第2話 連休と食欲とトラウマと

 今年のゴールデンウィークは、一人静かに東家の自室で図書館から借りてきた小説を読んで過ごすことになっていた。小説は良い。質素な活字でつづられた物語は、僕にとって唯一許された業だ。他人からすれば苦痛かもしれない文字の羅列。それから得られるものがなかったとしても、つらい娯楽ならなら僕にだって許されるはずだ。

 ゴールデンウィーク初日の今日は、午前中はそうやってベッドに横になってページの文字を追った。それに飽きると部屋掃除。

 僕が見殺しにした瀬戸内雪菜は、あれから僕にしつこいくらい連絡をよこす。

 何度か不合理な乗り物に乗った日の帰り、スマホを買わされた。もちろん、本人確認の書類やハンコなんかは持っているわけではないから、店に入るなり門前払いだったけれど、僕にとって都合の悪いことが起きた。

 買い物帰りのおばさんがたまたま店の前を通り過ぎようとしていたのだ。悪いことは重なるもので、おじさんの車も店の前に路駐する形で止まっていた。

「あら、連君。もう帰り? 送っていこうか?」

 おばさんの声に助手席側の窓をあけたおじさんが顔をのぞかせる。

 週末に女の子を連れて歩いている。罪悪感を感じる必要はない。でも、羞恥心を超える面倒な気持ちで、心は真っ黒になった。

 最悪。この二文字が頭を埋め尽くす。

「隣の子、彼女?」

「おい和子、そんな事聞いても連君答えづらいだろ」

 答える気はない。でも、そんなことをして里親であるおじさんとおばさんとの関係に溝を作りたくはない。そう思った僕は、平静を保って「違いますよ」と口を開いた。

「初めまして。葉月君とは仲良くさせてもらってます。瀬戸内雪菜といいます」

 仲良くさせてもらっているという言葉は、おじさんとおばさんにどう響いたのだろうか。二人とも顔を見合わせてふっと笑った。

「ところで、どうしたの? こんなところで」

「実は、葉月君に携帯を持ってもらおうかと思ったんですけれど、身分を証明できるものとハンコを持ってなくて」

 その会話に僕が入る余地はなかった。スピーディーかつ的確に瀬戸内さんの思惑通りに事が運んでいく。

 おじさんとおばさんは、僕に友達ができたと勘違いしているのか。はたまた、彼女が出来たと本当に勘違いしているのか。二人とも意気揚々と財布を取り出して、僕は再び携帯ショップへ消えていった。


「連休初日の金曜日。いかがお過ごしでしょうか」

「部屋掃除とかしてる」

「へー」

 彼女の最後のメッセージを最後に、僕は再び掃除機のスイッチを入れる。

 この間の遊園地での件で任務完了のはずが、どういうわけか今日もその任務を遂行している。

 嫌なのかと問われると、そうではない。例えていうなら味のないガムを噛んでいるような気分。なにも感じないし、まずくも旨くもない。だから苦ではない。じゃあ、楽しいのか? という考えに至り、その考えを打ち消すように机の奥のほうに掃除機を送り込む。

 すっきりした部屋に一人。休日はこうでありたい。ベッドに横になるとそのまま寝そうになるので、椅子に腰かけて文庫本を手に取る。僕の住む東北の港町から出た作家さんらしいその小説の表紙は、パステルカラーで描かれていて、木漏れ日の中で本を読む主人公の姿に引かれて借りてきた。

 欲望なんて持たなほうがいい。こうして一人の時間を静かに過ごせれば人生はきっと幸せだ。

 そんなことを考えて1章を読み終えたあたりで、さっき放ったスマホが淡い光を放って今のところ唯一連絡先に登録してある瀬戸内雪菜からの連絡が届いたことを知らせる。

 普通はきっと里親の二人の番号を登録すべきなんだろう。僕は、引き取られて葉月連から東連に変わった。でも、僕の中では僕はまだ葉月で、東の家には住んではいない。ここは僕の仮の住まいで、本当の家は……。

 ガタっと音が鳴ったかと思えば、そのままスマホは床に落下した。

 瀬戸内雪菜からの通話が入ってきた。スマホはおろか携帯すら持ったことのない僕のために、瀬戸内さんは自らの写真を僕のスマホに転送して、通話画面に設定していた。遊園地で嫌がる僕を無理やり二度目のジェットコースターに乗せた後、アイスクリームを堪能しているときの写真で、笑いながらピースサインをしている。その後ろには僕がぐったりとベンチに座っていた。

