こういうのがいい。

日々寧日

まるでそれは呪いのように

 一人暮らしの男子大学生にとって、「年上の美人なお隣さん」という概念は憧れであり、そんなシチュエーションに胸をときめかせるなという方が無理な話ではあると思う。実際僕も、そういった妄想をしたことがないと言えば嘘になる。


 ただ現実のそれは、そんなに色めいたものではないということを僕は経験している。


 ユキさんと出会ったのは、深夜のコンビニ帰りだった。

 ここで想像してみてほしい。深夜、自分の部屋の前で、知らない女性が崩れ落ちている。フィクションで見かけたことがある状況だったが、この時の僕の心境はただ一言『恐怖』だった。訳が分からなくて頭の中で「警察」「通報」「110番」などの言葉がぐるぐると渦巻いていた。階を間違えた可能性にかけて三度確認したが、紛うことなく自分の部屋のある階だった。

 どれだけの時間取り乱していたか覚えていないが、彼女をどうにかしないと部屋に入ることができないので、恐る恐る声をかけてみた。


「あの……大丈夫ですか……?」


 返事はない。今度は身体をゆすりながら声をかける。小さなうめき声

が聞こえた。


「ここ、僕の部屋なんですけど……」

「……んぁ? んん……」


 焦点の定まっていない瞳と酒臭い息、酔っ払いだった。年齢は僕より少し上に見える。20代後半くらだろうか。かなりの酩酊状態にあるようだ。病気などではなさそうで少し安心した。それもつかの間、


「――う゛っ」短いうめきと小さな身体の痙攣。


 まさか、と思ったときには遅かった。そのとき僕はしゃがみこんで反応を窺っていたから、上体を丸めた彼女の目の前には僕の脚が。


 高校時代の友人が「美少女のゲロやおしっこはかけられてもいい」と言っていたのを思い出した。当時はそんなものかと聞き流していたが、いまなら冗談じゃないとぶん殴っていたかもしれない。

 最悪だった。今すぐに帰りたくなった。いや、目の前だけど。

 

 それからは自棄になって、強引に彼女の身体をどかして部屋に入ったのだけれど、ゲロのかかったズボンを洗っているうちに、放置したままの彼女のことが気にかかってきた。

 凍死の可能性はないか? 吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死した話を聞いたことがある。もし部屋の前で死なれたら……?

 ネットで「不作為殺人」や「死体遺棄」と検索したあたりで我に返り、様子を見にいくことにした。


 玄関を少し開け、ゆっくりとのぞき見る。うなだれたまま全く動くそぶりが無いのでヒヤッとしたが、確認すると寝ているだけのようだった。


 散々悩んだ挙句、僕は彼女を部屋に入れ、扉一枚隔てた廊下に客人用の布団を敷き、そのまま寝かせた。誤解のリスクも考えると警察を呼んだ方が圧倒的に良いはずなのに、その時の僕はなんだか疲れ果ててしまっていて、さっさと寝たかった。

 

 そのときのことを話すとユキさんは


「いやぁ、あれはびっくりしたよ。酔ってタクシーに乗ったところまでは覚えているんだがね。起きたら知らない場所で知らない男の子がいたんだから」


 拾ってくれたのが君でよかった、と少し照れたように笑う。


 翌日目覚めたユキさんに事情を説明し、誤解もされることなく謝罪を受けた。そのあと連絡先を交換し、汚したズボンのクリーニング代を受け取ったところで、彼女が隣の部屋の住人であることを知った。以来、たまにアパートで会えば世間話をするようになり、それから今に至る。


 ユキさんはちゃんとすれば整った顔立ちで、理知的な口調も相まってクールな美人という風貌の27歳OLだ。なので、最初僕はそんなお隣さんと知り合えて、そんな都合のいい展開あるはずないと思いながらも、期待に胸を膨らませていた。だがその期待はすぐに裏切られることになる。


 端的に言えば、生活能力に問題のある人だった。酒好きでずぼらというおよそ一人暮らしには向いていない人だったのだ。仲良くなってからというものの、何度飲み屋へ迎えに行き、酔った彼女を介抱したかわからない。


 面倒だったし、無視しようと思ったこともあった。けれど迎えに行った時の彼女の嬉しそうな顔と、「ごめんね」と言うときの少し照れた顔を見ると、文句を言う気も失せる。


 そして介抱が必要なほどユキさんが酔うときは理由があった。それを知ったのは、ユキさんと二人でお酒を飲んでいるときに、彼女がぽろっとこぼした愚痴がきっかけだった。


「……なんで私はうまくいかないのかなぁ」


 仕事でうまくいかないとき、ユキさんは浴びるように酒を飲んだ。

 そのうち愚痴も聞くようになって、少しずつ彼女のことを知っていった。


 彼女は(私生活はともかく)仕事に関して真面目で、誠実で、そして”正しく”あろうとした。けれど社会には、彼女にとって不真面目で、不誠実で、”正しくない”ものがたくさんあった。


 当たり前だ。まだ社会を知らない大学生クソガキでもわかることだ。世界には理不尽なことがたくさんあって、おかしいとは思いながらもいつしか諦め、妥協し、「大人になった」という免罪符で受容していく。


