでもなく、人生そのものを引っ掻き回す暴れ者でもなかった。

 それは、ひっそりと息を潜め、ふとした瞬間に、彼女の全存在を乗っ取り、また次の瞬間に、姿を消してしまう。

 人生の終焉のときまで、それは続いていく。

 彼女には、その人生を貫く一つの軸がなかった。

 あるいは、私は自分の境遇や、精神的な状況を、そのまま彼女に投影してしまっているのかもしれなかった。

 ただ、それだけのことではないのかとも思った。

 確かに、そういう面は、あった。

 でも、あのエキゾチックな風貌が、何か別の面をも、映し出しているのは明らかだった。

 彼女とは、何度か会ったのだ。

 エジプト時代の記憶のこともある。

 彼女は、あのときのやりとりを、すべて聞いていたのだ。

 その上で、こうして、インドの中流階級へと生まれてきていた。

 そうだ。

 このことを彼女に伝えなければいけない。

 話題など、すでに存在している。





 臨時ニュースの二回目。

 あのエキゾチックな女性が登場する。

 冬至の儀があと少しで終わるというニュースだ。

 まもなく、冬至の儀は終了です。

 一日の中に起こる二回の鬼門の刻を封じるために、各人は行動に備えるように。

 警告が出された。

 一回目の時と同様、GIAの一般発売の事が告げられる。

 時限のゼロ建築の、ニュースが続く。

 都市を妊娠した女性という絵を描いた、女性画家についての、報道が続く。

 周期的に、気流が悪くなる時間帯というのがあった。

 その時間を、逆手にとることを奨励していた。


 私はその後、エキゾチックな女性から、何か語られるのを待ったが、彼女はそれっきり、姿を見せることはなかった。

 インドにおいて、彼女の姿を見たときから、半年が経ったときだ。

 私は初めて、彼女と話しをする機会が訪れた。

 店の常連になっていたため、彼女も顔を覚えていてくれた。

 私は、彼女の出勤の日を狙って、通い続けた。

 働いている最中に、言葉を交わす機会はなかったし、店長らしき男が、店員の私語を極端に嫌っていたようで、客と店員の交流は、世間話という程度でも、許される雰囲気ではなかった。

 それに、私は元来、激しい人見知りでもあった。

 しかも、見ず知らずの女性に、とりとめもなく話しかける、技術の持ち合わせもなかった。

 なので、店の外で、偶然彼女と出会うというシチュエーションに、頼るしかなかった。

 誰か、友達にセッティングしてもらうのが、一番私の性格に合っていたが、今回ばかりは、そうもいかない。

 私の知り合いはすべて、私が誰と付き合っているのかも知っていたし、店の関係者には、私が、寺院で暮らしている修行僧であることは知られている。

 私は一人で、突破する道を、模索するしかなかった。


 彼女に一番高い確率であえる場所と時間を、あらかじめ把握しておく必要がある。

 しかし、綿密に計算した結果というのは、だいたいにおいて、何も起こらない。

 それでも、何か行動を起こさずにはいられない。

 しかし、私はあるとき、店の店長と話しをする機会があった。

 寺院に関することで、彼は意外にも、興味が高じているらしく、わりに勇気を振り絞って、一番若い部類に入る私に、声をかけてきたのだ。

 私は丁寧に、その質問に答えた。

 このチャンスを、最大級に生かす必要性を強く感じた。

 あの女性に繋がる、唯一の道だった。

 その男に、何気なく、あの若い店員のことを訊いてみた。

 彼女はとても、感じがよくて、真面目に働いていますね。

 僕が来る日は、彼女が担当なことが多いんです。

 大学生なんですよね?

 もう卒業ですか?

 卒業しても、ここで働くんですか?

 そんなことはないですね。

 どこか、別の土地に引っ越してしまうんでしょうね。

 私はまだ、ここの寺院にいるでしょうから、その、彼女のほうが早く、この土地から旅立っていくんですね。

 店長は、じろりと私の顔を見た。

 私の心はどぎまぎした。

 完全に彼女に対する好意が出てしまっていた。

 しかし、決して下心はないのだと、そういう念力を、必死で、店長の男に送った。

 なんともお粗末なやり方だったが、店長の男はにこりと頷き、彼女に何か伝言があれば、伝えておくよと、私に言った。

 そう言われた私は、また舞い上がってしまった。

 しかし、最大のチャンスを、フイにしてしまうわけにはいかない。

 それでいて、粗相な願いをしてしまえば、そこで二度と彼女との繋がりは、途絶えてしまう。

 私は素直になった。

 どんな女性に対しても、少しはあるであろう、下心のようなものは完全に浄化させ、むしろ、彼女とはそういった男女関係や、表面的で儀礼的な挨拶を超えた、特別な会話を、する必要を感じたという、そういう想いのようなもので、全身を満たした。

