ダ ファラオズ エンパイア

@jealoussica16

第1話


ボロブドゥールの森より 


          



















このテオティワカンの空に向かって

大地はどこまでもうら寂しい


迷宮の中で叫べば

あなたは


そっと寄り添うだけで何も言葉は発しない



あの紫色の部屋の中での記憶

未来はそう遠くない実感として

この胸の中で静かに躍動し始める


灰色の街に黒い太陽が煌々と差し込むとき

視界には入りきらないほどの黄金の天体が

鏡の中で爆発する


過剰の丘では公開処刑が執行され

見世物と化した王が 透明のアトリエで

一人絵を描く

      水の都。



夜のカフェテラスでは

叫人たちが狂った遺伝子をもてあそび

森の中では 革命軍が前夜を祝い

仮面をつけた女たちが 漆黒の闇の中で舞い踊る



光の宮殿へと誘う その閉ざされた招待状の数々

戦場の中で舞い降りてくる 祈りの届かない朝

生贄たちは仕事をしに

すり替えられた身代わりの・・・覚醒なき日常



断頭、首吊り、火煙。創造なき破壊者たちの

繰り返される苦しみ



礼拝堂で嘆く聖母の膣

引き裂かれた血だらけの遺体

晒された本性



森の中に転がっている頭部・・・


 ・・・罪の雨は降り注ぐ


神像は壊され


  ・・・貼り付けられた 新しい顔


    

































ダ ファラオズ エンパイヤ


Da Faraо.s Empire Ⅰ

~ avant eclipse de soleil ~
































第一部   千年王国

第二部裏・フィアンセ

第三部デモ・テープ

第四部青血 <セイケツ>

第五部シリアルキラー

第六部日飾 <ヒッショク>

第七部透明の螺旋

第八部ディスレクシア

第九部歴史から消されたファラオ










 





















第Ⅰ部   千年王国





















 その男は、深夜、アパートの前に現れた。知り合いだった女性は驚いた。今さっきまでメールをしていた相手が、いきなり目の前に現れたのだから。二人は友達だった。よく一緒に遊ぶ男女七人のグループの中の二人だった。男は鶴岡と言った。女は亜子。亜子の彼氏も、このグループの中の男だった。名前はヨウセイだ。ヨウセイと鶴岡は友達である。学生のときはよく七人が集まって、海へ行ったり、カラオケに行ったり、花火を見に行ったりしたものだったが、次第に一人欠け、二人欠け、全員で集まる機会は減っていった。

 そんな中、亜子とヨウセイ、鶴岡の三人で遊ぶことも多くなっていった。鶴岡の家に、亜子とヨウセイが泊まりにいったこともあった。徹夜でテレビゲームをしたり、麻雀をしたりした。

 その鶴岡が、今、亜子のアパートを訪ねてきているのだ。メールでヨウセイとの喧嘩のことを亜子は話した。半同棲中だったが、喧嘩は絶え間なく続き、別れようって話になっているのだと。本気ではなかったが、今回は本当に頭にきていた。鶴岡はこの二人が実際のところはどれほどの問題を抱えているのかわからなかったが、度重なるすれ違いにチャンスが生まれたのだと思ったのだろう。意を決してアパートへと向かい(ヨウセイがアパートにいないことを確認してから)呼鈴を押した。男は告白した。ずっと前からあなたのことが好きだった。だから僕と付き合ってほしい。ずっと好きでした。あなたのことを傷つけ続ける男とは早く別れるべきです。僕ならそんな思いは絶対にさせない。

 亜子は唖然としてしまった。

 まさか、愛の告白をされるとは夢にも思っていなかった。そんなふうに鶴岡を見たことはなかった。そんなふうに見られていたとは思わなかった。あの鶴岡の部屋で三人が遊んでいたことも、なんだか気味が悪くなってきた。鶴岡はわたしにそこに居てもらいたかった。だから、ヨウセイとも仲良くしていた。わたしだけをずっと見つめていたのだ。鳥肌が立ってきた。私の細かな動きまで、凝視していたのだ。ひょっとするとスカートを履いていったときなんて・・・、私は電車の座席に坐ったときのような、下着が見えてしまうことへの警戒心を、あの部屋でも継続していただろうか。いや、まったくの無防備だ!鶴岡の目は、もしかすると、ヨウセイと私の二人きりでいたときにも、部屋の中のどこかにあったのかもしれなかった。盗撮カメラのレンズのような気持ち悪さに、突如襲われてきた。かえって!亜子はそう叫んでいた。

 鶴岡はその後も、恋愛だけではなく、仕事などでも突如相手の前に姿を現しては、思いもよらぬ告白をした挙句に、立ち去るといったことを繰り返した。普段は自分の我を押し通すことなど、ほぼ皆無だったこの男が、実は強烈な不満と共に、日々を生きていることが発覚したのだ。それを目撃した人は、かなり引いた。夜中、女性の知人の前に現れることも多くなっていった。ただ、亜子のときと違ったのは、少々お酒が入っているということだった。極めつけは、泥酔状態で現れたときだった。普段は押さえつけていた心の奥底の気持ちが、暴発してしまうことが頻発した。

 その後、鶴岡は亜子の前には、二度と顔を現さなくなったが、噂ではどうも、過去の交友関係のコネクションを探っている様子があり、亜子の現状を知りたがっているようだった。あの目はただものじゃない。ものをつくる人間の目だ。そう言ったのは、彼の会社の取引相手の男だった。昼間に破談になった交渉の復活を目指して、深夜に鶴岡が現れたというのだ。接待で使っていた店の前に突如姿を見せた鶴岡は、鬼気迫る様子で近づいてきたという。あれは誰か人を殺したことのある目にも見えたと男は語った。彼は思わず了承してしまったという。そのことも翌日にはすでに覚えていなかったらしく、鶴岡は上司からよくやってくれたと声をかけられても、しばらくは何のことだか理解をすることができなかった。鶴岡は次第に同僚とも同業者とも、知人とも酒を飲むことがなくなり、住んでいる場所は誰も知らないようになっていった。ますます秘密主義に陥り、生活も、内面も、ひた隠しにするようになった。訊かれたことに返事をするくらいで、自ら言葉を発することは、なくなっていった。周りの人間は、そんな彼を奇妙に思った。逆に女性は、彼のことがどんどんと気になっていった。私生活ではどんなことをしているのだろう。どんな本を読み、どんな音楽を聞き、映画を見ているのだろう。誰か一緒に過ごす特定の人が、いるのだろうか。彼は何を考え、どこに向かって歩いているのだろうか。

 亜子はたまに鶴岡のことを考えることがあった。

 ヨウセイとは修羅場の末に別れ、あの七人のグループでの交際も壊滅状態となり、彼氏も何人か変わり、生活の局面はどんどんと変わっていった。ヨウセイは付き合って三年目くらいから浮気をするようになった。亜子の気持ちが本当に自分に向いているのか。愛情を強く感じたことは最初からなかった。彼女に対する不信感に耐え切れなくなり、彼は外に目を向けるようになった。そのころ彼は行政書士の資格試験を取るために予備校に通っていた。そのクラスにいた一人の女の子に、目が釘付けになってしまった。最初の授業を終えてクラスが解散になったとき、駅に向かう彼女に声をかけた。連絡先を交換し、授業は別々の席でとっていたが、帰りは一緒に帰ることが多くなった。そのうちカフェに誘い、食事にも誘った。飲みにいくこともあった。ヨウセイよりも歳は二つ下で、彼氏はいた。付き合って五ヶ月だという。それ以上、深くは訊けなかったが、他の男と二人で食事をしたり遊んだりすること関しては、何の抵抗もないらしく、そのうちヨウセイを家にあげることまでしてしまった。その日、ヨウセイは後ろ向きになっていた彼女を裏から抱きかかえようとした。しかし彼女は突き飛ばした。髪を軽く撫でてから少し距離をとって、普段の会話を続けようとした。すると次第に彼女の筋肉はほぐれていったようで、ヨウセイはさりげなく彼女の体に触れてみたりした。長い時間をかけて、ようやく脇の下に手を滑り込ませ、胸のあたりを探ることに成功した。そこで彼女は正気に戻った。振り返り、ヨウセイを睨みつけた。ブラジャーのカップの感触しか、得ることができなかったヨウセイは、軽いノリで謝った。烈しい抵抗にあえばあうほど、何とかして切り開いてやる、といった意欲が湧いてくるのだった。

 しかし、その日は何も進まなかった。そのあとはもっぱらメールでのやりとりが主流となっていった。だが旅行が大好きだったという彼女と、過去に行ったことのある国について語り合っていたとき、今度ゆっくりと食事でもしない?と、あの部屋に招かれたときからの謹慎処分がようやく解けたかのような返事をもらった。誘いを受けた。二人で一緒に海に行こうというというところまで話は盛り上がった。そして気がついたときには旅行代理店にいた。彼女が日程を決め、行き先を決め、ホテルを決め、ヨウセイは横で頷いているだけだった。こんな展開になるとは思いもしなかった。同じ部屋に何泊もとまるということは、そういうこともオーケーなのだろうか。ヨウセイの往路での心配は、彼女の排卵の周期のことだった。ばっちりと重なっているんじゃないだろうか。もしそうだったら、何晩ものあいだ、モヤモヤとした気持ちを抱えながら過ごすことになる。そんな生殺しのような状態の旅行になってしまう。行きの便では相手の彼氏のことを探った。どうも仲はよくないようだった。もう別れることも考えているのだと。もう障害は何もなかった。体のことだけだ。だが到着して彼女を後ろから抱こうとすると、烈しい抵抗にあった。完全な拒否反応を示したのだ。何とかその硬直な体を解きほぐそうと、いろいろと試してはみたものの、彼女は首を横に振るだけだった。やめて。嫌なの。やめて。やだ。だがそんなことが何時間も続いたあと、彼女はもう抵抗するのに疲れてしまったのか。ふと、唇を許した。だが、そのキスも途中で遮ってしまった。顔を背け、嫌なの。というように・・。男の顔からは逃れるように首を左右に何度か振った。そんなことがまた数十分続いたあとで、彼女は突然抵抗をやめた。二人を取り巻くベクトルが変わった。彼女のデニムのパンツを脱がそうとヨウセイがベルトに手をかけると、彼女は自ら積極的に下ろすのに協力してきた。いち早く脱がなくてはいけないかのような焦燥感で、加担したのだった。性欲が抑えきれなくなったからなのか、それとも早くことを済ませてやりすごしたかったからなのか。それはわからない。ヨウセイはこの旅行で彼女と一日三回以上は一つになった。帰国後、一度会ったときにもそういうことになった。彼氏とはまだ切れてなかったようだ。ヨウセイは鬼気迫る様子で別れて自分と付き合うようにと、説得を試みた。だが帰国した後で二回目に会った時には、彼女はまたもや烈しい抵抗を示した。彼氏とは仲直りしたの。やめて。やだ。いやなの。やめてったら。気持ち悪い。もう二度と会わない。俺を弄んでいたんだな。なら最後くらいはけじめをつけろよ。二人は、昼間のラブホテルへと消えていった。


 その日も馴染みの居酒屋で一人飲んだ後、鶴岡は地下鉄の駅構内にいた。朝の七時だった。警官がたくさんいて、大きな荷物を抱え持った人間に、尋問を繰り返していた。不審物への警戒にあたっていた。そこにやってきた一人の浅黒い縮れた髪の男が、警官に声をかけられた。その日は電車が車両故障のために、五分程度遅れて入ってきたため、その男は猛スピードで乗換えをこなさなくてはならなかった。「遅れんだよ!何、すんだよ!」男は激しく抵抗した。「遅れるんだって!遅れたら、クビなんだよ。何やってんだよ!」男は警官を烈しく振りほどいて先を急ごうとした。しかし警官は警棒を引き抜き、男に向かって威嚇をし始めた。「てめぇ、どう責任とってくれるんだよ」応援の警官がすぐにやってきて、男は取り押さえられた。「ふざけんなよ。生活がかかってんだぞ!わかってんだろ。仕事なんてねぇんだよ、このご時世。ふざけんなよ。クビになったら、死んじまうんだよ!!てめぇ」

 鶴岡は見て見ぬふりをして、側を通りすぎようとした。「おい、そこの兄ちゃん。俺を助けてはくれねぇのかい。朝から酒かい?いいご身分だな。ぇぇっ?どうなんだよ。ずいぶんと現実が違ぇじゃねーか、この野郎。何でそこの酒くせぇえ兄ちゃんは、捕まえねぇんだよ。なんで俺なんだよ。あいつは朝帰りなんだよ。時間を持て余しているんだよ。俺は時間がねぇんだよ、なんでこっちなんだぁよ。ふざけんなよ、ほんと。遅れるんだよ。どう責任とってくれんだよ。なあ、兄ちゃん。僕が代わりになりますからって、そう、申し出てくれれば、それでいいんだよっ」

 男は顔を床に押し付けられながら、必死で声を絞り出していた。鶴岡は気の毒に思いながらも、いちいち相手をしているわけにはいかなかったので、無言で通過していこうとした。丸く膨れたような荷物の持ち合わせは、鶴岡にはなかった。愛用の角張った革の硬い鞄を、一つだけ持っているだけだった。やり場のない荒れ狂った心の混乱を、今日も酒で紛らわせたことを後悔しながらも、取り押さえられた男のことを少し羨ましく思った。行き場のない自分自身とは違い、男には何としてもその電車に乗らなくてはいけない、確固たる理由があったからだ。しかし、それぞれの職務は、決してまじりあうことのない異方向の矢印を朝のプラットホームの中に存在させていて、そこにいる人間の心を侘しいものにしていた。


 その後、ヨウセイは女には会わなかった。しかし、一年半後、唐突に女から連絡があった。以前二人でいったビーチに、今度は自分の親族と一緒に、旅行に行ってきたのだという。その最中にあなたとのことを思い出してしまったのだという。ヨウセイはそのときはすでに、亜子とは別れていた。なんだか懐かしくなってきて思わず連絡をしてしまいました、と彼女は言った。アドレスは変えてなかったんですね。まさか送れるとは思わなくてビックリです。ヨウセイはあの旅行のことに思いを馳せた。あれだけ抵抗を見せる女に押し捲っていた自分が、最後に破れ去ったときから数えて、一年半後。まさかブーメランのごとく、しかも自らの意思で戻ってくるとは思わなかった。ヨウセイは歓迎し、二人で会うことになった。抵抗感はまるでなかった。女はあっさりと裸になり、ヨウセイの性器を積極的に舌で舐め始めたのだった。そもそも思い出しちゃったというのは、そういうことだったのだろうか。女は従順になり、帰る時には「淋しい」と甘えた声で、囁くことまでした。かつて見せたあの激しい抵抗感は、すっかりと影を潜めてしまい、性格も好みも温和になってしまっていた。ヨウセイは三度目のデートの後、次第に連絡を取るのを避け始め、彼女の誘いを穏やかに回避する方向で距離をとっていった。あの鋭利な牙は、いったい、どこに行ってしまったのだろう。ヨウセイは何度となくそう思った。



 ファラオは七年ぶりに母校を訪れた。母校と言うのは更生施設だった。体の温度調整機能の疾患から、彼は五年もの間、入退院を繰り返していた。施設の中央に位置する「祈りの部屋」は健在だった。その人影のなくなった空間に、ファラオは無言で佇んでいた。正面には十字架にかけられた黒いブロンズ像があった。

 ファラオは、心の奥底に潜んでいる影にずっと気づいていながらも無視し続けていた。しかしそんな彼の元に、かつて施設で一緒だった男から七年ぶりに連絡を受けた。この「祈りの部屋」での待ち合わせだった。その部屋というか空間は、健在ではあったものの、印象のほうは以前とまるで異なっていた。それは壁という壁に青い花が描かれていたからだ。明るい青。水色を遥かに濃厚にしたような色だった。黄緑色をはるかに濃くしたような茎に、透けない水色の花がまとわりついている。茶色に統一された落ち着きのある、それでいて厳かで安心感のある木造建築の姿は、いまや姿を消していた。

 そこは何時間いても飽きないといった趣はこれっぽっちもなく、ここで人と待ち合わせをしてなかったら、すぐにでも飛び出してしまっただろう。だが彼は待ち続けた。入り口の外で待っていてもよかったが、あえてこの中で待機し続けた。目を閉じ、それでも執拗に浮かんでくる濃厚な茎と葉、花の先端を、長い時間、脳で受け止め続けていた。

 


「なんだかこの部屋、生臭くない?」

 同居していたリョウコは帰ってくるなり、そんなことを言い出した。

「勘違いだろ」

 テルユキは相手にしなかった。「いや、生臭いわ。血の匂いがする。あなた、血を流した?」

「何言ってるんだ」

「動物は入ってきていない?死骸はない?」

「そういう感じなの?ゴミとかそういうことじゃないの?」

 そういうことじゃないと彼女は冷静に分析し始めた。

「おかしい。おかしいわ。朝はこんなことはなかったんだから」

「俺もちょうど今帰ってきたばかりなんだ」とテルユキは言った。

「私たちは一緒に部屋を出たわけだから、きっとそのあとね。その間に何かがあった」

 テルユキはファラオに会いに行くため、部屋を留守にしていた。昨晩の彼女は取材の仕事を遅くまでしていた。

「どこからするの?その匂いは」

「わからない。全体から?特定できないわね」

「まさか、俺じゃないだろうな」

 リョウコはテルユキの首筋の匂いをクンクンと嗅ぎ始めた。

「違うわね。というよりは、あなたからも、わたしからも、するわ」

「この部屋の一部だからな」

 すると電気が突然消えた。スイッチを一度切り、入れ直す。明かりが灯る。数十分後にまた消えてしまう。何回か繰り返した後に、その現象は起こらなくなる。

「寒い。寒い、寒い、寒い。いやっ。やめて」

 リョウコはクローゼットからセーターを取り出し、その上からコートを羽織り出した。

「寒い、寒いったら。血管が凍える。血管が。もっと奥。奥が寒いの。どうしたらいい」

 テルユキは為す術なしだった。「どうしたらいい?」

 しかし、それも数十分後に収まる。

「消えたわ」とリョウコは言った。「匂いは消えたわ。あなたからも、わたしからも。あなたさ、昼間はどこに行ってたのよ?何か変な事件に巻き込まれてない?大丈夫よね?」

「変な事件?変な事件って何だよ」

「だからその・・、血に関係のある・・」

「何いってるんだ」

 テルユキは呆れた表情を無理やりつくった。だぶん作れたと思う。

「分かったようなことを言うなよ。俺の行動をすべて知り尽くしたように言うなよ」

「ごめんなさい。でも心配なのよ。あなたが何かに巻き込まれるのは・・」

「明日から旅行に行って来る」

「急に?」

「そう。友達から誘われたんだ」

「誰?」

「君は知らないよ。ずいぶんと昔の友人なんだ。前にも一度だけ行ったことがある。気分転換してくる。向こうが全部、お膳立てしてくれた。だから俺はこの体一つ持っていくだけでいい。留守番頼むよ」

「怖いわ!」とリョウコは言った。「あなたのいないときに、また電気が消えたり、寒気に襲われたりするかも・・。いったい何なのかしら。心細い。行かないで!」

「大丈夫だって。一週間で戻ってくるんだ。同棲してなかったときと、変わらないじゃないか」

「でも、今は、この部屋にあなたと一緒に住んでいる。状況は違う」

「大丈夫だから」

「あなた、本当に巻き込まれてないわよね。誰かに操られているんじゃないわよね」

「大丈夫だから。それにたとえ僕の意志とは関係のないことでもあっても、そういう時期はあるんだ。もう何度も経験している。そういう周期なんだ。悪い兆候ではないんだ」

 そういえば、とテルユキは思い出した。以前オーストラリアに誘われたときも、直前に急に熱が出て卒倒してしまった。すぐに病院に運ばれ、点滴を受けた。予定通りに出発できずにキャンセルしてしまった。

「本当に、大丈夫だから」

 テルユキは繰り返した。


 テルユキは家を出た。同棲して三ヶ月が経っていた。一緒に住むようになってからのリョウコは神経が過敏で繊細になっていた。元々そうなのかもしれない。しかしあの空間には魔物が住んでいるように、彼女の体は逐一反応してしまっていた。

 テルユキは円形球戯場近くにアパートを借りて、一ヶ月ほど、そこから球戯場に通うことにした。

 闘牛の見世物と平行して行われる「展覧会」における代表作品を選びだす、審査員でもあったテルユキは、その絵をフェンスに並べる配置も任されていた。イベント空間における総合プロデューサーでもあった。闘牛の前座では、彼が新しく音楽プロデュースしたボーカリストが初めて公の場で歌を披露する。最終的な音源のチェックと、歌手のボイトレにも同行した。レコーディングも同時に行っていた。仕上げなくてはいけない日に向かい、テルユキは動きを止めずに、すべてを同時平行で突き進めていた。そのあいだは家に帰ることもなかった。本番の二週間前になって、やっと家に立ち寄ってみたときに、テルユキは居間で首を吊っている女の姿を見てしまうのだ。


 本当は俺があのとき死ぬべきだったのだ、とテルユキはその日になってからもずっと、想うことは同じだった。今日は、あの男の命日だった。そして、ファラオとの再会が実現した。テルユキは名前を変え、女も名前を変え、同居し始めていた。ファラオの行方は掴めず、二人は同じ過去を共有する唯一の知人として恋に落ちた。まさか付き合うことになろうとは、お互い思ってもみなかった。自分からは最も遠い存在として、認知していた二人だった。共有するものの大きさに、あらためて慄然としてしまったのだ。

「お前、名前を変えたんだってな」

 ファラオはすでに聖堂の中にいた。壁には青い花の絵が咲き誇っている。

「女も、な」とファラオは付け加えた。「リョウコとか言ったな。あの女は夕顔だ。よくも、まあ、ぬけぬけと暮らしていたものだ」

「そういう君は何をしていた?」

「何をだって?俺は、人を殺したんだぞ」

「君だって、名前を変えたんじゃなかったのか」

「変えてなんていない」とファラオは答えた。「君はもともと、俺の本当の名前だって知らないはずだ。それよりも、あの女。近いうちに死ぬよ。もうこんな現実には耐えられないだろうから」

「君はどこで何をしていた?」

「人殺しの行き先は、決まってるだろ!」

「しかし、遺体は上がってないんだ」テルユキは擦れた声で言葉を繋いだ。「いったいどこにいってしまったんだ?確かに僕らはあの男を消したはずだった。弔いのライブもやったはずだ。妊進館を燃やし、あの街からは出て行った」

「なら、遺体はすでに灰だろう」

「何もかも、現実の話じゃないみたいだ。僕はずっと夢を見ていたんだ。夕顔なんかじゃない!リョウコだ。僕はテルユキだ。君はただの殺人者だ!」

「刑務所にお世話になったことは、一度もないね」

「目撃者は僕一人。そして、事実を共有する人間は、ただの二人」

「その片方は、もうじき死ぬ」

 ファラオは言いきった。「一人だけだ。すべてを知るのは。そして、その一人も、現実の重みに耐えられず・・。誰が最後に残るんだろうね。楽しみなこった」

「君は、また、この前一度会ったときと変わったね。印象がだいぶん違う。もとに戻ったようだよ。さらに邪悪になった」

「それはありがとう」ファラオは丁寧にお辞儀をした。いろいろとあったんだからねと、言いたげな口元だった。今現在のことを、とやかく言う必要はなかった。俺はあらたな道に踏み出したのだ。君の方こそ、どうなんだ?リョウコという名の夕顔と、二人、あたらしい生活を始めることで何か進展があったのか?

「僕は君たち二人にはもう興味がない」とファラオは言った。

「僕があのとき死ぬべきだった」

 テルユキはファラオの言葉を無視した。「刺し違えたんだよ、君は。あの男はまだ生き続ける価値があった。あのバンドが解体するのなら、そのときはこの俺が存在を消滅するのが筋だったんだ!存在意義は、そこで潰えたのだから。今さら自覚するなんて、いい笑いものだ」

「笑ってほしいのか?」

 ファラオはじっとテルユキの目の奥を見ていた。

 本当にそう思っているのか?なら、お望みどおりにしてやろうか。そう彼は語っているようで、テルユキは身震いした。ファラオは軽く頷いた。君の心の中はすべて見えているんだよといった、そんな頷きにも見えた。

「死ぬべき時に死ねなかった人間は辛い」とファラオは言った。それはテルユキに言った言葉なのか。自分自身に言った言葉なのか。あるいはリョウコ、夕顔に対してなのか。

「廃人の歌をずいぶんと作ったね」とファラオは言った。「あれは廃人の歌だよ。どんなにポップなリズムに乗せて、歌詞を取り繕っていてもね、僕を誤魔化すことなんてできない。もう、意地を張るのは、やめたらどうだ?君は、君でなくなっていったんだ。君はもっと軽薄なピエロだっただろう?」

「君たちが、引きずりこんだんだ」

 テルユキは力なく答えた。

「人のせいにするな。たとえそうだったとしても、落とし前は自分でつけるんだ」

 テルユキはその言葉にすべてを理解した。

 彼は二人で暮らす家にはしばらく帰らず、一人でアパートを借り、最後の仕事を終えた。そして再び、リョウコの待つ家へと帰った。そこでその情景にすべてを悟ったテルユキは、そのまま一人で暮らすアパートへとトンボ帰りし、マンションの八階から飛びおりた。




   百華繚乱編




闇を知り、光を知り、心の繫がりを求め、一体感に渇望する

復讐と磔刑が吹き荒れる時代


ささやかなる復活と、過激な新生


度重なる 俗世への回帰


闇のトンネルを抜けたことで 出会う神曲たち。


シャーマンの死は 熱望へ

残された人間の 深い哀しみは 

          ・・・燃え尽きた愛。


精霊は、賛美歌を歌い 賢者を送り出す。

否定、誤解、無理解、黙殺が、飛び交う通過儀礼に、帽子を取り

丁重に深々と挨拶をし直す、誇り高き敗残者。

共鳴という名の雷鳴が響き渡る、百華繚乱編。


書庫では、「全集の集い」が絶えず行われ

引き出された今を、懸命に写し取る 詩人の姿が。

「完成させたい。いや、させてたまるものか」

折り重なる複数の現実の織り目には

既得権益を踏み台に 

世界を作り変える カエサルの子の姿。







































    ボロブドゥールの森の奥



 ファラオ・Mの右足首には鎖がついている。洞窟のような暗闇の中にあっては、自由に動き回ることができない。縁の見えない広い部屋の真ん中には、淡い蝋燭の光に照らし出された、ファラオ・Мの顔がある。

 上半身は裸で、下半身には藁葺きが腰に巻かれているだけだ。頭には青や黄色の羽根がつけられていて、長髪を垂直に立てているかのような風貌になっている。

 ファラオはそのとき、名前を失っていた。ただのМになっていた。アルファベット順に、部屋には名前がつけられていて、そこに入った人間も、また同じアルファベットで呼ばれていた。自らファラオ・Мと呼んでいただけのことだ。かつての自分と、今現在置かれている客観的な状況とを合わせて、そう呼び続けていただけのことだ。

 ファラオ・Мは、壁に彫られた絵文字をずっと眺めていた。

 独房は遺跡の中にあるような気がした。ここは、かつて、文明の中心地であったに違いない。天高く聳え立った建造物の一つなのだ。宮殿の中にある、無数の部屋の中の一つであって、女性と寝食を共にしていた場所なのかもしれなかった。この絵文字は生活習慣の一部を表したものなのだろうか。日常的に儀式のようなものを遂行していたのだろうか。この建造物が立てられたときに、同時に書き記されたものなのだろうか。それとも時間が経つにつれ、ここで生活する人間が書き加えていったものなのだろうか。

 ファラオ・Мは目を閉じ、残った空気から、その気配を感じとろうとした。そのとき爆破音が、部屋の外側で鳴り響く。一発だけだった。洞窟がぐらついた。ガスに火が引火したときに起こるような、大爆発をしたような。ここは地下なのだろうか。それとも地上高い場所にあるのだろうか。空気の循環はいいのか。悪いのか。悪い空気が一箇所に溜まっていくことはないのか。

 すると、太鼓を打ち込む音が聞こえてくる。地響きのように。腹の粘膜が揺れた。擽られた。ドンドコドンドコ。そして、爆発音。一発では終わらなかった。悲鳴が聞こえてくる。非常事態を知らせる太鼓の音なのか。サイレンの代わりの。ドンドコドンドコ。しかし、リズミカルな躍動感は、サイレンとはまるで違う。危険が迫ってきたことを知らせる緊迫感はあった。悲鳴は確かに聞こえてくる。女の高い声から、怒号のような男の声。男女の声が交じり合ったところには、性的な匂いさえする。

 ファラオ・Мは、右足首の鎖を断ち切ろうとする。太鼓は鳴り続け、爆発音がときおりする。何度目の爆発だったのだろう。足首の鎖が真っ二つに割れ、ファラオ・Мの中に、力の源泉のようなものが沸き出てくるのが感じられる。鉄の扉も、破壊できるのではないか。一撃で、この独房から外に出られるのではないか。エネルギーは漲った。だが、広い洞窟のような部屋の真ん中からは、どれだけ扉を探しても、壁際に近づいていこうとしても、空間の淵にたどり着くことはできない。

 もう、そのときには、到底ここが、部屋であるとは呼べないことに気がついていた。自分が動くにつれ、そこにあるべき輪郭は、柔らかな曲線を描き、クラゲのように膨張したり伸縮したりを繰り返しているのかもしれない。永遠にファラオ・Мを中心点に置く、「ゲーム」をしているかのようだった。あざ笑うクラゲ。ファラオ・Мは、自分が今いる位置が不可解だった。それまでは位置が時間を現しているなどと、考えたことはなかった。そうなのだ。位置とは時間の言い換えなのだ。位置が時間性を現している。時間とは位置のことなのだろう。今、時間がよくわからなくなっているとしたら、それは位置に問題があるのだ。時間は前から後ろに、直線的に流れているわけではなかった。円形の中心にいるように感じられるのだから、当然、時間も円を描いていた。ファラオ・Мの周りを、奇妙な円を描いて動いている。それがどれほどの距離があって、どれほどの規模なのかも、わからなかった。だが、ピラミッドの中心にいるような気がしたのだ。

 ピラミッド?

 どうして、ピラミッドが現れたのだ?

 彼の頭の中に、黒い正三角形が浮かび上がってきた。少し見る位置をずらすと、それは三角柱だった。立体としてのピラミットがある。なぜピラミッドが・・・。そう考えるまでもなく、彼はピラミッドに近づき、内部に入ろうとしていた。しかしそれは写真で見たことのあるピラミッドとは大きく異なっている。なぜなら、それは遺跡であり、本来の機能をやめてしまった抜け殻に過ぎなかったからだ。当時の姿ではなかった。エネルギーの結集した姿ではなかった。それでも、今、彼の頭の中に浮かんだ、黒いピラミッドのほうは、さらに現実離れをしていた。青白い背景。それは、月の光が反射した世界なのだろうか。

 ファラオ・Мは、いつのまにか、入り口付近にいる。コンピュータで制御されたような、近未来の建造物を目の前に、さらに現実感は薄れていく。いや、それは、建造物にさえ、見えない。骨組みをしっかりと肉付けをしていった建造物には、とても見えなかった。ふと、何かの気まぐれが一瞬にして、物質を変化させ、ここに、この場所に、その全体像を、出現させたような気がした。背景がないのだ。背景が青白い光だけなのだ。地上なのかどうかも疑わしい。ファラオが、入り口だと思っていたその場所にも、当然、扉があるわけではない。ただの黒い壁(壁とはとてもいえないくらい物質感がない)そして、まるですっと体が入っていってしまうような浮遊感のある幻想の建物を前にして、ファラオ・Mは、深い呼吸をし始める。

 鎖はもうどこにもない。太鼓の音が微かに耳に残っている。横隔膜を揺さぶる振動も、残っている。悲鳴が聞こえてくる。わずかに聞こえてくる。洞窟の迷路の中に、突如、やってきた侵入者。それに抵抗する住人。追いつめられ、行き止まりの廊下で、最後の悲鳴をこの世に残す。ファラオの耳には届いている。爆発音は、進入のためのデモンストレーションで鳴らせたものなのか。それとも、物理的に扉を破壊し、進入したのだろうか。

 ファラオ・Мの体は、すでに黒いピラミッドと同化していた。すると背景は、いっそう白く輝き、光の中に吸い込まれていく。

 あまりの眩しさに眼を覆ってしまった。そこは、とても純度の高いエネルギーに満ち溢れていた。それを内部に保持しておくために、黒い外観にしたのだろう。それとも、自然と黒く見えてしまっているのだろうか。体の感覚はなくなっていく。

 何かに接触している感じもない。ただ足だけが、特に右足だけが、重い。そして、階段のようなものを踏みしめているのがわかる。それは、一段一段、あまり段差のない階段が、続いていた。ファラオ・Мはすでに登り始めていた。いつ段差が現れたのかにも気づかず、いつ登り始めたのかもわからず、それは、もう、ずっと長い間、続けていた行為なのかもしれないと錯覚するほどに、麻痺をしていた。

 太鼓の響きが残った横隔膜が、また震えているのがわかる。体毛が逆立ち始めているのがわかる。髪の毛は、しだいに重力が感じられなくなっていく。ふわりと浮き上がり、そのまま天に向かって高く舞い上がっていきそうだ。しかし、それとは逆に、足は重くなっていく。階段と同化していくように。ただ、その階段だけが、土でできた遺跡の中に現れたもののような気がした。登っているのに、それは下っているように感じられた。次の一歩は、確かに高くなっているにもかかわらず、体の感触は、一段下がっているように感じられた。肉体の分離の感覚は、次第にひどくなっていく。だが不快感はまるでない。お腹を中心に、引き裂かれていく肉体は、決して分解されることはない。奇妙な一体感さえあった。

 段差はいつのまにかなくなっていた。水平に移動している。息苦しくなってくる。酸素が明らかに薄い。天井からの圧力を感じる。空気が重い。背筋が曲がってしまう。背中は伸ばすと、そんな言葉が浮かぶ。左右からの圧迫も感じる。だが、上からの力が一番強い。それを足首で支え、足全体の筋肉を目覚めさせるかのごとく、意識する。

 一歩一歩前に進んでいく。体は意外にも軽い。圧迫を受けていながらも、移動は自然だった。真っ白な世界に、黒い輪郭をかたどった人間のシルエットが、目に浮かぶ。自分の姿だ。他人事のように思えてきた。どこに辿り着くのだろう。そこで体は何を感じとるのだろう。意識は遠のいてしまうのだろうか。そこには情景があるのだろうか。いつのまにか太鼓の音は聞こえない。悲鳴も聞こえてこない。悲鳴にも似た鳴き声も聞こえない。何かモーターのような振動音だけが聞こえる。さっきはそんな音などしなかった。

 一体いつから・・・。時間は消滅してしまっている。旋回する電子は、いまや知覚できないほどに高速になっている。体は軽くなる。空気圧は強くなる。またもや、相反する力が同時に働き、体が引き裂かれていく。分解されていく。心地悪いことは何もない。意識も明確になっている。壁に薄っすらと、絵のような模様のようなものが浮かび上がってくる。壁画だろうか。しかしそれは、ホワイトボードに焦点の合っていないスライド写真を、当てたときのようであった。薄ぼんやりと浮かび上がってきただけだった。静かな振動音はプロジェクターのモーター音だったのだろうか。画像を映すエネルギーを発電していたモーターだったのだろうか。

「ここに来るまでのあいだ、誰にも跡をつけられなかっただろうね」

 男の声がした。


 土の中から聞こえてきたようだった。咄嗟にそう思った。曇っている。籠もっている。苦しそうだ。でも違和感はない。土?土なんてどこにあるんだ?奇妙だ。何故、土などという自然の匂いのするものを、ここで、この場所で、感じたのだろう?

「誰にも付けられなかっただろうな」

 男の声は明瞭になることはなかった。「痕跡は残してはいけない。ちょろちょろと動いて、誰かと接し、何か仕事のようなことをして、痕跡を残してはいけない。君が世界に存在していたことを、知らしめてはいけないんだ」

 男の言動は不可解だった。

「つまらないものを振りまいて、いい気になるんじゃない!つまらないものを乱発したって、いいことは何もない!痕跡はできるだけ消せ。生き延びるために、最低限、必要なことだけ。そう、生存するための最低条件だけを、飲み込め!それだけが痕跡だ。あとで誰かが情報を探したときにも、それでは何も掴めまい。そんなことでは、何も特異な情報にはならない。痕跡は消せ。いいな。思い当たることは何でも言ってくれ。今からでも遅くはない。その残り滓のようなものは、私があっという間に放棄してやる。だから正直に言え。いや、言わなくてもいい。心の中に思えば、それで私には十分に伝わる。強く念ずる必要もない。時間を一瞬だけ、止めろ。それさえできれば、わたしにだけ、全情報が伝わる。そして、焼却のための手配は済む。理由は聞くな。君はこれから、顔を切除する儀式を執り行なう。

 イニシエーションなんていう、たいしたものじゃない。

 儀式は、あらゆる日常性の集積だと言っていた、学者がいたな。いや、いなかったか。

 今、ここで、突然に始めてみたって、無駄な話だ。ゼロ人称というのは、知っているかね?物語をゼロ人称で書く。それが私の最初の夢だ。いや、最後の夢か。わからない。その主人公に君を選んだわたしは、賢明な判断をしたのかな。どうなのかな。歴史は、時間は、証明してくれるのだろうか。ゼロ人称。君は一人称でも二人称でも三人称でもない、創造物だ。神はゼロ人称を認めてくださった。自己判断だ。わたしがそう決めたんだ。君の顔を消す。新しい顔をつける。そんな話をどこかで聞いたことはなかったかね。そんな言葉を。誰が創造した?わたしではないね。言葉にする。それを書き留めておく。

 実に恐ろしいことだ。それは、現実化へのシナリオを、書ききってしまったということなのだから。注意深くなった方がいい。迂闊にリアルな世界に放りこんでみろ。言葉が人を操るようになる。でも、躊躇はよくない。明確に浮かんできたのなら、それは放出するべきだ。さもないと、今度は、浮かばれない言葉たちのほうが、君に殺意を抱く。抱いた殺意は、もちろん実行されることはなく、蓄積していく。銀行に預けた預金のようにね。わずかな利息が乗っかっていく。金利が低く抑えられているときはいい。でも、外の世界では何が起こるのかわからない。

 ゼロ人称の話だって、元を辿ればたいしたことじゃない。主人公に名前がないだけのことだ。空白にすることもできない。ただ、目に見える世界と、考察と、行動が、続いていくだけだ。一人称の世界と何も変わりやしない。ただ、より無愛想にはなる。異物が入り込みやすくはなる。壁がないんだ。自我という名の壁が。危ないね。でも、それはいつか、多数の人間をつくりだす元にもなる。元素だよ。原子か。今は粒子ってことになるのかな。種になる。いずれ育てば、それは人間の形をとってくる。思考し始める。人間の初期は、いや、いつだって、見ることから始まる。見て、真似て、考えて、行動をとる。それは決して一人ではない。大勢に増える。脱皮するんだな。だから心配することはない。それは勝手に育ち、暴れだすのだから。見ていればいいさ。どうせ君は、ゼロ人称なのだから。ウハハハ。

 ゼロ人称の君に手出しはできないんだ。君には危害だって加えない。安心したまえ。顔がなくなるっていっても、首をちょんぎったり、硫酸をかけて、ぐちゃぐちゃにしようって、そういうわけじゃないんだ。ただ、お面を被せてしまうだけの話だ。こっちの都合のいいお面をね。人間離れした個性的な顔をね。ちょっとした遊び心だ。

 遊び心のない行為なんて、無意味の境地じゃないか。遊ばなきゃ。肝心なことだけを、揺るぎなくやりきるために。ほんのダミーなのだから。ダミーは楽しくないと。強張った顔じゃ、笑えないよ。誰が。私がだよ。さっきから君は壁の絵を見ているね。まだ焦点が合ってないだろう。でも君はそこから声を感じとっていると思っている。赤ちゃんのようだよ。その眼は真剣そのものだ。感じ取ろうとしているね。脳はおおいに発達する。素晴らしい!知的能力の高いゼロ人格だ。シュペール!素晴らしいよ!キーワードは私が生み出したものじゃない。

 最後にこれだけは言っておく。君は迂闊に何かを発想してはいけない。でも私は無軌道なものが大好きだ。そうだろ?論理的展開なんて、大嫌いだ。何の発見がある?発見のない方程式は、それは墓場へと通じる獣道だよ。ウハハハ。難しい選択を迫ることはない。君は進んでいけばいいのだから。皮膚の色が少し変わるかもしれないけど、それは了解してほしい。それも、ちょっとしたシャレとして受け止めてほしい。何も私が笑うために、そんなことをするわけじゃないのだから。ただ、そうなってしまう事実があるだけなのだ。それは本当にすまないと思っているんだから。起こったことは受け止めてほしい。受け流そうとしたって、それはどこまでも、属性であり続ける。今までなかったからといって、これからもないとは限らない。それは、手にした瞬間、君のものになってしまう。影響を及ぼしてしまうのだ」


 ずいぶんと長い演説だった。


 壁はいつのまにか茶褐色に変色している。土壁が出現していたのだ。絵が羅列されている。展開は絵巻物のように、廊下のかなり先にまで続いている。どれ一つとして同じ絵はない。まだはっきりと焦点は合っていない。細かいことは何もわからない。ただ、人間の側には、蛇のような曲線を描いた生物がいて、他にも人間なのか怪物なのかわからない二足歩行か四足歩行かもわからない生物が蠢きあっている。語り手は絵の中の人物だったのだろうか。それとも、絵を描いた人物だったのだろうか。

《君を、ゼロ人称の主人公に選出しようと思う》言葉は蘇る。何度でも耳元で再生される。再生されれば、体内に吸収される。胎盤に付着する。いつかは女として、再生するかもしれない。そのときには、顔にお面をした子供を出産し・・・。くだらない。ファラオ・Мは自分の名を、脳に執拗に刻みこもうとしたが、もう時は遅かった。

 すでに、呪文は脳細胞から始まり、全身に血流となって運ばれていた。ファラオ・Мは、自分の顔が次第に溶け始めているような気がしてきた。

《痕跡は、できるかぎり残してはいけない。君だと確定できるようなことは、何一つ残してはいけない。これから残すことが、すべてなのだから。余計な情報を乱発してしまって、いいことなど、何一つない!何かの続きのような人生に、真実味を見出すことは、危険なことなんだ》

 ゼロ人格。

 それが、最後に唯一残った言葉だった。



 流れの緩やかな河が、暗闇の中で続いている。緑色に濁った水の源流を辿っていくと、そこには、横たわるファラオ・Мの姿がある。顔には緑色のお面。鼻は高く、口は左右に広がっていて、眼は大きく見開き、天井を睨んでいる。その口元から流れ出た、緑色の液体。口からだけではない。わき腹あたりからも止め処なく流れ出ている。穏やかな河の流れとは対照的に、体内から溢れだす源流は、その勢いを弱めることを知らない。苦悶の表情にも見えれば、微笑んでいるようにも見える。穏やかな流れにも見えれば、ときおり、急激に波立つ時もある。蛇の先端が、水面から顔を出すときがある。真っ黒な体に、赤い眼が二つ。牙を出し、周囲を威嚇する。ファラオ・Мの中から這い出してきたものなのか。それとも、ファラオ・Мの体からは、液体しか出ていないにもかかわらず、河には最初から蛇が生息していたのだろうか。何らかの化学変化が起こり、河の底で生まれ出てしまったものなのか。



 ファラオ・Мは自分が独房のような場所から一歩も出ていないことを知る。ピラミッド。階段。前進。強烈な空気の圧迫感。一体なんだったのか。しかし体は正直だった。細胞は覚えているのだ。鎖は再び嵌められている。部屋の扉は見つからない。淵に辿りつくこともできない。言葉は耳に寄り添う。静寂が包み込む。あまりの静けさに、自ら堰をしてみる。響く渡る音は部屋の広さを推し量るには十分だ。ここはどこなのだろう。ピラミッドの中心地なのだろうか。《痕跡は残してはいけない》あれは何だったのだろう。土の中から囁きかけた男の声。苦悶の声。何かが近づいているのはわかる。もうすでに、この巨大な空間は、誰かに囲まれているのだ。悲鳴は鳴り止み、あとはこの自分だけが取り残されている。部屋が無数にある宮殿の中において、ここはまだ使われていない、まだ部屋として成り立っていない、空き空間なのだ。そこを仮の独房として使用している。ファラオ、ファラオ、ファラオ。悲鳴。殺戮。深夜の奇襲。記憶は蘇ってくる。敵の現れ。無防備な貴族たち。

「王。大変なことになりました。あなたは奥に逃げてください。出入り口はすべて包囲されました。そこから大量の人間が侵入していきました。鉈を振るもの。尖ったナイフを

突きさしにかかるもの。大変なことになりました」

 召使いの一人に促され、王は素早く移動した。抜け道があった。「とりあえず、ここにいてください」

 召使いは王の足に鎖を嵌めた。

「どういうことだ」

「理由は聞かないで下さい」

「買収されたな」

「聞かないで下さい」

「裏切りもの」

「仕方がないんです」

「何故」

「命は惜しいですから」

「売ったんだな。情報を流したんだな。寝返ったな」

「あなたの命だけは助けたい」召使いは言った。「ここにいてください。もし見つかっても、捕らわれたフリをしているんです。王に対する敬意はみなお持ちです。惨殺するようなことは、ありません。あなた自らに、死の権限を持たせることでしょう。あなた自らが、命を絶つことになるでしょう」

 ファラオ・Мの記憶はだんだんと定かになってきた。どこかで聞いたことのある話だった。古代文明。かつて千年にも渡り、繁栄を誇った文明は、あるときを境に、忽然と姿を消してしまった。崩壊はあっという間で、五十年もかからなかった。熱帯雨林の中に、五十もの都市国家が屹立するマヤ文明。交易のルートで、最も重要な位置に存在したクァンケン。最大の繁栄をもたらしたその直後、王一族は何者かに惨殺され、大量の住民がその都市を放棄し始めた。別の都市国家に流れていった人々を受け入れる都市もまた、人口の飽和によって機能が麻痺してしまい、あっという間に崩壊してしまった。ドミノ倒しは留まることを知らなかった。クァンケンの滅亡をきっかけに、マヤ文明は世界から、消えゆく運命にあった。マヤ?マヤだって?ファラオはその偶然の一致に驚きを隠せなかった。マヤという一人の男を知っていた。国家でもなければ文明でもない、その一個人の男と、ある時期、行動を共にしていた。マヤ文明が崩壊した、そのきっかけとなった場所、「クァンケン」で・・・。自分が最後の王だった記憶がある。・・・本当にそうなのか?いや、記憶じゃない。今、自分はその状況にある。遠い過去の話じゃない。俺は殺されるのだろうか。もう敵は、宮殿内のすべての人間を殺し終え、最後の生贄を探して、徘徊しているのだろうか。だからこんなにも静けさの中・・・。様子を窺っている。もう逃げ道など、どこにもない。自殺するのなら今しかない。

「死ぬべきときに死ねなかった人間は辛い」

「刺し違えたんだよ、君は」

「問題があるとしたら、それは位置なんだよ」クァンケンのことを言っているのだろうか。最大の栄華を誇ったときの王が自分であるとして、崩壊消滅してしまったときの王もまた、自分であるという。その後は?自害して、すべてを無に戻したのだろうか。さっきのピラミッドは一体・・・。エジプト?エジプトがどうして関係あるのだ?交易があったのだろうか。交信でもしていたのだろうか。どうやって?建造物同士で、波動を行き来させることができたのだろうか。王同士の。同士?マヤと俺か?王同士。死期が迫っている。あのピラミッドの内部での体験は、自分が王になるために行われた儀式だったのか。

 意識は混乱を極め、静寂はよりいっそう濃くなってきている。ここで、マヤのことを思い出すとは思わなかった。死に接近するときは、いつだってそうだった。あの男のいない世界になど、いたことがない。殺したというのも勘違いだったのだろうか。位置が変わっただけの話ではないのか。時間に剣を突き刺し、自分の存在する位置を変えた。何も変わってはいない。それはそこに存在し続けている。今もどこかで、あの男たちと行動を共にしている自分がいるのではないのか。文明間の距離を超えて。

「最後は、王自らが生贄となって、天への捧げ者になってください」

 召使いが戻ってきた。召使いは殺されなかったのだ。

「どういう状況なのだ」

「あなたの想像する通りです」

「混線している」

「その通りです」

「女はどこにいった?」

「一人残らず、殺されました」

「そうか」

「跡継ぎはいなくなりましたね」

「元々、子供に執着はなかった。最初の子が生まれるまでは」

「そのあとは?」

「止め処なく、数が欲しかった」

「数、なんですね」

「あらゆる場所に存在させたかった。タイプの違う様々な子供を」

「極端ですね」

「ゼロか無数かだ」

 太鼓の音は何だったのだ?

「太鼓ですか」

「そう」

「そんな音はありませんでしたよ」

「振動していただろう。横隔膜は絶えず震えていた」

「気のせいですね」

「爆発音は」

「それもありません。あまりに無防備だった宮殿に、野蛮な男たちが入り込み、刃物を振り回して、即死させていっただけです」

「悲鳴は?」

「多少はあったのかもしれません」

 すべてがズレていると、ファラオ・Мは呟いた。

「王。わたしは来月、結婚するんです」

「結婚?」

「はい」

「一体どこで」

「それはわかりません」

「どうしてだ」

「子孫を残したいから」

「残したって、僕のように皆殺しにされる」

「僕だって、あなたの子ですよ」

「そんな馬鹿な」

「自覚なさってないだけで」

「そんな・・・」

 そのとき悟った。この男がすべての元凶なのだ。この男が国を乗っ取ろうとしているのだ。死を強要し、あるいは今までとは何食わぬ顔で、王の座に君臨するのかもしれない。王族をそっくりと入れ替えて。王の血を引く唯一の人間として。

「無数に残すなんて危険なことですよ。欲望はいつか殺意に変わるのですから。人形を作っているわけではないのですから。そして、作り手はいつか、作られたものによって殺される運命なんです。自ら作ったものに逆に消される。その覚悟で創造的な行為に及ぶわけでしょ。何も考えてなかったなんて、そんなことは絶対に言わせません。言葉にした瞬間、頭をかち割るだけです」

 どうして自分がМの部屋に入れられ、Мと呼ばれる囚人であるなどと思ったのだろう。召使いが現れ、何にもない茫漠とした部屋に入れられた。すでに虐殺は終わり、あとは王だという自分だけが生き残っている。死の権利は決して奪わないと言われた。

 国家を転覆させる陰謀は至る所にあったのだろう。だがファラオ・Мは、自分が王であったときの記憶が、まるでないことをどう受け止めたらよいのかわからなかった。記憶はむしろ、音楽活動を始めた自分にばかりに焦点が合ってしまう。ファラオというのは、仮の名前だった。本名を使い、日常のありふれた服を着て、耳障りのよい音を奏でる、そんな表現者にはなりたくなかった。むしろリアリティは心の中にあった。心の声を聞き取るためには、日常性を超えなければならなかった。超えるためには、目に見えない力を発動させる必要があり、名前を変え、ぶつかり合える人間を探し求めた。葛藤の深遠の奥にある真実を引っ張り出してくるために。それは一人ではできない作業だった。心が、魂が、真正面からぶつかり合うことなしには、実体を持つことはない。

「もうすぐ、兎の王国に、変わってしまうんですよ」と召使いは言った。

「暴力のない穏やかな国に生まれ変わるんです。欲望も、野心もない、生きることに喜びを感じるだけの国に。最初の結婚式が始まりますから。あなたにも参加してもらおうと、思っているんです。新郎の兎、新婦の兎、両親の兎、友達の兎。・・・兎だけの式場です。冷房はかなり強く効かせています。最初からウサギになんてなれませんからね。着ぐるみを着てもらいます。参加者全員。何世代も何世代も経て、ようやく、ウサギ化していくわけですからね。あなたはウサギの王様です。いいでしょう。初代、王様!名誉職ですね」

 ファラオ・Мはこんなオカルトな結婚式になど、出たくはなかった。

 今だ混線し続けている意識をどう解きほぐしていったらいいか。ウサギの王国だって?いよいよ症状も末期に近づいてしまったな・・・。孤独の境地とはこのことだ。それまでは、人と会う事はほとんどなくなっていたとしても、自分にはある時期、濃い付き合いをした数人の人間が存在していた。

 だが、その彼らもあるときを境に、存在することをやめてしまった。

 残った自分の意識は、そこで、さらに落ちていくのがわかった。事実なんて耳にしなくとも、この細胞の何かが、確実に欠落していくのがわかるのだ。どうして、こうもはっきりと、自覚できるのだろう。マヤ文明の記憶だって、実際に自分のものではないに違いない。マヤという言葉が独り歩きをしていき、過去の文明を検索してしまったに違いない。召使いだって何かの間違いなのだ。召使い自体には、何の意志もないのだ。

 落ちていく意識が勝手に作り出した偽者の産物なのだ。罠なのだ。



 ヨウセイと亜子の結婚式に、テルユキとリョウコは招待されていた。そうなのだ。彼らは結婚を決めたのだった。ヨウセイは他の女との関係をすべて清算し、亜子のほうも近づいてくる男たちをすべて断り、ヨウセイ一人だけを見つめ続けることに決めた。二人は家を購入し、別居ではあるものの、物理的にはかなり近い場所で、寝泊りすることになった。玄関は同じだったが、中は階段のところで、二つの空間に分かれていた。上をヨウセイが使い、下を亜子が使う。キッチンも二つあり、寝室も二つある。リビングも二つあり、バスルームも二つある。亜子の希望だった。ヨウセイもそれで納得した。テルユキとリョウコは、式の最中もずっと、そのことを話していた。

「そういう家なんですって」

 リョウコはいまだ招待されていない家に対する興味を募らせた。

「考えられないね」とテルユキは言った。

「やっぱり。そうよね。そう思うわよね」

「何を考えているんだろうな」

「行き来するんだって」とリョウコは言った。

「うちらでは考えられない」

「最初は、私も別々がいいなとはと思ったわよ」

「そうだろうな。君はもともと僕のことが大嫌いだったんだから。別の部屋というよりは、付き合うことだってなかったんだから。避けていたじゃないか」

 テルユキはリョウコをからかった。

「あなただって、私のことが嫌いだったでしょ」

「嫌いではなかった。近寄り難かったんだよ。浮世離れしているっていうか。何を考えているのかわからなかったし。ずいぶんと知的レベルも高そうで、僕のことを見下しているのかと思った」

「逆よ」とリョウコは言った。「あなたの得体の知れない風貌と発想に少し困惑していただけで。でも中身を知っていけば、それほど変わった人ってわけではなかったから。わりと人間としてはまともなんだなって」

「だいぶ見た目で判断されていたわけだ」

「毎回、印象が違っていたんだから」

 確かに当時はいろんな人間を演じわけていたような気はする。今日の結婚式は自分にとっても、重要な過渡期としてテルユキは考えてきた。ここにすべてを合わせてきた。今までの女性との接し方をすべて処分して、これからはリョウコとのことだけを考えよう。まだ結婚には至っていないが、同棲生活はさらに二人を近づけていくはずだ。二人で新しい未来をつくっていく。

 顔はただその一つだけがあればいい。あれこれ変える必要なんて、どこにもない。いつだって同じ顔を、同じ女に見せ続ければいい。恐怖心から、一つの定点を悟られまいとして、移動し続けていく必要など、もうどこにもない。恐怖心から生まれ出る行動は、劇的に軽減されていく。そのために、この女といるのだ。

 リョウコもまた、今日の式を境に新しい顔を獲得する。二人はきっと、同じ気持ちに違いなかった。テルユキはリョウコの眼を覗き込んだ。その瞳に映った人影は、かつての異様な威圧感からはほど遠い、穏やかな青年の姿をとっていた。自分の中の変わらない何かが、この女によって引き出されているんじゃないかと、テルユキはそこに新たな恐怖を感じないわけにはいかなかった。



「ここが、本当に革命の拠点になるのでしょうか」

「心配するんじゃない。時が来るまで黙ってろ!」

「僕ね、人よりも、体温が一度以上も高いんですよ」

「何がいいたい」

「そっちの部屋に移ってもいいですかね。一階の方に。邪魔しませんから。ただ寝るあいだだけ、布団をひかせてもらって」

「眠れないのか」

「あまりに暑くて」

 二階にクーラーはなかった。一階にだけ、取り付けられていた。内部で階を行き来することのできるマンションだった。Rは言う。「異常に暑がりみたいなんです。病的なほどに。交換してほしいなんて、言わないですから。部屋の隅に、こそっと入れてもらえれば、それでいいですから」

 だがVは、Rの訴えに答えることなく、別の話をここぞとばかりに始めてしまう。

「革命を英語に直すとレボリューション。レボリュートは、熟考するとか、回転するとか、そういう意味だ」

「ええ。そうですね」

「つまりは、回転を起こさなければ、話は何も始まらない。考えるという行為から、すべては始まる。考えを深める場所が、大事なんだね。そして、回転数を上げていく。革命はそのあとに起こる。どこかを爆破して、体制を外側から変えていくのが、はたして革命なのだろうか。ポイントはもっと、内側にあるわけでしょう。まずは、この脳。頭の中で世界は始まる。けれど、頭の中で世界は終わらない。それは現実に行動をとることで完結する。結果は伴う。前進するという意味は、何なのか。行動をとるということはどういうことなのか。考えるとは。

 僕は最近、そのことばかりを考えているよ。思考は代償を伴うのだろうか。代償のない思考などあるのだろうか。考えたことは、いつか、現実の取り分を侵食していくことになるのだろうか。自ら動くべきなのか。動き続けるべきなのか。必要なものは外側からもたらされるものなのか。僕自身が派手に事を起こすことで、その幕開けとなるのか。それともきっかけは、外に見える形で存在するのか。

 僕は君のことが少しうらやましいんだよ。夜、暑くて寝れないだって?それが解決されたら、君の心は軽くなるのかい?それなら一階に来なさいよ。そんなことでいいのなら、いくらだって場所を提供してあげるよ。僕が一緒だと、気が休まらないだろう。僕は二階に行くから心配しないでくれ。暑さなんて何てことないよ。皮膚だって鈍感なんだ。温度変化に影響をうけることなんて、ほとんどないのだから。変温動物の名残なのかもしれないね。爬虫類の皮膚感覚。

 そうだ。未来の話をしようか。僕ね、そうそう。君は、十年後の責任について考えたことはあるかい?十年後の責任。あるときふと、思ったんだよ。十年後の責任について。それを、今、僕はとることができるぞってね。何の話だっけ?そういえば、十年後と言えばね。緑の皮膚をした人間が、街でよく見かけることになるんだから。男性のなかにも、女性のなかにもいる。

 彼らの皮膚はね、特に顔なんだけど、緑色に変わってしまっている。それは、徐々に内部で進行して、ある日、突然、目に見える形で出現する。彼らの内部の肉が、すべて変色する。酸素を取り込む必要があまりなくなる体になるからだ。性別も、もしかしたら怪しい感じになる。境界線があやふやになる。その一瞬だけ、性別を越えて存在するというか。それでも、できることはだいぶ違う。出産にしても、共同体における役割においても。闘う生き物なのか。生物全体を温かく包み込む、生き物なのか。本質においてね。しかし、表面的には差は、ほとんどなくなってくる。差はむしろ、赤い血を流す人間なのか、緑色の血を流す人間なのかってことだ。輸血の体制を大きく変化させなければならない。血液型占いなんていう馬鹿げた本は、意味がなくなる」

 そういえば、とVは思う。

 Rは旗のようなものを持ってきていたが、それは濃い緑色をしていた。

「どれも、おんなじ話だ」Vは淡淡と話を続ける。「僕の皮膚は次第に哺乳類の域を超え始めている。だが、気候の方が、まだそれほど変動はしてはいない。だから勇み足なんだろう。時期としては、ずいぶんと早いのかもしれない。早すぎる変化は、時の犠牲になる。それは仕方のないことだ。君がうらやましいんだよ。そんな君を相手にしているから、僕はずいぶんと、おしゃべりになってしまうんだろうね。いつか、君が完全に理解できるといいなと願っているんだよ。それが今なら、もっとうれしいんだ。君と会話が成立するということが、何よりもうれしいんだよ。とにかく、部屋は交換するってことでいいよ!君は、一階を自由に使ったらいい。冷房も好きにかけていい。それじゃあね」

 Vの話は突然断ち切れ、彼が二階に昇っていったことにも気づかないくらいに、Rは呆然と立ち尽くしていた。



 結婚式で友人代表がスピーチを終えたそのときだった。一人の女が突如立ち上がった。

「覚えていますか」

 会場はシーンとなってしまった。

「私ですよ。あなたのおもちゃです。結婚おめでとう。どうして招待してくれなかったのですか。あなたと連絡を取らなくなってから、突然、あなたが結婚することを知りました。私と別れた直後に決めてしまったのですね。もちろん私も付き合っている人がいたし、あなたとは、ただの遊びだったわけだけど。お互い元の生活に戻って、それで幸せになったらいいって、本当にそう思ってはいたけれど。でも新しい命ができたっていうのなら、話は別よ!」

 会場がざわつき始めた。司会者が慌ててマイクを取る。スタッフに目配せして、彼女を退場させるよう指示を出す。しかし、スタッフは動こうとしない。そのままなすがままにさせてしまえと言わんばかりに。司会者は慌てて立ち上がった女のもとに走っていく。

 ヨウセイも立ち上がった。

「赤ちゃんはあなたの子です。時期を考えても確実に。あなたは子供が嫌いでしたよね。結婚しない理由が子供を持ちたくなかったから、でしたよね。私もそうだった。でもそんなあなたがどうして、結婚を決めてしまったのでしょう。子供に対する恐怖感が薄れていったんですか?持ってもいいと思い始めたのですかね。そうでしょう。いや、きっとそうなのでしょう。だから、できちゃったのよ!私に心を許し始めたのよ!私となら子供を作ってもいい。でも状況は別れる方向にいってしまった。だからあなたはその子供に対する心境の変化を、付き合っている彼女で試した。あなたは子供を作りたいとまで、願うようになった。以前は言っていましたよね。人間が人間の中に宿るなんて気持ちが悪い。考えられない。恐怖だ。人間が人間の中に宿る。異常なことだ。得体の知れない異次元の世界だ。どうして、人は人を増やそうとするのか?もう十分にいるじゃないか。僕の中にも、側にも、もういすぎるくらい、居るじゃないか。私の子供。いえ、私とあなたの子供。それは一万グラムの獣のような・・・、やはり、まともではなかったの・・・。だいたい、受胎していた期間も、一ヶ月しかなかった。体毛で覆われ、とても人目に晒すことのできるものじゃなかった。そんな人間を可愛がることなんてできますか?私は保健所に持っていきました。もちろん動物として。ペットとして。相手は快く引き取ってくれました。私だってあれが人間だなんて、これっぽっちも思わないんですから。それよりも、私のこの肉体の中に、あんな化け物がいたこと。体の管を通って、それを産み落としてしまったこと。どう洗浄したらいいの?それを、今日、あなたに訊きにきたんです。いえ、あなたの妻になる人に、特に訊いてみたい!亜子さんでしたっけ?どう思いますか?私の話していること。信じられませんか?頭のおかしくなった娘として、それで処理するつもりですか?」

 司会者は、そのまま式場から退場してしまっていた。これ以上関わりあいたくなかったのだろう。スタッフも同じだった。参列者の中にも、そわそわと、今にも尻を上げそうな人が、ちらほらと出始めていた。式は台無しになった。進行は途切れ、一人の新しい登場人物によって、流れが一転されてしまった。

 亜子は目の前にあったマイクのスイッチを入れる。

「お帰りください」と一言だけ呟く。

「帰りますよ」と女も言う。

「わかっていたんです」

 しかし、亜子は続けた。

「そんな気がしていたんです」

 女は戸惑った。まさかそんな答えが返ってくるとは想像もしてなかったのだ。

「わたしも誰かと話がしたかった」と亜子は言った。

 立ちかけた参列者は、再び座席に腰をおとした。茶番では終わらない、何か重要な出来事が起こることを、予感したのかもしれない。

「わたしも、誰かと話がしたかったんです。ずっと孤独でした」

 亜子はヨウセイをまったく見ることなく、女に向かって話し始めた。

「あなたとなら、話せそうです」

 女はその意外な答えに、さらに困惑の色を濃くしていった。

「二人きりで話しませんか」

 女は言葉を失った。

 亜子はたたみかける。

「前から、あなたのような人が出てきてくれることを、祈っていたんです。ヨウセイに関わる誰かが、きっとわたしの前に現れてくるはずだと。ヨウセイを通して。だから彼が必要だった。結婚してまで側に繋ぎとめておく必要があったんです。彼のことは愛していません。彼の、そのような不思議な能力のほうに、興味があった。私の生命を握っている鍵のようなものに、繋げてくれる。あなただった。その最初の鍵は。あなたが持っていた。怪物の出産。とってもおもしろい話。もっと詳しく聞いてみたい」

 女は結婚式を台無しにするつもりで来た。ヨウセイと寄りを戻せるとは思えなかったが、別れてから好きになりはじめたのだ。一度目の別れのあとで、女は自らブーメランのごとくヨウセイの元に戻り、コンタクトを取った。

 二度目の別れのあとでは、さらに気持ちは悶々としていき、こうして結婚式にまで押しかけた。ヨウセイに対する想いは日に日に強くなり、ヨウセイが完全に別の人のものになることが決まると、さらに何としてもヨウセイの側にいたいと思うようになった。

 しかし、式に紛れ込むことはしても、決してこんなふうに立ち上がって演説するとは思わなかった。式の成り行きをしっかりと把握して、そのあと一人で彼の元を訪れる。そういうつもりだった。しかしまどろっこしい式に嫌気がさしてきて、感情は暴発してしまった。こんなパッケージ化されたような幼稚園児のお遊戯階のような催しをして、いったい何の意味がある?ヨウセイはどうなってしまったのだ?私の知ってるヨウセイじゃない!あのギラギラとした目。私を追ってくる野性的な目!拒めば拒むほどに執拗に追ってきたあの目!

 あなたの求めていたものは、私が求めていたものなのよ!私が求め始めたとき、あなたはいなくなった。あなたは、あなたでなくなってしまった。私は誰なの?あなたにとってのわたしとは、いったい誰なのよ??



