「もう手遅れだ」

「ふざけんじゃないわよ!!」


 林の中で叫んでいるのは美術部部長、黒井江梨花だ。

 朱里を罵倒した次の日、なぜか青夏と付き合う事になったと聞き、怒りで我を忘れている。


「なんで、なんでよ! あの弱虫がなぜ! 絶対に許さない! また開けてもらえばいいわ。そうすれば、私はまた自由よ!!」


 血走らせた目をまっすぐ前に向け、すごい剣幕で林の中を駆けて行く。小さな声で「匣……、匣を……」と呟きながら走っている姿は醜く、異様な空気を纏っていた。


 憎しみや怒り。そのほか負の感情が溢れ出ており、今はもう、周りなんて何も見えていない錯乱状態だ。

 葉が江梨花の腕や足を切り付けるが、痛感も麻痺しており全く気にしない。ただひたすら一つの場所へと走り続けた


 陽光が江梨花まで届かず、薄暗い。光芒している薄暗い林の中を進んで行くと、見覚えのある古い小屋が見えてきた。


「あったわ。ここよ! 前来た時と同じだわ!!」


 江梨花は小屋を見つけ、手を大きく広げ大袈裟に喜び。息を整えるのも忘れ、ドアを勢いよく開けた。古いドアなため、開けた勢いで壊れてしまいそうに音を鳴らす。


 周りを見回すが、小屋の中も明るいわけではない

 外の光が中を照らしている訳でもないため、中を見通すのがやっとだ。そんな中、ソファーの上で一人。誰かが横になっているのを確認出来る。

 その人は小屋の主である、筺鍵明人。雑誌を顔の上に乗せ、寝息を立てていた。


「ちょっと! 起きなさいよ!!」


 寝ている彼を目にし、彼女は大きな足音を立てたながらソファーへと近付き、乱暴に雑誌をどかし壁の方へ投げた。その衝撃で明人は眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに唸り声をあげる。瞼をゆっくりと開け、漆黒の瞳で江梨花を見上げた。

 その瞳には闇が広がっているように見え、見つめられると今にも吸い込まれてしまいそうな感覚に陥ってしまう。


「あ? お前……来たのか」

「ちょっと! 私の匣をもう一回開けてちょうだい!」

 