 そして、彼女と食事をする機会を設けてほしいんですと、はっきりと切り出した。


 ここのお店では、もちろん迷惑でしょう。

 別のお店に、予約をいれておきます。

 もし、できたらでいいので、彼女が承諾したときは、そこに来ていただけるよう伝言してほしいんです。

 けっして、軽はずみな行為ではないし、かといって、重い告白でもない。

 うまくは説明できないけど、とにかく、一度だけ話をする必要があるんです。

 そうだ。

 そうなんです。

 一度きり、なんです。

 何回も、連れまわすことはない。

 たったの、一度だけでいいんです。

 とにかく、伝えたいことが。

 男は承諾した。

 日時は承諾した時点で、彼女の方が決め、私に店長のほうが、連絡するということで、合意した。

 そのあと、私が、別の店に食事の予約を入れ、その場所を、店長を経由して、彼女に伝え

る。

 そういうことになった。

 それまで、私は、彼女と顔を合わせない方がいいと思い、彼女の出勤日に、店には行かないようにした。

 前を通り、それとなく覗き、彼女の働いている姿を確認すると、そのまま、店の入り口の前を通過した。


 三回目の、臨時ニュースが入った。

 キャスターは、男性にチェンジしていた。

 なんと、その男が、あの店の店長と、そっくりだった。

 割烹着とスーツの違いはあったし、髪も整髪料で、びっしりと、頭皮に撫でつけられていたが、目元と口元はどう見てもあの男だった。


 冬至の儀は終了しました。

 真夏の冬至の儀の帯は、通過が終了しました。

 男はそう言って、深々と、丁寧なお辞儀を繰り返した。

 彼女は、二度と、報道ニュースに現れることはなかった。

 私は記憶の中で、あの日の情況を再現する以外に、彼女と再会する方法は、すべて失った。





 一体、何度、「ゼロ湖」を体験したことだろう。

 一日に、二度の出現を、もうすでに、何日も繰り返していた。

 GIAは、「ゼロ湖」が現れる場所を、正確に把握していた。

 その時間になると、GIAは、その内部にあらかじめ入って、待機していた。

 そして、円柱空間の内部の粒子は、変わる。

 きめ細かくなり、GIA本体の構造は、分裂を繰り返すかのような、状態を体感する。

 同時に、本体の外の粒子の方を、引き寄せるといった、相反する二重の状態が、キープされる。

 意識は、通常の感覚からは、著しく変容する。

 それが、ゼロ湖による、影響だった。


 約一時間後、「ゼロ湖」は消える。

 GIAの本体の感覚は、その後もずっと、変容状態を保ちながら、空中の遊泳をする。

 夕刻における、二度目の出現まで、変容状態は、多少の低下はあるものの、キープされる。

 GIAは、そのあいだ、「冬至の儀」に包まれた世界の状態を観察するため、飛び回ることになる。

 目的の二つ目だった。

 GIAは、まだ、特定の人間には仕えてなかった。

 誰も乗せてはいなかった。

 冬至の儀が終わるまで、空車の状態を保った。


 世界は、正常な状態ではなかった。

 そのあいだ、GIAは、単独で存在してなくてはならなかった。

 世界における街の姿が、今まさに、組み変わっている最中だった。

 その世界に生きる人間のDNAも、組み変わっている最中だった。

 全体のすべての配置が、組み変わることもあれば、一部は焼失し、また一部はあらたに蘇生されることになる。

 一部の人間は、消失し、あらたな生命が、誕生する。

 死と再生が繰り替えされ、崩壊と創造が、同時に進行する。

 地面が、一時的に喪失し、あたらしい土地が隆起してくる。

 冬至の儀の最中、宙に浮いてくる仮の地面が現れ、そこに遊泳する乗り物は、発着する。

 すべての物質の在り方が、変わる。

 その過渡期に適した、建築の方法が考案され、実行される。

 そのあいだ、GIAは、ずっと、空車の状態で単独飛行を繰り返す。

 世界が安定したとき、GIAは、再び、特定の人間のもとへと帰っていく。

 そして、その人間に仕え、彼、彼女と共に、新しい世界を遊泳し続ける。


 今の単体のあいだに、冬至の儀の世界を体感するべく、動いていた。

 ゼロ湖を体感し、その変性意識のままに、ゼロ建築を始めとする、様々な現象を、体感していく。

 まもなく、冬至の儀は明けることだろう。


 その夜明けのときに、GIAは、結合する相手の人間と出会うことになる。





 待ち合わせの時間から、三十分が過ぎたときだ。

 エキゾチックなその風貌の彼女が、店にやってきた。

 長いスカートを風になびかせ、上は白いノースリーブを着ていた。

 店に入るなり、彼女は、その肩を隠すかのように、黒のカーデガンを羽織ってしまった。

 遅れてごめんなさいと、彼女は儀礼的に言った。

 私も、何か言わなくてはと思ったが、極度の緊張のため、こんにちはとしか、口からは出てこない。

 今日は、大学でしたかと、私は訊いた。

 彼女は、首を横に振り、大学はもうやめましたと答えた。

 予想外の答えに、私は戸惑ってしまった。

 えっ、やめたって、まさか。

 本当に?

 急に。

 どうして。

「もう、いいかなって。ずっと前から、思っていたことなんです。バイトは続けます。

そうしないと、食べていけないから」

 食べていけないって・・・。

 それよりも、いいんですか。

 親には何て言ったんですか。

「言ってませんよ。あなたに、今、初めて言いました」

 そうなんですか。

 親にはこれから?

「どうでしょうか」

 彼女は、それよりも早く、料理を注文しましょうよと、メニューを食い入るように見てい

た。

 私はすでに、グリーンカレーを注文することにしていたので、彼女にメニューを渡してしまっていた。

 彼女は、チキンライスを選ぶ。

 料理が運ばれてくるあいだ、彼女はずっと、私の眼を見続けた。

 彼女の大きな目は、その黒目において、灰色の模様が描かれていた。

 私は、未知なる世界に引き込まれていくかのように、再び彼女に激しい恋をしていた。

 彼女が逸らすことなしには、逃れることなどできなかった。

 言葉を交わすこともなく、時間は消え去っていった。

 食事がすでに運ばれてきたことにも気づかなかった。

 ウエイターがやってきたことも、知らなかった。

 彼女は食べましょうと言って、やっと解放してくれた。

 私は半ば、呆然とした意識のままに、彼女の輪郭を頼りに前を見続け、そのあとで、ようやく料理へと目を落とした。

 いろんな情報と感覚が、あらわれては消えなかった。

 そのまま、混濁としたままに、眼の前の空間に、放置されていた。

 今日は、一体、何を話しにきたのか。

 その道筋が、すでに、混乱してしまっていた。

 それに、彼女とこうして、二人きりで、デートのようなことをしているのに、彼女は私に対して、壁をまったく築いてなかった。

 すでに、打ち解けた間柄の男女のような雰囲気に、なっていた。

 恋人というよりは、親しい友達のような。

 お互い、すでに結婚して、別の家庭を持っていながらも、こうして、たまに、密会するような。

 密会といっても、全然陰湿ではなく、むしろ解放的な。

 こうして、レストランで、堂々と、他の客に交じって会っているような。

 いろいろと、彼女に対しては、想うことがたくさんあった。

 会ってからの、話す内容の段取りもしていた。

 だが、実際に、こうして向き合うと、彼女自身が醸し出す空間の中に入ってしまうと、この身はすべて、成り行きに任せるしかないなと思ってしまう。




 大学をやめたってどういうことだよと、私は、声を少しだけ荒げた。

 それで、どうするっていうんだ?

 いったい、何をする?

 レストランで働いて、それでいったい、何になる?

 君は、もともも、何を目指しているんだ?

