-4- 奥底の蒼黒

 未だ早朝故か雑多な雰囲気は潜み、落ち着いた静けさが漂う食堂。


 渡された料理を手に、私達はテーブルへと着く。やはり献立は決まっているのか、少しだけ硬そうなパンと茹でられた卵、細長く平たい多肉植物が二枚、まるで本物の肉のように焼き固められていた。


「工夫っていうか手抜きというか……」


 焦げ目の付着した緑に苦笑するセシリア。


「俺、こっちの味付けなら食える」


 対して、早々に殻を割り、ナイフで卵を輪切りにしつつキッドが応える。何を仕出かすのかと思えば、パンにも切込みを入れ、多肉植物と共に挟んでそのまま齧り付いていた。


「カノンもそれやりたい。ナイフ貸して」

「手ぇ切るなよ」


 大剣の使い手に無粋な物言いであるが、彼は小気味好い返事と共にナイフを受け取る。


「ふぉころでファルほ……何で髪濡れてんの?」


 覆面を少し下げて水を飲むこちらを指差し、もごもごと口が動く。


「セシリアが実の摂取を怠った。部屋中水浸しだ」

「水? 氷じゃなくてか」

「おねーさまの髪以外乾かしたから大丈夫。口に物入れたまま喋らないの」


 指摘されしかし、ふーんとわるれる素振りすら見せず、目を細めてはセシリアを睨め付ける。


「何よ」

「阿呆が。目の前で呼んだのか」


 静かに、憤りすら匂わせる声音。まるで唐突な罵りにも拘らず、彼女は素直に謝罪していた。


「その水系の寝言ってヤツも、イレストに魅入られてんじゃねぇの? 無関係なトコで頼り過ぎるのもどうかと思うけどな」


 そう言い、横目でカノンをちらと見て、幾度も卵を滑らせるその手からナイフを取る。セシリアが何か言い掛けていたが、それを上回る勢いで横手から声が上がった。


「ダメ! 自分でやる!」

「んじゃ、端だけ切るから。それを、こうやって下に向ける。……ほらな、安定して滑らなくなるだろ」


 それでも尚、眉根を寄せて不満気に口を尖らせるカノン。

 セシリアは言葉を控える事にしたのか、焼き固められた多肉植物を乱雑に切り、口へと運んでいた。


 肩を竦め、私も肉もどきを一口。……成る程、確かに今朝の方が味が濃い。


「それより、お前はよく眠れたのか」


 問い掛けながら卵を手に取り、ティースプーン……は見当たらぬ故、ナイフの背で殻の上部を叩いていく。そちらに集中する視界の向こうで、食べかけのパンが置かれているように見えた。


「俺? 何で?」


 昨晩、初めて目にしたであろうこの男の涙。私もセシリアも只々動揺するだけで、以降は慰めの言葉もそこそこに部屋を後にしてしまった。


 そういう時こそ同じ男性……というよりは素直な幼子の存在が大きい。ひたすらに励ましの言葉を掛け、果てにはかつて自身がそうされたのであろう、優しく頭を撫でては慰めていた。


