ネオマヤン2 時界の勃興編
@jealoussica16
第1話
その階段を登るとき
ある者は歌い、ある者は悲鳴を発し、またある者は涙を流すのだった。
第2部 第4編 ON THE BAPTIZМ
アルレッキーノは奉納者に向かって、今後の段取りについて話をしていた。
「戦果はあがったのだろうな」
「連れてまいりました」と奉納者は答える。
「神官に報告は?」
「これからです。まずは、王に報告するのが先かと」
「クククク。王か。この俺が王・・か」
「あの・・何か」
「い、いや。何でもないさ。とにかく、奉納者である君の家で、犠牲者の肉体は食されることになるから。いいな。盛大なパーティにしてくれよ。このピラミッドでの儀式の後で君の家に運ばれるのだ。君は儀式に参加することはできない。家で待機して準備をしていてくれたまえ」
「わかりました!」
奉納者は、アルレッキーノに対して忠実な返答をする。
「直接、手を下すのは神官たちだ。君の仕事は犠牲者の選定と、犠牲者の最後の処理だ。そのあいだのことは、すべて神官たちに任せなさい。君が戦場で戦士をまっとうするように。神官は儀式のときに戦士としてまっとうする。お互い、血なまぐさい仕事には違いない。しかし、誰かが引き受けなくてはならない。誰かが背負わなくてはならない運命だ」
「わかっております。そのために、日頃から、訓練を受けているわけですから、お任せください、王」
お任せください、か。
アルレッキーノはこの王だと呼ばれる自分に酔ってきていた。
このときにしか、自分が王であると勘違いされる時期はない。王からじきじきに任命されているのだ。いや、直接言葉をもらっているわけではない。
暗黙の了解で、王はこの血なまぐさい儀式が近づくと、早々と宮殿からは退散してしまう。あとは、君。任せたからねと。君が僕の変わりに、儀式を執り行なうのだよ。すべてが終わったときに、僕はまた帰ってくるから。その少し前に、君は退場してくれ。
つまりは、自分は王の代わりに、王が嫌がる仕事を受け持つのだった。
戦争のときは終わり、宗教の季節が到来する。季節が移り変わっていくように、国全体の世界観は、ここで一変する。まるで戦地そのものが、都の中心に移されたかのように。一年を通じて平穏な農業国を維持するためには、血による奉納が、都のサイクルの中に組み込まれてなくてはならなかった。人々の精神に組み込まれなくてはならなかった。
王は体裁上、自らの手を汚すわけにはいかない。だから、常に執行者としての身代わりを、立てなくてはならなかった。
奉納者は部屋をあとにする。
続いて犠牲者となる若い男が入場してくる。
復旧には一年以上はかかる見込みですね。
男は受話器を片手に大きな声で答えた。
「ええ、そうです。空間も気流も、大変不安定な状態です。地盤そのものよりも、時空間のほうが乱れています。ある程度、自然に回復していくのを待たないと。世界がどっちの方向に向かっていくのか。それを見極めないと。ええ、そうです。それでないと、補強するための棒を、どこにどのように設置していくのか、方針が定まりませんから。ええ。地面がなくなるのは、時間の問題だとは思いますよ。でも近い将来というわけではない。ずっと先のことかもしれません」
男はセトという会社の社員だった。
瀬戸という男が代表を勤める建築会社だった。
ちょうど、一週間前に設立したばかりである。オフィスの一室には、まだ他の社員の姿はない。設立以来、初めての電話だった。この電話をきっかけに、きっと明日からはちらほらと相談が増えてくるだろうと男は思った。そして、もう一つ、片付けておかなくてはならない重大な案件があった。男はそのとき付き合っていた女を、このオフィスに呼び出していた。もうすぐに、やって来る頃だろう。メールをした。返信は、電話で来た。
クククク。男は受話器の口を右手で押さえ、声を出して笑い出した。そして手を外し、自らの口を近づけ、そうだよ、そのまま登ってくればいいんだよと、声をかけた。ちょっと暗くて冷たくて、長い階段だけど、心配はいらないよ。僕の職場を見せてあげるんだ。今まで、君も望んでいたことじゃないか。今日すべてを教えてあげよう。君と親密になってからはずっと君の部屋ばかりで、裸をむさぶることが多かった。君の仕事場の近くに迎えにいって、君の仕事のサイクルに合わせて、そして僕は、君と過ごした。多忙な君の生活に僕は取り込まれていった。そうだよね?けれど今日からは違うよ。
女は、この長くて冷たくて、終わりがいつまでもやってこない階段を、携帯電話を片手に登り続けている。
王はアルレッキーノに統治権を譲り、自らは宗教行事からは遠く離れる。
この時期、彼は女性の神官の育成に力を入れるのだった。
女性神官の重要な役割の一つに若者の性教育があった。性教育を担当する神官になるためには、何度かの試験をパスしなければならなかった。最終の試験では、自らの体の中に蛇を入れなくてはならないのだ。男性器ほどの太さの選定された蛇を、そのぬめぬめとした冷たい蛇を前に、自らの秘部をさらけ出す必要があった。そして、その蛇が女性器へと近づいていくことが最初の関門だった。
ここで、たいがいの女性器に、蛇は反応しないのだ。彼女たちは脱落する。何人かの女性器だけに反応する。そろそろと近づいていく。蛇の方も、恐る恐る近づいているのだ。そして、性器の一部に触れる。女性神官の腰と足は、縄で結わかれ、身動きが取れない状態になっている。上半身を激しく揺さぶらせ、助けを求め始める。絶叫する女性神官もいる。蛇は女性器の扱いをまるで知っているかのように、外側から内側へ、そして突起物に触れ、また中へとその頭を接触させていく。
ここで退散することがほとんどだったが、ごく稀にそれ以上に気に入ったのか、さらに奥へと侵入をしていく場合もある。
女性器は完全に蛇に弄ばれる。蛇は出たり入ったりを繰り返し、さらには外に出て、突起物を執拗にこすり付ける。また中へと入りこんでいき、その入ったままで、くねくねと身を揺らせていく。
女性は絶叫する。助けを求めているのか、快感に浸り始めているのか、このとき外からは判断がつかない。涙を流す女性神官もいる。蛇による愛撫は、長い時間をかけて続いていく。
そして蛇は、さらに女性の体の内部へと侵入していく。さらにさらに。蛇は姿を消してしまう。完全に女性の中へとその身を隠してしまう。
女性の絶叫は終わる。何事もなかったかのように。彼女はただ裸で腰と足を縛られているだけのように見える。そして、しばらくのあいだ放置させられる。
蛇は、その後、女性器から出てくることはない。
戦争によって捕らえられた人間は二千人を超えた。捕虜たちはピラミッドの傍にある鉄格子の張られた留置場に詰めこまれる。食事も与えられず、体を洗うことさえできず、何晩も放置させられている。悪臭が立ち込め、最初は鉄格子に噛みついていく、威勢のいい男たちも多数いたが、今ではその熱もすっかりと冷め、このまま無抵抗に死んでいくことに同意しているかのように、じっと横たえているものが増えた。
その中に、一人の美しい少年がいた。図体の大きな男たちに押され、凝縮されたことで、誰の眼にも触れず、この場所で不運にも押し込められてしまったようであった。彼は最初から、抵抗を見せることなく、じっとしていた。男たちから、性的な接触を持たれることもあったが、少年は眼光するどい眼差しで、彼らを睨みつけた。少年から発せられる異様な念力に怯えたのか。何か触れてはいけないものに触れてしまったと、自覚させられたのか。側にいてはいけないものが、側にいることへの恐怖心が湧き起きたのか。
次第に、男たちは、少年からは距離を置きだしたのだ。
すると彼の周りには、円ができてしまった。そのサークルの内部は、まるで立ち入り禁止であるかのように人は寄りつかなかった。この大勢の捕虜たちの中で、この少年の存在は極端に際立ってしまっていた。残りの男たちは、さらに狭い空間の中で、残りの時間を過ごさなくてはならなくなった。
少年は、この二千人を超える捕虜たちの、最期の姿を想像した。この留置場の中で、息絶えてしまう虚弱な者、数十人、いや、百人は、いるかもしれなかった。しかし、その残った者でさえ、あとは凄惨で、無残な死を迎えるのは間違いない。
兼ねてから、噂を聞いていた。ある儀式のために、王国は戦争をしかけ、敗戦した国の中から、無数の男たちを連れて帰る。神へと捧げる、生贄の数を揃えるためだ。
並の犠牲者か、特別な犠牲者かと少年は思う。ここにいる男たち。これは、並の犠牲者だ。ただの数合わせ。神の化身として、残虐な殺害へと祭り上げられる特別な犠牲者は、すでに決まっているのだ。
俺はすでに、並の犠牲者となってしまっている。だがそれであっても、まずは捕虜となり、この国に入り込むのが最初の関門だった。それは軽々と突破した。あとは、特別な犠牲者に成り代ることだけだと、少年は心を燃え上がらせた。
セトの会社の社員の男は、廊下に足音が響き始めたのを確かめ、入り口のドアを開ける。
「まあ、入れよ」
男の声が階段じゅうに響き渡った。
「ここが、あなたの会社なのね。やっと手に入れたのね」
「俺のものじゃない。社長が一人いる」
「瀬戸さんね」
「そうさ。そこの唯一の社員が、この俺だ」
「いずれ、あなたのものになるわよ」
「どういう意味だ?」
女は答えなかった。すでに、無遠慮に部屋の中に入ってきていた。
「二人の会社なのね。私も加わりたいわ」
「君に任せられる仕事など何もないさ」
男は冷たい声で答えた。
「それこそ、どういう意味よ?」女の語気が強くなった。
「勘違いしてもらっては困るんだ。君は所詮女だ」
「何よ、その言い方」
「他にどんな言い方があるんだろうな。生きがってんじゃないぞ。自分が、何でもできるなんて思うなよ。女の分際で!女たちがだんだんと強くなってるって、世の中はそういう風潮になっている。男は何をやっている。何をやらせても、女子のほうがパワフルで、男の方はというと、元気がない。個人差はあるだろうが、全般に、そういうことが言われている。みんな、その風潮をまともにとらえすぎている。男も女もね。特に女なんて、その流れに乗って、自分がとてつもないエネルギーを得ているんじゃないかと勘違いしてる。乗せられてるんだよ。謳い文句に。そういう生き物じゃないか。やれ、ダイエットにきくと聞けば、それにすぐに殺到し、やれ、あっちでバーゲンが始まったという噂が広まれば、すぐに殺到して、って具合に・・・。踊らされてるだけなのに。まあ、確かに、今のこの時代、この時期に、女性が力を発揮しているのはわからないでもない。だって今まで男が独占していた仕事の数々が、女性にも開放されているんだ。今までやりたくてもできなかったこと、抑圧されていた想いを解放することが、一気に可能になったんだから。わかるよ。ずっと抑圧されていたものほど、いったん風穴があけば、その爆発力は全然違う。それは理解できる。おおいにやってくれたらいい。ただ、その勢いと、それまでの世界でずっと働き続けてきた男とを、比べてもらっては困る。女たちは、それこそ大学を出たばっかりの若い世代であって、男たちはもうすでに、疲弊しきってしまった六十代なんだから。この世界においてはだよ。もともとな、生物なんてものは、男なんて必要がないということだよ。メスだけで十分やっていけるんだ、本来。性別なんてものは、なかったんだから。もともとの始まりは。ところが、次第にオスが現れ始めた。オスの必要性が出てきた。オスの必要性とは何か、わかるか?突然変異だよ。突然変異の必要性が、出てきたんだよ!この世界の環境が激変したとき、生物はまた大いなる進化を遂げることなしには、その難局を乗り越えていくことはできない。それまでの環境に適応していたものたちは、絶滅を余儀なくされる。そのときにはまるで、役に立たなかった全然違った性質のはぐれ者、突然変異者、狂人たちが、ここで生き延びることになる。そして、新しい環境のもとで新しい力を発揮していく。つまりはオスなんだ。オスが絶滅のピンチを救うんだ。わかるか?今のこの世界は、ゆっくりと終わりに向かっている。これは否定することのできない事実だ。そして、その最期の段階に向かって、メスが最大限に粋がっているというこの事実も、また正当だ。そして、この環境における最終段階において、世界に退屈し、妥協の産物のような非力で無力なオスというものが、大量に発生しているというのも、また本当だ。だが真実はちゃんと見極めろよ。ただ、パワフルなだけの大馬鹿な女も、大発生しているんだ。所詮、浅いんだよ。浅はかなメスと、非力なオスのオンパレードだ。ただし、今、目に見ることのできない地下で、本当は何が起こっているのか。もう、すでに、この世界が終わることを予期して、この世界からは、この文明からは、とっくに離脱してしまったオスたちがいるということを忘れるべきではないね。そして、来たるべき新しい環境が、一瞬にして到来してきたそのとき、彼らは生き延び、大いにその姿を現す。そして、そのことがわかっていた一部のメスたちも、そのオスたちと一緒に、新しい世界へと移行していく。何が言いたいのかわかるか?」
女は沈黙したままだった。ドタンという大きな物音がして、床に女が突然に倒れた。
「答える言葉さえ、君にはもう出てこないよ。フフフっ。反論の機会も与えてやらない。フっ。俺をずいぶんと見くびったな。あとは安らかに寝るだけだよ。粋がるのも、そろそろいい加減にしろと、さっきのは警告だった。あのときに、君は逃げるべきだった。隙だらけの馬鹿な女だ。薄々君だって、俺が深夜に呼び出したときに、気づいていたはずだ。何かよからぬ雰囲気を、感じ取ったはずだ。その感性を生かすべきだった。ただ無防備に、階段を上がってくるべきではなかった。階段を登っているときにも、何か異変は感じとったはずだ。こっちの念というか想いというか、そんなものが映ってしまっていただろうから。違和感をすべて、スルーしてしまった君に、反論の余地など与えられるわけがない。そうだろ?」
男は床に倒れた女の体に、革靴のヒールをめり込ませ、さらには体重を乗せて、踏みつぶしていった。
「こんなときにでも、俺は、全部の体重はかけない。君とは違う」
そして、さらに、右足でぐりぐりと女性の肉体を切り刻むように破壊していった。頭部をサッカーボールのように、何度も何度も蹴り飛ばした。カーテンは開いていた。外の街灯や隣のビルからの照明以外に、光はなかったため、その暗いオフィスの中では、人間の輪郭がやっと確認できる程度であった。
セトの会社の事業目的は、明確だった。彼はこの混乱してしまった、乱立してしまった、時間の同時性に対して、その原因を独自に特定していた。唯一の社員である男に話していた。
「ある地点で、物事が大爆発し、大参事を引き起こすのは、それまでに抱え、積み重なり続けたストレスの存在が、あるからだ。それはわかるよね」
「もちろん、わかります」
男は少し大袈裟に、共感を体全体で現した。
「その過剰なエネルギーを、常にうまく逃がしてやることができなかった、結果だ。穴というか、隙間のない硬直したシステムや建物を、無数に作ってしまった結果だ。呼吸ができていないんだ。息苦しい。わかるだろ?この文明の中枢を見てごらん。我々が住む都市の環境を見てごらん?そうだよ。もう手遅れさ。今更、文明の全体において、過剰なエネルギーを逃がす仕組みを作ることなんて、できやしないんだから。その不可能な中で、いずれやってくる大爆発、大惨事を経験することでしか、たまってしまったエネルギーを、解放することはできない。もちろんそれは、無目的な現象として、ただ起こってしまうのを許すしかない。そんなに膨大なエネルギーであるにもかかわらず、何にも生かすことができない。積み上げた我々自身を、破壊することにしか、結果的にはならない。
なあ、このエネルギーがさ、常日頃、自分自身から逃がして、解放させて、さらには、それを有用に、我々の生活に生かしていけるというのが、本来の在り方なんじゃないのかね。循環させるのが大事だというのは、目に見えている。我々はね、個人的には、日々、ものすごくエネルギーを消耗しているんだ。この文明の全体に、個々のエネルギーは、知らず知らずのうちに、吸収され続けている。個人的に見たら、常に、エネルギー不足なのさ。それを補強するために、様々なことを人間は考える。それもまた、種々の商売に繋がってしまっている。ただし、全体で見たときには、エネルギーというものは、余りすぎなんだよ。過剰になる。これは、貨幣経済の本質と同じだ。経済全体としてみれば、金は常に余りすぎている。ジャブジャブ状態だ。ところが個々に見てみると、逼迫している人、ギリギリでやりくりしている人、そんな人間のほうが、圧倒的に多い。エネルギーだって同じことだ」
社員の男は黙って聞いていた。
「前置きが、だいぶん長くなってしまった!」セトは謝った。「つまりは、我々の会社が、何をするのか。どんな存在意義があるのか。もうね、文明全体のエネルギーの過剰、人間個々のエネルギーの枯渇、この流れは、さらにひどくなっているんだ。どんどんと乖離していき、そして反比例している。いつかは何かが起こる。それは誰にもわからないが、とんでもなくひどいディザスターが、発生することだけはわかるだろ。我々は微力ながらも、まだたったの二人だけど、始めなければならないんだよ。できることから。そして、伝道して拡大していく。まずは始めないと」
「社長」
ここで男は初めて、自ら会話に参加する意思を示した。
「社長!なぜ、私を選んだのですか」
「そんなのは、愚問だよ。僕が気に入ったから。もっというとね、君の履歴の、空白の多さに魅力を感じた」
「どういうことですか」
「経験不足が否めない君の人生において、その、いい意味でまだ何色にも染まっていないという利点を、僕は尊重しようと思った。ただ、それだけのことだ。君の空白が何によって、引き起こされているのか。僕には、薄々わかるよ。それは、二つの想いが実にすれ違ったままだから。二つの想いがね、この同じ空の下で交わらないまま、言葉を交わさないまま、無言で出会うことなく、存在してるからだ。この二つの想いが近づいていき、そして、様々な出来事が起こり、その空白がだんだんと埋められていくにつれて、君は本来の自分を発見していくんだ。僕のところで仕事をし、それで開花していったらいい」
「あの、具体的に、・・どのような仕事なのでしょうか」
「そうだよね。そこが、肝心だよね。気になるよね」
「はい」
「最終的にね、僕はこの街を、この国を、この世界を、この空間を、すべて作り替えたいんだ。そう、文字通りに。僕の思い描くとおりに、改造してしまいたい。これは、冗談でも何でもない。そのための第一歩。創造するためには、まずは破壊の必要性がある」
「つ、つまりは」
「破壊さ。もっとも効率のいい破壊とは、ディザスターだ。だが、それは、最終兵器のようなもので、しかも、人類の存亡にもかかわる悲劇的な出来事でもある。そうならないために、エネルギーを逃がすための破壊を、我々が請け負うってことだ。これは、必要悪ってわけじゃないけど、とても大事なことだ。どんなに綺麗に整備された都市であっても、汚水は必ず出るだろ?人目につかないところで、汚染された下水が流れ続けている。いかに見えないところで、それを浄化し、自然へと返していくのか。それと同じことだ。エネルギーが、人間個々において、自然に発生して湧き起こってくるためには、この全体にたまっていく過剰なエネルギー、全体といっても、様々な規模があるけど、小さな単位では、家族やカップルや中小企業、大きなものはそれこそ、共同体の大きさに比例していくんだけど、さまざまな段階でね、全体としては、過剰なエネルギーが貯まっていく。それを逃がす方法。ときに、破壊していく方法を、我々はクライアントに提供していくのさ」
「ですから、・・・具体的に、どのような方法で?」
「これはね、僕が説明するよりも、君が実体験したほうが早い。近いうちに、君にも理解することができる。体と心が一致するということが、どういうことなのか。顕在意識と潜在意識が一致するということが、どういうことなのか。その功罪。君の受ける恩恵と、罪の、その、コンデンスした実体がね」
セトが翌朝出社したとき、床に一人の女が血まみれで倒れているのを発見する。
横腹にはまだナイフが刺さったままで、うつぶせになっていた。
頭は鋭利な靴か何かで、激しく踏みつぶされていて、首が変な角度に曲がっていた。頭は陥没している。女の横顔から見えた眼球は、開いたままだった。口からも血が垂れ流れている。その生々しい匂いに、セトは吐き気を催した。借りたばかりのオフィスの入り口は、一夜にして、凄惨な殺害現場と化していた。
留置場の中で、誰にも近寄られない少年の存在。
次第に、儀式を執り行う神官の耳にも、入るようになる。見張り役の男に連れられ、神官の一人は、捕虜が犇めく部屋へと、案内される。鉄格子越しに見える地下の部屋を、見下ろしながら、神官は不敵な笑みを浮かべた。
少年は神官から目を離さなかった。その眼球からは黒目が消え、白目が青く輝き始めていた。
「とんでもないのを、連れてきたものだ」
神官は少年に聞こえるよう、わざと大きな声で言った。
「お前は、兵士じゃないだろ。戦地に送り込まれた戦士ではない」
少年の瞳は、さらに青い輝きを増した。
「しゃべれないのか」神官は体を揺らしながら笑った。
「望みは何だ、坊主。きさまは、わざと我々に捕らえられた。ここに入り込む必要があったというわけか。要求を素直に言いたまえ。他の捕虜の連中と同じように、扱われたいわけではないだろう。もし我々がそのように働きかけても、きさまは、何らかの形で我々にそれを許さないはずだ。きさまのその眼。知ってるぞ。その眼は、自分の想いを念力へと変え、その視線の先にいる人間に、要求を突き付ける眼だ。おそらく貴様は、声に出したりはしないはずだ。言葉にもしないはずだ。話せない種族なのかもしれないな。さあ、送りたまえ。その念力とやらを。遠慮はいらない」
神官はしばらくすると、鉄格子の鍵を外し、手を差し伸べ、少年だけを地上へと引き上げた。すぐに鉄格子を閉め、鍵をかけ、二人は捕虜の部屋から無言で遠ざかっていった。
Gは隣に住む退役軍人と一緒に、マンションの一階にあるカフェレストランでランチを取っていた。
このマンションに引っ越しを決めたときに、大家の人間にこの男を紹介された。理由はわからなかったが、とりあえずは隣人になるわけだし、挨拶をしていて悪いことは何もないだろうと思った。だがすぐに意気投合してしまい、こうして一緒に食事をする仲になっていた。
「退役軍人といっても、完全にやめたわけではなくて、ほんのつかのまの、休職なんだ」と男は言う。「戦地が、再び、僕を要求してくるような事態になれば、すぐに職務復帰というわけだ。しかし、軍人というのも、ずいぶんとその仕事の内容は変わったものだ。戦場はすでに、決着がついたあとの空間にすぎない。俺らは、そのすでに終わってしまった、闘いの残骸の後処理のためだけに、派遣される。高度なコンピュータの中の世界だけが、戦場なのさ。高性能なロボット同士が戦って、負けたほうが事実上、この物質の世界、三次元の世界に、ダメージが与えられることになる。まったく、とんでもない時代だ。
戦闘は、コンピュータの中だけで行われるのだが、その血は確かに、現実に流れることになる。攻め込まれた分だけ。だが、引き分けという範囲が、おそろしく狭くなってしまった。どちらかが壊滅するまで、戦闘は必ず続けられることになる。国一個、都市一個が壊滅するまで行われる。だからね、その派遣される俺らにとっては、実に、ムネクソの悪い作業さ。しかしその遠隔操作による、軍事コンピュータの攻撃は、人間の骨まで焼き切るまで続けられる。血なまぐさい死体は、俺らが到着する前に、すでに無にかえしている。気味の悪い世界だ。すでに、廃墟となってしまった無人の街に、俺ら軍人は降り立つのだからな。すまないね。飯時にこんな話を。綺麗な店なのに。俺みたいな人間などは、実に、ふさわしくないよ」
Gは首を横に振った。この、お洒落な服装をした、健康的に陽に焼け、そして無駄な贅肉がほとんどない、この中年の男は、あまりにこのような店やマンションに相応しい風貌をしていた。むしろ、話の内容こそが、この男の風貌にちっとも似つかわしくなかったのだ。
「なあ、その俺らが、残骸の処分を終えたときに、一体何をすると思う?本部とは連絡を断ち切り、そして任務からは外れ、その廃墟と化した街で、特別な儀式を執り行うんだ。軍務規定からは外れ、公式の文書にはもちろん残さない。それこそ、ほんとに気味の悪い行為だ。闇に浮かぶ、松明の数々。それでサークルを作る。俺らは何か、目には見えない霊を降臨させたいのだろうか。おかしな旗も、いつのまにか用意されている。風にはためいている。そして、松明の外側には、俺ら軍人が、円を描くように火を取り囲んでいる。戦争で死んだ敵の街の住人たちに対する弔いの儀式なのだろうか。どういうことなのか俺にもわからない。とにかくみなで黙祷を捧げる。
するとだ、なんと、焦土と化した戦場が脳裏に浮かび上がってくるのだ。
現実にそこで何が起こったのか。ありありと、その生々しい状況が、立ち上がってくるのだ。悲鳴も聞こえる。匂いもそうだ。すさまじい爆撃音。俺らは目を閉じている。だが数時間前か数日前かわからないが、そこに確かに存在していた世界を目撃することができたのだ。何故なのかはわからない。みな目を閉じているのだろう。俺もいっさい目を開けることをしなかった。一体どれほど時間が経ったのか。街は破壊しつくされ、静寂が広がる。車のエンジン音が聞こえてくる。何台も何台も目の前を通っていっている。そのとき、視界は不思議にも、その映像を見せようとしない。ただ音だけが、目の前を通り過ぎていく。俺らが現場に到着したのだ。そして、恐る恐る目を開ける。そこには、澄みきった青色をした湖が広がっているんだ・・・」
退役軍人の話は、そこで途切れてしまった。
Gはしばらく放心状態になっている自分に気がついた。しかも目の前には、パスタが運ばれていたことがわかり、二重に驚いてしまう。
セトは、目の前の惨劇を処理するために、知り合いに電話をかけていた。そして、手短に状況を説明した。部下が、事務所で付き合っていた女を殺害してしまったことを正直に伝えた。これでは仕事にならないから事務所を綺麗にしてほしい。死体をどこか別の場所に移動してほしい。あわよくば、その実態を消してほしい。
三十分後には、事務所に複数の人間が到着していた。四人の女の姿があった。
彼女たちはほとんどしゃべることなく、床の血の海の清掃を始めた。あっというまに血は回収された。彼女たちは、死体の胴体のそれぞれの角の四か所を、四人でもった。
死体の女は、地面から離れ、持ち上げられた。階段をゆっくりと降りていった。たまに、廊下に血が滴ることもあった。セトが拭き取る役目を担った。彼女たちから無言で、布巾を渡されていたのだ。
五分足らずで、死体は事務所から消えてなくなってしまう。
遺体の処理を代行する会社の人間とは、そこで関係が途切れてしまう。金銭のやり取りは口座同士であったし、事後の連絡を取り合うことは禁止されていた。派遣された人間の実体もわからず、初めて実際に依頼したセトにとっては、まさか女性たちがやってくるとは思いもしなかった。
若者の性教育を担当することになる女性神官が誕生する。
蛇を体内に取り込んだ神官は、さっそく、13歳になる少年を最初の生徒に選ぶ。神殿に恐る恐るやってくる少年は、これから何が行われるのか。漠然としたイメージしかわかずに不安になっていた。大人の性行為は、実際に何度も目にしていたが、自らの皮膚感覚で体験したわけではないので、余計に恐怖が募ってきていた。あの目撃した大人たちの異常な声と、顔の表情からは、それが快感からくるものか、苦痛からくるものか、何なのか、さっぱり見当がつかなかった。
神殿の中には、薄い布が垂れ下がった部屋がいくつもあった。
布をくぐると、そこには長い廊下が続いていた。洞窟のような場所の、その先にはお香が炊かれていて、暗い照明に照らされた清潔なベッドが置かれた、部屋が現れる。少年は、女性神官の手招きする後に続いて、無我に歩いていった。次第に、不安が解消されていくのがわかった。
少年は女性を裸にし、そして体の障り方を伝授される。少年は女性の体を隅々まで知ることになる。そのあと女性は少年を裸にし、少年の体に快感を与えていくのだった。どれほど時間が過ぎたのか分からない。ついに、少年は、女性の体の中に初めて入ることになる。自分の身体の一部を、女性の体の中に突っ込むときが来る。少年の先端が女性の暗闇に触れただけで、昇天してしまいそうな快感が全身に走る。
じょじょにじょじょに、女性の導きで奥へと侵入していく。少年には時間の感覚が消えていった。それから先、少しずつ何日もかけて進んでいるような気もしたし、ほんの2秒か、3秒のあいだの出来事のような気もしてくる。少年の下半身が熱くなり、何かが自身の体の内部から、湧き起こってきた。するとまもなく、性器の先端から外に放出する感覚が走る。少年は、これが射精であることを初めて知る。圧倒的な快感のあとで、そのまま女性の内部へと留まった。女性の導きは、ここで途絶えてしまった。少年は戸惑った。いったいこの後どうしたらいいのか。女性は目をつぶり、そして仰向けになったまま青白い顔をしている。反応はなかった。急に見捨てられたような気になってきた。少年の混乱は治まらなかった。とりあえずは性器を外に抜いた。そうせずには、そのまま入ったまま硬直して、くっ付き、逃れられなくなってしまいそうだった。それに、女性のもっと深い内部において何か動くものがあったからだ。気味が悪くなり、慌てて内部から逃げた。裸の女性の顔に触れたが、彼女の意識が戻る気配はない。死んでしまったのだろうか。首に手を当てる。何て冷たいのだろう。少年は体に残る倦怠感が、快楽からはほとんど遠くなってしまっていることを知る。女性を殺してしまったのかもしれない。この凶暴な、自分の肉体の一部で。そのくらいに硬くて熱い性器の存在が、いまだに続いていた。女性を傷つけ、そして破壊してしまったのは、この自分自身なのだと思った。
かつて目撃した、大人たちの性行為を思い出す。彼らの苦痛に歪む姿。しかし彼らは、最後には体を起こし、そして再び抱き合い、立ち上がり、服を着て、そして生活へと戻っていった。この目の前の女性も、次第に意識は回復し、熱を取戻し、起き上がってくるはずだった。そう思い込もうとした。だが、少年にとって、時間の経過はあまりに鈍重だった。絶頂の感情を経験した後で、あっさりと生から捨てられてしまったように感じられた。
「その澄んだ湖など、もちろん幻想だ」と退役軍人は言った。
「ところが、俺だけに見えたものではなかった。その場にいた軍人はみんな見たのだ。だが、すぐに湖は消えた。もとの廃墟と化した街の姿へと戻った。俺たちは何もなかったかのように、儀式を切り上げる。そして、最後の任務へと移る。完全に壊滅したという事実を、目視するためだけに、戦地に赴くわけではなかった。廃墟から黒い石を削り、持って帰ってくるのが重要な仕事だった。高濃度の放射線を出す俺たちの攻撃が、建物の建設や電化製品の製造に使われたさまざまな化学物資と反応して、あらたなる黒い結晶を生むということだった。近代戦争における戦利品というわけだ。焼け焦げた廃墟の中において、それは僅かに美しい光景だった。黒く輝き始める。その光ったところを、俺たちはナイフで削りとる。そして袋の中に入れて持って帰ってくる。もちろん、素手で触るのは危険だ。俺たちは防護服に身を固めている。戦利品の回収には、半日かかることもあった」
パスタはすでに、冷め切ってしまっている。
退役軍人の前にグラタンが到着する。そこで彼は話をやめ、食事に移る。
結局は、自分の頼んだ料理待ちであったのだ。来るまでの退屈な時間を埋めるために、自分の話をしていただけなのだ。Gは冷めて硬くなったパスタを、力を入れてほぐしていった。
王は、すでに都から姿を消している。
アルレッキーノは、神殿が天辺に設置されたピラミッドを、見守っている。
神官は、舞台の設営準備と、刃物を研ぐことに余念がない。
奉納者は、家で、犠牲者の到来を待機している。
民衆が集まり始めている。今年は、夏至のこの日が選ばれていた。この茹だるような暑さの中で、ピラミッドを囲むように火が灯される。日はほとんど沈んでいる。
その火を合図に、さらに民衆は、加速度的に集まりだしている。都に住むすべての人間が一同に介するのだった。ピラミッドを囲む炎の、さらに円周に何重にも渡り、人々の群れが埋め尽くしていく。広場は、すぐにそれ以上の人間の侵入を、許さなくなってしまう。
人々は、道路に立ちすくむしかなかった。都のどこにいても、ピラミッドはその姿を目視できるのだが、人々はできるだけ近くに行くことを望んだ。炎の傍にいる人々は、その熱風を絶えず、受け続けるというのに。
しかし炎は、街中で灯された。都市のすべてが、火で丸焦げになってしまっているように燃え盛った。温度は、果てしなく上がっていくように思えた。風はまったく吹かなかった。湿度もさらに上昇していくようだった。この年は特にすごかった。すでに、儀式が始まる前から、民衆の多くが倒れてしまうという事態が起こった。体調不良を訴える数人の神官まで、出てきてしまっていた。犠牲者となる若い男だけが、無数の氷の置かれた部屋にいた。冷たい飲み物が与えられ、冷たい果物が与えられていた。彼に付き添う四人の女たちも、汗一つかいてなかった。男と口づけをし、体を預け、絡ませあうことで発生する耐熱に、軽く汗ばむ程度であった。服を脱いで抱き合い、性行為に及ぶことも、しばしば見受けられた。男は犠牲者として、ピラミッドの階段を一人で登っていき、そして今度は四人の女ではなく、暗黒からの使者である四人の神官に、刃物で胸を開かされ、熱く煮えたぎる心臓をえぐり取られ、そして天高くに掲げられる。
儀式は、昼間の太陽が最も高く世界に聳え立つ時間に、執り行われていたが、いつのまにか、夜へと変わっていた。いったいいつから変更されてしまったのか、思い出せる人間は誰もいなかった。昼に行われた儀式の時代というのは、自分が生まれる前の世代のことだったのかもしれない。人々の多くは、そのように思った。昼に執り行われた記憶など、皆無である人間が、ほとんどであったのだ。
男は自分がいつ、どのような形で生命の終りを迎えるのか。あらかじめ理解し、そこに合わせて、日々の生活を送ることで、神でもない、ただの人間の生を神聖化するのだった。そしてその男の性に関わる、処女であった四人の女も、生まれたときから犠牲者の男の妻となるべく、大事に、教養深く、美しく、丁寧に、育て上げられた。犠牲の王にふさわしい女として。その女たちを育て、教育することに関わった人たち。そして、犠牲の日を念頭に置きながら、日々の暮しをしていった民衆たち。つまりは、今日という日をめざして、人々は神聖化された日常を送ってきたのだった。それが間もなく実現する。
男は、死が鈍重な重さで、忍び寄ってきていることを知る。
部屋の扉が開いた。
「どうぞ、こちらへ」
暗くて長い廊下が、唐突にまっすぐに伸びている。終わりのない闇の洞窟のように。
ここからは、おそらく、一人きりで歩いていくのだろう。男は覚悟を決めた。付き添う人間は、誰一人として、いなくなる。女性たちに別れを告げる。
「申し訳ありません」と神官の一人が男に耳打ちする。
「この廊下の先に、あなたの運命が、密やかに待っております。しかし、当初から、あなたが思い描いていた、あなたが覚悟していた現実ではなくなりました。こんなことは初めてです。しかし、我々では、どうすることもできません」
「どういうことなんだ」
「突きあたりまで行ってください。ここを抜け出たときに、あなたは事実を知ることができる。実に、予想外なことになってしまった」
男はすでに廊下に一人放置されていた。覚悟が無駄になるだと?いったいどういうことなんだ?犠牲者として、心臓を抉られることはないのか?なくなったのか?そんな馬鹿な。何のために、こんな豪奢な生活を、送らせてもらったのか。この、自分の生命の終りに向かって、すべての日々が構成されていたのに。犠牲者として任命された。戦地で捕虜として敵国に連れてこられ、その中で特別な犠牲者として、見立てられたこの自分は、そこで初めてこの世で生を受けた人間だった。そして、今日までの日々。
廊下の突き当たりには、思ったよりも早く到達してしまっていた。
男は、その後の、神聖からは遠く離れた無意味な現実の到来を、肌で感じてしまった。扉を開けた。そこには民衆の群れが広がっている。彼らが見つめていた空の先には、なんと、自分が登っているはずだったピラミッドの姿が、燃え盛るように夕暮れに浮きあがっていた。
Lムワの死を井崎はシカンから知らされた。自宅が火事で全焼してしまい、Lムワは逃げ遅れたということだった。妻は幸い、外出中だったらしく、火事に巻き込まれることはなかった。しかし、その火事というものが火の不始末からなのか、自然発生的に出現したものなのか、意図的につけたものだったのか。警察は、自殺か他殺の線もあるということで、本格的に捜査を開始していた。
Lムワは有名な作家ではなく、世間ではほとんど認知されてなかったので、メディアにその死が報道されることはなかった。シカンとは個人的に親交があったので、その死は、Lムワの身内以外では一番早くに伝えられた。シカンは妻の北川裕美のことをすぐに思った。彼女の行方はまだ掴めてなかった。火事が起こるだいぶん前に、彼女は家を出ていた。別居していた。彼女が自宅で描いた絵は、どうなったのだろう。まず最初に、シカンが思ったことだった。すべてを持ち出していたのだろうか。どこか別の場所にアトリエを借りているのだろうか。北川裕美との連絡は全くとれなくなっていた。絵はアトリエから外の世界へと、出しているのだろうか。何かの展覧会の公募に出しているのだろうか。
あなたは絵を描くべきだと言ったシカンは、彼女のその後が気になって仕方がなくなっていた。その矢先の火事だった。そしてLムワは死んでしまった。シカンにはまだ信じることができなかった。誰かに話をして事実を共有する以外に、心のやり場がなかった。反射的に、井崎に連絡をしてしまっていた。
「なんだって!そんな」
井崎は、それまで聞いたことのない悲鳴にも似た声を上げた。
「冗談はよせよ。俺をからかうのはよせ」
「どうやら、彼のDNAと一致したみたいです。問題は事件性があるのかないのか。焦点はすでにそっちに移っています。他殺なら、奥さんが疑われる。彼女のアリバイが大事だと思うのですが、今現在の、彼女の行方がわかっていない。自殺の線も、捨てきれてないみたいです。何か思いつめていたんですかね」
井崎はこんな結末になるとは思いもしてなかった。Lムワが新しく仕上げた新作を軸に、過去の作品をもう一度組み立て直して、全体としては新しい構成で、彼の著作のすべてを、同時に売っていくつもりだった。そのプロデュースを一手に担当する予定だったのだ。自信はあった。それが、もうすぐ実現するはずだったのだ。Lムワという作家の著作のすべてを展開していくことは、井崎にとっては、これから発動させていくプロジェクトの一部でもあった。重要な根幹をなす、二つの軸の一つだった。Gと双璧をなす、役割を果たすはずであった。
その片方の翼が、早くも座礁してしまったのだ。井崎は動揺を隠せなかった。
「そんな、許さんぞ!」
井崎は声を張り上げた。
「落ち着いてください。まだ、自殺や他殺だと、決まったわけではないんです」
「そんなことを言ってるんじゃない。おい、それよりも、家はほんとに全焼してしまったのか?焼け残ったものはないのか?」
「絵ですか?」
「絵?何のだ?」
「いや、奥さんの」
「奥さん?俺は奥さんのことなど、何も訊いてはいない。興味はない。Lムワの著作のデータが入ったコンピュータのことだ。それも、焼かれてしまったのかと聞いているんだ」
「今から、彼の家に行きますか?僕も、気になって仕方がないんです。あなたはコンピュータを、僕は奥さんの絵を」
「その絵は、高く売れるのか?」
受話器から聞こえてくる井崎の声は、急に低くなり、落ち着きを放っていた。
「わかりません。見たこともない。でも、確実に描いてます。うまいのか下手なのかさえわからない。けれど、ある種のエネルギーが宿っていることは間違いない。その、奥さんというのは、昔、女優をやってましてね。七年前かな。Lムワさんと結婚して、芸能界は引退したんですけど。その彼女が、近ごろ絵を描き始めて、画家として世の中に復帰しようとしているんです」
井崎からは、返答がなくなっていた。
「ねえ、ちょっと。井崎さん。います?」
「あ、ああ、すまんな」
何か別のことを考えていたような気の抜けた返事だった。
「いや、ありがとう」
「はいっ?」
「ありがとう。参考になったよ。さっきは、完全に打ちのめされたけど、その奥さんの話を聞いて、元気が出たよ。道は閉ざされてはいなかった。ありがとうな。そうか。奥さんか。絵描きなのか。ふーん。それはそれは。フフフ。まあ、そうだな。それはそれとして、あれ、いや、まだ、その奥さんって人も、見つかってないんだよな。楽観視はできないな。生きてる保障なんて、どこにもないし。いずれは見つかるんだよな。そうか、やはり、今は、Lムワの著作の方を心配したほうがいい。君には言ってしまうけどね、あ、内緒にしておいてくれよ。Lムワはね、ここのところ、彼の生涯で最も大きな作品に、とりかかっていたんだ。知ってる?その著作のデータは、どこにあるんだろう。焼かれてしまってないことを祈るね。途中までであっても、手にいれたい。一部しか見つからなくても、それを元に、誰かに復元してもらうか、それをきっかけに、何か別の展開にもっていけるかもしれない。とにかく、何でもいいから早く見つけ出さないと」
「大作か・・・」
シカンは、最初にLムワと仕事の打ち合わせをしたときのことを思い出していた。あのときの会話がきっかけになって、シカンはLムワが新しい小説を書き始めることを予期したのだ。それのことを言っているのだろうと、シカンは思った。
「とにかく、今から、家に向かいましょう」シカンは電話を切った。すぐに井崎を拾うためにガレージから車を出した。
ピラミッドの側面にある階段の前に現れたのは少年だった。最初に気がついたのは、ピラミッドを取り囲む炎に、最も接近していた民衆たちだった。大きな声を上げた。
「おい、あれは、まだガキじゃないか」
「そうだ。話しが違う」
少年に近づいていく暗黒の四人の使者は、予定通りに何事もなかったかのように犠牲者を見つめている。
「おい、中断だよ。聞いてるのか。こんな、年少な男のはずがない。何かの手違いだ。どこかで、すり替わってしまったんだ。気づかないのか?」
最前列にいた民衆の男が、ピラミッドに向かって走り出した。
それに気がついた四人の神官は、別の神官が待機している場所へと向かって、振り返った。
すぐに、待機していた神官がやってきて、男を取り押さえた。
「そいつを、捕虜たちに加えておけ!」
「なんだって!」
捕らえられた男は口をふさがれ、首の後ろを殴打される。そして意識を失ったまま、神官たちの手によって運ばれていった。
その後、次々と、最前列にいた民衆の男たちが身を乗り出して、少年の犠牲者を救おうと、救いの手を自ら差し伸べようとした。
だが、ことごとく神官たちに潰されていった。
この少年と同じくらいの年頃の子供を持つ親たちは、やはり反射的に、本能に突き動かされていた。彼を救おうと、もがき始めていた。
「説明をしてくれ、誰か」
すでに、身の危険を感じ始めた民衆の男たちは、自らを、無駄な妨害をする無意味な反抗者として、その行動を自粛し始めた。
「説明をしてくれ。そうすれば、みんなは納得する。何故、今年に限って、こんなにも年少の犠牲者が選ばれたのか。あまりに惨いではないか。体だって、こんなにも小さいではないか。胸板もない。何ということなんだ。他に、美しくて若い青年がいなかったとでもいうのか?」
少年は、四人の神官を制する。そして、階段に足をかける。ゆっくりと登っていく。少年は民衆に向かって大きな声を出す。
「あなたがた。私を憐れんでくれているようだが、そんな必要はまったくない。邪魔をしないでほしい。私は死ぬことはない。この神官の男たちに、殺されることはないのだ。胸を開かれ、心臓を抉り取られるなどという、血なまぐさい行為など、まるで行われることはないのだ。だから、君たちいい大人が、騒ぎ立てる理由など、まったくない!」
都じゅうが静まり返った。
もちろん、ピラミッドの周りにいるごく少数の人間にしか、声は届かない。
だが、その声を吸収した民衆たちは、後ろの人間に口伝えをしていく。ごく自然にそういった現象が起こった。
少年はさらに、階段を登っていく。神官の四人も、それに続いて階段を登ろうとする。
しかし足は止まる。またすぐに歩き始めようと、次なる一段に足をかけ、全体重をかけて、逆の足をさらなる段へと、移行していこうとするのだが、まるで氷でできた階段であるかのごとく、神官の足は安定感のない、滑るようなしぐさを繰り返す。
少年の眼球は青く光っていた。それは遠くの民衆にも、肉眼で確認することができた。その青い眼球は、四人の神官の方を向いていた。その青い光線が、神官の足元を凍らせてしまったかのようだった。
次第に、ピラミッドそのものが凍ってしまったかのような、そんな色彩へと変化していった。黄土色の外壁は、一変していた。ガラスで構成されたかのような透明感さえあった。炎は、いつのまにか消えている。少年は、頂上の神殿へとすでに近づいている。
ここで、本来は、研ぎ澄まされた刃物で、殺害が実行されるはずだった。
しかし、執行人は、誰一人いなくなってしまった。
少年は、一人で、その神殿の中へと入っていく。民衆の体も凍り付いてしまったかのように、身動きをとらなくなる。しゃべるものはいなくなった。炎も消えている。さっきまでの熱気が、嘘のように吹き飛んでしまっている。
しばらく時間が止まってしまったような状態が続く。
そして神殿が燃えていることに気がついた、民衆たちは、そこでやっと催眠が解けたかのように、指をさして叫び始めた。
「おい!あいつ、火を放ったぞ!いったいどういうことなんだ!あいつ、あの中にいるぞぞ」
四人の神官は、ピラミッドの下で見上げているしかなかった。真っ赤な炎に包まれた神殿は、その下の土台であるピラミッドには、燃え移ってはいなかった。すでに、黄土色へと、色彩は戻っていた。ピラミッドを取り囲んだ松明は、再び点火されることはなかった。
まるで、少年が自分の意志で解き放った火の他は、すべてを拒否するかのようであった。
神官には、指一本触れさせず、民衆の杞憂を制止し、自らの肉体を燃やすことを実行に移した。
その後、少年の遺体は、神殿の中から発見されることはなかったが、あの場所から、彼がどこかに脱出することは不可能だった。ピラミッドはすべての方向から、無数の人の眼が注ぎ込まれていたし、ピラミッドの内部に抜け穴があったわけでもない。空へと飛んでいった人間がいたわけでもなかった。彼は忽然と姿を消した。高温の炎の中で、骨まで焼かれてしまったことを疑う人間は、その場には誰もいなかった。
神殿だけが、綺麗に焼かれ、消失してしまったことを、民衆は全員、そのあとで目撃したのだった。
Lムワ邸に二人は着いた。すでに土地に建物はなく、跡地と化していた。隣の家はしっかりと原型をとどめていて、火は燃え広がらなかったことを物語っていた。なくなったのは、Lムワ邸その一軒だけだった。井崎はしばらく黙って見ていた。
「プールは、どうしたんだろう」シカンが最初に言葉を発した。
「プールか。確かにな。そっくりと、取り外したんじゃないのか?」
「あれっ」
井崎は、Lムワ邸の前を通りすぎようとしていた人影に反応した。
「万理じゃないか。どうしたんだ、こんなところで」
まるで万理もLムワ邸の跡地を見に来たかのように、井崎には感じられてしまった。
「ほんとだ、万理だ」シカンも驚いた。
「あれっ、お二人さん。あなたたちって、知り合いだったんだ。仲良く、二人でドライブかしら?」
「何をしてるんだ、万理」
「なにって、朝の散歩よ。ウォーキングしてちゃ、まずいのかしら?」
「Lムワ邸」とシカンは言った。
「Lムワ?ああ、そうね。そうそう。ここがそうだった」
「やっぱり、知ってたんだ」
「近所だもん」
「そういうことか」井崎も納得がいった。
「私の家は、あっち。通りをふたっつ挟んだ、向こうね」
「こんなところに住んでいたのか。高級住宅街だよ」
井崎は、シカンの顔を覗き込むような体勢になった。
「Lムワとは、親交があったのか?」
井崎は万理に訊いた。
「いや、まったくなし」
残念そうに万理は即答した。「ただ、近所に住んでいることは、引っ越してきたときから知ってたわよ。こうして散歩しているときに、偶然見つけたの。奥さんも、たまに見た」
「最近は?」
「最近は、見ないわね。引っ越してきた当初は、よく見たけど。一年前は、頻繁に見たわ」
「ねえ、Lムワ夫妻は、いつ頃、ここに?」
「さあね。私が来たときには、すでに居たから。でも、家は全然新しかったから、まだ来てから、何年も経ってなかったんじゃない?それよりも、あなたたち。知り合いだったんだ。二人で一緒にいるんだもの。吃驚したわよ」
「ちょっと仕事でね」とシカンは言った。「まだ、あんまり関わりはないんだけど。今度のLムワのことでさ」
「死んでしまったのよね」
「火事はどんな感じだった?」
「目撃はしなかったわ。私、映画の撮影で、ずっと家には帰ってなかったから。ニュースで知ったくらい。それで、さっきちょうど撮影を終えて、家に帰ってきたばかりなのよ。そしたら、いきなりあなたたたちと、バッタリ・・・」
道の真ん中で、通常なら会うはずのない三人が顔を突き合わせていた。そのあとで途切れてしまうであろう沈黙のあとの展開を、どう続けていったらいいものか。三人はそれぞれの頭の中で思い巡らせながら、お互いの様子を伺っているように井崎には思えた。
「そうか、近所だったのか」
まるで、この後、その家に招待してくれと言わんばかりの井崎の言葉に、シカンは多少面食らってしまった。彼の表情はあまりに露骨だった。
「母親と女性が、遺体確認に訪れたらしいわよ」
万理が再び、話題をLムワへと戻した。
「裕美夫人が来たのか?」
「違うみたい」
「誰なんだ」
「そんなの、知るわけないでしょ。ただ、若い女性だった、って」
「恋人か?」井崎はシカンの方を向いた。「わからんな」
「そういえば、プールはどうしたんだろう」
「ああ、プールね」と万理はそっけない表情をした。「取り壊したのよ。昨日だったかしら。プールだけが残っているのも何だからって、母親か誰かが業者に依頼したのね。すっかりと取り外されてしまった」
「なあ、火事の原因は、一体なんだったんだ?」
万理は困惑した顔をして俯いてしまった。シカンも別のことを考えているようだった。
井崎はこの不可思議な組み合わせの三人が、芸能関係の記者か誰かに、写真で押さえ
られている様子を想像してしまった。女優と映像作家、ヤクザのような男の三人が、深刻
な顔で、時に苦笑いを浮かべながら、元女優と焼死した作家の自宅跡地を、眺めているの
だ。この奇妙な写真の構図に、すべてがばっちりと収まってしまっている。この不可思
議な絵に、一体どんなストーリーを、記者は創造するのか。三人がかねてから計画を練っ
て火事を巻き起こし、そのあとで現場を確認するために、一度集まった・・・。裕美夫人
を含めた四人の犯行だったが、婦人は事後に一人で逃げ出し、行方がわからなくなってし
まった・・・。くだらない妄想だった。
結局、あの夏至の日、犠牲者が心臓を抉り取られなかったことで、二千人もの捕虜ものほうも、死に場所が浮いてしまうことになった。
誰かを急遽選ばなくてはならない。
民衆は、この先一年のあいだ、ずっと、この不完全燃焼のままの心を抱え持つことに、不安を覚えた。
今日、清算しなくてはならないのだ。想いはみな一緒だった。
神官の男たちも同じ気持ちだった。だが、民衆の中から、無差別に選ぶわけにはいかなかった。神官の中から選ぶわけにもいかない。他の人間とは、何かが違わなければならなかった。この日のために、ある特定の男を神の化身として、神格化させてきたのだ。その男を、再び、ピラミッドに登らせればいいじゃないか。
