婚約破棄は侍女にダメ出しされた模様

佐崎 一路

第1話 婚約破棄は侍女にダメ出しされた模様

「来月行われる王立貴族学園での卒業パーティにおいて、私はブリセイダとの婚約を破棄し、ナタリア嬢との婚約を大々的に皆の前で発表するつもりだ」

 ここフォルトゥム王国の王太子ローレンス第一王子は、王宮にある(正確には離宮だが)自室で、自分に喝を入れるため、そう決意を込めて口に出した。

 その傍らで、いつものように学園の制服から私服に着替えるのを手伝っていた侍女のビクトリアは、手を止めることなく無表情に一言言い放った。

「バカですか、殿下?」

「――ちょっと待て。仮にも次期国王たる私に対して、なんだその言い草は!?」


 上着に袖を通しながら同い年の侍女に食って掛かるローレンス王太子。

 洗濯メイドに渡すために制服を畳みながら、ビクトリアは彼の文句なく整った顔を一瞥して、

「……申し訳ございません、殿下。訂正いたします――この愚者っ」

「前より辛辣になっているぞ、おい!」

 七歳の頃から十年来の付き合いである気安さで、ローレンス王太子はビクトリアに素で突っ込みを入れた。


「王族方や諸侯、外国の貴賓も出席する学園の卒業パーティで、場もわきまえずに、よりにもよって一方的に婚約破棄をしようなどというアッパラパーは、疑問の余地なく愚か者だからです」

「皆が集まる場だからこそ、誰にも文句を言わせずに婚約破棄をできるというものだろう!」

「いやぁ、文句山盛りだと思いますね、わたしは。そもそも国王様と王妃様、ブリセイダ様の実家であるシスネロス侯爵家には話を通してあるんですか?」

「パーティの場でブリセイダの罪を糾弾し、その結果をもとに許可を得れば問題ないだろう」

「はい、ダウト」

 両手で制服を抱えながら顔をしかめるビクトリア。

「両家の当主が決定をして、元老院と大聖堂の承認を得て、司法院で決定された婚約を私情で勝手に反故できるわけはないでしょう。我が国は絶対王政ではなく法に従う法治国家ですよ」

「私はこの国の王太子だぞ!」

「上に立つ者なら、なおさら率先して法を遵守する義務があります。それとも脳筋――デシデリオ第二王子が普段から公言しているように、この国を封建時代のように専制君主制国家にして、周辺国へ攻め入りますか? たちまち周辺国からタコ殴りにされると思いますけど」

デシデリオあいつは馬鹿だからなぁ……」

 腹違いの粗暴な弟を思い出して、ローレンス王太子は渋面を浮かべた。

「方向性が違うだけで、さっき言った殿下の発言も似たようなものです」

 ぴしゃりとビクトリアに言い切られ、

「いやいや、さすがにあれほど酷くはないだろう!」

 日頃からその言動を危ぶんで、苦言を呈している弟と同レベルと断じられたローレンス王太子は、心外そうな顔と口調で否定する。


 それを聞き流しつつ、畳んだ制服を手にいったん廊下に出たビクトリアは、待機していたメイドに洗濯ものを渡すと、

「ローレンス殿下がお茶をご所望ですので、準備をしてください。茶器は二人分で、インペリウム産の最高級茶葉をご所望です」

 そう言づけた。

「……別に喉は乾いていないが?」

「わたしがご相伴したいんですよ。いちいち言わせないでください。そんな風だから見た目がいいだけで、中身スカスカ王子なんて陰で呼ばれるんですよ」

「おい、ちょっと待て! 誰がそんな――ははん、またお前の毒舌、放言のたぐいか。言っておくが、学園でも王宮でも誰もかれもが私を王太子として、敬意をもって接しているのに間違いはないぞ」


 その手には乗らんとばかり冷笑を浮かべるローレンス王太子を、早くも準備して持ってきたティーセットの乗ったワゴンを押して戻ってきたビクトリアが、可哀想な子を見るような目で見据える。


