第4話柵の中から

 朝、出勤し、「幹部室の前で俺は同棲していた。二度も同棲した。黒人女とのセックスした。彼女は全身を嘗めまくった」とか、「僕が同棲していた女を嫁にした男が幹部になった。と彼が大声で叫ぶのを聞いた時に周囲の空間がゆがみ、彼の存在がこの世のものではない化け物のように見えた。それは予想以上に深刻な影響を及ぼしているようであった。事実かどうか聞きただすことはできない。聞き流すしかない。

 おびえているようにも見えて、同情を感ずることもあった。いつしか、このようなことを平気で口にする彼の存在におびえを感じるようになっていた。この時は理由を漠然としか認識していなかった。

 彼自身の言葉が真実かどうかも判断できなかったせいもある。

 彼の言動も、このはったりにすぎないと思ったのである。柵の中では、はったりの存在が大きい。



 「死ぬことなど怖くない」

 そのようなはったりの上で生きていると言っても過言ではない。彼の言動も、この種のはったりにすぎないと思ったのである。

 それに彼の胸には功績を示す勲章が輝いている。それは彼が柵の中では見本となる存在であることを周囲に示す印であった。

 だが彼の言葉に驚異を感じた。

 結婚などの男女の秩序を破壊する力を有していたのである。彼の言葉が周囲の健全な家庭を破壊する力を持っていたのである。

 周囲に対する影響も心配であった。

 だが、下手に制止のしようがない。

 この種の話が真実みを帯び、広く広がれば、かえって影響が大きくなると感じたのである。

 それでも何度か制止したが、耳を貸そうとしなかった。

 過去の言動を打ち消すことは、彼のプライドが許さないのだろうと想像した。

 まさかという迷いが不徹底さと中途半端さを招いた。

 彼はしばらくして去って行った。だがパンドラの箱の蓋を開け放れてしまった。


 彼が去って三カ月後、年も明けてすぐ、一月に僕は作業隊長として小さな村に滞在していた。工事を開始したばかりの時である。

 短い昼はすでに暮れていた。

 町中であるが、近くの道路を走る車の騒音以外に物音ひとつしない。あたりも静まりかえり、商店街の店もシャッターを固く閉ざしていた。周辺に道を聞く人もいない。

 道案内をする伊藤の記憶も定かでない。

 寒かった。

 風はなかったが、冷え込みだけで身体の芯まで凍えていた。

 タクシーを下り、家を捜すために歩き回るうちに身体は汗ばんでいた。ジャンパーの内側は身体から立ち昇る汗で湿っていた。外気に触れる皮膚の寒さと、ジャンパーに包まれた肉体の温度差が違和感を高めていた。異次元の世界に迷い込んだような錯覚に陥った。焦りと息苦しさで心臓は踊るように波打った。

 十時をすぎた頃に、やっと事件が起きた家を捜し当てることができた。伊藤が固く閉ざされた錆びた低い鉄の扉の上に手を乗せ、家の中に声を掛けた。

 僕は家の周囲の様子を観察していた。周囲はひっそりと静まり返っていた。ブロック壁に囲まれた二階建ての一軒家だった。庭を挟んで、すぐ玄関が見える。外に灯がもれないように雨戸を固く閉ざしていた。家全体が暗闇に姿をかき消されることを願っているようだった。森の中の一軒家で野獣から身を守ろうとする一軒屋のように思えた。


 

 男が家の中から走り出てきた。

 芦田である。

 伊藤と彼の後に続き、門をくぐった。

 玄関の、すぐ脇の部屋に兄弟や親戚が集まっていた。彼らは声が洩れるのを恐れるような小声で会話をしていた。


 事件を知ったのは、四時を過ぎた頃である。日曜日で休んでいた。

 「直ぐに帰って来てくれ」と、事務所に残っている者から電話が掛かって来たのである。声は震えていた。理由は電話で話せないと彼は言った。普通ではない。しばらく沈黙が続いた後で彼の声が泣き声に変わった。そして哀願した。純朴な男である。信頼するに値する男であった。宿舎まで歩いて五分とかからない。事務所に帰り着くと、電話をした男が一人で事務所の中をウロウロと歩き回っている。熊のような屈強な身体付きした彼が事務所を落ち着かず歩く姿は滑稽に思えた。

