20人いる

ぶいさん

暑い日だった

 家を出てすぐ「暑い」と声に出た。


 朝に降っていた雨のせいでもわもわとした蒸し暑さが肌にまとわりついてくるようだった。6月を入って少し、駆け足でやってきた夏の日差しは容赦なく肌を照りつけている。本来なら梅雨の頃であるはずなのに朝降った雨はすっかり上がり、空を見上げてもカンカンに晴れていた。雲一つない青空だ。生暖かい風が一層不快指数を上げている。

 駅までは急勾配の坂道や階段を通らなくてはならない。距離はさほどないもののこのあたりはどこへ行くのにも坂がある。


 暑い。マスクやブラウスの一枚下ではじっとり汗をかいていた。控え目に言ってもクソ暑い。湿気を伴い肌に張り付く服が不快だ。どうしてこんな暑い中外出しないといけないんだ。めっちゃしんどい。


 私は舞之 海まいの うみ、大学2年生だ。ここ数ヶ月は例の感染症で講義は軒並みオンラインに切り替わり、サークル活動も休止中だ。しかし今日はわけあってどうしても外せない用事のためこのクソ暑い中マスクをして大学に向かっている。

 それというのもサークルの部室に大事なものを忘れてきたのだ。事務センターに連絡したら清掃業者を入れて一時的に開放する期間があるからその時に大学に来ればついでに入れてくれるとのことだ。約束の時間に間に合わなければ片付けられてしまうというから間に合うように行かなくては。あれを没収されるわけにはいかない。私の大事な教科書エロ本


 気温が高いからマスクのせいでメガネが曇らないことだけが救いだ。メガネが曇るのは視界が狭まるし恥ずかしいしでめちゃくちゃしんどいのだ。

 駅舎に入れば空気がすっと軽くなる。冷房が効いている。ほっとしてホームに上がると生暖かい風がびゅうびゅう吹いていた。気温と室温の差でちょっとだけメガネが曇って私は露骨に顔をしかめた。


 電車は遅れなくやってきた。




 たたん、たたん。いつもの路線、いつもの電車。


 車窓から見える景色は、背の低い民家や低層ビルが立ち並ぶ下町だ。時間割が狂ったのか普段は姿を見ない中高生の波にのまれてあわあわしていたら、いつもの席に座りそこねた。それでも数駅も乗っていればそれなりに栄えた繁華街のある駅で学生たちは降りていき、車両の中に乗客はまばらになり席もいくつか空いた。立っていた場所から近い、しかも端の席が空いたのを見つけていそいそと座る。ラッキー。

 まだ先は長い。少し寝ちゃおうかな。かけていたメガネをケースに入れて膝の上に置いたバッグにしまいこむ。それから目を閉じて揺れに身を任せた。





 突然、体がヒュンと落ちるような感覚がして、私は目を覚ました。夢じゃなかった。ガタガタと車両は大きく激しく揺れていた。ただごとではない様相だ。


 普段聞いたことのない音がした。金属と金属が擦り合っているようなギャギャギャギャといった耳を突く音だった。アナウンスはなかった。電灯が不自然に点滅して、まばらだった乗客たちも悲鳴を上げて慌てていたけど動き回る暇なんてなくてその場で伏せたり手すりに掴まって身を低くしたりしている。


 気づけば長い車両は勢いよく線路を外れて進み、川に架かった橋から前を走る車両が亞良川へ落下して行くのを見た。悲鳴が一層強くなった。連結しているこの車両も同じ運命をたどるのがわかった。手すりに縋り付いてガチガチと震えて私は信じてもいない神様に祈った。川へ落ちていく瞬間、私は水面の向こうに入道雲を見た。


 入道雲が見えた。大きな入道雲だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る