「目が赤い」


 そのような様など、余り触れて欲しくは無いように思えるが、気になる程度には充血している。先を過酷な砂漠としている中で、体調を崩されては大いに困る。


「あー……。うん、聞いてくれるか、俺の昨晩の災難を」

「何それ」


 椅子にもたれて大袈裟に腕を組むキッドに、同じく卵の殻剥きに取り掛かったセシリアが苦笑する。食器の柄も使わず、テーブルの角にコンコンと打ち付け、細長く剥いていた。


 ……。

 私も、上部の殻を取り去ったのは良いが、やはりスプーンが無い事には食べられない。……もう、齧るか。


「突然ベッドが沈んだと思ったら、横に何が居たと思う?」

「キッド見て。できた」

「おう、上手に出来たな……じゃねぇよ、このお子様! あれだけ竜にはなるな、一緒に寝ないつったのに、どっちも破った上で最終的に最悪な格好で収まりやがって!」


 緑と卵を頬張るカノンに対し、突然声を荒げる。言われた当人は素知らぬ様でしゃくしていた。


「俺だけだから良かったものの、これが相部屋だったらと思うと、女共がどう反応するか面白過ぎて笑いが止まんねーよ!」


「……何それ」


 止まらぬと言うたはずの笑みなど一切浮かべぬ様に、今度は冷めた顔付きで、卵に塩を振りかけるセシリア。


「カノン知らない。自分のベッドで寝てた。起きたらちゃんと人間だった」

「でも、服着てなかったろ」

「キッドの見間違い」

「うわっ。……このやろ、言うようになってきたじゃねぇか。つーか、てめぇのベッドへは俺が運んだんだからな」


 置いてあったパンを再び手に取り、大口を開く。放置していた意味はあったのかと思う程に、味わう事も無く一気に押し込んでいった。


「ちょっとおにーさま、口悪いよ。カノンちゃんに移っちゃうでしょ」


「案ずるな。そうで無くとも、此奴は初見で私の事を野郎呼ばわりしておる」


 もっとも、怒りに我を忘れた者の言動など無自覚に等しい。……故に、根底の悪言が顕著なのだが。


「案ずるわよ。初日は数に入れないもん」


「お前はカノンにどうなって欲しいんだよ。俺らと一緒に居たらそりゃ、言葉くらい移ってくぞ」


「場をわきまえた言葉使いを覚えてくれればそれでいいの。おねーさまの話し方とか威厳あるし、結構理想かな。……だから、おにーさまが気を付けて」


「何だよそれ。今更丁寧な言葉のアレンくんとか気持ち悪ぃだけだっつーの」


 苦笑するその言葉を聞いた瞬間、口に放り込んだばかりの緑を誤って飲み込んでしまう。急ぎ、水をあおる先で、言うた本人ですら、あ、と小さく声を上げていた。


「……ばーちゃんの言う通りだな」


 次いで再び小さく呟かれるのを聞き流しつつ、残ったパンと水を交互に飲み込む。緑と共に食すつもりであったそれは、いやに多く感じられた。


「そうだ、近くの村ってどれくらいで着くの?」


 一連の流れは捨て置いたのか、水を飲みかけた手を止め、思い出したように問い掛けるセシリア。見れば皆、皿の上に卵の殻を残すだけとなっていた。


「……飛べば半日、歩けば二日はかかる」

「そんなに違うの?」

「街道あるけど、ほぼ海岸沿いだからどこ行くにしても遠回りなんだよ。砂を突き進むなら一日かそこらかも知んねぇけど、魔物がわんさか出る。足取られるのも鬱陶しいし、すっげぇ暑い。精神的疲労がうんでいの差」


「これ、食べたらどうなるの?」


 彼らが話す合間を見計らい、カノンが声を上げる。指先で白い欠片をつまみ、皿の上で砕いていた。

 ……今の問い掛けを聞くに、語調はどうやら御転婆に偏っているようだが。


「一応、栄養あるから悪くはないけど、硬いし味も無いから美味しくないかも。火が通ってないのは絶対に食べちゃダメだよ。……ねえ、選択肢に飛翔の術が入ってるようだけど、何か策があるの?」