四人の神官の中の一人は、そう思った。だが他の三人に否定された。
「馬鹿を言うんじゃない!もうすでに、あの男は、神からは降りてもらった。一度、外した冠を、すぐさま乗っけるようなことは、慎まなければならない。神聖に対する冒涜だ。我々は、あの少年に心をいとも簡単に操つられてしまった。いつのまにか、あいつの青い奇妙な目に翻弄されていた。為す術がなかった。あいつは、一体、何だったんだろう。結局、自らに火を放って死んでしまった。我々の長く受け継がれてきた儀式を、見事に冒涜した。汚して、そして、誰からの制裁も受けずに、その前に命を絶ってしまった。彼の真意はまったくわからない!しかし、我々の時間のサイクルは、ここで完全に乱されてしまった。こんなことでは、民衆の不満は爆発する。なにせ、一年に一度のこの日に、無意識にも抑圧されてきた各個人の暴力性を、発露するのだから・・。矛先を急に失ってしまったんだ。暴発してしまうかもしれない。ただ一点に集中させることなく、無軌道にも我々の今いる地上に向かって、それが放出されてしまうかもしれない」
「それなら、やはり、予定通りに最初の男を」
「ちょっと待て。その男なら、もう我々の元にはいないぞ。すでに解放してしまった。あの民衆の中のどこかに、紛れこんでしまったさ。今更、回収することは不可能だ」
「困ったな」
「誰でもいいってわけではない」
「今から準備をする時間さえない」
神官は民衆の静寂に不気味さを募らせていった。
「記録者」
神官の一人が大きな声を出した。
「記録者の男がいただろう。この儀式の初めから終わりまでを、事細かに記録している男が」
「あそこに、いる」
「・・あれか」
「この急遽、止まってしまった時間を、彼はどう描写しているんだろうな」
「ちょっと呼んで来い」
記録者の男は、すぐに神官四人の前に進み出た。
「御用でしょうか」
「そうだよ。御用だよ。一つ訊くが、今のこの状況においては、あなたの筆のほうも、止まっているのだろうか。それとも、その様子まで、描いているのだろうか」
「描いてはいません」記録者は即答した。
「空白なのか」
「いえ、儀式が再開されれば、さきほどまでのシーンの、すぐ後から、書き出すだけです」
「もし、ここで途切れてしまったら、最後のシーンは何になる?」
「少年の入った神殿の爆発です」
「そうに決まってる」神官の一人が声を張り上げた。
「君は何を望む?」
「わたしですか」記録者は予想外の質問に戸惑った。「やはり、緊急に、犠牲者を拵えるべきでしょう」
「例えば、誰を?」
記録者は、指を差し示した。儀式を見守っているアルレッキーノが、おそらくいるであろう、犠牲者のピラミッドの向かいにある、その小さなピラミッドを。
「王か」
「ええ。彼なら犠牲者としてふさわしい。今この状況においては、最も神に近い人です。神の化身としての役割を得るのに、時間をまったく必要としない、唯一の方です。この国において」
神官は、お互いの顔を見合った。動揺が広がっていた。
「他に、誰がおりますか?もちろん、そういうことになれば、僕にも責任が発生します。僕が、初めに発案をしたのですから。僕は自らの命を絶ちます。僕一人に、責任をかぶせれば、それでいいのです。王の殺害に対する責任をね。さあ、どうします?僕ひとりの命と、王の命とで、今日という日の儀式はまた復活させることができるのです。
王は、また選び直せばいいでしょう。ゆっくりと時間をかけたってかまわない。しかし夏至のほうは、今日を逃しては、また一年の月日を待たなくてはならない。一年もの長い間、平穏な世界は保たれるのでしょうか。浄化するべきときに、できなかった世界において、その溜まった分の暴力は、いったいどこに消えてしまえるのでしょう。王だって、元々は、我々と何ら変わらぬ人間にすぎなかったわけです。犠牲者と同じです。誰かが、ピラミッドの頂点に立たなくてはならない世界において、彼は王として選ばれ、神聖化された生活を送り続けることにおいて、神の化身となっていくのです。犠牲者も、王も、同じ選ばれた人間なんです。そして、我々みんなが、そうした装飾を加えていくことで、彼らを創造していくのです」
記録者の男がそう言い終える前に、四人の神官は、もう一つのピラミッドへと、すでに無言で向かっていた。
Lムワの母親から、シカンに電話がかかってきた。息子はすでに火葬をし終えたのだと言う。葬儀も済ませて墓地に埋葬したのだそうだ。
「ずいぶんと、早いんですね」とシカンは言った。
「一度、息子に会ってくれませんか。他にお友達も連れて。生前、あの子はずいぶんと人付き合いが悪かったようで。連れ合いの方とも、最後は仲たがいしていたそうで・・・。シカンさんでしたね。あなたくらいしか、快く息子に会いに来てくれる人が見当たらないんです。あとは出版関係の、何さんでしたっけ。その方も、あなたはご存じなんですよね。是非、一緒に行ってやってください。息子も喜びます」
シカンは、墓地の住所を半ば強制的に教えられた。井崎に連絡して、一緒に行ける時間の調整をした。
墓は郊外にあった。山脈と空が見えるだけの、砂漠のように建物が何もない場所に、確かにその墓地はあった。夏は緑に囲まれた公園のような場所になるという。だが冬は荒涼としていて、冷たい風がシカンの頬を硬直させた。他にも、何十人と埋葬されていた。墓石が所々に立てられていた。
「これだな」
井崎はLムワの本名の書かれた石を見つけた。
「おい。確かに名前は合ってるけど、数字が違う」
シカンは石に近づいていった。
「享年13歳って。1994年に死んでるじゃないか。1981~1994。もう、17年も前だ。違うよ。Lムワじゃない」
シカンは他の石を一つ一つ丁寧に確認していったが、Lムワの本名にあたる墓石を見つけることができなかった。
「ほらな。やっぱり、これだよ」
井崎はずっとその石の前から離れなかった。
そこにLムワが眠っていることを信じて疑っていない様子だった。
「万理も呼んだらどうだ?」
「万理?関係ないだろ。ただ近所に住んでいただけだ。俺らだけで、十分だ」
「お母さんが悲しむぞ。たくさん連れてきたほうがよかったんじゃないのか。あの、万理と共演した女優も連れてきたらよかった。男だけで来たって、Lムワは、喜ばない」
シカンは井崎の言葉を無視して、石をずっとみつめていた。
「何か書いてあるな。ほら、よく見てみろ。石に刻まれている。何て書いてあるんだろう」
シカンは石についた砂埃を丁寧に払っていった。
「この心臓は、誰の手にも掴ませてはならぬ」
井崎は石の裏側に回っていた。
「なに?」
「裏面に文字が書かれている、ほら。表は何だか小さすぎて読み取れない」
「確かに」
「この心臓は、誰にも掴ませてはならぬ」
「どういう意味だ?」
「この心臓は、誰にも掴ませてはならぬ。13。数字まで刻まれている。享年13歳、ってことだよな」
「この心臓は、誰にも掴ませてはならぬ、Lムワ。とか、普通は書くんじゃないのか」
「ずいぶんと、13っていう年齢に、こだわってる」
「数字か。確かに。享年だと、誰が決めつけたんだろう?そうだろ。1981~1994年のあいだに、この人間は生きていた。この世に存在していた。俺らが勝手に、そう思っただけかもしれない」
「Lムワの本名」
「作家としてのLムワ。石に刻まれた、本名。そして、13の数字」
「俺たちは、何をしに来たんだ」
井崎は青く澄んだ空を見上げ、うんざりしたように言った。「こんなにも、鮮やかな空を見上げたのは、いったい、いつ以来だろう。なあ、シカン。お前は、13のときは何をしていた?」
「忘れたよ。だいたい、俺はな、ここ2、3年のことしか、自分の人生としての実感が持てていない。それよりも前は、まるで自分ではないような気がする。だから三年も経てば、今日のこの出来事だって、すでに記憶からは抹消されている。思い出したとしても、実感がまるで伴わない」
「Lムワや、北川裕美のことも、そうなのか?」
「同じだよ。たとえ北川裕美と三年後に再会したとしてもだ。あのときLムワと結婚していた北川裕美と、同一人物だとは、とても思えない」
「この、1994年に死んだ男。・・少年か。いったい、誰なんだろう」
神官の四人は王に対して、生贄の犠牲者が予定通りに準備できなかったということを、素直に報告した。
「何事か」アルレッキーノは、王としての威厳に満ちた演技をした。
「すみません。いろいろと、手違いがありまして。奇妙な少年が、一人、この国に紛れこんでしまったことで・・・」
「知っておる。すべて、ここから見ておった。何千人もの捕虜の中から、抜け出てきた男だ。なるほどな。自ら、特別な犠牲者に名乗り上げたのはいいが、予定していた神の化身、準備の万全に行き届いた若者が、排除され、少年が階段を一人で登っていった。ぜんぶ見ておった。どうして誰も止めることができなかったのか。それもわかっておる。あの少年は特別な力を持っていた。武力でなく、念で自分以外の動きを封じる力が、備わっていた。神官の中に、それに対抗できる人間は、誰一人いなかった。人間一人の能力は、落ちる一方だ。この王にしてもしかり」
「王。あなたの首を取りにきたんです。あなたの首は、あのピラミッドの頂上で、すっぱりと切られることになる。もうあなたしかいない。あなたが、この場の混乱を収めるべきだ」
アルレッキーノは首を横に振った。
「お前ら、気でも狂ったか!」
「王。我々の中の誰かがやるべきだと、おっしゃりたいのでしょう。しかし我々は誰も引き受ける気がない。想いは一緒なんですよ。我々神官の中から、犠牲者を出すわけにはいかない。そして民衆の中からも。犠牲者は必ず、我々の国の人間ではない、部外者であることが決まりでしょう。戦争による捕虜の中から、選ばれる神の化身、生贄。そして、王。あなたもそうです。あなたという存在も、元を辿れば、捕虜の中から選ばれている。そうですよね。この状況で誤魔化すことなどできない。我が国の王は、世襲制度を拒否した。住民から選ぶことも禁止した。王は、我々の血が流れていない部外者の人間であるべきだと、そう定めた。生贄と同様にね。そして、その生贄は、事情によって姿を消してしまった。その緊急を擁する、空白の場所に、最適な人間は、一体、誰なのか。考えるまでもないですよね、王。手荒な真似はしたくない。さあ、自ら出て行き、そして登っていきなさい。あなたは王でありながら、初めての犠牲者となるのです。心臓を抉り取ることだけは、勘弁しましょう。あなたの首を切らせてもらう。そして胴体は、ピラミッドの頂上から、無造作に落とすことになる」
「お前たちは、国を滅ぼすつもりか。夏至に行われる儀式を、回避しても、国は滅びない。何も問題は起きない。ところが、王が殺害されたらどうなるか。それに私は王ではない。王は、この夏至の儀式のときに、密かに、王座から降りられる。代わりの人間がやってきて、その王の座の穴を埋める。王は、今、この都市には存在していない」
アルレッキーノがそう言い終える前に、神官の四人は、彼に襲いかかっていった。
そして、両手両足の自由を奪い、彼を外へと運んでいった。
万理は、セトという会社名が一体どこからやってきたのかわからなかった。
そして、社長の瀬戸の唯一の部下である男が、自分の彼女を殺害するという場面から始まる脚本を、何故書き始めたのかも、まったく理解することができなかった。万理は前回の「エジプト人対ユダヤ人」の闘いを描いた、『ユダプト』という映画を撮り終えてから、心身のバランスを極端に崩していた。『ユダプト』で主演の女を演じたのだが、その話の結末である同族の民衆たちに、火刑を命じられ、それを甘んじて引き受けるという体験に、そのあともひどく心を不安定にさせられていた。トラウマというかPTSDのような症状に絶えず悩まされ続けた。あれはやるべきではなかったのか。自らが企画し、脚本を書くという行為をするべきではなかったのか。撮影の後のことまでは、少しも考えてなかった。まさかこんな状態になってしまうとは思いもよらなかった。生み出した作品は、それ自体に生身の血が通っていて、無責任に、この世に出現させてしまった罰のようなものを、万理はなぜか受けとっているかのようにさえ、感じられてしまった。高揚感は、あっというまに墜落していき、精神のありようとしては、ひどく落ちこんでしまっていた。しかしだんだんと時間が経つにつれ、それは心的外傷ではなく、あの超越的な感覚があまりにも鮮烈で、刺激が強すぎたことが原因で、その後の身の回りの出来事に、リアリティを感じなくなってしまったということだった。
そんな中、セトの最初の場面を書き上げていた。女が殺される場面から始まる。『ユダプト』で焼かれてしまった女と何か関係があるのか。こうも、連続して、女が惨殺されるなど、偶然ではなかった。前回のラストのシーンと、今度の最初のシーンなのだから。殺害した男は女に向かって、性的な差別用語を連発していた。女が粋がるんじゃないと、警告を連発していた。万理は自分に言われているように感じた。私は粋がろうとしているのだろうか。あの男はそんな私を殺すために脚本の中に現れた。今はボーイフレンドはいないから、あれはおそらく私が関わった男たちの記憶の集合体なのだろう。集合的無意識の総称なのだろう。私は彼らを捨てるように扱った。その報いを、今、受けているのだろうか。
現実の私はまだ誰にも殺されてはいない。これは私という女が、これから歩もうとしている現実の航路の中で起こることに違いなかった。万理はそう感じた。
予定の時間になっても、犠牲者は、奉納者の自宅の食卓に姿を現さなかった。
一族や同じ地区に住む人々が、すでに正座をして沈黙の中で待ち続けている。
家の外の様子からも異変は感じられた。祭りが始まった様子が、まるでなかったのだ。浮かれて大声を上げている人間もいなかった。酔っぱらって、家の中に上がってくる人間もいなかった。
だいぶん遅れて、犠牲者が奉納者の家へと到着する。
先導役の神官は女性だった。犠牲者を担ぎ合上げている他の三人の神官もまた、女性だった。
「お待たせ致しました」先導役の女性は言った。
集まっていた人々は、一様に、困惑の表情を変えたが、誰も口を開く者はいなかった。
犠牲者に首はなかった。
さらに後ろから、一人の女性が歩いて入ってくる。彼女は、犠牲者の頭部を両手で抱え持って。
先導役の女性は、奉納者の男の前に、進み出る。
「本日は、大変申し訳ありませんでした。あなた方が奉納なさった、男性の犠牲者ではない人間を、今日はお連れしすることになってしまった。しかし、今年の儀式に際しては、あなたが奉納なさってくれたという事実には変わりありません。あなたの家の食卓で、犠牲者を食すことには、どなたからの異論もありません。あなたがた一族の、今後の発展を祝して、本日は、我々からこの供物を捧げさせていただきます」
一族と同じ地区の人間たちの前に、犠牲者が降ろされる。
そして、頭部が添えられた。
セトは、事務所に放置されたままの遺体の処理を、知り合いの会社に頼んだあと、殺害を犯した部下の男に電話をした。
そして逃亡の指示を出した。
港にボートを用意したから、とりあえずはそれで脱出しろと言った。
「君がやったんだろ?何も言わなくていい。あとのことは、僕に任せてくれたらいい。女性の死体を、ちょうど必要としている人間たちがいた。彼らに運ばせた。死体遺棄ではないんだ。君に説明してもわからないと思うけど。彼女の搬送先については、心配しないでくれ」
万理は『ユダプト』の悪夢の後遺症を振り払うかのように、あらたに、別の記憶を自分の中から外に放出するために、懸命に白紙に言葉を連ねていた。
逃亡の指示がされた男は、港へと向かった。
自分がとんでもない事件を引き起こしてしまったことを自覚したときに、かかってきた電話だった。素直にありがたいと思った。社長は、どうしてこうも、自分の行動を正確に把握しているのだろう。自分が、何をしでかして、どんな想いで、どんな状況になっているのかを、すべて見透かされているようで気味悪くもあった。しかし、今は、ずっと同じ場所に滞在していることはできなかった。
セトからの連絡は、それが最後だった。
その日の晩餐は、女性の肉体をすべて食し尽くしたところで、終了した。
そして、神官の女から、これが、『最期の晩餐』であることが告げられる。
「我々はみな共犯です。この都に住む人間のすべての責任となりました。この都市文明は、終わります。今年の夏至は、『終わりの儀式』だったのです。結果的にそうなってしまいました。どういったきっかけで、このような事態になってしまったのかはわからない。しかし、たとえ、どんな経路を辿ろうとも、終わりは確実にやってきた。今年の夏至が、我々の暦上、文明の終りになることは確実だったのだ。我々は、もちろん把握しておりました。しかし、ほとんど信じてなかったんです。終わりが来る気配など、まるでなかったのだから。ほとんど、誰も信じてなかった。我々の文明は、もっと続くものだと思っていた。いつまでとか、どこまでとか、そういう発想は、どこにもなかった。ただ、漠然と続いていくものだと思っていた。終わりの時期が示されても、その真意を追及することはしなかった。祭りの期間に入っても、誰も何も疑うことはなかった。ところが、終わりは、確実に我々に忍び寄ってきていたのです。突然、捕虜の中から、超常的な能力を保有する少年が出現した。それが始まりです。いえ、捕虜として紛れ込んだときが、その始まりだったのかもしれない。とにかく、終わりの始まりが、到来していた。我々の内なる世界に、すでにその種は蒔かれていた。そして事態は、あれよあれよという間に、軌道が変わっていってしまった」
集まった人間に向かって、女性神官はさらに言葉を続けた。
「王が、当初の犠牲者の、身代わりになったのです」
それを聞いて、人々は、お互いの顔を見合わせて絶句してしまった。
「そういう国に、我々はついに堕ちてしまった。おわかりでしょう。私が最後の晩餐だと言った意味が。しかし犠牲者としての王を食することは、さすがにできない。我々はちょうど、殺害された人間がいたという情報が入ったので、都合よく、王の代わりに犠牲者としてこうして連れてきた。ただ、夏至の儀式を滞えらせたくないという、その一念で。ここで儀式が途絶えてしまえば、その時点で、この文明は終わってしまう。ただの延命だと知りながらも、それでも我々は、今この瞬間に、途切れさせてしまうことにひどく怯えた。この死体は、ただの死体だ。個人的な恨みを抱いた人間が怨嗟の末に殺害した、神聖なるものとはまるで関係のない被害者だ。我々はその人間の肉を食べた。この犠牲者は、天との関係を少しも結んではいない。そんな人間を我々は野蛮にも、この体内に入れてしまった。ここにいる全員が。そして、ここにいる全員というのは、奉納者という形で集まった、ある種の神聖な存在であった・・・」
ボ-トは街を流れる河岸に横付けになっていた。
ボ-トにはエンジンがついていた。
国道に沿った河であり、車との並走をずっと続けていると、海に出てしまった。しかし海だと思ったのだが、波はやってこなかった。どれだけ進んでいっても波はない。海ではないのだろうかと男は思った。次第に水が光始めていることに気づく。
太陽の光が水面で反射しているのだと思った。進行方向をずっと見ていることはできなくなった。あまりに眩しい光に、海一体が、包み込まれているようだった。ここは湖なのではないか。だとしたら、いずれは淵に辿りついてしまうことだろう。結局逃げ延びることができない。セトはどういうつもりであの場所にボートを置いたのか。俺を嵌めようとしているのか?
この強烈な光は空から降り注いでいるのか、それとも水面の底から照らされているのか、自らの体そのものも、発行体と化してしまったかのように、すべての空間と自分自身が、融解してしまっていた。ものの輪郭がまるでなくなっていた。
男は次第に自分がボ-トの上にいることも忘れてしまう。水があることも忘れてしまう。移動している感覚もなくなり、進行方向も不明になっている。その圧倒的な光のなかで、黒い巨大な塊が、目の前に出現していることに、男は気づく。はっと我に返った。淵に辿りついてしまったのだと思った。ここが行き止まりだ。ボ-トを止めなくては。男がエンジンを切ろうと腰をかがめたそのとき、ボ-トは静かに動きをやめてしまう。惰性で完全に停止することはなかった。圧倒的な眩しさからは、一転し、暗闇のなかで紫色に輝く島が男の視界には飛び込んできた。
その事実を聞いたとき、その場にいたすべての人間は胸を押さえ、そして胃の中のものをすべて戻してしまうかのように、嗚咽を繰り返した。しかし吐くものは誰もいなかった。胸が痛いのか。押さえながら、のた打ち回り始めた。先導役の神官の女は、他の三人の女の神官に合図を出し、奉納者の家から退去するように指示を出す。
四人の女神官は、犠牲者の女性の遺体を処理し終えたことで、すべての任務が完了したことを自覚し、安堵の表情を浮かべる。のたうちまわる人間たちをよそに、四人の女神官たちは外に出た。外には民衆がまだ大勢いた。何事かと、家の中を覗き見る人も出てきた。
ここが奉納者の家であるということを知っている民衆は、誰もいないはずだった。
民衆は王の処刑を見せつけられ、当初の儀式とは、だいぶん様変わりしてしまったものの、一年間、溜めこんできた秘めたる想いを、快く解き放つことには成功していた。
先導役の女性神官は、その横を通るときに、こう思った。政治を司るもの、この世界が、この社会が、この共同体が、存続をしていくときに発生する抑圧された心、想い、それを一斉に浄化するための装置の創造が、何よりも大切なのだと。そしてその装置は今年の夏至を境に、姿形を変えてしまった。お前たちには、この微妙な変化は関係ないのかもしれない。だが見過ごしたら大変なことになる。私はそのことをよく知っている・・・、私たち神官は。だからもうここに留まっていることはできないのだ。これが君たちを目撃する最期のときだ。この都に神官の存在はなくなる。そして、来年の夏至は、この文明においては、二度と訪れることはない。儀式を執り行う人間は誰もいなくなる。私に続き、神官職にあるすべての人間は、この文明、この都を、完全に放棄してしまうことだろう。
万理は男が島に上陸する場面に入ったとき、映画のあらすじを書くのをやめた。
ここが単なる島ではなく、新しい大陸であることを感じとったからだった。
大陸の入り口であることがわかったのだ。D・i大陸と名付けた。だがここからは本の中で描くべきことではなかった。実際に撮影を始めることで事実は浮き上がってくるのだ。万理はそう信じて前回の撮影に挑んだのだが、今回もそれを踏襲することにした。これまでの男の場面を、もう一度清書し、そしてD・i大陸の外観を、具体的に描く努力をした。
そのセットを組んでもらう。万理は男のことをずっと考え続けていた。付き合っていた女を殺したことで現れた新しい大陸の存在。ふと、瀬戸のことも、万理は気になった。しかし彼のことを今頭の中で考えても仕方のないことだった。万理は早く撮影の準備に入りたかった。そのときだった。万理の元に一本の電話がかかってきた。マネージャーの男からだった。前作の《ユダプト》が、ある映画賞にノミネートされて、賞を受賞したということだった。あの映画を撮って以来、ずっと自分が何かに捨てられているような感覚が続いていた万理は、再びあの映画の世界観に引き戻された。
「万理さん、やりましたね」とマネージャーは興奮していた。
「日本アカデミー賞の、作品部門ですよ」
「主演女優の方じゃないの?」
「ええ。そっちのほうは、駄目でした。ノミネートもされていない」
「作品賞か」
「ええ、万理さん。あなたが、最も望んでいたことじゃないですか」
「そんなこと、望んでたっけ?」
「僕にはわかりますよ。あなたは、ずっと望んでいた。最初に撮った映画で、受賞するなんてすごい」
「あの男はね、そう、祭りの最中の街の中に、入り込んでしまった男は・・・」
「はいっ?誰ですか。あの男って」
「今度は、男が主人公」
「今度って。次回作のことですね。なんだぁ、さすがだな。受賞のことなんて、どうでもいいんですね。もう、あなたの頭の中は、次回作のことでいっぱいなんだ。脚本を書いていたんですか?きっと、そうなんですね。期待が持てるなぁ。すぐに準備に入りましょう。あ、でも、今日は、式に出てくださいね。作品賞ってことなので、賞を受けとるのは、万理さん以外には考えられないですから。あなたの個人的な映画なんですから」
「個人的?どういう意味?」
万理の頭の中は、まだ前作の世界観に戻りきってなかった。
D・i大陸に着いた男の身体に、入り込んでしまっていた。
「あれは、万理さんが、実際に体験した何かなんでしょ。それが、たまたま、ああいう歴史の場面に例えられた。万理さんが、小さいときに体験した何かが、元になっているんでしょ?僕には、そう感じました」
「その日は、夏至だったのよ」万理は言った。
「夏至?」
「そうよ。民衆は、その祭りの日に、一年の生活の中の鬱屈のすべてを、放出することになる。その日に、男は上陸した。大陸の入り口の島。島国。その島国で毎年行われる夏至の祭り。民衆の中に、男は紛れこむ。男はこの国の民衆の一人として、完全に溶け込んでしまう。男はね、殺人犯だったの。彼は付き合っていた女性を惨殺して、ボートで逃げた。この大陸に来てしまった」
「万理さん、授賞式は七時からです。リハーサルのために、四時に一度集合します。いいですね。二時間後です。雑誌の取材の仕事はキャンセルします。まさかアカデミー賞にノミネートされるなんて、思ってもいなかったから」
「ただ、この年の祭りは、例年とはまるで違っていた。見た目にはたいした相違はなかったが、実体はまるで違っていた。裏で蠢く黒い影の存在は、圧倒的に濃くなっていた。男が人を殺していながら、何食わぬ顔で、平静を保っているのと同じだった。そんな男と島との周波数が、見事に一致してしまっていたのかもしれない。男は上陸して、すぐにその不穏な空気を嗅ぎ取る。同調したことに、驚きを隠せなかった。この祭りに、偽りの影を感じた男は、しばらく様子を見ることにした」
「万理さん、わかりましたね!リハーサルに参加するまでには、ちゃんと整理しておいてくださいよ。迎えにいきますから。公に出られる準備を、ちゃんとしておいてくださいよ」
「あなたの上司って、瀬戸さんじゃなかった?瀬戸って名前じゃなかった?」
「そうですけど、万理さん。それが何か?」
「あなた、彼女はいる?」
「やだな、万理さん。僕はもう結婚してますよ」
「奥さんは元気なの?」
「ちょっと、どうしたんですか」
「私、あなたを、モデルにしたのかもしれない」
「そうなんですか?」
「あなた、事務所を作ったとき、はじめは瀬戸と二人きりだったんじゃない?そういう時期が、しばらく続いた」
「そ、そうですけど。よく御存じで」
「あなた、そのとき付き合っていた女性がいたでしょ」
「そのとき・・・。ええ、たぶん居たと思います」
「殺した?」
「はっ?僕がですか?僕が彼女を?」
「そう」
「ちょっと、正気で訊いてるんですか」
「うん」
「そんなわけないじゃないですか。僕が彼女を?」
「それに近いようなことを」
「してません、してませんよ」
「傷害を加えたとか。再起不能にしてしまったとか」
「ありません」
「今の奥さんじゃないわよね」
「ええ。それは、違います。あのときの彼女は、はい、違いました。あ、でも、ちょうど入れ替わった頃だな。事務所を開いたときに、女も変わった。そうですね。瀬戸と二人の時代のときに、確かに、今の妻と知り合った」
「そっか。全然、深い意味はなくてね」万理は爽やかな声で、この話を締めようとした。
「ちょっと、脳の配線がおかしくなってしまって。もう、やめやめ。パーティだったわね。切り替えなくちゃ。確かに夢だった。映画で何か賞をとるのが。女優賞でもなく、監督賞でもなく、作品賞だったっていうのが、意外だったけれど。まさかね。でも、本当は、望んでいたことかも。私が賞を獲得して、それで、それをきっかけにしたいって」
「何のきっかけですか?」
「途切れた家族の糸とか。本当はわかりあえるのに、わかりあえなかった人たちとの、絆とか。私が賞をとることで、取り戻せると思った」
「それは、初耳だな」
「そういう柄じゃない?」
「ああ、全然」
「今さ、次回作の主演をする男のことで、思うことがあった」
「どうしたんですか」
「一人だけ、候補として思い浮かんだ」
万理はそう言うと、マネージャーからの電話を切った。
そして井崎に電話をかけた。
「今度、また、映画をとるの」
彼女は単刀直入に井崎に言った。「だから、一人、男性を紹介してほしい」
「どうして、俺にかけてくるんだ?」井崎は不機嫌そうな声で答えた。
「あなたを頼ってはいけないの?」
「映画に出演する、主演の男だと?」
「そう。俳優ではない人がいい。だから、あなたに頼んでる」
「言いたいことはそれだけか」
「誰も知らない人を、お願いしたいの」
「どういう意味なんだ。それは人間としてってことか。この世に存在する人間としての背景が、ほとんどない男が、いいのか。誰にも、その存在を知られていないような男が・・・」
「できれば。それに近いような男が。あなたにしか頼めないの。わかって」
「その言い方は気に入ったな」
「あなたが目をつけている人材の中に、それにぴったりの人間が、いるような気がするの」
「勘のいい女だ」
「じゃあ、本当にいるのね」
「ああ、いるさ。隠しても仕方がない。本当は、CFに出演させる予定だった」
「まさか」
「そう、その、まさか」
「君が出ていた、あのシリーズもの。第二弾に、主演として起用されるはずだった男だ。直前でキャンセルになった」
「その彼。その後、仕事は、まだしてないのね」
「居場所は知ってる。表に出る準備が整っているのかどうかは、まだこの眼で見てみないとわからない。だから出演については何とも言えない。確約もできない」
「わたしが直接会っては駄目かしら」
「君が?」
「私一人で」
「どうだろうな」
「そのほうがいいと思う」
「考えておくよ」
井崎は電話を切った。
そのあと井崎はGではなく、常盤静香に電話をかけた。
「明日、会えるかしら?ちょうど、よかった。明日、仕事で東京にいくの。夕方から時間が空くから、会えないかしら?もう、何か月、わたしたちは会ってないんだろう。久しぶりに、二人きりで過ごさない?」
このタイミングのよさに、井崎は面食らってしまった。
Gに連絡をするはずが、どうして、反射的に常盤静香の番号を押してしまったのか。
常盤からこの自分に電話をかけさせたかのような、そんな気さえしてしまった。
「いいかしら?あなた、何か用事があったのよね。あなたからかけてくるなんて、珍しい。何かあった?もしかして、あなたも私にデートの申し込み?・・・そんなわけはないか。何か、頼みごと?」
「いや、特に、何かがあったわけじゃなくて。なんとなく、な。君のことが恋しくなったんだ。君っていう女は、不思議な人だ。普段は側にいなくても、何ともないんだが、ふと、長い期間、一緒にいないと、無性に求めたくなってしまう」
「そう。特別な用事ではないんだ」
「そうあってほしかった?」
「私以外のことのような気がしたからさ。私を無性に求めたって、それは違うでしょ。絶対に別のことよ。まあ、いいわ。明日会ったときに話してちょうだい。夕方から終電までは時間があるから。新幹線の終電は何時だったかしら。とにかくそれで戻らないといけないから。じゃあ、また連絡する」
常盤静香は、あっというまにいなくなってしまった。
何故か、常盤に、Gの相談をしようとしたのだ。Gという男を、万理の新しい映画の企画に参加させていいものかどうか。誰か別の人間に、その問いを投げかけたくなっていた。相談というのは大げさで、何か意見やアドバイスを求めたかったわけではなく、ただ外に向かって放出してしまいたかった。
自分とGの問題を、この内側に籠らせてしまっては、よい考えに辿りつくようには思えなかったのだ。とにかく誰かと共有したかったのだ。
翌日の四時に、常盤静香から井崎はメールを受けた。あと三十分で仕事が終わるから、池袋の駅で待ち合わせない?
井崎は家を出て、池袋に向かった。連絡どおりに、常盤静香は北口にいた。
「お茶する?食事にする?それとも」
二人はホテルに向かった。和室を基調としたアジアンテイストのホテルを選んだ。
すぐにシャワーを浴びた二人だったかが、そのあとすぐに体を貪り合うことはなかった。
畳の部屋に座って、互いの顔をずっと見つめ合っていた。裸で抱き合う前に、話をする必要があることがお互いにわかっていた。
「先に言いたいことがあるんでしょ。訊いておきたいことが」
常盤は回りくどい話はよしてと、言っているように井崎には思えた。終電までは時間が限られているのだから。
「知り合いの女優が、セルフプロデュースで、映画を撮ってるんだけど」
「女優?」
常盤の頭の中には、北川裕美の姿が鮮明に映った。
「なんて、人なの?」
「雲中万理」
「あ、そうなんだ」
常盤静香は、別の名前が出てきたことに何故か安堵する自分がいた。その複雑な自分の心の動きに常盤は戸惑ってしまった。北川裕美が女優として復活するのではないかと、一瞬思ってしまったのだ。それは喜ばしいことであり、逆に強烈な嫉妬心に蝕まれることでもあった。
「その女優、どこかで聞いたことがある。あ、さっきよ」
「さっき?」
「そう。携帯のヤフーニュースで。今日、アカデミー賞の発表じゃない?彼女の作品がノミネートされてた」
常盤静香はテレビのリモコンを探した。テレビをつけると、日本アカデミー賞の受賞式がちょうど生中継されているところだった。
「奇遇ね」常盤静香は、作品賞の部門のノミネート者が紹介されるのを待った。そして雲中万理が現れた。
「この人ね。第一作でこんなに当たるなんて、凄いわよね。でもずっと女優だったんでしょ?見たことないわ。それが監督をしたら当たった。でも主演もしてるんだ。ふーん。女優としてのノミネートはないのね」
井崎も黙って、テレビ画面を見つめていた。
「ねえ、何かしゃべってよ。知り合いって、どういうことなの?どんな関わりがあるの?最近あなたが何をしているのか、私、全然知らない。芸能界に接触しているの?映画のプロデュース?もしかして、この作品にも関わった?」
「直接、作品に関わった覚えはないね」井崎は冷淡に答えた。「ただ、彼女があの作品を作る直前に、俺と会ったことはある。二人きりで、いろんな話をした。ただ、そのときは、この作品の話は少しも出てこなかった。彼女が映画をとるなんて話は、何も」
「偶然にしては出来すぎね。あなたに会った影響が、出たとしか思えない」
「そんなはずはない。別に、俺は何も働きかけはしてないし。俺とは、別の要件で会ったんだ」
「あなたたち、付き合ってるのね」
常盤静香は平然と言った。
「そういうことでもない。恋愛感情なんてこれっぽっちもない。あの女はタイプじゃない。タイプなのは、君のほうだ」
「どうなのかしら」
「君は誰かに恋をしてるのか?僕ではない他の男に」
「やめて。そんなわけないでしょ」
「何か月も、よく一人でやっていけるよな。物理的に、そんなことは不可能なんじゃないのか?俺はいつも疑問に思ってたよ」
「あなたが、万理とかいう、女優と密会しているように、私にも誰かがいると思っているのね」
「別に責めているわけじゃない。友達なら、いたって構わない。それが自然だ」
「万理って女優とは、友達なの?」
「そうだよ。完全に友達さ。性別を超えたね」
「わたしは誰もいないわよ」
常盤静香は嘘をついた。
「そうか、いないんだな。それでいいんだな」
アカデミー賞の授賞式では、雲中万理が見事に最優秀作品賞を受賞していた。
「お前の背後には、男の影がぷんぷんするよ」
井崎はテレビ画面の万理を見ながら言った。
「誰のことよ」
常盤静香は、画面から、井崎の方に視線をずらした。
「君だよ」
「そりゃあ、ぷんぷんして当然よね。仕事でたくさんの男の人と会ってるんだから」
「何の仕事をしてるんだろうな。いちいち君は答えないだろうけど。多忙で結構なことだ。寂しさを紛らわせているのか?内なる自分を見て見ぬふりをするために。俺は君の私生活にはまったく興味がない。仕事にもね、ならどうして俺が君と付き合っているのか。君だって、どうして俺に訊いてこないんだろうな。何も言葉を交わさなくても、通じあってるのか?俺たちは。ククク」
万理は受賞のコメントを求められていた。
「恋愛に依存しない体質なのは、あなたもわかってるでしょ?別に仕事に逃げてるわけじゃない。ちゃんと、息抜きだってしてる。女の友達と、たまに食事に行くの。高校のときの友達とか。ここ数年は、疎遠だったけれど、急に会いたくなってしまって。向こうは仕事をしていないから、今。前は女優だったんだけど、七年前に結婚してね、それで引退した。それ以来、私も疎遠になってしまった。彼女が芸能界で活躍しているときは、けっこう頻繁に会ってたんだから。あなたには何も言ってなかったけど」
井崎は万理がなかなか受賞の言葉を発しないことに気を奪われながらも、その女優の友達だという女の情報に、意識はひっかかった。
「そんな友達が、君にいたとはな。ちなみに、何ていう名前なんだ?俺でも知ってるのか?」
「あなたに教える必要があるのかしら」
常盤静香も、画面の中で沈黙してしまっている万理から、目を離さなかった。放送事故のような感じになってしまっていた。彼女の顔を、アップで捉えているにも関わらず、音声はまったくなく、司会者の男性がしびれを切らして、何かをしゃべったのだが、視聴者には判然としなかった。
「そいつは、北川裕美だよ」
井崎ははっきりとした口調で、その名前を静香に告げた。
常盤静香は、動揺を隠せなかった。この男は、何故、自分のかつての親友のことを言い当てたのか。まさか、この前、密会していたことも知っていたのだろうか。だが、常盤静香は偶然だと思いこんだ。七年前に引退した女優という、そのヒントに、反応しただけのことだと思った。ずいぶんと大きなヒントを与えてしまっていた。
「外れ、ね。残念ね」
「そうかな。まあ、女優なんて無数に存在するわけだし、それに、七年前のことを言われてもな。当たるわけがない」
「でも、よくその人の名前が出てきたわね」
「俺らと同世代じゃないか。あのときは、すごい勢いで売れてたぜ」
「まあ、そうか・・」
「それで、誰なんだ?君の友人という人は」
「あなたは知らないって。知っている人は、ほとんどいないかも」
「一応、言ってみろ」
「アサオカ、マキエよ」
常盤静香は、適当な名前をでっち上げた。
「アサオカ?知らないな。聞いたこともない。おもしろくもなんともない。君が北川裕美の親友なら、とてもとても愉快なことになっていたのに」
ここでも、常盤静香は顔色をいとも簡単に変えてしまった。
井崎のほうも、その静香の様子を見て、頬が緩むのを禁じ得なかった。北川裕美と君が、繋がっていたとしたら、これからおもしろいことになりそうだったのに・・・。その言葉に、常盤静香はますます動揺してしまった。好奇心まで揺り動かされてしまった。
「もし本当に友達だったとしたら、どうなるの?」
「君に教える必要があるのかな」
井崎はさっき、常盤静香に言われた言葉を、そっくりとそのまま返した。
常盤静香は、テレビ画面の中の万理と同じように、沈黙してしまった。いつのまにか、授賞式の作品賞の部門は終わっていて、主演男優賞のノミネート者が紹介されていた。
「おっと、いつのまに、作品賞の部門は終わってしまったのだろうか。万理は何かしゃべったか?司会者も、何か、言葉を繋いだ?聞きそびれたな。いや、でも、何のアクションもなかったような気がする。CМが流れたわけでもないし。視聴者の一瞬の隙をついて、場面を一気にひっくり返してしまったんだな。何事もなかったかのように。なあ、聞いてるのか?北川裕美も、こうやってさ、あの場所に立っていたのかもしれないのに。実に、もったいないな。女優として、これからって時に、やめちゃうんだから。確かにあの何だっけか。ティーンネイジャーの役が当たって、ずっとシリーズ化されて、それでその後が、続かなかった。別の役が、ちっともはまらなかった。要するに、彼女は女優ではなかったのかもな。あの役は地でいっただけだ。演じるということは、できない体質だったのかもしれない。やめて正解か。作家と結婚したんだ。知ってるよな?その作家は、偶然にも、昨日だったかな、死んだみたいだ。家が全焼してしまって、その中で灰になっていたんだと。火の不始末なのか、放火なのか、それとも自殺なのか、まだわかっていない。夫人の裕美は、家にいなかったらしいから。疑われてるんだよ。彼女が火を放ったんじゃないかって。しかし、彼女は、だいぶん前に、家を出ていたらしい。別居状態だったんだよ。だから、容疑のほうも時間が経てば晴れるだろう。問題はマスコミだな。しつこく北川裕美を付け回すことになるかもしれない。でも、ある意味、北川裕美にとっては、またスポットライトが当たる。芸能界に復帰するなら、いいチャンスなのかもしれない。まあ、もっとも、本当に、演技に問題があるのなら、チャンスが巡ってきたとしても、自分のものにはできないだろうけど。それでも、戦略さえしっかりと立てれば、使えないこともない。おもしろい現象を引き起こすことだってできる。彼女を単独で売り出すのは、厳しいかもしれないけど、その何かとコラボレーションするとかさ、物事を意図的にシンクロナイズさせていけば、以前の北川裕美とは、まったく違う人間として、また表舞台に派手に華を咲かせることも可能かもしれない。俺はそんなことに考えを巡らせてしまうよ。あのまま地下の世界へと消えさせてしまうには、あまりに惜しい逸材だ」
常盤静香は黙って聞いていたが、次第に体がそわそわとしてきて、落ち着きをなくしていった。上半身はすでに前のめりになっていた。
「あなた、もう知っているんでしょ。意地悪はやめて。私を苦しめるのは、もうやめてちょうだい」
「どういうことだ?」
「あなたは、すべてを知ってるのよ。私をいじめたいだけなのよ。どういうつもりなのよ。私を何だと思ってるの?どうさせたいの。あなたはずっと、企んでばっかり。仕事のことも、女のことも、すべてのことを。あなたは企んでいる。影で動き続けている。いつか、その見えない糸があらゆる方面に繋がっていって、同時多発的に、さまざまな現象を引き起こす。その引き金を握っているのは、あなた。心の中では今もニヤニヤとしているのよ。最低な男。もう正直に言いなさい。私が北川裕美と高校の同級生で、しかも最近一緒に食事をしたことも知ってるって、はっきりとそういいなさい。私が仕事以外で、男の人と居ないことを知っているのに、それでいて、男の影がたくさん見えるって、どうしてそういう意地悪をするの。私があなただけを想ってることがわかっていて、どうしてそうやって弄ぶことをするのよ。さびしくて、さびしくて、一緒にいられないこの辛さを、あなたは知ってるのに。どうして。ちっとも、同じ場所にいようとする、努力をしないの」
「そうか。やはり、北川裕美と君とは、友達なのか」
井崎は何度も何度も、首を小刻みに振りながら、納得のいったような、いかないような表情を浮かべた。
「今度、紹介してくれないか。そうしたら、Gのことは許してやるよ」
常盤静香の顔色は、灰色へと変わった。
彼女を取り巻く空間も、それに対応して、一瞬にして黒ずんでしまった。
「交換条件だ。Gとの、今までの経緯を、すべて許してやると言ってるんだ!」
常盤静香の両頬は、真っ赤になった。井崎の方を、直視してはいられなくなった。
「おい。無視をするなよ。なんとか答えたらどうだ?俺は何でも知ってるわけじゃないぞ。ほとんど、勘でしゃべってるだけなのかもしれない。反論の余地だらけで、ほんとは、何も知らないのかもしれないぞ」
常盤静香は、鞄の中から携帯電話を取り出した。そしてわけもなく、ボタンを押した。電話検索で、Gの番号を出すと、すぐに電話をかけてしまった。しかし、Gは電話に出ることはなかった。
井崎が、画面を覗きこんできた。
「Gにかけたのか?Gが、俺に話したんだと、そう思ったのか?違う。そういうことじゃない。君とのことを、Gには何も言ってはいない。俺はね、一度、君のマンションに行ったときに、ふと入れ違うように去っていく人間の影を、感じただけだ。その頃、Gとは話す機会が多かったから、だから彼の雰囲気は掴んでいた。その空気感が、あのときマンションの傍で感じた。その、入れ違った影に、彼の空気感があった。いろいろと想像したよ。君とGが、どうして会っているんだろうと。Gから、君に近づくわけがないから、おそらく君からだ。Gという存在は、俺を通じて知ったんだ。俺がGという男と会っていたことを、君はこっそりと知った。そして、俺の知らないところで、一人、Gとの接触を試みた。わかってるさ。Gと君には、俺らのような、親密さはない。むしろ君は、俺のことを、もっとよく知りたかったから、Gに近づいていったんだ。恋愛感情とはまったく違う。君はあれだな。俺との関係に、不安を抱いていたんだ。それを誰かにわかってもらいたかった。何かを言ってもらいたかった。Gは都合よく利用された。やめてもらいたいね、今後は。Gにちょっかいを出すのは。Gに女の影は必要ない。そんな恋愛に、現を抜かしている暇は、彼にはない。今までのことは許してやる。だからこれからは、Gとの接触はやめてもらいたい。その代わりに、俺は、君の近くに住んでもいいと考えている。君は仕事で忙しいようだから、俺の方が、君の近所に引っ越しをする。それでいいだろ?」
突然の提案に、常盤静香は戸惑ってしまった。
「俺がいきなりこんなことを言うものだから、神経の回路が止まってしまったようだな。ククク。けれど、ゆっくりと考えてみてくれ。二人は新しい段階に入った。俺はそれを素直に認めただけだ。生活のスタイルをあらためる、いい機会だ。君とはもっと話がしたい。しなければならない。出来る限り、秘密をなくしていきたい。一人で抱え持つことには限界がある。誰と共有するのかが、とても大事な問題でね。俺は、君のことを信頼している。誰よりもね。俺の力になってほしい」
井崎の懇願に、常盤静香の心の緊張は、じょじょに解れていった。
これなら、今、井崎に触れられても、抵抗することはないだろうと常盤は思った。急に井崎との肉体関係を、取り戻したくなってきた。常盤は、自ら井崎の体に抱きついていった。井崎も、拒みはしなかった。そのまま二人は、当初の目的だった行為へと没入していった。常盤は、その後大きく足を開き、井崎に局部を見せつけるように、井崎の顔に擦り付けていくように、激しく欲望を解き放っていった。
井崎は、冷静さを崩さなかった。的確に彼女の体を操っていった。その彼の行為の組み立て方に、常盤は心を完全に奪われていった。憎らしいほどに計算されているようでありながら、秘められた無軌道な情熱が、その冷静さを、突き動かしているようだ。井崎の、その、優しいのか冷淡なのかわからない矛盾だらけの性行為に、自分のすべてが踊らされているような気がして、常盤はさらに興奮し、そして、完全にイった。
井崎は常盤静香を残したままホテルを出た。常盤静香はぐっすりと寝てしまっていた。お金を枕元に置き、井崎は気づかれないように立ち去った。すぐに、雲中万理に電話をかけた。しかし繋がらなかった。授賞式は、終わっていないのかもしれないし、別のパーティかイベントがまだ続いているのかもしれない。井崎は万理の様子が気になった。常盤静香とセックスしているときも、ずっと万理のことを考えていた。どうしてあの場で、無言になってしまったのか。それとも何か、言葉を発していたにもかかわらず、中継されなかったのだろうか。何か放送できないような、まずいことでも言ってしまったのだろうか。作品賞から、次の助演女優賞までの繋がりが、全く不透明だった。
常盤静香と会話をしていたからではなかった。明らかに、断絶した編集になっていた。万理に真相を確かめなくてはと思った。万理に対しては恋愛感情など、少しもないと静香には断言したし、自分でもそう思っていたのだが、静香とセックスしているときに万理の存在が理不尽にも極大化してしまっていて、そして、万理のことを考えながら女の肉体を貪っていたことで、万理という女を犯しているような、そんな錯覚にすら少し陥ってしまった。
あの女と一つになっていくのは、どんな感じなのだろう。あの無言の授賞式の裏には、一体彼女のどんな影が存在しているのだろう。その影と俺は一つになることができるのだろうか。電話は繋がらなかった。ホテルに置き去りにした常盤静香のことも気になったが、引き返す気にはなれなかった。
万理への電話はようやく繋がった。井崎と万理は、バーで待ち合わせた。井崎が着いてから、一時間近くが経ち、彼女はようやくやってきた。
「抜け出せた?」
「ごめんなさい。手間取ってしまって」
「作品賞、おめでとう」
井崎は、手ぶらで来ていたことを詫びた。
「単刀直入に言うけど」と彼女は言った。「俳優の準備はできたの?」
「いや、まだだ」
「どうしてよ。あなたこのことだから、もう手配は終わってのるかと思った」
「なあ、授賞式、テレビで見たよ」
「また、その話?ねえ、私にとっては、もう終わったことよ。しかも、作品は、だいぶん前に撮ったものだし」
「まだ四か月しか経ってないぜ」
「いいの。早く、次に行かせて」
「そう焦るなよ。君が望む俳優の準備は、もう整ってるんだから。君さえそんな生き急ぐような態度をとらなければ、ちゃんと物事は進んでいくんだ。もっと自分の運命の流れを信頼したらどうだ?もうすでに、次にどんな作品を撮るのかは決まってる。その時期も決まっている。主演の男も決まっている。ときが来れば、すべては同時に動き出す。そうだろ?いずれ、君とその主演の男は、二人きりで会う。綿密に打ち合わせをしてくれ。俺が、その場をセッティングする。だから、一つ訊いておきたいことがある」
「わかってるわ。式のことでしょ?いろんな人から言われてるの。どうして、受賞のコメントをしなかったのかって。あなたもそれが訊きたくて来たんでしょ?絶対にその話になるとわかっていたから、本当はここにも来たくなかった。でもあなたには頼みごとがあるから、来ないわけにはいかなかった。あの授賞式の前にね、ある人物に呼び出されていた。事務所の社長ね。でも行ってみると、彼だけではなかった。社長を取り巻くようにたくさんの男の影があった。社長の様子はいつもと違っていた。社長は一言も話さない。私は影の数をかぞえた。13人もいた。しばらくの沈黙の後で、社長が口を開いた。『万理、すまないが、僕は退席させてもらうよ。この人たちと、話しをしてくれ』社長は去っていった。13人の影からは、顔の表情を伺うことができなかった。『あなたは授賞式で言葉を発してはいけない』影の中の誰かが言った。『コメントを求められても、答えてはいけない。特に映画の内容に関しては、言葉にしてはいけない。あなたはあの作品を消去するべきだ。残しておいてはいけない。マスターテープの消去をお願いしたい。今回、作品賞をとったことで、しばらくのあいだは世間を騒がせることになるだろう。しかし、そのブームが終わったあとでは、『ユダプト』も静かにその存在を消してゆく。レンタルビデオ店に一時的に並ぶことになっても、一年後には、その存在は消えてなくなってしまう。販売のほうは最初から行わない。もし、我々の要求がのみ込めないというのなら、結末はこうだ。我々はすでに、Lムワという作家を消した。彼は、我々の要求には従おうとしなかった。それまでに書いた原稿を、すべて焼却しろと言ったのだが、彼は逆らった。逆らうばかりか、その後、さらに書き足しまでして、作品の数を増やしていこうとした。だから我々は、彼そのものを焼却してしまうことを選ばざるをえなかった。君は違う。君は、そんな馬鹿な事態を引き起こしはしない。君が生き延びるためには、作品を抹消することだ。作品賞の受賞コメントはなし。マスターテープも消去すること。あとは時間がじょじょに、その一時的な事実を風化させていく。君自身は生き残る。あらたなる制作も、認めてやる。邪魔はしない。もちろん内容によっては、完成したあとにまた、消去を命じることもある。Lムワの、二の舞になりなくなかったら、言うことをきけ。君自身が生き残ることのほうが、遥かに大事なことだろう?』」
Lムワの話がここで現れてきたことに、井崎は驚きを隠せなかった。
Lムワが殺された?そのわけのわからない13人の影に?
