6.五大・四の陸 【砂の地】
-1- 星の瞬き、彼女の夢
「はい。……はい。あ、いえ、それで結構です。むしろ二日くらい経ってくれた方が好都合」
氷の地、リーズ港にて。
少し寄る所があるとセシリアに言われ、辿り付いた先は配達受付所。
「おいおい、心配させといてそりゃねーだろ」
「念の為よ。追って来られたりしたらヤだもん。邪魔したら、安眠出来ないくらい恨むとは書いたけど」
多少の遣り取りもありつつ早々に受付を済ませると、彼女は出入口で待っていた私にお待たせと声掛けてきた。
「……その中身は減らぬのか」
重そうに肩へ荷を掛け直すその姿を怪訝に見つめると、胡桃色の目は一旦苦笑の色を見せる。配達の半分は幼子程あるその木箱だと予想していた。
布を巻き付け無理に肩掛けとしているそれは、どう見ても旅には邪魔だ。しかし、受付に手渡したのは小さな腰掛け鞄から取り出した一通の封書のみ。
「だって、次の大陸って近付く度に暑くなるんでしょ? 船の上じゃ水も無駄に出来ないし、氷でも持っていけば少しは足しになりそうじゃない?」
確かに、次の大陸は
船で行き着くにも約二日半。城で聞いた話によれば、日中の陽光と、遠く砂の地から流れ吹く熱風で、少なからず体力が奪われるらしい。
「だが、限度があろう」
「食料も入ってるし、保冷剤とでも思っておけば良いんじゃね? 水筒に生温い水入れてくよりは使える。で、どうせ後には全部腹ん中。船内で出される微妙な飯よりは良いさ」
行こう、と残して一人出入口の階段を下りていくキッド。
久々の勘が戻ったような話し振りに、知らず安堵にも似た微かな息が漏れる。
しかし、何時だったか、船で食事をとるような事を言うておったように思えるが。無償だからと、やはり欲をかいたのであろうか。
「そうそう。何てったって三人分だもん。氷は一応二日分ね」
そう言い、彼女も階段を下る。壁に手を着きながら不安定に踏み出すその様は、やはり見るからに危険であった。
「少しの時間でも分担すれば良いものを」
一人溢し、仕方無く彼らに続く。
城を出る際にも“必要な物”と称されるその箱の中身を分ける事を提案した。だが、彼女以外にはそれを成し得られぬと、二人して返されたのだ。
氷は少なからず溶けゆく。それを、彼女ならその形状を留めておけるのだという。魔術の類であろうか、ならばキッドと成せと言い渡せば、彼には不可能だと今度は苦笑し合う。
「まさか、ああも精霊ちゃんと相性良くないとは思わなかったんだもん」
「そうそう、仲悪いワケじゃなくて相性が悪い。ははは、前に術の無駄撃ちして精霊の源とやらを壊しかけたりしたからなー。よく世話になった火精からは特に嫌われてるなー」
扱うものの種類が違うらしい。その辺りは理解し難いが、術の威力云々以外での細部は、セシリアの方が長けているようであった。
「え、練習する分にも術って使っちゃいけないの?」
「まさか。練習の程度を超えて、ただの気晴らしに使ってたから嫌われたんだよ。術の規模も違う。お前がぶっ放してる分には催促来ねぇだろ」
「催促? 何の?」
「召喚の催促。自分からは形として具現出来ねぇからな」
「へぇ、そんなのあるんだ。相当危険な事してたのね」
「で、無視しててもポツポツ鬱陶しいからとりあえず召喚して、やっぱり腹立つ事言うから追い返す。それの繰り返し」
「……大人気のない」
聞けど話には付いていけぬであろうと踏んでいたが、やはり理不尽さくらいは読み取れる。知らずそう漏らした私に、セシリアが小さく噴いた。
「ふふ、そうだよね、大人気ないよね。精霊ちゃん達の方が断然小さい姿だから、余計に滑稽だわ」
「……。大体、何であいつらが女子供の姿してんのか分かんねぇ。扱い難いだけだっつーの」
まるでそれが私達の事であるかのように、こちらを一瞥しては船着場へと進む。夕日に当てられ瞬かせるその目は、とても間が悪そうに見えた。