「なんだ、お前の事だからそろそろ飛べるようになってると思ったのに。……カノン、食ってみろよ。木の皮いけるなら、殻なんて葉っぱみてぇなモンだろ」


 会話は途切らせぬまま、二人して返答する。

 明るく頷き、好奇に目を輝かせるその手は、小さな欠片から大きめの殻に替え、ゆっくりと歯を立てる。開かれた大口からは立派な犬歯が見えた気がした。


「浮遊させた身を引けば良いのでは?」


 乾いた音を立てるそれを横目に、私も口を挟む。

 獣を回転させた場面ばかりが過ぎるが、元は自身を宙へ浮かせる術のはず。


「あの高速で、術の安定と心の平穏を保ってられる自信は無いかな……」

「で、保てなかった場合、やっぱり俺が抱える事になるんだろうけど、消費激し過ぎて数十分持ち堪えるのがやっとだな。荷物もあるし」


「おいしくないけど食べられる」


「……木の皮ってそれ以上に美味しくない気がするんだけど、大きくなったら絶対に食べなきゃダメなの?」


 ならば道中、野宿にて遣り過ごすしかあるまい。言い終えぬ内に席を立ち、トレイを持つ。覆面の中で吐き出す息が、多少の熱を感じる程になっていた。


 これからまた、暑き装いにて先へ進まねばならぬ。少しでも解放される時間が欲しい。


「露天開くまでまだ時間あったよね。おにーさま、魔道書じゃなくて一般書物多めのお店知ってる?」


「なんでまた。役所の裏と薬屋の横にあるけど、どっちも遠い上にシェラムより小さいぞ」


「いいの、ありがと。おねーさま、あたしのは次の時にしてね。止める為って言っても、結構飲んだでしょ」


 言いながら、いつの間に持ってきていたのであろうか、自身の荷物を手に席を立つ。殻に満足したらしいカノンもそれに続いていた。荷物は持たぬようだが、得物だけは常に手の届く範囲にある。幼き心を知れば知る程、その猛々しい刀身は不相応に見えた。






 皆が席を離れ始めてようやっと、小さな欠伸と共にキッドが腰を上げる。やはり寝不足なのか、普段よりも一呼吸程動きが鈍い。


 食器類を返却してセシリアらと別れ、階段を上がる背後で気怠げな足音が付いてくる。踊場まで上り終えた所で振り返り、時間まで仮眠をとるよう忠告してやるも、返ってくるのは長い溜息と生返事。


 二階へ上がり切る頃には再び息をつき、私とセシリアの部屋の前で軽く別れを述べ、最奥の部屋へと歩を進めていた。


 ……話を聞いていなかったのであろうか。

 懐から鍵を取り出し、緩慢に解錠し始める。苛立ちすら覚えながらその動作を眺め、私も息をつく。そして扉が閉じられそうになる瞬間、縁を掴んで中へと押し入ってやった。


「……何?」


「我が身本来の食事を忘れて貰っては困る」


 いい加減、暑苦しくなってきた覆面を脱ぎ、部屋奥の椅子へと引っ掛ける。ああ、と溜息混じりに納得しつつ扉を閉め、同じくマントを脱ぐそれの着席を待った。


「ん」


 しかし、座るどころか無造作に腕を差し出してはまた大欠伸を一つ。


「……そう言えば」


 その腕は取らず、船内で今後は首からの摂取を約束した旨を伝え、遠目からその輪郭をなぞる。


「ンな約束するかよ」

「ふざけるな」


 即座に返してしまう。

 眉をぴくりと跳ね上げる向こうの様を認め、咳払いで取り直した。


「カノンに突かれて、首からでも何でも飲めば良いと降参しておったではないか」

「……」


 心当たりはあるのかそれとも、酒席は記憶を曖昧にしていたのか、再度溜息をついて腕を下ろす。何故か仏頂面で、ようやっと横手のベッドへと腰掛けていた。


「悪いけど、酔どれの言葉は余り鵜呑みにすんな。素面しらふだったら絶対しねぇ約束だぞ、それ」

「……やはり、酒は碌でも無いな」


 目を細め、悪態をついてやる。だが、快く取り消して腕から摂取するというのも腑に落ちぬ。今回位は譲歩しろと椅子から離れ、ベッドへと詰め寄った。


「……。俺さ、今すっげぇ虫の居所が悪ぃんだよ」

「奇遇だな。次からはまた硬い腕かと思うと、私も腹立たしい」


 肩に手を乗せ、露となっている喉へ親指を添える。少しだけ、浮き上がる喉骨を押し潰したい衝動に駆られてしまった。


「これを終えてから仮眠をとれ。お前のそれは眠気によるものであろう。今こそ毒が効けば良かったのだがな」


 もう片方の手で反対側の首元を揉むように、幾度か押さえる。

 ……やはり、ここは柔らかくて吸い付き甲斐がある。腕とは違い、穿った後の赤き匂いも濃密に感じられる。今までもそうして取り込んできたものだが、彼等に限定してからは妙な我慢が付き物となってしまった。腹は満たされるが、気が晴れぬ。


