-7- その手で塗り替えて

『眠らないつもりね』


 卓上の灯りのみで地図を眺めて暫く、溜息と共に例の声が湧いた。


「夢とは無関係にアレンは選ばぬ、そう見做せば良かろう」


 予期していた女のそれに対し、次の大陸付近を指でなぞらせつつ、無関心に答える。


『あの男を選んだ事にはならない。平行線は許さないわ』

「知らぬ。その内傾くのであろう? 捨て置けば良いではないか」


 今更出向けぬと、何処よりも広大に表記されているその地を指先で弄ぶ。

 村が二つと港町。広さに見合わぬ人口が予測出来る。さては魔物でも蔓延しているのか。


「知らぬ序でに聞くが、お前は何者だ。呼ぶつもりなど無いが、名前位は持ち合わせておろう」

『…………そうね』


 と、妙な間に次いで小さく漏らし、更なる沈黙を生む。

 名乗れぬ節でもあるのか、その名すら持ち合わせぬ存在なのか。

 言わぬのならそれでも良いと、質問も忘れて目前へ集中する。


『リリス。……私も、リリスよ』


 けれど、悩んだ末にか、女は低くそう述べた。


「……もう少しまともな嘘は吐けぬのか」

『そうね、思い浮かばなかったわ』


 下らぬ、それでは混同するだけだと、更に先の地へと目を遣る。今度はどの大陸よりも狭小……名はいわの地とあった。


 いつぞやの主人が、五大陸は星型などと言うておったが、実際には大小歪な四大陸が弧を描くように並び、この広大な大陸から岩の地が中央へ向かってこぶの如く生えているように見える。


