第5話 雨と罪と最後の晩餐
今日も朝食は咽喉を通らない。
サプリメントさえもどうでもいい。珍しく僕の目の前にはコップに入った水だけが出ていた。
すでに何かを食すという概念より、何かを体に取り入れるという行為に拒絶をしているのかもしれない。
何も食べていないはずなのに、体が妙に重い。
ベッドの横に配置した机からかちりと音がして、時刻をまた刻んだことを認識する。どうやら今日は月曜日らしい。杏奈はしばらく前に出て行った。今日は学校でなんだったかの行事があるとか。その準備だろう。
制服に着替えて階段を下りた。
理由は簡単。僕のここ最近の行動に罪悪感を覚えたから。僕はここの居候。迷惑をかけるわけにはいかないと、引き取られる前に決めたんだ。
「休まなくてもいいのか?」
玄関で革靴に足を通そうとしていたおじさんは僕に気づいてそう口にした。
「もし、罪悪感なんかで学校に行こうとしているなら今日は休みなさい。行きたいときに行くのが一番だから」
「いえ、さすがに何日も休んでられないので」
「そっか。じゃ、気を付けて」
ドアノブに手をかける僕におじさんがさらに付け加えるように「そうそう、これ」と折りたたんだ何かを手渡してきた。
「今日もし学校に行く気になるんだったらって杏奈から。今日はなんか行事があるんでしょ?」
「ありがとうございます」と礼を言い、それを鞄にしまい込む。
東家を出たのは午前十時。晴れ渡った久しぶりの日差しのはずなのに、僕はそれに感動もしなかった。
学校では僕が知らない間に夏服に変わっていた。知らない間なんて言ったけれど、知るはずもない。三日ぶりの学校。友達なんてものが僕にいるのであれば、多少なりとも三日間の感想なんかを交えて会話をしたり、なんだったら今こうして机に向かって小説を読んでいる間だって違和感を覚えるに違いない。
ただ、僕にはそんな仲間はいない。おかげで買っておいた小説は既に半分に差し迫ろうとしている。
窓際の席は直射日光の照りつけがひどい。そのうえ、いくら一枚しか着ていないとはいえ、風通しの悪いシャツだ。にじむ汗に僕は思わず伸びる陰に腕を隠した。
「聞いたか? 今日の授業最近できたラーメン屋の主人が来るらしいぞ」
僕の時間を壊してまで入ってくる輩はきっとそうだろうと顔を上げると、やはり新沼だった。
「そうなんだ。僕はあまり外食とかしないからわからないけど」
「東の家はそうなのか」
「まぁ、僕は食べないだけで、三人は食べるんじゃないかな」
会話の隅にどうしても東をはさみたがる彼の向こう、廊下の方で嫌な気配が通り過ぎた。いや、見てしまった。数か月ぶりにあいつの姿を。
「どうした? そんな口開いたまま固まって」
やっぱり来るべきではなかった。僕が望んでいるものはそうやって壊れていくものなんだから。
「ごめん、ちょっと保健室」
人混みをかき分けて廊下に出る僕の背中に新沼が声をかけたけれど、僕の状態はそれに対応している場合ではない。
心が訴えている。そこは危険だ。危ないから今すぐ離れろ。
脂汗がそれを物語っている。
腹痛がそれを示している。
吐き気がそれを警戒している。
廊下を保健室方向に小走りで向かう。時折誰かに何度かぶつかったけれど、僕は見向きもしなかった。思い出す記憶に吐き気を催し、思わず口元に手がいっていた。もしかしたら胃液くらいは出ていたかもしれない。トイレに行っていっそのこと吐いてしまおうかとも考えたが、その考えはすぐに消した。僕は一刻も早くひとりになりたかった。帰りたかった。東家ではない。あの錆びまみれの格安集合住宅の一角。僕と母さんの家に。
目の前に保健室をとらえ、引き戸に手を差し伸べて開けようとした瞬間に、予想もしなかったことが起きて、思わずその場で立ち尽くした。
僕が明けるよりわずかに先に、扉が開き、目の前には夏日だというのにワイシャツをきた瀬戸内雪菜が呆然と立っていた。僕を見て驚いたような表情だった。
「お、おは」とあいさつをしかけた間抜けな口を閉ざすべく、僕はそのまま瀬戸内さんのわきをすり抜けて「悪いけど具合が悪いんだ」とベッドに駆け込んだ。