 そうして緩々と解し、少しだけ顔を寄せた所で突然、押し留めるようにこちらも肩を掴まれてしまった。


「ンな触られ方すると、余計に無理」

「何?」


 今まさに飲もうという瞬間を制され、間の抜けた声が漏れる。


「首、首って、そっちはごくごく飲んでるだけかも知んねぇけど、それが結局どういう動きか分かってんの?」


 眉間に僅か皺を寄せ、不機嫌の塊のような声音が浴びせられる。


「……いや」


 以前にも手の動きがどうのと言われた気はするが、記憶を探ろうにも血の味や肉の柔らかさばかりが思い起こされ、どうにも他は無意識のようであった。


「まあ、そうか。本来の食事っつーくらいだもんな」


 険しかった表情がすぐに和らぎ、肩が解放される。同時に我が手をも払い、再び距離を取らせた。


「よし、じゃあやれよ。ただし、後でこっちも同じ事する」


 その手はまるで降参とばかりに、顔の左右にて軽く上げられている。


「は?」

「それが嫌なら腕にしてくれ」


 まるで淡々と放つそれに、再び声が漏れた。

 聞き違いで無ければ此奴、とんでもない事を……。


「止めておけ。半分とは言えあやかしの血など、興味本位で取り入れるものでは無い」


 ヒトの身でありながら吸血願望が芽生えてしまったのかと、知らず一歩退いていた。


「私ですら勝手が分からぬというに、もし継いだとなれば冗談では済まされぬぞ」


 言うてやると、そこで初めて、始終面倒そうであった表情に微かな笑みが浮かんだ。


「そうじゃないよ。……ないけど」


 妙な間と共に首を振り、再び腕が伸びる。しかし、今度は肩ではなく、失礼と一言置いて、指が腰に触れた。

 少しだけ、身が跳ねる。


「吸い始めたら、肩から下りて大体すぐこの辺触ってくるよな」


 言われ、困惑と共に記憶を探りつつも、触れられるそこへ過剰に意識を巡らせてしまう。何も浮かばぬ内にもう片方の腕も伸び、両側へ添えられる形となった。


「逃がさない為なんだろうけど、遠慮なく再現するぞ。それでも首がいい? 大人しく腕にしとく?」


 紺碧の眼差しが、下方から我が目を射抜く。深い色の中に見え隠れする熱と共に、勝ち気な笑みを湛えながら。

 それの意図を推せば、こちらの顔にも熱が移るようであった。応えられぬまま再び首元から肩へ、今度は口惜し気に手を滑らせてしまう。


「卑怯な……」


 飲みたい衝動と相対する報復を思い、軽い錯乱を生む。

 恐らく、直前で止められた事によって拍車も掛かっている。


「命を鷲掴みされる恐怖の他に、何で首が嫌がられるのか、いい加減知らしめてやろうと思って」

「私は、ただ……」


 気付けば、早くも呼吸の乱れが顕著となっていた。

 鬼へと変えられる際のそれと似ているようにも思える。ともすれば瞳に金が宿り、選択の余地など失せるのではと危惧してしまう程に。


「後に眠らせる、腕には自信あるつったって、あれだけの煽り様で今まで無事だったのが不思議で仕方ねぇよ」


 先程弄んだ喉骨が嘲笑うかの如く、低音を奏でる度に上下している。鎖骨すら露となっているその箇所を再び撫でると、荒い呼吸すらも飲み込む程に大きく喉が鳴った。


 金目と成り果て、首からの摂取が許されぬとなれば、勝るは衝動。複雑な表情を浮かべたまま今度こそ顔を寄せ、振り切るように目を伏せる。