「それで、君は、受け入れたわけか」
「受け入れたのかどうかはわからない。ただコメントはしなかった。とりあえずの、様子見。嫌な予感が走った。本当に殺されることになるかもしれないと思った」
「確かにね、そのLムワという男は死んだよ」
「知ってるの?」
「会って二人で話をしたこともある」
「嘘でしょ!」
「彼と出版のことで少し話をした。彼の作品も預かることになっていた。だがメモリーがやってくる前に、彼はいなくなってしまった」
「もうアカデミー賞のことはいいでしょ。終わったことよ!それよりも、次の撮影に入りたい」
「Gという男なんだ」
「ええ」
「今度、会ってもらう」
「望むところね」
「脚本のほうは?」
「もう、だいたいは、仕上がっている」
「準備を万全にな」
「もちろん」
「ところで、Lムワは、火事に巻き込まれて死亡したんだ。事故なのか他殺なのか自殺なのか。まだ、確定はしていない。どう考える?」
「私の話を信じてないのね」
「しかし、偶然の一致にしては、出来すぎている」
「ほんとの話よ。わたしがあそこで受賞のあいさつをしたら、今頃、ひどい目にあってるわ。あれは、私を、試したのよ。Lムワって作家も、何回か、試されてたんだわ。それを、彼はすべて無視した。そして殺害された。馬鹿な男」
「メモリーも焼かれてしまったのだろうか」
「さあ、知らない」
「それを、僕は見つけ出したい」
「どうぞ、ご勝手に」
「協力してくれないか。君の友達に、『舞』って女もいただろ。二人で一緒に彼に近づいてくれないか。彼に迫って、隙をつくって、それで奪ってきてほしい」
「もう死んでしまったんでしょ?」
「その、生きているあいだにだよ。殺される前に行ってきてほしいんだ」
「言ってることが、おかしいわよ」
「どうしても、原稿が欲しいんだ」
「彼は殺されたの。あなたも言ったでしょ。彼は火事で焼け死んでしまったって」
「火事が起こる前に、だ」
「まだ起こってないの?」
「起こってない」と井崎は答えた。
「どういうことよ!全然、わからない。まだLムワは、殺されてないの?これからなの?」
「そうだ」と井崎は大きく頷いた。「まだ実行はされていない。火事も起こってはいない。彼はまだ自宅にいる。行ってみてくれ。舞も連れて。頼む」
その夜、万理は舞を連れてLムワの自宅へと行った。
彼の家は驚くほど万理の家に近かった。ほとんど同じ地区だった。家の中には明かりがともっていた。静けさが漂っていた。だがしばらくすると、Lムワが慌ただしく外に出てきた。プールサイドを足早に歩き、そして大きな声で裕美!裕美!と叫んでいた。いるんだろ、裕美!しかし、誰からの返事もなかった。
Lムワは門を開けて自宅の外に出てきた。そして向かいの家を注意深く観察した。すぐに別の家を見回して、ぐるぐると回転しながら周囲の様子を警戒していた。そして走りだしてしまった。万理と舞は、彼のあとを追った。彼は全力で走り去っていった。万理の住んでいた地区を超えると、彼は急に走る速度を緩めた。そしてまたふらふらと酔っぱらいのように歩き出してしまった。誰かに追われているのか。何かを探しているのか。虚ろな足取りからは、そのどちらなのかわからなかった。目の前にはラブホテルが現れていた。すると彼は迷いもなく、その中へと、吸い込まれるように入っていってしまった。二人の女もその後を追った。
井崎と常盤静香は、頻繁に会っていた。付き合って以来、こんなにも互いが近くにいることはなかった。井崎は約束通りに、常盤静香がいる大阪へと、引っ越していた。万理とGは東京にいたので、ちょうど自分が不在のあいだに、二人は初めて顔を合わせ、親交を深めていってくれればいいと思っていた。そのあいだに、井崎は常盤静香から北川裕美のことを訊きださなければならなかった。あわよくば、三人で会うことができればいいと考えていた。北川裕美の情報を目当てに、こうして常盤との距離を縮めているのだ思われないよう、配慮をする必要があった。
しかし、不思議なことに、常盤静香の方が北川裕美のことばかりを口にしてきた。
「あの子は、これからどうするのかしら。ずっと、誰の眼にもさらされないのってさ、そんなことは、許されないと思うの。あの子はまた表舞台に復帰するべきなの。そう思わない?ねえ、なんとか言って。あなただって、興味をもったでしょ?ねえ、あの子、絵を描いているんだって。見せてもらいたいわね。その絵を世に出すタイミングで、あの子自身も、また、光のあたる場所へと戻っていけばいいの。絵なんて、どうせ、たいしたものじゃないでしょうし」
「絵を馬鹿にするなよ」と井崎は急に険しい顔になった。「君は画家や音楽家のことは何もわからないだろ。いちいち口出しをするな。絵を人生の道具だと考える君の神経が、俺にはわからない。それに、北川裕美の絵が、そんなにひどいと思ってるのか?俺はあの女には才能があると思うね。君が考えているものとは違った才能がね。君は芸術を見極める感性なんて全くないんだ。まあ、俺の女に、そんな感性のある人間なんて、必要はないのだけど。ある種の、男には、ああいう女が必要だ。わかるか?彼女の絵というのは、あるいはそういう存在であるのかもしれないんだ。彼女の持つ、才能の分身である絵が、ある種の男たちにとっては、恋人以上に傍にいてもらいたいものになるのかもしれない。あの女には、男の心の奥にある情熱をくすぶる何かがある。Lムワって、だんなもさ、きっとその彼女に触発されて、文章を書く熱量を生み出していたんだと思うぜ。北川裕美は七年ものあいだ、Lムワ一人にそのエネルギーを注ぎ込んでいた。しかし、その北川裕美が、今度は自分のために、そのエネルギーを使う決意をした。そして、Lムワ邸から出ていった。
その別居が、Lムワの死の、大きな要因なのかもしれないぜ。熱が高まり続けた男から、今度は急に、その熱を取り除いてしまうんだ。これほど急激な変化はそうはない。心身の調整がまったくきかなくなったのも無理はない。そう考えると、実に恐ろしい女だ。七年前までは、その彼女の熱量は、外に発散されていたんだから。不特定多数の人々に、その熱量はまき散らされていた。それからは放射線治療のように、Lムワだけに、光線は注がれていた。その七年の積み重ねが、Lムワの体内の、細胞のすべてを、焼き切ってしまったのかもしれない。とにかく、あの女はただものじゃない。君が考えているような浅はかな女ではない。君はどういうつもりなんだ?彼女にどうしてもらいたいんだ?彼女に何か過剰な期待を込めているようじゃないか。思い入れっていうものが。なぜ彼女がいるのは、表舞台だと決めつけるんだ?」
「あの子が、表舞台にいるとき。そう、あの子が、表舞台で活躍しているとき、私の人生はとてもうまくいっていた。自然な流れで、事は起こってくるし、人間関係もいい。仕事も楽しくしかたがない。そして、時たま、彼女と会って食事をしたり、遊んだり。何もかもが、うまくいく。それが、彼女が舞台から降りてしまうと、何もかもが、チグハグになっていった。物事の流れが噛み合わなくなっていった。バランスが急激に乱れていった。どこかが、異常に、すり減ってしまったかと思えば、また別のどこかが、極大化してしまっている」
「人のせいにするのは、どうかと思うぜ」
「事実なんだから、仕方がない。それに、今度また、彼女が表舞台に復帰するとすれば、証明できるのよ。私の中の何かが、また変化する。気流のバランスに、影響がでてくる」
井崎は、常盤静香の話に付き合ってるのが、だんだんと煩わしくなっていった。てっとり早く、二人で会わせてくれと井崎は思った。三人で会うという、当初のイメージさえ、すっとばしてしまいたかった。しかし、裕美と繋がるための、唯一の手段を、雑に扱うわけにはいかなかった。
「そういうことだったのか」井崎はわざとらしく物わかりのよい対応をした。「そういうことなら、俺にもよくわかるよ。君の勝手な思い込みではないってことが、理解できるよ」
「ほんと?あなたにも、実感できるわけね。そういう人がいるのね」
「具体的に、これっていうわけじゃないけど、人間同士のことだ。強烈な化学変化を、伴う関係もあれば、いてもいなくても変わらない場合もある。熱量に違いがあるが、何となく、君の言ってることはわかる」
「よかった。じゃあ、私からのお願いってわけじゃないけど、裕美を画家として、世に送り出してはくれない?協力してくれないかしら」
常盤静香の方から、そんなことを言われるなんて、実に願ったりであった。
「協力だなんて、そんなふうには考えないでくれ。だいたい北川裕美とは、会って話したこともないんだ。どうなんだ?今でも会ってるのか?」
「ええ。二週間前に、一度食事をした。それが、ちょうど七年ぶり」
「それから?」
「メールはしてる」
「ほんとか?君とは連絡がつくんだな。驚きだな」
「どうして?」
「Lムワが死んでから、みんな彼女のことを探してたんだぞ。警察だって探してる。全然、居場所が掴めないんだ。それを君は、いとも簡単に知ってるって」
常盤静香はすぐにメールを送っていた。そして、ものの数分で返事がきた。
「今、何をしてるのって送ったら、絵を描いてるって。ほんと、絵ばっかりね。気が狂ってるんだわ」
「ほんとに、北川裕美なんだろうな」
常盤静香はさらに返信を続けた。今度は、画像付きの返信が、北川裕美から送られてきた。
「これが今描いている絵だってさ。小さすぎて、よくわからないわね」
「ああ」
「あれっ。動かなくなった。フリーズしてしまった」
井崎は、北川裕美の所在についてずっと考えていた。
「どこにいるのか確認してくれないか」
常盤静香はずっと携帯電話のボタンを押しまくっていた。一度、電源を落としてから、リセットしてまた付けなおしていた。だが、画面は復旧しなかった。
「どうしよっ」
「ちょっと、貸せよ」
井崎が電源を押すと、画面は簡単に復旧した。
「大丈夫だぜ。あれ、でもメールが消えている」
電話帳の中を見てみたが、登録がすべて消えてなくなっている。
「どういうことなんだ」井崎は常盤静香に詰め寄った。「何か、不自然な操作を、したんじゃないだろうな」
「ねえ、あの絵の写メが、来てからよ。おかしくなってしまった」
「まさか、データのバックアップをとってないんじゃないだろうな」
「裕美の連絡先は、メモ用紙に書いて、財布にいれてある」
「見せてみろ」
「でも、あなたの携帯から送っても、返事はこないわよ。あの子、知らないアドレスには、まったく反応しないから。こっちから送るからね。それと、彼女の居場所のことだけど、彼女、それだけは頑なに言おうとしないの。私にも、教えてくれないし。住居とアトリエは同じ場所みたいなんだけど、他人を、誰も入れたくないらしいの。完全に、自分以外の人を拒絶している」
「ふふっ。拒絶か。君の携帯も見事に拒絶されたね。とにかく、一度は会いたいから、また君たちが食事をするときに、さりげなく俺も混ぜてくれ。君の彼氏ってことでいいから。丁寧に紹介してほしい」
今や二人は同じ地区に住んでいながらも、決して同じマンションの部屋に、帰っていこうとはしなかった。
井崎は大阪に滞在中に、万理から連絡を受けた。
万理はGと二人で会ったという。万理はGのことを、意外にも覇気のない静かな男だと評した。
彼で、あの役がやっていけるのかしら。とても不安だと井崎に話し始めた。イメージがずいぶんと違ったと、彼女は言った。「付き合ってる女をさ、殺すような役が、はたして彼にはできるものかしら」
「それは、撮影に入らないとわからないだろ。それとも、あれか。君の役者としての嗅覚は、彼を駄目だと感じたのか」
「役者としてとか、そういうんじゃなくて、人間がね。人間そのものに、エネルギーを感じなかった」
「ほんとに、そうだったのか?」自分の知ってるGのようには思えなかった。誰か別の人間の話をしているように感じられてしまった。
井崎はしばらくGには会ってなかったので、そのあいだに彼がずいぶんと変わってしまったのかもしれないと危惧した。放っておきすぎたのかもしれない。
「それで、彼の起用に関しては、ノーなのか?」
「個人的にはノー。でも、あなたが押してきた男だから、そこまで見込み違いなはずがない。だから、一度は使ってみる。それで駄目なら、途中で降板ということで」
「それでいいよ」
井崎は力なく返事をかえすしかなかった。
後日、井崎と常盤静香は、北川裕美を食事に誘うことに成功した。
井崎が同席することは、最初は秘密になっていた。女同士での食事の最中に、実は今日、彼氏が一緒に東京に来ていると、常盤静香が話を切り出すことになっていた。北川裕美が了承するというのが前提だった。北川裕美は自分の彼について、強く関心を抱いていると常盤静香は思っていた。井崎は北川裕美といるときは、夫のLムワの話を持ち出してしまうことのないよう自分に言い聞かせた。二人は大阪から東京に新幹線で移動した。
井崎は女性二人が食事を始めた時間、カフェで煙草を吸いながら、常盤からの連絡を待っていた。しかし一時間が過ぎ、二時間が過ぎても、彼女からの連絡はやってこなかった。しびれを切らし、常盤にメールを送った。だがそれも返ってはこない。女性二人が食事してる店は知っていたから、直接出向き、もう勝手に顔を出してしまおうかとさえ思った。そう思った矢先だった。連絡が入った。
井崎はカフェを出て、タクシーで渋谷に向かった。
北川裕美は、七年前と、ほとんど外見が変わってなかった。
テレビ画面で見る彼女、そのままの姿だった。時間の感覚が乱れてしまった。常盤静香と同級生であり、自分とも同い年であったはずなのに、北川裕美はずいぶんと歳下に見えてしまった。想像していた女性とは、だいぶん違った。絵を描き始めたというのだから、もっと野蛮な狂気の色が、皮膚の外側にまで浮き出てきているのかと思った。だが彼女の美貌には柔らかさが漂い、眼には意思を漲らせた力強い存在感が宿っていた。それでいて体つきは、あの男を虜にしてしまう色気と優雅さが漂っていた。十年前に大ヒットした、青春ドラマの主役を務めていた彼女のセクシーで、美しい狂気な役柄が、今でも十分できるのではないかと思った。やはり、ドラマの中の彼女と普段の彼女は、少し違うのだろう。だが方向性としては、ぴったりと同じだった。役の少女はすこし頭が悪かったが、実際の彼女はもう少し知的なのだろう。その違いはあった。井崎は北川裕美の魅力に完全にとり込まれてしまっていた。Lムワが羨ましかった。七年ものあいだ、この女性を一人占めにしていたのだ。七年以上ものあいだ。
「ちょっと、なに突っ立ったままなのよ。ちゃんと挨拶しなさいよ」
遠くの方から常盤静香の声が聞こえてくる。
恥ずかしそうに北川裕美は立ちあがり、井崎に向かって頭を下げた。井崎が右手を差し出すと、彼女は両手で井崎の右手を包み込んだ。それ以上、井崎はこの場に居ることが可能だとは思えなかった。言葉は何も出てこないし、ひどくどぎまぎした態度は、常盤静香を不快にさせるだけだと思った。「ちょっと顔を出しただけで、あとは女性同士の雰囲気を壊したくないから」と井崎は退席をする意思があることを、北川裕美に告げた。北川裕美はにこりと微笑み、どうぞ気になさらないで。あなたのことがもっとよく知りたいのだと言った。静香ちゃんの彼氏ですもの、あなたがどうあれ、私はすごく興味があるのだと、素直に井崎に伝えてきたのだ。井崎は了承するしかなかった。だが絵の話をするような流れにはならない。これから、北川裕美と二人で会う機会があるとしても、とても絵の話なんて・・・。
井崎は、自分がイメージしていた北川裕美がどこにもいないことに戸惑いながらも、喜ぶべきなのかもしれないこの状況に、さらに困惑してしまった。ここまで女性を相手に心を揺さぶられたことなんてあっただろうか。常盤静香の方をちらりと横目で見た。案の定、常盤は、井崎のことをじっと見ていた。どんな反応をするのか、事細かに情報を収集してやろうとしているようだった。あとでどんなことを言われるのか。井崎はすぐに北川裕美の方に向き直った。
しかし、井崎は何かしゃべらなくてはと思うほどに、顔面は硬直してしまい、頭の中では何故か、Lムワの顔ばかりが駆け巡ってしまっていた。
そうだ。この人には旦那がいたんだ。人妻なんだ。ふと、Lムワが死んだというのは嘘なんじゃないかと思った。Lムワはまだ生きていて、相変わらず、この目の前の北川裕美の旦那であるんじゃないだろうか。そうだ。俺が訊きたいのは、Lムワと北川裕美のことなのだと気がついた。どこでどんなふうに知り合って、二人はどんな関係を築き上げていったのか。その生活の中身を知りたかった。おそらく、北川裕美が、俺と常盤のことを知りたがっているのと同様に。とても、Lムワを抜きにした彼女一人のことをなど、追及する気にはなれない・・・。
たったの一人きりで、他の誰にもその所在を明かすことなく、暗闇で絵を描いている彼女の様子なんて、知りたくもなかった。そんな事実がたとえあったとしても、見て見ぬふりをしてしまうだろう。そんな不気味な姿。彼女一人を見つめるということは、何と苦痛な作業なのだろう。常盤静香の言うとおりかもしれないと、井崎は思った。彼女には、光輝く背景が必要なのだ。暗闇に一人彼女を置いてしまえば、その彼女から発せられた光で、こちらの眼が完全にやられてしまいそうだ。こんな放射能の塊のような女を、よく家に置いていられたなと、今度は、Lムワの神経のほうが信じられなくなっていった。
ホテルに戻った井崎は、ベッドの上に勢いよく倒れた。
常盤静香は椅子に座った。
井崎はこのまま風呂に入らず、寝てしまいたかった。
「疲れた。君は疲れてないの?」
「どうしてよ」
「何か、エネルギーが吸い取られたような気がする。男だけなのかな。女は違うのかな」
「今度は、二人きりで会ってきなさい。私がいると、仕事の話がしにくいと思うから。私たち二人の想いは、実は一緒なんだから。これだけあなたと、継続的に一緒にいられるのも、目標を共有してるからなのよ」
目標が一緒なわけがないだろと、井崎は心の内で呟いた。
「もしこのまま、同じ目標を抱いていたら、これからも一緒にいられるのかな」
常盤静香は、椅子に座ったまま天井を見上げていた。
「ねえ、聞いてるの?あなたはどう思うのよ」
「うるさいな。俺は疲れてるんだ」
「そんなこと言わないでよ。あなたに期待してるのよ」
井崎は。北川裕美という女そのものと、北川裕美という作家が描いた絵の存在とを、どう折り合いをつけていくのか。疲労困憊でありながらも、そのことを模索し始めていたのだ。両者はエネルギーの方向としてはかなり異質のような気がした。そして自分は、その両方を愛することはできないような気がした。絵をとるのなら本人を、本人をとるのなら絵を、選択肢から捨てなくてはならない。本人を捨て、作品をとった、しばらく後で、つまりは絵をすべて、彼女の元からなくした後で、彼女本人を取ることなど、できるのだろうか。
とにかく、最初に本人をとることはない。そんな女一人の存在で、自分の夢をすべて崩壊させてはならなかった。しかし、可能性としては、ほとんどないだろうが、北川裕美の方から俺に迫ってくるということも、可能性としてはゼロではなかった。それは非常に困ったことになる。拒否すれば、おそらくは作品の方も、俺に対して開くということがなくなるのだろう。そうなれば、「作品を取る条件として、私も一緒にとってくれ」と要求を突き付けられるかもしれない。そうなれば、俺は了承するしかない。すると俺の元には、北川裕美と北川裕美の作品の両方が存在することになってしまう。矛盾するエネルギーが俺に激然とまとわりつくことになってしまう。それも、極端と極端が、同居するようなものが。
ただの杞憂にすぎないのだが、そのイメージは色濃く、井崎の頭の中に残ってしまった。北川裕美という女個人が、自分という男に興味があるというよりは、あの女はそもそも男というものを、かなり抽象的にとらえていて、こういってはかなり強引かもしれないが、目をつける対象となる男は、誰でもよいのではないかと思った。そのとき彼女が必要としている条件を満たす男であるのなら。もしそうだとすると、俺はとんでもない女に接触し始めていることになる。俺はあの女の生贄になる。今降りることは可能だった。常盤静香一人を、落胆させるだけですむ。
だがこの数か月のあいだ、自分が思い描き始めていたヴィジョンのようなものに当てはまるような要素が、次第に集まってきていることを、感じ始めていた井崎は、もう後戻りすることは考えられなかった。俺は今から一大イベントをこの現実の世界で実現するのだ。そのイベントに、Gという男は必要だった。北川裕美もまた必要だった。万理やシカンも必要になるのかもしれない。Lムワの遺したメモリーディスクも、当然必要だった。
「確かに、君と僕とは、北川裕美がいることで、今は深く繋がり始めているのかもな」
「ね、そうでしょ」
「繋がったのはいいさ。だけど、その後は、どうなる?」
「あとって?」
「北川裕美が去ってしまったあとだよ」
「去らないかもしれない」
「何故?」
「去らないわよ。だって、私たちはずっと、友達だろうから」
「俺が加わるんだぜ。今までのような君たち二人のまま、というわけにはいかない。何かしら、気圧は変わる。君と僕の企みを、彼女はよくは思わないかもしれない。すると、彼女とは繋がる前に、僕らから姿を消すことになる」
「平気よ。実際には、あなたと彼女の二人が、話を進めていくんだから。私は蚊帳の外なんだから。私は必要ないでしょ。ただ、あなたと彼女を同じ場所にセッティングするだけの役目なんだから。それだけが私の仕事なんだから。あとはあなたの思惑でどんどんと進めていったらいい。それが私の想いとも、一致してるんだから。三人でどうだとか、そんな面倒なことは、考える必要がないの。そうでしょ?」
「ということは、俺と北川裕美と、北川裕美の作品の三角関係だな・・・」
井崎は独り言をつぶやいた。
「えっ?」
常盤静香にはよく聞こえなかった。
「そうだな。うまくいくかもな」
もしかすると、今日が常盤静香と二人で過ごす、最後の夜になるかもしれないなと、井崎は思った。北川裕美と二人で会えば、そこで常盤静香の必要性はなくなる。俺はずっとこの女と別れたかったのだろうか。ふと、今まで感じたことのない心境に襲われた。大学時代からずっと続いてきた彼女との付き合いに、今、終止符が打たれたようとしている。ここで、とどめの一撃を加えるために、この長い交際があったのではないかと、井崎はそう反射的に思ってしまった。
北川裕美と二人きりで会った日以来、常盤静香からの連絡は意図的に絶った。居留守を使い、居場所も特定できないようにした。彼女に手紙を送った。しばらく君とは距離を置きたいというようなことを、素直に打ち明けた。しばらくが、今後一切という意味で、井崎は記したのだった。その想いが無意識に彼女に伝わっていればいいなと願いながら。
心は完全に別れを告げていたのだが、ここで急激な行動をとるのはどうかと思った。何かを急にやめるとか、急に始めるとか、急に変更するといった行為が、自分にはとても似つかわしくないことを、井崎は知っていた。じょじょに馴染ませるということが何事においても現実的に成功するのだった。少しずつ変えていく。少しずつ浸透させていく。少しずつ消していく。少しずつ離れていく。強く思うことや強く願うことと、強く行動をすることは、必ずしも一致しない。少なくとも自分の場合には。何かを急激に変化させることでうまくいったことなど一度もない。
そう思ったとき、ふと気が楽になった。北川裕美のことについても、特に構える必要はないのだ。本人と、作品と、この自分との三角関係だって、急激に結論を求めなければ、それぞれが自然に収まるところに収まる。井崎は常盤静香に電話をかけた。
だが今度は、彼女の方が出なかった。
北川裕美と初めて、二人きりになった井崎だったが、絵の話を切り出すことがなかなかできないでいた。
彼女は常盤静香との友人関係について、ずっと話をしていた。高校のあいだは、ずっと同じクラスで、放課後もずっと一緒に勉強もしていたし、カラオケにも行った。でも大学には私は行かなくて、静香の方は南米の大学に行ってしまって。でも交流はずっと続いた。芸能界に入って急激に忙しくなったけど、彼女が帰国したときには、必ず時間を見つけて会った。七年前まで、ずっと交流は続いていた。けれど、私が芸能界を引退したときから彼女からの連絡はぱったりと途絶えてしまった。こっちから電話をしてもなかなか繋がることがなかった。メールで何度かやりとりしただけで、それも次第に疎遠になり、しまいには同じアドレスにアクセスすることすらなくなってしまった。彼女が意図的に私を避けているのか、それとも何か事情があって、あまり連絡を頻繁にはできない理由が、できたのか。それはわからなかった。私ね、原因はあなただと思うの。あなたと付き合ったことが一番の要因だと思うの。変な意味で受け取らないで。いい意味でよ。あなたとの交際が順調だったから、しばし私のことは忘れた。意識の片隅に退けてしまった。そういうことだってある。ちょうど私はそのとき、作家と結婚したわけで、いろいろと環境の変化が激しかった。だから静香との関係が変わってしまったことも、素直に受け止めることができた。おそらくそういう時期だったし、全体の潮流みたいなものが、そうさせていたのね。あなたとの付き合いは、ずっと続いているようね。もう長いのね。大学で知り合ったんだって?」
「同じサークルに入ってたんです」
「聞いた」
「きっかけはね。何のサークルかは、聞きました?」
「いえ、それは教えてくれなかった」
「でしょうね。うまく人に説明できるものじゃない」
「学問的なものなのよね。私が最も苦手とする」
「そんな硬っ苦しいものじゃないですよ。まあ、今となっては、遠い遠い過去のことなんで、少し話してしまっても、いいかもしれない。その、これは、外部に他言することは禁じられているんです」
「ふふふ。秘密結社じゃない」
北川裕美はおかしそうに笑ったが、井崎は表情をまったく崩さなかった。
「ええ。そうなのかもしれない。いや、そのね、過去の遺跡を調査するグループにいたんですよ。太古の文明の跡がそこにはたくさんあった。学術的に発掘調査をするとか、そういうことじゃないんです。ただその場所に集まってですね、感覚を研ぎすますことで遺跡と心の奥で交流するという、そういうことを繰り返していた。僕らは遺跡とセックスをすると言ってまして。考古学ではないんです。怪しいでしょ?」
「静香は、あまりそのことを言わないのよね。芸能界の内情のことを話せないのと同じで、彼女もそのことになると、うまく話を逸らしていた。わたしもそれ以上は訊けなかった。あなたには質問できるわね」
「いいですよ。できる範囲で答えますよ。ただ、あなたのことも知りたいです」
「できる範囲で」
「絵を描いているって、静香から聞きました。最近のことなんですね。もうどのくらい作品があるんですか?」
「うーん。作品の説明って、一番難しいわ」
「その作品は、今後、どうするつもりなんですか?」
「あのね、正直に言ってさ、わからないのよ」
彼女はそう言うと、本当に困ったような顔をして、井崎に何か助けを求めているようでさえあった。
「何か目的があって、描いたわけではないんですね?」
「そうです。現実的にこうしようという計算は何もない。実用性もない。でも私の中には確固たる世界が疼きだしていて、この肉体の外に出たがっていた」
「わかります。何となく。そのサークル時代にも数々の遺跡に行きましたが、彼らもずっと溜めてきた記憶を、外に吐き出してしまいたいように感じましたから。僕らは、その溜まりにたまって、行き場のなくなってっしまった記憶たちを体感することで、共有することで、遺跡の怒りや、狂気、哀しみを、和らげようとしたんです。あわよくば消し去ってしまおうと考えた」
「そうなんだ」
「ええ。僕らの肉体を使って、遺跡の内情を鎮めたかった。ね、おかしいでしょ。他言するような事じゃない」
「それで、どんな体験をするのかしら?」
「それは、僕の方があなたに訊きたいです。一体、絵を描いている最中には、どんなことが起こっているのか」
「私としては、その最中よりも、その後の方が、大事な問題なんですよ」
「絵の行先が、わからないからですね?」
「あなたは、どうなんですか?その遺跡を体感したあとで、どんなことになってしまうんですか?」
「それは、個々で違っているでしょうから、わかりません」
「あなたの場合です」
「もちろん、静香とも同じ場所にいながら、違った体験をしているわけです」
「何だって、そうですよ」
「ええ。僕の場合は、例えばピラミッドに行っていたとして、そこでかつて行われた映像にそっくりと包まれてしまう。自分がそこに住んでいた住民の一人となって、その目線で、当時の世界の中に存在している。時間にして、どのぐらいそこに存在しているのか、見当もつきません。時間はまったく消えている。時間の概念は消えている。もちろん情景には動きがある。人が話していることもある。言語はわかりませんが、どんなコミュニケーションをとっているのかは何となくわかる」
「私が絵を描いているときと似ているかも。私が訊きたいのは、その後のことです。もとの意識に戻った後のことです。あなたは、何か、その体感をする前と後で、変化はあるんですか?何か、物質的なものが生まれてしまうということは、ないんですか」
「残念ながら、それはないです。何も残らない。あなたのように、絵となって積みあがってはいかない」
「羨ましい」と北川裕美は言った。
「あなたは片付けてしまいたいんですね。絵を描くという行為の中に、あなたの真実はあるんですね。出来あがったものには意味がない。あなたにとっては。だから処分してしまっても、本当は構わない。それは少し言い過ぎですが」
「だいたい、そんなところです」
「僕が何とかしましょうか」
井崎はここで本題に入った。「僕に預からせて欲しい」
「どうするの?誰かに売るの?」
「結果的には、そうなるかもしれません」
「売れるのかしら、あれ」
「もし売れると、僕が判断した場合、売ることに関する責任は、僕に発生する。あなたにはいっさい関係がない。一度、見せてほしいですね。アトリエも拝見したい」
「でも、もし、絵を売ることになったら、作者は私なわけでしょ?作者名を、空白にするわけにもいかない。ペンネームっていうの?私、名前を変えたくないのよね。だから、必然的に本名が出てしまう」
「そうなると、不都合なんですか?」
「ええ。一度、私は女優として、世に出たことがあるので」
「いいじゃないですか」
「気づかれます」
「それは、そうでしょう」
「いろんな偏見の眼で、見られると思うので、それは嫌なんです」
「でも、それは、そうなってみないと分からないことで、今の段階では何とも言えませんよ。とにかく、もし処分に困っているとしたら、僕に任せてください。ただ誰かに売るというのも、僕には考えものだと思います。まとまった量があるんでしょ?もしそうなら、バラバラにするべきではないです。一つのまとまりとして、大きな建物を組み立てるように、同じ場所から発信するべきです。一つにまとめて、一つの大きなイベントを発動させていけばいい。これだけいろんな意味で、ばらばらに散らばってしまった世の中において、それと同じ流れに乗ることは、完全な間違いです。そういう風潮に流されてはいけない。結集させるんです。あなたのアトリエには、今作品たちは結集していますよね。それを外に出すときにも、やはり散らばらせては駄目です。一つのイベントを経て、散っていくというのならかまわない。いや、そうするべきです。それが自然な流れです。それからできるだけ広く、異なる土地に向かって放つべきだ。一つの大きなイベントの洗礼を経て、個々は独り立ちしていくというのが、大事なことですから」
北川裕美には、井崎の言っていることがほとんどよくわからなかったが、いままで、自分一人がずっと抱え持っていた悩みを、共有できる人間が現れたことには、感謝するべきだと素直に思った。
セトVA社長は、万理のアカデミー賞受賞に気をよくしていた。これに長谷川セレーネという新人のモデルの来月のデビューが決まっている。音楽をやらせてくれとVAへの所属を自ら訴えてきた舞は、あのとき以来会ってなかったが、順調に曲のレコーディングは進んでいると聞いていた。セトはテレビをつけっぱなしにして、報道番組を見ていた。一つの話題に、彼は強烈に反応した。~「時震」によるその後の空間変動~というサブタイトルが付けられ、その日の特集として、番組で放送されていた。レポーターの女性が、「測定器」と称する、エアコンのリモコンのようなものを持って、道路の真ん中であったり、下水道の上であったり、住宅の玄関であったり、公園の入り口であったり、さまざまな場所で「時間」を測定していた。『このあたりでは、さほど時間のズレはないようです。差が大きなところで、二分程度でしょうか。ところが』別の県の山奥に、映像は切り替わった。『ここではですね、ほら、ご覧のとおり、数百メートル離れただけで、二時間ものズレが生じてしまっています。今、日本の時刻は、三時五十二分ということですが、ここでは五時二十三分を示しています。驚くべきことです』
「まだ、そんな程度か」とセトは呟いた。「もっとハードに、時差が起こってしまった地域があるのにな。調査が足らん!時差どころではなくて、日にちそのもの、年度そのものが、大きく異なってしまっている場所も、断片的にだが、発生しているのにな。地震と違って、同じ大地に乗っているすべての人間が、感知できるというようなものでもない。しかし、ある種の人間には、ビルが崩壊するような音だったり、厚紙を一気に破くような、音がするんだ。それを報道しなくてどうする?」
セトは、この時間の歪んでしまった特定の空間を、どう修復するのかを考えていた。
修復ということは、元に戻す必要があるということだが、果たしてそのようにする意味がどこにあるのか。場所によって、気候が異なるのは当たり前のことだし、時間だって東西に移動していけば、時差が自然と発生する。それに、雨雲の有無の境界線で、天気がまるで異なることも普通にある。局地的な相違も、そんなに珍しいことではない。時間だって局地的に、違った位相が出現していたとしても、なんら、自然に受け入れていけばいいのではないか。それに、その場所にすっぽりと入ってしまったとしても、雨雲を避けるように、別の場所へと移動していけば、何ら問題はないはずであった。
ところが、その局地的に発生する『時震』が頻繁に、さらには、広範囲で、起こることになれば話はまったく変わってしまう。
セトにはうまく、想像することができなかったが、その境界線に存在していた人間はどうなってしまうのか。建物はどうなってしまうのか。シュールレアリスムの巨匠が描いたような絵画が、現実的に、三次元の世界で実現してしまうのではないか。そもそも、そのズレた空間は、自然に元に戻ろうとする力が、働くのであろうか。周りに漂う大多数を占める時間制の中に、その異質な空間は、吸収されていくのであろうか。
我が事務所には有力な女性タレントは大方揃っていた。
足りないのは男の方であった。
それも、今セトが感じたのは、この時空間に関する、専門の男が必要だということだった。俺には何もわからない。ただ、この乱れた時空間に対して、これからさらに程度を増していくこの現象に対して、修復するのか、それとも別の方向性があるのかは分からなかったが、とにかくまずは、原理を把握する必要があった。そしてこの現実に対する対処の方法を、自ら考え出さなくてはならなかった。それが商売のためなのか、それとも、この大地に住む人々のためなのかは、それこそ、境界線はあいまいであるようにセトには思えた。
井崎は大阪には帰らなかった。常盤静香が一人で帰ったのかどうかも、井崎にはわからなかった。彼の元には常盤からの返事はこなかった。なので井崎は手紙に書いた距離を置こうという言葉を、常盤静香が額面通りに受け取ったのだと判断することにした。
そのときちょうど、万理から電話がきて、あなたが今滞在している住まいの住所を教えてほしいと言ってきた。翌日、速達で郵便物がやってきた。そこには、井崎が心から望んでいたメモリーディスクが入っていた。添えられた手紙には、《written by L》と大きな文字が書かれていた。すぐに万理に連絡をした。
「手にいれたんだな」
そう言いながら、井崎はパソコンの電源を入れて、中身を確認していた。
「よくやった。Lムワには直接会えたのか?」
電波の具合はどうもよくなかった。何とか間に合ったというようなことを、彼女は言った。
「とにかく、事情はどうあれ、手に入ってよかった」
「舞という女にも、手伝ってもらった」
井崎はどうもありがとうねと、あらためてお礼を言った。
「私、舞って子とは、今絶縁状態なのよね。だから、あの子と一緒に、夜の街にLムワを探しにいったのも、何だか信じられない。昨夜のつもりだったんだけど、本当はずいぶんと前のことなのかもしれない。一か月も前のことだったとか。ねえ、変なことを言ってごめんなさい。そのメモリーも、本当は、一か月も前にLムワと会って、そのとき黙って持ってきてしまったものなのかもしれない。そんな気が今はする。あなたに頼まれた、そのだいぶん前に、すでに私は手にいれていたのかもしれない。私自身もそのことを忘れてしまっていただけで。あなたに頼まれたときには気がつかなかった。なんだか混乱してしまってる・・・。でもやっぱり、そんな事実なんてなくて、あなたに頼まれてから、昨晩に実行したのかもしれないし・・・。だって、Lムワって人は、もう、今現在においては、すっかりと骨になってしまってるんだから・・・」
万理は今からGと会う約束がとれたのだと言って、情緒不安定の予兆を見せながらも、井崎との電話を切った。
井崎はUSBの中身を確認するのに、一週間以上もかかった。ファイルは五つに分かれていて、その一つ一つもかなりの文字数を有していた。初日に全体像を確認したあとで、あとは細かく一つ一つを読みこんでいった。Lムワは四つの物語を完璧に完成させていた。五つ目だけが不完全であって断片的であり、中身に関しては全く一貫性がなかった。ストーリーとして成立してなかった。時間が急に飛んだり戻ったり、別の話になったりと整合性を異常に欠いていた。
だが一つ確実に言えたことは、これは明らかに執筆途中であって、それを結果的に放棄してしまった『Lムワの死亡』という結末だった。この長編を、彼が先に展開させていくことを望んでいたのか、そうではなくて、挫折してしまったのかの真相はわからなかった。自宅が火で包まれたのが、望まれない事故だったのか、それとも、自分で火をつけたのかという話と、ほとんど同じことだった。
井崎は五つ目の物語も含めたすべての長編を、今、自分が手にしているというこの現実を冷静に考えた。Lムワは本当にこの世からいなくなってしまったのだろうか。これらの物語を発表する権利が、自分にはあるのだろうか。もし発行できる機会が作れたとして、そのときはLムワの名で出すべきなのか。
井崎には、決心も戦略もまだ漠然としていたし、現実的な算段は何もついていなかったので、このまま保有することだけを受け入れた。そして、今は、北川裕美の絵をこの眼で見て、状況を正しく把握しなければと、心に決めていた。
Gと初めて会った万理は、自己紹介もそこそこにさっそく仕事の話に入っていった。次回作の主演をお願いしたいと彼女は言った。そしてまだ完成していない脚本の代わりに、万理が口頭でGに内容を伝えることになった。話しの内容がかなり錯綜としていて、固まる前に、また変奏してしまうという事実を、万理はひたすら隠していた。アカデミー賞を受賞したことが影響しているわけではなかった。その前から、内容の変奏は激しく起こっていたし、その後も絶えず起こり続けていた。何かが狂っていることは知っていたが、ここまで整合性がなくなるとは思ってもみなかった。
何が、私に影響を与えているのだろう。とにかく今できることをやらなくてはと、万理は朝立ち上がってきた新しい話を、Gに伝える。
北川裕美が制作した絵画は、それほど多くはなかった。そのアトリエには、数にして二十枚ほどの絵が無造作に並べられていた。それは、いかにも平凡で、本当にこれで世の中に勝負を打って出ていくのかと、首をかしげる代物ばかりだった。期待は落胆へと瞬時に変わった。
「がっかりしたようね」彼女は井崎の表情に敏感に反応した。
「そんなことはないですよ。まだよくわからないだけです」
「時間が経っても同じですよ。こんなものなんですよ、私の才能なんて。そう、ただの、こんなもの」
そう言った彼女の風貌さえ、実に凡庸極まるものであって、この前初めて見たときに受けた衝撃が、今ではすっかりと消え失せていることに逆に驚いた。
このとき井崎は、ある種の人間の中にはスイッチが入ったときと、入っていないときとが、これほどまでの落差を示すということがあるということを、忘れていた。それを思い出したとき、井崎はGのことを思った。おそらく撮影に入る前のGの印象が万理にとって、同じく凡庸極まるものだったのかもしれない。同じ現象が、今同時に、俺の前で、起こっている。北川裕美はこんなものではない。しかし、この北川裕美の絵画の力不足は、一体どう判断したらいいのだろう。
「少し時間を置いて、また見に来ていいですか」井崎は曖昧な返事をした。
「どうぞ。でも、何度見たって、あなたの印象は変わらないと思いますけど。絵自体はもう変わりようがないですから。変わるとしたら、あなたの物の見方のほうだけです。ええ、何度来たって構わない。もうあなたにお願いしたのですから」
「お願いって何の?」
「この絵を売ってくれるんでしょ。外の世界に出してくれるんでしょ?そういう約束をしたじゃないですか。さもすべてを引き受けたかのような態度を、あなたはとっていたじゃないですか。それが、実物を見て急変した。あなたの心の中は丸裸です。話しはなかったことに、という具合に、逃げようとしている。これは売れない。俺が関わる仕事ではない。残念ね。あなたはもう後戻りができないんです。静香さんとも別れたんでしょ?まだ別れてなくても、もうすでに、あなたと彼女の意識の繋がりは、断ち切られつつある。私には手にとるようにその様子が見える。それを絵にしたいくらいだわ。あなたは勘違いしている。私の絵の本質がまるで見えてはいない。表面的で、技術的、物理的なものにしか、今のあなたには見えていない。時間を置いてまた来るですって?あなたはそう言った。確かに間違いではない。また来るべきね。同じ絵なのに、あなたにはまったく違った場面が、見えるようになるから。わかる?同じ絵なのに違った印象を受けるってことはよくあるわよね。でも私の絵はそれとも違う。まったく別の場面があなたの眼球には映し出されるはず。あなたは別の世界の中を漂う。そして、現実へと引き戻される。私の絵を甘くみると、痛い目にあうわよ。そう、あなたはもう私の言いなりなの。私の作品のすべてに責任を持ってもらうことになる。あなたが最後には引き受けることになる。あなたの元にはすべてが集まってくる。私だけではなく。言ってる意味はわかるでしょ?あなたは、自分で何か事を起こそうとしていた。画策をして、いろいろと影で動いていた。まるであなたの意思で行っていたかのように。でも、本当は違う。あなたは動かされていた。あなたの元にみな集まってくるような流れを仕向けられている。あなたには責任をとってもらう。たとえ、自分のこととは、無関係なことであったとしても」
井崎はアトリエ内のキャンバスに光が宿っていることを知る。
そして、キャンバスの表層がうねり始め、生き物がのたうつように蠢き始めているのを知る。さらにはキャンバスから、その生き物が、外に出始めている情景を見た。巨大な生き物が、それぞれのキャンバスの中から、井崎に反応するかのごとく、ぞろぞろと出てきていた。井崎は叫び声をあげ、失神してしまった。
Gは目が醒めた。手足が拘束されていることを知った。白い石の床の上に寝ていた。
Gは前後の記憶が定かではなかった。頭痛がひどかった。視界の中に黒く動くものがあった。眼球を動かす、その動きと共に、その黒点も動いた。
強烈な明るさのライトがGの顔を照らしている。覗きこむマスクをした医師のような男の姿がある。女性の姿もある。助手だろうか。Gの顔に触れて眼球をめくり、それから頭部をじっと凝視していた。助手の女が、尖った機材を医師のような男に渡している。Gは思わず目を閉じた。確か、この前には、万理と出演する映画の打ち合わせをしていたのではなかったか。内容はよく思い出せない。そうだ。彼女は、映画のスポンサーとなる企業について語っていた。ブランドの名前は、KNA、ブラッドストーン、クリスタルシティ、・・・あとは、何だったか。映画のタイトルはバプなんとか・・バプティックだったか。一度聞いただけでは覚えられなかった。知らない言葉を連発されていたので、Gの頭の中では、それらの単語だけがぐるぐると渦を巻いていた。すると医師はいつのまにかチェーンソーのようなものを持ち出してきていた。それを発動させて、Gの胸に向かって近づけてくるのが見えた。あっとGは大きな声を上げる。その瞬間、チェーンソーはGの胸を切り裂いた。ああっ、激しい痛みが全身を貫いた。「君にはまだ葛藤がある。このままではいけない。このままでいけないんだ。映画に出すわけにはいかない。君は、人間を、大衆を、信用してはいない。君は社会の一員にならなくてはならない。なりたいとも思っている。しかしそこには、大きな葛藤がある。君の記憶の中に、その原因はある。ほら、あの日々をしっかりと覚えているだろうか。まだ少年の頃の君だ。姿は見えるだろうか。勇敢な少年。それが君だ。しかし、その勇敢さの影で、君のその胸の中には、今も生息する葛藤が形成された。引きずり出してくるんだ。そして、実際に、君の目で確かめるのだ。それを見つめ、受け入れ、天へと返してやりなさい。我々は、そのきっかけを作っている」
Gの手足には、拘束具がいつのまにかなくなっていた。
「はい、今日は、ここまでです」
さっきまで、闇に包まれていた空間が、今は明るい診察室へと変わっていた。
すぐに、そこが、歯医者であることを知る。
「来週は、奥歯のほうを削りますからね」
Gは、その場で次回の診療の予約をとった。
『はい、カーット』
その女性の声に、Gは、後ろを振り返った。
その診療室はセットだったのだ。セットの外では、あの万理という女が、パイプ椅子に座っている。
『さあ、今のシーンを確認するから、あなたも、モニターの前に来て』
