-7- その手で塗り替えて
『眠らないつもりね』
卓上の灯りのみで地図を眺めて暫く、溜息と共に例の声が湧いた。
「夢とは無関係にアレンは選ばぬ、そう見做せば良かろう」
予期していた女のそれに対し、次の大陸付近を指でなぞらせつつ、無関心に答える。
『あの男を選んだ事にはならない。平行線は許さないわ』
「知らぬ。その内傾くのであろう? 捨て置けば良いではないか」
今更出向けぬと、何処よりも広大に表記されているその地を指先で弄ぶ。
村が二つと港町。広さに見合わぬ人口が予測出来る。さては魔物でも蔓延しているのか。
「知らぬ序でに聞くが、お前は何者だ。呼ぶつもりなど無いが、名前位は持ち合わせておろう」
『…………そうね』
と、妙な間に次いで小さく漏らし、更なる沈黙を生む。
名乗れぬ節でもあるのか、その名すら持ち合わせぬ存在なのか。
言わぬのならそれでも良いと、質問も忘れて目前へ集中する。
『リリス。……私も、リリスよ』
けれど、悩んだ末にか、女は低くそう述べた。
「……もう少しまともな嘘は吐けぬのか」
『そうね、思い浮かばなかったわ』
下らぬ、それでは混同するだけだと、更に先の地へと目を遣る。今度はどの大陸よりも狭小……名は
いつぞやの主人が、五大陸は星型などと言うておったが、実際には大小歪な四大陸が弧を描くように並び、この広大な大陸から岩の地が中央へ向かって
村の名等は表記されていない。この面積では恐らく人は住めぬのであろう。
『行かないのね』
「くどい」
『それはこちらの台詞よ。意地っ張り』
まるで、言い合いに持ち込むかのようなそれは相手にせず、目前の代物をひたすら脳内へと叩き込む。二人が居るとしても知らぬよりは良い。損もあるまい。
方角を見定め、地図の内容を把握すれば、もう迷う事など無い……はずなのだ。
しかしこの広大な地、道筋が記されておらぬのだが如何様にして進めば良いのか。
「……直進?」
『出来るものですか。見定められぬが故の方向音痴という事を理解なさい』
業を煮やしたのか、女が鋭い声音を立てる。
その否定に根拠はあるのかと口を開いた次の瞬間、突如として身体の底から湧き上がる何かを感じた。
『仕方無いわね』
「う……く」
忘却は許されぬその感覚。幾度も人々を絶望の淵へと陥れ、逃れ得ぬ死を与えてきた。
そして自身をも縛り付け、ヒトとしての生を拒ませる……その感覚は。
「ゃ、めっ……此処では……この城でだけは!」
両の手で拳を作り、机へと打ち付ける。
遂には心臓が強く弾かれ、目眩をも引き起こす。
『履き違えないで頂戴。血に飢えたアレのように無差別では無いわ。少し本能に呼び掛けているだけ。……さあ、愛らしい程に正直なそれが求むものはなぁに?』
妖しく問われ、否が応でも紺碧の瞳を思い浮かべてしまう。
正の感覚では無くなったそれがゆらりと立ち上がり、何を思うてか卓上の灯火を消していた。
降りる闇の中、荒い呼気に入り混じるは不気味な微笑。その身が与え得る全ての熱を貪ってやろうと目論む、先駆けの愉悦であった。
根底はそれほどまでに彼奴を欲しているというのか。……今はただ、その執着が憎らしい。
鬼の目が暗がりの輪郭を捉える頃、身体は妙な高揚を覚え、次の瞬間には部屋を飛び出していた。
未だ見分け付かぬその部屋ではあるが、常のような迷いも表れぬままに行き着く。数時間前とは違い、躊躇いすらも無く扉を叩いた。
やはり察知はされていたのか、然程間も置かず開かれ、怪訝そうな声が頭上で響く。
「バルコニーに行くようなら顔出してやろうと思ってたけど、まさか来るとは。……なあ、さっき来たのも本当は……っておいこら」
言い終えぬ内に彼を摺り抜け、部屋へと踏み入る。
私と同じくして室内の明かりは灯されておらず、開かれたままの魔道書が卓上で橙の光を浴び、影を揺らめかせていた。
「つーか、昨夜は何度夢と思った事か。起こしてってくれてもいいんじゃね?」
声を背に部屋を突き進み、ベッドの前へと立つ。
振り返り、顔を俯けたまま黙した。
