ひとつのたとえ

まきや

第1話



 真夜中になっても明かりの消えない高層ビル群。なかでも50階はあろうかという建物の最上階で、悲鳴が響いた。


「頼む! 命だけは助けてくれ!!」


 広いオフィスの真ん中で、ダブルのスーツを着た男が、血だらけの頭を床に擦りつけ泣き叫んだ。


 彼が必死になって懇願する相手が目の前に立っていた。細身で背が高く、清掃業者風の作業つなぎに身を包んでいる。男の袖と胸元が一面、返り血で真っ黒に染まっていた。


「巨大IT企業の社長も、そうなると無様だな」


 男は軽蔑したように鼻を鳴らすと、右手に持っていたアーミーナイフを革製の鞘に戻した。


「命まで取りに来たわけではない。貴様はさきほど謝罪し、悔い改めると俺に誓った。業界を牛耳る傲慢な男の恐怖に怯える姿、それを見ることが俺の目的だ。お前を殺しても、私の家族は二度と帰らないのだから」


 土下座していた社長は、いつの間にか泣き止んでいた。助かるかもしれない。そんな希望が浮かんだからだ。この窮地を乗り切る為なら、どんなに卑屈になっても構わない。それにもし相手に隙ができれば、反撃してやる。そんな暗い企みがあることはおくびにも出さず、社長はこわごわと顔を上げ、恩赦をくれると約束した慈悲深い男の表情をうかがおうとした。


 しかし男はまったく笑っていなかった。口では助けると言ったものの、依然心の中では復讐心がくすぶっていたのだ。天井に備えられた常夜灯の下で、抑えきれない怒りの一部が男の瞳から吹き出し、暗い光っていた。


「ひぃ!!」


 社長は本能的な恐怖に後退った。そして思わず口にしてはならない一言を漏らしてしまった。


「あんたのその目……まるで悪魔のようだ・・・!」


「なんだと?」


 男の眉がぴくりと動いた。再び火のついた復讐心が表情を一気に曇らせていく。拳と唇が怒りで震え出した。


けだものが何を言うか……俺を社会から抹殺し、家族を辱め死に追い込んだ貴様から、まさか悪魔に例えられようとはな!!」


 男は一度放した武器の柄を、再び強く握った。刀身の厚いナイフが暗闇にきらめく。


「気が変わった。やはり貴様は生かしておけん!!」


「ギャァアアアアアアアアアア!!!」


 濃い宵闇の街の上空を、一筋の断末魔の悲鳴がつんざいた。

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