 村の名等は表記されていない。この面積では恐らく人は住めぬのであろう。


『行かないのね』

「くどい」

『それはこちらの台詞よ。意地っ張り』


 まるで、言い合いに持ち込むかのようなそれは相手にせず、目前の代物をひたすら脳内へと叩き込む。二人が居るとしても知らぬよりは良い。損もあるまい。


 方角を見定め、地図の内容を把握すれば、もう迷う事など無い……はずなのだ。


 しかしこの広大な地、道筋が記されておらぬのだが如何様にして進めば良いのか。


「……直進?」

『出来るものですか。見定められぬが故の方向音痴という事を理解なさい』


 業を煮やしたのか、女が鋭い声音を立てる。

 その否定に根拠はあるのかと口を開いた次の瞬間、突如として身体の底から湧き上がる何かを感じた。


『仕方無いわね』

「う……く」


 忘却は許されぬその感覚。幾度も人々を絶望の淵へと陥れ、逃れ得ぬ死を与えてきた。


 そして自身をも縛り付け、ヒトとしての生を拒ませる……その感覚は。


「ゃ、めっ……此処では……この城でだけは!」


 両の手で拳を作り、机へと打ち付ける。だいだいの光が心情を表すかのように激しく震えた。

 遂には心臓が強く弾かれ、目眩をも引き起こす。


『履き違えないで頂戴。血に飢えたアレのように無差別では無いわ。少し本能に呼び掛けているだけ。……さあ、愛らしい程に正直なそれが求むものはなぁに?』


 妖しく問われ、否が応でも紺碧の瞳を思い浮かべてしまう。


 正の感覚では無くなったそれがゆらりと立ち上がり、何を思うてか卓上の灯火を消していた。

 降りる闇の中、荒い呼気に入り混じるは不気味な微笑。その身が与え得る全ての熱を貪ってやろうと目論む、先駆けの愉悦であった。


 根底はそれほどまでに彼奴を欲しているというのか。……今はただ、その執着が憎らしい。


 鬼の目が暗がりの輪郭を捉える頃、身体は妙な高揚を覚え、次の瞬間には部屋を飛び出していた。


 未だ見分け付かぬその部屋ではあるが、常のような迷いも表れぬままに行き着く。数時間前とは違い、躊躇いすらも無く扉を叩いた。


 やはり察知はされていたのか、然程間も置かず開かれ、怪訝そうな声が頭上で響く。


「バルコニーに行くようなら顔出してやろうと思ってたけど、まさか来るとは。……なあ、さっき来たのも本当は……っておいこら」


 言い終えぬ内に彼を摺り抜け、部屋へと踏み入る。

 私と同じくして室内の明かりは灯されておらず、開かれたままの魔道書が卓上で橙の光を浴び、影を揺らめかせていた。


「つーか、昨夜は何度夢と思った事か。起こしてってくれてもいいんじゃね?」


 声を背に部屋を突き進み、ベッドの前へと立つ。

 振り返り、顔を俯けたまま黙した。


「……何その大胆さ。さっきの立ち往生はどこ行ったんだよ、逆に怖いわ。そんで朝から目ぇ逸らしてばっかだけど、恥ずかしがってんのか嫌になったのかハッキリしろよ。胸糞悪いっつーの」


 近付く声を、ひたすらに待つ。目は今こそ合わせる事が出来ない。その色悟られるは厄介事以外の何物でも無いが故に。


「黙ってないで話くらいしろって。そんなんで一緒に寝る気とか……割り切んなよ。可笑しいだろうが」


 俯ける視界に彼の足が映る。それが手の届く位置だと確信した瞬間、面を上げ、後頭部を掻く腕を強く引いた。


「いっ?」


 水晶色の髪を靡かせこちらへと倒れ込む彼を、素早くベッドへと組み伏せる。


「なななに、何なんだよ!……うわその目っ!」


 片方の手で肩を掴み、対の手でその顔を外側へと向け、有無を言わさず露となった首元へ覆い被さる。

 いつかのように、情けない声が耳をつんざいた。


「のえってぇ! やめっ、……やめぇっ!」


 以前ならばこの後すぐに意識を失い、身を預けてくるはずであった。


「でぇい!」


 しかし、妙な雄叫びと共にこちらの肩を押し遣り、首から退ける。どうやら毒の効き目が遅いらしい。それどころか、最近は昏睡を確認する前に勝手に自室へと戻ってしまう故、詳細は不明。

 よもや此奴、眠らぬのではあるまいかと目が細まる。


 ……と。


 勢い良く剥がされる唇から、飛び散るものがあった。はたり、はたりとその雫は彼の頬や顎へ……橙の光を受けて宝石のように煌く。


「何で足りてないんだ! ってもう戻……わっ!」


 湧き上がる衝動が再び彼の腕を戒め、ベッドへと押し付ける。驚愕するその頬に顔を寄せ、散りばめられるこうぎょくを徐ろに舐め取った。


 すると、今までの煩さとは打って変わり、図体に見合わぬ様で身を強張らせる。

 暫しそのまま硬直していたようであるが、顎へ向かい舌を這わせた瞬間、先程よりも強い力で突き飛ばしてきた。


「はっ、この、だ……どう食いに来たんだよ! 吸血鬼か人間かっ……気付いてないならその目色、鏡で確かめろ!」


 均衡を保てず倒れるこの身と相対するよう起き上がり、混乱の面持ちで大声を張るキッド。橙の光に当てられているその顔色は、それに非ずとも熱を帯びているように見えた。


「確認、せずとも……私は、私だ」


 対し、肘で上半身を支え、自身でも分かる程に腑抜けた声音でそう答える。


「じゃあ俺をどうしたいんだ! どうにかして欲しいのか!? ああもう!」


 忙しなく動く視線を俯け、乱れた髪を結わえ直し、彼は深く項垂れる。


「仕舞いにゃこっちだって吸うぞ……ったく」


 そして何やら呟き、素早く術を唱え始めた。


「フューヒールっ」


 首元に掌を当て、乱暴に言い放つ。

 吸い切れぬまま引き剥がされ、赤いまだらを染み付けていたその箇所は、牙によるくぼみを跡形も無く消し去っていった。


「つーか、最近痛いんだけど何? 鎮痛剤みたいな効果に慣れてきたとか? 眠くもなりゃしない」


「分からぬ、前例が無い。だが、確実に毒の効き目が薄れておる」

「そうかよ。んで? 吸って満足したから部屋戻んの?」


 自身から投げ掛けたはずの質問も、それに対する返答もまるで無関心であるかのように、彼は毛布を丸く固め膝元へと乗せる。そこで頬杖を付いて大袈裟に睨み付けてくる目線を、やはり数秒と見る事が出来ず、私は黙した。


