-6- 最悪の形

 あつい。


 声に出ていたやも知れぬそれと共に、瞼が持ち上がる。

 久しく光を映した視界に飛び込んできたのは、石造りから成る白き天井。


「!」


 弾かれるように、目だけで辺りを見回す。


 身を置いているのは一切の乱れもないベッド。すぐ横手の椅子には、群青のマントが形良く掛けられている。簡易の机の上には自身の荷物袋。セシリアと共に部屋を後にした時のまま、特に変化は無いように見えた。


 朝食を摂りに下りたはずなのだが、いつの間に戻ったのであろうか。


「キ……?」


 最後に見たのは、何であったか。

 霞む記憶の中で無意識にその名を口にしようとして、思いの外声が掠れている事に気付く。緩やかに身を起こすと、鋭い頭痛が走った。


 呻きと共に額を覆い、背を丸めると、何処かで打ち付けたのか腹部が鈍く痛む。


 ……ああそう言えば、要らぬものを取り込んでしまったのであったな。恐らく今までに無い程の、量を…………。


 額を覆う手を口元に滑らせたところで、嗅ぎ慣れぬ香水が鼻を掠める。次いで泳ぎ始めた視線で再び部屋を見遣り、最後に自身へと落とす。


 やはり、特に異変は無い。身に纏う香水の匂いが強過ぎるくらいで、他には何も。


 けれど確かに、私は……。


 ――ファルト。


 明瞭とは言えぬ記憶の中で、名を呼ぶ声音だけがこびり付いている。その後に続いた言葉も……熱も。

 身が炙られたかのように体温を上昇させ、じわりと汗が滲んだ。


 退出の際に纏めていたはずの髪は解けており、背や胸元に張り付く。触れられ、擽ぐるようなその感覚に身の中心が疼く。声にならぬ呻きを漏らしては再び過る鈍痛に、我が身を掻き抱くよう身を縮めていた。


「キッド……」


 か細い呟きは、けれど唐突に窓から響いた金切り声によって掻き消される。

 …………。

 思考の全てを遠くへ押し込め、それに耳を傾けた。


 続くは罵声と遠慮がちな慰撫いぶ。増える怒声に、時折聞き覚えのある声色…………勘弁して欲しかった。


 余り猶予は無いであろう状況に、しかし私は緩慢にベッドから離れ、鏡の前で髪を結う。


「ん?……血?」


 白き肌には不自然な程の赤が、首筋や胸元に付着している。拭えど色移らぬ手元を不思議に思い、再び鏡の中の自身を凝視すると、どうやらそれはあざのようであった。


「……」


 その箇所は、まるで……。


 押し込んだはずの記憶が浮上する前に頭を振り、大袈裟な音を立ててマントを広げる。フードは被らぬまま羽織り、少し悩んだ挙句、荷物を手に部屋の扉を開け放った。


 階下からも既に騒めきの声が上がっている。喧騒から余り時間は経っていないのか、疑問ばかりが飛び交っているようであった。


 疎らな人の隙間を縫い、灼熱の日差しへと赴く。フードを被りながらやや遠めのそこを見遣れば、商人風の女と傍に幾人かの男。そして向かい合うは、褐色のフードを目深に被るキッド。

