第25話 二人の母

 燃え盛る屋敷を背に、信繁が目の前の男の名を呼ぶ。

「才蔵‥‥‥」

 呼ばれた男の顔がクシャリと歪む。

 信繁は彼の元へ行こうと手を伸ばしたが、それは叶わなかった。

 隣にいた清庵ががくりと膝を付き、そのまま前のめりに倒れる。

「清庵!」

 信繁が駆け寄り、清庵を抱き起こす。その脇腹は血でぐっしょ

りと濡れていた。

 信繁の顔が強張る。

「申し訳ございません、不覚を取りました。守役失格ですな」

 清庵が苦笑する。

 忍びの一人が側に来て、清庵の傷を見ようとするが、彼はそれを

手で制し静かに微笑む。

「お先に、昌幸様の元に‥‥参ります‥‥‥」

 小さく息を吐くと清庵はそのまま半目で事切れた。

 信繁はその両目にそっと手を当てがい、目蓋を閉じた。


 信繁達が十年以上暮らした屋敷が、跡形もなく燃え落ちようと

していた。

「清庵、清庵‥‥」

 太助が涙にくれながら、清庵の亡骸に取りすがりその名を呼ぶ。

 皆言葉を無くし、その周りに立ち尽くす。

 お梅はまだ槍を手にしたまま、清庵の亡骸を唇を噛み締めて見

つめる。

 佐助がお梅の手を取り、穏やかに語りかける。

「お梅様、槍は佐助がお預かりします。こちらへ––––」

 言いかけた佐助は、槍を掴むお梅の小さな手が、小刻みに震えて

いる事に気づいた。

「お梅様‥‥」

「佐助、清庵は死んだのだな」

「はい、見事な御最後です」

「私達も清庵の様になっておったかも知れぬのだな‥‥」

 お梅は槍を手にしたまま、その場にペタリとへたり込んだ。

 佐助が慌ててお梅を支える。


 そこへ松明を手に髪を振り乱した桐が、息を切らせてやって来た。

「信繁様!」

「桐、お前––––」

 信繁が驚いて振り返る。

 しかし桐は信繁の前を素通りして、へたり込むお梅の元に駆け寄る。

「怪我は、怪我はありませんか?」

 松明を放り出し、桐はお梅の肩を激しく揺さぶる。

「だ、大丈夫、です‥‥‥」

 戸惑いながら、お梅が答える。

 桐は横にいる佐助を見て、彼がしっかりと頷くのを確認すると、

安堵の表情を見せた。

 ふと視線に気付き、桐が首をめぐらすと、子供達を抱えた春と

目が合う。

 桐は慌ててお梅から手を離すと、信繁達の安否を確かめる為ここま

で来た経緯を報告する。

「村の者達が夜明けと共に間も無く来るでしょう。信繁様達は一先ひとま

私共の家に起こし下さい」

 信繁は暫し逡巡するが、忍びの組頭の藤浪玄把ふじなみげんぱが進言する。

「ここは桐様の申す通りに、我等はこのまま気付かれぬ様に、皆様を

お守り致します故」

 信繁は側に控える玄把に頷くと、改めて謝辞を述べた。

「礼を申す、玄把。お主らが駆けつけてくれねば、危うかった」

 玄把と他の忍び五名が、膝を付き頭を下げる。

 その中に目当ての者がいない事に気付いた信繁は、玄把に問うた。

「才蔵が居た様だったが、姿が見えぬな‥‥」

 その言葉に桐が、びくりと体を震わせる。

「は、先程まで我等と共におったのですが‥‥‥」

 玄把も歯切れが悪そうに、一番後ろに控える息子の慎之介に目をやる。

 慎之介が困った様に首を振り、「申し訳ございません」と頭を下げる。

「いや、構わぬ。気まぐれな男だからな。お前もさぞや手を焼いておる

のだろう」

 信繁が苦笑を浮かべる。

「面目次第も–––」玄把がそう言いかけた時、ドサリと倒れる音が聞こ

えた。

「お梅様!」