「そりゃ、担ぎ上げる側としては、御輿みこしは軽いほうが楽だから、表立って文句は言わないでしょう」

 にべもなく言い放って、手慣れた仕草で紅茶を淹れる支度をするビクトリア。

「デシデリオ第二王子はあの通りのいつ爆発するかわからない爆弾みたいなものですし、イスマエル第三王子は表では従順なフリをしていますが、虎視眈々と上のふたりを追い落として、玉座に就く野心を持っていますし……そのあたりが器の足りないところですね。野心はバレたら意味がないのにバレバレなんですから。そうなると王妃様の血を引く正当な継嗣けいしで、まあ見栄えが良くて裏表のない殿下を担ぎ上げるのが、周囲としても妥当なところでしょう」

 なお、他にも王子はいるが直接、王位継承に絡むのはこの三人くらいなものである。

「…………」

 思わず黙りこくったローレンス王太子の許可も得ずに、ビクトリアは勝手にお茶を注いで思い出したかのように、

「殿下、召し上がりますか?」

「お前……人の部屋で勝手やって、事後承諾か?」

「殿下がやろうとしているのは、もっと無礼な行いですけどね~」

 その言葉で虚を衝かれたような表情になったローレンス王太子。彼の前のサイドテーブルへ、ビクトリアは無言で紅茶を置いた。


 紅茶の芳香で我に返ったのか、ビクトリア同様に立ったままカップを抓んで一口飲んだローレンス王太子は、言葉を選びながら弁明をする。

「しかし……だな。そもそもブリセイダと私の間には愛がない。義務としての婚約でしかないのだ」

「当たり前じゃないですか」

 打てば響く調子でビクトリアが、にこりともせずに答える。

「王侯貴族の婚姻なんてものは、家と家との結びつき。政略結婚と相場が決まっているものでしょう。何をいまさら……」


「いやいや、待て待て!」

 そればかりは看過できないとばかり、ローレンス王太子はビクトリアに詰め寄る。

ビクトリアおまえの口からその台詞を聞くとは思わなかったぞ。お前の両親であるパトリシア夫人とラミレス伯爵の身分を越えたロマンスは、いまでも語り草になっているだろう」


 公爵家の令嬢として、王族はもとより他国の王との縁談すらあったパトリシア嬢(現夫人)が、遥かに身分の劣る貧乏伯爵家の嫡男と恋仲になり、周囲の反対を押し切って結ばれた出来事は、二十年近くたったいまでも、まれにみる純愛として、知らない者はいないほど有名な話である。

 そのラミレス伯爵家の長女であるビクトリアは、「ああ……」と、ため息をついたあと、遠い目をしてローレンス王太子に苦言を呈した。


「ああいうのを参考にするのはよくないと思いますよ、殿下」

「……なぜ?」

「純愛とオブラートに包んでますけど、勝手にウチの父に惚れた母が、公爵家の力を使って横車を押したわけで。そりゃ、領地も持たない法衣貴族の伯爵程度が、公爵家から圧力を受けて、金で頬を叩かれたら逆らえるわけないですからね。当時、父にもそれなりに親しい仲の女性がいたそうですが、生木を裂くように別れさせられて、他国に無理やり嫁がされたそうですよ」

「うわぁ……」


 身内が語る美談の裏事情に、聞かなきゃよかったという顔をするローレンス王太子。良くも悪くも素直なその反応に、ビクトリアはわずかに口元に笑みを浮かべる。


「そもそもウチの母は父の人柄とか、中身に興味がないんですよ。おかげさまで女で母親似のわたしは、物心ついた時から、ほぼいらん子扱いでしたね」

 父は父で、惰性で生きている感じで無気力の塊でしたし、と紅茶のお代わりを注いで、喉を潤しながら続きを語るビクトリア。

「逆に弟のセシリオは父に生き写しで、生まれた時から母はもう四六時中張り付いてましたね」

 ローレンス王太子も学園で付き合いのある、ビクトリアの二歳年下で、あまり似ていない伯爵家令息であるセシリオの顔を思い出して、

「――ふむ……」

 と、相槌とも呼べない中途半端な声を一言放った。


「ああ、この国では女子に王位・爵位の相続権はないですから、貴族家において男子と女子では立場が違うのは当然だし、仕方ないとかの話ではないですよ?」

「!?!」

 まさにそう思っていたローレンス王太子は、ビクトリアに心が読まれている気がして密かに狼狽した。

「なんていうんですかね。母の偏愛ぶりは、子供を愛するのではなくて、愛玩動物やお気に入りの人形を大事にするって感じで……。わたしが五歳の時に、『可愛いわセシリオ。日に日にお父様にそっくりになって……。まるで旦那様を赤子の時から育てているみたいで素敵!』と、口に出ぬかした日には、我が母ながらゾッとしましたよ」