「まーたそうやって目ぇ逸らす。言いたい事があるならハッキリ言え、恥ずかしがり屋。本当は夢が怖いから添い寝頼みに来たんだろ」


 言われながらようやっと身を起こし、腰掛けたままベッドの外側へと足を投げ出す。目は向けられぬがそれでも大きく深呼吸をし、そうだと肯定した瞬間、顔全体に異常な熱が纏わり付いた。


「……ごめん、言い過ぎた。そんな理由、恥ずかしいに決まってるよな」


 声音の震えを感じ取ったのか、穏やかにそう返される。


「今朝もアレか、やっぱ顔合わせ辛くて抜け出しただけ?……で、部屋戻るだけなのに迷ってたんじゃねぇだろうな。セシィが探しに来たぞ」


「……すまぬ」


 あの時潜んでいた事は伏せ、息を吐く。寝惚けておったが故にか、正確な位置を気取られずに済んだ事に再び安堵していた。


「なあ、血、足りてないのか? 今の……目の色違ったって事は、危ないのが出たんだよな?」


「足りぬ訳では無い。一応の制御は出来るが、此処へ仕向ける為に使わされたようなものだ」

「?……添い寝、頼ませる為に?」


 危険では無い事を訴える為、反射的に答えたが、それの意味するところを失笑と共に言い渡され、言葉を詰まらせる。


 叩けば埃ばかり舞うようなこの場はもう、無きものとしてしまいたかった。


「……」

「あー、えーと悪いけどさ、向こうの手拭い持ってきてくんね?」


 数秒の間の後、彼は妙な手振りを交え、突然そう切り出す。

 何故自らが出向かぬのかと眉をひそめると、更にひらりと手を振っていた。


「血ぃ抜かれた後に動き回ると、ぶっ倒れそうだし」

「……それほど飲めてはおらぬが」


 不満と共に腰を上げ、仕方無く洗面台へと赴く。

 背後で更に、濡れたやつなと注文され、桶に水を張り、乱雑に浸した。


「あ! ついでにさ、そこのアレも持って来てよ」


 水気を切って踵を返すと、注文が追加される。

 辺りを見回すがそれらしい物は見当たらず、物の名を問うても返ってくるのは曖昧な返答。


「いやぁ、ド忘れしちまって。何だったかなぁ」


 彼の荷や、積まれている書物を指し示しても似たような台詞が返ってくる。そうして暫し部屋を徘徊させた後、仕舞いには後で自分で取りに行くと笑い、手拭いを急かした。


「このような下らぬ使いを頼まれたのは初めてだ」

「あっはは、ごめんごめん、ありがとな」


 受け取ったそれを自身の首に当て、血を拭き取る。


「そこも、突き放したりせねば汚さず保てたものを」

「……だったら、襲い掛かるような真似は止してくれ。あと、勿体無いからって舐めるのも勘弁」


 頬を強く擦るように拭い、文句を垂れながら膝の毛布を放り投げる。

 そのまま、勢い良く立ち上がっていた。


「ったくもう、血に関しては積極的っつーか無駄に官能的っつーか……はーあー」

「おい、倒れるのではなかったのか」


 また手拭いを渡されるであろうと目前で待機していたというのに、その歩みはふら付くどころか、しっかりとした足取り且つ早足で、洗面台へと向かっていた。


「誰が?…………ああ、うん、もう大丈夫」


 鏡で自身を確認するそれに肩を竦め、私は靴を脱ぐ。


「不可解な」


 放り出されていた毛布を整え、早々に中へと潜り込んだ。

 待たせるより、先に眠ってしまう方が余裕も出来る。……それに、既に眠い。


「途中まで動けなかったのは本当……ってもう寝てるし! ひでぇ!」


 瞼を通して映る橙が、漆黒へと塗り変わる。次いで静かにベッドへ重みが掛けられ、右側に侵入の気配。もはや眠気の方が勝っている為、特に恥じらいも無く、隣で湧いた熱にただ意識を落ち着けた。