Gは言われるがままに、セットから降りる。そしてGが、白い石の床に寝かされているシーンが映し出される。頭がぱっくりとえぐり取られている。陥没し、血が流れでたまま、固まっている。明らかに、意図的に頭蓋骨を破壊されていた。その状態でここへ運ばれたのか何なのか。その映像からは、何も判断することができなかった。Gはいつのまにか、撮影に入っていたのだ。それが生まれて初めて参加した映画のシーンだった。Gには、話全体の内容が聞かされてなかった。チェーンソーによって、胸を裂かれたところで映像は途切れた。Gは思わず自分の今の頭蓋骨を触ってしまった。しかし平常だった。いつ特殊メイクが施されたのだろう。モニターは、今現在、セットの置いてる歯科医院の部屋を映していた。「はい、今日は、ここまでです」「来週は、奥歯のほうを削りますからね」
「さあ、次のシーンに移りましょう!」
万理に手をひかれて、Gは移動した。
別の部屋には、エキストラの人たちであろうか。
大勢の人間が、Gの到着を待っていた。その中に突然Gは放り出された。
彼らはGをじろじろと睨むように見つめ、露骨に舌打ちをする人間もいた。目つきの悪い、どんよりとした暗い雰囲気を漂わせた、若い男たちだった。彼らはGに声をかけることはなかったし、手を出すことも手を差し伸べることもなかった。Gには何がなんだか、状況が掴めなくなっていた。さっきのシーンとの繋がりも、見いだせなくなっていた。そのまま時間が過ぎ去っていく。進路が、その男の大群にすべてふさがれていて、ここがどれほどの大きさの部屋なのかも、わからなかった。Gはただ身動きもできずにいた。自分の周りには、男たちがそれ以上近づくことのできない何かが、あるかのような、妙な空間ができている。だがそれ以外は、満員電車の中のような状態だった。Gはこの息苦しい空間の中で、いつまでも放置されていた。これならば、彼らに、この肉体を痛めつけられていた方が、ましだとさえ思った。ふと上を見上げる。天井は、鉄格子になっていて外が見える。遥か先にある、空が見えた。すると、大きな靴が、鉄格子を踏みつける様子が目に映る。
「おい、その男はなんだ」
Gの周りに円形の空間ができていたことに、その鉄格子を踏みつける男は、気づいたらしかった。Gはこの部屋が留置場なのではないかと思った。
「その男は、何だ。まだ少年ではないか。誰がこんなのを連れてきたんだ」
男たちは、少年と呼ばれた男の方を凝視していた。そういえばと、Gは思った。男たちの背丈が、自分とはずいぶんと違うことに気づいた。自分だけが、男たちの胸元にも及んでいなかったのだ。
「おい、そこの少年。きさまは一体何者なんだ。ただの捕虜にはまったく見えない。兵士ではない。何故こんなところに紛れこんでいる?」
周りを取り囲んだ男たちも、この自分のことを訝しんでいるのだ。戸惑っているのだ。
だから、ただ、じっと見つめているだけなのだ。彼らも扱いに困っているのだ。ならばと、Gは考えた。俺はお前らとは違う。お前らは、ただの同じような風貌をした、無数の捕虜だ。だが、俺は違う。俺は選ばれし人間なのだ。君たちとは運命が違う。俺は捕虜ではない。たまたまこの捕虜の中に加わってしまった。不可抗力だ。しかし現実は、俺を無数の捕虜の中の、一人としての運命を歩ませなかった。Gは呼吸を深く整え、無数の捕虜の姿が消えるまで、心を落ち着けていった。そして、自分が鉄格子の外の人間に、強烈な印象を与え、外に引き出してもらう様子を思い描いた。すると、Gの目の前に突然、三角形の立体物が姿を現す。
「おい、そこのガキ。聞いてるのか」
Gは我に返った。無数の捕虜の男たちの姿があった。天井を見る。鉄格子が開いていた。あの大きな靴を履いた男が、手を差し伸べていたのだ。Gはその手を掴んだ。そして、Gは地下室から外に出た。
『はい、カーット、カーット』
万理の大きな声が響き渡った。
『よかったわよ、あなた。心の声が、体の周りの空気に反映されていて、よかった』
Gは、自分の体が、万理や他の人たちと同じ大きさに戻っていることを知る。
その後、Gは用意された椅子に座ったまま、呆然としていた。Gはいまだに共演する俳優の姿を、見つけられないでいた。とりあえず、G一人のシーンを最初に立て続けにとってしまうのだろうと思った。万理は恐ろしい形相でモニターを眺めていたかと思えば、天を仰ぎ、そのまま椅子に座ったまま後ろに倒れてしまった。
しばらく起き上がることなく、Gと同じように天井を眺めていた。天井は異様に高かった。照明は、夜の空に散らばった無数の星のように光っていて、本物の夜空か、あるいはプラネタリウムの中にいるようであった。プラネタリウムか。そうかもしれない。そういうセットを作ったのかもしれなかった。Gは夜空を眺めながら、全く知識のない星座の数々を見ていた。自分で勝手に組み合わせた星座を、いくつも作り上げていた。時間がどれだけ過ぎたのかわからない。次のシーンの台本は渡されていない。アドリブのような形で、万理から、暫定的な時空間が与えられるだけなのだろう。万理の様子を注視した。だが彼女は仰向けになったまま身動きをとらなかった。突然奇声を上げて、周りを驚かせた。スタッフが駆け寄ってくる。万理は彼らと、その場で打ち合わせを始めた。おそらく次のシーンの撮影についてだろう。『てめぇ』という怒り狂った万理の声だった。『慣習に、ただ、群れてるだけなんだよ。そんなのは、死んでんだよ!』Gは、そのすさまじい怒鳴り声のために起き上がった。近づいてはまずいのだろうか。しかし、そのまま、椅子に座っていることはできなかった。「万理さんっ」とGは小さな声を出した。遠く離れた万理に聞こえるはずもない。だが彼女はタイミングよく振り返った。Gは、びくっと反応した。まさか聞こえているはずはない。「万理さんっ」ともう一度微量な声を出した。「万理さん落ち着きましょうっ。ねっ。わかります。あなたの気持ちは。痛いほどにわかりますから。圧倒的なスケールの世界観を欲しているに違いないと、Gは思った。そして、その世界観を、自分がまだ掴めていないことに苛立っているのだ。あるいは、自分一人で生み出せるものなのかどうかを疑っている。誰かが必要なのだ。誰かと一緒につくっていくものなのだ。そう彼女は考え始めている。その誰かとは。だが万理は苛立った。自分自身にも周りにいる人間に対しても。こんなことでは、どこかで見たことのある、聞いたことのある、そんな作品が再び過去の焼き直しのように出現し、この世に積もっていくだけだ。積もっていくにもかかわらず、人々の顕在意識からは、すっかりと消え落ちてしまう。「万理さん、わかりますよ」とGは呟いた。「僕も、今、これほど切実に自分以外の他人を求めていることはないから。そのことに今気づきました。万理さん。僕はあなたの期待に添える人間ではないかもしれない。でも、僕はあなたと知り合えて、よかった。本当に良かった。僕を主演にしてくれたこと。とても感謝しているんです」しかしGは万理の狂っていく姿を止めることはできなかった。ただ見ているしかなかった。圧倒的なスケールの世界観がないのなら、斬新な発想、アイデアが必要だった。あるいは、物事の、際どい本質の部分を打ち抜くような、そんな破壊的な力が・・・。
次のシーンの撮影のために呼ばれるのを、Gは待っているしかなかった。
だが、万理の怒りは収まらなかった。アカデミー賞の作品部門でグランプリをとったことで、万理は焦燥感にかられていたわけではない。おそらくあのときに撮った作品の影響を、もろに自分自身が受けてしまったのだ。Gはそう思った。自分以外に与える影響力よりも、遥かに莫大なエネルギーを、まともに受けてしまった。放射能の、被ばくのようなものだった。放射能が生成されたその現場、そこに最も近くにいたのが、彼女本人だった。周りへの影響力は、むしろこれからだった。
時間が経つにつれて、風に乗り、そして遠方の地域にも運ばれる。人体への影響はさらに時間を加味することになる。作品賞による影響力は、むしろ表層的なものだった。内部の深淵に届く頃にはおそらく、作品賞というレッテルは、完全に剥がれ落ちてしまっている。万理は今、その被ばくによって、のた打ち回っているのだ。もう戻れない。何も知らなかった頃には、もう戻れないと。彼女は前に進むしかなかった。世界に蓄積された記憶の焼き直しではない新しい世界を、物語を、掴むために。
映画の撮影は中止になった。万理は傷害の容疑で書類送検された。自宅での謹慎を命じられた。
Gは、万理の自宅に見舞いに行った。居間に通された。万理はGに申し訳なかったと頭を下げた。
「あなたのデビュー作を、散々な結果に、してしまって。今度は、ちゃんと立て直すから。井崎さんにも顔が立たない。どうしよう。この時期に不祥事を起こしてしまうなんて、最低よ」
「僕はまだ、デビューしてないし、その、まったくの無傷ですから」
Gは穏やかな口調で言った。
「前の作品を撮ったときの体験が、影響してるんですね」
万理は、驚きを隠せないといった表情で、Gを見返した。
「あなたの元に世界観が降りてきた。まったくの偶然に。それが抜けきらないんですね。その先へと行こうとした。あなたの頭にあり、皮膚にぴったりと溶け込んでしまったその世界を、完全に消去するために。違いますか。いや無理に、答えなくていいです。しかしその世界観というのは、おそらくあなたにとっては、表面的なものです。そこにあなたは拘る必要はない。それに踊らされてはいけない。その奥にあるもの。あなたには絶対にわかることのできない、心の奥底に寄り添う蠢くものです。それが、あなたにとっての、本当の世界です。あなたが撮影で体感したものというのは、その蠢くものが、この地上に投影した影のようなものです。あなたはまさに、その影をレンズで写し取った。素晴らしいことです。しかしその後で、あなたは過ちを犯した。それは影にすぎないんです。影を追ってはいけない。そうすることで、あなたは、表層の世界に踏み込んでいってしまう。表層の世界は、そこに入ったものをどこにも導いてはいかない。影を存在させたその根源の世界こそが、あなたが撮影をしなければならない塊なんです。そこに入っていくための脚本で、あるべきなんです」
Gは自分の口から、次々と言葉が出てきたことに驚いてしまった。万理も同じで、二人の戸惑いは、一気に加速していってしまった。万理は素直にGに慰められていた。かわいい少女のように、コクリコクリと小さく頷いていた。
距離を置こうから別れように、その手紙の内容は変わっていた。常盤静香は大阪の自宅で手紙を受け取った。井崎はもう二度と大阪には来ない。自分も、井崎に会うため、二度と東京に行くことはない。別れは極めて決定的だった。北川裕美の存在が、それまで希薄であり続けた二人の関係を、急速に近づけた。だがその反動は大きく、そして早かった。
もともと数か月以上も会わない状態だったので、今も、状況はほとんど変わってなかったのだが、心の中にある糸がバッサリと断ち切られてしまっていた。二人の間にある断絶感は、よく考えれば、付き合った最初の段階から、すでに存在していた。異性のあいだにあった高揚感で、当時は完全に覆われていた。しかしそこには、本当に繋がり合える一体感が決定的に欠けていた。
しかし今は、こうも思った。今後、もし、お互いが自分の本当の願いを探究し、その先へと常に前進していくのであれば、そこには劇的な《再会の場》があるのではないかと。ただの幻想だった。けれども、その出会いにはリアリティがあった。ここはとりあえず退去しよう。彼の側に居たって、同じ夢が見られるわけではなかった。
その日、長谷川セレーネは、芸能プロダクションVAへの所属が決まった。彼女は図書館のアルバイトをやめることを、通っていた大学に伝えた。すぐに了承された。図書館のアルバイトを待っている学生の数は多かった。
そのあとで、長谷川セレーネは、VAの事務所スタッフの人たちが開いた食事会へと赴くことになっていた。長谷川セレーネは図書館で借りたLムワの本が、まだ家の部屋にあることを思い出した。食事会に行く前に、図書館に返しておこうと思った。思いついたときに返さないと、そのまま忘れてしまいそうだった。図書館に行く機会は、今後そうあるわけではないと思った。
だが、長谷川セレーネは、Lムワの本を返却したくはなかった。
すでに絶版になっていたため、本屋で手に入れることは不可能だった。アマゾンに、中古で売り出されてもいなかった。前に何度か検索したが、彼の本はどこにも存在してなかった。大学が提携する、私立図書館にあるかもしれないと、何度も足を運んだのだが、ここにもなかった。それでも、奥の部屋には、コンピュータに登録されていない本も数多くあると聞いていたので、そこに存在している可能性にかけた。アルバイトとして、図書館に関わることにした。そしてやっとのことで見つけた。これを、あっさりと返却するわけにはいかない。このまま無断で持っていたらどうか。何度も催促されてからやっと重い腰を上げれば、それでいいじゃないか。返却日は二日後だった。はやくて、一か月後くらいには、催促の電話がかかってくる。それまでに、あと何度か読んでおきたかった。図書館のアルバイトはやめるべきではなかったかなと、少し後悔もしたが、週四回、働くことが義務づけられていたので、それは不可能になるだろうと、仕方なくやめることにした。VAの事務所からは、大学を休学してほしいと言われたが、それはできないと彼女は断った。
まだ自分はデビューしたわけでもないし、どれくらい仕事が入ってくるのかも、わからない。休学だけして、それでいて、スケージュルが全く埋まらないという事態だって起こりえる。今、届け出ることではないと、彼女ははっきりと伝えた。事務所の田崎マネージャーからは、すでに長谷川セレーネの写真をいろんなところに送っているのだけど、反応がものすごくよくて、様々な仕事やオーディションへの参加、招待のオファーを受けているのだと言われた。それでも物事には順序があると、長谷川セレーネは現実を見極めてから、休学なり退学なりの手続きを踏みたいという、自分の主張を譲ることはなかった。
「どのみち、通常どおりに大学に通うことは不可能になる」と、田崎は譲らなかった。彼は、彼女を大学のキャンバス内でスカウトした本人だった。
自宅の部屋に、Lムワの著書を置きっぱなしにしたままで、長谷川セレーネは食事会へと向かった。
二次会が終わり、長谷川セレーネは静かにみんなの中から抜け出した。ノンアルコール飲料を注意深く選んで飲み、車の運転できる状態を保った。彼女は事務所の車のキーを手にいれていた。田崎マネージャがポケットに入れる直前に、素早く気づかれないように奪ったのだった。スリの常習犯のように素早く抜き取ったのだ。
長谷川セレーネは、田崎の運転してきた車に乗ってエンジンをかけ、無断で発進してしまった。彼はまだ、他のスタッフと共に、宴会の真っ最中だった。田崎一人だけは酒が飲めないので車で来ていた。そしてノンアルコールドリンクの注文を連発していた。長谷川セレーネは彼のすぐ横にいたので、そのドリンクのすべてを、自分の席にやってくるアルコールと素早くすり替えた。飲めない田崎は今頃ひどいことになっているだろう。長谷川セレーネは免許を持っていたが、車は持ってなかった。事務所に正式に所属する前に、彼女には行っておくべき場所があった。
これまでの人生を、すべて清算するため、やっておかなければならないことがあった。
第2部 第5遍 AREA 151
一 元軍人への取材
「わたしたちは、退役軍人でしてね。戦争の形態が劇的に変化したことで、人員の供給過剰が起こってしまった。よって、今後、軍に関わる仕事を続けていくことを希望するものは、こちらの指定する任務につくことが、義務付けられる。そういうふうに、我々は唐突に言われたんです。今まで君たちが働いてきた専門分野からは、大きく逸脱し、これまで身につけてきた技能や、マニュアルが、まったく生かすことのできない状態になることを、まずは受け入れてほしい。細かい規定は、あとで、口頭で伝達するから。必ず頭の中に入れてほしい。文書は存在しない。文書に残すことはしないのだ。頭の中に記憶してくれと」
codeNAME20の証言は、続く。
「求められている資質はたったの一つ。今までの仕事は忘れてくれ。経験や技能はすべて消去してくれ。未練が残っているもの、過去の仕事に戻りたいもの。そんな人間は採用することはできない。軍を去るのみだ。別に職を見つけてくれ。そう言われました。我々のほとんどは、軍人の他に、何かしたことがあるわけではなかったので、今からあらたに職を見つけることは困難であると判断しました。その新しい軍の仕事に、我先にと、手を上げました。しかしほとんどの人が、問題なく採用されたのです。その状況に、みんなは、表紙抜けでした。それで、我々は、軍のジェット機で移送されたんです。降ろされた場所は、山に囲まれていた。四方に山が連なっていたんです。本当に隙間などなく、包囲されているという表現が、ぴったりでした。自然がこんなにも都合よく、一つの場所を壁のように囲い込むだろうかと。おそらくみな、口には出しませんでしたが、思ったことは同じだったと思います。茶色の地面に、茶色の山々に、いえ、それは少し黄色がかっていた。黄土色です。青々とした空とのコントラストが不気味だったことを覚えています。トレーラーハウスが並び、我々の住居はそこだと示されました。
そして、我々が働く場所は、そこから数十メートル先にある大きな工場でした。その中には、一つの大きな飛行機がとまっていました。不思議だったのは、入り口よりもその機体は大きいのです。天井はしっかりと密閉されていたので、一体どこから搬入したのだろうと思いました。開閉式の天井なのだろうと、そう思うことにしました。そして我々は四人一組にさせられ、さまざまな任務に振り分けられました。彼らと会うのは、食事のときだけ。食堂で会するときだけです。作業中は顔を合わせることはないし、仕事が終わればトレーラーハウスに直行です。二週間、その生活が続きます。そして我々は、軍の飛行機で、再びそのエリアから外へと運ばれます。我々は家族の元へ帰ります。そして、一週間の休みが与えられます。その休暇が終わればまた、エリアへと行き、二週間の職務につくことになります。
最初はずいぶんと大変でした。その生活サイクルに合わせるのが。とても辛かった。極度の集中と、そのあとやってくる茫漠とした時間。それが交互に繰り返されることが嫌でたまらなかった。二つのあまりに気圧の異なる場所の行き来は、この人間の肉体には非常に悪い影響があった。休暇が与えられているのに、まったく気は休まりませんでした。昂ぶってくるのです。いえ、昂ぶったまま、帰されたといったほうがいいか。家へと帰り、日常の世界へと復帰してから、私の神経は、ますます鋭敏になっていくのでした。もちろん性的な興奮も収まりません。それも尋常ではない。射精などそれこそ何十回しても、性器は萎えることを知らなかったんじゃないでしょうか。私は妻を抱きました。三回ほどセックスをしましたが、それでも興奮はまったく収まりきらない。私は妻にそのことを悟られないようにすることで必死でした。絶対にバレてはいけないと思いました。軍の方からは、関わった任務についてのすべてを、口外できないことを、通達されていましたから。しかし、体の変調については、何も聞いてはいません。初めての帰宅だったので、他の人たちもまた、同じ症状が出ているのかどうかわかりませんでした。
その日、私は悶々とする性欲を抱えながら、寝むれぬ夜を過ごしました。翌朝、妻や子供を家から送り出したあとで、すぐに自慰をしました。そして、その何十回という、恐ろしい回数の射精をしたんです。一体、この体の中のどこに、こんな量の精液が溜めこまれているのだろうと、実に不可思議でした。こんなふうに、一週間も性欲は続くのだろうか。射精に導く専門の人間を、必要とするくらいでした。私は今まで行ったことのない風俗というものにも、関心が湧きました。まさに、恋心とはまったく切り離された、射精だけを首尾よくこなしたいだけなのです。妻に対する、不貞でも何でもありません。ただし、誰にもバレないことが、唯一の必須の条件であって。私の休日は、昼間から風俗に入り浸ることになってしまいました。
そんな、とんでもない生活へと、変わってしまった。そうやって、風俗を、昼間に渡り歩いたにもかかわらず、それでも夜になるとまた、性欲は恐ろしい勢いで、私の奥底から身体を突き動かしてきます。私は妻を抱きます。セックスする前に、口でしてもらったときも、その中に勢いよく発射してしまいました。普段なら、そんなことなどしたことがありません。そんなところで発射してしまえば、そのあとセックスに至ったときの、勃起の強度が、落ちてしまいます。彼女は驚きました。私は我慢できなかったことを詫びました。しかしそれによって、勃起の強度が落ちてしまうことはなかったので、それ以上、彼女は、特別な反応をすることはありませんでした」
『そして、あなたは、一週間後、エリア151へと戻っていった』
インタビュアーは、codoNAME20に訊いた。
「そうです。他の仲間も、だいたい同じような症状に悩まされていました。私のように風俗に行った人間もいました。もともと愛人をたくさん持っているような奴もいましたが、まあ、結局、みんな行き着くところは同じだったようです。私たちは、軍の司令官に当然訴えました。彼らの答えはこうでした。きっと二週間のあいだ、禁欲していたものだから、一気に爆発してしまったんじゃないのかと。実に健康的なことで、けっこうなだと。それで一週間、楽しんだかい?冗談じゃないと、私は答えました。楽しんだだと?ふざけるな!苦しんだんだよ、こっちは!確かに、ほんの数名は楽しんだようですが。しかし、その数名とは、普段はほとんど性欲のないような男でして。だからそんな彼らは、人並みくらいに取り戻せたらしいんです。おそらく、彼らは、インポテンツではなかったのかと、私は思うんです。それが解消した。そりゃあ、楽しめたことでしょう。ところが、我々の大半はそうではない。まったく、君たちはと、司令官はからかったりもしたんです。だんだんと、この禁欲生活にも慣れてくるだろうから、しばらくはそう取り乱さないでくれ。様子を見てくれ。彼らは言いました。
たしかに、まだ来たばっかりだったし、一度のことで、そう強くでるわけにもいかなかったので、そこは、おとなしく引き下がりました。そして、二週間の任務へと、戻ります。すでに私たちは気づいていました。この地に入ったときにはすでに、その猛烈な性欲は、なりを潜めていたことを。私は思いました。ここは一体どこなのだろう。何なのだろう。我々は何をしているのだろう。機関砲のようなものを洗えと言われれば、四人組みにされたその集団は、機関砲のようなものを洗い続けます。航空機の設計士もいたようで、彼らはずっと設計図とにらめっこです。ただし、同じ場所で、作業を行うことはなかったので、別の部隊が何をしているのかは全くわかりません。食堂で一同が介したときに、共通の話題である休暇中に起こる肉体の変化について、見ず知らずの男と、会話を交わすくらいでした。
ある男は、こう言っていました。飢えて飢えて、つまりは渇望しているような気分に襲われるのだと。
私たちは休暇が明けるたびに、仲間の男たちと、その後の経過について、語り合いました。確かに最初のときよりは、いくぶん症状は和らいだようにも思います。あの司令官の言うことが正しいのかもしれない。このまま何度も行き来を繰り返していけば、元に戻っていくのではないか。適応していくのではないか。しかし、ここで私は、恐ろしいことに気づくわけです。この任務は、永遠に続くのでしょうか。違います。いつかは終わります。解任されます。そのとき、一体、何が起こるのでしょう。私は想像するだけで、ぞっとしました。それは、性欲という限定したものに、そのアンバランスの捌け口を、求めるとは限らない。出所はまったくわからない。しかし、大暴発という形で・・・。やめましょう」
『あなたの、エリア151という場所での任務には、終わりがあった。今、こうして、過ぎ去った日々のことを、私に話をされているわけですから。その大暴発というのは、起こったのですか、起こらなかったのですか』
codeNAME20は即答した。
「起こりました」
二 色彩感覚
「採掘作業をしているグループもあったようですよ」
codeNAME36は、証言する。
「そこの山というのは、単にこの場所を封鎖して、閉ざす役割だけを担っているわけではなかった。大きく分けると、我々は、航空機の製造と、その航空機に乗せて移送する物質の採掘をする人間に、別れていたようなんです。ほんとに、おおまかですけど。私はずっと、航空機の部品の一部の開発に携わっていました」
『採掘ですか。鉱山だったのでしょうか』
「そう思います。このエリアは別にみなさんが考えているほど、特別な場所ではないと思うんです。シークレットにしたのも、それは利害関係が、多く影響していたからではないでしょうか。ここで取れる鉱物を独占したかったから。ええ、国家がね。そして、その鉱物の採取には、特殊な防護服や機材が必要だった。だから軍が担当した。航空機にしてもしかり。きっと、従来の機体では、運ぶことのできない要因がたくさんあったのでしょう。飛行機も、特別仕様にしなければならなかった。このエリア151内で、その機体の製造も行った」
『それは、あなたの個人的な考えなのですか?』
「そういうことになりますね」codeNAME36は答えた。
『事故を隠微するということが、常態化されていたようですけど。すぐに立ち入りを禁止にして、外には嘘の情報を流す』
「国家機密事項ですからね。当然です」
『防護服の感じからは、放射能の侵入を、防ぐような構造に見えますが』
「おそらくそうでしょう。その鉱物は、大変なエネルギーを有していた。扱うのが困難な物質だったのでしょう。私は、採取してくる人間ではありませんでしたが、このエリア151での生活において、我々は、かなりの放射能を浴びていたように思います」
『健康に問題はなかったのですか?その、今となっても?』
「人によると思います。幸い、私は後遺症のようなものに悩んではいません。しかし、仲間うちの人間には、その作業中に気が狂ってしまった人間もいたし、休み明けに、出勤してこなくなった人間も、たくさんいました。その離脱した原因が、我々に知らされることはもちろんありませんでしたが。いろいろな噂は飛び交っていました」
『感染病のようなものを、心配したことは?』
「もちろんあります。今でも実は怯えているんです」
codeNAME36は、正直に答えた。
『あなたの勤務期間は、結局、どれくらいに及んだのですか?』
「8年です」
『それは、長い方なのですか?』
「わかりません。仲間に訊いたこともない。同じ時期に入ってきて、同じ時期に出ていくという人間というのは、誰一人いませんでしたから。私よりも長くいた人間はいたでしょうし、あっというまに、いなくなってしまった人もいる。まあ、短い滞在だった人は、問題がはやくに起こってしまったか、死んでしまったか、そういうことなんでしょう。私は身体が受ける影響が、他の人よりも少なかった。ダメージを、あまり受けにくい体質だったといいましょうか」
『鉱物の話ですが』
「あくまで、私の憶測です」
『わかってます。あなたの証言に、こんなくだりがあります。その山々に囲まれ、閉ざされた地形では、色彩がときどき、劇的に変化したのだと。雨の降らない、その場所では、空は常に鮮やかな青色をしていた。陽が沈み、空が黒く染まっていくと、時々、山々が紫色に輝くのだと。あの、黄色い土で覆われた山々が。そして、夜明けと共に、その紫は白色へと変化していく。陽が登ってしまえば、また元の青と黄色のコントラストが、再現される。そう、証言なさっています』
「ええ。本当に、時々でしたが」とcodeNAME36は答えた。「そのとき私はこの地帯の本性を、ほんの少しだけ垣間見たような気がしたんです。やはり鉱物を採取しているのだと確信したものです。鉱物を安全に採取するための技術、そして問題なく移送するための技術。それが、このエリア151の存在目的だった。そう信じているんです」
『今でもエリア151は存在しています。もしあなたが信じている理由が本当だとして、それは今でも変わらずに続いていることだと思いますか?相変わらず、最寄りの空港からは、そこで働く職員、保安員っていうんですか?社名のないジェット機が彼らを乗せて飛び立つ様子を見ることができる。表面上は、ずっと継続されています。中の作業も、そうなのでしょうか』
「私たちのときは、おそらくはまだ、工法が確立されていないときであって、むしろ我々は、開発段階で、召集された技術者であるのだと思います。今の人たちは、どうでしょう。もう確立されているのですから、研究者や技術者というよりは、ただの作業員なのかもしれません」
『また、何か、別の機密の作業をしているのかもしれません』
「どうでしょう。いろいろと複数のプロジェクトが立ち上がっているのかもしれない。もう、我々のときのような鉱物の採取、そして運搬というようなことは、おこなわれていないのかもしれない。全く別の新しい目的で、あの場所が、使用されているのかもしれない。全くわからない」
『記録の上では、まったく存在していない場所では、ありますからね』
「こんなにも、保安院を乗せたジェット機の存在を、肉眼で確認できるのにね」
『かつて、働いていた人間も、こうして表に出てきているのに』
「ええ」
『カモフラージュ説も、いまだに根強いですが』
「何ですか?」
『カモフラージュ説です。かねてからありました。エリア151が、実は、機密軍事施設なのではなくて、本当はもっと別の場所にあるのだという説です。それを隠すために、わざと、ここを外目にさらして、わざと情報を流して、注目されるように仕向けて、でも本当は・・・』
「やめてください。失礼じゃないですか」
codeNAME36は、初めて声を荒げた。そして激怒した彼は、その後のインタビューをすべて放棄して、帰ってしまった。
次の証言者へと移る。
三 継続型保安員
「それなら、ずっと任務していた方がましだと、申しでました」
codeNAME131は言う。「二週間エリアの中に居て、一週間エリアの外に出るという生活には、どうしてもなじめなかったんです。すると、その申し出は、あっさりとオーケーされました。私はぶっ続けで働いて、何か問題はないのかと自分から訊ねる恰好になってしまいました。司令官は問題はないと、威厳に満ちた声で堂々と答えました。しかし、会話を文書として記録することはなかったので、この私たちの問答も、当然のことながら、ほんの束の間の夢幻というわけですね。途中で倒れてしまっても、彼らとしては別に構わない。使えるだけ使って、あとは死んでしまっても構わないと。私は自分から申し出てしまったことで、後には引けなくなりました。
それからの私は、時間の感覚がなくなるまで、エリア151に居続けました。気違いになるくらいに働き続けました。幸い任務だけは何度も変わったので、気分はそれほど塞ぎ込んでしまうことはなかった。我を忘れて私は作業に集中しました。大食堂での食事中も、私は他の人間と食卓を並べることもなかったし、彼らの会話のほとんども、ずいぶんと遠くから耳に届いてくるくらいでした。私はこのエリアの空気に同化してしまっていたのだと思います。いつか、心身に大きな問題が発生することに、怯えながらも。私の体調は日々崩れることはありませんでした。出たり入ったりのサイクルだったときには、あれほど気が滅入ってしまっていたのに。ただ、このエリアには、女性がまったくいなかった。なので、私は健全な性欲を処理することに、問題がありました。それさえクリアできれば、もう我をわすれて、ずっとここに居てもいい。そう思い始めていたのです」
『あなたも、やはり、今はエリアの外側にいます。そして、軍人の職務も、退役なさっている。他の多くの人たちと同じ過程を経ている』
「どうやら、半永久的に、人間を使うことを嫌うようです。当然のことです。みな、ある日突然に解任を言い渡される。そうでなければ、途中で病に倒れてしまうか」
『特殊な兵器を研究開発していて、製造しているのではないかという、黒い噂がありますよね』
「知っています」とcodeNAME131は即答する。「しかし、それはあくまで、噂ですよ。そんな事実はないと思います」
『しかし、あなた方は、部品ごとに作業が事細かに区切られていて、その司令官でさえ、全貌を知りえないシステムになっていたと聞きましたよ』
「兵器の開発はないと思います。そう信じています」
『いいでしょう。それと、これも噂の域を超えないのですが、質問を続けてよろしいでしょうか』
「構いませんよ」
『エリア151から飛び立っていく飛行機は、一日、十便を超えていたそうですが、これにも証拠があります。撮影に成功した外部の人間もいます。その飛行機が』
「ちょっと待ってください」codeNAME131は、インタビュアーの言葉を遮った。
「10ではとても足りないと思います。それに、外部のどなたか知りませんが、普通のカメラで撮影できるほどの音速の飛行機を、我々は飛ばしていません。カメラにもレーダーにも、捕らえられない工夫が施されていますから」
『わかりました。それでですね、その飛行機が、あるとき事故を起こしたのです。そして当然のことながら、エリアの司令官は、その事故を隠滅するという行為に出た。外部には嘘の情報を流す。そうですよね』
「事故のことは聞いたことがあります。その処置にあたった人間が大勢いたということも把握しています。事故の処理についても、全貌を知る人間は誰もいないんです。細かく作業を切り刻んで、とにかくたくさんの人員を使って、それで、実体をわからなくしてしまうんです。しかし私は最終的にどうしてしまうのかを知っています。エリアにずっと居続けた私は、我々保安員が入れ替わるときに、唯一入れ替わらない人間だったので、司令官の何人かが、事故現場に出向いていく瞬間を見てしまいました。彼らの車の後部座席の下に、私は潜りこみました。彼らは事故現場に絵を描いていたんです。今現在、地上絵と呼ばれているものです」
『本当ですか?地上絵は、エリアの人間が描いたんですか?一般には、古代の人間が描いたと言われていますけど。実は、数十年前に描かれていた、ですって?信じられないな』
「証拠があるわけではありませんが、飛行機の事故と、地上絵の位置は、完全に一致しているはずです」
『そんなはずはない。あなたは嘘を言っている。攪乱させようとしている。帰ってください。私たちの取材には、必要のない人です。どうも、最初から怪しかった。二週間勤務のサイクルとは、違う働き方をしたって、それも嘘だったんだろ。君は信用ができない』
「あなた方は、古代人が描いた絵だと思っている、その地上絵。それは、エリア151からは、近い場所にあるわけではない。けれど、エリア151と、大都市を結んだ線の、ちょうど、その間にあることは明白ですからね。飛行機の航路になっていたことが、一目瞭然なんですよ。たとえ、僕が証拠隠滅と、地上絵のあいだに何か関係があると、勘違いしていたとしても、輸送航路と地上絵の位置には、密接な関係がある」
『輸送航路?やはり、飛行機は、何かを移送していた。そうなんですか?そうなんですね』
「ええ。輸送していたようです。エリア151と、大都市を結ぶ航路が、確立されていたのは信じてくれますよね?あなたが言うような兵器では、絶対にありませんけど。そんな重いものを詰めるだけの機体は、どこにもなかったから」
『兵器といっても、コンパクトなものかもしれないね。超小型の武器の製造をしていて、常に都市へと輸送していた、とか』
「何のためにですか?輸送された武器は、都市でどのような経路を辿って、誰のもとに?都市で消費されるものなんですかね。それとも、都市を経由して、どこかに?まさか海外に?」
『超小型ですから』
「ですからって、まるで知っているかのように」
『でも、都市に輸送していたとして、一体、その飛行機は、どこで発着陸をしていたんですか?どんな機体だったんですか?プロペラ機並みの小型音速機だったんじゃないですか?一人乗りの。それこそ戦闘機のような。本当に小さいんだから。輸送するものというのは』
「あなたこそ、ずいぶんな思い込みだ」
四 家族との確執
「そんな生活のサイクルに、家族が不満をぶちまける事が多くなりました。当時、私は、妻と三歳になる娘、そして私の父親と同居しておりました」
codoNAME22は言う。
「最初の頃は妻と父親が、私がいない中でうまくやっていけるのだろうかと、心配になりましたが、それは杞憂に終わりました。むしろ、次第に、私が彼らの中に入っていくことのほうが、困難になってしまったのです。娘も、なつかなくなっていました。妻との仲も、完全に冷え切ってしまいました。そして、自分の父親ともだいぶん距離ができてしまった。何より、父親との亀裂が痛手でした。というのも、私と父は、ただの親子では片づけられない、特別な関係があったからです。私が軍の仕事に入る前、父は会社を経営していました。私がちょうど二十歳になるとき、父は自分で事業を起こしたのです。私は大学を卒業したあとで父の会社に入社しました。経営は軌道に乗らず、まさに倒産寸前でありました。私はその当時、何の目標も夢も持っていませんでした。父を助けようという気持ちもありませんでした。けれどあのとき何故、父の会社に入ってしまったのか。今でもわかりません。彼が手伝ってほしいと、私に頼んだわけではなかったし。私は倒産寸算の父の会社に、何の想いもなく、ただ足を踏み入れてしまったのです。父は一人孤軍奮闘しても、何もうまくはいきませんでした。そして、私の方も、一人で将来のビジョンをつくろうと思っても、それは白紙のままだった・・・。時間は止まったままだった。しかし、私たちが、同じ事業に向かって肩を並べると、これが不思議と物事が進展していくのです。普段は何も思い浮かばなかった私でしたが、父の事業に関しては、天啓を受けたかのように絶妙なタイミングで、的確な指示を出していたようなのです。父も普段なら苦手な取引先との交渉を、何故か生き生きとこなすようになっていました。事業は上向き、そして小さな成功ともいえる成果をおさめました。しばらく、そのような生活が続いたあとで、私は結婚しました。そして、子供を授かります。私は、その生活の変化と共に、仕事でも新しい環境を求め始めたのです。軍務への応募は、そんなときに偶然見かけた、広告がきっかけでした。
私はずいぶんと、急激な環境の変化を、自分で起こしてしまったようなのです。
私は軍人を経て、《エリア151》に任務したわけではありません。直接、《エリア151》に採用されたのです。父は、私が転職をしてからというもの、しばらくは、そのまま事業を維持していました。しかし、次第に、衰退、縮小していき、そして引き払いました。父はすでに、70歳に近づいていました。引退のときを悟ったのです。そして同時に、私たちとの同居生活も始まりました。そのとき私は思いました。父とは仕事を通じてしか、わかりあえる仲ではなかったことを。普段の生活では、言葉をかわすことさえ、ほとんどなかった。何をしゃべったらいいのかも、全然わからない。世間話をするわけでもなかった。そういえば、大学を卒業して、父の会社に入るまでは、私は父とはほとんど会話をしたことすらなかったのです。内面的には、まったく、親子とすら呼ぶことはできません。家族であるとも、いえなかったと思います。共に、同じ事業に身を委ねたからこそ、絆を結ぶことができた。そういう関係だったのです。束の間の。
ところが、私が、エリア151との行き来を繰り返す生活になり、父と、私の家族の同居が始まったときに、私はぞっとしたのです。家に帰りますよね。愛想の悪い、知らない70歳近くの男が。いるんです。その横には、男に付き添う30代後半の女の姿。赤ちゃんをかかえています。この目の前にいる三人の人間は、一体、誰なのでしょうか。気味が悪い。私の家族のようには、とても見えません。私の家にもかかわらず、私は心がまるで休まらなかった。一週間という休暇も、ひどく心を悩ませ続けたのです。そんな、家族のようには感じない家庭の中で、長い時間、共に過ごさなければならないのです。何を話したらいいのか。女と、父との仲は、それほど悪いようには、見えません。女が腹をかかえて笑うことはありませんでしたが、二人は、少ない会話の中であっても、自然で、親密な空気が流れていた。私をよそに。娘をあやす女と、その父親、という光景も、何度となく見せつけられました。私は居間のソファーに座り、その様子を、居心地悪く眺めていたものです。入ってはいけない。彼らの輪の中には、入ってはいけない。むしろ、乱してはいけない。邪魔をしてはいけない。そればかりを思っていました。できるだけ、私自身の姿を、消していないといけない。そうと決まれば、私は自分の体調管理に集中するべきだと。次にやってくる、二週間の任務に向けて、体の疲れを完全に抜き取ることが必要だ。リフレッシュすることが必要だ。リフレクソロジーに、一人で頻繁に通うことも多くなりました。私は、他の軍務に携わる人たちとは違い、性的な能力の肥大に、悩まされることはありませんでした。どうも、それは幸いなことであったようで、例外なことであるらしかったのですね。
私のエリアでの勤務は、父と仕事をしていた期間と、ほぼ同じくらいでした。図らずも、そうなってしまったんです。最後は解雇という形で、私はエリアを去りました。大半の軍人と同じような結末です。それから、私は履歴書を持って求職活動に励みました。私は、妻と娘、父親を養っていかなければならない立場でしたから。ところが、履歴書に、エリアでの勤務を記載してはいけないのです。すると面接のときに、当然、相手からは訊かれますよね。ここに、空白の期間があるようですが、一体あなたは何をしていたのでしょうかと。私は答えます。父との共同経営の会社をたたんだ後は、特に何もしてなかったのだと。貯金をだいぶんしていたので、何もしなくても、生活はできたのだと。それであなたは、お金が底をついたからこうして求職をしている。そういうことですね。私は頷きました。それでもご参考までに、この空白のあいだに何をしていたのか。具体的に話してはもらえませんか。面接官は、私の生活態度のようなものを、聞き出そうとしていました。
この空白の期間が、私という人間の大いなる欠陥と、深く密接に関わっているということを確信していたのでしょう。私は耐え切れなくなり、怒りを爆発させる代わりに、エリアでの任務の内容を、正直に全部話してしまいました。今でも思います。何故そのようなことをしてしまったのか。しかし私は、誤解されたくなかったのです。ところが、そんな話を、彼らが信用するはずもありません。不採用が延々と続きました。父とは会話をすることはありません。妻とも。娘とも。私は、家を出ていく決心をしました。エリアでの勤務は、私の人生の時間における大切な部分を、根こそぎ持っていってしまったのです。そして、その後も影響は残り、こうして私の休職活動は続いていったのです」
codoNAME22の証言は続いた。
五 白い画家のカモフラージュ
「私は、その求職期間中、絵を描き始めていました。気持ちのやり場に困っていた私は、その捌け口に、キャンバスを選んだということです。どうしてかはわかりませんが、白を使いたかった。白いキャンバスに、白い色を使うなんて、狂気の沙汰です。けれども、私は、白の絵の具、鉛筆、クレヨンと、とにかくありとあらゆる白色を、そろえ始めました。そして、私は、白い狂気を画面へとぶちまけ始めました。空白の時空間に対する、怒りをすりんでいくかのように、刻みこんでいくかのように。そのとき、私の頭の中には、ゴッホの《種を蒔く人》という絵がありました。あの、画面一杯に、黄金に輝く太陽と、私は白いこの武器を使って、同化していったのです。キャンバスには、ほんのわずかな痕跡が残ります。光の当てる角度を変えると、わずかに、白い複雑な模様が浮かびあがってきます。ゴッホの《黄色い家》は、【白い家】へと変わり、《黄色いひまわり》は【白色のひまわり】へと変わりました。私は次第に、他の色をつかって下絵を描き、その上に、思い通りの白色を書き込んでいくという、手法をとっていきました。私は、履歴書の空白にも、やはり、白の色鉛筆で『エリア151』とはっきりと濃く記しました。面接官が問いかけてきても、その答えはすでに書いているよと、内心で主張するために。ささやかな反抗です。私は白い画家になりました。白い太陽が街を照らし、そして白い種が、白い大地へと撒かれます。白い家へと、白い農夫は戻り、白い家族が、彼を出迎えるのです。すべてが、白づくめ。それが、私のそのときの気持ちのすべてでした。存在するものは、私を含め、すべてが白色だったのです。もし、色彩が存在していたとするなら、それは白を引き立たせるための、白をそこに存在させるための、ただの脇役にすぎませんでした。背景にすぎませんでした。いったい、いつまで、この白い画家という私は、続いていったのでしょうか。もちろん、私の求職活動が終了する、その時までです」
―今は、白い画家なのですか?―
「そうです。そのとおりです。しかし、私は、今、仕事を求めて背広を着て、彷徨うことはしていません。そのとき描いていた絵が、売れたのです。私は『WHITE EXHIBITION』という個展まで開いてしまったのです。何ということでしょう。私が画家ですって?そんな馬鹿な。ところが、不思議なことが起こりました。私は絵を売りました。そして、求職活動をやめました。これは私が一時的にでも、職業を得たということを意味しました。すると、どうでしょう。私はまったく絵がかけなくなっていたのです。絵を描く気すら、起こらなくなっていたのです。あれほど日課にもなっていたのに。いくら、絵を描くことを中心に、一日のリズムを組み立てていこうとしても、私はキャンバスの前に立つことすら、拒否反応を示すようになっていたのです。さらには、白色などは、使う気にもなれない。それこそ黄色を使って、ゴッホの絵でも模写してやろうかと、それならまだ描くことは可能かと思って、試してもみました。けれど駄目でした。私は、元の自分に戻っていました」
『展覧会の方は、どうなさっているのですか』
「結局は、その一度きりでした。お客さんの中に、絵を売ってほしいという人がいたので、その人にすべてを売りました。そのお金で、今は生活をしています。そのお金が底をつけば、私は再び求職活動をしなければなりません。エリアで働いたその期間は、私の人生の中ではまるで存在していなかった履歴として、いまだに残ったままです」
―そうですか。それで、その、あなたの絵を購入したという人は、誰なのですか?』
「誰とは。名前を言えってことですか」
『どんな人でしたか』
「そんなことはわかりません。素性はわかりません。五十代くらいの男性の方でした。玄関に飾る絵を探しているのだと言っていました。私の白の使い方が、大変気にいったと言っていました。名前は伺いましたが、忘れてしまいました。現金で買っていかれました。それっきりです」