 少し向こうに、今し方戻ったと思われるセシリアとカノンの姿も確認出来る。


 穏和な話し合い……には到底見えなかった。


「よくもまあ、のこのこと顔が出せたものね!」


 予想を裏切る事も無く、恐らくは金切り声の正体であろう女が怒鳴る。


「マヤちゃん、止めときな。子供の前だよ」


 反射的に足元を見れば、その身の影に三、四歳程の幼子。大き目の布の帽子を被り、母親なのか、女を不安げに見上げている。


「こっちがどれだけ苦労したと思ってんのさ!」


 罵声浴びせられた本人は何か言い返す訳でも無く、僅かこちらへと顔を向け、すぐさま俯いていた。目元は全く見えなかったが、恐らく私にもセシリアにも気付いているだろう。


 まるで、逃げ場の無い咎人とがびとのように見えてしまい、胸が騒めく。


「アレン、どうして戻ってきた。どんな理由であれ、ここに足を踏み入れるべきでは無かっただろう」


 女を宥めた口調そのままに、同じく商人風の男が言う。


「……そうだな。何で降り立ったのか、自分でも分かんねぇ」

「ふざけんじゃないよ! こっちは家燃やされてんだ! 大事なもん一切合切! ウチの父ちゃんは死んだのに、何でアンタがのうのうと生きてんだ!」


 ……ああ。きっとこれが……。幾度も此奴が話そうとしていた……恐らくは“罪”であろう。

 全てが最悪の形でけんしているこの状況に居た堪れなさすら感じながら、キッドでも女でも無く、同じく遠巻きに見る事しか出来ぬセシリア達を眺めていた。


「……やっぱり、死人が出てたんだな」


「家が燃えて、気に病んで弱っていったんだ。お前が直接手を掛けた訳じゃない」


「この男が殺したも同然だろう! あれが無ければもっと生きたんだ!」


「……お前らがそれを言うのか」


 始終無の表情を湛えていた口が、突如静かに怒気を孕む。風も無いというのに、何故か褐色のマントが揺らめき、その隙間からは出会った頃に着用していた茶褐色の服が覗いていた。


「アレン、やめてくれ。俺たちはそう思ってない。マヤちゃんも、……アレンはウィムティさんを亡くしてるんだ。そう責めるんじゃない」


 朝とは違う装い。私もセシリア達も付かぬ内に荷物を携え……この男は何処へ行こうとしていたのであろうか。


「そもそも、こいつが魔に魅入られなければ、ウィムティさんも死なずに済んだんじゃないか!」


 女では無く、別の男が何処からかそう浴びせてくる。気付けば先程より囲む人も多くなり……ちらりと見えたカノンの眉が不機嫌そうに歪んでいた。


「……あいつは、魔なんかじゃ……」


 もやのような覇気は鳴りを潜め、褐色の影で小さく呟く。

 ……。

 昨晩は。怪しくも軽快に現れ、滞りなくその場を収束させたその身が。憎しみに炙られ、怒りに煽られている。決して行く末を見守りたい訳では無い。私に収める術は何か無いものか。


 怒号渦巻くこの場に佇む彼が、かつて非難の波に身を置いていた自身と重なるようで、思わずその手を取って逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。


 このまま此処へ置いておけば、その身はきっと昏冥に飲み込まれてしまうであろう。思い馳せれば笑顔ばかりが浮かぶ彼に、そんな所へ沈んで欲しくは無い。


「出て行け!」


 ……と。

 少しばかり高い声音で、突然喚くものがあった。

 次いで響くは微かな風切り音。矮小でありながらも無慈悲に放たれたそれに、知らず身体が動く。投石をも見切る目を持つのは承知しているが、背後に人が居る故か、はたまた避ける気など毛頭無いのか。彼は小さく身構えるだけで、その場を退こうとはしない。


 だが私も、薄れぬ鈍痛に僅か遅れ、次の瞬間真正面に白い破片のようなものを捉えてしまう。


「ふっ!」


 盾には成れるが腕が間に合わぬと悟る頃、ほぼ同時に躍り出た影に、突進の勢い殺さぬまま引き寄せられる。

 拳程の破片は、軽い衝撃音に次いで石畳へと転がるように還っていった。


「カノンちゃん! おねーさま、大丈夫?」


 完全に体制を崩したまま彼の腕の中で面食らう私に、セシリアが駆け寄る。どうやらまた、大剣の鞘で受け止めたらしい。反射神経の良さが我が身に勝るとも劣らぬようで、状況に反して口角が上がってしまう。


「おまえのせいで、爺ちゃんは死んだんだ!」


 再び響いた声に、皆でそちらを見つめる。初見頃のカノンと大差無い齢の少年が、石畳の破片を握り締めながらこちらを睨め付けていた。商人女の傍らの子供と顔がよく似ている事から、身内であろうと察する。


