~滴~


「おかぁ…さん?」


 記憶の中の景色が東子の脳を支配した。暖かい人の温もり。誰かが抱きしめている。優しい力加減。少し震えている。緊張している? この温もりは母のとは違う。細い腕。良い香り——森林のそよ風みたいな香り。はねた黒髪。母の髪ではない。これは——誰?


 水色に光る、人間らしさを失った東子とうこ左眼ひだりめ。反対に、まだ人間らしさをとどめている東子の右眼みぎめ。東子は、うつろに空を眺めた後、すぐに我に帰った。


「あ、あなた、何してるの!?」東子は自分を抱きしめる秋に気づいた。咄嗟とっさに秋を自分から離す。「なにって、お前こそ何してんだよ…!」東子の両肩に両手を優しく添えたまま、秋が軽く怒鳴った。東子はその声に少しビクッとした後、すぐにめまいに襲われ膝から崩れた。左眼を左手でおおい、苦しんでいる。「うっ…やっ……ちゃった…」


 秋も身をかがめ、東子を心配する。悪魔祓あくまばらいは感情を制御を出来なくなった途端とたん、持っている力を全て放出しないと気が済まなくなることがある。しかしそれは諸刃もろはの刃。一時的にとんでもない能力ちからを振り回す事ができるが、その能力ちからで相手を倒せなかった場合。そのはひたすら、無防備むぼうびを貫く事となる。


「バカやろうかよ…」

「ごめん、バカだ、わたし…。ヘビは?」

「今は氷の彫刻ちょうこくみたいになってるけど、すぐに戻ると思う」

「弱点は?」


 そう言って東子は、左眼をこらして大蛇を見た。秋の言葉通り、氷の彫刻のようになった大蛇。しかし、その弱点である〈右前腕みぎぜんわん〉だけはウネウネとうごめき、筋肉を隆起させ、濃い紫色の血液を——まるでそこから全身に栄養を送り込んでいるかのように健在している。


 –––––無駄だった。


 東子は自分に対して血の気を引かせた。何をやっているんだと、自分を責めた。


「いいか、お前は一回休め」

「そんなまだ闘える…!」


 東子は体を持ち上げようとした。しかし足はガクガクと震え、すぐに地面に尻餅しりもちをついてしまう。「今は休む事がお前の闘いだ。それくらいの時間稼ぎ——俺がしてやる」秋の優しさと、自分のおろかかさ、不甲斐ふがいなさとで、東子の目から涙がとめどなくあふれる。先ほどまでの冷徹さが感じられない。これが本来の姿——とも思える。


「ごめん、ごめん、ごめん——なさい」

「お前が必要なんだ。俺より頭いいんだから、わかるだろ?」

「うん……わかる…」

「迷わず『うん』て言うなよ…、まるで俺がバカみたいだろ。よし、えっと——」


 大蛇に刺さった無数むすうの氷の槍は間もなく解け、大蛇は、また何事もなかったかのように動き出す。秋は立ち上がり、須賀すがを探した。須賀すがの姿を見つけるやいなや、「おっさぁん! 東子を! 学校の中へ!」と叫んだ。須賀は泣き崩れる東子を見つけると、即座そくざに状況を理解した。しかし自分は右肩を負傷している身。東子のすぐ近くにいた木島に左手で、行け! 早く! と合図をした。


「東子さんを頼む!」

「は、はい!」


 木島は、東子に慌てて近づきおんぶをした。ちゃんと食事をとっているのかと、心配になるほどに軽い体。雪のように冷たい肌。木島はそのまま、学校の中へ——保健室に東子を背負しょいながら駆け込む。大蛇の体にポタポタと水のしずく何滴なんてきも落ち始めた。東子が突き刺した無数むすうの氷の槍が、け始め、パキ…パキ…と氷が折れる音がする。須賀は、右肩を手で押さえながら、秋に駆け寄った。傷口が開き、須賀の右肩に血がにじむ。


「おっさん! 大丈夫かよ!」

「心配ねぇ。それより、これからどうするつもりだ?」

「東子の体力が戻るまで、俺が時間を稼ぐしかない」

「それなら、俺たちにも手伝えるかもしれん」

「手伝う? どうやって?」

「火を…使ってみる…」

「火?」


 会話をする二人の耳に、「すがさぁぁん! もってきましたぁ!」と田中の叫び声が届く。須賀の命令で今まで〝棒とガソリンとタオル〟を探していたのは、弱気な警官——田中と、須賀を治療した警官——金田かねだの二人。田中は大量の棒と、タオルを抱えて持ってきた。金田は両手にそれぞれ一個ずつ、合計二つの赤いポリタンクを持ち、重たそうに運んでくる。しかし田中があたふたと持ってきた〝棒〟を見た須賀は唖然あぜんとする。


「あ!? リコーダーだと!?」


 田中は小学生の教室、そのロッカーに入っていたリコーダーを見つけ「棒だ! あった!」と、大人になっても忘れていなかった少年の心を奮起ふんきさせ、喜び勇んで両腕に抱えた。しかし須賀は命令するときに確かに言った。「松明たいまつみたいなもんを作るんだよ!」と、確かに——言った。


「お前…、これにタオル巻きつけて燃やすと、どうなると思う?」須賀は、悲しい顔で田中を見つめた。田中は、何か問題でも…? と言いたげな、とぼけた顔で須賀を見つめ返す。「え? 何か問題が? あ——子供達が困る!」


 ––––ペチン!