 こりゃいかんと思いたったわたしは、早めにあの家から離れるべく、母方の祖父母である公爵家を頼って奉公先を探して、その伝手で七歳から王宮に召し抱えられたわけですが――と、ビクトリアはいまさらながらに侍女をやっている事情を口に出した。

「実際のところ、わたしを不憫に思った祖父母が養子にしようかという話もあったのですが、公爵家あちらには公爵家あちらの家庭があるわけですし、そこらへんははばかられたので遠慮したのですが……しかし、なんであんなまともな祖父母から、母のような歪んだ人間ができたんでしょうね? やはり幼少期に蝶よ花よと、我儘し放題に育てられたせいでしょうかね?」

「……そこで私を同類を見るような目で凝視するのはやめてもらおうか」


 いたたまれなくなったローレンス王太子が、視線をそらせた。


「まあともかく、貴族の純愛なんて裏ではドロドロですよ? 下手に夢を見ないで順当にブリセイダ様と縁組をなされて、えーと……ナタリア嬢でしたか? そちらは別腹ということで、愛妾か側室あたりにしておけば何も問題ないでしょう」

「それでは不誠実ではないか!」

「婚約者がいる身で、他の女にうつつを抜かして二股かけている段階で、不誠実以外の何物でもありません、殿下」

 必死に情に訴えかけるローレンス王太子を、ビクトリアが正論でぶん殴る。

「いや、しかしだな、ブリセイダは本気で私に関心がないんだ」

「そりゃそうでしょう。もともとブリセイダ様の実家であるシスネロス侯爵家は、それなりの家格ではありますが、あくまでですからね。お妃教育は重荷でしょうし、より家格が上の貴族家からの圧力と、逆に同格かやや落ちる程度の下からの突き上げで落ち着く暇もないでしょう。辞められるものなら辞めたいのが本音ではないですかね?」

「ふん。それほどまでに未来の王妃、国母としての名声に執着しているということか」


 冷笑を浮かべ、無遠慮に鼻を鳴らすローレンス王太子に対して、ビクトリアは首を横に振って否定する。


「違います。他に適切な人材がいないから、辞めるに辞められないからです」

「……は?」

 間抜け面をさらすローレンス王太子に、噛んで含めるように説明を補足するビクトリア。

「よろしいですか? 我が国では慣習的に王太子殿下のお妃になれるのは、侯爵家以上の高位貴族の令嬢だけです。そして、十七年前にローレンス王太子が誕生された直後、高位貴族たちはわが娘を殿下にあてがわせるべく、せっせと子作りに励んだわけですが……」


 女性として慎みの欠ける発言に、思わずローレンス王太子が待ったをかける。

「……いや、もうちょっと婉曲的に言えないものかな、ビクトリア?」

「――毎夜、夫婦下半身での共同作業に従事したわけですが」

「だから、逆に生々しいぞ、おい!」

 ローレンス王太子の抗議も何のその、ビクトリアは臆面もなく言い放つ。


「何の因果か生まれたのは、どこもかしこも男児ばかりというありさま。まあ、それはそれで慶事ですが、そんなわけで上が全滅した結果、国王陛下と元老院が渋るシスネロス侯爵家へ三顧の礼を取り、泣く泣くババを引いたのがブリセイダ様というわけです」

「いや……え……? なんだその罰ゲーム感は……?」

 てっきり強引な政略結婚だと思っていた婚約者ブリセイダの立場や心情を、いまさらながらに説明されて愕然とするローレンス王太子。

「だいたいこの程度の事情、どこでも宮廷雀きゅうていすずめがさえずっているので、好むと好まざるとにかかわらず耳に入ると思うのですが。『自分は王太子なので、貴族は取り入ろうとして懸命なのが当然』とか、『顔のいい自分になびかない女は性格の悪い腹黒女だ』……とか、バイアスかけて耳に入れなかったのでしょう。このスカスカ。いえ、カス」

