第36話 昇華

 私にはまだ心の中に引っかかっている事があった。


 それは吉村明美さんの『薔薇のために』というマンガの中で、母親が嫌いな長女、芙蓉が「母親が死んだ時に悲しかったらどうしようと言うようなシーン」の事だった。


 同じように私も母が死んだときに、悲しかったらどうしようと、それがずっと心の中に引っかかっていたのだ。


 私は芙蓉と違って、母の事は(しつこいようだが)嫌いではない。

 興味が無いだけ。

 だけど、子どもの頃からの母からの仕打ちを全て許せているかというと、そういうわけではない。


 いくら距離が出来て、情が沸くようになってきたからと簡単には昔の事を「いいよ」なんて思えない。


 そこまで私は大人じゃないし、優しくもない。


 けれどその反面、親孝行の真似事だけは何故だかしたくなってきたのだ。



 母は鹿児島出身だが、もう母のお兄さんが無くなってからは母が帰れる実家というようなものは無くなっていた。

 だけど母が本当は鹿児島を恋しがっている事は知っていた。


 だから私は年末に毎年、母が好きな鹿児島のさつま揚げとお菓子のセットを贈る事にしたのだ。


 これは私にとっては凄い事だった。



 母は私が幼い頃から、私があげるものを喜んだ事が無かった。

 母の日のカーネーションも、修学旅行でのお土産の髪飾りも散々ダメ出しをされた。


 私が物をあげた後はお礼ではなく、お説教が返ってきた。


「こんなものを買ってきてもお金の無駄」とか

「相手が喜ぶと思うのはそっちの勝手」と怒られた。


 だからこの母の出身地折り詰めも、お説教覚悟の上の贈り物だった。


 それでもあげたかったのだ、鹿児島を恋しがる母に。



 ところが母は初めて私からの贈り物を喜んだ。


 お金以外喜ばないと思っていたのに、お金だって少ないとか、くれて当たり前とかなるだろうに、この贈り物は嘘みたいに喜んだのだ。


 これは過去の私の辛さが少し昇華されたような、そんなような瞬間だった。


 私が母の事を憎むほどに嫌いだったならば、そんな簡単に気持ちが昇華されなかっただろう。


 私は母を好きにはまだなれないけれど、親戚の人ぐらいの感情は持ってもいいかもしれないと思えてきたのだった。

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