「……何その大胆さ。さっきの立ち往生はどこ行ったんだよ、逆に怖いわ。そんで朝から目ぇ逸らしてばっかだけど、恥ずかしがってんのか嫌になったのかハッキリしろよ。胸糞悪いっつーの」
近付く声を、ひたすらに待つ。目は今こそ合わせる事が出来ない。その色悟られるは厄介事以外の何物でも無いが故に。
「黙ってないで話くらいしろって。そんなんで一緒に寝る気とか……割り切んなよ。可笑しいだろうが」
俯ける視界に彼の足が映る。それが手の届く位置だと確信した瞬間、面を上げ、後頭部を掻く腕を強く引いた。
「いっ?」
水晶色の髪を靡かせこちらへと倒れ込む彼を、素早くベッドへと組み伏せる。
「なななに、何なんだよ!……うわその目っ!」
片方の手で肩を掴み、対の手でその顔を外側へと向け、有無を言わさず露となった首元へ覆い被さる。
いつかのように、情けない声が耳をつんざいた。
「のえってぇ! やめっ、……やめぇっ!」
以前ならばこの後すぐに意識を失い、身を預けてくるはずであった。
「でぇい!」
しかし、妙な雄叫びと共にこちらの肩を押し遣り、首から退ける。どうやら毒の効き目が遅いらしい。それどころか、最近は昏睡を確認する前に勝手に自室へと戻ってしまう故、詳細は不明。
よもや此奴、眠らぬのではあるまいかと目が細まる。
……と。
勢い良く剥がされる唇から、飛び散るものがあった。はたり、はたりとその雫は彼の頬や顎へ……橙の光を受けて宝石のように煌く。
「何で足りてないんだ! ってもう戻……わっ!」
湧き上がる衝動が再び彼の腕を戒め、ベッドへと押し付ける。驚愕するその頬に顔を寄せ、散りばめられる
すると、今までの煩さとは打って変わり、図体に見合わぬ様で身を強張らせる。
暫しそのまま硬直していたようであるが、顎へ向かい舌を這わせた瞬間、先程よりも強い力で突き飛ばしてきた。
「はっ、この、だ……どう食いに来たんだよ! 吸血鬼か人間かっ……気付いてないならその目色、鏡で確かめろ!」
均衡を保てず倒れるこの身と相対するよう起き上がり、混乱の面持ちで大声を張るキッド。橙の光に当てられているその顔色は、それに非ずとも熱を帯びているように見えた。
「確認、せずとも……私は、私だ」
対し、肘で上半身を支え、自身でも分かる程に腑抜けた声音でそう答える。
「じゃあ俺をどうしたいんだ! どうにかして欲しいのか!? ああもう!」
忙しなく動く視線を俯け、乱れた髪を結わえ直し、彼は深く項垂れる。
「仕舞いにゃこっちだって吸うぞ……ったく」
そして何やら呟き、素早く術を唱え始めた。
「フューヒールっ」
首元に掌を当て、乱暴に言い放つ。
吸い切れぬまま引き剥がされ、赤い
「つーか、最近痛いんだけど何? 鎮痛剤みたいな効果に慣れてきたとか? 眠くもなりゃしない」
「分からぬ、前例が無い。だが、確実に毒の効き目が薄れておる」
「そうかよ。んで? 吸って満足したから部屋戻んの?」
自身から投げ掛けたはずの質問も、それに対する返答もまるで無関心であるかのように、彼は毛布を丸く固め膝元へと乗せる。そこで頬杖を付いて大袈裟に睨み付けてくる目線を、やはり数秒と見る事が出来ず、私は黙した。
「まーたそうやって目ぇ逸らす。言いたい事があるならハッキリ言え、恥ずかしがり屋。本当は夢が怖いから添い寝頼みに来たんだろ」
言われながらようやっと身を起こし、腰掛けたままベッドの外側へと足を投げ出す。目は向けられぬがそれでも大きく深呼吸をし、そうだと肯定した瞬間、顔全体に異常な熱が纏わり付いた。
「……ごめん、言い過ぎた。そんな理由、恥ずかしいに決まってるよな」
声音の震えを感じ取ったのか、穏やかにそう返される。
「今朝もアレか、やっぱ顔合わせ辛くて抜け出しただけ?……で、部屋戻るだけなのに迷ってたんじゃねぇだろうな。セシィが探しに来たぞ」
「……すまぬ」
あの時潜んでいた事は伏せ、息を吐く。寝惚けておったが故にか、正確な位置を気取られずに済んだ事に再び安堵していた。
