「また来ます」

 次の日、秋穂は学校帰りにバイト先である幸せ処に向かっていた。


「おはようございます」

「おはようね、秋穂ちゃん」


 笑顔で挨拶を返してくれた由紀子は、昨日の事はもう気にしていないようにいつも通りに振舞っている。

 秋穂は由紀子の様子を確認し、安堵の息を吐いたあと笑顔で「着替えてきます」と更衣室に向かった。


「あら、秋穂ちゃん。おはよう」

「おはようございます!!」


 更衣室では、皐月が化粧直しをしていた。


「今日は何も無かったんですか?」

「うん。今日はいつも通り、平和だったよ」


 鏡を見てチークを付けてながら答える皐月に、秋穂は胸を撫で下ろす。


「そんなに気にしないで。秋穂ちゃんは少し不安かもしれないけど、ここを売るなんて事はしないと思うよ」


 ポーチに出していた化粧品を戻しながら、彼女は笑顔で伝えた。だが、表情は少し疲れており弱々しい。


「皐月さん……」

「さぁ、今日もお客様を迎え入れるよ。頑張ろうね、秋穂ちゃん!!」


 伸びをしながら更衣室を出て行く皐月を見送り、秋穂も急いで着替えを終え、お店へと向かった。


 ☆


「今日は何も無くて良かったぁ……」


 バイトが終わり、秋穂は家に帰っている途中。今日は少し冷える為、手にはカイロを持っていた。

 空は雲がなく、星が散りばめら彼女を明るく照らしている。


 空を見上げながら歩いていると、前から歩いてきていた男性に気付かずにぶつかってしまい、秋穂はしりもちをついてしまった。


「いたた……」

「大丈夫ですか?」


 手を差し出してきた男性は、黒いスーツに身を包み片手にはビジネスバッグが握られていた。

 黒いメガネをつけているため真面目そうな印象を与えるが、表情が硬いため少し怖い雰囲気もある。


「あ、すいません。ありがとうございます」

「前を見て歩かなければ危ないですよ」


 男性は秋穂を立たせたあと、そのまま歩き去ってしまう。

 秋穂も帰ろうと歩き出そうとしたが、足元に何かが落ちているのに気付き拾い上げる。

 

「これって……。あの!!」


 秋穂の手に握られているのは小さな紙だ。会社名と名前が書いており、恐らく先程の男性が持っていた名刺だと予想出来る。


 慌てて振り向き、男性を追いかけようとしたがもう姿はなく、追いかける事が出来なかった。


「まぁ、紙一枚くらい気にしないよね」


 秋穂は自分に言い聞かせるように呟き、自分のバックの外ポケットへと入れた。


 紙には──


 "株主会社詩月かぶぬしがいしゃしづき詩月正司しづきしょうじ"


 ────と、書かれていた。


 ☆


 秋穂とぶつかった男性は、真っ直ぐ幸せ処へと向かっていた。そして、辿り着きお店のドアを開ける。


「いらっしゃ──また、貴方ですか」


 レジ締めをしていた由紀子は、ドアが開いた事に反応して笑顔で挨拶したが、入ってきた人物を確認すると険しい顔になってしまった。


「貴方が頷くまで、私は何度でも来ます」

「もう来ないでください。何度来ても結果は同じです」

「それでも来ます。あと、これを」

「受け取りません。貴方の名刺は最初に受けとり名前も伺っております。詩月正司さん」


 由紀子は出された名刺を受け取らず、鋭い視線を送る。それでも正司はお店を出ていかずに、その場に留まっていた。


「周りの方々にはもうサインを頂いております。後はここだけなんです」

「だから、なんですか。私は絶対にサインなんてしません。お帰りください」

「こちらのお店はここ以外でも出来ます。なぜこの場所にこだわり続けるのか………。私には理解出来ません」

「えぇ、貴方には理解出来る訳もありませんし、理由を話す気もありません。お願いですからお帰りください」


 由紀子が男性に近付き、苛立ちの含んだ言葉を言い放った。すると、男性は何を思ったのかビジネスバッグから紙とペンを取り出し、差し出す。


「なっ!! なんですか。私はサインなどしません。お帰りください」

「貴方の意思がどうであれ、ここにサインをして頂かなければなりません。でなければ、無理やりにでも出て行って頂く事になります」


 抑揚がなく淡々と言う男性に、由紀子は顔を青くした。


「さぁ、ここにサインしてください」


 名刺に書いてあった会社名、株主会社詩月。

 その会社は大企業なため、こんなに小さなパン屋など簡単に潰す事が出来てしまう。

 それでもサインを頂くように説得しているのは、少しでも良心が残っているからだ。だが、もう我慢の限界が近く、正司は脅しにかかっている。


「それは………」

「脅しではありません。本当にここのパン屋を潰す事が出来ますよ。名刺を受け取ったのでしたらどこの企業かもおわかりかと思います。なら、ここにサインした方が貴方達に取っても良い事なのではないでしょうか」

「…………」


 由紀子は震える手でペンを掴もうとした時、皐月がお店の奥から出てきた。顔を赤くし怒っているように見える。


「待って由紀子さん!! 駄目よそんなの。そんなの誰も納得しないわ」

「皐月ちゃん………」

「今日は帰ってください。いくらなんでも酷すぎます!!」

「…………今日は帰らせて頂きます。ですが、ここが潰れるのは、時間の問題かと」

「ご心配なく。それにサインするくらいなら最後の最後まで足掻いてみせますよ!!」


 皐月はキッと男性を睨み付け、力強く言い放った。


「絶対にここは貴方達に渡しません!!」

「そうですか。では今日はこれで──また来ます」


 男性はお店を出ていき、残された二人はその場から動く事が出来なかった。

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