朱殷(3)(本編第47話既読推奨)


「あれ、越瑚えつごは?」

 朱鷺ときが勘定を終えた頃、たたらが首を傾げた。

「匂いが嫌みたいで、向こうで待ってるって言ってたんだけど……」

 往来に越瑚の姿が見えない。彼は上背があるから、多少ひとが多くともすぐにわかりそうなものだが、見渡す限りにおいて彼のだいだい色はなかった。

「どこまで行っちゃったんだろう」

 雛が呟くと、朱鷺が当初向かっていた方向を指し、

「向こう、と思うが……。悪い、香屋の匂いが強くて鼻があまり利かない」

「ちょっと探してくるね。二人は待っていて」


 雛が向こうへ駆けてみると、にわかに人だかる往来が見え、そこに越瑚の姿を見つけた。

 そこでは、猿曳さるひきの芸が披露されていた。躾けられた猿が、猿回し師が打ち鳴らす鼓の音に合わせて、竹馬を乗りこなす。越瑚はそれを観賞していた。

 わっと沸く観衆。拍手の音。

 ひなは懐かしく思いながら、越瑚のもとに駆け寄ろうとしたところだった。背後から若い男の声がした。

 唐突に、人当たり良く、にこやかに。

 それがそれとはわからないように——?

「また会ったねえ、お嬢ちゃん。こんなに大きくなったんだねえ」

 その声は、忘れもしない声。生涯忘れることなどできぬ声である。


 往来。猿曳。熱狂する観衆。揺翅ユルギ——ここは、雨鳴ウメ桔梗ききょう様はいずこへ?

 ……いない、ここにはいない。ここには? 何を言うか、もうどこにもいない! あの『ひと』は死んだ! こいつに殺された! 愚かな私が手引きしたではないか——。

 体が硬直する。まるで、大縄で全身を縛り上げられているかのような痛みを伴い、振り返ることはおろか、身じろぎひとつ能わず。

 目の前の観衆の声が聞こえない。太鼓の音が聞こえない。

 がたがたと歯が鳴る音が体の内側から聞こえる。聞きたくない声だけをこの耳が集めてくる。このためだけにこの耳を切り落としてやりたいほどだ。

「どうしたんだい、そんなに震えて、……そうか、お嬢ちゃんも僕のことを覚えていてくれたんだね! 嬉しいなあ!」

 ああ。男は感嘆の声を漏らした。娼婦の裸体を前に惚けるような湿っぽさが混じる吐息が雛の耳に触れた。

「やっぱり、い色だなあ……。昔よりもよっぽど食い出があってだなあ……」

 心の底から気持ちが悪い。耳の先から全身に虫唾が走る。男は雛の体には指の一本も触れてはいなかったが、着物を剥ぎ取られ、無理やり嬲られる女はこんな気分なのだろうと思った。


 滲む視界。猿回し師が観衆を前に大きくお辞儀をする様が垣間見える。ひとびとが手を叩いている。音はない。雛の時間だけが進まない。雛は瞳に水面を張って、ただその様子を眺めていた。

 群衆の塊がほろほろと解け始める。猿回し師に投げ銭をする者があって、そそくさと退散する者もあった。

 越瑚は雛に気づいた。手を上げる合図をして笑んだ彼の顔がたちまち曇っていく。宜なるかな、彼は雛に駆け寄ろうとした。

「彼もいい色だなあ。お嬢ちゃんの恋人かい? ああ、そうだそうだ、目の前で恋人を殺すってのも大昔にやったなあ! お揃いの耳飾りをしていたから、形見にしてあげようってね、耳を千切ってあげたんだ」

 はあ。男は冷たいため息を吐いた。一挙に雛の背筋が冷たくなる。きんきんと。

「あの『おんな』のせいで『純白あのこ』を食べ損ねた。今思い出しても腹が減ってくる」

 ——来ちゃだめ!