「なあ、血、足りてないのか? 今の……目の色違ったって事は、危ないのが出たんだよな?」
「足りぬ訳では無い。一応の制御は出来るが、此処へ仕向ける為に使わされたようなものだ」
「?……添い寝、頼ませる為に?」
危険では無い事を訴える為、反射的に答えたが、それの意味するところを失笑と共に言い渡され、言葉を詰まらせる。
叩けば埃ばかり舞うようなこの場はもう、無きものとしてしまいたかった。
「……」
「あー、えーと悪いけどさ、向こうの手拭い持ってきてくんね?」
数秒の間の後、彼は妙な手振りを交え、突然そう切り出す。
何故自らが出向かぬのかと眉をひそめると、更にひらりと手を振っていた。
「血ぃ抜かれた後に動き回ると、ぶっ倒れそうだし」
「……それほど飲めてはおらぬが」
不満と共に腰を上げ、仕方無く洗面台へと赴く。
背後で更に、濡れたやつなと注文され、桶に水を張り、乱雑に浸した。
「あ! ついでにさ、そこのアレも持って来てよ」
水気を切って踵を返すと、注文が追加される。
辺りを見回すがそれらしい物は見当たらず、物の名を問うても返ってくるのは曖昧な返答。
「いやぁ、ド忘れしちまって。何だったかなぁ」
彼の荷や、積まれている書物を指し示しても似たような台詞が返ってくる。そうして暫し部屋を徘徊させた後、仕舞いには後で自分で取りに行くと笑い、手拭いを急かした。
「このような下らぬ使いを頼まれたのは初めてだ」
「あっはは、ごめんごめん、ありがとな」
受け取ったそれを自身の首に当て、血を拭き取る。
「そこも、突き放したりせねば汚さず保てたものを」
「……だったら、襲い掛かるような真似は止してくれ。あと、勿体無いからって舐めるのも勘弁」
頬を強く擦るように拭い、文句を垂れながら膝の毛布を放り投げる。
そのまま、勢い良く立ち上がっていた。
「ったくもう、血に関しては積極的っつーか無駄に官能的っつーか……はーあー」
「おい、倒れるのではなかったのか」
また手拭いを渡されるであろうと目前で待機していたというのに、その歩みはふら付くどころか、しっかりとした足取り且つ早足で、洗面台へと向かっていた。
「誰が?…………ああ、うん、もう大丈夫」
鏡で自身を確認するそれに肩を竦め、私は靴を脱ぐ。
「不可解な」
放り出されていた毛布を整え、早々に中へと潜り込んだ。
待たせるより、先に眠ってしまう方が余裕も出来る。……それに、既に眠い。
「途中まで動けなかったのは本当……ってもう寝てるし! ひでぇ!」
瞼を通して映る橙が、漆黒へと塗り変わる。次いで静かにベッドへ重みが掛けられ、右側に侵入の気配。もはや眠気の方が勝っている為、特に恥じらいも無く、隣で湧いた熱にただ意識を落ち着けた。
「え、ホントにもう寝てる?」
再確認するそれにおやすみと返し、毛布の裏で欠伸を一つ。
「こりゃ本気で……これまで以上の生殺しだ……」
呟きに次いで彼も挨拶を述べ、そのまま向こう側へと寝返りを打ってしまう。
それに僅かな寂しさを感じたのも束の間、小波のような無が、静かに思考の全てを
「……きて……ナさま! 絶対にダメ!」
どこか遠くで、幼き声が必死に訴えている。
「リリス怒ってないよ! 今もずっと大好き! だからっ……」
死なないで、消えないでとひたすらにか細き声音を響かせる。
幼少期の愛称で私を呼ぶその主は、この身を虐げられる唯一の存在。それが、夢だと思うには余りに酷な言葉を並べ立てる。
「聞こえるかな……おねがいルーナさま、お返事して!」
「もう許せなどとは言わぬ。けれどリリス、私はお前への愛を思い出す事が出来ない」
脳内へ巡らせるよう呟くのと同時に、背に温もりを感じる。
それは、確かなる彼の気配。
徐々に意識が浮上していくのが分かった。
「……ぁ、やっぱり聞こえてる!」
内容よりも、返答したというそれに歓喜したのか、少女は声高に叫ぶ。驚く程明瞭に響いたそれに、不意に瞼が持ち上がった。