 僕はその電話を取るかどうか事案した。

 僕の時間が壊されるのは明白で、僕が犯した罪に関してはあの日のジェットコースターやバンジージャンプ、ついでに乗ったメリーゴーランドと三度目のジェットコースターでチャラのはず。少なくとも僕はそう思っている。別に自分の時間に欲求を感じているわけじゃない。ただ単に静かに過ごしたいだけなんだ。僕の生活をひっかきまわさないでほしい。

 数秒目をつぶり、軽く息を吐いて、再びスマホを見た時には、通話画面は終了していた。

 これでいいんだ。

 僕は三度掃除を開始する。それが今日の何気ない休日の本来の過ごし方。僕だけの時間。


 まばゆい光の先に、皿に乗ったおにぎりが見える。

 鈍器で殴られたような腹部の痛みで目が覚めたのか、すさまじい飢えで目が覚めたのかわからない。

 ただ、僕は本能のままその光の先に手を伸ばした。

 死んでたまるか。

 生きたい。食わないと、死ぬ。

 薄れる意識の中、揺らぐその先で、視界の隅からぼんやりとした輪郭の白い腕が伸びてきた。その腕もまた、目指す先は光の中らしい。

 僕は迷わずその手を払いのけた。


 深夜を回っていたことを、ベッドのわきの目覚まし時計の長針の動きで知る。

 また、この夢か……。

 もう何度目だろうか。この悪夢を見るのは。

 全身から吹き出す汗に、背中が冷たい。

 心臓を突き破るような激しい動悸で、思わず胸倉をぎゅっとつかんだ。胸が、苦しい。母さんだって苦しかったはずなのに、僕は夢で自らの罪から逃れようとしているのか。客観的にそれを見ることで、苦痛を和らげようとでも。

 最低な奴だ。僕は。

 喉が張り付きそうになっていた。乾いたなんて軽い表現じゃとても言い表せそうにないくらいの苦悶に、僕は水を欲した。


 自らの命を守るために。


 ずいぶん利己的な本能だとつくづく嫌になる。蹴落としてまで生きながらえておきながら、蹴落とした命の責任から逃れようとしている。

 

 僕は、汚い。


 居候の身である僕は、どういう事情があるにせよ、東家には迷惑をかけるわけにはいかない。階下の二人に感づかれないようにそっと階段を下りる。暗闇に紛れ、まるで悪霊のようにひっそりと。

 そしていつものように、洗面台の照明をつける。

 そこには青白い顔をした人物が、明滅を繰り返す蛍光灯の下で現れては消えた。

 生きた心地はしない。あの夢を見るたびに僕は……。

 臓物をひっくり返されるかのような吐き気に、思わず胃のなかのものを吐いてしまう。

 汚い、汚い、汚い。汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い。

 夢を思い出すたび、何かを欲するたび、頭の中をこの言葉が埋め尽くす。そして、僕という器の限界を迎えてあふれ出す。

 欲望なんて、醜いだけだ。

 ぼんやりと、洗面台の端に置いたスマホが、淡い光を発していた。気づかないうちに連絡が入っていたいようだ。

 誰からかは知っている。今のところ僕の連絡先は死神くらいしか知らないはずだ。天使によく似た死神。

「人の電話くらい出なさいよ。明日、十時に気仙沼駅集合。遅れるときはちゃんと連絡すること。女の子と出歩くんだから、それなりの服装に着替えてきてね」

 欲望が醜いなら、彼女の生きたかはどうなんだろうか。

 欲しいものを欲し、行きたいところへは誰かを強引に引き連れてでも行ってしまう。僕にはそれがひどく醜く見える。彼女は僕とは違う生き物だ。生きてきた環境が違う。境遇が違う。だから、僕は何も欲しがらないし、彼女は何でも欲しがる。それがたとえ僕みたいなつまらない人間でも。

 目の前には相変わらず、青白い顔をした死人のような僕がいる。

 彼女は正直、奇麗すぎる。砕けた表現なら、天使だ。僕が初めて彼女を見た時に思ったことだ。

 彼女は僕を迎えに来たのかもしれない。二人も殺したこの僕を、地獄の閻魔が丁重にもてなしてくれるとはとても思えないけれど、これも運命なら僕は……。

 けだるい顔に冷水を何度もかける。

 とにかく、明日も彼女に会いに行こう。そうでもないと次に学校に行くときに、杏奈にも怒られそうだ。

 

