第四話 雨と過去と病院と
「で、誰なんだこいつは?」
僕は今しがた瀬戸内さんの主治医を名乗る目の前の男に、殴り飛ばされてその男を見上げている。予想以上に床は冷たくて、それが余計に痛みを助長させている気がした。
銀の縁の眼鏡に、耳まで伸びる長くて細い髪。悪い意味で白衣がよく似合うこの男に、冷たい印象しか抱かなかった。
「クラスメートの男の子……」
「だから、誰なんだ? と聴いている」
しゃがみこんで僕を除くそいつは「おい小僧」とあたかも自分が高尚な人種であるかのような口ぶりで尋問する。
「名前は?」
「葉月……」
「名前は? と聴いているんだが……。最近の子供は言葉が通じんのか」
「連……」
「そうか、葉月連。君に今からいくつか質問をする。すべてイエスかノーかで答えろ。拒否は許さん」
そもそも僕はどうしてここに呼び出されたんだろう。主治医が出てくるくらいだ。きっと何か病に関わることなんだろうけれど、一緒に出掛けた時は別になんの症状も見受けられなかったはずだ。僕はここに呼ばれる所以はない。
「娘にいったい何をした?」
その言葉に僕は頭が真っ白になってしまって、言葉を文字通り亡くした。自分さえわからない状況になってしまった僕に、娘という言葉も、僕が瀬戸内雪菜に何をしたかなんてわかりもしない。
「そうか、答えられないか。ならば仕方ない。警察に被害届を出すことにしよう。もしかしたら、強制わいせつ罪が適用されるかもしれない」
「ちょっ、何言ってるんですか」
「当然だろう。この連休に娘が病室から幾度となく脱走した。挙句にその相手が娘と同い年ほどの男となると、裏で何をしでかしているかわかったもんじゃない。そうだな、ざっと懲役十年以下ってところか……。出てくるころには二十台も後半か……。まぁ、せいぜい頑張ってくれ」
「父さん、別に何もやんしいことはしてないって」
立ち上がり、ポケットからスマホを取り出して、警察に連絡する男をみてさすがの瀬戸内さんも加勢してくれた。でも、常識を逸していないか? 確かに僕は何もしていない。だけどそれを立証するものはないもない。だからといって警察に突き出すのも考え物だろう。
「父さん。じゃないだろ。ここをどこだと思っている?」
「香月先生……」
「名前で呼ぶくらいはかまわないが、ここでは一職員だ。勘違いするな」
スマホをしまって、踵を返し、僕を見下ろす香月と名乗る瀬戸内さんの父親。威圧的で、呼吸ができなくなりそうになる。蒸し暑いはずなのに、汗も出るのを忘れている。
「実は昨日、娘が……。失礼。瀬戸内雪菜が、常備薬として服用しているものを病室に忘れて行ってね。まぁ、薬といってもせいぜい眠気覚まし程度の期待しかできんのだが……。少なくともそれを飲まないと一日に必要な時間以上の睡眠をとってしまい、やがて起きなくなる。だが、そうはならなかった」
僕を殴り飛ばしたわりに紳士のような口ぶりをする妙な男。その男が今度はまた僕の目の前にヤンキー座りのような格好でずいとよってきた。
「改めて聞こう。昨日裏でこそこそと何をしていた?」
「昨日は、焼き肉を食べに行って……」
銀縁眼鏡はよくわからないけれど、少し驚いたような表情をして目を見開いた。
「葉月……。お前か……」
銀縁眼鏡にそんなことを言われるようなことをした覚えはない。ましてお前呼ばわりされるほど、僕はこいつに対して何も許してはいない。
「香月先生。来賓がお見えになってます」
「わかったすぐ行く」
ドアから見開いた、以前この病院で見かけたやる気のなさそうな看護師が銀縁眼鏡を呼んで去っていった。
「……葉月。その人の話を聞くときも笑う癖はどうにかしろ。こっちの意図が通じているのかもわからん。それと、昨日のことで何か思い出したらすぐ連絡しろ。命に係わる大事なことだ」
「大丈夫? ごめんね、父さんいつもああいう初対面だとああいう態度なんだ」
「慣れてるから大丈夫……」とはいえ、数週間ぶりに人に殴られた僕の体は、驚きと痛みでわずかに硬直していた。手すりか何かにしがみつきながら立ちたいところだけど、そんなもの生憎この部屋にはない。
立ち上がって、気づいた。自分がとんでもないミスを犯していたことを。
「薬忘れたんだ? 知らなかった」
こういう時は、僕の癖が本領を発揮する。取り繕うように、自然に、笑って話す。そうすることによって僕の失言はきっとなかったことになる。
「ごめん、気づいた時には夕方で、病室にこっそり戻ってきたつもりだったんだけど、運悪く父さんが部屋にいてさ……」