瀬戸内さんがいさえしなければ、この消毒液の匂いがする部屋は僕だけの聖域に感じられた。あたりを伺う限り、保健の先生はいなかった。好都合だった。瀬戸内さんの件さえなければ。
「逃げてきたんだ」
投げかけられた言葉は、冷たく室内に消えた。
「私の主治医から聞いたよ。大体のことは。お父さんなんでしょ? 今日授業で来るお店の人」
「だったら何? 君には何も関係ないだろ」
「関係ならあるよ。私も逃げてたから」
しゃっと僕の頭上のカーテンが開けられて、彼女が入ってきた。構わず目を閉じようとした僕の目の前に、白い腕が現れた。
「この肌を見せたくなくていっつもワイシャツ着てた。こんなに暑いのにどうかしてるよね」
彼女はそのまま腕を回転して裏側を僕に見せながら、意を決したような深呼吸をした。
「ここの少しだけ茶色い部分が本当の私の色。この部分が白に染まってしまえば、私も一緒に消えてなくなる。直視したくなくて逃げてた。連君の痣と一緒」
「私逃げない。現実と戦う。葉月君は? 寝てるの?」
彼女は保健室から出て行ってしまったらしい。僕はまだベッドの暗闇にいた。
彼女は今、自分の死を見つめて戦おうとしている。僕は、また逃げようとしている……。
「待って」ベッドから跳ね起きた僕は、教室へ向かおうとしている彼女に声をかけた。腕はまくっている彼女はなんだかやっぱりどこか自由に見えた。
「僕も、戦えるかな……」
「戦えるかどうかじゃないよ。戦うの」
家庭科室のある二階の階段に着くまでに、僕の腕もまくられた。痣は腕にはないけれど、これで少しは僕も彼女のように自由になれただろうか。
どうやら今日は簡素なラーメンと杏仁豆腐を作るらしい。
材料は各テーブルに置いてある。平均して各テーブルに五人。その人数に合わせたメンマの水煮とカットされた生肉、味付け卵はどうやら市販のようだ。杏仁豆腐に関しては材料が多すぎて確認していられない。話を聞く限りだと、スープを作るだけでも相当な時間を要するようで制限時間内につくるのは到底無理とのこで、スープに関してはそちらが準備したらしい。
声だけは聴いていた。姿は、まだ直視していない。まだ、できない。見ようとするだけで、呼吸が浅く、酸素がうまく吸えなくなる。
「なので、皆さんには今日はメンマとチャーシュー、それと杏仁豆腐を作ってもらいます」
この声が誰なのかはとりあえず考えないようにする対策しか思いつかなかった。ただラジオを聞き流すように、意味だけを拾っていく。そうすれば授業だけはこなせる。でも、それはやはり逃げでしかない。
各テーブルにはガス台が二機ついている。それをすべて効率よく回して正午までに食卓につく計算だ。
「それでは、始めてください」の言葉と同時に、みんな各々動いていく。
僕は黒板を眺めていた。それ以外に何もすることなんかないかのように。
僕の二の腕が、わずかに誰かの二の腕と触れた。
「気持ちはわかるけれど、こういうのは勢いが肝心だと思うよ」と言いながら瀬戸内さんは材料を袋から取り出す。
わかってはいるんだ。でもどうしても躊躇してしまう。
当のあいつはというと、今日の授業の内容の説明の時に、一瞬だけ僕と目があったのを気にしているのか、僕から逃れるように教室内の各テーブルに移動を繰り返しているらしい。多分僕が何かのタイミングでこのテーブルからどこかに移動したときにでも様子を見に来るのだろう。
四の五の考えててもらちが明かないという考えに至った僕は、手順通りにチャーシューを作るべく、ガスに火をつけた。一発でついてくれればいいものを、こういうときはなかなかつかない。それを見ていた杏奈がイラついた様子でチャッカマンで点火する。
僕の心境を多少は理解してくれているのが発言で分かる。
「私のことも半分は無視みたいね。とりあえず、また金銭目的であんたに近づいてこようとしたら、即警察に突き出そう。もう家族でもなんでもないんだから」と目配せした先の新沼が頷く。この件に新沼まで巻き添えにしてしまったとにわずかに罪悪感がうずく。
