ヒューマンエラー

黒犬

第1話エラーメッセージ

 矮小な人間はそこかしこに溢れていて、別段考えるまでもないことなのだが。

 いくら哲学や道徳を突き詰めていく高尚な人間が居たところで、人を殺す人間は人を殺すし、人を貶める人間は人を貶める。

 ニーチェがいくら叫ぼうと、現実を肯定して、生きる意味を見つける方法を提示したとして、一体何人が実際に救われるというのだろうか?

 変わらない現実を変えようとして、これまで死んでいった偉人、いや、知られることさえ無かった高尚な人々は、実際の所知られないだけで、あたかも死体の山の如く、もしくは本当に死体となって、歴史にその存在を消されてきたのだと思う。


 なら。私が何をしたところで、この世界は変わらない。

 

 「そういうのニヒリズムって言うんだぞ?」

 彼はまるで何もかもを知っているかのように、柔らかく、でもどこか人を馬鹿にしたような声音で、私に向かって言った。

 「戦争が終わって、食べたいものが食べられて、暖かい布団も、クーラーだって君は使える身分にある。その現状のどこが不幸だって言うのかな。僕には分からないよ。虚無主義なんてくだらない。今持ってるものの大きさを見ないとよ、……欲を求めちゃ、結局は欲を求めて終わっちまうんだから」

   

 欲に始まり、欲に終わる。

 自分が持っているものが客観的に見て、酷く恵まれているとする考え方は昔から、それこそ私が生まれる前から使い古されてきたものだった。

 自分よりも持たざる者の気持ちを考えろ。

 自分が本当の不幸を知らないことを知れ。

 他者と自分とを比較し、議論しろ――。

 

 教師からすれば、この国で生まれ育った大人からすれば、それはシンプルな教育の一環のつもりなのだろう。

 実に不愉快である。

 例えば、そうだ……ここに一人の男がいるとする。

 その男は、馬鹿で、間抜けで、時々どうしようもない、見てられないくらい恥ずかしい失敗もしてしまう。加えて、目つきが悪く、考え方もひねくれているせいで他人から間違った偏見を受けることも有るだろう。

 

 その男はきっと、学生時代から周囲の常識から外れてしまうことだろう。

 空気が読めない、集団に混じることが出来ない、その酷い目つきと抱える思想のせいで誤解もされる。その上その男の思想は聞くものが聞けば危険思想ともみなされるのだから、そも協調性以前の話だ。間違いなく、「この社会では」彼が普通に生きていくことは、極めて困難なことであるし、別に国に移ったところで、それは変わらないのだろうと思う。


 一言で言えば、社会不適合者。外れもの。

 きっと、そんな幼少期を過ごすだろう彼は「自分と自分より劣る誰かを比較」するなんて馬鹿げたことは忌避さえするんじゃないか。

 他人なんて知ったことか、と。

 自分の、他人から理解されない苦しみも、言いたいことが伝わらない苦しみも知っている彼にとっては、幸せな連中が言ってるただの綺麗事でしかないのではないか。

 自分の苦しみは自分にしか分からないのに、

 自分の欲に生きて、何が悪い?

 他人を自分と比べて何の意味がある?


「でも、そいつ自身は別段、社会から外されるほどの大失敗はしちゃいないぜ? 協調性が無い事は、自立しているということ。普通じゃない思想を持っているなら持っているで、それは現代じゃ思想の自由なんて名前でまかり通る。一概に社会不適合者と言ったって、生き方は様々だ。別に嘆くほどのことじゃあない。それに、俺も学校の先生は嫌いだ。あと一つ言うけどよ。行動一つで世界は変わるし、逆にそうじゃなかったら今の俺たちは一体何なんだ? なあ?」

 

 ……これは失敬。まあ、その通りだと思う。今の時代、法整備が整われ、政治にアンチしたって認められるようなこの国の社会は、実際の所そんなに捨てたものじゃないのかもしれない。

 結局は、そうなのだ。考え方次第で、私は何も悩む必要は無いのかもしれない。ただ、「人生とはこういうものだ」と納得して生きていくしかないのかもしれない。

 

「なら、」

 だけど、


 私が、この世界で目にした事件は、いや、あの事件のと言うべきかな、あれは私には到底納得して、受け入れることの出来るものでは無かったんだよ。

 いっそのこと、あの日私は壊れて狂ってしまえばよかったとさえ思う。

 そうなれたなら、今頃私はこんな場所で、君とこんなくだらない駄弁りもせずに済んだんだろうしさ。


 「……そうかい。俺は割と楽しいけどな。辛い人生なら辛い人生で、悲しいことが多いならそれはそれで人生の肥やしになるだろ。少なくとも俺は、がめつく生きてくようになるか、腐って停滞するかは自分次第だと思うし。ま、お前だって分かってるんだろうと思うけれどさ」


 そうだね。確かに君の言う通り。だけど、

 私にとってこの世の終わりは、世界では無く、自分の命の終わりなのだ。

 世界なんてどうでも良かった。他人なんてどうでも良かった。

 ただ自分が生きていれば良いと思っていた。

 それでも、

 私の世界は、確かに終わってしまった。


 あの日、自分を取り巻くこの世界が、まるで、誰かが作った玩具に見えた。

 私が見ていた世界が、どれだけ矮小だったかを思い知らされた。


 生きていてひたすら嫌いな物ばかりが増えていく人生の中で。

 私が彼と生きているという事実が、それを裏付けている。

 人と生きることを嫌うように「設計」された私が、この男と生きているという事実が、その矛盾が、裏付けている。

 命題を証明するために、背理法を用いて正しいかを確かめたようなもの。

 そして、誤りだと分かった。


 だから、そう言うことなんだと思う。

 これから私が語るのは、エラー【誤り】のお話。

 

 紛れもない、矮小な人間の話だ。

 

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