「え、ホントにもう寝てる?」


 再確認するそれにおやすみと返し、毛布の裏で欠伸を一つ。


「こりゃ本気で……これまで以上の生殺しだ……」


 呟きに次いで彼も挨拶を述べ、そのまま向こう側へと寝返りを打ってしまう。

 それに僅かな寂しさを感じたのも束の間、小波のような無が、静かに思考の全てをさらっていった。






「……きて……ナさま! 絶対にダメ!」


 どこか遠くで、幼き声が必死に訴えている。


「リリス怒ってないよ! 今もずっと大好き! だからっ……」


 死なないで、消えないでとひたすらにか細き声音を響かせる。

 幼少期の愛称で私を呼ぶその主は、この身を虐げられる唯一の存在。それが、夢だと思うには余りに酷な言葉を並べ立てる。


「聞こえるかな……おねがいルーナさま、お返事して!」


「もう許せなどとは言わぬ。けれどリリス、私はお前への愛を思い出す事が出来ない」


 脳内へ巡らせるよう呟くのと同時に、背に温もりを感じる。

 それは、確かなる彼の気配。

 徐々に意識が浮上していくのが分かった。


「……ぁ、やっぱり聞こえてる!」


 内容よりも、返答したというそれに歓喜したのか、少女は声高に叫ぶ。驚く程明瞭に響いたそれに、不意に瞼が持ち上がった。


 途端、あのねと続けられた声が途切れ、物の輪郭浮かぶ暗がりが視界に飛び込む。夢現から明確な現実へと、流れるように掏り替わっていた。


「リリス……?」


 妙に取り乱していたような彼女。……あれも、何かの策であろうか。

 昨日とは違い不快を感じ得ぬのは、背後に彼を確信している故か。しかし、離れて眠ったにしては、今度は異様な密着具合である。


「……おい」


 横向く私の背に隙間無く沿う熱。大きなその手は脇腹へと回され、身動きすら取れぬ程に強く抱き竦めている。足も絡め取られているのか、重い。


 ……何だこれは。どういう体勢だ。

 キッドと呼び掛けつつ、辛うじて自由であった右手で脇腹にある腕を掴み上げる。


すると、後頭部付近で聞こえていた寝息が気怠そうな唸りへと変わり、再び脇腹を抱いては更に強く……恐らくは自身の腰へと引き寄せていた。


「!」


 ……その先に酷く違和感があり、身をよじる。

 軽く息が漏れる程の抱擁に次いで、緩慢に腹全体をまさぐっている。


 何のつもりかと再び呼び掛けると、衣服の隙間を縫い、無遠慮なその手は突然素肌へと滑り落ちた。


「は……!?」


 瞬時に混乱へと塗り替わる脳内。もはや身の何処が自由であったかも忘れ、ただ硬直した。


 空白の頭の中、けれど唐突に喉が仰け反る。他より体温の低いそこへ、熱を持った無骨な掌が触れ、形容したくも無い動きで包み込んでくる。


「ふ、ぁ、なにっ……」


 彼の手中で形を変えるそこに、それこそ表わし難い感覚が走り、抵抗の手も奪われては掠れた声を吐く。仰け反っていた身が今度はすくんでしまい、引けた腰が更に彼へと密着した。


