-2- 憂い事

 若干の息苦しさと共に、緩く覚醒する。

 目を開くと、見慣れぬ形のカーテンがぼんやりと映った。


 隙間から朝焼けの光が漏れている。氷の地からは随分離れたのか、気候が多少温暖に感じられる。


 いつの間に寝入ったのであろうか。しかし、身体は眠る直前の体勢のまま、恐らくは動いていない。


「いっ……」


 身を起こすと、首筋に思わぬ痛みが走る。どうやら寝違えてしまったらしい。痛みを避けるよう庇いながらカーテンを引くと、向かい下のベッドが空いていた。降りてみると自身側の下段ベッドも空いている。


 此度の起床は私が最後か。

 肩を竦めていると、不意に扉が開く。咄嗟に振り向けば、再び首が痛んだ。


「お? おはよう。……あっ、悪ぃ。扉叩くの忘れた」


 珍しく袖の無い肌着を纏うだけの薄着姿のキッドが、桶と水瓶を抱えて入ってくる。

 確認の癖が無いのは知り得ているが、衣装を正さぬその様には溜息が漏れた。

 首をさすりながら挨拶を返すと、今度は足で扉を閉める。……呆れて物も言えぬとはこの事か。


「仕度用の水持ってきたよ。使うだろ? 水場は人が往来してるからな」

「ああ、すまぬ」

「あとその服、袖は取り外せるように見えるけど脱げんの? もうじき半端無い暑さが来るぞ」


 故にその格好なのであろうか。曖昧に返事をすると、彼は物置台に桶と水瓶を置き、自身のベッドに引っ掛けていた褐色のマントを取り出した。

 形状を維持させる為に留めていた金具を外し、一旦大きく広げた後、新たに形作っていく。


「熱帯は面倒だなぁ。着ても暑い、脱いでも暑い」


 愚痴を溢しつつ羽織り具合を確認する。フードを形成しているようであった。


「お前のその髪も泣きを見そうだな。まあ、覆面被ってりゃどっちも同じだろうけど」


 軽く相槌を打ち、言われた通り赤い袖を取り払って荷物袋へと仕舞う。次いで物置台へ向かい、身支度を始めた。


 そうして暫し経った後、背後で扉を叩く音が響く。キッドの確認後、一人分の料理を手にセシリアが入ってきた。


「おはよ。眠れた? 朝食持ってきたよ」

「……私だけなのか?」


 そう尋ねる間、使い終えた桶と水瓶を持ってキッドが入れ替わるように出て行く。呼び止める間も無くセシリアに朝食を差し出され、渋々受け取った。


「先に食べてきちゃった。三人で食べるには部屋狭いし、向こうのテーブルだとおねーさまが食べられないでしょ」


 言いながら、持ち出していたらしい例の木箱を地へ置き、自身もその隣へと座り込む。料理自体は箱の中身であろう。外で用意したという事は、食器でも借りていたのか。


「竜ちゃん達の事が解決したばかりだからかな。お客さん多かったよ。一部屋空いてて本当に良かったね」


 軽く受け答えた後、食前の祈りを捧げてスプーンを手に取る。火の通ったこのスープ位は船内の料理であろう。……持参の物がどれかは見極められぬが。


 黙々と食事を続けていると、唐突に扉が開いた。


「あ、また忘れた。……なあ、この場合も確認いる?」

「どの場合も同じよ。いきなり着替え始めてたらどうするの」

「えー。戻ってくんの分かっててそりゃねーだろ」

「わっかんないよー? ちなみに、覗いたら問答無用で鞭飛ばすからね」


 遣り取りを横目にスープを飲み終え、口を拭う。体温が上昇し始めているのか室温にも敏感になり、少しだけ汗が滲んだ。


「平手打ちにしておけ。其奴は月明かり下での投石をも見切る」

「何それ。投げられるような事でもしたの?」

「おい待て、構えるな。事故だよ事故。俺もファルトも間が悪かっただけだって。……いいからお前、今の内に外の空気でも吸ってこいよ」


 と、突然話の流れを変えに掛かる。余りに無理矢理なそれに眉をひそめるが、セシリアは思い出したように立ち、木箱と共に退室してしまった。


 そう言えば、口を腫らすという実の効果はどうなったのか。この身に害は無かったようだが、もしや偶然免れただけで、やはり部屋は凍ったのであろうか。


 思い、何か痕跡は無いかと彼女が使用していたベッド付近に目を遣る。余り首を振らぬよう視線だけを動かすと、室内に残ったままのキッドが映った。


 何を語るでも無く、荷物袋を整理している。途端、視界の端にその動向を捉え、何故か密かに確認し続けてしまう。料理はまだ半分以上も残っているが、急に味が分からなくなってきた。


 何をしているのであろうか。いや、荷を整理しているのは分かる。

 何も……思わぬのであろうか。

 ……。

 ……。

 ……何を?