「うううううう……」


 不敬罪にもとられる言いたい放題だが、すべて図星なので反論のしようがないローレンス王太子であった。


「し、しかし、そ、それならブリセイダにとっても婚約破棄は望むところ。勿怪もっけの幸いだろう⁈」

 さもWIN-WINのような口調で思いついたように口に出すローレンス王太子に対して、ビクトリアは勝手にケーキスタンドのケーキを口に運びながら、深いため息をついた。

というのが問題なのです。きちんと法に則り双方の了解を得ての婚約のというならまだしも――まあ、それにしたって問題はありますが――衆人環視の中で、だまし討ちのように婚約破棄をするとか、殿下の正気を疑われますよ? なんでそんな発想になったわけですか!?」

「いや、実は今回のことについて、前々からイスマエルに相談していたのだが、頑固な父上や母上にも納得してもらうため、多くの証人のいる前でブリセイダの罪を糾弾し、改めて私とナタリア嬢との真実の愛を明らかにして、場を盛り上げようと……」


 喋っている間にビクトリアの目が据わってきたのに気づいて、ローレンス王太子の主張が尻すぼみになる。


「……第三王子イスマエルに話したのですか、婚約破棄のこと?」

「ああ、イスマエルもいつになく乗り気でな。卒業パーティには何としても父上と母上、宰相閣下、司法長官などの重臣も来賓として足を運ばれるよう、奴からも口利きをしてくれるそうだ。いや、しかし、あいつもいつの間にか色気づいたのだな。ここのところ毎日のように、私とナタリア嬢との仲を根掘り葉掘り聞いてくるので参ったよ」

 いやはや、と呑気に肩をすくめるローレンス王太子に向かって、ビクトリアは一言――。


阿呆あほうっ」


「だから、さっきから不敬すぎるだろう、ビクトリアおまえ!?」

「そんなもの、どう考えても殿下がしくじった姿を公衆の面前で面罵して、『このような愚かな行いをする者は王位にふさわしくない』とマウントを取った上で、国王陛下たちに『廃嫡』という言質を取らせ、あわよくば次の王太子に自分を推挙させようという仕込みじゃないですか!」


 こんな見え透いた罠を仕掛けるほうも仕掛けるほうだけれど、ホイホイ引っかかるほうも引っかかるほうだわ。この国大丈夫なのかしらね? と先行きに不安になるビクトリアであった。

 ともあれ国の将来よりも、まずは目先のこのローレンス王太子バカの出処進退である。王太子付きの侍女になった時には勝ち馬に乗ったと思ったが、ここでローレンス王太子コイツがやらかした挙句、廃嫡廃籍なんてことになったら、十年も傍にいた自分も連座のように、無能の烙印を捺されて王宮から放逐されるだろうし、そうなっては誰も雇ってくれる貴族などいないだろう。

 ここはなんとしてもこのローレンス王太子パープリンの行動を抑えねば! と、自己保身から決意に燃えるひとりの侍女ビクトリアがいた。


 それにしてもローレンス殿下このかた、善良で夢見がちではあったけれど、ここまでアーパーではなかったと思うんだけどなぁ……と、付き合いの長い侍女であるビクトリアは首をひねった。


「いいですか、まず前提として非常に遺憾ながらブリセイダ様との婚約を白紙に戻すとします。当然、王家こちらから莫大な違約金を支払わなければなりません」

「なぜだ!? ろくに婚約者としての義務も果たさず、ナタリア嬢に卑劣な嫌がらせの数々を行った毒婦に、なぜ盗人に追い銭のような真似をせねばならんのだ!?」


 本気で理解できないようなローレンス王太子を前に、空っぽそうな頭をトンカチで何度も叩く想像をして(きっといい音が出るだろう)、どうにか平静を保つビクトリア。


「ブリセイダ様に瑕疵かしはございません。連日のお妃教育も必死に頑張っておられますし、学園においても将来を見据えて、人脈作りにも余念がございません。また殿下に対しても、月々のお手紙やパーティへの同伴など欠かせたことは一度もありませんよね?」

「だがそれは当然の義務だろう! もっとこう個人的に打ち解けようとか……」

「そんなもんは結婚してから嫌でも行えます。客観的に見て、いまできる限界ぎりぎりの事をやっているブリセイダ様を一方的に、愛だの恋だという精神錯乱で排斥しようというのですよ。それなりの誠意を示さねばシスネロス侯爵家はもとより、貴族社会において王家に不信感を持たれる原因にもなりかねません」