 Vはかなり多くの言葉を残していたことを、Rは時間が経つにつれて思い出した。

「今も、かなりの数のVが増え続けている。僕だけじゃない。大量に増殖中だ。その一つのサンプルなんだ。Rの方?Rの方だって同じだ。Vの数だけ、Rがいるんだから。実体と影のような関係だ。各地に大量発生している。Vはみなおしゃべりだから。おそらく影なのだろう。影は本来無口なはずだけど、それが、どこかで逆転してしまったんだね。大量発生した大きな理由だ。地上の磁場がきっと変わったのだろう。Rは、Vがしゃべりだしたその瞬間に、存在し始めた。実体を持ち始めた。

 そして、薄れゆく意識の中、特殊な動物園の中にいる怪物が、世界に解き放たれた。

 一頭、また一頭と。特殊な動物園の存在を知るものはほとんどいない。怪物はすべてが違う形態だ。さまざまな動物の部分部分を付け合せたような気色悪い生物だ。一つとして、同じ形体はいない。夜寝ていると、暗闇から、突然、その奇妙な動物が現れる。ショックで金縛りに合う。人間の顔など、あっという間に捥ぎ取られてしまう。あっという間に、クビは胴体から分離してしまう。頭は剥がれ落ちる。むしゃむしゃむしゃむしゃ、あとは口の中でゆっくりと味わい、丁寧に消化作業に流れ込む。『あなたにとって、私とはいったい何なのですか』奇妙な生物は言葉がしゃべれた。口は動いているようには見えない。声帯はないのかもしれない。テレパシーのように、空気を振動させる技を、どこかで見につけたのかもしれない。『どうしてわたしを受胎させたのですか。感情は時に生物を誕生させてしまうのです。隔離していてもいつか、その正体は暴かれます。閉じ込めておこうとすればするほどに激しく』

 激しく、とVは力強く言った。

「宮殿を襲ったのは、王族を憎んでいた近しい人間では決してないし、利害関係のあった他の都市国家に雇われたバーバリアンなんかでもない。政治的な話でもなければ、個人的な憎しみの話でもない。それは、怪物が解き放たれたからです。ただ、その事実は、証拠を残さなかった。最も大事な証拠。それは彼らがすべて、食べ尽くしてしまったのです」

 Vがいなくなったとき、怪物は解き放たれたのだ。



 ファラオ・Мは繫がれた雁字搦めの鎖を眺めた。時間の感覚はなかった。感情は闇の底から湧き出てくるだけで、苛まれる恐怖を振り払う気力もなかった。自分が、今、崩壊していく文明の中に一人、取り残された最後の王であることを思い出す。都市に投げ込まれた得体の知れない怪物が住人を食べつくし、王の部屋のすぐ外にまで迫ってきている。反逆者などいなかった。

 しかし扉の向うには、枯葉の色をした「巨大なザリガニの頭をしたような生物」がいるのがわかる。先人をきってやって来たのだ。廊下を彷徨う気色の悪い生物たち。蠢く未来の住人たち。暗黒の都市の創造は、今はじまったのだ。煌びやかで圧倒的な光を供給する太陽が、決して昇ることを許されない、地底に沈んだ千年王国。次々と流入してくる生物によって、人間は放逐される。ファラオ・Мも飲み込まれた。

 きっと姿かたちなどなくなってしまうのだろう。死への恐怖が募ってくる。しかし、生殺しにされる可能性もあった。最後の王は決して、殺されることはなく、暗黒の世界の生贄として晒しものにされ、吊るされ、朽ちゆく姿は、丘の上に放置されるのかもしれない。毎日違った生物がやってきては、粘着性のある臭い液体をかけられる。顔を押し込まれ、捻られ、粉々に破壊することで、かつての煌びやかな高貴を、徹底的に蹂躙される。時代の趨勢に翻弄された最後のファラオは、その暗い閉ざされた帝国で、長いあいだ過ごすことになる。そう、汚物に塗れながら。











































第Ⅱ部   裏・フィアンセ




















 引き出物のアロマをいじりながら、テルユキはリョウコに話しかけた。

「あの結婚、どうなっちゃうんだろう」

「どうなるって?」

「うまくいくんだろうか」

「あんなことがあってってこと?」

「浮気の相手が、式に乗り込んできたんだぜ」

「でも、不思議よね」

「妙に仲良かったもんな。女同士、友達にでもなりそうな雰囲気だったし」

「もう、さっそく、お茶でもしているんじゃない?」

「これからも続くのかな。そんなわけはないよな。どう思う?リョウコ」

 テルユキはあえてこのリョウコという名前を強く呼んだ。

「さあ、どうかしらね」

「君だったらどうする?」

「私?そんなの聞くまでもないわ。無視よ、無視。相手にしないわ。そんなこと、絶対に認めない」

 テルユキはアロマの香油をいじりながら、リョウコのほうをちらりと見た。

「子供のこと、事実なのかな」

「あれは、作り話よね」

「女の勘?」

「子供を産んだ女には見えなかったわ」

「そうなんだ」

「わたしには、リアリティが感じられなかった。でもあの二人には、共通する何かがあったんじゃないの?何だか、三人の結婚式だったみたい・・・。途中で妙な茶番劇が挿入されたけど」

「後味はあまりよくないな」とテルユキは言った。「ヨウセイはどうなんだろう。何を考えているんだろう」

「連絡をとってみれば?」

「そうするよ」

「ほんと、何だったんだろっ」リョウコは深い溜息をついた。友達の亜子のことをなかなか理解することができなかった。これからは距離を置くことになるだろう。

 あの女が、亜子の側をうろつくことになるとしたら、なおさらだった。あの女と関わる気はさらさらなかった。リョウコはこのときも、また、親友の一人を失ったのかもしれないなと思った。こうして、どんどんと一人取り残され、新しい人間関係を構築していくことなしには、次第に孤独になっていくことを実感していた。

 テルユキもまた、どこでどんな関係を構築しているのか、わかったものではなかった。亜子の所のようにいつ女が目の前に現れるのかもわかったものではない。きっと私は、耐えることができない。女の頭蓋骨を殴り倒し、交わす言葉は罵倒の嵐だろう。テルユキとも、二度と顔を合わすことはない。話し合いなんてしない。問答無用で、決別するに違いない。たとえ何かの間違いであったとしても、単なる不手際であったとしても、そんなことは関係がない。不具合が起きてしまったという事実の方が、重要なのだ。怪物の子供だって?馬鹿馬鹿しい!なら連れて来てよ。ここに、目の前に。連れて来なさいよ。アロマの引き出物だって?笑わせるんじゃないわ。心に平穏をもたらす『グッズ』をよこすくらいなら、あんな茶番劇を未然に防ぐことのほうが、賢明なんじゃないの?アロマでお茶を濁そうなんて、そんなの無理よ。馬鹿にするんじゃないわよ。ねえ、テルユキ。テルユキったら。何をやってるのよ。なに、アロマなんて焚き始めてるのよ!わたしに喧嘩売ってるの?そんなの、さっさと捨ててしまいなさい。汚らわしい!わからない!あの人たちのことがわからない!あなたのこともわからない!一体何なのよ。わたしはどうしたらいいのよ。どこに行けば。誰とどこに行けば。もう何も信じられない。わたしは誰のことも信じられない。一人ぼっち。完全に一人にさせて。でも淋しい。淋しいから、あなたといるの?淋しくなければ一人で過ごせるの?亜子はどうなのよ。亜子はヨウセイがいないと生きていけないの?いや、そんなこと、絶対にない。あの子、男の人に対する愛情なんて、あまり見受けれられないもの。無関心というか、何というか。あれじゃ男はきつい。相手に関心を示すことが、極端にないんだから。それで、本当に付き合っているのかしら?相手がどんな人なのか。今現在、何を考えていて、これからどうしようとしているのか。根本。本質。彼は彼女はいったいどんな人なのか。それを知りたい。知りたいからもっと近づきたい。話がしたい。側で見ていたい。だから結婚する。それが自然なんじゃないの?そういう過程があの人たちにはまったく見えてこない。私ももちろんテルユキのことは何も知らない。でも少なくとも知りたいとは思っている。もっと深いレベルで。彼がいったい誰なのか。一生かかっても追求していきたいのなら、彼の側を離れることはない。できれば相手も同じような気持ちを持っていてもらいたい。他の女に転々としていって気を紛らわすだけの生活を送ってもらいたくはない。気晴らしぐらいなら、もちろん構わない。でも、本筋はずっと変わらないでいてもらいたい。十何年経ったあとに、「あなた、結局、わたしのどこを見てきたのよ」と怒鳴り声を上げたくはない。

 テルユキのアロマいじりは終わった。匂いも消えていた。すでに箱の中にしまっていた。この男は一体どこからやってきて、どこに行こうとしているのか。この人生の中に一体何をしにやってきたのか。私はそこでどんな役割を演じなければいけないのだろう。テルユキと深く関わりあうために私の人生の理由の一つはあるのだろうか。それとも、テルユキに関わる別の何かと深く関わるために、存在しているのだろうか。テルユキは一つの中継地点なのだろうか。

 このとき、リョウコは直観で感じた。なら、誰か別の男か女かが、参戦してくるのか。私は一人ぼっちにはならない。絶対になりたくない。意外だった。私は亜子に嫉妬していたのかもしれない。亜子の、危うい緊張関係のある新たな人生のスタートに、嫉妬していたのかもしれない。平穏で安定感のある二人の門出なら、素直に祝福していたのかもしれない。あのテンションだったからこそ、こんなにも血をのぼらせてしまったのかもしれない。二人で完結してしまう恐怖。一人が長すぎた恐怖。洗練されていく世界には、活力が失われていく。亜子はそのことが最初からわかっていたのかもしれない。彼女はわざと無関心を装い、そこに異物が入り込む隙間のようなものを作りだしたのかもしれない。意図的に渾沌と化すよう仕向けているのかもしれない。ヨウセイはただただ躍らされているだけなのか。それとも亜子もヨウセイも互いに理解した上で、事が起きているのだろうか。ますますわからなくなっていった。

 テルユキは私と付き合うようになってから、人間関係が妙に大人しくなっていった。あんなにも並べていた女性はすべて消え、どうも私とだけ過ごしているのは間違いなさそうだった。私のどこがそんなにいいのだろう。特別な魅力でもあるのだろうか。いや、そうじゃない。私がテルユキの方を完全に向いているからに違いなかった。

 だから彼のほうも私の方を向いている。わたしが目を逸らせば、すべては崩れ始めるのだとリョウコは思った。



 背中の痛みに耐え切れず、そのもがきの力が逆に足首に繫がれた鎖を断ち切ってしまっていた。まるで痛みと引き換えに、自由を得たかのようだった。痛みのおかげで鎖と体は分離した。痛みは今に始まったことではない。夜寝ていると度々、ある夢と共に、その痛みは忍び寄ってくる。座布団に正座しているとき、背中を木刀のようなもので思い切り殴られる。振り向こうとした瞬間、顔を手で押さえつけられる。そしてまた、背中を殴打される。木製の棒で。いったい、何人の人間に取り囲まれているのだろう。風呂敷のような布を頭に被され、視界は遮られる。背骨がズタズタに壊れてしまうまで続くのだろうか。ファラオ・Мは、「俺が悪いんじゃない。俺が悪いんじゃない」と呪文のように呟き続けた。「仕方がなかったんだ。君らの土地を奪うことなしには、生き延びることができなかった。領主としての責任があった。拡張することなしには、大国に侵入を許し、蹂躙される。少しでも勢力を広げなくては、我が身を守ることはできない。住人を守る責務が僕にはあった。仕方がなかったんだ」

「それなら、同盟を維持すればよかったじゃないか」

 声は意外にも穏やかだった。しかし背中の痛みは尋常ではなくなっていた。もうすでに感覚はなくなっていた。意識は遠のいている。木製の棒は紐のように柔らかく、肌に触れているかのようだ。「大国と取引きしたんだってな」

 すでに、体を直立させていることは不可能だった。座敷に崩れ落ち、顔は横たえてしまった。唾液が流れ出し、それが止まらない。

「みっともない格好だな」

「晒し者にするか」

 やめてくれと、ファラオ・Мは声にならない声で呟く。「お願いだからやめてくれ」

「それなら言うことをきくか?」

「それはできない。やったことを訂正する気はまったくない。僕は正しいことをした。生き残るための最大限の方法をとった。僕には責任がある。僕の国に住む人のことは、何があっても守り抜かなくてはいけない。こんな痛みなんて何でもないさ。矢が何本刺さろうが、僕は死ぬ気なんてさらさらない!好きにすればいい!さあ、一突きにでも何でもしろ!住人が黙っちゃいないぞ。君たちが生殺しにされる。戦国の世は仕方がない。歴史がその正しさを証明してくれたらそれでいい。さっさと帰るんだ!」

 ファラオ・Мは、その場に力尽きたままだった。大広間に一人、柔らかな布と共に転がったままだった。「誰か、来てくれ」

 襖が開く。三人の着物姿の女性が現れ、横たわったファラオ・Мの側に近づいてくる。肩を貸し、部屋の外に連れていこうとする。

「どうしました?」

「・・・背中」

「背中ですか?」

「背中を殴打された。侵入者だ」

「侵入者など、いません」

「四、五人の男たちだった。おそらく隣国の」

「侵入者は、誰一人としていません」

「背中が大変なことになっている」

「悪い夢を見たんでございますよ」

「夢なんかじゃない」

「背中は何ともありません。血も出ていなければ、痣にもなっておりません」

「痛い」

「申し訳ありません」

「冷やしてくれ」

「悪い夢を見たんですよ」

「復讐だ。でもこれは、仕方がなかった。一国を守るためには、他の個人のことなど、気にかけてはいられない」

「一人の人間のことは考えられない」

「そうだ」

「痛みはまだありますか」

「いや、そう言われると、何ともないのかもしれないな」

「おそらく」と女性の一人は言った。「痛みは、別の人間が感じることになるでしょう」

「どういうことだ」

「痛みは、別の人間が感じることになるでしょう。あなたの子孫です。あなたの次にあなたを引き継ぐものです。あなたという肉体を授かる人間です。あなたは大儀のために一つの大きな組織のために、一人の人間を黙殺した。個人の痛みなどはまるで無視をした。あなたはその怨霊にこれから苛まれるはずです。そしてそれは、あなたが全面的に引き受けることではない。その彼がすべてを引き受けることになる。最初は気がつかない。人生の最初においては。それは封印されたままの記憶です。しかし彼もいつかは気がつくことになるでしょう。自分のルーツがどこにあるのかを知れば知るほどに。あなたは記憶のなかで生き続けるのです。あなたのなさったことは、けっして取り返しがきかない。住人たちを守った。そしてその感謝の気持ち。あなたは死ぬまで受け取り続けるはずです。しかしそれは昼間における話です。光の世界での話です。あなたは繰り返される幻覚に、夜中、一晩中、苦しめられるはずです。今夜で終わると思ったら、それは大きな間違いです。これはほんの始まりなのですから」

「いい加減なことを言いやがって!」

「終わりのない幻覚に、毎晩、私たちも付き合わされるんです」

「大広間の外で常に寝ずに待機して・・・」

 別の女が言った。

「そういうことですよ」

「終わりは来ないんです」

「同じことが毎晩、繰り返される」

「罪というのはそういうものなんです」

「繰り返し」

「繰り返しそのものの中に、罰が存在する」

「そして、その事実はそっくり、あなたを引き継いだ男にそのまま譲り渡されることになる。自分ではない何か得たいの知れない力に、いつしかその若い健全な肉体は、乗っ取られる。精神だけは譲りわたすまいと、幻覚の海の中で彼は己の存在を根幹から揺さぶられ続ける。責任はあなたの行為から始まった。あなたは償うことはない。別の人間が償うことになる。あなた自身が償うことになれば、その方がよかったのに。しかしあなたにはそんな時間は残されていない。そんな状況に置かれることは絶対にない。夜はまたもう一つの太陽なんです。ニーチェです。夜があなたのもう一つの現実を呼び覚ますんです。夢は繰り返します。侵入者はいません。あなたの心にその影は潜んでいるんです。あなたの考え、世界観、決断が、その影を生み出したんです」

「昼間は何の外傷もないままに、住民たちからの賞賛と感謝の声を、あなたは浴び続けます。あなたは領主としては大変な功績を残された。いくつもの命を、守りぬいた」

 ファラオ・Мは担架に乗せられ、長い長い廊下を伝って運ばれた。こんなにも長い廊下など、城の中にあっただろうか。背中の痛みはまるで治まらない。体を丸め、担架の端を強く手で握る。いったいどこに運ばれるのか。夢はどこから始まり、どこで終わるのだろう。今が夢の中なのだろうか。背中を殴打されたのが事実であり、今この長い廊下に運ばれている状況こそが、幻覚なのだろうか。ファラオ・Мは、痛みの中で、それと拮抗するくらいに強烈な睡魔が、迫ってきていることを知る。安らぎが襖の向こうですでに待機しているのだ。侵入者はいない。安眠がすぐそこにまで迫ってきていた。・・・・

 ・・・・・。



 鎖は外れてなどいない。ファラオ・Мは、地中深い独房に置き去りにされたままだった。微かに雨音が聞こえた。それほど強くない雨が降り続いている。壁のすぐ向う側は屋外なのか。時間の感覚は完全に狂っていた。どれが本当に体験したことなのかわからなくなっていた。いろんな場面が交錯したかと思えば、こうして淡いカンテラの光だけが照らされた暗闇の洞窟の中にいる。どんなふうに連れてこられたのか。まるで覚えてはいない。担架に乗せられたまま、廊下を伝って地下に連れてこられたのだろうか。整合性はまるでない。<兎>の結婚式に参列したのは、いつのことだったのだろう。文明の崩壊が、今、真近に迫ってきている気がする。領主としての終わらない罪。着物姿の女たちが最後に言っていたことが思い出される。



 結婚式の一ヵ月後、テルユキはヨウセイをカフェへと呼び出した。相手の顔が見えない電話が大嫌いだったテルユキは、会うなりいきなり、「亜子との暮らしはどうだ?」と切り出した。《とんだ結婚式になってしまったからな》とテルユキは内心思っていた。だがヨウセイは、さほど気にもしてなかったようで「特に何の変哲もないね」とぶっきらぼうに答えた。《それがすべての答えだよ》と言わんばかりに。

「物足りないのか?」

 テルユキは相手の表情を察して言った。

「結婚式に乱入してきた女の子はどうなったんだ?」

 ヨウセイは顔色一つ変えず、テルユキの目をちらっと見た。しばらく見ないうちにずいぶんと老け込んでしまったように見えた。

「お前のところはうまくいってるのか?」

 ヨウセイは話を切り返した。

「リョウコとはそれなりにうまくやってるさ。まさか付き合うことになるとは思わなかったから、最初は戸惑ったけどね。それでも、今は自然体でやってる」

 テルユキはリョウコとのことを訊かれるのがあまり好きではなかった。リョウコとは深い秘密を共有しているからこそ、離れられなくなった。もちろん今はそれ抜きで、好きであることには違いなかった。しかし、何かの拍子で、その秘密の深遠がぱっくりと開いてしまうことに、怯えていた。

「そういや、鶴岡は来なかったな」

 テルユキは話題を変えた。

「鶴岡ね」

「あいつ、何をやってるんだろうな。仕事忙しいのかな。それとも、地方にでも飛ばされたたかな」

「なあ、知ってるか」ヨウセイは何気なく軽い口調で切り出した。「あいつ、亜子に告白したことがあるんだよ」

「いや、知らない。そうなのか?いつ?いつだよ」

「何年か前にね。そう。お前がリョウコと付き合ったくらいの頃じゃないかな。突然にうちの玄関の前に現れてな。その日、俺と亜子は大喧嘩して、俺は部屋を飛び出してしまって。家にはいなかったんだけど。愛の告白だよ。ずっとあなたのことを想っていました、だとさ。よくもまあ、そんなことが言えたものだよ。俺は、ずっと前から気づいてけどな。三人で遊んだことだって何度もあるんだ。そのたびに、奴の目は亜子に、釘付けだったんだ」

「いったい、いつから、好きだったんだ?」

「さあね。俺らがグループで遊びだすようになってからじゃない?」

「お前が気づいたのはいつだ?」

「三人で遊び始めた頃だ。鶴岡の家に二人で泊まりに行ったこともあった」

「そうか。そうなのか」

 テルユキは今初めて聞かされる事実に驚いていた。

「俺はずっと、知ってたさ」

「お前・・・。ずっと知ってて、鶴岡の家に亜子を連れていっていたのか?」

「そうだよ」

「そうだよって・・・、どうして、そんなことを?」

「どうしてって、鶴岡が喜ぶじゃないか」

 ヨウセイの口元がだんだんと緩んできた。「鶴岡の顔を見てるのは、楽しかったぜ。悶々としてきてさ。俺がトイレに行っているあいだに、抱きつくんじゃないかって思ったくらいだよ。あはは」

「亜子は気づいていたのか?」

「いや、これがまた、全然。何て勘の鈍い女だろうって。あらためて見直したよ」

「そういう言い方はやめろよ」

「あいつ、本当に、俺に関心があるのかね」

「あるから一緒にいるんだろ」

「どうも、あいつは、自分のことしか考えてないんじゃないか。その自分の世界に合う人間だけを、周りに配置しているだけなんじゃないのか。そう思うときがある。俺が浮気を繰り返しても、あいつは全然、気がつかなかった。何度、携帯のメールをほれって、見せたくなったか。やらしいメールだけを、ちゃんと取っておいたんだから。あ、そうそう、鶴岡にも、もちろん招待状は出したんだよ。何せ、俺は、あいつが亜子に告白したことなんて、知らないことになっているんだから。亜子と、あいつだけの問題。グループの他の人は、誰も知らない」

「そうだろうな」

「しかし、グループっていうのは怖いね。群れるのは大嫌いだけど、グループっていうのは、俺は好きだよ」

「どう違うんだ?」

「仲間ってことだよ。ある時期、限定のね。状況が似たようなもの同士が集まる。それがグループっていうものだろ?まあ、それなりに、なあなあではないわけだし。その短い期間だけは、共に刺激し合えるのがグループ。なんの利害関係もない友達だ。君たちだって、そこで出来ちゃったんだから。僕らと、君たち。あれ以来、みんなで会ったことなんてなかっただろ。そういうものなんだ。ある時期、限定なんだから。あとはまたそれぞれの人生が階段を登り始めて、やがては分解されてしまう。また新しいグループを形成するってわけ。しかし、君と僕とは、これからも付き合いは続きそうだよ」

「同じパターンだからな」

「今日は、何をしにきた?正直に答えてくれ」

「それよりも、鶴岡のことを言えよ。どうして、そんな挑発するような行動をとったんだ?生殺しみたいじゃないか。あいつの家に、二人で訪ねていくなんて」

「あいつはあいつで、自分から呼んだんだぜ」

「そう仕向けたんだろ?」

「鶴岡を近くに置くことでね」

 ヨウセイの声は一段低くなった。「バランスが取れたんだよ。俺ら二人だけでいるときよりも、他に人がいた方が自然でいられた。別に鶴岡じゃなくてもよかった。お前でも、よかったんだぜ。あの時は、鶴岡が都合よかっただけの話だ。おまけに、亜子のことを好きだっていうし。何かあったら、鶴岡君。亜子君に手を出していいんだからねって、そんなふうに、無言のアピールもしていたしね。まんまと、その隙間に、彼は入り込んできたわけだ」

「利用したのか?」

「お互いにね」とヨウセイは言った。「鶴岡だって、亜子のことがあるから、俺と仲良くしていたんだと思うぜ。俺と鶴岡っていう男は、あまり粗利が合わなかったからな。しかし三人が同じ空間にいると、妙に嫌じゃないんだな。不思議なものだよ。おそらく君がそこに加わっていたとしても、駄目だっただろうし。鶴岡君が適任だったんだ。あのときは、あれでみんなが自然体でいられたんだ。その告白をしに来た夜以来、鶴岡は僕たちに近づくことはなくなった。おかげで、俺は他の女に手を出して、この亜子との二人の世界に別の異物を挿入しなければならなくなった。異物の挿入だって。くくく。いやらしい表現だね。でもまさに、その通り。あの女が最初の異物になった。まさか式に来るとは思わなかったけどな。でも多少は期待していたのかもしれない。でもあの女にはもう用はない。向こうが勝手に残り、火に引火させただけのことで、まあ亜子にはいい刺激になったのかもしれないな。俺には全く影響なし。つまらん出来事だったよ。メインディッシュは、もうずいぶんと前に行われてしまっているんだから。あの子を必死で追いかけているそのときこそが、情熱は迸っていたんだから。苦悩を背負わされ、二人の間に何とかして、手段を構築しようと躍起になっていた。情熱は苦悩を呼び覚まし、そして、その情熱を実現させるべき手段の不在に、嘆き悲しむ。何だって同じことさ。生命力の在り処なんて、何に対してもたいした違いなんてないから」

「鶴岡の情熱が、ある意味、うらやましかったんだな」

「情熱の不在。他に対してもっと、燃えあがる人間が無条件に一人いるのなら、おれだって鶴岡のようになれる。しかし、現実は亜子一人がいるだけ。もう一人、目的をもってつくらなくてはいけない状況だった」

「ずいぶんと、人工的だ」

「一時的に、必要だった」

「一時的だったのか?」

「見ての通りだ。情熱が戻ったから、結婚だってできた」

「本当にそうなのか?」

「君のところと、一緒にしてもらいたくないね」とテルユキは言った。「どうして俺のところになんて来る?話はそれだろう。リョウコと君の冷え切った関係だよ。どうにもならなくなっているんじゃないのか?」

 ヨウセイに一方的に言われ続けた。

 しかし、それでも、共有の秘密のことだけは打ち明けるわけにいかなかった。ここはヨウセイに話を合わせるしかない。そう思った。

「その女を紹介してくれなんて、言うんじゃないだろうな」とテルユキは笑った。「ずいぶんといい女だっただろう。若くてセクシーでミステリアスで。でもエレガントさはないぞ。あの鼻っぱしの強い生意気な女を落とそうと、あれこれ仕掛けていくのは本当に興奮したよ。それに最初ズボンを脱がせたとき、下着は白だったんだ」

「リョウコといると安心するんだ」とテルユキは言った。「信頼できる唯一の人なんだ。彼女には、素直に心を開くことができる。何でも話をすることができる。壁はないんだ。ところが」

「ところが?」

「心の一段階、深いところには、もっと強固で冷たい灰色の壁があった」

「君の中に」

「これまで、ちっとも気がつかなかった。何でも打ち明けていると思いこんでいた。けれど、それは思い込みだった。まだまだ浅瀬での話だった」

「それで」

「戸惑っている」

「情熱はむしろ、彼女の方ではなくて、自分に向いているんだな。それとも、逸らすための女が必要か?そんな空虚さに刺激を与えてくれる女の存在なんて、君には必要ないだろう?俺とは違う。見事に違ったね。俺はまた亜子に不満を抱いてくるに違いない。何故か。それは、俺の中にはね、君のように激しくて冷たい壁が存在しないからだ。存在していたのかもしれない。でも、もう見ようとは思わない。鶴岡の存在を近くに感じることはなくなった」

「君は、さっきから、鶴岡に会いたくなっているんじゃないのか」テルユキは言った。「話し相手は、本当は俺じゃなくて、鶴岡を熱望しているんじゃないのか」

「鶴岡に会いに行くことはない」とヨウセイは言い切った。「鶴岡から来るものなんだ」

 テルユキはその言葉の真意を測りかねた。

「鶴岡がまだ生きていればの話だけどな。そんな、不確定な男よりも、君のように実在している男と話している方がいい。今度、四人で旅行にでも行く?事が臨界点に達する前に行かないと、もう二度と、俺らは顔を合わせることがなくなるぞ」

 テルユキはここに来た事を後悔し始めた。ヨウセイと話すことなど何もなかったのだ。

「あの女は、その後、どうなったんだ?」テルユキはもう一度訊いた。

「あいつか。あいつは結婚した」

「子供は?」

「あの話を本気にしたのか」

「してない」

「子連れの男と結婚したんだ。自分の子じゃない。俺の子でもない。何としても、子連れの相手と結婚を決めたかったって、言ってたよ。せいぜい幸せになれって言ってやった。自分と相手の子供は、どうしても、作りたくないんだってさ。養子を迎えるくらいなら、最初から、相手に子供がいたほうがいい。どうして、そんな考えに辿りつくんだろうな。まあ、君はリョウコのことを大事にしろよ」

 その、ヨウセイの最後の言葉は、《もう時間は迫ってきているのだ。最後くらいは優しくしてあげろよ》と言っているかのようだった。

《それを聞くために、今日、ここにやって来たんだろう?》と。

「リョウコは、俺にとっても、ずっと友達なんだから」

 テルユキは審判の日が近づいていることを自覚した。もう自分に嘘をつき続けることはできない。あの男だ。あの男に会わなくては、この先に進むことなんてできない。どんなことになろうとも、どんなひどい結末を迎えようとも、行くべき場所はひとつだった。どんな女に手を出すよりも、今はあの男との再会に分岐点はあった。女性の問題は、そのあと生きのびた先でのことだった。リョウコは次第に口数が少なくなり、肌に漲っていた肉感は次第に萎んでいき、大人しく穏やかで聞き分けのいい、素直な子供に戻っていくようだった。



 亜子とリョウコも、結婚式の後に一度だけ会っていた。

 亜子が、リョウコの部屋に、突然訪ねてきたのだった。

「こうやって、鶴岡君に、家に来られたことがあったのよね」

 亜子は言った。「ヨウセイと喧嘩したときに、鶴岡君に愚痴ったの。そしたら、突然、うちの前に来てね。好きだなんて言うの。ずっと好きだったってさ。信じられる?」

「今、初めてきいたわ」

「もう、時効だと思うから。もっと詳しく訊きたい?」

 リョウコは首を横に何度も振った。

 一体、あのグループの中では、何が起こっていたのだ?表面的に何度も顔を合わせていた以外に、裏ではどんなことになっていたのだ?今は全員で会うことはない。もう何年も。しかし、こうやって個人的に会っているケースは、多々あるのだろうか。そもそも、リョウコとテルユキでさえ、付き合ったことを、みなに報告していた事実はなかった。リョウコに伝え、ヨウセイも知ることになっただけだ。鶴岡の耳にも、どこかの時点で、入ったに違いなかった。

「鶴岡君、今、どこにいるの?」

 リョウコは鶴岡のことが昔から気になっていた。

「わからないわね」

 結局、その夜は、御飯も食べず、二人は同じベッドに裸で入ることになった。亜子は初め、ヨウセイの近況について、ずっと話し続けていた。ヨウセイは結婚するとすぐに、亜子に何の相談もなく、三十年ローンで一戸建ての家を買ってしまったのだという。マンションを買い、それを人に貸して、ローンの返済額を減らすという「投資マンション」の購入も、検討していたのだという。亜子は何も知らずに、彼から事後報告を受けることになる。賃貸だと思っていたのに。始まりがすでにそういうことなのよと亜子は泣きながら、リョウコに抱きついた。毎月毎月、これから三十年も続けていくことを、私に何の相談もなく決めてしまった。私はこれから三十年のあいだ、ずっと続けていかなくてはいけないのよね。三十年。なんてことなのよ。哀しい、哀しいわ。ねえ、リョウコ。私とずっと友達でいてくれるわよね。あなたにはすべて本当のことを話すわ。ずっと報告し続ける。だから居なくならないで。私のすべてを知って。あなたには包み隠さない。そう言って、亜子は服を脱ぎ始めた。リョウコの服も同じように脱がせた。リョウコは金縛りにあったかのように動けなくなった。亜子の迫り来る狂気から逃れることができなかった。いや、それどころか、胸の中が、熱く燃えあがってしまったのだ。リョウコは自ら凝り固まった殻を破り始め、亜子の体を積極的に愛撫していくようになる。頭の中にはテルユキがいる。テルユキとの間で失われた炎が、今、亜子との間で再燃しているのだ。亜子の体は次第にテルユキになっていき、必死で亜子の胸やお尻や背中に、手を回して撫で回した。ベッドに横たえさせ、足を大きく開かせた。そこには自分とよく似た体があった。内側に入り込んだ性器があった。だがリョウコはかまわなかった。普段テルユキが私にしてくれたことを思い出し、自分によく似た性器を刺激し始めていった。女性器をこんなにも真近で見たことなんて一度もなかった。はやる気持ちを抑えながらも、念入りに観察した。テルユキはこんなふうに私の中を見ていたのか。亜子は大きな声を出し、腰を浮かせたり、左右に振りはじめたりしている。リョウコの両手を握り、亜子は早く中に入れて欲しいといった仕草を繰り返す。しかしここでリョウコは我にかえる。自分には亜子の中に入れる、何物をも持ち合わていなかった。仕方なく指をいれて出し入れした。女性の中に入ったのは初めてだった。亜子はもう完全に意識が別の世界にいっていた。リョウコは指を一本増やした。しかしそのあといったいどうしたらいいのか。自分の性器の方も、別の性器を呼び込む準備はすでに整っている。亜子と同じ気持ちになっていった。鶴岡だ、とリョウコは咄嗟に思った。鶴岡に突っ込んでもらいたい。亜子の中にも私の中にも。呼ばなきゃ。呼ばなきゃ。ねえ、亜子。どうかな。今、ふと思ったんだけど。亜子の中から指を抜き、今度は表面の突起物を指先で撫で回した。ねえ、亜子。この提案はどうかな。私たち、このままじゃ、どこにも行きつかない。終えることができないのよ。せっかく燃えあがった炎だけど、消えることなく、どこまでも燃えあがっていくだけ。そんなのってないわ。時間を断ち切るクライマックスは、いつだって必要よ。大きなクライマックスも、小さなクライマックスも。リョウコは、亜子に触れるのをやめた。ベッドに二人で横になる。亜子は、徐々に徐々に意識を取り戻していった。

「鶴岡君が、どうしたの?また、その話?さっきは、もう、おしまいだって、そう言ったじゃないの」

「あなたの想いが、移ってしまったらしいわ」

 リョウコは半分起き上がり、暗闇の中に何かを見つけようと目を凝らした。

「私の?そんな馬鹿な。あの人のことを好きになったことは、一度もないのよ」

「私だって同じ」

「でも、あなたは違うわよね。あなたは誰のことも、みんなと同じ目線で見ているわけじゃないわよね。鶴岡君の何か別の面を見抜いていたんじゃない?今になって、私こそ、あなたの目線が乗り移ってきた。あの夜。鶴岡君が告白してきた夜、私はあんなふうに彼を追い返すべきじゃなかったのかもしれない。情熱の根源みたいなものが、失われた最初の夜になってしまったのかもしれない。あれが、何かのきっかけだったのかもしれない。ヨウセイのことも、だんだんとわからなくなっていってしまった。もしかしたら、最初からヨウセイのことなんてよく見てなかったのかもしれない。ヨウセイといると、何となく居心地がよかったから、ただそれだけの理由で、一緒にいたのかもしれない。同じグループにいてよく遊んでいたし。私は何も見てなかったの。私自身のことも。あなたのことも。あなたの体、とっても綺麗よ。初めて見たけどうらやましい。あなたにはテルユキに対する情熱が残っているのね。愛されているんだわ。体は正直よ。あなたの体はわたしのように水分が干上がってしまってはいない。ちゃんと潤っている。大丈夫」

「私も、亜子と同じ」

 リョウコは完全に上半身を起き上がらせた。そのとき玄関のポストに何かが入れられた音がした。物静かな夜に、その、カタンという音は鳴り響いた。亜子とリョウコは顔を見合わせた。こんな時間に郵便物が届けられるはずがない。私たちの会話を、あの扉一枚隔てた向こうで、聞き耳を立てていたかのように。そして、その会話が終わったのを見計らって、何かを投函したかのように・・・。リョウコは、亜子の顔を両手で包み込んだ。何て可愛い顔をしているのだろう。ベッドの中にいる亜子は輝いていた。普段は、みることのない別の亜子だった。亜子は、こんなにも傷つきやすく、無垢な女の子になれるのだ。ヨウセイは、その亜子を存分に知っている。リョウコはベッドを出て、裸のまま玄関に近づいていった。そして、ポストの中を確認する。そこには、たった今、到着したばかりの、ハガキサイズの郵便物が無防備に放置されていた。


 それは、結婚式の招待状だった。


 鶴岡 満 と 田路浦 香奈子 の結婚を報告する、手紙でもあった。

「田路浦って、誰よ」

 亜子は、鶴岡の結婚に動揺していた。

「田路浦って、誰?リョウコ、知ってる?同級生じゃないわよね。そんな人いなかったし。ねえ、誰なのよ。ものすごい、年上の人とかじゃないわよね。二十も上のおばさんなんかじゃないわよね。ねえねえ。それとも、十代?田路浦・・・、田路浦、変な名前・・・。鶴岡香奈子、になるわけか」

「それにしても、結婚ラッシュだな」

「あなたの所は?」

「ないわ。絶対にない」

「そうね」と亜子はすぐに納得してしまった。「私たちがしたんだから、あなたたちは別にしないでいいわよね。同じことを繰り返したって、仕方がないんだから」

「同じことって」

「結婚なんて大体は同じでしょ。手続きの仕方だって。式のやり方だってさ。それに、結婚した後の生活のスタイルだって。一つ見れば、もうお腹いっぱいよ」

 亜子はその後も田路浦香奈子のことをずっと考えていた。

 亜子は、鶴岡が自分とはまるで関係のない女と、結婚するようには思えなかったのだ。直観としてそう感じたのだ。そして、この結婚が、偽称めいたものにも思えてきた。私が結婚をしたその直後に、鶴岡も結婚を決めてしまったのだ。おかしい。招待状は送られてきた。これじゃあ、当てつけじゃないか。本当はあなたと結婚がしたかった。でもその望みはなくなった。だから僕は別の女性と結婚する。たいして愛してもいない女性と。でもそれだって、あなたのせいなんです。あなたが手の届かない場所に行ってしまったから。だからせめて、違う女性を慰みとして頂きます。あなたの結婚生活がうまくいかなくなったら、またそのときにあなたの前に現れます。僕と一緒になりましょう。僕はそれまでずっとあなたの結婚生活を影ながら見守っていくことでしょう。なんなら僕に相談をしに来てくれてもかまいません。安心してください。あなたの生活を壊そうだなんて思っていませんから。これでも、常識くらいは持ち合わせているんです。常識に凝り固まっているといってもいいくらいに。僕は、自分の意志というものを、いつも表明するわけではない。肝心な時に伝えるだけです。直接に。心の底から。拒絶されることを恐れずに。失望することを恐れず。それはたとえ失敗であったとしても、次への挑戦状が、その場で新しく発行されるからです。

 あなたは、僕の告白にすっかりと怯えきってしまった。僕に対して嫌悪感を抱いた。もう二度と、近寄りたくないと思った。しかし、どうです?不思議でしょう。今もあなたの心の中に僕はなぜか居続けているんですから。僕は間違ったことを言っていますか?どうです?効果は覿面じゃないですか?僕はあなたの心に住みついている。そして徐々にその位置は、内側へと迫ってきている。気持ち悪いでしょう。あなたが見かけ上結婚していようが何だろうが。そんなこととは一切関係がない。あなたは僕の影にずっと怯え続けるんです。そして恐怖から逃れるための唯一の手段は、僕に近づいていくことだということに、あなたはいつか気づくことになる。僕があなたの元へと向かうのではない。あなたがこっちにやってくるんです。僕がどれほど拒否しようが、あなたはもう抑えがきかない。僕が拒否すればするほど、あなたは僕をこじ開けようとする。自ら夫に離婚を切り出して、そしてそれは僕に対しても離婚を迫ってくる。あなたは気が狂っています。僕はそうはっきりと言います。あなたの頭はおかしくなってしまったのだと。おちついて冷静になって考えてみてください。あなた、とんでもないことをしでかそうとしているんですよ!

「あっ!」と亜子は突然おおきな声を上げた。「わかった!わかったわよ。香奈子って女。あの女よ。あの結婚式に乱入してきた女。アレに違いない!やっぱりそうだ。私に関係のない女を選ぶわけがない。あてつけよ。事態を複雑にしようとしているのよ!」

「あの子だったの」

「あいつに違いない。私、ヨウセイが浮気していた時のメールを何度か見たことがある。確かにそうだった。タジウラって名前だった。ただ、タジウラって送られてきただけだった。あの女か。ちくしょう。なんて所に手を出したのよ。あの女はヨウセイに捨てられた想いをずっとひきずっている。鶴岡と立場は同じじゃないの。あの二人。何をしかけてくるかわからない。協力して私たちを見張っているんだ。それともまたあの女が、ヨウセイにちょっかいを出してくるのかしら。鶴岡がそれを炊き付けて。やだ!どうしよう。ねえ。ヨウセイにちゃんと報告しておいたほうがいいよね」

「したほうがいいとか、そんな次元じゃないでしょ。だって一緒に式に出るんでしょ?」

「あなたの家にも招待状は来てのるかしら?テルユキと二人で行くのよね。あなた、行くのよね」

「いくでしょうね」リョウコは答えた。

「やだ!なんてことなの!愛のない結婚式に、どんな顔をして出席すればいいのよ!」

 だがリョウコは、その愛のない結婚というのがむしろ、自分たちの未来であるような気がしてならなかった。本当に心からお互いに惹かれあい、私たちは一緒にいるわけではない。媒介があってのことなの。私たちと共通の人が、以前にはいたからなの。その人を媒介として、私たちは繫がっているの。私はその男のことを愛していた。テルユキではないのよ。


 数日後、その香奈子という女から、リョウコ宛に手紙が届いたのだった。

 リョウコは驚いた。その女とは個人的に話したこともなければ、顔見知りだったわけでもない。何の関係もないばかりか、この前の乱入してきた式で、遠目に眺めていただけだったのだ。どうして私のところに手紙など送ってきたのだろう。手紙は確かに私の名前が書かれていた。私が誰と付き合っていて、ヨウセイと亜子夫妻とどんな関係にあるのかまで正確に把握していた。おそらく鶴岡にその情報をもらったのだろう。あるいは鶴岡がけしかけているのかもしれなかった。今度の結婚から何から、すべては一続きの出来事であって、この手紙もまた、一つの罠なのかもしれなかった。だがリョウコは無視して、破棄することができなかった。亜子に伝えたほうがいいのだろうか。何ていえばいいのだ?このまま見せてしまえばいいのか?【私は妊娠しました】冒頭はすでに始まっていた。


【私は妊娠しました。そして結婚を決めました。鶴岡さんとは、まだ付き合って一ヶ月です。亜子さんの結婚式のあとに、知り合った男の人です。すぐに意気投合してしまった結果、ずいぶんと急ではありますが、子供を授かることになりました。結婚式もすぐに挙げられそうです。とても運のいい時期でした。この前、亜子さんが挙げられた教会で、偶然、空きがあったのですから。同じ場所で私たちも結婚ができるのです。鶴岡さんも大変喜んでいます。鶴岡さんはあなたの古くからの友人だそうで、それで今回、挨拶も含めて、あなたに手紙を書いた次第なんです。亜子さんの所とは色々と複雑な事情があって、なかなかお近づきになれそうもないので、リョウコさんの所がちょうどいいんじゃないのかなぁと。いろいろとあった時には、相談に乗っていただけると、ありがたいなぁなんて思っています。僭越ながら、リョウコさんには、これからお世話になる機会がとっても多いのではないかと思います。申し訳ありません。でもきっとあなたにしか打ち明けられないことだと思いますので、どうぞ悪し様に扱わないでください】

 ずいぶんと馴れ馴れしく、厚かましい手紙だった。



 死者は木の舟に乗っていた。舟の四隅には漕ぎ手が配置され、静かに緩やかに水の上を進んでいく。漕ぎ手は黒いマントを着て、黒い帽子をかぶっている。その素顔はわからない。河の匂いはかなり強烈だった。へどろのようなものが所々浮き出ていて、舟の進行を密かに妨げているようだった。水面下には黒い蛇が徘徊している。ときおり、頭がもたげ出る。ファラオ・Мはその匂いに耐えきれなくなり、胃の中から込み上げてくるものに、抗えなくなってくる。だが何も出てはこなかった。すでに胃の中には何もない。屈んだ体をもとに戻した。

 よく見れば、天井にも黒い蛇が蠢いていて、そのあまりの数の多さに、犇きあった何匹かの蛇が河へと落ちていく。臭いはさらに勢いを増していく。舟のスピードは上がらない。この洞窟に終わりはあるのだろうか。永久に抜けない暗闇の中を、ぐるぐると旋回しているような気がしてくる。この臭い河は、水が原因なのだろうか。蛇が原因なのだろうか。それとも、死者が川床には横たえているからなのだろうか。ファラオ・Мは思った。自分はまだ、完全に死者には成りきれてなかった。川床に水没させられることはなかったのだ。四人の漕ぎ手は、彼を降ろすつもりはなさそうだった。

 四人の漕ぎ手?

 この配置に、ファラオ・Мは遠い過去、同じ風景に出会ったことがあるのを思い出した。  

 幼い少年がファラオ・Мだった。そのときは、黒ではなく白い装束を身に纏った四人の人間だった。その他に一人の大柄な男がいた。顔は覚えていない。少年は座敷の布団に横たえていた。うつ伏せにさせられていた。上半身は裸だ。そして無条件に、針を背中に刺されたのだった。白い装束は、少年の体を抑えるためだけに存在していた。血が噴き出した。墨を注入しているのだ。刺青だった。黒い鯉の版画が部屋にはかけられている。同じ絵柄を背中に入れようとしているのだと少年は思う。一体誰の仕業なのだろう?そんな背中を持った少年は学校に通えるのだろうか。近所を歩けるのだろうか。もう一生のあいだ、人前でシャツを脱ぐことなんて、できなくなるんじゃないだろうか。

 少年は、ここが、自分の部屋であることを知る。

 いつのまにか壁の模様は替えられ、五人の侵入者を許している。両親の姿はない。大声を張り上げようとするが、言葉にはならない。それよりも痛みだった。絶叫するしかなかった。しかし声は響かない。声は無柱空間に消えてなくなってしまう。僕は何か間違ったことをしでかしたのだろうか。どうしてこんな痛みを、味わう必要があるのだろう?お許しください。何に対してかわからない罪悪感に対して、少年はどう向き合ったらいいのかわからなかった。だがこの体験が、自分の人生の中での最初の実体験として、記憶に刻まれることを薄々と感じていた。いつまでも忘れることはない。忘れたつもりになって生きていても、すぐにその場面は立ち上がってくることだろう。そして、それはまた、装飾された別のパターンとなって変奏され、繰り返されていく。

 しばらく経ってから気づいた。あれだ。あれと同じだ。きっと、あれのことなんだ。

 このときのファラオ・Мは、その配置から記憶を呼び戻したのだった。墨は入れ終わったのだろうか。今度は本物の鯉のようなものが現れる。黒塗りされたようなその生き物を、四人の装束は思い切り、少年の背中の上に投げ下ろした。そして何度も何度も打ち付けた。墨がさらに皮膚の奥へ奥へと浸透していくことを、祈願しているかのように。力強く何度も何度も。少年は声にならない叫びを、何度も繰り返した。少年は意識を失った。いや、正確に言えば、視界を失っただけだった。何がどれだけの間行われたのか。これは虐待ではないのか。そのすべてを彼は暗闇の中で体験し続けた。

 だが、その後どれほど鏡に目をこらしてみても、黒い模様はどこにもなかった。

 皮膚の表面は白い肌に覆われているだけで、鯉の姿などどこにもない。少年は不思議に思った。痛みを思い出すことはできるし、その残響は今でも耳にすることができるのに、実際に見える世界ではその存在が巧妙に隠微されてしまっている。隠微という言葉を少年は使った。それはいつ実体を現すのか。その機会をじっと窺っているように思えたからだ。黒いへどろに塗れた臭い河の表面下に徘徊している、蛇のような確かな存在感で、そこに居場所を定めているのだから。

 むしろ、ファラオ・Mは、そのときに注入された黒い墨の世界の中に、今入り込んでいっているような気さえした。自らその中心地へと突き進んでいるかのようでもあった。臭い河は、きっと、あのとき体に注ぎ込まれた液体の一部なのだ。白い装束の四人は顔も白い布で覆われていた。そして、返り血ならぬ、返り黒い液体を全身に受け、装束はみな黒一色に染まっていた。白は光を浴びると、一瞬で消えてしまったかのような錯覚を受ける。黒は残る。光の世界に行こうとしているのだろうか。

 ファラオ・Мは、自分がいつのまにか移動していることを知った。鎖はいつ外されたのだろう。洞窟に目を凝らしてみると、そこには、鉄格子の嵌められた独房の存在を知ることができる。所々おもいついたように、その独房は現れる。自分も、その一つに入れられていたのだろう。まるで死刑を待っている死刑囚のようだ。刑はもうずいぶんと前に確定しているにもかかわらず、いまだ、執行には至っていない死刑囚たち。舟が部屋の前に止まり、そして彼は呼ばれる。ほっとすると同時に、恐怖で足元がおぼつかない。鎖を外され、舟に乗せられる。独房の外には河が流れていた。

「これは元々聖なる河だったのです」と看守は言う。黒い装束を身に纏った人間は看守だった。

「本当は、臭くも何ともないんです。水は透き通っています。身を乗り出して手を差し伸べてみてください。手で掬い取って飲んでみてください。大丈夫です」

 だがそんなはずはなかった。臭いはますますきつくなっている。臭気は全身を鎧のように固定し、体の奥深いところから、こみあげてくるものを感じとる。体の中から、何かが生まれようとしている。そう思った。何かが抜け出ようとしている。きっと、あのときあの瞬間に、体の中に注入された生きものが、今逃れ出ようとしているのだ。生まれたときに組み込まれたあの邪悪な生きものが今。魂が宿ったときと同じ瞬間に現れた五人の男たちの姿もある。何かが引き継がれたのだ。正体不明のあの物質。臭い河。真っ黒な蛇。鯉の絵柄。そして、ファラオ・Мは、体の内部に蠢き始めた生き物を、この眼で見て見たいとさえ思い始めている。



 結婚式には、結局、誰も来なかった。がらんとした教会の中に、二人はぽつんと佇んでいた。そこは本物の教会だった。中世に建てられたその聖堂は改築に改築を重ね、今なお、観光スポットであり、カトリックのミサが行われ、冠婚葬祭の場としても利用されていた。

 式場スタッフなど誰もいない。牧師のみの結婚式で、来場者は誰もいなかった。四十枚以上もの招待状を刷ったのですけど、と香奈子は書いていた。式の一ヶ月後、リョウコの元に手紙が送られてきたのだ。何かあったら、あなたにだけ打ち明けますという言葉は、本当のようだった・・・。【あまりに淋しい式でした。あっというまに終わってしまいました。披露宴のために、近くのレストランを借り切ったのですが、その日に急遽、キャンセルしてしまいました。あんなに広い店の中で二人だけで食事をしたって、仕方がありませんから。あなたは来てくれると思いましたけど。やっぱり誰の祝福も受けていない結婚ですものね。それでもあんまりです。招待状はすべて満さんが発送しました。招待客のリストアップも、満さんがすべてやりました。なので、私の友達にも、知り合いにも、親戚にも、招待状は一枚も発送されてはいません。仕方のないことです。私はすべて満さんの言いなりなのですから。満さんの眼も、とても寂しそうでした。お願いしたすべての人に拒絶されてしまって・・・。私、満さんの子供を産んだんです。先日。このこともリョウコさんにしか打ち明けてはいません。変なんです。妊娠してまだ一ヶ月しか経っていないのですから。式の三日後には生まれていました。とても暑くて寝苦しい夜がありました。ちょうどその日でした。そのとき私は夢にうなされていたんです。朝方まで夢は続きました。満さんは心配になって、何度も私を起こそうとしたみたいなんです。けれど生まれる!もうすぐ生まれる!って私は叫んでいたようです。そして明け方、三千グラムの赤ちゃんを産んでいました。ベッドはねばねばとした液体だらけでした。布団は処分しました。病院にも連絡しました。近所の乳母さんにも来てもらいました。役場にも報告しました。事情を説明したのですが、誰も信じてはくれません。早産にもほどがあるって言われて。だいたい早産のくせに三千グラムもあるなんてと、本当にそう言われたんです!早産のくせにって。信じられますか?けれど事はそれで終わることはなかったんです。一ヶ月後、すでに赤ちゃんは三十センチ以上も背が伸びて言葉をしゃべりだしたんです】

 リョウコはその話を聞いてから、気が気でなくなり、香奈子のもとに駆けつけた。

「来てくれたんですね」

 香奈子は嬉しそうにリョウコを迎えた。

「鶴岡は?」

「満さんは、今日は仕事ですから」

「そう。会わないでよかった」

 リョウコはうっかり本音を口にしてしまった。

「鶴岡は何て?」

「特に気にはしてなかったみたいです。元々、子供には、関心がないというか。どうでもよかったみたいです。でも育児は積極的に協力したいって。よくわかりませんよね」

「それは、よかった」

「そこまで、非情じゃなかったみたいです」

 香奈子の微笑みは愛らしかった。初めて見たときとはずいぶん印象が違うなと、リョウコは思った。母親になったからなのか。それとも私が見間違えていたのか。香奈子は思いやりのある控えめで、自分の感情のコントロールのできる、精神的に頑丈な女性にこのときは見えたのだ。

「わたし、もう結婚式のことは忘れようと思います。写真も撮ってないし、神さまに誓った言葉も、よく覚えていないんです。わたし、動転してしまっていて。まさか、あんな、がらんとした空洞の中で、将来を決定づける儀式をするなんて。思いもしなかったから」

「今、空洞って、言わなかった?」

「空洞?」

「言ったわよね。それ、どういう意味よ」

「空洞?」

「確かに言ったわ。空洞って」

「どこか暗い森の中にある、穴倉のような場所だったからよ」香奈子は大きな声で、今にも叫びそうな勢いで言った。「私にはそう感じた。途中からわけがわからなくなってしまった。叫びたかった。私たち二人は間違った行為をしてしまい、実社会からは追放されてしまった。私は意識のはっきりとしない中、野生の動物との性交渉を持ってしまった。あれは人間じゃなかった。野蛮な未開社会の中に生息している、猛獣だった。私は襲われたの。抵抗することができなかった。あいつに襲われたのよ!無理やり服を剥ぎ取られた。一ヶ月での出産。そのまた一ヶ月での急激な成長。もうおしまいよ。正常なことは何一つなくなってしまったのだから。狂ってる。ねえ、わたし、決めたことがあるの。この子、そう、この怪物の子供のこと。大切に愛情を込めて育てようと思うの。わたしの歪んだ愛情は、この子がいることで、かろうじて正常値に戻るって、そう思いこむことにしたの。狂ってるわね、あなたから見たら。それは完全に狂っている。でも私は心からそう信じることにした。わたしの想い。たとえ間違っていたとしても、最後まで貫くことにした。どんなことがあろうが、この子を立派に育てる。この子のよさを最大限に、伸ばしてあげようって。私の考え方、世界のとらえ方、生き方なんて、そんなちっぽけなもの。簡単にへし折ってやる。それよりも、この子の根源にある炎を、全開にしてあげたい。徹底して、この私の歪んだ愛をね、注ぎこもうと思う。わかる?エゴを押しつけるんじゃないのよ。エゴなんてへし折ってやる。歪んだ愛のエネルギーを注ぎこむの。それでいて私の考えや、生き方はまったく反映させない。そこが重要なの。

 満さんには、もちろん、そんなことは話さない。あの人はまあ勝手にやってくれって思ってるだけだから。あの人は、もっと考えることが、別にあるんだから。それは亜子さんのことだったり、ヨウセイさんのことだったり」

「あなた、そんなのでいいの?これは、一体、どんな結婚なのよ」

「おかしいですか?おかしいでしょう。おかしいはずですよ。私だって自覚していますよ。あの人、狂っていますよ。衝動的なのに、妙に計算が高い。ちゃんと、論理的に説明できるくせに、行動は支離滅裂。私は巻き込まれたんです。ちょろちょろと、そのへんを、ウロウロしてたから。ちょろちょろも、ウロウロも、一緒ですか。私って、よくわからない女なんです。意志もないし、ちゃんとした考え方ってものがないんです。いいように扱われているだけなんです。でも初めはそうじゃなかった。もしあんなにも、満さんを拒絶してなかったら・・・。あの人は、私のことを簡単に諦めたと思うんです。満さんって手に入らないものだったり、嫌われてしまったものに対して、異常な情熱を燃やすんです。わたしの時だって、そうだった。でも、私はそのあと、受け入れてしまったんです。たった一度だけ。でも、その一度は、その後の人生のすべてを、決定づけてしまったんです。もう二度と、満さんは私に対して、情熱的に迫ってくることはないんですから。満さんはそういう人なんです。満さんを手にいれるためには、彼を拒絶し続けるしかないんです」

「でも、それだと、彼とはいつになっても一緒になれないじゃないの」

「わかりますよね」香奈子は、リョウコの目をじっと覗き込んだ。

「あなたなら、わかりますよね」

「ちょっと、何よ」

「ずっと、見て見ぬふりをし続けているあなたです」

「いいがかりは、やめなさいよ」

「でも、まあ、いずれにしても、亜子さんがいるかぎり、あなたに矛先が向くことはないですよ。亜子さんが受け入れて、それで捨てられたときに、もしかしたらあなたに近づいてくるかもしれないけど」

「順番待ち、みたいに言わないで!」

 だってそうじゃないですかと言わんばかりの香奈子の表情に、さっきまで抱き始めていた好印象は、急速に不快なものへと変わっていった。

「わたし、帰る」とリョウコは言った。

「どうぞ」

「本当に、帰るわよ!」

「ですから、どうぞ。出口はあちらです」

「馬鹿にしないで!」

「あなただって、私たちとたいして変わりないんじゃないですか。今の彼とは満足ですか?この先も一緒にいるんですか?信じられないな。あなたは別の男の人のことを、ずっと想っている。私とあなたは、だんだんと近い所に存在するようになってきている。ほら。あなたは、こうやって、わたしの元へとやってきた。呼んでなんていませんよ。招待だってしていません。招待したのは、結婚式のほうなんですから。あなたは断った。でも、自らやってきた。不思議ですよね。いろんな話を共有できる土壌が、ずいぶんと整ってきたってことですよ。あ、あなた、今日、満さんが帰ってくるまで、ここで待ちますか?」

 リョウコは、側にあったティッシュの箱を香奈子に投げつけ、乱された感情を懸命に振り払いながら、玄関を蹴飛ばして、逃げるように外に出て行った。


 

 河の両岸に連なる独房の一つから、白い光が漏れていることに、ファラオ・Мは気づく。

 そこは扉のない開けた場所だった。チャペルが用意されている。ファラオは一瞬、自分が遊園地のアトラクションに乗っているのではないかと錯覚してしまった。しかしそんな幻想は迫りくる臭気に一蹴された。その鼻をつく強烈な臭いは、吐き気をもよおすだけではなく、眼にも深く染みて、痛み始めた。頭は重く、肩は誰かに捕まれているようだった。足に自由はあったが、鎖がまだ付いていたとしても、おそらく気がつかなかったかもしれない。

 ファラオの意識は、自分の肉体からは少し離れていた。そうせずには、とてもこの場所では正気を保っていられなかった。一瞬、隙を許したときに、臭いは体じゅうをあっという間に駆け巡る。囚人同士の結婚式でも始まるのだろうか。しかし、その偽りのミニチュアの教会には、《兎》の被り物をした二人の男女の姿しかなかった。中央の檀の下に並んだ十字架を二人は見あげていた。神父がやってくる。指輪の交換をし、誓いのキスが交わされる。拍手は起きない。その後ろを船が通過する。ものすごい臭気の中で、結婚式は執り行なわれていた。驚きだった。何故、よりによって、囚人ばかりが閉じ込められた洞窟の中で、おこなうのだ?巨大な《兎》の頭は、お辞儀をした瞬間に、取れてしまいそうに見えた。しかし二人はその面をはずすことなく、互いの顔を近づけあっていた。




























  第Ⅲ部   デモ・テープ





















「確かに私の娘だったんです」

 警察に駆け込んできたその女に、警部補は圧倒された。

「家にビデオがあって、それで、そこに映っていたのが娘でした」

「娘って、あなた、おいくつですか?」

「二十です」

「娘さんは?」

「十八くらいに見えます」

 警部補は奥にいた事務の女性に眼をやった。ちょっと頭のおかしい奴がやって来たというようなジェスチャーをして見せた。

「あなた、ね」と警部補は女を宥めようと、穏やかな声を出したのだが、女はそれを遮るように早口で言葉を巻くし立てた。

「私の娘です。信じてもらえないでしょうが、半年前に生まれたばかりなんです。成長の仕方が人とは全く違うみたいなんです。病院にも行きました。医者にも見てもらいました。診断書だって、ほら、ここにあります。そして、捜索願いを出すために、ここに来ました」

 捜索願を出しに来た人のなかで、医者の診断書を持参してくる人は珍しかった。警部補はどれどれと、遊び半分でその書類に目を通そうとしたのだが、その診断書の真意はともかく、それが紛れもない本物であることに、驚いてしまった。出生証明書付きの、『先天的成長障害』だというお墨付きがついていたのだ。

「いえ、私だって、そんなものを、信じたくはないですよ」

「あなた、お名前は?」

「香奈子と申します」

「苗字は?」

「鶴岡です。いえ、深浦です」

「離婚されたんですか」

「する意志はあります」

「意志だけですか?」

「夫は、今、連絡の取れる場所にはいませんので」

 警部補の顔は曇った。何故、夫の方の捜索願を出そうとしないのか。何か深い事情があるに違いなかった。そこに触れてはいけなかった。夫婦の問題だった。

「旦那さんは、おいくつなんですか?」

「二十八です」

「そうですか」

「娘を助けてください。見つけ出して家に連れ戻してください。あの子はまだ知能としては三歳児くらいなんです。なのに、体はもう十代の後半に見えます。ふとした隙に、見失ってしまったのです。でも、他の人には、まったくの高校生に見えます。誰も何の通報もしないでしょう。けれど、あの子はまだ、世界を認識するには至っていないんです」

「言葉は、しゃべれるんですか?」

「ええ。多少は」

「すごいです」

「一ヶ月で、小学生くらいの、言語能力は」

「本当に、すごい!」

 警部補は半分は冗談交じりに、残りの半分は自分がとてつもない事件に関与するのではないかという期待を抱きながら。深浦香奈子と名乗る女と対峙した。

「ねえ、深浦さん。あ、つる何でしたっけ?」

「深浦で構いません」

「深浦さん。事情を詳しく説明してくれませんかね。先ほどは、ビデオがどうだとか。確か、そのようなことを言っていたような」

「ええ、ビデオ・・・」

 ここで、深浦香奈子は言葉を詰まらせた。

「あんなこと・・・。まだ、生まれたばかりの子なんですよ。惨い、惨すぎる!」

 深浦香奈子は大きく深呼吸をした。この一発で決めてしまおうと、気合いを入れ直したようにも見えた。

「アダルトビデオなんです。わかりますよね?うちにアダルトビデオが送られてきたんです。そこに娘が出ていたんです。娘は何が何だか、わからなかったのだと思います。ただ声をかけられ、ついていってしまった。訳もわからず服を脱がされ、性行為をさせられた。あの子は、何もわからずに泣いていました。いえ、わけがわからないが故に、笑ってさえいました。恐ろしいビデオです。DVDは二枚入っていまして。その二枚がまったくの対照的なんです。こんなこと、私の口から言っていいものかわかりませんが。一枚はとても優しい行為なんです。まるで娘をずっと知っている人間が丁寧に扱っているような。娘の体を大事に包み込むようにいたわっているんです。感動的でさえあります。これはもしかするとアダルトビデオではなくて、愛し合う二人が、自分たちのためだけに撮影した、プライベートビデオなのかもしれない。そう思いました。いえ、これは、二人以外の人が見ても、いいのかもしれません。もし娘でなかったら。私は正直にそう思います。これは誰が見ても、考えさせられる。自分たちの愛について考えさせられる映像なんです。でも、その感動は、二枚目のあの邪悪なビデオで、地底のさらに底へと、突き落とされました」

 深浦香奈子は俯き、そしてむせび泣いた。それは目の前の女が、自ら誰かに蹂躙されたかのような、深い虚無の井戸の中に落とされたかのような、リアリティがあった。

 警部補はその先を促そうとは思わなかった。時間はこの女性のために存在していた。

「二本目には、白い服を着た四人の男が、その娘ともう一人の男の側に佇んでいました。娘の相手をしていた男も、白い服を着ていました。五人の男と、一人の若い娘。娘はその四人の男に手足を押さえつけられて、中央の男に無理やり何か器具のようなもので弄ばれたんです。五人の男はローテーションでも組んだかのように、次々と入れ替わりました。そして、自分たちの肉体を決して使おうとはしませんでした。肌は隠され、娘を触るのも、棒や鞭のようなものばかりで・・・。気づけば、娘の体からは血が噴き出していました。白い服を着た男たちは、あっというまに赤く染まっていました。穴という穴から血が勢いよく噴出していったんです。天井にもかかるくらいに。娘は苦痛に顔を歪め、カメラはその表情をしっかりとおさえていました。叫び声を上げたに違いありません。娘はうつ伏せにされ、赤く染まった男たちと体を重ね合わせ始めました。今度は確かに、肉体同士を、出し入れしていました。あんなに恐ろしい映像を見たのは初めてでした。地獄です。ソドムです。ぞっとしました。私は途中からあれが自分の娘であることを、すっかりと忘れてしまったのです。今でも信じられません。あのあと、彼女はどうなったのでしょうか。教えてください。生きていますよね。生きて帰ってきますよね」

「そのビデオは、持ってきていただけましたよね」

「えっ?」

「ここに、持ってきていますよね?」

「何故、です?」

「一応、拝見させていただかないと」

「嘘でしょ?見せられますか?」

「お気持ちはわかりますが。何の証拠もない中での捜査は、開始できません」

「捜査?まるで、事件のように!」

「さまざまな可能性を考えておかなくてはならないんですよ、深浦さん。いえ、つる何でしたっけ?」

「鶴岡です」

「鶴岡さん!」

「娘を帰してください」

「わかります。しかし、一度、そのビデオを持ってきてください。何回も見ることはありませんから。一度だけ。それに、あなたの同席のもとで」

「私の同席?冗談ですよね。もう二度と見たくはありません。笑っていたんですよ。娘は。どういうことですか?気が狂っていたなんて、そんなレベルではありませんよ。あの子は、何もわかっていないのです。思考能力なんて、これっぽっちも発達してないんですよ!なのに、どうして微笑んだんですか?」

「たとえ、物事が理解できてなくとも、人は笑います。認識できていないからこそ、笑うということもあります」

「わけもわからず生まれてこされられて、わけもわからずに陵辱されて・・・、ねえ、あのビデオはどっちが先に写されたものだと思いますか?それだけでもわかれば」

「ねえ、深浦さん、深浦さんってば」

「香奈子でいいです、香奈子って呼んでください」

「ちょっと」

 警部補はいきなり抱きつかれ、押し倒されてしまった。この華奢な女性が、何て力を出すのだろう。

「何もわからないまま、どこにも固定されることなく、あの子はどこかにいってしまったんですよ!」

「旦那さんにも、来ていただけたら」

「旦那?鶴岡よ。鶴岡を見つけたらいいのね。そしたら、あなたたちは動いてくれるのね」

「それと、ビデオを」

「捨ててやる!絶対に見せてたまるか!」

 香奈子は警部補を突き飛ばし、外に出ていってしまった。

 残された警部補は床に横たえていて、事務の女性が近づいてくるときまでに、立ち上がることができなかった。

 わかりますよ、と警部補は叫んだ。

 仕方なく、事務員の女性に向かって、言葉をぶつけるしかなかった。女性がぽかんとしていようが、そんなことはお構いなしだった。

<わかりますよ。わかりますとも。あなたがおっしゃりたいことは、こういうことでしょう。人には実年齢よりも十年遅れている所もあれば、十年以上も先に到達してしまっている所もある。そうですとも。その帳尻を合わせた、その平均値をとった場所というのが、実年齢なのですから。実年齢というのは、本来、そういうものなんです。どこかの器官に障害があれば、どこかの器官に、その分は上乗せされている。帳尻はどこかで必ず均衡を保っている。お嬢さんはきっと、体のほうが異常に発達してしまうために、心はずっと退化していっているのかもしれません。分裂していってるんです。心と体はどんどんと分離してしまっているんです>

 事務の女性はきょとんとした顔で、警部補の顔を見ていた。

<時間というものは惨酷なものです。引き裂かれていくお嬢さんを助けるどころか、完全に一人の人間として駄目にしてしまっている。そんなことが許されてよいのですか。いくら抽象的なものであったとしても、時間というものは一応、直線的に進んでいくという基準のようなものを人類は共通で持っている。そこから外れれば、当然、そこに存在していることは許されません。お嬢さんは永久に追放される運命を、生まれながらにして、持ってきてしまったのかもしれません。悲劇です>

 普段は見たこともない警部補の姿に、事務員の女性ばかりでなく他の職員も興味をそそられて集まってきてしまった。舞台へのデビューを果したばかりの、駆け出しの俳優のように、警部補は普段は閉じ込めていた想いの丈を、脚本にあるはずの一場面に合わせて、吐露し始めていた。

