壁の向こうにいる君へ

一(にのまえ)

何かが足りなかった、決定的な何かだ。その何かは歯に詰まる肉の様な気持ち悪さを演出する。だがしかし、不思議なもので、この感触、感覚に出会うのは初めてではないらしい。


 今まで確実に何回かは出会っている。思い出すとそれはいつも同じ場面だ。何かが足りなかった時こそ、その言葉を見失った時だった。僕の顔を見て恥じらう君にかける言葉を。


 それが分かっていても、解る事はなかった。そして、いつしか、探すのを諦めまた歩み出すのだ。何度も、何度でも、探しては諦めて、探しては、また、同じ場面にまた辿り着く。何が足りないのか、諦めてもまた辿り着くのは何故なのか。


 それが知りたくて、君に尋ねた。


 だけど君は応えてくれない。僕の言葉など届いてすらいない。何が間違っていたのかすら、応えれないんだ。


 僕と君との間にはとても分厚い板がある。その壁がどうして何で在るのか、僕にはわからないんだ。ただ、何度も巡る場面の中で、その答えを見つける方法はわかった。


 多分、あの足りない何かを知る事が出来たら。多分、その足りない何かを言葉にする事が可能なら。また、隔てなく、他愛なく、君と駄弁る事が許されるのだろう。


 不思議なものだ、そこまでわかっていて尚、答えに辿り着けない。その答えを知っているはずの君は、何故壁の向こう側にいるのだろう。知ろうとすればするほど、何かを、大切な何かを思い出せる気がする。しかし、思い出せば想うほど、込み上げてくる何かは何だ。


 僕らはいつから、壁を作り始めていたんだ?


 それから、長い年月が経ってしまった。答えを見つけられないまま。それでもまだ、僕は何かを探していた。自分でも頑固だと呆れる程だ。


 僕は君と出会ったことを思い出していた。桜の咲いた花道を逆に歩く僕と、正しい方へ走る君。思えば僕は君に引っ張られてばっかりだったんだ。何もなかった僕に、何かを与えてくれた、それが君だったんだ。ありふれた君が、自分では抱えきれない楽しさや嬉しさを何もない僕の心に注いでくれた。


 だけど、そんな君は僕が何かを言ったとき、悲しい顔をした。僕は君の悲しそうな顔を見て、今まで詰め込まれた感情にまた新たな感情が注ぎこまれた。


 何を、君に言ったのだろう。

 そして、君は何を悲しんだのだろう。


 思い出を巡る最中で思い出したことがあった。それは、君からもらった大切な物の事についてだ。

 その大切なものと言うのは、花だった。いつか君からもらった『薺(なずな)』の花だった。僕はその花を見つめ、これを貰った時のことを思い出していた。


 そう言えば、これを君が何故か顔を赤らめながら渡してきたのを思い出した。普段通りにありがとうの一言を告げて、いつも通りに家に帰って、あ、薺を家に持って帰ったんだっけ。それで、家で初めて花辞典を使ってその花が薺だって知ったんだ。その時、確か、花言葉も一緒に載っていた。


 遥か片隅に置き去りにされた記憶に手を触れた。


 皮肉が歯に詰まる。答えを見つけたその瞬間、それを言葉にしようとした瞬間。壁は、分厚い壁は自然と崩れる。不思議なものだ、答えに辿り着いた今、初めて壁の向こうの世界を知った。


 本来あるべき君の姿はどこにも無かった。


何故、君はいないのか、今度はその何故について考えた。壁の向こうに足を踏み入れると、足元には何かがあった。それは、『薺』であった。ふと蘇る記憶に手探りで何かを見出そうとする。その切っ掛けを、全てを、逆再生した。

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