 実際、服装なんて僕にはよくわからない。別に瀬戸内さんをどうこうしたいわけじゃないし、今日という日に何か思い入れがあるわけでもない。ひとまずは洋服箪笥から引っ張り出して着てみたけれど、これが果たして正解なんだろうか。ありきたりなジーンズに、ありきたりな白地のシャツ。

 時刻はあと数分で約束の時間。十分も前に来ているからといって、別に何の感情も抱いてはない。これは、仕方ないことなんだ。それにしても、当の本人から連絡が一切ない上にこちらのメッセージは既読はつくものの返信がない。まさか、本人が忘れているなんてことは……。

 5月5日午前10時53分。彼女はまだ来ない。

 僕らの住んでいる町は、数年前に大規模な自然活動で甚大な被害にあった。何人も死んだ。その中に僕の知り合いは一人もいない。友達が少ないことに感謝をしたのはこれが初めてだ。そういうわけで、僕らの街には電車がない。代わりに線路があった場所に道路を設けて、バスを走らせている。線路は、波で強引に曲げられて、スクラップになった。

 駅の中に入ってみようかとも思ったけれど、入ったからといって乗るわけではないし、そもそも彼女は本当にやってくるのか分からないからここで見張っておくのが賢明な気がした。スマホをもったからといって、僕がそれで何をするわけでもないのだから、この時間は苦痛だった。

 ゴールデンウィークといっても、別段人が増えるわけでも、減るわけでもない。僕が見ている町の景色からすると、帰省客が増えた分、旅行客で減った。プラマイゼロ。とりわけ、僕くらいの年の住民が見たらないのは、きっとどこかに出かけたからだろう。一人、二人と通りを歩く人を眺めていると、その中に一人だけ僕と同い年くらいの女の子が混じっているのが見えた。

 時刻は既に11時8分。自分から誘い出しといて、堂々の遅刻だ。手には綿あめが雲のように盛られている。

「ごめーん。通りで売ってた綿あめがどうしても欲しくなっちゃって」

「呼び出しのはそっちでしょ」

「だからごめんって」

 水色のワンピースに片手には綿あめ。白い肌が覗く服装は、正直目のやり場に困った。逆にここで視線を外そうものなら、それこそいろいろとつつかれる恐れがある。

 肌を焦がすような、熱を帯びた風が吹いた。もう夏も近いのかもしれない。


 人混みは嫌いなんだけど、と僕は最初に抗議した。

 それを彼女はバスの車内で「だから練習するんだよ。私のやってることもそう。練習すればきっとうまくいくから」

 どういう神経での発言なのかよくわからない。どうしてそこまで死ぬことについて前向きなんだろう。このことを僕は気軽に触れてもいいのもなんだろうか。

 バスは、遊園地の日と同様に、見慣れた風景を追い越していく。僕の知らない、町から街へ。

 バスを乗り継いで、電車を乗り継いで。ついた先は焼き肉屋。

「ここの一度はたべて見たかったんだ」

 いかにも開業20年な雰囲気の煤けた看板。大通りから一本裏地に入ったさみし気な老舗。お昼は過ぎているからか、そもそもそういう店なのか、周囲に人気はない。どこからか聞こえてくる風鈴の音と猫の鳴き声がその閑散とした通りに微かに着色を施している。

「もっと新しい店かと思ってた。なんか」

「なんか?」

「マダムみたい」

 これでも僕なりに言葉は選んだ方だ。僕は正直今流行っている何かしらの甘いものなんかを想像していた。だからと言ってなんの準備もしていないし、妙な緊張感で心臓が大きく脈打っていた。それが、まさか老舗の焼き肉屋だとは思ってもみなかった。冷静な対処を望まれる場面のはずなのに、僕の脳みそはそのことでパンクしてしまっていた。制御をなくした舌が勝手に動いているみたいに口走っていた。