「ねえ、私の家族の話を、していいかしら」

 大学の話に、関係があるのならな。

「もちろん、ある。そもそもの始まりは、私の家族と、その親族にあるんだから」

 私は静かに、耳を傾けることにした。

「父は、去年に亡くなったの。母はもうだいぶん前に。私には兄弟はいないし、母もいなかった。父の兄弟は、父を含めて六人いた。男が四人で、女が二人。そのすべてが、もう死んでいなくなっている。父が最後だった。父の兄弟の子供たちは、何人かいるらしい。私も小さいときに会ったことがあるけど、全然覚えていない。今は、連絡をとっていないから、まったくその居所は、わからない。よって、私は、ほとんど、一人ぼっち。奨学金で通っていたの。今やめなければ、まだあと、一年分払い続ける必要があった。結構な額なの。あなたは、あそこの寺院の中にいるって、店長からは聞いた。お金がかからないそうね。最も稼ぐこともできないようですけど。そういう無菌状態の中で、あなたたちは、一体、何をやってるんですか?傍目に見ていると、気持ちが悪いわ。あんなにたくさんの人が、何の生産性もなく、ただ生きているだけのように見えて。こんなこと言って、御免なさい。わたし、何も知らないの。そのことも、私、今日は、あなたから訊きたかったの。でも、まずは、私の話からね。親族の話だった。父が亡くなったときから、奨学金に切り替えた。あのレストランで、学費を稼ぐために働いたんだけど、私は四年生なのね。授業の内容は、だいたい三年で終わってしまう。あとの一年は、遊びにいくようなものなの。それって、私にしてみれば、まったくお金を捨てているようなものだわ。やめて当然よ。もちろん、父が生きていて、ちゃんと授業料を出してくれるのであれば、やめることはない。でも、状況は変った。父の兄弟の話を、していいかしら?どうして、そんな話をするのだろうって、あなたは、首をかしげるでしょう。でも、これは、私に流れている血の問題だから。そんなもの、私には、まるで関係がないって、そう他人は言えるでしょうけど、私は無視して生きていくことができない。少なくとも、避けて通ろうとすればするほど、血の色というものは、濃くなっていくよう。わかるかしら?その血が、どれだけ濃く、ドロドロとしたものなのか。私自身、ちゃんと把握して、浄化しなければ、いつになっても消えることはない。すると、どうなると思う?子供よ。子供。もし私に子供ができたとしたら、そのときに、子供にさらに、色濃くなった血液が、注ぎ込まれることになる。それは、子供の責任じゃない。親である私の責任。子供を産む前に、血の浄化を怠った、その結果なのよ。だから、今、あなたに向かって、こうして話をしている。あなたにとっては、いい迷惑ね。でも私は抑えることができない。こんなこと、あなた以外の誰にも、話せない。何故かわからないけど。私、店長から、あなたのことを言われたとき、この話をするんじゃないかっていう、予感が沸いた。あなたが私と話したがっているって聞いたときも、なんだか不思議な感じがした。あなたのことは、一人のお客さんとして認識していたし、ちょっとした顔見知りではあったけど、食事に誘われた瞬間に、何故か、もともとそうなる運命に、あったんじゃないかって気がした。私の血液の話を、あなたは真剣に聞いてくれる。私は、今そう思う。父は四男で、全部の兄弟の中では、一番末っ子だった。父は去年死んだんだけど、他の兄弟は、もう十年以上も前に亡くなっていた。最初は、次女が癌で亡くなった。そのあと、三男が酒に酔って車を運転して、事故で亡くなった。生活保護を受けていた長男は、なんと、四百万円の貯金をしたまま、自らの体調不良を自覚しつつ、病院に行くことなく、自室で一人淋しく死んでいた。一晩中、苦しみ続けての死だったみたい。隣人が、妙な物音を、その晩、何度も聞いていたらしい。最初に亡くなった二女なんだけど、彼女の夫というのは、暴力団に少し関わりのある人間だったのね。やばい仕事に、結構手をつけていたようなんだけど、夫婦で焼き肉店を経営していて、結構、繁盛もしていたんだけどね、別のその、ヤバい仕事で、不渡りを連発してしまって、それで、その焼き肉店も、抵当に入ってしまった。そのヤバい仕事に、長男も、一枚噛んでいたらしいの。生活保護を受けるまで落ちぶれてしまったのも、その事件が大きく関わっているらしい。つまりは、様々な事象が、何故か、それぞれの兄弟と、その連れ合いに、密接に関わっている。長男は、事業をいろいろと展開していたんだけど、政界との繋がりもあってね、それで、そのコネで何と、次男の息子の就職をも、斡旋した。彼は役所に就職した。その母親、つまりは、次男の奥さんね、彼女は軽い脳梗塞を患って入院して、それを機に、どんどんと、体力を低下させていってしまった。半年後には、精神に異常をきたしていってしまった。突然、発狂してしまったり、感情をコントロールできなくなってしまって、暴れたり。本人は全然覚えていないらしいんだけど。次男が付っきりで、看病をしていた。そして、ついにその生活にも、終止符が打たれる時が来た。彼女は自宅で死んでしまった。自宅には、夫と二人で住んでいたから、当然、死んだときには、警察が入ってね。事件性はないかを確認された。それで、特に問題はなかったらしいんだけど。彼女は突然発狂するだけでなく、電気のコードを首に絡みつけたり、いきなり包丁を持ってきたりして、ものすごい修羅場になっていたらしいの。だから、状況的には、そうやって暴徒化した嫁さんを、無理やり押さえつけようとしたときに・・・何ていう、勘繰りもできる。誤って死なせてしまったか、どうもそういうことらしいのよ。穏やかな死に方じゃない。けれど、その状況は、別のところで、過去に起こっていた。次女の夫、ここでも、何か因縁があるんだけど、その次女の夫は、次男の息子が、長男の縁故で入れてもらった役所の、上司だった。直属ではなかったらしいんだけど。その旦那も、退職するとすぐに、脳梗塞を患った。そして、半身不随のまま、自宅療養を余儀なくされた。リハビリ中、彼は次第に、精神に異常をきたしていくようになった。突然、暴れることは少なくなかった。奇声を上げて、まるで赤ちゃんのように見境なく、泣き続けることがあったという。そして、彼は死んでしまった。やはり、ここでも、穏やかではない死の連鎖が続くことになる」

 彼女はここで、一息入れる。




「長男が、自宅のアパートで死に、四百万円が残されていたって言ったわよね。彼は何も遺言を残してなかった。彼の子供、娘が二人いたらしいんだけど、奥さんと別れた時から、すでに彼女たちとも絶縁状態だったらしく、喪主を断ったのよ。そのときは、次男が喪主を務めたの。それで、その四百万円は、葬儀代と墓の代金に充てることにした。残ったお金は、次男が持っていた。すると、そこに喪主を断ったはずの娘たちが乗り込んできた。遺産があることを知り、彼女たちは弁護士をたてて、そのお金をわけるように要求してきた。そして、裁判沙汰になってしまった。結局、和解という形で、双方が分け合うことになったんだけど、ひどい話じゃない。そして、次男は、そのことが、直接の原因ではなかったにしろ、その一年後に死んでしまった。自殺だった。電気コードを首に巻いて、吊っていたの。