 声を振り絞ろうにも喉が使い物にならない。肺が固まって、息すら吸えない。雛は金縛りに遭う体を必死に捩らせ、懸命に首を横に振った。


「雛?」

 越瑚の声。その瞬間に、体を縛る鎖が消え失せた。越瑚はよろけかけた雛をその胸に受け止める。

 途端に時間が流れ始める。聾となっていた耳が情報を垂れ流す。うるさ過ぎる喧騒だ。

「来ちゃだめ、あいつが……! 逃げてっ、」

 息の仕方も忘れていた喉であったから、掠れてしまって上手く声にできない。越瑚は怪訝な表情で雛に耳を傾けていたが、

「あいつ……? 誰もいなかったよ?」

 そんなはずは。雛はおそるおそる振り返った。——いない。

「……そ、うなんだ」

 すうっと、熱が引いてゆく。早鐘を打っていた心臓が冷静さを取り戻そうとしていた。

 雛はすぐに俯いて、意に反して半ば強制された涙を拭った。塩味が唇を濡らして不愉快だったが、これだけは越瑚に見せたくなかった、汚いから。

「びっくりさせてごめんね、私の勘違いだったみたい。気にしないで」

 越瑚は両手で雛の頬を包むように、雛の顔を持ち上げた。雛が見上げてみると、彼はひどく傷ついている顔をしていた。

「やだ、気にする」

 彼は不貞腐れたように言って、雛の唇に影を落とす。今度のそれは、下唇の柔い肉を食べるような口づけであった。彼は雛の代わりに、落とし損ねた涙の粒を食べた。

「ずっと一緒にいればよかった。ごめん。気をつける」

 越瑚は雛の腰に腕を回して、ぎゆうと抱き締める。『安心感』は重たくなければ感じないようだ。雛がそう思ったのは、覆い被さる彼の体に普段よりも重さがあったからであった。凍りついていた雛の全身が溶けて、体温を取り戻した。彼は太陽だった。

「ん、もう大丈夫だから」雛が言うと名残惜しくも、越瑚の腕の力が緩んでゆく。


 朱鷺とたたらをずいぶん待たせてしまったと思う。急いで戻ろうとした矢先であった。

 彼らはなんと、雛と越瑚のすぐ真後ろに立っていた。二人は雛の後からこちらに向かって歩いてきていたらしい。

 たたらはぶうと頬を膨らませていた。

「ねー、朱鷺くんてば、急に立ち止まっちゃってどうしたの? 黙るの禁止だってば、越瑚と雛見つけたの?」

「往来で越瑚と雛が接吻して、抱き合っていた。落ち着いてから声を掛けようかと、」

「…………わーーーーーーー!?」

 雛はすぐさま朱鷺の胸ぐらに掴み掛かった。前後に大きく揺さぶって、

「ちょっと黙ってーーーー!」



 ***



 いつから、どっちから、きっかけは。

 帰路の道中はたたらの追求が止まらない。歳上きょうだいの前で交際を告白させられる拷問。聞いているはずの朱鷺も、越瑚すら顔色ひとつ変えず、口も挟まずで余計にたちが悪いとさえ思えた。