<お待ちなさい。香奈子さん。あなたは、不幸な女性です。一人の怪物の分身を産んでしまった罪深い女性。そう、あなたです。あなたに怪物を生ませてしまった罪深い男。それは僕。必ずお嬢さんを探しあててみせます。あなたの元に連れてきてみせます。時間の帳尻を合わせるために、全力を尽くします。そうなのです。私は警部補なのですから。警部補とは、本来、あるべき場所に時間を戻す役割を担っているのです。そうでしょう。そうあるべきなのです。いいですか。警察署のみなさん。時間の進みすぎている人、時間を置き去りにしてきてしまった人、時間を切り裂かれ、その裂け目に永久に放り込まれてしまった人。意識を剥奪され、時間の観念が消滅してしまった人>

 警部補は、そこで、机の上によじ登った。

<やりましょう!対策本部を直ちに立ち上げて!>

 一斉に拍手が沸き起こっていた。



 そのとき、警察では別の事件が話題となっていた。緑色の皮膚をしていたという囚人が、脱獄したというものだった。その囚人はまだ容疑者の段階ではあったが、独房に入れられたときから、徐々に徐々に皮膚の色が変色してしまったのだという。病気の疑いがあったため、精密検査を受けさせたが、異常はどこからも検出できなかった。採血したところ、血の色も正常ではなかった。しかしヘモグロビンや赤血球、白血球の量は平均値だった。しかし、酸素の含有量に違いがあった。酸素を処理できない、もしくしは、しないでもいい体質になっているのだという・・・。


 進みゆく舟に同乗した、黒い装束を来た四人の人間が、いつのまにか一人になっていることを知る。そしてファラオ・Мの側に移動していた。苦しみの中から搾り出すような死者の声がそこにはあった。その死のボイスはファラオ・Мの皮膚を震え上がらせ、熱源を奪っていくように感じられた。

「子供に、すべてを移譲させようとした」

 耳を近づけることなしには、よく聞き取ることができなかった。

「すべてを移譲させようとした。君の愛とはそういうものなのだ。愛して愛して、それで報われなかったときには、すべて自分の愛したものの責任にする。君の愛とは一方的なものだ。情熱はいつか苦悩へと姿を変える。そのことが君にはわかっている。だからこそ情熱をどこか一点に注ぎ込むことを、あるときに知ったのだ。そして注いで注いで注ぎきって、最後にはそれを切り離してしまう。自分の皮膚からは引き剥がしてしまう。まったくの別のものとして、君は感知せずといった、他人になりすますことができる。惨酷な人間だ。かつて、そうやって殺した人間が、何人いたのだ?君にとって、大事な人を、そのように生贄にしてしまったことが・・・。その過剰に注ぎ込む君の狂気は、罪以外の何を生んだのだろう?君は誰かと寄り添って歩くことができない。熱は発生し、その対象物を常に探している。君にとっては対象物でしかない。熱の行き場がない君にとっては。生贄はいずれ、その熱のすべてを受け取り、死をもって償う。しかし、君自身は、死をもって償うことができない。そういう体質に、どんどんと変化していっている。

 終わりのない輪廻の中にね。君がかわいそうだよ。君が世界に現れるとき、この世に一人の存在として蘇るときがあるとすれば、それは君自身が死ぬためのチャンスを得たということになる。もう他人を生贄にするのはやめたまえ。君を逮捕しようが何をしようが、起訴をすることはできない。釈放するには、あまりに時期が尚早だ。君は一人の若い女性に手を出した。ビデオに撮影した。あの子は、いったいどこにやった?捜索願いが出されたのだよ。君に関わる人間は、あまりによく姿を消す。死体はどこからも出てこない。殺してさえいないのかもしれない。君は何をしたのだ?どうやって人を消すことができるのだ?我々は困っている。教えてほしい。君は自白することはない。証拠はどこからも出てはこない。ただの噂と『消えた事実』だけだ。

 あなたが、そのすべての鍵を、握っている。

 そのことへの確信は、みな、一致するところだ。あなたを捕まえたといっても、これは証拠があってのことではない。我々はあなたを特別な場所へと隠すことにした。ここがどこだかわからないだろう。刑務所でも警察署でもないのだ。こんな場所をよく持っていると思うだろう。あるんだよ。我々にだって秘境のような場所は、いくつもある。しかし、ここはひどく臭いね。だから、我々は、こんなマントのようなもので体を覆っているのだ。まだ正常な人間でありたいからね。あなただけで、十分だ。

 ほら、見てごらん。だんだんと、皮膚は変色してきているでしょう。たとえあなたが、この監獄から抜け出せたとしても、外の世界ではあなたは有名人だ。目立つことでしょうね。どこに行っても、色物として見られるわけだ。サーカスに出演しているみたいだ。結構なことだよ。これで我々も、堂々と警告することができるのですから。みなさん、緑色の男には、十分注意してください。そいつはあなたを獲物として、捕らえにくるかもしれない。避けましょう。なるべく早く。

 あなたの風貌は、以前のような人を欺く美貌ではなくなった。むしろあなただって、常々、その外見をひどく嫌っていたはずだ。内側にある本性と、これほどまでに違った面を、なぜ自分は、持って生まれてきたのだろう。あなたのせいではありません。人生の前半では、あなたの手に負えないことばかりが起こります。あなたは結果であって、原因ではなかった。原因はあなたが作り出したものではなかった。あなたは結果だけを受け継いだ。そして、その熱。その熱は、あなたの新たな原因そのものです。あなたの行動は次第に顔を変形させていく。ついには、このような場所で、皮膚の変色が行われることになった」

 ファラオ・Мは、この男から、黒い布を剥ぎ取ろうとした。その瞬間、この男からも腐ったような臭いがした。そして、その装束は、いつのまにか無数の蛇へと変わっていた。

 蛇が身体を覆っていたのだ。顔から手から足に至るまで・・・。ファラオ・Мは吐き気に襲われた。その場にうずくまってしまった。しかし胃から噴出してくるものは何もなかった。

「近寄るな!この化け物!」

「化け物は、あなたが作り出したものです」

「失せろ!生意気な」

 舟はいくぶんスピードを増していた。風が感じられたのだ。冷たい空気が頬を伝った。

「我々は、捜査官ですから」

「冗談は、よせ」

「本等ですよ。探しているんです。あなたが消した人間を。あなたが闇に葬ってしまった人間を。あなた自身を闇に置くことで、その可能性を探っているんです。まだ決して死んでいるとは思ってません。まだどこかで、わずかな酸素と共に息をしている。わずかな酸素。酸素の少ないところで、あることには違いない。あなたの皮膚。緑色。札付きの犯罪者。半永久的、容疑者候補」

「臭い。お前は、醜い生きものだ!」

「捜査官を、馬鹿にしないほうがいいですよ。これは職務なんです。制服なんですから。正装ですから。あなたのための」

「消えろ!消えうせろ」

「あなたのことですから、簡単に消せるのでしょう?でも、私たちは防御する力がある。闇にあなたを引きづりこむ、その手段を、知っているのだから。たとえ釈放したって、いつでも連れ戻すことができる。それにそんな皮膚の色では、あなたは自分から、この闇を求めるはずです。自ら来ますよ。ここのほうが、肌に合ってるんですから。ダミーを地上に送ることを、お勧めしますね。あなたの体は、ここに置いたままに、意識の一部を、地上に送り出すはずです。体は何か適当なものを探し出します。憑依するんです。あなたはそういう人です。人の体を乗っ取って、我がもの顔で、地上を闊歩していくんです。でも、忘れないでください。あなたは緑色の皮膚をしているんですから。そして、他人の体では、けっして、あなたは地上で死を迎えることはないのですから。あなたは死ぬことのできる体であるべきです。本来。人が生まれてくる理由を、あなたは踏みにじり続けているんです」



 警部補はブロポワールという男だった。主要の事件からは外され気味だったこの男は、少女の失踪というよくある事件を、そのまま担当することができた。これは好都合だった。『プロポフォール』という名の薬によく似たこのプロポワールだったが、まさに名の通りに、存在をほとんど忘れられていた。プロポフォールは記憶を消す薬として、精神異常者のあいだでは一時期、流行った。そのときは、よく他の警部からからかわれたくらいで、その薬の存在が下火になるにつれて、プロポワールは再び、戦力から外れた事務作業へと戻っていった。

 けれど、事務の女性に対しては、とても受けがよく、プライベートで飲みにいくということもよくあった。事務の女性は、結婚や転職などといった理由で、一年か二年くらいで辞めていった。しかし彼との連絡は、その後も続くことがあり、また新しく来た事務員ともすぐに仲良くなった。彼はこの気楽なポジションがとても気にいっていた。妻にも内緒で、浮気もよくしていた。相手は事務の女性であることもしばしばだった。

「あなたの奥さん。きっと、浮気をしてるわね」

 あるとき、親密な関係に発展した事務の女性の一人に、そう言われた。

「あなた、そう感じたことはない?」

「ないよ。あの人は、そんなことはしない。別に、僕にぞっこんだからとか、そういうことじゃなくて。ただ、そんな面倒なことは、しないって。そう思うだけ」

「間違いなく、してるわね」

 彼女は断言した。

「見たのよ。あなたが、奥さんといる所を」

 その名前を挙げられたレストランには、確かに先週行った。日時もズレてない。

「その奥さんが、同じ店で、翌日も食事をしていたのよ。一人でね。それで、そのあとに来た男の人が、あなたではなかった」

 警部補は冗談だろうと思い、鼻で笑った。

「そうやって、脅して、何の得があるんだ?そんなことをしなくたって、君とは今後もうまくやっていくつもりだよ」

「私ね。ついていったのよ」

「どこに」

「二人の後を。そしたら、彼女。お店に入っていった」

「何の?」

「だから、そういうお店よ。あなたがときどき、摘発するようなお店よ」

「そんなことはないよ」

「ほんとよ。直接、訊いてみたらいいじゃないの」

「何て?」

「他に何か、副業をしているんじゃないかってさ」

「すごい訊きかただな」

「どんな反応をするのか、試してみなさいよ」

「鼻で笑われるだけだよ」

「見たところ、そんなに客はとってないようね。それに、そのあとも、何回か見た。男の人は毎回同じだった。でも会う場所は必ずそのお店なの。その男の人が、毎回あなたの奥さんを指名するからかしら。少ない出勤時間だったから、すべてをその男性が占拠してしまっているのかもしれないわ。だとしたら、すごい惚れようね」

「なあ、もうやめにしないか。そんな話、僕は信じない」

「信じなければいいじゃないの。でも、本当なのよ。あなた、奥さんのことを真剣に考えるようになるわ。わたしとの縁も切るはず」

「じゃあ、なんで、君はそんなリスクをとる?」

「本当のことを言いたいからよ。見てしまったんだから、もう逃れられないでしょ。ちゃんと、奥さんを問い正しなさい」

「やだね」

「それなら、わたしと来なさい。レストランで待ち伏せして、お店に入るところを見届ける。それなら文句ないでしょ」

 警部補は仕方なく受け入れた。事務員の女性があとに引かなかったので、まあ一度くらいは付き合うしかないなと思った。まんざら嘘を言っているわけでもなさそうだし。きっと見間違いなのだ。そう指摘してあげれば、満足するだろう。

「わかったよ。君の言うとおりにするよ」

「じゃあ、さっそく着替えて来なさい。今から行くわよ」


 二人はデートも兼ねた食事をすることにした。いつもの席とは、だいぶん離れた所に座った。いつも坐る席の様子を見ることは、彼女の席からしかできなかった。警部補の顔は、振り向かない限り、絶対に見られることはなかった。食事を終え、デザートを取っていたときに、事務員の女性の表情が一変した。

「きたわよ、ほら。まだ振り向いては駄目。丸見えだから。もうちょっと」

 警部補はフランボワーズのチーズケーキを、ゆっくりと舌に乗せていった。じわっと溶けていく舌の上には、控えめな甘さがいつまでも残っていた。

「待ち合わせをしてるだけだから。コーヒーだけよ。いい?あなたも食べ終えたわね。出る準備をしましょ」

「食事は、しないのか?」

「当たり前じゃないの。目的はアレなんだから」

 警部補は恐る恐る振り向いた。観葉植物の間から見えたその女性は、紛れもなく妻だった。何と言ったらよいのか。弁解の余地もなかった。事務員の女性は何も言わなかった。ほら、私の言ったとおりでしょ。間違いないでしょ。あなたは無頓着すぎるのよ。そんな、攻め立てるような言葉は一切なかった。むしろ、探偵の助手といった雰囲気を装っていた。

「さあ、行きましょう」

 彼女はあるべき事実を報告するための行動に、迅速に移っていた。

 そして、この行動は、警部補に思わぬシンクロニティをもたらすことになる。


 部屋には、二組のベッドが縦に置かれている。

 同時に二組の客が、同じ部屋で性行為に及ぶことになる。敷居はない。座敷の部屋だった。そこに男の腰以上に高いベッドが設置されている。襖のある<間>であって、ベッド同士は二メートル以上は離れている。事務の女性は、受付で詳細な情報を得ていた。その置かれた二つのベッドの一つを、警部補の妻が使うことになっていた。だから警部補には客を装い、隣りのベッドに潜りこむべきだと言った。六十分コースだった。女性に対してはノーマルなセックスにおいて、何をしてもいいということだった。

 襖の向うにはシャワールームがあったのだが、ここが驚いたことに、和室にシャワーをくっ付けただけという構造だった。排水機能はどこにあるのだろう。畳みはびしょびしょになった。そのままにしておいてよいのだろうか。体を拭き、二つのベッドがある部屋へと戻る。

 そのときすでに、隣りのベッドでは行為が始まっていた。女性は目をつぶり、仰向けになって足を広げていた。信じられなかった。男の顔はよく見えなかった。しかしかなりの年配に見えた。警部補は同じ行為をした。聞こえてくる妻の声に、対抗させるように、警部補は汗だくになりながら、女性を愛撫し続けて中に入っていった。

「どうでした?」

 警部補は、もう一組の男女よりも早く、部屋をあとにした。

「どうもこうもない」

「というと?」

「気持ちがよかった」

「そっちですか」事務員は呆れた。「声が聞こえてくるんだ。まるで僕がいつもやっているようだった。目をつぶれば、下には妻がいる。何ら、いつもと変わりのないような感じだった」

「そうですか」

「でも、これは、見て見ぬふりをすることが、できない」

「当然です」

「けれど、もう一度、来てみたい」

「まあ、それは、別にかまいませんけどね」と事務員は言った。「たとえ、あなたがそうならなかったとしても、あなたはここに何度も来ることになるんですから」

 事務員はおかしなことを言った。

「うっかり、あの失踪した女性の写真を、落としてしまったんです。それを店の人間に見られてしまったんです。申し訳ありません。でも、その女性のことを知ってるって、店員はそう言いました。どう思いますか?それで、わたし、突っ込んでどんどんと訊いてしまいました」


 階段の脇には、地下へと通じる階段があった。この建物が立つ前からあったそうだ。あまりに腐敗の少ない土壁だったので、塞いでしまうのは惜しいような気がしたのだと従業員は言った。

 警部補は事務員に先立って注意深く降りていった。空気は一気に冷たくなっていた。事務員は許可をとったのだという。ちょうど一週間前に、その失踪した少女と年配の男がやってきたのだという。店に女性を売り込みに来たのだが、その後、二人とも店の外に出ることなく消えてしまったのだという。<考えられるのはこの階段しかなかったのだが、誰も降りていく勇気が湧かず、そのまま放置されているんです。でも警察の方が来たのなら話は別です>

「君さ、僕が警官だって言っちゃった?」

「当然です」

「仕事中にあんなことをしたって、思われるじゃないか」

「なんだか、私。よくわからなくなってきました。これがプライベートなのか仕事なのか、それとも何か大きな流れの中に巻きこまれてしまっているのか」

 二人は懐中電灯を片手に、階段を一つ一つ、丁寧に降りていった。階段は終わった。そして、目の前には地下道が広がっていた。大きな車が通れるほどの幅があり、天井も三メートル以上はあるような気がした。ぽつりぽつりと、水滴が頭に落ちてくる。

「洞窟みたいな場所だな」

「地下水が流れてますね」

「この近くに?」

「わずかに音がします。地下水脈ですね」

「ここは、迷路なのだろうか」

「おそらく迷路でしょう。最近作られたものではないはずです」

「よくまあ、腐敗しないで残っていたものだ。ところでさ、ここにその少女は本当に降りてきたのだろうか。男が無理やり連れてきたのだろうか。犯人はここの存在を知っていたのだろうか」

「そうですね。あるいは、店の人間の犯行かもしれませんよ。何らかの事情で隠さなければならなくなった。だから、この地下に身を置かせることにした。でも、あの従業員は、自分に罪が降りかかることを危惧して、我々に協力することにした」

「妻のことだけど」と警部補は申し訳なさそうに切り出した。「妻のことはとりあえず、忘れてくれないか?今、どうこういう問題じゃないだろう。このことは僕らで何とかするから。僕に任せてくれないか」

「いいですよ。元々、あなたの問題なんですから」

「ありがとう。じゃあ、この事件に、意識を集中させよう」

 二人は壁にコウモリの死体が貼り付けにされている様子に、気味悪くなりながらも水脈を求めて先へと急いだ。

「あっ、ちょっと、待て」

「どうしたんです?」

「ねえ、俺たちは何故、先に進んでいるのだろう?どうして立ち止まったり、引き返したりしないんだ?変じゃないか。俺たちは変になっているんじゃないのか。これは仕組まれているんだよ!だって、僕らは何の意識もなく、ただ進んできてしまっているじゃないか。そうだろう。僕らの足は誰かに仕組まれてるんだ。地下の迷宮を彷徨わせ、出られなくしてしまう罠だったんだ。君もそうは思わないか?これは少女の時と同じ手だ。僕らを誘導し、殺すために仕組んだ地下の世界だ!危うく嵌り込むことだった。戻ろう。今すぐに戻ろう。あとでまた来よう。もう一度頭を冷やしてから、十分な作戦を練ってから来よう。警視庁にも協力を要請しよう。電波はあるかな。ないよな。じゃあ引き返そう。今日のところは撤収だ。活動の拠点を把握しただけで収穫だ。戻ろう」

「あの」と彼女は弱弱しい声を出した。「どこに戻るのですか?」

「警察だよ」

「どこから?」

「今、降りてきた階段を登ってだよ。そして、あの部屋を通って、受付にまで戻る。妻と鉢合わせにならないように気をつけないとね。君が先頭を行ってくれよな」

「あの」

「どうした?」

「その階段ですが、一体、どこにありましょう」

 警部補は叫んだ。「もと来た道を引き返せば、それでいいんだ!」

「わかりました」

 二人は早歩きで戻り始めた。しかしどれほど時間が経過しても、階段の存在はいっこうに現れてはこない。壁には死んだコウモリの姿しかない。そこから天井に向かって伸びている階段なんてどこにもない。

「梯子は取り去られてしまったんですよ」と彼女は弱弱しい声でいう。「あれは梯子だったんです。妙に新しかったでしょう。あれは階段なんかじゃない。ここに人間をおびき寄せるための、誘惑の階段だったんです。今、わかりました。すべては仕組まれていた。戻ることはできなくなりました」

 ここで女はククククと笑い始めた。

「ずいぶんと手のこんだやり方ですね。クククク」

「なんだ、貴様」

 警部補の口調も次第に変化してきた。

「お前、なんだかこの短時間で、人間が変貌したんじゃないのか」

「まだ、わかりませんか」

「何のことだ」

「私の正体のことですよ」

「事務員だろ。俺と不倫をしている」

「何もわかってないんですね」

 事務員は呆れ果てたような声に変わる。「事務員はしょっちゅう変わっていたでしょう。あの人たちもすべて、同じ場所から派遣されているんです。そう。この場所から。ゾンビですよ。あなたが今目撃している女も」

 そう言った彼女の目は光り始めた。口の中からは牙が伸びてきた。四隅に牙が現れたのだ。

「血を吸ってほしいですか。欲しいでしょう」

 警部補は言葉を失っていた。口を一生懸命に動かそうとしたが、声の方は全くついてこなかった。

「少女のこともすべて仕組まれたことです。あの女も仕込んだんです。当然じゃないですか。深浦香奈子なんて女、どこにもいないんですから。わたしたちはみな同じ場所に生息する人間なんですよ。人間じゃない。ゾンビです。あなたの奥さんだって、同じ仲間ですよ。ずいぶんと前からあなたを嵌めていたんです。奥さんも、深浦香奈子も、数多の事務員の女も・・・。あなたを選んだんですよ。厳密にあなたを選んだんです。この世界に引き込んでも、地上の世界ではたいして支障のない人間をね。あなたは本質的に孤独な人です。私はね、一つの実験がしたかったんですよ。一人の人間が、どれほどの孤独に耐えられることができるだろうか。孤独に果てはあるのかって。その実験が何としてもしたかった。実在の人間を使って。彼がいったいいつ発狂してしまうのか。発狂することはそもそもあるのか。あなたが選ばれたんです。すべてがまやかしだと認識した今、どんな気持ちですか」

「全部、嘘だったのか!」

「始まりは深浦香奈子でもありません。あなたの奥さんでもありません。もっとずっと前から、念入りに準備は進められていたんです。クククク。孤独に果てはあるのかってことです。あなたには、最初の実験台になっていただきます」

 女は壁に張り付けられたコウモリの死体をむしり取り、うまそうにバクバクと口の中で咀嚼していた。

「何か、質問は!」擦れたドラ声に変わった。

「人はどう狂っていくのか。私はそれが見てみたいのだ。しばらくは、モニターでチェックさせてもらうよ」

 事務員の女性は、いや、元事務員の女性はそう言って、さっきまで進みかけていた方向に向かって走り去っていった。あっというまの出来事だった。あっというまに世界は覆されてしまった。すべてが仕組まれていただと?そんな馬鹿な。一体どこまで戻ればいいのだ?記憶はどこまでが事実だったのだ?繋ぎ目はどこにあるのだ?どこで、編集された映像が、紛れこんできたのだ?

 警部補には二度と戻れないことを自覚したこの男は、自分がどこまで戻ればよいのかわからない暗闇の中、盲目に階段を探す以外に動きようがなかった。まずは階段を見つけなくては。すでに発狂してしまいそうだった。

 どこかで一度見たことのある風景だなと男は思った。

 自分が警察署に勤め、結婚までしていたという事実は、あっさりと現実味をなくしていった。その代わりにここにいる今の状況こそが、遠い過去を追体験しているような気がしてならなかった。天井からは水がしたたり落ち、男の額に当たる。コウモリの死骸が壁に貼り付けられている。そのあいだにピンで留められた黄色やエメレルドグリーン色をした蝶が、標本のように貼り付けられている。臭いは全くない。まだしないのか。これからするのか。臭いの強烈だった記憶を、体は鮮明に覚えていた。自分が今どうしてここにいるのか。なぜこんなことになってしまっているのか。自分の落ち度はどこにあったのか。とにかく進んでみるしかないなと男は考え直した。自分が今もすっかりと監視されているような気がした。行動は逐一見張られ、記録として画像に残されている。男はパンツをずりおろして自慰でもしてやろうかと考えたが、性器は覇気をなくしていた。丸出しにした途端に、コウモリが群がって血を吸うんじゃないかと思った。こんなとき、自分専用のピラミッドがあったらな・・・。

 えっ、ピラミッド?

 どうして、ピラミッドが出てくるのだ?

 思い浮かんだその映像は、外側から見たものだった。

 上空から側面に向かって撮影した映像だった。ピラミッドの周りを旋回しているヘリコプターの中からのものだった。所々に窪みのようなものがある。だんだんとそれは女性の裸に見えてきた。ちょうど土壁は人肌のようにも見えたし、その窪みは四つん這いになった女性を後ろから眺めているときのような、そんな風景に見えた。肛門があり、その影には性器がある。

 しかし男は何度ピラミッドの映像を再現してみても、自分が内部にはいないことを実感する。中に入っている自分を想像することはどうしてもできなかった。遠くから女性の裸を眺めているだけのような気がしてきて、自分が今暗闇のなかで取り残されているという事実を呪うしかなかった。

 壁に並べられた蝶やコウモリの群は、いきなり途切れ、鉄格子の部屋が並び始めた。

 札がついていて、R、V、Мという文字が見えた。中は暗くて見えない。しかし人がいるような気配はない。物音もしなければ臭いもしない。門はほんのわずかだけ開いているように見える。囚人はもう外に連れ出されてしまったのだろうか。ここは地底の収容所なのだろうか。何の罪で入れられたのだろう。鉄格子の部屋は三つで終わり、壁には再び貼り付けられた何かがある。よく見ると、それは緑色の皮膚をした人間の顔を真似た、お面だった。何十と並べられているのがわかった。男の顔のある位置とほぼ同じ高さで、貼り付けられていて、それが進行方向にむかって延々と伸びていたのだ。男はそれを追った。それは果てがないように感じられた。


・・・確かに、私の娘だったんです・・・


  そのとき、警察では、別の事件が話題になっていた。

  緑色の皮膚をしていたという囚人が、脱獄したというものだった。


「ここは、迷路なのだろうか」

「おそらく迷路でしょうね」


       「最近作られたものではないはずです」


   ・・・事務員はしょっちゅう変わっていたでしょう・・・


「少女のことも、すべて仕組まれたことです」


      ・・・深浦香奈子なんて女、どこにもいないのですから・・・



 心の中から聞こえる声を振り払うように、目線を上にあげようとした。

 するとそこには、どでかい聖堂のような輪郭が現れていた。

 文字通り、激然と立ちはだかっていた。鬱蒼とした光景が、目の前にそっくりと移動してきたかのようだった。

 暗く青々とした背景の中に、黒い高さのある建物が出現していた。鋭利な先端が、天を突き刺すかのごとく伸びていた。

 こんな世界が娼婦の家の地下にあるなんて、とても信じられなかった。

 結婚式ができるような教会の雰囲気は、まったく感じられない。離婚の儀式をとり行なうためのような場所に思える。決して幸せになれるような場所ではなかった。産んだ子を捨てにくるような場所。無人の中、天の裁きを下されるような場所だった。葬式にも相応しくない。人がたくさん集まるような場所ではなかった。そこには一人か多くて二人の侵入しか許されない。誓い。告白、懺悔。ただ、それだけのために。

 しかし、ここが閉じられた場所のようには、どうしても見えない。

 言葉は闇に沈みこみ、肉体を絶えず蝕み続ける、そんな場所には、少しも見えない。開かれた場所。どうして、そう思ったのかはわからない。開かれた場所としか言いようがなかった。

 何か、告白することでもあるのか。懺悔することでもあるのか。誰かに、何かを伝えることがあるのか。いつ、何を、どのように誤ってしまったのだろう。間違ってしまったから、こんな場所にいる。

 目を瞑り、何度も、自問自答を繰り返す。答えはどこからも聞こえてはこない。

 初めからわかっていたことじゃないか。聞こえた。そう聞こえた。

 しかし、言葉は続かなかった。この先に進む以外に道はないんじゃないのか。とりあえず、目の前には違う景色が現れたのだから。景色を信頼したらどうだろう。中に入ってごらん?でも入れるようには見えません。見えないんじゃなくて、そう思いこんでるだけなのだよ。中に入っていけるイメージをしてごらん。そう。だんだんと質感が変わってくるはずだよ。色だって変化してくるかもしれないよ。

 男は勇気を持って、聖堂に向かって歩き始める。目を閉じ、眼に見えていた輪郭を、静かに消しとった。

 そこには、また別の建物が立っていた。

 蒼い背景はすでになく、どんよりと曇った灰色の景色が、街の外観とともに現れてきた。

 そう。そこは市街地だった。大都市に佇む、大聖堂だったのだ。


 裁判はすでに始まっていた。

 男が入り口のところで立ち往生していることに気づくものは、誰もいない。

 傍聴席、被告人席、陪審員席、検察官の席、弁護士の席。

 緑色の光が大聖堂を埋めている。緑のライト一色に統一されている。

 被告人は女性を連れ去り、暴行を加えたという容疑で、逮捕起訴されていた。しゃべらない被告人は、容疑を認めているのだろうか。反撃の機会を窺っているのか。わからなかった。

「あなた、免罪符を売りましたね」

 検察官が立ち上がり、被告人の男に近づいていく。

「免罪符を売りましたね」

「異議あり!本件とは、何ら関係のないことです」

「いえ、後には、ちゃんと繫がってきますから。続けさせてください」

―異議を却下しますー裁判官は言った。陪審員は検察官の言動に集中していた。

「この男の職業は、免罪符を売ることです。それで生計を立てていました。けっして犯罪ではありませんが、男の本質と深く関わることなので、この際、述べておきます。しかも教会とは、何の関係もないこの男が、このように独自に札を刷って販売している。自宅を事務所と称して客をとっている。どうも、そこに、少女は現れたようなんです。この男の噂を聞きつけたのでしょう。他にもたくさんいたそうです。しかし男はその少女をいたく気にいってしまった。だから親密な関係にまで、発展させたのでしょう。最後はおそらく口封じです」

 陪審員は息をのんで見守っていた。

 警部補は自分があの場で、起訴している立場にたっているかもしれなかった現実のことを思った。しかし、それは今、とってつけたイメージであって、日頃の彼の中にあっては、まるでリアリティのない事柄だった。自分は今紛れ込んでしまっているだけの一人の傍聴人であり、さらには、この裁判に口出しすることは出来ない立場だった。

 しかし、被告を一目見たときから、言われているような犯罪をしでかした人間には、全く見えなかった。確かに、免罪符を売っていたのは事実かもしれない。しかしそれは、生活費を得るための行為であったわけだし、その札のおかげで、実際に困難を克服しようという気力が湧いた人間も、いるに違いなかった。

 一概に、外野から文句を言われるような、訴えられるようなことではないような気がした。

 しかし、この男は何もしゃべらない。反論ひとつしない。少女と関わりがあったことも、事実かもしれない。しかし、言われているような、暴行をするような男には、とても見えてこない。

「あいつだ!」

 被告人の男は、突然、大声を上げた。

「あいつだ!あいつが、僕を嵌めたんだ」

 指を差されたのは警部補だった。

「思い出した。あいつが、僕の最初の担当官だった!」

 会場の注目を一斉に浴びた。さっきまで、一人きりで地底を徘徊していたなんて、嘘みたいな話だ。

「いつのまにか、すりかえられたんです。あの人でした。確かに。その後は、ぱったりと見なくなってしまったので、勘違いだと思っていたんです。あんな人はいなかったと。見間違えだって。でも、再び、僕の前に姿を現した。見届けにきたんですか?僕が殺される瞬間を。確認しに来たんですか?あいつです。あいつが、僕を嵌めたんです!」

―ちょっと、落ち着いてくださいー

 裁判官に、たしなめられた。

「あいつに違いない。あの男、警察官なんです。これは冤罪です。僕を引っ張っていって、そして、ある空白になっていた事件の容疑者の枠に、僕をはめこんだんです。あいつは手柄がほしかった。早いところ解決させたかった。だから、手ごろな人間を引っ張ってきて、犯人に仕立て上げた。けれど、あの男は、そのあとですぐに姿を消した。誰に聞いても、そんな男はいないと言われた。僕の頭がおかしくなったんだろうと言われた。あまりにも言われたものだから、そのうちに、自分でもそう思うようになっていった。それなら、あの男は、いったい何なのです?こっちに連れてきたらどうですか?」

 警部補は何がなんだか、正直わからなくなっていった。男が錯乱しているのなら、それはそれで構わなかった。けれど、この俺が、何故、こんな場で名指しされないといけないのだ?恥をかかなくてはいけないのだ?

「しかも、あの男。本当は警官なんかじゃない。そのことも、僕は一瞬でわかった」

「それでは、何なのですか?」

 裁判官も、話に乗ってしまっていた。

「あの男の皮膚をごらんなさい」

 会場がまた一斉に注目した。

「緑色をしていませんか?」

 何だって。緑色?

 それは、この空間を照らしている照明の方の色ではないか。俺の皮膚の色なんかじゃない!

 警部補は、だんだんと馬鹿らしくなってきた。

 さっき一目見たときに、この男は決して犯罪などおかしていないなどと直観したことも、何だか馬鹿らしくなってきた。そんな同情なんて、いらなかったのだ。

「そのことを、もっと真剣に考えるんですね」

 被告人は自分の話を逸らすかのように、違う男を指差し続けた。陪審員の何人かはちらちらと、よそ見をするようになり、何度も目が合うことになった。

「あなたの裁判ですよ!」と検察官は男をたしなめた。「あなたは、自分の犯行を自白するべきです」

「それでは、答えましょうか」

 被告人は挑戦的な態度を崩さなかった。

「認めますよ」

 会場はどよめいた。

「ただし、条件つきです。あの男も関与したということです。その条件を飲んでくれるのなら、僕は犯行を自白します。すべてを認めます。受け入れます」

「犯行を受け入れるって、どういうことですか?」

 検察側は不思議に感じたらしい。

「判決を受け入れるってことならわかります。しかし、犯行を受け入れるって・・・。あなた、すでに犯したんですよ。やられた側じゃない」

「それはあの男に訊いてください。あの男に指示をされ、僕はやったまでです。もし本当に僕がやったのならね。それでも、やったというのなら、何をですか?それさえわからないんですよ。中身が何かわからない。でもあなた方がやったというのなら、やりました。認めますって言っているんです。受け入れますよと言っているんです。しかしあなた方がそう言うだけなら、僕はずっと口を閉ざしたままです。あの傍聴席の男が関与したということが確定してから、僕の言説も確定するんです。僕はあの男から指示をされていたのですから」

「以前からのお知り合いなんですか?」

「そうですよ。ずっと昔からの腐れ縁ですよ。生まれる前からの。あの男はずっと消えないんです。死んで再生して死んで再生して。いつだって僕の前に現れてくる」

「どうも、あなたには精神鑑定が必要のようだ」

 弁護側がここぞとばかりに攻勢に出始めた。

「おわかりのように、この人はたいへん脳の機能を損なっているんです。おわかりですね。ずっと黙秘を貫いてきましたが、今、その損傷は公にさらされました。裁判長!精神鑑定を求めます。よろしいですね」

―認めますー

 裁判官は即答だった。

―ただちに、準備に取り掛かってください。次回は、その結果を元に、開廷いたしますー

「精神鑑定だって?」

 被告人は納得いかないようだった。「俺はどこもおかしくはない。あの幻影はずっと付きまとっているんだ。本当なんだ。みなさんにだって見えるでしょう。ほら。あそこに。確かにいるでしょう。連れてきてごらんなさい。あの男の名前。みなさんはご存知ですか。僕は知っています。僕だけが知っています。知りたいですか?」

「裁判長!」

 弁護人は閉廷をお願いした。

「鶴岡です」と被告人は叫んだ。

「鶴岡っていう名前の男です。あいつが鶴岡なんです。鶴岡警部補。みなさん、忘れないでください。鶴岡警部補です」

 被告人は両腕を抑えられ、引きづられるように、法廷を退去させられてしまう。

「ほら、あいつです。あそこにいるでしょう」

 しかし、傍聴人や陪審員がどれほどその指し示す方向を凝視してみても、そこにはどんな男の存在もなかった。被告人は空気の塊に対して、指を差しているだけだった。



 木々の緑もあざやかな今日この頃、皆様には、おすこやかにお過ごしのこととお慶び  申し上げます。

 この度、私たちは、結婚式を挙げることになりました。日頃の、ご厚誼を感謝するとともに、末永くいおつきあいをお願い致したく、ささやかながら披露の小宴を催したいと存じます。

 ご多用中とは存じますが、ご出席くださいますよう、お願い申し上げます。


                           鶴岡  満

                           田路浦 香奈子



「どうしてこうなってしまうんだろう」

 鶴岡は娘が生まれたあとで、自宅に帰ることは少なくなっていた。香奈子との連絡も一方的に拒否を繰り返していた。娘の体の成長が異常なスピードであることを聞いても、けっして近づこうとはしなかった。相談に乗ることもなかった。

「どうしてこうなってしまうんだろう」

 薄々、こうなることが鶴岡にはわかっていたのだ。病気の人間から生まれた子供が、病気でないわけがないじゃないか。どんな奇形が出てきても、おかしくはなかった。すべては精神が生み出すものなのだ。歪んだ心が生み出したものに、正常なものが宿るはずがない。だがどうして醜くて悪臭を放つ化け物が、生まれてはこなかったのだろうか。どうしてあんなにも美しい娘が生まれてくるのだろうか。香奈子が送ってきた写メールには、目にとても力のある、十代後半の女性の姿があったのだ。

「どうして、こうなってしまうのだろう」

「あなたに似ている」

「病気が引き継がれている。だが、それにしても、美人だ」

「いなくなってしまったの。ビデオだけ残して。それがとんでもない映像なの」

「俺は、何をすればいい?」

「まずは、私の側にいて。それから・・・」








































第Ⅳ部   青血  <セイケツ>




















 亜子が鶴岡の前に現れたのは偶然のことだった。街中でふと鶴岡とすれ違ったような気がしたのだ。振り返ったが、そこには誰もいなかった。だがそのまま通り過ぎていく気にはなれずに付近を捜すことになった。確かに殺気のようなものが感じられたのだ。その気配に、亜子は自分が鶴岡を求め始めていることを知る。

 リョウコもテルユキもいなくなり、ヨウセイ一人にしか相談事ができない現状においても、ヨウセイは私と真剣に向き合おうとはせず、深浦香奈子の話ばかりが口をついて出てくることになる。でももう終わったことなんだと彼は繰り返した。深浦っていう女自体が、今でも気になっているわけではないんだ。あれはあのときの女。あのときだけの彼女を、深く熱望したんだ。何年か後に再会したときには、まるで心は揺さぶられなかった。

 けれど、私はそれなのよ。今初めて、私は鶴岡君に、心を揺さぶられているのよ。気持ち悪い。帰って!と言ったときの私とは、変化していたのだった。鶴岡君のことをもっとよく知りたい。怖いけれど、何を考えているのか知りたい。それが真実なのかどうかはわからない。この空虚感、孤独感を解消したい。

 そう思えば思うほど、亜子の中で鶴岡の存在が大きくなっていった。そしてついに、自動販売機でコーラを買っている鶴岡の姿を発見する。

「久し振り」

 亜子は近づいていって声をかけた。

「結婚式に行けなくて、ごめんなさい」

 鶴岡はサングラスをしていた。

「いいよ。もう、その話は」

「結婚生活は、どう?」

「誰と結婚したのかは、知ってるだろう?」

「テルユキの元恋人」

「君への当てつけだと思ってるんだろう?」

「ええ」

「その彼女とも、今は、一緒に暮らしてはいない。娘もできてね。その子も、今はどこにいるのかわからない。二人とも僕の側にはいない。みな最終的には僕から離れていってしまうんだから。愛が報われたことはない。情熱は拒絶と失望ばかりを、突きつけてくる。そしてその情熱も何かの勘違いであったかのように消失している。最初の場所さえわからなくなっている」

 私がいるじゃない、と亜子は思わず言ってしまいそうになる。今は私がいるじゃないと。あなたのことが忘れられないの。そう口に出して言ってしまいたかった。たとえ拒否されても想いは伝えたかった。

「今から時間はある?」

 亜子は鶴岡を食事に誘っていた。

「申し訳ないけど、あなたとはもう会わないほうがいいと思う。二人でいるところを誰かに見られたら、ただ事ではすまないよ。君も僕も家庭を持っている。たとえ崩れ始めていたとしても、もう始まってしまったことだ。途中で投げ出すことはできない。責任がある」

「あなたが好き」と亜子は路上で告白していた。「あなたのことが忘れられなくなっていた。いつからか、あなたのことを求め始めていた。香奈子さんと別れなくていい。私もヨウセイとは別れない!ねえ、テルユキとリョウコのことは聞いたわよね?あの二人、どうして死んでしまったの?二人とも違う死に方で。同じ日に。私たちはね、あの子たちのことを鏡を見るみたいに見ていたの。状況がそっくりだったから。崩壊は突然にやってきた。私はそれを目の当たりにしたの。あなたの家庭を壊すつもりはない。でもこのままだと、私たちもリョウコたちと同じようになってしまうかもしれない。そんな恐怖がある。何とかしたいの。あなたがまた、昔のように私たちに加わってくれることで、物事は自然に動き始める気がするの。お願い。私を愛して。私を壊して!」

「いつだって、あなたは自分のことしか考えていない。僕の気持ちを、考えてくれたことはありますか?ヨウセイだってかわいそうですよ。あなたみたいな気まぐれに、付き合っていかなくちゃいけないんだから。確かに僕はあなたのことがずっと好きだった。それは今でも変わらない。でもあなたは僕に興味を抱きだした。香奈子と一緒です。僕の情熱は一方的なんです。相手から拒否されればされるほどに、燃えあがってくる。あなたとは違う。あなたは失望感や孤独から逃れるために、相手に同意を求める。共感を求める。同じ場所にいることを求める。でも僕は違う。相手に嫌われれば嫌われるほど、心を揺さぶられる。今のあなたに対しては、情熱が抱けません。香奈子のことも一緒です。僕はあなたとは違った人間だ。ヨウセイとあなたは似ている。だから一緒になった。正解ですよ」

「家庭を壊す気はないの」

「言ってることが滅茶苦茶ですよ。あなた、一体、何を望んでいるんですか。この人生において。あなたが、今、どうしたいかなんて、僕が聞いても仕方のないことです。あなたの望みと、僕の望みが、食い違っているとしかいいようがない。それでも僕はあなたのことを抱けばいいんですか。お義理で抱き合えばいいんですか。人並みには、立つとは思いますよ」

「失礼なひと!やっぱり、あなたは昔とちっとも変わってない!そういう人間なのよ」

「裸になりましょうか」

 鶴岡の挑発的な言葉に、亜子の怒りはすぐに頂点に達した。

「馬鹿にしないで!」

「それはこっちのセリフです」

「ふざけるんじゃないわよ。私を何だと思ってるの!」

「そっくりとお返ししますよ。自分勝手な人なんですよ。あなたは。いつだって。僕は最初から気づいていましたけどね。三人で遊んでいた頃から。あなたの、その、鼻っぱしの強いところが、とても好きだったんです。また出てきましたね。消えてなくなってしまったわけではなかった。突っつけば、もっと過激になってくるんでしょう。僕も熱くなってきましたよ」

「気持ち悪い!」と亜子は叫んでいた。

「その調子ですよ。僕に抱かれたいでしょう。僕の性器を一日中、舐めまわしていたいでしょう?」

「ああ、本当に気持ち悪くなってきた。もう帰って!帰りなさいよ!」

 何年も前に、自宅アパートの前で叫んだときの状況が、再び蘇ってきた。

「帰りなさい!」

 だが鶴岡の顔には笑みが戻っていた。

「嬉しいですよ。亜子さん。亜子さんはやっぱり亜子さんだ。そして僕が情熱を取り戻せることも知って、本当に感激です。あなたを求め始めた。しかしあなたは僕から逃げる。僕の気持ちには応えてもらえない。何て馬鹿なんだろう。こんな状況にさえしなければ、あなたの体はすっかりと僕のものになったのに。あなたは自分から脱ぎに来たのに。僕が口数少なく、あなたの行動についていけば、それで事は成就したのに」

 亜子はその場を逃げだした。

 その夜、ヨウセイには、鶴岡のことを一言ももらさなかった。ただ、ベッドの中のヨウセイに静かに近づき、彼の体を隅々まで愛撫した。睾丸の裏から肛門の近くまで。ありとあらゆる所を貪りつくした。ヨウセイは驚きはしたが、いつのまにかその快感に抵抗感をなくしていった。ヨウセイとの激しいセックスは、そのまま朝まで続きそうな雰囲気があった。だが眠りはいつのまにか訪れていて、夜明けと共に、亜子はヨウセイの胸の中にいることを知った。昨夜はどうしたんだと、ヨウセイが訊いてくることはなかった。一体何があったんだ、昼間。誰かと会ったのか。この急激な変化は、何を意味している?何も訊いてはこなかった。

 亜子は眠っているヨウセイの体からは離れ、冷蔵庫に水を取りにいった。そしてブラインドから外を眺めた。昨日のことはできるだけ頭では考えないようにしていた。今後も、こんなに燃え続けるのだろうか。ずっと続いていくのだろうか。眼下に見える都会の街は、すでに人でいっぱいになっていた。終わりのない硬直したシステムが、すでに、フル稼働していた。


 死者は地下鉄に乗って、田舎から都会へと足を踏み入れる。郊外の墓地の底から通路を伝い、線路へと抜け出る道を見つけた。死者は加速する列車に音もなく近づき、すっと中に入り込んだ。何食わぬ顔でコンパートメントの空席に身をよせる。乗客は本に夢中になっているか眠り込んでいるために、死者が加わったことには気がつかない。自殺した死者は、この世に留まり続けている。都会は生前の風景とは、似ても似つかなかった。色彩感覚を失っている。基調が緑色に染まっている。濃淡の違いがわかるだけだった。モノクロには変わりがなかった。その基調が緑なのだった。店の看板や広告はすべて姿を消している。その建物の内部では、何が行われているのかわからない。適当に当たりをつけて入ってみたところ、コーヒー豆の匂いがぷんとする。死者はホットコーヒーを頼む。すると店の中には、林檎がそこらじゅうに転がっているのが見えた。あやうく踏みそうになった。コロコロと転がってきて、足にぶつかりそうになった。けれど林檎は足に触れることなく、そのまま通過してしまった。自分が半透明であったことが、これでばれてしまうと思ったが、店の中に転がった林に触れた人間は、誰もいなかった。林檎の方がバーチャルだった。拾って掴もうとしても駄目だろう。「あの、林檎」と死者は呟いてみた。

「林檎が、どうかしたのですか?」

「あ、いえ」

 壁に張られた絵の中には、同じような林檎の絵が無数に描かれていた。するとその林檎の一つがコロっと床に落ちたのだ。真下にいた人にぶつかった。けれど誰も気がつかなかった。林檎がいたるところに転がっているのを知っているのは、自分だけであるような気がした。ある人の横に置いてあった、開いたバッグに、林檎が二つも入り込んでしまい、そのまま店の外に持っていってしまうように見えた。

「林檎のコーヒーにしますか。当店オリジナルのアップルコーヒーに」

「ええ、変えます」と即答した。

 額に入った林檎の絵は、そのあいだも、こぼれ落ち続けた。キャンバスには机の上に乗った籠が描かれていて、その中から林檎がどんどんと出続けていた。そしてその絵の横には、いくつかのモニターが置かれていて、街の様子が断片的に見られるようになっていた。気づけば、天井にもモニターはあった。さっきまで歩いてきた道が、そのまま映っていた。地下鉄の駅の構内の様子も、そのまま映し出されていた。地下鉄の線路も映っている。線路に通じる抜け道の存在も、明らかになっている。死者は青くなった。顔が青くなったに違いないと思った。これは、今、自分が辿ってきた道ではないか。周りを見わたした。だが自分に気づいているものは誰もいないようだ。あるいは、みな、申し合わせたように無関心を装っているのだろうか。だがこんなことをして何になるのだ?何の目的があるのだ?床には林檎が転がり続けている。しまいには、足の踏み場もないほどに、増加してしいる。蹴っ飛ばそうとしても、空振りを続けるだけだ。モニターはすでに別の情景を映しだしていた。そのとき、別の客が店内に入ってきたのだ。これが近未来都市なのだよと訴えかけてくるかのごとく。入店する人間の実情のすべてを把握しているのだと、誇っているかのごとく。遡った過去の映像をすぐに入手し、放映することができるのだと。

 だが、話は、そこから先に進まなかった。ただ数十秒流れるだけで、次の客が入ってきたときには、カメラは切り替わってしまっていた。録画されているのだろうか。モニターを、逐一、チェックしている人間がいるのだろうか。

「食べ物は、いかがですか」

 メニューを見ると、そこには商品の代わりに指名手配犯と、被害者の顔写真が載っかっていた。

<親子二人が、行方不明。担当した捜査官も、失踪>

 席につき、モニターをちらちらと見る。客で見ている人は誰もいない。

 一人で来ている客が全然いなかったのだ。店内は喧騒に満ちていた。話は止め処なく溢れ出ている。林檎に気づくものもいない。いや、みんなは、見えていたとしても、特に気にはなっていないのかもしれない。店の演出で、林檎は、そこらじゅうにあるのかもしれない。アップルコーヒーがシンボルマークとして、バーチャルに存在させている林檎なのかもしれない。

 しかし、自動ドアが開くたびに、林檎は外に溢れ出ているように見える。

<担当捜査官を、第一容疑者として、指名手配>

<自作自演が発覚>

<娘の失踪の捜査を、母親が依頼してきのだと、虚偽の報告>

「やだぁ。ちょっと、見透かさないでよ」

 喧騒は、ますますひどくなっていった。

「いえ、食べ物はいりません」と死者は答えた。

「いやだって。こっちに向けないでよ。見ないでよ」

「でもさ、便利な世の中になったな」

「透けて見えちゃうんだからな」

「洋服着てても、無駄よね」

「そうね。いっそのこと、みんな裸になっちゃえばいいのに」

「自己表現なんて、する必要がなくなったものね」

「俺は、始めから興味がないね」

「何だっていいんだよ」

「そうは、変わらないんだから」

「脳みその中を見ても、気持ち悪いだけだろ」

「モニターくらいが、限界だね」

「中には入りたくないね」

「ほんとに?私は入ってきてほしいな」

<担当捜査官を、第一容疑者として、指名手配>

<自作自演が発覚>

<娘の失踪の捜査を、母親が依頼してきのだと、虚偽の報告>



 何故、自分が追われなくてはならなくなったのか。鶴岡は事態を飲み込めずにいた。地下に降りていき、おかしな裁判を見せつけられ、被告人に名指しで、鶴岡だと言われたときから異変は起こった。いや、そもそも、神経はそのだいぶ前からおかしくなっていた。自分の妻が警察に駆け込み、その担当官が自分であるという状況自体、どう考えてもおかしかった。コントみたいだ。悪夢が今だに醒めていないかのような、心地の悪さだった。おまけに容疑までかけられているのだ。実父が妻と娘を殺し、逃走しているのだと。逃走なんてしていない。ただ家に帰りたくないだけだ。しばらく一人でいたい。しばらくが、どれくらいの長さになるのかはわからない。気のすむまでだった。こんな中途半端な気持ちのまま帰ったとしても、事態は好転しない。ますます複雑になるだけだ。もう一度、見つめ直さなくてはいけなかった。どこで、間違いが起こってしまったのだろう。それを見極め、今の気持やこれからのイメージを、立て直さなければならなかった。

 亜子に偶然会ったことで、すこしは気が晴れた。そもそもの元凶は、亜子にあった。亜子に対する想いがすべてを引き起こしているのだ。そのあと、街のモニターで、自分が指名手配になっていることを知った。画面には自分と妻と、娘の画像が映っていた。娘がいなくなったことは、香奈子から報告を受けていた。しかし心配などしてなかった。家に帰らず、香奈子に任せっきりだった。年頃の娘によくある、家出だろうなと思った。そこに悪夢が突然に挿入されてきたのだ。夢遊病者のように連れていかれるままに気づけばこんなことになっている。

 娘と香奈子は、同年代の友達のように見えた。



 Vは、注射器の中の液体を真っ赤な林檎に注入していた。

 林檎は、部屋を埋め尽くすほどに溢れかえっている。

 Rは、部屋の外で林檎を積んだリヤカーを引っ張っていた。

 林檎は青く染まっていた。青い林檎に変換してから、出荷していたのだ。

 林檎は次から次へと湧き上がってきていた。Vは一心不乱に赤い林檎に注射器を差し込んでいった。Rは廊下を何往復もしている。トラックが見える。溢れかえったトラックは出走していく。すぐに別のトラックがやってくる。その作業に終わりはなかった。

「あと少しだ!」とRが部屋の外で大きな声を上げ、Vを鼓舞した。

 Vの耳には届いていなかった。しかし、素早く林檎の色を変え、外に放り投げなければ、Vは埋もれて窒息してしまう。ただ今を乗り越えるためだけに、作業は繰り返されていた。RはVの放り投げた林檎を、部屋からはできるだけ遠ざけるために、トラックに詰め込んだ。あらゆるトラック業者に電話していた。作業が滞りなく進められるように、Rは奔走した。そうせずにはVが埋まってしまう。だが青い林檎が湧いてくる部屋の根源を突き止める時間がなかった。とにかく湧いてきてしまう林檎の処理に、全力を費やさなくてはならなかった。そして、トラックは当てのない出荷に、途中から空き地に放置していくということを繰り返した。はじめは海に放り込んでしまおうということだったが、空き地に、道路に、河にと、捨て始めたのだった。

 林檎の氾濫は、街にまで影響を及ぼし始めていた。


 ファラオ・Мは、その臭い河の正体がわからなかった。どうしてこんなにも濁り、ヘドロと化してしまったのか。そこに黒い蛇は生息して、悪臭はさらにひどくなっている。蛇にとっては、生きのびるのに、これほど都合のよい場所はなかった。

 ファラオ・Мはずいぶんと前に河に大量の林檎が放り込まれた事件のことを思い出していた。河は緑色に変化し、その後、黒ずみ始めた。犯人はわからず。不気味な事件として、容疑者不明のままに、起訴を繰り返していたのを思い出す。あの河も放っておけば、こんなふうになっていたかもしれないなとファラオ・Мは思った。そうすれば、地上には悪臭が充満し、蛇がいたるところに生息してしまう。サイズだって増大するに違いない。街角を曲がったその先には、人間と同じくらいの大きさの柔軟力のある黒い物体が、現れるのだ。

 都市の新しい支配者となり、黒くて臭い雨が降り続ける。臭気は地上と天を循環し始め、もともとあった地底の地下水脈とも結合し、人間の嗅覚はますます鋭敏になり、苦痛は頂点へと達する。



 木々の緑もあざやかな、今日この頃。皆様には、おすこやかにお過ごしのことと、お慶び申し上げます。

 この度、私たちは、結婚式を挙げることになりました。日頃の、ご厚誼を感謝するとともに、末永くいおつきあいをお願い致したく、ささやかながら披露の小宴を催したいと存じます。

 ご多用中とは存じますが、ご出席くださいますよう、お願い申し上げます。



                          ヨウセイ

                          亜子


 結婚式に鶴岡の姿はなかったが、香奈子とその娘らしき人間は来ていた。鶴岡の席にはその娘が座っていた。

 ヨウセイはすでに、鶴岡のことは気になってなかった。香奈子とのことも過去の出来事になっていて、今さら思い出しても、心を揺さぶられることはなかった。何の迷いのない穏やかな気持ちで、亜子との新しい生活が見えていた。


 鶴岡は、街で奇妙な男に会った。

 カフェの床には林檎が転がっていて、拾わないといけないのだと、男は鶴岡に話しかけてきた。手伝ってほしいと言われた。林檎がいったいどこにあるのですか、と鶴岡は訊きかえした。しかし、男は早くしないと床が林檎だらけになってしまうからと、早口で捲くし立てた。鶴岡は無視することにしたが、男は背を曲げて、床に苦しそうに這いつくばってしまった。「ちょっと、大丈夫ですか。水飲みますか?」

「い、いや。林檎を拾ってくれ。それで、林檎ジュースをつくってもらおう」

「何を馬鹿なことを」

 男の年齢は四十くらいに見えたが、ふとこの男は、死んでいるのではないかと思った。あまりに、色彩が薄かったのだ。油絵が並ぶ中に、一つだけ水彩画が混じっているような。生気がなかった。髪は禿げ上がってきていたが、後ろの髪は長く、整髪料で撫でつけられていた。見ようによっては、老人にも見えた。矢が背中に刺さったまま、今にも息の耐えそうな、苦悶の表情を浮かべている。

「林檎を拾ってください」

「拾ってどうするんですか?」

 試しに鶴岡は訊いてみた。

「あなたに差し上げます」

「僕に?僕はいりませんよ」

「いえ。ささやかなお礼です。無数に溢れ出てきてしまうので、みなさんにお裾分けしないと」

「林檎だけなんですか?」

「林檎だけです。ほら、あなたの足元にも」

 ばかばかしいと思いながらも、鶴岡は上半身を曲げ、椅子の下に手を伸ばした。すると、指先に触れるものがあった。「こ、これは」

「それです」と男は言った。「掴んでください」

「嘘でしょ」

 鶴岡は、緑色をした林檎を手に掴んでいた。引き上げ、テーブルの上に置いた。

「嘘だろ」林檎は確かにあったのだ。しかし、何度、椅子の下を覗きこんでみても、どこにも落ちてはいない。床に溢れ出るほどの林檎の姿は、どこにもない。

「ちょっと、あなた」

 えっ?

 そこには男の姿はなかった。テーブルの上に目を移す。林檎はある。緑色の艶っぽく、丸みを帯びた、いくぶん小ぶりな林檎がある。

 一体、どこにいったのだろう。背中に矢の突き刺さった四十代くらいの男が、顔を上げながらうずくまっていたのだ。鶴岡は周りをそおっと見る。しかし様子はいたって正常だった。こめかみをおさえながら、一体、何が起きているのだろうかと、冷静に考えようとする。仕草だけでも秩序を取り戻そうとする。しかし気づけば、林檎に手を伸ばしていた。

表面を撫でながら、離れた席にいた若い女性を眺めていたのだ。いよいよ、意識は、支離滅裂になってきたぞと、鶴岡は思う。警察官でありながら、指名手配をされている身であることを、改めて思い知らされた。何をしでかしたというのだ?そうだ。自作自演をした、とか書いてあったな。なら、この林檎の話も、自作自演に含まれるのだろうか?今ここで取り押さえられたとして、この林檎についての説明を求められたとき、生気のまったくない男の話を繰り返すのだろうか。拾ってくれと、頼まれたから拾った。すると、すでに、男の姿はなかった。林檎だけが残ってしまったのだと、そんな説明を、大真面目でしなければいけないのだろうか。どこで買ったんだ?どこから盗んだんだ?拾ったんです、と答えるしかない。今、この椅子の下で拾ったんです。『地下から湧いて出てきたのか、この野郎!』と怒鳴られる。そうかもしれません。『馬鹿にするな!』僕もさっきまでは馬鹿にしてました。『つべこべ言うな。これも証拠になるんだからな』何のです?『あんたの精神鑑定の材料にだよ!』

 鶴岡はそんな問答が現実に起こるような気がしてしかたなかった。裁判になり、被告人席に座った自分が、まずは林檎の話しから小馬鹿にされ、次第に妻と娘の失踪に関する虚言へと繋げようとする検察側の思惑を想像してしまう。

 そういえば、この前、裁判の場にうっかりと顔を出してしまっていた。地下へ地下へと降りていく階段の先にあった世界の中で。あの被告人の男こそ、未来の俺の姿だったんじゃないのかと思う。あの男は、俺のことを鶴岡だと言った。あんたが認めれば、俺は犯行を自供する。あれは、未来の俺の姿ではなかったのか。

 さらに記憶を遡っていった。あの部屋には二つのベッドがあった。一つのベッドで俺は娼婦を抱いていた。もう一つのベッドには妻がいた。妻は別の男に抱かれていた。あの男は誰だった?そうか。さっきの林檎の男だったんじゃないのか。なぜあの男が、妻を抱いていたのだ?客だ。妻は娼婦だったのだ。いや、そんなはずはない。妻は香奈子じゃないか。

 いや、その前に、俺は結婚していたのかもしれない。籍を入れていながら、別の女に結婚を申し込んだ。式まであげだ。娘が生まれた。妻はただの警察官の嫁ではなく、夫の知らないところで体を売っていた。警察の事務の女性が教えてくれた。その女性とも交際をしていた。滅茶苦茶だった。整合性のある事実は、何一つとしてなかった。事務の女性と妻の後を追った。同じ部屋で別の異性と性行為をしていた。そのあと、地下へと通じる道を見つけて、降りていった。誰と?一人でか?いや、事務の女性も一緒にだ。途中でいなくなったのだ。



 ファラオ・Мの乗る舟は、次第に細く浅くなっていく河に進みを遅くさせられていた。

 ファラオ・Мは、一人で船上に立っていた。

 灯された淡い電灯は、今はなくなっている。悪臭もしなくなっている。水も透き通り始めていた。鉄格子の嵌った監獄の部屋もなかった。曲がりくねった道が、この先には続いているだけだった。河は途切れた。

 ファラオ・Мは舟を降りる。地面を静かに踏みしめて、少しずつ進んでいく。空気はだんだんと冷たさが取れ、次第に湿気を帯びた熱気を感じるようになってくる。体温が高くなっていくのを感じる。息苦しさがあった。水の存在からどんどんと遠ざかっているのがわかる。僅かな唸り声が、幾重にも重なって聞こえ始める。岩石がわずかに振動し始めていた。洞窟のような空間は、どんどんと狭くなっていき、天井に頭が今にもついてしまいそうだった。ファラオ・Мは屈み始めた。腰が痛み始める。唸り声は両耳だけではなく、全身の細胞に共鳴していて、まるで体の内側から、音が出ているような気がしてくる。自分の肉体の内部に、入り込んでしまったかのような錯覚さえある。腸の中をぐるぐると歩き回っているような。悪臭を放つ河は、いずれ汚物として、体外に排出されるものの予備軍のような存在なのだ。

 ファラオ・Мは、自分こそが、排泄物そのものであるような気がしてきた。やっと体外に出ることのできる快感を、もうすぐ味わうことができる。舟に同乗していた黒い服を被った男たちは、いったいどこに行ってしまったのだろう。舟と一緒に置いてきてしまったのだろうか。


 ファラオ・Мの前には、白い服を全身から被り、眼のところだけがくり抜かれた人間が一人で立っていた。


「マヤじゃないか!」思わずファラオは叫んでいた。

 白いシルエットはすぐに応答しなかった。顔には赤い十字架が描かれている。鼻のある位置できれいにクロスしていた。

「君は、マヤだろ。マヤに違いない」

 ファラオはずっと封じ込めていた想いが、今、湧き出ていることに気づいた。

「すまない。マヤ。俺のせいだ」

 白いシルエットは答えない。

「こんなことになってしまって、申し訳ない。ヒロユキも、夕顔も、死んでしまったんだ。自ら命を絶ってしまったんだ。こんな耐えられない現実を作ったのは、この僕だ。みんなを巻き込んでしまった。すべては、僕が、君たちの前に現れたのがいけなかった。僕はどう償っていけばいいのか。ずっと考えていた。考えて考えて考え抜いたとき、僕はこんな世界に放り込まれてしまっていた。絶対に思い出さないように、近い過去は思い出さないように。楽しかったときの思い出は、全部、存在しなかったかのように。一瞬のきらめき。恍惚。触れ合った深遠なる世界。感動。すべてを思い出さないようにしていた。封じ込めていた。その結果、悪臭極まる世界しか、感じ取ることができなくなってしまった・・・。すると、ずいぶんと大昔の記憶が、蘇ってきたんだよ。そして、自分とは違う苗字の人間が、街を彷徨っている様子が目に浮かんできた。結婚式が何度かあり、人間同士の揉め事やゴタゴタが繰り返されていた。

 すべてはね、マヤ、君のことを忘れようとしていたからなんだ。僕の今までのささやかな人生においてはね、君との記憶しか、ほとんど残ってはいない。君に関わりのなかった僕の人生など、ほとんど覚えてはいない。気づいたときには、君がいて、そしてそれも束の間、僕は君に手をかけていた。ほとんど、恍惚の中での、僕の錯乱だった。傲慢な思い込みだった。そ、そんな、気味の悪い服を着てしまって。ど、どうして、今さら、僕の前になんて現れた?成仏できなかったのか?恨みは消えず、僕に直接、手を下しにきたのか?もう何もかも、昔のようには戻らない。僕はどうやって、この先進んでいったらいいのか、わからない。あのとき、あの状態のままに、みんなで突き進んでいけばよかったのか?いや、そんなことは不可能だ。あの人たちと、ずっと変わらない歩調で進んでいくことはできなかった。そうだろ?僕は間違えたのかもしれない。君との友情を大事に、その先に進んでいけばよかったのかもしれない。君と僕を中心にして。また必要があれば、別のメンバーを加えればよかった。強力じゃないか。どうして、そのことに気がつかなかったのだろう。何も、田舎の村にアトリエを設えて、こもることなんてない。喧騒の都会のど真ん中で、透明のアトリエを立てて、そこで活動をしていけばよかったじゃないか!僕と君なら、それが可能だったはずだ。バンドという形では、存在しなくなったかもしれないけど、君が曲を書き、それを僕が表現する。君は僕の背後に、そんな格好じゃなくて、いるんだ。必要があれば、君が全面的に表に出てきて、またあるときは、僕が先頭を切っていく。

 あのときは、ヒロユキや夕顔も必要だった。でも、それも含めて、僕は他のことに気をとられすぎていた。根本的なところで、大事にするべきものを見誤った。君に手をかけたのは、最大の過ちだった。僕は君がやり続けたであろうことを、これからやる役目があるのだろうか。君のやり残した事。僕は君の分も、生き続けなくてはならない。でも君は僕と会ったときから、どうしてあのような信号を送り続けていたんだろう?自分を殺してくれ、だなんて。僕に殺してほしい、他の人間ならノーだ。僕にそれを望んでいた。最初にそれを強く感じた。でも一緒に過ごしていくうちに、その想いは少しずつ消えていった。共に突き進んでいく喜びで一杯だった。でも、その君の想いは、次第に鮮明になっていった。楽曲にもそれは現れるようになった。僕は心の底からその歌を搾り出すように吐き出すたびに、君への殺意を募らせていった。僕は君の想いを受け止め、そして君のいない世界で、一人旅立っていくことを夢想するようになる。しかしね、僕は君のことが忘れられない。君が現れたせいで、僕はそれ以前の大半の人生の記憶を、抹消してしまった。そして、君のいない世界を、これからだって想像することはできやしない」

 白いシルエットは微動たりともしなかった。

「なんとか言ったらどうだ」

 しかし、唸り声のような呻き声のようなわずかな振動が、洞窟内の岩石を揺さぶり続けているだけだった。その波動はファラオの横隔膜をも、揺らせていた。

「君のいない世界に生きるということはだよ、遠い過去と、僕ではない違う人間の生が、映像のように進入されてくるだけだ。それは惨酷なことだ。人は次々と死んでいき、孤独になっていき、いずれは発狂する。レッテルをはられ、闇に落とされていく。きっと、ここに近い世界にね。地獄ではない。色彩も欠いた、思い出の少しもない世界に」

 白いシルエットがわずかに動き、ファラオの方に近づいてきたような気がした。

「あなたは宇宙のメカニズムについて、何かを知っていた」

 ファラオは言葉を続けた。「あなたは人間の存在について、何かを悟っていた。でも、きっと深いところでは、僕に伝わらないと感じていた」

 ファラオは今まで思いもしなかったことが、口をついて出てきていることに驚いた。

「伝わってほしい人間に、伝わることのない想い。どうしてだろう。自分を殺してほしいと願った君の真意は。君が死にたいと思ったからではない。君はそんな低い次元で物事を望む人間ではない。何か意図があったからだ。伝えたいことがあったからだ。僕にもっと深い次元で、何かを悟らせたかったからなのか?それは、君を殺した罪悪感からしか、生まれてこないものだったから?おそらく、僕は、自ら死を選ぶことはできないはずだ。見越していたんだな。僕が生きる気力を完全に失くす、そのときを見計らって。それで現れたんだな。ここが限界だと、見抜いていたんだな。だから来たんだろう。そんな、不気味な格好をして。でも明らかに、君の波動は他の人間とは違う。生き物は、みな、怯えて逃げ去ってしまうくらいの、強烈な波動だ。何をも寄せ付けない。前は、それが、警戒心だと思っていた。でもそうじゃない。警戒心が強いからではない。そんな単純なことじゃなかった。前の僕は、ずっとそう思いこんでいた。君は心を開かない。警戒心が強い。生きる気力を失いかけている。でも・・・。本心は、僕に何かを伝えたかった。ただそれだけだった。どんな格好をしていても、僕は君だとすぐにわかる。何も答えなくたって、君だとすぐにわかる。僕は死ねない。もしかすると、これからはそうやって、極限まで追い込まれたときに限り、僕の前に君は姿を現すんじゃないだろうか。だとしたら、恐れなくていいよな。死を恐れなくていいよな。結局、僕は許されていないんだ。死を許されてはいないんだ。君が、僕に、何かを伝えようとしているのだから。その場所で、僕は、君がつかんでいた宇宙の法則を、断片的に知りうることができるのだから。もう恐れないよ。君がまだ居るってことが、感じ取れたんだ。他の何を失っても、かまわない」


 白いシルエットは消えた。


 ファラオは最初に会ったときから時間が経つにつれて、二人で直接顔を会わすことが減っていったことを思い出した。そのときは、あいだにいろんな人間が入っていたし、もうお互いの思惑やイメージは、すべてを理解していると思いこんでいた。共有していると思いこんでいた。だがその基軸は次第にズレていき、そもそもの初めからまったく異なる世界観を描いていたのではないかという、不信感を、募らせていった。意気投合した最初の出会いは、じょじょに憎しみへと姿を変えていき、最後には決定的に異なる側面しか、見い出すことはできなくなってしまった。だがその一歩手前においては(ちょうどライブがそれに当たっていたが)そのときは、苛烈な対立がエネルギーとなって、渦巻いていたため、ステージでは異様な熱気に包まれて、公演は大成功となった。そして、その壊れんばかりの興奮は、レコードへと落とされた。最終的に、手元に残った。

『手軽に手持ちのカードを、使うんじゃない』

 白いシルエットがあった場所から、声が聞こえてきたような気がした。

『カードを切る必要なんてなかった。もっと、本当に発狂しそうになったときのために、取っておいたほうがいい。僕なら、そうする。いや、そうした』

 ファラオは暗闇に手を伸ばした。シルエットは見えなくなっても、何かが、この手に触れることを期待した。

『僕は、最後までカードは切らなかった。勝負はまだ先にあると思ったから。君を本当に必要とするときは、まだ先にあると思っていたから。だから僕はカードを切らなかった。切れなかった』

「発狂って、何の話だ?君は警戒心の強い、冷徹で非情な男だ。発狂なんてするわけがないじゃないか。内なる精神をぶつける壁が、君にはあったじゃないか。僕にはそれがない。君の造った世界に憑依することでしか、溜まっていく苦しみを解放することができない。けれど、君を失うことが極度に怖かった。怖くて怖くて仕方がなかった。いつ君はいなくなるのだろう。いつ君は僕を見捨てるのだろう。いつ、いつ・・・。次第にそんな恐怖心は、近い将来に現実になるような気がしてきた。それならやられる前にやってしまおうと、君を消してしまう決心をした。恐怖心から出た過ちだった。僕は、君なしでやっていけるとは思ってなかった。ただ、あの迫り来る恐怖に、勝てなかっただけだ・・・。強がっていただけだ」

<手持ちのカードを、手軽に使うんじゃない>

 浮かばれないシルエットは、繰り返し言った。

『君の方が、先に切ってしまった。僕にはそのカードが手垢のついていないままに、こうして残されている・・・。君を裁くカードまで、加わった。君はまだ苦しむのだ。発狂だって?偉そうに。そんなこと、起こるはずがないじゃないか!君の理解する力なんて、浅瀬に浮かんだフナ虫くらいだ。わかったような口を聞くな!