「その思惑がそもそもの問題であろう。力を借りる存在であるならば、敬う位の気持ちは持て」
「あっはははは、その通りだよおねーさま! おにーさまよりも仲良く出来るんじゃない? あはははは」
「集中してねぇと溶けるぞ、それ」
背中越しに言い放ち、歩を早める。些細な抵抗から感じられる確かな不満は、やはり幼子のようでどうにも可笑しい。
「本当はやれば出来るんでしょうに。精霊ちゃんも空気読んで従ってくれるよ」
「土精あたりなら呼ぶけどな。他の奴……特に火精、水精、風精は隙あらば小言浴びせてくるから呼びたくねぇ。腹立つ」
言われ、彼女は肩を竦め、視線をこちらへと寄越してきた。
「“特に”って、ほとんどじゃない。おにーさまって友好的なのか何なのか分かんない人だよね」
「精霊とやらに対し、使役の概念しか持ち合わせぬのであろう」
「ふーん。……ま、癖のある子達ではあるけどさー」
私の、侍女に対する扱いとそう変わらぬのやも知れぬと、かつての城を思い浮かべては遠く水平線を見遣る。
見えるはずは無い。けれど、陽に染まるその赤い海面は少しだけ、赤土と呼ばれた大陸の地表に似ている気がした。
――ボオオォォォォ。
出港の刻限を告げる汽笛が、辺りに響き渡る。……あの日のように。
だが、赤き景色はあの日とは重ならぬ。故郷の土など、もはや目にする事も無かろう。
「遠くまで来たものだな」
緑の地と砂の地、どちらが火の地から近いか。
いつぞやの待合場でそう問い掛けた事もあったが、直に回り切る。どの地よりも広大な砂の地、居るとすればそこしか無い。
外の大陸であるという可能性は、余り考えたくは無かった。
「ファールトー、その耳で汽笛聞こえなかったワケじゃねーだろーなー」
「置いてかれちゃうよー?」
前方から声が掛かる。いつの間にか距離が開いていたようだ。
……旅の終わりは、姉上を見つけ次第であろうか。それを内に問い掛ける気力を、この身はもう持ち合わせてはいない。
返答もせず、やや掛け足で二人の後に続く。
いつかは、本当に置いて行かれるであろう。否、私が走る事を止めるのか。
「待って」
声に出さぬまま、口が無意識に動いた。
今はまだ、追い付けるからと。
乗船も、もはや三度目。
故郷を惜しみ、絶望に打ち
かつての想い人すら記憶の底。
永遠に変わらぬと思うていた衝動の鬼は、少なからず抑える事が可能となっている。
変わらぬのは、姉を求めるその目的のみ。
「案ずるな。体はくれてやる。思うだけなら自由であろう?」
だから、これからの戯言に口は挟まないでくれるか。
そう前置きをして、夜風舞う甲板で一人、星空を眺める。返事は無い。構わず、視線を星空から暗黒の海原へと移し、思い馳せた。
あの日もそうだ、この星空の下二人で笑い合うていた。それは覚えている。けれど私が先に戻り、船室で浅き眠りについてしまった後、突然の嵐に見舞われた。
あらゆる物が倒れて酷い有様となったが、船上での脅威はそれ以上であったのか。身のこなしを誇る吸血族がそれを活かせず、あろう事か波に呑まれていた。
あの時、何故共に船内へ戻っておかなかったのか。そう悔やんだ回数も、そろそろこの星の瞬きに匹敵するであろうか。
「姉上、もし本当に御無事なら……貴女は今、満たされておりますか」
戻れていれば、共にダルシュアンへ帰り付く事が出来ていたならば、この旅は無かったであろうか。王家が滅ぶその日、リリスへ向かう牙を止めてくれたであろうか。
……自信は無い。もしかすれば、己の身含め全てを失っていたのやも知れぬ。何度も悔やまれた姉上の失踪は、ともすれば不幸中の幸いであったとも考えられた。
あれから三年。……否、直に四年だ。私の事などとうに忘れ、慎ましくも平穏に暮らしているであろうか。だがもう、それに戸惑いを感じる事も無い。
遠目からでも良い。彼女の無事を見届け、他愛無い日常に浮かべられる笑顔をこの目に焼き付ける事が出来たなら。