「……ぅ」


 腰と言うよりは、でんで違和感が増したように思え、訳も分からず目が泳ぐ。

 すると、乱れていた髪が背面へと流され、右肩や首元が微かな冷気に晒された。


「っ!」


 胸の先端を弄ばれると共に、露となっていた首筋に水音が響く。同じくして、髪と吐息が擽ぐる感覚。薄く開けた視界でそちらを見れば、水晶色の頭が私を食んでいた。


「ん! ぅ、や、やめ……」


 ぞわぞわと粟肌あわはだが立ち、けれど脳が思考を手放そうと与えられる感覚に意識を巡らせる。片手での行為であったはずのそれはいつしか両の手となって、肌の感触を味わうように胸や腹を徘徊していた。


「は、やっ、キ……この……んっく……やめぬか!」


 この上無い程に身の危険を感じた瞬間、ようやっと右手が動き、その背後目掛けて肘を打ち出す。


「ぐほぁっ!」


 途端、耳元で漏れる、やかましい呻き声。絡む力の全てが緩み、夢中でベッドから抜け出した。しかし、思うように動けず、背面から落ちてしまう。

 受身も取り損ね、背面という背面全てを打ち付けた衝撃で息も詰まり、刹那気が遠退いた。


「ぅ……ってぇなぁ! 何すんだよ!…………あ?」


 響いた怒声に意識は保たれ、肺に酸素が流れ込む。それを慌てて貪ったが為にむせてしまい、苦しみに視界が滲んだ。


「わ、ファルト……」


 消え入る声と同時に、橙の光が灯される。ベッドの影から、髪解け見慣れぬ様のキッドが伸びていた。


「今、何か…………した、よな、俺」


 それに対して息巻く事も睨み付ける事も出来ず、手の甲を目元へと宛がう。腰が抜けているのか起き上がる事も……否、もう何の気力も湧かない。


「ごめん……む、無意識というか……夢を……。大丈夫か?」


 思考が未だ霞掛かっている。精魂尽きたかのようなこの身に対し、もはや何を案じておるのか。表情変えぬ嘲笑が、言葉と共に漏れた。


「変態」

「……ぅ……弁解の余地もありません……」


 そのまま暫し、互いに黙す。思うは先程の感触ばかりで、知らず身が強張っていた。

 保護するように自身を抱き、固く目を閉じる。そうすれば更に鮮明に思い起こされ、顔が熱を持ち、鼓動が速まる。仕舞いには全身に熱が渡り、けれどぞくりと身が震えた。


 鎮めるべく細く息を吐いて、薄ら目を開く。それでも、やはり追うのは彼の姿。解けた髪もそのままにベッドの上で膝を立て、手に額を乗せて俯いていた。


 節度ある男と宣っていたそれを自らが破った。まるで、不動の自信が折れたかのような様である。


「……案ずるな」


 その姿を見る程に、何故か冷静になれた。

 掻き抱く手を離し、徐ろに身を起こす。ベッドには戻らず側面に背を預け、次なる言葉を探すでも無く再び黙した。


「ええ? いや、あの、……怒らないのか?」

「その気力も失せた」


 弾かれたように姿勢を崩す彼を一瞥し、橙の光に視線を移す。……進んで此処へ来たのは私だ。もはや自業自得と言えよう。


「前の事故ん時は、あんなに怒ってたのに……」

「何だ、また殴られたいのか?」

「まさか! 冗談じゃねぇっ」


 予測など出来ていたはず。恐らくは頭の端にでも思惑があった。それを……この胸はどうやら、厭うてはいないようなのである。


「本当にごめん。俺、最低だわ」

「何を今更」


 横手で、ベッドから彼の足が投げ出される。腰掛けたまま煩わしい程に嘆息していた。


「昨晩、いや、その前の晩もさ、お陰様で眠れなかったんだよ。多分それでもう限界が……あ、別に責めてるワケじゃなくてだな、俺自身への過信が問題で」

「すまぬ」

「うん、や、だから全然っ、最初に誘ったのこっちだし。……でも、あのさ、もし今夜もそのつもりならちょっと……勘弁して貰ってもいいかな。その、無意識下で何もしねぇ自信なんて……無くてさ」


