第45話 隻腕の怪老

『まさか、生きていたとは–––––』

 秀忠は蛇に睨まれた蛙の如く、脂汗を浮かべ目の前男を見つめる。

 灰色の作務衣姿の老人は、ゆったりと秀忠の前に座しじっと秀忠

の顔を見つめている。

 ほんの僅かのこの間が秀忠に耐え難い時間に感じられた頃、おもむろ

相手が動いた。

 老人の左腕袖は空で、右手だけを床に付けて頭を垂れる。

「お久しぶりでございます。秀忠様、隠居の身の私がこうして罷り越

したのは、お願いがございまして‥‥‥」

「なんじゃ、改まって。其方は父上にとって盟友に等しき重臣。儂で

はなく、父上に申し上げた方が良いのではないか?」

 秀忠は警戒しながら、男を追い払おうと内心冷や汗をかきながら、

暗に家康の元へ行けと言葉に滲ませる。

「いえいえ、これは秀忠様でなければ、叶えて頂けぬ事」

 顔を上げた好々爺に見える男の目が、かっと見開かれた。

 びくりと秀忠の膝が震える。

「その前に一つご報告を、秀忠様にお仕えしておりました息子の正就

紀伊の山中にて討ち死に致しました」

「な、なんじゃと」

 突然の正就の死に唖然とする秀忠。しかしそれ以上に気がかりな事

を直ぐに尋ねた。

「信繁等は、どうなったか?」

 服部半蔵正成は表情を変える事無く、淡々と報告を続ける。

「正就以下三十名の手勢は全滅致しました。真田信繁様と妻子、郎等

達は、九度山の麓の寺に身を寄せている様です」

「また、失敗したのか」

 イライラと秀忠は親指の爪を噛みながら、憤懣ふんまんやる方の無い思いを

紛らわせようとした。

「秀忠様」

「なんじゃ」

 面倒そうに正成の顔を見た秀忠は「ひっ」と小さく声を上げ、身を

竦めた。

 正成の目には凍える様な殺気にも似た、気迫が宿っていた。

「我が愚息が秀忠様の期待に応えられなかった事は、この私の至らな

さ故、お詫び申し上げます。しかし今後は秀忠様の独断で我等伊賀者

を使われるのはお控えください」

「‥‥つまり今後はお前の許可が要ると言うことか?」

 苦虫を噛み潰したような顔で秀忠が確認する

 正成は唯一残された右手を振ってそれを否定する。

「いえいえ、私はもはや隠居の身。今後は–––––」

 正成は後ろの入り口に控える若い男に目をやる。

 それまで気配を消して、入り口に座していた男が手を突き頭を下げる。

「服部正重と申します。以後お見知りおきを」

「この者が以後は“半蔵”となり、徳川家にお仕え致します。今日より

秀忠様のお側仕えを承りたくお願い申し上げます」

 秀忠には断る術も無く、渋面を浮かべながらも鷹揚に頷き応える。

「相分かった。正重とやら以後よろしく頼む」


 秀忠の元を辞した正成は後に残る正重にこう言った。

「これ以上秀忠様が暴走せぬ様、お前がしっかりと見張れ、良いな」

「は、心得ました」

 正重が主従の礼をし、父とその護衛の男を見送りながら、心の内

で密かに溜息をついていた。

『徳川家に仕える忍びが主人を選ぶ事など出来る筈も無いが、秀忠

様は、己の与えた任務で命を落とした兄の正就に対し、何もお言葉

を下され無かった』

 正重自身、兄とはいえ腹違いの正就に家族の情はさほど感じては

無かった。むしろ、母親が下忍である正重を事ある事に貶め、幼い

頃は何度も足蹴にされた。

 しかしいかに非道の兄でも、主人の為最後まで任務を果たそうと

命を掛けた者に、何ら感心を示さなかった秀忠に寒々とした思いを

抱いてしまう正重だった。

『同じ主人でも–––––』

 ふと、九度山の襲撃を報せに赴き、対面した真田信幸の顔を思い

出す。

 敵方の間者である正重の身を案じてくれた、あの涼しげな眼を脳

裏に浮かべ、あの様な主人の為ならばさぞ働き甲斐もあろうにと、

是非も無い願望を胸の奥にしまい、正重は重い足取りで秀忠の元へ

戻った。


「正重様では秀忠様のお守りは荷が重いのでは」

 正成の横で馬を進める男が、チラリと江戸城を振り返り懸念を溢す。

 歴戦の証の刀傷がその頬に刻まれ、六尺近くある大きな身体は見事

に鍛え抜かれている。

 伊賀の忍びの中でも五本の指に入る手練れの男を正成は、最も長く

自身の護衛として側に置いている。

 息子の正就が自分を廃し伊賀の全権を手にしようと動いている事は

正成も以前から勘付いていた。

 それを逆手に取り、自分の影武者を使い死んだ様に見せかけ、暫く

は正就の采配を傍観する事にした。

 もし正就が滞りなく伊賀の忍び達を従え、徳川家に益のある働きを

見せれば、自分はそのまま表舞台から姿を消そうと考えてもいた。

 しかし、結果は秀忠の暴走を止められずその命に応じ、数十名の忍

びの命を無為に消費するに終わった。

 これには忍びを養成する伊賀の村々からも不満の声が上がり、それ

を抑える為に再び正成は姿を現した。

 特に今回は伊賀の忍びの中でも下忍達の反発が激しく、彼等の心情

を宥める為、正成は同じ下忍の女を母に持つ正重を四代目半蔵として

後釜に据えた。

『正重はまだ未熟、暫くは儂が睨みを効かせておらねば』

「冬獅郎、暫く正重の補佐を頼めぬか?」

 冬獅郎と呼ばれた男は、無表情で正成の顔を見つめる。

「構いませぬが、お頭の護衛は誰を付けますか」

 正成は不適に笑うと、こう言った。

「何、片腕でも何とかなる。家康様の元には手練れのくノ一達を多く

忍ばせてあるしの」

「では、駿府へ着き次第その足で–––––」

「うむ、お前が正重の側で睨みを効かせておれば、さすがの秀忠様も

大人しくなるだろう。頼むぞ」

 了承の意を示し頭を下げながら、冬獅郎は非情をむねとするこの

男も、正重には何故か親としての情を見せる事を意外に感じた。

『それだけ、この男も老いたと言う事か』

 冬獅郎は目の前の主人あるじの背中を見つめ、心の中でほくそ笑む。

『正重も正就の様に亡くなれば、もはや半蔵の名を継ぐ様な跡継ぎは

居なくなる。さすれば、この俺が次の頭目になる事も夢ではない』

 冬獅郎は密かな野心を胸に滾らせ、正成の後を馬で追った。

 手綱を握るその左手の甲には、赤い三本の傷が刻まれていた。






 

 

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