謝られても、僕の中には責めるような気持ちはなかった。僕もその場にいながら、薬のことには無頓着で、別に彼女の保護者でもなんでもないけれど、同行する以上はそれぐらいの気配りは必要のはずなんだ。
だから僕は、瀬戸内さんの話は流すことにした。許すでもなんでもない。当たり前の話として。
地球温暖化なんていうのは地球規模の壮大な問題で、僕の住む東北のちっぽけな田舎町とは全くの無関係だと思っていたのに、ここ数年の気温はその地球規模の話を痛嘆せざるをえないほどのものだ。今日なんかもそう。この気温でセミで鳴いているのなら、真夏といっても過言ではない。そんな中、瀬戸内さんは薄着ではあるけれど、なぜか長袖を着ていた。
窓は開いているけれど、そこからの熱風は温い。
「なんだか暑いね、今日は」
「その服装だからでしょ」
「そっちもね」笑った瀬戸内さんの声に、僕の今日の服装について思い出した。何気なしに選んだのは、薄手のパーカー。僕も、いや、瀬戸内さんはどうかはしれないけれど、僕は人に肌を見せたくない事情があった。
「こんな気温なのに、どうしてパーカーなの? 何も欲しがらない割に服装にはこだわってるとか?」
「気に入ってなんかないよ。この服は、東の家に引き取られてから買ってもらったもの。僕が服を選ばないからっておばさんとおじさんが無理強いして選ばせたものだから、目の前にあったこれを手に取っただけ」
引き取られる前は、そもそも私服なんてものはなかった。僕の本当の家は、そういう家だったから。
「そういえば服選んであげる約束だったね」
「また抜け出す気? 一発殴られてるんだから勘弁してよ」
「いいじゃん。今度はうまくやるからさ。脱いでよ。服。サイズを見せてもらわないことには……」
外を眺めていた僕は、瀬戸内さんの行動に対する注意を怠っていた。着ていたパーカーと一緒にシャツがわずかにめくれて、思わず手をはねのけた。
「何やってるの」
「別にそんなに嫌がることでもないでしょ? 女の子でもあるまいし。あ、さては見た目にはわからないけれど割と筋肉質だったりとか?」
「そういう事じゃなくて、誰かに見られてりした変に思われるから」
「大丈夫大丈夫。別に葉月君を襲うってわけじゃないし、ちゃんと説明すれば」
気づくのが遅い分、僕のほうが劣勢だった。攻防の末、僕は一瞬ではあるけれど、見られたくはないものを見られてしまった。
「何……今の……?」
「……。痣だよ。もういいだろ」
脇腹に一つ。背中に二つ。ちょうど膝の皿ほどの大きさの紫色の文様がある。誰にも見られたくない僕の昔の話。
「よくないよ。すぐ父さんにでも連絡してみてもらおうよ」
「これは……戒めみたいなものだから」
「戒め?」
僕は少し人に近づきすぎたのかもしれない。
「ごめん、今日は用があるから」
嘘だった。
持ってきた荷物を手短にまとめて、逃げるように病室を出る僕にかけられた言葉はなかった。
六月四日。外は無慈悲な雨に見舞われている。
僕は今日までスマホには電源を入れていない。
もしかしたら未来永劫そうするかもしれない。少なくとも、今日はいらない。
玄関には僕が昨日から準備していた花や、フローレットなんてお菓子がある。それらをもって今から母さんに会いに行く。今日は母さんの誕生日だから。
「あんたさ、雪菜になにかした?」
見上げると杏奈が怪訝そうな顔で僕の目の前に立っていた。
「雪菜、毎日のように私に連絡よこすんだけど……。しかもあんたについて」
「へぇ、知らなかったなぁ」
「とぼけないで。どうして返信一つできないわけ? 雪菜すごくあんたのこと気にしてたよ」
「……痣をみられた。どうでもいいだろ」
「……え……!?」
言ってすぐに踵を返して玄関から外に出たから、扉の締まる金属音と杏奈の声が混ざり合ったから、どういう表情だったかは知らない。同情なんてものはいらない。だからこの件に関しては誰にも触れてほしくはなかった。だから痣のことも極力誰にも話さないようにしてた。
雨は、繊細な音を立てて空から降っていた。
山のふもとの小さな寺。
そこが母さんの家。
ただいま。そんな言葉もなんだか似合わない気がして、口に出すのはやめて心でつぶやいた。
最近はいろいろ厄介ごとに追われているよ。そっちはどう? 仏教には輪廻転生なんて考えがあるみたいだから、近々会えると嬉しいね。
雨は本降りを過ぎて弱まったものの、以前冷たい雫を降らせている。
傘は忘れてきてしまった。それなのに不思議と寒さは感じなかった。まるでそうした機能をどこかで失くしたみたいに。