 俺は最初から、君のファラオって名前が気に食わなかった。君はたいして深い考えもなしに付けたのが見え見えだったから。けれど、それは、間違ってなどいない。君のやることに間違いなんて何もない。これは真実だ。君の選択に過ちはない。その浅い知力にしてみれば、ずいぶんと的確な直観だ。その名前にも、確かに必然性はあった。無意識に選んだその名前の奥にはファラオという歴史が背負ってきた過去があった。君の過去のことだ。大きな過去が思い出されていくということは、未来を手に入れることと、ほとんど同義だ。わかるか?君は僕に対して何の過ちも犯してはいない。もっと大きく、広い眼で、物事を見るんだ。僕にとってはこれほど好都合なことはない。

 僕の手の中には、カードがどんどんと増えていっている。君の存在意義を、君が発見するそのときまで。僕には、楽しみがたくさんある。君はもっと苦しめばいい。君の浅い知恵を、根本から問い正したらいい!』

 ファラオはまだ、一人でこの先を進むしかなかった。カードはすでにこの手の中にはなかったのだから。



 鶴岡は、あの林檎の一件があったカフェで、とんでもない情景を見てしまった。突然、五人の男が大きな声と共に店内に入ってきて、鶴岡のすぐ前の席に座っていた別の男を取り囲んでしまった。警備員のような男たちだった。ヘルメットをして警棒を携帯している。防弾チョッキを着ていて、彼らは任意の同行を男に求めた。

 逮捕だ!と叫ぶ声があったが、別の客の声だった。

 すぐに、男の衣服を脱がし、持ち物はすべて没収された。店員にはすでに、情報が入っていたのか。すみやかに協力するよう、道を空けていた。容疑者扱いをされた男の裸体は、布などでくるまれることもなく、剥き出しの状態だった。その時間、店内には、女性の客ばかりがいたため、恥辱は相当なものだった。そしてなんと、同行を求めていたのに、その場での取調べが始まってしまったのだった。男は立たされ、五人の武装した男たちは、囲むように椅子に座った。店内の照明が変えられ、中心にいる裸の男に、集中するようになった。店内は暗くなったのだ。何かのショーが始まるかのように。店側との打ち合わせは、やはり事前に済ませていたに違いなかった。

 鶴岡は、その場から逃げ出したかったが、今立ち上がれば、相当に目立ってしまう。鶴岡はこのカフェに来たことを後悔し始めた。あの林檎の一件があって以来、この辺りは要注意地帯であった。奇怪な現象がこの界隈で起こり始めていることは確実であり、彼はもっと注意深く行動するべきだった。しかし、このカフェは、鶴岡にとっては神経を逆撫でしない数少ない場所でもあったのだ。家具の配置と、照明の感じ、行き交う人々の雰囲気がとても好きだった。

 入り口は簡易のシャッターが閉められ、これ以上の客を入れることを拒んでいる。中からは出て行くこともできず、一定の観客を確保したかのような格好になってしまった。鶴岡は、自分の存在が他には知られないようにと、細心の注意を払う必要があった。自分はまだ、この世界では存在を消していないといけないのだ。まだ、露にしてはいけないのだ。そう思えば思うほど、露になった男は気の毒だった。店内の女性客はみな興味津々のようだった。男はなかなかの均整のとれた体格だった。芸術家のつくりだした彫刻を見ているようだった。最高傑作と呼ぶことはできなかったが、それなりに、何本の指に入るとか。その展覧会では公表を博しただとか、それくらいの賛辞は、簡単にもらえそうな出来だった。

「共犯者を吐くんだ」と武装した男の一人が言った。「そうすれば服は着せてやる。何を計画していたんだ?少なくとも別の仲間一人と、頻繁に連絡を取り合っていただろう。知ってるんだぞ。短いあいだ一緒に暮らしていただろう。火災を一度、起こしたはずだ。そのときも一緒に逃げたはずだ。その共犯者の名前をまず言え。そして、このRとか、Vとかいう暗号は、何なんだ?何を意味しているんだ?政治的な結社か?何かの不満分子なのか?」

「Мです」と裸の男は、淡い照明に一人照らされながら答える。

「Мという男です」

「共犯者だな」

「Мです」

「そいつはどこにいる?」

「いえ、違います。一緒にいたのは、Rです」

「なに?人間を指し示していたのか」

「僕がVです」

「イニシャルか?」

「いえ。RもVも、僕らだけではありません」

「他にもいるのか。いったいどのくらい」

「さあ。でも、あなた方だけでは、捕まえられないくらいに、たくさん」

「なんだって」

「けれど、みんな、分断してしまっているから、大きなうねりにはなりませんよ。激しい運動にはならないってことですよ。安心してください。分断していると言っても、連絡が取れないってことではないですから。繫がらないってことではないです。精神的なことです。心が繫がらない。わかりますか?言っている意味が。わかりあえないってことじゃないです。深く感動しないってことです。感動し合えないってことです。どんなに大義名分を掲げたって、所詮は人と人とのことです。共感し合い、尊敬し合い、どうしようもなく惹き付けられる。でも反抗心のほうも、掻き立てられる。そういった間柄にならない限り、一緒に全身をぶつけて、取り組もうとは思いませんよね。僕らだけではないんですよ」

「勘違いじゃないのか?そう思っているだけで、実際は、君ら二人だったんじゃないのか?その相手のRだっけ?その男に言いくるめられただけじゃないのか?」

「いえ。言いくるめられたとか、そういうことではないです。僕も心から、そう思っていたこと。それを、彼に先に言われただけです」

「それで?Мとは一体誰なんだ?はぐらかそうとしても駄目だぞ。一度聞いてしまったからには」

「Мですか。Мはその中心人物です。僕らが仮定した。中心を仮定したんです。リーダーシップを、そのМがとっていく。でも今はいない。Мがいないことで連動性が出ない。自分の運命に賭けることのできる強烈なリーダーの一人さえいれば、うねりは起きる可能性がある。いないのなら想像することです。先に創造することです。いつか、そこに現れるかもしれないじゃないですか。どこからか、ふっと来るのかもしれないし、いや、違うな。そんな他力本願はやめて、そのRだのVだのと名乗っている中から、Мに手をあげる人間が出てくるかもしれないでしょう。でも一つだけルールがあります。必ず自分で手をあげること。誰かから押されたり、担がれたりして出るようなことがないことです。それがルールです。自分で手をあげ、自分一人で、その空白のポジションに現れることです」

「君はいったい何の話がしたいんだ?」

「あなたたちですよ。いったい何なのですか。急に人がお茶をしているところに、押し入ってきて。さらには服までぬがして、手足を紐で縛りつけている。晒し者だ」

「晒し者?それならあなたが、Мに立候補すればいいじゃないですか。この際」

「馬鹿言わないでください」

「どうせなら」

「僕にその資格はない」

「どうしてです?明朗にしゃべる方じゃないですか。その話し方は受けますよ、きっと。なかなかスタイルもいいし。今日は、女性の方もたくさんいらしてるじゃないですか。女の人の目線が気になるっていうのは、とてもいいことじゃないですか。羨ましい。女性の心を掴めれば、ずいぶんと物事は、前進していくんじゃないですか。いい機会じゃないですか。みんな、あなたの言動に注目しているんですよ。ほら、見てごらんなさい。チャンスが来たのかもしれませんよ。今の時代の、女の人は、いったい男の中に何を見ているのですかね。何を望んでいるのか。はっきりと証明できるいい機会じゃないですか。恋愛の未来はいったいどんなふうに変わっていくのか。あなたがまず証明したらいいじゃないですか」

「僕は、新興宗教の何ですか。広告塔ですか。馬鹿馬鹿しい!逮捕するなら、早くしてください」

「できるわけがないだろ」武装した男は言った。「証拠なんて何もないんだ。だいたい、君は逮捕に価する行動は、何もとってはいない。これは警告だ。警告にすぎないんだよ。誤解しないでくれ」

「こんなことが許されるのか」

「傷つけはしないんだ」

「心は、まるで無視か。こんな侮辱なんて、今まで受けたことがない」

「晒し者ってあなた。こんな生半可なものは、すぐに忘れてくださいよ。あなたは、もっと、重大な事をやらかす男なんですから。これは警告です。さっきも言った通りに。それじゃあ、質問です。その警告とは、誰に対するものか。一、あなたに対する。ニ、店に対する。三、お客さんの中にいる一人の男性に対する。四、女性の方全般に対する。さあ、どれでしょう」

「早く服を着せろ」

「答えたら解放してあげます。たとえ、外れていても」

「三だよ。三」

「正解です」

「はやくしろ」

「どうしてわかったんですか? <自分にはその資格はない。重大なことは、私のあとに来るひとにあります> ヨハネの言葉です。預言者のヨハネの。救世主イエスの到来を予測した。しかし、現代では、そんなことは起こりません。僭称者がこぞって出てくるだけですからね。それでも、一番、質の良い偽者が出てきたら、それはそれでいいのかもしれません。女性が本質的に、本能的に、何を望んでいるのかってことじゃないですか。いい意味で、そこに働きかけることのできる人間。その僭称者が、Мの位置にだいぶん近づくんじゃないでしょうか。ところで、そのМっていうのは、一体何なんです?何の頭文字なんですか?よくわからないな。何か深い意味でもあるんですか?」

 鶴岡は、さっきの答えの三のことをずっと考えていた。

 自分が店のモニターで、ずっと監視されているように感じていた。入店したときから。

 いや、この四日間丸ごと。鶴岡を中心にした包囲網が、敷かれているような気がずっとしていた。あの男は単なる中心をズラしただけの茶番劇であり、肝心なことは別に進行している。ストーリーを作るのは簡単だと、鶴岡は思う。その裏でうごめく本当の筋を、彼は読み取ろうとしていた。これは絶対に俺のことを言っている。俺に近づく証拠がないものだから、俺の側のことで揺さぶり、警告を与えているのだ。精一杯の行動なのだ。鶴岡がボロを出すのを狙っているのだ。少しでも隙を見せたり、妥協したりするのを狙っているのだ。運命を賭ければ、必ず意志が湧いてくると、誰かが言っていたが、本等にそうなのかもしれない。これは運命が動き始めていることを示す一つの現象なのかもしれない。なら、それなら、運命に自ら飛び込んでやろうじゃないか。鶴岡の心の中には、今まで感じたことのない想いがふつふつと湧いてきていた。それが何であるのか。まだはっきりと輪郭をとっているわけではなかったが、あたらしい情熱の源泉を、垣間見たような気がして、今すぐ席を立ってやろうかと思った。


 カフェは閉鎖され、鶴岡は別のカフェへと移る。予想済みだった。だんだんと行動範囲は狭くなっている。街からは出られなくなっていくことだろう。賃貸の一軒家に寝泊りする以外に、今は選択肢はなかった。逃げ道は封鎖されている。監視もされている。名前も消すことができない。顔だって、もう割れてきているのかもしれない。出頭するしか方法はないのだろうか。出頭するように仕向けられているのだろうか。直接、連行されることはないのだろうか。やはり証拠不在か。いくら、ありもしない罪を被せようとしているとはいえ、捏造するのは容易なことではないのかもしれない。

 鶴岡は、DVDのレンタル店に足を運び、アダルトビデオのコーナーに足を踏み入れた。

 ほんの冗談のつもりで、自分に関係のあった女性の顔を思い浮かべながら、ぼんやりとパッケージを眺めていた。すると、奇妙な企画もののコーナーに、それはあった。すぐに借りて家に帰ったのだが、見る勇気がなかなか湧いてこない。こうして大きなビデオ店に、平然と置かれていることに、警察は気づいているのだろうか。しくじった!と鶴岡は思った。今の行動も、すべてチェックされている。奴らも同じビデオを入手した。もう映像を確認するしかなかった。たとえ、そこに娘が出ていようとも、自分には関係のないことだと鶴岡は思った。僕と結びつける証拠は何もない。始まった映像は、鶴岡が前に住んでいたマンションの一室だった。どこかに監視カメラが仕掛けられていた。鶴岡は裸になり、居間をふらふらと歩いている。そして、風呂場の方に消えてしまう。カメラは切り替わる。いったい何台、設置されているのだろう。最初から、家具のように仕込まれているマンションみたいだ。鶴岡はこのとき、他の住民を見かけることはなかった。十階建てだったが、エレベーターに乗ったときも、ゴミを捨てに行ったときも、駐車場に行ったときも、誰一人として、顔を合わせることがなかった。浴槽にはお湯がためられている。カメラの映像はすこぶる悪かった。カラーではなく、戦争映画のような雰囲気さえ感じられた。浴槽にはすでに女性が全裸で立っている。一人ではなかった。もう一人は浴槽に漬かっている。鶴岡は立っていた女を殴りつけ、壁に肩を打ちつけ始める。浴槽の女は無関心を装い、丸いボールのようなものを、お湯に浮かせて弄んでいる。それが立っていた女の乳房であることは、しばらくしてわかった。乳首なのだろう。突起しているところがあったし、壁に打ち付けられた女性の胸は、月面のように陥没していたのだから。浴槽の女は乳房を洗っているのだ。そのあと、お手玉のように、空中に放り投げて遊び始めた。立っていた女の胸からは、大量の血が流れ出ている。二人の女の顔はよくわからない。画像は荒いし、一定の距離が保たれている。それは本当に鶴岡なのだろうか。さっきまで居間にいた自分の姿を思い出す。あのときは確かに、自宅に帰宅した自分だった。全裸になったのも自分だし、浴槽に移動したのも自分だった。それは間違いない。しかしそこでカメラは別の場面へと切り替わる。そこに連続性があるとは、断定できなかった。別の場所で撮影された、別の映像が挿入されたということもある。

 鶴岡はこの不気味な映像を見続けるしかなかったが、だんだんと安堵の気持ちが湧いていった。誰に見られても、別にかまわないような気がしてきた。途中で入れ替わった映像には、匿名性が強烈に感じられたからだ。ホラー映画か、シリアス映画を観ているときと、何ら変わりのない感情を抱きはじめた。アダルトコーナーに置くようなものでもなかった。だが、画像はその後で劇的に変わってしまった。彼の娘の顔のアップが大きな喘ぐ顔として表れ、そのまま全身が映るように引き気味になっていった。今度は相手の男の横顔が映し出された。それが鶴岡本人だったのだ。寝室だった。何度も寝起きをした寝室だった。今度は、女が上になった。しかし、いつまでも行為は終わらない。何なのよ!と女は叫んだ。この能無し!画像に映っていた鶴岡は、なかなかフィニッシュを迎えられないでいた。女は激しく動いていたが、鶴岡は死体のように横たわっていた。寝てしまったんじゃないの。わたし妊娠したいの。したくてしたくてたまらないの。どうしてお母さんはあんなに簡単に私を作れたの?ものをつくるって、本来、とっても大変なことなんじゃないの?生みの苦しみって言葉もあるくらい。それなのに私は簡単に出来てしまった。そして簡単に育ってしまった。あまりに早い勢いで。だから早く生みたいの。生んで生んで、たくさんの赤ちゃんを、ものすごいスピードで成長させて、みんなを驚かせたいの。もう六人の赤ちゃんを生むことに決めたんだから。一度で生んでしまってもいいし。続けて何度妊娠したっていい。女は気が狂っていた。あるいは知恵遅れだった。ねえ、お母さん。どうしてそんなに簡単に出来てしまったのよ。あなたのせいなんだからね。はやすぎた成長は、わたしに早く早くの、焦燥感しか残さなかったのよ。ちゃんと映しなさいよね。証拠映像として残すのよ。わかったわね。業者に高値で売りつけるのよ。父親を犯す早熟な娘とか何とか、そんなタイトルで。お母さん、あなたが全部を手配するのよ。子供もたくさん産んでビデオを流して、そしたら、この男はもう用なしね。どうするの?どう処理するの?あなたに任せる。責任はちゃんと取って。この画像の中の男は殺されるのではないかと鶴岡は思った。画像の中の鶴岡はもう長くはない。浴槽の画面に切り替わる。乳房の取れた女性はすでにいなくなっている。浴槽でその乳房を弄んでいた女もいなくなっている。

 湯船にはうつ伏せになった男が浮かんでいた。顔は見えなかった。


 鶴岡はすぐにビデオを返却し、前に住んでいたマンションへと向かった。そこには四ヶ月しか住んでいなかった。結婚式のあとに移り住んだ。駐車場を覗くと、あのときとはうってかわって、車両が並んでいた。エレベータでも人とすれ違う。自分のいたときとは状況が明らかに変わっている。新築のマンションにいち早く入った鶴岡一家だったが、そのときはしばらく、誰も入居してこなかったのだ。四階で降り、二号室の前に行く。インターホンを鳴らす。鶴岡は導かれるままに、こんなところに来てしまっていた。住人に何と説明したらいいのか。事前に何も考えてはいなかった。何をしに来たのか。あの画像の真意を確かめにきたのか。すぐに声が聞こえてくる。「どなたですか」

「鶴岡です」

 本名を言ってしまった。

「鶴岡さん?本当ですか。今すぐに開けます。ちょっと待って」

 女性の声だった。

 しばらくすると、鍵を外す音が聞こえてきた。

 鶴岡はドアノブに手をかけ、ゆっくりと手前に引いていく。ギーっという古い屋敷の扉が開くような音がする。人影はなかった。逆にマンションの外の非常階段のところから、こっちを見ているような視線を感じる。鶴岡は振り返ることなく、部屋の中へと入った。もう出られないかもしれないなと、鶴岡は直観する。すでに囲まれているんだ。あのビデオを見た警察官たちは、同じ場所を突き止めたことだろう。物証を探しにやってきたのだろう。自分は何をしに来たのか。何を確かめに来たのか。あの浴槽に浮いた男。あれは誰だったのか。自分だったのか。死んではいなかったのか。寝ていただけなのか。鶴岡は、かつての新婚生活を始めた場所へと戻っていった。



 ファラオは白いシルエットのいなくなった闇を、じっと見つめていた。その奥に何があるのだろうと思った。ファラオはすでに舟を降りていた。その舟は河の緩やかな流れに沿って、もと来た水路へと逆戻りしている。水が逆流し始めていた。ファラオを岸に降ろしたのを見届けた後で、流れは変わってしまったのだ。ファラオは退路を断たれたような気がした。シルエットの残像のある暗闇に、一歩踏み出さなくては、何も始まらなかった。いつになったら、この闇から解放されるのだろう。ファラオはぬかるんだ地面に足を滑らせながらも、決して手をつくことなく、歩くことを続けた。その行為だけに集中していたため、周りの様子に、いちいち怯えている暇はなかった。ほとんど何時間も歩いたような気もすれば、まだ三十分も経っていないような気もした。

 しかし、目の前には、いつのまにか階段のようなものが現れ、ファラオは何の迷いもなく、登るために足をかけていた。上に行くことには、何の抵抗感もなかった。ファラオは石の階段を登っていった。次第に石は大きくなっていった。段差もかなりの高さにまでなっていた。岸壁のようになってしまうのではないかと思った。両手でぶら下がって、そこから腕力で体を持ち上げなくては、超えられない岩になってしまうのではないかと思った。事実、そこまではいかなかったが、かなりの高さにまで上昇していた。ファラオは夢中で乗り越えていった。



 浴槽にはうつ伏せになっている男の遺体など、浮かんではいなかった。そこには、二人の女が、血の海の中で、互いに抱き合って死んでいた。鶴岡はすぐにドアを閉め、居間へと戻った。何が起こってしまったのか。何も考えたくはなかった。しばらくソファーの前をうろうろとしていたが、解決策は何も浮かんではこない。心臓の鼓動が部屋全体から響いてくるように感じる。このまま逃げ出してしまえばいいのか。だが外には人が張り込んでいる。鶴岡は屋根裏部屋のことを思い出した。一度も使ったことはなかった。不動産屋と物件回りをしたときに、ロフトから階段を降ろすところを見せられた。折りたたみ式の階段だった。普段は存在しない階段の存在を、忽然とそこに登場させたことに、不動産屋は実に満足げな様子だった。鶴岡は思った。この階段を伝って、逃げることはできないだろうか。



 このテオティワカンの空に向かって

 大地はどこまでもうら寂しい

 迷宮の中で叫べば

 あなたは


 そっと寄り添うだけで何も言葉は発しない



 岸壁はずいぶんと、なだらかな階段へと戻っていた。広くて、長い階段が、横一面に広がっているのがわかる。ほんの少しだけ、円形状にカーブしていたので、様々な人が同じ段にいるのが目に見えた。ずいぶんと女性がいるのだなとファラオは思った。いつ以来だろう。女性を目にするのは。もうずいぶんと接してなかった。ファラオは一番近くにいた、ピンク色のスカートを履いた女の人に声をかけてみる。

「あなたもですか。この先を目指して、一緒に登っていきましょうか」

「ええ。もう一息ですものね。頑張りましょう」

 感じのいい女性だった。少しイントネーションに特徴があった。それが素敵だと言うと、彼女はますます柔らかい笑顔を返してきた。こんな気分になるのは一体いつ以来だろうと思った。このままずっと、この優しい時間が続けばいいと思った。薄いピンク色や、黄色、水色など、水彩画のような情景が、この苦悩だらけのこの世界からは、ずいぶんと飛翔させていた。信じられなかった。臭くて汚い河の中で、真っ黒な蛇が旋回していた世界など、まるで嘘のようだった。

「お茶でも、どうですか」とファラオは声をかけた。

「いいですね。でも、ここには、カフェなんてありませんよ。もう少し踏ん張りましょう。あと少しで、気温はぐんと上がってしまうんです。その前に登りきってしまわないと。大変なことになってしまう」

「そうなの?」

 この女性たちは、いったい何のために、どこに向かってこの横に広くて長い階段を一つずつ登っているのか。ファラオにはわからなかった。見たところ年齢はまちまちだし、服装も全然違うし、その中に自分が紛れ込んでしまっている意味も、わからなかった。もっとずっと離れたところにいる人にも話しかけたかったが、逆に質問されることを警戒した。

 何を訊かれても答えようのない時間を過ごしていた。今、それを訊かれても、その場しのぎの嘘をこしらえるしかなかった。何よりもファラオ自身が、この階段を登っている状況が信じられなかった。さりげなく訊いてみるしかなかった。

「僕たちは、同じ目的で、山頂を目指しているのかな」

 ピンク色のスカートを履いた女性は、ちらりとファラオを見ただけで、何も答えなかった。軽い会釈をしただけだった。髪の毛を茶色に染め、長い後ろ髪を一つにまとめていた。そしてだんだんと、険しい顔になっていった。同じ階段には、彼女以外の人は誰もいなくなっていた。不思議なことに、一段違えば、人の姿を確認することができなくなっていた。同じ歩調で歩いていく人としか、姿を確認し合えなかった。

「大丈夫ですか?」

 息を切らし、その場にへたり込んでしまった彼女の背中に、手を差し出したときだった。

「やめて!触らないで!」

 彼女の額からは、湧き水のように流れ出ていた。その量は尋常ではなかった。脱水症状になるのは時間の問題だと思った。

「汚らわしい!触らないで!あついあついわ。あついったら。あなたが現れてから温度は上昇してしまった。何てことなのよ。これは気温じゃない。あなたの熱よ。あなた、何を持ってきたの。どこから来たの。おかしい。おかしいったら。近寄らないで!はやく階段を登って行ってしまって!私の側には来ないでください。何なの。何を、狙っているの。わからない、わからないわよ」

 ファラオはそれでも、手をかけようと近づいていった。

「あなたがいなくなれば、それで平常になるの。言ってることがわからない?ああ、もう溶けそう。あつい、あついったら」

 ファラオは階段を駆け上がっていった。誰の姿も見えなくなった。少し速度を緩めてみたが、ピンク色のスカートの女性は二度と現れなかった。

「一緒に行きませんか」

 その直後だった。迷彩柄の制服を着た人間が四人立っていた。

「あなたも、我々と、一緒に行動しませんか。あなた、女の子に逃げられてしまいましたね。見てましたよ。ほら。あなたの分も、ちゃんと用意しておきましたから。我々と同じことで悩んで苦しんでおられる。熱を発生させてしまうんです。この服を着てごらんなさい。冷却機能はなかなかなものです。さあ。どうぞ。あなた自身は、熱さに鈍感なんです。でも周りの人間には、モロに影響を与えてしまう。困ったものです。さあ。着替えてください」

 四人の男はヘルメットまで被っていて、腰には銃を装填する革までくっつけていた。ファラオはよくわからないままに言われた通りにした。

「さあ、いきましょう。もうすぐそこですから。やっと地上です。長かったでしょう。その前に少しだけ我々に付き合ってください。服のお礼といっては大げさですが、少しだけ、協力してほしいんです。すぐに終わりますから。ものの何分かで。それに、あなたはただ、その場に居合わせていればいいのです。お願いします」

 ファラオは四人の迷彩服の男に護衛されるかのごとく、囲まれていた。

 ファラオの歩調に合わせて四人も登っていった。ほんの少し速度を緩めれば、彼らもそれに習って速度を落とす。

 四人とファラオの距離も、微々たる誤差もないほどに、等間隔を保っているような気がした。

 ファラオは夢を見ているような気がした。一体、どこで、こんなに変わってしまったのだろう。明らかに世界が違っていた。繋ぎ目がわからなかった。理由もわからなかった。この男たちに訊けば、答えてくれるのだろうか。しかしファラオはやめた。これ以上、混線はさせたくなかった。終わりにしたかった。



「そこまでだ」


 鶴岡が居間でぐずぐずとしていると、玄関を突き破るけたたましい音が聞こえてきた。

「動くんじゃない」

「おとなしく、後ろを向け」

「こっちを見るな」

「見るんじゃない」

 あっという間の出来事だった。

「被疑者逮捕」

「現行犯です」

「被害者。浴槽で確認」

「二人です」

「おそらく、妻と娘でしょう」

「張っていたところで、見事にハマった」

「二時、五十五分」

「ただいま、鑑識が到着します」

「その必要はない。我々ですべてをすませる」

「写真も指紋もすべて撮って、その場のあとの片付けを、素早くしなくては」

「被疑者を、荒っぽく扱うな」

「だいじなサンプルだ」


「・・・あの、僕は、何をすれば」


「おお、そうだった」


「一緒に来てほしいって、これは・・・何なのですか?」


「君も、浴槽を見たらいい」

「血まみれの抱き合った死体がある」


「何なのです?」


「いいから。そのうちわかる。被疑者の顔を見るか?」

「犯行は、いつ、行われたんです?」

「まさに、直前だ」

「張ってたんだから」

「犯行がおこなわれるのを、待っていたんだから」


「どうして、そんなことを・・・。事前に知っていたのなら・・・、助けないと」


「説明している暇はない」

「そうだ。君は、あれこれ、知る必要はないんだ」


「・・なら、なぜ、連れてきたんですか。まだ、さっき会ったばかりなのに・・・」


「君もまんざらじゃなかっただろ。抜け出したかったんだろ?手を貸してあげたんだ。ありがたく思え」

「そうだ、ありがたく思え」

「見てしまったんだから」

「逃げることはできない」

「よっ!第一発見者!」

「我々は、警察だ」

「君が通報してくれたんだよね?」

「助かります。ずいぶんと、早い通報で」

「被疑者を逃がさずに、その場で取り押さえることが、できました」

「よっ!第一発見者!」

「ちゃんと、証言しろよ。今から、言う事を教えるから。その通りに、本物の警察には報告するんだぞ」



 容疑者Мは自宅で逮捕された。それまでも様々な噂が飛び交っていた。街には指名手配のポスターが貼られていた。Мは疑惑の渦中にあったのだが、犯行がいつ行われ、どんな証拠を残したのか。そこまでは事前に把握することはできなかった。特別警察は、Мが結婚したときから狙っていた。

 <犯行予知装置>の導入後、初めての実例事件だったために、慎重に慎重を要した。今後の活躍も期待される。犯罪大国となった、ここ日本で、未解決の事件を増やさないために、現行犯になるべく近い形での逮捕。それが絶対に不可欠だった。さすがに、事前に何の行動も起こしてはいないときの逮捕は、不可能であった。被害があった瞬間に、素早く動ける体制を整えているというのが、最も合理的であった。危害が加えられる前に逮捕というのが理想的だったが、それにはまだまだ長くて険しい道のりが必要だった。完全なる監視社会にすることなしには、達成されることはなかった。

 容疑者Мは、犯行の動機をこう語っている。

「そもそもは、妻子には、何の罪もなかった。ただ、自分が放棄したからだ。最後の段階で、司祭として自立する役目を、踏み倒してしまったからだ。その罪が罰となってしまった。

 直接、手をかけたかどうかはわからないと、犯行に全面的に加担したのかどうかは、認めていない。しかし、状況証拠はすべてそろっていて、容疑者Мはどうしてあのとき屋根裏から逃げ出していかなかったのか。ここでも自分は途中で引き返してしまったのだと、容疑者は後悔しているという。すべての事を最後の段階にきて放棄してしまう。そんな自分は、早く罰せられるべきである。もう終わりにしたかったと話している。肝心なときに囁く声が聞こえてくるんです。しかし僕は、手に入らないものを手にいれることが生甲斐なんです。これは絶対に譲れません。手に入れたときには、もう、興味は違うところにいっている。手に入れたものは消滅してもらわなくては困るんです。そんな男が司祭としてやっていけるでしょうか。僕は辞退したんです。ふさわしい人間は他にいます。

 僕に相応しい役割は、そう、新しい実験装置の『正式の導入』を決定付ける、最初の被験者になることです。たとえ容疑者として、仕立て上げられただけの存在であってもいい。容疑者Мとして、その名を記録されれば、それでいい。

 そんな彼に、我々はこう言いました。

 それなら、興味の尽きないものを選べばいい。まだ見えていない、もっと知りたい、奥へ奥へと進んでいける相手を選んだらよかった。最初の選び方がまずかった。過ちを犯したんだ。その罰はこれからちゃんと償ってもらうから。君に面会を求めにきている人がいる。誰だかわかるかな。

「わかりません」

「それがわかれば、罪の大半は償ったことになる」



 三日後、面会に来たのは亜子だった。亜子は黒い喪服を着ていた。どうしたんですかそんな格好をしてと、鶴岡は訊いた。亜子は何も答えなかった。まさかヨウセイが?それでも、何も答えなかった。あなた、何かしゃべるために来たんでしょ?亜子の口は動かなかった。まさかヨウセイまで・・・。一体、どこまで減ったらいいのだ?リョウコとテルユキの話は聞いていた。まさか、ヨウセイまで。葬式の帰りなんですか?

「わたし、香奈子さんと、一度、お話をしたことがあるんです」

「知っています」と鶴岡は答えた。

「知ってるんですか?」

「ビデオに撮ってましたから」

「さ、最低・・・」

「僕の家は、ご存知のように、いつなんどきでも撮影されているんですよ」

「か、かえります」

「ちょっと待って。行かないで。二人でゆっくりと話しましょう。もう二人しか残っていないんですから。他に相談のできる相手なんていないんですから。僕らしか、共有できる人間はいない。あなたも、そう思ったから、ここに来たんでしょ?残念です。僕は今こんな状態だから・・・。あなたの所にいって、話しを聞いてあげることができない。申し訳ない」

「わたしが来ますから。出来るかぎり、わたしが来ますから。あなたは本当にあんな事件を起こしたんですか?それがまずは知りたいことです。あなたの口から聞きたいことです」

 そのことは、また今度にしてくれと、鶴岡は言った。まだ心の整理がついていないからと。それはあなたのことにも関連してくることだ。僕とあなたの関係にまで遡ることなのだと。鶴岡は亜子が告白してくるんじゃないかと訝った。もしこんな状況で、そんなことにでもなったらどうしよう。鶴岡はガラスを隔てたこの二つの世界において、亜子が大胆な行動に出てくるのではないかと予感した。この隔たりが亜子の本性を浮き彫りにさせるのではないかと思ったのだ。

 本当は僕のことをどう思っていたんですか?初めから必要以上に警戒していたんじゃないですか。だから拒絶したのではないですか?でもあなたが受け入れてくれたとして、僕は結局、あなたをひどい目に合わせて捨ててしまっていたはずです。そういう冷徹で、残忍な男であることを、あなたは知っていた。あなただけが掴んでいた。でも、どうしてでしょう。どうして僕たちだけが、こうして最後に残ってしまったのでしょう。

 しかも、お互いに手も握れない状態で。あなたはそのことを喜んでいるのですか。悲しんでいるのですか。ほっとしているのですか。しばらくは、一人でいたいでしょう。時々、僕の面会に来ること以外は。すべては、あなたの思惑通りですか?これからどうするのですか?

 亜子は、焦点の合わない眼で、ずっと鶴岡のことを見ていた。その視線は鶴岡を突き抜けていた。奥の壁をずっと見ているかのようだった。

「亜子さん、亜子さんってば!」

 亜子はそのあとも話しをすることなく、看守に付き添って、静かに部屋を出ていってしまった。
























第Ⅴ部  シリアルキラー





















 ファラオは解放された。第一発見者としての証言を済ませ、建物から出たすぐそこには、ピンク色のスカートを履いた女の人がいた。

「あの階段で、声をかけた女の人だ」とすぐに思った。

 だが女の人の方は、全く覚えてなかった。ファラオは周囲の目が気になった。どう見ても、ナンパをしているようにしか見えない。振り切ろうとするその女性を、ファラオは執拗に追いかけた。地下鉄の階段を降りていくと、ファラオもまた降りていった。

「なんなのよ!」

「ちょ、ちょっと・・・」

 ファラオは、頭の中で言うべき事を反芻していた。どうすれば立ち止まってくれるだろうか。そもそも、何故、声をかけているのだろうか。

「さっき、警察の前で、何をしていたんですか」

 ただ、前を通っていたに、すぎなかっただろうに・・・そんなことを・・・。なんて、馬鹿な質問を・・・。これで、決別は決定的だった。ファラオは初めて見る街で、最初のツテを何としても逃がしたくなかったのだ。どんな小さなきっかけであっても、早く掴んでおいたほうがよかった。どこかに繫がっていないと、心は早々に砕け散ってしまいそうだった。それに、タイミングがあまりによかった。ピンク色のスカートも、かなり目立っていた。

「警察ですって?あなた、見たの?わたしが出てくるところを。そんなはずはない。細心の注意を払っていたんだから。警察の人にも協力してもらって。絶対にバレない裏の門から出てきたんだから。どうして。どうして、あなたがそこに居るのよ」

 何も把握していなかったファラオは、戸惑うことになる。あてずっぽに言ったことが、何と、当たっていたのだ。

「あなたも、同じ出口から出てきたのよね。それなら、話が早い。お互い、秘密にしておいた方がいい。いい?わかった?それじゃあ」

「ちょっと、待って」

「なによ」

「どうして、そう、かっかとしているんですか。落ち着いて話をしたらいいでしょ」

「慣れ慣れしい人が嫌いなの」

「僕も警察から出てきたんです。あなたが出てきた所はみていません。ただ、建物の前の通りで見かけただけです。以前にも、言葉を交わしたことがあるんですけど。覚えてませんか?いや、覚えているわけないか」

 女性は、ファラオのことをじっと見た。ずいぶんと、きつい眼をしているなと思った。

 嘘をすぐに見破ることのできる眼光を放っていた。素直に、言葉を繋いでいけば、きっと足蹴にされることはなさそうだ。

「何か悪いことをしたのかしら?」

 悪いことという言葉にも、ファラオはぎくりとした。

「悪いこと・・・は、何も・・・」

「そうみたいね」

 判事のような目だった。

「悪いことは何もしていない。確かに。でも、あなたの眼、少し落ち着きがない」

「まだ、光に慣れていないんですよ」

 それは本当だった。

「こんなに雲はどんよりとしているのに?変な人。もうすぐ雨が降りそうじゃないの」

「雨は別にかまいません。ただ明るすぎるんです」

「昼間に外に出たっていうのが、久し振りなわけね。もしかすると、監獄にでも入ってた?」

 スカートを風にひらひらとさせながら、彼女は今にも、ぴょんぴょんと跳ねだしそうな勢いだった。

「お名前は?」

「あなたこそ」

「私は、亜子」

「僕は・・・、その・・・」

 言葉に詰まってしまい、変な間が空いてしまった。

「僕は、ですね、その、あれっ・・・、なんだっけ・・・」

 亜子という女性は、そのどもり方に何か不穏な空気を読み取っていた。

「そういうことか」

 彼女はファラオのことを軽犯罪で捕まって、それから解放された犯罪者のような目で、見始めていた。全身を下から嘗め回すように見上げていた。何をしでかしたのか。自分なりに分析しているようだった。俺はいったいどんなふうに見えているのだろうか。訊いてみたかった。この眼光するどい二十代の女性には、いったい何が感じられるのか。

「確かに、会ったことがあるかもしれない。でも、わからない。日常的な場所のようではなかったから」

 そのとおりですと、ファラオは内心そう思った。

「確かに、そうね。あなたのことは、何故か知っている。間違いないわ」

「別に思い出してくれとか、そういうことは言ってませんから。ただ、話をする必然性が、あるんじゃないかと。提案しているんです」

「あなたさ、名前が、わからなくなってるんじゃないの?」

 鋭い指摘がいきなり飛んでくる。

「それとも、いくつもあって。どれを出そうか迷っているとか」

 ファラオは答えなかった。

「そんな淋しい顔をしないでよ。冗談よ、冗談。無理して言わなくていいから。どうせ、これっきりなんだからさ。二度と会わないでしょうから」

「会ったら、どうします?」

「ないない。わかるのよ。あなたとは、ないわ」

「でも、もし」

「そのときは、教えてちょうだいね。いくつでもいいから」

 亜子という女性はまだ学生のようだった。

「ひょっとして、聖マリアンヌ医大に通ってるんじゃないですか?」

 亜子はきょとんとした顔で、ファラオを見た。

「聖マリアンヌ?どっからそんな名前が出てきたのよ」

 彼女はとても楽しそうに笑い始めた。

「ほんと、変な人ね。冗談なのかふざけてるのか。さっぱりわからない。聖マリアンヌって。すごい角度から攻めてくるのね。あなたって人は」

 すごい角度から?

「僕は、鶴岡って言うんです」

 ファラオは、またしても頭に浮かんだ言葉を、何も考えずにすぐに口に出していた。

 亜子の表情が一気に硬直したのがわかった。スカートの色が一瞬で、灰色に変わってしまったかのようだった。

「すごい角度だった?」

 ファラオは冗談冗談っていう雰囲気を、出し続けた。

「知っているのね。あなた、何もかも知っているのね」

 蒼醒めた顔で彼女は言った。「それならそうと、初めからそう言えばいいじゃない!卑怯者。どうして、最初から言ってくれないの。わたし、馬鹿みたいじゃない。鶴岡を知ってるのね。私が鶴岡の面会に行ってきたのも、鶴岡がどんな容疑をかけられているのかも。もしかすると、鶴岡に関する、他の人間関係も、知っているんじゃないの!?全部言いなさいよ。どうして私に近づいてきたのよ。何が狙いなのよ。言いなさい。ねえ、逃げるのかしら。そんなこと、許さないわよ。どこまでも追って行くんだから。あなたの行くところは、どこへでも。あなたが口を割るまでは、ずっとしつこく追いまわすんだから」

 ファラオはこれだと思った。何もかも知っているフリをしよう。そうすれば、この女は、いなくなることはない。

「だいたいの所はね」と彼は取り澄ました顔で答えた。



「お前、男ができたな」三度目の面会だった。鶴岡はいきなりそんなことを言い始めた。

「ちょっと。そんなわけないじゃない。それに、どうして、あなたにそんなことを言われないといけないの。私たち付き合ってなんていない」

「匂いが変わった。俺にはわかる」

 亜子は気味が悪くなった。鶴岡という男は、昔から敏感だった。そしてずっと、私のことを見続けてきた。

「匂いって」

「もう男かよ」鶴岡は吐き捨てるように言った。「あなたは一人でいるってことが、ぜんぜんできないんですか。一体、何なのです?どうして面会になんて来るんですか?放っておいたらいいんです。なんで関わってくるんですか。僕が塀の中に入ってしまったからでしょ?僕が自由に動き回れなくなったからでしょ?だから安心して近づけるんだ。あなたは、僕が野生の獣か何かと勘違いしているんです。身の安全を確保した状態で、はじめて危険に近づく。それにしても、あなたの新しい男。僕と入れ替わるように表の世界に出て行った人間なんじゃないですか。どうして、あなた、部屋を紫になんて塗り直したんですか?ラベンダーの色に変えたでしょう」

「紫に変えた?わたしが?」

「あなたでないのなら、その男ですね。一緒に住んでいるんですか?ラベンダーの匂いがすごいですよ。あなたはすぐに男に染まってしまうから。受け入れたんですね。あなたを求めているのなら、どんな男だってあなたは受け入れてしまう。僕だけです。あなたが拒絶したのは。お香ですね。部屋全体がラベンダーの匂いで一杯です。炎が見えますね。巨大な炎が出ている」

 亜子は鶴岡の足に鎖が付いていることに気がつく。しかし、どうしたのとは訊けない。

 いよいよ、鶴岡は囚人としての生活が始まっているのだ。



「あなた、どうして、知ってるの」

 亜子は毎晩のようにファラオを家に招き、同じ質問を続けた。

 ファラオは答えようとしなかった。答える材料の持ち合わせは何もなかった。

 含み笑いを続けるだけで、はぐらかし続けるしかなかった。

「どこから、その、鶴岡の名前が出てきたのよ。もしかして、刑務所で鶴岡と会ったことがあるの?」

 今はその話は勘弁してくれとファラオは遮った。

 ラベンダーの香りなんて一体どこからするのだろう。亜子は鶴岡が言ったことの意味が全然わからなかった。炎だって、どこから上がっているのだろう?



「調教されているな」と鶴岡は言った。

「今までの男に対する罪悪感か?好き勝手に振舞ってきたことに対する」

<どうして、そんな男を選ぶ?>

「そんなことは、今までなかったじゃないか。すがりつくなんて・・・。自ら積極的に押しかけるなんて。無関心。無気力。それが、あなただったでしょう」

<どうして、そんな男に拘るんですか>

「それなら、もうここにも通わなくったっていいだろ。願い下げだよ!」



「あなた、真相を知っているんでしょ?鶴岡が、犯人ではないということを。ほんとうは、何があったのよ。教えてちょうだい」

 亜子は部屋を本当にラベンダー色に変えていた。

 壁紙を張り直し、大きなお香に火を灯していた。

 ファラオは何も文句は言わなかった。

「証言者として、裁判に出てくれないかしら。お願い。彼を救ってあげて。仕立て上げられた容疑者なんでしょ?でも彼は自ら刑を受けることを望んでいる。何でなの?わたしにはわからない。どうして犯してもいない罪を、引き受けるの?誰かを庇っているの?誰を?わたしの知っているひと?身近なひと?あなた、何か彼から聞いているんでしょ?一緒だったのよね。一緒だったことがあるのよね。いつからの知り合いなのよ。ずっと私たちのグループのことを見ていたの?ねえ、何とか言って。いつから私たちのことを知っていたの?鶴岡とは、何か策略をめぐらせていたの?あなたが参謀だったの?鶴岡と表裏一体だったの?実体と影のような。そんなことはないわよね。あなたはあなただし。鶴岡は鶴岡よ。

 昔からの知り合いだった。ええ、そういうことにしましょうよ。そこから話を始めましょう。やっぱりあなたたち二人は、コンビだった。パートナーだった。何かを狙っていた。何か大事な一点を狙っていた。ずっと何年ものあいだ、その機会を窺っていた。それはもう訪れたの?それともこれから?

 ああ、わたしは、何を望んでいるのかしら。

 あなたに証言台に立て!だなんて。そんなこと、不可能じゃない・・・。あなたたちは、何もかもわかってやってるんでしょうから。じゃあ、これだけは教えて。彼は香奈子さんを殺してしまったの?遺体はまだ出てきていないわよね。どこかに隠してしまったの?捨ててしまったの?」

 ファラオはそれ以来、笑うことがなくなった。

 冷たい目線で、亜子の足元を見つめることが多くなっていった。

 しかし、亜子の部屋には泊まった。

 亜子の方は、ただ、ファラオを繋ぎとめておきたいだけに、体を重ね続けた。



 鶴岡が引きずってくる鎖から、目を背けず、いやよく見てみると、それは鉄なんかじゃなかった。真っ黒な蛇ではないか。完全に巻き付いて、固定はされていたが、赤い目のついた頭は、絶えず上下左右に動いていた。

 鶴岡に表情はなく、蛇が代わりに何かを伝えているように見えた。鶴岡は会うたびにやつれていった。血の気を失っていった。どうして、私と関わる人はみな、生気をなくしていくのだろう。疫病神のような自分が恐ろしかった。あの欲望の炎に燃えた鶴岡の目でさえ、以前とは比べ物にならないほど、どんよりと雲ってしまっていた。

 私を追ってきてよ!と亜子は叫びたかった。あの頃のように、何をなぎ倒してまでも、私を手にいれようとしていた狂気を、ぶつけてきてよ!私を恐れさせてよ。耐え切れずに逃げてしまうくらいに。私を脅かしてよ!



 ファラオは亜子と寝ているときに、しばし変な夢を見るようになる。それは一人のときには到底見ることのなかった夢だった。

 紫色の照明が、煌々と光る怪しげな部屋で、亜子と二人の女性が裸で絡み合っていた。

 亜子は最初から髪を振り乱し、壁に頭を打ちつけたり、電球を床に投げつけたりして、暴れていた。他の二人の女性が亜子を取り押さえようとしていたのだ。

 しかし、亜子の暴力はおさまらず、次第にその矛先は二人の女へと向かっていく。

 ファラオはいつも同じ場面で目が醒めた。亜子の体を何度も揺すぶったが、彼女が起きる気配はなかった。

「あなた、本当は、何も知らないんじゃないの」

「亜子さん、僕は就職しようと思っているんですけど」

 ファラオは話を逸らした。

「あなた、鶴岡の何を知っているのよ?何も知らないんでしょ?私を騙してたんでしょ?」

「あなたこそ、重要な事を、僕に話してませんね。鶴岡って男のことは、新聞で見ました。二人の女を殺害した容疑者らしいですね。しかし、亜子さん。僕はあなたの秘密を掴めそうなんですよ。教えて欲しいですか?ほしいでしょう。僕も、まだ、はっきりとは掴みきれていませんが。しかし亜子さん。もう想像はついているんです。鶴岡って男とは本当にただの友達だったんですか?恋人だった時代があるんじゃないですか?いや、今もそうなのかもしれない」

「詮索はやめて。向こうが一方的に想ってるだけなんだから」

「あなたは、興味がなかったんですか」

「逃げてたわよ」

「それは、不思議な行動ですね」

「どこが」

「逃げるだなんて。友達だったのに逃げる、だなんて」

「あなたには関係ない」

「おおいにあります。だって僕は・・・」

 夢の話をしゃべろうとは思わなかった。

 しかしファラオにはずいぶんと前から、肌を合わせた女性の過去の一場面が、見えてしまうということが起こり続けていた。

 あまりに見えるものだから、女性にはまったく近づかないという時期を、無理やり作ったときもあった。女性には興味がないんだ、というフリまでしていた。ずいぶんと女性から遠ざかっていたような気がする。亜子と出会うまでは。

 しかしもう夢も解禁だった。

 続きを早く見たいとさえ思った。この女の過去が知りたい。

 事実、亜子は、『俺が鶴岡のことをたいして知らない』ということに、勘づいてきている。こっちも何か、弱みを握っていないと駄目だった。亜子を側に引き寄せておく、そんな情報をつかむことなしには、この恋愛は長く続くことはない。仕事を探すには、もう少し時間がかかる。地底にいたこの体を、地上に慣らさないといけないからだ。

 女性との行為は、すでに感覚は戻った。

 夢へのアクセスもだんだんと容易になってきている。

 今夜が勝負だろうと、ファラオは思った。最初のクライマックスが訪れる。



「明日、裁判が決まったよ」

 鶴岡は力なく亜子に言った。

「裁判は一度きり。控訴はいっさい認められない。そしたら、もう君にも会えなくなる。もしかすると、極刑かもしれないから」

「そんな・・・。ちゃんとした弁護人はついているの?」

「いや、誰もいない。弁護人は、誰もいない」

「なんてことなの!そんなの裁判じゃないわ」

「いいんだ。怒らないで。君の力では、どうにもならないんだ」

「あなたのことを、知っている人がいるのよ。その人が助けてくれるかもしれない。証言台に、立ってくれるかもしれない」

「俺の何を知ってる?そいつは誰なんだ?新しい男か?何かを吹き込まれているんだな。君はまた、騙されているのか?」

「またって、何よ。また、って」

「ヨウセイだって同じだったじゃないか。あんな偽善者。あれっ、そういえば、ヨウセイってどうなった?どこで何をしているんだ?自分に対して正直になれない奴は、みな偽善者だ。たいして君のことを愛してもいないのに。たいして好きでもない女をモノにして、それで何が楽しいんだろうな。女も女さ。まあ、そんなに頑なに情熱を求めて、誰とも付き合わずにいたって、体の火照りはおさまらないんだ。それはわかる。誰かに触ってほしい。寝て欲しい。それなりに解消はする。それで、今の男は、どうなんだ?一緒なんだろ?ずっとそんなふうに、堂々巡りを繰り返していくだけなんだ。わかるだろ?」

「裁判は見に行くわ」と亜子は言った。

「傍聴席はないよ」

 鶴岡はぶっきらぼうに答えた。「それも、拒否したんだ。迅速に進めてくれと。正確性よりも、俊敏性を考慮してくれと。早く過ぎ去らせたいんだ。飛び越えていきたいんだ。もう何も考えたくはない。長引けば、精神鑑定が導入される可能性がある。そういうのには、もう、うんざりなんだ」



「もう一度聞くけど、あなたは、鶴岡君の何を知ってるの?警察署の中で、一緒だったんでしょ?あなたは、あの中に居た。全部話して。もし嘘をついていたら、すぐに別れるから。ここから出ていって」

「亜子さん」

 ファラオは穏やかな優しげな口調で、彼女の耳元に迫った。

「亜子さんですよね。亜子さん。あなた、大変なことをしてしまっているのですね」

 ファラオはその日の夢で、すべてを知ってしまった。

「あなたには、才能がある」とファラオは言った。

「あなたは、その才能を、形にする技能を何としても身につけるべきだった。今となっては哀しいことです。そうなっていれば、悲劇は起こらなかったかもしれない。あなたは、日々、得体のしれない恐怖に苛まれていた。不安で不安でたまらなかった。誰かが殺しにくるんじゃないだろうか。攻め苛んでくるんじゃないだろうか。あなたはその鶴岡っていう男に、その恐怖心を重ねたんですよ。鶴岡という男が、自分の中の恐怖心を体現していると思い込んだんですよ。あなたは病気です。彼が追ってくれば、どこまでも逃げえる。拒絶する。それが今は刑務所の中だ。あなたは内心、ほっとしているはずです。そうでしょう?僕と寝るのも、その安心した心の一端が、成していることなんです。あなたは刑務所に面会に駆けつけるほどの余裕も出てきた。たいしたものです。でも少し物足りないくらいになってきている。恐ろしい女性ですね。あなたに才能があるって言ったのは、そういう意味なんです。あなたは何か高尚なものを目指している。本来は。あるいはそれは下劣で、醜悪なものなのかもしれない。しかし、高尚なものほど醜悪でもあるし、紙一重な所がありますからね。僕があなたに惹かれた理由が、はっきりとわかりました。最初にあなたを目撃した理由も。同じ階段に立っていた理由がね。あなた、人を殺したことがあるんですよ。鶴岡の妻子を。そして鶴岡に、その罪を被せることにも成功した。あなただったとは・・・。だから僕が、何かを掴んでいると思ったときに、何としても側に置いておこうとした。些細なことでも把握しておき、あわよくば、僕に違う情報を植えつけさせておいて、混乱させようとした。確かに、僕は最初、何も知りませんでしたよ。ところが僕にはおかしな能力がありましてね。人の意識に憑依してしまうというか。アクセスできてしまうことがある。ごくたまにだけど」

 ファラオは罪のない嘘をついた。それはごくたまにではなかった。女性に対してはもちろんのこと、時には男性にまで及んでいた。男性に対してはめったにはなかったが、それでも確かにあった。頭の中が疼きだした。この亜子という女とは、似たもの同士だったのだ。共に、人を殺したことのある人間同士だったのだ。

「あなたは何としても、才能を発揮する技能を持つべきだった。僕らは同じ人種なんですよ。だから、お互いを引き付け合った。あなたには自覚はないかもしれないが、僕らは惹かれ合ったんです。その技能さえあれば、あなたはあんな事件を起こす必要はなかった。鶴岡という人間を封じ込めなくてはいけないなどと、そんなふうに思うこともなかった。あなたは自分自身の力を、封じこめようとしたんです。その罰です。罰は違う人間が背負うことになった。無意識の中での計算通りにです。それでもあなたは、彼の面会に何度も顔を出して、きっとこう言っていたはずです。あなたを助けたいのだと。それは本心でしょう。偽善者のね。自分でもよく理解できていない偽善者としてのあなたの本心です。でもあなたの奥底では、違う願望があったし、それをあなたが感知して、技能を身につけることを怠ったばかりに、あなたの知らないところでは、無意味な殺害が成されてしまった。不必要な事件だったんです。鶴岡って男は今でもよくわかってないと思いますよ。だから早く極刑になることで、意識のすべてをゼロに戻したいはずです。戻る場所がわからないんです。やり直すことなんてできないです。

 その男の人。僕とは違いますからね。僕は違う世界を見てきたんです。あなたと同じように、才能を発揮する技能がほとんどありません。別の人間の協力が、多聞に必要な人間だったんです。その別の人間っていうのも、ごく限られた何人かなんです。最初から、薄々はわかっていた。でも僕は肝心な時に裏切ってしまった。切り捨ててしまったんです。その罪は何をしても贖えない。でも僕はあなたと違って、別の世界を見てきたんです。体験してきたんです。あなたが捕まることはない。あなたを捕まえることもできない。鶴岡っていう男は、あなたへの愛をもって、死を受け入れるはずです。渾沌とした精神状態は、ますますひどくなっていき、あなたを感じることなしには、死んでも安息の地を得るには至らない。さっきも言ったでしょう。僕は違う世界を見てきてしまったのだと。あれは、きっと、地獄のほんの少し外側の世界だったんです。手前の世界だったんですよ。あんな世界に、あなたは、彼を突き落とすことになる。もう時間はありません。行ってあげてください。最後にあなたは、彼に向かって言うべき言葉があるはずだから」

「あなた、いったい、何者なの」



「亜子さん。そんな、野蛮な動物を見るような目で、僕を見ないでください。もう、そんな目では見ないで下さい。今までのことはすべて謝りますから。あなたのことを遠くから、近くから、少し纏わりつきました」

 鶴岡との最後の面会は始まった。

 この三十分のあいだで、自分は何を言い残さなくてはならないのだろう。

 ファラオのことをずっと考えていた。あなたには才能があります。技能のほうを開発するべきだった。チャンスが生まれるのは、そこから先です。そうすれば、あなたは鶴岡に怯えることはなくなったはずだ。たとえ彼が塀の中に閉じこめられていなくても。僕はそう信じています。

「今からでも、遅くはないのかしら」

 唐突に亜子は鶴岡に質問していた。「遅くはないのよね」

 鶴岡は、自分のことを言われているのだと勘違いした。どう考えても遅いでしょう、と彼は呟いた。

「あなたは、魅力的でした」

「今でも、そう?」

「今のことは、わかりません。でも、あなたは人を惹き付けてやまなかった。あなたを描きたかった。あなたの心の中にある世界を、描きたかった。僕はあなたの中に入りこむことはできなかった」

「入りたかったの?」

「そうですよ。あなたのなかの中心地を、掴みたかったんです」

 鶴岡を何とか逃がすことはできないものか。亜子は、ふと、そんなことを思った。

「私は、あなたの中心を、知りたかった。ずっと、避けてきたけれど。運命を見るのが、怖かったから。見れば、賭けなくてはいけないでしょ」

「そうです」

「見たまんまで、放っておくことなどできない・・・」

「僕も、あなたも、どこかで放棄してしまったんです。だから、こんな状態になってしまって・・・」

 鶴岡は、足元を見た。鎖代わりの蛇の数は、増えていた。ほとんど膝の辺りまで巻き付いてきていた。いずれは体全体が真っ黒な蛇で覆われてしまうのではないか。亜子はぞっとした。

 こん男になんて関わってなどいられない。面会時間は、あと二十五分もある。時間が経つのがあまりに遅い。

 何も事情がわかっていない男が、死んでいく。死んでいく理由さえわからないなんて。

私が手をかけて殺害したことだって、実感としてはない。けれど、ファラオにそう言われたら、信じざるをえなくなる。説得力があった。

 亜子は、ファラオに心を持っていかれていた。彼となら、真相をつかむことができるかもしれない。誰とも共有できなかった世界を、彼となら、つくり上げていくことができるかもしれない。『地上』のことしか知らない鶴岡や、他の男たちとは、どこにも辿りつくことはできないだろうと亜子は思う。刑務所の中に行き着くのが、オチだった。だが、私とこの男を隔てている壁は、分厚かった。

 ファラオの体験してきた世界を、私がこの地上の社会に重ねて、表現するべきではないか。目に見える形に置き換えることで、真相は姿を現してくるのではないか。そこには、私の中心地があり、ファラオのなかの中心地がある。あなたには才能があります。何としても、技能を開拓するべきだった。あなたがその技能への橋渡しをする人です。亜子は目の前にいる鶴岡が、だんだんと薄くなってきているように感じられた。ごめんなさい、と亜子は呟く。あなたに全部押し付けてしまって。過去のすべてを、背負わせてしまって。

 でも、もっと大きな過去をあなたは持ってはいない。ファラオにはそれがある。私はね、本当はとっても、重い女なの。あなたには背負いきれないくらいに。スケールが小さいの、あなたは。ごめんなさい。こんなこと、思っちゃいけないんだろうけど。男をホイホイと乗り換える、どうしようもない女に、見えるかもしれないけど。でも、これからは違う。ファラオとは違う。今までのような生き方は、ここできっぱりと、断ち切ろうと思う。たとえどんなことになっても構わない。地獄に近いところに、堕ちてしまってもかまわない。ファラオがいるから。ファラオはその世界を知っているから。お互いが共有できる世界を、知ることができるから。怖いけれども、乗り切っていかなくては。もし本当に堕ちてしまっても、それは必要なことなの。ファラオと一つになるためには、必要なことなの。

 私、とっても重い女なのよ。あなたには背負いきれないくらいに。ごめんね。でも、あなたの分の苦しみも、私は引き受けていくから。だから・・・許してほしい。

 亜子は心の中でずっと呟いていた。口には出さなかった。

 沈黙の面会時間はここに終了した。最初の五分からは、ものすごい早さで、残りの二十五分は経過していた。

 ほんの十秒くらいのように感じられた。最後まで傷つけることしかできなかった、と亜子は思った。

「もう行かなきゃ」

 鶴岡の体をこれ以上見たくはなかった。

「亜子さん。裁判が終わったら、結果を見届けてください。もし極刑にならなかったら、また五年後に、会ってもらえませんか」

「なぜ、五年後?」

「五年経った後の、亜子さんを見てみたいからです。お願いします。結婚されていたら、ご主人と来てください。子供ができていたら、その子も一緒に。あなたが、何か特別な仕事についていたとしたら、その成果を持って見せに来てください」

 この男は、私の中の何に反応しているのだろう。鶴岡という男が、人の心の微妙な変化を読み取る能力に長けていたこと。それを、あらためて感じさせられた。いや、むしろ、なぜ、この男は私の喜怒哀楽をそのままに、反応するのだろう。あきらかに表情からは歓喜が読み取れた。さっきまでの、沈鬱で絶望的な雰囲気とは、一変していた。

「五年後、未来の国で待っています」

 鶴岡の言葉は変だった。

「二度と、こんなところで会うのは、やめましょう。こんなところに来ては、駄目ですよ、亜子さん」

 それは、私に技能を持てという励ましだったのだろうか。

 この地上と地底。空の彼方を結ぶ、新しい世界の到来を、鶴岡は待ちわびているかのようだった。

「あなたは持っているんです。僕はあなたを焚きつけることだったり、そういうことしか、できないんです。あなたが本気で、それに向かい合う気になったとき、僕の存在意義は、消えてなくなるんです。もしあなたが罪を犯していたのなら、僕は喜んで受け入れます。あなたのためなら、僕は空を見ることができなくなっても構わない。どうか生きてください」

 最後の面会は終了した。

 ファラオが待つ部屋に帰る前、亜子は公園に立ち寄った。そして、千年以上も前には確かにあったはずの、テオティワカンの空に向かって叫んでいた。迷宮の中に閉ざされてしまった財宝は、未来にはどんな形で存在していくことになるのか。千年以上も続いた暗闇の中、それでも輝き続けている迷宮の中の空間が、全世界に渡って、放射するその日を。

 黄金の太陽が、西の空から昇ってくるその日を。彼女は夢みていた。



 街のはずれにある、わずかにこんもりと盛り上がった丘の上で、その処刑はひっそりと行われた。公園が隣接していたが、おそらくそこで遊んでいる親子にも、まさか人の命がかかった儀式が行われているとは思いもしなかったはずだ。

 囚人も含めて、五人の一行は、密やかに公園の駐車場へとバンを乗り入れた。そこから黒い服を着た男が二人、そして白い服を着た囚人、そのあとから二人の黒服の男が降りてきた。子供達が大勢遊んでいるグラウンドからは遠ざかり、ゆっくりと隊列をなして進んでいった。丘の付近には誰の姿もなかった。いるのは若い女性が一人。囚人の願いは聞き入れられたのだ。

 その女性には見守っていてほしい。傍観の権利を与えてください。彼女も了承するでしょう。黒服の男は女性の姿を確認する。極刑の瞬間を、見せていいかどうか。四人の判事、および執行人は、数日かけて協議をした。特例は判例として残る。しかし、異例のスピード裁判を申し出た囚人に対する恩赦として、認めたらどうだろうか。裁判の迅速化は、昨今の緊急の課題でもあった。解消する一つの手立てとして、スピード裁判は効果的だった。被告人が認めればすべての手続きは省かれる。

 女性は何時間も前から来ていた。落ち着かなかった。

 グラウンドをふらふらと歩き、ブランコに坐って思いを巡らせていた。こんな日が来るとは夢にも思わなかった。誰にも告げずに家を出てきた。相談をする相手もいないし、したいとも思わなかった。これは私の胸の中にそっとしまっておけばいいことだった。一生涯、語ることはないだろう。ただ、私の人生が、その後も続いたという、証しとしてのみ、死ぬまで持っていくことになるだろう。誰にも語らない代わりに、私は別の手段でこれを残しておこうと思うのだった。

 私の最初で最後の遺書のようなものだった。全生涯を、この日の出来事に凝縮させて、重ね合わせるのだ。それは私の心のためだった。生きようが死のうが、描き残しておくべきことだった。あの人よりも一年長く生きれば、絵もまた違う風景に見えてくる。二年経てば、また違った装いをもってくる。全生涯の今を深く描写するというのは、そういうことだった。

 深みは、時間と共に増していく。こうした特別な状況下では、特に。記憶の中に丸ごと、丘そのものを残しておくのだ。それは、処刑の前の長い時間であり、その瞬間であり、後に残された私の時間の中、一連の映像を持って残るのだ。それを一つの平面に凝縮し、放射する。いつそれを行うのかはわからない。今日の夜かもしれないし、日を改めてからかもしれない。しかし、そう遠い日では、ないはずだった。私には、ファラオとの生活があった。彼と一緒に生きていくのだから。今日の出来事はなるべく早く、私の中からは、物理的に切り離さなくてはならないだろう。摘出しないことには、先に進むことなどできないはずだ。ファラオは、私が筆を持つことを奨励してくれる。ファラオが、私の恐怖心を挑戦へと変換させ、そばで鼓舞してくれるのだ。

「一人で行ってくるんだぞ」

 幾分、哀しげな眼差しで、彼はそう言った。

「うん。わかってる。待っててね」

 ファラオは、何か別のことを考えているようだった。

 明日にはいないその男のことを、彼は別の誰かに置き換えているような、重ね合わせているような、そんな雰囲気を醸しだしていた。

「雑念は入れるんじゃないよ。ありのままに受け入れて、そして、感じるままに身を委ねるんだ」

 ファラオの声は、誰よりも優しかった。

「その後のことは心配するな。体が反応してくれる。全身が波打ち始め、脳細胞は弾んでいく。余計なことは何もするな。振動に身を寄り添わせれば、それでいいんだ。わかったね」

「あなた、側にいてくれる?」

「いや、駄目だ。でも、ここに、帰ってきたときには抱きしめるさ。君がもう帰る頃だなと思ったときに、帰ってくればいい。しばらく一人で居たいなと思えば、そうしたらいい」

「場所は教えなくていい?」

 ファラオは頷いた。

「僕は何も知らないほうがいい」

「わかった。それじゃあね」

「君の筆は、きっと動き始めるよ」とファラオは言った。

 一瞬、ファラオと何かを分かり合えたような気がした。たぶん勘違いだろう。

 しかし、それでも、男の人とわかりあえたと思った、初めての瞬間だった。同じ光景を見たわけでもなければ、同じ境遇を味わったわけでもない。肌を触れ合わせていたわけでもなければ、長い会話をしていたわけでもない。ファラオは何かを知っていると思った。私の中の何かを知っている。そして私もまた彼の中の何かを知っている。その何かは、一緒にいれば、形を取ってくるはずだと思った。そう信じていいのだろうか。すると急に、家を出ることに、躊躇いが生じてきた。

 このままファラオと一緒に抱き合っていたほうがいいんじゃないのか。何故、わざわざ、あの男の最期を、看取らなければならないのだろう。今湧き起こった特別な情念が、行くことで消えてなくなってしまうのではないか。打ち消されてしまったら、と不安になる。「一人で行ってこい」というファラオの真意は、一体どこにあるのだろう。

 君のことなんだ。僕が行って、どうするんだ?君一人で解決する以外に、方法はないはずだろ。僕だって僕の縺れがある。君が来たって、何の解決にもならない。そう言っているようだった。

 ファラオの世界は、ファラオの世界なのだろう。私は同じ景色を見ることはできない。もし、二人で見る景色があるのだとしたら、それは私が描く絵の中に、きっとあるのだろう。

 気を取り直して、私は部屋を出ていった。それが、ファラオを見た最後の時であったということも知らずに。



 闇を知り、光を知り、心の繫がりを求め、一体感に渇望する

 復讐と磔刑が吹き荒れる時代


 ささやかなる復活と、過激な新生


 度重なる 俗世への回帰


 闇のトンネルを抜けたことで 出会う新曲たち。


 シャーマンの死は 熱望へ

 残された人間の 深い哀しみは 

           ・・・燃え尽きた愛。


 精霊は、賛美歌を歌い 賢者を送り出す。

 否定、誤解、無理解、黙殺が、飛び交う通過儀礼に、帽子を取り

 丁重に深々と挨拶をし直す、誇り高き敗残者。

 共鳴という名の雷鳴が響き渡る、百華繚乱編。


 書庫では、「全集の集い」が絶えず行われ

 引き出された今を、懸命に写し取る 詩人の姿。

 「完成させたい。いや、させてたまるものか」

 折り重なる複数の現実の織り目には

 それまでの現実を踏み台に

 世界を作り変える カエサルの子の姿が。



 五年後、亜子は「シリアルキラー」という作品を二科展に応募して、佳作を取った。

 友達や姉妹、親戚はみな結婚していて、出産している時期になっていた。

 亜子だけが一人、暗闇の中、絵を描き続けるという凶荒に走っていた。

 私だって結婚していたことくらいあるわよ!と、強がって見せた。

 それよりも、精神的に近くにいた友達は、みな、死んでいなくなってしまったのよ!