 こんこんと説教されたローレンス王太子は、どこか拗ねた様子で口を尖らせた。

「ブリセイダは義務感から、生贄みたいな覚悟で私の婚約者をやっているのだろう? その責務から解放してやるんだから、さほど問題になることでもなかろう」


 その言い様に思わずジト目になったビクトリアは、食べかけのケーキの皿をローレンス王太子の前に置いて問いかける。

「食べますか、殿下?」

「なんで私がお前の食いかけのケーキを食べなきゃならんのだ?! ほかにいくらでも手を付けてないケーキがあるだろう!」

「はい、それと同じです。一度は王太子殿下の婚約者になったブリセイダ様が、何らかの理由で婚約を撤回された……となれば、まあはっきり言えば殿下の食べ残し、それも口に合わなかった、と見做されるのが貴族社会ですので、真っ当な結婚はできないでしょうね将来的に。その分の慰謝料プラスこれまで殿下のために浪費していた時間に対する補填も含めて、莫大な違約金を支払らわなければならないと言っているのです」


 本来、時間や人生なんてものは、他のもので穴埋めすることができませんからね、と付け加えるビクトリア。


「だ、だが、しかし、ブリセイダは嫉妬に狂ってナタリア嬢に嫌がらせの数々を行ったのは明白。ならば法に基づいてその罪を問えば問題ないだろう?」

「いや、殿下。わたしの話を聞いていましたか? ブリセイダ様は殿下に興味がないんですよ。せいぜい『フォルトゥム王国の王太子ローレンス第一王子』という説明書きの付いた舞台道具を眺めている感覚で」

 ウチの母がわたしを見る時の目とそっくりなので間違いないですね、と断言するビクトリアの言葉に、ローレンス王太子はなんとも言い難い微妙な表情を浮かべた。

「興味ない人間が浮気したからといって嫉妬しますか?」

「『フォルトゥム王国の王太子ローレンス第一王子の婚約者』という、対外的な面目を守るアピールのために嫌がらせをした、という可能性もあるだろう」

「おや? とことん脳タリンになったかと思いきや、意外と正気の部分もあったのですね、殿下」

「……お前、本気で私の事を馬鹿にしていたのか?」

「いま見直しましたよ、5%くらい。それと最初から気になっていたのですが、『ナタリア嬢』とはどなたですか? 高位貴族で未婚のご令嬢としては、エヴァンジェリスタ辺境伯家のナタリア様くらいしか思い浮かびませんが……」


 市井の徒も含めてありがちな女性名であるので、王宮に十年勤めているビクトリアも、咄嗟に誰なのか判断がつかなかった。


「エヴァンジェリスタ辺境伯家のナタリアって、当主の姉で四十近い行かず後家だろ、おい。そうじゃない! ピスコポ男爵家のナタリア嬢だ!」

「……は? ?」

「ああ、なんでも当主が踊り子に産ませた愛妾の子で、一年前に男爵家で引き取ったらしい――って、なんだその顔は!?」

「呆れ返って言葉にもならない顔ですよ。よりにもよって男爵家の、それも踊り子との間に生まれた子供とか、常識的に考えて王太子殿下の正妻になれるわけがないでしょう! あと、ついでに侯爵家の令嬢であるブリセイダ様が嫌がらせするのなら、徹底的に家ごと潰しますよ?」


 なお、踊り子というのは基本的に市民権を持たない流れ者であり、平民はもとより場合によっては農奴以下と見做す向きもある(吟遊詩人などは聖職者の一種であり神聖な存在とされている)。


「いかんぞ、生まれ育ちで人の価値を貶めるのは……」

「持って生まれたものだけで、最高に恵まれた人生が約束されている殿下あなただけは、したり顔で貴賤について文句をつける立場にありませんっ」

 顔をしかめてたしなめようとするローレンス王太子の台詞に覆いかぶせるように、ビクトリアは言い放った。


「そもそも嫌がらせとは?」

 そう疑問に思ったビクトリアが再度『嫌がらせ』内容を確認したところ、『教科書を破られた』とか『体操服を隠された』といった、

「貴族の嫌がらせの発想ではないですよ。まるっきり貧乏人同士のイジメじゃないですか!」

 というものであった。

 そのうえ、証人も証拠もない、本人の自己申告のみというお粗末さである。


「というかいま思い出しました。ピスコポ男爵家といえば貴族籍を買った、文字通りの成り上がり、成金貴族ですよね? 商品に法外な保険をかけて、乗客もろともわざと船を沈めたとか、ご禁制の品々を裏で密輸入しているとか、ろくでもない噂ばかり聞こえてきますが……なんだって、そんなところの娘と知り合ったわけですか?」