途端、あのねと続けられた声が途切れ、物の輪郭浮かぶ暗がりが視界に飛び込む。夢現から明確な現実へと、流れるように掏り替わっていた。
「リリス……?」
妙に取り乱していたような彼女。……あれも、何かの策であろうか。
昨日とは違い不快を感じ得ぬのは、背後に彼を確信している故か。しかし、離れて眠ったにしては、今度は異様な密着具合である。
「……おい」
横向く私の背に隙間無く沿う熱。大きなその手は脇腹へと回され、身動きすら取れぬ程に強く抱き竦めている。足も絡め取られているのか、重い。
……何だこれは。どういう体勢だ。
キッドと呼び掛けつつ、辛うじて自由であった右手で脇腹にある腕を掴み上げる。
すると、後頭部付近で聞こえていた寝息が気怠そうな唸りへと変わり、再び脇腹を抱いては更に強く……恐らくは自身の腰へと引き寄せていた。
「!」
……その先に酷く違和感があり、身を
軽く息が漏れる程の抱擁に次いで、緩慢に腹全体を
何のつもりかと再び呼び掛けると、衣服の隙間を縫い、無遠慮なその手は突然素肌へと滑り落ちた。
「は……!?」
瞬時に混乱へと塗り替わる脳内。もはや身の何処が自由であったかも忘れ、ただ硬直した。
空白の頭の中、けれど唐突に喉が仰け反る。他より体温の低いそこへ、熱を持った無骨な掌が触れ、形容したくも無い動きで包み込んでくる。
「ふ、ぁ、なにっ……」
彼の手中で形を変えるそこに、それこそ表わし難い感覚が走り、抵抗の手も奪われては掠れた声を吐く。仰け反っていた身が今度は
「……ぅ」
腰と言うよりは、
すると、乱れていた髪が背面へと流され、右肩や首元が微かな冷気に晒された。
「っ!」
胸の先端を弄ばれると共に、露となっていた首筋に水音が響く。同じくして、髪と吐息が擽ぐる感覚。薄く開けた視界でそちらを見れば、水晶色の頭が私を食んでいた。
「ん! ぅ、や、やめ……」
ぞわぞわと
「は、やっ、キ……この……んっく……やめぬか!」
この上無い程に身の危険を感じた瞬間、ようやっと右手が動き、その背後目掛けて肘を打ち出す。
「ぐほぁっ!」
途端、耳元で漏れる、
受身も取り損ね、背面という背面全てを打ち付けた衝撃で息も詰まり、刹那気が遠退いた。
「ぅ……ってぇなぁ! 何すんだよ!…………あ?」
響いた怒声に意識は保たれ、肺に酸素が流れ込む。それを慌てて貪ったが為にむせてしまい、苦しみに視界が滲んだ。
「わ、ファルト……」
消え入る声と同時に、橙の光が灯される。ベッドの影から、髪解け見慣れぬ様のキッドが伸びていた。
「今、何か…………した、よな、俺」
それに対して息巻く事も睨み付ける事も出来ず、手の甲を目元へと宛がう。腰が抜けているのか起き上がる事も……否、もう何の気力も湧かない。
「ごめん……む、無意識というか……夢を……。大丈夫か?」
思考が未だ霞掛かっている。精魂尽きたかのようなこの身に対し、もはや何を案じておるのか。表情変えぬ嘲笑が、言葉と共に漏れた。
「変態」
「……ぅ……弁解の余地もありません……」
そのまま暫し、互いに黙す。思うは先程の感触ばかりで、知らず身が強張っていた。
保護するように自身を抱き、固く目を閉じる。そうすれば更に鮮明に思い起こされ、顔が熱を持ち、鼓動が速まる。仕舞いには全身に熱が渡り、けれどぞくりと身が震えた。
鎮めるべく細く息を吐いて、薄ら目を開く。それでも、やはり追うのは彼の姿。解けた髪もそのままにベッドの上で膝を立て、手に額を乗せて俯いていた。
節度ある男と宣っていたそれを自らが破った。まるで、不動の自信が折れたかのような様である。
「……案ずるな」
その姿を見る程に、何故か冷静になれた。
掻き抱く手を離し、徐ろに身を起こす。ベッドには戻らず側面に背を預け、次なる言葉を探すでも無く再び黙した。
「ええ? いや、あの、……怒らないのか?」
「その気力も失せた」
弾かれたように姿勢を崩す彼を一瞥し、橙の光に視線を移す。……進んで此処へ来たのは私だ。もはや自業自得と言えよう。
「前の事故ん時は、あんなに怒ってたのに……」