『そうですか』
「何か、気になりますか?」
『気を悪くしてしまったら、御免なさい』
「私のですか?」
『ええ。その絵を購入した人物というのは、エリアの関係者だったんじゃないですかね』
「なんですって!」codeNAME22は声を荒げた。「そんなわけ、ないでしょ」
『あなたは尾行されていたんですよ、きっと。あなたの中の葛藤が絵として存在してしまうことを、連中は嫌ったんです。エリア内の機密が、暴露されてしまうことを恐れていた。何かヒントのようなものが、暗合のようにビジュアル化されてしまうことを、止めたかった。あなたの絵を買うことで、その痕跡は抹殺することができる。そしてあなたは、お金を手にすることができる。求職活動に血眼になる必要がなくなる。あなたのエリアでの空白期間を、執拗に問うてくる人間もいなくなる。あなたの葛藤が、顕在意識に湧き起こってくることも、なくなる。絵は描かない。機密が外に流れ出るきっかけを、防止することができる。あなたへの監視は緩む。けれども、断続的に追跡されている』
「私はね」codeNAME22の声のトーンが、急激に下がった。
「今は、家族と、一緒ではないのですよ。妻が勝手に、離婚の手続きをしてしまったのですよ。娘を連れて出ていってしまった。父が、その離婚の手続きに力を貸していたようです。そして、その父もまた、家を出ていってしまった。私がエリアで働いていたときの給料は、妻が最初から管理していたので、当然のごとく、すべてを持っていかれました。こんなことは考えたくないのですが、その、うちの妻はですね、そのまさかとは思うんですけど、父と再婚しているんじゃないかって、思うんです。少なくとも、同居を続けているんじゃないかと。本当は、おじいちゃんであるはずの男のことを、娘はパパと呼んでいるんじゃないかって。そんな妄想に襲われるんです。私を家族から外すことで、みんなは幸福になった。私など、最初から、存在してなかったようにすることで・・・・。私の疎外感は、今にはじまったことではありません。若いときからずっとそうでした。学校に通っていたときも、職についていたときも、いつどんなときでも、疎外感から、逃れることはできなかった。私の皮膚に、ずっと纏わりついていた。そんな私でしたから、エリアで働く職員としては、実に、適任だったのかもしれません。なら、どうして、解任に?あのまま死ぬまでずっと、エリアの職員であり続けたら、よかったじゃないですか」
『お気の毒です。エリアにも見放されてしまって』
「だから、あなたには、私の知ってるすべてを伝えたい」
codeNAME22は、涙まじりの眼で、インタビュアーに懇願するよう見つめていた。
『大都市とエリアを結ぶ、航空のラインがあって、エリアで作った特殊兵器を、都市に運んでいたという噂があるんですよ』
「えっ?」
『そう驚かないでください。聞いたことはあるでしょ?』
「い、いや。いやいや、それは、デマですよ」
『数人の保安員から、すでに聴取しているんです。あなたが、そのことについて話してくれないのであれば、ここで、あなたへのインタビューは打ち切ります』
その言葉に驚いたような表情を浮かべた、codeNAME22は、あっさりと輸送についての事実を語り出した。
「こちらからの、一方的な輸送ではなくて、何らかの、交換をしていたようです」
codeNAME22は言った。
「もちろん、これは私の勘であって、何の証拠もありませんけど。しかし決して、兵器ではありません。何らかの完成品を、大都市に納品していた。その帰りの便では、おそらく、材料を調達していたのでしょう。入れ物です。入れ物を調達していた。エリアでは、鉱物を採取していたように思います。それを物理的に移送するための、あるいは、封じ込めておくための入れ物」
『見たことはないんですね』
「ええ。しかし、エネルギー産業との密接な関わりは、確かにあったのだと思います。あなたが、秘密兵器の製造を疑うのも無理はない。あるいは、もしかしたら、初めは兵器の開発の方に、構想はあったのかもしれない。何せ、軍の施設を引き継いでいますから。しかし、だんだんと方向性は変わっていった。しかも、今現在に至っては、軍が管理してはいないんですからね。民間の施設になっているんです。丸ごと買い取った人物がいるようです。今は、私物になっているんです。同じ場所で、同じ施設を有しながら、我々のときとは、まったく違う仕事をしているに違いない。しかし、あの場所の特性は、いつだって同じです。あなたはそれを知りたいんでしょ?あの場所の変わらない特性を。それが過去から未来に向かって、どう変化していくのか。使い方。目的。まず、私が言えることは、オーナーが変わったということです。もちろん、あなたも、そのことを、掴んでいます。逆に質問をしますが」
『いえ、まったく知りません』
「ご存じない?」
『もっと、詳しく教えてほしいです』
「詳しくだなんて、とにかく、軍から民間の会社の経営に、移行したんですよ。そこで、職員の大半が解雇された。私がやめたのも、ちょうどその時です」
『何故、あなたが、そのことを知っているのですか?他に、そのようなことを証言している人は、誰もいません』
「私は今でも、後遺症に悩まされているんです。時々、そうですね、二か月に一度くらいでしょうか。眼球がチカチカと点滅するんです。朝起きてしばらく経つと。そして、その後、吐き気に襲われます。点滅はほんの小さな点から始まり、次第に視界全体へと広がっていく。これは恐怖ですよ。それは目を瞑っても、逃れることができません。おそらく、脳に問題があるのでしょう。あっ、すいません。そんな話をしていたものだから、何か、はじまってしまったようです。失礼。点滅が始まってしまいました。まだ気分は悪くなりません。点滅が最大になったときに、強烈な頭痛が始まります。そして立ってはいられなくなる。あ、駄目だ。何か冷やすものを。すいません」
インタビュアーは、アイスノンを持ってきた。
『これでいいですか』
インタビューは、しばらく中断を余儀なくされた。
codeNAME22は横になった。インタビュアーは二時間ものあいだ、彼が復活するまで一緒に付き添った。彼は目を閉じ、そのまま死んでしまうかのように、安らかに静止し続けた。眠ってしまったのかと思ったが、ときおり、codeNAME22はインタビュアーに声をかけてきた。側に誰もいなくなるのが不安だったようで、インタビュアーが離れてしまってはいないか。確認するような感じだった。
一時間が過ぎた頃、codeNAME22は、インタビューに向かって再び話を始めた。
「とにかく、冷やすことが肝心なんです。何度目かの時に、私はそのことに気づきました。熱が発生してしまっているようで。しかし、発熱という形では現れない。でもこうやって、額とこめかみに当てることで、この強烈な頭痛を和らげることができる。これは、偏頭痛なんですかね。私たちに何かが近づいてきている証拠ですよ。この街に。この世界に。この地球に。これは警報でもあり、警告なんです。おそらく、私がエリアの中にいたときに、手術で頭の中にチップのようなものを埋め込まれたのでしょう。そして、エリアの中で私という肉体を使って、どこか遠い世界の何かと交信をしていた。しかし、エリアを出るときに、そのチップが外されることはなかった。そのまま残されたかたちで、その後の生活を営んでいかなければならなくなってしまった」
『病院を紹介しましょうか?』
「ええ。是非。はっきりと、させておかなければなりません。これは、単なる思い込みなのか、それとも、本当に何かが埋め込まれているのか」
『病気かもしれませんよ。あなたの個人的な』
「もちろん、そうかもしれません」
codeNAME22は言った。
「でも、エリアの中において、私は、手術室にいる自分の記憶が、残っているんですよ。脳を開閉され、中に手をつっこまれ、抉られ、・・・」
『しかし、それなら、どうして、エリアの司令官たちは、あなたが出るときに除去する作業を怠ったのでしょう。機密を外に持ち出してしまうことになる』
「何かが近づいているんです。遠ざかれば、また、私の脳は元に戻ります。探知機が埋め込まれているんです。人間探知機。とにかく冷やせば、視界の乱れはなくなる。あとは、ひどい頭痛と、わずかな吐き気が消えるのを待つ。三時間もすれば治りますから。インタビューは問題なく続けられる」
六 流失画像
シカンは、ドキュメンタリー番組の制作のために、かつてエリア151で働いたことのある元保安員への取材を、精力的にこなしていた。撮ったインタビュー映像を見直し、編集作業を続けていた。
そして、ある一人の元保安院から一本のテープを渡された。エリア151内で撮影された映像であり、彼は解雇されるときに、その一本を盗んできたのだという。どういうつもりだったのかと尋ねたが、彼はほんの出来心だと答えた。流失させたかったのか、というシカンの問いにも、そういうつもりはなかったとはっきりと答えた。
しかし結果として、ドキュメンタリー番組の制作スタッフの元に、持ち込んできたわけで、シカンは、その報酬を、制作の上層部に持ちかけなければならなかった。彼らからは、五十万円という値が出された。しかし情報提供者は、一千万円だと言った。そんな大金は出せないとシカンは言った。男はとにかく映像を見てほしいと、シカンに迫った。まだ、他の誰にも見せてはいけない。買い取るかどうかは、それを見てから決めてほしいと。あなたが上層部を説得することになるだろうと、男は確信に満ちた口調でシカンに言った。
画像は、黄土色をした山々から始まる。
航空機の往来をとらえ、そして、機長やらが降りてきて、カメラの前でピースをする。
やはり、軍事基地に違いなかった。格納庫がいくつもあり、軍人や技術者が犇めいている。背後には、彼らが寝起きをしているトレーラーハウスの連なりが見える。カメラは格納庫の一つに入る。航空機はなかった。代わりにベッドが置かれている。映画のセットのような場所になっている。医師がすでに四人いる。男が一人横たわっている。すでに、額から上がぱっくりと開いていて、四人の医師はそれを見て、何か相談をしているようだ。見ようによっては、何らかの事故で頭蓋骨をやられてしまい、すぐに運ばれてきているようである。モニターが三つほどあったが、そこではニュースが流れていた。戦争が始まったことをアナウンサーは連呼していた。真珠湾に日本軍が攻めてきた。日本は数年前に内閣総理大臣を暗殺するという事件が起きており、さらには閣僚の何人かが襲われ、負傷するといった事件が頻発したのだと放送している。
四人の医師は、ニュースには見向きもせず、ずっと横たわった男の頭蓋骨を見ていた。中をよくみている医師もいた。剥き出しになった赤い塊の細部を、ここぞとばかりに細かく観察しているのであろうか。
一人の軍人が、格納庫に入ってきた。
「エリアに接近してくる航空機の存在があります」
「それで?」
「撃ち落とす準備に入っています。しかし、万が一のことがあります。とりあえずは、避難してください。地下施設に逃げて、さあ、はやく」
四人の医師は、ベッドに横たわる男を気にやみながらも、格納庫の外に出ていってしまった。
カメラは固定されたままで、横たわる男をずっと写し続けていた。
「解放軍だって?」
格納庫を後にする医師たちの声が、聞こえてくる。
「このエリアの解放を、使命とする男たちが、やってきているらしい」
「どうして、そんなことがわかるんだ?」
「ここの、極秘プロジェクトを狙っているらしい。俺らが、ここに監禁させられているということで、それを大義名分に、攻めこんで来るらしい。俺らを、助けるという名目で」
「馬鹿馬鹿しい」
「近づいている。どんどんと、接近している」
その言葉だけが、残された男の静止画像と共、に響き渡っていた。
ほったらかされた台の上の男のもとに、医師たちは戻ってくる。
「撃ち落としたようだな」と医師の一人は言った。
「はやいところ、チップを埋め込もう」
別の医師が言う。
台の上の男は、眼球こそ開いていたものの、意識はなかった。
「とりあえず、ここに隠しておけば、誰かが攻めてきた時でも、機密は守ることできる。特に、エリアで働くことをやめる人間は、最適だ。あとから、遠隔操作で必要な時に、その男の脳にアクセスして、情報を引き出してくればいい。このエリアの内部に機密が保持されていると、外部には思わせておけばいいのだからな。本当の機密情報は、エリアの外に、予想もつかない形で、ランダムに点在しているというのが理想だ」
「何かが近づいているな」
一人の男が言った。
「巨大で、濃い雲に覆われてきた。ちょうど、この山の配置が、雨雲を引き寄せるんだ。心配はいらない。いつものことだ。山々を囲むように、外側には、巨石が円形状に並べられている。実は、この配置にも、エリアの秘密が反映されている。天からのエネルギーをうまく受け止められる構造になっている。そして、山で増幅させ、その内側へと流れ込んでくるシステムになっている。だから、外部から飛行機が近づいてこようとも、それらの速度は、急激に減少して計器は乱れ、弱々しく落下していく。撃墜するのは、実に容易い。この場所で、我々は、兵器を製造しているという噂が、世間では広まっているようだが、それは違う。エネルギーを呼びこむラインを、構造的につくっていることで、そのエネルギーを呼び込み、集約し、そして時には、加工し、精製して、あるいは増幅して、必要な場所へと、エネルギーを輸送している。我々が、エネルギーを最も必要とする場所。そう、それは都市だ。大都市への輸送を、我々は請け負っている。これが真相だ。ここはエネルギー輸送の拠点だ。
自然界のエネルギーを、人間が生活していくためのエネルギーへと、変換する、その主な場所。パイプラインの建設は、困難だったから、そして不可能だったから、航空機を暫定的に使っているんじゃないのか。さっきも言ったように、エリアには、強烈なエネルギーが注ぎこまれ、複雑なラインを形成している。特別な飛行機でないと、出入りすることができない。その航空機の開発も、エリアの内で行っている」
医師の男は、饒舌に説明を続けた。
台にのせられた男の脳へのチップの内臓は、そのあいだも淡々と続けられていた。
その退屈さを紛らわすかのように、男はずっとしゃべり続けていた。
「だが、エリアと都市を往復する飛行機が、墜落事故を起こした。空気中に、エネルギーを飛散させてしまったのだ。気づかれる前に、回収しなければならない。人々に気づかれてしまう、どんな現象を引き起こすのか。まずは、それを、正確につかまなければならない。そして、わかったことは、時空間に亀裂が加わるということだ。そういう事態が起こった。これには、我々も参った。元に戻す処方箋など何もなかった。お手上げだ。しかし、このことで、エリアが疑われることはまるでなかった。それならと、我々も、このまま見過ごしてしまおうかとも思った。しばらくすれば、元に戻るのではないかと、楽観視しようという意見も出た。
だが、状況はますます分断してしまう方向へむかってしまった。
それが、物理的に、ビルを崩壊させるということにもなった。
街に、火災を引き起こす要因にもなった。
しかしね、我々を疑うものは、誰もいない。
それどころか、都市に住む人間は、自分自身を責めることをし始めた。
この都市文明の維持、発達のために心の中で封印してきたもの、その眠らされたものが、ここにきて封印をとき始め、抑圧され、歪められた真実が、異様な臭気で吹き出し始めているんじゃないかと、自分たちの問題にしたのだ。
確かに、そういう側面はあった。それが、たまたま、我々の起こした事故によって、誘発されてしまった。おかしな偶然は重なった。そうなれば、エリアの存在はますます、彼らの中では希薄になっていく」
チップの内臓化は、終了する。
「この映像、どう思います?」
codeNAME226は、インタビュアーを上目づかいで見た。
『やはり、一千万は出せないな』シカンは言った。
映像を持ち込んできた男は、すかさず反応を返す。「金の話ですか」
『他にも、映像はないの?』
「純粋に、どう思いましたか?」
『どうもこうも、君はこのチップが埋め込まれた人間が、自分だと思っているようだな。その後遺症に、今も悩まされている。後遺症という言いかたは違う。君の脳は、彼らエリアの中の人間に、都合のいいよう使用されている。コンピュータの中における、シークレットな情報の置き場所として。アナログ的に言うと、コインロッカーのようなものか』
「私は、エリアの秘密を、まだまだ握っているんですよ」男は答える。
『いずれにしても、危険極まりない施設であることは、間違いない。そして、その施設は、今や、軍のものではないということだな。民間人が買い取ったって、そんなことがあるんだろうか』
七 新兵器
ついに、重要な証言が出た、とシカンは興奮を抑えきれなかった。
「その事故を、エリアは、逆手にとったんですよ。そのような時空の乱れを誘発する、兵器の開発に乗り出したんです。
結集して、加工して、精製した、エネルギーを、エリアは意図的に、空間にばらまくシステムを作ろうとしたんです。事故という形をとらずに、しかも、眼にはみえない透明なものを。司令官が、そういう話をしていたのを、私は立ち聞いてしまった。実際に、そのようなものが製造できたのかどうか。実験的なことを、行ったのかどうか。それは、私にはわかりません」
『その軍の極秘施設である、《エリア151》を、丸ごと買い取った個人がいるというのは・・・その話をしてください。その企業というのは、一体』
「それも、はっきりした情報は、わかりません。元司令官の誰かの家系がそっくりと引き継いだのだということは、聞いたことがあります。しかし、表面上では、変化はまったくなかったので、すべての噂はうやむやに」
『基本的に、その人物の、個人資産になってるわけですね』
「そう思います」
『さまざまな技術的な資産も、継承した』
「ええ」
『その、透明な兵器も』
「どうでしょうか。しかし、私はこうも思います。エリアを買い取った人間が、どういう意図を持っていたのかはわかりませんが、そもそも軍が、どういった目的を持って、その場所をつくったのか。エネルギー産業を、裏で立ち上げ、革新的に利益を上げたかったということも、もちろんあると思います。主流のエネルギーだけでなく、極秘に流通するエネルギーを握ること。大口の個人の顧客をとるような。しかしいずれは、表舞台に登場させて利益を独占するような・・。実体としては、国営ということです。国有の産業。アフリカや中東の原油と同じことになる。そういった国営になることを、誰かが嫌ったのかもしれない。その買い取った人間のように。もちろん、そのエネルギーは、武器にも転化できますしね。軍事に用いることもできる。使い道というのは、さまざまです。所有する人間の善意や悪意によって、結果はまるで異なってしまう。もし、時空を乱すことに、そのエネルギーが使われるとなると、我々は、どんな影響を受けるのでしょう」
『今現在、ある局地的な世界では、そういった現象が、頻発しているのですよ』
「もう、その兵器は、使われ始めているのだと、そうおっしゃるんですね」
『ええ、事実上』
「いや、たとえそうだったとしても、私には理解することができない。そこには、どんな戦略があるのかわからない。使いどころは、いくらでもあるんですよ。いいですか。世界の主流の文明は、これから自然とテクノロジーの高い融合というか、調和ということを、最大の目標として掲げて、自然と人間の人工物の、より高い一体感というものを、目指していくことでしょう。それは、当然のことです。そこには、絶対的に、科学の力が必要です。しかし、そういう社会が実現されていくにつれて、また別の側面も、究極的に持ち上がってきます。人間の精神です。精神に与える影響というものがあります。これは、たとえ、自然と人間の生活上の高い融解点を探っていったとしても、けっして解消するものではない。人間の精神、つまりはもっと言うと、狂気です。それも、一種のエネルギーです。こっちのほうも、消えてなくなりはしない。合理的で効率のよい、居心地のいい世界が実現することに比例して、残虐性は着実に育まれていく。綺麗に着飾れば着飾るほどに、心の奥底では、秘めたる暴力性が加速度的に増していく。この溜まっていくエネルギーをどう解放、解消していくのか。人間全体としての戦略は、ありますか?その絶対的な方法を真剣に考えている人間が、一体どれだけいるのか。私はそのことが心配なんです。自然と人間の知能の、最高の融合点に向かったその影に対抗できる、強烈な精神世界の創造に、いったい、どれだけの人間が関わっていこうとしているのか。両者は比べるまでもない。前者は、社会のほとんどの産業と結びついていて、人々はそのような世界が実現するために働き、そして家族を持ち、子供を育てていくわけです。特に深く考えなくとも。完全に一方に偏っていくイビツな社会の創造に、人々は無意識に参加し続けています。私が何の話をしているのか。実は私にも、よくわかっていないんです。
何の話でしたっけ。どこから、脱線してしまったのでしょう。個人が買い取ったエリアの話でしたか。その人物というのは、いったい、どのような価値観を持っているのか。それによって、この膨大なエネルギーの使い道というのが、大きく変わってくる。その理想社会が、達成されていくにしたがって、人々の個人的な能力というのはおそろしく低下していくことが考えられる。テクノロジーが人間の潜在的な能力に変わって、先行していくんです。人間が一人で壮大な世界をつくるとか、発明するとか、そういう必要性が、なくなっていく。最初から最後までの製造工程を、一人でこなすとか、一人で岩窟一杯に、聖像を掘っていくとか。そういう、一人が過剰なエネルギーをかけたような仕事を、つまり、自身の全生命エネルギーをかけて完遂するというような仕事が、ほとんどなくなってしまうということです。人間一人のエネルギーは低下していきます。そのエネルギー不足を、エリアはいとも簡単に、都市に提供することができる。都合のいい話です。もちろん、エリアの新しいオーナーがそういったことで、莫大な利益を吸い上げていくという可能性は大きい。しかし、時空を乱すという兵器に、エネルギーを投入していくとなると、その目的が、皆目私には分からない」
codeNAME226は、インタビュアーの相槌も無視して、ものすごい勢いでしゃべり続けていた。
「あるいは、その新しいオーナーという人間は、社会を支配し、人々をコントロールするということに関しては、興味がないのではないかとも思うんです。エネルギーの利権を一手に握り、そして自然とテクノロジーの、最大の融点を達成し、楽園に近い世界を創造して、平穏で安心で安定した共同体へと、人々を導いていく。そういったビジョンはまるでなくて、そんなことよりも、それとは、正反対の力。人間一人に備わっている膨大なエネルギー、そして、その、開花。そのことを掴むきっかけとなる環境に、この新しい所有者は、作り替えようとしているのではないかと、むしろ、そんな気もするんです。そのきっかけとしての時空の揺さぶり。解放者としての彼というものを、想像してしまう。もし、そうだとすると、エリアの未来的な存在意義としては、新しく到来する自然と、テクノロジーとの、高い融合を実現した文明に対して、まったくの違った世界観を突きつけることになる」
八 codeNAME22
「家族の元に、私は、帰ることができました」
codeNAME22は語った。
「父と、私の元妻が、新しい家庭を築いているところにです。そして娘も、今や戸籍上、自分の子ではなくなりました。何故、そんな場所に帰ることになったのか。私は居候のような形で、この家庭で生活をすることになったのです。不思議なことに、特に苦痛は感じませんでした。私の生活は、誰にも干渉されることなしに続けられたし、彼らは彼らで、家族をお互いに大事にしているようでもありました。私と彼らの関係は、本当にフラットだったのです。愛憎が込み上げてくることもありませんでした。
私は彼らとはまったく接することのない新しい土地で、新しい人生を歩むこともできたのですが、父は私に電話をかけてきて、一緒に暮らさないかと提案してきた。妻(その時は、すでに父のパートナーになっていましたが)妻も同意していると、私に伝えてきたんです。一体、どういうつもりなのか。私は訊きましました。父は答えました。今まで通り、というわけにはいかないが、変なシコリを残したままに、残りの人生を過ごしたくはない。お前にどう思われているのか。それを知りたいわけではない。お前にとっても、次の人生に足を踏み入れる前に、おかしな精神を持ちこしてはいけないと思った。すべてを清算したい。今の状況が、私たちそれぞれにとって、最も自然であるということを、体感しておかないと、妙な誤解を抱いたまま、私たちは離れ離れになってしまう。そういうことには、絶対にしたくないんだ。
父は、そう力を込めて語りました。
二日後には、私は彼らの家族と共に、食卓を並べていました。ちょうど二年間、私は彼らと寝食を共にしました。そして、ある朝、私は、彼らには何も別れを告げずに家を出ました。おそらく彼らもまた、私が出ていくことを察していたのだと思います。私は何のしがらみもない真っ白な体で、一人駅に向かって歩いていました。もう後ろを振り返ることも、ありません。彼ら三人の家族に対する特別な感情は、何も湧いてはきません。二年の生活のあいだに、食事は常に一緒にとっていました。短い旅行に参加することもありました。ごくたまにですが、自分と父親とは本当は、逆の立場だったのにと、悔しい思いが、湧いてくることもありました。ですが、時間が経つにつれて、そういう想いの方が、幻想であって、単なる思い込みなのではないかと、感じ始めたのです。どこかの時点で、完全にそう思うようになりました。私の家族ではないのだと。父はある女性と再婚して子供を設けた。私は、父の前の妻の子供であって、今はたまたま、同居しているだけなのだと。私は本当に、そのように理解し、納得したのです」
『あのですね、エリアの機密の話を、もっとしてほしいのですが・・・』
インタビュアーは、やんわりと家族の話しを遮った。
「エリアは、すでに、私の人生とは、何の関わりもありません」
『そうですか・・・』
「私はこうして、インタビューに答えることで、自分の人生を、またさらに取り戻しているのだと感じています。何故、私は、今、エリアのインタビューに答えているのか。とても重大な出来事だったと認識しています。何故、あの時代に、エリアは現実に姿を現したのか。何故、この時代に、機密が漏れ始めているのか。何故、私は、今、エリアでは働いていないのか。家族と訣別し、一人でいるのか。
すべてが、鮮明に解き明かされていくような気がしています。私は、たった一人で、この砂漠の中を歩いていきます。あなたと別れてから。新しい世界に向かって」
CodoNAME22は、カメラの前から姿を消した。
シカンは、ドキュメンタリー番組の作成のために撮った映像を編集するため、夜遅くまでスタジオに籠っていた。
たまたま近くでドラマの撮影があったらしく、万理から電話があった。
「あなたがいるスタジオの側にいるの」
あいかわらず、彼女は自分のペースで話し始めていた。
「撮影が終わったら、会えないかなと思って。ひさしぶりに食事でもどう?」
シカンは考えるまでもなく、オーケーをした。
近所のトンカツ屋で待ち合わせをした。万理は濃いメイクに、黒のレザーのジャケット、黒いパンツを合わせていた。何の役なのだろうと思った。着替えてきた様子はなかった。しかし、そのおかげで、妙に変装をしたような効果が出ていた。よく見なければ、全然誰なのかわからなかった。
「元気そうだな」
万理の表情には、まったく疲労の色がにじみ出ていないように、シカンには感じられた。
「けっこうハードな撮影だったんだけど」と彼女は言った。「あなたは?」
「スタジオに缶詰。映像の編集をしている。だけど、どこをどう切っていいのか、全然わからない」
「何の番組?」
「《エリア151》っていう場所。その内部取材だ。機密情報を、元保安員だった男たちから、訊いている」
「何、その、エリア151って?」
「機密軍事施設だ」
「おもしろそう!」
「うん、確かにな。だけど、番組を創る側としては、かなり難しい」
「あなたが、そんなことを言うのは珍しいわね。だいたい、いつも、感覚でちょちょいちょいって、できちゃうじゃん」
「まあな」
「何かがひっかかるの?それとも、あなたの調子が思わしくないの?」
「わかんないんだよ。そのどっちなのか」
「残念。天才なのに。急に萎んじゃった?」
「いや、そんなことはない。あれっ、そういえば、万理。君、謹慎中じゃなかった?ほら、何か問題を起こしたって。何だっけ。何をしたんだっけ?ああ、それも覚えてないや」
「そのとおり。謹慎中。ふふふっ。でも知り合いにさ、一本ドラマに出てほしいって、前から言われていて、ちょうどいいやと思って。部屋に閉じこもっていても、退屈だし。どうせ、公開は謹慎が明けてからになるから」
「そうなんだ。それなら、いいけど」
「あなた、何か、疲れてない?」
「いや、もともと、こんな感じだ」
「仕事のしすぎでしょ。CFの撮影から、ドキュメンタリーの撮影、編集。映画の仕事も、確かあったんじゃない?CDのジャケット撮影とか、特典DVDの映像撮影とか、何だかんだ、色々とやってるのね」
「教育関係の教材の、VТRづくりも、並行してやってるんだよ。でも、撮影はすぐに終わって、あとはずっと一人で編集作業をしてる。缶詰もいいところで、あまり人には会っていないな。最近じゃ、あれだ。会ったのは・・・、なんてこった。エリアの元保安員ばっかりだ!」
シカンはそう言って、笑ってみせた。
「そのせいなのかな。で、放送は、いつ?」
「二か月後。予定では、11月2日。ところで、舞って、最近はどうしてる?すっかりと見なくなったけど」
「ああ、あの子ね・・・。ああ、そうよ。あの子、前の事務所をやめたって。うちの所に、来たのよ。私も、最近知ったんだけど・・・。でも活動はほとんどしていないのか、何なのか、全然わからなくて。所在も私にはわからないし、社長も全然教えてくれないし。そもそも、私と話しているときに、ぽろっと口から洩れてしまったみたいで、言うつもりもなかったみたい。特に私に隠しているわけでもなさそうだったけど、何か、裏があるんじゃないかしら。私の勘では、引き抜いたんじゃないかって。何か、私たちが気がついていない別の能力を、社長だけが嗅ぎ取って、それで、自分の所に引き入れたんじゃないかと。私と舞は、少しのあいだ、一緒に仕事をした仲だったし、きっと面と向かっては、私に言いにくかったんじゃないかと思う。私と舞も、今は連絡をとってないし。仲がよかったのも、一時的だったし、もうずいぶんと、昔の出来事みたい」
「君も、今や、アカデミー賞監督だしな。立場は激変した」
「すぐに、謹慎処分だけど・・・」
「万理らしいわ」
シカンと万理は、そのあと酒を飲むことなしに、油のさっぱりとしたトンカツ定食を黙々と食べ続け、万理は家に、シカンはスタジオの編集室へと戻っていった。
「原子構造を引き裂く実験を、繰り返していたんです」
あらたなる証言者は、codeNAME0だった。
「あの事故のあと、確かに、そのような発令が、司令官から、私のもとにやってきました。おそらく、私以外に知る人間はいません。エリアの中でも、さらに機密のプロジェクトだったようですね。ええ、このプロジェクトは、エリアの全体的な方針にも入っていないようでした。誰かが、個人的な希望で始めたらしかったのです。私に命令を下した司令官の意図ではなさそうでしたね。彼は仲介に入っただけのようでした。
私はそのとき思いました。きっと、このプロジェクトを草案したのは、エリアの外の人間ではないかって。外部の人間だと思いました。しかし外部の人間がエリアのプロジェクトに口を出せるはずもありません。私はピンときたんです。まるで根拠のない思いつきでしたが。つまりは、エリアは買収されたんじゃないかって。誰かの私物になってしまったのではないかと。その交渉こそ、最大の機密情報であって、そのあらたなるオーナーがエリアの人間には内緒で、エリアに蓄積された知識を利用して、何か良からぬ計画を企てているんじゃないか・・・。
もちろん、今だから、そういうことが言えるんです。
そして、そのオーナーというのは、今もエリアを仕切っているボスなのではないか。私が手をつけた研究開発の、その後の行方はわかりません。実用化できたことはありません。しかし、私はある程度、製造のレシピのようなものを描くことには成功した。そのレシピを、彼らがどう利用したのかはわかりません。
最近あったと噂されている『時振』ですか?
その事象にエリアが関与しているのかどうか。それもわかりません。ただ一つ言えることは、私にも罪はあるということです。目的は知らなかったわけですが、そのようなものの製造に加わってしまったのは、事実ですから」
『原子構造を引き裂くっていうのは、例えば、原爆とか原発とかで、ひとつの原子構造を分離させるとか、その、私も詳しくは、わからないのですが・・、それと同じようなことなのでしょうか』
「ええ。基本的には。それが、全体を丸ごとっていうレベルでの話なわけです。マイナーチェンジをすることではなくて、フルモデルチェンジということですね。原子構造全体の。まるで違うものに作り替えるということです。通称、『透明の爆弾』と呼ばれていたものですが、それが炸裂すると、世界がまったく変化してしまう。大爆発を引き起こすわけではないのですが。それは、原子構造の部分的な分離で、起こることです。構造のすべての要素で、同時に分離が起こるというのは、私も想像することさえできません。
同時に、というところが、ポイントのようです。同時に変化する。同時に存在する。同時に存在しなくなる。あるいは、横に並んでいたもの同士が、一瞬で、縦に存在してしまう、というよな」
『わかりません。でも、その爆発というのは、まだ起こってないんですよね?この前のあの事件は、とても局地的に起こったということですから』
「その事件というか噂と、エリアはまったく関係がないと思います。僕は」
『でも、意図的な事件ではないでしょ?事故だとすると、実験段階における外部への漏洩だった可能性もあるな』
「それも、ないと思います。そんなヘマを、彼らがやらかすとは思いません」
『しかし、エリアの元保安員は、言っています。日頃の任務から、事故を起こすことは、頻繁にあったのだと。そのたびに、証拠の隠滅作業を、命令されていたのだと』
「私にはわかりません」
codeNAME0は言葉を濁した。
舞がレコーディングをしているスタジオの入ったビルに、セトは向かっていた。舞が音源の制作に入ってからは、一度も顔を合わせていなかった。エンジニアの一人に、すべてを任せきっていた。時たま、進捗具合を聞いてはいたが、セトの頭の中には全然入ってこなかった。途中経過をいくら聞かされても、意味はないというタイプの人間だった。特に音楽の場合はなおさらだった。リスナーにとっては、プロセスなど関係がなかった。
セトは、ビルの入り口に設置された電話の受話器をとる。そして、チーフプロデューサーに自分の名前を告げる。自動ドアのロックは解除され、応接間がセトを迎えた。チーフプロデューサーと舞が、そこには並んでソファーに座っていた。セトが現れると、二人は立ち上がった。
「どう?順調なの?」
セトの軽い物言いに、舞の表情は一瞬歪んだ。しかしすぐに、気を取り直して、アルバムに収録する曲は、すべて出そろいましたと答えた。
「そっか。それは、それは。なあ、おい!酒を持ってこいよ、お前」
チーフプロデューサーは、無言で応接間から退席した。
「悪かったね。横柄な態度をとってしまって。退席してほしいという合図なんだ。気を悪くしないでくれ。さてと、楽曲のことだが、僕は制作途中の音源を、いちいち聞きたくはない。だから、聞くときは完全に仕上がったときだ。まだなんだろう?じゃあ、何故、今日来たのかといえば、音源のことじゃなくてね、曲のラインナップのことが知りたくて。全体の構造を伝えてほしいんだ。構成を」
「お言葉ですけど、まだ曲名のほうは・・・」
「そうなんだ。ああ、いいのいいの。何なら、僕が最終的に付けてあげてもいいんだよ。君はイメージを言葉にするのが、ひどく苦手そうだから」
「どうして、そう思うんですか?」
「あまり、しゃべりが得意なようには見えないし。曲の構成は、もうばっちりなんだろ?全体の配置も。そして、それぞれの曲のイメージも、ばっちりと伝えられるんだろ?それなら、問題はない。言ってみて」
「あの」舞は、非常に困った表情でセトを見上げた。「ご期待にそえないで、大変、申し訳ないんですけど」
「なに?」
「口頭で伝えるのは、やっぱり私には無理です」
「それなら紙に書いて。簡単な単語とか文章でいいから」
それならと、舞はすぐに、白紙に橙色のペンで書きこんでいった。なぜ橙色なのか、セトは、興味深く彼女のことを見守った。
Ⅰ CASLE OF MAINE キャッスル オブ マイン
Ⅱ REIRA レイラ
Ⅲ MAREAGE NOCOUNT マリッジ ノーカウント
Ⅳ FARAO WITH PERSONAL DEFENDER ファラオ ウィズ パーソナルディフェンダー
Ⅴ THIRTEEN BAQUTON サーティーン バクトゥン
Ⅵ COBRA’S TIME コブラズ タイム
Ⅶ JEALOUSY ジェラシー
「七曲でいいんだな。なんだ。曲名は、バッチリじゃないか」
「はい」
「いいだろう」
「四曲目と七曲目は、かなり長いですけど。それと、一と二は極端に短い。バランスは相当に悪いと思います」
「でも、君は、この並びでいいと思うんだろ?」
「ええ。これ以外には、考えられません」
「ならいい」
「いちおう、前持って、言っておかないと」
「他にも、言うべきだと思うことはあるか?今のうちに言ってみたらいい」
舞は紙をじっと見つめた。その文字から、何かインスピレーションを受けとるかのように。
「そうですね。タイトルのことで、何か質問はありますか?」
「おおありだよ」セトは舞を見ながらニヤリと微笑んだ。「アルバムのタイトル名が書かれていない」
「それは言えません。すべてのレコーディングが終わったときでないと。まだ私にも、確信を持って、これだとは言えないので。それだけは勘弁してください」
「わかった」
「他には」
「あのな」セトは背中をソファーから離して、前のめりになっていった。「別に七曲で全然構わないんだよ。ただ、俺にはどう見ても、14曲あるような気がする。これはその前半にすぎないんじゃないのか?本当は、二枚組なんじゃ?そして、その一枚は、完全に企業秘密。どうなんだ?その後半の一枚は、リリースする気はないのか?それとも、構想もまだなのか?だいぶん時間をおいてから、その二枚目は制作する気なのか?しかしね、俺には、14曲で一つの世界のような気がしてならない。この七曲目のジェラシーか。これの置き方で、ピンときた。こんな曲で終わるはずがない。これは始まりだよ。始まりの場所に戻ったにすぎない。前半の終りとしては、納得できる。第二章が、すでにそこから始まっている」
舞は。セトの眼をじっと見つめていた。
「おいおい、そんなにじっと見るなよ。恥ずかしいじゃないか」
舞の口は、ずっと固着したままだった。眼だけが生き生きと、セトを捉えていた。
「どうしたんだよ」
「社長」
「なんだよ、あらたまっちゃって」
「あなたって、やっぱり、すごいですね」
「だから、なんだって、いきなり」
「私の目に、狂いはなかった」
舞はそのあと目を逸らし、何度か小刻みに首を縦に振ってから、曲名の書いた紙を手に取り、折りたたんだ。
「おいおい、これは、僕が持っていくんだ」
「もうわかったでしょ?」
「これから曲名をじっくりと吟味するんだ。想像をいっぱいに膨らますんだ」
「もう報告は終わったので、帰ってください」
「それと、さっきの二枚目の話。それは確かなんだな。後半の7曲をまた、別の形で表すときがくるんだな。そういう解釈をしていていいんだな」
舞は答えなかった。やはり、セトの目を見つめていた。
「ねえ、社長。あなたは、気がついてるんじゃないかしら?すでに。そうでしょ?何故、二枚組だと感じたのか。何故、前半だけが示されていると感じたのか。どうして13曲じゃなくて14曲だと思ったのか。あなたは知ってるのよ。VAが新しく生まれ変わるということを。今までのように、ほとんど万理一人が、しかも女優という一つのジャンルに集中して活動しているような、事務所ではなくなるということを。タレントは一気に、その数を増やし、活動するジャンルの制限からは、解放される。その新しく生まれ変わったあとに、二枚目のアルバムがリリースされると、あなたはそう思った。もっと言うと、あなたはその世界の大きな変わり目を読んだ。だから環境を変えようとした。変わり目を捉え、それを境に、自分を取り巻く状況を刷新しようとした。創造し直そうとした。その準備に、もうだいぶん前から入っていた。そこに、私も現れた。ちょうど、それも、変わりゆく状況が引き起こした一つの事象であると、あなたは判断し、私を快く引き受けた。万理を映画監督にしたのも、その流れ。そして彼女は、ただの女優ではなくなった。今は謹慎中のようね。少しばかり、あの子は早すぎたのね。だから、少しばかりの休憩。誰かが先行隊として、出ていかなくてはならない、この世界において、もうすでにキャリアを積んでいた彼女が一番出やすかった。あなたは、彼女のお尻をポンと叩いて送り出した」
「なあ、舞。いったい、どうしたんだよ。俺にそういった感覚はまったくないぜ。君の思いすごしだ。俺には緻密な戦略なんて何もない」
「あなたは、私のアルバムの構成をまず訊いた。全体がどんな構造になるのかを、知りたがった。あれで、私は確信した」
「考えすぎ、さ」
「いいのよ。私が勝手に思ったことだから。本当のところはどうだっていいの。全部を音源として形にすることができたときに、また呼ぶから。その日を楽しみにしてくれたらいい。車で送っていくわよ」
助手席に座ったセトは、舞の横顔を見ていた。セトはふと懐かしい気持ちになっていた。以前にもどこかで、舞と同じような状況になったことがあるような気がした。
「あのさ、できれば、歌詞も見せてほしかったんだけどな」
そう言うと、舞は急に路肩に車を止め、紙を取り出し、猛然とペンを走らせていった。セトに放り投げるように紙を渡し、舞は再び車を発進させた。そこにはおかしなマークが、いくつかの固有名詞と共に並んでいた。メキシコシティ、テオティワカン、チェチェンイツァ、オルメク、ギザ、NY、バルセロナ、パリ、東京、アンコールワット、ボロブドゥール・・・・。頂点が上にある三角形と、下にある三角形が重なり合ったマークと、共に。それは、歌詞でも何でもなかった。
セトは無言で紙を眺めていた。舞に何かを試されているような気がしたので、迂闊に質問することはやめた。だが、舞の方から声をかけてくる様子はまったくなかった。さっき見たタイトルのいくつかを思い起こした。タイトルのほとんどは、舞の造語だったのだろうが、今提示されたものは、全部、実在する地名であった。世界に散らばった古代都市と現代の大都市とが、いくつも混じり合っていた。そして、いつのまにか、セトを乗せた車はJR舞浜駅へと着いた。
Gは万理の事務所に電話をかけ、彼女が今どこにいるのかを訊いた。彼女の次の作品に出演する予定だったことを伝えた。謹慎処分の出るきっかけとなった現場にも、立ち会っていたことを正直に伝えた。そのうえで、見舞いと今後の予定について、訊きたいことがあると言った。事務所は、彼女の携帯電話につないでくれた。万理はGにトンカツ屋の場所を教えた。そこに来てほしいと言った。Gと万理は、二時間後、トンカツ屋で直接会うことになる。
「謹慎の身なのに、実は、撮影に参加しているのよ。女優としてドラマに出るの。おそらく、公開は謹慎が明けた後になるだろうから」
「そうですか。元気そうで、何よりです」
「あなたは、元気なの?」
「体は元気ですけどね。ここが、ちょっと」
Gは頭部をコンコンと叩いた。
「どうも、睡眠がうまくとれなくて。というよりは、完全に寝ているんでしょうけど、その、夢ではないんですけど、別の場所に、すっと移動してしまっているみたいなんですよ。幽体離脱じゃないですよ。体ごとそっくり。ちゃんと歩いてましたから。街の中なんですけど。人が誰もいなくて。おっきな広場に出て、その中心には、おっきな透明な立方体の建物があって。そこに一人で入っていく・・・。それでその中でも、おかしな体験をして、また出てくる。そうすると、街の様子は変わっている。中でダイヤルを回したんですけど、たぶんそれが影響してるんじゃないかと。夢を見てるって、絶対に言われるでしょうけど、でも夢じゃないんですよ。肉体的な感触が、しっかりとあった。まったく理不尽な出来事ってわけでもなくて」
「わかったわかった。で、どうして、その話を、私に?」
「こんなことは言いたくないけど、あなたの、あの、中途半端な撮影に参加してからなんですよ。あれから変な体験をするようになった。何か自分の思惑とは別に、違う世界に入ってしまうときがある。そしてそこからはまったく出ることができない。今こうしてあなたと話しているのも、実はもう、僕はあなたとしかうまく連絡がとれなくなっているからなんです。これをどう説明します?この前まで頻繁に連絡をとれていた知人たちが、確かにいたんです。でも彼らともうまくコンタクトがとれなくなってしまった。何か妨害されているように感じます。けれどもあなたに連絡をすると、これは、即刻取り次いでもらえた。あなたとは繋がる。どうして私なのって、あなたが言えば言うほど、実はあなたの方が、そう仕向けているような気がしてならない。それも、あの撮影が不首尾に終わった日からなんです。あなたが謹慎処分を食らった日からです」
「Gさん。よく聞いてください。何もこれは、あなたに限ったことではない。人は、みな、二つの魂を融合することで、一つの人体が構成されているんです。誰しもね。だから、この二つの魂の想いを、一つの場所に向かわせないといけない。同じ目標を共有することで初めて、その人の人生というものが、本当の意味で動きだすんです。しかしそれはいつだって構わないというわけではない。人それぞれに、時期というのは異なっているものの、その時期が迫ってきたときには、本人にもわかることが多い。十代のはやい時期に来るひともいれば、三十代も半ばになってから来る人もいる。あなたのその夜の出来事はおそらく、その二つの魂を統合する時期を示唆しているものと思われます」