 「芦田がいなくなった」

 彼の第一声であった。

 休暇中に呼び帰すほどのことではない。

 「無断外出か。心配することはないだろう」

 「そんな事ではない。彼から電話があった」

 話が伝わらないことで彼は苛立ち手を振り回した。

 「千田と言う男が芦田の家で包丁を振り回し、止めに入った近所の人を傷つけたらしい」

 「千田とは誰のことだ」

 彼のことを思い出せなかった。

 一瞬、この話に疑いを感じた。この気持を感じたのか受話器の男は畳みかけてきた。

 「信じて下さい」

 「何故、そんなことに」

 「詳しいことは解りません。とにかく芦田からの電話です。また電話をすると言うことでした」

 「芦田の家は何処だ」

 「Y市です」

 タクシーで四十分ほどで行ける。

 「電話番号は」

 「聞けませんでした」

 よほど慌てていたにちがいない。

 「部隊の方には」

 「本人が電話をすると言っていました」

 電話を待つしかなかった。

 八時半を過ぎた頃、やっと芦田から電話で連絡がかかってきた。芦田は無断で作業隊を離れたことを謝った。

 「千田が腹を切りました」

 話が違う。

 意味を理解するのに時間を要した。

 「腹を切った。自分の腹を切ったのか。止めようとした人を傷つけた訳ではないのか」と確認をした。

 芦田は明確に否定した。

 「彼が自分の腹を切ったのです」

 千田は救急車で病院に運ばれたと言う。

 「家族はみんな怖がっています。芦田が病院を抜け出し、また家に来るのではないかと」

 「芦田の声も微かに涙ぐんでいた」

 「家に訪ねた方がよいか」

 家族の不安な気持ちを感じた。一人でも第三者がいた方がいいと思ったに違いない。互いに言葉の尻を食べるようなせわしい会話が続いた。


 親戚が集まっている部屋の中は、薄暗く、ひどく窮屈に感じた。血が付着したせいで蛍光灯は裸電球に変えられているのであろうかと

 蛍光灯ではなく裸電球が灯っている。

 二階に通された。その部屋も裸電球に変えられていた。部屋の片隅には蛍光灯が薪のように積み上げられている。その意味を深く詮索する余裕はなかった。

 気味が悪いほど静まりかえっている。

 しばらくして母親と芦田の姉が部屋に入ってくる。

 奇麗な人だった。

 千田が夢中になるのも無理はないと思った。

 だが表情は暗かった。それが却って魅力が際立たせていた。

 泣き晴らしたのだろう。目は真っ赤に充血していた。彼女に同情をしてはいけないと判断した。

 「こんなことをするとは思いもしなかった。いい方だと思っていたのに」

 彼女の言葉を借用し、言った。

 「純情でいい奴だと思います」

 彼女の表情が険しくなった。

 そして奇異な存在を見るように僕を見た。

 「昼間に家を訪ねて来て、僕に会わせろと大声でわめいて。近所の人も家の前に集まって来た。大変な迷惑です」

 付近には家が密集している。

 家の中から漏れるわめき声。玄関の前に集まる人々。ヒソヒソと交わされる噂話。目に見えるようだった。

 だが同情は禁物であると思った。

 「五時頃に台所に飛び込んで包丁を持ち出して、出羽包丁を取り出して」

 と叫んだ瞬間、彼女が狂ったように見えた。

 「血が。血が」と叫んだ。

 彼女の思考が止まり、こらえ切れずに泣き崩れてしまった。部屋中におえつの声がこだました。

 泣き声を掻き消すように笑い声を立てた。笑い声は空しく壁にこだまし、泣き声を押し退けた。

 恐怖を追い払うためには、ほかに方法を思い付かない。

 周囲の反応に気付いて、慌てて笑うことを止めてしまった。周囲は僕まで可笑しくなったと感じたようである。

 「柵の中で何をしている。結婚前の娘に家に上がり込んで来て、こんな騒ぎを起こすとは何事だ。まともな教育をしているのか。裁判に訴えてもいいぞ。娘の人生をどうしてくれる」と激怒した。

 「そちらも悪い。気を持たせるような勘違いを招く行動をとったのではないのか。腹を切った本人の方がこれからの人生は大変だ」

 自分の言葉であるが無理を言っていることは十分承知していた。このように言うことが相手の不安や恨みを萎ませるための方法だと思った。

 一呼吸を置いた後に続けた。

 「たいしたことはない。よくある話だ」

 「でも病院を抜け出し、家に来るのでは」と娘が不安気に訴えた。

 「そんなことがあるものですか」

 家族の不安は痛いほど解るが、不安を沈めることが先だと感じたのである。

 その時、初めて家の明かりが蛍光灯ではなく裸電球に代えられている理由を理解した。

 わざと家の明かりを薄暗くして暗闇に同化させようとしていたのである。そのために家中の蛍光灯を取り外し、部屋の片隅に薪のように積み上げているのである。彼らは災いの主が明かりを求めて再び、訪れてくるのではないかと不安を感じているのである。早く時が過ぎ、忘却が訪れるのを待ってもいるのである。

 事務所に帰り着いた時には十二時ちかくになっていた。

 この事件以外にも周囲に奇妙な事件が散発していた。例えば若い隊員が繁華街で手首を切り、血を流しながら徘徊するのを警察に保護されると言う事件などである。このことはボンヤリと隊員の間で噂になっていた。

 この事件以来、身近に起きた続ける事件の原因を深く考え込むようになった。


 心配をしていたとおり勾配の急な傾斜部分が崩壊していた。

 Y市で事件が起きて二週間ほども経過した二月初めの頃であった。

 三日ほど小雨が降り続いた後に、雨足が激しくなり四日目の朝に崖が人知れず崩壊していた。

 整形を終わったばかりの傾斜部分は惨く崩れ、その部分から山の毛細血管のように細く黒い木の根が、空間にぶら下がっていた。

 時たま小石がパラパラと不気味な音を立てて転がり落ちていた。黄色い土が表面に出た部分は大地の傷口のように見えた。

 毎晩のように、土木器材のカラふかしの件で議論を繰り返していた。

 「これまでやってきた。すべてが了解すみのことである。伝統なのだ。数年前の工事では余ったオイルを缶ごと現場に埋めたこともある。この慣例を継続しなければ、却っておかしなことになる。気が小さすぎる」

 空ふかしとは作業を休む日にも器材のエンジンを稼働をさせて、仕事をしたように器材のアワメーターを操作することである。

 「検査のことを考えろ」

 「だから言っている。これまでのことを露呈させないためにも同じ方法を採るべきだ。そうしなければ、前の作業隊に恥をかかせることになる。組織全体の問題だ。これまで隊員のためにやってきた」