 姉に向かって叫んでいた。まるで私だけが戦場で生き残った兵士のように感じていた。

「あなたは、あなたの感じている世界があるんだろうから」と姉は言った。

「感じているだけならいいわ。でも、これは、事実なの。現実に人は死んでいるの!」

 姉と話をすると、いつもぶつかってしまった。冗談じゃないわよと亜子は思った。

 亜子は実家にも寄り付かず、姉夫婦とも会わず、子供と遊ぶこともしなかった。亜子は全く姿を消していたのであり、あるとき寂しさから、一度だけ姉に連絡をとってしまったのだ。

 その頃、ファラオにも気づいてもらいたく、展覧会への応募も決意していた。

 ファラオは、あの日以来、姿を消していた。亜子はあれから、ファラオとの生活をしていくつもりだった。彼は、ずっと側にいてくれる。私を鼓舞し続けてくれる。導いていってくれる。これは、恋愛なんかではない。同じような罪を背負っているもの同士の、共感とぶつかりなのだ。

 私はそういう意味では、初めてぶつかり合う相手を見つけたのだ。

 そう感じたときに、意識は革命的に変わった。恋愛観が変われば、人生観だって変わった。生活スタイルだって変わる。亜子は貯金を切り崩しながら、質素な生活を始め、お金と時間のすべてを絵画の制作に傾ける決意をしていた。ファラオがいなくなったことはショックだったが、いつまで嘆いていても仕方がなかった。捜索届けを出すわけにもいかず、知り合いに相談するわけにもいかず、亜子はただ、自分の胸に押し留めて、それよりも唯一感じる光に向かって、万進していくしかなかった。行けるところまで行ってみなくては。あとはどうなるかわからないけれど。

 とにかく、ファラオの言葉は信頼できた。

 本来、警戒心が強く、人の話はよくきくものの、納得いくことが極端に少なかった亜子にとっては、その半月にも満たない間に起こった強烈な変化は、何よりも驚きだった。

 そして、周りの世界とは逆行し始めていった彼女にとって、最後まで心の支えになっていたのも、友達ではなく、肉親でもない、素性のよくわからない男だったのだ。

<ファラオに、気づいてほしい>

 連絡手段のなかった亜子は、自分自身が絵を発表することで、この暗闇から抜け出すことに成功し、どこかで彼が、その絵を目にする機会を得るのではないかと思ったのだ。

 すでに五年が経っていた。

 あなたには才能があります。でも、それを表現する技能を持ってはいない。彼はそう言っていた。しかし、その技能とは、今やファラオと通信するための唯一の手段にもなっていた。最初からそう思っていたわけではなかった。五年が経ち、今やっとそのことに気付いただけだった。

 私はあの日の丘の上での出来事を、自分の中で受け止め、新しい色と形でもって、世界に繋ぎとめておく手段を、ずっと模索し続けていた。

 ファラオは私の中からは消えた。

 ときには側に感じられ、それでも、ずっと、私は一人ぼっちであり続けた。けれども、孤立していると思ったことは、一度としてなかった。



2009年7月20日。皆既日食が二日後に迫っていた。ファラオは皆既日食の写真を見ながら、ずっと以前に思い浮かべていたピラミッドの幻影を思い出していた。真っ黒な三角形に、真っ黒な背景。その境目というか、三角形の背景には、光が照らされていて、青白くなっている。あれは皆既日食と同じだった。ということは、三角形のピラミッドが月であり、太陽と重なりあっていたということか。どういうことなのだろう。ピラミッドが地上からは浮遊し、宇宙空間でちょうど、太陽と地球との間へと移動してしまったということなのか。浮遊?ファラオは、ピラミッド内部に、王妃の間があることを知っていた。しかし、大回廊を突き進み、王の間にたどり着くあいだに、王妃の間はなかった。王の間から伸びている、別の回廊の存在もなかった。いったい、どこを、どうやって行けば、辿りつくことができるのか。ファラオは同じピラミッド内にいる、別の人間の存在を、近くで感じはするものの、顔を付き合わせることのない現実に苛立った。



 「シリアルキラー」は、鶴岡が死んでから二年半後に、完成した。

 だが亜子にとって、それは喜びとは、ほど遠い出来事になってしまった。

 シリアルキラーは、亜子の現実を孤独なものにしていった、その象徴として、手元に残ることになった。

 さらには、これを手放さないことには、「絵の中の現実」に、「亜子の現実」のほうが打ち負かされてしまうことになった。そして、あまりに力のある絵となっていたために、それよりもさらに力強い絵を描くことなしには、ある意味、憂鬱と無気力に苛まれていってしまうのだった。より強烈な体験を求めることなしには、生きていくことができなかった。

 そして、あの鶴岡を見た最後の瞬間が、心の奥では、根源的な苦しみとしての原型を、いつまでも形成し続けていた。人はあんなふうに死を迎えるのだろうか。一種の強迫観念となっていた。安らからで穏やかな死など存在しなかった。それは、突然、断ち切られるという無残で惨酷で暴力に満ちたものだった。遺体はその場で焼かれ、その黒煙が空に向かって立ち昇ってゆく姿が、亜子の眼にはいつまでも焼きついていた。それは蛇の肉体のように緩やかな螺旋を描きながら、主のもとへと帰っていくようだった。

 亜子の現実は、そのとき以来、さまざまな石の壁が立ち聳えることになってしまった。

 亜子はシリアルキラーを描いたあと、シリアルキラーの続編でありながら、シリアルキラーとは対極に位置する絵を描かなくてはいけないと思った。

 亜子は、すでに、不思議な輪廻の中に組み込まれていた。抜け出すことのできない、逃れることのできない運命に、翻弄され始めていた。亜子を助ける天の手などは、存在せず、慰めてくれる生易しい現実などは、どこにもなかった。ただその先を目指して、絵を描き続けるしかなかったのだ。絵など単なる絵でしかないのに・・・。どうして、生死のかかった危うい裂け目の中に、自分も絵も存在しているのだろう。絵とは一体何なのか。私にとって、それは何なのか。

 シリアルキラーが佳作を取ったとき、亜子の手元には別の作品が完成していた。



































































































ダ ファラオズ エンパイヤ


Da Faraо.s Empire Ⅱ

~ après eclipse de soleil ~


































ⅵ部   日飾  <ヒッショク>





















 その日、日食は予定されていた現象を引き起こさなかった。七月二十二日、午前十一時。皆既日食が四十六年ぶりに訪れるはずだった。確かに太陽と月と地球は一直線上に並んだ。その数分間は昼間にもかかわらず、真っ暗になった。だがそこに現れたのは三角形の黒い太陽だった。あとに放映された映像を何度見ても、それは間違いなかった。専門的な分析が早くもなされていたのだが、正確な解明には、まだまだ時間がかかるようだった。

 その日から数えて、はや五日が経っていた。しかし人々の注目はというと、おかしな動物の目撃情報へと集中していた。いくつもの動物の部分部分を重ね合わせたような奇妙な生きものが、庭を横切ったとか、台所に侵入してきたとか、人間の赤ちゃんを襲ったとか、動物園に紛れ込んだとか、全国各地の人々の目には、そのように確認されていた。あんな動物、見たことがありません。継ぎ接ぎだらけとかそういうんじゃないんです。ただ猫の顔が象になっていたり・・・。犬のおしりに犬の顔がもう一個あったり・・・。些細なことなんです。ぼんやりと見ていたら、それこそ見逃してしまうくらいに。そんな細かなことなんです。

 しかし、そんな目撃談は、ほんの最初の頃だけだった。次第に動物たちの異変はエスカレートしていった。魚に四つの足が生えていて、スーパーの前を歩いていたとか。ライオンの面を被ったカラスが、屋根の上を闊歩していただとか。それはあらゆるパターンがあったが、情報は常にどこかで重複していて、それぞれが相互に事実の裏づけとして、機能していた。人間の住む街に、動物が増えてしまったのではないかとも言われた。明らかによく見かけるようになったと、住民は口を揃えた。しかし、捕獲された動物は一匹もいなく、映像でおさえられたことも一度もなかった。だが目撃したことのない人間のほうが、疎外感を味わうほど、それは一般的なことになっており、まだ見てない人の方がコンプレックスを抱くことになった。焦燥感を持つことなく、過ごすことはできなくなっていた。あらゆるパターンが、次々と現れていたのだが、どれが本当なのか。すでに見分けはつかなくなっていた。情報に正確さは求められていなかった。目撃したことのない人間が、勝手にでっちあげていることもあったのだろう。こんなのがいたら、すごいだろう。気持ち悪いだろう。威嚇的だろうと。次第に情報は錯綜していった。あるときには、その創作した動物までもが、あとから現れるといった現象を頻発させていった。まさか考えたことがそのまま、現実の現象となって現れるわけではなかったのだろうが。

 黒い三角形の太陽が現れた日から、人々の意識は狂っていったのだ。

 あの三角の太陽を見た人間の意識は、変容してしまったのだ。

 あんなにも巨大なスケールで見せ付けられたのだ。その後は、その目で日常を切り取ることになってしまったのだ。今まで通りに、世界が見えるわけがなかった。眼球に光が照射されたのだ。あまりに息苦しく、美しさを欠いた東京の街のなかにあって、それは天から届けられた危ない贈り物だった。警告だった。人間の肉体を、人間自身がコントロールできるのだという傲慢さは、粉々に砕け散った。今や、視界は、自然現象によって見事に操られ、視覚からの変容に人間自身が受容せざるを得ない状況になっていた。

 しかし、誰一人として、コンピューター機器で記録を押さえる事ができなかった。



 その夜、腹部から盛り上がってきた黒いコブを取り除く手術が、丘の上の野ざらしな場所でとり行われた。破綻した医療メーカーと、過去に医療事故を起こして退職した医者とが集められ、末期や手に負えない難病、珍現象を専門に扱う診療所を開設していた。子供が十ヶ月経っても全然生まれない。生まれる気配もない。そんな妊婦の患者もあった。

 お腹に黒いコブが現れ、痛みは相当なものとなっていった。だんだんと出っ張ってきていた。取り除かないといけない。産婦人科の担当医には、手に負えないと言われる。大学病院を紹介するからと言われる。だが、妊婦は、紹介された病院には行かなかった。この丘の上の『野ざらし病院』の門を叩いた。たまたま、日食の日と重なってしまっていた。時刻もほぼ、十一時前後に行われたという報告がある。二人の女性医師と一人の男の看護士の組み合わせで、時間ぴったりに執り行なわれた。何十時間にも及ぶ大手術の結果、赤ちゃんは生まれなかった。黒いコブのほうは、見た目には取れていた。人間の拳くらいの大きさがあった。すぐに袋に梱包され、研究用に保管された。妊婦のお腹は確かに臨月に入っているように見えた。しかしそれでも、決して生まれることはなかった。まるでこの世に生まれ出てくることを拒んでいるかのように。ぎりぎりまで伸ばすことで、この世での滞在時間を、少しでも短くするかのように。

 妊婦は病院を後にした。しばらく様子を見るしかなかった。そのしばらくが一体どれほどの長さになるのか。彼女にはわからなかった。この子の父親に相談するべきなのかどうか。彼女は思い悩んだ。一人ひっそりと出産をして、育てていけばいいと思った。二度と会う必要なんかないと思った。しかし事態は時が来ても、生まれ出ようとしない。一体、誰が、十ヶ月を過ぎてもまだ、妊婦でいるなどと考えるであろうか。しかし、逆に、どうして、十ヶ月でみな生むことができるのだろう。誰がそんなことを決めたのだろう。

 彼女は、手術中、ほとんどない意識のなかで、空には稲妻が光っていたことを思い出す。

 天井のない手術室において、メスにはその電気が乗り移っていた。落雷が起こり、その音は凄まじかった。自分が大自然の中で置き去りにされているかのようだった。仰向けになって、硬直してしまっているかのようだった。光はメスを通じて私のお腹の上を這っている。麻酔が効いていないと、彼女は咄嗟に思った。麻酔が効いてないじゃないか。しかし、視界ははっきりとしているわけではなかった。強烈な光を空に感じていただけだった。よく考えれば、音も聞こえてこなかった。メスがステンレスの皿に乗るカチャッカチャッという音が妙に静まり返った空間の中で、鳴り響いているだけだった。このコブが取れたら、子供は生まれるに違いないと思った。これさえ取り除ければ、子供は何のつっかえもなく、流れ出てくる。淀んだ川は澄みきるはずだった。

 しかし、難産どころか、状況はその後も変わらず、出産はどんどんと先延ばしにされていった。

 二人の女医が「コブの方はお任せください」とだけ言って引き受けたことを、今になって思い出す。



 メーターは赤いデジタル表示になっていて、着実にその数字を上昇させていた。もうかれこれ一時間は乗っている。

 Redは目の前を走っている車の、赤いバックライトをぼんやりと眺めていた。助手席は両足をきれいに伸ばせるくらいの広さがあり、窓は閉まっていたが、空調は絶妙な頃合を保っていた。前の車を追い始めてから、一度も見失うことなく、途切れることのない二台の連なりが、国道を突っ走り続けている。たまに後続の車の存在があったが、次第に引き離していき、あるいは途中で、別の道へと曲がってしまっていた。

 気づけば、二台の車が猛スピードで走り続けている。

 一度も信号に引っかかることはなかった。

 運転席のVioletに声をかけた。

「このメーターの数字の意味って、何なのですか」

 Violetは冷たい目で横を見た。

 まるで、それが重要な質問なのかよと言うような目つきで。訊くことは他にあっただろう。どうしてよりによってそれなのだと。

 Violetは、当然のように答えなかった。

 Redは自分も乗せていって欲しいと、一時間前にVioletに懇願していた。

 天井とサイドにあるステレオからは、人が話しをしている声が聞こえてくる。ラジオの番組なのかニュースなのか。一人の声ではない。さまざまな声がまるで折り重なるように、練りこまれているように聞こえてくる。流れるようなスピード感の中、アクセントが確かに刻みこまれている。

 Redは音楽を聞いているようだった。

「これは、ニュースだ」とVioletは言った。情報源なんだと、彼は言った。

 そのことに関して、Redは確かに聞いたことがあった。同時にいくつもの話題を取り込むことなしには、一つの情報も受け取ることができない。彼はそういった障害を持つ人間であった。そして文字も読むことができない。すべてを数字に変換していた。そして数字の長い羅列の中で河をいくつも合成させ、合流させ、重なり合った状態の中で、頭に吸収されるので、効率がよいということだった。すべては数字に置き換られ、記憶されるのだ。メーターの数字も、何らかの意味があるだけでなく、いくつもの情報が重なり合った状態で提示されているのだろう。おそらく俺なんかが訊ねても、答えようがないのだ。暗号のようなものだった。

 Violetは左の手でメーターの下にある<ツマミ>のような出っ張りを、右に回し始めた。すると道路標識は、すべて漢字やローマ字から数字へと、変換されてしまった。991、997、BB84、B92・・・。一瞬、目の錯覚かなと思った。車体が一回転したような気がした。大きなカーブを曲がっているときに、その遠心力があまりに強すぎて、そのままぐるりと回転してしまうかのような勢いだった。その直後に数字が現れた。

 Violetは前の車を凝視しているだけで、横にRedが乗っていることなんて、すっかりと忘れてしまっているように見えた。

「この後、もっと大きな車に乗り換えるから」と一言呟いたのを、危うく聞きそびれてしまいそうになった。

 えっ?と、大っきな声でRedは訊き返してしまう。

 この後?大っきな車?

 Violetは前列のコンピューターの盤に、再び左手を伸ばした。

 ボタンのいくつかをブラインドタッチで素早く押していた。今度は何なのだろうと、Redが思う暇もなく、街灯のいっさいが道路から消えていた。車内の赤い数字と、前の車の赤いライトだけが、暗闇の中で浮かんでいた。それだけで目印は十分だと言わんばかりに。車のスピードの感覚がRedにはわからなくなっていた。

「乗り換えたら、いろんな人間が乗ってくるから。それまでの辛抱だ。運転手なんて、必要のない車なんだ」

 確かに聞こえた、とRedは思った。確かに声として聞こえた。

 Violetが話し出したその瞬間にだけ、スピーカーから止め処なく流れ出ている、その『重なり、もつれ合ったような言語』から、一つの文脈の声が、鮮明に聞こえてきた。

 Vuoletはすでに口を閉ざしている。気のせいではなかった。何と聞こえたのだろうか。何度も何度も脳の中に残った音を取り出して、反芻してみる。何度も何度も。・・・絶対に許さないからな。そうだ。確かにそう聞こえた。間違いなかった。Violet自身の言葉ではなかった。Redは、かつて自分がタクシーに乗っていた時のことを思い出す。そのとき付き合っていた女と、食事の席で喧嘩になり、そのまま外に飛び出したときのことだ。もうお前とは居られないからな。いつだって突然だった。それだけは絶対に許すことができなかった。他は何を言われたってかまわなかった。だがそれだけは駄目だった。一度、許せない言葉を吐いた人間とは、顔も合わせたくなかった。その前の女の時も、似たような状況になったことがあった。それまでは仲良く過ごしていたのに、そのとき言われた、たった一言のためだけに、一緒にいることが耐え難く嫌になってしまった。

 どうしていつもこうなのだろう。連鎖的に起こってしまうのだろう。偶然とは思えなかった。許せない一言を吐いた人間を、Redはその後、けっして受け入れようとはしなかった。わりに心の広い、寛容な人間であると自分では思っていたし、他人からもそう思われていた。自分と違う考え方や個性を、熱烈とは言わないまでも、どちらかといえば歓迎する方でもあった。

 あの時は、そのあとで、店を飛び出した勢いでタクシーに乗ってしまった。その場から早く離れたかった。顔も見たくなかった。運転手さん早く行ってください。できるだけ急いで。県を三つも跨いでいた。料金はとんでもない額になっていた。いい加減、十万円を超えたところで恐ろしくなってきた。降りますと言ってしまった。えっ、ここでですか?山の中だった。そうです、ここでいいんです。そこで運転手は勘違いし始めた。自殺するために山の中に入るように思ってしまったのだ。何としても止めなくては。彼が口ばしった言葉は、料金のことはいいですから。行かないでください。ちゃんと送り届けますから。そして思いとどまった。県をさらに超え、家に着いた時には、三十万近くになっていた。しかし、運転手は何を思ったのか。そこでさっきの言葉をあっさりと覆してしまった。領収書はいりますか、と。

 女には、そのときからは会っていない。

 それ以来、どこから乗るにせよ、家の前まで送ってもらうという行為に、恐怖感を持つことになってしまった。



暦は変わっていた。おかしな日食を部屋の窓から見た日を境に、ファラオはそのことに気づいた。7月23日だったが、その次の日には、8月21日に飛んでいた。一年は16ヶ月になり、23日が、ひと月の区切りとなってしまっていた。最後の月だけが、3日少ない20日になっていて、365日の帳尻は合っていた。家のカレンダーも変わっていた。新聞に印刷された月日も、変わっていた。時刻に変動はなかった。24時間制は相変わらず機能し続けていた。ファラオは亜子の元から離れて、日食を迎えることにした。亜子の部屋で受け取ってはいけないような気がした。何かが起こるだろうなとは思った。

空には三角形の黒い太陽が現れて、暦は変わってしまった。



「今のは、何なのですか?」

 霧のような煙を噴射していたVioletにRedは訊いた。

 ボタン一つで、車に備え付けられたどんな機能も、簡単に操作することができた。

「動物だよ。今はちょうど、動物の改変が行われている時期でね。そのあいだに、近くを通過するっていうのは、とっても危険なことなんだ。だから、動物を寄せ付けない煙を巻いている」

「動物の改変って、何ですか?」

「構造だよ。組み替えが部分的に起こっている。交換しているんだ。この暗い時間のあいだにだけ」

「どれくらい続くんですか?」

「五分程度だろう」

「もう経ちましたよね」

「まだ、二分も経ってない」

 そんなはずはないと、Redは思った。

「それより、彼女とは、本当にもういいのか?もう戻るつもりはないのか?」

「ええ。それは」Redの答えは煮え切らなかった。

「君たちは、一体、何があったんだろう」

 居酒屋で大喧嘩をしたあげく、店を飛び出したRedが、道路でまず目にしたのが、Violetの車だった。タクシーに乗り込み、逃げるように立ち去ることを繰り返した過去を持つRedにとっては、顔見知りのVioletの車が目の前にあっては、ごく自然な流れで飛び乗ってしまったのだ。

「喧嘩したんだろ?」

「喧嘩じゃないです」

「もっとひどいことか」

「決定的な」

「それなら話はとんとん拍子だな」

 Redはすでにどうにでもなれと思い始めていた。

 なら、自分に付き合ってもらおうじゃないかと、VioletはRedをどこかに連れていこうとしていた。

「日食は、ご存知?」

 Violetという男とは、同じ局の局員であった。それまでは話したことがなく、お互いの存在を意識するなんてまるでなかった。街ですれ違っても、もしかしたら、お互い気づかないんじゃないかと思うほどに、接点はなかった。

「日食というのは、人体が受ける影響がとても強い。だから何としても避けなくてはならないんだ。特に今回のは予測が不能だ。何か、今までとは違う現象が起こるということだ。事実、動物にその弊害が出始めている。人間だって時間の問題だろう。時間の差っていうものがあるからな。人体への影響には時間がかかる。君はちょうどよかった。こうして鉄壁な防御体制の整った人工物の中にいるんだから。彼女は駄目だっただろう。君たちは何てタイミングで、別れたのだろう。僕は僕で、一人で過ごすことにしたのに、そこに君が勝手に入ってきてしまうんだから。君はラッキーだ。どこも報道はしていないんだけど、今回の日食はとても危険なんだよね。この今の状況を、失恋のよい代償だと思ってさ、素直に受け取ってくれればいい」

「どうしても許せないことを、彼女は言ったんです」

「言わなくていい」

「ええ。前から何度も。それが原因で別れたことがありました。前と違うのは乗ったのがタクシーではなく、あなたの車だったということです」

「日食が影響を及ぼし始めていたんだ。君たちの元にもね。もう戻るつもりはないんだろう?」

「ないですね」

「それなら忘れろ。白紙に戻したんだ。前だけを見つめたらいい」

 それからしばらく、Violetは無言になった。ステレオからはすでに混線した会話の連なりは聞こえなくなっていた。ガスの噴射がどんどんと強烈になっていくにつれて、前を走っていた車のバックライトは薄れていった。それを見ていると、だんだんと気が遠くなっていくのがわかった。ほんの数十分前にいたはずの女の顔が、ほとんど誰なのかもわからなくなっていた。

「許さなくていい。ただ忘れろ。もう彼女はいなくなったんだ。顔を思い出すこともない。新しい顔を想像しろ」

 噴射されたガスは、次第に弱まり、Violetの声だけが闇の中で鳴り響いていた。

 皆既日食は、あともう少しで終わるはずだった。



気温は二十度も下がった。限りなく零度に近い。突風が起こり、車も家も飛ばされた。ビルも無償ではいられなかった。豪雨も手伝い、動物や人間も流されていった。丘の上では火災が発生しかけていたが、濁流がせりあがったために、消しとめられていた。それが、唯一の幸運なことだった。

三角形の黒い太陽は、予定よりもだいぶん長く、空に君臨していた。四十年ものあいだ、ただこの瞬間にだけ、覇者となるべく存在を隠していたかのようだった。街は冷却され、生きものは凍りついてしまった。

災害はまた、別の災害を呼ぶこともあれば、お互いが打ち消しあい、相殺することもある。 

 この数分のあいだにおこった出来事を、首尾よく説明できる人間は誰もいなかった。



 しかし、Redは、白紙に戻せと言われようが、忘れて未来の顔を想像してみろと言われようが、そう簡単には切り替えられものではなかった。

「さてと、そろそろ日食さんのほうは、活動を終えたのかな?」

 Violetは能天気な声を上げた。

「ずいぶんとひどいことになったよなぁ。いよいよ正体を現したってところだな。なあ、正体といえば、その彼女のほうも正体を現したってことだよな?」

「まあ、そうですね。そういうことです」

「被っていたお面が取れて、よかったじゃないか。でもよ、それって君も同じことなんだろう?君だって、お面を被っていたんだろ?どちらか一方だけっていうのはないからね。君のお面も、すっかりと取れた。お互い取れて、大喧嘩になった。そして君は飛び出し、もう二度と元には戻らないという。とても自然な流れだと思うけどね。そこに日食が一枚絡んでいるってだけの話だ。ただの日食じゃないぜ。ほら」

 Violetがコンピューターシステムの一部を操作し始めると、モニターが現れ、街の様子が映し出された。大災害のほんの一幕であった。

「こういうことだよ」とVioletは言った。

「これは、さっき、君がいた辺りの映像だよ。流されてしまったね。彼女はまだ中に居たんだろう?助からなかっただろうな」

 Redはそのすぐに消されてしまったモニターの映像を、信じることができなかった。

 この男、いったいどういうつもりなんだろう。

「信じてはいないんだろう?君は。それなら今から街に繰り出していってもいいんだぜ。引き返していっても、いいんだ。ただし。大洪水になっているから。この車だって沈んでしまう可能性がある。それでも行くのか?さっきも言っただろう。このあと、乗り換えるんだ。運転手もいない、大勢の人間が乗れる車が、現れるんだって・・・」

 この男は、ノアの箱舟と勘違いしていると、Redは思った。現実と虚像の区別がつかなくなっているんだ。

 前を走る車の赤いライトが、いつのまにか消えていた。

「ほら。危ないなあ。車が流されてきているんだ。看板も何もかも。幸い、この車には、当たらないよ。忌避装置が装備されているからね。ぎりぎりのところで、かわせるようになっている」

「いいから戻れよ」Redは声を荒げた。「戻ってきてくれよ。何もかも、数分前に戻してくれよ。何があったんだ」

 Violetは悠然とタバコに火をつけ、物憂げに窓の外を眺めていた。

「俺だって望んでいたことじゃない。許せないことだってたくさんある。だがそれは捨てなきゃいけないんだ。起きてしまうことは、もう、あらかじめ分かっているんだ。それなら、そこをどう切り抜けていくのか。どう乗り越えて、先に行ったらいいのかを、考えるのが普通だろう?俺は普通なんだよ」

「あなた、予知能力でもあるんですか?それとも、ただの、妄想癖があるだけ?」

 Violetは何も答えず、ダッシュボードの辺りに広がったいろんなボタンを、またすさまじいスピードでタッチし始める。

「結婚する気はあったのか?結婚だよ。最近、やたらと結婚式があった。どこのバーに行っても二次会で貸切りだった。何軒回っても。そんなことってあるんだな」

「僕は望んでいません」

「意見は一致してなかったのか?君たちは。それより許せなかったって、そんなにひどいことを、彼女は吐いたのか?」

「客観的に、どうなのか。それはわかりません」

「ただ、君にとっては、ひどく堪える言葉だったわけだ。絶対に許せないのか。しかし状況は見ただろう。許さないと始まらないんだよ。もう君は日食を一つ通りぬけようとしている。もう世界は、何もかもが違ってしまっているのかもしれない。一つ教えてあげようか。もう、暦は変わったんだ。まだ知っている人間は、それほどいるとは思えない。注意して見てみるんだ」

「彼女はですね」RedはVioletの言葉を無視するかのように話はじめた。「負の連鎖について肯定的だったんです。つまり、自殺者や、アルコール依存症が、やたらといる僕の家系に、食ってかかってきたんです」

「つまりは、君もいずれはそうなるっていうことか」

「そうです。決め付けたんです。遠まわしに。逃れることはできないんだと、断定的に言ったのと同じなんです。あなたはこれから落ちる一方だと。そう言っているのと同じでしょう。僕は彼女と結婚するつもりはありませんでした。彼女以外の女性と、結婚する気だってありません。けれど、そんなふうに、負の連鎖からは逃れることができないって言われれば、それは、私とは結婚をしないでくれって。私を巻き込まないでくれって。そう言われているようなものじゃないですか。正直、傷つきます。私には触れないでくれ。もっと、節度あるお付き合いを、しばらくは続けていきましょう。あとはお互い自由に、別々の道を歩きましょうって。確かに、僕も、そんなふうには思ってましたよ。ずっと前から。この人とは一生、同じ道を歩んでいくわけではないんだろうなって。でも、それなら、なおさら、そんな連鎖のことを、あてつけのように言い放つことはないじゃないですか。たとえ、彼女がそう感じていたとしても、そっとしておいたらいいじゃないですか。なぜ剥き出しにして、僕の目の前に突きつけたりするんですか」

「そもそも、何で、そんな話になったの?」

「忘れましたよ」とRedは投げやりに言った。「そんなこと、もう忘れましたよ」

「絶対に許さない、か」

「許しませんよ」

「もう、死んでるのかもしれないんだぜ」

「あなたの言うことは、信じませんから」

「君は、人間不信なのか?」

「違うでしょうね。あなたと、彼女だけですよ。信じられないのは」

 Redは投げやりに笑った。

「僕のことは信じているさ」とVioletは言った。「前から、僕のことが気になっていたんだろう。僕には、わかっていたよ。君が、局に馴染んでいないことくらい。周りには、そう、見えなかっただろうけど。君は人当たりが柔らかいし、おもしろいし、頭の回転が早いし。でも、いつもどこかうわの空だ。いったい何を考えている?きっと女に対してもそうだったんだろう。だが、この僕に対しては、違う。君はずっと何かを僕に求めていたのさ。そういった視線を、いつも感じていたよ。するとだ。日食の、まさにその直前に、僕の車の中に乗り込んでくるんだからな。いったいどういうことなんだろう。君のいた場所の、すぐ近くにいた僕も僕だが。もちろん、そんなことは知らなかった。ちょうどよかった。僕らは二人きりになった。話したいことがあったら、話せばいい。世界は変わったんだ。暦だって変わった。まだ知っている人は少ない」

 Redは俯いていた顔を上げた。「この車は、いったい、どこに向かってるんですか」

 前に走っていた車が消えてから、一分以上が経過していた。

「丘に向かっているんだ。丘の上が、とりあえずは、安全な場所なんだから。水が引くまでのあいだは」

「本当に、その、日食っていうものは、終わったんですか?これは夜だから暗いんじゃないでしょ?」

 Redは、今だに、日食が続いているような気がしていた。太陽は月に、隠れっぱなしのように感じていたのだ。とりあえずは丘に行けば、遠くの空まで見渡すことができると、Violetは言った。それまでは何とも言えないなとRedは思った。


 緩やかなカーブを走り続けていた。外は暗闇が続いている。Redは喧嘩別れした女のことが頭から離れられないでいた。ほんの、口がすべっただけなのではないか。そんな些細なことよりも、もっと大きな愛情を、彼女は僕に与え続けてくれていたじゃないか。しかしそんなものは、一瞬で地に堕ちてしまった。頭では許していても、心はねじくれたままだった。

 車は静かに止まった。フロントガラスには、白い服を着た金髪の女が立っているのが見える。Violetは窓を開けて女性に声をかけた。もう一人は黒髪だった。二人の白い服は、医療用のように見えた。聴診器を首からぶらさげていた。Violetは身を乗り出して、危ないじゃないかと注意した。こんな場所で一体何をしているんだ?

「日食を観測していたんです」と黒髪の女が答えた。

 そういうことかと、Violetは言った。

「よく見えたか?」

 しかし、金髪の女は答えなかった。黒髪の女は、ずいぶんと離れたところに移動してしまった。二人とも二十代に見えた。

「君たちは、看護婦?」

「いいえ」

「医者か?」

 金髪の方だけが頷いた。

「病院から抜け出してきたのか?日食が見たかったために。車で来たのか?」

 金髪は首を振った。「歩いて来ました。病院はすぐそこなんです。その公園の、すぐ隣り。日食の観測に夢中になってしまって、道路の真ん中まで出てきてしまいました。申し訳ありません」

「いや、こっちこそ」Violetは奇妙に思った。すぐにそのまま通過してしまうわけにはいかなかった。

 何かがひっかかったのだ。暗闇の中から、二人の女医が現れたのだ。

「後部座席は、空いているかしら?」

「なんだって」Violetは助手席の方をすぐに見た。

「私たちは、もう、ここを離れようと思っているの。でも、移動手段がないでしょ?これから、歩いて戻るのも億劫だし。そしたら、たまたまあなたたちが来た。ねえ。いいでしょ?どうせ、後ろは空いているんでしょ?場所なんてどこでもいいからさ。とりあえずは、ここから離れたいの。はやくしないと、日食が終わってしまうよ。終わるまでには離れたいの」

 やっぱり、まだ終わってないんだ。日食は後半のさらに後半へと入っている。前半の急な気象の変化を終えて、静かな光の差す世界を、控えている。

「タダとは言わないからさ。あとで、連絡先を教えるから。また会いましょうよ」

「巫女や踊り手には、興味ないぜ」Redは急に言葉を発した。

「巫女?」Violetは素っ頓狂な声を出す。

 女は黙っていた。

「どういうことだよ」

 Violetは、Redに言葉の真意を迫った。

「何でもないよ。ただの医者には見えなかっただけだ」

 確かに俺だって医者には見えないさと、Violetは思う。けれど、相手の芝居に乗ってやればいいんだよ。向こうだって本気じゃないんだ。何を、一人だけ、そんなに真面目くさっている?VioletはRedを睨んだ。女は黙ってしまった。君のそんなところが、女を硬直させてしまうんだよ!

「そうか。うん。乗せていくことを考えてあげもいい」

 Violetは、すぐさま、彼女たちを会話へと引き戻そうとした。

「気にすることはないさ。こういうときは、お互い様だ。困っているのなら乗っていいよ。もう時間は迫ってきているんだから」

 Violetにしてみても、彼女たちがこんな所で、日食の観測をしていたとは思わなかった。がしかし、ここで単刀直入に切り出すこともできなかった。Redは不機嫌な表情を丸出しにしていた。だがそもそも、これは自分の車ではなかったので、しぶしぶ彼女たちの搭乗を認めるしかなかった。

 女性は二人とも黒くて硬い革のバックを持っていた。楽器か何かが入っているのだろうか。いや、本当に、医療道具だったとしたら・・・。バックミラーに映った、彼女たちの短いスカートの横に置いたバッグのことが、Violetはずっと気になっていた。

「どこに向かっているのかしら」

 初めて黒髪の方が口を開いた。「丘の上は駄目よ。あそこは危ない。落雷がすでに落ちてしまっているの。私たちは見たの。激しい光があそこに集中して、放射されていった。空から。天から。だから、近づいては駄目。残骸の影響がまだあるの。避けて。できるだけ避けて」

 Violetは言った。「君たちは、娼婦じゃないだろうな」


 白衣は少しも濡れていなかったのに、肌には水滴がくっついていた。防水だからと金髪の方が答えた。すごい突風の雨だったんだから・・・。観測?全然できなかったわよ。うん。わたしたちは医者よ。抜け出してきたの。今日だって朝から夜まで、びっちりと検診が入っていたんだから。毎日毎日、検診ばっかりなの。だからちょっとくらい抜け出したってかまわないでしょ?一人だと心細いから誘ったの。全然、しゃべったことのない子だったけど」

「顔見知り?」Violetは訊いた。「それなら、俺たちと一緒だよ」

 金髪の女は右足をソファーの上に持ち上げ、半分、あぐらをかいた状態で、腿の内側を小さなタオルで拭き始めていた。バックミラーにはその短いスカートの中が見えていた。暗がりになっていたが、下着は履いていないように見えた。まるで前列の男二人に、見せびらかすかのように。わざとらしく水をふき取っていた。そして、その股のあいだからは、ほんのわずかだったが、男の精液の匂いが漂っているような気がした。Violetは、丘の上の位置を探知しながらも、そのバックの中には何が入っているのかを訊いた。

「これ?医療用具よ」と金髪は答えた。「いつも、携帯しているんだから」

「じゃあ、ここで、応急処置もできるんだな」

「もちろん、そうよ」

 だんだんと、丘の上にまで行くのが、面倒になってきたVioletは、車を停めることのできる場所を探し始めた。Violetは夜中と勘違いしそうになった。まだ午前の11時にもかかわらず。日食がこんなに長く続くはずはないと思った。だが暦が変われば、時刻だって一時的に変わる。Violetは街の中のいくつかの定点のカメラに、照準を合わせた。すると、どこも真っ暗なままだった。<なら、光が差すまで、好きにやらせてもらうよ>

 バックミラーに映った金髪の顔を見た。この辺でいいかなと、目配せした。車の前部と、後部のあいだには、硝子の仕切りを下ろすことができる。どちらが移動すればいいかな。黒髪の女は、Redと同様に、無表情で不機嫌そうに坐っていた。

 Violetは、後部座席に移動することにした。一度、ドアを開けて外に出た。そうだった。二十度以上も下がっていた外気のことを忘れていた。後部座席のドアを開け、黒髪の女に前の席に移動してくれと言った。彼女は特に何も答えず、言われたとおりにした。

 Violetは金髪と二人きりになった。どういうことだよと、Violetはいきなり迫った。どうして男の匂いがするんだよ。さっきまで何をしていた?本当に観測していたんだろうか。じゃあ、観測していた器具を見せてみろよ。そのバックの中にあるんだろう?貸してみろよ。中を開くと、そこには注射器や、カプセルに入った錠剤、瓶に入った液体、脱脂綿、長い木の棒があった。

「そうやって、闇の中で、男をひっかけようと徘徊しているんだろ?」

 Violetの手は、すでに彼女の膝の上に移動していた。そして、彼の上半身は、金髪の女に覆いかぶさっていた。女の手はVioletのズボンの上にあった。ベルトをすでに外しにかかっていた。下着の上から激しく動いていた。二人は、どちらかがどちらかを一方的に愛撫することに耐えきれず、逆方向になって重なりあっていた。Violetは女の肌に夢中になっていたので、女がバックの中から注射器を取り出したことには、気がつかなかった。女はすぐに液体を注入し、男性器に向かって針を刺していた。Violetはしばらく気付かず、男の精液の匂いのする局部に向かって、指を入れていた。だが、Violetの手の動きはしだいに勢いを失っていき、あげていた首は、力なくソファーへと打ちつけられた。女は素早く注射器と、その他のケースをバッグの中にしまった。Violetの性器だけが猛々しく重力に逆らい続けていた。女は自分の衣服をもとに戻し始めた。戻すといっても下着は履いていなかったし、上半身の方は特に乱れてもいなかった。女は頭に手をかけ、その金髪のかつらを取ってしまった。本当は黒髪の女が二人いたのだ。脱脂綿を取り出し、自分の性器を拭き始めた。前の席では、あの子がうまくやっているはずだと、女は思った。

 だが、その瞬間、車には強烈な音と共に大きな衝撃があった。

 一瞬、からだが宙に浮いてしまった。金属と金属がぶつかりあう音だった。火花が激しく散ったのが見えた。別の車が追突してきたのだ。衝突したに違いなかった。女はしばらくその場にうずくまってしまった。体はしびれたままだった。炎上は起こっていない。ガラスが飛び散った様子もない。落雷が落ちたのかと思ったが、後ろから追突されたと、考えるほうが妥当だった。後部座席の男は何も知らずに、やすらかに勃起した自分の性器を、握り続けている。そのまま凝固してしまっていた。

 女は手のしびれを何とか止めるべく全身の力を拳に集中してみたが、バック一つ持てないありさまだった。足だって立てそうにない。金目のものを盗むために、ハイテクの車を襲ったのに、金品はどこからも出てはこない。むしろ価値のあるものといえば、この車体そのものであり、情報も財産もすべて、コンピュータの中に搭載してしまっているようであった。

 しくじったと女は思った。しかし今夜は、他に車の往来はなかった。これを逃すわけにはいかなかった。しかし追突してきた車があった。誰なのだ、一体・・・。そして、どうしてこっちの車に寄ってこない?ドアを叩いてこない?逃げてしまったのか。当て逃げか。まさか、この車は、路上にそのまま止めていたわけじゃないだろうな?いくらなんでも、性行為に走ろうとしていたのだ。人目にはつかないところに、置いたはずだ・・・。道路からは、外れたところに。

 すぐに外の様子が見たかった。しびれはどんどんとひどくなっている。これではまるで、お医者さんごっこじゃないか。目の前には下半身を丸出しに、彫像のように固まってしまった男の姿がある。

 前の座席は、いったい、どんな状況になっているのだろう。女は何とかドアを開けて外へと這い出すことに成功する。すでに闇は薄くなっている。草原に這い出た一匹の昆虫のように、そのあまりに広い場所に、女は圧倒されてしまった。



 運転席へと、移動させられた長い黒髪の女は、助手席の男から名前を聞いた。

 二人は何を話せばいいのかわからなかった。後ろの席では、すでに性的な行為が行われていた。声がかすかに聞こえてきた。Redはそんな気にはなれなかった。黒髪の女も同じように見えた。

「これ、この車、すごいわよね」

 女は車の方に意識をそらした。

「後ろの男のものですよ。僕もあなたと同じで、まだ乗ったばっかりなんです。ほんの数分前に。でも、なんだか、ものごく長い時間、ここにいるような気がする」

「あなたは、何故、ここに?」

「あなたこそ」

「あのね」

 女は突然神妙な顔になった。

「話せないわよ。でも、いつかは話さなきゃ。あなたで、いいのかしら。まだ一人になっていないから駄目よね。あなたと二人っきりなら、いいけど。まだ駄目」

 Redは、後部座席との仕切りのガラスを見た。人肌は映っていたが、モザイク模様に映っているだけだった。細かい動きのほうはまるで分からない。

「しばらくは、二人きりだから」とRedは言った。

「あのね」

 すぐに吐き出したい言葉を、女はずいぶんと溜め込んでいたようだ。

「丘に行ってきたの。丘に。あなたたちがこれから行こうとしていた丘。わたしたちね、本当に医者なの。特にあの後ろにいる彼女は。娼婦に見えたでしょう?男を引っ掛けているように見えたでしょう?でもあれは仮の姿なの。カモフラージュなの。私たちは手術をしてきたのよ。妊婦のね。ええそうなの。でも違うの。産婦人科ではないの。外科なのよ。でもたまたま妊婦だった。だからその妊婦さんに、赤ちゃんのことをたくさん訊かれたんだけど、適当に受け流しながら、曖昧に答えるしかなかった。私たちの目的は、そこじゃないんだから。埋め込まれた黒いコブを、取り除く手術を頼まれたのよ。そう。旦那さんから。でも、妊婦であることは、聞かされてなかった。たまたま、日食が近づいていたのは知っていたんだけど、まさか、その時間に、執刀するとは思わなかった。執刀したのは私。本当は医者は私だけなのよ。その後ろの、彼女は違うの。免許は持ってないの。手術の場所と時間を設定する、そういう役割なの。依頼者と私を結びつける連絡係のようなもの。それで御飯を食べてるの。だからね、彼女、妙に変なストレスが溜まるんじゃないかしら。私は執刀しているからさ、その瞬間に、奇妙な解放感を味わうことがある。私の手術は野外でやるって決まってるの。気象条件や天体サイクルが、最も大事なことなの。それは二人で相談する。唯一、二人が、心を通わすとき。なんだか、私ばかりがペラペラとしゃべってしまったけど。あなたは、何者なのかしら。この車、ただ事じゃないわよね」

「さっきも言ったように、これは、僕の車じゃないし、機能については、まったく知らない」

「つまんないの」

「あの男の、おまけみたいなものだから」

「お勤めは?」

「情報局」

「あっちの人は?」

「同じです」

「でも、格が違うわけね」

「ねえ、さっきの日食の話。光は、まだ、差し込まないわけ?終わってはいないわけ?ずいぶんと、長いんだな。その、あなたの手術ってさ、どうして、丘の上を、わざわざ選ぶんだ?」

「内緒にしておいいてよ」

 そのときだった。

 突然、ものすごい振動と共に、何かが衝突するような音がした。車体に衝撃が走った。二人はフロントガラスの方に大きく体を揺さぶられた。何が起こったのかわからなかった。しかし首には痛みが走り、しびれ始めているのがわかった。

「後ろから掘られたわ」

 Redはすぐにドアを開けて外に出た。けれど何かがぶつかった様子はない。車が突っ込んできた様子もない。確かに後ろから突き上げられるように衝突してきた。空から何かが落ちてきたわけではない。不思議に思いながらも、Redは車体を一周した。黒髪の女には、何も異変はなかったと伝えた。

 だが、Violetが車の外に出てくる様子はなかったため、後部座席のドアをノックしてみた。反応はない。もう一度、助手席へと戻り、モザイクのガラス越しに様子を窺う。しかし、肌色はすでに映し出されてはいない。服を着てしまったのだろうか。もう一度、外からドアをノックしてみる。入りますよと、大声を上げてから、取っ手をおもいきり引っ張った。

 すると、中はからっぽだった。二人は姿を消していた。慌てて運転席へと回り、黒髪の女を引っ張り出した。こういうことだよと言わんばかりに、手を引っ張っていき、後部座席の様子を見せた。

 Redにはわけがわからなかった。

「これ、どういうこと?」

 女はすぐに運転席へと戻り、助手席に早く戻るよう、Redに命令した。

 女は車を急発進させた。その場から一刻も早く、立ち去るかのように。運転は荒かった。すぐに酔ってしまいそうだった。事件現場。事故現場からは、なるべく遠くに。足が付くのを極度に恐れているかのようだった。しかし、Redにはますます不可解だった。ほんの数分前までは、居酒屋で付き合っていた女と大喧嘩をしていたのに・・・。それが、遥か昔のことのように思えてくる。

「日食の話」と女が口を開いた。「もうすぐ明けるわよ。たいして長い時間じゃなかった。ほんの数分のあいだだけ。いつもと同じことよ。何十年前も同じだった。特別なことは何もなかった」

 女はさらに車を加速させていった。道路ではなく、じっとコンピューターの盤を見ていた。Violetと同じように、素早いタッチで、ボタンを力強く押していた。ステレオからは、混線した声の重なりが聞こえてくる。Violetが、情報を得るときの方法だった。さまざまなニュースを同時に聞く。同時並行で読み取る。そうでないと、一つも理解することができない。彼はそう言っていた。一つ一つを理解しようとしても駄目なんだ。同時に、聞き取ることで、すべてを理解することができる。全体像が描ける。彼女もそうなのだろうか。もしそうだとすると、この自分だけが、そうした能力を欠いてしまっているのだろうか。

 Redは、自分が太古の人間で、ずいぶんと先の時代に紛れ込んでしまった異物のような気がして、気味が悪くなってきた。



 光の差し込み始めた大草原に、一人、しびれたままの体で倒れていた女は、車にエンジンがかけられたことを知る。まさかとは思った。しかし、車はそのまま立ち去ってしまった。女が外に出た瞬間を見逃すまいと。女は車体にしがみ付く暇もなかった。大声を上げる気力も、湧かなかった。取りとめもないことを考えようとしたが、それも今までしてきた自分の行動が目に浮かんできて、大草原を埋め尽くしていた。

 見捨てられたのだと女は思った。今まで、いいように言いくるめてきたもう一人の女が、ここにきて反逆したのかもしれなかった。運転席にいるのは彼女なのだ。体が思うように動かなかった。手入れの行き届いていない芝生に、皮膚を突っつかれながらも、女は夜が明けていく空を眺めているしかなかった。助けは誰も来ない。声はどこにも響かない。浮かんでくる映像は、深夜に繰り返した<手術の光景>と、男に車で拾ってもらい、性的な行為をしたあとで、性器に注射針を打ち込む映像ばかりだった。どう考えても、この二つの行為を、毎日繰り返しているだけだった。結婚生活は長くは続かなかった。そのあとで持て余した時間を、ある老人との出会いをきっかけに、仕事に費やすことになった。そして、そのまた空いた時間に、男を物色し、殺害するという行為を繰り返した。元夫は私をなぶりものにするだけして、捨てた。娘も同じだった。その恨みを、今は、亡き男に向かわせることができなかったため、軽薄な男たちに費やすことでしか、解消することができなかった。

 私は、女の命を救う仕事と、男の命を抹殺するという両方を、同時に進行させることで、何とかバランスを保っていた。私は老人の手ほどきを受け、難産の女性にたまにあるとされていた黒いコブの切除を、違法で請け負う仕事を任された。しかし、そのコブを取ったからといって、子供がそのあと、生まれてくることは稀だった。というか全くなかった。しかし、妊娠が不自然に続いたことで、コブが発見されたというのは事実だった。何故このコブの切除が違法なのだろうか。正確に言うと違法ではなかった。ただ正規の医者が請け負うことを拒否したということだった。あるとき、手術と気象の変化の関連性が、指摘されたのだ。黒いコブを取ってしまうと、どうも、その本人だけのことでは終わらないことが分かってきたのだ。天にも通じる、霊的な回路でもあったのだろうか。まるで、空が怒り出したように黒い雲で覆われ、激しい雷雨をもたらすことになってしまった。初めは噂だった。しかし噂によって、その特定の医療行為に人々は過剰に反応するようになっていった。そして、やはり確率として、その関連性はかなり高いものと断定された。しかし、医療関係者の中には、「そもそも人々の意識が、不自然に、一箇所へと傾注したために、本来はありもしない事が起こるようになったのだ」と指摘するものもいた。嘘から出たまことではないが、それに近いようなことだと主張していたが、度重なる迫力ある現象に、その説得力はどんどんと影を落としていくことになった。

 そして、暗黙の了解で、正規の医療行為からは外れ、闇の組織が受け入れることになった。

 私は、特に深く考えたわけではない。夫に暴力の果てに去られ、娘と二人、どうやって生きていこうか。困り果てていたときに、たまたま声をかけられた老人の提案に乗ったまでだった。それ以上に深い意味などなかった。そして、その医療用具を逆手にとって、男に対する復讐をしてやろうと考えたことも、自分の中ではごく自然の成り行きだった。すべては示し合わせたかのように、どんどんと進んでいき、落ち度はまったく見い出せなかった。すべては自然の摂理がなせる技かと勘違いするほどに、事は流麗に進んでいった。そこに疑念の影はなかった。ただ娘だけが、その表情をどんどんと暗くしていった。

 私たちは明確な区別をつけるために、片方が金髪のウイッグを被ることにした。言い出した私が被ることになった。娘といっても、ほとんど同年代に見える私たちは、その事実を明かすことなく、行動をし続けた。

 それが気付けば、たった一人、だだっぴろい草原に放りだされている。

 出されたというよりは、自分で這い出したのだけれど。だが、娘は、それを見越して、チャンスとばかりに男と消えてしまった。そうだ。私が殺したもう一人の男。あれを乗せたまま、いなくなったのだ。草原をよく見てみた。しかし、下半身を丸出しにした男の姿はどこにもなかった。持っていってしまったのだ。女は、ほっとした。ここで死んだ人間と、二人きりにされても困る。私は動けないのだ。誰かが来たら一巻の終わりだった。

 もうしばらく繰り返される過去の映像と付き合っているしかないのか。

 いつもは、深夜にやる手術だったが、今日に限っては昼間に行った。数分しかかからないものだったので、老人は日食のときだって構わないはずだと、無理やりその時間にまで仕事を入れてしまったのだ。もちろん私は断ることができない。それに、いつもと同じ処置をすればいいのだ。昼だろうと、夜だろうと、とにかく周りが暗くなっていれば問題はなかった。社会の暗黙の了解がそこにはあった。光のない世界でなら、おこなってよいよと。天体への影響はないよと。しかし影響は、多大にあったのだ。それを、今、事細かに思い出すことはできない。豪雨の中、稲妻の光り方が尋常ではなかった。あの妊婦のお腹をめがけて、一気に電気を流しこんだかのような、落ち方だった。メスを握っていた手が痛みを感じた。痺れはしなかったものの、終えたあと、いつもよりもだるさが残った。そして、暗闇は明けなかった。分厚い黒い雲は、いつまでも、どかなかった。そこに、偶然、ライトをつけた車がやってきたのだ。うまいことに、男の運転者だった。何の苦労もなく、いつもの行為に取り掛かった。そのあとで金品を奪い、車をかっさらって、郊外まで移動し、乗り捨てるつもりだった。今思えば、嫌な予感は最初から感じていた。このハイテクの車が、まずそうだった。ただ者ではないなと直観していた。何かまずいことに足を突っ込むことになるかもしれない。本能はそう感じていた。しかし今まで途中でやめるとか、予定を変更するといったことがなかったために、立ち止まって考える余裕も必要性もなかった。乗っかってしまったものには、最後まで乗っかり尽くすしかない。この男たちはどうも、普通の職業ではなさそうだった。私たちだって同じだった。それでも、もう少し慎重に事を進めればよかった。もっと会話をするべきであった。情報を小出しにしながら、交換するべきだった。様子をみるべきだったのだ。向こうだって、疑惑の目で見ていた。お互い同じ感性で、情報を受け取っていたのだ。しかし男は性欲にあっさりと主役を譲り渡した。すべては暴走していたのだと、今になって思う。それに夜中ではないのだ。いつ明けるともわからない日食の最中だったのだ。あまりに長い時間、終わらないものだから、私は勘違いし始めていたのだ。いつもと違うことは、まだあった。男が二人いたのだ。いつもなら一人の男を狙った。狙ったというよりは、自然といつも一人きりだった。三人で性的な行為を楽しんだ後に、私はバッグの中からアレを取り出した。娘が男の注意をひきつけている隙に、最後の一撃を静かに加えるのだった。

 昼間が戻れば、車の往来も頻繁になる。道路までは、ほんの一メートルくらいしかなかった。だが、その距離さえも、私は移動することができなかった。荷物を引き寄せることもできなかった。震えと脱力感に全身が犯され、意識だけが妙に鋭敏さを保ったなかで、私は発見されたときのコメントを考え始めていた。



 車は音もなく加速していった。ボードの赤く光った数字は、どんどんと変化をしていき、モニターに移る映像は、絶えず入れ替わっている。ステレオからは、重なり合った声。女は車の扱い方を知っていた。何もわかっていないのは、自分だけだった。後ろの座席が気になった。二人はまだ行為を楽しんでいるのだろうか。

「見る?」

 彼女は、Redの心を察したのか。訊いてきた。

 ガラスは下がり、それまで前後を隔てていた壁は、撤去される。ソファーがあるだけで、二人の男女の姿はない。バッグが置いてあるだけだった。

「誰もいない」

 Redは呟いた。さらにわからなくなった。

「どこにいった?」

「どこにも、行ってないわ」

「ちゃんと説明してくれ」

「わたしたちのほうが、どんどんと変化していってるのよ。それ以外は、何も変わってはいない。あなたとなら、日食を抜け出せそうな気がした」

 Redは何と答えたらいいものか。言葉を失っていた。

「私ね、あの女からはいい加減、離れたかった。その機会をずっと狙っていたの。あなたを一目みたときに感じたのよ。あなたとなら変わっていけるって。あなたも変わっていける。わたしたち、きっとうまくいく。あの女のことは放っておきましょ。あなたのお友達の方も、道連れにしてしまって、申し訳ないけど」

「友達じゃない」

「まさか、兄弟じゃないわよね」

「先輩だよ。同じ局の。あまりよくは知らない。今日はじめて二人きりで話した。たまたまタクシーにでも乗ろうとしたら、彼が車を路肩に止めていた。それで声をかけた。何としても、その場をはやく立ち去りたかったから。人通りはほとんどなかった。もうすぐ、日食が始まる時間だったし。そのときは気がつかなかった。とにかくタクシー代わりだった。女と、喧嘩したんだ」

「喧嘩したら、逃げるの?」

「そんなことはない。でも、今度のことは許せなかった」

「あなた、何にそんなカリカリしてるのよ。原因は、何なのよ。私には分かるわよ。あなたはきっと、彼女と出会ったときのことが忘れられないのよ。そのとき輝いていた彼女の姿が、いつまでも心に焼き付いているの。そこがだんだんと、欠落していくのを見てられないんだわ。なぜなら、それは、彼女の本質的な良さだったから。けれど、だんだんと擦れていった。大人になるってそういうことだから。根源で揺れていた炎は、消えてしまっていた。その代わりに、別の魅力が育っていき、素敵な女性になっていった。それはそれで喜ばしいことだった。あなたにとっても。けれど、あなたが求めているのは、もっと別のものだった。その炎を危険にさらしながらも、大きく燃えているところを、あなたは見たかった。たとえ凶暴な暴れ馬になってしまったとしても、そこが美しいと、あなたは感じてしまう人だった。心を奮い立たせてくれる女を、あなたは求めている。問題は、あなたが『言われた』ことじゃなかったの。彼女の姿に、苛立ちを覚えていったの。彼女は変わってしまったと。変わっちゃいけない核のようなところまでが、柔らかくなってしまったと。しかし、その柔らかな雰囲気と、何にでも対応していける水のようなしなやかな性質も、また彼女の持っているものだった。けれど、あなたには、そんなことは重要ではなかった。あなたが求めていたのは、もっと違うものだった。あなたは刺激を欲し続けている。相手の女性も、きっと大変でしょうね。あなたと同じくらいに激しく、破壊的な狂気を求めているんだから。それでもあなたは、彼女の別の魅力にも、魅了されていった。あなたの狂気はあなたの狂気として、どこにも外に反映させることはなかった。彼女といるときは、彼女の柔らかい雰囲気の中で、のんびりとしてればよかった。ずっとそうしてきた。しかし、環境はあなたの『素』までをも、染めつくすことはできなかった。どこかで、意外な形で噴出してしまうのが定めだった。それが今夜だった。たまたま日食のときだった・・・」

「日食がそうさせたんだ」

 Redは、空に八つ当たりをするしかなかった。

「わたし、あなたの気持ちがよくわかるのよ」

「君は何歳なんだ?」

「年齢なんて訊かないで。十九よ」

「可能性に満ち溢れていて、うらやましい」

「まだ、どこにも進んでいないんだから」

 彼女は淋しそうに言った。

「進みだしたら、止まらないよ」

「あなたの気持ちがよくわかるのよ。わたしね、ずっとここのところ、人体を開閉する仕事をしていたから、きれいに取り除くってことが、その後、どんな人になってしまうのか。いろいろと想像してしまうの。黒いコブを切除するのよ。詳しいことはわからないんだけど。私はただの助手だったから。ずっと付き合わされていたの、あの女に。だから逃げたかった。もう耐えきれなかったのよ。わたしもいつか、切除される側になるんじゃないかって。黒いコブはね、もともと、人間の中にあるものなのよ。それが間違った抑圧の仕方をするものだから、肥大化し痛みを伴うの。女性は妊娠すると、そのコブが原因で、出産にはなかなか至らない。子宮の中には、ずっと赤ちゃんが住み続けることになる。十ヶ月を過ぎても、ずっと。それで、コブを取ったら痛みはなくなる。赤ちゃんはどうなるの?そこまではわからない。そのまま、スムーズに破水する人もいるだろうし。いや、みんな、そうなんでしょ。いつまで経っても、生まれない、なんてことになったら、大問題になるでしょうから。あくまで、コブと、赤ちゃんとのあいだには、何の関連性もない。あるなんて報告は聞いたことないし。とにかく産婦人科じゃないんだから、そこらへんのことはわからない。もしかしたら、あなたの彼女も、どこかでその手術を受けたんじゃないかしら。わたしがそこに居合わせていたなんて・・・。まさかね」

「妊娠したことはない!」Redは怒鳴った。「妊娠させたこともない!」

 女はボードのボタンを、またすごい勢いでタッチしていった。その度に画像は入れ変わり、流れ出てくる声が変化した。エフェクトがかり、歪んだ音になっていった。その感覚を楽しむかのように、彼女は音を自在に操り始めた。

「出会った頃に戻って!なんて言ったら、大変な混乱を招くでしょうね」

「言うわけないさ。どんどんと変化していって何が悪い?」

「ねえ、あなた、強がりはやめなさいよ。本当の意味で、変わっていけるっていうのは、変わらない何かがあるからでしょ?そこが変わってしまったら、本質的には何も変わってない、ってことになるのよ。わかるでしょ。堂々巡りを繰り返すだけで。最初のあの強烈な印象を、あなたは知らず知らずのうちに求めているの。そこに、彼女らしさを見たんだから。一瞬で見抜いてしまったんだから。最初の直観が、今もあなたを支配し続けている。だから、現実的には離れるのがいいわ。もう戻りっこないんだから。正解よ。わたしとこうやって、成り行きまかせの車に乗っているのがいいのよ。しかも、私の車でも、あなたの車でもない。なんだか不思議でしょ」

 女の皮肉めいた口調に、だんだんとRedは腹が立ってきたが、この女はなかなか真実をついてきていると、感心するような所があった。しばらく観察することにした。

 Redは、女に髪を染めて来いよと言った。ゆるいパーマでもかけて来い。短めのスカートを履いて、少しギャル気味になって来いと。あの、後部座席に居た女ほど、擦り切れなくていいからな。あんな下品なのはなしだ。けれど、君はちょっと地味すぎる。

「なあ、二人はどこに行ったんだよ。そうだ。衝突があったよな。車体は確かに揺れた。誰かが突っ込んできたんだ。そしたら、後部座席にいた人間が、消えた。君は車を発進させている。どうしてその複雑なコンピュータを、簡単に使いこなせているんだ?どういうことなんだ?俺の女だった奴の話なんてどうでもいい!話を逸らすんじゃない。もう、あんなのはいいんだ。断ち切ってすっきりした。あの衝撃で、すべては吹き飛んでしまった。だから、君のことを話せ!」

「だから、全部話したじゃないの。女二人で、何をやっていたのか。そして今夜も何をしていたのか。ぜんぶ説明したでしょ」

「肝心なのは、後部座席の話だよ。どうして誰もいないんだ!」

 女はまったく動揺することなく、空っぽとなった場所を遠目に眺めていた。

「太陽が完全に姿を見せたら、わかるんじゃない?」

「太陽?」

「そうよ。なんだって起きるのよ。こんな状況下では」

 女の何気ない一言には、なぜか説得される面があった。

「明けるまで、一緒にいればいいの」

「ここは、どこなんだ。どこに向かっているんだ?」

「街に決まってるじゃない。人のたくさんいる所よ」

 Redは、どんなに強がりを言っても、まだ前の恋愛のことを忘れていなかった。そしてそのことを運転席の女に正直に打ち明けていた。

「もう何も言わないでいいから。私の側にいてくれれば、それでいいから。あの女じゃない、誰かに、一緒にいてほしいのよ。私たちは似たもの同士なのよ。もう、どこにも、行くところなんてないじゃないの!」

 どこかで聞いたことのある言葉だなと、Redは思った。



 男の半裸死体が、草原で放置されていた車の中で見つかった。下半身はさらけ出されていて両手が添えられていた。誰かが手を加えたようにも見えた。そして、この男のことを警察が調べた結果、すぐに身元は割れた。自演局の男だった。

 報道機関は、日食のことを執拗に避けたがっていた。それは市民も同じことだった。記憶の中では、早くも曖昧なことになっていたのだ。その前後がよく思い出せない。だが、その最中のことは、とても鮮明に覚えている。気温が急激に下がり、嵐が巻き起こり、落雷が何発も落ちていた。街は洪水になり、家は流されていた。皆、一様に、そのような表現をした。

 だが、気付けば家は残っている。流された車はない。人もみな残っている。気味が悪かった。意識が操作されたのではないかと考える人もいた。しかし、自分一人だけが感じたことではないとすると、一体、どんな規模だったのか?あるいは、誰かが自然をいじったのではないか。日食のことを報道する代わりに、この自演局の男が、半裸で死んでいたことを派手に取り上げていた。他殺なのか自殺なのか。他殺と考えるのが自然だった。しかし、性器が勃起したままに硬直してしまっていたことばかりが、根掘り葉掘りと取り上げられていて、本質を曖昧にさせていた。

 自演局が、自ら何を生み、消費しているのか。どんな循環を人工的につくりだしているのか、それはわからなかった。組織として機能しているのか。個人的にネットワークのようなものを作り上げているのか。わからなかった。ただ、同乗者がいたことは否定できなかった。男か女かはわからない。しかし死んだ男の顔には、特に苦悶の様子がなかったことから、やはり誰かと性的な行為を始めようとしていたことに、間違いはなさそうだった。

 草原の中に放置されていた車。自演局の男。

 この男の死そのものが、自作自演なんじゃないかと、皮肉を言うものが多数いたことは、事実である。

 ファラオはそこまで読むと、新聞から目を上げた。


 しかし、ファラオの実体は違っていた。日食の最中を鮮明に覚えているなんて、そんなことはなかった。前後のほうがよく覚えていた。そして暦が変わったことを指摘する人はいなかった。ファラオは新聞の端に書かれた、2009年8月20日という記録を、見逃すことはなかった。昨日は7月23日だった。一気に一ヶ月以上も飛んでいた。あいだはどこに消えてしまったのだろう。

 ファラオは、どこかで聞いたことのある暦の話を思い出していた。一年の365日は、とりあえず暫定的に変わることはない。ひと月は、30か31日であり、二月は28日であるが、それがすべて23日に統一されるのだ。そして、12ヶ月は、16ヶ月となる。最後の月だけが、三日少ない20日で、合わせて365日。それを思い出したファラオは、この一ヶ月も飛んでしまった意味がわかった。そして、その三日後、23日の後に来たのは、翌月だった。やはり、一ヶ月は23日に変わってしまっていた。

 だが、誰も、そのことを口にする者はいなかった。街で話題にしている人間が、誰もいないのだ。どこからか聞こえてきてもよさそうだったが、みな申し合わせたように、口をつぐんでしまっていた。誰の目にも明らかなことだった。