ボンレスハムみたいな肉の塊を鍋に放り込む。醤油と酒が200ccほどと水を500cc、根菜と青ネギを少々。わいたら火を弱くして、小一時間ひっくり返しながら煮込む。本当は一日寝かせないと味が落ち着かないらしいのだが、個人で楽しむ分には別段気にすることではないということなんだろう。今日はこの作業内容でチャーシューを仕込むらしい。
それにしても、僕と母さんの生活を破滅へと導いた本人が今更職について偉そうに学校で舌をふるうとは……。根菜を刻みながら、僕の周囲をぐるぐる回るあいつについ気を取られてしまう。何か話さないといけないという焦れと、いまさらのうのうと出てきたあいつに対する不信が指先を鈍らせたのか、鋭い痛みを感じた時には、すでに左の一刺し指から深紅の液体があふれていた。
伝う深紅の液体は、ぽたりぽたりと僕に時間の流れを教えてくれる。それでも時間は、時間だけは過ぎていくんだ。無駄に眺めているだけのこの時間も、例え意を決してろくでもない父親に声をかけることができて、悲惨な目にあっても同じだけの時間は流れる。時間は、平等だ。
「あんた何切ってんの? 早く保健室行かないと」
ただ滴る血液を眺めていた僕の腕をつかみ取ったのはおっせかいな幼馴染。こういう時の声は人一倍大きい。生々しい内容だけに、周囲から奇異の視線が飛んできた。そして、あいつも仕事上そうしかねないのだろう。
「手を切ったのか」
見ればわかる情報をそのまま口にするあたりがよそよそしい。僕のことをはやりわかっているのかもしれない。
「絆創膏張ってれば治りますから」
「そうはいかない。もしものことがあったら、親御さんに申し訳がたたない」
親御さん……。
僕の中で何かが切れる音がした。
こいつは何もわかっちゃいない。
目の前にいるのが何者で、いったいどれだけの気持ちでここに臨んでいるのか。何も、分かっちゃ……。
「どうして、あの時も……、どうしてあの時もそうやって気遣ってくれなかったんだ。あんた、それでも人の親かよ」
目の前の男は、ようやく僕のネームプレートを見やり、ことを理解したようで、何も言わずに阿保のように口を開いたまま何も語ることはなかった。
「死んだんだ。あんたは知らないかもしれないけれど。母さんが」
死んだ。物騒な言葉は教室を一気に駆け巡り、目の前の男は、僕と無関係の存在ではなくなった。
どよめく教室。噂が噂を呼んで、どうでもいい関係のない情報まで付与していって、話がどんどん大きくなる。
「今は授業中。私語は慎みなさい」
「またそうやって逃げるのか。あの時もそうだった。あんたは母さんと僕を残して家を出て行った。僕らから有り金を巻き上げておきながら、あんたはそうやってこれまでのうのうと生きてきた。母さんの墓参りに一回でも行ったのか? 少なくとも僕は知らない、あんたは、今日もそうだった。僕の存在を知りながら僕の島には寄り付きもしなかった。ばらされるのが怖かったのか?」
口火を切るとせき止めていた何かはあっさりとなくなった。周囲の目も気にすることなく放った言葉は、母さんが亡くなった日から、こいつに突き付けてやりたかった言葉。僕と母さんの平穏な暮らしのすべてがこもった言葉の弾丸。
僕は逃げない。
一人じゃないから。隣にいてくれる人が僕にはいるから。いつでも僕を振り回す少しだけ迷惑な天使のような死神が。約束したんだ、逃げないって。
一瞬だけ、僕の腕と瀬戸内さんの腕が触れ合うような感触が。
どよめく教室に何かを感知したのか、職員室にわすれものを取りに行っていた家庭科の教師が血相変えて教室に入ってきてあいつに詰め寄る。
何を聞かれているのかここからでは聞き取れなかったけれど、何かをつぶやいたあいつは唖然とする家庭科の教師をしり目に教室を出て行った。さしづめ、また「急用ができた」とか言って逃げる気なんだろう。結局は現実を見ることもなく、目の前の僕の質問にも答えるようなこともなく逃げていく。
でも、知りたいんだ。僕がこの先僕として生きて行くために。だから逃がすことはしない。
家庭科の教師があっけにとられている間に、僕は反対側の引き戸からこっそり抜け出すことに成功する。何人かにはいったい何事かと聞かれたけれど、あとで説明すると適当に話をつけておいた。