 今回彼女が小屋に辿り着いたのは、これが初めてではなかった。

 一回目は、明人も他の依頼人に向けているような優しげな笑みで対応していたはずだが、今の彼女にはそんな違いなど気にする余裕は無い。

 血走らせている目はどこを見ているのかも分からないほど揺れており、その目には憤怒の炎が宿っていた。


 今にも明人に噛みつきそうな剣幕を向けているが、それでも彼は慌てる事なく、冷静に口を開く。


「……一人の人間一回だけだ。それ以上は──」

「そんなのどうでもいいの! 早く開けなさいよ!」


 明人の言葉を遮り、江梨花は彼の胸ぐらを掴み無理やり体を起こし揺さぶる。興奮している彼女は狂気に満ちた目を浮かべており、その瞳は自分の欲望しか映していない。


「早く、早く……。私の方があいつより上よ。 青夏は私のモノよ、絶対に渡さないわ!」


 やられるがままだった明人だが、揺さぶられながらも江梨花の様子を伺っていおり、妖しく薄い笑みをこぼした。


「そうか、匣を開けて欲しいか。いいだろう、開けてやるよ」


 低く、脳に響くような声で明人は呟き。彼の返答で、江梨花は胸ぐらを掴んでいた手をするりと離した。


「これで、これで青夏は──私の……」


 小声でブツブツ呟く彼女の頭を、明人は乱暴に掴み無理やり自身の目と合わせる。その時には、もう五芒星が刻まれている右目は露わになっていた。


 江梨花は驚きや痛みの表情を一切せず、異様な笑みを浮かべながら。彼の右目に吸い込まれるように魅入った。


「お前の歪んだ束縛心、真っ黒に染まった匣。束縛は人を強くする時もあるが、大抵は狂わせる。ここまで染まったらやる事は一つのみ」


 江梨花は明人の言葉など耳に入っていないようだ。ブツブツと先程から同じ言葉を呟き続ける。

 もう、人の言葉など耳に入っていない。


「お前の醜く歪んだ感情。お前の匣から滲み出ている闇。もう手遅れだ、頂くぞ」


 そのまま左目を閉じ、江梨花も明人の瞳を最後に目を意識を失った。


 ☆


 江梨花が次に目を覚ましたのは、真っ暗な空間。初めて匣を開けた時とは明らかに違っている。

 周りを見回すが何も無い、真っ暗な空間が永遠と続いていた。


 重苦しく、若干寒気のする空間に彼女は慌てふためき、何かないかと探す。だが、手を伸ばしても歩こうとして意味はない。

 どこにもぶつからないし、何も掴めない。真っ暗な箱に閉じ込められているような感覚が江梨花の身体を包み込む。


「ちょっと、匣を開けるんじゃないの?! 早く開けなさいよ!」


 周りに叫び散らすが自分の声しか聞こえず、彼女が口を閉じれば静寂に戻る。


 さすがに怖くなってきた江梨花は、震える体を小さく縮こませてしまった。目には涙を浮かべ、頬を濡らす。すると、いきなり彼女の背中に男性の人影が現れ、何かを感じた江梨花は期待と恐怖が入り交じっている目を見開き、勢いよく振り向いた。だが、直ぐに人影は消えてしまい、彼女は歯をガチガチと震わせ瞳を揺らす。


 その時────


「お前の匣は頂くぞ」

「ひっ!! いやぁぁぁぁぁあああああああ!!!」


 目の前には人を陥れ、それを楽しんでいるような歪んだ笑みを浮かべた明人の顔が闇の世界から浮かびあがった。その表情を見た瞬間、彼女は恐怖に体が包まれ泣き叫んだ。


 闇の空間には明人の笑い声と江梨花の叫び声が鳴り響いた──────


 ☆


 林の中、捜索隊が忙しなく走り回っていた。


「居たぞ! ここだ!」


 一週間行方不明となっていたため、江梨花の両親が警察に捜索願を出していた。

 やっとの思いで林の中で木にもたれかかっている彼女を発見したが、様子がおかしい。声をかけるが返答はなく、ピクリとも動かない。


 そんな彼女を捜索隊は不思議そうな表情でジィっと見下ろしている。近付くのさえ躊躇してしまい、小さな声で名前を呼びながらおそるおそる手を伸ばした。

 捜索隊の手が彼女の肩に触れた時、抗うことなく地面に倒れ込んでしまう。


 死んだ訳では無い。心臓も脈も正常に動いているが、目はどこも映していなく虚ろな状態。

 まるでのように、地面に倒れていた。


 ☆


 小屋の中では明人が珍しく、素直にカクリへ小瓶を渡していた。


「ほらよ」

「……明日は雨が降る予報では無いはずだが。一応出かけるなら傘を持っていった方がいいかもしれないな」

「そうだな、天気予報なんてもんは外れるのが当たり前なんだよ。それを信じすぎる馬鹿どもが風邪をひき周りに伝染させる。本当にウザイ話だ」


 言いながら明人は一息付き、ソファーへと倒れるように寝っ転がる。顔色が悪く、相当疲れていた。


 匣を開けるだけでも体力を使うが、匣を抜き取るのはその倍の体力を消耗してしまう。そのため、終わった後は大抵すぐに寝てしまう。

 しかも、今回は”開ける”と”抜き取る”を短期間で計三回もやり遂げた。倒れ込むのも無理はない。


「お疲れ様だ明人。今日はゆっくり休め──って、もう寝ているのかい。全く、仕方がないね」


 先程、江梨花から抜き取った匣が入っている小瓶を受け取ったカクリは、その小瓶をテーブルの上に置き、毛布を持ってきて明人に被せる。


「無理をさせてすまない。だが、今の所はこうするしかないのだ。許しておくれ明人よ」


 目を細め、労わるように明人の頭を一撫で。小瓶を片手に部屋の奥へと行ってしまう。


 小屋の中には、明人の寝息だけが一定のリズムで静かに聞こえていた。


 ☆


「やっと、見つけた。上手く隠していたみたいだが、死んでいなかったようで安心したよ。お前には、まだまだ地獄を味わってもらうぞ、荒木相想あらきそうし


 その声からは憎しみしか感じず、重くのしかかる声だった。その声の主は、暗闇の中を歩き、月明かりすら届かない場所で、少年と二人。空を見上げた。

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