 その様を表すかのように、先程からやたらと口籠っている。折れた自信はその口から雄弁さをも奪ってしまうらしい。


 ……。

 だそうだ、女。今宵もまだ夢を見せるか? 私の答えなど理解しておろう。夢と現、どちらの共寝がこの身に影響を及ぼすか……もはや解り切った事だ。


「それでも私は、恐らく此処へ身を寄せる」

『……結構よ。夢は終わり。この男の事、買い被り過ぎていたのかしらね。さすがにみさおは守って欲しいわ』


 口早にそれだけを言い、女は潜む。低いその声音は少なからず怒りを覚えているように思えたが、それに関しては嘲笑しか浮かばぬ。……貴様も自業自得だ。


 言い捨てていると突然、隣のキッドが滑るようにベッドから地へと座り込む。見る程に長く感じられる水晶色の髪を肩に落とし、こちらへ身を乗り出してきた。


「えっと、それは何だ、……つまりは良いって事なのか」


 何事かと問う前に、明瞭とは言い難い呟きが放たれる。乗り出す身を片手で支え、空いた手が私の頬へと伸ばされていた。


「は?」

「……え?」


 解せぬ意で漏らした声に反応し、その手が留まる。身を引き、何も言うておらぬがと加えてやると、彼は眉根を寄せて肩を落とした。


「ええええ……?」

「夢からは解放されるらしい。もう添い寝を頼む必要は無かろう」

「ええええええ、でもさっき……!」

「さっき?」


 ……。

 もしや、心内で放っていた言葉が漏れてしまっていたのであろうか。だが、どこを……。


「いや、まあ、どっちにしたって抱け……き、気が、引けるんだけど……」


 在らぬ方向へと視線を漂わせるキッド。眉根は寄せたままに動きを留める。

 けれど唐突に目を合わせ、下ろされたはずの手を再びこちらへと伸ばし、今度こそ頬に触れていた。


「な、何っ」


 身を強張らせ、明らかな怪訝で彼を見つめる。すると、徐ら表情を崩し、切なさ秘めたような笑みが目前に迫ってきた。


「!」


 反射的に目を閉じてしまう。頭を過ぎったのは、昨日のセシリアの頭突き。身を引くも間に合わず、こつりとした感触が額に宿る。だがそれに激痛は無く、次いで頬から耳、髪の合間を縫って後頭部へと緩やかに撫でられていた。