 13月、14月、15月、16月と。一ヶ月のサイクルは、どんどんと早くなっていったのだが、後半の月の増加で時間の帳尻は、合っていくのだった。ファラオはそれが一体、どんな感覚の変化を自分に引き起こすのか。人々の感性に、どのような影響を及ぼすのか。そこが気になるところだった。

 ファラオに知り合いはまだいなかった。相談できる相手もいなかった。地上に出てくることができて、すぐに暦が変わるとは思わなかった。ファラオが地上にいなかったとき、この耳で聞いたさまざまな声を思い出すことに専念した。

 あれは、混線していた。

 声は同時に幾重にもかさなりあっていたので、慣れていない人間には、鮮明に解読することができない。しかし、ファラオは、同時処理の訓練を受けていたために、難なく翻訳することが可能だった。ファラオはそんな職業が現れる日のことを思った。

 すべての人間にとっての日常行為になるまでは、専門職が設立され、請け負う人間が、高収入を受け取るだろうと思った。何でも初めは、プロフェッショナルが必要だった。いずれ敷居はどんどんと下がっていき、全体のレベルが上がることで、特権的行為ではなくなる。だが今は、まだ時期尚早なのだろう。ファラオは自分がその翻訳家としての地位をつくりあげ、地上での生活をスタートさせるという日が、近くまで来ていることを、察知し始める。そのあいだも、暦は容赦なく進んでいった。

 本当に、13月は、やってくるのだろうか。

 ファラオは、新聞に目を戻した。

 他に気になる記事がないかと探す。自演局についての詳しい言及はなかったが、暦と何か関係があるのではないかとファラオは思った。暦だけではないが、暦も一つの関連事項なのだろうと思ったのだ。暦を操作したのは、彼が所属していた局だったじゃないか。彼は殺された。なぜ?誰に?上層部にか?何か規律違反のようなものを犯したのだろうか。

 ファラオは、安いサスペンス映画のシナリオを思い描くかのように、今だ、新聞を食い入るように眺めていた。記事はすでに頭に入ってはこなかったが、とりあえず、目の前に紙をひらひらとさせておくことで、頭の中を自由に遊ばせておくことはできた。



 容疑者はすぐに浮上した。女は娼婦を装い、性的行為の最中に犯行に及んだ。単独犯の可能性が高く、死亡推定時刻は、日食とほぼ同じであった。偶然なのか。それとも狙ったものなのかは、犯人が逮捕された後で、判明することになるだろう。容疑者は今だに逃亡中である。しかし、犯行が繰り返される可能性は、おそらく低い。行きずりの犯行ではなく、明らかに男本人を狙ったものなのだから。女の背後には組織があり、組織は局と結びついている。局の中で、何らかの違法行為を繰り返す男を、野放しにしておくことができなかったのかもしれない。あるいは、局の中で、最も『黒い仕事』を、この男一人に請け負わせたその結果、臨界点に達したところであっさりと切り離すという、まさに局の自作自演だったのかもしれなかった。いずれにしても、女が実行犯であることは間違いなかった。男の硬直した性器からは、口紅がわずかに検出されたのだった。事件はその一件だけだった。

 その前にも、後にも、同じような事件は起こっていない。単独犯による単一の犯行。そして、その動機には、局が絡んでいる。容疑者と被害者のあいだに、交際関係はない。女は売春婦を装って近づいていった。

 この事件を取り上げるときに、どうしても日食がくっついてくることが煩わしかった。

 日食は関係ないのだ。たとえ、その時刻を狙ったのだとしても、それは犯行が人の目に付きにくいという、その一点だけだったのだろうから。盲点を突いたつもりだったのだろう。目撃者はいなかった。出会いは、いつどこであったのか。その話題においても、やはり、日食を避けることはできそうになかった。

 局の中身だったり、男の正体だったりに、注意を向けたいところなのだが、結局、集約していくところは、自然現象ただ一点になってしまうのだった。人が人を殺し、その背後には、組織が透けてみえ、さらには社会の薄くて強固な連なり、重なりまでもが、見えてくるのに・・・。それをあざわらうかのように、黒い太陽は高く聳え立っていた。


 女は金髪のウイッグをかぶり直していた。

 動き始めた手で携帯を取り出していた。足のしびれは取れそうになかった。助けがほしかったが、道路にはまだ車の姿はない。タクシーを呼んだ。大草原にはさっきまで乗っていたハイテクの車はない。注射針を突き刺した男の姿もない。バックもないことに気付いた。しまったと女は思った。あの車の中に置きっぱなしだった。女は娘に連絡をした。しかし圏外は続く。音信は不通のままで、タクシーの方が先に来た。説明のしようもなかった。「足が動かないから、体を腕で抱えてくれ」「そのあとは持ち上げてくれ」と、運転手に頼んでいた。草原で一人立てなくなっている、<ただの不審な女>になっていた。自分のことを危うく笑いそうになった。

 運転手は一瞬だけ、萎縮してしまった。女のスカートは捲くれ上がり、そこにはあるべきはずの下着が、ないように見えたからだ。質問をする気にもなれなかった。男にやられたあとで放り捨てられたのだろう。幸い、携帯は没収されずに手元に残った。体からは力が抜けて自分で歩くことができなくなっている。それでタクシーを呼んだ。運転手は、本当に何も訊いてこなかった。後部座席に乗り、行き先を告げてくれと言われたので、北青山に行ってほしいと、女はぶっきらぼうに答えた。とりあえず時間を稼ぎたかった。何分ぐらいかかりますか?・・・そうですか。急いで四十分ですか。急がなくていいです。安全に行ってもらえれば。

 ふと、座席の背もたれに新聞が突っ込まれているのが目に入った。手にとって一面を開いてみた。すると、今さっきまで居た場所と、そっくりな場所が写真で載っていた。そこで殺人事件が起こったのだという。女は息が止まりそうになった。そして、そのあと、過呼吸になっていった。猛スピードで記事を読んでいった。日付は8月21日だった。2009年の?2009年だった。女は、今日が7月23日であることを知っていた。しかし新聞には、それよりも一ヶ月先の日付が印刷がされていた。単純なミスだった。しかし、女はその事件がたった今、自分が起こしてきたものと酷似していることに気づいた。男が下半身を硬直させて露出したまま殺害されていた。草原の真ん中で。しかし、車の前の座席には、誰の姿もない。あの二人が移動する途中で、後部座席にいた男の死体に気づき、そのまま車を放置して、いなくなってしまったのだと思った。けれど、日付は一ヶ月先だし・・・、そもそも、さっき乗り捨てたばかりの車のことを、すぐに取材して記事にするなんて・・・そんなことは不可能だ。警察だって、まだやってくる時間ではない。

 女は別の事件だと思うしかなかった。しかし、こんな殺し方を、誰か別の人間が同じように行うとは思えなかった。もちろん同じことを発想し、実行することだって、ありえることはありえるのだが。しかしこの薬はそもそも、手術の際に、他の液体と混ぜるためにもらったものであった。通常、容易に手にいれられる物ではなかった。とすると、自分と同じような執刀を任されていた、同じような人間だったのだろうか。あの手術は、そんなに頻繁に、いろんな女の手で実行されていたのだろうか。どう考えても、すべての条件と一致する女性が、自分の他にもう一人いるとは考えにくかった。

「ねえ、運転手さん」

 いてもたってもいられずに、女は声をかけた。

「この新聞は、いつのものですか?」

「新聞はもちろん、今朝のものですよ」

「今日ですよね。でも違いますよ。ほら。ここを見てください。8月21日とあるでしょ」

「そうですね」

 運転手は、ちらっと顔の横に差し出された新聞を見た。



「間違いありませんね。今日じゃないですか。8月20日。私の娘の誕生日なんですよ。21回目の。なかなかの美人でしてね。私としては心配で心配で、仕方がないんですよ。この前も、彼氏ではない別の男性に、プロポーズされたとかで」

 女は7月23日だと言い張った。よってこれはミスである。こんなことって、本当にあるんですね。女はおどけたかった。しかし運転手はきょとんとしていた。もう一週間も前から、プレゼントをあれこれと考えていたんですから。そうだ、指輪がいい。僕がプロポーズしてしまえばいい。結婚しないでくださいって。変な父親ですね。でもね、綺麗で綺麗でしかたがないんです。あまり性格のことはわからないですけどね。ということで、昨日までいろいろと店を駆け巡っていたんです。そしてこれから娘の家まで行くんです。ほら。ここにピンクゴールドの指輪があって・・・」

 女はそれを取り上げた。「どういうことなのよ!」

「どういうことって、お客さん。それは私が訊きたいですよ。返してください。何をしようとしているんですか!」

 女は窓を開け、すでに上半身を乗り出していた。そして、その手の先には、ピンクゴールドの指輪が入っているらしい箱の姿があった。

「なに、するんですか」

 運転手は助手席に身を乗り出してきた。すでに運転を放棄していた。箱の安否だけに意識は移っていた。

 女はよくわからずに箱を放り投げた。

「あっ」

 運転手はそのまま女の上半身に向かって、ダイビングしていた。窓枠に頭をぶつけ、車体は大きく右に逸れた。そしてそのまま道を外れて、草原の中に突っ込んでいった。その様子が、スローモーションのように、再現されていくのが女にはわかった。



 二日後、同じ草原で二人の男女の遺体が発見される。助手席で男女がもつあったまま、車は横転していた。どうやらカーブを曲がりきれなかったらしい。たいして急でもない曲がり道だったのだが、運転に向けていた意識は、ほとんどなかったらしい。

 その女の方から検出された口紅の成分が、なんと二日前、同じ場所で死んでいた男に付いたものと一致していたのだった。思いも寄らない結末だった。殺人犯は別の男と、違う車の中で死んでいたのだ。二人の側には指輪が落ちていた。結婚を迫ったのだろうか。二人は恋人同士だという報道がなされていた。

 ファラオは再び事件のことを目にしていた。


 情報は錯綜し、事実がどこにあるのかさえもわからなくなっていた。わざと霍乱させているのだろうか。誰かの陰謀が働いていたのか。その後、自演局の話は一切出なくなる。いかがわしい雑誌の一つにだけ、話の続きは書かれていた。被害者は自演局の男であり、被疑者は情報支援局の女。その二人の話を、SFタッチで描く、物語の連載がスタートとなっていた。こんな雑誌の片隅にある話に、自分が引き込まれるなんて意外であった。

 しかし、ファラオは、日食の最中の空白の記憶をどう埋めていったらよいものか。平然さを装っていながらも、実は執拗に探し求めていたのだ。


















































第ⅶ部   透明の螺旋





















 『患者』を丘の上に残したまま、男は現場を立ち去った。

 女性の二人の執刀医とは別れ、男は一人、闇の中で車を走らせていた。ヘッドライトが付かないことに気づいた。来る時にはそんな不具合はなかった。仕方なくスピードを少し落としながら、対向車に注意を払おうとしたが、往来する車両は、一台も見当たらなかった。こんな草原の道になど、歩いている人は誰もいないだろう。男は気を抜いていた。

 そこに突然の衝突が起こったのだ。何と、道の真ん中に車が放置してあったのだ。男は車を降りることなくそのままバックをし、横をすり抜けて、通過してしまった。横目でちらっとだけ見た。人がいたように感じた。男は面倒を起こす前にさっさと逃げてしまおうと考えた。その眼に飛び込んできた一人が、さっきまで手術を一緒に行っていた『女』のように見えたからだ。こんなところにいたのか。うろつきやがって。だから俺の車に乗っていけばよかったんだ。何をしていたんだ?あんなところで。俺はもう二度と関わり合わないからな。しかしこの衝突をきっかけに、男は丘の方へとユーターンした。丘の上に残してきた妊婦を、やはりそのまま放置しておくことはできなかった。妻だったのだ。静かに車の横をすり抜けていった。幸いまだ誰も外には出てきていない。男は丘へと急いだ。「もうずっとこうなのよ。ずっとお腹は膨れたままなのよ。どうして生まれないの。ずっと、このままなのよ。押し込まれたまま。圧迫されたまま。開放されないの。苦しいの」

 妻の手術に男は立ち会った。待ち合わせ場所には、二人の女医が現れた。すぐに四人で、移動した。しかし術後に、女医は同じ車に乗ろうとしなかった。

「まだ、明けていませんよ。それにこんな草原の中で、歩いて帰るんですか?」

「お気になさらず」金髪の女のほうが言った。「決まりなんですから。私たち、来た車と同じ車で引き換えしてはいけないんです。道もそうです。同じ道を使ってはいけないんです」

 男はその言葉を真に受け、一人で車を走らせたのだった。妻は目を醒まさなかった。深い昏睡状態に陥っていた。女医はそのまま放置しておけばいいと言い放った。「明日になってからまた来ればいいんです。しばらくは鉛のように重くなっています。それくらい、負荷がずっとかかっていたんですよ。その重さに奥さんはずっと耐えていたんです。それが、今、現実となって姿をあらわしてきたんです。安らかな顔をしていますが、体はとても、もがき苦しんでいるんです。そっとしておいてあげてください。見て見ぬふりをするくらいに。手を貸したら駄目ですから。途中で、外から殻を破っては、絶対に駄目ですから。それだけはお願いします」

 男は丘に戻った。妻は死体を遺棄されたかのように、微動だにしていない。本当に死んでしまったのではないか。男は気が気でならなくなった。しかし女医が言っていたとおりに、体を持ち上げることはできなかった。仕方なく、男はずっと付き添っているしかなかった。すると彼女から少しズレた所にある地面から、黒い石のような墓石のようなものが、土の中から突き出ているのがわかった。砂をどけると、何やら文字が出てきた。漢字だった。一文字しか見ることができなかったが、そこには何と、自分たちの苗字の頭文字が浮き出ていた。



 豪雨は少しも弱まる気配がなかった。

 日食が明けてから、一週間が経っていた。

 何の前触れもなく、雨が突然降ってきたかと思えば、それから一週間が過ぎても、止む気配はない。河はすでに氾濫している。停電を何度も繰り替えしていたが、それでも完全に電気が途絶えてしまうことはなかった。交通機関は止まってしまう。外出するのも、かなり厳しい。雨が降る前には、ちょうど薬物汚染の特集が、各メディアで放映され始めていた。その矢先だった。固形の化学物質が、あらゆる食材に入りこんでいて、家具や日用品などの原料にも、混ぜられ、加工されている。何と、音楽にも入れ込むことができるのだという。固形物は、いろんな状態に、それこそ成分をほとんど変化させることなく、姿を変更することができた。人々の意識にどんな影響を及ぼすのか。問題には取り上げないほうがよかったのかもしれないと思うほどに、救いようのないレベルにまで拡散していた。そして、この雨である。

 ファラオは、ここのところの気象状態と、ニュースの速報に注意を配っていた。自分のいないあいだに、ずいぶんと世界は変質してしまったようだ。目を凝らさなくとも、すべての現象が新鮮だった。そして、この水の氾濫は固形の薬物をさらに溶かして、散乱させることに、また一役買うのではないかと感じた。いよいよおかしくなってきたぞと思った。


 自分が街に上がってきたのと、奇しくも時を同じくしていた。


 ファラオは日差しにまだ目が耐えられなかったので、できるだけ昼間でも照明の落ち着いた日差しの入らない店を好んだ。外に出る時はサングラスを着用した。

 一度、黄金の都と題された展覧会に行った。暗い空間に、出土された黄金の仮面や装飾品が照明に照らされ、輝いていた。そうだ。あの空間も、今は無事なのだろうか。水浸しになってしまったのでは?流失してしまったのでは?ファラオは心配になった。出土作業はまだ始まったばかりであり、最終的には王の墓を探りあてるためのプロジェクトだった。黄金の仮面が見つかったことが、すべての始まりだった。ファラオはその発掘作業を行っている場所に、見学に行こうと思っていた。意外にも、それは東京の渋谷のあたりであった。



 Redと女は、日食が明けるまでずっと一緒にいた。まるで夜が明けるかのようだった。

 すると、さっきまであったはずの赤い数字の浮き出たモニターや、無数のボタンが配置されたパネルのボードが、全部なくなっていることに気づいた。ハイテクの車の姿はそこにはなかった。必要最小限度のコンピュータしか搭載していない普通の車に、変わってしまっていた。女の左手はもはや、ギアチェンジのために、小刻みに動いているだけだった。


  黄金の宮殿

  

        水の都


   Live House ZETTO


  9880327

 

    絵画展~М+Мの世界~



 女は車を空き地の前に停めた。ビルが一だけつ建ちそうな空間が、ぽっかりとそこにはあった。建設予定地なのだろうか。女は何も言わずにぼんやりと眺めている。

「あなた、情報局の人間なんだっけ?それ。つぶれたわよ。あなた、追放されたのよ。悪いことは言わないから。ここね。ここにあなたが勤めていた基地があった。透明のガラス張りのビルだった。覚えているでしょ?忘れるわけがないわね。昨日までは居たんでしょうから。もう跡形もなくなっている。次に建設が予定されている建物の名前が、ほらっ・・・」

 Redは周りの風景を見た。しかし、ビルの中から見た光景だったり、ビルを中心に眺めた光景だったりしか記憶にはなかったので、ぽっかりと空っぽになった土地を中心に、辺りを見まわしても、前と同じように見えるわけがなかった。

 そのとき、Redは額のずっと奥に、強烈な痛みを感じた。それは一瞬ではなく、しばらくすると視界に異常が起こってきた。右目の視界がチカチカと点滅し始めたのだ。そして、その点滅した所が、視界から消え落ちていた。そこだけ、何もない空間が現れていた。次第に額の痛みは強くなっていく。胃から込み上げてくるものもある。

「ここは、空き地ではない」と女は言った。「すでに建物は完成されている。透明の螺旋。そういう名称。ここには五個の異なる施設が、同時に存在している。同じ空間に重なりあうようにして。まったく同じ場所によ。高さが違うとか、横に並列されているとか、そんなんじゃないの。寸分違わず、同じ空間が重ねられている。今回は、五つの施設が選ばれた。もう完成しているの。あとは、公開されるだけ」

 その五つの言葉は、3D画像のように宙に浮いているのが見えた。

 この場所そのものが、自分の眼に異常を発生させているのではないかと、Redは思った。胃が荒れ狂い始めているのがわかる。しかし、朝から何も口にしてはいない。胃液が口に込みあがってくるだけだった。

 額の奥の痛みは、さらにひどくなっている。

「行ってください。もういいです。この場所からは離れてください」

「どうしたのよ」

「眼がおかしいんです」

「それは、こことは何の関係もないわよ。あなたが局をクビになったからよ。その信号よ。あなたの脳の回路からね、取り付けた配線を今取り除いているの。それで一時的にショートしているだけ。何でもないわよ」

「何故、ビルごとなくなってしまったんですか。そして、局がこの新しい建物を立てたんですか?あなたに言わせると、もう完成してしまっている。この空間に。僕には何も見えない。言葉が浮かんでいるだけで。建物は何も見えない」

「夕方になればわかるわよ。中の様子だけが見える。外観は透明だから。中で照明をたくことで、外からも見えるようになる。入り口はとりあえずは一緒。発行されたパスをもってゲートを通過することで、その行き先は五つに分かれてしまう。さっきまで前後にいた人も違う次元の空間に振り分けられる。でも実際は、同じ場所にいる。わかる?次元を変えているのよ。空間の有効利用よ。ねえ。今はまだこんな程度なのよ。一箇所にいくつかの次元を練り合わせて、螺旋状に組み込んでいく。いずれは都市の規模だったり、国の規模だったりで、可能になる。結局、原理は一緒なんだから。実現は可能なの。あとは許可の問題ね。それと認知されること。理解されること。共通認識。だれもが違和感を覚えることなく、受け入れるようになること。何でもそうでしょう。一気にすべてを変えてしまったら、社会は大混乱に陥ってしまう。だから少ない人から、少ないものから、少ない場所から、じょじょにじょじょに移行していく。気づかれない規模で」

「それよりも、この痛みは・・・」

 Redの吐き気はさらにひどいものとなった。そして、額の痛みは、やがて脳に突き刺さるかのように奥へ奥へと浸透していった。自分では抱えきれない支離滅裂なコンピューターを、頭の中に埋め込まれてしまったかのようだった。

「そうよ。埋め込まれていたのよ」と女は言った。「今さら言わないで。それは仕事をするときに必要な装備だった。でも、もう必要はない。だから遠隔操作で、解除しているの。回路を焼いているの。いずれはおさまるわ。もう、あなたは、一般の人になったんだから」

「本当に、ここが、あのビルだったとして・・・、じゃあ、なぜ、なくなってしまったんだ?」

「移転したのよ。位置が変わったのよ。だから、なくなった」

「取り壊したんですか?」

「その表現は違う。位置が変わったの」

「どこですか。わかりますか?」

「わたしに分かるわけがないじゃない」

「いろいろと、ぺらぺら話してるから」

「知らないわ。そんな過去のことは。過去なんてくだらないもの。現に、もうここには、存在してないんだから。もう忘れたらいいのよ」

 Redは付き合っていた女のことを言われているようだった。あんな女、もう忘れなさいと。早くも、Violetのことは薄れてきていた。女の声は呪文のようだった。麻薬のような陶酔感があった。

「わたし、未来のことだったら、何でもわかるんだから」

「現在は?」

「現在?現在って何よ。それは未来のことよ」

 Redには彼女の言葉の意味が不可解だった。

「現在っていうのは、本当は存在しないものでしょ。過去の幻影があるだけよ。そして未来の設計図が交錯してるだけ。だから、今というのは、すっぽりと抜け落ちているものなのよ」

 まるで、目の前の透明な螺旋のことを言っているようだった。

 それはDNAのように捻れながら伸びている、スパイラル状の建物なのだろうか。

「同じことなのよ」

 そして、この女もまた、過去の幻影と未来の設計図が交錯した、本当は今ここには存在しない女なのだろうかとRedは疑ってしまう。



「お待ちしてましたよ。どうぞお掛けになってください。似合いますね、軍服姿が」

 限りなく広い白い部屋に、ただ一つソファーの椅子が置いてある。軍服姿の男が深く腰かけて坐っている。

「文句あるのか?趣味で着ていて何が悪いんだ。そういうあなたたちだって、なぜ顔を出していないんですか。黒いスーツに黒いネクタイ。シャツまでもが黒だ。顔にも黒いマスク。僕ごときに完全装備すぎますよ」

 軍服の男は、最初から好戦的だった。

「噂には聞いておりました」

 四人のうちの誰がしゃべったのか、わからない。悠長なしゃべり方だった。扉も壁も白で統一されているために、繋ぎ目がよくわからない。今はまだ四人のシルエットは、遥か前方に映っているだけだ。

「我々は、あなたを逃がしはしません。なぜにまた、軍服なのでしょう。我々から姿を消そうと、工作しているようにはとても思えない。それは本物ですか?」

 椅子に座った男は答えなかった。

「それよりも、早く用件を言え!」

「思ったよりも、我々が来るのは早かったですか。遅かったですか?」

 気づけば四人の影はソファーの目の前にいる。足音と動きが全く合ってなかった。音は、歩調の半分のスピードくらいしか出てなかった。

「あなたの噂は、よくうかがっております。我々は、あなたの能力を高く買っているんです。ぜひ協力してほしいんです。一度とは言いません。何度でも。しかしまずは最初のプロジェクトに参加していただいて。ぜひ結果を出してもらいたいんです。かなり派手にやってもらって構いません。こういう業界、最初のインパクトが、肝心ですから。やりすぎるくらいに、やらかしてしまって、全然かまわないんですから。協力は惜しみません」

「僕にはね、あなた方が、何の話をしているのか。よくわかりません。丁寧な説明を望みますよ」

「我々は、不動産屋です。そして、ある一等地を、それもかなりの広さのある土地を、手にいれました。しかし我々はそこに、本来は五倍以上のスペースを必要とする建物を立てたいんです。そこであなたに折り入ってお話が」

「そういうことですか」

「ええ。おわかりいただけましたね」

「しかし、どうしてそんなことを」

「土地はどんどんと少なくなっています。ますます濃い密集を、余儀なくされることになると思います。人々は凝縮された場所を好みます。我々もそうです。提供する側も、される側も、だだっぴろいだけの隙間のある空間なんぞは、求めてはおりませんから。そんな場所は、電車に乗って三十分も行けば、辿りつけます。しかし、情報と人の集まる場所は、違います」

「それで、報酬は?」

「百二十万ユーロですね」

「期間は?」

「七十日以内」

 軍服の男は腹の中でにやりと笑った。馬鹿だ、こいつらは。

「まあまあですね」

 七十日だって?そんなもの、一週間もあれば終わる。

「我々は、知っているんです」

「で、どんな内容なんですか?」

「無駄を省いて、要点だけを言います。要は、通常、一つの建物しか立たない場所に、同じ規模の施設を五つ。捻じ込んでしまいたいと考えているんです」

「捻じ込んで、ね。まさにそうですね。その通りです」

「我々は知っているんです。まだ少数の人にしか、その能力は与えられていない。いずれ、人類はみな、その能力を持つときがやって来ます。誰しもがね。しかし、今、みんながそっちの方向に一気に行ってしまえば、社会は大混乱をきたしてしまいます。ですから、それはじょじょにじょじょに移行している。それはわかっています。ですから、我々は、その前に、一足先にデモンストレーションを派手にやって、そして、迅速におこなってしまいたいんです」

「短い期間に、莫大な収益を上げたいわけだ」

「この機会にしか、我々は、飛躍的に大きくなることはありませんから。今だけが特殊なわけです。いずれはごく当たり前なこととなります。そうなれば、別に、我々が低い利益率で請け負う必要はなくなる」

「百二十万は少ないですね」

「ユーロですよ」

「ええ」

「少ないですか?」

「圧倒的にね。本当に、一緒にやろうとしてますか?みくびってもらっては困りますよ」

「ええ。もちろん。しかし、最初は、この程度ですよ。まだ、何の結果もお見せしていただいていない。二回目以降に、報酬は跳ね上がります」

「なるほどね。ところで、この。作業の後遺症っていうのは知ってます?」

「噂には聞いています。しかし、それも一度、拝見してからでないと、何とも判断がつきかねます」

「そのへんの保障はしてくれるんでしょうね」

「いずれは考えていきます。あなただって、すぐにお金が欲しいでしょう。その後遺症だって、お金があればいくらでも埋め合わせをすることができる」

「それとその施設というか、建物というのは、人々にいい影響を与えるのでしょうか。害のあるものに、僕は加担したくない主義でしてね。その辺りのことは、きっちりと吟味させてもらいますよ。これ以上、加担はしたくないんですよ。存在意義のあるものに、貢献したいんです。それは本心です」

「いままでのことがあるんですね」

「あなたがたには話しませんよ。心を荒ませるモノをこれ以上増やしたって、仕方がありませんからね」

「我々は、あなたのデータを掴んでいるんですよ。あまり、見くびってもらっては困る。あなたに合わせた、報酬や条件を提示していることを、どうぞ、お忘れなく。しかし、あなたが一体、どこでその技能を修得なさったのか。それだけは掴めません。それを言えとは、もちろん言いません。そして人々は、あなたがなさった仕事を、事細かに研究しつくし、実際に応用できるようにシステム化するはずです。多くの人にとって、当たり前の能力になるというのは、そういうことです。誰でも、彼でも、備わっているわけではない。しかし、人工知能のようなものですよね。機械ができるようにする。そして、人間が、その機械を操れるように、コンピュータ制御がかけられるようにする。誰でも訓練すれば、使うことができるようになる。そのプログラムのソフトも我々の独占で、最初は販売することになる。我々の商売は、そこでピークを迎えます。あなたの存在価値も、そこがピークになります」

「もし、僕が、今、もったいぶって出さなかったとしたら、どうなるんですか?」

「そんなことはありませんよ。この現代で生きていくことに、あなたは困り果てることになりますからね。それは大丈夫。これに乗るしかありませんから。何も心配はいりません」

「すべてを把握してるわけか」

「把握だなんて、めっそうもない。あなたは、今、何故、ここに生きていると思ってるんですか。何のために、ここにいると思ってるんですか。答えは明白です。どうしてわざわざ歪めようとするんですか。そんなことはしません。我々はね。その原理については知っているつもりなんですよ。しかし、実際に実行することができない。どうしてか。能力がないからです。そして、研究の対象にするべく、完成したモノが、存在しないからです。分析は実体から始まるんですよ。まずは、実体がないと。広がりはありません」

「ゼロを1にしないと」

「そういうことです」

「僕がその候補なわけか。でも、他にもいるんでしょ?」

「他の人のことは知りません。我々は、あなたに目を付けた。それだけで、もう十分じゃないですか。あなたが駄目だったら他の人がいる。それじゃあ、あなたは見向きもしませんよね。あなたを見つけた。あなたにアプローチをした。それ以外に、必要なことなんて、ありません。理論は簡単なんです。ただ、実際にできるのかどうかという話であって。

 例えば、一億人の会員がいるクラブだったら、その電話番号を管理するためには、「一億個の登録用メモリースペース」が必要ですよね。ある一人の電話番号を知りたければ、その会員番号を番地とするメモリースペースを、引っ張り出してくればいい。一億個の中から探すわけです。しかし、そんな一億個も作るのは面倒だし、コストもかかるし、探すのも面倒ですし、ですから、電話番号のメモリースペースは、一つだけでいい、という現実が欲しくなります。そして、それを作ることは、現実的には可能です。一億種類のパターンの会員番号と、電話番号の組み合わせをつくり、それを捻って重ねあわせるんです。そして一つだけの固まりにしてしまうわけです。要は、会員番号を選べば、それと対になった電話番号が浮き出てくる。一億種類の、パターンの固まりだと思えばいいわけです。光の当て方によって、見え方がかわる。光を放つための窓が、会員番号を格納するメモリースペースであって、光が当たった場所を映し出すのが、電話番号のメモリースペースだと、考えてもらえればいいです。要は、電話番号のメモリースペースと、会員番号のメモリースペースの、二つだけですんでしまうんですよ。窓が二つある。画面が二つあるということですね。二つの対のデータを絞るんです。量子の考え方です。一億個の状態の重ね合わせを、つくるわけです。一億個の欠片があって、その中から、一個を探し出すわけではない。一つのスペースに、一億個の重なりを作るんです。ですから、一つのスペースに、一億のパターンが重なりあっている。指令を出せば、欲しい番号が浮かんでくる。もうそこにあるという状態です。だから二つ以上の電話番号を、同時に見ることはできない。これを建築物にも応用しようって話です。おわかりですね。一つのスペースに一億の施設を重ねあわせる。例えば十階建ての箱を、いくつも同じ空間に屹立させることができる。つまりは訪れる人は扉を開けて、要求を出すまでは、その同時に存在している施設のどれをも、選ぶことのできの可能性を秘めている。しかし現実には、人間の体は一つなわけですから、選ばれる施設だって、ただの一つなわけです。すると、目の前には、その希望した施設が現れ、すでにその中にいることがわかる。他の可能性は消滅したということです。一度出て、また再び訪れさえすれば、別の空間に行くことはもちろん可能です。考え方は電話帳と同じです」

「それはわかりますよ。見え方の問題なわけだ」

「ただ、規模が規模ですし、それに方法は一つではないでしょう」

「僕のやり方を、ご存知なんですか」

「それは結果から分析するしか、ないでしょうね。おそらく未来の人間は、それぞれが独自に方法を編み出すということになるでしょうから。ある方法を分析している途中に、別のやり方を見つけてしまったとか。そんなことが頻発するはずです。まずはサンプルが欲しいんですよ。ゼロを1にする場面がね。その多元的世界を、一つの次元に照射させるエネルギーの使い方を、我々は知りたいわけです。引き受けてくれますよね。それと、さっき、あなたは見え方の問題だと言いました。しかし、建築物の場合は、実際に体感することですから、実体験なんですよ。見ているだけではありません。バーチャルな世界では決してないんですよ。触れることのできる、まさに、今と同じような現実の世界なんですから」


 そのとき、軍服の男の視界に異変が起こった。

 右上の一部に点滅が起こり始めた。そのうち額の奥のほうが、深く痛みだした。あまりに白く、大きな部屋だったので、神経が刺激されたのだろうか。四人の男たちが横に一直線に並んでいた。

 その白い壁がすべて、大画面のモニターへと代わり、自分がバーチャルリアリティーの世界の中にすっぽりと入ってしまったかのような世界を、想像してしまった。いや、それは、現実に起こりえた。現にファラオは、軍服を着ていた。そしてモニターは、戦場を映し出していた。すでに廃墟と化した街。爆弾で破壊しつくした街に、肉体も精神も、徹底的に磨耗しつくしたファラオは、たった一人で戻ってきたのである。そこはかつて、部隊が駐屯していた街。自分だけが生き残った。体は元には戻らない。記憶は消せない。仲間はみな粉々に散った。住民は放射能で消された。

 ファラオは、自分だけが生き残った理由がわかっていた。

「君の背中には、鯉が生き続いている。鯉が命を守り続けている」

「なぜそのことを」

 ファラオは意識に刻み込まれた、遠い記憶を掘り起こされる。

「またいつか、君は同じ人間たちに囲まれる。繰り返される。姿かたちを変えて。状況を変えて。ふたたび、君の前に立ち現れてくる」

 この真っ白に染められた部屋の外側の街は、すでに廃墟と化しているのだろうか。

 それとも、これからなのだろうか?壁はモニターになど、なってはいなかった。

 すべては、自分の中の記憶が反映させたものだった。四人の男たちが再び現れる。ファラオは一人、戦場の跡地へと歩き出していく。戦闘はいつ行われたのだろう。空白の記憶は、ファラオが生き残ったという現実だけを、目の前につきつけてくるだけだった。空白の記憶。覚えてはいない。存在していないということではない。意図的に白く塗りつぶされている。ちょうどこの部屋のようだった。そのとき「能力」が与えられたのだろうか。その力を使って戦場を生き延びたのだろうか。きっとそうだろう。そして今、その力を、別の形で使おうとしている。現代を生き抜くために。

「僕のやり方を、あなたがたはご存知なんですか」

「我々は知りません。結果に興味があるだけです。分析することに。逆算することに」

 頭痛は治まった。視界の一部に起こった点滅も止んだ。

 そして、ファラオはその後も、戦場の空白の時間が、つまりは白い部屋に襲われることが、頻発していくこととなった。空白の記憶の中に、自らがすっぽりと入りこんでしまったかのようだった。四人の男がいて、壁はモニターへと変貌する。そして映し出される絵は、戦場だった廃墟の街。激しい磨耗だけが体の中に残っている。地面に崩れ落ちるほど、体力は消耗していた。この鯉の彫り物が、すべての現象を引き起こしているのだ。そしてこの四人の男たちから逃れることができないのだ。この繰り返しに、終止符を打つことはできるのだろうか。依頼を断ることはできなかった。

 運命はやってきて、そしてその権利を堂々と主張する。受け入れ続けることで、いつか自分に纏わりつく訪問者たちを拒絶することができるのだろうか。


「建て直しをする必要もなくなるんです」

 四人の黒服の男の誰かが、話を続けたがった。

「プログラミングを変えれば、いいんですから。五店舗のうちの、二つを変えるとしたら、その新しい二つのデーターと、前からある三つのデーターを準備して、重ね合わせの状態を再び作り直してしまえばいいんですから。そして、その塊をまた、その土地に照射し直せばいいわけです。それこそ一日あれば、そっくりと建物を変えてしまうことが可能です。コストもかかりません」

「わかりますよ」軍服の男は言う。「しかし、コストはゼロではない。どこかにその代償は現れる。そして、それはこの僕だ。あなた方が言うような未来には、決してならない。すべての人間が、当たり前のようにこの力を行使するようになるなんて、そんなことは絶対に不可能だ。歪みは必ず人間へと返ってくる。人間が代償を受け取り続けることになる」

「そんなことは当然ですよ」

「ではいったい何故。何故、あなたがたは、そんな物語を平然と語るのですか?」

「代償は我々が受け取るわけではない。一般の人間が、みな、受け取るわけではない。あなたですよ。あなたのような人間が受け取るから、可能なんですよ。昔、そんな人がいましたよね。あらゆる人間の罪を一身に受け、そして死んでいった男の人が。一人の人間の死で浄化されるほど、彼の精神的な力は実に絶大だった。我々はそうやって現代ではあらわれることのない彼のような存在を、人工的に選んでいく、死神のような役割を担っているんですよ。あなたは死神に狙われた。そう、小さなときから。我々はずっとあなたを追っていた。必要な時期に、必要な場所に、必要な状況をすべて合わせて、あなたの元へとへとやってくる。後遺症はあなたが一人で受け取るんです。しかしそれは致命的じゃない。あなたの見せかけの健康状態には、その異変は、まったく現れることはない。生殺しのようなものです。あなたは誰に気づかれるわけでもない代償を、ずっと受け取り続ける。しかし、そればかりでもない。黄金の財宝を、一緒に手にいれることだってあるんですから。ある意味、あなたは保障されているんです。運命に保護されてもいるんです。その極端な磨耗と衰弱と、それを断ち切りたいと切望する、苛まれた死への欲望とを、引き換えにね。あなたの生命力が、我々の依頼を断ち切らせることを許さないわけですよ」



 黄金の宮殿

  

        水の都


   Live House ZETTO


  9880327

 

    絵画展 М・Мの世界



 夕方になった。

 女の言った通りに、空き地には捻れたスパイラル状の半透明な建物が現れた。

 肌色の電球が無数に取り付けられていて、そのあいだには恐竜の骨のような白い骨格が、捻れて天に向かって伸びていた。

「じゃあ、中に入りましょうか」

 女は車を停め、先に降りてしまった。

「こんなところに停めなくても」

「乗り捨て」と女は言った。「私は、黄金の宮殿。あなたは別のにして。今から試すの。あなたと同じ場所にいながら、別の空間で過ごすの」

「この番号は、何なんですかね」

「どれ?」

「この988・・・」

「好きにしなさい。煮え切らない男ね」

 Redは絵画展を選んだ。額の奥の方がまた痛くなってきそうだったので、静かな空間の方がよさそうに思えた。

「じゃあ、一時間後に、ロビーで」

「ちょっと」

 どこでチケットを買ってどこから入ればよいのか。Redは何もわかってなかった。

 しかし女はチケットも買わずに、回転扉へと一人吸い込まれていった。仕方なくRedもその後から同じ入り口を通って進んだ。すると液晶画面があり、五つの中から自分がこれから行く場所を選ぶようにと指示が出されている。RedはМ・Мを選んだ。そして回転扉を抜けると建物の中にいた。そこは確かに絵画展の入り口となっていた。二人の女性が立っていて、来場者に指を差し出すように促している。Redは右手を差し出した。すると人差し指を手に取った女性は、すぐに携帯用のバーコードのようなものを翳してスキャンした。

 Redは入場を許可される。

 おそらく、Redの公共用データの中に、入場料の請求がいくことになるのだろう。加算されていくのだ。今日ここに来たことも情報局にはすべてが記録される。そうだった。自分はそこで人々の行動を監視し、管理していたのだった。Violetと同じ管轄の仕事をしていた。

 しかし、日食の後の自分の神経が今だにおかしかった。今だに元には戻ってはいない。それにこんな美術館があるなんて知らなかった。女はすでに黄金の宮殿の展覧会のほうに、移行してしまっている。目の前には年配の男の姿しかいない。一時間後にロビーでね、と彼女は言っていた。あの女は何の仕事をしているのだろう。草原の中に現れた二人の女は、何をしていたのだろう。

 М・Мの美術展などにたいして興味もなかった。心は別の方向へといっていた。局がなくなったと女は言った。そして、その局にいたときの情報を、あなたは今も脳の中に保持しているのだという。だからそれを遠隔操作で消滅させられているのだと。額の奥が痛むのは、そういう理由なのだと。もうすこしの辛抱なのよ。前の女のことも忘れなさい。もう戻ることはないんだから。

 俺はこんなときに何て場所にいるのだろう。

 喧嘩別れをした女の所在を見つけ出し、話の続きをしなければならなかったし、Violetにも、あの後はどうなったのか訊かなければならなかった。局にもすぐに戻らなければならない。ますます、М・Мの絵は頭に入ってこない。

 ロビーに出たときには、すでに女の姿があった。椅子に座っていた。感想をきかれても答えようがなかった。

 あまり印象には残らない絵だったと、曖昧に言うことしかできなかった。

「君のほうは?」

「わたし?すごかったわよ。お金に換算すると、いったいいくらになるのかしら。街そのものが金でできていたらしいの。その一部が、海の底から掘り返されたみたいんなんだけど、まだまだ発掘はこれかららしいのよ」

「なあ、俺は、もう帰らないと。人に会わないと」

「送っていこうか?ついでだし」

 Redはそれもそうだなと思った。

 こうなったら、使うだけ使ってしまったほうがいいと思った。どうせ今日限りの関係なのだ。そして外は暗転していた。車はあった。何もいじられてはいない。

 けれども中に入ると、その異変は顕著だった。元のハイテクの装備に戻っていたのだ。女は悠然と運転席に座り、指を高速に移動させ、ボタンをタッチしていった。ギアをいじるだけの左手の時間は終わった。女はコンピュータを手軽に操った。赤い数字も浮かんでいた。Redは車内から外を見る。すると信号も変わっている。五十色以上はあるんじゃないだろうか。看板もすっかりと変わっている。すべてが数字に代わっている。女は自分の車であったかのように発進させていく。

「ええっと、どこに行ったらいいんだっけ?」

 女は言われたとおりにコンピュータに入力した。検索にかけたのだ。

 すると、Vioketの情報はすぐに新聞の事件欄に現れ出た。交通事故まで起こしていたらしいのだ。さらには付き合っていた女はすでにこの街にはいないらしく、検索は<不能>と表示されていた。局の住所についても同じだった。それはさっきまでいた透明の螺旋の場所が跡地であって、今存在、局は存在していないということだ。

「わかったでしょ。あとは、私に任せなさい。部屋をとってあるから、行きましょう」

 Redは何の抵抗も示せず、助手席に坐っているだけだった。

「近い将来にはこのマンションでさえ、透明になってしまうんでしょう。そして、複合施設になって。さっきみたいに、幾重にも折り重なるの。同じ住所に何十という建物が重なりあうの」

 Redが連れていかれたのは、高級マンションの一室だった。女は鎮静剤が欲しいからと、Redにセックスを迫っていた。



 五つの設計図を頭の中に叩き込み、その五つの空間がそれぞれ少しも損なうことなく、重なり合い、捻じ込まれていく絵をコンピューターグラフィックスのように想像していく。

 それを強烈に保ったまま、しばらく心を無にしておく。そしてしばらくしてから、また頭の中に思い浮かべようとする。欠落は甚だしい。再び五つの骨組みの設計図を別々に頭に叩き込む。それから静かに重ね合わせる。今までにない五次元にまで広がった絵が自然と湧き出てくる。それをまた維持しながら、心を空白にしていく。何も意識することなく、気持ちを鎮めていく。何の意識もすることなく、設計図を再現してみる。だんだんと欠落部分は減少していく。逆に、考えてもいなかった細かい部分が、夢の中で補われている。

 この補われるということが、最も大事なことだった。

 ここにこそ、見えない骨組みの中核があった。

 おそらく、ここにこそ、自分が多大なエネルギーを投入する意味があった。依頼される必然性があった。これができるのは、今はまだ、特殊な人間だけであった。いずれは一般化される。その先駆けとしての実験台なのだった。下書きを何度も繰り返す画家と同じように、いずれは空き地という巨大なキャンパスに向かって、その溜め込んだ意識を照射するときがくる。現実的な資材を投下するのはその後だった。作業員がその部分部分に合う材料を選択して、はめ込んでいく。彼らには当然、全体像が見えることはない。その空間に照射された設計図の要求を隈なく満たすために、効率よく運んでくることが仕事だった。

 ファラオはレーザーの光を当てるという、ただそれだけのために、一人で毎日のように空白の立体キャンパスへと足を運んだ。

 同じ絵を何の意識もなく、再現可能なまでに反復練習を繰り返したので、あとはエネルギーを一点に集中させていく精神状態と、その激しい行為を根底から支えていくための肉体的なコンディションを、作り上げていけばよかった。


「しばらく、ずっと、手術続きだったでしょ」

 女はソファーにもたれながら言った。「だから、神経が高ぶり続けていて。一人じゃ、収まらなくなるの。自然に下げることは不可能なの。だから、あなたが必要なの」

 Redはすでに女の中に挿入する準備が出来ていた。

 しかし女は口で言うほどセックスを望んでいたのだろうかと思うほどに、性器の濡れ具合は今ひとつだった。Redはしばらく口で刺激を続けることにする。するとあっという間に体液が溢れ出てきた。やはり女の言うことは本当だった。決壊したかのように、せき止められていた感情が溢れ出てくるようだった。その液体に危うくRedは飲み込まれてしまいそうになった。大洪水だった。

 こんなのは見たことがない。はやく入れなくてはと思った。Redは慌てて自分の性器を手にとった。

「避妊しなくていいから。ピル飲んでるから・・・」

 Redはそのまま勢いよく挿入していった。


 ファラオは毎日決まった時間に起きて、現場まで向かった。歩いて一分ほどの場所に住居を借りてもらっていた。家に居るとき、特に睡眠の前後には、絶えず『重ね縺れを合わせた設計図』のことをイメージしていた。片時も忘れることなく一ヶ月もの間、その作業を繰り返していた。そして見た目には、空き地であったその場所に、透明な螺旋が組み込まれていくことになる。

 資材の運搬と組み立ては、その後、業者が行うことになる。

 しかしピルを飲んでいたというのは嘘だった。

「でも大丈夫。私は妊娠しないから安心して。今まで誰ともそうはならなかったから。わたしね、妊娠したら結婚しようと思うの。私を妊娠させた人がパートナーだと思うの。ほんとに妊娠しないんだから。もうあきらめているの。だから安心して。好きに出して」

 Redは勢いよく発射した。

 女の体液の量に負けないよう、全身で対抗していた。Redは思った。この体液こそが男の侵入を最終的なところで、拒んでいるんじゃないだろうか。このくらいの射精ではきっと太刀打ちができない。

「まだまだ、高ぶっているのかな・・・。うっ・・もう一度、お願い・・・」

 Redはまだまだいけそうだった。女の性器を見てみると、体液の量はさらに増えていた。Redは二度目の挿入をする。


 その一ヶ月のあいだ、四人の男は一度も姿を見せることはなかった。体はボロボロになってきているのがわかった。心身は激しく衰弱し、けれども神経のほうはますます鋭敏になっていた。体は痩せ細り、頬は完全にこけてしまっている。道行く人と、すれ違う機会が、だんだんと減っていっているような気がする。空は灰色の雲で覆われる日が多くなり、それにつれて、道路や壁の灰色の度合いは、増していっているような気がする。原色をほとんど見なくなったような気がする。色がどんどんと失われていった。気のせいではない。日に日に色合いが荒んできている。

 そして、これは気のせいだったのだろうが、建物は急速に老朽化しているように見えた。


 二度目も激しく射精した。

「実はね、わたし、さっき、あなたが見にいった絵画展を主催した画家なの」

「えっ?」

 Redの性器は、まだ彼女の中入ったままだった。

 しかし彼女は、どうだった?と性行為の感想を求めてくることはなかった。

「本名は、亜子っていうの」

 ファラオは、ずっと禁欲生活を送っていたのだが、性行為をしているときのような快感を、なぜか感じることが多くなっていった。不思議だった。ここのところ、女のことなんて考えもつかなかったのに。

 それにしても、この建築に性的なものを感じるとは思いもよらなかった。そして、その空白の土地には、もうこれ以上意識のレーザーを送らなくとも、重なり合い、縺れ合った透明な螺旋が聳え立っていた。そのことが確信できた。作業はすべて終了したことをファラオは知ったのだ。全身、衰弱状態ではあったが、やはり、脳は明晰で感じたことのない高揚感を覚えていた。


 Redは自分の体の細胞がぐっと外に向かって、開いていくような感覚をおぼえていた。

 全身は疲れ果て、いまにも、睡魔が襲ってきそうだった。女はすでに寝息を立てていた。Redは、妙な幸福感を久し振りに感じていた。喧嘩別れした女とは、その少し前から、肌を合わせる事をしていなかった。お互い会う機会そのものが減ってきていた。その日もやっと数時間だけ食事をする機会を得ただけだった。数時間しかなかったから、御飯を食べて、話をして、それでおしまいだなと思った。

 だがあのとき抱いていればよかった。そうすれば、あんな別れかたはしなかった。Redは今女を抱いたことで初めてそう感じたのだった。たとえ、数時間だけしかなかったとしても、部屋に行くべきだった。むさぼるように抱き合うべきだった。


 ファラオは、用意されていたホテルへと戻る。

 しかし体は熱く火照ったままだった。額からコメカミにかけても、強烈な熱を持っていた。脇の下も熱を持っていて、性器のあたりも熱を持っていた。だんだんと視界が回り始めてもいた。軍服を脱ごうとした。だがベルトは鍵がかけられてしまったかのように、びくりともしない。上着のボタンも同じだった。ファラオはもがき苦しみながらも、何とか脱ごうとする。だが駄目だった。熱はさらに発生している。エアコンを入れる。二十℃の設定にする。強風にした。しかし駄目だった。ファラオはフロントに電話をかけ、解熱剤を用意させようとした。だが衣服が脱げないことを、どう説明したらいいのか困った。何故こんな服を着て、高度な熱を発生させているのか。四人の男たちに連絡をとる手段もなかった。だが、意識は鮮明だった。体の火照りをさらに凌駕するほどの透明感があった。熱によって、悶々とすることもなかった。頭と体は完全に分離してしまっていた。時たま回転してしまう視界だけが不快だった。しかし、それも横になっていれば治まった。

 ファラオは鏡を見た。冷や汗が出て、青白くなっているのだろうと思った。その通りだった。窓から下を見たが、何も思い出せなかった。依頼人がどうして現れないのか。

 仕事はもうすべて終えたじゃないか。ファラオはそう呟いた。


 Redは幸福感のある倦怠な時間が過ぎていくにつれて、だんだんと罪悪感をかんじていくようになった。罪悪感というよりは物足りなさだった。

 エネルギーがすごい勢いで装填されているのがわかった。興奮剤をひどく欲っしている自分を発見してしまう。これでもかと射精し、果てには性的な興奮ではない別のものを欲しがっていた。苦しみ?何か、こう、強烈に押さえ込まれているような、抑圧されているような、逃げたい、でも逃げられない。早く終わってほしい、でも、もっと苦しんでいたい。そういった、とにかく重いものを欲していた。Redにとって、それは初めての体験だった。


 熱の発生のほうは、しばらく放っておくことにした。

 本当に、自分は仕事を終えたのだろうか。

 さっき、何気なく窓から地上を見下ろしたときの光景が、時間差で頭の中に蘇ってくる。

 街が壊滅状態になっているように見えたのだ。モノクロの映像を見ているようだった。

 爆撃されてから、一日経ったあとの街を見ているようだった。はっとして起き上がった。

自分のいる建物だけが、無傷であったかのような錯覚に襲われた。

 何故、このタイミンで自分は軍服など着ているのだろう。誰かに見られていたら、間違

いなく兵士だと思われる。丸腰の兵士だ。それでも、みな、逃げ去ってしまえばよかった

が、敵だと思って銃を発射してくる人間もいるだろう。だが腰に手をかけると、そこには

銃があった・・・。

 ちょっと待ってくれと、ファラオは思った。どういうことなのだ。

 数分前までは、街は廃墟ではなかった。ただのファッションで、服も着ていただけだ。

特に何の違和感もなく。

 そう考えると、ますます、神経は痛み始めた。誰かに側に居て欲しいと、ファラオは初めて思った。誰かの胸の中で抱きしめてもらいたい。きつく抱きしめてもらいたい。温もりがほしかった。吐息がほしかった。この体を丸ごと受け止めてもらいたかった。ファラオは胎児に戻ったかのように体を丸めていた。


 Redは亜子が起きるのを待った。

 そのあいだ、彼は高層マンションの窓から街を見下ろしていた。灰色のビルばかりが立ち並ぶあいだに、植林された緑の木々が生い茂っている。噴水がたくさんあって、心地よい水しぶきをあげている。外の風景をじっと見たのは、いったいいつ以来だろう。ほとんどの時間を、あの局のビルの中で過ごしていた。

「ねえ、あなた、呟いていたでしょ」

 亜子が目を醒ました。

「今?」

「やってるときよ」

「そうだったかな」

 Redは惚けた。

「許さないって。そう言ってたでしょ。なによ、あれ。私に向かって?」

 Redは恥ずかしくなった。

「本当に呟いていた?」

「体がそう言ってたわよ」

 Redは謝った。

「謝ることなんてないわ。ただ、何に対してなのか。気になるでしょ」

 付き合っていた女に対してなのか。局に対してなのか。

 局に対して、だんだんと怒りが込みあげてきているのかもしれないなと、Redは思った。「今日は、水の都に行くからね。あなたは?」

 いつのまにか、Redも一緒に行くことになっていた。

「デートなのよ」

 食事も外で一緒にすることになってしまった。しかし。

「駄目だよ。誰に見られているのか。わかったものじゃない」

「あなた。まだ、心配しているのね。大丈夫よ」

「俺は局員なんだ」

「強迫観念ね」と女は言った。「抜け切れていないのよ。世界は変わってしまったのよ。いつまで過去の幻影を求めているのよ」

「俺はそんなものを求めてはいない。今、現在のことを言っているんだ」

「へえぇ。なら探してみなさいよ。さっきも確認したでしょ。あの場所だったのよ。もうなくなっているでしょ。透明の螺旋に、変わってしまったじゃないの。信じられないとは、言わせないわ。だから、あなたにも入ってもらったの。ちゃんと展覧会をやっていたでしょ?私の絵を見てきたでしょ?今日はライブハウスに行くといいわ」

「わからないだろ!移転したのかもしれないだろ!姿をくらましただけなのかもしれないだろ!一時的に。何かよくないことが起こったのかもしれない」

「あなた、いいかげんにしなさいよね」

 Redはだんだんと興奮していくのが分かった。

「何が絵だ。くだらない!あんなの、何の効果もない。あの展覧会には一体何の意味がある?俺は一つだって思い出せないぞ!存在意義の欠片もない、ただのゴミだ!ガラクタだったよ!人間の社会にはもっと大事なことがあるんだ。この世の中の全体の機能をな、円滑にしていくシステムの構築、管理。大事なことはそれだ。それが絵だって?くだらない。俺は何も感じなかったからな。意識には何も響かなかったからな。くだらない。客だって全然いなかったぞ!誰があんな絵を見る?まったく楽しめない。おもしろくもなんともない。衝撃もない。消えろ!お前は、いったい何者なんだ。あんな絵でごまかすんじゃないぞ。本当は何者なんだ?あの夜、何をしていた?丘の上で何をしていた?草原の中で何を待っていた?もう一人、女がいただろ。あれは誰なんだ?どんな関係なんだ?そうだ。思い出してきた。そういう噂を聞いたことがあった。そしてVioletと他の局員は、その真相を突き止めようとしていた。そうだ。あの夜もVioletは調査のために夜の徘徊を行おうとしていた。そこにたまたま俺が乗り合わせた。なあ、そんな絵なんてどうでもいいんだ。絵描きなんて、人間のクズだ。お絵描きなんて、人間の本質とは何の関わりもない。カモフラージュだ。何かを隠しているんだ。何を隠している?許さないぞ。そうか。許さないって、そのことだったのか?隠している。隠そうとしている。許さない。絶対に許さない。あの女もそうだった。誤魔化そうとしていた。俺に何かを見せるのを拒んでいた。自分でも気づかぬフリをしていた」

「ちょっと、どうしたの?興奮しないでよ。まるで別人じゃないの。どうしたのよ?何かが乗りうつってしまったの?・・・ど、どうしよう」

 女は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。

 Redは女を透明の窓に押し付け、後ろからさらに覆いかぶさっていった。だが性器は萎えていた。萎えた性器を、女の尻にすりつけているだけだった。許さないからな。

「ちょっとやめてよ。外から見えちゃうでしょ。あっちのマンションからも」

 そのとき、部屋のチャイムが鳴った。Redは女から離れた。そして扉へと向かった。

「なんでしょう」

 ホテルのボーイだろうと思った。

「開けてくれ」

 呻くようなしゃがれた声だった。Redは不吉な予感がした。

「誰だ」

「俺さ。Violetだよ。開けてくれ。一杯、水をくれ。あれから何も口にしていないんだ。頼む。ずいぶんとひどい目に合ってしまった。君は逃げ切れたか?あの女はとんでもない。あの女たちは・・・」

 Redは、後ろを振り返った。

 瓶のようなものが、こめかみに向かって迫ってくるのが見えた。

 亜子はドアを開けた。

「ただいま」

 亜子の足元には、血だらけの男が倒れていた。手から花瓶がすり落ちた。床に倒れた男は裸だった。亜子も裸だった。玄関には軍服姿の男が立っていた。

「それが、あなたの本性ですよ」

 軍服の男は背筋を曲げ、俯き加減でにやりと微笑んだ。

 見つけましたよと軍服姿の男は言った。


「あなたはそういう人なんですね。決して三人にさせようとはしない。三人以上の人間を、鉢合わせにさせることはしない。この前の車の中だってそうだった。四人はすぐに分断されてしまった。五分と、同じ空間にいなかったんじゃないですか。花瓶で殴るとはね。あなたらしいですよ、亜子さん。死んではいないでしょう。気を失っているだけでしょう。部屋の外に出しますか?それとも我々が出ましょうか?二人でどこか話しのできる場所を探しましょうか?」

 亜子は軍服姿の男をじっと見ていた。

「どうして今頃あらわれたのよ。どうして消えてしまったのよ。あなたに言われたとおり、私は絵を描き続けていた。それしか、やりたいことはなかった」

「あなたはきっとやってくれると思いましたよ、亜子さん。やりきってくれると」

「やりきるですって?冗談やめてよね!そんなもの、最初の一枚で終わりよ!あなたがいなくなってしまったんですから。最初の一枚は、鶴岡の『最期』を残しておこうとしただけだから。次からは、あなたとの生活が、絵になっていくはずだった。それなのに、あなたはわたしを見捨てた」

「僕はね、亜子さん。一度、この現代社会の中で働こうと思いましてね。情報局に就職したんですよ。そしたら、思いもよらずに忙しくなってしまって。それであなたの所には顔を出せなくなってしまった。いや、もっと言えば、外界との交流。一般人との交流は断絶されてしまったんです。ねえ、僕はどうして、そんなことの繰り替えしなんでしょう。機密を守るために従うしかなかった。でも亜子さん、そこは全然向いていませんでしたよ。なんといっても、背景のない世界ですから。精神的な中心地の全くない、世界なのですから。宗教観だって全然ないんです。亜子さん。どうして僕が軍服なんて着ていると思いますか?一種の皮肉なんですよ。シニシズムなんですよ。この社会システムがですね、影で意味するところ、軍隊とたいして変わらないってことを、僕はアピールしているんですよ。あれこそが、現代社会の象徴だと思いません?戦時中でなくとも、この世界はいつだって戦争をしているようなものですからね。何が変わりました?人間魚雷じゃないけど、それと同じようなことが感覚として肌でかんじませんか?脅迫観念ですかね。僕だけの。でも人間はほら、よく見れば血を流しているじゃないですか。ほら。流しているように見えるじゃないですか。あれはいったい誰にやられたんです?何にやられたんです?そして何のために?やられてもそれを受け入れ立ち上がっていく。何故なんです?例えばあの人は、ほら、何のために歩き続けているんですか?」

「わたしはずっと子供が欲しかったのよ。あなたがいなくなってからずっと。絵なんてもう描く必要はなかった。子供が必要だった。だから会う人、会う人、ピルを飲んでるからといって、子宮の中に精子を放出させた。でも妊娠はできないの。私は子供を持つことで、その子のために生きたいと願った。父親はいなくていい。いや、いないほうがいい。私が、私だけが、この子にすべてのエネルギーを注ぐことで、生きる気力を取り戻そうとした。あなたがいれば、どうだったかしら。そんな考えになったかどうかわからない」

 今にも涙がこぼれ落ちそうな亜子の眼から、軍服姿の男は目線を背けた。

「前の夫とも、結局は、子どもができなかった。どうしていつもこうなのよ」

「亜子さん、逃れられない運命なんですよ。これは。僕だって同じことですから。いつだって、外界とは隔絶され、特殊な任務が課せられてしまうんです」

「ねえ、結局、私たちって、いつまでも同じことを・・・」

「四人の男。あいつらは、いつだって、俺から離れようとはしない」

「妊娠できない」

 とりあえず出ましょうと、軍服の男は言った。「そろそろ、目をさます頃です」

 二人はホテルのコーヒールームへと向かって歩いた。道を挟んだ向こう側の建物だったが、ファラオの視界は、灰色のままだった。遠くで爆弾が落下したような音が聞こえてくる。

「せめて、同じマンションに住まない?同じ部屋でなくていいから。避妊はしていいから。もう、嫌なの。何枚も同じような絵を、描き続けるのは。あの最初の絵が賞をとってから、描くことで生きてきたの。でも、あれ以上のものは描けない。あれとは別のものが描けない。あなたのことを描きたいの。もっと知りたいの。見ていたいのよ。もっと側にいてほしいの。でないと、私、発狂してしまうわよ。また使い古したモチーフで、わたしを紙に向かわせる気?変えたいの。とにかく何でもいいから変えたいの。でもそう思えば思うほど、何でもよくない私がいる。あなたなのよ。あなた一人でいいの。今はそれだけでいいの。あなたを描きたいの。だから行かないで。ここに居て。ここに居たっていいんでしょ?何かから逃げているわけじゃないんでしょ?情報局はもうないのよね?私知っているのよ。あの男だって、あなたと同じ局にいたんでしょ?あなたは、今、何をやっているの?ここでもできるんでしょ?通えるんでしょ?何か答えなさい。もう我慢できないのよ。どうして、私、男じゃないのかしら。なんだか、精子が溜まっていくみたい。ねえ、変でしょ。でも嘘じゃない。女のアソコの中に、出してみたいの。でも、でも・・・。そうなのよ。なんだか、妊娠なんてしないでも、いいような気がしてきた。あなた、子宮はないのかしら?あなたに生ませたい」

 亜子は頭のおかしい画家の一人にでもなったのだろうか。

 軍服の男は後ずさりしてしまいそうになる。

 だがそのときも、額の奥が強烈に痛くなっていった。視界の一部が点滅しては消える。何の信号なのだろう。痛みと共に吐き気が襲ってくる。このときも、食事はだいぶ前に済ませていたので、口の中には胃液しか上がってこなかった。亜子はその様子を見てキスをしてきた。「お願いだから、ここに居て。こっちのホテルに。しばらく一緒に泊まりましょう。ねえ、あなた、いいでしょ。ここからなら、通えるのよね?連れていって、なんて、言わないから。ね。いいでしょ」

「ねえ・・・」

 すっかりと、蒼ざめた軍服姿の男は、亜子の後頭部をさすり始めた。

「この偶然に、僕は驚いたんだよ。君が展示している美術館。あの建物の建設に、僕は携わった」

 ここのホテルの中で、二人の共同生活が始まることを、亜子はすでに予感していた。そして確信していた。



 亜子は、新しい絵の製作に入った。

 ファラオは、建築の後遺症と闘っていた。

 夕方合流するまで、それぞれ二人は、別々に時を過ごしていた。

 ファラオは何度か、透明の螺旋を見にいった。しかし、中には一度も入らなかった。来場者はけっこういた。単純計算で、通常の五倍の収容人数である。ファラオはその事実が、怖かった。ファラオにはまだ、うまく信じられなかったのだ。空間が捻れ編みこまれているという現実が。あまりにわからないことだらけだった。それは、街全体がおそらくそうなっていないからであり、ある一部分だけが、しかも自分の脳を使って生み出したものだけが、そうなっているという事実を、受け止めきれずにいたのだ。それは、ファラオの額の奥の痛みに象徴されていた。亜子にはすべてを話した。亜子は「まだ慣れていないのね」と言った。「まだ、使いこなせていないのよ。でも、これから、何個も制作に携わっていくようになれば、きっと大丈夫」

「何個も?」

「そう」

「俺はそんな気なんてないぞ。もうこれっきりだぞ。よしてくれ。君とは違う!」

「わたしが何でも協力するから。生活のことは。あなたの側にいるから。だから、そんなことは言わないで。あなたはもうすでに一つ、完成させたの。自信を持つべきよ。私の展覧会だって、その中で行われているのよ」

「なぜ、最初の絵を隠したんだ?」

「えっ?」

「最初の絵だよ。あの佳作を取ったやつだよ。どうしてあれ以来、表舞台からは消えてしまったんだ?どこにやったんだ?自分で隠したんだろう?意図的に」

 思考回路をぷっつりと切断されたかのように、亜子は無言になってしまった。

「あの一枚で、すべてを表現しきれたんだろう?だから、もうきみだって、その後は本当は書く必要なんてなかった。ただの仕事で描いていただけだ。依頼されたから書く。書く状況が整っていたから書いた。ただのそれだけ。あんな展覧会、見ていて実に腹立たしかったね。それよりも、あの最初の一枚だけを、ドーンと広い空間に放り出してしまったほうが、遥かにいい。他はスカスカであっても。ただ、あれだけがあれば」

「わかってる。わかってるわよ。そんなこと。あなたに言われなくても。全然わかってる。あなたのためだったのよ!そうでしょ?描き続けてなかったら、今回の展覧会だって、おこなわれることはなかった。あなたの仕事と、重なることもなかった。あなたが携わることも、なかった。あのまま、最初の一枚で消えてしまえば、今、あなたは、私を眼にすることすらなかったのよ!」

「あの一枚は、そう、簡単に消えるものじゃない!」

「消えるのよ!続けなくては。続けなくては消えてしまうものなのよ!どんな駄作を連発したって、途切れないことのほうが重要なのよ!私という存在が生き続けている。その事実のほうが大事なの。それが、あの絵を消さない唯一の方法なの。どうしてそれがわからないの!」

「わからないのは、君のほうだ!」静かな声をファラオは出した。「君は、現実が一つだと思いこんでいる。見えているものしか、見えていない」

「当たり前でしょ!」

「君の見えている世界は、僕が放り込まれている現実とは、ずいぶんと違う。何もわかってないのは、君のほうだ!」

「もうやめて。喧嘩ばかりじゃないの。どうしてすぐに言い合いになってしまうの」

「同じ場所にいないからさ。こうやって向かい合っていながらも、僕らは全然違った世界に存在しているからさ。窓を開けて外に出てみろよ。その違いに愕然とするぞ。異なる風景の言い合いに、君は辟易する」

 亜子はそれを聞くと、ファラオの手を引っ張って外に出ていった。近くの公園まで走っていった。ファラオは折り重なった飛行機の轟音に、耳を覆っていた。警報が遠くのほうで鳴り響いている。空は分厚い灰色の雲で覆いかぶさっている。

「ねえ、聞こえるわ。近づいてきてるわ。飛行機の群れよ。爆弾を積んでいる。危ない。この辺りに落とすつもりよ。どうするの。どこに逃げればいいの。やだ。どうしよう。ねえ、どうしよう」

 亜子は急にうろたえ出した。ファラオのほうが吃驚した。「とりあえず、透明の螺旋に行こう」と彼は言った。「あの中に入ろう」ファラオはすでに、亜子の手をとり、全速力で駆け出していた。亜子のヒールは脱げてしまった。