 剣の柄を握るカノンの手が、ぎゅむと音を立てた。気が立っているのか、歯を食い縛り、口端から大きく息を吐き出している。私を支える腕は加減していると思われるものの、少しばかり痛い。


「あれは抜いた事になるか、ルーナ」

「ならぬ。落ち着け。子供だぞ」


 場の善悪を見極めよと、僅か浮き上がっていた足を付け、その手を軽く叩く。


「ユタ! やめるんだ!」


 少年の石は、叱責する商人男によって早々に取り上げられていた。


「あんた達は……そうか、他に三人居たと言ってたな」

「仲間よ」


 被せるようにセシリアが言い放つ。どうやら商人男は、昨晩の騒ぎを知る人物からキッドの存在を聞いたらしい。


「はん、仲間ねぇ! その男が村に火を放つ狂人だって知ってのことかい!」

「……」


 当人は背後に居る為、そちらを見る事は出来ない。隣には居るが後方へ顔向けるセシリアに目を遣れば、不安げに見上げているようであった。


 今朝方の火精の言葉の数々が脳裏を過ぎる。……それと同等の力によって沈んだであろう、かつての国の事も。


 未だ柄に手を遣るカノンを制し、言葉を選ぶように、私は少しだけ声を張る。


「マヤ、とやら。……この場はどうか、穏便に済ませては貰えぬか」


 女の口からはもう、何も聞きたくは無かった。


「仲間と言えど、この男が何故そこまでの批難を浴びるのかを我等は知り得ぬ。だが、どうやら投獄には至らぬ罪に留まっていると見受ける」


 偏った主観は真実を歪める。それでも、語り部は紺碧の目である事を願う。どのような様でも良い。あの口で、あの声で、あの瞬間に聞くべきだった。


 泣き顔に怯んで、部屋を出るべきでは無かったのだ。


「収まらぬ怒りがあるのは心底理解出来る。……けれど、それを御子にまで伝え、投石させる程に呪わせる事だけはしないで欲しい」


 途中、何かを言い掛けていた口が、ぐ、と噛み締められる。戸惑い含んだ表情で傍らの幼子と、未だキッドを睨む少年とを交互に見ていた。


「私はこの者に……アレキッドに救われた身なのだ。彼の存在無くしては今を生きているかどうかすら危ぶまれる。この大陸に降り立ったのも恐らくは我が身を案じての事。どうかそれに免じ、引いては貰えぬだろうか」


 上陸の目的が違えたとて、今は何とか収束せねばなるまい。これ以上、誰も傷付かぬ為にも。


「……あんたらが余計なもんさえ拾わなければ、こんな事にはならなかったのに」


 足元の子を抱き上げ、全てをそこに詰め込むかのように言葉を溢す。


「出て行け。恩知らず」


 次いで小さく言い放ち、女は振り返る。少年の手をも引き、人混みへと紛れていった。


「……君とウィムティさんには散々世話になった。それだけはこちらも忘れない。胸中を思えば、あの時の火を理解出来ない事もないよ……」


 この男は終始中立であるのか、先程からキッドに対する口調は静かだ。それに少なからず安堵を覚え、やはり何か訳有っての炎であったやも知れぬと、拳を握る。


「アレン。譲れない理由で此処へ降り立ったのなら、我々がとやかく言う権利は無いだろう。……無いが、アズに足を踏み入れるつもりなら、さすがにその神経を疑うよ」


 そう言い、男は周囲に呼び掛け、囲む輪を散らせていく。野次馬とみられる者はすぐに去るが、恐らくキッドを知るであろう者等は、彼や私達を訝しむように一瞥しては何やら低く呟いて人波に消えて行った。