 貴族の令嬢であっても、伯爵家程度の家柄でさえ、パーティなどで一言挨拶するのがせいぜいである。

 普通に考えれば王太子殿下に紹介される立場の娘ではない。


「いや、彼女が編入したての頃に、たまたま学園内で迷子になっているのを見かけてな。あちらは私の事を知らないようであったので、いたずらっ気を出して正体を明かさずに案内したのだが、なんというか貴族の令嬢にない天真爛漫さでな。ブリセイダと一緒にいる時と違って、すっかり心を癒された気分になってな……」

 その後も、たまたまひとりで歩いている時などに、彼女と遭遇する機会があり、他の貴族の令嬢にはない屈託のなさ、開放感にすっかり魅せられてしまった……との説明に、

(そんな頻繁にたまたまがあるわけがないでしょうに。あからさまなハニートラップじゃないの! 護衛は何をやっているんだか……)

 とりあえず護衛の罷免と総入れ替えを、上司に相談しようと心に誓うビクトリアであった。


「……なるほど」

 一通りローレンス王太子の語る、ナタリア嬢とののろけ話を聞き終えたビクトリアは、したり顔で頷いた。

「貴族の令嬢らしからぬナタリア嬢の振る舞いが物珍しかった、と。確かに連日、フルコースが続けば、たまにはジャンクな食べ物が食べたくなりますからね」

「もうちょっと言いようがあるだろう!」

「他にどう表現しろと? 殿下の言い分はつまるところソレだけですよ。ああ、慎み深いブリセイダ様と違って、出会って間もないのに股を開く大らかさに魅かれた……でしたか?」

「ナタリア嬢を侮辱するな! それに一線は越えていない!」


 ビクトリアの皮肉に、さすがに本気で激昂してローレンス王太子は、ビクトリアの立っている背後の壁を拳で叩いた。

 対するビクトリアはますます冷めた眼差しで、半ば独り言ちるように言葉に出しながら思案を巡らせる。


「ふむ、さすがに最後の一線は越えませんか。この国では王太子が結婚すると、大聖堂の聖職者が結婚相手の純潔を調べて、初夜を見届けたあと、城のテラスから国民全員に見えるように、破瓜の血が付いたシーツを広げて見せる慣習がありますから――あと、アレ何とかなりませんか? いくらなんでも時代錯誤だと思うんですが――まあ、それはともかく。それを見据えて……ということは、本気で正室を狙っている? だけどたかだか男爵令嬢が……」

「お前がどんな暴言を吐こうと、どんな障害があろうと乗り越えてみせる! 実際に会ったことがないビクトリアおまえにはわからんのだ。彼女の素晴らしさが。特にあの甘い、とろけるようなかぐわしい香り。一日中、嗅いでいたいくらいだ」


 唯一の取柄である顔をだらしなく緩ませるローレンス王太子のたわ言を、至近で聞き流しかけたビクトリアであったが、刹那、『甘い、とろけるようなかぐわしい香り』という台詞が、分断していた点と点とを一本の線として繋げた。


「――ッ! 殿下、確認いたしますが、本日も学園においてナタリア嬢とイチャコラ乳繰り合っておられたのですか?!」

「だから、もうちょっと貴族らしく婉曲に、諧謔をもって表現しろ……」

 不満を口にするローレンス王太子を再度問い詰めるビクトリア。

「していたのですね?!?」

「せめて一時の逢瀬で愛を語り合ったと……」

 間接的に認めるローレンス王太子の言葉に、ビクトリアは合点がいった表情で大きく頷いた。


「たまに殿下の制服から匂っていた花のような不快な臭い。それがナタリア嬢とやらの残り香だったなら……もしかして!」

 それからハッとした表情で、ビクトリアは慌てて部屋の外へと向かうのだった。

「いけない! 証拠の制服を洗濯する前に保管しないと!! ――殿下、急ぎの用事を思い出しましたので失礼いたします!」


 どたばたと慌ただしく部屋を後にしたビクトリアの後姿を、ローレンス王太子は呆然と見送るのであった。


 ◇ ◇ ◇


『サテュリオン』という花がある。

 この花は媚薬の材料となり、また花の香りに女性の体臭が混ざると、男性に対する催淫作用が働き、相手の男を骨抜きにできるという。効果は時間と密着度に応じるとされており、多くの国で麻薬同様に栽培も使用も禁止されている花である。