 毎晩のように繰り返される議論に困り果てていた。世間に説明できる理由だろうか

 任期を終え、退職を間近に控えた隊員もいる。不信感を与えたくない。

 「役場の職員も承知している。見て見ぬふりをしていた」

 「見積りと実際の工事経費の差を、ほかに説明する方法は幾らでもある。作業方法を工夫して燃料を少なくしたと言えばよい。素人の自分が見積ったものだ。こだわる必要はない」

 「組織でやっている。各上司とも印鑑を押している」

 「見積もりは見積もりだ」

 事情を話し、承認を貰っていた。

 僅かな経費も惜しむ役場は、ボーリング調査に使う金も惜しみ、工事を部隊に依頼してきている。

 「隊長は、いい格好をしたいのだ。三島が好きだから村のことばかり気にするのだ」

 役場は工事に先立ち、三島と言う若い娘を臨時に雇い入れていた。

 「部外工事とは、こんなものだ」と彼女を追い回している妻帯者がいる。妥協することは出来ない。組織全体の正義や判断基準を根底から壊す結果を招きかねない。昼休みになると、役場の若い女子職員と弓遊びや卓球に興じているのを目にしていた。

 何度か懇親会と称して、彼らのグループで宴席を設けているのを知っていた。現場で作業を担当する者からも、苦情が聞こえてくる。

 「気を使ってもらいたい」

 指摘に対し、「朝夕の仕事はしている」と答えが返ってくる。

 Y市で起きた千田の事件や、工事先から帰り、繁華街での手首を切り放浪してした若い男のことを話しても彼らの耳には届かない。

 三カ月の作業が終わり、撤収する日を数えるしかなかった。


 三か月の作業が、丁度折り返し点に入った二月中旬の頃である。

 夜中に事務室に入ってくる騒がしい足音で目が覚めた。寝室は事務室のそばにあった。大広間の寝室で飲んでいた者たちが事務室に場所を変えたらしい。

 「隊長は気が小さい。カラふかしをしたって、村も誰も困りはしない。どこの村でも見て見ぬふりをしてくれた」

 「安く上げてもらうことは大いに結構なことです」と課長のF氏は答えた。

 役場の工事経費の大半は二千人に満たない村民の寄付金で賄われている事情も、すでに聞いているし、全員に話している。それを蒸し返しているのである。

 この返事に白けたように沈黙が続いた。

 「隊長も大変だ」

 年老いた教育委員長の声であった。

 「隊長は何もしていない。工事は隊長がいなくても終わる。みんなそうだろう」

 他の隊員が口を挟んだ。

 「あまり悪く言わない方がいいぞ」

 「構うものか。自分たちには転勤はないが、どうせ、すぐに出て行くのだ」

 「空ぶかしの件を、そんなに露骨に言って、暴露されたら、どうすんだ」

 「その時は隊長の責任だ」

 心の底を見たような気がした。

 しばらく沈黙が続いた後、役場の二人が椅子から立ち、アルミ・サッシが乱暴に開かれ、閉じられた。外の冷たい空気が部屋に流れ込み充満する気配を感じた。

 職員が立ち去るのを気配で感じると起き上がり、乱暴に扉を開け放し、彼らを見渡した。

 「勝手なことを言う。貴様らだけで工事をしろ」

 そう言うと、再び寝床に戻った。事務室は水を打ったような静けさに戻った。その後に、ヒソヒソ話が聞こえる。

 「帰られたら困る」

 「今夜の話はなかったことにしよう」

 彼らは、そのようなことを言い会い、外に出て行った。役場の職員に口車を合わせるように頼もうとするつもりであろう。

 哀しくなった。

 翌朝、彼らは何もなかったように目を覚ました。

 「隊長、夕べ寝ぼけて、妙なことを言いましたよ」と話し掛けてきた。

 気が狂っているのか。悲しさが深まる一方である。

 たとえ、ホテルのベットの中で女と抱き合っているのを女房に見られても大丈夫だ。

 冗談だと言い逃れる自信はある。

 彼女に夢中になり、気が狂っているのか。

 彼は誰の忠告にも耳を貸さなかった。

 言葉は組織を作る。命令も、報告も言葉からなっている。バビロンの塔も言葉が通じなくなったせいで未完成に終わった。一体、どのようになるであろうか。

 毎日が針の上のムシロに座っているように苦痛の日々だった。



 「帰ります。手を離して下さい」

 隣の教育委員会の事務所で、悲鳴に似た声も聞こえる。もみ会いの最中に身体が椅子にぶつかる音もする。事務所にいる者たちの会話は途切れて、静まりかえっていた。互いに伺うように顔を見合わせてた。僕は、たまりかねて教育委員会の扉を開けた。

 三島の手を握り、彼女は縛られた手を振りほどこうと机の回りを暴れている。中村は三島が嫌がるのを楽しんでいるようにさえ見えた。彼女は役場が臨時に雇い入れた職員である。僕の目が会うと男は気まずそうに照れ臭そうに笑いながら、事務室に戻って来た。

 「いや、畑の畔道をしょうがを背負って歩く娘は力が強い。乳を触ろうとしても、触らせてくれない」。

 事務所に帰るなり、彼は言い訳をする。

 「皆さんのために、一人若い娘を臨時で雇います」

 「そんなことに気を使う必要はありません」

 と応えたが、役場にも考えがあってのことだろう。不安を感じたが、強く断ることもできなかった。この不安が現実のものになるまでには一週間も経たなかった。Y市で結婚話が拗れてある隊員が腹を切るという事件が発生する頃ことであった。


