亞良川 土人形と河童の怪
狐
土人形と河童の怪
かつて、亞良川の一帯は台風時になると洪水に悩まされていた。寛永6年に行われた事業の影響か、大雨時には家屋や農地を浸水させ、甚大な被害をもたらすのだ。
江戸時代の人々は、生活を長く苦しめる浸水に対抗するため、土でできた人形を土手に並べるようになった。水神さまへの供物である。それは土嚢の役割を兼ね備えており、瀬戸際で浸水を防いでいたのだ。
その日は、長く続く雨が戸を叩き続ける朝だった。木桶をひっくり返したような雨足は勢いを増していき、遠くでごうごうと風の音が響く。
左衛門は畑の様子を気掛かりに思い、布団から抜け出した。村の老人たちから大雨時の見回りを止められていても、彼は村一番の力自慢。若さゆえの蛮勇か、肝も太い。命の危険よりも、未来の生活の方が重要なのだ。
笠を伝う雨粒を煩わしそうに払い、左衛門は住んでいる小屋から2町ほど離れた畑の様子を確認する。亞良川沿いの小高い土地にあるためか、水が入ってくることはなかった。彼が安心して帰ろうとした、その時である。
大蛇がのたうつような荒々しい濁流に、若い女が巻き込まれている。丸太のように大きな流木に捕まり、必死に助けを求めているのだ。
「助け……河……童……」
左衛門は慌てて、女を助けようと川へざんぶと飛び込もうとする。しかし、彼はすんでの所で踏みとどまった。女の背後に覆いかぶさる、奇妙な影を見てしまったのである。
水面に浮かぶ亀のような甲羅。独特な緑の手には蛙のような水掻きを持ち、禿頭の頂には皿が乗っている。当時の江戸を賑わせていた妖怪、“河童”の姿そのままだった。
河童は片手で女の肩を掴み、もう片方の手で着物の裾に手を伸ばす。それが尻子玉を抜く際の動作だというのは、火を見るより明らかであった。
左衛門は躊躇い、数歩ほど後退る。泳ぎには自信があったが、河童相手だと話は別だ。下手に挑めば、川底に沈められるのは自分なのだ。
だからといって、付近の町人を呼ぶこともできない。この雨では皆家で寝ているし、呼びに行く間に女は流されてしまうだろう。
彼は悔しげに歯噛みした。迷っている時間はないが、的確な答えは見つからない。しかしながら、このまま見殺しにはできないのだ。ならば、己にできることをやるしかない!
左衛門は土手に置かれた土人形から一際大きな物を抱え、河童に向けて投擲した! それは放物線を描き、河童の手前に波紋を形作る。当てるには、力が足りなかった。
河童は目を見開き、怒気の籠もった声で威嚇した。左衛門は溜め息を吐き、次に起こることに身を委ねる。万が一河童が襲いかかってきても、それによって女が助かるなら本望だった。
ここで、話題は土人形に関する逸話に移る。江戸期には土嚢的な役割として用いられていた土人形だが、その本質は水神への供物である。荒れ狂う河川を鎮めるため、そこに身投げを行う人柱の代用品として用いられた過去があった。即ち、かつて土人形は河川に沈めるための神具であったのだ。
左衛門が亞良川に落とした分を含めて、その数ちょうど二十。水神が遣いを向かわせるには、十分な数字だった。
川底からの鉄砲水によって、女は数秒宙に浮いた。そのまま安全な陸地まで運ばれ、ぐったりとその身を横たえる。
奇跡が起きたのだ。のたうつ亞良川を真っ二つに割り、川底から現れたのは20人の力士である! 彼らは空に向けて突き押しを繰り返す“てっぽう”によって、人ひとりを優に動かす鉄砲水を生み出したのだ。
唖然とする河童を尻目に、力士たちは川底で四股を踏む。堆積した砂利が払われ、円形の土俵が現れた!
力士たちと河童の間に、無言の交流が行われる。現れた土俵に、河童の習性。
土俵入りは簡潔に、力士の代表者と河童が立ち会う。ここには行司も居なければ、升席を埋め尽くす観客も居ない。ただ、その試合を固唾を飲んで見守る一人の人間がいるのみだ。
がっぷり四つに組み合い、水神力士が土俵を踏み込む。河童は力士の皮膚に獰猛な爪を立て、ほぼ互角な取組で優位に立とうとする。
河童は力士の体をくるりと反転させ、しっかりと締めた廻しを引き裂く。そのまま腕を伸ばし、尻子玉を抜かんとした!
力士の尻に腕を突っ込み、河童は哄笑する。しかし、水神の遣いは力士を模しただけの土人形。尻子玉など、あるはずがない! 力士はそのまま後退し、河童を土俵際に押し出す。力士の勝ちである!
左衛門は女の無事を確認した後、この取組の顛末を眺めていた。奇妙な夢を見たような、そういった感覚だ。
礼を言おうと笠を脱げば、その間に力士は消え去っていた。雨は既に止みはじめ、濁流は徐々に収まっていく。土俵は、砂利の底に消えていた。
翌日、亞良川の上流には、濁流を堰き止めるほどに重なった土人形と、その隙間で腕を挟まれた奇妙な
亞良川 土人形と河童の怪 狐 @fox_0829
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