 彼女には、それが耐えられなかった。結果、敵を作り、しがらみも増え、どんどん身動きが取れなくなっていった。溜まったストレスの矛先は酒で、でもそんなもので洗い流せるわけもなく、日々なにかをすり減らしていた。


 不器用な人だと思った。生きるのが下手で、見ていて少しだけ苛ついた。同時に、その苛つきの中には自分が持ってない、あるいは失くしたものへの憧憬が混じっていることに気づいた。


 この人には、報われてほしいと思った。

 僕が少しでも支えになれるなら、出来ることはしようと思った。


 この頃から、僕はユキさんのことが好きになっていた。


 けどユキさんにとって僕は、隣に住んでいる面倒見の良い、ただの無害な大学生だった。ユキさんからの恋愛感情は、欠片ほども感じたことはない。少し悲しくはあったが、それでもよかった。無味乾燥な僕の日常の中で、彼女の傍にいるときだけが、輝いていた。


 彼女が楽しそうにしている。笑っている。笑いかけてくれる。


 だったら、僕のちっぽけな恋心なんて、この場には不要だ。

 この時間が壊れるくらいなら、隠そう。あっさりとそう思えた。

 もしかしたら彼女はとっくに気づいていたのかもしれないが、何も変わることなく日々は過ぎていった。


 ある日、たまたま街中でユキさんを見かけた。

 知らない男の人と、楽しそうに歩いていた。


 あんな顔をするのか、と思った。

 見たことのない表情をしていた。

 

 格好だってそうだ。僕が知っているユキさんは、いつもよれよれの服や履き潰したスニーカー、部屋ではクソみたいなジャージなのに。


 着飾って、僕の知らない表情を浮かべているユキさんは、きれいだった。

 

 街ゆく人の流れの中でポツンと突っ立たまま、僕はいつかテレビで言っていた、「恋をしている女性は美しく見える」という言葉を思い出していた。


 ふらふらと家に帰り、ベッドに突っ伏した。無心で、ただそうしていた。何もしたくなかった。動くと、ふとした瞬間にいま胸の中にあるこの苦みが溢れて、喉を灼きそうだった。


 いったいどれだけそのままだっただろう。玄関のチャイムが鳴って、外が暗くなっていることに気づいた。


 ユキさんだった。気が向かなかったが、無視するわけにもいかずに出迎えた。


「……やぁ、来てしまったよ。一応連絡したんだが、もしかして寝ていたかい?」

 

 スマホを確認すると確かに、連絡があった。


「……いえ、マナーモードになってたみたいで、気づきませんでした。それで、何か用事ですか?」

「あぁ、いや、なんだ……もしよければ飲まないかと思って」


 そこで、彼女の声が震えていることに気づいた。よく見たら目元も少し赤い。


「……泣いて、いたんですか?」


 酔っぱらったり愚痴をこぼしたりする彼女は見慣れたものだが、泣いているところを見たことは一度もないので、少し動揺した。


「あはは……ばれてしまったか。いや、恥ずかしい」


 昼間はあんなに楽しそうにしていたのに、まさか。


「……好きな男に、振られてしまってね」


 腹が立った。

 最悪の気分だった。

 今すぐにでもぶん殴ってやりたい。

 ユキさんを振った男を、ではない。


 彼女が失恋して、泣くぐらい悲しんでいるのに、


 安堵してしまった自分が、どうしようもなく許せない。




 ユキさんを部屋に招いて、いつものように酒を交わし、ひとしきり愚痴や弱音を聞いた。いつも通り、ユキさんの都合の良い飲み相手になろうと必死で取り繕った。上手くやれていたと思う。聞いて、聞いて、ユキさんが欲しそうな言葉を考えて、考えて、返す。いつも通りに、うまく、うまく――


「――ねえ、どうして君はそんなに優しいんだい」


 危うく、泣きそうになった。


「……なんですか、急に。今更ですね」

「はは、本当にね。でもふと気になってさ」


 それを、聞くのか。あんた本当は全部わかってるんじゃないのか?

 それとも、本当に気づいてなくて、聞いてるのか。


「……別に、最初は家の前でもし死なれたら迷惑だって思ってただけで。今はまあ、こうして知り合ってしまったんで、何かあったら目覚めが悪いなって。そんだけですよ」

 

 なるべくぶっきらぼうに言ったつもりだったが、少し苦しかったかもしれない。


「なんだいそれは、素直じゃないなぁ。それでも甲斐甲斐しく面倒を見てくれているあたりお人好しというかなんというか……ああ、私が言うことではないな。いつも助かっているよ、ごめんね」


 うん。やっぱりいいなぁ。と彼女は呟く。


「君のそういうところが、私は好きだよ」


 僕の気持ちに気づいていても、いなくても、


 それは世界で一番、残酷な言葉だった。


「君がいなかったら、私はとっくにダメになっていたかもしれないなぁ」


 ――君だけだ。と彼女は言った。


 まるでそれは呪いのように、僕を縛りつけた。


 


 今日も僕は、酔った彼女を迎えに行く。

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