旅の行方
黒部雷太郎
第1話 出発前
ある秋の日の午後、無職になった私は旅行代理店へ向かった。時間は有り余るほどあり金にも不自由していない状態だった。また、突然に失職したわけではなく、以前から会社を退職することは決まっていたのだ。
私はそのことを、五年前に会社の上司から知らされている。当時の説明では、外資系の企業が自社を買収するので、やがて全ての社員が解雇されるとのことであった。
そのため、私はその時に備え、貯蓄を続けていたのだ。今日で、無職になってから、一週間が経っている。私は世の中のうんざりする、決まりごとから解き放たれ自由過ぎる日常に戸惑っていた。
次の就職先は決まっていなかったが、この機会に独りで、海外旅行をする計画を立てていたのだ。ちょうどこれから、それに関して全てを手配してくれた、旅行代理店へチケットなどを受け取りに行くところだった。
「今回の旅行の説明会に出席してもらえませんか。きっと、帰国後は、別人のようになって生活できますから」
以前、店の男が誇らしげに言っていたが、私は半信半疑で受け止めた。
電車を乗り継ぎスマホをいじっていると、いつの間にか旅行代理店のある駅へ着いている。私はなぜか、途方もなく遠い地へ来てしまったような気持ちになった。
それからすぐ腹が減ってきたが、改札を出て直接その店のあるビルへ歩を進めた。階段をいくつか下りて目的の建物に着くと、ビルは塗装工事の途中になっている。ペンキの臭いが立ち込めていて、もし壁に触れたら鮮やかな塗装の色が付いてしまいそうだ。
私は旅行の説明なんか受けに行かないで、必要な物を郵送してもらえばよかった、と面倒くさくなってきた。エレベーターのボタンを押すために手を伸ばすと、横から別の長い手が伸びてきて私より先にそれを押したのだった。
「お待ちしていました」
旅行を申し込んだ際の担当者が隣に立っている。彼はこんな場所で私が来るまで待機していたようだ。
「今日は都合がよかったんだ」
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
エレベーターで最上階まで上がり二人で用意された部屋に入ると、壁際にホワイトボードが置かれていた。
「さあ、お掛け下さい。旅の説明を始めさせていただきます」
前髪は眉毛が隠れる長さの巻き髪で、長身の男は用意してあった椅子を私が座れるようにした。
「その前に何か私に聞きたいことはありますか?」
「旅先での問題点を教えてほしいんだ」
私はこの機会に、旅専門の人間から現地の情報を知りたかったのだ。
「実は旅先の環境が変わったんです」
男は申し訳なさそうに言った。
「環境がどう変わったんだ?」
「その国の全てのタクシー会社がストライキを起こしました」
「タクシーに乗れないのか?」
私は聞いたことのない出来事を不思議に思った。
「ええ、正式なタクシーは営業していません。でもそれより、もっと別の問題があるんです」
「どんなことだ?」
「偽タクシー運転手が夜の街を横行しているんです」
「つまり、それに乗らなければいいんだな」
「そうです。それに関連して、様々な仕事で偽者が混じり始めています。タクシーだけ気を付ければいいというわけではないんです」
「わかった。何か本物と偽者を見分ける方法はあるのか?」
「・・・・・・」
私に尋ねられて、男は答えに窮してしまう。
「ただ、自分で気を付けるしかないんだな」
「実は、偽者を見分ける方法が一つだけあるんですが・・・・・・」
言いにくそうに男は説明を始めた。それによれば、旅行代理店の貸し出している専用の腕時計を付けると、バイブレーション通知機能でわかるとのことだ。旅行者に偽者が接触すると、腕時計が揺れ始める仕組みである。
「その腕時計って今あるの?」
「ええ、これです」
時間を見るには、小さいサイズの四角い腕時計はカチカチと音を立てていた。
「これで偽者を区別できるのか?」
「はい、試しに付けてみて下さい」
私が左腕にそれをはめると、店の男は二人の間を三メートルほど開けてから、近づいて来た。
二人の距離が、手の届く範囲になるとブルブルと腕時計が揺れている。
「こんな具合でバイブレーション通知機能が作動するんだな」
「そうです。今回は私が旅行代理店の偽職員という設定です」
男は細長いネクタイを締めなおすような素振りをした。
「よくできているな。驚いたよ」
「そうなんですが、心配な点もありましてねえ・・・・・・」
「どういうことに関してだ」
「稀に誤作動を起こしてしまいます」
「本物の相手に対しても、バイブレーション通知機能が作動してしまうのか?」
「はい、それだけなら本物を見分けられなかった、ということで済むのですが・・・・・・」
男の顔がこわばった。
「他にも問題が出てくるのか?」
「ええ、その相手と別れた後で、腕時計をしていた人間に起こります」
「どんなことが起こるんだ」
私は徐々に心配になってきた。
「腕時計をしていた腕に導かれるように、自分の意志と無関係に歩き出してしまうのです」
「それは困るな!」
私は男が冗談を言っているのか確かめた。だが男の顔つきは真剣で、二人の会話は途切れてしまった。
「私は本当のことを、真面目に言っています」
暫くして、男は眉をひそめて呟いた。
「例えばどんなところへ歩き出してしまうんだ」
「まあ、たいして危険な場所ではないんですが、山や森なんですよ」
「それなら、たいした心配はないんだな」
私は少しほっとして尋ねた。
「はい、そうなんですが、誰にも行き先がわからないもので・・・・・・」
「そういう場所に着いてからは、自分の意志は戻るのか?」
「ええ、ただ山や森に入ってしまえば、後は自分の意志で行動できます」
男は丁寧に言った。
旅の説明会が終わると私は、店のその腕時計を借りてすぐ自宅へ帰ったのだ。
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