 次女も自殺だった。次男と次女は。似たような運命を辿った。共に連れ合いが、末期には、同じような症状を見せていた。その長男の話に、また戻ってしまうんだけど、彼は事業で、失敗したっていったわよね。長女の旦那が、一枚かんでいた危ない仕事で、失脚をしてしまった。そのときね、長男は、本当にお金がなくて、次男の息子のところに、つまりは、自分の縁故で役所に上げた人のところにね、着物をもって、一万円を借りにいった。ところが、その次男の息子は、お金を貸すことはできないと、はっきりと断った。信じられる?自分の就職の力になってくれた人が、今困っていて、それもたったの一万円よ。大事にしていた高価な着物を、質にいれるように持ってきたというのに。一円たりとも、貸すことはなかった。もちろん、父である次男に、相談はしたんだろうけど。長男は打ちひしがれ、そして帰っていった。その話を、父に寂しげに話したことがあるらしい。そういう、うちの父もね、その不渡りになった事業に、一枚噛んでいた。姉の、その長女の頼みでね。つまりは、お金を貸したの。父は、長女に恩義があったから。父は兄弟で、唯一、大学を出たんだけど、それは、兄貴や姉が進学をあきらめて、若いとときから、働いたからこそだったから。だから父は、その長女の頼みに、すぐに答えた。四百万円もの大金を、念書をとることなく貸した。そして、当然のことながら、その金は返ってこなかった。当時、父は、その金が、どんなふうに使われるのか分かってなかった。姉家族の、当面の生活費だと思っていた節がある。父は、姉の一番大変なときに、力になってあげたいと、ただその気持ちだけで、手を差し伸べた。でも、それが、あだとなってしまった。その大金の穴は、当然、自分の家計を圧迫した。父は、サラ金に手を出して、その短期の欠損を、乗り切っていこうとする。利子は、ほとんど暴利に近かったが、姉は、すぐに、お金を工面して、送金することを約束してくれていた。しかし、いつになっても、金が届くことはなかった。次第に、父にも、その金は全額返ってこないのではないかという、疑いが確信へと変わっていった。夫婦のあいだの絆は消え、信頼関係は失墜し、そのころの家庭は、本当に殺伐としていた。私は小さくて、よくは覚えていないけど、きっと、この身体は、今も覚えているんでしょうね。父も、他の兄弟に漏れずに、破滅への道を突き進んでいった。けれど、母の親戚の一人が、あるとき、その借金をすべて、肩代わりしてくれることを申し出てくれた。そして、その借金は、チャラとなった。利子をとられることはなくなり、あとは、その親戚に、毎月、少額のお金を返金していけば、よくなった。その親戚の彼女は、独身で、すでに、70歳を超えていた。資産は、ふんだんにあった。返す必要はないわと、彼女は言った。父の情況を、親身になって聞いてくれ、そういうことなら、どうして早くに、相談してくれなかったのと、逆に父を叱責した。そういう話。父は結婚して故、郷を離れたけれど、血による因縁は、ずっと纏わり続けた。けれども、彼の兄弟がすべて死んだとき、言葉は悪いけど、父は初めて、自由になったの。彼らが死んだおかげで。もちろん、怨念のようなものは消えてはいないのでしょうけど。それでも、父は、身軽になった。兄弟たちが残していった子供たち。私も含めて。もう世代は、次へと移っていた。けれども、ここでも、血の影は、完全には消えてなかった。もちろん、だいぶん、薄まってはいる。けれども、お金のトラブルは、少なからず発生したし、何より、結婚生活が、うまくはいかなかった。父の兄弟も含め、その子供たちも、ほとんどが、離婚という結末、迎えてしまった。添い遂げた夫婦は、結局、連れ合いが病気を患い、その影響で精神が発狂してしまった。ひどい最期を迎えてしまった。残されたほうは、自殺。もう、ほとんど実体は、崩壊してしまっていた。はやくに、離婚してなかったばかりに、こういった結末を、迎えてしまったんじゃないかと、そんなふうにも、私には思えてくる。私の両親だってそうだった。表面的には、仲よく、取り繕ってはいたけど。日々の生活は、実に殺伐としていた。お金の問題が、彼らの真ん中には、厳然と聳え立っていた。毎月の利子の支払いのために、母も必死で働いた。二人はどれだけ働いても、減らない元金を見つめながら、日々、心の交流を絶ったままに、働き続けた。私はその中で暮らしていた。

 両親は、私に、心配をかけさせまいと、そんな話は、一切することなく、私自身は大事に育てられた。私が成人を迎える辺りで、少しずつ、真実を話すようになり、親戚の叔母が全額立て替えてくれたときに、すべてを、私に打ちあけてくれた。そのあいだも、父の故郷では、何らかの不幸が続いた。そのたびに、私は、父の家系の血の因縁について、思い煩うということが、繰り替えされた。私のルーツは、これなの。父が去年、他界してしまっても、その因縁は、消えることはない。しかし、人が死ぬというのは、おおかれ少なかれ、そういった感情の遺産のようなものを、浄化させてくれる。人が死ぬ意味といういのは、そういうことでもある。そのことを、私は学んできた。すべてを清算するために、人は死を迎えるものなの。死後の世界のことは、よくはわからない。でも、この世においては、確実に死ぬことで薄まる。だからって、死ねばすべてから、逃れられるのか。それは違う。でも、死後のことは、よくわからない。本人にとっては、それでも消えないものなのかもしれない。もっと増大しているのかもしれない。それまで以上に、のたうち回っているのかもしれない。私には何もわからない。この世ですべて、清算してからでないと、安らかな死の世界は、存在しないのかもしれない。でも周りに対しての、影響力は違う。自分が死ねば、その負の遺産は、確実に薄まる。ごめんなさい。初対面なのに、ぺらぺらと個人的なことを。それで、叔母への借金に変った、そのお金の全額を、すべて払い終えた時、父はあっけなく死んでしまった。彼の兄弟と比べてみれば、ずいぶんと、穏やかな死だったかもしれない。私の肩からも、何か、その重荷の一部が、取れたみたいだった。そして、四年生となった私は、すべての授業課程を終え、何もすることがなくなってしまった。ずっと、アルバイトをしてるだけだもの。それなのに、授業料を、おさめ続けるなんて、馬鹿みたいよ。

「俺は、君がどうして、そのような家系の最後に、位置しているのかがわかる。なぜなら、君は、歴史の目撃者だからだ。君はずっと、同じ運命を担ってきた。それは何度だって、繰り返される。過ちにしろ、失敗にしろ、成功にしろ、幸福にしろ、何度だって、人は繰り返す。誰かが、どこかで止めない限りは。でも、そんなことは、ほとんど起こらない。歯車は、同じ繰り返しを続ける。そして人は、同じ反応を取り続ける。同じ結末を辿り、そのことは、記憶に蓄積される。今度こそは、と思う。しかし、再び生まれ、同じような状況は、繰り返し現れる。同じクセは、繰り返される。馬鹿みたいな話だ。人は何故生まれてくるのだろう。同じ過ちを繰り返すためだけにか?君は何度も、そうした歴史の目撃者であった。そして、今度もまた、そうだった。君のお父さんが亡くなった時点で、君はその負の連鎖がすべて終わりで、自分とはまるで関わりのないものように感じている。そうだろ?それは過ちへの序章だ。俺はそれを阻止ために、こうして君の前に現れている。いや、本当は、こんなことを言うために、食事に誘ったわけじゃないんだ。でも今は、何故かそう思う。君の目の前では、そう、君には、いつも、直接的な影響はなかった。目撃者という立場が繰り返された。けれど、ここで、何の変化も起こさなければ、過去の過ちは、繰り返される。君はこれまで、見たり聞いてきたことを、そのまま無視して、過ごそうとしている。