「通って言葉を知らないの? いいから、入った入った」

 フラッシュバックという言葉が相応しいと思う。何かの記憶が頭の片隅で燻ぶった。気が付いた時には、防衛本能が働いたらしく、僕は腕で頭を隠すようなしぐさを取っていた。

 殴られるかと思った。

 腕二本の隙間から、彼女がきょとんとした表情で小首を傾げるのが見えて、僕は苦笑いで誤魔化した。


 豚、牛、鳥、魚。世の中には食用として大体この四つが存在している。

 瀬戸内雪菜と知り合うころの僕よ、聞いてくれ。

 この世の中には羊を食べる文化があるようだ。


 目の前には大皿に乗った薄切りにされた元羊が。

 特殊な形をした鉄板の上に、油の塊を投入する。

 僕は羊を食べたことはない。可哀そうだなんて菜食主義者みたいな話ではない。単純に興味がなかった。別に羊じゃなくたって食肉用の肉ならある。

「ここの店、雑誌では取り上げられないんだけど、結構評判なんだって」

 鉄板の上で肉が躍る。音で脂が滴るのがわかる。野菜だって、見ているだけで……。

「どうしてそんな評判なのに雑誌に載らないの?」

「だって雑誌に載ったら想定以上のお客さんで、私みたいな人間が寄り付かなるでしょ。今日は、ここ食べ放題だから」

 メニューが壁に千社札のように張られていて、その一角に金曜限定一時間食べ放題と書かれていた。

 どれだけ食べてもいいだなんて、堕落じゃないか。節制のない食欲の暴走。

「食べないの?」僕の考えとは真逆の行動で瀬戸内さんは今日で二回目の小首を傾げる。

「僕はいいよ。今日は君に呼ばれてきたわけだし」

「そんなに私と食べる食事はつまらない?」

 静かに箸をおいて、瀬戸内さんは僕を見据えた。

 つまらないわけではない。もちろん。楽しいなんて感情は僕にはいらない。ただ、本当に目の前のものが食べれないだけなんだ。それを今、彼女に説明してあげる必要はある。でも、そんなことをしたらきっと人ではなくなる。

「黙ってるってことは、図星なんだ」

 鞄に荷物を積み込んで、瀬戸内さんは席を立った。思わず声を掛けようとしたけれど、間に合わなくて……。僕が彼女に追いつくころには、会計を済ませて帰ろうとしていた彼女が財布からお金を出していた。

「悪かったって」

「何が? 仕方ないと思うけど? つまらないなら」

「そうじゃなくて」

「何がそうじゃないの? 葉月君、いつまでも私のこと君って呼ぶし」

「それは……」

 店員が、食べ放題の時間について説明してきたけれど、彼女は結構ですからと強引に会計を済ませて扉に手をかけた。

「なんでも驕るから」

「……本当?」


 人でなくなる覚悟は決めていない。

 でも、彼女には何か別な方法で僕が食べ物を食べられないことを教えておく必要がある。

「食べれないんだ。ご飯」

 そう言うしかなかった。あれこれ考えても、結果的にこの言葉に似たニュアンスの言葉は避けては通れないだろうし、また沈黙が続くようであれば、それはそれで険悪な雰囲気になってしまう。

「いつから? どうして?」

 聞くなよ。なんて心で叫んでも、ジンギスカンを頬張る彼女……じゃない、瀬戸内さんに聞こえるはずもない。

「この学校に編入する前、理由は言えない」

 あっての後の言葉は自分でも何を言っているのかわからなかった。わかりたくものなかったし、思い出したくもない。

「人には言えないようなことなの?」

「言えない。このことを君に話すときは、きっと僕は人ではなくなるから」

「また君って言う」

「ごめん、癖がついちゃって。でも、話は本当。僕は今のところこれで命をつないでいる。これしか、咽喉が通らない」

 僕が毎日生きるために接種しているサプリメントを見せることにした。論より証拠。僕はこれがあるから生きていられるし、逆に言えばこれがあるから食べ物が咽喉を通らないのかもしれない。

 ポケットから取り出した錠剤は、さながら薬物のようにもみえた。

「なんだ、私と一緒じゃん。私ね、食後にこれを必ず飲まないとすぐ寝ちゃうんだ」

 瀬戸内さんも同じような見た目の健全な薬物を持っていた。

 彼女はこの薬がないと眠ってしまう……。

 ふいに間抜けな音がおなかから鳴った。僕には食欲なんてものは存在しないはずなのに、こんなタイミングで鳴るなんて。

 何かを察した瀬戸内さんは、何かを察したのか僕の話を聞いていなかったのか「食べてごらんよ。おいしいよ」と今まで自分が使っていた箸で肉を掴む。

 彼女が差し出す小皿に乗った羊肉。匂いはきつそうだけれど、脂の乗った肉に、唾を飲んだ。

 握った箸がやけに震えた。久々のたんぱく質に体が喜んでいる。肉だ! 新鮮な栄養素だ!