「もともとナタリア嬢の母親が、この花の群生地を知っていたようですね。いまは根こそぎ焼却しましたが。で、娘を通じてこの情報を得たピスコポ男爵は、この花とナタリア嬢の合わせ技で殿下を陥落させ、上手いこと王家と結びつきを得ようとしたようですが、ここで計算違いが三つ」


 あれから半月後――。

 すべての決着がついたところで、改めてローレンス王太子の私室で紅茶を淹れながら、ビクトリアが話を総括するのだった。


「ひとつは、ピスコポ男爵としてはさっさとナタリア嬢と殿下とをネンゴロにする予定が、貴族社会を知らないナタリア嬢が、本気で将来の王妃になれると考えて、余計な時間をかけたこと」

 淹れたての紅茶をいつものように、ローレンス王太子の脇のサイドテーブルに置くビクトリア。

「ひとつは、殿下が思いっきり単純で、脳味噌がデレンデレンになるほどナタリア嬢にのめり込んでしまったこと」

「……悪かったな」


 本気で反省した顔で椅子に座って項垂うなだれているローレンス王太子。

 騎士団と諜報部が動いたことでピスコポ男爵の陰謀は明るみになり、王族に対する害意のほか、数々の不正が明るみになり、資産没収の上、成人は一族郎党ギロチン刑となった。

 ナタリア嬢は命は助かったものの、遠い流刑地へ送られることとなった。圧倒的に女性が少ない流刑地で、うら若い女性がどう扱われるかは推して知るべしである。


「そして最後が、これに乗じてイスマエル第三王子が騒ぎを大きくしようとしたことですね。実際危ないところというか、危うくトンビに油揚げで、本来第三者であったイスマエル第三王子だけが、利を得るところでしたからね」

 ピスコポ男爵の件が明るみになったいまも、イスマエル第三王子は何事もなかったかのように、いけしゃあしゃあとローレンス王太子に接している。

 確かに直接、彼が何かしたというわけではないがローレンス王太子としては釈然としないのも確かであった。


「とりあえずは表面上は何事もなく済んでめでたしめでたし。殿下も一時の気の迷いから目覚められたと思いますので、今後は心を入れ替えてブリセイダ様に歩み寄られる努力をなさってはいかがでしょうか?」

 自分の分の紅茶を勝手に淹れながら、ビクトリアはいつもの無表情ながら、どこか『いいこと言った』というドヤ顔をローレンス王太子へ向けるのだった。


「……それなのだが」

 紅茶を飲みながらローレンス王太子がポツリと呟く。

「今度の件で私自身の至らなさをつくづく思い知った」

「そうですね」

 歯に衣着せぬ態度で肯定するビクトリア。

「そしてブリセイダの苦悩をどれだけないがしろにしていたかも」

「それもまったくもって、その通りですね」


 鹿爪らしい態度で殊勝に語るローレンス王太子の言に、満足げに頷いていたビクトリアだが、続く一言で危うく飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった。


「だから改めて、誠意をもって婚約の白紙撤回を求めるつもりだ。無論、彼女に非がないことは、誠心誠意周知するつもりだ」

「なんでそうなるんですか!?」

「私のような至らない人間に縛り付けられては、彼女が気の毒だからだ」

「いやいや、本人が至らなくても、周りで何とかするのが議会主導の半民主主義国家の元首というものですから」


 ビクトリアの必死の説得も虚しく、ローレンス王太子は決意を込めた表情で、

「もう決めて、父上や母上、シスネロス侯爵家にも密かに打診はしてある」

「…………」


 なんで聞き入れちゃったの、国王様夫妻!? と、愕然と壁際で立ちすくむビクトリアに向かって、妙にさっぱりとした顔のローレンス王太子が椅子から立ち上がって近づくと、ふわりと優雅な物腰でその場に片膝を突いた。


「ということで、私にはもっとしっかりと手綱を握ってくれるような妻が必要だ――ということで、両親とも見解が一致したわけで、改めて……私と結婚してください、ビクトリア」


 その途端、周囲に響き渡るようなビクトリアの、素っ頓狂な声が放たれた。

「バカですか、殿下!?」

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