 佐助が慌ててお梅を抱き起こす。

 緊張の糸がぷつりと切れたお梅は、それでも祖父の愛用していた槍

を握り締めたまま気を失って倒れた。



––––ふん、ふん、ふふん‥‥ふん、ふん‥‥ –––

 調子外れの鼻歌が、何処からか聞こえてくる。

 お梅は白い霧の中を、その鼻歌が聞こえる方へと歩みを進める。


 白い剃髪の男が、大きな紙面に筆を走らせ、何かを描いている。

 お梅は男の側に寄り、その顔を覗き込みながら、声を掛ける。

「何を描いているの?じじ様」

「おお、姫か。これはな、大阪城じゃ」

 昌幸がお梅に得意げな顔で、紙面を指し示す。

「大阪城?」

 お梅が怪訝な顔で紙面を見る。城というには余りにも大雑把な

大小の四角や丸が野太い線で描かれているそれが、見取り図だと

分からないお梅は、この祖父はまるで絵心が無いのだと思った。

「何故、大阪城を描いているの?」

「それはな、徳川との戦に備えて、策を立てておったのよ」

 昌幸が楽しげに、図面を見ながら答える。

「徳川って‥‥以前戦で負けたから、九度山に追放されたのでしょ?」

「儂らは戦では負けておらぬ。だが、戦略で家康に及ばなかったのよ」

 昌幸が悔しそうに膝を拳で叩く。

「だが、まだ勝敗は決しておらぬ。いずれ豊臣と徳川の最後の一戦

が起きるだろう」

 そう言った昌幸の顔はお梅の知る好々爺のものでは無く、幾たび

の死戦をくぐり抜けて来た武人の顔だった。

「お梅は、戦は嫌です。誰にも死んで欲しくない‥‥‥」

 清庵の亡骸を思い出し、お梅は唇を噛み締める。

 昌幸は慈愛を込めた目をお梅に注ぎながら、その頭を優しく撫でた。

「勇しくとも、やはり姫は女子じゃな。儂も戦をせずに済むならばそ

うしたい。だが、戦わねば己の命と大切な者達を救えぬ時もあるのだ」

「大切な者達‥‥‥」

 お梅の呟きに昌幸が力強く頷く。

「姫もその為に、槍を手にして戦ったであろう」

 はっと昌幸の顔を見上げお梅は言った。

「あの時、じじ様が加勢してくれたから、お梅は大助や母上達を救う

事ができました」

「お梅の勇気があればこそじゃ」

 昌幸が満足げに微笑む。その顔が霧に包まれ見えなくなっていく。

「じじ様!」

「信繁に伝えよ、大阪城の南に作れと––––」


 はっとお梅は目を開けた。

 見慣れぬ梁が渡った天井が目に入る。

 額に手をやると、濡れた手拭いが置かれていた。

『ここは‥‥』

 ゆっくりと体を起こし、お梅は辺りを見回す。

 さほど広くは無い板張りの一室に、床が敷かれお梅はそこへ寝て

いた。手拭いを濡らす為の水桶を見て、酷く喉が渇いている事に気

付いたお梅は、飲み水を貰おうと寝床から起き上がり、部屋を出た。


 辺りは薄暗く、日の入り前か後か判別がつかない。

 廊下に出ると、ほのかに灯りの漏れる部屋が突き当たりに見え、

何やら話し声が聞こえてきたので、迷わずそこへ向かう。

 部屋の入り口に近付くと、母のお春の話し声が聞こえた。

 お梅はその声に安堵し、部屋に入ろうととしたその時、お春の

咎める様な声が聞こえた。

「桐、其方このままお梅に、まことの母と名乗らなくて良いのですか?」

「はい、この先も名乗るつもりはございません。あの子はこのまま、

お春様の子として––––– お願い申し上げます」

 お梅は二人の母の会話を聞いて、凍りついた。



 

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