「本当に良かったのか?」

「何がだ!」


 掛かった声に、思わず勢い良く顔を向ける。寝違えた首が再三の悲鳴を上げた。

 痛みに背を丸めつつ、緩りと首向きを戻す。明らかな過剰反応に対し、向こうは一瞬呆気に取られていたが、何事も無かったかのように再び訊き返す。


「いや、昨日さ、女王の見送りも待たないで出てきたから。せめて別れ位は言っておいた方が良かったんじゃないかと思って」


 ここまで来て今更何の質問かと疑念を抱いてしまう。だが間の悪い沈黙よりは良い。どこかで同じ返答をセシリアにもしたように思えるが、口元を拭いながら徐ろに答えた。


「別れは前の晩に済ませた。間を与えれば、彼処あそこの民等は隊列をも組んで送別しそうだ。他者の往来がある城で、人目を引く事だけは避けたい」


「ふーん」


 反応薄くそう返される。見れば、昨日まで着用していた紺色の衣服を出し、折り畳んでいた。


「次の大陸さあ……」


 と、虚ろな声音のまま再び話し始める。

 しかし、後に続く言葉は無く、私の立てる食器の音だけが微かに響く。待てど話す気配が無いと感じた頃には料理も平らげ、向こうも荷の整理を終えていた。


「続きは無いのか」

「あー……うん、やっぱいいかと思って。食い終わった?」


 持って行くとばかりに寄ってきた彼を制し、立ち上がる。


「良い。返却のみならば己で出来る」

「返却だけじゃないから持ってくんだよ。荷物番よろしく」


 早々に捲し立てると、こちらの言い分も聞かず食器を持って出て行ってしまった。


「……」


 釈然とせぬまま再び腰を下ろし、仕方無く荷を見つめる。また少し気温が上昇しているように思えた。

 確かに、この中での覆面着用は余り心地良いものでは無さそうだ。

 ……喉が、渇いたな。だが、出来れば今はセシリアから摂取したい。

 私も甲板に出ようと、空色と紺青映す舷窓げんそうに目を遣りながら、緩慢に立ち上がった。






 暑い。

 風があるだけ船内より涼しい気はするが、昨日の寒冷地滞在が幻であったかのようだ。


「ひろーい! 前も後ろも水平線ばっかり! あははは、何もなーい!」


 興奮の様子で甲板を駆け回るセシリア。脇に木箱を抱えたままだが、温度を保つというその集中力が持続しているのかは疑問である。


 重さは少し軽減したのか、リーズ港の時よりも足取りがしっかりしていた。


「おーい。マント被っとかねぇと頭からやられるぞー」

「そんなトコで蒸されてる方が暑いよ。二人とも体力無いねー」


 体力の有無をヒトと比較するなど、本来この身からすれば愚かしい事この上無い。だが、今は何も言い返せず、ただ息を吐く。……それすらも暑い。


 彼女に喉の渇きを訴えるつもりで来たが、余りの暑さ故に一瞬で失せた。

 人目を憚り船内へ呼び込むのも億劫だ。中の通気口を通るのもやはり熱風で、余計に暑い。


「俺はまあ良いとして……はしゃいで来いよ、十代」

「は、心を十代と自称する者の言葉とは思えぬな」


 船上に設けられた日除けの下で、溶けた蝋のように座り込む私とキッド。あの後、部屋を施錠し鍵を預けにゆくも、俺も行くと言い渡され、結局は同じ空間に二人。


「さすがにもう、船乗った位でああいう反応はねぇよ。あつー」


 先程の静寂よりは良いが、今は何をせずとも暑い。日光を遮断する意味でのマント着用は効果的やも知れぬが、影のある場でそれは、ただ肌に張り付くだけの不快な布である。


 だが、日照る甲板に立つ気力も無い。船首の方へ遠ざかるセシリアを目で追ってはみるが、物影に隠れてしまい遂には見えなくなる。


「術で凌げぬのか? 氷を撒き散らす等の方法がありそうなものだが」

「ンな事したってすぐ蒸発するし、暑さも戻ってくる。やるだけ無駄。イレストに怒られるだけ」

「イレスト?」

「あーごめん、水精の名前。暑さでもう何も考えらんねーわー」


 そう言い、更に溶けるよう仰向けに倒れていく。不快な呻きを上げながら、手の甲を目元へと宛がっていた。

 思考が停滞するという事には同感だ。

 壁と同化しそうな程にもたれ掛かり、私も顔を伏せる。


「次の、……んー……」


 呻き続けるそれが、一瞬問い掛けに聞こえた。何か言うたかと訊き返すも他愛無く返答され、彼はまた暑苦しく唸り出す。


「……赤土は、どっちかっつーと涼しい方だよな」


