短い話まとめ

麦野陽

第1話 橋の下

 いつものように野菜を持って橋の下に行くと先客がいた。あまりこの時間帯にわたし以外にここの川を使っている人はいないので、珍しいなと思って声をかけた。


「おはようございます」


 しかし、男はわたしに見向きもしない。一心不乱に手元のザルの中の物を洗っている。感じ悪いな。内心わたしはムッとしながら、男からすこし離れた場所にしゃがんだ。


 相変わらず川の水はよく透き通っている。水の町と言われているこの町の水は、名水百選にも選ばれていて、わたしのように野菜を川に洗いにくる人も多い。母が趣味で育てている野菜を朝食前に洗いにくるのは、家庭におけるわたしの仕事だった。トマトやきゅうりをザルごと水につけると、ゆっくり左右に揺らす。泥がついているわけではないし、これくらいの量、家で洗ったらいいのに。一度母に言ったことがある。けれど、母は決して首を縦に振らなかった。


「あの川の水で洗うと元から美味しいものがもっと美味しくなるのよ」


「だって洗うだけでしょう」


 そんなの気の持ちようなんじゃないの? 言葉を飲みこんだことを思い出しながら、ゆらゆらザルの中で揺れる野菜たちをじっと見る。わたしには母の言う違いがわからない。


 橋の下の日陰に入っているとはいえ、やはり暑い。右腕で額の汗を拭い、わたしはザルを川からあげる。大まかな汚れはあれで落ちるが、細かい汚れは落ちない。真っ赤なトマトをザルから取り出すとわたしは両手を川に浸した。外気に比べて、水温は冷たい。緩やかな川の流れが指先から体温を溶かしていく。中学生のとき、温暖化についてそれぞれ調べて用紙にまとめ発表したことがあったが、大学生になった今ではもうあまり覚えていない。そういえば、外国では気温が四十度を超えだんだってと母親が言っていた気がする。


 しゃっしゃっしゃっしゃっ。


 すこし離れたところにいる男は相変わらずザルに手をいれて何かを洗っている。一定のリズムで熱心に洗っているので、気になってもう一度わたしは声をかけた。


「なにを洗っているんですか?」


 しゃっしゃっ。


「ねえ」


 しゃっしゃっ。


 こんな近くにいるのに、聞こえていないのだろうか。もしかしたら耳が悪いのかもしれない。わたしは想像力を働かせ、自分の作業に戻った。蝉の声に混じって、男がなにかを洗う音が規則正しく聞こえる。音的に大きなものではない。お米を研いでいるときのような軽い音がいくつもぶつかる音だ。


 わたしはきゅうりを持ち川にそのまま浸す。新鮮なものはとげが鋭いのよ。子どもの頃から母に何度も聞かされて耳にタコができている豆知識を思い出しながら、とげに気をつけて軽くきゅうりを撫でる。お尻に残っているしぼんだ黄色い花をちぎるとわたしは川に流した。花は緩やかな川の流れに乗ってだんだんわたしから遠ざかっていく。子どもの頃に笹船をつくって遊んだことを思い出してわたしは懐かしい気持ちになった。昔は家の庭に笹があり、よくそれで笹船をつくった。大きすぎたり小さすぎる笹より、普通くらいの大きさの笹が一番船をつくるのにやりやすかった。そういえば、お盆の時期に笹船をもってこの川で遊ぼうとして母に叱られたな。


「この時期に水場に近づくもんじゃない。足を引っぱられるよ!」


 思えば、母には叱られてばかりだ。大学生になった今でもそれは変わらない。野菜の洗い方一つとっても細かく注意する。そんなに気にするなら自分ですればいいのになどと言おうものなら、倍で返ってくるので大きくなるにつれわたしは言わなくなった。人は学ぶのだ。


 しゃっ。


 音が止まった。男はゆっくりザルを川から持ち上げる。大量の水滴がざばざば川面に落ち、いくつも波紋をつくった。麺を湯切りするように、ザルの水滴を何度も揺すって落とすと男は橋の脇の道へと続く階段を上って行った。


 わたしもそろそろ帰ろう。洗い終わったトマトときゅうりをザルに戻し、持ってきていた布巾で野菜たちの水気を拭くとわたしは立ち上がった。


 階段を上ろうとするとなにか小さなものが落ちているのが目に入った。しゃがんで見るとそれは小豆だった。夏の陽ざしを浴びて、小豆はつやつやと光っている。どうしてこんな時期に小豆が? わたしは疑問に思いながら、階段を上り橋の横の道に出た。強い陽ざしが肌をじりじりと焼いていくのがよく分かる。早く帰ろう。ザルを持ちなおすと、わたしは橋を渡った。

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