 汗への対策なのか、珍しく香水の匂いを纏っているようであった。


「何してんだ。さすがに分かってるよな?」


 首筋に唇が触れそうな所で、またもや声が掛かる。


「腕からにした方がいいって」


 それにしては、我が身に手を添えたまま差し出す気配も無い。

 この状況を前に耐えられるだろうかと、薄ら目を開き、僅かの距離も無い肌を視界に映せば、影としていた暗がりに光が射すように思えた。


「ぐ……」


 恐らく、時間が無い。歯止めも利かぬ。


「セシィとカ……うーん。首だけセシィに頼めばいいんじゃね?」


 ――私は、お前の首が良い。


「あっちの方が柔らか、いっ……! ってぇ……」


 尚も話し続けるそれには取り合わず、代わりに強く食んでやる。多少の痛みがあったのか、小さな呻きと共に細く長い息を逃しているようであった。


「……釘は、すっげぇ刺したからな」


 腰の手は背へと回り、指が背筋に沿うよう撫で上げる。……摂取の際に向こうから触れてくるのも珍しい。もはや後には引けぬと感じたのも束の間、濃厚な味わいが口内へ広がり、気が触れたように吸い上げていた。


 このような状況で、自身の手の在りなど気に止めていられるものか。腹が減れば即座に口へ放り込めるパン等とは訳が違う。


「……む」


 だが次の瞬間、妙な味わいが舌に纏わり付く。

 ……酷い。微量どころでは無い。常ならば避ける程の酷さ。臭いで気付けたものを、香水に誤魔化されてしまったのか。


 余り取り込んでは色々と支障を来しかねないと理解はしているものの、鬼のさが故か定量を得ぬままでは離れる動きが取れない。それどころか更に舌で傷を強く責め、押し広げ、食むように柔らかく歯を立ててしまう。雑味は有れど、我が身が最も求むものに相違無い。


「ああ。もしかしてそれ、安心感でも求めてんのかな」


 背中越しの響きに、ふと瞼が持ち上がる。

 密着した胸元。いつの間にかベッドへと乗せていた膝に、彼の内腿が触れている。


「それで済ませてやるつもりは、もう無いけど」


 大きな手は片やうなじ、もう一方は腰から下へ――


「!」


 緩々と滑る指先に、瞬時にして総毛立つ。慌て身を引こうとすれば、うなじ側の手が後頭部へと回り、強く押さえ付けられた。


「んん! むぅ!」

「まあそう言わずに。もう少し飲んでろって」


 怯み、浮かせた腰から手が一気に下がり、両腿を抱え込んで、更に足らしきもので挟み込まれる。離れる事叶わず、唇の隙間から血とも唾液とも判別付かぬものが漏れた。


「おい、汚すのだけは勘弁してくれよ」


 言われずとも即座に舐め上げ、はしたない音まで響かせて吸い取る。無意識に行ってしまったそれに、自身でも大いに嫌悪感を抱いた。


「は、もっ、もう良い!」


 必死に顔を背け、自由になれた口で酸素を取り込む。飲んだばかりにも拘らず、喉が異様に熱い。


「そう?」


 だが手は緩められず、耳元の呼気が一際大きくなる。

 首筋に何かが触れた気がした。


「んじゃ、俺の番な」


 言うが早いか、触れていた先から生温かくぬるりと肉が這い出す。僅か悲鳴が溢れ、きつく目を閉じた。


 けれど、何から逃れられる訳でも無く、聞いた事も無い息遣いが微かな声音と共に首元を擽ぐる。抵抗しようにも体が沿わず、果てには吸い付くそれに力の全てを奪われ、情け無く身を預けてしまった。


