言の葉を、綴り残すその意味は

笠緖

伊達家の奥御殿にて

 ふるふる、と震える筆先が、ぼて、と紙の上に墨を落とした。

 やはり、多く墨を含ませすぎていたのだ。それでも何とかそこを起点に書き出した文字は、形悪く、どう贔屓目に見ても、明らかに書き損じと思えるものだ。


「あー! また、しっぱいしたっ」


 五郎八いろはは頭の先から感情のままに声を出すと、ぷぅと頬を餅のように膨らませる。そして手に持っていた筆をころりと机の上に投げ出すと、小袖から伸ばされた足をバタバタ板間に響かせた。


「こら、五郎八ッ! 行儀が悪かろう!!」


 ぴくん、と眉を持ち上げた隣の乳母の雷が落とされる一瞬前に、背後から突然声がかかり、少女は小さな肩をビクッと大きく弾ませる。乳母をはじめとする侍女たちが一斉にこうべを下げる中、ちら、と肩越しに振り返ると、そこには想像通り、右目に眼帯をつけた男――伊達政宗だてまさむねの姿があった。

 伊達政宗――。

 言わずと知れた、東北の大名のひとりであり、五郎八の父親その人である。


「全く。元気なのは結構だが、母上がそのお姿を見られたら、さぞ嘆かれるぞ」

「ごめんなさい。でも、父上。うまく字が、かけません」

「何、字? ……あぁ、手習いか」

「はいっ。辰千代たつちよさまに、お便りするように、父上がおっしゃられたので、練習をしているのです」


 五郎八は今年まだ六歳になったばかり。

 去年の暮れ辺りから、乳母や母が手習いを教えてくれていたが、それでもまだ「手習い」の段階である。とても消息ふみが書けるまでではなかった。けれど、正月に婚約を済ませており、実際の輿入れはまだまだ先だろうが婿どのと文でも交わし合い、仲良くするよう父親に命じられていた。

 辰千代、というのはその相手の名である。


「なるほど……どれ。ならば、今日は、この父が見てやろうではないか」

「本当ですかっ」


 五郎八は、机の上に置いていた紙を手に取ると、部屋へと足音を転がしてきた政宗へと、掲げるように見せつけた。流石に墨は既に乾いており、下へ垂れるほどではないが、裏面からでもはっきりと、そのしくじりが滲んでいる。

 父は「うーむ」と顎に手を当てると、穴が開くほどの勢いで少女の手習いの書へと視線を這わせた。


「い、ろ、は、と書きましたっ」

「うん! 堂々とした字が書けておる。なかなか、良いのではないか?」


 ぽん、と政宗の手のひらが五郎八の頭上に優しく落ちる。さら、と肩口で揃えられた黒髪が軽く揺れた。少女は父の温もりに、一瞬で頬の位置を高くし、甘えそうになるが、すんでのところでハッと気づく。


「だめですっ! 父上、だめなのですっ」

「ん? 何が駄目だ」

「だって、五郎八の書いた文字は、母上のようにお美しい文字ではありません」

「何、母上のように?? ……ふははっ、ははははっ!」


 父は喜怒哀楽がとても激しい。

 まるで赤子のように、一瞬で感情の湯が沸き上がる。――否。恐らく赤子の方が少しは我慢しているのかもしれないと思うほど、すぐに全ての感情が頂点を極める人だ。

 此度も噴き出す笑いを堪える事のないように、おもてを天井に向けて、それは楽しそうに笑う。


「たわけめ。お前は、まだ手習いを始めたばかりではないか」

「では、母上も五郎八と同じ頃は、こんなにお下手でしたか?」

「さぁな。それは知らん!」


 そこは嘘でも是と言うべきところではないか。

 五郎八は幼心にも、そう思ってしまう。まぁ、それがこの父が父たる由縁であると、少女は齢六歳にして察してしまっていた。


「まぁ、父も五郎八の頃には似たような字を書いていたおった故、安心せよ」


 未だ頭上にあった手のひらが、少女をぐりぐりと撫でつけてくる。せっかく乳母が櫛を通してくれた黒髪が、いい加減ボサボサになりかけた頃、その手はふ、と離れていき、けれどそのまま少女の痩躯を持ち上げるとあっという間に膝の上に座らされた。