 二人は入り口に着く。中に入り進むべき空間を選ぶ。ファラオは黄金の宮殿を選んだ。

「もう音は、聞こえこないみたい。よかった」

「本当に、飛行機のエンジン音が聞こえたのか?」

 ファラオは疑った。

 亜子がわざと、自分に合わせたのではないだろうかと思った。

「聞こえたわ」

 しかし、そんな光景が見える、聞こえるなどとは、具体的に亜子に話したことはない。

「あれっ、何よ、これ」

 黄金の宮殿の一部が展示されていた空間だったが、床に水が溜まってきていることに、亜子は気づいた。

「水?」

 ファラオは天井を見上げた。しかし水滴が落ちてきている様子はない。どこかから湧き出ているのだろうか。気づけば、足首にまで水かさは増えている。

「ちょっと。こんなこと・・・。この前はなかったわ。どうして水が?」

 ファラオは頭を抑えた。

「どうしたの?また痛いの?」

「もう、昨日から、ずっとこれだ」

「いやっ。何よ、あれ。私の絵じゃないの」

 確かに亜子の絵が空中にぼんやりと浮いているのが見えた。

 鬱蒼とした森の奥を描いたような陰鬱な作品だった。他の作品も後ろに連なっているように見える。

「宮殿の中に何よ。あれは。バンドが演奏してるじゃないの」

 その轟音があまりに小さな音量で、わずかに二人の耳に届いていた。

「さっきのエンジン音。あれだったんじゃない?」

 確かに似ていると、ファラオは思った。しかし一人で立ってはいられないほどに、平行感覚は失われていた。彼女がファラオの体を支えていた。

「大丈夫だから」

 彼女は繰り返し呟いていた。すでに混線は始まっていたのだ。やはり無理があった。時期尚早だったのだ。くそっ。あの、四人の男たちめ・・・。俺を実験台に使ったのだ。間違いない。出て来い。今、すぐに出て来るんだ!けりをつけてやる。ここで断ち切ってやる!俺を元に戻すんだ。

 ファラオは独り言をいい続けていた。亜子は増えてくる水かさに戸惑っていた。そのときライトが消えた。そして、赤い蛍光の数字が浮き出てきた。亜子はその方向にむかって、ファラオを担ぎながら必死で移動した。



 四人の男たちが亜子とファラオの行き先を塞いでいた。

 楽器を持ったその男たちは、黄金のステージから降りてきていた。上半身は裸だった。

 肌の色がわずかに、緑色のような気が亜子にはした。透けた皮膚の中が、わずかに緑色をしているように見えた。バンドマンの四人の顔が亜子の顔を見つめていた。

「ちょっと何なのよ」

 亜子は相手を威嚇するように睨みをきかした。ファラオはすでに意識を失っている。

「どきなよ」

「誰ですか。彼の奥さんですか」

「おめぇに用は、ねえんだ」

「ちょっと、やめなさいよ。あなたたち」亜子は震える声で答えた。

「お前な。あ。この女、知ってんぞ。さっき契約打ち切られてたぞ。さっさと確認するんだな。ほらっ。俺らと同時期に入った女だよ。覚えてるだろ!」

「ああ。そうだ。確かにそうだ。この女だな。画家さんだよ。あのくだらない絵を、たくさんお書きになった」

「打ち切り?」

 亜子は急に神経の一本を切られたような錯覚に陥った。<あなたとの契約を打ち切ります。すぐに荷物を持って出ていってください。あまりに客の入りが悪いんです。でもあなたの名前は最初の絵で世間に知れ渡っている。あなたの噂はかねがね聞いておりました。はやくも作品はぱっとしなくなったと。あの一発目で、完全に開花したと思われた才能は次の瞬間にはきっちりとオフになってしまったと。そして名前だけが一人歩きをしていき、あとからついて来るものは、あのお絵描きってわけで・・・>

「フロアマネージャーの真似ですよ」

「あははは」

「その男を置いて、さっさと出ていくんだ。この男だけには用がある。あなたがそうやって手を差し伸べるから、この男は目が閉じてしまうんだ。醒ましたかったら、どっかへ行きな!君がいることがいけないんだよ。ただ近くにいるだけなら、百害にしかならない。俺らに任せておけ。この男のことは、ずっと小さいときから知っている。すべては形を変えて何度も起こっている。今度も我々が介抱してあげる。お穣ちゃんは行儀よく退場しなさい。いいね」

 しかし、亜子はその場から動こうとはしなかった。

「何とでも言いなさい。力ずくでも奪いなさいよ。私は絶対に譲らないから。もう私の元からは、離れさせない。この前はまだ覚悟が足りなかった。私自身を信用できなかった。でももう逃げないわ。あなたたちの元には渡さない。もう終わりよ!終わりにするのよ!あなたたちの好きなようにはさせない。好きに使いまわされるのを、見ているわけにはいかない!」

「あなたは、何かを、勘違いされてますよ」

 皮膚はますます透け始めた。緑色はかなり色濃く浮き出している。

「勘違いなんかしていない!あなたたち。これが初めてではないわね。彼は言ってたわ。そうか。どうして、彼が軍服を自然に選んでしまうのか。今わかった。あなたたちの皮膚の色に関係していたのね。あなたたちのような緑色に、彼もいずれは染まってしまうことを恐れていたのか。恐れれば恐れるほど、逆に選んでしまう。吸い寄せてしまう。どうして、纏わりつくの?自由にさせなさいよ。解放しなさいよ!」

「君に、用はない」

「さっさと退場したまえ」

「人の人生に、首をつっこむ気か?」

「何の関係もない。君には」

 亜子は、体の内側からだんだんと憤りが込み上げてきた。それは四人の男に対してではなく、ファラオ本人に対してだった。そして意識のない彼を思い切り蹴飛ばした。

「起きなさい。起きなさいよ!あなたの問題なのよ!」

 しかしファラオは目覚めなかった。

「あなたには関係のないことなんですよ。彼自身の問題なんですよ。外部のあなたが入り込める領域ではない。我々しか、関知することはできないんです」

「なんですって!」

 今度は、はっきりと四人の男に対して、怒り狂った。

「ふざけるんじゃないわ。わたしが関係ないって?なら、絵のことだって、放っておきなさいよ。関係ないんでしょ。何で首をつっこんでくるのよ。あなたたちに何が関係があるのよ。冗談じゃないわ!何なのよ。そっちが先に首を突っ込んできたんじゃないの。今さら逃げるのかしら。私が話しをつけてやろうじゃないか。この男と私はね、もう一体化してるのよ!ある意味。私はこの男を描き続けるの。もう駄作だなんて言わせない。追い出すですって?馬鹿言ってんじゃない。損をするのは、ここのオーナーの方よ。後で戻ってきてくれだなんて、泣きつかれたくはない。だから居てあげる。出ていかないであげる。そのかわり二週間待ちなさい。必ず展示物を総取替えしてみせるから。もう完全に頭にきた。どきなさい。ほら。どきなさいよ!あなたたちは何?バンドやってんの?なら早く練習しなさい。曲を作りなさい。私にかまってる暇なんてない。どきなさいよ。ぶん殴るわよ」

 男たちの皮膚が緑だなんて、そんなことは勘違いだった。

 男たちは、ごく普通の格好をしたバンドマンであることに、亜子は気づいた。


 他の三人のジーパン姿の男たちも丁重にお辞儀をして、横をすり抜けていった。その空間は、黄金の宮殿でもなく、水の氾濫した都でもなく、赤い数字の浮き出た暗闇でもない、ライブハウスの客席横のただの通路であった。亜子は拍子抜けした。

 腰をどっかりと落としてしまいそうだった。だがファラオはぐったりとしている。頬を何度か叩いてみたが、何の反応もない。軍服姿だけが妙に生生しかった。戦場で打たれ、瀕死の重傷を負った兵士を看病している女医にでもなったような気分だった。女医?そういえば、そんな過去もあったような気がする。亜子は今ここに存在しているということが、ずいぶんと脈絡のない道を歩いてきた、その果てであったかのような気がして、ぞっとしてきた。人のことなど言えたものではなかった。ファラオのことを責めることはできなかった。彼が今どんな世界にいるのか。どんな戦場を駆け抜け、どんな職業で、未来への罪滅ぼしをしようとしているのか。

 亜子は彼の側にいることで、彼に協力していくことで、誰よりも、彼のことを深く見つめていこうとしていた。



 ライブは始まった。ピアノの哀しげな音色が鳴り響く。そこにヴァイオリンが加わると、神経に障る不協和音へと変わる。ピアノが乱れ始める。鍵盤は理不尽にも叩かれ、絶叫する女の声が聞こえてくる。ステージ上に椅子が現れ、女性が縛りつけられている。そして椅子はクレーンで吊り上げられていく。鉄製の椅子の下からは、炎が近づけられている。女の手足は身動きが取れない。目玉が飛び出しそうだった。女は口をひん曲げ、客席に向かって絶叫した。四人の男たちは楽器を壊し始める。誰一人として、ステージ中央のにいる女を助けようとはしない。彼らが女性をいたぶる張本人のようだった。不協和音はさらにひどくなっていく。客の顔色は蒼ざめ、これが演出にも関わらず、ステージ上に助けにいかなければならない気持ちになってくる。消防を呼ばないといけない気がしてくる。しかし誰も動こうとはしない。

<亜子はファラオの体を支えながら、やはりその場に動けなくなっていた>

 さっきまでのジーパン姿の男たちはどこにもいなかった。軍服を着ていた。顔は完全に爬虫類のように緑色に変色してしまっている。帽子を被っていたり、いなかったり。長い髪を振り乱している演者もいる。だがボーカリストはいつになっても現れない。椅子の上の女はぐったりとしてしまった。そして音楽は女の鼓動に合わせるかのように、急停止してしまった。ステージ上は暗転した。しばらくの静寂のあと、裸にさせられた女が椅子から離され、さらに吊り上げられている様子が目に入る。そして床に向かって滴り落ちる液体がある。女の股のあいだから、垂れているようにも見える。止め処なく流れ出ている。ライトは白で統一されている。まるでその液体の色を、くっきりと映し出すかのように。液体は緑色をしている。女性一人だけが白い肌であり、そのステージ上においは彼女の血だけが緑のシンボルを宿している。四人の楽器演奏者の姿は見あたらない。短調のシンセサイザーの音色だけが響いている。激しい不協和音は消える。よく見れば女の頭部がないように見える。そこまでは光が届いてなかったから、そう見えたのだろうか。女は液体を垂らしながら、天使が昇天してしまったかのように、あっという間に天井へと吸い込まれていってしまう。会場中が静まり返る。ファラオはまだ眠っていた。まるであのメンバーの中で唯一、空白になっているボーカリストの場所が、ファラオのために用意されているかのようだった。

 四人の軍服の男に、拷問という名の口実で蹂躙された少女が、死をもって天へと舞い上がっていったかのようだった。そして、二度とその女性は現れなかった。ステージ上に現れ出た四人のメンバーは、すでに軍服など着ていない。カジュアルなパーカーにカーゴパンツのようなラフな格好で、ギターを片手に柔らかい曲を奏で始めていた。しかし、ボーカリストはいない。客席の人たちも口ずさむ様子などない。

 亜子はファラオをひきずって、ライブハウスから外に出ていこうとした。頭の中ではオープニングの哀愁漂うピアノの戦慄が、こびりついたように離れようとしなかった。



 ほころんで瓦解する高層ビルのニュースを、高層マンションの六十階の部屋で、亜子は確認していた。

 ファラオをベッドの上に横たえさせ、服を脱がせようとしたものの、きつく絞まったままのベルトをはじめ、びくりとも動かなかった。いくつものボタンが、そのニュースが流れた瞬間に、体から離れようとしてくれた。全裸にさせたファラオに布団をかけた。

 服はクリーニングに出そう。いや、一階にあるコインランドリーで水洗いしてしまえばいい。亜子はスケッチブックに、ファラオの全裸の絵を描きたいという衝動を必死で抑えていた。

 その夜には、すでに、ファラオは起き上がれるまでに回復していた。

 そして、当然の事ながら、体の関係を求めてきた。亜子は何も拒む理由がなかった。しかしそのとき、生理が始まってしまった。口でしてあげるからとファラオをなだめ、亜子はその処理を素早くやってしまおうと、トイレへ駆け込む。だが、そこで血の色が変なことに気づいた。目を疑った。青いのだ。いや、緑。鮮やかな緑だった。初め、インクか何かだと思った。亜子はトイレに流してしまうことを躊躇した。すぐにコップの中へと溜めておこうと思った。ファラオも気づいていた。シーツについた染みを、彼はずっと見ていた。不思議なことに、二人とも、大騒ぎをすることはなかった。しかし、しばらくは無言だった。彼も私も何か思いあたることに、考えを巡らせていた。

 瓦解した高層ビルは、まだ完成から、二週間が過ぎたばかりだった。

 テロの可能性が疑われた。犯行声明は確かに出ていた。亜子の展示された絵はすべて、瓦礫の中に埋もれてしまっていた。そうか!と亜子はすぐに部屋を飛び出して、その現場へと向かった。あの黄金の宮殿の一部は、どうなってしまったのだろう。洪水になってしまっているんじゃないか。ライブハウスの機材は?その中に、私の絵も埋もれてしまっている。火災は起こったのだろうか。テレビでは、その決定的な瞬間を放映してなかった。

 だが現場には辿りつけなかった。同じ道を何度も巡ってしまい、迷路の中にいるようだった。絵のことで気が動転してしまっていたからなのか。あるいは、部屋に置いたままのファラオが、気になっていたからなのか。すぐに戻った。

 ファラオは下着だけをつけ、ソファーに坐っていた。亜子はファラオに飛びついた。その手はすぐに下着の中へとつっこんでいた。

 あれだけ精神的に影響を与え合っていたつもりだったのに、どうして体だけの関係になってしまったんだ?

 ファラオの言葉に、亜子は一瞬だけ冷やりとした。

 しかし、何の反応も示さない彼の性器に向かい、口づけを繰り返した。

「僕には、理解できないね、君のその性質が。あの絵は本当にどこに隠しているんだろう。君は今後も絵を描くことはできない。あの一枚で、キャリアは終わったんだ。あれは僕とは何の関係もない絵だった。君は一人ではロクな絵はかけないし、僕といたら、絵そのものだって描くことができなくなる。君はそうやって、僕の体に夢中になるだけだ。盲目にむさぼり尽くすだけなんだ。僕は構わない。減るものじゃないから。でも君は退廃への道をまっしぐらだ。とにかく、あの絵を見せるんだ。手元には置いていないはずだ。人目にはつかない、どこか遠くに、君は隠したはずだ。誰かに頼んだのか?僕のいない間に。まさか、ずっと一人で居たわけじゃないだろ?」

 その性欲だよ、とファラオは言った。性器はあいかわらず萎えたままだった。体は思ったよりも衰弱していた。

「瓦解のニュース、見ただろ?失敗さ。見事にね」

 亜子は顔を上げようとはしなかった。

「なあ。話くらいしろよ。僕が眠っていたときは、いろいろと考えていたんだろ?動いていたんだろ?どうして目が醒めたら、君のほうは何もしゃべらない?君は体で会話をするようになったのか?セックスすれば、それですべては分かりあえるのか?いったいこの二人はどこに向かって、何をしていくんだ?そのことを、もっと話し合わなくてはいけないんじゃないか。僕一人だけ。君一人だけ。それで、一体、何ができると思う?見事に失敗だったじゃないか。いいところまでは行った。だが、何かが決定的に足らなかった。なあ、いいかげんにしてくれ。ソコはもう立たない。今夜はもう立たないんだ!君だって生理じゃないか!それも・・・」

 ファラオはシーツの方を見た。しかし、今はもう黒ずんでしまっていた。

 ファラオは力を抜いて抵抗するのをやめた。会話は通じない。シーツをどれだけ見ても、さっき見た現実は少しも裏づけられない。見間違いだったのかもしれない。ファラオは頭痛が止んでいることに気づいた。額からこめかみの奥にかけて走った激痛は、消えていた。平衡感覚が揺らぐ様子もない。視界は安定している。だるさもないし、熱がこもっているとも思えない。性器だけが無反応だ。脳の中は少しぼんやりとしている。けれど、それは、リラックスをしているのだと言えなくもなかった。ファラオは目を軽く閉じ、亜子の好きなようにさせた。どうせ、どこにも行き着くことはないのだ。疲れたらやめるだろう。

 すると、突然、ファラオのイメージする光景のなかに、亜子の性器に口づけをしている自分の映像が、映りこんでくる。

 赤くない血を、ゴクゴクと飲んでいる絵が浮かんできた。

 亜子はクリトリスを強く押さえる。すると血はそこが蛇口であったかのごとく、勢いよく噴出してくる。ファラオは、亜子との体の関係を欲していた。そして、さっき亜子に言った言葉は、そのまま自分に跳ね返ってきていた。

 気づけば、ファラオは再び、瓦解した高層ビルへの挑戦を心に決めていた。

























第ⅷ部   ディスレクシア





















 男はその後、何度新聞を見ても、自分が起こした事故が報道されていないことを、不可思議に思った。

 しかしよく考えてみれば、それほど大ごとにはならないのかもしれないなと、思いなおした。ちょっと後ろからこすっただけなのだ。しかしぶつけられた方は、かなりの衝撃だったに違いない。それでも自分は悪くなかった。ライトを消し、道の真ん中で停止している車のほうが悪いのだ。それでも男は、逃げた自分を恥じていた。怪我をしたかもしれない人間の横を逃げるように去ってしまったのだから。丘にはすぐに戻った。

 しかしまた、事故現場に戻ってみると、車はなくなっていた。それで、すべては終わりだった。しかし男には、その後も逃げてしまったという後悔の念が、まとわりつくことになってしまう。誰に告白したらよいものか。あの車は、きっと、事故を警察に報告することができない、何か決まりの悪い事をしていたに違いないと思った。しようとしていたに違いない。この自分を加害者にすることなど、まず、できないだろうと男は思った。男は、夜の大聖堂の裏にある<告悔室>へと足を運ぶしかなかった。鉄の窓越しに、神父に話をした。ちょうど、真夜中過ぎの鐘が鳴り響いていた。男は正直に告白した。事故そのものは自分は悪くない。けれども逃げてしまったことを恥じていると。

「結果的には、事故を公に報告しなかったことで、その車の中にいた人間は、助かったのかもしれません。何かやましいことがあったのかもしれません」

「その日は、日食でしたね」顔の見えない神父は言った。「あなたは正直に告白なさった。それでけっこうです。あの日はすべてがちぐはぐだった。仕方がない。あなたのせいではない。だから一つだけ頼みごとを聞いてほしい。明日から一週間、ここで私の代わりをしていただけないだろうか。ここの所、ずいぶんと体が弱ってしまって、どうにも持ちそうにないのです。この夏は異常に暑い。ここには冷房がない。風通しが悪い。ほんの少しの間だけでも、手伝ってはくれないだろうか。そうすることで、君のその後悔の念も、少しは晴れると思うから」

「わかりました」男はすぐに引き受けた。「なんなら、今からでも、代わります」

 男は神父の顔を見ることはなかった。

 この部屋に入るまでの道筋を、口頭で説明された男は、すぐに行動へと移した。

 一度、大聖堂の中に入り、祭壇の横にあった小さな隙間を通り抜け、細くて急な階段を登っていった。その幅はだんだんと微妙ではあったが、狭くなっているように思えた。しまいには前向きでは厳しくなる。体を斜めに傾ける。だんだんと男は怖くなってきた。これが構造上のことではなく、何かの圧力で狭まってきているのではないかと思ってしまったのだ。体は完全に横向きにせずには、前に進むことができない。すると急に、階段は下降し始めた。幅は元へと戻っていった。どうやら、告悔室の内側にたどり着いたらしい。淡い電灯が一つだけついていた。神父の老人の姿はすでになかった。そこには、次なる懺悔をしに来た人の影が映っていた。顔は見えない。首から下しか見えない。「私、からだを売っているんです・・・」と小さな声がした。か細い少女のような声だった。「好きな人に売っているんです。抱いてもらうために。抱いてほしいんです。その男の人には家庭があります。しかし彼はこっそりと夜に娼婦の家へと通ってくるのです。私はその事実を突き止めました。そして自分もその家に働きに出たんです。女将さんにそのことを告白したんです。すると、彼女は特別に、私のために部屋を用意してくれて。その男の人専用に私を雇ってくれたんです。どういうわけか。女将さんは私に優しくしてくれました。なので、他の女の人との交流は、まったくありません。そこの家には、特別に迷路が組まれていました。ずっと遠くの通りにある建物と、建物の間にあった細い隙間を伝っていき、階段を上り下り、そして地下に通じる道に出て、するとその部屋の裏の入り口につながっているんです。私の他にも、この部屋を利用した人がいるんだと、思いました。私が初めてではないんだと思いました。そしてその男の人は、部屋にやってきました。私は男の人の要求に従って体を捧げればいいだけでした。会話は特にありません。行為に対して、囁きあうだけが、私たちのすべての関係でした。日常的な会話。精神的な会話はいっさいありません。私は彼の事を何も知らずに、体のことばかりの知識を、積んでいくこととなったのです。それに、私自身も、彼の奥さんになりたいだとか、恋人になりたいだとか、そんな気持ちはいっさい起きませんでした。ただ、定期的に彼と抱き合うだけで、私は満足でした。彼も満足していました。頻度は増えていき、しまいには、毎日通うことになってしまいました。私は彼からのお金で生活をしていました。彼に養ってもらっているのと同じでした。「俺ばかりだと、他の客には迷惑じゃないのかな」と彼は言いました。しかし、本気で心配しているようには見えませんでした。ですが、そのうち、他の客に対する嫉妬ともとれるような発言が出てきたのです。「なあ、俺の専属の女になってくれないか?俺だけに抱かせてほしい。だから、こんな店はやめてほしい。どこかに部屋を借りるから、そこにいてほしい。面倒は俺が見る」と。

 しかし私は、初めからあなたの専用なのです。私はあくまでも他の娼婦と同じように、雇われているという体裁ではあるのですが、実情は違うのです。

 女将さんに相談しました。

「そうね。でも、やめといたほうがいいわね。ここの部屋だからこそ、きっとあなたたちの関係は長続きしていると思うから。あなたが彼との生活を望むといった、変な気さえ起こさない限りは」

「そんな気は、まったくありません」と私は答えた。

「それならいいけど・・・。もしそうだったら、初めからあなたはここに来るべきではなかった。この部屋の外であの人と知り合うべきだった。けれど、その可能性は、ほとんどゼロに近かった。あの男の人には、世間で認知されている家族があります。街であなたがあの人に近づける機会はありません。私が極秘にセッティングしてあげることもできない。でも私は、宿の女将。こういうことならできる。そこにあなたがやってきた。変な気を起こすんじゃないわよ。あなたも、男の人も、今のようなサイクルを心から望んでいるのよ。だから、最後まで貫きなさい。何か変化が起こるとしたらその先なんだから」

 けれど、私は、心の中にこの事実を溜め込んでいることに耐えきれず、こうして告悔室へと来てしまったのです。神父さん。どうか、あなたの心にお納めください。そして、これからまた、心の中に何かが引っかかってしまったときにも、私はここに来て、よろしいでしょうか。

「もちろんです」と男は答えた。ずっと沈黙していたので、淡がわずかに引っかかってしまった。「もちろんです」と今度は力強い声で答えた。

「主導権はあなたが握っているんですから。決して離さないでください。男の人はすでに、あなたの完全な虜になっているわけでしょう。あなたのいる所に、彼の方が必ずやってきますよ。その利点を、あなたが握り続けることです。けっしてそこを出ていかないように」

 顔の見えない少女は去っていった。



 亜子との共同生活が始まるとすぐに、ファラオは、リハビリ施設へ通うことにした。

 あの〝仕事〟以来、意識の混線は、日常的に起こるようになっていたし、人のいなくなった廃墟の街の風景が、いつになっても消えることがなかった。さすがに爆撃機の音や、人の悲鳴などは消えていた。しかし夜になって、亜子が寝息を立てて眠り始めると、かすかに遠くの方で鳴っているような気がしないでもなかった。すぐに亜子を起こそうとするが、それではいつまでたっても治らなくなるんじゃないかと思い立ち、主治医を探すことを決意したのだ。

 ファラオは外に出るときには、すでにサングラスをしなくなった。皮膚は強烈な日光を感じることもあったが、視界は灰色なままだった。瞼を軽く押さえると、一瞬で色と人とが蘇ってくる。同時にコメカミを押さえると、さらに鮮明になる。彼はどちらかの手をずっと額に翳していないと、外を歩くことさえ不可能だった。

 そのリハビリ施設とは、聖堂の裏手に隣接しているクリニックだった。

 受付の中年の女性に導かれて待合室に入る。ずいぶんと古めかしい造りだったが、よく掃除の行き届いた小奇麗な空間だった。ファラオの他に患者の姿はなかった。すぐに呼ばれた。

「ハラダさんですね」まんざら乖離しすぎていないよなと、彼は自分に言い訳をしながら、軽くお辞儀をして診察室に入っていった。

 医者は姿勢がきれいで目に力のある老人だった。さらには、ハキハキとした口調でキレのある言葉を放つ人だった。一言伝えれば、それで百倍以上の目に見えない情報を、キャッチしてくれそうな、そんな人に見えた。

「あなた、ご自分の家で、お香は炊いていますか?もし炊いていないのなら、このあと持っていってください。処方しますから」

「以前は、使ってました」

「今は、使っていませんね」

「はい」

「まずは、それが問題です。すぐに使いましょう。僕が処方したものを。なくなったら、すぐに取りに来て。今日は、そんなところで」

「ちょっと、待ってください!」

 ファラオは身を乗り出していた。「嘘ですよね。もう終わり?まだ何も診察してないじゃないですか」

「ああ、いいの、いいの。初めは、こんなものだから。初対面なんてこんなものでしょ。気軽にいこうよ。大丈夫大丈夫。一目でわかったから。一刻一秒を争うような病気じゃないから。君のはもっと慢性的。わかるよ。だからとりあえずは、お香を使って。店で売ってるようなものじゃないから。いちおう医者が処方しているんだから。そういうことだよ。大丈夫!」

 ファラオは麻薬を想像した。

 一度口にして中毒になるのは嫌だった。もしこれが本当に麻薬で、しかも使用しないことには症状が改善しないのだとしたら、もっと正直に詳しく説明してほしかった。だがこの医師は野暮には見えなかった。処方は雑なくせに、神経はずいぶんと繊細そうだった。その眼だ。じろっと患者の全情報を掴むような眼だ。ファラオは、どんな人間を前にしても怯むような人間ではなかったが、この医者はただ者ではないなと直観していた。メディカルチェックを受けに来たつもりだったが、少しもファラオに触れようとしなかった。問診さえなかった。

「そうだね、今度は、また一週間後かな。心配しないで。たぶん、どんどんよくなると思うから。まだ急激な運動はしないほうがいい。安静にしろとは言わない」

「セックスとかは、いいですよね」

「ええ、いいです。おおいにやってください」

 話はそれで終わってしまった。ファラオは礼を言って待合室に戻った。すぐに受付の中年女性に呼ばれてお香を受け取った。

「ああ、うちは、最後にまとめて清算するの。だから今日は払う必要がありません。すべてを終えてから。完治してからね」

 その最後まで責任を持つという言葉は、ファラオにとっては、とても心強かった。



 暗闇でお香を炊き、廃墟と化した街を思い浮かべる。

 闇の中には、二種類の赤い数字が浮かんでいるのがわかる。

 

  991   997                   

  991 997               991  


 ぐるぐると螺旋状に捻れながら浮かんでいる。お香の匂いは決して心地よくなかった。それは女性の性器から漂う、特有の匂いに似ていた。いつか何回か嗅いだ事のある匂いだった。いつもこんな匂いがするわけではなかった。強烈で顔を背けたくなるような、特別な周期に発する匂いだった。それを毎晩嗅がなくてはならない意味がわからなかった。亜子には言わなかった。彼女は夜遅くまで家にはいなかった。アトリエで絵を描いているのかもしれない。瓦解した建物から、絵の一部を回収しているのかもしれない。次の展覧会の準備もしていることだろう。彼女が帰ってくる深夜までには、お香は消える。そして消えれば匂いは残らない。亜子は一度も匂いのことについては訊いてこなかった。今度はいつまでこの共同生活はもつのだろうか。ファラオはそのことを考えた。


 翌週、聖堂の裏にあるクリニックを再び訪れたのだが、ずいぶんと入り口が奥まってしまったかのような気がした。廊下があまりに長く続いているようだった。腐臭が立ちこめてきた。ファラオは何かを踏んだような気がした。直観で人体だと思った。慌てて足を逸らしたのだが、すでに逆の足のほうは、別の人体を踏みつけていた。暗くてよく見えなかった。しかし警報は遠くの方から鳴り響いている。地面を踏みしめる無数の足音が行き交っているのがわかる。ファラオの意識はすでに戦場へと戻っていた。負傷した兵士が担ぎこまれる病院にいるような気がした。ここがそうだったのか、とファラオは呟いた。何も気づかなかった。この前は何も気がつかなかった。そうだったのか。ファラオはその血なまぐさい匂いに耐えきれず、元来た道を引き返そうとする。しかし戻れば戻るほど、腐乱した死体の数が多くなっていく。足の踏み場もなかった。ファラオはまた前に進もうとした。すると今度は、死体だと確定した人体なのだろうか。きれいに等間隔の二列で、八の字に並べられていた。廊下は傾斜していて、ファラオはその上り坂を進んでいく。踏みつけないようにと注意しながら。すでにミイラにされているかのように、それらの死体からは匂いがしなかった。封じ込められていた。ファラオはやっとのことで入り口へと辿りつく。扉を開けると、一週間前と、何一つ変わりのない小奇麗な待合室が現れる。待っている患者の姿はない。ファラオはすぐに診察室へと呼ばれる。

「そうですか、ハラダさん」

「あいかわらずです」

「お香の効果はありました?」

「効果といいますと?」

「気持ちは、落ちつかれていますか?」

「ええ。いつでも落ち着いてはいます。ただ視界の異常のほうは、相変わらずですね」

「といいますと?」

 そういえば初めての問診だなとファラオは思った。この前は会話さえロクにしなかった。

「今もそうですよ。廊下で変な光景を見てしまいましたから」

「そうですか。そういうことですか。あなたには見えてしまいましたか。何も隠し事はできないな。ここは戦時中には、野戦病院だったということが、あなたにはわかってしまいましたね。ええ。祖父の代から続いているんです。なので、あなたのような患者は大歓迎です。過去を引きずったままの。過去といっても、あなたが体験したことでは・・・、まあ、いずれにしても」

「街が廃墟に見えてしまっています」

「わかりますよ」

「チャンネルを切り替えるように、瞼とコメカミを押さえなくては、外に出て行くことさえできません」

「お香を焚いたときはどうでしたか?」

「赤いランプが。数字ですね。モニターに映るような。そんな数字がいくつも浮かんでは見えました」

「けっこうです。順調に、神経にはアクセスできています。もう少しの辛抱です」

「どのくらいですか?」

「期間は申し上げられません」

「今、女性と暮らしているんです」

「ええ」

「まだ、このまま、動かないほうがいいんですよね」

「そうです」

「彼女に事情は話した方がいいんですか?」

「しようとしているんですか?」

「いいえ。説明のしようがないことだと」

「おっしゃることはよくわかります。しかし、誰にも打ち明けないというのは、ひどく辛いことだ。でも、あなたと一緒に居ようとしているくらいの人です。もうわかってるんじゃないですか。わかっているとは思いますよ。あなたはあなたの治療に専念するべきです。彼女は彼女で、あなたの看病をしているわけじゃないんでしょう?」

「ええ。絵を描いたり、何か別のことの準備をしているようです」

「それなら、お互いの時間を大切にしたらいい。特に込み入った話はしなくていい。それよりも二人でいる時間があったら、それを大切にしてください。特に会話はいらないですす」

「今週も、お香ですか?」

「ええ。以前は、錠剤を処方することが多かったんだけど、最近は、こんなご時世ですから。錠剤は、今、あらゆる合成麻薬の温床になってますから」

「僕、よくわからないんですよ。どうして入り乱れているんですかね。過去は過去で、もうきれいに清算したはずでしょう。建物は透明感のある無機質で、機能的なものが立ち並んでいます。なのにどうして、僕には死体が見えてしまうのでしょう。匂いが強烈です。気づけばそれを踏んでいるんです。爆撃機の音だって、今だに聞こえてきます。今はほら、都市は無音の状態の所が多いでしょう?一時期、街の中でも、店の中でも、騒々しい音楽をかけているところが主流でしたけど、今はどこもが無音。でも僕には悲鳴の方が聞こえてくる。空には鳥ではない航空機の群れが、飛んでいる。偵察しているんです」

「あなただけじゃないですよ」と老医師は言った。「わたしもそうです」

「あなたも?」

「同じ症状です。実は、自分が自分を治療するために、始めたことなんです。いろいろと試してみました。実験台になっているんです。ですから、あなたには、その最も効果のあるものを提供することができるんです。あなたのような患者に、もっとも役に立つ医者なんですよ。僕って奴は。そして、もう一つ、僕の大事な仕事の一つは、化学物質を合成してつくったような錠剤が、世の中には蔓延していますよね。その、世の中にですね、わたしが製造した錠剤を大量にばら撒き、紛れさせるんです。もうじょじょに始めているところなんですけどね。もうこれ以上、神経をずたずたに壊し、心を奪い取り、五感を壊滅状態にして、想像力を奪う。信仰心をなくすといった、悪影響は見てられないです。だから、そうじゃない物質を、私は少しずつでも撒いていきたい。たとえ根を生やさなくても、無視されても。おそらく私の努力など無力なんでしょうけど。それでもやらないままに、死んでいきたくはないです。そこを見てごらんなさい。その機械です。自動筆記装置というんです。そこにある針が錠剤の表面に文字を彫っていくんです。実は化学物質は何も使っていません。それどころか、成分は何も注入されていません。その原料だけがちょっと特別な糖を使用しているというだけです。これを流布している錠剤の中に紛れこませるんです。逆の発想ですよ。私もあなたと同じなんです。この眼に映る世界が信じられなくなっている。何が本当なのか。複合的に見えるんです。自分が加担するに足る世界で、そもそも成り立っているのだろうか。無神経に、ただ盲目的に参加して加担してしまえば、街はすぐに灰色に覆われて、再び過ちを引き起こしてしまうのではないだろうか。爆撃が再び始まり、そこらじゅうに屍が転がることになるのではないか。僕にできるのは、その麻薬に塗れた社会の中に、この想いの込めた擬似錠剤を流布することだけなんです。あまりにささやかすぎて、自己満足にしか成り得ません。そして、あなたのような人の、話し相手になることくらいしか今はできない。治療の手助けをしてあげることくらいしかできない。私は無力です。何の影響力も持ち得ない老人です。しかし、あなたは違う。あなたは見たところ、何か特別な能力を持っている。今はまだ、その能力は確立していない。だから、体の方がついていかない。いろいろな病状となって、あなたにのしかかっているんです。しかし、その視界については、病気でも何でもない。もっとあなたは正直になるべきです。誤魔化さないほうがいい。その最大の理由は、僕も同じ症状が出ているってことです。君はおかしくも何ともない。信じるのです。もっと本質を深く捕まえるべきなのです」



 黄金の宮殿

  

        水の都


   Live House ZETTO


  9880327

 

    絵画展 М・Мの世界



 ファラオは部屋の中でテレビをつけることもなく、音楽を聞くこともなく、本を読むことも、誰かと話をすることもなく、ただお香の調べと共に、心を無意識の海にぷかぷかと浮かべていた。蒼ずんだ波のない湖に、その心という物体を置いていた。それは沈むことなく、月に照らされていた。想像の世界の中では、月は赤い色をしていた。そして、三角形になっていた。対照的な色をした湖から空に向かって、道を描いてみると、そこにはまた腐乱した死体がいくつも転がっているのが見えた。そして、その死体を踏み越えることなしには、月に到達することはできなかった。銃で撃たれたのか。爆発物に巻き込まれたのか。刃物で自害したのか。突然のショック死だったのかはわからない。死体は処理されず、月への道にずっと残されたままだった。

 そのときファラオは、物音に気づいた。扉のところには、亜子が立っていた。ファラオは現実へと引き戻された。亜子は蒼い顔をしていた。すぐに赤色に変化した。いや、それも勘違いだった。うっすらと緑色をしているように見えた。亜子は何も言葉を発しなかった。まるで眠ったまま、お香の匂いに導かれて来たかのようだった。

「ノックくらいしてくれよな」とファラオは言った。「いくら寝室とはいえ」

「ごめんなさい。でも、ずっと描けなかったの。あなたの近くにいるのに。全然、描けなかったの。あなたのことを考えれば考えるほどに、違う映像が映りこんでくるの。わかってるわよね?そうよ。あなたのせいなの!あなたが、あんな仕事を引き受けたばっかりに。そして、その失敗に終わった仕事を、まだ引きずっている。もう一度、やろうとしているのよ。何故なの。もう懲りたでしょう。後遺症を負ってしまったでしょう?そんな仕事に拘る必要なんてどこにもないじゃない。仕事なんて、どこかで探してくればいいでしょう。あるものの中から、選べばいいじゃないの。そうじゃなくても、人が不便だなぁ。代行してほしいなぁと思うようなことを、ビジネスとして起こしてやればいいじゃないの!それなのに、あなたは逆行してる。まるで検討違いなことをしている。あの男たちに吹き込まれたことを、鵜呑みにしてる。

 そしてあなたは、私の仕事を見つけ出してくれた。でも、私はあなたに言うべき言葉が見つからない。具体的にどうしろとは言えない。何も思い浮かばない。あなたは私の中に埋もれてしまった要素を、見事に引き出してくれた。けれど、私には、自分はおろか、あなたの中の何かを引き出すこともできない。でも、そんな私だって、はやくも行き詰ってしまった。あなたのせいなの。全部、あなたのせいなのよ。あなたが現代社会の中で、まっとうな仕事についてくれて、私も、その近くについて行ければ・・・、それが理想なの。それなのに、現実はまったく違った。あなたはよくわからないことにのめり込み始めた。私は描けもしない絵と格闘しなければならなくなった。もうあと、二週間で締め切りなの。この前の美術展の仕切りなおしの展覧会。これが駄目だったら、もう私のキャリアは終わりなの。勝負所なのよ。ここが!それなのに、私の筆はちっとも進んでくれない。あの、あなたが作りかけた透明の捻れた建築物が、私の中にも入り込んでしまっている。何次元あるのかわからない。それを、二次元の絵に描き起こせですって?冗談じゃない。どうしてわたしがそんなことをしなくちゃいけないの。頭が痛くなってくる。体がもたない。許容量を超えている。あなたは、私をどうしようとしているの。私にも同じような苦しみを体験させたいの?そうなったら、二人とも、破滅よ」

 亜子の手には、透明のコップのような容器が握られていた。

「ほらっ。飲みなさい。一気に飲み込みなさいよ!わかっているでしょ?私の血よ。この性器から、ほとばしり出た、血よ」

 今は黒く濁ってしまった血を、亜子はファラオに差し出していた。

「どうして飲めないのよ。私は飲んだわよ。あなたには飲めないっていうの?あんなに捻れた建物を私の中に注入したのよ。だから私の中から出たものだって、あなたの中に入れ込む権利はある。はやく飲みなさい」

 亜子の興奮は、まったく収まる気配がなかった。

 ファラオは亜子から奪い取るように受け取り、躊躇することなく一気に飲み干した。ものすごい匂いがして顔を背けたくなった。

「こんなことが続けば、俺はまた出ていくからな。やっていけない」

「逃げるの?」

「そうだよ。逃げるしかない」

「卑怯もの!私、あなたと暮らして以来、文字が読めなくなってしまったのよ。文字の羅列を見ると、理解ができなくて頭が痛くなってしまう。文字の違いを識別できなくて。混ざりあうように見えてしまう。文章を読みすすめることが、できなくなってしまった。あなたが来てからよ。あなたがいなくなっても、きっと治らない。逃げるなんて無責任よ。どうしてくれるのよ」

「なんだって、代償はつきものさ」ファラオは静かな声で話始めた。「そんなこともわからないのか。物事は何だって、二面性がある。裏を見れば、真実に近い情報は隠れている。字が読めなくなったって?なら、別の能力が生まれ出た、その代償くらいに考えたらいいじゃないか。絵が描けないだって?それなら、別の手段が生まれていることに、君が気付いてないだけかもしれないだろう。何でも俺に訊くんじゃない。何でも引き出してもらえると思うんじゃない。君自身が見つけろ。開発するんだ。君こそが、あの一枚目の素晴らしい絵の責任を取るんだ。逃げるな」

 そう言われた亜子は部屋を飛び出し、絵の預けてある銀行の金庫へと、まっすぐに向かった。

 あとに残されたファラオは、また暗闇の中で、赤い三角の月と蒼い湖に浮かんだ、「物体」のことを思った。亜子がいなくなれば、また、静かで深い大きな世界にすぐに戻ることができた。これも医師が処方してくれたお香のおかげだった。彼とは心が通じ合っていた。けれども、亜子の体のほうは、ずいぶんと遠くに行ってしまっているようだった。心はすっかりと離れてしまっていたのに、ファラオの細胞は赤い三角の月ではなく、亜子の肌のほうを強烈に求めていた。



 Redは床にうつ伏せになって、横たわっている自分に気付いた。

 どうしてホテルの部屋の玄関口で倒れているのだろう。朦朧とする頭で考えた。

 女の一人と、ずっと行動を共にしていた。そのことにすぐに思い当たった。靴の傍には花瓶が割れて飛び散っていた。だが、頭に触れてみても血は出ていない。コブにもなっていなかった。

 Redは自分が酔って寝てしまったのではないかと、勘違いしてしまいそうになる。

 この頭蓋骨の痛みも、残ったアルコールのせいなのではないのか。そうだ。いや、でも違う。この部屋を訪れた男がいたのだ。その男が現れた瞬間、俺は裏から叩かれたのだ。そして意識はなくなった。状況は鮮明に浮かんできていた。あの一日は、ものすごいスピードで過ぎていった。女と別れ、乗った車は丘へと疾走していった。草原で二人の女が乗り込んできて・・・、追突、そして、逃亡。女の一人と共に街の中を徘徊。すっかりと変わり果てた世の中の散策に付き合わされ・・・。Redは一人取り残された。なんだか乗ってきた飛行物体から、近未来都市に放り落とされたかのようだった。

 Redは職を探しに街に出ることにした。所持品は何もなかった。ホテルの部屋には何も残されてはいなかった。Redという名は、かつて勤務していた情報局の中での名前であった。それ以前の名前は消去されていた。記憶も排除されていた。仕事内容も、終えればすぐに削除することが義務付けられていた。身分証明書は何もなかった。ワーキックというのが、職業安定所のことだった。駅の売店の中年の男に教えてもらった。Redはそこに行って名前を登録することにした。Redと書いたら、外国の方ですかと言われたので、そうかもしれないと答えた。そうかも?ええそうです。パスポートは持っていなんですか?そのパスポートって何ですか。国境を渡るときに必要なものです。国境?そんなものはもうとっくになくなってしまったでしょう。あのねえ、つまらない冗談はよしましょうよ。なくなった?いつ?どうしてです?国なんて概念は、とっくになくなったじゃないですか。さあ、はやく、残りの書類をつくってしまって。そうですね。明日にはご紹介できるんじゃないかと思います。今は代行業ばかりですからね。あらゆる仕事は、代行業で成り立っていますからね。プロと呼ばれる職業はたいていそうですし。新しいビジネスは特にそれですね。人間の横着度合いには、限りがありませんからね。ですから、部分部分に切り分けていって、自分の得意な分野を、他人の分までやってしまう。それが基本ですよ。あなたは何が得意なんでしょうか?どんな代行をすれば、世の中は効率的になっていくんでしょうか?Redは即答できなかった。今までは何を?情報局です。それは何をなさる所でしたか。操作するんです。自作自演でつくりだすんです。例えば必要もないことなのに、わざとトラブルを発生させて・・・、それを解決するプログラムを提供するといったような。なるほど。本質は変わりませんね。わかりました。おそらくどんな事でもやってきたのでしょう。わかりました。検索にかけてみます。符合した仕事をあなたに紹介します。明日また来てください。

 Redはわけもわからずホテルの一室へと帰っていった。

 女はまだホテルに宿泊していることになっているのだろうか。Redは追い出されなかった。今日はここで寝てもいいみたいだった。代行業が盛んですから。人々の横着度合いには限りがありませんから。そして翌日、再び行ってみたときに紹介された職業の一つにRedは驚いた。なんとセックスの代行業まであったのだ。赤ちゃんを預かる。子供を育てる。教育する。訓練させる。様々なプログラムはすでに確立していたが、子供をつくる行為そのものも、代行するのだ。人工授精ではないんですよね?そうです。男が女を抱くのをめんどくさがった結果ですよ。女性は寝ているだけでいいですからね。五分以内にすべては終わります。そんな楽な仕事があるんですか?楽ですって?ご冗談を。毎日やってごらんなさいよ。精子の製造が追いつかない中で、毎回、出さないといけないんですよ。痛くなりますよ、おそらく。それでも振り絞らないと。限界を超えてしまうので、自分で何か補強をしていかないと、駄目でしょうね。アスリートみたいだな。そして、労働頻度はどんどんと増していく。何せ、需要に供給が、追いついてないのですからね。一人の男性にのし掛かる負担は、相当なものです。そして、パソコンの画面を、ちらりと横から見てしまった。黒く塗りつぶされているような項目のところに、当然のように、殺人という名前もあった。さらには死刑というのもあった。死刑の代行業って、一体どういうことなのだ?死刑の確定した死刑囚を、目前で誰か、別の人間と摩り替えることなど、できるのだろうか?それとも、もっと前の段階で、入れ替えてしまうのだろうか?報酬はどこへ行ってしまうのか。誰に支払われるのだろうか。

 Redは、誰にも相談することができなかった。少し考えさせてくれとその場を去った。早いところ返事をもらわないと、困ります。待機している人が大勢いるのですから。あなたは何を代行するのか。代行できるのか。それをちゃんと考えておくべきです。もし何も考えつかず、何の特徴も能力も兼ね備えていないとすると、おわかりですよね。行き着くところは、そうです。あの一番ひどい仕事です。それは誰から言われなくとも、死刑囚に決まっていた。黒く塗りつぶされようとしている最後の欄に、それはあった。そしてそのことは、今、死刑になるほどの犯罪を犯した人間の数が、莫大に膨れ上がっていることを意味しているのだろう。その犯罪も、また、おそらく代行業者が請け負っている。

 Redは、この代行という仕事が、おそろしく細分化された順列で目の前に広がっていることを知って怯え始めた。恐怖を覚えた。不安にかきたてられた。あなたは、誰の、どんな代行を請け負うことが可能なのですか。実は性行為の代行が最も苛酷なのですよと、職安の担当者は言った。これは罠なんです。生殖行為に伴った、体力、気力の低下現象は、現代人にとってはきわめて著しいんです。これが刑務所の中での労働よりも厳しいということは、言っておかなければなりません。そして、男性の行為の低下にかぎらず、女性の不感の度合いも、すさまじく上がっています。あなたが想像する、倍以上の、手間ひまがかかります。女性の体が完全に開くまでも、あなたはもつかどうかわかりません。苛酷な世界です。普通のごく一般的な家庭、カップルでも、代行業に頼もうと思うのは当然なのかもしれません。単にめんどうくさい、疲れるといった問題を、はるかに凌駕しているのですから。

 Redは、近くの公園に行って何時間もただ歩き続けた。風は秋めいていた。湿度は低く、風は気持ちよかった。Redは一緒に行動していた女との一夜を思い出していた。性行為は普通に行えた。女の感度もよかった。職安の男が言っていたことは本当なのだろうか。疑い始めた。俺は大丈夫だぞ。まだまだいけた。たとえ本当だったとしても、自分だけは例外だと、Redはそう思うことにした。



 亜子はファラオとはまた別で、聖堂の裏手にあるクリニックを訪れていた。亜子の手には液体の入った瓶が握られていた。待合室には誰もいなかった。受付にいた中年の恰幅のよい女性は、すぐに診察室に入るよう亜子を促した。医者と対面するやいなや、亜子は瓶を差し出した。そして、何科なのかもわからない医者に向かい、これを分析にかけてほしいと頼み込んだ。医者は無言で凝視していた。亜子は医者を試していたのだ。いったいどんな言葉を返してくるのか。その言いようによっては、病院を変えるつもりだった。しかし医者は「これはあなたの中から出た血だ」と即答した。そしてこれは、ブルーブラッドという、かつての王族の血なのだと断言した。血統の純化に努めた王族の血なのだと。

「どういうことですか」

「あなたはその末裔なのかもしれないね。今日のフランス人は、原住民のガリア人にローマ人の血が加わった上に、ゲルマンとノルマンの血が混じりあったものです。しかし唯一例外があった。王族です。王族は血が汚れるといった理由で、征服地の女とは交わらず、王族同士で交わった。王朝を途絶えさせないために、ヨーロッパ各地に散らばったゲルマン部族の長同士で嫁や婿のやり取りをして、血統の純化に努めた。その名門の血統ってやつですよ。ブルーブラッドとは」

「名前だけでしょう。それは。実際に血が青かったわけではない」

「そうですね。あなたは違った」

「青に近い緑です」

「だからといって、関係がないとは言えないでしょう」

 まさかいきなり歴史の話になるとは思ってもみなかった。

「そして当然のことながら、血族結婚が繰り返されると、不妊症のようなものが男女共に出てきます。不妊症の他にも、いろいろと遺伝病が出てくる。スペインのハプスブルク家が断絶したのは、この王家に多かった血族結婚のせいだと言われています」

 何を言われているのかまったくわからなくなってきた。しかし発端は自分の方にあった。それに思い当たることもあった。たしかに不妊ではあった。どれだけ膣内で射精されても、妊娠することはなかった。

「けれど、私は別に血統だとか、そのようなことを考えたことはありません」

「どう考えているんですか?」

「どうって。まあ妊娠はしたいですよ。だから妊娠させてくれるのなら、誰でもいいって、そう思っていた時期はありました」

「今は?」

「わかりません」

「それは、おそらく反動でしょう。過去の反動です。ずっと守り抜いてきた偏狭的な記憶に対抗しようとしているんです。思い出したくはない。消してしまいたいんです。脅迫観念です。何としても打ち消したいんです。違う現実で、今までの現実のすべてを、葬り去りたいんです。でも、決してあなた自身が、その事実に気付くことはない。だから、症状はますます先鋭化していってしまう」

 どうして、自分が生み出した血をとっておこうと思ったのか。何の躊躇もなく、ビーカーをあてがっていた。そして、今日まで捨てずにいた。ファラオには飲めと、強要したのだが、もうひと瓶、捨てずにもっていた。まだ次の生理までには時間がある。

「もう一度、今度は、新鮮なあなたの血を、もってきてください。いつ頃ですか?」

「来週です」

「一週間後ですね。わかりました」

「血は、そういう血でないといけないのですか?採血とか、そういうのでは駄目なんですか」

「どうでしょう。両方やってみましょうか」

 亜子は別室で血を採った。しかし血は赤く、そして黒かった。

「やっぱり、駄目か」

 亜子は一週間後にまた来ることを約束し、待合室へと戻った。薬は何も出なかった。ただの問診だけだったので、料金もたいして発生はしなかった。次回の検査のときに、まとめて払うことになった。

 その後、彼女は絵を管理してもらっている銀行へと向かった。金庫を借りて、そこにしまっておいたのだった。銀行員は奥の部屋へと案内していった。警備兵四人が鉄格子の前で並んでいた。軍服のように見えた。共同金庫なのだという。年間千ドルほどで使用していた。

「絵を引き取りにきました」

「ええ、しかし、突然は困ります」頭の禿げた男性銀行員は言った。「途中で開閉することは、原則的として禁止になっておりますので。見て確認することも禁止です。どうかお引取りください」

 金庫の前まで案内しておいて、亜子は拒絶されてしまった。

「まだ、あとニヶ月近くは期間があります。10月16日。午前零時きっかりに引き渡します。ですから、それまではお待ちを。そういう契約でした」

「だけど、確認するくらいはいいでしょう?一目見るくらいはいいでしょう?」

 四人の武装警官のような男たちに向かって、亜子は言った。四人いれば誰か一人くらいは賛同するかもしれないと思ったのだ。

「ちょっとくらいはいいじゃないですか」

 一人の警備兵が答えた。

 そして、肩からかけたライフルを銀行の頭取めがけて構えた。頭取は吃驚して、すぐに開けるからと言い直した。四人の男たちに、後ろを見張られながら、コンピュータールームへと移動させられた。

 亜子は、一人で鉄格子の前で立っていると、数十秒後に鍵が外れる音がした。巨大金庫の前まで来た。モニターに指を翳すと、あっさりと金庫は開いてしまった。

 だがそこに絵はなかった。

 金色に輝いた楽器の数々、フルートやトランペット、トロンボーンのような楽器、太鼓、金管楽器等が並んでいるだけだった。首飾りや鏡や宝石などもあった。どこにも絵はなかった。四人の警備兵が戻ってきた。頭取の姿はなかった。絵がなくなっていることを警備兵に伝えた。すると、リーダー格の男が答えた。

「あの男。あなたの絵を極秘に持ち出していたそうですよ。勝手に他の美術館なんかに。貸し出していたそうです。かなりの高額で。どうせ、寝かせておいても仕方がない。動かしていたほうがいい。眠らせておいても金にはならない。銀行の収入にしかならないと。頭取は、自らの財布の中のために、あなたの絵から無断で利益を発生させていたようです。個人コレクターやあまり目立たない美術館を厳選して、貸し出していたようです」

「それで、今は、どこにあるのですか」

「それが」

「何です?」

「行方は、わからなくなってしまったそうです」


 ・・・・・。



 Redは、身分証明証の提示を求められた。しかし、そんなものを持ってはいない。職業履歴の提出を要請されたので、情報局のことを書いたが、誰もその存在を知ることはなかった。Redに知り合いは誰もいない。友達もいない。職安の人間にはこれ以上、何を話せばいいのだろう。昨日までの自分は抹消され、「新しい自分」は何も見い出されていない。

 これが、日食を境に彼に起こったことだった。彼は景色の違う別の世界に放りこまれてしまっていた。近未来都市なのか。それとも時間は退行していて、世界大戦後のどこかの世界の片隅なのか。Redは、この状況の中では仕方なく、何かの代行業を選びとって、とりあえずは生活していかなければならない。職安の担当者にもそう伝えた。しかし、返ってきた答えは耳を疑うものであった。どの代行業も今は応募が殺到していましてね。順番待ちなんですよ。経験のある方から、とりあえずは面接に行ってもらいます。しかし、それでも、採用されるというのは至難の業です。あなたも何か、免許か経験をお持ちになっていればいいんですけど。何でしたっけ?その前の職業は?本当にそんな仕事ありました?この場に及んで嘘は駄目ですよ。

 この男に通用する話の持ち合わせは何もなかった。時代が変われば法律もまた変わる。モラルも変わる。しかしもはや、それどころの話ではなかった。

「今すぐに、仕事がしたいんですよね」

「ですから、さっきからそう言っているじゃないですか!」

「緊急性があるんですよね。切羽つまっているんですよね?」

「そうです」そのくらいのことは言っておかなくてはならない。Redは語尾をさらに強く迫っていった。その『気』に押されてか。担当者の顔つきは、しだいに真剣味を帯びていった。

「そうですか。それじゃあ、もう、これしかないのかもしれないな。覚悟はできていますよね。これなら空きがあります」

 そう言って、差し出されたのは、あの死刑囚の代行の仕事だった。



 頭取は、特に言い訳はしなかったが、それでも、10月3日までは、あなたに契約を破棄する権利はないと何度も言い張った。それまでは、我々のものなのだと。

「あなたのものですって?寝ぼけてるんじゃないわよ。わたしのものよ」

「銀行というものを、あなたはわかっていらっしゃらない。じゃあ、あなたは預けたお金が、ずっとそのまま銀行の金庫に眠っていると思っているんですか?」

「そんなわけないでしょ」

「それと同じです。運用してナンボの世界なんです。ですから、絵だろうと装飾品であろうと、我々はただ預かっているだけ。寝かせているだけ、というような行動は決してとらないわけです」

 亜子は呆れて何も言えなかった。怒る気にもなれなかった。

「行方がわからないって、一体どういうことなんですか?貸し出した相手はわかっているでしょ!」

「あなたにお教えすることはできません。相手との契約がありますので。守秘義務がありますので」

「屁理屈をこねやがって!」

「お言葉ですが、すべては契約で成り立っています」

「そんな契約書なんて、あるわけがないだろ。あんたは違法を犯しているんだよ!正式な契約なんてしてるわけがない。もし10月に返却できなかったら、相当な賠償金を、請求することになるからな」

「それは、承知してます。でも、その頃には、問題なく戻ってきていると思いますよ」

「いったい、どういうことなんだ」

「いちいちあなたに説明なんてしません。とにかく、今は、ちょっとだけ外出しているというだけです。問題は何もありません」

「私には、行方不明だと言っているだけで、本当はわかってるんですよね。把握できているんですよね。正直に言ってください。それだけでも知りたいんです。あれは私の大事な作品の一つなんです。なくなってしまえば、生きてはいけないくらいに」

「お言葉ですが」と頭取は冷たい口調で遮った。「いつまでそれに、こだわってらっしゃんですか。それで一体どうするんですか。外に出してしまえばいいでしょう。それだけの価値のある絵なら、お隠しになってらっしゃっても、仕方がない。どうしていろんな場所に持っていって、たくさんの人に見てもらおうとはなさらないんですか。あなたはあなたで、また違う絵を描いて発表していったらいいでしょう?そう思いますよ」

「あなたに何がわかるんだ」

 亜子の唇は震え始めていた。

「私の意見を言わせてもらったまでです。本当に、10月にはあなたの手元に戻りますから、ご安心ください。待てませんか?たったの二ヶ月ですよ?」

「あの一枚で終わりたくないんです。だから、それよりも納得のいくものができたときに、あの絵も大きく公開していくんです。それまでは自信がない。私が崩壊してしまうから。あの絵に私自身が打ち負かされてしまうから。それだけは避けたい。完全に描くという行為を自分のものにしてからでないと、その自信がもてない。あれはたまたま出来てしまったものなんです。だからあれだけが一人歩きをしてしまったら、私は、きっと簡単に駄目になる」

「思い込みですよ。あなたは、きっと大丈夫です」

 なぜか頭取に励まされていた。

「あなたはね、何か、自分でつくりだしたことがないから、わからないんですよ。銀行だって、元々あるものでしょ?あなたが入ったときには、組織だってしっかりと出来ていた。システムの根幹だって、すでに整備されていた。あなたはそこに乗っかっているだけだ。初めから。だから何もない抽象的な場所に、何か具体的なものを建てるという行為を、あなたは理解することができない。どうせ、あなた自身が、駄目になってしまったとしても、組織はそのままの形で残る。あなたのいなくなった空白には、すぐに誰か別の人員が補充される。すぐに修復は可能だ。それに、あなたが少しくらい精神や体を壊そうが、守ってくれるものがあります。何とかやっていくことくらい、可能です。それもこれも、あなたはゼロというものを知らないからです。最初からイチが存在していた。それどころじゃない。千、一万、いや、それ以上が存在していた。人の預けたものを軽率に外に持ち出すことのできる、その、あなたの感性。それが、すべてを表していますよ」

 亜子は思い切り、頭取の足を蹴っ飛ばし、銀行を出ていった。

 何もない抽象的な場所に、何か具体的なものを建てる;;か。

 それは、同居しているあの男のことを言っているようだった。



 一週間後、亜子は言われたとおりに、新鮮な血を瓶につめ、医者のもとへと持っていった。検査結果は、数日中に出るということだった。医者はずっと液晶画面を見ていた。NHKの特集を見ていた。元プロ野球選手だった男が、現役の選手としての最盛期に、脳腫瘍となり、手術、リハビリを経て、カムバック、そして、引退、解説者、そして再発。さらなる最再発・・・。と繰り返していった一連の話を、追ったものだった。亜子もその映像をずっと見入ってしまっていた。医者も亜子も無言だった。それは十数分の映像であった。

「見てしまいますよね。たぶん、この仕事についた最大の理由は、コレなんですよ。リハビリです。一歩一歩、進んだのか進んでいないのかまるでわからない、この地道な行為に、全力で取り組む姿に心を打たれてしまうんです。何としても手を差し伸べたい。力になりたいって思うんです。しかし人というのは、自分と似たような症状や性質、状況を持っていながら、さらに、重症化した人間が前に進もうと必死でもがいている姿に、感動するというか、最も心を揺さぶられる生き物なのでしょうね」

 亜子はすぐに答えることができなかった。

「同じ分野でもあっても、違う分野であっても」

 医者は構わず続けた。「自分よりも明らかに重いものを背負ったしまった人が苦しみ、それでも、前に進もうと・・・」



 亜子はずっとファラオのことを考えていた。

「あなたの血は確かにお預かりしました。お手数ですがまた来てください。そのときには、僕の他に、もう一人来ますから。医者ではない人間です。僕の知り合いです。怪しいものではありません」

 亜子はずっと放心状態だった。

 医者の声はちゃんと聞こえていたのだが、反応することができなかった。

「来週には、いろいろなことが繫がってきますから。僕が繋げてみせますから。物事は確実によい方向にむかいますから。あなたの血だって解明する。その、もう一人の人間の症状も、劇的に改善する。僕はそれを応援していきたい。見届けていきたい」

 結局、その日の亜子は、一言も発することなくクリニックを後にした。



 Redは耳を疑った。そんな仕事など、存在するわけがなかった。内実を細かく訊く気にもなれなかった。しかし、仕事は他には何もなかった。現に存在してなかったのだ。情報局のキャリアは、何も通用しない。

 Redは、日食の後、行動を共にしていた女を捜すことにした。とりあえず、話はそこからだった。そこから捻れてしまっていたのだ。進路が変わってしまったのだ。あの車にもう一度乗らなければならないと思った。SFみたいな話だったが、結局、あの車が時空を超えて疾走してしまったのではないかと、そう思い直したのだ。

 Redはそんな馬鹿げた話を考えてしまうほどに追い込まれていた。

 いったい誰が連結を急激に変えてしまったのか。日食のせいにはできなかった。

 人間が変えたのだ。何かの意図を持って。その繋ぎ目に、あの女はいた。名前も聞いてなかった。風貌はかすかに覚えている。一度すれちがうか、顔を見れば確実に判別することはできる。Redは足を使うしかなかった。歩いて歩いて歩きまくるしかなかった。コンピュータで、仕事と人間を突合せるという行為を、受身で待ち続けているくらいなら、自分の足を信じたほうがはるかによかった。

 しかし、その間も、あの死刑囚の代行業のことが気になり続けた。

 あれは一体なんなのだろう。実体はあるのか。本当にそんなことが行われているのか。誰に訊けばよかったのか。知り合いは、誰もいなくなっていた。訊く人を間違えれば、大変なことになってしまう。覗いてみたかった。人間はついにはそこまで行ってしまったのか。堕ちてしまったのか。そんなことが特に何の隠し立てもなく、堂々と募集をするようになってしまったのか。

 この文明が、本当に自分がかつて暮らしていた文明なのかどうか。

 Redは疑い始めていた。悪夢の中にいるのではないかと思った。情報局でのキャリアは、確実に消去されていた。というよりは彼の頭の中に、データや体験が残るわけではなく、情報局の心臓部、建物の中にこそ、ファイリングされていたのであり、個人が外の世界に持ち出すことは不可能だった。なので、仕事を終え、帰宅するときには、頭は鈍重な空白さを抱え持つことになる。クリアな空白さとは違った「気持ちの悪さ」は、ときに吐き気をもよおし、ときに激しい痛みとなって、Redを襲うのだった。



 ファラオは翌週のクリニックの訪問を前に、巡回警察に取り押さえられてしまった。

 容疑者として連行されてしまったのだ。亜子のいない間の出来事だった。

 何人もの男に車に詰め込まれ、毛布をくるまれ、しばらくのあいだは息も出来ない状態だった。

 つまらないものを振りまいて、いい気になるんじゃない!つまらないものを乱発したって、いいことは何もない!痕跡はできるだけ消せ。

 同乗者は「森の中の秘儀」がどうだとかいう話を始めていた。

 ファラオは聞き耳を立てていた。「首は切ってしまうんだよな?」

「秘密結社らしい」

「その長が、自ら生贄になるみたいだ」

「それは違う。身代わりを使うって、話だぞ。本人は雲隠れをする。もう二度と人の前には出ないことになる」

「どこから連れてくるんだ?」

「さあね」

「誰でもいいわけじゃないだろ?」

「そうだな。代表なわけだからな」

「誰が見ても、納得のできる風貌が必要だ」

「しかし、それは、難しいだろう」

「やはり、本人でないと」

「雰囲気に、すべてが出てしまうから」

「本物の結社ならな」

「それすらわからないんだ?」

 ファラオはその身代わりが自分なのではないかと思った。

「おいっ」

 ファラオが包まれた毛布が叩かれていた。

「お前だよ!」

「おいおい。声だって出るような状況じゃないだろ」

「それもそうだな」

「なあ、こいつ、なんで捕まったんだ?」

「噂では建築基準法に違反したんだとよ。あとは、それに伴う殺人未遂だったかな?傷害致死だったかな」

「建築家なのか」

 どうやらファラオは、その「森の中の秘儀」における斬首される「身代わりの人間」ではなさそうだった。

「でもどうして森に連れていく?」

「まさか、こいつが身代わりになるんじゃないだろうな」

「いや、身代わりは別の所から連れてくるらしい」

「まさか、この男が代表?」

「そういうことだ」

「そうか」

「見世物を催すらしいぜ。要するに、その秘密結社の代表が、死人を多数出した<建築物>をつくった。そして警察に逮捕され、公開処刑が行われる。森の中で。高額なチケットがすでに発券されている。我々もその出演者だ。もう芝居は始まっているんだぜ。今の様子がカメラで捕らえられていて、森の中のでかいスクリーンに映し出されている。けれど、音声を拾ってはいない。いったいどこですり替えが起こるんだろうな」

 ファラオはこの無力な自分が腹立たしかった。



 亜子は異変にすぐに気付いた。玄関は荒らされ、ファラオの部屋にまで、散乱は続いていた。亜子の部屋は無傷だった。亜子は反射的にクリニックへと向かった。あの医者くらいしか、頼れそうな人間を身近に見つけだすことが、できなかった。

「それは、大変だ」

 彼はすぐに亜子を乗せ、車を走らせた。行き先に心あたりでもあったのだろうか。

「そういえば、検査の結果が出ました。やはりクロです。ブルーブラッドでした。でもおかしいな。ブルーブラッドは、本来、この国の人間には、いないはずなんです。それに女性は十代のうちに妊娠させられて、子供を男女二人以上産んだら、即刻殺されてしまうはずなんです。あなたくらいの年齢まで、生き延びている人は、いないんです。あっ。すいません。すべては大昔の話でしたね。現代ではありえません。あなたには当てはまらない」

「私、ぴんと来たんです。彼が通っているクリニックと、私の通っているクリニックが、もしかしたら一緒なんじゃないかって、主治医が同じなんじゃないかって」

「ええ。私はピンと来ていました。あなた方がはじめて来たときに。彼の顔。妙に皮膚が薄くて、そして中が透けて見えました。その色が妙に緑っぽかったんです。そしてあなたが持ってきた瓶の中の血。もしやと思いました。あなた方は繫がっている。ブルーブラッドの末裔なんじゃないかと。もし、お二人がお互い惹かれあったのだとしたら、そのことと関係しているんじゃないかと。しかしお互いが一緒になってしまえば、それはれっきとした近親相姦になってしまいます。あなた方はそれを知っていて、それでそんな関係になったのだろうか。それはわかりかねました」

「それは違います」亜子は神妙な面持ちで言った。「彼に、あの血を無理やり飲ませただけです。もし彼の皮膚が透けておかしな色をしていたとしたら、それは元々そうではないんです。まさかこんなことになるなんて」

「こんなことって?」

「彼、誰かにさらわれてしまったんでしょ?だとしたら、私のせいです。私が血なんて飲ませたからです。きっとあの血に引き寄せられたんです。女では駄目なのでしょうね。男の青い血がきっと欲しいのでしょう。何かに利用されます。血を抜かれて、そう、彼はきっと殺されます。それ以上、用はないのですから」