「俺を孤独にして、狂う以外に何があると思ったんだよ」


 それらが疎らになる頃、騒めきに掻き消される程の小声が背後で溢される。ようやっと私もそちらへ振り返れば、顔を合わせる事も無く一人徐ろに歩き出していた。


「……おにーさま?」


 その声に動きを留め、ああと一言漏らしてカノンへと向き直る。二つの荷物袋の内一つを彼へと差し出していた。


「俺らの部屋はもう、引き払ってきたから」


 表情窺い知れぬ様でそう言い、心配そうに受け取るカノンを見届け、再び踵を返す。歩みは進めぬまま、今度はセシリアへと呼び掛けていた。


「悪いけど、俺が付き合えるのはここまでだ」

「何言ってんの?」


 その背に向かい、即座に問う。


「道さえ外れなきゃ、砂はそんなに脅威でも無い。何なら往来する商人に着いてけばいい。俺が」

「そんな事きいてんじゃないの」


 居なくたって、と続けた言葉を遮るように、彼女は淡々と言い放つ。


 キッドの向いている方角には恐らく船着場がある。灼熱を思わせる気候の中で、頭だけが冷えていくような感覚に陥った。


「貴方は、覚悟を決めてこの地を踏みしめたんだよね?」

「……」

「それとも、やり過ごせると思って適当に付いてきたの?……違うでしょ」


 住人の怒りや蔑みに晒され、少しだけ彼の次なる動向が予測出来ていたのか、滑らかに窘める。


「今のそいつにはお前らが居る。じきに、完全に独りじゃ無くなる時だって来る。俺が付いてなくても大丈夫なんだよ」

「そんなわけ無いでしょ!」


 まるで遠景を眺めるかのように、それは緩やかに流れていく。


 商人女に会うより先に部屋を後にしていたのなら。彼はそれ以前に決意を固めていたという事になる。


 ……いつ?


 皆で食卓を共にしたあの時間がとても遠くに感じられる。表情、仕草、声色……今朝方からの動向を思い浮かべ、それでも、此処を発って共に歩む姿を信じて疑わなかった。


「貴方さっき、おねーさまの何を聞いていたの?」

「もうそれもっ……耐えらんねぇんだよ!」


 胸の奥が、徐々に息苦しさを覚える。この地が怖い、もう駄目だと、何処かで聞いた声が押し掛かる。船からずっと妙な振る舞いであった。なのに、先の旅や自身の内情ばかりで、何一つ寄り添ってやれなかった事が悔やまれる。