「何だ、また殴られたいのか?」
「まさか! 冗談じゃねぇっ」
予測など出来ていたはず。恐らくは頭の端にでも思惑があった。それを……この胸はどうやら、厭うてはいないようなのである。
「本当にごめん。俺、最低だわ」
「何を今更」
横手で、ベッドから彼の足が投げ出される。腰掛けたまま煩わしい程に嘆息していた。
「昨晩、いや、その前の晩もさ、お陰様で眠れなかったんだよ。多分それでもう限界が……あ、別に責めてるワケじゃなくてだな、俺自身への過信が問題で」
「すまぬ」
「うん、や、だから全然っ、最初に誘ったのこっちだし。……でも、あのさ、もし今夜もそのつもりならちょっと……勘弁して貰ってもいいかな。その、無意識下で何もしねぇ自信なんて……無くてさ」
その様を表すかのように、先程からやたらと口籠っている。折れた自信はその口から雄弁さをも奪ってしまうらしい。
……。
だそうだ、女。今宵もまだ夢を見せるか? 私の答えなど理解しておろう。夢と現、どちらの共寝がこの身に影響を及ぼすか……もはや解り切った事だ。
「それでも私は、恐らく此処へ身を寄せる」
『……結構よ。夢は終わり。この男の事、買い被り過ぎていたのかしらね。さすがに
口早にそれだけを言い、女は潜む。低いその声音は少なからず怒りを覚えているように思えたが、それに関しては嘲笑しか浮かばぬ。……貴様も自業自得だ。
言い捨てていると突然、隣のキッドが滑るようにベッドから地へと座り込む。見る程に長く感じられる水晶色の髪を肩に落とし、こちらへ身を乗り出してきた。
「えっと、それは何だ、……つまりは良いって事なのか」
何事かと問う前に、明瞭とは言い難い呟きが放たれる。乗り出す身を片手で支え、空いた手が私の頬へと伸ばされていた。
「は?」
「……え?」
解せぬ意で漏らした声に反応し、その手が留まる。身を引き、何も言うておらぬがと加えてやると、彼は眉根を寄せて肩を落とした。
「ええええ……?」
「夢からは解放されるらしい。もう添い寝を頼む必要は無かろう」
「ええええええ、でもさっき……!」
「さっき?」
……。
もしや、心内で放っていた言葉が漏れてしまっていたのであろうか。だが、どこを……。
「いや、まあ、どっちにしたって抱け……き、気が、引けるんだけど……」
在らぬ方向へと視線を漂わせるキッド。眉根は寄せたままに動きを留める。
けれど唐突に目を合わせ、下ろされたはずの手を再びこちらへと伸ばし、今度こそ頬に触れていた。
「な、何っ」
身を強張らせ、明らかな怪訝で彼を見つめる。すると、徐ら表情を崩し、切なさ秘めたような笑みが目前に迫ってきた。
「!」
反射的に目を閉じてしまう。頭を過ぎったのは、昨日のセシリアの頭突き。身を引くも間に合わず、こつりとした感触が額に宿る。だがそれに激痛は無く、次いで頬から耳、髪の合間を縫って後頭部へと緩やかに撫でられていた。
「そうか」
吐息のような囁きが鼻先で紡がれる。恐る恐る目を開けば、未だ薄い笑みを湛えたままの顔がそこにあった。
……伏せられた瞼、
互いの額が触れ合い、熱を共有する。見つめる時間に伴い、鼓動が加速して行く。
「ありがとな。どうしようも無いけど……つーかお前も矛盾してるけど、嬉しいよ」
「先程から、お前、なん、理解出来っ……」
ようやっと話せたそれに次いで、震えた呼気が流れ出る。急速に上がる息はそのまま詰まってしまうのではと思われた。
「いいんだ、うん、それでいい。俺、最低だから。このままだと、それこそ代わりになってしまう」
言葉を留めようと思う程に読み取れず、音だけを必死に反芻させる。
代わり、代わりと言ったか。それは、私がキッドに対して行っている事か。
「違、う」
女の意思が無くとも、恐らく私は……。
それが早められたものだとしても、全てが踊らされていたのでは無いと思いたい。
自らの意思だと、信じたい。
「お前は、お前で、代わりなどっ……」
「ん? ああ、大丈夫。分かってるから。ごめんな」