 作業隊は作業隊本部、管理班、器材班と三つの組織からなっていた。

 中村は管理班の長として勤務していた。

 「伝統を作ろう。次に御前の時は邪魔をしないから」

 と器材班長の山下に言う。中村に三島への行為を慎むように忠告する山下に対する答えである。さすがに山下は聞きづらそうに顔を歪めた。事務所の若い隊員たちが舌打ちをした。ここ数日、このような会話を繰り返している。真意を責めると「冗談、冗談」と言いながら行動は露骨で目に余るものになっていった。作業隊をソドムの市にするつもりだろうか。

 「気を付けなければ大変なことになりますよ」。芦田はY市の実家で千田の事件が発生した後、二週間ほど休暇を取って、家族の不安を軽減するために自宅で待機をしていた。その時に挨拶に来た家族の表情は明るかったので大丈夫だと安心をした。芦田は僕を避けているように見えた。二月中旬になった頃に、やっと落ち着いて話しが出来た。

 「女なんて、みんな馬鹿ですよね」

 あの事件で受けた彼の心の深い傷を覗くような気がした。

 「内の姉貴も三島も一緒だ。好きでもないの男にこびを売って」

 事情がよく飲み込めなかった。

 「隊長がいない間、彼女は現場の沼田たちと食堂で卓球をして騒いでいましたよ」

 ため息が口を吐いた。恐れていてことが起きたのではないのか。

 「そんなことはない。三島も村のため良い作業をしてもらおうと一生懸命なんだ。今は断れない立場にある。僕たちがいなくなれば、落ち着けば元の大人しい田舎娘に戻る」

 自分の心に産まれた悪い予感を打ち消そうとする精一杯の言葉だった。撤収をする日を待ち望んでいた。管理班の様子を覗くと、以前から三島が好きだった白石が沈んでいる。

 夕方、三島が帰るのを門の前で見送っていた。炊事班の白石と現場で器材を扱う沼田と二人が三島に恋をすることになれば、組織をまとめていけるだろうか。おまけに妻帯者の中村の問題である。自分も三島に恋心を抱いていることは否定をしない。


 次級者の本山は家族全員が風疹に掛かったと家に帰っていた。

 中村に電話がかかってくる。

 汗を拭きながら事務所に帰って来た。

「・・・・・・・・・・・」

 奥さんの声は聞こえない。

 「忙しいから」

 いそがしそうには見えない。

 「・・・・・・・・・・・」

 「暇が出来たら帰る。俺もここで楽しむから、御前もそこで楽しめよ」

 「・・・・・・・・・・・」

 「帰ったら可愛がってやるから。タワシで洗って待っていろ」

 「そんな」

 かすかな声が辛うじて聞き取れた。彼は乱暴に電話を置き、部屋を出て行った。すぐに今度は作業隊事務所へ中隊から中山に電話が掛かってくる。彼は慌てて食堂から帰ってくる。先の電話と違い、はっきりと聞こえた。

 「前の工事で会計検査説明のため写真が必要だから、帰って来い」

 奥さんからの電話に比べて相手方の電話の声は大きく、はっきり聞こえる。

 「そんなことを言っても。本山さんもいないし」

 「そんなことは解っている」

 「あの関係の書類なら棚の上にある箱に入っているはずですよ」

 「捜しても見つからない。とにかく帰って来て、一緒に捜してくれ」

 三島に絡んで時間を過ごさせより、居ない方が良い。

 「いいよ。帰れ」と言い放った。

 そばに居た者が小さな声で笑った。彼らは書類の整理に余念がなかった。


 中村が作業隊を去って三時間ほどして、また中隊から電話がかかってくる。小銭が落ちる音がする。公衆電話からの電話であろう。

 「実は彼を部隊に、しばらく留めておきたい。世話になった人が転勤をする。その送迎会が終わるまで残して置きたい」

 「中村に替わります」

 ボックスの中で、服のこすれあう音がする。

 「隊長、迷惑をかけて済みません。あっちこっちで恋をしてしまって」

 腹立たしさと哀れさを感じた。そばに居る男が慌てて電話を奪い取る音がする。そんなことでと言うなり、男は慌てて電話を切った。僅かの期間しか残っていない。撤収の日が待ち遠しい。


 役場の課長のF氏が、わざわざ付き合ってくれた。現場で沼田がしきりに課長のF氏に話しかけている。他の隊員は黙っている。

 「隊長に聞いてから」

 課長のF氏が答える。

 彼や他の隊員の目が一斉に僕に注がれる。

 「隊長、いいですよね」

 外のブルドーザーのエンジン音で、二人の話の内容は所々しか聞き取れていなかった。

 「三島さんを貰っていいてすよね」

 芦田の言葉から感じた不安が当たるのを感じた。

 「自分に聞いても解らん」

 「白石が三島を好きだからですか。それとも隊長が好きだからですか」

 黙って外を見た。プレハブ建ての建物の外は、冷たい夜の空気が充満している。ガラス戸は部屋の中で休憩している隊員の呼吸で曇っている。

 「そんな話を現場でするな。怪我をするぞ」

 「他に話す機会もないでしょう。朝から夜遅くまで現場にいたのでは。苦労して工事を完成させるのは自分たちでしょう」

 「炊事班も朝早くから夜遅くまで水仕事をしている」

 彼の顔が大きく歪み、泣き出しそうな顔になった。

 家族会を開くと言うので、その準備をするようにと連絡が来たのは二月末のことであった。次級者の本山は必要はないと言っている。気付かないのだろうか。それとも面倒なことに巻き込まれたくない故に気付こうとしないのだろうか。若い未婚の者の方が危機感を抱き警告をしてくる。その日の朝に帰隊のための打合せを終わり作業隊へ帰ると、現場で三島に対する気持ちを打ち明けた沼田が追い回している。彼らは雨で休んでいた。外は薄暗かった。事務所の者は、灯りを点けて細かい帳簿の整理に余念のない時期である。燃料、経費、その他、様々な事務の整理に集中しなければならない。細かい計算も必要になる。