 誰にも言えず思い詰め、それでも平然と振舞い……遂には決壊して。挙句責め立てられては己を保つ事も困難となってしまったのであろう。


「この……分からず屋!」


 俯き始めたセシリアが、弾かれたように石畳を蹴り出す。翻るマントの裏で、腰袋に手を入れているのが見えた。


「ナヨナヨジメジメしてんじゃないわよ! トトキノコ! サンカクナメクジ!」


 目前へと立ち、怒りに満ちた形相で罵り相手を見上げると、彼女は何かを投げ付ける。


 中々の速度と至近距離で飛んできたであろうそれを、やはりキッドは怯む事無く胸の前で受け止めていた。


「誰が欠けても駄目なのよ! その筆頭が誰かなんてっ……考えなくても分かるでしょ……」


 今度こそ俯き、悲嘆滲ませる声音を吐く。けれど彼が受け止めたそれに視線を落とすのと同時に、再び声を張り上げていた。


「ギルヴァイス家の証よ! 捨てたり、他へ渡らせた時点で、これから先の人生は無いと思いなさい!」


「……」


「頭、冷やして。余裕の無い心で大切な決断をしないで。いつものおにーさまなら絶対、おねーさまを突き放すような事はしない。……そうでしょ?」


 その言葉と共に、俯き隠れる顔から雫が溢れる。……それを認めるのと同時に、瞬く私の目元からも。


 いつの間にか、大きく視界が滲んでいるようであった。


「落ち着いたら来て。どれだけ時間が掛かってもいい。いつまでも待つから、絶対に逃げないで。……カノンちゃん、おねーさまと一緒に居て」


「セシィ……」


「お願い、ひとりにして。だけど、今その人をひとりにはしないで」


 縋るように名を呼ぶ彼に背を向け、守ってと懇願する。


「……わかった」


 渋々返事をして、セシリアへと向いていた足を留める。返事を聞き届けると、彼女は早々に露店立ち並ぶ人の波へと消えてしまった。


 結局、何も語る事が出来ぬまま、私は目元を拭う。少しだけ鮮明になった視界で褐色の影を追えば、黒と銀から成る手元の印を見つめているようであった。


「やっぱりお前は苦手だよ。セシィ」


 それを何処かへ仕舞い込み、こちらへと振り返る。


「じゃあ、冷めねぇ内に言ってやろうか?」


 何の感情も宿さぬ様で、距離を詰めてくる。会話を望んでいたはずだが、思わず半歩後退ってしまった。


「村へ放った俺、町から放たれた王家。それを勝手に重ねて、お前を無理にでも救う事で、償いのつもりだったつったら、どう思うよ」


 紺碧を見つめるこちらの視線に、それが交わる事は無い。口角を吊り上げ、けれど眉は苦しげに歪み、俯いている。いつかに緑の地で男を埋葬した、あの瞬間が過ぎった。


「放った癖に後で怖くなって、水精に丸投げして逃げて……そうなった全ての理由は、家族が…………恋人が、自害に追い込まれたからつったら、慰めてくれんのかよ」


 群衆に追われる辛さ、それに伴う死の悲しみ、自身は知るが故に私にはそうなるなと……なって欲しく無いと言って、だから……だからここまで一緒に、来てくれたのに。


「ぁ……」

「なぁほら、最低だろ? こんなのに現抜かしてる場合じゃねぇんだよ。目的を見失うな」


 視界滲ませる私の両肩を掴み、ひとたび強く揺さぶる。

拍子に、嗚咽するように声が漏れてしまった。


「アズの奴らに睨まれる事も端から分かってたよ! それでも、俺は……」


 身が、強張る。……途轍も無く痛む。

 元より力上回るヒトではあったけれど、恐らく、私との契りによって鬼の力をも宿している。


「もう、お前が責めてくれよ! いつかみたく思いっ切りぶん殴ってくれれば、諦めも付くんだよ!」

「い……!」


 痛い。

 あの時のような光も無いのに、怖気付いてしまう。今更そんな事、出来るはずが無い。触れ合いを嫌悪していたあの時とは違う。離れ行く事すら怖い。


 再び嗚咽が漏れた時、隣で大きく息を吸い込む音が耳を掠めた。次の瞬間には強く吐き出され、褐色のフードが白い霜に覆われる。


「頭、どれくらい冷えればいい? キッド」


 彼の腕に手を添え、驚く程冷静に声掛けるカノン。


「ルーナ、痛がってる」


 俯けた顔が僅か持ち上がり、肩が解放された。


「……お前らホント、素晴らしい連携だな」


 静かに、けれど強い視線を送るカノンへそう溢し、また歪な笑みを浮かべる。そのまま背を向け、私から何も得ずに再び歩み出していた。


 ……行ってしまう。

 言わなければならない事は沢山あるはずなのに、何一つ伝えられていない。俯き、溢れた雫がただ砂地へと吸い込まれる。言葉紡ごうとすれば、喉に蓋をされたかのように押し黙ってしまう。……弱いだけのヒトに、成り下がる。


 何を以てば、その背を引き止める事が出来るのだろう。過去に何があろうと、決して離れるつもりなんて無かったのに。


 彼が吐き出した全てを受け止められれば、元通り皆で一緒に行ける?