「そんな、馬鹿な」

 しかし医者は一瞬にやりと笑った。その横顔を亜子は見てしまった。



 Redは、好奇心を押さえられなかった。職安に戻り、担当者に仕事を紹介してもらうように直訴した。何でもいいんです。そしてやはり、最後の一つを提示された。他の代行業はすでに募集を締め切ったのだと。望んだ通りだった。想像もつかない最後の一つに、Redは首をつっこむつもりだった。Redはそれでも半ば信じてはいなかった。法律でまかり通っているわけがない。きっと言葉のアヤなのだろう。インパクトを持たすだけの演出なのだろう。実体は違うのだ。Redはそう信じた。じゃあ、何故、そのような細工をするのか。かつて勤務していた情報局が、ここに一枚、絡んでいるんじゃないだろうか。Redはそう直観した。

 自分の過去につながる、早道なのではないかと感じたのだ。

「さっそく、裏に車を用意してあります。乗り込んでください。あなたは何も用意する必要はありません。さあ、はやく乗って。仕事は三十分後に入っています。さあ」

「三十分後?」

「即決です。採用です。乗ってください」

 心の準備も何もあったものじゃなかった。しかし、三十分は車に乗っていることになる。考えるべき時間はあった。「死にたい人間などたくさんいます。でも自殺もできない人間は、無差別殺人を犯したりして、周りを道連れにすることになるかもしれない。そして、死刑を強く望む。そんな悲劇とは呼べない茶番をおかす人間を、うまく回収したいんです」

 運転手はRedにしゃべり続けた。

「世の中には、出来たてほやほやの死体を要求する人間、組織は、多数存在している。その時にその場所で、死んだという確かな証拠が欲しい。欲しがっている人間や組織がいます。死んだという事実たけが欲しい。身代わりです。自殺を望みながら、実行できない人間も大勢いる。そこを突き合せるのが我々です。どちらの側にも利益になります。社会的にも。あなたは逃げることができない。後戻りすることだってできない。どうぞ、静かな時間をお過ごしください」



 医者と亜子は空き地に着いた。無造作に置かれた車の側に、自分たちの車も置いた。大きな公園があった。ライトアアップされていた。スタジアムが中央にあった。

「あそこで、今から判決がくだされます。大きな裁判は、今や、野外で執り行なわれるんですよ」

 二人は座席についた。他の男たちは叫んでいた。見世物小屋に来たかのようだった。棺が馬に乗せられてやってくる。大画面のモニターには、ずれた棺の中に横たわるファラオの顔が見えた。亜子は息を詰まらせた。中央に運ばれ、棺はピタリと合わされた。判決文が読まれ、あっというまに炎の中に投げ込まれた。あっというまの出来事だった。亜子の体は硬直してしまった。夜の公開処刑は、口止めが義務付けられていた。亜子と医師は、口外することができなかった。眼をそむけることが許されていない亜子は、ただ描くしかなかった。描けたのだ!その夜。あれほど筆は進まなかったのに。だがついに、ファラオまでを、亜子は失っていた。

 罵声の響いていたスタジアムの中は、いつのまにか、炎を囲んで踊り始めた観客で溢れかえっていた。

 漕げた死体を囲んで、祭りは始まっていた。



 棺の中でファラオは判決を受けた。ファラオは、いつのまにか、棺の中へと移動させられていた。

「これは、空間に対する冒涜罪だ。罪は重い。次元を弄んだ。だが許されなかった。それは瓦解した。そして本人も瓦解した。こういう男の遺伝子はこの世に残しておくわけにはいかない」

 棺がどこに置かれているのか。ファラオにはわからなかった。どれほどの距離を移動してきたのか。どこに晒されているのか。

 Redは死んだ。

 Redは薄れ行く意識のなか、どこかの時点で、この自分の魂を売り渡してしまったんじゃないだろうかと思った。それがどこの地点なのかはわからなかった。だが明らかに自分を見失う方向へと導いた巨大なイベントが、自分の中にはあったはずだと考えた。日常は、そのビッグイベントにすべてが影響される。その時の対応が、日常の細部にまで支配を及ぼすことになる。バックボーンとして。空を覆い尽くす雲のように。日食のせいでもなかった。そのあと、車で一緒だった女のせいでもなかった。変形した街のせいでもなければ、職安の男のせいでもなかった。局のせいなのか。局に入った後で何かがあったのだろうか。入った時に何かあったのか?それとも前に?Redにはその辺りの記憶が、ほとんど残っていなかった。事の発端はいったいいつなのだろう。Redはそこが見えずに苦しんだ。皮膚が溶けていく熱さなんて、それに比べれば、どうってことはなかった。すでに知覚は、麻痺している。けれども脳の意識は、ますます明晰になるばかりだった。売り渡した相手。それはいったい誰だったのか。



「私、前から、知ってたんですよ」

 亜子は、車の中で医師に告げた。

 すでに、スタジアムからは外に出ていた。

 薄っすらと暗闇懸かった茫漠とした草原の中を、車は走っていた。

「血が緑色だってことは、ずいぶんと小さな頃から知っていました。両親は、きっと知らないことでしょう。いつだったか。砂場で遊んでいるときに、サソリに刺されたことがあったんです。それで、皮膚の下から見たこともない色の血が、噴き出し始めたんです。友達の男の子の一人だけが、それを目撃していました。口止めしました。それ以来、わたしたちは、本当に仲良くなったんです。そのときからです。体の外には、けっして出さないようにと誓ったんです。かなりのエネルギーを使って、それを体内にとどめておく努力をするようになったんです。その男の子の反応を見たときに、私は、あっ、これは、他人には決して見せてはいけないんだって、悟りました。仰天するだろうし、気味悪がられるだろうし。でも、私は、その緑色の血が、何か病気のためになっているとは、少しも思いませんでした。不思議なことですけど。おそらく、とても数は少ないでしょうけど、きっと私と同じ現象が起こる人がいるのだと、自然に思ったんです。だから、そういう人が現れるまで、内緒にしておこう。本当に普通にそう思ってしまったんです。それから大きくなるにつれて、もちろん葛藤はします。ものを考えられるように、段々と、なっていくわけですから。そうすると間違いなく、これは異常なことであり、何かよからぬことが起こっているからだと、病院に検査に行こうと、そう思いました。しかし別段、からだに変調はありませんでした。私は、そこで、小さいときにあの砂場で得た感覚、あれを信じようと思ったんです。あのときの自然な空気を、ずっと心の中に持ち続けようって。でも、他人には、いや、自分でさえ、その緑色の血は見せてはいけないのだと誓いました。抑圧しなくてはいけないものだと思いました。そして、二十年以上が経った。私はある男の人を前に、無意識に、その血を生理として体外に排出してしまっていました」

 特に恥ずかしいとは感じなかった。

「無理やり止めていたのも、ついに限界が来たってことでしょう。それ以来、私は瓶に血を取ることを続けています」

「一つだけいいですか。あなた、さっき、スケッチをした絵がありましたよね。あれに色をつけるべきです。その血で」

 それを訊いて、亜子は何故だか急に恥ずかしくなってきた。自分の性器から出ていった血で、絵を描くだなんて・・・。

「誰にもわかりませんよ」

 しかし、そう言っている医者には、わかっているのだ。亜子は自分が発表する絵の具の正体が、この医者にだけ知られているという、気味の悪さを思った。

「あなたは、秘密を告白されました。私も一つだけ言わせてください。本当は、あなたを騙そうとしていました」

「えっ?なんですって?」

「あなたも、あなたの男性の方も」

「ほんとなんですか?」

「お恥ずかしい!私はそもそも、嫌々医者になった人間なんです。医学系の家庭に育ったから、もう小さいときから無条件に医学の道に行くことが義務付けられていたようなもので。最初は自分のやりたいことだと思っていました。夢だとも思っていました。しかしどこかの時点で、それは外側から造られた虚像の現実であることに気付き始めたんです。よくある話です。自分の本質が何なのかはわかりません。しかし確実に拒否反応を示している自分がいた。それでも他に情熱の持てるものがないんです。私は流されました。意図的に。本当にとんとん拍子で、そのまま医者になってしまったんです。それも三十歳で、開業医にまで。何のしがらみもなく、自由に診療ができる上に、患者さんにまで受けがよくってね。それに皮膚科という分野だから、人の生死に関わるような重大な事にはならない。気楽なものでした。けれど、四十代に入った頃から、私の中の何かがむくむくと動き始めたのがわかりました。けれど、正体はわからない。それは今になってもわからない。あなたにすべてを告白します。懺悔みたいなものです。あなたは包み隠さずに話をしてくれた。でもどうして僕なんかに?信頼に足る人間じゃありません。ずっと孤独を抱えて生きてきました。寂しさは誰とも共有できなかった。でもあなたに、今、ちょっとずつしゃべることで、涙が溢れ出てきそうなくらいに胸がいっぱいになりました。ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったのに。僕はその四十を過ぎた頃から、ある組織と関係し始めたのです。はじめは、都市の再開発に関する立ち退きの話などで、その組織の人間はやってきました。別の土地に移る手配、そこに発生する補助金などの話です。しかし、その組織の連中は、しだいに皮膚科で出す薬にまで、口を挟むようになっていったんです。その薬を自分のところから卸さないかと。ただの付け薬じゃないと、彼らは言いました。それは付け薬を装った別のものなのだと。パッケージングなんて何でもいいんだと。とにかくあらゆる分野、あらゆる場所に、癌のように人々に気付かれることなく皮膚の内部に入り込むことが必要なのだと。具体的には何の説明もなかった。しかし僕はピンときました。それは僕の中でむずむずとし始めたものに、完全に呼応していたから。復讐心にも近い、よからぬものでした。けれど自分では、うまく説明ができなかった。今でもそうです。いったい何に対してなのか。誰に対してなのか。でもあなたの話を聞いていると、小さい時にあった出来事に関係しているように思えてきました。医者になりたくないという想いです。僕の中で薄れていったはずの・・・消えたように思えたその・・・でも、それはおそらく残っていた。何か別の形態に変わって、僕の心の中に巣食っていたんです。きっとそれに反応したんです。付け薬の中身がどういったものなのか。答えは僕の中にあるような気がしてきました。けれど詮索をかければ僕はきっと苦しむことになる。パンドラの箱だと思いました。だからその実体はそっとしておこう。でも、実体の影に反応したものは、受け入れよう。そして、僕は塗り薬から患者に与えるようになっていった。症状に対応した薬に加えて、まったく症状には関係のない恣意的な薬を、処方するようになった」

「わたしたちにも与えようとした」

「そうです。あなたの男性には、お香を処方したんです。それは真っ当な治療薬です。天然成分でもありますから」

「それに加えて出そうとした。でも出せなかった」

「そうです」と医者は深く頷いた。

「なぜです?」

「躊躇する何かを感じてしまったんです。体から、何かただならぬ雰囲気が、出ていたんです」

「私もですか?」

「いえ。あなたは現物をいきなり持ってきた」

「肝心なことは家族を崩壊させることです。夫婦のあいだにトラブルを起こさせることです。子供の中にある生き残らなければならないという遺伝子を、オンにさせることです。競走が大事。相手を蹴落とさないと生き残れない。のし上がれない。そして、それはいずれ、人間を心底信じられない人間へと導いていく。そうすれば、しめたものです。その後も、母親には過剰なストレスを与え続けます。父親を通じて。父親は社会と完全に繫がっています。ですから、そのルートで吹き込んでいけばいい。完全な別居状態が訪れます。実際にはしてなくても、心が分断されていれば、それでオーケーです。そうして人間は、本来の自分というものを考えることなしに、ただ、今をサバイブしていこうと戦闘モードへと無意識に入っていくわけです。知覚の破壊は、確実に進んでいきます。想像力は欠如していきます。心は分断され、家族の中には、それぞれが孤立した同居状態が続いていきます。そして外を見たときに、生き残るためにはこんな方法があります。こんな道があります。こんな仕事がありますよ、と導いてあげればいい。同じような境遇の人間を集団で指導してあげればいい。不安はなくなります。支配階級と被支配階級の乖離は、そのまま存続していきます。あわよくば、男女の出会いまで演出していきます。そして、知覚を破壊されたまま出会った男女は、一緒になった後で、確実にトラブルを起こします。稀に最高の相性を示すときはありますが、たいていは、<作られた>カップル像をなぞっているだけですから。その形に合わせようと、必死になる男女もいるでしょうが、人間はそんな都合よくはできていません。どこかで噴出してしまうものです。そのとき人は、時間を遡って考えます。いったいどの時点で、自分は間違ってしまったのだろうと。しかし、思い当たるコレというものは見当たりません。ずっと同じシステムの中だけで生きてきたわけですから。今さら外れることはできない。破滅に向かう人間もいます。犯罪をおかす人間もいます。しかし大抵の人間は、その<作られた形>を維持しようと努力します。夫婦というか、一組の男女は、その後は偽装を繰り返していくのです。そして時折、暴発もします。分断された二人の心が、周りに様々な影響を与えていくわけです。そうなれば、もう楽なものです。何もしなくても、負の連鎖は自然と拡がっていくだけですから。肝心なことは、一組の男女を、いかに知覚を破壊したままの状態で、くっつけてしまえるかです。そこにすべてがあります」

「もし、その一組の男女が、一緒にならなかったらどうするんですか?家族になることを拒否する人たちが、増加してしまったら、どうするのですか」

「それは少しだけ困りますね。連鎖が弱まっていきます。負の連鎖が」

「もし、そういう人が多くなってきているのだとしたら、その負の連鎖を、無意識に止めたいと願っているからじゃないんですか」

「それは、わかりません」

 亜子は自分のことを話しているみたいに思えた。ファラオとの関係は完全に潰えていた。

「あなたはブルーブラッドの末裔ですからね。僕の話とは、ちょっと違います。あなたはこれ以上、近親相姦をするべきでないと、そう感じたんじゃないですか。結局、あなた方は、同じ血を引くもの同士だったわけだから。惹かれあった。でも、もうこれ以上、子孫を残すわけにはいかない。奇形はさらにひどくなっていく。別れるべきだと。もうだいぶん前から覚悟はできていたんじゃないかと。結局、人というのは、何に加担するのか。加担するっていう行為そのものが、とても大事な属性なんじゃないないかと思うんです」

「でも、あなたは、どこか、後ろめたさも残していた。あなたは掴みにくい人です。悪意が口元に現れたかと思えば、親身になって、人の心配までする。正直に心を開いているのかと思えば、肝心なことは巧妙にはぐらかしているようにも感じられる。分断させたいのか。繫がりをもたせたいのか。その、どちらなんですか」

 医師はにやりと微笑んだ。その微笑みには汚らしさが浮かんでいた。歯は黒ずみ、ボロボロと欠けているように見えた。一瞬、着ている服もボロボロになったかのように見えた。

 髪はちりちりに焼け焦げ、皮膚は焼けどで爛れおちているように見えた。

























第ⅸ部   歴史から消されたファラオ





















 男を見るのが嫌で、同じ空間にいるのも嫌、囲まれるのはもっと嫌だった第16代ファラオは、新しく創らせた宮殿に入る予定だった男たちを、片っ端から抹殺していった。

 16代ファラオは、自ら夜陰に乗じて、刃物で切り裂いていった。

 同時にファラオの女たちも二人一組で、一人の男を襲った。

 その夜、国政は静かに動いたのだ。

 そして、宮殿の中には、ファラオ一人しか男は存在しなくなった。だが、そのあと、女は布で顔と体を隠すようになる。眼だけを晒し、宮殿の中を徘徊するようになる。ファラオは、その眼の雰囲気で女を覚えた。そして男を抹殺した夜から、ファラオは女と寝床を共にすることがなくなった。男女の関係になることをやめた。ファラオがそのあたりのことを、どのように処理していたのかはわからない。妻はいなかった。もともと愛人が数十人はいたのだが、子供を産ませたことはなかった。妊娠させたという記録もなかった。もちろん性的に不能だったわけではなかった。この代のファラオについては何もわかってはいない。

 誰が抹消させたのかは定かであった。

 後に栄華を誇った王たちが、過去の無能な王、特筆に価しないような王、スキャンダラスな王などを、歴史上、なかったことにしてしまうというのは当然の行為だった。

 仮にも、血のつながっている場合が多かったし、国家としての永続性を考えたときに、特に害ではなかったとしても、残すよりも抹消してしまったほうが、いい場合もあった。

 嫌悪感から抹消させてしまったこともあっただろう。すべては、その時々の王の才覚と嗜好が反映していた。

 宮殿は夜になると黄金に輝いた。



 LCCは格安エアラインと呼ばれ、運賃の安さを売り物にする航空会社群である。

 LCCの航空券は、ネットにつながったコンピュータとクレジットカードさえあれば、世界のどこからでも航空券を買うことができる。

 その運賃を下げるために、さまざまな節約策が講じられている。

 人件費や諸経費を極端に簡素なまでに切り詰め、さらには飛行機が飛行場に駐機している時間を、できるだけ短くしようとしている。

 発着便が多い大空港のメインターミナルを嫌い、その敷地内に自前のターミナルをつくってしまうこともあった。それはLCCTと呼ばれている。

 あるいは発着便が多くて込み合い、使用料も高い大空港そのものを避け、LCCはかつての空軍の基地だったという空港などにも、好んで乗り入れたりしていている。軍から払い下げられた空港を使う。大空港からは二十キロも離れているというのが普通だった。まるでホームセンターのような出で立ちで、大型のスーパーとも見まちがってしまうような風貌であった。

 亜子は、医者の運転する車で空港に連れていかれた。

「これがチケットです」

「チケット?」

「ここから乗ってください。大丈夫。ちゃんとした空港ですから。予約しておきました。いいから乗って」

 亜子は車から降ろされた。だだっ広い駐車場があるだけで、周りは田園風景だった。

「ここは、あなたが女性たちに手術を繰り返していた丘から、たったの数キロだけ離れたところです」

「あなた、どうして、そのことを?」

 医者は、窓を半分以上開けて、手を外に出していた。

「私だって医者の端くれですよ。あなたの手が、医療用具をいじったことのあることくらいは、最初からわかっていました。あなたは子供を身ごもることができない。その罪滅ぼしですか?不妊の女性に、ずいぶんと関わりあいましたね」

「不妊治療なんかじゃない」

 いくぶん声を荒げて、亜子は答えた。

「わかってますよ。そうすぐに、憤慨しないでください。あなたの中の葛藤を、再び呼び覚ましてしまうんでしょうかね。葛藤を手放しなさいといっても、なかなか困難なのでしょうね。とにかく何か、別のコブのようなものを取っていたのでしょう。不妊はそれが原因だった。でもコブを取り除いたからといって、子供が生まれてくるわけではなかった。そもそも、あなたのように妊娠が出来ないわけではなかった。受胎はしたものの、外の世界に産み出すことが、できなかったのです。今、とても、増えているそうじゃないですか。僕の知人の産婦人科の男も言っていました。受胎はするものの、子宮の中にずっと留まってしまう赤ちゃんが激増していると。新種の引きこもりなのでしょうかね。世界に出てくることが、そんなにマズイことなのでしょうか。世の中というのは、すばらしい所じゃないですか。人生って素晴らしいものじゃないですか。こうやってあなたと僕とが出遭うことだってあるわけですから。そんな顔をしないでください。不満ですか?僕という存在は不吉ですか?横に乗っているのが、あの男の方だったらよかったとお思いですか?でも彼はもういません。見たでしょう。棺の中に押し込まれた彼の姿を。そして火が放たれた。あっという間の出来事でした。まさか、死刑がまた見世物になる時代が来ようとは、思いもよりませんでしたけど。公開処刑は、もっと惨酷になっていく可能性がありますね。それだけ、民衆は刺激を求めているってことでしょうか。ずいぶんと、スケールの小さな娯楽ばかりが、のさばっていますから。鳥肌をもっと立てたい人は、確実に増えている。そうすると、世界はますます野蛮になってしまいますけど。そんな世界に生まれて来るのが、嫌なんですかね?」

 医師は亜子を車から降ろしてからもずっとしゃべり続けていた。チケットが渡されたのはいいが、時間は大丈夫なのだろうか。このまま男の車で街に戻ってもいいと、亜子は思った。チケットに印刷された文字を、亜子は読みとることができなかった。古代文字のようにも見えた。

 亜子は自分の運命を呪った。

 男が死ぬ現場を肉眼で見たのは、これで二度目だった。

 もうこれ以上、繰り返したくはなかった。このチケットを使って、居場所をまた変えるしかなかった。ここに居ては、また繰りかえされる。次に出会う男も、また同じ結末を迎えてしまう。すべて私がいけないのだ。私が引き起こしているのだ。環境を変え、名前を変え、出直さなくてはいけなかった。亜子は最初に結婚をしたときの男と、まだ籍が抜けていないことを突然思い出した。今まで忘れていた。ヨウセイとはまだ婚姻関係にあったのだ。

 すべてを忘れてしまいたかった。

 亜子は、このチケットを、いい機会だと考えなおした。


 医師は亜子を見送るとすぐに車を発進させた。

 ファラオという名の男と、亜子という名の女を、分断させたことを後悔してはいなかった。何の悪意もなかったのだが、どうして自分は人を繋ぐ役目を果たせないのだろうと思った。結局、いままで自分がやってきたことというのは、人と人を引き離すことだけだった。治療と名のつく行為は、みなそうだった。薬によって心と体を引き離す行為を繰り返していた。そのうちに、自分も同じことを人間に対してやるようになった。患者を家族から引き離し、患者同士はけっして近づけ合わさなかった。

 焼かれたのはファラオではなく、誰か別の人間だったということは、最後まで亜子には言わなかった。

 二人が引き裂かれる瞬間を、医師はただ見届けたのだった。


 亜子が乗った飛行機が空港に着くと、彼女を誘導する二人の男たちがいた。

「こちらです。展示される作品は、すでに受け取りました。今、急いで、展示場に運び入れています」

 亜子の新作展覧会の準備が、知らぬ所で進行していた。

 亜子はただわけもわからず、宿泊する予定のホテルへと案内された。

 確かにエージェントには、作品が出来たということだけは伝えた。しかし、出来栄えはよくなかった。

「ちょっと待って。まだ、展示は待ってくれない?会期はいつからだっけ?それまでには間に合わせるから。だから作品は運びこまないで。すべてを変えるから」

「そんな、今からですか?」

「必ず間に合わせるから。コンセプトはすべて、頭の中にあるの。スケッチもすでに終えている。キャンバスだけを用意して。あらゆる大きさのやつを。絵の具はある。筆もある。キャンバスだけね。ホテルの部屋で構わないから。シートを張るから。だからキャンバスを集めてちょうだい。急いで!それとサンドイッチを。それだけつまんだら、あとは一人にさせて・・・。誰にも取り次がないで早く」

 亜子は荷物をまったく持ってなかった。旅行に出るつもりもなければ、引っ越すつもりもなかった。突然の移動に、展覧会の開催。そして制作。情熱は再び戻った。それから一週間、亜子はほとんど水だけで生きた。部屋に入ることのできない展覧会関係者は、心配のあまりに部屋の前まで来ていた。キャンバスが次々と運びこまれた。扉の内側に置くとすぐにスタッフは出ていった。ナーバスな空気が漏れ出ていた。それ以上、奥に進むことはなく、部屋から出ていった。

 すると突如として、扉が開き、亜子が顔を出した。シャワーも浴びずに、服もほとんど着てなかった。そのスタイルのよさに、展覧会スタッフは一瞬どきっとさせられた。

「終わりました。会期はいつでした?」

「明日からです。明日の九時から」

「今は?」

「前日の午後四時です」

「私も手伝うわ」

「いや、先生。それは、我々の仕事ですから。それよりも、まずはお食事を。それと、お風呂に」

「そうね。それは、もっともだわ。人間らしく整えてから、伺うことにする」

 亜子は運び込まれたすべてのキャンバスに筆を振るっていた。

「これで全部ですね」

 大柄な体型で、硬そうな髭を生やした小奇麗な赤いシャツを着たスタッフが、亜子に訊ねる。

「そう、全部。前に送られてきたやつは、すべて梱包して。送りかえしなさい」

「わかりました。それにしても、すごい量だ。予定の五倍以上はある。入りきるかな」

「全部いれないと駄目だからね。分断させてはいけないのよ。全部で一つなんだから。もしどうしても、バラバラにさせなくてはいけないのなら、あとになってからにして。今は絶対に駄目。今は繋ぎとめておかないと、取り返しのつかないことになってしまう」

 スタッフの男はその言葉の真意を理解することはできなかったが、亜子の迫力に圧倒されていた。

 亜子はソファーに坐った。疲れが一気に押しよせてくる。そのまま眠ってしまいそうだった。けれど眠ってしまえば、明日になっても起きないことはわかっている。なので熱いシャワーを浴びた。服は気のきいた大柄の赤いシャツの男が、何枚か用意してくれていた。下着も三着あった。黒、薄いベージュ、ピンク。ワンピースにTシャツ、ジーパン、ミニスカートまであった。亜子は黒のワンピースと、ピンクの下着を選んで着替えた。そして、下のロビーに顔を出す。すぐにレストランへと通された。中央にシャンデリアが光っている。テーブルクロスのひかれたテーブルに案内され、メニュー表が渡される。


 この生活のサイクルは何十回と繰り返された。違うのは制作をする気が起きなかったことくらいだ。そして制作をする必要がなかったことだ。

 展覧の周遊に合わせて作者も同行する。そんな旅は続いた。

 最初の場所で522点という、過剰とも思える量の作品を一気に発表したのだが、その後はやはり、あまりに重量級だということで分断が起こり、七か所に渡って同時に展覧会が開催されるという運びになった。それに合わせて、亜子は飛行機であちこちに飛び移ることになった。LCCに乗る機会もかなりあった。作品は分断され、パズルのように各地に散らばった格好になっていたが、それが逆に人の流通にも一役買うことになっていた。まさにLCC全盛の時代にあって、手軽に飛行機に乗って絵を見にいくということが、頻繁に起こるようになっていた。亜子がどこに出没するのかはわからなかったが、会場にいれば気軽に握手や写真撮影に応じた。

 そのお客さんの中にホロスコープに詳しい人がいたのだが、亜子はその人物からこう告げられたのだった。

「あなたの恋人は、あなたとは常に間逆の場所にいます。あなたが移動すれば、必ず対極にいる恋人も移動する。決して巡りあえない運命なんですね。常に離れ離れで」

 亜子は笑みを浮かべるしかなかった。



 その日、飛行機はピラミッドの上に着陸した。山の上方を地面に沿って、平行に切ったようなピラミッド型の山だった。先端のないピラミッドのようであった。もちろん亜子は肉眼で確認したわけではない。モニターに映っているのを見ただけだ。横にいたマネージャーの男が説明した。赤いシャツを着て、肩幅が広くワイルドな体型をした、気さくな男だった。最初の展覧会の地で出会った男だった。あれ以来、同行してもらっていた。

「ここが、空港なわけがないわよね」

「空港ですよ。LCCTです」

「いくらLCCでも、ここは、ありえないでしょ」

「それがあるんですよ。きっと安く払い下げられたのでしょう。かつては何でしたっけ。観光地だったらしいです。このピラミッド。といっても先端はないんですけど。台形なんですけど。それでもピラミッドだったらしいです。どこかの王の。でも考古学者がどれだけ発掘作業を繰り返しても、何の装飾品も見つからなかった。骨も見つからなかった。墓でもなければ、住居であった様子もない。人の気配が全くない。だから、しまいには、調査チームも解体してしまった。誰にも相手にされていない、捨てられた地として競売にかけられてしまった。それをLCCが買い取ったってわけです。滑走路と、簡素なターミナルビルを作れば、それでオーケーですからね。

 しかし、これが、砂漠のど真ん中っていうのならわかりますけど、周りは普通に街が広がってますから。こんなピラミッドなんて無視して。だから密集した街の中に、ポンと出現したように見えてしまうんです。地面からにょきっと生えたような風貌ですし。実際、土と同化してますからね。現実問題として排除できないのかもしれないし。触らぬ神に祟りなしじゃないけど、なんだか不気味なものとして、手をつけられないままでいるのかもしれない。けれど、LCCはお構いなしみたいですね。堂々と、タダ同然で買い上げて、凸凹とした頂上を真っ直ぐに直して、飛行機を発着させているんですから。さあ、降りましょう」

「ここは、一体、どこ?」

 低い天井に頭をぶつけながら亜子は訊いた。

「ここは、東京という街です」

 スタッフは答えた。地面からずいぶんと高い所に設置された簡易空港に、二人は降りた。

 機体はまた次の客を乗せるための準備が、従業員によって着々となされていく。折り返し運転だった。出発ゲートには、すでにたくさんの人が集まっている。亜子とマネージャーはその横を通り過ぎた。荷物は預けていなかったので、すぐに下りのエスカレーターへと乗り込む。

 エスカレータは、数十秒後にじょじょに加速していた。こんなに速いエスカレータには乗ったことがなかった。帽子を被ってたら吹き飛ばされていただろう。思わずマネージャーに抱き付いてしまった。そしてそのまま、エスカレータはさらに加速していった。しばらく続いたあとで、今度は減速していく。一人だったら、何が起きたのかわからずに混乱してしまい、うずくまってしまったかもしれない。

 日の光が微かに見えてきた。エスカレータでの移動はいよいよ最終段階に入っていく。

 二人はタクシーを拾った。予約の取ってある<シネマ・ホテル・エクストラ>へと向かった。亜子はマネージャーの手を握り、彼の胸板に顔を横たえさせた。このまま同じベッドの上で抱き合いたいと亜子は素直にそう思った。

 だがいきなり彼の部屋に出向いていくわけにもいかなかった。

 彼は亜子の気持ちをおそらく察していた。けれど、察していたからこそ、彼は亜子を部屋へと送り届けるとすぐに、冷たくドアを閉めて、去ってしまった。亜子はベッドの上でずっと足を高く組み上げながら、カーテンが全開に開いたままの窓の向こうの夜景を、じっと見ていた。はてな。あの、LCCの空港って、どっちの方向だったっけ?

 亜子は飛び起きて窓を開けた。テラスになっていたので、外に素足で出た。風はすっかりと秋になっていた。

 マネージャーの部屋をノックした。

 出てきた男に亜子は名前を訊いた。男はシカンと答えた。

「シカン・・・、何・・・?ファーストネームは?」

「いや、シカンだけです」

「ただのシカン」

 男は頷いた。

「ところでさ、さっきの空港の方角。どっちだったかしら?気になってしかたがないのよ」

 シカンは、亜子が何か口実をつけて部屋にやってきたのだろうと思った。もちろん彼には、断る理由は何もなかった。部屋にあげろと言われれば上げるし、抱きつかれたらそっと包み込むように抱擁してあげようと思った。顔を近づけてきたらそっと唇に口付けて、髪をなで、背中から腰にかけて、やさしく愛撫してあげようと。

「ねえ、どっち、だっけ?」

「おそらくそうですね」考えこんでしまったシカンは、窓に近づき、とりあえず外を見ることにする。するとそこには、驚くべき光景が拡がっていた。なんと金色に輝く山のような物体がそこにはあったのだ。シカンはカーテンを全開にするのを躊躇った。そっと隙間から覗いてみた。恐る恐る亜子の方を振り返った。

「あなたの勘でいいわよ。そんなに真剣に悩まないでよ」

 シカンは絶句していた。

「いいのよ。わからなくても。とりあえず言ってみて!」

「大変なことになっています」声にならないくらいの微量のつぶやきだった。

「えっ?なに?指でさし示してよ」

 シカンが差した方角は、まさに窓のあるあたりだった。

 亜子も近づいた。おもいきりカーテンをあけた。



 亜子は、毎晩のように黄金に輝く山を見つめていた。

 それは、街のど真ん中に舞い降りた神聖な空間のように思えた。密集した都市にあって、その山の周りだけがまるで人を寄せ付けないような雰囲気がある。空き地に囲まれていた。

 そして、高層マンションは、かなりの数が建っていたのだが、山を隠すほどに乱立している地帯というのは、山からはずいぶんと離れた場所だった。規制がかけられているのか。それとも、自然と避けて建てられているのか。確かにあんなにも神々しい光に夜は満たされているのだ。近づかない方が身のためだと思う気持ちは、わかる。

「空港の方はさ、夜はどうなっているのかしら?」

 亜子はシカンとベッドの中でじゃれあっていた。

「僕らが来たときの便が、最後だよ。朝にはまた七時の便がやってくる」

「あの山が光っている最中にさ、中に人はいるのかしらね?」

「さあ、どうだろう。たぶん、いないんじゃないか。従業員も帰ってしまうだろうし」

「どうなってるのかしら」

 亜子は、山の懐に入りこんでしまいたかった。あの光に包まれた時には、この身は一体どうなってしまうのか。亜子は遠くから眺めていることに、だんだんと退屈を感じてきてしまった。

「LCCが、本当にあの山を買ったのかしら?」

 亜子は、シカンの胸に息を吹きかけた。

「買ったから、発着してるんでしょう」

「そうだけど、ずいぶんと高価でしょ」

「おそらく売りに出された当初は、あんな輝きは放っていなかったんでしょうね。いい買い物だったんですよ。きっと、山には輝きを放つ周期みたいなものがあって、その周期が、たまたま購入したあとで、重なり合った」

「何が、輝かせているの?」

「土に混じっている鉱物か何かでしょうね。ライトアップされているわけじゃないから」

「調査はしないのかしら」

「今は私有物だから。外部からは手出しはできないですよ。所有者が研究機関か何かに、協力するのなら話は別だけど」

「そっちの方がもうかりそうよ。安価な航空会社をやっているよりさ」

「まあそうですね。でも簡単に手放さないほうがいいってことでしょうね。まだまだ価値は上がる」

「株みたいよ」

「でも、いつかは、下がります、きっと。突然、輝きをやめる時がくると思う。完全にただの黒い山になってしまう。そうすれば山も切り崩される。山?そうだ。あれは山なんかじゃない。岩石を積上げた、先の尖っていないピラミッドです。建造物です。いつから山って言い出したんですか?人工物だ」

「夜中にみると、そう見えるのよ。遠くからみても、シルエット的にはどう見ても山なのよ。それにしても眼が眩むわね。あまり見ていられない。そこが夜景と違うところね。高層ビルもさ、あの光が見えるっていうのを購入させるための謳い文句にしているのかしら。そうだ。あの山の中には入れるのかしら。何か部屋のようなものがあるのかしら」

 亜子がうつ伏せになって、シカンの体の上に覆いかぶさってきたので、シカンは、亜子の背中を両手で撫でた。

「あなた調べてきてよね。もう、展覧の準備は終わったんでしょ?会期中は私ひとりで大丈夫だから。対応できるから。あなたはあの山のことを調べてきてよ」



 また次の展覧会の地へと亜子は移っていった。東京での公開はまだ続いていた。

「また、東京には帰ってきますから。さあ、乗ってください。次の場所に行きましょう。あんなに制作して発表してしまったんです。あなたが顔を出さなければいけない会は、今や数えきれないほどになっている。さあ急いで!」

 夜にもう一度見たかったのだが、シカンは昼の便を取ってしまっていた。

 LCCの発着地帯となっている昼間の岩の山に、亜子は仕方なく向かっていった。



 もうこれが、何度目のフライトなのだろうと亜子は思った。朦朧とする意識の中では、いったい食事をとったのか。いつ誰とどこで何をとったのか。ちっとも思い出すことができずにいた。今現在、お腹がすいているのかどうかさえも、よくわからなくなっていた。疲労は相当たまっているはずだった。窮屈な飛行機での移動に、見知らぬ大勢の人たちとの接触。睡眠時間の乱れ。精神的な疲労は抜けなかった。けれども、体を動かすことだけはやめなかった。街を歩き続けていた。シカンともセックスをしていた。恋愛感情はお互いに全然なかった。常に行動を共にしていたから、自然な流れだった。そのおかげで亜子は出会う人、出会う人を、自分とベッドを共にする可能性があるのかないのかで、見ることがなくなった。あの男の人、服を脱いだらどんな感じかしら。体の輪郭から性器の反り具合、全身に生えわたる毛の深さ。獰猛なのか。ソフトなのか。ノーマルなのか。変態なのか。そんなことを考えずに、純粋にその人となりを観察するのに、エネルギーを費やせた。女として、ひどく淫乱な傾向が自分にはあった。今は同行するマネージャーがいることで、何とかバランスを保っている。食事の手配もシカンがすべてやってくれた。暴食することも止めてくれたし、全然、摂取していないときには、シカンが指摘してくれた。衣食住に対する無頓着さも、彼が手際よくカバーしてくれていた。そんなシカンのセックスにも、際立った独創性はなかった。強烈な刺激を求めているわけではなかった亜子は、そんなシカンの行為を、受け入れ続けるのがとても心地よかった。高ぶった衝動をただ暴発させなければいいのだから。

 しかし、繰り返される移動の果てに、亜子の時間の感覚は次第に狂い始めていた。

 それは夜の部屋でも同じだった。シカンがいったいいつ入ってきて出ていったのか。入れるまでに長い交わりがあったのか。なかったのか。速攻だったのか。シャワーは浴びたのか。浴びていないのか。瞬間、瞬間の印象が強く残っているだけで、時間はうまく同じ方向には流れてくれなかった。シカンが果てたと思った次の瞬間にはまだ下着をおろしているような感覚が、蘇ってくることもあった。それにつれて、横になっている自分の周りを囲む部屋の形が、縮んだり、いびつになったり、傾斜したりしていることもあった。移動しているのに、一歩も動いていないような・・・。そんなときもあった。特に飛行機に乗っているときはそうだったが、ランニングしているときも、自分はずっと同じ場所に、止まったままなんじゃないかと、錯覚することもあった。このことはシカンにも誰にも話さなかった。

 どこかの展覧会の会場でのことだった。隣接するレストランがあり、そこでイベント関係者に対して握手まわりをしていたのだが、そのときもあまりにも照明がまぶしすぎることに苛立ち、シカンに訴えた。

「夜、あの黄金の山をずっと見ていたからじゃないですか。あれで、目がやられたんじゃないですか。だから他の弱い光を見ても、過剰に反応してしまうんじゃないですか。敏感になってしまったんですよ。残存記憶というか・・・」

「なんだか、ここのところの激しい移動で、神経がこんがらかってしまったわね。ねえ、いつになったら巡回は終わるの?もう、いいかげんにしてほしいわ」

「あなたが、あれだけの作品を短時間に仕上げてしまったからですよ。書き直しをしなければ、微々たるものでしたから」

「しょうがないじゃない。描けちゃうんだから。そういうときは。そういうときでもなければ、まったく描けないのよ。枯渇したままなのよ。この前の、あれじゃあ、一箇所行ってそれで終わり。大した盛り上がりもなく、消え去ってしまう。それよりはずいぶんとマシなんじゃないの」

「なら、文句は言わないでくださいよ」

「あなた、恋人は?奥さんが居たりするの?」

「いいえ。いませんよ」

「最近では?」

「結婚してましたね」

「そうなんだ。離婚したことあるんだ。じゃあ、結婚は何回したのよ」

「四回ですね」

「そんなに若いのに!」

「付き合っていい感じの関係に発展していくと、そのままの流れで、籍を入れちゃう傾向があるんです」

「まあ、それは、ご勝手にって感じだけど。でも、何でまたうまくいかなくなるの?」

「誰がそんなことを言いました?喧嘩もしなければ、二人の仲が冷めきってしまうこともないですよ。ただ、今度は、僕が籍を外したくなってくるんです。それで彼女と対立してしまうんです」

「喧嘩してるじゃないの、それ。うまくいかなくなってるじゃないの。籍は入れないで、そのまま付き合っていればいいじゃないの。どうしてそんなにややこしいことをするのよ」

「そうなんですよね。どうしてなんでしょうか。そうせざるを得ないんですよ。まるで自分の意思ではないかのように、体が勝手に動いてしまうんです」

「まあ、いいんだけど。人のことだから。私には関係のないことだから。私とは籍を入れることはないんだから」

「恋人同士じゃないですものね。仕事上のパートナーですものね」

「私が本気で恋愛したときは、すごいわよ」

「どうすごいんですか?」

「それは恋愛だなんて生易しいものじゃないんだから。ふふふ」

「殺す、殺される、の話なんですかね」

「煮えたぎる血の話のほうよね。とんでもない要求を、お互い吹っかけあうわ。あなたといる時のような安らかな空気なんて存在しない」

「僕といるときは、緩やかなんですね」

「そうよ」

「それって愛なんじゃないですかね。それこそが」

「違うわよ!愛っていうのは、もっと暴力的なものよ。狂暴で、獰猛で、野性的で、野蛮で。じゃないと生きてる感じがしない」

「僕といるときは、生きている感じがしませんか?」

「そうねぇ。とても落ち着くって感じよね。言い換えれば、死んでるみたい」

「ひどいな。でもそれが、一番なんじゃないですか。中和されているっていうか。葛藤がまったくない状態なんでしょ」

「よくわからないわね。あなた、どういう方向にこの話をもっていきたいの?私と付き合いたいってこと?」

「ええ」

「それはないって。このままで行きましょうよ。そんな口約束をしないでも、私の体は、あなたのものなんだからさ」

「これからずっとってわけじゃない。この、同時に各地で開かれている展覧会が終われば、あなたは僕に体を預けることをしなくなる。じゃあ、そこから付き合ってくれますか?」

 亜子は問答を繰り返したくなかったので、考えておくと言った。

「今から考えてみてください。まだまだ先は長いです。でも、考え始めるのは早ければ早いほうがいい。大事な問題なんです」

「あなたにとって、でしょ」

「いえ、あなたにとってですよ!」

 亜子は、その言葉の真意が掴めなかった。そういえば、この男もまた、時たま理解に苦しむようなことを、簡単な言葉の中に平然と紛れ込ませてきた。このときもそうだった。だんだんと、シカンという男が自分の脳の中に居場所を求めて、侵食してきているような感じがした。亜子は展覧会を終えた後の『次なるコンセプト』が、すでに脳の中で生まれ出てきそうな予感を、今はじめて感じとっていた。心が震えたその一瞬を、亜子は決して見逃すことはなかった。


 亜子はシカンに言った。新しい製作の準備がしたいからと。その夜は別々の部屋をとってもらうように要求した。とりあえず、一晩だけ。一人にしてほしいと訴えた。

 亜子は長い巻物のような紙を発注し、そこに鉛筆ですらすらと、山のような谷のような高低差のある図形を書き込んでいった。三枚だけしかなかったのだが、亜子はその最初の一枚で突然頭に浮かんできたイメージを再現することができた。そして、その長い紙を横にして、三つ折りやら、四つ折りやらに自在に折ったり、広げたりを繰り返していた。そのたびに紙の上の図形が変化した。亜子は、その図形がどう変化するのかを、何度も確認していた。シカンを呼んだ。これは折りたたむことを前提に描いた絵なのだと説明した。

「二つに折ったとき、三つに折ったとき、四つに折ったとき、五つに折ったとき。それぞれが、別の絵が浮かんでくるように計算して、最初に横長の紙に描いたの」

「すごいですね、それ」

「コレだと思うのよ」

「何がですか?」

「きっとこの手法を、彼は使ったと思うのよ」

「彼って?」

「前に付き合っていた男よ。あまり思い出せないんだけど。確か、設計図か、何かを描く人だった。建築家。彼がやっていたこと。一つの空間に、五つの異なる建物を出現させるという手法。そんなことは現実に出来るわけがない。でも私は、その建物を見たことがあるのよ。中にも入ったこともある。でも、存在していた期間は、かなり短かった。あっというまに崩壊してしまった。まだ不備がたくさんあった。彼とどれだけ付き合っていたのかはわからなかったけど、私たちは離れ離れになってしまった」

 そう言った亜子の頭の中には、昨日、展覧会の会場に隣接されていたレストランでの光景が蘇ってきた。あの男を目撃したのが、すべての引き金になっていたのだと認識した。そのあとで突然、イメージが降りてきた。こうやって紙に写したのもみな、あの光景がきっかけになっていたのだ。あの男とは付き合ったことがあるのだ。恋人だった時期がある。それに気付いた亜子は、突然、絵の説明をやめて部屋を出ていき、レストランへと向かった。そして駆け込んでいったのだが、当然、男はもういるわけがなかった。ウエイターに何か声をかけられたが、亜子は気が動転していて、どこに行けば彼に会えるのか。そればかりを考えていた。展覧会の会場をうろうろして、またホテルに戻っていった。見間違えだったのか。それとも本物にあの男だったのか。

 シカンはずっと同じ場所にいた。

「あなたって、本当に穏やかな人。何に対しても、少しも動じない」

「あなたとは間逆ですからね。だから、あなたとは、最高の組み合わせなんです」

 亜子は、その組み合わせという言葉に妙に反応してしまった。あの男とは、組み合わせが悪かったのだろうか。よく考えてみれば、このシカンという男と過ごす時期のほうが、圧倒的に長くなっていた。そして長いわりには、ちっとも不快には感じなかったし、早く離れたいとも思わなかった。彼が決してのんびり屋というわけではなく、むしろ、事務的な作業に関しては圧倒的に早かった。整理整頓なんていう、概念さえないようだった。それは瞬時に並べ替えができてしまっている。

 しかし彼は立体的ではなくて二次元における配置のプロだった。亜子とは違った。亜子は立体的にしか物事を捉えることができなかった。だから、二次元に物事を配置しようとすると、突然、脳に混乱が起こってしまう。

 こうしてシカンの部屋へと押しかけたと思ったら、突然絵を広げ、説明していたと思ったら、いきなり外に出て行ってしまう。いつのまにか、戻ってきている。そんな気まぐれな亜子の行動に、シカンはまったく微動だにしなかった。

 けれども、亜子はまた自分の部屋へと戻ってしまった。

 そして昨日、レストランで見た男の姿を思い出しながら、自慰に耽りはじめた。スカートを捲くり、下着をずらして、指を中に入れていった。すると、だんだんと男の姿は近づいてきて、二つに分裂してしまう。そしてまた、一つに溶け合っていく。

 シカンの部屋に絵のスケッチを置き忘れていたことに気付いた亜子は取りにいく。

 シカンは絵を眺めていた。

 亜子の付けた折り目にそって、何度も何度も畳んだり、広げたりを繰り返していた。

「空間も、こんなふうに畳んだりすることができるんですかね?信じられないな。距離が一瞬で縮んだり伸びたりするってことでしょ」

「本来、別の空間に建てるべきもの同士を、ある一つの空間に融合できるってことなのよ。絵で言うとこういうこと。ほら、こうやってさ。要するに、折りかたを変えるだけで、違う絵が浮き出てくる。それをすべて計算した上で、最初のスケッチをしていく」

「ということは、その最初に描く絵というのは、それだけでは、まるで意味をなさないわけですね。むしろ、わけのわからない絵に、なってしまうわけですね」

「そういうこと。だからね、私が体験したその建物っていうのは、一つの空間に、五つの別の施設が存在していたんだけど、それっておそらく、この最初の絵の状態で普段は存在しているのよね。そこに人が入り、行きたい施設を選択するっていう行為が、これ。折りたたむっていうこと。二つ折りにするのか。三つ折りにするのか。折りかたによって、現れる実体が異なってくる。そういうことなのよ。やっとわかったわ。わたし、今度はそういう絵を描いていくわ。522枚なんていう、尋常じゃない数で、ただ横に広がっているだけの展覧会は、今回でもうおしまいにする。今度はもっと、狭い場所にさ、情報量をぎゅっと凝縮させてみたい」

 亜子は、何度も何度も、見本の紙を折りたたみながら、力説した。

「いいと思います。もっとも制作に関しては、僕は何も口出しはできないけど。でも、あなたのその最初の閃きの瞬間に立ち会えて、僕はうれしいです」

 亜子はシカンをじっと見ながら、あのレストランで会った男の顔も、一緒に、目の前の彼に重ねあわせて見ていた。今まで出会って、惹かれあった、男のすべての姿を、シカンの顔に凝縮させてやろうと思った。しかし、そっちのほうはまったくうまくいかなかった。



 RはVに仕事の内容のことを訊ねていた。

 二人は革命軍を自認する団体に属していたが、本部というか、大元がいつになっても大胆な行動をとるよう指示がなかったために、次第に革命そのものに対して、疑いを抱くようになってきていた。

 実際に行動を起こすことはないのではないか。

 すぐに闘うことのできるよう武器は携帯していた。しかし、RもVも、一体誰に対して、どんなシステムに対して、どんな暴動を起こして、転覆させるのか。そして、その後に、どんな体制を敷いて、どんな国を目指していくのか。二人は自らの頭で考えることはなく、常に本部の指示を待っているだけだった。自分たちはどこかの時点で、機械の部品になることを決意していた。決意というよりは、自然とそんなふうに受け入れていた。自立について、話し合ったことはなく、何かを倒すことよりも、生み出すことに、さらなるストレスを感じていたので、手っ取り早く、暴れてしまったほうが楽だった。その暴れるチャンスを、二人はずっと待っていたのだが、革命はいつになっても起こるという気配すらなかった。

 そのときに、たまたま同じような民兵の仲間に、アルバイトに誘われたのだ。

 暇だったし、金も底をついていたので、すぐに話に乗った。その男はTと名乗った。

「歴史を改竄する仕事なんだけど」

 Тは自然な口調で言った。

 RとVは、Тの言っている言葉の意味がよくわからなかった。

「教科書に載っかっている事実を、改竄でもするんですか?」

 Rが先に口を開いた。

「都合のいいように書き換えるってことですよね?それも、革命には必要なことなんですね。繫がる布石なんですね。話はすべてつながっている。そうなんですよね。そういうことなんですよね。そうか。やります。いよいよ審判の日が近づいてきているわけだ。そうですとも。これだけ待たされたんです。僕はね、すぐにでも、ここが爆弾の飛び交う戦場と化すだろうと内心は思っていたんですよ。でも、そうなんですね。準備を念入りにしていたんですね。わかりました。それで、この改竄というのは、その革命に至るまでの一つの過程なんですよね。アルバイトって自給制なんですか?それとも、内職みたいにノルマとかですか?」

「やり方を教えてください」VはТに迫った。

「ほらっ。こうやって、折りたためばいいんだ。そして、その状態のままに、固定させる。固形物にしてしまう。結晶化させてしまう。クリスタルだな。わかるか?もう一回やるぞ。ここに、人々の生活の事実を時間の流れと共に羅列した表がある。都合の悪い一文があったとしたら、そこが隠れるように折りたたむ。そして、その状態のままに、クリスタルの中に封じ込めてしまう。すると、歴史は改竄される。折りたたんで重ねてしまうんだ。いいかい?赤い点が書き込んであるだろう。まさに、そこが、紙を折って、重ねて消してしまうべき箇所だ。君らは意識的に文字を読んではいけない!こころを無にして、その赤い点にぼんやりと意識をフォーカスしていけばいい。印は、赤いライトとして点滅もする。どんなに茫然としていても、見失うことはない。折りたたむんだ。結晶で固めてしまうんだ。その状態を完全に終えたとき、君たちには報酬が渡る」

「どうしてそんなに単純な作業を、僕らに任すんですか?」Rが言った。

「数が、膨大なんだろう」

 VがRの言葉にいちはやく反応した。「それと、僕らの痕跡がそこには残る。あとで、捕まって、つるし上げられるのは、僕らってことだ」

 全体の部品になることを、二人はすでに決意していたので、このときも驚くほど短絡的に、すべてを引き受けてしまった。

「人間を消すときのやり方も、これで応用できるんですかね」

 Rは小声でVに話しかけた。

「なんだと」

「だから、人にも、適応できるんですかねって」

「そんな馬鹿な。それじゃあ革命って、そういうことなのか?黒魔術じゃないか!馬鹿らしい。そういうことなのか?派手に動き回れるんじゃなかったのか!」

「時代が時代ですからね。血が流れることなんて流行らないんですよ。無血の戦争なんですよ」とRは言った。

「お前は、何なんだ?それでいいのか?納得がいくのか?そんなコンピューターの中の仮想現実と一緒にするなよ。ちょっとクリックして操作すれば、革命は成されてしまうのか?なら、何故、この体は、今ここに存在している?なんのために肉体を持った?それは革命による死の危険にさらせるからだろ?そこでの恐怖を味わえるからだろ。たとえそれで死んでしまってもかまわない。それでも、そんなスリルを全身で味わいたい。そのために、俺たちは生きてるんだろっ!肉体を持った大いなる理由だよ!肉体を持つ意味をよく考えるんだな。お前はそのアルバイトに、騙されようとしている。これは罠なんだ!アルバイトなんて言っておいて、これは明らかに、次へのステップだ。だんだんと無血革命へと引き入れようとしている。要するに、戦争は脳の中で勃発する。脳みその中を操作してしまえば、流血なんて、そんな野蛮な事は起きずに、人を操作することができる。むしろ、相手をあからさまに殺せば、恨みを発生させるだけで、たとえ表面的には服従させることができても、復讐心を焚き付ける結果を残してしまう。操作は早い段階でなされ、非暴力的に徹せよ!か。上出来だよ。お前なんて、さっさと俺の前から去れ。Тという男と一緒に、どこかに行ってしまえ。二度と俺の前に顔を出すな。ちょろちょろするな!そんなママゴトに、俺は関わりあえないからな。俺はたった一人でも暴れてやるからな。自爆だろうがなんだろうが、そんなのは関係ない」

「まだ、歴史を、確定させる前なんですね」

 RはVの絶叫を平然と無視した。Тに質問をしていた。

「クリスタル化は、レーザーを使うんですよね。とにかく、歴史の事実が書かれた紙を、ガラスの中に封じ込めるっていうことで、いいんですよね。その紙の上にある消したい箇所を、折って重ねて隠してしまう。僕らの指紋でそれを実行する」

「隊長はいったい誰なのです?」

 Vが再び声を荒げた。

「大元のトップまでは、いかなくてもいい。せめて、この周辺にいる、われわれ民兵の長。それだけでいい。いったい、誰なんです!?それすらもわからない。貴様はどうだ?とてもじゃないが、隊長には見えない」

 Тは分厚い書類を、どかんと玄関に置き、そのまま無言で立ち去ってしまった。

 いつまでに作業を終わらせ、どこに届けるのか。何も言わないままに、彼は最初からいなかったかのように消えてしまっていた。



 亜子は、次の作品の構想をスケッチでシカンに伝えると、そのまま自分の部屋に戻ることなく、彼のベッドで夜を過ごした。その日は、激しいセックスをすることはなかった。下着だけになると、シカンの腕の中に、小さく丸まって入りこんだ。

 シカンも、亜子の気持ちを察してか。性欲を掻き立てるような行動は起こさなかった。

 しかし、最も穏やかだと思われたその夜だったが、亜子はシカンに突然、叩き起こされてしまった。

「亜子さん、大変です!今、フロントから連絡があって。このホテルに爆弾が仕掛けられたそうです。テロです。宿泊者の中に、政治グループの幹部がいたそうです。それを狙ったテロ行為だそうです。はやく逃げましょう。はやく着替えてください!いちおう上に羽織るものくらいは着て。あとはスリッパも履いて。さあ、早く!」

 亜子は言われたとおりに素早く外に出た。スケッチした紙は置いてきてしまった。すると、道路に出たその瞬間、ものすごい爆発音と共に、ホテルの上半部が吹き飛んでしまった。亜子とシカンは、最上階に泊まっていた。そこが木っ端微塵に砕け散ってしまっていた。

「間一髪でした」

 亜子の腕を、シカンは握り締めていた。

「他の客は?」

 周りを見回したが、同じように逃げ出してきた客が一人もいないことを、亜子は不思議に思った。

「逃げ遅れているんじゃないの?」

 亜子は再び、ロビーに入っていこうとした。シカンは腕を押さえ込んだ。

「何、考えているんですか!」

「助けるのよ!消防だって来てないじゃいの。誰か、通報をした人はいるの?いないのなら、あなたが呼んでちょうだい!」

「携帯は持っていない」

「誰でもいいから、連絡をしてもらいなさいよ。私、ホテルの人に、頼みに行くわよ」

「やめろ!戻るんじゃない!二度目の爆発が起きるぞ」

 そしてその言葉の通りに、二度目の爆発が起きた。

「絵があるのよ。私の絵が!」

「何、寝ぼけたことを言ってるんですか!展覧会は別の場所ですよ。隣接していたのは一昨日の所です。ここではありません。安心してください。スケッチのことなら、また後でやりなおせばいいじゃないですか」

「いやっ。いやー。やめて。もうこれ以上は、やめて!お願いだから。耐えられないわ。駄目なの。爆発音が駄目なのよ。どうしても思い出してしまう。やだ。絶対に思い出したくない。やめて。何か言って。何か別の話をして。なにをやってるのよ、あなた。助けてちょうだい。出てきてしまう。食い止めて。押さえ込んで。とんでもないことになるわ。出しちゃ駄目なの。絶対に駄目なんだから。これまでのことが、全部、パーになってしまう。手伝って。あなたのその筋肉は何のためについているのよ。食い止めるためでしょ?私のマネージャーなんでしょ?パートナーでしょ!」

「認めてくれるんですね」

 肩を悠然とぐるぐる回しながら、シカンは亜子に返答を迫っていた。

「僕を恋人として認めてくれるんですね。そう宣言してください。あなたと交際しますと、そう、あなたの口からおっしゃってください。さあ」

 亜子は今まで誰にも言ったことのない言葉を、シカンに向かって解き放っていた。



 すべての展覧会が閉幕し、移動もすべて終えたときに、亜子とシカンは結婚した。

 入籍の届けを役所へと提出した。まだ家族にも友人にも、誰にも報告してはいなかった。

式もすでに、二人だけで挙げてしまっていた。東京に再び行き、夜、黄金色に光る「LCCの空港」がよく見える教会で、たった十分だけの式を挙げたのだ。亜子は幸せだった。まさか自分が、結婚するとは思ってもみなかった。それも、想像すらしていないタイプの男性と。

 亜子はこんなにも穏やかな世界がこの世に存在していることが信じられなかった。恋愛とはもっと闘争的なものだと思っていた。お互いが牙を向き合い、そのぶつかった先に新しい関係が開けてくるものとばかり思っていた。今でももちろん、そういう気持ちがなくなったわけではなかった。けれど今はシカンと一緒に過ごすことが、自分の細胞にとって最も喜ばしいことだった。まさに細胞が、拡がってきているのがわかった。

 亜子はこのとき、絵は一枚も描かなかった。頭に突然浮かんでくるコンセプトやイメージを整理しているだけだった。何の秩序もないカオス状態で突如襲ってきていたので、心を安らかにして瞑想をしているのが一番都合がよかった。周りからみればリハビリをしているように見えたことだろう。そしてシカンのために料理をつくり、洗濯や掃除に奔走していた。こういうときに赤ちゃんでもいたらいいのにと、そんなことを思ったりもした。

 しかし、夜寝ているときに襲われる爆発音は、その後もたびたび鳴り止むことがなかった。そのたびに、シカンの体に抱きつき、嵐が去っていくのを静かに待った。彼の体は発熱体そのものだった。彼の肌に包まれていると、自分が赤ちゃんにでもなったような気になった。子宮の中に戻ったかのような気持ちがした。次第に、呼吸は落ち着いてきて、額の汗も止まっている。シカンはどこにも行っていない。私たちは結婚したのだからと、亜子は呟いた。絵を描く気力は湧かない。それはいい兆候だった。絵なんて、このシカンとの穏やかな時間に比べれば、なんて野蛮で惨酷で発狂的な行為なのだろう。

 けれど、亜子は薄々、別の人格が心の奥底では煮えたぎっていることにも気付いていた。いつ暴発してしまうのだろう。亜子は自分をコントロールすることができなかった。したいとも思わなかった。それは出てきてしかるべきものだった。抑圧することなんてできない。これは健全なことなのだ。そのせいで、このシカンとの穏やかな生活が乱れてしまっても、それは仕方のないことだった。無理に制御しようとするから、変な歪みかたをするのだ。成すがままに放っておけば、いずれはバランスが取れる方向へと終息していく。例えば、精神的な傷や肉体的な欠損が、次第に快方へと向かっていく中にあっては、毒された部分が体外に排出されるために一時的に変調をきたすことだってある。それは変貌への過程にすぎない。抑圧すればまた体内へと戻り、悲劇的なまでに膨張し、ときには突然変異まで起こし、蝕んでいく。

 亜子はそれでもまた、いつ襲ってくるかわからない発作に怯えていた。恐怖心が募っていった。そしてそのとき、脳裏に決まって浮かんでくるのはあの軍服姿の男だった。彼はいったい何者なのだろう。よく知っている人だったのだろうか。亜子には過去がほとんど思い出せなくなっていた。その男はいったい誰なのか。自分がそれまで描いた絵の中に、その手がかりを探そうとしたこともあった。しかし、今、それらは手元になかった。外の世界にパズルのピースのように散らばってしまっていた。

 シカンにそういう話をしても通じないことはわかっていた。それに、彼との穏やかな時間を乱したくはなかった。なんだか自分が女戦士にでもなったような気分だった。戦場から帰り、すぐに愛する人の胸の中へと入っていく。そしてまた、いつ呼び出されるかもわからない中で、静かにねむる。そして時が来れば、また有無も言わさずに連れ戻される。そのときシカンは、どんな態度を取るのだろうか。



 亜子の展覧会は、しばらく開かれることはなかった。絵を描く気配もまだなかった。

 シカンはこの間を利用して、一人、パリへと行った。ノートルダムの大聖堂に入り、椅子にもたれかけて、目を瞑った。このまま亜子のマネージャーをしているだけでいいのだろうか。亜子が何もしていない時期に、自分までそれに付き合っていていいのだろうか。亜子に会うまでは気がつかなかった。しかし結婚してからは、特に意識し始めた。亜子はまた、必ず猛烈に創造に没頭する時が来る。そうすれば俺は、そのあと発表することになる場所を、確保するために奔走することになる。

 だが、この亜子にとっての空白の時間が、俺に何か、別のことをさせようとしているかのように思うのだ。シカンはかねてからずっと気になっていた場所を、思いきって一人で訪ねてみることにした。一週間分の宿を予約した。ガイドブックを買い、パリのあらゆる場所を歩いてみようと思った。ちょうど今は、秋になっていた。過ごしやすかった。

 しかし、初日はずっと聖堂の中にいた。さらに二日目には、聖堂を見るために列車に乗ってシャルトルにまで行った。

 その日も、一日中、聖堂の中で過ごした。シカンはずっと問い続けていた。この亜子にとっての、空白の時間は、自分にとってはいったいどんな意味を示しているのか。誰かのためではない、自分が生きる残るためでもない、そんな計算が何も働かない行為を望んでいた。シカンは動いた。思うがままに歩き続けた。その中心には常に聖堂の存在があった。シカンは宿を変えた。セーヌ川が見える小さなホテルへと移った。

 帰国してからも亜子の無気力状態は止まらなかった。放心状態のときもあれば、妙にふわふわと心地のよいような雰囲気を漂わせていることもあった。シカンがせまっていく以外に、亜子はセックスにも興味をなくしていった。ただシカンが望めば拒むことはしなかった。

 シカンと激しく議論をすることもなければ、日常のささやかなことを話し合ったりすることもなかった。ただ、穏やかな微笑を返すだけで、本当に少女に戻ってしまったかのようだった。そんな様子を見ていると、シカンの心の奥は疼いた。しかし何に反応しているのかがわからない。彼女の中の何と、自分の中の何とが、結びついているのかがわからない。画家とマネージャーという関係は、そこには全く存在していない。少女と、それに対する、何なのだろう?対応するものが何もなかった。自分がまったくの空っぽであることを、まざまざと見せつけられているようで哀しかった。この結婚はいったい何だったのか。焦燥感はますます募っていった。二人が同じベッドで寝ていることが、だんだんと息苦しくなっていった。亜子には早く制作モードに入ってほしかった。そうすれば必然的に、自分が何をすればよいのか。明確になる。しかし、亜子がずっとこのままだったとしたら・・・。



 シカンは、真夜中、亜子と共に同じベッドで寝ていたのだが、ふと異様な胸騒ぎがして目が醒めた。カーテンの隙間から道路を見下ろすと、そこには黒い服を着た三、四人の男が門を開いているところが目に入った。そして、シカンの家の玄関に、どんどんと近づいてきていた。その黒い影は棺桶のようなものを担いでいた。その一人が呼鈴を鳴らした。シカンの耳に届いた。亜子は熟睡していた。寝息を立てていた。そっと服を着替え、階段を降りていった。ドアを開けた。やはり黒い布を全身に纏った人間が、そこには立っていた。背が異様に高かった。二メートル以上は有にあるように見えた。しかしよく見てみると、それでも背を丸めていたのだ。こんな状況にも、シカンは別に不思議には思わなかった。恐怖を感じることもなかった。なぜだか来るような気がしていたのだ。何かを予感していたのだ。亜子が降りてくる気配はない。シカンは四体の黒い影に身をあずけた。やはり体を横にさせられた。そして棺桶に入れられた。蓋を閉められ、わずかな揺れを感じる中で移動させられた。シカンは何も考えないようにと、努めて冷静な意識の状態を装った。このまま、火葬されてしまうのではないか。亜子には一言もいわずに出てきてしまっていた。そのことを後悔し始めた。だがどこかで期待もしていた。シカンは、この空白の時間の中で答えを望んでいた。亜子のいない、自分だけの世界を知りたい。生まれてきた本当の意味を知りたい。そう、完全に心に決めたときに、状況は動いたのだ。使者がやってきたのだ。何も怖がることはなかった。

 次に棺桶が開いたとき、あたりは真っ暗だった。空気は冷たかった。地面は硬い土だった。手を伸ばすとすぐに壁だった。なだらかな丸みを帯びたトンネルのような感じがした。シカンの左手には本が置かれていた。初め、そのことには気付かず、地面に落としてしまった。左手に乗せられていたのだ。辞書くらいの重みと大きさだった。だんだんと目が暗闇に慣れていくにつれて、この本が黒い皮で覆われていて、開くと中の紙はずいぶんと黄ばんでいて、厚手であることがわかった。何も記述されてはいない。

 シカンは本を手に持った瞬間、自分が何かを書き記しそうな予感がしたのだった。

 本にはペンが挟まれていた。一行目は亜子との出会いから始まっていた。そして共に過ごしていった怒涛の日々が続いた。そのあとにやってきた鬱状態。どんどんと離れていく二人の距離。自分への目醒め。パリ。大聖堂。帰国後の青い大聖堂。亜子の寝息。四人の黒い影。棺桶。洞窟。本。

 すべては螺旋を描いて、一つの意識の元へと結集していた。シカンは光のない部屋の中で、一晩中、ペンを走らせていた。終わりはいつになってもこなかった。紙はまだ残っている。しかし、シカンは何の疑いもなく、ペンは最後のページでピタリと止むだろうと確信した。

 亜子ともう一度、結婚式が挙げたかった。だがもう遅かった。書き上げた本の傍らに、亜子の姿はなかった。シカンは本を携えて洞窟を出た。暗闇を識別することはできなかったが、シカンは歩き出した。本を手放す場所へと向かって。青みがかった透明のクリスタルブルーのステンドグラスに、天井も、壁も、すべて覆われた、大聖堂の礼拝堂へと出た。シカンは、こんなにも美しい場所に、巡り合ったことはなかった。そして、そのクリスタルブルーのガラスが、滴のように、天井から落ちてきているように見えた。ゆっくりと、大粒の雨のように落ちてきていたのだ。それは何の感触もなく、シカンの体をすり抜けていった。そんな硝子の雨の中で、シカンは本を天に掲げていた。その黒い表紙にも、硝子の雨は降り注いでいた。そして、本も氷結してしまったかのように、クリスタルブルーに輝き始めていた。

 シカンは突然の世界の変化に、涙していた。頬を伝う涙がとまらなかった。哀しくはなかった。込み上げてくる感情は何もなかった。クリスタルブルーの雨は、次第に、輝きを増していった。すでに、礼拝堂の輪郭は消えていた。大聖堂の中なのかどうかも分かからなくなっていた。真っ白な世界が拡がっていた。

 そこには、青いクリスタルブルーの硝子だけが輝いている。そして本は、シカンの手からゆっくりと重力をなくして、離れ、天へと向かって上昇していた。





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ダ ファラオズ エンパイア @jealoussica16

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