「魂が二つあるなんて話は、聞いたことがない。魂が数えられるなんて初耳だ」
「魂というよりは意識。二つの意識は、それぞれが違う価値観を持っていて、違う人生を思い描いている。潜在的に。ところが、二つが統合される時期に、その作用に気づくことなく、統合を促進させる意思を持たないものは、どうなると思う?統合期間を過ぎると、二つの意識のあいだに、壁が出来て遮り始め、二度と交流をすることができなくなる。二つの意識は、それぞれが独立して存在することになってしまう。それは、その人間に、常なる断絶感を強要することになる。要するに、二つの意識がそれぞれ勝手なことをし始めるということ。そんな状況に、当の人間も、薄々気づき始める。第三の意識が出現するの。もちろん、暫定的な意識。その二つの分裂に、その人間の世界が乗っ取られないように、防御するために。そんな暫定的な第三の意識をつくることで、なんとか、二つの意識に引き裂かれながらも、同時に自分ではないものとして、排除するような感覚で、二つを眺めることができる。当然、あなたの現実は、この暫定な世界に存在することになってしまう。決定的な乖離の感覚を麻痺させるためだけに、存在する意識よ」
「俺は、そういう話をしに来たんじゃない!」Gは憤怒をぶちまけた。
「人は誰でも、自分でその統合期に気がつかなくても、誰かから、きっかけを与えられたり、自然とそう考えさせられるような状況が、生まれるものです。すべての人に、です。しかし、そうは言っても、頑なにそのメッセージを受信することを拒否する人がいるのも、また事実」
「その統合期みたいなものを逃したら、もう二度とチャンスはないのか?」
「ないです」と万理は断言した。
「ほんとに、俺に今近づいてるのか?おかしなことを言って、俺を攪乱させるんじゃないぞ」
「あなたは、私に助けを求めてきたのよ。だから、正直に事実を伝えている」
「信じていいんだな」
「あなた次第よ」
「わからん女だな。俺はな、あんたが新しい映画の脚本を書いているんじゃないかと思ったのさ。そのシナリオが、俺の意識の中に入り込んだんじゃないかって、そう思った。次の俺の出演作さ。俺をまた使うんだろ?女優としてドラマに出演してるって?そんなのは、あんたの気分を紛れさせるだけの遊びだ。あんたは、自分の眼を、現実から背けさせようとしてる。そうだろ?はやいところ、映画を撮るべきだ。俺は、今日、そのことを言いにきた。そんな、おかしな話を聞きにきたんじゃない!」
「あれっ、万理じゃないか」
店に入ってきた男が声をかけてきた。万理はすぐに、シカンだとわかった。
「お、デートですか」
シカンは、万理の向かいに座った男に挨拶をした。
「Gくんよ」と万理は言った。
「Gくん?どこかで聞いた名前だな。あぁ、思い出せない。まあ、いいや。その、よろしく。映像ディレクターをしている、シカンと申します。ここの側にあるビルの中で、今は映像の編集作業をしています。お邪魔してすみませんね。万理、またな」
シカンは、万理とGからは一番離れた席に、一人で座った。
「知り合いですか?」
「ちょっとしたね」
「ずいぶんと親しそうでしたけど」
「いずれは、あなたの知り合いにもなるわよ」
「はっ?」
「現実と、また別の現実を隔てる壁は、どんどんと溶解していっている」
万理はGに言うというよりは、独り言のように呟いた。
「いままで交わらなかった人間同士が、同じラインの上で顔を合わせる。声をかけあう。お互いに、どこかで会ったような気がする。どこかで聞いたことのある名前だと思う。脳にひっかかりをみせる。不可思議な感触は消えず、次にはもっと劇的な再会するような予感が蘇る。再会は再会を呼び、そしてその集合意識は、この世界に痛烈な火花を蒔き散らす」
Gは万理の顔を見た。その眼は、真っ赤に燃え盛っているように見えた。
セトの事務所に、実体のわからない不審な人間から電話がかかってくることは珍しいことではなかった。その男は、МQSと名乗った。ロボットなのかと冗談で訊いてみたが、彼は違うと答えた。研究所の職員なのかと訊ねると、そうだと答えた。用件は何なんなのかと問うと、それは電話では答えられないから、直接会って話がしたいといってきた。すぐに契約の話になるとおもうから、そのつもりで準備をしてきてほしいと彼は言った。
もう未来に起こる出来事を、あらかじめ知っているような人間の対応に、セトの心は突き動かされた。待ち合わせは、埠頭の倉庫だった。一人で来るのかと、МQSに訊くと、彼はもう一人、私の上司が同席すると言った。感情のない機械的なしゃべり方だった。セトは用件を訊くことはしなかった。一人で埠頭の倉庫に向かった。
車を降りると、そこにはすでに二つの影があった。影はくっきりと二つに分かれているかと思えば、今度は一つにぴたりと重なり合い、また二つに分かれるということを繰り返していた。同席した男はディバックだと名乗った。
あなたは、私の力を必要としていると彼は言った。あなたは私と手を結ぶべきだ。もちろん私は迷惑ではない。私にとってもメリットはある。МQSが契約書を提示した。セトは受け取り、わずかな蛍光灯のもとで、その印刷された文字を追った。
主に、舞に関することだった。アルバムのプレスを請け負うといった内容だった。「我々が、制作の最期の工程と、販売・流通を担うという内容だ。もうすぐ、そういった段階に入る。君の事務所は、音楽が専門ではないはずだ。その伝手を、これから探すのだろう。我々は、念入りな調査をした。優秀な音楽家を、世に送り出したいという信念のもとに、君のところの女の子に目をつけた。君たちは、我々のような人間を必要としている。そうだろ?」
「ええ。おっしゃる通りですね。しかし、こう唐突に来られても。しかも、こんな場所で・・・」
セトは、今はっと、我に返ったのだった。どうしてこんな場所に来てしまっているのか。電話を受けてからの自分の行動を、うまく思い出すことができなかった。
「我々はね、こう見えて、科学の人間なんですよ。元々は。だから、巨大な研究所を持っていて。そこで、音源の制作ができるんです。そこが最新のレコーディングスタジオになるんです。舞さんはそこで、心行くまで制作に専念なさったらいい。数か月のことでしょうから。音楽と化学、数学というのは、実に相性のよいものです。我々は、音楽の分野に進出がしたい。しかし、ごく一般的な音楽を、我々は望んでいるわけではない。あなたもそうでしょう?別に、レコード会社はたくさんあるわけで、聞き心地のよい楽曲なんて、それこそ、無数に制作されている。すばらしい歌声を持つアーティストは、数限りなく存在している。何もあ、なたの会社が、本格的に音楽の分野に参戦する理由は、どこにもないはずだ。それに、音楽の部門を作ったわけでもなさそうだ。舞という女性一人と、タレント契約をしたにすぎない。あなたはごく一般的な音楽を、この世に送り出したいわけではないのでしょう。我々は、その部分にも、おおいに共鳴しました。まさに、我々が求めていた人材であると」
「お言葉ですが」とセトは言った。「あなたがたの考えを伺うと、どうも、舞という一人のミュージシャンの本質に、興味を持っているということではなさそうだ」
「どういうことですか」
「一人のミュージシャンに興味を持ち、そして、その人間の能力を、最大限に引き出してやるという発想がないってことです」
「心外ですね」
「ちょうど、都合のいい人材がうちの舞だった」
「馬鹿を言うんじゃない!俺を試しているのか?」
「わかりません。あなたの狙いが」
「そうは言っても、君はもうここに来てしまったんだ」
「不覚でした。すんなりと帰れるとは、思いません」
「いい心がけだな」ディバックは言った。「心がけついでに、契約書に、判子を押してももらおうか」
「舞をどうするつもりですか?あなた方の試算では、舞は売れるんですか?世間に受け入れられるんですか?どうなんですか?」
「そのつもりですが」
「戦略があると」
「戦略はないですよ。しかし、あなたに対しては約束しましょう」
「そのことも、契約に盛り込んでいただきたい」
「というと?」
「売上の数字を示して、それに達しないときは違約金として、事務所と舞に一定の額が支払われる。もちろん、それ以上のセールスを記録したときには、通常通りの印税が舞に入ることになる。それで構わない」
「売れるにしても売れないにしても、どのみち金が欲しいってことですね。はははっ。正直な人で気にいったよ。でもね、一見、金にがめついような人というのは、それが単なるポーズであって、本当は、別に目的があるような場合が多いんですけどね。まあ、いいです。今のこの段階で、深読みしたって、仕方がない。お互いに、もっと、有益なところで約束を交わしましょう」
セトは、若干改変された契約書にサインをした。
そのあと、一度だけ、三人は事務所で顔を合わせた。正式な契約を交わすために。そのとき事務所には、偶然、長谷川セレーネがいた。彼女が無断で乗っていってしまった車を返しにきたところだった。一週間の行方不明の期間を経て、戻ってきたところだった。
その十分後に、ディバックとМQSはやってきた。セトは長谷川セレーネを咎めることなく、話題はすでに舞の契約のことに移っていた。
長谷川セレーネは部屋を出ていかず、セトの隣に座った。そして事務所のスタッフのように、真剣に三人の話を聞いていた。相槌を打ち、いかにもその会議の重要な出席者で参あるというような雰囲気を出していた。
ディバックとМQRも、長谷川がいることを特に気にする様子もなく、単に秘書か誰かだと思ったのだろう。
「じゃあ、これで、成立ですね」
МQRは契約書を受けとった。
「今後の予定は」セトがディバックに訊く。
「とにかく、今の仮のレコーディングが終わったら、連絡をください」
「本人は、仮だとは思ってませんが」
「仕上げを、よりハイクォリティーにするために、最新の機材が完備されたスタジオを用意したと、伝えればいい。その話を拒むような音楽家は、おそらくいない」
「わかりました」
「他に、確認しておきたいことは?」
「舞本人も、連れていかなくては駄目なんですよね」
「当たり前じゃないか」ディバックは言った。
「作品だけを、スタジオに回すだけでは駄目なんですよね」
「当然」
「電話します」
ディバックは立ち上がり、セトに手を差し伸べた。二人は握手を交わした。
次に、МQRとセトが握手を交わした。長谷川セレーネも立ち上がって、ディバックと握手をした。続いてМQRとも。
長谷川セレーネは、セトと並び、ディバックとМQRが部屋から出ていく様子を見守った。
九 最終処分場
『産業廃棄物の最終処分場というのが、実は、このエリア151であるということも、また言われていますが』
「ええ。飛行機が、都市から廃棄物を運んできている、という話があります」
codeNAME89は、他人事のように言った。
「最終処分場という定義が、僕にはよくわからないんですけど。産業廃棄物の話に限定してしまうと、それ以上は解体できなくて、ただそのままの形で、保存するという意味でとらえてしまいます。しかし、エリアの中には、そのような埋め立て処分場はなく、建物の中に、半永久的に保管するというようなこともしてなかった。やはり、解体して、新しいエネルギーに変換するという作業をしていたのだと思います。ですから、最終処分場という呼び方は間違っています。それは、あくまで、エリアの外の人間の物の捉え方です。エリアの内側の人間から見れば、廃棄物という言い方さえ、誤解を招きます」
『確かに、我々はこうして見ると、エリアをうまく利用しています。処分しきれなくなったゴミは、すべてエリアに送ってしまえ。エリアがすべてを解決してくれる。そんな安易な発想が、無意識のうちに刷り込まれてしまっている。しかし我々は、エリアのことは何も知らない。中で何が行われているのか。まるでわからない。これは非常に怖いことです。しかも、その処分でさえ、実際に行われているのかどうかはわからない。あなたがたは、何か、再生可能なものに作り替えているのだと言いますが、実際のところはどうなんでしょう。本当に、最終処分場という言葉通りに、ただ廃棄物を敷地内に積み重ねているだけなのかもしれない。
今まで、エリアの元職員の人に、取材を繰り返してきました。しかし、彼らが暴露し始めている、エリアの内部の実体に関する真実味は、インタビューをすればするほど、曖昧になってくる。本当は何も行われていないんじゃないか。軍事的なことも、科学的なことも。テクノロージーのレベルが異常に高い施設など、本当は何も存在せず、ただの茫漠とした空間があるだけなんじゃないか。そして、そこには、我々人間が生み出していく廃棄物が次々と運びこまれていくだけ。時間の経過とともに、次から次へと止めどなく積みあがっていくだけの世界。我々からは、見えないように蓋をしてしまっている。厳然とした壁を設けて、視界の交流を強制的に妨げる。エリアという名前をくっつけ、機密軍事施設のように装い、外界からは、その存在を意図的に遠ざけている。
今、こうして、ぼろぼろと機密が漏れているという実体も、もしかすると、誰かが意図的に事実とは異なる情報を流して、真実を攪乱しようとしているんじゃないだろうか。何故か、私はそんなふうに感じてきました。あなたには大変申し訳ないが。いや、そもそもあなただって、誰かに雇われて、こうして私に平気で嘘を述べ立てているのかもしれない。最終処分場の話が出たときに、私は感じました。あなたがた元保安員に、ひどく実体を感じなくなってしまった。すべてが仕組まれているような。私の勘違いなのでしょうか。テレビ局も、番組制作会社も、すべてはグルであって、私はその業務の一端を、担わされているだけであり・・・』
「ちょっと、どうなさったのですか、急に!」
codeNAME89は、予想外の展開に身を乗り出してきた。
『申し訳ない。本来、私は、そんなに疑い深い人間ではないのですが。気が動転してしまって・・・』
「これも、エリアの魔力なのかもしれない・・・」codeNAME89は言った。
「エリアの実体が、情報として少しずつ漏れているこの現状を、あなたの潜在意識は拒絶し始めているんだ!だから、あなたは過剰に反応してしまった。そんなはずはない!そんなはずはない!と、あなたの頭の中では、もうすでに、エリアはただのゴミ処理施設だったということで、それ以上の情報は遮断して、早く切り上げたいんです。それ以上の深みに嵌らないために。あなたの防衛本能が、激しく活動を始めたんです。これは、逆に考えれば、こういうことです。見て見ぬふりをしてしまうような、絶対に見たくない、知りたくないという真実に、実は、近づいているという、唯一無二の証拠なんじゃないんですか?」
『申し訳ない・・・』
「謝らないでください。エリアの中に運ばれた、例えば、産業廃棄物がですね、別のエネルギーに変換されて、再度、創造された物質が、また再び我々の文明の中枢に送り込まれている。それが、事実なんですよ、おそらく。これは、化学物質だけの問題ではなくて、ゴミだけの問題ではない。すでに死んでしまったものや、消耗しつくしてしまったものを、再生、蘇らせるための場所、空間としてのエリア151というものを、僕はみんなに知ってもらいたかった。それだけの貢献を、担っていたのだということを」
『あなたはそう言って、自分を正当化させたいだけですよ。人々に貢献するような、そんな重要な仕事に携わっていたという、そんな自負を持ちたいだけなんですよ。我々の文明の生活全体を最終的に破壊しつくすことに繋がる仕事の一部を、あなたが請け負っていたという事実を、捻じ曲げたいだけなんだ』
「なんですって!破壊に繋がる?」
codeNAME89は、声を荒げた。
『失礼。いいすぎた。駄目だ。もう、カメラを止めなくては。これ以上、撮影はできない』
「逃げるんですか!」
codeNAME89は、撤収しようとしているインタビュアーを制止した。
「これまでの証言を、すべて捨ててしまうんですか、あなた」
『逃げるとか、そういうことではない!』
「だったら、最後まで、僕に付き合うのが筋でしょう」
『まだ、何かあるのか?』
「最終処分場について、詳しいことを知っている別の人間を連れてくる。僕が責任を持って」
『それだって、実際に、エリアの中で働いていた人間であるのかどうかはわからない。さっきも言っただろう。インタビューしたすべての人間が、本当にエリアの職員だったのかどうか、今の私にはよくわからなくなっていると。君はいったい誰なのか。彼らはいったい誰だったのか。私は何のためにこの番組を作っているのか。誰かの意図のために、ただ利用されているだけなんじゃないだろうか』
「僕は、正真正銘のエリアの保安員です」
目の前の男は、最後にそう言った。
十 プラントの寿命
シカンの編集作業は続いた。映像はまだ残っていた。インタビューした相手が、あとどれだけいたのかを、思い出すことはできなかったが、まだまだ聞いた話題はたくさん残っているように感じた。
シカンは、報道の上層部の人間に電話をかけ、自分一人で編集をすべて終えることは不可能だと伝える。一時的に切り上げたいのだと、彼は正直に伝える。上層部の人間は、それを受け入れた。しかし、他の人間に任せるわけにはいかない。君一人で最後まで仕上げてもらいたい。その一点張りだった。だから少し休みをとったらいい。他の仕事をしてもいい。一度離れてもいいから、心と体をしっかりとリセットしたときに、また戻ってきてほしい。わかりましたと、シカンは答えた。
CDのジャケット撮影と、そのアーティストのプロモーションビデオの撮影を、依頼されていた。そのアーティストのレコーディングが終わったときに、すぐに撮影に入るという予定だった。ちょうど今が、その時期なのではないかと、シカンは思った。
シカンは万理を食事に誘う。万理はGを連れてきた。三人は、木をふんだんに使用して組み立てられたカフェへと行った。
「ちょうど、私は、ドラマの撮影が終わったの」万理は言った。
「次の映画の構想を、ゆっくりと考えるわ。こないだは少し、焦りすぎていたのかもしれない。賞なんてもらったものだから、少し前のめりになりすぎていたのかも。気づかないうちに。自分を映画監督か何かと、勘違いし始めていたのかもしれない。でも、私は映画監督ではないの。やっぱり、本業は女優なの。だから、映画をとることをスケージュルの中に組み込もうとした瞬間に、無理が生じるわけ。今年はこういう流れにしたいから、ここでこういう映画を撮って、なんて考えていくと、次第に自分が変な追い込まれ方をしていく。スケージュルの中で、構想を生み出さなくちゃいけないんだから、まさに、映画監督って感じでしょ。違うのよ。私が脚本を書くときって。もっと、全然、目的なんてないんだから。目的があっては、絶対に生まれないものなの。だから、女優でも、何でも、他の仕事をしてる中で、ふと浮かび上がってきたときに、集中して捕まえるという方法でいいの。そう思えたときに、ふと自分を取り戻した。だから、今はとっても元気。今のシカンさんが、気の毒。あなたらしくない。全然あなたらしくない。あまりよくない疲れ方をしてる」
そう言われたシカンは、返事をするのも億劫なくらいに疲弊していた。
「こっちから誘ったのに。悪いな」シカンは消え入りそうな声で言った。
「誰かに、エネルギーを吸い取られているみたい」
「あの」
Gは、自分がそこにいることを小さく主張するように声を出した。
「この前、紹介したわよね」
万理はシカンの視線をGへと促した。
「今度の作品で、主演を務める予定のGくん。でも、今度が、いつになるのかわからない。今度というよりは、今度の今度かもしれないし、五年後かもしれないし。でも、彼で一度映画をとってみたいのは間違いない。タイミングがよくわからないだけで、一緒に仕事をすることは決定してるの。ねっ、そうよね!」
Gは恥ずかしそうに俯きながら、お辞儀をした。シカンはGのことをじっと見ていた。
「なあ、エリア151って、知ってるか?」
シカンはGに唐突に訊いた。
「エリア151。いや、聞いたことなんてないか。すまんな、いきなり。ちょっと、今、そのことで頭が一杯で。いや、すまない。初対面なのに。でも、何か知ってるんじゃないかという気がしたんで・・・つい」
万理は困惑した表情をしていた。
「忘れてくれ。さあ、飲もう」
万理は、Gの方を見ていた。何か答えてちょうだい!という表情をしていた。
「すみません」Gは再び頭を下げた。「お役に立てないで、申し訳ありません。聞いたことはありません」
「いいんだよ。そんなにあらたまらなくて。気楽に話そうよ。ごめんね。変なことを言っちゃって」
シカンは、何か冗談を言って和ませようとした。だが、Gのその真剣な眼差しに、逆に気圧され気味になってしまった。
「この子、思い込みが激しいの」万理は言った。「ねっ。Gくん。私が、設定さえちゃんと作れれば、すぐにでも、彼は映画の中の世界に行ってしまう。すごく影響されやすいの。思い込みも激しいのよ、きっと。だから、変なことを吹き込まないで!ねえ、Gくん。みんなが、みんな、勝手なことを言うと、困っちゃうわよね。全部、真剣に受け取ってしまうんだから。混乱して狂ってしまう」
「エリア151か・・」Gは呟いた。
「やっぱり、何か知ってるのか?」
シカンは前傾姿勢を、さらにとっていった。
「ちょっと、やめさないよね」
「やっぱり、わかりません」Gは首をかしげた。「でも、気にはなるな。知らないけど、何かきっかけさえあれば理解できそうな気がする」
「本当か?」
「ちょっと、やめなさい」
万理はシカンをたしなめた。
「君には、話が通用すると思った」
シカンはGの肩に左手を乗せ、意気投合した男同士のような姿を演出した。
「プラントの寿命・・・」
「えっ?」
シカンは、Gの言葉に耳を傾けた。
「なに?」
「プラントの寿命」
「プラント?」
「何となく。ええ。寿命は近いですね、おそらく」
「エリア151に関係のあるプラントなのか?」
「わかりません」
「プラントって何の?」
「何か小さなものではないようです。あるいは、その敷地にある施設全体が、プラントであるのかもしれない。うん、敷地の中に、プラントがあるわけではないようです」
Gは誰に向かって言っているのか。まるで独り言のように、次々と言葉が出てきた。その様子に、シカンも万理も唖然としていた。
「その敷地そのものがプラントのようだな。つまりは、地形や設備の配置に秘密があるのかもしれない。地形と設備の配置で、何かを精製しているようだ」
「どうしたのよ、Gくん」万理は不安そうに彼を見た。シカンの顔色は、来たときとは違って、生き生きとし始めていた。
「寿命ってどういうことだ」シカンは訊いた。
「限界が近いということです。その施設は、もうすぐ終わる」
「役割を終えるということか?それで、どうなってしまうんだ?」
「爆発します」
「爆発?」
「そうです」
「爆発って。まさか、エリア151そのものが、爆発?そんな・・。俺は、エリアが外に運んでいる何かが事故で爆発してしまうか、故意に炸裂させてしまうかの、どちらかだと思っていたのだが、まさかエリアそのものが?」
「時間がありません」
「どうしたらいい?」
「どうにもできません」
「ただ、爆発するがままに」
「そうです」
「見ているだけか。いや、見るにも、その場所さえ特定ができていない」
「爆発すれば場所は特定されます」
「まあ、そうだが」
「それでも特定は難しいかもしれない。だいたいの場所が指摘される程度です。あるいは、まったく気づかれないか」
「そんなことはないだろ」
「気づかれないことは、確かにないですね」
「この大気には、確実に影響がある」
「ええ」
二人は妙に納得し合っていた。科学者同士が、それまでまったく面識もなかったのに、ここで自説を吐露しあい、意気投合しかけているかのように、万理には見えた。
「この寿命が来なければ」とGは言った。「もっと、ひどいことが起こる可能性があった」
「どういうこと?」
「つまりは、そのエネルギーが、テロリストの手に渡る可能性がある」
「可能性?」
「そうです。その地帯の側には、複数の部族がいます。彼らはテロリストの組織と繋がりが深いということです。そして、何でしたっけ。エリアでしたか。そこで働く内部の人間の数人が、外部のテロリストと親密な関係にあるということです。要は作業員として、エリアの中に送り込まれた人間がいるということです。そして、軍の関係者の中には、テロ組織に寝返った人間も実際にいる」
「ほんとなの?」万理が目を尖らせて身を乗り出した。
「ですから、プラントに寿命が迫っているということは悪いことではない。もしエネルギーの源がテロリストに渡ってしまえば、それは特定の目的で使用されることは確実ですから。しかし、寿命による爆発となれば、それは無目的だ。無目的に拡散するだけだ。影響力は全体に広がるでしょうが、その後の効果はまったく異なる。狭い地域で、小さな目的のために、巨大な破壊を起こすこととは、まったく別な結果を生む」
万理は、二人のやりとりをずっと眺めていた。
やはり彼らは、初めて顔を合わせた科学者同士のように見えた。
セトは、舞の出来あがった音源を聞いて、驚嘆してしまった。
なんてひどい音なのだろう。すぐに、レコーディングスタジオに電話をかけた。スタッフが出る。
「お前は、いったい何をやってるんだ?」名前は吉井だと言う。「これが、音楽なのか?二秒たりとも聞けたものじゃない!」
「私も聞くことが、できませんでした」
「なんだって?」
「私も無理でした。しかし、舞さんはこれでいいのだと。それ以上、我々は何も言えません」
「それで、プロデューサーなのか?」
「とにかく、僕は舞さんに、何か口出しすることはできない。彼女は、他人の意見を聞く耳なんて、まったくもっていない。何かあれば、直接、あなたから舞に言ってください」
「舞はどこなんだ?」
「わかりません。昨日から、スタジオの方には来ていません。作業のほうはすべて終わったから、社長の方に送っておいてくれと」
「それで、俺はこんなものを聞かされているわけか。いったい、どうすればいい?」
吉井からの返事はなかった。こんなふうになるとは思わなかった。もっとまともなものが仕上がってくると思っていた。自ら所属させてほしいと、志願してくるくらいだから、レベルもある程度あるものだと思いこんでいた。そこにプロデューサーがアレンジを加えて形を整えれば、音楽としては十分に通用するものができるはずだと、そう甘くみていた。
ところが、現実は、この音楽だと自称する不協和音が送られてきただけだった。プロデューサーもお手上げだった。これ以上、何かをいじることで、クオリティが上がるようなものではなかった。誰に相談するまでもなく、このまま破棄するのが必然だった。
ディバックの存在が頭を過った。これを彼の所にもっていけるはずもなかった。仕上げは、自分の所のレコーディングスタジオでやったらいいと、舞に伝えてくれと言われていたが、舞はその申し出を拒否した。もうしばらく、自分一人でつくりたいからと。まさに最後の段階になってから、スタジオの方へと移動することを了承した。そのことを、ディバック側にも伝えた。ところが、その最終段階に至ったときに、舞はこの不協和音が入った音源を置いて、あとは宜しくねと、この俺に託して、姿を消してしまったのだ。
ウチの事務所に所属しているタレントたちは、一体なんなのだ。俺は完全になめられている。馬鹿にされている。万理にしても、長谷川セレーネにしても。厳格にしつける必要があるのだろうか。しかし、万理はあの通り、問題は起こすものの、彼女の撮った映画はアカデミー賞を受賞した。長谷川セレーネはまだデビュー前だが、その美しい風貌は早くも、業界関係者を水面下で賑わせている。なのに、この舞ときたら、仕事の内容があまりにひどかった。セトは、ディバック側と交わした契約書に、頭を抱えた。こんなことでは訴えられかねない。セトはディバックの事務所に連絡をいれるしかなかった。そして、音源の制作は完了したから、そちらのスタジオに、送り届けたいと伝えた。けれど、舞はそちらに行く意志はないということも伝える。音源の仕上げのほうは、そちらに一任したいと、セトは最後に言った。ディバック側も、すんなりと了承してくれた。
Gは、突然話すのをやめ、呆然自失な表情を浮かべて、目の前の二人の男女を見ていた。
「おい、どうしたんだよ」
シカンは、Gの頬を軽く叩いた。
「あ、万理さん。そして、こちらの方は?」
「シカンだよ。指原シカン」
「シカンさん?そういえば、前に、トンカツ屋で会ったことが」
シカンは、万理と顔を見合わせた。
「いや、ちょっと待て。今、ずっと、君は話を続けていたじゃないか。それを何事もなかったかのように」
Gは、目の前の現実を、よく理解できないというような顔つきをしていた。
「お前、病気なのか?」
「と、いいますと?」
「記憶が飛ぶとか、そういう類の」
「いや、そんなことはないと思いますけど」
「そういえば」と万理が口を挟んできた。「この前のあなたも、何だか変だったわ。私が謹慎処分になったとき、慰めに来てくれたわよね。まさか、あの時のことも、覚えてないの?」
「あのときのこと?」
Gは恍けた口調で、シカンの方を見ていた。
シカンは、万理の方を向いた。
「こいつは問題だな」とシカンは小さな声で呟いた。
「それで、今日は三人そろって、一体何があるんです?」
Gは悪びれずに、シカンに訊いた。
「いや、そのね、俺が、万理に仕事の愚痴が言いたくて呼んだんだ。そしたら、君もやって来た」
「そういうことですか」Gは何故か納得のいったようだった。
「わかりました。僕はお邪魔のようですね。帰ります」
「いや、別に、そんなつもりで言ったんじゃない。君もいてくれるのなら、それもありだよ」
「僕は失礼します」Gは毅然として言った。「お心遣い、ありがとうございます。けれど、シカンさんは、万理さんと二人でお話がしたいと思いますので、僕はこの辺で。それに、僕に相談されても困りますから。僕にはまだ、仕事がないんです。あなたたちの話に加わることのできる、どんな話題の持ち合わせもない。すみません。でも、会えてよかった」
Gはすっと立ち上がり、特に急いで退席した様子もなかったのに、すうっとものすごい速さで姿を消してしまった。シカンはその様子にまた驚いてしまった。
「あいつ、何なんだろうな」
「私にもよくわからない。会うたびに、毎回、印象が違うような気がする。繋がりがいまいちはっきりしないのよ。風貌は一緒なんだけど、中身がその都度違うような」
「どうやって知り合ったんだ?」
「井崎さんよ」
「あのLムワの知り合いの」
「そう。彼に紹介してもらった。次の映画に抜擢する、誰か芸能人ではない男の人を、紹介してくれって。それで」
「ずいぶんとおかしな男だ。どうしてエリアの話を知ってたんだ?気味が悪いよ」
「でも、あなた、顔色が」
「顔色がどうした?」
「来たときよりも、格段によくなってるわよ」
「まさか」
「ほんとうよ。すっきりとしてるわ。憑きものが取れたような。洗い流されたような感じ。不思議なこともあるものね。彼と話したからよ、きっと。私と二人だけでは駄目だった。あなたが愚痴って、私がそれを聞いているだけでは、何も変わらなかった。あなたの顔色はもっと悪くなっていたかもしれない。よかったわね」
「よかったのか何なのか。でも、確かに、もやもやは取れたよ」
「でしょ?」
「でしょって。どういうつもりなんだよ」
「知らないわよ、私にも」
「あの男と、今後も、付き合っていくんだろうね」
「ええ。あなたも」
「俺もかよ」
「前にも言ったじゃない」
「君って女もよくわからないな」
シカンはこの奇妙な再会にも気分が晴れたことをいいことに、とりあえずは万理に礼を言って、その場をお開きにした。
「すばらしいじゃないですか!」
ディバック本人から連絡があったのは、音源を送った日から、二日経ってからのことだった。
「本当に、すばらしい!予想以上です」
セトは返答に詰まってしまう。
「やはり、私が見込んだ通りだった。全部で、七曲ですね。すべてがいい!無駄がない」
セトはやはり何も答えられなかった。何か別の音源と勘違いしているのだろうか。
「セトさん。いますか?ちょっと。何か言ってくださいよ」
「いや、ちょっと考えごとを」
「あなたもそう思うでしょう。あなたも自信をもって僕のところに送ってきたんでしょ?」
「さあ」
「さあって。音楽への興味が薄いんですか?セトさん」
「それで、マスターテープを作る最後の作業は、行われているんですよね?」
仕方なく、セトは音源の話を進めた。
「今、その最中です。舞さんがいなくても、まったく問題はありません。我々は、雑音を取り除き、そして音をよりクリアにするだけのことですから。基本的に」
「雑音ね」セトは鼻で息を吐きながら答えた。
「雑音そのものですよ。よくあんなのをいいといいますね。まったく、どうかしてる」
「セトさん、それ、本気で言ってるんですか?」
受話器から流れてきた曲は、流麗なメロディだった。そこに変則的なテンポで、打楽器が加わっている。
「こんなにいい曲」とディバックは言った。
「こ、これ?これが、舞の曲?」
「そうですよ。すばらしいですよね」
「そんな馬鹿な」
「ほんとですよ」
「そんなはずはない!」
二日前に聞いた音源とは、まるでかけ離れていた。不協和音ではなかった。
自分がからかわれているのだと、セトは思った。同じ曲なわけがなかった。
「これは、何曲目なんだ?」
「最初の曲ですよ」
「キャッスルオブマインか」
「曲名は、わかりませんが」
「二曲目をきかせてくれ」
受話器から流れてきた曲は激しいロックだった。しかし、リズムは綺麗に刻まれていた。即興でひいたかのような乱れたピアノの音色は、嵐が去った後の海のような絵を思い起こさせる。二日前に聞いた音源とはまるで違う。そのことを、セトは正直に打ち明けた。
「君たちは、いったい、どんな作業をしたんだ?テープをすりかえてないのなら、何か、特殊な加工を施したんだろう?いったい、何をした?」
「ですから、我々は、ノイズを取り除いただけですって。ほんとにただのそれだけ。ノイズを取り除く前の音は一切聞いてないので、あなたの言ってることはよくわかりません。そんなに疑わしいのなら、実際にこっちに来て、聞いてみたらいい」
すばらしいじゃないですかというディバックの言葉が、セトの頭の中からは消え去ることがなかった。その言葉と、あのひどい不協和音の連なりが、混ざり合い、セトはひどく不快な気分になっていった。ノイズを取り除いただけだと?そんなはずはない。まるで別物じゃないか。どんなトリックをつかったのだ?単純に、ただ、別の音源とすり替えただけなのだろうか?それともまさか、本当にあのゴミのような音が、こんなにも純度の高いものに?生まれ変わった?いくら音楽に詳しくないからといって、こんな錬金術のようなことを信じられるはずもない。
じゃあ、もし、ディバック側が音源をすり替えたとして、いったい何故そのようなことをするのだろう。どんな企みが、そこには潜んでいるのだろう。俺を誘き出したかったからか?向こうの陣地へと。それとも、舞のあまりにレベルの低い音楽に愕然として、その反応を意図的に隠すために、このような細工をして態度を取り繕ったのか?
セトの頭の中は混乱していた。それとも、舞の方が、何かを仕掛けたのか?一芝居打ったのだろうか?俺にはあんな雑音を送りつけておいて、ディバックの元には、真面目に作った曲を送っておいた。ディバックとは、あらかじめコンタクトをとっていたのだろうか。俺はピエロじゃないか。そもそも舞は、ディバックと最初から組んでいたんじゃないだろうか。ふと、そんなところにまで、考えは進んでしまった。
ディバックと結託して、音源を出すことに決めていた。それから、事務所を移籍するために、俺の所に話を持ち込んできた。順番は俺が思っていたものとは、すべて逆。その可能性はある。俺はあくまで、タレントを所属させるための道具にすぎない。セトさん、あなたは突然に、音楽家を所属させたわけで、音楽を流通させるルートはまったく持っていないでしょ。ですから、我々が力を貸します。そう言われた。しかし、実情は逆で、我々は我々の息のかかったタレントの所属先を持っていない。ですので、セトさん、実体は我々が動かしますので、とりあえずは何も口は出さないで、所属だけさせてもらえませんかね。そういった話だったのではないだろうか。
セトは最初から、自分が騙されていたのではないかと疑った。
あのガラクタの音源が、すべてを物語っていた。馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。セトはディバックに対して怒りをぶちまけようと思った。舞が姿を消したのも、当然のことだった。最初からディバック側の人間なのだ。
シカンは、万理が帰ったあとも、カフェに一人で残った。Gのことをずっと考えていた。
あの男は、本当に、俺が放つ雰囲気からエリアの話を嗅ぎ取って、口にしていたのだろうか。何か、手品のようなことをしていたのか。万理があらかじめ情報を流していたとか・・・。あの二人がグルになって、俺を嵌めようとしているのではないか。けれども、万理には、仕事の具体的な話をしたことはなかった。いや、エリアという言葉は、口に出してしまっていた。どんな仕事をしているのかの概要も、話してしまっていた。やはり、万理を通じて、Gに?あの二人、いったい、どういうつもりなのだろう。
俺は、万理一人を呼び出したのに、どういうわけか、Gという男を彼女は同伴させてきた。万理らしくもなかった。いずれ、自分の映画に主演で使うと言っていた。今度なのか、今度の今度なのかは、わからない。でもいつかは使う予定だ。彼女はそう言っていた。よくわからない話だった。でたらめなのかもしれない。あの二人はできているのか?なぜGという男は、エリアの話を始めたのか。しかも、それは、俺の知らない情報だった。適当にでっちあげた作り話だったのだろうか。それとも、そんなことはまずない話だったが、彼自身がエリアで働いたことがあるのだろうか。あの二人の目的が、まるでわからなかった。
俺の思い込みなのか。
あの二人は、この俺を何かに利用しようとしている。一体なんのために?映像作家である俺を。そこにしか利用価値はないはずだ。俺の中の何をあの二人は手に入れようとしているのだ?
考えれば考えるほど、シカンはわからなくなっていった。しかし、こうも考えられた。あの、Gという男は、本当に何か目に見えないものを読み取る能力があるのではないかと。
シカンはカフェを後にする。すでに、自分の他に客は残ってなかった。
舞はディバックの呼び出しに素直に応じていた。セトには音源だけを送り、あとは自分は関わるつもりはないと伝えていたが、ディバックは舞に直接会いたいと言ってきた。
その声に何か魅かれるものがあった舞は、セトに内緒で、ディバックのレコーディングスタジオに行った。
ディバックという男の風貌は、その声の魅力よりも、さらに強烈だった。舞が今まで出会ったことのない力強さを兼ねそえていた。強いエネルギーを周囲に惜しげもなく、撒き散らしている男とは異なり、エネルギーはただひたすら内に秘め、そしてどんなに苦しい境遇に陥っても、決して打ちのめされない耐久性の強さを、持ち合わせているといった風だった。何事もなかったかのように、ただ普通に受け止め、さらには状況を逆手にとって、新しい方向を見出すことに敏感になるといった、つまりは光がさす方角が決まれば、もてるエネルギーのすべてを、そこに注ぐといったような。いや、それ以上に、エネルギーを無から湧き出たせることのできる、底力のある男に見えたのだ。それが最初の印象だった。
どんな言葉をかけてくるのか、舞は待った。
ディバックの隣には、一人の若い男がいた。そのことに、しばらく経ってから気がついた。
「確かに受け取りました」とディバックは言った。声もすばらしかった。空気の震わせ方が何とも絶妙で、舞はすでにこの男の魅力の虜になってしまっていた。
「すべての曲がすばらしかった。力強い意味のようなものを感じた。すべてからね。誤解のないように言えば、意味というものは、伝達すべき物事ではない。メッセージのことではない。メッセージソングを僕が聞いたって何の意味もないだろ?メッセージというのは、ある特定の角度からの見方にすぎない。それは、時に、上からの目線にもなる。僕に対して何か物を申すなんて、そんなのは、とんでもないことだ。おっと。また、いつもの、汚い言葉づかいが出てしまった。レディー相手にすまない。それに、君の曲には、そもそも、歌詞がついていない。これはどういうことなのだろう。歌は乗らないということなのかな。それとも、歌はあとでいれるのか。あなたが歌うのかな。それとも、別の人が歌うのか。僕には何もわからない。今日はそのことを君に聞きたかったのだよ、直接。ああ、そうだ。この男性。知ってるよね。以前、君と付き合っていた、何と言ったかな。前の名前は忘れてしまった。今はМQRというんだ。僕の仕事を手伝ってくれている。秘書のようなものだ。手となり、足となり」
「あなた・・・大学の研究室にいた・・・。こんなところに」
「それ以上、何も言わなくていい」МQSはそう言うと、それ以上は、口を開こうとしなかった。
「妙な偶然もあって。とにかく、我々は、運命共同体のようだ」
ディバックは、変わらぬトーンで言った。
「それで、私の音源は、どうなったのですか?」
「特殊な機械で、少し研磨させてもらったよ」
「聞いてみたいです」
「ほんとに?」
「ええ」
「君の思惑とは、まるで異なるものになっていたとしても?」
「聞いてみないとわかりません。私を直接呼び出すくらいなのだから、自信があるんでしょ?どうして素晴らしい曲だなんて、嘘を言うの?」
応接ルームのスピーカーからは、音楽が流れてきた。
舞はそれが自分のつくった曲であるとは、露ほども思わなかった。単なるBGМとして聞き流していた。ディバックが突然に笑い始めた。おいおい君の曲なんだぜと、からかうように声をかけた。舞は心の中を読まれないように、わざと大袈裟に、自分の気持ちを動揺させてみせた。平常心を装うには、かなりの困難な状況であった。ならばと、上乗せして攪乱してしまうほうが、よっぽど簡単だった。それだって、ディバックは簡単に見抜いているだろうから、これは単なる自分の恥ずかしさを誤魔化すための、可愛げのある行動にすぎなかった。
まさか、元彼がこんなところで働いているなんて思わなかったが、そっちのほうは、それほど動揺はしなかった。基本的に、自分という人間は、状況に対して動じない性格なのだろう。
そういう意味で、ディバックと名乗る男と、同じ人種のような気がして共感はした。
「よく聞いてみたらいい。これは、君の曲だ。別の人間の曲を、持ってきて、君の音源を研磨したのだと、そう言い張っているわけではない。嘘か、本当か。君が聞いて、判断してくれたらいい」
舞は、七曲すべてを、黙って聞いた。もう途中からは、すべてを理解していた。
姿形は、まったく異なるものになっていたが、その表層部分をすべてとっぱらった所にある、純粋な精神性のようなものは、自分とほとんど同化していた。偽りなく、これは自分の曲だと、感性は認めていた。どんな作業をあなたたちは加えたの?という質問をしたい衝動に、何度となく襲われた。しかし、それだけは何故か、口に出すことが憚られた。
「スタジオを見てみたい!それと、機材の方も見てみたい!」舞はそう言った。
もちろんだという風に、ディバックは応接室から外へと、舞をエスコートした。
どう見ても、その一つ目の部屋は、病院の手術室にしか見えなかった。染みひとつない真っ白な部屋は、かなりの広さだった。五十畳以上はあるように見えた。最新のМRIの機械のようなものが、部屋の真ん中に置かれていた。何と反応していいのか、舞にはわからなかった。МQRと、ディバックに呼ばれていた男は、応接室からは出てこなかった。
「いろいろと、レコーディングスタジオには見えないところがあるけれど、気にしないでね。特に、ここは、変だね」
別の扉をディバックは押した。舞は、別の部屋へとはやくも移っていた。
「ずいぶんと、コンピュータが詰められているからね。人の脳の中に入りこんでしまったようだろ?足の踏み場もないとは、まさにこのことだ。おっと気をつけてくれよ。踏んでしまったら、えらいことになるから。繊細な線がたくさん走っているから。一本でも傷つけてしまえば、エラーの信号が発生してしまう。すると、それまで消すことのできていたノイズが、また復活して戻ってきてしまう。君が最初につくった音源にまで遡ってしまう。原型に戻ってしまう。ここからが、本当のレコーディング機材の部屋だ。この先にもたくさんあるんだけど、君に見せるのはここまで。これ以上見せようとしても、きりがない。延々と続いている。そのうちに迷路のように、どこがどこの部屋なのかわからなくなってしまう。迷子になるのは必至だ。僕だってそうだ。ここまで。さっきの部屋は、何というのか。控室みたいなものだ」
「あれは、МRIでしょ」
「そう見えるけど、実際は、そうではないのかもしれない。おっと、今、君の右足は、その緑の線に、もう少しで、触れるところだったぞ。注意してくれ。本当に些細なことで、すべてが駄目になってしまう」
「本来は、人が入っては、駄目な場所なんですね」
「これを設置する時と、取り外す時のみ。清掃は、コンピューターがプログラミングしている通りに、自ら行う。というよりは、すべての時間のなかで、この機械がこの世に存在している限りにおいて、常にクリーニングは行われている。あらゆるものの中にあるノイズを取り除く、電脳だと思ってくれたらいい。記憶力の半端ではないコンピュータは、この世には無数にあるし、処理能力にしろ、さらには、人間に指示されるまでもなく、自発的に動くコンピュータの存在だってある。しかし、これは違う。あらゆる情報を消すために、存在している。覚えるとか、重ねるとか、組み合わせるとか、そういった方向性は、まるで持ち合わせてはいない。しかし、非常に繊細であるから、ちょっと触れただけで傷をつくってしまう。脳の血管のように、ほんのわずか、メスが触れてしまっただけで、身体には不随という情報が記憶されてしまうことになる。君の音源が、クリアな状態を保っていてほしいのなら、必要以上に、注意するんだ」
今現在も、音源がこの状態を保っていられるのは、この機材がちゃんと動いているからなのだ。傷がついてしまえば、ノイズは再び蘇り、二度とクリアな音は再生されなくなる。
二度と、あの音楽を聴くことはできなくなる。
「あの音を」と舞は言った。
「あの音?」
「応接室に流れていたあの音を、別の機械に読み込ませて、録音することは可能ではないのですか?」