 ……もうそんな甘い話では無い事くらい、分かっている。


「キッド」


 やっと声に出せたそれは、留めるには余りに心許無い微かなもの。

 込み上げる全てを引き連れて、一歩踏み出す。


「行かないで」


 腕を伸ばし、求める。自分勝手だという事も分かっている……それでも。


「このまま終わってしまうなんて、嫌だ」


 引き連れたものが多過ぎて、ひしめき合う。何も言えなくなるのが怖くて、翻る褐色のマントの端を何とか握り締めた。


 引き攣る布先で留められる歩み。願う視線が向けられる事も、何だよと親しんで声掛けられる事も無い。


「……く」


 本当は、その背に飛び付いてしまいたかった。なのに、拒絶されればもう後が無くて、できない。


「……生きたい、一緒に……」


 振り絞るように言って裾を引き続けていると、留め具が力に負け、弾けてしまう。掴む事も許されぬマントが、するりと滑り落ちてしまった。


「私には、貴方が必要だから……」


 想いを綴る事すら恐れ、ただそれだけを伝える。声になれず、あぶれた言葉達が、涙に変わって流れ落ちていく。


「酷な事言ってくれるよな。終わらせるのは、お前だろ?」


 振り向き、落ちたマントを拾い上げるキッド。慌てて目元を拭ってそちらを見上げれば、着崩した襟元が目に入った。


「一番頭冷やしてもらった方がいいのは、誰だろうな」


 茶褐色の襟の下に、赤みを差す肌。

 意図せず視線を奪われていると、気付かれたのか、手で覆われる。……鬱血した首筋。消されぬままの噛み痕が固着していた。


「俺にはもう、お前が分かんねぇよ」


 ああ、やっぱり。きっと元には戻れない。

 どんなに縋っても、引き止めても、共に無い未来を貴方は想像してしまっている。

 その傷だけを連れて……私にも残して、一人で行くつもりでいる。


「じゃあな」


 再び褐色に彩られた背が、緩やかに離れ行く。人の波に飲まれ、目で追う事もできなくなった頃、そっと腕を掴まれていた。


「あの人も、一人にしてあげようって、ルーナについて来てるやつが言ってる」


「…………もう、無理よ」


「無理じゃない。本のお店の帰り、朝の船出て行った。夕方の船まではキッドも出て行かない」


「……。それも、リリスが言っているの?」


「リリス? 違う、カノンが言ってる。今のキッド……セシィも。アイツを探してた時のカノンと似てる」


「……」


 力の入らない頭が、ぼんやりとかつての記憶を辿り始める。

 兵士長を探す竜らと、怒りに囚われたカノン。こちらが何を話しても悪人の戯言とし、果てには憎悪と共に大剣を振り上げる……。


 その形相が、先程詰め寄ってきた彼と重なる気がした。


「でも、今、みんなと話した。後は一人になって考えるだけ。そしたら……そう、頭が冷える。カノンは、ルーナを守ってるコイツに冷やされた」


 言いながら下方を指差し、両手を広げる。こうして私の前に立っていたと。


 あの時、悲しみに塗り替わった幼い表情の正体……。守れると思っているのかと蔑みながら、かつて母の死を前にした自身と重ねたのだろう。そうして私の死は訪れずに済んだ。


 けれど、あの時守ろうとした二人は、結局居なくなってしまった。


「何を戯れているの、リリス。今こそが好機でしょう」


 一人で考えれば考えるほどに、暗く落ちていく瞬間があるのは、自身が一番よく知っている。それでも引き上げてくれる存在があったからこそ、進むと決めたのに。


「あの人はもう、話をする気なんて無い。……けれど、折角殺さずに得られた平穏を捨てて、貴女はこの先どう生きていくつもりだったの」


 セシリアとカノンだけで補えるとは思えない。他へ向かえばそれだけで断罪される。


 ねえキッド、貴方はそれを分かった上で、この怪物を遠ざけたの?


 見出していたはずの光が、まるで砂のように流れ落ちて消え行く。空っぽになった私にはきっと、大きな穴が開いてしまったんだ。


「……ルーナ、どこ行くの?」


 暗い染みとなっていた砂地を踏み付け、顔を上げる。セシリアともキッドとも違う道へと歩み出し、私も人波へと呑まれていった。



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