その後、立ち去る事を許されたのなら、私は――
「私はまた、旅を続けたい……です」
時が続く限り、彼等と共に在りたい。母に託された願いを胸に……そうだ、未知の大陸を見て回るのも良さそうだ。
恐らくそれは、この上無く心躍るもの。
今願う、最高の幸せ。
「……っ」
不意に熱くなってしまった目頭に、唇を噛む。
愚か者。流す涙は捨てたはずだ。
夜空を見上げ、大きく息を吸い込む。吹き荒ぶ風に、すぐさま目も乾いた。
「こうでも吐かぬと折れてしまう身でな。……すまぬ」
深く息を吐き、最後に内へと語り掛ける。気を利かせているのか、未だ返事は無い。
「早う……この身を明け渡せる日が来ると良いな」
言い訳がましく続けても、答える声は無い。律儀に守っておるというのに、やはり罵りを恐れ、言い立ててしまう。……彼女から吐き出されるこれ以上の絶望を、厭うてしまう。
顔が僅か笑みを形作る。だが、すぐに風へと流して身を翻した。
船内へ下りると、右手から賑わい途切れぬ声が耳に入る。食堂であったはずだが、夜は酒場と化しているのか。喉が少しばかりの渇きを訴えるが、捨て置き船室へと向かう。
戸口の番号を確認して軽く叩くと、中からセシリアの声が返ってきた。
「おかえり。安眠出来そう?」
二段式の寝台、二組の内左下の一つから顔を覗かせ、問い掛けてくる。
「問題は無いが……面白い程に狭いな」
普通のベッドとは違い、壁を思わせるその一角。一応の遮断は出来るらしく、隙間に添う形で質素なカーテンが備え付けられている。相部屋ではあるが、まるでそこが個々の部屋のようになっており、妙であった。
「うん、面白いよね。あたし達がお家事情で船乗るとしたら……もっと広いもんね」
下段向かいへ視線を遣りつつ、嬉しそうに笑み溢す。同じく仕切られているそこへ目を遣り、もう寝たのかと問い掛ける。
「そうだよ、せっかく一緒なんだからもっと話そうって言ったんだけど、体力温存とかでさっさと寝ちゃった。せめておねーさまを待ってあげればいいのに。薄情よね」
夜風に当たりたいと此処を出で、既に三十分は経ったであろう。いずれにせよ、床に着くには然る可き時間だ。
それに、昨日はセシリアの“訓練”とやらで日中を過ごした。接近戦を鍛えろと酷い汗をかく程に動かされていては、心身共に消耗も激しかったはず。
早めの就寝には至ったが、その翌日……今日の出立も陽が昇らぬ内の早朝。次いだ下山に、解消出来ぬ疲弊も蓄積されたのであろう。
「構わぬ。どの道明日も一日船旅だ。それより、お前の寝言が心底気掛かりなのだが」
「あ、大丈夫だよ。実はお城でいい物貰ったのよねー」
そう言い、一口大程の木の実を手の上で転がしてみせる。
「クユの実。主に寒冷地で重宝される……本来なら体を温める為に料理なんかで使われるものなんだけど、これを噛まずにひたすら舐め続けるの」
「術封じの効果でもあるのか」
「んー、口の中が腫れ上がって、詠唱が出来なくなるとか」
「……他に方法は無いのか」
それでは眠るどころでは無かろうと、マントと靴を脱いで左上段の寝台へと入り込む。
「わっかんない。今模索中。だって酷くなったのってここ最近なんだもん。発動する術が凍結以外だったら問答無用で猿ぐつわなんだけど……苦しいし」
「自身に効果のある眠りの術などは存在せぬのか? 夢の中で唱えているものが口をつくのであろう?」
「深く眠ってしまえば大丈夫って言いたい? ところがさー、起きたらやっぱり凍ってるんだよねー。夢見た覚えも無いんだけどなー」
口内へ支障を来す木の実を、しかし彼女は何の躊躇いも無く頬張っていた。
「おい、それは城で試したのか」
「んーん。だって今朝貰ったんだもん。我慢出来そうなら採用」
「……」
掛ける言葉も見つからず、そのままおやすみと残し、カーテンを引く。
横になれるだけの狭き空間であったが、すぐに微睡みが身を覆った。
「ねえ、訊いていい?」