廊下に出ると、あいつは角を曲がろうとしていた。その先は職員室へと続く階段が待っている。職員室に荷物でも置いておいたのか、念のため挨拶でもしてから逃げるつもりなのか。
「待てよ」
僕の声は届かないのか、あいつの体は角へと消えていく。
「待って、父さん」
父さん。僕の口から確かにその言葉が出た。生まれてこの方あいつのことをそう呼んだためしはない。そう呼ばないと止まってくれない気がしたからか、本能的にそうしてしまったのかわからない。体が震えていた。寒気とも興奮ともわからない何かで、僕は震えていた。
角の向こうであいつが止まる気配がした。ほんの一瞬、あたりが静かになった気がした。
「そう呼んでくれるのはいつ以来だ」
「初めてだよ。だって……」
「お前をよく殴りつけていたからな。俺が、怖いんだろ……?」
黙認の沈黙が二人の間に落ちた。脇腹のあたりの青あざが自己主張するようにうずく。
「悪かったな。殴ったりして。母さんのことも……。俺は、自分のことしか考えられない最低の父親だった。そんな奴が偶然とはいえ、お前の目の前に現れて今更何を教えるでもない。本当に申し訳ないことをした」
「毎月金がなくなると、家に来てさ。家中嗅ぎまわって、見当たらないとしょっちゅう僕と母さんを殴りつけて、同じ人間だとは到底思えない」
角に消えた人影の動きは、微動だにしないようだ。覚悟を決めたのか、≪父さん≫は僕が追い付くとうつむき加減に立っていた。
「申し訳ないことをしたと思っている」口からでる謝罪の言葉。うなだれて、反省の意でも示しているつもりなのか。そんなことで、何か許されることでもあると思っているのか。
「そんなこと今更言われたところで何も解決はしない。僕は父さんを許すことはないし、母さんも戻らない」
「そうだな。もう二度ともどらんな」
明日の天気でも気にするかのような口ぶりに僕は限界を超えた。この男は何もわかっちゃいない。
「どうして? なんで? 母さんのことは何とも思わないの? 僕のことだってそう。最初から捨てるつもりならどうして生んだの? 母親の命よりも自分の命を優先するようなろくでもない息子なら、最初から育てなきゃいいのに」
二人しかいないはずの廊下に僕の声はこだました。すぐ目の前の保健室も、もうすぐ行けば見えてくる職員室も、校庭で授業をしているはずの人影も、すべて息をしなくなった魚みたいに冷たくなった。
空気が急に冷たくなったような気がしたのは僕だけではなかったらしい。背後からの「……え?……」という声。
いつの間にか降り出した雨は窓を叩きつけて揺らしている。窓から見える広葉樹もその力には抗えない。
背後にいるのは様子を見に来た瀬戸内さんか。あっけにとられた家庭科の先生より一足早くここにたどり着いたってところか。だとしても、僕の口は既に決壊していた。背後に誰がいようともどうでもいい。
「僕は、母さんを犠牲にしてここにいる。僕は母さんの命より僕の命を優先した。僕は……咎人だ」
神様なんていないと思う。人は皆平等だなんて幻想だと思う。世界平和なんて机上の空論だと思う。
神様がいるとしたら、どうして僕を作ったりなんかしたんだろうか。
人間がみんな平等ならどうして瀬戸内さんは重い病を患っているのだろうか。
世界平和なんてあるとしたら、どうして父さんは僕と母さんを殴ったりしたんだろうか。
「何かの……間違いでしょ……? 自分の母親を犠牲にするなんて……」
「僕の家、貧乏でさ。何も、食べるもんなくて。僕の誕生日だって無理しておにぎり出してくれて、母さんもおなかすいてたはずなのに……」
……覚悟はしてきたはずなのにね。どういうわけか、この時だけは僕にも自分が笑っていることが分かった。おかしいのは、きっと生まれてきた僕なんだよ。
悟ったとき、足取りはなんだかけだるくなっていて、それでも外の空気を吸いたくなった。空が見たくて、どうしても……。
「葉月君!?」
どうでもいい。僕の名字が本当は東だとかも。
瀬戸内さんの声を無視して、歩き出す。僕らが言い合っていたのはちょうどT字になった廊下で、振り返ったところで誰もいない。無気力な足取りで、たっ、たったと走り出した。練習が好きな瀬戸内さんにならもしかしたらばれるかもしれないけれど、いくら僕が体力に自信がないからと言って病気に侵されている女の子一人に力負けするとは思えない。