 「止めてくれ」。声はくぐもっていた。

 「事務所の外で騒いでくれ」。哀願の声に変わっていた。

 それでも追い掛けるのをやめようとしない。

 炊事班は静まり返っている。

 三島も笑いながら本山の背中や机の陰に隠れたりして逃げ回っている。

 本山は炊き付けているようにさえ見えた。

 制止する言葉に耳を貸そうとしない。


 「この人は僕が貰うから手を出すな」

 大声で怒鳴っていた。これが自分の取り得る最後の手段であった。

 もう十日ほどしか作業期間は残っていない。最後の手段も使い尽くしてしまった。

 全員、無表情で私の方を見ていた。

 言葉を続けるしかない。

 「三島さん。御願いだから、もうこれ以上、作業の邪魔をしないでくれ」

 低い声は静寂の中で空間の中で妙に響いた。


 三島が逃げ出してしまった。

 ひどいことを言うと言って事務所を出て行った。隣の教育委員会の事務所から薄いベニヤの壁を隔てて三島のすすり泣く声が聞こえてくる。


 「何を言うですか。あの娘も私たちが楽しく過ごせるように退屈しないようにと一生懸命やっているでしょう」と本山がわめいて部屋を出て行き、教育委員会の事務所へ駆け込んだ。彼の声が聞こえる。

 「一体、何を考えているのか」

 「本山さんも大変ですね」と役場の職員の一人が本山を持ち上げる声がした。三島を慰める声も聞こえた

 「そうですたい」

 「この作業隊は、あなたでもっているようなものだ」

 言葉の合間を縫うように三島のすすり泣く声が聞こえた。

 「私が悪いのです。私がいるばかりに」と、彼女は泣いている。

 「そんなことはありません」と、本山が息巻く。

 「中村さんが帰ったのも私のせいでしょう」

 本山は強く否定する。彼は事務所に帰って来るなり、「謝ってこんですか」と言った。腹立たしく思いながら、言い過ぎたと簡単に謝った。

 三島が靴を履いて教育委員会の事務所を出て行く音がする。隣の部屋にも作業隊事務所にも死んだような静けさが戻ってきて、その後に話声が漏れ聞こえる。課長のF氏の声でする。先日の夜間作業の際のことを話している。

 「そりゃ、とんでもないことになった。二人もか」と先ほど本山を褒めた男が叫び声が上げた。その後に事務所には静けさが戻った。

 自分でも、危機感を失い掛けていた。

 彼の言葉を聞くと、逆に、「このようなことは大変なことなのだ」と思い知らされた。

 仕事の終わった三島が帰るのを見送るために炊事班の白石が宿舎の入口で、ポツンと立ち尽くしている。うすら寒かった。 彼の肩を抱くようにして部屋に入れてやった。


 天候は好転しつつあると気象庁は予報を出している。現場はほとんど平坦になり、水はけは悪くなった。現場に溜まった水は、あき缶やスコップで汲み出すしかない。現場で一日、単純作業をしていた方が気が紛れる。


 「この人は、いつもこうなんですよ。気にしないで下さい」と中村の奥さんが繰り返す。すでに耳に入っているのだろう。そんな話では終わらない。どのようになるのだろうか。

 中村は妻が帰った後、中村が教育委員会の事務所から帰って来た。

 「ああ、一発やらしてくれないかな」

 「何を言うか。せっかく皆で、奇麗な作業をしておいて」

 撤収も間近である。ブルドーザーを部隊へ輸送するため支援にやってきた年長の隊員が顔をしかめて怒鳴った。正常な常識を思い出した。

 父親と一緒に三島がやって来た。しばらく三島は襖の陰に隠れるようにして、部屋に入りたがらない。

 中村は珍しく無口で顔をうつぶせている。

 三島が、やっと襖の陰から姿を現す。

 突然、中村が取り乱した。

 「三島、結婚しよう。妻も子供を捨てる。だから結婚しよう」

 「三島さん、あんたが沼田か白石と結婚するのなら、誰も文句は言わない。だが、もし、彼と一緒になったりしたら」

 彼は本気だろうか。あるいは僕にこの言葉を言わせたかったのだろう。すべてが藪の中である。自分自身も、ことを大きくせずに済ませたかった。


 撤収前夜。隣に接する管理班の寝室は静かであった。中村たち管理班の隊員が総出で、打ち上げ会を催すと言うことを噂し合っている。そのことを知ったのだろうか現場で安全係をしている男が、隣の寝室を確認し、出てくるなり危惧の声を上げた。まるで夢の中の出来事のように思えた。

 「中村は大丈夫か。この前も中村と三島は話して込んでいた」と

 自分に警告を発しているように思えた。起きて口を効く気にもなれなかった。すべて承知していた。現場に行きぱなしの彼らに微かな心の痛みを感じながら、彼の動揺に不思議と心が和んだ。やはり自分の不安は、誰もが抱く不安であると思ったのである。現場に行き放しの彼らは、宿舎で炊事をする管理班の動きなど知る機会もなかったのだろう。だが明日までの辛抱だ。明日になり村を離れたら、すべて個人の問題になる。