 自分には関係のないものとして、やり過ごそうとしている。しかし、そうすればするほど、その消えたと思っていた負の連鎖は、再び、君の肉体のもとで再現される。ないものとすればするほど、君の周りでは、その脅威が再び、吹き荒れることになる。俺に話してくれてよかった。手遅れではなくなる。大学に戻れ。今からなら、退学届は撤回できる。とにかく戻れ。確かに授業料は、無駄かもしれない。けれど、君はここから、逃げてはいけない。状況を受け入れろ。君のお父さんが死んだからといって、自動的に自由になれたと思うな。そんなものは、マヤカシだ。運命の罠に嵌るんじゃない。さっきも言ったはずだ。不幸も、幸福も、失敗も、成功も、すべては過去の繰り返しだ。それは新しい出来事ではない。すべて、過去にあったことの焼き直しにすぎない。そんな人生を送るために、君は生まれてきたんじゃないぞ。運命とは罠でもあれば、逆手にとれば、それは強力な味方にもなる。繰り返される状況の中、君はそれまでの癖で、同じことを繰り返してはいけない。無自覚に。無意識に、同じ対応をとろうとする。あのときだって、そうだった。あのとき?

「そうだ。エジプトが崩壊へと向かう、まさにそのときだ。エジプトの新しい流れに納得のいかなかった一部が、南米へと脱出して、新しい都市を築いた。しかし、あまりに極端な精神世界へと走り、最後には狂気が吹き荒れた結果、天地は不安定な状態へと陥り、崩壊していった。そして、数十人の神官は、その崩壊の直前に、再びエジプトへと戻った。エジプトはまだ、緩やかに、瓦解のプロセスを踏んでいた。神官たちの代表である男は、ファラオに直談判して、未来の崩壊した姿を伝えることで、ここで、自分たちと結託して、新しい国家の流れを、創造していこうと提案した。そのことを、君はすぐ傍で聞いていた。君はまさに、エジプトが崩壊を加速していくその分岐点にいた。分岐点そのものだといってもいい。君はそのとき、今と同じで、そのエキゾチックな風貌で、ファラオの傍に居たのだから。ファラオの愛人だったのかはわからない。けれども、ファラオに重宝されていたのは、確かだ。君は、ファラオに何か、助言をすることも、できたはずなんだ。けれども、君は、何も進言することはなかった。君はただの、傍観者に徹した。責任をすべて回避するために、自らの私情を挟むことをしなかった。自らの心の中に湧き起こってくることを、黙殺することで、そのときの自分の立場を、安定的なものにした。繰り返される運命に、そのまま抗うことなく、享受することに徹した。君は生涯、ファラオの傍で裕福な一生をまっとうすることになった。そのあと、君はインドに生まれた。インドではそれほど、裕福な家庭ではなかった。けれども、それは、エジプトのときも同じだった。君の家庭は貧しく、人間関係がいささか複雑だった。今さっき、君が語ったようなドロドロとした金銭問題を中心にして、兄弟の憎悪が怨念となって、渦巻いていた。しかしやはり、君が、二十歳を迎える頃には、その関係者たちは、すべて亡くなってしまい、君の周りには、誰ひとりとして、親族がいなくなった。そのとき、まるで図ったかのように、宮廷からお呼びがかかる。たまたま、君が道を歩いている様子が、ファラオの眼にとまり、宮殿の中へと招待され、そしてそこで働くことになった。マッサージの専門家としての人生が、スタートした。君は、今もまた、すべての身内が死んだことで、何か新しいチャンスが舞い込んでくることを、予期している。それは予知能力でも何でもなくて、すでに体験したことの、繰り返しだからだ。何度でも起こることを、知っている。だから、大学をやめた。新しい道がすでに、近づいてきている。君はすべてを知っている。今度もやはり、富豪か誰かの元で雇われ、囲われることになるのだろう。けれども、今度こそは、そこで繰り広げられた男たちの再会の場面においては、それを見て見ぬふりをしないでほしい・・・。自分の心の奥底から湧き上がってくることから、目を逸らさないでほしいんだ」

 あなたが何を言っているのか、全然わからないわと彼女は言った。エジプトがどうだとかインドがどうだとか。全然、私の頭の中では繋がらない・・・。整合性のない気違いな話のように聞こえる・・・。あなたと会ったのは、間違いだった。何だかんだ言って、あなたは私を誘惑してるのよ。それだけは、はっきりとわかった。私の頭の中を攪乱させておいて、それならこんなことがあるよって、余計な唯一の選択肢を、ホイって差し出すつもりなのよ。それこそが罠よ。あなたは私を手に入れたいだけ。いったい、どうしてそんな気になれるの?あなた、気は確かなの?あなたは、あの汚い寺院の中では、働きもせず、お金を稼ぎもせず、遊んでいるんでしょ?ずいぶんなご身分よ。そうよ。わたしは、いつも、あなたのことを蔑んでみていたのよ。きっと、あの料理や飲み物の代金も、自分のお金ではないんでしょうねって。あなたは人間じゃないわ。家畜と同然よ。それでも、まだ、家畜は労働の価値がある。あなたはまったくの無価値。はやく、寺院の中に帰りなさい。同じような仲間が、たくさんいるんでしょ?快く迎えてくれるわ。せいぜい、みんなで傷のなめ合いでもしていなさい!私は違うの。あなたのような人とは、本来、こうして食事なんかする柄じゃない。ああ、どうして、こんな場所に来てしまったのだろう。気がどうかしていたんだ。きっと、親族が誰もいなくなってしまったことが、意外にも心にきていたのかもしれない。一人ぼっちになってしまったことが。でも、話を聞いてくれたことは、ありがとう。少し気は楽になった。もしかして、あなた、聖職者のようなものを、目指してるのかしら?人の悩みを解決へと導く、そういった役割を、果たそうとしているの?だとしたら、もしそうだとしたら、あなた、少しは向いているのかもしれない。私はそう感じた。今はまだ、私の心を、救えるレベルにはないけれど、いずれ、あなたはそうやって、人の中の、最も救われない心を、繰り返し堕ちていってしまうことを、止めることができるのかもしれない。あるいは、どこか、別の方向へと飛び立たせていくことが、できるようになるのかもしれない。けれど、私の言葉なんて、実は買い被りなのよ。あなたを、過大評価してしまっているだけなのよ。そのことはわかって。あなたは稼ぐことのできない、生活能力のまったく皆無な男に、変わりはないのだから。それだけは、声を大にして、言いたい。肝に免じておきなさい!あなたのような経済的破綻者には、私の心は掴めないの。私を守っていくことはできないの。あなたは、一生、どの女性とも一緒にはなれないし、子供を作る資格もない。でも、もし本当に、誰もあなたを相手にしないんだったら、私がボランティアで、あなたの子供を産んであげてもいい。でも、そうなると、私はあなたの忠告に、完全に背かないといけないわ。裕福な為政者の元で働く、その運命を、そのまま享受しないと生きてはいけないわ。