何をどう理解していると言うのか、宥めながら強く額を擦り付けてくる。……不意に、鼻先が彼のそれと触れた。
ともすれば、唇すら掠めてしまう距離。それを思う度、思考が焼き切れそうな程に熱くなり、激しく高鳴る鼓動と共に沸々と衝動が湧き起こる。
……叶うならば、呼吸を乱す心臓を今すぐ握り潰してしまいたい。羞恥を生む頭を叩き割ってしまいたい。
目の前の肌を、赤に染め上げたい。
「ぁ、ふ……キッド」
その名を呼んで初めて、自身に全く酸素が足りていない事に気付く。大きく息を吸い込むもそれすら不自然に震え、ただの喘ぎとなる。
もはや必死で抑えねばならぬ程に、今この身は恐らく、彼を心底欲していた。
「頼む、はっ、……その首……飲ませろ!」
静かに、けれど驚愕の色を以てその瞼が持ち上がる。瞬時に我が目を捉え、ひくりと頬を引き攣らせた。
「な、んでいきなりそんな流れ? 目の色は別に……うお!」
了承も得ぬまま、耐え切れぬとばかりに首元へ飛び付く。だが、思うように牙が立てられない。震う唇はただ甘噛みを生む。それでも素肌を口内へ含み、舌で押し付けては強く吸い上げる。
常の喉越しが無くとも、満たされゆく何かがあった。
「っ……」
硬直に次いで、不自然な程細く長い息を吐くキッド。時折微かに身を跳ね、ひたすらに押し黙っていた。
先程まで私を撫でていた手は、己と圧し掛かるこの身を支える為にか、地へと添えられている。それに僅かながらの焦燥感を覚え、彼の背筋や後頭部を指の腹で強く掻き回す。
未だ喉に流動する熱は無い。……構わなかった。
口をつくのはまるで熱情を含んだ喘ぎ。それに彼の名を混じらせ、首筋を吸い続ける。満たされども治まらない。……もっと欲しい。
一層の事、ただの歯でその首喰らえば鎮まるであろうか。
肉を無理に破いて赤く染まる様を思い、橙に照らされた髪をその背ごと絡め取る。そのまま強く抱き竦めれば、本能的に深い呼吸が与えられ、突然、溶けるような安堵が流れ込んできた。
「あ……?」
それは、愛しい夢から覚める際に生じる気怠るさと同じ、不思議な心地良さ。今度は背から腰へ、緩くさすりつつ腕に力込める。二、三度繰り返し、気付いた頃には彼の肩へ顎を乗せ、何事も無くただ呆けた自身が在った。
「……落ち着いた?」
溜息と共に、肩越しで声が掛かる。
「これでまだ、記憶に無いとか言われようもんなら俺、三日三晩は寝込む」
胸を通して響くその低音が、更なる心地良さを思わせた。
「血を……欲したはずなのだが」
「ははは、その体だと色々直結してそうだもんな」
「肉、も……」
「……。詳しくは聞かないでおくよ」
言いながら、ようやっと願うた手が背に添えられ、撫で下ろす。
……そうだ。先程、もっと触れて欲しいと無意識に求めていた。
もっともっと、一層強くその手が欲しい。優しく撫でて。私を求めて。……あの夢を塗り替えて。
彼の腰にあったままの手に緩く力を込め、小さく名を呼ぶ。すると突然、こちらの両肩を押し遣って彼一人腰を上げる。そのまま背を向け、足早に洗面台へと立ち去ってしまった。
「そろそろ戻れるか? またセシィに来られると厄介だしさ」
「え? ぁ、そ……そうだな」
後ろ髪を引かれる思いで耳を澄ませると、いつの間にか朝支度の賑わいが刻限の迫りを奏でていた。
「……世話になった」
「いや、本当にごめんな。とにかく、色々
僅か笑みを含ませ、背を向けたまま洗面台から手を振る。心が霧に覆われたような感覚が不可解に纏わり付いた。
私も徐ろに立ち上がり、鈍い動きで扉へと向かう。
「キッド」
振り返り、もう一度呼び掛ける。
顔を打つ水音により声が届かぬのか、返事は無い。けれど、呼び止めた先に掛ける言葉も自身の中には無い。視線を外し、静かに部屋を後にする。
廊下に出ると、昨日とはまるで違う心境だという事に気付き、髪を掻き上げ、苦く笑み溢してしまっていた。
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