 三月初旬、作業が終わり帰隊をする。

 一週間ほどして白石が事務所の廊下で、「三島の家に遊びに行った」と話し掛けて来た。唇に薄い笑いが浮かんでいた。昨日まで彼は休みだった。笑いの意味が僕に対するものか彼自身に向けられたものなのか理解できなかった。言葉の後の表情が苦しく歪んだ。彼女との話がうまくいっていないのだろう。彼の姿を喜ぶ姿があるようで、自分が醜い人間であると思おうとした。自分も彼女が好きである。三島の家族に迷惑を被っているかも知れない。個人的な関係であり、口を挟むことはできない。その夜、何の前触れもなく、彼が家にやって来た。部屋に入れると、虚ろな視線が部屋中を彷徨った。訪問者の有無を確認するように部屋の隅々や押入の奥まで探られるような気がした。三島が僕の下宿に来ているとでも思ったのだろうか。可愛そうに思うが、どうしょうもない。コーヒーを沸かし出してやるが、手を付けずに、しばらくして帰った。

 工事が終わり一年後に三島の家を訪ねた。自分が彼女に対する気持を告げた。父親は鼻で一蹴した。騒動をし迷惑を掛けたことを謝罪した。「娘のことは自分たちが面倒を見る。心配は無用」と言われた。それ以来、その村を足を踏み入れたことはない。

 柵の中と外界を繋ぐ正門からバス通りに通ずる道は桜並木の緩やかな下坂になっている。それに沿い焼き鳥屋や小さなスナックが軒を並べていた。利用する者は、柵の中で生活する者たちであった。道沿いの桜は葉を落とし痩せ細っている。蕾を結ぶには時間が必要であった。店の改修工事のため桜屋は休業し、中村さんのスナックに手伝いに来ていた店に入るなり、いきなり桜屋の女主人が血相を変えて、隣のKと言う男を怒鳴りつけてきた。

 「何よ、あんた。同棲した、同棲したと喚いて、でかい面をするな。みんな知っているわよ」

 いきなり中年の女性がKに食ってかかった。

 「言い訳なんか聞きたくない。近付かないでよ。あっちに行ってよ」と、そばの女性が怒鳴った。

 「いくら同棲していたとしても、そんなことを言い触らす必要もないだろう」

 男の静かな声がする。自分が同棲していた女性と結婚した男が幹部になったとKは喚いていたが、その相手の男に違いない。

 柵の中の者が多く利用する店である。無責任な言葉が乱れ飛ぶことは柵の中で生活する者に悪影響を及ぼしかねない。影響を避けるために彼の言動を打ち消すしかない。何か言わなければならないと判断した。

 「酔った時の話でしょう。出任せだってあるのですよ。僕だって言えますよ。そんな言葉を真に受ける方がどうかしていますよ」

 この言葉で彼は高圧的になった。「同棲していた」という彼の言動を打ち消そうとするのを拒絶したのである。

 美子という女性が居た。彼女と桜屋の娘は友達同士だった。俺は同棲していたと叫んでいた彼は僅かな間だが、彼女と交際をしていた。今度、彼女と結婚しようとする男性が、このことを知っているかどうか知る由はない。「俺は同棲していた」という彼の言動が関係のない美子とのことと誤解されたり、だぶつき広がったりすることは、若い二入の新しい生活に暗い陰を投げかける恐れもあり、防ぐしかないと思った。


 射撃の訓練中にY市の柵の中で銃の乱射事件が発生した。死亡者と死傷者が発生した。犯人は銃を携行したまま逃走中である。突然のニュースである。不気味すぎる事件である。

 柵の中で何が起きているのだろう。

 Kは騒いでいる。

 「同棲していた女を捨てる直前に、夜寝る前に怖くて包丁を隠していた」と

 女性問題で腹を切った男の話を周囲で小耳に挟んだのであろうか。

 この時、私の工事での混乱が彼の言動に起因しているのではないかと確信を深めた。

 思わず強いことを言っていた。

 「これ以上引っかけ回すな」

 あきれるが、それ以上の手の打ちようがない。

 結婚して落ち着けば、過去の女性関係を吹聴するのを止めてくれると思った。しかし彼は増長し、美子やM君に対する聞きづらい侮辱的な言葉を吐くようになった。僕は彼に結婚を仲立ちをする者を紹介した。それが彼が縁になり結婚することになった。M君や美子のためにも、それが良いと信じた。ところが彼は、益々、増長し、周囲に過去の女性関係を吹聴し、結婚をすることになったと自慢するようになった。聞きづらい言葉に、僕はとうとう、「いい加減にしろ」と声を荒げた。 だが、効果はなかったようである。逆に恨みを買うことになったようである。目の上のたんこぶで邪魔な存在になったようである。

 彼が事務所で叫んだことが気になって仕方なかった。彼自身が同棲していた女性と一緒になった男性がI県にある陸上自衛隊のの学校に入校すると叫んでいたのである。私も同じ時期に入校することになっていた。ある夜の宴会で彼に逢ったような気がした。背後から、「いくら同棲していた女性とは言え」と語りかけられたである。

 一体、何だろう。自分は悪夢の底にのめり込んでいくような気がした。

 


 机を挟み、私はある男と向き合い座っていた。彼は大きな身体を窮屈に小さく折り畳むようにして私の前に座っていた。昨年の八月の演習場で若い隊員がドーザーの排土板の下敷になって死亡すると言う事故が発生した。その時の現場の指揮官であった。その事故は僕が担当した部外工事の半年後に起きていた。隊員は病院に運ばれたが、そこで内臓破裂で死亡した。自分より一回りも二回りも年を取っていたが、幹部候補生の筆記試験に合格した彼のため二次試験の面接の練習をしているのである。僕は彼の面接相手として彼の前に座っていたのである。