 彼女は、その後、大学に復学する。

 名前を訊いてなかった。

 彼女は、レストランでのアルバイトを続けた。

 そして、十か月後、彼女は大学を、卒業した。

 レストランに現れることはなくなった。

 私は、そのあいだ、ずっと、彼女と顔を合わせることはなかった。

 わざと、彼女のいないときに顔を出し、食事をしていく以外に、不用意に近づくことはなかった。

 店長の男とも、それから、親しく話しをすることはなかった。

 彼は、もう寺院のことには、興味をなくしてしまったのか。

 個人的に、私を呼びとめることもなかった。

 彼女との食事はどうだったのかと、あの日の夜の出来事を、訊いてくることもなかった。

 私は、あの日の夜、エキゾチックな風貌の女と、ホテルの一室に行っていた。

 彼女の方が誘ってきたのだ。


 彼女は部屋に入るなり、着ていた服を、脱いだ。

 長いスカートを、ストンと床に落とし、ノースリーブを、首から抜き取った。

 彼女の豊かな乳房が、あらわになった。

 下着の一枚だけを、身に着けていた。

 私は、その無駄な贅肉のほとんどない、豊満な肉体に圧倒されてしまった。

 しかしよく見ると、彼女は案外、華奢な体つきだった。

 全体としては、それほど、大きくなかった。

 胸を中心に、上半身だけを、見たときと、頭からつま先、全体を見たときの、印象は、

驚くほど違った。

 彼女は、

一言も発することなく、ずっと立ったままだった。

 私は、彼女に近づこうとした。

 あるいは、自分の服を脱ごうとした。

 しかし、体は、硬直したままだった。

 今、ここで、彼女を抱き寄せ、そして、彼女の中に、生命を宿したいという衝動に駆ら

れた。

 しかし、そう思えば思うほど、体の自由は奪われていった。

 性的な興奮とは、反比例するように。

 性器も次第に、萎んでいってしまった。


 結局。

 私は、彼女と、一つになることはなかった。

 私はそれまでも、数か月に一度、自分の彼女を、抱いていた。

 性的な不具合など、かつて、一度も、経験したことはなかった。

 とにかく、そのときの目の前の女は、服を着たとき以上に、エキゾチックであった。

 褐色の肌は、発光していた。

 裸で抱き合えば、歴史が変わるとさえ思った。

 どうして、あのとき、勇気を出して、彼女をこの胸に引き寄せなかったのか。

 たとえ、性的に不能だったとしても、抱きしめて、彼女の皮膚の感触を、経験しておけ

ばよかった。

 彼女から抱きついてくることはなかった。

 どれほどの時間、彼女は、私に裸体を晒していたのだろう。

 気づけば、彼女は服を着ていた。

 そして、ベッドの端に、ちょこんと座っていた。

 私には、まだ、彼女を押し倒すチャンスがあった。

 彼女も、それを待っているようにも、思えた。

 しかし、そのときでさえ、私の身体は、動きを完全に止めてしまっていた。

 ただ、意識だけが、時を前へと進めていた。

 次に、意識を鮮明にしたとき、彼女の姿は、ホテルの部屋にはなかった。


 そのあと、私は、何度も後悔を覚えた。

 しかし、私は、やはり何度だって、彼女と二人きりになったとしても、抱くことはでき

ないのだと悟った。

 彼女と、私のあいだには、強固な、目には見えない壁が、常に立ち聳えていた。

 それを取り除かないかぎりは、同じ空間に、存在することはできなかった。

 そうなのだ。

 我々は、結局、同じ空間には、居なかったのだ。

 可視的には、同じ次元に、存在しているようには見えたが、実体としては、まるで手

の届かない場所に、存在していた。

 私は、彼女に、この想いを捧げたかった。

 付き合っている女とは、また別の感情に支配されていた。

 エキゾチックな女は、時間の壁を超越し、さまざまな歴史と共に、私に訴えかけてくるものがあった。

 付き合っている彼女には、そんな所はまるでなかった。


 エキゾチックな女は時代を超え、複数の場所に、それも、時代の最転換点に、象徴のような存在で立ちそびえていた。

 もしかすると、私は、個人としての彼女に、魅かれたのではないのかもしれなかった。

 もっと、実体のない、別の世界との繋がりを、彼女通じて、感じとっていただけなのかもしれなかった。

 一人の女として、付き合い、ひとつになり、ときに生活を共にし、というようなものを、望んではいなかった。

 それでも、私は、彼女のことを忘れることができなかった。

 復学し、アルバイトを続ける彼女の姿を、完全に忘れてしまう日はなかった。

 何をしていても、常に彼女の存在が、私の脳裏には刻みこまれていた。

 寺院の中で、日々の暮しをしているあいだにも、あの風貌が、突如、眼の前にあらわれ、私を誘惑してきた。


 一度、抱きたい。

 あるいは、彼女という存在を、現実に消し去りたい。

 そうだ。

 あの女は、目障りな記憶のようなものだった。

 解消せねばならない。

 消して、闇に葬ってしまう以外に、方法はない。

 私は、彼女に、強烈な殺意を覚えた。

 あの女を、完全に抹消してしまいたい。

 当初の軽い恋心は、すでにどこかに、吹き飛んでしまっていた。

 私は、その日から、彼女に対する殺害計画を、目論んでいくことになってしまった。

 いつ殺す機会が訪れるのだろう。

 もうすでに、最大のチャンスは過ぎ去ってしまった。

 ホテルで二人になったとき、彼女はほとんど、全裸に近かった。

 あのときだった。

 致命傷は、簡単に与えることができた。


 彼女は、卒業後、やはり引っ越しをしてしまった。

 彼女がその後、どうなったのか。

 一度だけ、店長にそれとなく、訊いてみたことがあった。

 しかし、彼は、何も知らなかった。

 そもそも、彼女は、最後の一週間の出勤を、すっぽかしてしまったのだという。

 そのままいなくなってしまったのだ。

 最終月の給料は、支払われることなく、彼女は消えてしまった。

 店長は、何か、事件に巻き込まれたのではないかと思い、彼女の親族に、電話をした。

 しかし、そのとき初めて、彼女には身内がいないことを知った。

 彼女の行方を、知る者は、誰もいなかった。

 逆に、私に、質問してきた。

 彼女のことで、何か知っていることはないかと。

 そのとき、店長は、あの日の夜のデートのことを、話題に出してきた。

 あの日から、彼女は少しずつ、様子がおかしくなったのだと、彼は言い出したのだ。

 君と会った日からだ。

 いったい何があった?