「こんなみじけぇもんを松明にしたら、手が燃えちまうだろうが!」須賀は弱気な警官の頭を叩いてから、怒鳴った。「あ! そっか!」


 ––––ぺチン!


 田中は二度、須賀のツッコミを食らった。須賀は、なんだこの漫才まんざい…、と言いたげな視線を秋から感じながら、すぐさま東子がいる保健室の方を見て、「おーい! テープ! なんでもいいから! テープを投げてくれ!」とかなり大きな声量で叫んだ。


 須賀の声を聞き届けた木島きじまは、保健室の中でテープと呼べるものを手当たり次第に探した。いくつものたなあさり、包帯ほうたいなどを固定する時に使う医療用いりょうようテープを見つけた。それを4個ほど、廊下の窓からグラウンドにいる須賀を目掛けて、野球の投手のごとく投げた。


「よし! すまん! 助かった!」地面に着地し、コロコロと足元に転がったテープを拾い集め、須賀はすぐさま、そこにいる秋をふくめた全員に指示を出す。「リコーダーとリコーダーを、テープ繋いでくれ!」


 一本では短く、松明としては心細いリコーダー。幸いな事に田中は持ち前の〝天然〟を発揮はっきしてリコーダーを手に持てるだけ何本も持ってきていた。男たちはリコーダーとリコーダーをテープでつなぎ、松明に使用できる程度の長さを確保する。秋は、おもわず「戦闘中にリコーダーの工作をする悪魔祓いなんて聞いたことないよ。なんだよこの状況…」と愚痴をこぼした。


「すまん…! だがこれも多少は役に立つはずだ……!」


 頑丈がんじょう松明たいまつになるように何本かのリコーダーを繋げて長い棒にしてから、次はその先端にタオルを巻きつける。巻きつけられたタオルに、ガソリンを染み込ませる。


「あ…、そうだ…あの、警官さん——大蛇を囲むように、グラウンドに大きな円を描くように…ガソリンをぐるっといてほしいんだけど」秋が金田に言った。それを聞いた須賀はすぐに秋を見て、「お前……闘技場とうぎじょうでも作る気か?」と反応を示す。


「万が一だよ。もし、こんな松明ごときの火で、あいつがビビらなかったら…、もっと、強いかこいが必要になる」


「——わかった」須賀は一度立ち上がり、拳銃けんじゅうの弾数を確認し、リロード。すぐに、その場にいる二人の警官に命令を下す——。


「いいか! 俺たちはまず、松明と銃で、あいつを怯ませようとする! 動き回る大蛇の足をすこしでも止め、秋の負担を軽くする。それでもダメなら、炎のさくを作り、大蛇が身動きを取りづらくなるようにする!」


 須賀と田中の二人は左手に松明、右手に拳銃を持った。金田は赤いポリタンクを抱えて、大蛇を大きく、広く、囲むようにガソリンで円を描いた。その直径は約30メートル。炎の壁に囲まれた闘技場を作るにる円を描いた。


 秋は、呼吸こきゅうととのえる。右手で刀をだらっと持ち、左手は胸の前で片手の合掌。大蛇は氷の槍が解けて無くなった体中の穴々あなあなから水滴を垂らし、少しずつ体を動かし始めた。〈右前腕みぎぜんわん〉は、とても元気そうだ。むしろ血流がとても良くなったくらいの印象すら受ける。


 薄紫肌うすむらさきはだの皮膚に濃い紫の血管。いかにも血色が悪い見た目にも関わらず、脈々とし悪魔の力を筋肉きんにくのポンプで全身に行き渡らせるようにドクっ…ドクっ…と血液を走らせる。〈右前腕〉の中に奴の心臓があるのだろう。人を食いたいとう欲に満ちた、悪魂あっこんという名の心臓が——。


 大蛇の体からは氷の槍が全て無くなり全身の穴も塞がった。一度、天を大きく仰ぎシュァァ…と蛇らしい声を鳴らす。どうやら自分が人間であった事実を完全に忘れたようだ。4本の腕——彼にとっての脚を地面に押しつけ、鈍い地響きと共に、さて…やるか…? と言いたげな眼で秋を睨む。大きく横に裂けた口、巨大な二本牙、その間から、先の割れた舌を出して見せる。


 東子が力を回復させるまでの間。それまでにもし決着がつくとしたら人間の方が全員、食われる以外にない。秋と警官、合わせて4人対大蛇——。巨体の猛攻をひたすら耐えるだけの、袋小路に閉じ込められたネズミの気分を味わえるような、一敗地いっぱいちまみれる事だけは絶対に許されない第三ラウンドが——今始まる。



 刀闘記


 ~滴~

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