 一口口にした瞬間、罪悪感の味がした。同時にあの呪詛が頭を黒く塗りつぶす。

「どうしたの?」

 ぐちゃぐちゃになった意識の外の方で、僕を心配している声が聞こえたけれど、そんなものでは僕を覆う黒い靄は晴れはしない。

 突き上げるような吐き気、過剰に敏感になった肌、寒気。僕の神経はそれらのデータ処理に割かれていた。意識の外では、連休を利用してやってきた家族連れのはしゃぐ声と、威勢のいい店員の声。煙にまみれてたばこのにおいもしてけれど、そのどれもが僕の感覚を研ぎ澄ましてはくれなかった。

 口の中はパニックだ。吐き出したい理性と、飲み込みたい本能が混沌とした状況を口内で作っていた。

 来るときは背筋に汗をかくほどの熱が外を支配していたのに、今では冷汗が全身から噴き出ている。

「無理しなくてもいいよ。トイレに行ってきなよ」

 僕はその言葉に甘んじて席を立って、狭い通路を急いでトイレへ向かった。


 幸せというのは常に不幸の中にあるものだと思う。

 吐きたい衝動に駆られて吐き出した後の解放感は言葉では言い尽くせないほどのものだった。

 僕は、席に戻るなり、コップに注がれた冷水を口内を洗浄するように飲み干した。

「やっぱりだめだったね。ごめんね無理にすすめたりして……」

「おいしいとは思う。食べたいとも。でも、だめなんだ。欲しくない。僕には、欲望というものが希薄なんだ。今日までそういう感情を排除してきた」

 体が空腹を訴える音がまたした。鞄からいつものサプリメントを取り出して、コップに注いだ水で飲み下す。これで少しは収まってくれるはずだ。これまでもそうしてきたし、これからもそうするだろう。

 動悸が少しづつではあるけれど収まってきた。おかげで僕が置かれている状況もわかってきた。

 背筋に冷汗をかくほどの室内温度は思ったほど低くはない。目の前の瀬戸内さんはデザートと言わんばかりに店の名物だというずんだで作ったアイスを食べていたくらいだし、完全に僕の感覚異常が招いた結果だろう。そして、意識の遠くから声をかけてくれていた瀬戸内さんは、僕の起こした反応に唖然としていた。

 当然だ。

 人が生きて行く上で必要不可欠な行為であるはずの食事がまともに取れない。激しい嘔吐に見舞われて、ついに吐き出してしまう。

 目の前でサプリメントを食事と称して飲むさまは、異常な光景だろう。

 こんな人間を好きになってくれる奴がいるわけがない。そう思った。

「おいしいと思うなら食べればいいじゃん。吐きたくなったら吐けばいい。それが人間だと思うし、当たり前。どうしてそこまで食べることを嫌うの? 吐くのが恥ずかしいとか?」

「どうせ手に入ることのないものなら、いっそのこと壊れてしまえばいい。手に入るかもしれないと頑張った先で挫折して結局手に入らないなら、それまでの努力とか、行動とか、時間が無駄になる。僕はそういう意味のないことはしたくない」

「意味ならあるよ。たとえ吐いてしまったとしても、それの味は知ることになるでしょ? 手に入るかもしれないと頑張って、それがもし叶わなかったとしても、頑張った時間とそういう人間に近づけたって言う事には意味ができるでしょ。何事もやってみないと人生損するよ。人生なんて意外とあっという間なんだから。知ってる? 今こうしている間も実は地球には隕石が何個も接近していて、それがたまたま当たらずに通過していくんだって。私たちは可能性の上で生かされているんだよ。明日も絶対に生きている保証なんてない。人生というフルコースを味わうために今日があるんだよ」

 はい。と出されたのはオレンジ色の液体。健康的に甘そうで、飲みたい衝動に駆られてしまう。

「飲みなさい。まずは、飲み物から」

 吐いてもいい。飲みきれなくてもいい。少しでも慣れよう。人生というフルコースを味わうために。

 含んだ一口は、頬に染みるほど甘く、飲み込むのに数秒要した。しばらく味のついたものを口にしていない体は、その味に拒絶反応を示したみたいだった。

「どう? 久々に味のついた飲み物は?」

「なんというか、罪悪感の味がする。まずくはないけれど」

 思った以上の酸味に僕はむせていた。気管にわずかに侵入した水分を、体が異物として除去しようとしている。

 うつむいた状態の僕の視界から、目の前に置いていたはずのジュースの注がれたコップが消えた。

「別にフツーのオレンジジュースだけどなぁ」

 見上げた僕は驚嘆した。

「なに赤くなってんの? 別にふつーでしょ」

 今までドラマか小説の中でしか見たことのない青臭い経験を、僕は体感していた。

 

 瀬戸内雪菜に振り回される前の僕よ。

 君は知っているか?

 この世の中には平然と人の心をもてあそぶ魔性の女がいることを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る