「コピーをとっておけと、君はそう僕に命令している」
「できないんですか?」
「結論から言おう。できるかできないかは、君の知ることではない。教えはしない。しかし、コピーをしようとは僕は思わない。コピーというのは、いかなる性能をもってしても、劣化を避けることができない。その、わずかな落差が、ここでは命取りになってしまう。つまりは、そのミクロの落差が、まさにノイズそのものになってしまう。言いたいことは、わかるだろう?その落差を経験することで、まさに、音は、君が昨日持ってきたその状態と、たいして変わらなくなってしまう。そんなことになるとわかっていて、何故、コピーなどしようと、思う?君の次の質問はわかっている。コピーにとって、バックアップしておいたものを、再び、この機材でノイズを取り除いて、蘇らせたらいいと。みんな考えることは、同じだ。だが、そのようにはいかない。コピーした音源に研磨をかけたって、音は変わらないんだ」
「ということは、私が制作した音源の入ったテープにしか、あの応接室で再現した音を発生させることはできない、ということですか。何だかよくわからないです。ということは、あの音を、大量にCDに焼いて流通させることは、不可能だということですね」
「そうだ」
「配信は、可能なんですか?」
舞は事態の深刻さに気付き始めていた。
「配信は、可能だ。しかし」
「そういうことですか」舞は納得した。「私が制作したマスターテープが存在を消してしまったときには、配信している音源は存在することをやめる。あとは、この機材にトラブルが発生することにでもなれば、やはり、再現されるクリアな音は、消えてなくなってしまう。複製をつくることが、困難だとは・・・。いったい、どういうことなんですか?」
「どういうことなのかは、君に訊きたいよ。どうして君は、最初からあの音が作れないんだ?あの音をテープに入れ込むことができないんだ?しかし、もしそれが最初からできているのであれば、我々の存在意味は、まさになくなってしまう。たまたま稀有なテクノロジー同士が、ここで邂逅した。二つが一緒になることで、初めて特別な力が発揮される。そして、どちらかが存在をやめてしまえば、その瞬間に、それまで生まれ出ていた力のほうも消えてなくなってしまう。一蓮托生とはこのことだな。半永久的に存在し続けることは、理論的にはありえない。機材は、いつかは、故障することであろう。テープの劣化は、避けることができない。人の生命と一緒だ。有限じゃない。しかも、二つのうちの一つが失われてしまえば、片方も死を迎える。人間一人の話とはちょっと違うかな。二人の人間がくっ付いて、一人の別の人間を存在させていると、考えたほうがいい。
つまりは、この二人がくっつくことで現れた、一人の人間は幻想だともいえる。
しかし、二人が合体している限りは、その一つは、確実に存在している。有限だが、実体としてはあると信じたい。まさに、君の楽曲のように。僕は、君がどうやってあのノイズまみれの音を制作したのか。それを知りたいと思っている。あのМRIは、そういう意味だよ。あれは、君を調べるために、あそこに存在している。人間の内部の構造を、我々は知りたいんだ」
「私は、この機材が、いったいどれほどあって、それがどんな相互作用をしていて、どんな規模で立ち回っているのかが、知りたい。そして、どうしてそれほどのコンピュータを、生み出すことができたのか。そこに、あなたは関わっていたのか。いないのか。誰か別の人間が介入したのか」
「お互い、興味は、つきないね」
「音楽の配信のほうは、あなたがすべてを担ってくれるんですね」
「そういう契約は、すでに交わしている」
「けれど、その配信の実体については、セトは何も知らないのでは」
ディバックは頷いた。
「その説明の役割を担うのは君だよ。君のところの社長じゃないか」
「うまく話すことなど、私にはできそうにありません」
「何も、科学的な説明をするわけじゃない。複製をつくることは不可能で、配信だけが可能だということを、簡潔に説明すればいい。そして、その音源に変換している機材は、それが動いている限りにおいて、音のほうも生かされている。いつか、死が避けられないということも話したらいい」
そう言われれば言われるほど、この機材は、人間の脳や血管、そのほかの臓器と同じような世界観を形成しているように、舞には思えてくる。
表向きはいまだ、謹慎処分中の万理は、自宅で、映画の次回作の構想を練っていた。
Gとシカンが、会話をしているところをずっと横で見ていたため、そのイメージがずっと頭の中に残ってしまっていた。彼らは科学者のように見えた。お互いに、まったく異なる分野の専門家であり、異なる理論を持っているにもかかわらず、ある一つの話題をもって、二人は意気投合をした。《エリア151》という軍事機密施設の建設にあたって、あの二人は、重要な役割を担っていた。あの二人が、エリアの根幹の青写真を描いたのだ。
《エリア151》は、難産の研究と、性交渉に関する研究をしていたのだという。
この二つの柱が、そのまま、あの二人の科学者の専門分野になっていたのだ。
シカンは、難産の研究を、Gは性に関する研究を、それぞれ続けていた。そして、それぞれの研究対象としてお互いを発見した。出会いに関しては、よくわかっていない。それは、撮影が進むにつれて、自ずとわかってくることだろうと、万理は思った。とにかく、外枠をつくることに、今は専念する。
シカンは、生みの苦しみに悩まされる妊婦を対象に、研究を重ねていた。十か月を過ぎても生まれてこない赤ちゃんは、予想以上に、この世には多かった。そして、研究を進めていくうちに気づいたことは、その究極の難産を経験する赤ちゃんの数と、自殺によってこの世を去る人間の数とが、緊密に符号していたということである。自殺者は、その年によってかなり人数が違った。そして、子宮にとどまったままの赤ちゃんの数も、その年によってかなり違っていた。これは、調べてみて初めて知ったことだった。そんな難産の存在を知ってる人は、それほどいなかった。自分もそうだった。それに、自殺者が毎年こんなにも変動があるとは知らなかった。例年だいたい同じくらいの数なのだろうと、漠然と思っていたのだ。出産に関しても、少子化が叫ばれている通りに、年々少しずつ減っているのだろうという認識しか持ってなかった。グラフとして見てみれば、それこそ、緩やかに下がっていくという程度のイメージしかなかった。それがこんなにも、変動が激しいものだとは思わなかった。何かが強い影響力を発揮しているのは、間違いなかった。その要素は一体何なのか。シカンはまず、そのことが気になったのだった。
シカンは当時、大学生だった。研究のテーマを自ら設定するという自由なゼミに所属していたことから、彼はまず最初のテーマとして、これを選択したのだ。いっぽうのGの方も、同じ大学のこのゼミに所属していた。そう、彼らは大学で出会っていたのだ。エリアの設立までには、まだだいぶん時間があった。彼らは大学卒業後に、人知れず、共同で研究所を立ち上げたのだが、まだこの時点では、ただの同級生というだけで、特に親しくもなかった。会話をするような仲でもなかった。初めての発表会で、お互いのテーマを知り、何となく興味を抱いたというのが、二人を近づけるきっかけとなった。
Gは高校のときから女遊びが激しかった。次々と付き合う年上の女を変えていき、性を貪っていた。そしてだんだんと、年上の女から年下の女へと変わっていき、その限度は底知れぬ下降線を辿っていった。小学生にまで、その食指は及んでいった。それからGは、女性から男性へと跨ぎ超えていくことになる。その頃から、Gには美意識が強烈に働くようになり、美しいと感じる人間に対しては、性による制限がまったく働かなくなったのだ。性交渉を貪りつくした結果、その行為自体が、Gにとっては、醜悪極まりないものとして目に映るようになっていった。せめてそこには、美しさがなければ、そうでなければ退廃の極みを尽くしてしまう。Gは慌てて、美しいと感じる人間に、ターゲットを絞っていくようになる。結果、性別は簡単に超えてしまっていた・・・。Gはいったい自分の中の何が一体、こんな行動に平然と駆り立ててしまうのか、悩んだ。躊躇というものはなかった。自分の中では、ごく自然な成り行きだった。すでに状況は、お膳だてされていた。自分はただ、手を伸ばして手にいれるだけでよかった。Gは自分が何者かに操られているのではないかと、気味が悪くなった。シナリオはすでに存在していて、自分はただ、それをなぞっているだけなのではないか。そう思ったとき、Gの心の中には、意志が初めて芽生え始めたのである。自分が、強い意志をもつことで、このシナリオを書き換えることができるのではないかと思ったのだ。このシナリオは生まれてくる前に誰かが書いたものであって、この自分には、本来なんの関係もないのではないか。これは誰かが気まぐれで勝手にかいたものであって、こんなものに踊らされてはいけない。自分の中に意志というものがないから、こんなシナリオにただ踊らされるだけになるのだ。Gは、大学に入学するときに、この自分の淫欲のような衝動、それまでの経歴を、静かに封印する決意をした。ゼミが始まったとき、彼には交際相手はまったくいなかった。
万理は手を休める。ペンはさらに先へと突っ走っていくようである。だが万理はあえて、ここで進みをとめた。椅子に寄りかかり、天井を見上げる。
何か一つの出来事があり、それが引き金となって、わけのわからないイメージが自分の中で広がっていく。実に奇怪なことではあった。
シカンと、Gが、本来、こんな人間であるはずもなかった。
しかし、あえて、名前を別に設定しようとも思わなかった。このまま、シカンとGとで、最後まで書き上げてしまおうと思った。だが、ここでふと思ったことは、この話を映像化するときのことだ。G本人を使っては、駄目だということだ。心の声は、そう訴えてきた。
Gは、私の映画に出演するべきではないと、突然思った。気づけば、井崎に電話をして、そのことを伝えていた。「申し訳ないです、井崎さん。私の方から、頼んでおいて。こんな結末になってしまうとは。でも、感じたことは、正直に話さないと。Gくんのデビュー作を、私の映画の中に設定してしまってはいけない。井崎さん、Gくんをよろしくお願いします。お返しします」
Gとシカンを元に作ったこの映画の人物を、その本人が演じてはいけないのだと、万理は思った。これは別の人を使わないといけない。そう決意したことで、万理はさらに、ペンを先へと走らせることができる気がした。時の流れを拒む、枷のようなものを、きれいに外すことができると確信した。
セトは舞からも、見捨てられたような気持ちになっていた。万理は、自分の手からは離れ、自分で映画を製作できるまでになった。いつ、VAを出ていってしまうのか、わかったものではなかった。彼女に近づいてくる人間は、これからますます増えてくることだろう。もうすでに、いろいろと接触をうけているのかもしれなかった。そう考えると、セトの焦燥感はさらに募っていった。長谷川セレーネのデビューまでには、まだ少し時間があった。彼女はおそらくデビューしたと同時に、たくさんの仕事が舞い込んでくる。この俺がいろいろと出向いて、プロモーション活動に勤しまなくても、彼女は楽々と成功することのできる、ごく稀の逸材であることは間違いなかった。俺はただ見ているだけの傍観者にすぎなくなる。舞だけは、自分がプロデュースできるのではないかと鷹をくくっていたのだ。舞だけは、俺を頼らざるを得ない。そんな状況を予想していたし、望んでもいたのだ。そのことを今痛いほどに気づかされていた。
芸能事務所として、スケールのあるタレントが揃ったと、気をよくしていたが、すべては、この自分のフィルターを通すことなく、彼女たちは自ら、あるいは外部の誰かと共に、動きを活発化させていくのだ。VA所属という名目があるだけで、中身はすべて骨抜きにされているのだ。
それでも、彼女たちが所属していれば、まだよかった。それもいずれは、現実的なことではなくなる。VAからは去っていくのだ。契約があるので、今は一方的に彼女たちから切ることはできないが、それも、時間が自然と解決へと導いていく。彼女たちが契約の更新を希望しなければ、所属は自動的に解消されてしまう。
まさか、彼女たちは一斉にそのときが来たら、いなくなってしまうのではないか。
セトは今のこの時期に、次なる仕事を立ち上げておかなければ、生き残る道はないと、考えるようになっていく。芸能とは違う、事業を何か・・・。それはすぐに思いついた。もうずっと彼の頭の中にあったものだった。今なのかもしれない。彼はそう思い始めていた。
初めてのゼミの発表で、Gは、『淫欲』というテーマを選んだ。結局、Gは、自分のこの性質からは逃れられないと、早くから判断した。そして自分が、そうであるということは隠し、それでも探究したかったために、彼は過去の歴史で、『淫欲』が盛り上がっている時代を隈なく探した。淫欲を個人的な性癖として扱ったとしたら、ただの変態になってしまう。心理学的なアプローチは確かにあったが、Gにはどうも、しっくりこなかった。あくまで、個人の問題として取り上げたくはなかった。そういう意味で、Gは小説というのも大嫌いだった。自我という言葉も、大嫌いだった。何故個人というものを明確にして、そして、その個人が認識できる周辺情報だけに、世界を特化しなくてはならないのだろう。そんなことをわざわざしなくとも、人は個人的な生活を、普段から営んでいるじゃないか。現代人である自分たちなら、尚更であった。
だから、Gは歴史や時代に、この自分の暗い影を照射したかった。そして、大学のゼミという場であっても、それなら許されることであり、むしろうまくやれば、学術的にも成立するだろうと考えた。エンターテイメントとしても、成立するかもしれない。
そして、一番肝心なことは、自分のその陰鬱な影を、ないものとして抑圧することがなくなるということだった。Gは、ルネサンス期のフレンツェを選んだ。
一方、シカンは、自由なテーマを与えられたことで、最初は戸惑った。Gのように確信をもって、素早く行動に移せたわけではなかった。その点は、今のシカンの性格にも通じるものがあった。自らの内側から、何かを取り出してくることに、彼は興味がなかったのだ。対照が外にあることで、そして、それへの反応を通して、自らの行動を規定するというタイプだった。
だが、このときのゼミではそうはいかなかった。彼にも、自分の中で無意識に気になり続けていたことがあった。自分の出生に関することだった。彼は帝王切開で生まれたのだ。そのことを、父親から聞いたことがある。まだ八か月が過ぎた頃で、予定日までにはまだだいぶん時間があった。だがシカンは、子宮の中で瀕死の状態に陥ってしまっていた。へそ脳が、首に絡まり始めてしまったのだ。すぐに取り出さなくては、母子共に、危険な状況に陥ってしまう。とにかく、母親だけでも助けなくてはいけない。シカンを犠牲にするつもりで、緊急の手術に踏み切った。八か月になっていたので、このまま放置すれば、巨大な赤ちゃんのままに、子宮の中で死骸と化してしまう。とにかく、取り出さなくては話が始まらない。発育不全であれば、それを補強する処置を、施し続けることになるだろう。未発達のままに、長く生き延びることは不可能かもしれない。しかし今は、とにかく母体を救わなくてはならなかった。赤ちゃんのことは、その後だった。そうして、シカンは予定よりも早く、この世に誕生してしまうのである。
だがシカンは、発育不全どころか、通常の赤ちゃんと変わらずに、順調に成長を続けていった。そして、両親も、あの大手術による弊害など、何もなかったのだと思うようになっていった。帝王切開で生んだという事実だけが、かろうじて、残ることになる。
シカンも大人になるまで、何も気にはならなかった。だがシカンは、だんだんとこの出生の瞬間というか、そういうものに興味が出始めていた。《始まりの瞬間》に関心がいくようになっていた。というのもまさに、このゼミは、テーマから自分で見つけださなくてはならなかったからだ。何もないところから、この自分自身の体で、生みださなくてはならなかったのだ。始まりの瞬間に意識が向いたのは、ごく自然な成り行きだった。
するとシカンは、不思議なことに、自分とは逆の難産の赤ちゃんのほうに、だんだんと意識が向いていくことに気づく。ここでも、彼の性格が出た。自分の性質を深く探究するのではなく、まったく異なる人間だったり、異なる性質だったりに、興味関心を抱いていくのだった。
だから、帝王切開で生まれた赤ちゃんではなく、早くこの世に生まれてしまった赤ちゃんでもなく、その逆で、十か月を過ぎても生まれ出ようとしない、そんな事例に、焦点を当てていくのであった。
シカンは、難産の子供について調べていくうちに、自らの身体が変化していることに気づいた。最初の発表のときには、まだその症状は出てなかった。ずっと後になってからだった。シカンの身体は月の終りに向かって、お腹が膨張していくのだった。呼吸することすら、苦しくなっていった。体重はまったく変わらなかったが、明らかに、お腹は膨らんでいた。そして全体的に、肉付きがよくなっていた。しかし月を跨ぎこすと、彼のお腹は元に戻るのだ。体全体も一回り小さくなる。そして、そのお腹が張っているときには、ものすごく神経が敏感になり、ちょっとしたことで落ち込んだり、憤ったりするのだった。女性の生理の周期と非常に近かった。
シカンは体質が変わったことを、嘆いたりはしなかった。難産の研究をやめれば、体も元に戻るのだろうかと思ったりもした。しかし、在学中の彼のテーマは一貫して、変わることはなかった。そして卒業後も、そのテーマは続いていくことになる。すでに、彼の身体的特徴は、彼そのものと同化してしまっていた。難産の子供たちは一体いつ生まれることになるのか。十か月を過ぎても誕生しない妊婦を、シカンは追った。しかし、不思議なことに、彼女たちはその後も、子供を出産した記録がないのだ。彼女たちは結局、赤ちゃんを産むことはなかった。もちろん彼女たちは、その後、それとは別に、妊娠をして十か月後に出産することはあった。だが、あの十か月を過ぎて生まれてこなかった赤ちゃんに関しては、行方が完全にわからなかった。その謎を産婦人科医に訊いたのだが、彼らも一様に、不可思議な表情を浮かべて、自分たちにもはっきりしたことはわからないと言った。
「一年が過ぎ、一年半が経った頃、妊婦のお腹は、だんだんとその膨らみが解消されていきます。二年を過ぎる頃には、完全に妊娠する前に戻りました。エコー検査では、すでに赤ちゃんの存在を確認することはできなくなりました。何事もなかったかのように妊娠する前の状態へと、戻っていたのです。その後、女性は、通常の妊娠と出産をすることになります」
「何事もなかったかのように」
「そうです」と産婦人科医は答える。「我々も、特に、それ以上は、追及することはありません」
シカンの最初のゼミの発表は、ここまでだった。
それは、彼のテーマに対するイントロダクションであって、第一回目としては上出来であった。同級生やゼミ担当の教授の好奇心を、十分にひきつけることができた。そして今後の進展に、期待を寄せる雰囲気を、十分に演出することができた。そして誰よりも、Gが食いついていたのだった。シカンは気づいていた。
それに比べると、Gの初回の発表は、惨憺たるものだった。
ルネサンスの工房で働く彫刻家や建築家の同性愛を取り上げたのだが、それを聞いた誰もが顔をしかめた。露骨に嫌悪感をあらわにした。発表の仕方にも問題があった。仕事や芸術に関する事柄、または時代背景に関する資料としての開示は、ほとんどなく、ただ淫欲に関するエピソードばかりを集めて、喜々として、それを伝達するためだけに、Gは檀上に立っているように見えたのだ。まるでGがそのとき、工房で働いていた若い男の一人であったかのように、話は進んでいった。快楽や嫉妬心を、まるで自分が体験したかのように進んでいく彼のプレゼンテーションは、まだお互いをよく知らないゼミ生の中にあっては、彼という人間に対する不信の念だけが渦巻く結果となってしまった。
ただ一人、シカンだけが、Gの中の何かに興味を抱いたのだった。
一か月後には、二人で飲みに行く間柄になっていた。
ゼミの他の学生の中には、この二人の親密さに、ある種の疑惑を抱くものも少なくなかったが、それでも彼ら二人は、ことのほか社交的であり、他の人とも楽しく時を過ごすことができたため、周りは不快に感じることはなかった。
そしてGは、『淫欲』のテーマを数回披露したあとは、ぱったりとそのテーマを引き下げ、ルネッサンス期のフィレンツェに関する研究に没頭し始めた。卒業までそれを貫いた。そして時おり、シカンの難産のテーマを手伝い、共同で発表したり、また別の人たちの班に混じって、別のテーマを探究することを繰り返していった。他のゼミ生も、担当教授も、次第にGが『淫欲』をテーマに発表した、最初の頃のことなど、完全に忘れてしまっていた。
ただ、他の人が誰も知らないところで、二人が極秘に何かを話し合っていたという場面が、目撃されることはあった。同級生の何人かの中に、Gやシカンに密かに想いを寄せていた女子学生もいた。彼女たちはその様子を見て、何か思うところはあったらしい。
シカンは、卒業後、映像制作会社に就職することが決まった。Gは何も決めてなかった。同級生たちは、Gが、その後どんな仕事につき、どんな生活をしているのか、誰も知ることはなかった。シカンは、同窓会に顔を出したが、Gは一度も来たことがなかった。シカンもGのことは何もわからないと、表向きは答えておいた。二人は定期的に連絡を取り合っていた。
二人が、《エリア151》を共同で設立したのは、八年後のことだった。そこには仲介役としての女優の存在があった。Мという映画監督業もこなす女だった。二人は初めて会ったかのように、彼女の前では振舞った。実際、大学を卒業してからは、一度も顔を合わせてなかった。
Мが帰ったあとに、二人は食事をしにいった。
話題はいきなり、核心に迫っていた。
「俺さ、難産の研究を、ずっと続けていただろ」とシカンは言った。「もちろん卒業してからは、一度だって、興味関心を傾けたことはない。ゼミで、すべてを清算できたんだ。そうだよな?俺がどうして、あの研究課題を選んだかというと、もともとは、この俺自身が、早産だったんだ。もう今となっては、誰も知らない事実だ。そういう記録が、病院に残っているわけでもない。両親は亡くなった。兄弟はいない。今、そのことを知っているのは、お前だけだ。俺は生まれる時期を、だいぶん前倒して出てきてしまったんだ。しかも、人工的にメスで切り開いて。へそ脳が、自分の体をぐるぐる巻きにしていたそうだ。自業自得さ。
しかしね、俺はたまに思う。自害したかったんじゃないかって。つまりは、生まれることを忌避する何か重大な理由が、あったのではないかって。そんなことを普段は考えないさ。夜一人でいるときに、本当にたまにだがふっと頭を過るだけだ・・・。本能で何かを感じ、生まれることをやめようとしたんじゃないか。目の前にはロープがあった。しかし、外部に気づかれてしまった。光のさす世界が早急に到来してしまった。予想外にも。事態はさらに、悪い方向へと行ってしまった。でも、生まれ出たその赤ちゃんは、不思議と順調に育っていった。その、前倒しになった数か月の影響など、まるでなかったかのように。そして誰もが、その奇矯な出生の事実を忘れてしまった。
別に、そのことで、俺が何か思い煩っているとか、ひどく感情を揺さぶられているとか、そういったことではまったくないんだ。しかし、消すことができない。いつまでも、頭の片隅にあるのが嫌なんだ」
「わかるよ」とGは言った。「何かあると思っていた。最初に会ったときから、俺はその何かをずっと感じていた。君だってそうだろ?俺に何かを感じているんだろ?けれども、お互いに、そういった話をしたことはなかった。そのタイミングはなかった。君も、そのタイミングを、ずっと図っていたんだろ?俺だってそうだ。そして、今だと感じた。俺もさ。あのゼミが始まったときの、俺の最初の発表を覚えているか?」
「忘れやしない」
「ルネサンス期の彫刻家の淫欲の話だ。あれは実話なんだが、どうして俺があんな話をわざわざ選んだのか。俺だって感じたさ。あの発表を聞いていた人は、みな、俺の感情移入の仕方が異常だと思った。そしてそれ以上、俺が深入りしてしまえば、きっとゼミの中では孤立してしまう。淫欲の話はやめた。急に違う話題に移ってしまうのは、不自然だったから、仕方なくフィレンツェの研究をするということで、自然な流れは保った。君たちがみなそう思ったように、そう、あの話はほとんど、俺の話そのものだった。過去の体験を、そのまま話したのと、結果的には同じことになってしまった。不思議なことに、その彫刻家、誰だったかな。今は忘れてしまった。彼と、俺の性癖というかそういうものが、ほとんど同じだった。時代と場所が違うだけで。その本質はまったくの同じだった。大学に入学する前の、俺の生活と、ほとんどそっくりだった!俺は大学のときから、今まで、その性衝動をうまく抑え込んでいる。しかし、もう、無視することはできない。君に打ち明ける時期が来たと思った」
「一緒に、何かやらないか?」シカンはそう切り出した。
「何か?」
「二人のテーマを、同時に解消するような、そういう何かだ」
「早産と淫欲を合わせた、何か?」
「俺はね、この二つがまったくの、無関係だとは思わない。もちろん、緊密な関係にあるとも思わないが」
Gは、何度も頷いた。
「いつか、君とは、一緒にやると思っていた。大学時代ではありえない。大学を出て、すぐにやってくるとも、思わなかった」
「お互いに、自分のルーツを、見つめざるをえない、そんな状況が必ず来ると思った。名前はもう決まってる。エリア151。ユニット名であっても、会社名であっても、プロジェクト名であっても、とにかく何であろうと、《エリア151》だ」
万理は、息を深く吐いた。久しぶりに何かが起こりそうな脚本が書けた。これ以上、話を進めることはない。そのことを確信する。これで、いつでも撮影に入ることができる。清書をするためにパソコンを開いた。あとは、名前をどうするかだ。Gとシカンではいけなかった。架空の名前を決めなくては。けれど、Gとシカンのイメージが頭から全然抜け切らない。仕方がない。思いつくまでは、AとBにしておくことにしよう。
セトのもとにかかってきた電話は、МQRからだった。
「ちょっと、お話があるのですが」と彼は言った。
「レコーディングのことなら、君たちにすべてを任せたはずだが」
「違うんです。その件ではありません。舞さんのことでもありません。それとは、別の件で。ディバックとも関係がありません。私個人が、あなたと話し合いたいことがあるんです」
セトは、この不審な電話が気にいった。
自分が滅入り始めているこのタイミングで来たことに、心は弾んでいた。
芸能とは別の何かの道を見出そうと、懊悩し始めていたところだった。
ただの世間話であったとしても、それで全然構わなかった。
「セトさん。この私って、いったい何なのでしょうね」と彼は言った。
その始まり方に、セトは敏感に察するものがあった。この男は俺と似ている。何かを始めたがっている。通常おこなってきた今までの業務とは、あきらかに違ったものを望んでいる。そして、それはかなりの逼迫した精神状態から、発せられている。
俺にはわかるとセトは心で呟いた。彼の声の振動は、まったくの同感に値するものだった。
セトは、全身の細胞が一気に動きだし、皮膚の組織が全開になっていくのを感じた。
喜々として自分から声を出してはいけない。セトは自制することに精一杯だった。
「最近は、少し落ち着きましたが、『時震』の話は、ご存じですよね。あの原理の解明に力を入れてるのも、ウチの研究室なんです。ディバックが陣頭指揮をとっている。ディバックの興味は、多方面に広がっています。しかし、今は、『時震』に関しては脇に置いている。音楽の作成の方に、意識は全面的に傾いている」
セトは黙って聞いていた。
いったい、どういうつもりがあって、自分に近づいてきたのだろう。
「どうして、ディバックが音に興味を持ったのかはわかりません。音楽が好きだということも、なかったようですし。そういえば、以前に一度だけ、『美』がどうだとか、そういった話をしていたことがありました。自分には『美』は生み出すことができないだとか、そのようなことを。何か関係があるのでしょうか。私は言われたとおりに、機械の改良やメンテナンスをしているだけです。そのためだけに雇われている」
「俺に、何の用だ?」
「ディバックの意識は、『時震』の方には向かっていません。ですから、今がチャンスなんです。大都市のど真ん中に、我々は地下貯蔵倉庫を保有しています。そこにまとまった量の『直方棒』を保有している。プールの中に漬けて沈ませています。紫色の蛍光を常に解き放っているはずです。それがあれば、誰に気づかれることなく、時空を引き裂くことができる。まだ、あの量だと、それほど広い範囲では不可能だ。でもそうですね、東京ドーム一個分とか、それくらいなら、今でもすぐに可能です。その範囲でなら、時空を変化させられる。私は、あなたにその『直方棒』を引き渡してもいいと、そう思っているんです。もうここが、ディバックと縁を切るタイミングなのかもしれない。
舞という女。あれは私の前の女でして。これ以上、ディバックが彼女に近づいていくのを見てはいられない。今だに、私は舞のことが好きなんですよ。まだ、お互いが同じ大学に通っていた頃が懐かしい。もう二度と戻れない二人の青春です。私にはディバックという人間がよくわからない。彼が持ち合わせている科学技術は、私たちの文明を遥かに凌駕してるように思えるときがあるから。私はそんな男の近くで働いているという事実がとても恐ろしい。人間全体を破滅させてしまうのではないかというくらいの、恐ろしい化学兵器のようなものに、もしかしたら、自分が知らないうちに加担しているのではないかという恐怖さえあります。理解のできないレベルのことに加わるのは、非常に危険なことです。
私は自ら降りるべきだと感じた。
しかし、その『直方棒』についてはわかるんです。
そして、あなたのお役に立てるのではないかと思った。
いずれ、舞の争奪戦が始まります。舞を取り巻く状況は複雑になる。ディバックは、舞を独占しようと動くことでしょう。セトさんも、舞を容易に手放しはしない。他にも舞さんを狙っている勢力があるように思います。最低でも、この三者の争奪戦が繰り広げられる。そして、この私は、舞との復縁を目指しています。
舞自身は、おそらく、そのどの勢力とも全面的に繋がることはしないと思う。どこともうまくやっていこうとするはずです。しかし、舞を狙う勢力は、最終的には必ず、独占するという方向で方針を固めてくるでしょう。おそらくあなたも。ディバックに奪われた部分を、力で奪還しようとするはずです。ディバックの強みは、人間離れをした文明のテクノロジーです」
「彼の目的は、何なんだ?舞を媒体として、いったいこの現代文明と、どのような接触を持ちたいんだ?」
「目的はわかりません」
「新しい時代を創造して、支配したいんじゃないのか?そのためには、この既存の世界をぶっ潰す。どんな潰し方かは決まっている。化学兵器だ。音楽を媒体にするということは、音源に何かを埋め込むということだな。人の意識に直接アクセスするためには、音楽が最適だ。何かをプログラミングして、人間の意識の中に送り込もうとしている」
「洗脳ですか」
「おそらくは、既存の世界を物理的に壊してしまえば、すぐに支配をすることはできない。新しい構想を、即刻、行動へと移すことはできない。また作り直さなくてはならないのだから。時間的にも無駄だ。彼はすぐに支配権を握りたいんだ。だから、精神世界を壊して、そこに入りこんでいきたい。精神世界とは、つまりは時空のことだ。時間と空間の認識さえ壊してしまえれば、世界は崩れおちる。既存の意識のままでは、人は生きていくことができなくなる。新しい秩序を人々は求め始める。それを狙ってるんだ。そのとき彼は、人々の前に登場する。彼自身が、登場するとは限らない。いや、たぶん、別の人間だろう。彼は物陰に隠れて街を支配する。
直方棒は、ちょうど、家庭にある冷蔵庫くらいの大きさです。それが三百ブロックくらいはすでに製造しています。それを、ヘリコプターか何かで、上空から地上へと落とすんです。できるだけ超高層ビルを目掛けて、落とすのがいいと思います。地面につく前に、それらは、紫色を放射しながら燃え尽きます。ただそれだけです。一気に三百個を投下してしまえば、おそらく街中で、大パニックが起きてしまいます。ディバックは、その投下のタイミングを計っているようですね。まだ、だいぶん、先の話のようですが。まあ少なくとも、舞の音源を世の中にリリースしてからでしょう。順序というものを大事にする人ですから。私はその前に動いて、その直方棒をすべて盗んでしまいたい。そして、あなたと共に、別のことに使ってしまいたい。セトさん」
しかし、セトは首を縦には振らなかった。
「僕はお断りしますね。申し訳ないが。僕はもう少し様子を見ます。別に、ディバックは、僕を排除するようなことはまだしていない。いずれ争奪戦が始まるとか、あなたは言っていたが、その予測も僕の感覚からすると、外れているように思う。舞をいろんな側面から、バックアップして応援していくということじゃないかと思う。君のその分裂だの分断だのという発想に、僕は共感することができないな。それぞれが違っているからこそ、自分が独占したいというよりは、みんなで力を合わせていくことのほうが、効率的だと思うね」
「ずいぶんな、お人よし、だ」
「そういうことじゃない。現実的な利害関係から、そう思うだけだ」
「あなたは、ディバックの力をご存じじゃないから、そのようなことが言えるんだ。あなただって、少しは知ってるでしょ?あのレコーディングスタジオを見たでしょ?あんなもの、この世界の人間では、到底、足元にも及びませんよ。しかしね、彼にも重大な欠点がある。我々のような補佐をする人間がいなくては、何も現実化することはできないってことです。
要するに、彼は肉体なき電脳のようなものです。手となり足となり動いてくれる人間が常に必要なんです。僕とか、あなたとか、舞とか・・・。
しかし、それだって、別の人間に乗り返ることは、簡単だ。
この世界には、無数の人間が存在しているのだから。ただ、今現在においては、最も彼に近いのは僕らだ。この武器を、最大限に利用するべきだと思いませんか?いずれは、俺らも捨てられてしまう。それなら先に、こっちから捨ててしまおう。その代わりに、手土産は持っていきます。そういう話です」
「それが、直方棒なのか?」
「そう。それが、直方棒なんです」
シカンは、Gに対して、自分には見切り発車をする恐怖があるのだと言った。
それはたぶん、自分の生まれ方に関係しているのではないかという。Gはどう答えていいのかわからなかった。中途半端な返事はしないほうがいいと思った。そして、恐怖について考えていると、性病のことが急にGの頭の中を過ってきた。俺は実は性病を恐れているのだ。どうして淫欲がピークに達していた、あのときに、そのような恐怖を感じなかったのだろう。感じなかったからこそ、簡単に一線を越え続けることができたのだが。この八年は、その反動なのか、同性愛は完全に封印し、女性との交際さえ絶ってしまっていた。けっして禁欲だというわけではなく、自然と距離を置いていたというのが正しかった。
俺は、あの頃とは、別の人間になってしまったようだった。ところが、自分以外の人間との体の交わりがまったくなくなってから、八年。シカンと再会し、シカンの告白を聞いているうちに、性病に関することで、頭がいっぱいになってしまった。この体はあのとき、様々な病気を体内に平然と入れ続けていたのではないだろうか。今になって極度の怯えがやってきた。時間差もいいところだった。
「どうした?」
Gが、自分の話を聞いていないのではないかと、シカンは訝った。
「いや、ちょっと、思い出したことがあって」
「何だ?言ってみろよ」
性病の恐怖が、今になってやって来たことを、Gは正直に伝えた。
「無意識に、ずっと抱えこんできたことなんだ」とシカンは言った。「俺もそうだった。ずっと、気づかないままだった。これはいい機会だ。お互いに、その浮き上がってきたものをすべて、出し切って、それでそれらを並べて、新しいテーマをつくろう。エリア151で」
「やっぱり、その名前なんだ」
「ああ」
「もし、このまま、性病に関する恐怖を抱えたままだとすると、俺はコミュニケ―ンすら、誰とも取れなくなってしまう気がする。とにかく、自分の体は、早く調べたほうがいい。それすら怖い。けれど、今後、誰とも肉体関係を持つことができなくなることのほうが、怖い」
「そうだな。君は、極端すぎる傾向がある。真ん中がまるでない。この八年と、その前の八年は、両極端じゃないか。俺はそういう傾向はない。君の検査が無事終わって結果が出たところで、エリア151を旗揚げしよう。そこでは、君が将来性病にかからないようにするための対策も考える。そういう薬のようなものを開発してもいい。もしこのままだと、君はさらに大変なことになるぞ。真ん中がない君が完全に出来あがってしまう。この誰とも肉体関係のなかった八年の反動が、次の八年には間違いなく反映される。そうだろ?すると、君は、極度の恐怖心を内面で感じながらも、肉体意識の方は淫欲を貪り始める。それは、君の意志では制御できない。その自己撞着は、とんでもないギャップを加速させていく。
まあ、君が、友達じゃなかったら、そういった感じで発狂していく人間を見ているのも悪くはない。そういうのもおもしろいが、しかし君にそんなふうにはなってもらいたくない。君はそれでなくとも、通常の人間よりも、性に対する趣きがとても強いから。だから変に暴走してほしくないし、かといって、人並みにもなってもらいたくない。君らしい君本来の姿を、俺は見てみたい。そのために俺は協力を惜しまない」
シカンは、Gを励ました。
「俺は、見切り発車をしてしまった、まさに、暴走列車のようだ」とGは言った。「俺は自分の本来のスタート地点からは、大きく前に倒れてしまい、異常な淫欲にまみれてしまった。そして、自分を見失った。君のように見切り発車に恐怖を感じて、自制している人間のほうが、よっぽどうらやましい」
「ところが君は、この八年は自制の極みだった。何が言いたいのかわかるか?俺もそうなるのさ。自制への恐怖にいつか復讐される。俺は、自分の中にある想いとか記憶を、極力見ないように、出さないようにしてきた。外を常に見るようにしていた。他者を常にみるようにしていた。あらゆることを、自分のこととして、考えないように努めてきた。だから、映像作家になったのも、そういった理由からだ。ずっと逃げている」
「早産と、もう一度、向き合う必要があるんだな」
「淫欲と早産は、実は、関係が深い」
「君が言うのなら、そうなのだろう」
「そうだ!エリアでは、君自身を、創っていくことにしようじゃないか。君と僕とで、新しい君の像を作り上げていくんだよ。それがいい。僕はその君という新しい像が仕上がったときに、撮影スタッフとして、徹底的にカメラにおさめていくから。決まりだ。やっぱり僕らは、無関係な人間同士ではなかった。あのゼミで顔を合わせときに直観した何かは、間違ってはいなかった。とにかく君は、病院に検査をしに行け!話しはそれからだ」
万理は、二人のシーンを書き終えた。携帯電話が鳴っていることに気づいた。
相手はVAの社長だった。そして、謹慎処分が解かれたことが、万理には伝えられた。
「セトさんがそんなにも、みんなで力を合わせてとか、そういう風におっしゃる方だとは思いませんでしたね」
МQRは受話器越しに言った。
「俺もだ」とセトは答えた。「今、自分が言ってることを聞いて、驚いたくらいだ」
「あなたを見る目が変わりました」
「直方棒の話を、続けてほしい」
「ええ、そうでした」
「どこで、どのように作られて、どうやって運ばれてくる?首都の地下に倉庫をつくって、そこで保管しているそうだが」
「時に、紫色に輝く物体なんですけど・・・、大きさは言いましたよね。そう、冷蔵庫くらい。白い煙の塊のようなものです。光っていないときはね」
「煙の塊?」
「そうです。航空機に乗せて運んでくるんです。軍事用か、プロペラ機か。そのどちらかで。《エリア151》という場所からです。以前は、秘密軍事施設であって、そこを、ディバックが買い取ったんです。そして化学研究所を設立した。もちろん私はそこに出入りしたことはありませんが。そこにどんな人間が働いているのかもわかりません。ディバックのような人間ばかりが、集まっているのかもしれないし。何もわかりません。もっといえば、地下のプールに、直方棒が運ばれた場面も見たことがありません。すべてはディバックがしゃべっていたことを聞いただけで。実際は、エリア151の存在も、直接確認したわけじゃない。
しかし現実に、地下施設に貯蔵されている。そこの管理を私はディバックの代わりに任されていた。私はその直方棒を、この世の時間と空間の破壊のために、空から落とすって言いました。ディバックも、そういった案は持っていましたが、別の案も持っていました。首都の真ん中に、発電所のようなエネルギー供給所を建設するということでした。その燃料としての直方棒を考えていました。
つまりは、使い道は一つではなかった。ディバックがどういう使い方をするのか、私にはわかりません。彼が何を狙っているのか、まったくもって想像がつかない。あなたに連絡をしたのも、それが理由の一つです」
「待てない人間なんだな」セトは冷たく言い放った。
「そういう人間なんだ、君は。この、わからないという状態に耐えられない。だからはやくその状況を手放したい。こうやって、何でもいいからと、答えを欲しがっている。ただ安心が早くほしい。そんなことに、僕を利用してもらいたくはないね。もっと有益な話ができると思っていたのに」
「あなただって同じですよ。私と同じような焦燥感を、お持ちだったのでは?」
「いいから、僕には関わらないでくれ!」
「そうはいきませんよ。舞さんはこっちのものなんですから。私は彼女を、好きなように扱うことができる」
「君じゃないだろ。ディバックがだろ」
「同じことですよ。あなたの側か、ディバック側か、その二つしかないんだから」
「君は、僕ら以外の勢力が、また舞に近づいているというようなことを、言ってなかったか?」
「あれは例えです。何か実体があって、我々が、掴んでいるということではありません」
「なんだ。作り話だったのか」
「そうじゃない。そういう影は、確かに、ちらついている」
「誰だ?他の芸能事務所か?舞の前の所属先の人間か?それとも、万理か?万理の関係者か?そうだな、きっと!万理の関係者だ!男か?万理の男か?そうなんだな。そうか。あいつ、その男と一緒に、独立する気なんだ!VAを出ていくんだ!その男は舞にも目をつけていて、それで一緒に連れていってしまうんだ。万理をダシに使って。クそっ。そうなんだな。まさか、長谷川セレーネにも近づいているんじゃないだろうな?そんな馬鹿な。
そうなれば、ウチの事務所は、もぬけの殻じゃないか。他に戦力になりそうなタレントはいないし。おい、田崎。田崎はどうした?新人をもっと発掘してこいよ。何をぼさっとしてるんだ。お前の取り柄はそれくらいだろ!さっさと見つけてこいよ。もっと増やすんだよ!みんな、いなくなってしまうぞ。あ。お前は、お前は、長谷川には見捨てられないかもしれないな。ということはまさか、お前も。お前もVAを出ていくのか?聞いてないぜ。なんということだ。誰もいなくなる。誰もいなくなるぞ。お前も、万理の男が設立した事務所に行ってしまうのか」
「どうしたんですか」
冷ややかな声が、受話器の向こう側から聞こえてきた。
セトの心拍数は、次第に落ち着きを取り戻していった。
「いかないでくれ。いかないで!」と懇願する声は、胸の内にとどまった。だが駄目だ、駄目だ、という心の叫びは、どんどん大きくなっていった。
「直方棒は」МQRは淡々と言葉を繋いだ。「直方棒の原料は、人間そのものなんです。人間の死骸を、元にしている場合もある。ある人間が、ある人間を復讐のために殺してしまったその遺骸を、使用していると聞いています。それは、自殺も含まれます。そして、その死体は、エリア151に運ばれる。そこで、どのような科学的な工程を経ているのかは、もちろんわかりませんが、とにかく、白い煙の塊のような巨大なドライアイスのような、直方棒ができあがります。ドライアイスのように、煙が広がっていくことはない。あくまで、その枠の中だけで、もくもくとしているだけです。特殊な液体に漬けておかなくてはならない。貯蔵庫はプールです」
セトは、VAの解体を想像すると同時に、МQRが言う直方棒の話も、しっかりと耳に入っていた。
「万理の男か」
セトは呟いた。そういえば、万理のそういった話は、一度も聞いたことがなかった。
以前は、ずいぶんと、いろんな男と付き合っていたようだが、ここのところはすっかりと途絶えてしまっているようだった。俳優やタレント、スポーツ選手や作家と、かなり親密に交際していて、肉体関係を結んでいる男の数も、計り知れなかった。あのときは、いろんな事務所や芸能リポーターから追及されて、その対処に困っていた。万理そのものは、女優として、鳴かず飛ばずな状態に近かった。こんなことでも、話題になればいいとさえ思っていた。だがスキャンダルのレベルにまでいってしまうと、そうは言ってられなかった。そんなあのときとは状況が変してしまっている。万理は女優としての仕事が増え、監督業にまで進出し、しっかりと結果も出した。そのあいだに、男の影は一気にひいてなくなってしまった。そうなのだ。彼女はおそらく、一人の男と真剣に付き合い始めているのだ。
Gは、井崎の車の助手席に乗っていた。車は首都高速を疾走していた。
「井崎さん。結局、あなたのところに戻ってきてしまいました」
Gは言った。
「あなたの準備に、僕は付き合わされていたんですかね。あなたは、僕の問題だと言っていたが、実際はそうとばかりもいえないみたいだ。あなたの方にも障害があった。それを一つずつ取り除いていたんでしょ?僕はそのあいだ空白の時間を泳がされることになった。僕という人間を最初に捕まえておく。キープしておくことが大事だった。しかし、実際に動き出すまでは、まだ、だいぶん時間があった。映画監督の女だとか、いろいろと僕を紹介してくれましたが、それもあなたにとっては、ぜんぜん本腰が入ってなかった。頓挫してしまうことが、あなたには初めからわかっていた。そうなんでしょ?