「……連……」
あいつなんてきっと追ってもこない。すれ違いざまに名前を呼ばれたけれど、どうでもいい。
ふらふらと歩くさまを何人かの教師に見つかっては大丈夫かとか、授業中だぞなど言われた気がする。階段を上り、誰もいない使っていない教室へ。
鍵を開けてベランダに出るとなんだか自分の足かせがすべて取り除かれたように軽くなった気がした。あぁ、こういう事なのか。初めて瀬戸内さんと会った日、彼女がどうして自由に見えたのか分かった気がする。生への執着を捨て去り、すべての希望を葬り、自らの命綱を手放す自由。死ぬことにたいする恐怖も、生きることに対する喜びにも束縛されることのない自由。僕が欲しかったのは、彼女に魅力を感じたのはもしかしたらその部分なのかもしれない。
手すりにつかまり、自由へ一歩進む。中庭を望む景色は安っぽく整ってて、今生きていることを嫌でも実感させてくれる。これで僕は生への執着から解放される母さんの手を振り払って生きながらえた数か月。僕はただ生きたくて、母さんを犠牲にしようだなんてこれっぽっちも思ってなくて……。でも、もうこれで公開することも、あの夢にうなされることもなくなる。
バンっと後方から物音がして誰かが教室になだれ込んできたのが分かった。その誰かが誰であろうと、僕の決心に、僕の望みに邪魔をされたくはなかった。
「来るな!」
だから僕は拒絶の意味を込めて、心からの拒否を口にした。教師だろうと、暇を持て余した教頭あたりがたまたま僕の姿を見かけて入ってきたのだとしても、たとえそれが余命いくばくもない重病を抱えたクラスメートだとしても……。
「何をしたいのか知ってるよ。私もそういう時何度もあったから」
僕はあの日、瀬戸内さんを見殺しにした。僕の人生では二度目の経験だ。何とも思わなかった。だから僕がこうして自らの人生に終止符を打とうとしているのに、瀬戸内さんが泣いている理由が僕にはわからなかった。
「同情なんていらないよ、僕は、人殺しなんだから」
「警察に捕まらなかったってことは事件性がなかったってことだよ」
「……心の問題だから、僕はもうまっとうな生活に戻れそうにないから」
「……私に知られたから?」
心臓が止まった気がして、思わず胸に手を当てて確認したけれど、ひどく心臓が脈打っていること以外何も変化はないようで、その光景で瀬戸内さんは何かを察したらしく、一歩僕に近づいてくるのが気配で分かった。
「……。うれしかったんだよ。私。」
さらに一歩。彼女の足取りは迷うことはないらしい。一定のリズムで僕に着実に近づく。
「これ以上近づくんじゃない。もう、決めたんだ」
「この病気になってから、何度もそうしようと思った。怖いもん。だから何回も練習して、でも、そのたびに怖くなって……。そのうちそれが習慣になって、誰にも心配されなくなっちゃった。あの日以外は……」
あの日……。僕は、見殺しにしたんだ。だから……。
「だから、今度は私が、葉月くんの……。東連くんの日常になる。私の人生を一瞬でも明るく照らしてくれたお礼」
気が付くと、僕のテリトリーは既に浸食されていて、僕と瀬戸内さんを隔てる距離はほんの数センチで。
「……。虫も殺せそうにないくせに、人を殺したつもりでいるの? 君に殺せる人間なんて一人もいないよ。君は、殺したんじゃないよ。生かされたんだよ。きっと」背中にぬくもりを感じ、息が一瞬止まる。
「生きよう。私と。ご飯、冷めちゃうし、みんな待ってるよ。戻ろう?」
今日、僕は、本当は死んでいるはずの人間に救われた。僕が見殺しにしたはずの、天使に似た死神に。
瀬戸内雪菜というクラスメートにあったころの僕よ。君は知っているだろうか……。
僕が望んだことは、ことごとくかき消されてしまう。
君は知っているだろうか……。
人のぬくもりというものは、こんなにも暖かくて、こんなにも優しいことを。
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