 既に半月山の『神隠しの霧』の内側に入った。もう間もなく、屋敷の屋根が見える。

「——もう、そういうことは早く言ってよぅ! 水臭いなぁ!」

 たたらがこちらににやにやとした笑みを向ける。雛は顔に紅葉を散らす他ない。

「私たち、お邪魔だったねー?」

 足元が悪いからと、帰途の山道は朱鷺がたたらを抱き上げて移動していた。たたらの、朱鷺の肩越しに顔を出し、きゃっきゃとはしゃぐ様子は大きな赤ん坊のようだ。

「ねー、雛がぜんぜん返事してくれなーい。朱鷺くん、雛ってば、今どんな感じ?」

 朱鷺がちらりとこちらも見遣る。

「涙ぐんでいるように見える。顔も赤らい、……むぐっ」

 とにかくこの口が悪い! 冷静に客観的事実を並べるのだから、雛は余計な辱めを受ける羽目になるのだ。

「こらぁ! 朱鷺くんに御触り厳禁! 散った、散ったぁ!」

 たたらは朱鷺に代わって、雛の手を——どちらかといえば、叩き落とすに近い勢いで——振り払う。

「朱鷺くんもぼさっとしてちゃダメったら。絶対、絶っー対、黙るの禁止だって何回も言ってるでしょ。一緒にいるときはちゃんと私のことだけ見ててよぅ」

 たたらが朱鷺の首に腕を回す。朱鷺はよっと、たたらを抱き上げ直して、

「俺が悪かったよ」

 いくら小柄なたたらでも重いだろうに、山道を女ひとり抱き上げて歩いた上でこの返答。文句のひとつでも出ておかしくないが、朱鷺の殊勝な態度にはほとほと恐れ入る。


 屋敷の門をくぐると、ちょうど小桃こももが庭の掃除をしているところであった。雛らの姿を見て「おかえりなさい」と声を掛けた小桃は、越瑚と朱鷺を手招いた。

 ゆっくりとたたらを下ろした朱鷺は、

「少し離れても良いだろうか。小桃が土産物を包んでくれるそうだ」

「うん。でも、早く帰って来てね」

「ああ。すぐ戻る」


 離れる朱鷺と越瑚の背中を見送って、雛はすぐにたたらに言った。自分だけ白状させられて不公平だ。

「たたらこそ」

「何が?」

「なんだか朱鷺くんといい感じ」

 きょとんとなったたたらは急に笑いだす。

「……あっはは! 何それ! あり得るわけないじゃん! だって、あの朱鷺くんだよ?」

 ないない。たたらが手を振る。

「朱鷺くん、うぅーんと優しいから。もしこうなったのが、葱李きりちゃんだろうと、雛だろうと、きっと同じことするよ。そういうひとじゃん」

 そうだろうなと納得する自分もいて、そうだろうかと疑問に思う自分もいる。

 あのとき、朱鷺が見せた表情は特別なものだった。あれが葱李や雛に向けられる場面はどうしても想像できない。裏を返せば、たたらに向けた、あの場面は妙にしっくりきたということだ。


「良かった」

 不意にたたらが言った。

「私、雛が幸せなら嬉しいよ。雛のことね、大好きなの。今までの辛かったこと、全部どうでも良くなるくらい、幸せになってほしいの」

 曇りのない笑顔だった。見ているこちらの胸に深く刺さるような。雛は、たたらに羨望の眼差しを向けてしまったことが恥ずかしくて、居た堪れなかった。

「……たたらもだよ。たたらもなんだよ」

「私は幸せだよ。もう十分すぎるくらい」

 朱鷺は約束どおりすぐに戻ってきた。大した距離でもないのに、わざわざ小走りであった。

「戻った」

「うん」頷くたたらは、雛に耳打ちする。

「耳飾り買ってもらったら教えてね」

「気が早いよ」

「うふふ、雛ってばもらえることは疑ってないんだ。やるぅ」

「ちょっ、そういう意味じゃ!」

 きゃあと黄色い声を上げて、たたらはするりと逃げる。定位置の朱鷺の隣に収まり、彼の腕にくっついてはにこにことしていた。


 日は傾き始めていた。夏は日が長い分すぐには『オニ』は湧かないが、山道は暗くなるのが早い。そうなれば、たたらを抱き上げて移動する朱鷺の足元が危なくなる。

 雛は皆と揃って、たたらと最後の挨拶を交す。

 今度は私が遊びに行くね。別れ際にたたらへ雛が言うと、彼女は、待ってるね、と嬉しそうにした。

 ばいばい。

 雛はたたらを抱き上げてゆく朱鷺の背中を見送る。たたらはいつまでも手を振っていた。

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