ふっと、頭上からの雫が途絶えた。
見上げるとビニール傘を差したおじさんが、僕の頭上に傘を傾けていた。
「僕も姉さんの弟だからね。線香くらいはあげたかったんだけど生憎の雨だからね」
おじさんは唇の端を緩ませていた。
「こんな雨に傘も持たずに行ってしまうんだから、びっくりしたよ。行くならそう言ってくれないと。杏奈に怒られてしまったよ」
「すいません。本当は一人で来るつもりだったんで」
「どう? 日々の報告は済んだ?」
僕はすぐには答えられなかった。
「おじさんは、どうして僕を引き取ってくれたんですか?」
「どうして……?」
「僕は、学校では葉月を名乗っています。東には……」
「無理しなくてもいいよ。いずれなれるようになる。その時、東の姓を使うといい」
「僕は……、母さんを……」
「言わなくてもいいよ。君は悪くない。君は人間として、生き物として生きただけだ。姉さんも、別に君に何をされたわけじゃない。君を生かして逝ったんだ」
「証拠はないですけれどね」
おじさんは、僕の肩を軽くたたくと、そのまま僕に傘を手渡して、母さんの墓前に手を合わせた。
六月五日。
僕は学校を休んだ。
六月六日。
僕は学校を休んだ。
六月七日。
僕は学校に行かなくなった。
理由は何でもよかった。杏奈はぶつくさと何かを言っていたみたいだけれど、そんなのは布団の中で聞き流せばいい。おじさんは相変わらず僕に甘い。叔母さんはそんな僕を心配してくれている。
それに甘んじるわけじゃない。学校には行かないといけない。わかってはいる。でも。
昨日、帰ってきた杏奈に説教を受けて、しぶしぶスマホに電源をいれて、短めに瀬戸内さんに返信を打った。
この間はごめん。無理に服を脱がせようとして……。に対して、別に。と。
相変わらず空腹の底がしれない。まるで腹部の奥底に野良犬でも飼っているかのような唸り声にも似た音がしている。この二日間は誰に何を言われても部屋から出ることはなかった。
空腹が僕の頭を支配している。
まるで僕が母さんを殺した日みたいに……。
高校受験を済ませて、見事僕は志望校に入学を決めた。
電気は止められていた。
水道はまだ出ている。
ガスも何とか今日くらいは使えそうだった。
そん中、僕は少しでもお金の心配を掛けないようにと勉強に励んだ。
僕の家は間違いなく貧乏で、間違いなく不幸で、それでも母さんとの日々は幸せに感じていた。
あいつが来る日以外は……。
あいつは、毎月月末にやってくる。先月うちから巻き上げていった金が底を尽きるんだ。
そして、僕はそのたびにひどい暴力にあっていた。
入学式を翌日に控えた週末。僕は家にいた。家とは言うけれど、一軒家みたいなご立派な建物じゃない。地区三十年にもなる公営住宅が当時の僕の家。
入学祝いだと母さんから出された皿の上には、お世辞にも豪勢とは言えない質素なおにぎりがあった。電気も止まっているというのに、ガスだけでどうやって作ったんだろう。
僕の記憶はとてもあいまいで、どう思い出してもここからはモノクロになってしまう。
次に思い出せる光景は、僕が手を伸ばしてローテーブルの上の皿からおにぎりを取ろうとしているところだ。脇腹が痛かった。背中も、どこか骨でも折れているんじゃないかという耐えがたい痛み。それ以上に、腹が減っていた。もう三日も何も食べていない。
死ぬ。単純にそう思った。
死んでたまるか、そう思った瞬間、僕は手を伸ばして皿の上に乗っているであろうおにぎりに手を伸ばした。
その時同時に、視界の端に【邪魔な手】が僕と同じく【獲物】に手を伸ばしていた。
生きるんだ。その一心でその手をはねのけて……。
僕はいつの間にかベッドで微睡んでいた。久しぶりに痣について考えたせいだろう。昔の思い出したくもないことなんか思い出して……。
厳重に心の引き出しの奥深くにしまったはずだったのに……。
いつの間にか目の前に放りだしたスマホがぼんやりと光っていた。多分これが僕を微睡みから起こした犯人。
≪明日ね、学校で家庭科があるんだって。そこでさ、自分たちで調べて献立立てて料理を作るんだって。連君がさ、食べたいもの作ってあげるから学校に来なよ。私、頑張るから≫
……食べたくなんかないんだよ。何かを壊すくらいなら、僕が壊れたいんだよ。なんでわかってくれないんだよ……!
偶然にも僕の目の前には、悲惨な記憶から目覚めて最初に見たどこかの病院の天井に似た東家の天井があった。
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