 牙を穿ち、その傷を舌で押す……そうだ、前者を行なっていないだけで、今のこの動きはそれに他ならぬ。


 擽ったいのもそうだが、それだけに留まらず、全身が波のように粟立ちながら疼く。


「ふ……うぅ……」


 堪らず、まるで涙声のような上擦った息が漏れてしまい、彼の肩に置いてあった自身の手の甲へと口元を押し付けた。


 すると、後頭部の手が再びうなじへと移動し、腿を抱く腕もまた側面を伝い、腰へ上がっては弧を描くように撫で始めていた。


「やっ!」


 触れる範囲には臀部も含まれており、嫌が応にも声が上がる。


「……嫌?」


 短くも深く含まれる吐息混じりの声に、身が跳ねる。


「なら、何で腕から飲まなかった」


 返答すら待たず、すぐさま舌が戻ってくる。しかし、先程とは別の箇所……胸元。


「わっ、わた、そこまで、触れてなっ」

「ああごめん。セシィの飲む時とか、そりゃもう結構なトコまで撫で回してたから」


 それは、お前とは無関係なのでは。

 それと、吸血の箇所が変わる事だけは、まず有り得ぬのだが。


 思うも動悸と息苦しさで言葉紡げず、徐々に移ろう水晶色の頭部を鷲掴んで留まらせる。すると、舌の動きが止み、突然胸へと顔をうずめてきた。


「まっ! ぅ……キッド!」


 反射的に叫ぶと、するりと全ての拘束が解かれ、再び腰に腕が回される。今度は強く、ただ抱き締められていた。


「主に、こんな感じ」


 くぐもる声と、それ以上の動きを見せぬ様を認め、終わったのかと半信半疑ながらも安堵の息を吐く。


「は……お前っ、やはり、変態ではないかっ」


「あのさぁ、再三忠告したのに免罪与えたのはそっちだからな? 分かったんなら今後は気を付けろ。首舐められるってのはこういう事だよ。吸血鬼も首が弱いとか笑い種だな」


「そっ……限度と、いうもの、が」


 息が詰まり、反論すらまともに出来ない。

 呼吸と同じくして胸元の頭が上下している。思えばこの服、そこを覆う布地の面積が少ない。マントが無ければ肩さえも露出しているのだ。


 前髪が素肌に触れ、妙に擽ったく感じる。意識すれば更に感覚が増し、全身が心臓になったのではと思う程に強く脈打っていた。


 ……雑味め、早速面倒事を引き起こしておる。それに此奴、いつまでこの体勢でいるつもりか。

 ……。

 …………。

 待てども離れる気配は無い。おいと呼び掛けると、僅か引き寄せ、顔を擦り付けられた。


「ひっ!」

「ファルト」


 漏れてしまった悲鳴と同じくして小さく……やや上擦るような呼び声が湧く。息苦しいのか何なのか、呼気を早めて谷間に熱を広げゆく。恐る恐る問い掛けるように名を呼び返すと、抱く力が一層強くなっていた。


「俺、もう駄目だわ」


 何が。

 口に出したはずが、声にはならなかった。


「この地に居ると、終わりが見える」


 引き剥がしてやろうと、結え髪を持った手が留まる。


「どの頭が、共有出来そうとか思ったんだろうな。こっちは、あれは……放った側なのに」


 この男、いきなり何を。


「昨日だってずっと隠れてただけなんだ。カノンにはバレてたよ。……だけどもう、その内……」


 もはや力加減が分からぬのか、締め付けが更に強まる。しかし身の調子が安定せぬ今、こうも圧迫されては息が……。


「お前は、生きていてくれるよな?……いや、どうせここで見つかるんだろ。俺は御役御免だ」


 伴い、声音は地を這うような低さをかもし出す。


「ちゃんと生かしてくれんのか? 守ってくれんのか? 中の奴らをどうにか出来んのか?」

「ぅ……」


 痛みが、増す。絞め殺されるのではと思う程に。


「そいつの傍で、幸せになるんだろ?」


 苦、し……。


「俺らの事は思い出にして、お前は――」


 音が遠退き、目を開いているにも拘らず闇が映る。引き離そうと頭に手を添えるも、思いの外力が入らない。

 丸くなっているその背をただ撫で下ろすかのように、するりと頼り無く滑り落ちていってしまった。


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