 けれど、あれから、君たちが、親密な仲になったわけではなさそうだったし、でも、確実に、あの子の表情が、曇ることが多くなっていった。

 働いているときも、気がついたら、物思いにふけってしまっていた。

 お客さんの呼びかけにも、まるで、気がつかない。

 間違った注文を、とってきてしまうといった、それまでの彼女らしくないミスが、目立つようになっていった。

 大学の授業も終わり、卒業後の進路も、決まったことで、少し気が抜けてしまったのかなとも思った。

 そんなとき、俺は、気がついた。

 その、分岐点になるような事が、あったことに。


 君だ。

 君と会った夜からだ。

 でも俺は、彼女にも君にも、何も問うことはできなかった。

 プライベートなことに、首を突っ込みたくはない。

 じゃあ、あれか。

 親密でないとすれば、その逆だ。

 君たちは、破局したんだ。

 じゃあ、いつ、付き合っていたのか。

 そんなのは、わからない。

 付き合った期間があったのだろうか。

 あるいは、そうかもしれない。

 あの日の夜から、交際がスタートした。

 それから、ほんのわずかの間に、別れてしまった。

 それしか、考えられなかった。

 俺は自分で、そう結論づけた。

 君たちは付き合い、そして別れた。

 それでいい。

 彼女を、それとなく、元気づけようとした。

 彼女が、おかしな店のやめ方をした、その二週間くらい前のことだ。

 彼女は、店の前で、高級の馬車に止められた。

 黒い服を着た紳士と、ずっと話こんでいた。

 そして、その馬車へと乗り込んでいった。

 そういう場面を、そのあと、三度ばかり見た。

 その馬車は、そのあと、宮殿の中へと消えていった。

 彼女は、おそらく、あの宮殿の中へと引っ越していった。

 誰かに見初められたのかもしれない。

 お妃の候補として、あの中で、誰かと密会しているのかもしれない。

 私はそのことを、君に伝えたくて。

 彼女は、すでに、我々一般庶民では、ないのかもしれない、ということをね。





 私は、とにかく、寺院の中で、自分の瞑想システムを確立するための日々を、過ごした。

 ただ単に、目を瞑り、呼吸に工夫を加え、心を鎮めるというやり方では、心の中の激しい葛藤を生じさせる傷痕を、永続的に塞ぐことには、貢献しない。

 目を開け、瞑想をやめてしまえば、再び、痛みは再生する。

 瞑想の最中だけしか、持続力はなかった。


 確かに、その瞬間には、心は癒されている。

 何年も、瞑想を繰り返した結果、確かに、半日くらいは、持続するようになった。

 しかし、一度寝てしまえば、傷は再生する。

 つまりは、根本的な接触が、できていないということだ。

 私は、寺院を出ていくことができなかった。

 エキゾチックな彼女は、すでに大学を卒業し、この街にはいない。

 自分が付き合っている女も、すでに、忍耐の糸を切らしてしまっている。

 別れて、別の男の元に走るのも、時間の問題だった。

 しかし、そんなとき、私は結婚することを決意してしまった。

 それまでは、自分が結婚をするなんて、考えたことすらなかった。

 たとえ、相手が、誰であろうとも。

 しかし、私は、突然決意をした。


 これが、瞑想を日々、繰り返した結果なのかどうは、わからなかったが、あとは、彼女に直接伝えるだけだった。

 寺院を出ていく算段はついていなく、彼女をどうやって、養っていくのかもわからなかったが、とにかく、このタイミングで、結婚をし、一人の女に対して、心を完全に開きたいと思った。

 しかし、そういった想いが、高じていくにつれて、脳裏にはあの、エキゾチックな女性の残像が、色濃くなっていく。

 彼女に、捧げようとまで思った。

 自分なりの新しい瞑想を開発し、そしてそれを、彼女に捧げようとしていた。

 その相手は、付き合っている女ではなく、あのエキゾチックな女の方であった。


 あの女は、いったい、何者なのか。

 私との、本当の関係を、知りたかった。

 今はもう、叶わない、彼女との再会を思い、心苦しくなっていった。

 私はどうして、こんなにも、瞑想に惹きつけられ、新しい方法を開発するために、必死になっているのだろう。

 自分のことと、そして、女二人のこと。

 三つのことが、細かく入り乱れ、同化し、そしてまた、分裂していった。

 私は、寺院に入ってから初めて、出ていくタイミングを、模索し始めていた。

 近い将来、といっても、何年先になるのかわからなかったが、そのとき、私には妻

がいる。

 ここを出る直前に、結婚を済ませている。

 そして、エキゾチックな女性とも再会している。

 どこで、再会したのかはわからない。

 けれども、私の傍にいる。

 妻と私は、二人で同じ仕事をしている。

 二人で一つのことをしている。

 一心同体となっている。

 その仕事に関連して、あのエキゾチックな女性も、そこに存在している。

 一心同体ではないが、我々の仕事を手伝っている。

 仕事場として見てみれば、妻よりも、その女性の方と、場所を共にしている時間が、圧倒的に長い。

 私は、我に返った。


 今、目の前に、そんな現実はなかった。

 たまに、レストランを覗くことはあったが、そこに彼女の存在はない。

 代わりに、若い男が、彼女の穴を埋めるべく、連日のように働いていた。

 私は、その男に対する悪意が、何もないにもかかわらず、ひどい憎しみを抱くことになった。

 死んでしまえと、呪いをかけるかのごとく、激しい闘争本能が生み出されていた。

 私は、そんな激しい憤りをも、受け止め、自分の肉体と一体化させ、その自分の肉

体を、空へと浄化させていくようなイメージを、繰り替えしおこなった。


 次第に、憎悪は、消えていった。

 私は激しい感情に襲われるたびに、同じことを繰り返した。

 私は反復することで、感情を安定させ、自分の瞑想を進化させるべく、その糸口を、探り続けたのだった。

 すべては、絡み合っている。

 私も、寺院も、レストランも。

 この土地における、建造物や、人物の配置さえも。

 すべてに意味があり、綿密な計算のもとに、存在しているのではないかと。

 そんなふうに、感じ始めた。

 私の身体の周りには、薄い半透明な空気の膜が、現れていた。

 私は、その膜に包まれていた。

 それが、瞑想の影響なのかどうかはわからない。

 すぐに消えるものだと思っていた。

 しかし、膜は夜になっても、寝たあとの朝になっても、消滅することはなかった。

 そして、その出現を感じたのを境に、どんどんと、その持続力を増していくようにも感じられた。

 私は、薄い膜に、覆われている。

 そして、それは、物理的に、瞑想状態が、目を開けている間も、誰か人と話しをしている間も、何か別のことをしている間も、そのことに、影響されないということを、発見したのだった。

 それからだ。


 私の瞑想は、劇的に変化した。

 まずは、目を瞑ることがなくなった。

 瞑想だけに、集中するということがなくなった。

 常に、何か、別のことをしながらというのが、基本的な形となった。

 体を動かしながら。

 特に、手を動かしながら。

 私の中に、自信が蘇ってきていた。

 この状態が、完全に自分のものになれば。

 寺院の外でもやっていける。

 確信した。

 どんなことが起ころうとも。

 何がやってこようとも。

 それを遮断し、目をつぶることなく。

 瞑想の中で、すべてを、生きていくことができる。

 それが、私が到達した、この寺院における、生活の最終的な姿だった。





 シカンは依頼されていた映像の仕事に対する、アイデアを模索する一方、それとは別に、自発的に湧いてきたイメージに対する、スケッチを繰り返し、脚本作りにも着手していたため、いったいどれがどれなのか、混在してしまっていた。