とにかく時間が必要だった。あの万理って女優も、確かに僕を本気で使おうとしていたようですが、実際、結果には結びつかなかった。彼女自身も、どこか違うと思っていたのでしょうね。彼女自身の作品の構想も、実に中途半端だった。ちょうど彼女も次のステージに行く前で、時間を持て余していたんですね。あなたは、そのことも知っていた。すべてのことを、あなたは把握している」
「気を悪くしたのなら謝るよ」
悪びれた口調ではなかった。
「確かに、僕にはある想いがあって、ある構想があったのは事実だ。けれどね、時間が経ってくるにつれて、それらはだんだんと溶解していったんだ。今はまったくの空っぽなんだ。具体的な青写真なんて、何一つ持ち合わせちゃいない。丸裸だ。丸裸で、君に会いにきた。何か文句はあるか?」
「あなたに、文句などありません」
「どういう意味だ?」
「最初から、あなたには何も見えていない。すべては、あなたの思い込みだから。そもそも、この僕を選んだのだって」
「だから、気を悪くしたのなら謝るって」
「これを機に、僕を解放してもらいたいですね」
「お前さ、長谷川セレーネって知ってる?」
「知らないですね」
「前は、図書館でアルバイトをしていた女子大生だ」
「図書館?」
Gの頭の中には、Lムワの著書がすぐに浮かんできた。
そのあとで、その本を一緒に代わりばんこに読んだ、女の姿が現れてきた。
「知ってますね」Gは言い直した。
「その女は、モデルとして、表舞台にデビューする」
「そうですか」
「興味なさそうだな。ものすごく綺麗な女だっただろう?」
「どうでしょう。図書館では、エプロンをしてましたけど。しかし、どうして僕が、図書館で彼女と会ったことを知ってるんですか。彼女のそのデビューの件にも、あなたは一枚かんでいるんですか?」
「これから、だ」
「ますます話がわからないな」Gはため息を吐いた。
「実はあの女のことを少し調べたんだが、デビュー前で確かにいろいろな仕事のオファーをすでに受けている。あの手この手で、彼女と契約を結びたい人間が、群がり始めている。VAという事務所にいちおうは所属している。万理がいる事務所だ」
「まさか、そこに僕も?」
「いや。そこは、女性のタレントしかいない。社長の方針で、男性タレントは扱わないそうだ。君はあれだよ。僕が新しく立ち上げる事務所に所属してもらうんだ。君ひとりだけ。今後、増やす予定もないけど。君専用の居場所だ。僕と君の二人三脚のね。今はその話はよそう。長谷川セレーネのことだ。彼女の事務所はね、今、とても困っている。万理から聞いた。彼女をどの仕事でデューさせるのか。あまりに選択肢がありすぎて、VA社長は頭を悩ませているらしい。別に何でもいいから、さっさとデビューしてしまって、そのあとで来る仕事来る仕事を、可能な限り引き受ければいいじゃないかと思うだろ?」
「思いますね」
「君とは違う」
「僕はどこからのオファーも来ない」
「こっちから売り込まなくては何もない。彼女は違う。VAの戦略上の問題なのか、契約の問題なのか、何なのかはわからんが、とにかく、長谷川セレーネの最初の仕事だけが決まっていない。僕はさ、ほら、もともと君の言うように、戦略がいろいろとあった。でも溶解してしまったと言っただろ?そこにふらっと入ってきた情報だったんだ。長谷川セレーネの。それで、そのことが気になったから、君に相談している。僕が、君のことを頼っているんだ。偶然なのか何なのか、君と関係があるとも言うじゃないか。君の動きを追っていくと、何と、長谷川セレーネがアルバイトをしていた図書館に行きついたじゃないか!すると、目撃情報があったよ。君の風貌によく似た男が、長谷川セレーネと親密に話している姿が。そしてそのあと近くの喫茶店で、待ち合わせをして、一緒に闇夜に消えていった。これが出てくるわ、出てくるわ。一人だけじゃない。十数人が目撃している。きっと普段から、長谷川セレーネのことをみんな目で追っていたんだな。そりゃあそうだよな。あんないい女、見たことがない。君はどんな関わりがあった?」
またもや、Lムワの著書がGの頭からは離れなくなった。生き残ったマヤ人という第一章が、始まっていくようだった。
「ただの図書館員と、住民の関係ですよ」
Gは冷たく答えた。「親密に見えたのなら、それでけっこうですけど、ただ探していた本のことを訊いていただけですよ。そのあと、喫茶店で会ったのは、僕は住民カードを持ってなかったから。本を借りれなかったから彼女が借りて、それを持ってきてくれただけです。又貸しできないからって家に行って、それで一緒に読んだ」
「なに?家にも行ったのか?部屋にも上がり込んだのか?」
「一度だけです。そのあとは、顔を合わせたこともない」
「君って奴は。そうか。でも面識はあるんだな」
「何を企んでいるんですか」
「いや、企みはもうやめた。ぱっと思い浮かんだ目の前のこと一つを、追っていくことにした。その一つ目が長谷川セレーネ。長谷川セレーネのことを追っていくと、これが偶然、君に突き当たった。だから君の所にきた。そして相談した。裏は何もない。企みなんてものはもう何もない。すべては砕け散ってしまった。消えてしまった。ところで君は、女はいるのか?常盤静香以外で」
「それは、あなたの彼女でしょう」
「常盤以外で、いないのか・?」
「いません」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
「女嫌いか?」
「まさか」
「じゃあ、何故、いない?」
「言われてみれば、あまり特定の女性には、興味がないのかもしれない」
「誰でもいいんだな」
「有り体に言ってしまえば」
「長谷川セレーネに、むらむらくることはなかったのか?」
「言われてみれば、なかったかもしれない」
彼女よりも、Lムワの著書の方が、刺激的だったという事実は言わなかった。
「君は女性を、漠然とした抽象的なものとして、とらえているってことだな」
「それも、言われてみればそうかもしれない。あの子の、こんなところがいいとか、あっちよりも、こっちの子のほうがいいとか、そういうものは、確かにないかもしれない。多少の好みはありますけど。でも範囲は広い。女性というカテゴリーに入っている人に、あまり違いを見いだせないんです。少し付き合うようになってからも、それは一緒で。あまり、人にそういうことは言ったことはないですけど。別に性欲とかもそんなにないし。いろんな人とセックスがしたいとかもない。でも、特定の人と、ずっと長く付き合うという気も起きない。多くの女性と関係を普通に持てるだろうし、誰とも関係を持たなかったとしても、特に苦しみはないです」
「変わったやつだ」
「けれど、同性に関しては、ひどく嫌悪感がありますね」
Gの顔つきが変わった。
「その意味は、よくわからないな」
井崎はほんのわずかだったが、眉間にしわを寄せた。
「あなたに対しては、不思議と嫌悪感はない」
「そうだろうな。もしその表情が、俺を拒絶しているとしたら、君の内面と外観の繋がりを疑うよ。少なくとも、嫌われてはいないし、いまのところ、憎まれてもいない」
「ほとんどの男に対して、僕は、同じ空間に五分と居られない。知ってる顔であっても、そうでなくても」
「不特定多数に対しては、どうだ?」
「不特定多数?」
「大勢の男と、相対してとか」
「ああ」
「そういうのは、どうだ?」
「それは、考えたことがなかったな」
「そうなれば、話は別なんだよ、きっと」
「そうですかね」
「信用しろよ」
「これでも、一度、本気で、この性格を直そうとしたんですよ」
「直さなくていい」
そう言って、井崎は車の速度をさらに上げた。
「この傾向を、自分なりに分析したんですよ。僕は、実に、人を評価してしまう癖があった。おそらく、嫌悪感の出所はそこです。今はわかったふりをしている。今は和やかに談笑している。談笑できている。しかし、いつか、この目の前の男は、僕に対して、反旗を翻してくる。牙をむいてくる。話しが通じなくなるときがくる。そこには、深い断絶感がひろがっている。つまりは、分かり合えなくなるときがくるということです。だから、いずれ、この目の前の男とは、その断絶感がむき出しになるという場面を、あらかじめ想像してしまうことで、自己防衛を図っているんですよ、おそらく。そんな性格とは、僕は早く訣別したい。井崎さん、あなたに、そういった嫌悪感を抱かないのは、あなたとは、そんな断絶感の谷間が現れたとしても、それでもこうやって、話ができるんじゃないかと、僕が無意識に思っているからじゃないですかね。
でもね、もちろん、逆もあるんです。まったく理解できない程に、圧倒的におかしな奴。迸る狂気を生きて自他を巻き込み、めちゃくちゃに荒らしてしまうような奴。おそらく、そんな奴に僕は興味を抱いて、むしろ自分から目を輝かせて向かっていくんじゃないか。その、どちらかの人間と、僕はひどくウマがあうような気がする。でも、できることなら、そういった自分の枷のようなものは、取り払ってしまいたい」
「平気だよ。君のその枷は、粉々に破壊してやるよ。そういう状況を、俺が作ってやる。そういう状況をつくるために、俺っていう人間が存在する。そうだろ?」
「あなたこそ、常盤さんとは、どうなんですか?もう付き合いは長いんでしょ?」
井崎はすぐに返答しようとはしなかった。
周りの風景を落ち着かせるかのように、井崎はほんの少しだけ車の速度を落とした。
「常盤とは、別れたよ」
Gの目の前には、何故かでっかい赤いバラの花が咲き誇っていた。夜空に浮かんでいた。
「別れたんですか」
「他に女ができたわけじゃない。賞味期限が切れたんだ。時間の重みに耐えられなかった。二人で一緒に超えられる流れは何もなかった。別々に超えようっていうことで、お互い納得して別れた。一方的な別れでもなかったし、完全に絶交してしまったわけでもない。ひょっとすると、またどこかで、再会するチャンスだってあるのかもしれない。それはわからない。でも今の時点では、その望みは薄い。お互い、別々の場所で、この迫りくる時間を、乗り越えようって話だ」
「超える?」
Gは頭上を見上げながら、全く要領を得ないといった表情を浮かべた。
「超えなくてはいけない、何か、壁でもあるんですか?」
「壁?まあそうだな。時間の壁だ。時間を感じるのは、我々人間の重要な機能だ。人間が、人間として生きていくために、必要な感覚だ。もし麻痺してしまったら、我々は、整合性というものを失ってしまう。前後で辻褄の合わなくなることに、この肉体や、認識は、耐えられなくなる。
しかし、それが現実に起ころうとしている。時間の感覚は、すっかりと分断され、粉々にされ、そして撒き散らされてしまう。やってくるのは、カオス状態の何かだ。
時間が壊れるということは、どういうことか。誰にもわからない。時間は空間と連動しているわけだから、空間が切り裂かれてしまうということだ。整合性が働かなくなる。そんな状況は、想像すらできない。俺は君と『そのとき』を迎えるようだよ。静香とではない。静香とは、まったく別の世界において『そのとき』を迎える。お互い生きていることを祈るばかりだ。しかし、彼女への執着はこれっぽっちもない。そうだな。俺も君のようになってきているのかもな。言葉は悪いが、女なんて、誰でもいいという状態に近づいているのかもしれない。別に『あいつ』でなくてはならない理由が、見い出せない。見い出さないといったらいいか。
どっちでもいい。たまたまその女だった。結果的にその女になった。言いかたはいくらでもある。だから『そのとき』を迎えた後で、俺の側にいる女は常盤静香であってもなくてもいい。君は女性に対して、嫌悪感を抱いたことはないのか?」
「女性全般に対しては、ないですね」
「そうだろうな」
井崎は、Gを呼び出す前に、万理と会っていた。セトという男とも初めて顔を合わせていた。VAの事務所の応接間に、三人は顔を揃えた。
「君が、万理の男か」
セトは敵意剥き出しで挑むように井崎を睨んだ。
「ちょっと、やめてよ社長。井崎さんとは、そんな仲じゃない」
「どうだろうな」
「ほんとですよ」
井崎は相手の挑発にはまったく乗らず、落ち着きのある声を出した。
「この人、ちゃんと、彼女がいるのよ」
セトはそんな言葉にはまったく耳を貸さなかった。
「俺は、いずれの話をしているんだ」
「ずいぶんと、妙な言いかたをしますね」井崎はセトを凝視した。「まるで近い将来に、何か、天変地異のようなものが起こるといった口ぶりじゃないか」
「えっ?天変地異?はっ?」
セトは意表をつかれたような恰好になった。その言葉の意味を、必死で咀嚼していた。
だがそんな天変地異のことなど、考えたことすらなかった。
気づけば、セトは井崎を威嚇するような目では見てなかった。
「それで、お話は、そのことと無関係ではなくてね」
「どういうことですか?」
「おたくの長谷川セレーネ」
セトはぎくりと背筋を震わせた。はやくも来たと思った。
「どの仕事でデビューをさせようか、迷ってらっしゃるんじゃないですか。僕はいい話を持ってきたんです。あなたが何故迷われているのか。選択肢がありすぎだからですか?いや、違うな。あなたがピンときてないからだ。コレだというオファーに巡り合えていないんじゃないですか?オファーはたくさんあるが、ピンとくるものが一つもない。数の問題じゃない。そのピンと来るものを、僕は今日あなたのために持ってきた。
もちろん、あなたのためばかりではない。こっちにも、デビューをさせたい男が一人いるんです。こっちは長谷川さんのように引手数多なタレントさんとは真反対でして。つまりは、どこからのオファーも来ない男です。しかし僕としては是非表舞台へと送りこみたい、そんな逸材なんです。一緒にやらせてはもらえないかと、そういうことでして。けれども事はそんなに単純なものではない。二人だけのためのものではない。どうしてこうも大物たちのデビューの時期が重なってきてるんですかね。もちろん、本当の意味で新人の人間もいるが、そうではない人間もいる。一度表舞台からは降りてしまった。しかしまた、新たに生まれ変わり、再度、舞台へと回帰しようとしてる人間たちがいる。その彼らが、今まさに、自分の穴倉から出ていこうとしているんです。
知ってますか?例えば、北川裕美。知ってますよね?そうです、彼女です。十年前にはすごい勢いで世の中の男たちを食い漁っていたモンスターです。結婚して引退しました。その彼女も、また、装い新たに、この今の時期に、世の中へと出ていこうとしているんです」
セトはすっかりと青ざめていた。
「あれっ。セトさんでしたよね。北川裕美とは、何か、過去に関係でもあったんですか?」
セトは神経の一本でも切れてしまったかのように、放心状態を続けていた。そのあいだ、井崎はセトの頭の中に、すべての情報を注入してしまうかのようにしゃべり続けた。
「要は、今のGという男では、当然のことながら、長谷川セレーネとの交換条件には、釣り合いがとれない。なので、ここにオプションとして、過去の女優を一人くっつけようということです。ククク。どうです?セトさん。あなたの神経系統に、ビンビンと触れてくる話じゃないですか?」
「それなら!」セトは急に意識を取戻したかのように、大きく目を見開いた。「それならこっちだって、さらに付け足すぞ!」
井崎は、その急に勢いづいたセトの威勢に押された。出てきた名前は、沙羅舞と雲中万理だった。目の前にいた万理は、表情一つ変えなかった。
「沙羅舞というのは、確か」
「そうです。以前、万理と一緒に、CFに出ていた子です。縁あって、うちの事務所に移ってきまして。今は、音楽をもって、芸能活動を再開させようとしている」
「やっぱり、この時期に集中している」
「しかし、ウチの男、そう、Gというんですけどね、G一人では、お話しにならないからと、北川裕美の話をもってきたのに、今度は逆に、万理と舞をつけてくるとは。いやはや、どうしちゃったんですか、社長。対抗意識をむき出しにされても困ります。もうこっちには、持ち合わせのカードはないんですから」
「わからん、わからんぞ!」
セトは、完全に一人蒸気をふかして、戦闘モードに入っていた。
「いや、しかし、たとえ、北川裕美一人だとしても、俺は構わない。全然構わないぞ!いや、いくらこっちが、数をたくさん打ったとしても、とうていあの北川裕美には及ばないかもしれない。もっと掻き集めなくては。もっと掻き集めなくては。総動員だ。ここだ、ここに、VAの全エネルギーを注ぎ込む!勝負のときだ!この瞬間を待っていた。ここでこそ、俺の出番だ。なあ、井崎さん。よくぞ、この話を持ってきてくれました。感謝します。ここのところ、俺はすっかりと干上がってしまって。まったくの無気力状態。出番なしっていう状態が続いていた。だけど、井崎さん、あんたは偉い!俺と運命共同体じゃないか。そうか。そうだよな。あらぬ心配など、するんじゃなかった。VAを乗っ取りに来たんじゃなかった。早とちりしてしまった。すまん。なあ、万理。うちのタレントを根こそぎ持っていってしまうわけではなかった。万理。お前が、この男と付き合っているからといって、俺は何も文句は言わないよ。まあ、いい。なあ、万理。君も協力してくれるよな。参加してくれるよな。何か、大きなイベントを企画してる。そうなんだろう?井崎さん!」
「プランは、おいおい、お話します。具体的に何かがあるわけじゃないです。ただ、あなたの言うように、大きなイベントです。Gと長谷川セレーネを、同じ舞台から出すというのが、発想の第一歩目でして。そしてあなたを説得するために思いついたのが、北川裕美だった。彼女とは親交がありまして。彼女も、復帰の時を探り始めているようでしたから。ここも、くっつけてしまおうと思った。そしたら、あなたのほうから、出てくるわ、出てくるわ」
「井崎さん。今日、すべてを決めてしまいましょう。それがいい。ぜんは急げだ。ほら、万理も一緒に。G君も、呼んでくれたまえ。北川さんも。こっちは舞を連れてくる。長谷川セレーネも」
やはり、北川裕美の力は凄かった。井崎は北川裕美というカードが、これほどまでの効果を発揮するとは思わなかった。VAが所属のタレントを総動員してくるとは思ってもみなかった。
しかし、これで役者は揃った。
井崎は北川裕美に電話をして、今からアトリエの方に向かうことを告げた。井崎は大通りでタクシーを拾って、北川裕美の住居兼アトリエへと向かった。
一方、セトの方も舞を呼び出すために、彼女の携帯電話に連絡をした。しかし彼女は出なかった。何度かけても留守電に繋がってしまった。あいかわらず失踪中だった。
もしかすると、レコーディングを続けているのかもしれないと思い、ディバックのスタジオの方に連絡をとろうとした。こっちのほうはすぐに出た。取り次いだのはМQRだった。そちらに舞はいないだろうかと訊くと、舞はディバックと一緒に出かけているということだった。МQRが言うには、音楽とはまったく関係なく、二人は私的な用事で外出しているのだという。セトは不快に思った。いつのまに彼らは、親密な関係を築いていたのだろう。いつ帰ってくるのか。セトは迫った。しかし回答は、ずっと先の日時を提示される。ちょっとばかり、ドライブに出かけているのだと思ったが、おそらく彼らは旅行にでも出てしまったのだろう。二週間先までは戻らないという。
「なんだって!」セトは怒鳴り散らした。
「舞は、ウチのタレントなんだぞ!勝手にスケージュルをいじってもらっては困る!自分たちの都合のいいように、組み替えやがって。何様のつもりなんだ!レコーディングだけの契約なはずだ。いや、でも」
セトは思い直した。「おい、音源はどうした?今、配信できる状態には、すでにあるんだよな」
МQRはそうだと答えた。
「それなら話は早い。流したい状況が生まれた。すぐに、配信できる準備を整えたい。長谷川セレーネのデビューイベントには舞の曲を使う。いいな。すぐに回線を引け」
「それは、できません」МQRは答えた。「自分は、留守のあいだ、管理を任されているだけですから。流用させてしまうわけには・・・」
アトリエは静まりかえっていた。鍵はかかってなかった。所狭しと並べられていた絵の数々は、消えていた。もぬけの殻だった。ふと何かの気配を感じて、井崎は振り返る。すると、暗闇の中から、強烈な妖艶さを放った元女優が現れた。
「もうこないのかと思った。失神してしまうんですもの。どう?気味の悪い絵だったでしょ?急に、画面がうねり始めたことに、神経は吃驚してしまったのね。大丈夫。もう、ここにはないから。すべてを運び出してしまった後だから。もう、このアトリエも、引き払ってしまった。ほんとうは私もここに来ることはなかった。でも何かを置き忘れているような気がして。それでこうして最後に来てみた。すると物音がした。あなただった」
「絵画は、どこに?」
「どこかしら」
「けっこうな、量だったぞ」
「あなたが商売にしてくれるんじゃなかったの」
北川裕美の微笑みは、まるで人の心の中を見透かしたような余裕を醸し出していた。あの失神は、まるであなたには到底、商品化するような力はないというような通告を、激烈に突きつけているかのようだった。
「僕ではない、誰か、別のルートに、乗せることができたんだな」
井崎は落胆を見せないように最大限努力していた。
「ルート?知らないわね。運び出すのは、大変だった」
「俺に手伝わせたらよかったのに」
「引っ越しの業者に頼んだのよ。あなた一人で、いったい何の役に立つのかしら」
「裕美さん。いいですか。決まったんですよ!ファッションショーがね。Gと北川セレーネという二人の新人が、デビューを飾るファッションショーがありまして。そこに、雲中万理という、映画監督兼女優と、沙羅舞という音楽家も、参加する。そこに、あなたも出るんです!もちろん、あなた自身は出なくてけっこうだが。その気があるのなら、モデルとして、出演をお願いしたいところだが、今回は別に出なくていい。絵のほうをデビューさせたい。この僕は、あなたの芸能活動のマネージャーではない。絵の担当なのですから。絵を商品化する手伝いをすると、約束したでしょう。必ずルートを見つけると言ったでしょう。このショーで、あなたの絵を使いたい。会場をつくるときの、重要な背景として、使いたい。カメラには、あなたの絵が映ることになる」
北川裕美は即答した。
「その、背景という言葉が、とても気にいった」
「そう?」
「背景というのは、どんな作品においても、最も大事な要素ね。最近は、そういったものが、おざなりになっている」
「僕はね」
井崎は、声のトーンを極端に落とした。
「僕は、あなたの絵を、すべて使いたいと思ってるんです」
「まさか」
「そうなんです。すべてを、並べたいんです。使いきりたい。会場の背景に使うことは、もちろん、それ以外にも。会場の外の地上の空地に、置いてしまってもいい。僕は背景もさることながら、その周辺の環境の整備についても、一つの考えがあります。
何も、ショーは、その会場の中だけで行われているわけではないんです。別の場所でも、ショーという形かどうかはわからないが、連動して、たくさんのイベントが行われるはずです。そことの連動性や、見えない交信のような装置として、あなたの絵画は、きっと、力を発揮するはずです。世界中のあらゆる場所と繋がるために、夜空や天と交信するために、その反射鏡としての役割も、あなたの絵に期待してるんです。そうすると、かなりの数が必要なわけで、そうなったら、あなたの制作した絵をすべて動員しても、あるいは、足りないかもしれない・・・」
「まあ、すごい」
十一 最後の12日間はどこに
「聞いた話では、私が解雇された、三か月後でしょうか。エリアを消滅させるという話でした。すでに、時代における役割は、終了したということでした。最後の12日間は特別な期間にして、華々しく、皆で宴を催すということでした。退役した軍人たちも、みな、その12日のうちのどこかに、呼ぶということでした。まあ、私のところには、通知すら来ませんでしたけど。当然のように、社交辞令にすぎなかったようですけど。ですから、今、この時点においては、《エリア151》は、この世のどこにも存在していないのだと思います。あの話は、信ぴょう性があります。すでに閉鎖というか、消滅まで三か月を切っていましたから。あらたにプロジェクトが進行している様子もなかったし、そもそも、その時期は、大量解雇の時期でしてね。
我々、兵士のほとんどは、その時期に解雇を言い渡されたわけです。あとは、司令官級の人間だけが、最後の処理にあたっていたんじゃないですかね。終わりのときに向かって、エリア内の情報を処分していった。古い情報は、すべて、破棄したのでしょう。そのあとで、施設の解体を始めた。痕跡を残さないように、注意深く解体して、航空機で遠くの地へと運んでいったはずです。四方を、山に囲まれた特殊な地形だったということだけは覚えていますが、そんな土地など、世界には無数にあります。それにもし、特定できたとしても、そこには、何にもないですから」
『物理的には何もなくても』インタビュアーのシカンは言った。『エネルギーの痕跡は、残るものですよ。必ずわかります』
「駄目ですね。意識や、気を消す技術も、持っていたでしょうから」
『そうですか。その最後の12日間には、何が行われていたのですか?司令官たちが話していたことで、何か気になったこと。思わず、口に出してしまったことは?そういうのは、ありませんでしたか?』
「派手な打ち上げをするようなことを、言ってました。でも、無意味なイベントを開いたわけではないでしょうから。きっと、そのイベントも、その土地に染み付けてしまった我々の無数の任務の痕跡を消すために、浄化するための儀式のようなものだったと思います。盛り上げるために、いろいろと趣向をこらしたんです。エリアを出たあとも、そのイベントの日時を、私はちゃんと把握していました。
だから、その12日間がやってきたときには、妙な胸騒ぎを感じたものです。
一週間あたり前までは、招待の連絡を、本気で待っていたんですけど。それも、数日前には、完全にあきらめました。
だから、その日を迎えたときには、ニュースを隈なく、チェックしていました。どこかで、報道されてはいないだろうかとか。事件にでもなっていないだろうかとか。いろいろと、注意深くなった」
『あなたの12日間は、どうだったのですか。何もなかったのですか?codeNAMEは、何でしたっけ?』
「codeNAME441です」
『441さん』
「実は、ね」
codeNAME441は、急に意味深な声色を発した。
「実は、その12日間というのは、まだ来てないかもしれないんです」
『えっ。どういうことですか』
「すでに、過ぎ去ってしまったのかもしれないし、まだ、やってきてないのかもしれないし、ずっと先の、未来のことかもしれない。わからないんです。私の時間の感覚が乱れてしまったから。エリアにいたときに、すっかりと狂わされてしまったから。あそこから出てきてからの私は、この世界の時間の流れに、まったく適応していないから。取り戻せてはいないから。12日間がまだ来ていないことに、希望を託しているのかもしれないから。その12日で、この狂ってしまった感覚を取り戻せるのかもしれないって。どう思いますか?もしかすると、そのイベントというのは、単なる宴会のような喧噪ではないのかもしれません。エリアの敷地の中だけで、ひっそりと行われるものではないのかもしれません。あるいはですよ。僕の勝手な想像ですが・・・」
そう言って、odeNAME441は黙ってしまった。
そして、そのまま、しばらくの時が過ぎてしまった。シカンの方が根負けした。
『こんなところで、止まってしまっては困ります』
しかし、codeNAME441は復旧しなかった。
『ほんとに困ります。ねえ、441さん。どうしたんですか。どうして、答えてくれないんですか。ちょっと!わかりました。話さなくていいです。僕とのやりとりを続けてください。困ります、ほんとに。あなたがとりあえず、今度の番組作成における最後の取材相手なんです。ここで打ち切られては困ります。あなたが最後にぽろっと語った12日間は、他の誰も語っていないことなんです。それに、あなたの話の内容からして、エリアが存在していた、おそらく最も後期のことのように感じられた。エリアが本当に、閉鎖してしまったと仮定して。あ、でも、12日間が、まだ来てないとしたら、エリアはまだ、微かながらも、この世に存在しているということですよね。そうですよね。その12日間をもって、終了するわけですから。僕、こう思うんです。確かに、そのイベントで、これまでの古い記憶は、完全に浄化するのかもしれないけれど、また新しい記憶を、土地に染み付けていってしまうんじゃないかって。12日間の痕跡は、残ってしまうんじゃないかって。もちろん、エリアと繋がる要素は、何もないですけど。しかし、考古学者なんかが、もし、その土地を見つけて、調査を繰り返したら・・・』
「インタビュアーなのに、ずいぶんとしゃべるんだな」
codeNAME441は、感心したようにシカンを見つめた。
編集室の隣りにあるスタジオには、シカン一人だけが残された。セットしていたカメラのテープを取り出して、編集室へと移る。すぐに、映像をチェックして、作業に取りかかろうと思った。早く、この仕事は切り上げてしまいたい。意識の中から、完全に消し去ってしまいたかった。
SETLISТ
Ⅰ K・N・A
Ⅱ CASLE OF MAINE
Ⅲ REIRA
Ⅳ MAREAGE NO COUNT
Ⅴ МAYA
Ⅵ FARAO WITH PERSONAL DEFENDER
Ⅶ SURVIVE
Ⅷ PUZZLE
Ⅸ THIRTEEN BAQUTON
Ⅹ SYCLE
Ⅰ COBRA’S TIME
Ⅱ JEALOUSY
Ⅲ POSТ
МQRは、セトの事務所に、ファックスで収録曲のリストを送る。
「七曲じゃなかったのか」
セトはすぐに、反論した。
「そうなんですよ。確かに音源は、七曲の区切りなんですけど。でも、違うみたいなんです」
「前に、舞に見せてもらったときは、確かに七曲だった」
「とにかく、言われたとおりに、配信する準備は整いました。あとはご勝手に。僕はいっさい関わりがないこということで。しばらく僕も旅行に出ます。あなたが自分でここに侵入して、そして配線を引いて、外に流してしまったということで。それでお願いします」
「ああ。君に、迷惑はかけないよ」
セトは、セットリストを眺めながら、北川裕美に対抗できる、北川裕美と闘うことのできる状況を、着々と準備することをあたらためて決意する。
シカンは、編集室に戻った。パソコンのメールボックスを開くと、そこにはまた仕事の依頼が来ている。シカンは次から次へとやってくるオファーを、細かく精査することなく、だいたいの内容を確認してから、まともな仕事だと判断した場合に、折り返し電話をした。その対応の感触がよい場合には、一度、担当の人間と会って話をした。特に問題がなければ、それで引き受けた。ほとんどが、違和感を抱かないものばかりだったので、引き受けた仕事の数は、膨大なものとなってしまった。それでもパニック状態になることもなかった。
新しい仕事の依頼は、ファッションイベントにおける、カメラ撮影だった。その内容は不思議なものだった。全体としてはファッションショーだったが、それは表向きであり、その影でいろいろな企画が同時に開かれていた。その一つが、シャンプーのCF撮影だった。ファッションショーの最中に、シャンプーのCF撮影も、同時に行うという構造だった。
長谷川セレーネという新人のモデルが、そのCFの出演者だった。
ファッションショーにも、モデルの一人として参加するらしかった。シカンがその彼女を、ショーの最中に撮り続けるということだった。シャンプーのCFというキーワードがあるだけで、あとはシカンにすべてを任せるということだった。そして、そのショーは、CF撮影だけではなく、さまざまな企画が同時に連動していて、複数の思惑が影で蠢いているらしかった。だから、別の企画の別のスタッフと、偶然に遭遇してしまうこともある。思わぬハプニングが起こる可能性もあった。
それに加え、シカンは、このショーの告知のプロモーションビデオの制作も依頼される。二分のバージョンと、三十秒のバージョンのツーパターンを、用意してほしいということだった。シカンはすぐに返信した。『興味が湧きました』と、シカンは打ち合わせをする意思があることを相手に伝えた。とりあえずの内容を聞き、すぐに、《エリア151》の編集作業へと戻った。
徹夜で仕上げなくてならない。一気呵成で終わらせないと。自分の記憶からは、早く消してしまいたかった。
夜が明け始めたとき、編集作業は、最後の12日間の場面へと突入した。残りはあと少しだった。時計をみると、四時半をまわっている。鳥の鳴き声が聞こえてくる様子を思い浮かべてみる。日の出が迫っている空の様子を、想像してみる。
ずいぶんと長いこと、この仕事に、かかりきりになっていたように思う。
すると、エリアのインタビューの場面を、ショーの告知の映像に使ってしまうのはどうかと、突然そんな思いつきにとらわれた。最後の12日間というキーワードと、大規模なファッションショーとが、このときシカンの頭の中では、完全にリンクしていた。まるで、エリアの告知のようだと、シカンは思ったのだ。本当にそのまま、《エリア151》の番組の宣伝にも使える映像にしてしまおうかと、夜明けと共に、シカンは真剣に考え始めていた。
第2部 第6遍 最期の12日間
CASLE OF MAINE
三つの大小異なる赤色の三角錐が、夜の闇の中で連なり、屹立している。
表面は綺麗に磨かれ、小さな虫さえ、そこに留っていられないほどに、何かが付着することを拒絶している。しかし、赤い発行体は、その精度の高い直線と、人工的な表層とは異なり、生々しい血のように燃えたぎっている。
もしこれが、火山だったとしたら、山の表面の要素をすべて取り除いて、その内面だけを、透明な三角錐の入れ物にいれられたかのようである。
内部から湧き起こったそのマグマは、今にも山の輪郭からは食み出し、夜の闇の中で大爆発を起こし、昼の世界を呼び戻すために、力強く叫び出すかのようである。
ただ、この厳然とした幾何学的な直線が、マグマを穏便に飼いならし、実に黒い背景を引き立たせる、色味のいい赤を演出していた。
三つの山は、真ん中が最も背が高く、次いで右の山、左の山と、続いていた。
「うん、とりあえず、背景はそれでいい!」
万理は拡声器で声を発した。セットを組んだ空地は、すでに新しい世界が着々と作りあげられている。
「この人形たちは、どうしましょう、万理さん」
数人の男たちが担ぎ上げている、その、包帯がぐるぐるに巻かれた物体は、人の形を模したミイラのようであった。
「いくつ、できたの?」
万理は拡声器を口元から外して、大声を上げた。
「三十体です!」一人の男が万理に負けずに大きな声を張り上げる。
「とりあえず、できた分だけ、転がしてみましょう」
万理は三十もの包帯に撒かれた人体を、土の剥き出しになった地面に、無造作に投げ捨てるよう指示をした。「何体かは、重ねるように。あとは、散らばらせて。照明さん!紫のライトをください。うん、いい。そしたら、そこの地面を、掘ってちょうだい。棺がすっぽりと入るくらいの穴を、いくつか」
「ねえ、井崎さん」万理は、横にいた男に小さな声で話しかけた。
「音楽の準備はできてる?」
「ああ、いつでも、オーケーだ。セトくんが、配線をしっかりと引いてくれた」
「そう。それじゃあ、もういつでも、始められるわね」
「まだ、誰も、撮影が始まるなんて思ってない」
「本番の予定は、一週間後だから」
「今はリハーサルにも入っていない。セットの組み立てと、モチーフの制作だ」
「G君は?」
「ばっちり」
「長谷川さんは?」
「もう来てる」
万理は再び、拡声器を手にとる。
「兵隊の人形を、百体発注してちょうだい!無残に、戦闘でやられた肉体を百体」
男たちは了解しましたと声を張り上げて答えた。
三つの大小異なる赤色の三角錐に向かい、何本もの直線の仮の道が、伸びていた。
その一本に、突然、白いライトが照らされた。長谷川セレーネが立っていた。
セットを製作していた男たちは驚いた。
「おい。もうリハーサルは、始まってしまったのか?」
だが、もっと驚いたのは、その長谷川セレーネが衣服をまったく身に着けていないことだった。男たちは最初どよめいたが、すぐに静まり返ってしまった。長谷川セレーネはゆっくりと歩き始めた。三つの大小異なる赤色の三角錐は、だいぶ離れたところにある。そこへと続く道の上で、長谷川セレーネは少しずつ、距離を縮めていった。ここで彼女を照らすライトがぶれた。彼女のいる場所から外れ始めた。ときおり思いついたように、長谷川セレーネをとらえ、すぐに別の場所を照らしてしまう。
「あの照明のやつ、だいぶん動揺してるな」
井崎は、万理に向かって囁いた。「音楽」と万理は言った。「最初の曲をちょうだい。今すぐに」「おいおい、マジかよ」井崎は慌てて音響機材の所在を確かめた。ブォーンという動物の鳴き声のような始まりだった。そのあとドドドドという、それまた野性の動物が草原を疾走するような激しい音が続き、鳥がいっせいに羽をひろげるような音が混じりあい、再びブォーンという音が断続的に続いていった。裸身の長谷川セレーネは歩くのをやめていた。両腕を上げ、両脇を天に見せつけるようにポーズをとっていた。照明は消えた。三つの大小異なる赤色の三角錐だけが闇夜に浮かんでいる。長谷川セレーネは一瞬だけやってきた昼の世界からの使いのようだった。野性の草原を思わせるような、特にメロディのない音楽だけが続いている。
井崎には、万理の意図が全然わからなかった。
長谷川セレーネと万理は、前もって打ち合わせをしていたのだろうか。
まだセットの構成も完全にはできていない中で、唐突に、リハーサルを始めてしまったのだろうか。井崎も美術の男たちと同じく唖然としていた。構成はすべて、万理に任せていたので、単純で浅はかな質問を、すぐに投げかけるわけにはいかなかった。次に光が照らされるまでには、どれくらいの時間が過ぎたのか。井崎にはよくわからなかった。
白いライトが再び花道の一つを照らしていた。長谷川セレーネは裸身ではなかった。両肩をさらした黒のワンピースを着て立っていた。赤い薔薇の花束だろうか。大事そうに両手で胸のあたりで持っていた。井崎は裸体の長谷川セレーネの残像に悩まされ続けた。その赤い薔薇を取り上げ、そしてその黒のドレスを引きちぎってしまいたいと。おそらく、あの裸身を見たすべての男たちは、自分と同じ気持ちになっているに違いなかった。いや、男だけじゃない!女だってそうだ。男とは別の視線で、何も身に纏っていない彼女のことを、見たくて仕方がなかったはずだ。我を忘れて、細い花道の舞台に乗り上がり、そして全速力で彼女に近づき、即刻想いを成し遂げてしまいたいという情熱が、強烈に湧き起こっていた。
懊悩を抱えながら横にいる万理を見た。がしかし、彼女はいなかった。この短い時間のなかで、どこかに移動してしまっていた。
REILA
水滴のようなピアノの単音が聞こえてくる。そして次第に、流れるような静かなメロディが浮き上がってくる。赤い三つの三角錐は消えている。まったくの暗闇の中で、ピアノの調べは続いていく。
激しい調子を抑え込み、単音と無音のあいだは、次第に長くなっていく。
ここが、空き地に建てたセットであることを、井崎はすっかりと忘れていた。光が欲しいと、彼の心は望んでいた。ピアノの演奏はずっと続いていく。
そのあいだに、空から本当に水滴が落ちてきた。ピアノの音がそのまま空気を湿らせ、小さな塊にして、地上に落としてきたかのようだった。井崎の額にも、その水滴は触れた。冷たくはなかった。生暖かかった。井崎は何故かとても哀しい気持ちになった。手を伸ばしてみたが、側には誰もいない。ここがセットであることを突然思い出して、他のスタッフも、今自分と同じように闇の中で、ピアノの音を前にして我を失って立っているのだろうかと思った。物音はしなかった。
自分の他にはもう誰もここにはいないのではないか。だが、その井崎の心を打ち消すかのように、再び赤い三角錐が目の前に現れる。ずいぶんと遠くにあると思っていた、それらの三つの三角錐は、ほとんど目の前にあった。倍以上の大きさになっていた。いつのまに、この山に自分は近づいたのだろう?手を伸ばせば、触れることのできそうな錯覚に陥った。輪郭は、少しの揺るぎもない直線だったが、その中は煮えたぎる血の色の液体が広がっている。
赤い照明が、三角錐へと続く道を照らし始める。さらに、上からは、水滴が大量に落ちてくる。
井崎は、両腕についた水を払おうとする。すると、腕は真っ赤に染まってしまった。
照明のせいかと思ったが、水滴そのものが赤い液体だった。
血の雨を降り注いだのか?万理の演出なのか?するとさらに、不思議なことが起こる。
三つの大小異なる三角錐があるはずだったが、山はそれ以上に増えていたのだ。連なりは留まるところを知らなかった。横一線に並んでいた。その端を確認しようと、井崎は目で追った。
いつのまにか、体は一周していた。
つまりは、山の連なりは、円形に途切れなく並んでいたのだ。
井崎は、自分の眼球がおかしくなったのだと思った。すべてが赤く染まっていた。
山々から、山々の背景までが。そして、落ちてきた雨のような液体は、自らの体を真っ赤に染めてしまっていた。長谷川セレーネはどうしたのだろう。裸の彼女が、血の雨に打たれているところを想像した。しかし、うまくはいかなかった。彼女の白い肌に赤い液体が付着しているところが、まるで思い浮かばなかった。そればかりか、彼女の周囲には、あいかわらず白い照明が当たり続けていた。音楽はいつのまにか、疾風する嵐を思わせるオーケストラの調べへと変わっている。
雨が激しく降り続ける中、井崎は目を開けてはいられなくなる。雨が止むのを待つ。おそるおそる目を開けてみる。すると、その山の連なりは、消えていた。湖があった。信じられなかった。一瞬にして、目の前に大きな湖が、出現していたのだ。一体、この短時間で、どんなふうに作ったのだ?緑色と黄色の照明が交互に重なり始め、水面を照らしていた。
そこには、包帯を巻きつけたミイラのような物体が、いくつも浮かんでいた。
フルートとチェロの演奏が、静かに続いていく。万理が現れた。万理を白いライトが照らしていた。彼女は花道をゆっくりと歩いている。湖に近づいてくる。白いワンピースを着ていた。万理は自ら舞台に上がっていた。彼女は、湖の辺にかが見込みんで、そして水面に火を放った。水面は、一瞬で燃え盛った。音楽は止んだ。燃える湖を、井崎はずっと見ていた。その火の中には、たくさんの兵士たちがいた。軍服は焦げ、顔は真っ黒に焼かれていた。それでも彼らは、持っていた銃で狂ったように乱射を繰り返している。湖に映る戦場を照らす光が消えた。その瞬間、遠くの空に龍のようなワニのような巨大な鱗を持つ生物が浮かびあがる。一匹だけではなかった。雲のように空一杯に、所狭しと徘徊してうねっていた。ここで初めて、人間の声が音楽に乗って現れる。透き通るような高音の女性の声だった。巨大な爬虫類のような生物は、さらに体をくねらせ、大空を縦横無尽に泳ぎだした。地面が揺らぎ始めた。ふと井崎は、目の前の土が隆起しているのが見えた。地面もうねり始めていた。山々が崩れ始めている音が聞こえる。巨大な岩が転がり始めている。すると、山の連なりがあったところに、巨大な看板がいくつも立ち並んでいることに気がつく。巨大な広告看板のように。そこにはさっきまで、空を徘徊していた龍のようなワニのような爬虫類が、画面から今にも、はみ出していくかのように描かれていた。広告というよりは、巨大な壁画のようだった。しかし今は確かに、絵の中で止まっていた。時間は静止していた。壁画の連なりを見ているようだった。
次第に、自分の周りに、人のざわめきが聞こえ始めてきた。じょじょに風景が浮かび上がってきた。人の顔がついた体が、いくつも犇きあっていた。隣りには、万理がいた。セットを準備するスタッフが、慌しく動いている。万理は、彼らに的確に指示を出していた。三つの三角錐の山の背後に、巨大な看板が、いくつも立てられていた。
「万理・・」井崎は力なく彼女に話しかけた。「なに?」と彼女はすぐに反応をかえしてきた。万理はすでに横に戻っていた。「気に入らない?」
「いや、その、音楽が」
「そういえば、いつのまに、止めてしまったのかしら。ずっと流していていいのよ」
「赤い血は?」
「え、なに?赤い血?血を演出に使ってほしいの?」
さっきまでの光景は、いったい何だったのか。井崎は万理に言う。「長谷川セレーネは?彼女はどこにいるんだ?」
「ああ、彼女ね。今日は来てないわよ。まだ設営段階なんだから。出番は、リハーサルからよ。今日は、G君しか来てないでしょ」
「Gだって?」
「ええ、そうよ」
「なんで、Gだけが、来てるんだ?」
「最初から見ていたいって、自分からやって来たわよ」
井崎は、長谷川セレーネの裸身について、延々とそのあとも話し続けていた。万理も聞き流すことなく耳を傾けていた。いいわねと万理は同意した。でも長谷川さんはオーケーするかしら。セトさんはオーケーするかしら。最初のショットでいきなり何も身につけない姿を晒すのに、そのあとは、ずっと服を身につけているのね。わかったわ。最初の瞬間だけなのね。いいわ。取り入れてみましょう。彼女は言った。
それにしても、北川裕美の絵は、迫力が凄まじかった。井崎はあらためて、彼女の絵の存在感に圧倒されていた。その影響力に、またもや打ちのめされていた。
MARIAGE NOCOUNT
シカンは、ショーで撮影した映像を何度も見ていた。オープニングではステージに置かれた大きな画面で、映画が上映されたのだった。以前、万理の『ユダプト』を見たことがあったので、これはすぐに続編だと思った。告知なしで、ショーの前に公開したことに、シカンは思わずやるなと手を叩いた。しかし告知にしては長すぎた。ほとんど一時間以上は流れていたんじゃないだろうか。同胞の民族を捨てた王が、一人荒野を彷徨う場面から始まる。草原が続き、砂漠が続き、王は(元王)は湖へと辿りつく。だが水の色は赤色だった。どろどろとした赤い液体が沸騰していた。周りに生えていた草も赤く染まっていた。その染まる範囲が円形状に、どんどんと広がっていった。気づけば、足元までがすでに、赤色に染まっている。湖は生き物のように周囲を侵食していった。その煮えたぎる水面の中から、一匹の大きな黒い鳥が現れる。今から我々の言うことをおとなしく実行すれば、再び、君を王へと君臨させてあげようじゃないか。こんなに早くに、またとないチャンスだ。そのかわり別の国の王だ。エジプトは、すでに君たちの民族のものではなくなった。エジプト人は可能な限り抹殺された。君が戻るべき場所は、もうどこにもない。新しい国を、作ろうとしている。是非、そこの王に君がなってもらいたい。急速に発展すれば、君の生きている間に、エジプトを攻め落とすことも可能かもしれない。乗っ取るんだ。君が築きあげた新しい王国と、エジプトを統合してしまったらいい。そうだろ?まずは、自分の足元を固めることだ。
「ずいぶんと、話しが出来すぎている」元王は言った。
「そうだろう、そうだろう」黒い鳥は言った。
「鳥なのに、どうしてしゃべられるんだ?鳥に見せかけているだけだろう。何の霊だ?低級な悪霊に違いない」
「私は、マヤの都市国家の一つから来た。知ってるかね?」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない。君とはまた違った理由で、私はあの都を放棄した。何故だかわかるか?君のように、政変によって追い出されたわけではないから。そんな無能な君とは違う。しかし、もたもたと、いつまでも王の座に君臨していれば、いずれは君のような運命を辿ることになっただろう。そういう意味では、未来の自分を見ているようだ。おそらく、この何十年のあいだに、政変は連鎖的に起こるだろう。王の在り方が問われる。しかし一つ、困ったことがある。一足先に出てきたのはいいが、肉体を置き忘れてきてしまった」
「なんだって」
「置き忘れたというのは、少し違う。鳥の体を使わなくては、これほどの距離を移動することができなかった。もちろん、その鳥といっても、本物の鳥の体のことではない。鳥を模したものにすぎない、これは。ほら、触ってみるといい。硬いだろう。金属やプラスチックを組み合わせたものだ。これは、季節ごとに行う、宗教儀式のときに着た。だが、その儀式の最中に、私はふと、このまま失踪してしまうことを決意した。もう次の年の儀式は、執り行われるようには思えなかったのだ。脱出するのなら、国を見捨てるのなら、今この瞬間しかないと、そう思った」
「見捨てる?」
「そうさ。あんたと同じ。もっとも、私の場合は、自分から蹴り飛ばした。今頃は、すっかりと、廃墟の都になってしまっただろう」
「それは、政変なのか?」
「違うだろう。滅びだね」
「滅びることを、阻止する役割があったんじゃないのか?王とは、そういうものじゃないのか?」
「あんたに、説教されたくないね。君たちの国とは、成り立ちが全然違う。昼と夜といったらいいか。表と裏といったらいいか。つまりは、君のいた国と、実は深いところで繋がりがあった。いわば、君が王なのなら、私は裏の王とでもいうか。影の王とでもいうか。表裏一体。もしかすると、僕らは同じ人間なのかもしれない。肉体は、もともと、ほら、そこにいる君だったりしてな。マヤの都市国家に存在する私には、肉体はなかった。魂の一部だけが、もともと君から抜け出てやってきた。君たちが政治を司る国なのならば、我々は宗教儀式を司る、つまりは、太陽ではなく月の世界の住人だ。今ここでようやくかつての同一人物がこうして劇的な再会を果たす。もしかすると、私が都を飛び立ったとき、今がそのときだと思った理由というのは、都が衰退するであろうという、その境目を読み取ったからではなく、君がエジプトの王から、陥落する時を悟ったからなのかもしれない。私は、君とここで会うために、長い長い距離を移動してきた」
「こんな場所で、何がしたい?はっきり言え。すべてを正直に」
「正直さは重要だな、確かに。早く物事を進めたいときには特に。この湖のほとりに建てるんだ。城を。新しい国を。こんなにも自然の豊かな場所は、他には滅多にない。水も実に綺麗だ」
「冗談はよすんだ。血で染まっているじゃないか。いったい、どこから流れてきている?」
「流れなんてないですよ。よく見てください。湧いているんですよ。ゴボゴボと。マグマのように。一つ言っておきますが、全然、血の色なんてしてませんよ。澄んだ緑色をしているじゃないですか。もし、そんな色に本当に見えるのだとしたら、それはあなたが裏切った同胞たちが、あなたに、今、自らの血の現実を見せつけているからじゃないですか。だってまだ、すべての決着がついたわけではないのだから。まだ、生きのびているエジプト人だっているはずだから。最後の抵抗をみせているものや、隠れて生き延びているもの。数としては、まだまだ相当の人間がいる。あなたの愛人の方。彼女は、断頭台に上がりました。あなたの代わりに。エジプトの頂点に君臨した王を、抹殺するという、時代の変わる象徴的な儀式のために。あなたはいなくなった。最も、彼女はエジプトの人ではなかった。生粋のユダヤ人でしたが。それに、彼女は、ユダヤの人間を恨んでも、憎んでもいない。あなたを愛したばっかりに。あなたが殺されるのを避けるために、あなたを国外に逃がしたばっかりに。彼女は、エジプト人の最後の砦のように見られ、祭り上げられてしまった。ユダヤの民衆など、別に、誰が処刑されても構わないんです。ただのカタルシスが欲しいだけだから。今まで抑圧されてきた暴力に対しての捌け口を。全体の中に見い出したい。ただのそれだけです。ユダヤ人でありながら、エジプトの王の事実上の妻であり、そして、ユダヤの同胞を、エジブの側へと売った張本人というレッテル。それが、彼女には張られた。可哀相な人です。その血が、湖を赤く染め上げているんです。私には、澄んだ緑色にしか見えないですが。
しかし、どれだけ惨めな逃げ方をしても、このまま死んでしまうわけにはいかないというのが、あなただ。どうにかして、生き延びなければならない。私が、知恵を授けて差し上げましょうと、言ってるのです。このチャンスを拒む理由は何もない。この湖のほとりに、あなたの住居を建てるんです。そうです、城です。いずれは、別荘のような存在になる。ここから最も近いところに、小さな国があります。そこを乗っ取ってしまうんです。私の言うことを聞けば、それは簡単に可能だ。その国も、厳然とした階級社会でして。いまだに多くの奴隷が存在しています。これが、世代から世代へと継承されて、DNA的にも、すでに人種と化し、完全に区別されてしまっている。あなたは、一度、奴隷というものの中に、自ら入ってみるべきです。いつも高いところから見下ろしているだけだから、実体が、何も見えなくなるんです。何が起こっているのか。何が起こりつつあるのか。最も低い場所に身を置くからこそ、よく見えるようになることもある。感性の問題です。あなたは、一度、そういった境遇に堕ちるべきだ。今がそのときだ。奴隷としてその国に入場するんです。そして、自らの力で伸し上がるんです。その引き上げる手を、私が差し伸べるわけにはいかない。君にくれてやる羽の持ち合わせはない。君自身の力で、這い上がってくる。そうするには、とても適当な規模の国だ。自然にも恵まれている。私は、君が王になったときのための保養地を、ここでつくっている。君が王となって、ここにやってくるときには、すでに赤く染まった湖なんて、どこかに消えてなくなっている。血による因縁は、君からすべて洗い流されている」
そう言うと、黒い鳥は、姿を一瞬で消してしまった。
FARAO WITH THE PERSONAL DEFENDER
さまざまな角度から発信される白い光のすべては、一箇所に集中していた。映画の上映は終わり、しばらくの暗闇を経ての突然の光だった。その中から、一人の男が登場する。それがGだった。
Gはラフな格好をしていた。白いシャツを羽織り、グレイのジーパンを履いていた。光がだんだんと弱くなっていくにつれて、彼の周囲の様子が見えてくる。天空に向かって聳え立つ白亜の城が背後に見えてくる。
Gはバルコニーに現れる。見下ろしたその先には、エメレルドグリーンの湖が広がっている。白亜の城に向かって伸びる道が現れ、そこには一人の髪の長い女性が立っていた。ガウンを羽織っていた。後姿だった。彼女は振り返る。目鼻立ちのはっきりとした長身の女性だった。目元には優しく微笑みを浮かべていて、口元は冷たく引き締まっている。彼女は、白亜の城の中に吸い込まれるように入っていく。バルコニーに現れた。Gと笑みを交わし、そして抱擁し合う。さまざまな色の鳥たちが、湖の辺りから立ち上がり、バルコニーに集まってくる。女性は長谷川セレーネだった。いつのまにか、彼女の衣服は消えていた。ガウンがストンと床に落ちたのだ。
シカンが向けたカメラのレンズは、彼女の裸身をとらえていた。背伸びをしながら、Gに抱きついていた彼女の背中から、お尻、足首にかけてが、よく見えた。ふっくらと肉付きのいいお尻だった。腰と足首は口元同様、かなり引き締まっていた。エメラルドグリーンの湖から反射した光は、黄色や紫やピンクや、青色をしていて、バルコニーの様子を小鳥たちと同様に、祝福していた。ずっと長谷川セレーネの後姿にうっとりとしていたシカンは、抱き合ったその相手がいつのまにか、Gではなくなっていることに気づいた。彼は、ただの白い塊になっていた。彫像がそこには立っていて、長谷川セレーネは、その彫像に向かって抱きついているように見えた。だがその彫像も次第に、包帯を巻かれたような気味の悪い死体のように見えていった。しかし、長谷川セレーネは構うことなく抱きついている。次第に、バルコニーの様子は、不鮮明になっていく。
照明は、長谷川セレーネ一人に集中していく。彼女の背中だけが、唯一光り輝いていた。その悩ましい裸体の上半部がくるりと振り返り、彼女の顔がはっきりとレンズの中に飛び込んでくる。その官能的な表情に、シカンは思わず、カメラを落としそうになった。舞台は暗転する。
COBRA´S TIME
闇を切り裂くエッジの効いたソリッドなギターの音に交じり合い、太鼓の音が聞こえてくる。爆発音が続いた。雷鳴が聞こえてくる。天変地異を告げるような、物々しい音に加えて、空が紫の雲で覆われている。画面のあった場所が、そっくりと絵画にかわっていた。
白亜の城は消え、長谷川セレーネの姿も消え、世界には禍々しい空と、おどろおどろしい巨大な絵画が拡がっている。これほどまでに巨大な看板を、いったいどうやって制作したのだろう。シカンはそのスケールに驚いた。そしていつのまにか、空と融合しているように見えた。ふと、空に浮かぶ二人の人間を発見する。確かに人のシルエットだった。二人の会話が聞こえてくる。「天地が暴れだしたようだね」
「私たちは、いったい、何を」
「これから子宮の中に入っていく。ほら、見てごらん。地上には、今、たくさんの人間が、子宮の中で暮らしている。こんなにたくさんの子宮が、ほら、生きている。そのどれに空から下降していくのか。今から選ぶんだ」
地上には、丸く光るピンク色の光が、蛍の光のようにいくつも現れ始めた。
天空の禍々しい紫色の雲とは対照的に、安らぎに満ちた光だった。
その対照的な天と地のあいだの空間には、巨大な、今にも蠢き始めるような生き物が、平面の中で息づいている。今にも暴れだし、天と地の調和を、乱そうとしているかのようだ。天から下降していく魂を、啄ばむために息を潜めているようであった。
「よく考えてから選びなさい」
「でも、早くしないと」
「焦る必要はない」
「でも、早くしないと。別の魂も、降りようとしているのだから。先を越されてしまうかもしれない。数は限られているのだから。争奪戦になってしまう」
「そんな心配をしてるのかい?」
「だって、そうじゃない。早いものが勝つ。居心地のよさそうな子宮から、どんどんと埋まっていってしまう」
「早まるんじゃないよ。ちゃんと、君のための場所は用意されている。そういうものなんだ。だから、居心地がよさそうとか、悪そうとか、そういうふうに選らんではいけない。自分がコレだと思ったものに、迷いなく下降していく。突然、その瞬間はやってくる。そこで、ブレーキをかけないことが君の役割だ。こうやってたくさんの子宮を見下ろすこと。そして、コレだと思うもの。思う瞬間に、ブレーキを外す。それだけのことだ。あとは、収まるべきところにしっかりと収まる。今はこうやって、地上の子宮を眺めていることが大切だ。この光景をよく覚えておくんだ。もちろん、地上に生まれたあとには忘れている。でも、魂にはちゃんと刻まれている。そして、いつか、地上において生きるということに最も疲れ果て、絶望したときに、再びこの光景が記憶の中に戻ってくる。たくさんの子宮が輝いていたこと。それを思い出す。下降する前のこの情景が、いつか君の心を救うことにもなる。肝心なことは、ここで子宮の優劣を吟味しないこと。さあ焦らずに、この光景を目に焼きつけるのだ」
二人の会話はやむ。
JEALOUSY
処刑が決行される寸前だった。柱に縄でくくられた女が火炙りにされる寸前、大きくて黒光りのする鳥が空から羽をいっぱいに広げ、舞い降りてきた。縄を食いちぎり、女性の上半部分をくわえ、そのまま空へと持ち去っていった。しかし火は、すでに放たれていた。そのため、群集からは女の姿は見えなくなっていた。黒い鳥がものすごいスピードで急降下してくるのがわかった。しかし女をつまみ出したことには、誰も気づくことはなかった。女はすでに気を失っていた。黒い鳥は、さらに加速度をあげて、大空を飛び続けた。
すべてのエジプト人の処刑が終了した。抑圧され、家畜扱いをされ続けたユダヤ人は、解放された。そして同胞たちは自由を手にいれた。自分たちの手で、国家を築きあげることができた。エジプト人たちが残したものの中で、使えるものはすべて使った。移行は比較的簡単だった。ユダヤ人は、エジプト王国のシステムを熟知していた。特にあらたに創造することはしなくても、システムはそのままの形で使えた。まさに新国家は、同じシステムそのままに、民族の構成だけが入れ変わった形で、存続した。消し去ったエジプト人のいた場所に、ユダヤ人がそっくりと移動しただけだった。ユダヤ人はあらたに、違う世界観の国をつくろうとはしなかった。そんなイメージはもってなかった。ただ、自分たちの境遇が変わりさえすれば、それでよかった。だが困ったことに、そうなると奴隷の仕事がぽっかりと空いてしまうことになる。補充する必要があった。他国に戦争をしかけ、勝利し、捕虜として、たくさんの人間を、新エジプト王国に連れてくる必要があった。
天地は暴れ続けた。空には、龍のようなワニのような巨大な生物が蠢き続けた。
壁画と化した看板は消えている。生物はこの世界に完全に解き放たれていた。枠は溶解している。空と完全に同化している。
舞台の長谷川セレーネは、もう誰の体にも抱きついてはいない。裸身の後ろ姿だけをさらけ出していた。お尻の割れ目が、くっきりと浮かび上がっている。
長谷川セレーネは、落ちてくる雨粒を全身で受けていた。彼女は空を見上げ、背中を反らせ、両手で髪の毛をかきあげ、シャワーをあびているかのように、髪を背後へと流し続けている。
シカンは、その様子をカメラにおさめていった。彼女の顔をアップで撮り、全身を引きでとった。さらには、空の様子までカメラに収めた。ヴァイオリンの少し濁った音色が、響き渡っていた。
シカンは、ふと、天地が創造されるときに居合わせたような、そんな錯覚に陥っていた。
この大地には、長谷川セレーネだけが今存在していて、やむことのない雨に、さらされている。衣服さえ身につけず、ただ、水の洗礼に身を委ねている。すべての記憶を、罪を、洗い流すかのように。彼女は天からの水を無防備に受け続けているようだった。
THE LAST 12 DAYS
Total Concept Direction
MARI UNJYU
STAGE STAFF
Concert producer IKUE OZAKI
Stage Producer HARUKA+TATOO
Stage Director MEGUMI ATTOMARK
Scenery Designer TAKESHI OGAWA
Lighting Designer&Director AI KOKURA
Manipulator HIDEKI.N.MEGURO
SHOOTING STAFF
Producer AKEMI OHYAMA
Director NAOMI JESSICA
Technical Director MAKI KURATA
Cameraman MORIS KADERACK
Video Engineer NAOTO JERARRUDO
Artistmanager SETO (Office VA reader)
Photography SHIKAN YUBIHARA
Model SERENE HASEGAWA
G
Costume BLOOD STONE
Hair Styling JOHNSON MAKKENNRY
Total music Composer SARA-MAI
Total Produced By IZAKI
©2011 CRYSTALCITY Co..L
ネオマヤン2 時界の勃興編 @jealoussica16
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