けれど、眠りを妨げる唐突の声に僅か身が跳ねる。反射的に応じた声は、やや腑抜けたものであった。
「いつか、見つけられる方なの?……総出に近い捜索だったよね。それでも、見つからなかったんだよね?」
言葉を濁しながらも続けるそれは、こちらの悲観を案じての事か。
「生きておられるという確信がある」
「そうなのっ!?……じゃあその後は? こう言ったら酷だけど、あの方が今、全てを忘れて幸せになられているのなら」
「セシリア」
その名を以て、話を切る。言われずとも、それはとうに考えていた。
「この旅など、本を正せば死に急いでいた私を生かせる為の母の口実だ。彼女を見つけられたとて、その幸福を脅かすつもりは無い」
「じゃあどうするの? ケトネルムには戻らないんでしょ?」
「……」
「まさかとは思うけど、変な事考えてないよね?」
言われ、思い付く限りの言い訳を必死に脳内で並べ立てる。
知られたくは無かった。私が、どこへ向かおうとしているかなど。
「案ずるな。この身は……世に在り続ける」
それが真実であったのが、せめてもの救いか。若干の後ろめたさは在れど、口元はやんわりと笑みを帯びていた。
「それなら、旅を続けようよ。……ね、あたし達と世界中を飛び回るのなんてどう? 悲しい事なんてきっと心の隅の隅に追いやられちゃうわ」
……また、この娘は何を言い出すかと思えば。
「曰く付きの村とか寄って、困っている人達を助けちゃったりなんかしてさ。あ、秘境で宝探しなんてのもいいよねー。どんなに強い怪物相手でも勝てる気がするもん」
「……」
「旅費に困ったら仕事請負とかしてみてさ、節約の毎日の中たまには奮発して美味しいもの食べたり……んー、特産品も気になるよね。在り得ないくらいの丸焼きとかあったらどうする? ふふふ」
甲板での事を見透かしたよう続けられるそれに、返す言葉が無い。否定は勿論、恐らく相槌すらも無粋。
私など足元にも及ばぬ程に豊かな想像、愉快に繰り広げられるその話を、時間の許す限り聞いていたかった。
「英雄として名を轟かせる! ってのも有りじゃない? そうやって、あたし達の噂がマリス様やビアンカ様、ついでに緑の地にも流れてくれたら、遠くに居ても安心してもらえるでしょ」
けれど聞きながら、耐え切れず枕に顔を埋める。
果ての無い空想。そう、やはりそれは、この上無く心躍る夢。陳腐な想像など遥かに超える、最高の幸せ。
「あれ? おねーさま、聞いてる?」
できない。
「……長すぎて寝ちゃった? って、これ本気で舌ヒリヒリするよ!」
……いきたい。
「だいぶ効いてきたのかな。今の内に寝た方が良さそう……おやすみっ」
聞き流せ。案ずるな。この身はお前のものだ。
もし彼等を厭うのであれば、私に対しての未練など微塵も残らぬ程に拒絶してやる。
そうやって……消えてやる。
「っ……く……」
拳を作り、声を押し殺す。そうまでして彼女に吐かせぬよう取り繕う自身が浅ましい。
それでも言葉は無いのか、脳内に響く声は無い。だが、愚かな目を戒める風も無い。生温かい熱が枕へと広がるばかり。
自身の内にまで偽る心が、まるで悲鳴を上げるかのように更なる熱を持たせる。
歯を食いしばってみても、思い切り目を閉じてみても、冷める事は無い。喉元に異物を詰められているかのような苦しみが伴う。
……当然だ。泣き叫ぶ赤子の口を無理に塞いだとて、それが止むはずもあるまい。
ならば、もう良い。外面だけでも強く保てるのなら、人知れずこうして吐き出せば良い。脆い自身を今だけ許してしまえば良い。
だが誓え、……ファルト。この者達の前では常に至幸で在り続けろ。
少なくとも、それが彼らに対し許される、偽り無き己。
「……ぅっく」
だから、どうか今だけは。
限り有る悲しみを、心行くまで流させて。
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