 「幹部候補生になろうとした動機は」

 「裁判も終わり、一段落ついた時に向こうの祖父さんから言われた。『孫は死んでしまった。もう帰っては来ない。だからあなたが孫の分まで頑張ってもらいたい』と。それで幹部候補生の試験に挑戦した」

 「亡くなった者の両親は」

 「祖父は自分が可愛がり育てた子供だったと言った」

 彼の目に涙が溢れていた。この涙で僕は救われた。色々なことが起こり自分を見失い掛けていた。崩壊しかかっていた基準を取り戻したような気がした。これが人として当然の姿だと思った。結局、裁判所でも両親は彼の前に姿も現わさかった。息子を失った親の複雑な心情を見るような気がした。

 悲しかった。憤りを感じた。胃の中に液体のような怒りが充満した。事故で息子を亡くした隊員の家族に対する怒りでも彼に対する憤りでもない。液体は氷のように冷たく消化出来ない堅い物体に変化し、胃の中でゴロゴロと音を立てて転がり始めた。周囲で起きている騒動と原因を知ったら、どのように感じるだろうかと恐れさえ抱いた。うまく伝えることが出来る自信もない。

 夜、僕はS君と話していた。

 「結婚式で泣いてばかりいるので不思議に思い、母と二人で問い詰めてみた」

 一か月前に結婚した彼が離婚してしまったという噂を聞いていたが、信じることも出来ずに不思議に思っていた。

 「以前、付き合っていた男が東京から帰って来たので結婚式の直前まで逢っていたと告白した」

 「母と二人で問い詰めれば、女も負けてしまうだろう」

 「振り返ってみるとすべてがおかしかった。式に参加した市役所の職員が歌う歌もおかしかった。『別れても好きな人』とか『三年目の浮気』なんかを歌いやがって。職員も知っていて、あんな女を押し付けたのだ。自衛隊も嘗められたものだ」

 「そこまで考えることはないだろう。偶然にその唄を歌っただけだ」

 「考え直した方がいい」

 「昔の話なら気にしません。でも結婚式の直前ですよ。日記にも書いてあったのですよ」

 「本当に見たのか」

 「机の中から日記を取り上げて見ました」

 「残酷なことをする。結婚直前とは不安定な時期だろう。感傷的になっていただけだ」

 「仲人を通じて家族に確認したら、家族も知っていた」

 「家族が正直にいうことは、すでに君に対する未練もないということか」

 「彼女がわざわざ会いに来ましたが、追い帰しました。でも絶対に許せません」

 微かに廊下から漏れてくる灯りの中で彼の顔が苦しそうに歪んだ。周囲の言動から解き放つことが出来れば、彼も救われるかも知れない。

 

 突然のことであった。

 「すぐに来い」と電話があった。

 この電話以来、僕は自分がTの代わりに債務者にされたのである。

 Tという男と俺は同棲していたと喚いていたKと言う男の二人は友人同士だった。Tが事務所に来て、彼ら二人が小声で話をしている所を見掛けたのは、工事から帰り半年後のことである。

 「この話は彼と僕しか知らない」

 彼の名前が出た以上、うさんくささを感じて、近付きたくなかった。研修先での成果をまとめねばならなかったので、忙しい時期でもあった。二週間後には部隊に帰ることになっていたのである。その時で良いだろうと思っていた。ところが三日後、また電話が掛かってきた。

 「何で帰って来ない。命令だ」

 叱責の声に変わっていた。帰ると問責が待っていた。

 「一体、何の話ですか」

 「サラ金のことだ」

 「おまえの名前をサラ金業者の帳簿で見たと言う者がいる」

 「誰ですか」

 しばらくの沈黙の後に言葉を続けた。

 「彼ですか」

 「誰だろうと関係ない」

 そばに座る男が怒鳴った。

 「関係ないことはないでしょう」

 「話では相当な額だ。目に付く額を計算しただけでも、お前の給料では払い切れない額だった」

 「どこで誰が見たと言っているのですか。この辺の業者ですか」

 「町の業者だ」

 「本当に見たと言っているのですか」

 「言っている」

 「覚えはないのか」

 そんな多額な借金を抱えた覚えはない。

 「嘘をついていないか。もし嘘をついていたら承知しないからな。調べてみるぞ」

 「調べてもらった方が安心です」

 二日後、「貯金通帳を持って来い」と再び電話があった。時間が経つにつれ、次第に不安が強くなった。新聞やテレビのニュースでは連日のようにサラ金による自殺や、それが原因となる犯罪が多発していることを報道していた。大きな社会問題となっていた。

 思い当たることはない。だが、もし誰かが自分の名義を使い借金をしていたら。この種の裁判では、夜逃げ者も多く、欠席裁判と言う制度が認められている。この話から半年後ほど経過した時のことである。

 「大変なことが起きている」と夏海君から電話が来た。

 「Tの借金額が二千万円近くになった。商品相場で失敗して、同僚からも借金をしていて、総額は分からない。工事先の町の町長にも借りていて、町長が借金の返済を求めてきた。貴方の名前をサラ金業者の帳簿で随所に見たと言う男も四十万円貸していて退職後に泣き付いてきた」