「本当ですかっ? 父上も、五郎八のような字でしたかっ?」

「おう。先日、その頃の手習いの書を見かけたがな。むしろ、五郎八の方がよほど上手い」


 はっはっは、と笑う政宗の姿に、五郎八の頬がふくふくっと持ち上がり、唇には三日月が宿る。父の父たる由縁は――、こういうところにあるのだと、心底思う。だから、五郎八は父が大好きなのだ。

 けれど。


「父上の手習いの書、見てみたいです。どこにあるのですか?」


 声に笑顔を孕ませながら、五郎八が訊ねると、楽しげにしていた政宗の声が俄かに口内へと引っ込んだ。喉の奥で何かが引っかかったかのように、何度も何度も喉を鳴らしている。


「……あー、あれな。どこにやったのだったか……、見苦しくて捨てたのだったかな?」

「……えぇ」


 どう考えても嘘だ。

 しかし、落ち込んだ娘の声にも、その後、政宗が手習いを見せてくれる事は終ぞなかった。





**********





「母上? どうされたのです?」


 五郎八は文机に向かっていた母・愛姫めごひめが「ふふっ」と楽しげな声を零すのに気づいて、視線をやった。

 辰千代――のちに、忠輝ただてると名乗った夫と離縁してから、五郎八は仙台に住むようになっていた。母は江戸の伊達屋敷に住まうため、父が江戸へ行く際など彼女も着きそう事が多く、今もこうして母と同じ部屋で積もる話などをしながら時間を過ごしていた。


「今ねぇ、頂いた書状おふみなんかをちょっと纏めようかしらって、整理していたんだけど……」


 愛姫は硯箱から取り出したらしい紙を手にしながら、五郎八へと視線を向けて来る。昔から垂れがちだった目尻がさらに優しく下がっており、そのおもてはとても五十路を過ぎたとは思えないほどに、可愛らしい。


「ねぇねぇ、五郎八。父上には内緒よ?」

「えっ、勿論っ。何です?」


 ふふふ、と袖口で口許を隠す母へと、五郎八はにじり寄るように膝を進める。愛姫は、流石あの父と長年添うてきただけあって、その性格は菩薩のように優しく穏やかではあるが、同時にどこか食えないところも持っている人だ。

 母ではあるが、どこか永遠の少女らしさもある。

 しっかりしているようで、可愛らしい。

 五郎八にとって母とは、母でありながら、姉のようでもあり、時に友人のようでもある存在だった。


「ねーぇ。これ、見て。可愛らしいでしょう?」


 母の手にあったのは、紙に書かれた――何度も書き直しをしている文字。所謂、手習いの書と呼ばれるものだろう。

 拙いながらも、しっかりと墨を含んだ堂々たる文字である。


「これって……」

「うふふっ、父上の手習いの書よ」


 そう言って笑う母の姿に、五郎八は大昔に父と交わした言葉を不意に思い出す。


  ――……あー、あれな。どこにやったのだったか……、見苦しくて捨てたのだったかな?


 まるで年頃の少女のように、可憐に笑う母と、昔の父の姿が、五郎八の脳裡で重なっていく。


(……なぁにが、見苦しくて捨てた、よ!)


 父と母は、連れ添って四十年ほど経つが、その仲は周りが照れてしまう程に睦まじい。あれほど側室を数多く抱えていても、父は母をはっきりと周りに示す程に大切にしていたし、如何に若い側女が寵愛を得ても、正室への想いたるや別格であるとの評判だった。

 五郎八は、どこまでも素直ではない父こそが、父たる由縁なのだと、こみ上げた感情を我慢する事なくそのまま笑いに弾き飛ばした。

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