 気づいたときには、メチャクチャになっていた。どれも整合性が取れず、けれども、そのすべてが、密接に絡み合っているような気がした。

 こんな状態は、もう末期状態だとシカンは判断した。

 古い満月は、完全に、崩壊の直前であった。

 もう、こんなことは、いい加減にしてくれと、シカンは行き場のない思いを、未来へと託そうとしていた。

 シカンは、この一続きになった創作物を、もう一度読み直し、そして、所々、分離させることで、それぞれの仕事に割り振ることにした。これで終わりだった。

 この今の情況からは脱退する。今いる世界からは、遠く離れる。遺書のようなものだった。ここで打ち切ろう。仕事の依頼はすべて断り、休業する。そのままリタイヤすることになるかもしれない。シカンは、預金残高を確認した。最後の仕事がもたらすであろう、金銭の予測も、その残高に加えた。そして、シカンは、家を購入することを決意していた。


 前々から、ずっと目をつけていた物件があった。それはクリスタルガーデンと呼ばれる高級住宅だった。

 大理石がふんだんに使われた近代的な屋敷だった。庭には南国の植物が生息し、その世話は、管理会社が随時手入れしてくれるということだ。

 シカンは結婚もしたかった。その家で一緒に暮らす女性が欲しかった。それは万理が最も理想的だった。しかし叶わなければ、別の女性でも構わなかった。とにかく彼は、それまでの生活を一変したかった。そのきっかけとなるのが、このクリスタルガーデンの購入だった。

 シカンは、購入後のことに、思いを馳せた。





 GIAは霧が晴れていくなか、次第に「ゼロ湖」が消滅していっていることを知る。

 街は静かに眠りから覚めるように、じょじょに姿を現してくる。

 GIAは、一つの高層ビルに目をつけた。その一階の出入り口から、一人の男が外に出てくる様子を目にする。GIAは下降していった。この男で間違いはないかと、自分に問いかけた。そして間違いないことを確認すると、その男に狙い定め、GIAは最速で彼を目掛け、地上へと高度を下げていった。あっというまに男と同化した。

 その瞬間、男の情報が一瞬で、GIAの方に流れてきた。

 男は、寺院から外の世界に出る、まさにその時だった。

 超高層ビルの中には、時代を超えた寺院が存在していた。そこに、彼は長いあいだ、出家のような状態で修行に勤しんでいた。そして彼は、別の段階へと移っていく決意をした。この高層ビルは、その寺院と都市を繋ぐ、出入り口そのものだった。男に結婚を約束した女性がいることや、また別に恋をしている女性の存在が、いることも、GIAは知った。

 男がこの街で何を成し遂げたいのか。

 どんな目的と、計画を持って現れたのか。情報はすべて、GIAに流入していた。

 男と一体化したGIAは、そのあと地上を滑走して、再び宙へと舞い上がり、ジェット機のように、空に向かって飛び立っていった。


 この街もまた、男にとっては、乗り継ぎの飛行場のようなものだった。

 GIAは、彼を拾い、彼という存在を投入する新しい世界を目指し、飛行していった。

 男はまだ、目覚めてはいない。彼はおそらく寺院を出たときから、意識を失ったままだ。

 GIAは加速していった。久しぶりに乗せる人間の存在に、心は躍った。目的地に到着することが、GIAには少し、名残惜しかった。ずっとこのままの状態を保っていたい。それが本音だった。

 しかし、すでに、GIAは男と同化していた。男に仕えるという立場になった。

 男からのオファー、リクエストに、最大限応えるべく動いていくことになる。男からの情報が、そのすべてだった。

 目的の場所へと到達したとき、GIAは意識をなくした。男は目覚めた。

 こうして一体となって、飛行していたという記憶も、彼は持つことはなかった。

 寺院にいたという記憶さえ、曖昧になっていた。おぼろげに思いだすことはあるだろう。だが、この乗り継ぎの飛行のことは、いっさい忘れている。それでも、GIAは、彼と完全に同化していた。

 景色は、次第に雲の中を突き抜け、機体は大気圏へと突入する。暗闇が続く。星が輝いている。天体がいくつも見える。赤く輝いているものから、青く輝いているものまで、さまざまな色が混じり合っている。

 その天体の輪郭が、鮮明になってくる。

 GIAはいよいよだと、心を引き締める。

 大気圏に突入するときには、まだ意識はあるだろう。空から地上を眺め、男が降りることを、心から願う大陸の存在を確認するところまでは、鮮明に覚えているだろう。

 その後、その大陸が発する空気の層の中へと突入したとき、そのときに、GIAの意識は完全に消滅することになる。


 こんがらかったピースが宇宙のゴミのように散らばっている。

 それが一つの意志のもとに集まり、一ピースごとに意味を帯びてきている。

 それぞれが本来の位置へとつく。

 突入する星の名前は、【エリア151】。

 GIAは、その星に向かって、加速度を上げていった。だんだんと意識は薄れてきていた。

 再び暗闇から白い霧の情況に変わる。雲が一面を覆っている。それを過ぎる。海と大陸の姿が見えてくる。どの大陸に降りていけばよいのか。発光していた。その大陸だけが青紫色に発光していた。GIAの車体は赤く燃え始めていた。異なる色同士が、これから合流することを確認し合っている。

 GIAは大陸のほとんど真上に来ている。そこから、真ん中へと狙いを定め、そして直滑降で落ちていく。

 その大陸は、【バルヴォワ】と呼ばれた。


 GIAは大陸の真上に位置したときに、その情報を読み取る。

 GIAは、近い未来に合体する対象物の、全情報を、一瞬で把握できた。

 バルボワ大陸の他にも、大陸はいくつもあった。その大陸同士は、まるでパズルのピースのように、その配置を常に変えていた。

 GIAが、下降する瞬間、それぞれの大陸は暫定的に固定される。



 バルボワ大陸の中心地は、【バルヴォワ・クォンタム・DC】と呼ばれ、その大陸の中に存在する情報が、極端に集中している場所だった。

 バルボワ大陸と別の大陸との配置が、時間と共に変わっていくその様子は、【アトランズタイム】と呼ばれていた。

 バルボワ大陸の中には、GIAの車体と同じ赤色が、点在する場所があった。

 【レイライン】だ。レイラインが何を現しているのかは、GIAにはわからなかった。

 しかしそれは、自分が知る必要はないことだった。、バルヴォワ・クォンタム・

DCの中で、認識する必要があるものだった。

 GIAは、バルボワの気流と、ほぼ同化した。

 そして、GIAは、この大陸の中心へと、男のDNAを落としこんでいった。



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ネオマヤン4 フォーティーンシークレット編 @jealoussica16

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