 Tと例の男がヒソヒソ内緒話をしている姿を思い出した。二人の姿をうとましく思いながら眺めていた。それから一年後のことである。詳しい話は聞き取れなかった。「相場が動けば」などと囁き合っていたような気がした。それも確かな記憶ではない。その話が、このような形になり、自分に関わって来ようとは予想だにしなかった。この時に、僕は自分がTの代わりにされていたのでは、始めて気付いたのである。だが、それが正しいのかどうかも確認できないのである。帳簿で、誰かが自分が借りているという証拠を目にしたと言う話は大丈夫だろうかと言う疑問は残るのである。Tの件の発覚以来、その危険性は高まったと言える。

 「彼が言ったに決まっているだろう。商品相場の値が動くのを待つために二人で共同で仕組んだに違いない」

 「本当に僕の名前を見たと言い出した男はKではないのか」

 Kが申し出たと言った上司に、執拗に電話で質問を続けた。

 Kの言葉が組織を混乱に導き、様々な事件や事故を招き寄せているとしか思えなくなっていた。自分に掛けられた借金の嫌疑の件でKを問い詰め、彼の権威を失墜させるしかないと思った。

 「君がやられるぞ。それでも一矢報いたいのなら、やるべきだろう。だが裁判に訴えるにも証拠を揃えることが出来るか。彼がサラ金の嫌疑を掛けさせ、Tの行動を隠蔽をしようとしたことは事実であろう。だが彼が仕組んだと証言はする者は現れるまい」

 「彼に一矢報い、判断基準を回復することがバランスを回復出来る手助けになるかも知れない」

 彼は応えなかった。私にはそんな力がないことは知っていたのである。結果は夏海君が危惧したとおりになった。何も解決されないまま、侮辱的な言葉に追われるように、柵の中を去らねばならなかった。

 その、また一年後に、とうとう次の死亡事故の発生したことを知った。ブルードーザを輸送中にトレーラーが道路脇の斜面に転落し、助手席に乗っていた隊員が死亡したのである。ドライバーは、自分が身近に知る隊員である。彼も死亡した助手も結納まで終わり結婚直前だったと言う。偶然の出来事とは思えなかった。


 相談をしたいことがあると電話がかかって来た。

 「ある隊員が学校に押し込みに入った。余罪で婦女暴行未遂をしていたことが分かった。他に色々なことが起きている」

 その男の名前は微かに覚えていた。休暇中に繁華街で手首を切り自殺未遂を企てた隊員である筈だ。その彼が再び事件を起こした。

 「相手が訴えなければ、婦女暴行未遂は成立しない。押し込みも未遂も終わっていたので犯罪にはならなかった。任意退職で処置すべきだった。だが倫理的に懲戒免職にするしかなかった」

 一体、何が正しく何が間違っているのだろうか。微かな痛みが胸の中に走った。彼も同じ気持ちだったに違いない。彼も苦しそうに顔を歪めた。

 相次ぎ発生する事件の法的な処理が間に合わないと彼は言った。

 「これで収まるだろうか」

 「根本的な問題は柵の中で彼らを包む雰囲気であろう。多くの彼らは、柵の中で弄ばれているように。消灯後に、彼らが、どのような話をしているか掌握するする必要がある」

 手遅れかも知れない。僕と一緒に彼も転出をさせてしまえば、藪の中に葬り、静かに納めることも出来たかも知れない。そう応えるのが精一杯だった。


 結婚式には多くの部下も参加していた。

 ところが女は結婚式の直後に離婚を申し出た。彼女はホテルのロビーでカミソリを手首に当てて離婚を迫った。結婚の破綻で一瞬にして自分の立場は砕かれた。多額の慰謝料を要求した。まさか用意出来るとは思えない額だった。それを彼女は平然と用意してきた。ますます疑心暗鬼になった。そんなに別れたいのかとも思った。自分を打ちのめそうとする存在がいることは承知していた。嫌がらせをする者の出現するかも知れぬと予想していたが、明確な存在や動きを把握していた訳ではない。その後、十年近く世間を憚り、耳をふさぎ顔を歪めるムンクの絵の中の男のように正体不明な存在に怯える日が続いた。それは「みんな」と言う不特定多数の存在かも知れない。時間も停滞し、犯人を特定を望むが、柵の中では方法もない。たとえ問い詰めても、「みんながみんなが」と合唱を繰り返すばかりである。

 「慰謝料を払ったでしょう。早く離婚手続きをしなさい、今度はこちらが訴えるわよ」と女は叫んだ。

 私が次の女性に出会ったの正規の離婚手続き終わり数ヶ月後であった。ある政治家のパーティで出会った。彼女とやり直すことができれば結婚式に参加してくれた者たちにも世間にも言い訳が立つと思った。ずるく浅はかな考えだったかも知れないが、私の耳には終始、あいつと結婚する女性などいるものかとあざけ笑う相手などいるものかと言う声が聞こえていた。

 このような時にも同じ類の馬鹿な人種が周囲に存在し、神経を逆なでするようなことが続いた。

 別れた女と同じ名前の女性と同じ名前の彼女と結婚すれば離婚したことも暴露されずにすむ。世間や部下たちにも隠し通すことが出来る。すべて丸く収めることができると信じた。後味の悪い思いが残った。

 「結婚の前に娘に色々なことを吹き込んだ者がいた」中から

 明確に第三者から聞いたの五年後のことであった。親戚、家族、それに中隊長時代の部下を呼んでの盛大な結婚式であった。黙っている訳にはいかない。

 「名前を教えて頂けませんか」

 五年前の話だと彼は拒絶した。

 這い上がろうとしても這い上がることのできない所まで落ちた。

 暗い地獄の淵を見下ろしながら、鋭い剣の刃の上を歩くような人生が待っていた。


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