「そうか」


 吐息のような囁きが鼻先で紡がれる。恐る恐る目を開けば、未だ薄い笑みを湛えたままの顔がそこにあった。


 ……伏せられた瞼、まつげの長さが確認出来る程に近い。

 互いの額が触れ合い、熱を共有する。見つめる時間に伴い、鼓動が加速して行く。


「ありがとな。どうしようも無いけど……つーかお前も矛盾してるけど、嬉しいよ」


「先程から、お前、なん、理解出来っ……」


 ようやっと話せたそれに次いで、震えた呼気が流れ出る。急速に上がる息はそのまま詰まってしまうのではと思われた。


「いいんだ、うん、それでいい。俺、最低だから。このままだと、それこそ代わりになってしまう」


 言葉を留めようと思う程に読み取れず、音だけを必死に反芻させる。

 代わり、代わりと言ったか。それは、私がキッドに対して行っている事か。


「違、う」


 女の意思が無くとも、恐らく私は……。

 それが早められたものだとしても、全てが踊らされていたのでは無いと思いたい。

 自らの意思だと、信じたい。


「お前は、お前で、代わりなどっ……」

「ん? ああ、大丈夫。分かってるから。ごめんな」


 何をどう理解していると言うのか、宥めながら強く額を擦り付けてくる。……不意に、鼻先が彼のそれと触れた。

 ともすれば、唇すら掠めてしまう距離。それを思う度、思考が焼き切れそうな程に熱くなり、激しく高鳴る鼓動と共に沸々と衝動が湧き起こる。


 ……叶うならば、呼吸を乱す心臓を今すぐ握り潰してしまいたい。羞恥を生む頭を叩き割ってしまいたい。

 目の前の肌を、赤に染め上げたい。


「ぁ、ふ……キッド」


 その名を呼んで初めて、自身に全く酸素が足りていない事に気付く。大きく息を吸い込むもそれすら不自然に震え、ただの喘ぎとなる。

 もはや必死で抑えねばならぬ程に、今この身は恐らく、彼を心底欲していた。


「頼む、はっ、……その首……飲ませろ!」


 静かに、けれど驚愕の色を以てその瞼が持ち上がる。瞬時に我が目を捉え、ひくりと頬を引き攣らせた。


「な、んでいきなりそんな流れ? 目の色は別に……うお!」


 了承も得ぬまま、耐え切れぬとばかりに首元へ飛び付く。だが、思うように牙が立てられない。震う唇はただ甘噛みを生む。それでも素肌を口内へ含み、舌で押し付けては強く吸い上げる。

 常の喉越しが無くとも、満たされゆく何かがあった。


「っ……」


 硬直に次いで、不自然な程細く長い息を吐くキッド。時折微かに身を跳ね、ひたすらに押し黙っていた。

 先程まで私を撫でていた手は、己と圧し掛かるこの身を支える為にか、地へと添えられている。それに僅かながらの焦燥感を覚え、彼の背筋や後頭部を指の腹で強く掻き回す。


 未だ喉に流動する熱は無い。……構わなかった。

 口をつくのはまるで熱情を含んだ喘ぎ。それに彼の名を混じらせ、首筋を吸い続ける。満たされども治まらない。……もっと欲しい。


 一層の事、ただの歯でその首喰らえば鎮まるであろうか。

 肉を無理に破いて赤く染まる様を思い、橙に照らされた髪をその背ごと絡め取る。そのまま強く抱き竦めれば、本能的に深い呼吸が与えられ、突然、溶けるような安堵が流れ込んできた。


「あ……?」


 それは、愛しい夢から覚める際に生じる気怠るさと同じ、不思議な心地良さ。今度は背から腰へ、緩くさすりつつ腕に力込める。二、三度繰り返し、気付いた頃には彼の肩へ顎を乗せ、何事も無くただ呆けた自身が在った。


「……落ち着いた?」


 溜息と共に、肩越しで声が掛かる。


「これでまだ、記憶に無いとか言われようもんなら俺、三日三晩は寝込む」


 胸を通して響くその低音が、更なる心地良さを思わせた。


「血を……欲したはずなのだが」

「ははは、その体だと色々直結してそうだもんな」

「肉、も……」

「……。詳しくは聞かないでおくよ」


 言いながら、ようやっと願うた手が背に添えられ、撫で下ろす。

 ……そうだ。先程、もっと触れて欲しいと無意識に求めていた。

 もっともっと、一層強くその手が欲しい。優しく撫でて。私を求めて。……あの夢を塗り替えて。


 彼の腰にあったままの手に緩く力を込め、小さく名を呼ぶ。すると突然、こちらの両肩を押し遣って彼一人腰を上げる。そのまま背を向け、足早に洗面台へと立ち去ってしまった。


「そろそろ戻れるか? またセシィに来られると厄介だしさ」

「え? ぁ、そ……そうだな」


 後ろ髪を引かれる思いで耳を澄ませると、いつの間にか朝支度の賑わいが刻限の迫りを奏でていた。


「……世話になった」

「いや、本当にごめんな。とにかく、色々かつだったよ」


 僅か笑みを含ませ、背を向けたまま洗面台から手を振る。心が霧に覆われたような感覚が不可解に纏わり付いた。

 私も徐ろに立ち上がり、鈍い動きで扉へと向かう。


「キッド」


 振り返り、もう一度呼び掛ける。

 顔を打つ水音により声が届かぬのか、返事は無い。けれど、呼び止めた先に掛ける言葉も自身の中には無い。視線を外し、静かに部屋を後にする。


 廊下に出ると、昨日とはまるで違う心境だという事に気付き、髪を掻き上げ、苦く笑み溢してしまっていた。



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