 話したいのか否か。脈絡無く漏らすそれを、今度はこちらから話を切ろうと他愛無く返答してやる。


「緑の地みたく強い魔物が出るワケでもナシ、住民も静かな方だしで、比較的過ごし易いんだよな」


 こちらの返答は相槌と成り得てしまったのか、意に介さぬ様で話し続ける。が、内容は全く……心底どうでも良い。


 暑さ故に会話は億劫ではなかったのか。目を伏せ、ただ聞き流す事にした。


「だから居たんだけどよ、一年位前から……あの日まで」


 けれど、早々に聞き捨てならぬ言葉を吐く。どうやら遠回しに何かを伝えようとしているらしい。


「お前らしくもない歯切れの悪さだな。先程から何が言いたい」


 薄く目を開き見るが、向こうの体勢は変わっていない。聞き逃せばまた氷の地での失態に繋がるやもと危惧し、追い立てた。


「んー。不謹慎かもだけど、俺、多分今が一番幸せかな」

「は?」


「やっぱり、今が一番楽しい時期だな、うん」


 何だそれは。

 言おうとして、自身もいつかにそう感じていた事を思い出す。だが、口に出す程であろうか。元より羞恥を覚えるような台詞を吐く男ではあるが、何か真意があるようにも思える。しかし何故か、私の負の部分にも関係していそうで、どうにも聞き返せない。


 失態を招かぬ事を願い、ただ一言、そうかとだけ返しておいた。


「あの日、お前に会えて良かったよ」

「……」


 終わらせたいと思う程、言葉は続けられる。……それは本当に、今の場に相応しいものなのか。用いる所を違えば意味合いも変わる。何も考えられないと猛暑を憂う今に放たれるべき言葉では無いはず。


 それとも、その暑さ故に可笑しくなってしまったのであろうか。

 遂には妙な不安に駆られ、その名を呼ぶ。体勢は未だ崩されぬままであった。


「一回位言っておきたかっただけ」

「何故それが“今”なのだ」

「こういうのは思い立った時に言うのがいいんだよ。溜めれば溜めるほど、こっ恥ずかしくなってだな……。それとも何だ。乙女的には雰囲気でも気にして欲しかった?」


 口だけが、不敵な笑みを形作る。


「いや、ただ杞憂であればと願う」

「おおっと」


 彼はそこでようやっと身を起こし、普段と変わらぬ面持ちで笑んできた。望んだ顔と違わぬそれに、不審は少しだけ拭われる。


「これまでの流れからして、今ので“戯け”とか言って鋭い視線が返って来るはずだったんだけどな。場慣れしたじゃないのよ、ファルトちゃん」


 ちゃ……。


「何の心配してんのかは知らねぇけど、勢いって大事だぞ。こっちもいつでも受け付けてるから気軽に言ってよ。“一度は言ってみたい言葉集”」

「……やはり、暑さにやられたか」

「えー、そんな扱いかよ」


 お前もやられてしまえと、話すとも言わぬ内に彼は少し間を空けて隣へ座り込む。無理にでもこちらから何かを引き出したいのか。それとも、勝手に話しておきながら己だけが伝えるのは癪だとでも思うたのであろうか。


「無い訳ではないが……」

「え、本当に言ってくれんの?」

「冷却効果が望めそうな話なら、一つ」


 汗ばむ覆面の下でふと笑みながら、片膝を立てる。隣ではやや不満気な声が上がっていた。


 思い立った時に発言するのが良いと言うならば、私にとってもそれは“今”なのであろう。


「九年、いや十年か。ずっと口に出せぬ言葉があってな」

「じゅーねんだぁ? 小さい時は言えてたのが、思春期のせいで恥ずかしくなったとかそんなんじゃねぇの?」


 半ば本気にはしておらぬのか、在らぬ物を揉む仕草と共に口を挟む。だが、その冗談は逆に、震う唇を戒めてくれた。


 ……そうだ、今から言おうとしている事は間違いではない。言葉自体は別の言い回しで誤魔化せたであろうが、かつての事柄から目を背けていては何の解決にもならない。


 一度でも言えればきっと……。

 それは恐らく、ただの希望でしかない。言えたとて、何も変わらぬやも知れぬ。


「……で、何?」


 業を煮やしたのか、遠く空を見上げては促される。その横顔を小さく見つめ、私は緩やかに口を開いた。

 すぐに乾いてしまう唇を何度も湿らせ、一言ずつ。

 時を経て、呪いある昔語りを今ようやっと、紡ぎ出すのだ。


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